2020年07月02日

鹿の子餅


「鹿の子(かのこ)餅」は、

和菓子の一種、

略して、

鹿の子、

とも呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%81%AE%E5%AD%90%E9%A4%85。関西では、

小倉野(おぐらの)、

ともいう(デジタル大辞泉)。

鹿の子である.jpg


現在の「鹿の子餅」は、

餅・求肥・羊羹のうちいずれかを賽形に切ったものを中心にして、小豆餡で丸く包み、そのまわりに柔らかく煮た金時小豆を粒のまま鹿の子のように付ける、

とあり、隠元豆を用いるものは、

いんげん鹿の子、

といい、(仝上)、

京鹿の子、

ともよぶ(デジタル大辞泉)。栗を茹でて甘く煮つけたものは、

栗鹿の子、

という(たべもの語源辞典)。

栗鹿の子.jpg

(栗鹿の子 https://souda-kyoto.jp/blog/00778.htmlより)

「鹿の子餅」は、

宝暦(1751~64)のころ、歌舞伎俳優の道化方の名人として知られる嵐音八という役者が人形町東側中程に恵比寿屋という菓子屋を開店して売り始め、江戸名物になった、

とある(仝上)が、

嵐音八という役者の実家、

ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%81%AE%E5%AD%90%E9%A4%85

役者手製の餅菓子として評判を呼び全国に広まった、

という(仝上)。天保期(1831~45)の『寛天見聞記』に、

寛政の末まで、此所(人形町)に、……鹿子餅を売りける、後、此店を、囃子頭の太田市左衛門と云へる者譲受けたりと云ふ、

とある(大言海)。その後、芯に餅の代わりに求肥や羊羹を用いることも行われるようになった。鹿の子という名の由来は、

整った粒が隙間なく並ぶさまが鹿の背の斑点を思わせることからつけられた、

とある(仝上)。文政年間(1818~30)の川柳に、

鹿の子餅釈迦の天窓(あたま)の後向き、

とある(仝上)。明和七年(1770)『辰巳之園』には、

鹿の子餅は、又太郎が見世、

とある(江戸語大辞典)。

なお、富山県高岡に名物「鹿の子餅」があるが、

白色の羽二重餅で、大きさは五センチ角で高さ三センチくらい、下部にあたるモチの中にウズラ豆の蜜漬が散らしこまれて、鹿の子の背の斑紋を模している、

とある(たべもの語源辞典)。

富山餅鹿の子.jpg

(富山不破福寿堂「鹿の子餅」 http://www.kanokomochi.com/okashi.htmlより)

「鹿(か)の子」というのは、

鹿(しか)の子、

を指し、薄茶色の毛色に

鹿の子模様、

という白い斑点が出る。

シカの子は生後2年くらいの間,赤みがかったくり色の体に白い斑点が多くできる。これは保護色の作用をするものである、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)が、

この模様は、子鹿だけでなく、大人の鹿にも毎年出て、

人間の指紋のように1頭1頭違い、模様は一生変わらない、

というhttp://naradeer.com/blog/2015/06/28/%E3%80%8C%E9%B9%BF%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%80%8D%E6%A8%A1%E6%A7%98%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/。この鹿の背のように斑点が散在する様を指して、伝統的に、

鹿の子斑(かのこまだら)、

と呼び、この含意から、「鹿の子」には、鹿の子斑の略以外にも、伝統的な絞り染めの柄の一種である、

鹿の子絞り(かのこしぼり)の略、

にも使う。総じて、鹿の子餅のように、

霜降り状のもの、

をそう呼ぶ。ために、「鹿の子」のつく言葉は多い。和装、和手芸関連では、

「鹿の子地」「鹿の子帯」「鹿の子編み」「鹿の子刺し」「鹿の子繍(ぬい)」「鹿の子織り」

生物名にも、

「鹿の子百合」「鹿の子草」「鹿の子蛾」「鹿の子貝」「鹿の子魚」

その他、

「鹿の子打ち」「鹿の子摺り」鹿の子切り」等々https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%81%AE%E5%AD%90

「鹿の子」模様.jpg



「鹿の子絞」は、

布を白い粒状に隆起させて染め出したもの、

で、

鹿の子染、
鹿の子目結い、
鹿の子結、

ともいい、京都が主産地なので、

京鹿の子、

ともいう。

布地を指先または鉤針(かぎばり)を用いてつまみ,その先を糸でくくって絞る。これを染めると小さいやや不整形の絞染の中で最も古くから行われたもので,正倉院の纐纈(こうけち)の中にもこれに類するものが見られる。この絞りが,斜めに45度の線につめて絞られると,上りが角ばった形となっていわゆる一目絞の詰(つめ)となり,これがさらに方形の疋田絞(ひつたしぼり)へと進展する、

という(マイペディア・世界大百科事典)。これは、

表面に凹凸(細かい隆起)があって肌に触れる面積が少なくなり、風通しが良く、肌触りが軽いのが特徴、

であるhttps://www.modalina.jp/modapedia/w/e9b9bfe381aee5ad90/

鹿の子模様.jpg


因みに、「鹿の子」は、

カノケ(鹿毛)の略(言元梯・大言海)、

とされる。生涯班点が変わらないとするなら、妥当に思える。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年07月01日

かきもち


「かきもち」には、

欠餅、

掻餅、

の二種ある(たべもの語源辞典)、とある。欠餅は、

正月の鏡餅を砕き欠いてつくる干菓子のこと。公家では「かきがちん」、女房詞(ことば)では「おかき」と称した。『本朝食鑑』は「鏡餅は八咫鏡(やたのかがみ)に擬した餅か」と述べ、「武家は甲冑にこの餅を供えたところから具足餅と称した。これは八幡神に供えたものである」と説明している。欠餅は正月20日の鏡開きにつくられた。刃柄(はつか)を祝うの意だが、1651年(慶安4)4月20日に徳川3代将軍家光が死亡して以来、20日を遠慮して正月11日に改められた。鏡開きには「切られる」を忌み、刃物を使わずに手で欠き割ったのでこの名がある。包丁で切ったものは片餅(へぎもち)というが、いまはどちらもかき餅という。また餅をなまこ形につくり、小口から薄く輪切りにして干したものもかき餅とよぶ。鏡餅を砕いたかき餅は、汁粉に入れるか、干して油で揚げるが、なまこ形につくるかき餅には、黒ごまや大豆、青のりなどを搗(つ)き込んで風味をつけることもある、

であり(日本大百科全書)、掻餅は、

牡丹餅、

そばがき、

の二種がある(たべもの語源辞典)。つまり、掻餅は、

「掻(か)い練り餅飯(もちい)」の意で、かい餅、かき餅という。掻餅にも、ぼた餅、おはぎをさす場合と、そば掻き(そば餅)をさす場合がある。『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』に「僧たちよひのつれづれに、いざ掻餅せむといひけるを」とあるのや、『徒然草(つれづれぐさ)』の「一献にうちあわび、二献にえび、三献にかいもちひにてやみぬ」などは、そば掻きのほうとみられる、

とある(日本大百科全書)。

欠餅は、「かがみびらき」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473083486.htmlで触れたように、

「正月に神(年神)や仏に供えた鏡餅を下げて食べる、日本の年中行事である。神仏に感謝し、無病息災などを祈って、供えられた餅を頂き、汁粉・雑煮、かき餅(あられ)などで食される。」

ものであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%96%8B%E3%81%8Dが、鏡餅は割って祝う。

「武士は斬(きる)という言葉を忌み、刃を入れずに引掻くので、これをかき餅とよんだ。」

とある(たべもの語源辞典)。江戸時代、

「新年の吉日に商家では蔵開きの行事をしたが、武家において新年の11日(もと20日)に行われる行事で鎧などの具足に供えた具足餅を下げて雑煮などにして食し『刃柄(はつか)』を祝うとした行事。また、女性が鏡台に供えた鏡餅を開くことを「初顔」を祝うといった。この武家社会の風習が一般化したものである。江戸城では、重箱に詰めた餅と餡が大奥にも贈られ、汁粉などにして食べた」

この武家社会の風習が一般化したhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%96%8B%E3%81%8D

庖丁で切ることを嫌い鏡餅を引き欠いた、

ので、

欠き餅、

といったのであるが、いまは

片餅(へぎもち)、

のことも、

かきもち、

といっている(たべもの語源辞典)。「へぎもち」というのは、

鏡餅を刃物でヘギ切りにしたものである。近世になって、ナマコ形に餅をつくって、それを小口から薄く切って干したもの、

で(仝上)、因みに、「へぎ」は、和食の調理用語で、

「剥ぎ」と表記し、薄く表面を剥ぎ取るようにする、

といった意味になりhttps://temaeitamae.jp/top/t2/kj/9991_K/01.html、皮剥のごとく表面だけを薄くすき切る包丁のことを「へぎ切り」と言う、とある。

かき餅.jpg

(へぎ餅 日本大百科全書より)


「かきもち」の語源を、

カハキモチ(乾餅)の約、

とする(菊池俗語考)のは、「へぎもち」の由来を指しているのではあるまいか。

鏡餅は、

「武家では正月に鎧や兜の前に鏡餅を供えたことから、…具足餅と呼ばれた。女子は鏡台の前に供えた」

からである(語源由来辞典)。

「掻餅」は、

かきもち、
とも、
かちもち、

とも呼ぶが、幕末の『守貞謾稿』には、

かい餅(もちひ)は牡丹餅、

とある。

掻練の餅、

だから、とする(たべもの語源辞典)。

ぼたもち.jpg


「ぼたもち」とは、

よく搗かぬ餅、

つまり、

掻き練った餅、

だから、という意味である(たべもの語源辞典)。「ぼたもち(牡丹餅)」とは、

もち米とうるち米を混ぜたもの(または単にもち米)を、蒸すあるいは炊き、米粒が残る程度に軽く搗いて丸めたものに、餡をまぶした食べ物である。米を半分潰すことから「はんごろし」と呼ばれることもある、

ものでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BC%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%A1、昔は「ぼたもち」のことを、

かいもちひ(かいもち、掻餅)、

と呼んでいた(仝上)故であるが、安永八年(1778)の『屠竜工随筆』に、

萩のことを「ぼた」というから、「ぼたもち」とは「はぎもち」ということだ、

とある。萩餅は、おはぎで、ぼたもちである(たべもの語源辞典)。

しかし、『徒然草』に、最明寺入道が足利左馬入道のところで御馳走になる献立に、

一献にうちあわび、二献にえび、三献にかいもちひにてやみぬ、

とある「三献にかいもちひ」というのは、

そばがき、

とする説が強い(たべもの語源辞典)、という(「三献」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474358804.htmlについては触れた)。

民間伝承に、南駒ケ岳山麓の村では、蕎麦粉で製した「かき餅」「かい餅」「けえ餅」などとよぶ蕎麦餅をつくり、とくに一月一三日の夜は、このけえ餅を食べる習慣があり、「かんがえ餅」とよんでいる。寒に入って食べるかい餅という意味だろう、

とある(仝上)。

「蕎麦がき(そばがき、蕎麦掻き)」は、

蕎麦粉を熱湯でこねて餅状にした食べ物、

で、

蕎麦切り(蕎麦)のように細長い麺とはせず、塊状で食する、

ものであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6%E3%81%8C%E3%81%8D。17世紀の農村事情に詳しい武士の書いた『百姓伝記』には、

「そば切りは田夫のこしらへ喰うものならず」

とあるように、そば切りを禁止されている農村が少なからずあった。そのような地域では蕎麦がき、そば餅が食べられた(仝上)、とある。

蕎麦がき例.jpg


「蕎麦がき」は、

鎌倉時代には存在し、石臼の普及とともに広がったと見られる。江戸時代半ばまではこの蕎麦がきとして蕎麦料理を食べられていた、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6%E3%81%8C%E3%81%8D、これを、「かきもち」というのは、

そばを掻いてそばがきにした餅、

だから、である(たべもの語源辞典)。

つまり、同じく「かきもち」とは言うものの、

餅を欠いて食べたから、「かきもち」(欠餅)、

であり、

蕎麦を掻いて「そばがき」にした餅だから、そばがきもち(蕎麦掻餅)、略して、かきもち、

であり、

よく搗かぬ餅である「ぼたもち」、つまりかき錬った餅だから、かきもち、

なのである(仝上)。

ただ、「かきもち」と呼ぶものに、もうひとつ、

覚えた通り祝ふかきもち、

という句がある(昼網)ように、

氷餅(こおりもち)の異称、

のあるものがある(岩波古語辞典)。これは、

餅を水に浸して凍らせたものを寒風に晒して乾燥させた保存食、

でありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E9%A4%85、別名、

干し餅(ほしもち)、
凍み餅(しみもち)、
凍み氷(しみごおり)、

とある(仝上)。今日、

かきもち(欠餅)、

と呼ぶものに、もうひとつ、「煎餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/468559673.htmlでも触れたが、

おかき(御欠)、

とよぶ、

餅米を原料とした菓子。なまこ餅などの餅を小さく加工し(欠き)、乾燥させたものを表面がきつね色になるまで炙った米菓、

があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%8B%E3%81%8D。これは、

鏡餅など神様に供えた餅を槌で細かくして作られるもので、そのような餅に刃を入れるのは縁起が悪いとして槌が用いられた、

とあり(仝上)、本来の「欠餅」から由来している。ちなみに、「あられ」との違いは、

原料の餅を細かくするために包丁を使ったものを「あられ」、槌を使ったものを「おかき」と呼んだ、

とある(仝上)。刃を使うのを忌んだからであり、これも、鏡餅を欠くことに由来する。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年06月30日

一夜鮨


「一夜鮨」は、

いちやずし、
ひとよずし、

と訓ませるが、

ひとばんずし、

とも言う(大言海)。広辞苑には、

ふり塩をしたアユの腹に飯を詰め、苞にいれて火にあぶり、おもしをかけて、一夜のうちにならした鮨、
塩・酢でしめた魚と熱い飯を交互に重ね、おもしをかけて、一夜のうちにならした鮨、
塩・酢でしめたすし飯にのせて、重しをかけて一夜で作った鮨、

の三種類が載る。「なれる」は、

熟れる、

と当て、

熟成して味がよくなる、

意である。ただし、「熟れ鮨」は、かつては、魚の保存の為なので、飯は捨てた。

「一夜鮨」は、本来は、

一夜でなれずしになる、

という意味の、

一夜鮨、

で、昔の鮨は、

魚類を塩に漬けて久しく貯えて置き、自然に酸味の出てくるのを待った、

からである。「飯鮨」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475973752.html?1593370222で触れたように、「鮨」の字は

魚の鰭,
うおびしお,魚のしおから,

を意味し,我が国だけで,

酢につけた魚,
酢・塩をまぜ飯に,魚肉や野菜などをまぜたもの,寿司,

の意で使う。「酢」は,

塩・糟などにつけ,発酵させて酸味をつけた魚。たま,飯を発行させて酸っぱくなった中に魚をつけた込んだ保存食,

の意で,「華南・東南アジアに広く行われた」(『漢字源』)ものを指す。これは,

なれずし(熟れ鮨・馴れ鮨),

と重なる。「酢」を「鮨」と同様の意味で使うのは,我が国だけである。

スシのスは酸であり,シは助辞である。すなわち「すし」とは「酸(ス)シ」の意である。古く延喜式の諸国の貢物のなかに多く「すし」が出てくる。これは「馴れずし」で魚介類を塩蔵して自然発酵させたものである。発酵を早めるために,飯を加えて漬けるようになったのは,慶長(1596‐1615)ころからと伝えられる。飯に酢を加えて漬けるようになったのは江戸時代になってからで,江戸末期に酢飯のほうが主材となって飯鮨とよばれるようになり,散らしや握り鮨が生まれる、

としており(たべもの語源辞典)、また、表記については,

『十巻本和名抄-四』に「鮨(略)和名須之 酢属也」とあり,「鮨」と「鮓」は同義に用いられていた可能性がある。ただし,飯の中に魚介類を入れて漬けるのが酢で,魚介類の中に飯を詰めて漬けるのが鮨であるとも言われている、

ともある(日本語源大辞典)。

つまり、「一夜鮨」は、昔の「なれずし」の製法と、酢をつかったものとの両義があるようなのである。広辞苑に載る三種のうち、

ふり塩をしたアユの腹に飯を詰め、苞にいれて火にあぶり、おもしをかけて、一夜のうちにならした鮨、

が古い形になる。

元来酢は鮒にあれ、鮎にあれ、其魚と飯とをまぜて、二三日或いは四五閒も経て、なれて食するものなるを、一夜にてなれて食するより云ふ、

とある(大言海)のは、その意味である。「酢」は、飯の中に魚介類を入れて漬ける「鮨」を指す。

江戸時代後期『嬉遊笑覧』には、

ムカシの酢は、飯を腐らしたるものにて、みな、源五郎鮒の酢の如し、早鮨とも、一夜ずしなり、料理物語、一夜ずしの仕様、鮎の酢を苞に入れ、焼火に炙りて、おもしを強くかくる、又は、柱に巻つけて、しめたるもよし、一夜にしてなるるといへり、

とある。寛永二〇年(1643)刊行の『料理物語』は、「一夜ずし」の仕様を、

鮎をあらひ、めしを常の鹽かげんよりからうして、うほに入れ、草づとにつつみ、庭に火をたき、つととともにあぶり、その上を、こもにて二三返まき、かの火をたきたる上におき、おもしを強くかけ候、又、柱に巻きつけ、強くしめたるもよし、一夜になれ候、

と書く。蕪村の句に、

夢さめてあはやとひらく一夜鮓、

とある。

つくりはじめて一日くらいで食べられる酢、

の意で、

はやすし、
なまなり、

とも言う(たべもの語源辞典)、とある。ただ、

「生成の鮨(鮓)」とは、十分な熟成を経ない半熟の鮨(鮓)ではあるが、飯を共に食するというものではなく、敢えて半熟状態のものを試みに賞翫するというもの、

とされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%8F%B8、飯を食べる今日の鮨とは異なることに注意しなくてはならない。しかし、「早すし」は、酢を用いるようになって以後の「すし」をも指すので、何に対して早いかの意が、少し変わる。ここで「一夜ずし」は、

なれずし、

に対して言っている。

時代が下るとともに酒や酒粕、糀を使用したりと、寿司の発酵を早めるため様々な方法が用いられ即製化に向かう、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%8F%B8、やがて、1600年代からは酢を用いた例が散見されるようになり、幕末の、岡本保孝『難波江』に、

今江戸にある酢は、延宝の頃、御医師の松本善甫と云ふもの新製なり、されば、世に松本酢と云、彦根の鮒の酢、尾州の鮎の酢などは、魚と飯とをまぜて、五六日も経て食ふなり、吉野近辺にて粟の飯にて造る、二三ヶ月もかこはるるなり、これらの酢は、右より左には出来兼る故に、あきなふ者にあつらふるに、今日より幾日経て取りに来給へと云により、これをオジャレズシと云、松本酢は、直に出来故に、マチャレズシと云、又、早酢とも云なり、元来すしは、上件の如く、飯と魚とをまぜて置に、日数経れば、おのづから、酸味の出るものにて、酢を加へて製するものにあらず、鮨の字よりは、酢の字の方よろし、字書を観て知るべし、

とある(大言海)ので、まだ飯を食べる「鮨」ではなく「酢」である。ただ、この説は、

日比野光敏によれば「松本ずし」に関する資料は他になく、延宝以前の料理書にも酢を使った寿司があるゆえ「発明者であるとは考えられない」としている、

説もあるがhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%8F%B8、誰が発明したかは別として、鮨に酢が使われ、酢の醸造技術も進んできて、いよいよ発酵を待たずに酢で酸味を得て食する寿司が誕生し、まさに、

早寿司(鮨)、

が生まれることになる(仝上)。この場合は、「一夜ずし」よりも早い、ということを意味になる。酢を用いるようになると、

魚は沖鱛ほどにひらりと大きく切って、二時間ほど酢につけておく。引き上げて水気がなくなるまで乾かし、飯をきれいにこしらえて、一段一段に並べ、おしをよくして、二、三日たったら出す。こしらえた翌日も食べることが出来る、

とあり(たべもの語源辞典)、飯を食べるスタイルになっている。

類聚近世風俗志.jpg

(喜田川守貞『類聚近世風俗志』 日本食生活史より)

寛延四年(1751)版の『増補江戸惣鹿子』に、

酒川酢、深川富吉町柏屋、御膳筐酢、本石町二丁目南側伊勢屋八兵衛、交ぜ酢、早漬、切漬其外御望次第、

と見える。「混ぜ酢」というのは、起こし酢のことで、

五もく酢、

であり、「早漬」は、

一夜酢、

の変化したもの(日本食生活史)、とあり、既に、飯を食べるものに変わっている。

安永(1772~80)の頃になると、「笹巻」が現れる。「笹巻ずし」とは、

切酢を笹の葉にぐるぐる巻いて押した酢、

であり、長くおいても、飯がかたくならないで、魚が変色しないという特徴があった(仝上)、とされる。

文政七年(1824)には、魚の骨を毛抜きで抜いた、

毛抜酢、

が登場する。

一つずつ笹の葉に巻いて売り、

笹巻酢、

と称した、とある(仝上)。

「妖術という身で握る鮓の飯」『柳多留』(文政一二年〈1829年〉)が、握り寿司の文献的初出である。握り寿司を創案したのは「與兵衛鮓」華屋與兵衛とも、「松の鮨(通称、本来の屋号はいさご鮨)」堺屋松五郎とも言われる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%8F%B8

にぎりずし、

が登場することになる。

江戸三鮨(えどさんすし)、

というのは、江戸時代に江戸で名物として謳われた、

毛抜鮓(けぬきすし)、
與兵衞壽司(よへえすし)、
松が鮨(まつがすし)、

を指すがhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%89%E9%AE%A8

毛抜鮓(けぬきすし)は、

押し鮓や馴れ鮓の形態を色濃く残した、笹の葉で巻いた押し鮓の一種で、保存食とするため飯を強めの酢でしめてあるのが特徴、

だが、他の二つは、「握り酢」である。

與兵衞壽司(よへえすし)は、

文政年間(1818 -~30)に、上方風の押し寿司と異なる江戸前の握り寿司を考案、すしにワサビを使った、

松が鮨(まつがすし)は、

玉子は金の如く、魚は水晶のようだと、その華麗な色彩感がたちまち評判となり、権家の進物品として引っ張りだことなった。やがて江戸中で最も贅沢な寿司であると謳われ、『嬉遊笑覧』は、握り寿司の考案者は堺屋松五郎だとしている、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%89%E9%AE%A8。幕末の『守貞謾稿』には、京阪にては、

方四寸許の箱の押しずしのみ。一筥四十八文は鳥貝のすし也。又こけらずしと云は鶏卵・やき鮑・鯛と並に薄片にして飯上に置を云。価六十四文一筥凡十二に斬て四文に売る。又筥ずし飯中椎茸入る、飯二段のになりたり、又浅草海苔巻あり、巻ずしと言、飯中椎茸と独活を入る、京阪の鮨普通以上三品を専とす。而も異制をなす店も希に有之、又鮨には梅酢漬の生姜一種を添る、

とあり、江戸では、幕末期、多種多様な握り鮨がつくられ、『守貞謾稿』には、

今製に握り酢也、鶏卵焼・車海老・そぼろ・白魚・まぐろさしみ・こはだ・あなご甘煮長のまま也、以上大略価八文酢也、其中玉子巻は十六文許、添之に新生姜の酢漬姫蓼(ひめたで)等也、又隔等には熊笹を用い、又酢折詰などには酢上に……熊笹を斬て置之飾とす、京阪にては隔にはらんを用ひ、又添物には紅生姜と言て梅酢漬を用ふ、

とある(日本食生活史)。

歌川国芳『縞揃女弁慶 松の鮨』.jpg

(歌川国芳『縞揃女弁慶 松の鮨』 握り寿司と押し鮓が描かれている https://edo-g.com/blog/2015/11/sushi.htmlより)

江戸末期の『江戸自慢』には、

江戸の鮓は握りて押したるは一切なし、調味よし、上方の及ぶ處にらず、価も賤(やす)し、

とある(仝上)。なお、

「すし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456254952.html
「いなりずし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/469221526.html

については、触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年06月29日

飯鮨


「飯鮨」は、

飯寿司、
飯酢、

とも当て(大言海・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%AF%BF%E5%8F%B8)、

いずし、

あるいは、

いいずし、

と訓ます(たべもの語源辞典)。

飯(いい)はご飯で、御飯の鮨を飯鮨、

という。今日では、

飯を主とした押鮨(広辞苑)、
乳酸発酵させて作るなれずしの一種https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%AF%BF%E5%8F%B8
米麹、魚、野菜を樽の中に入れて漬け込み、乳酸発酵させたなれずしの一種http://takemoto-suisan.com/user_data/whats.php

等々を指すが、

古い時代、鮨は、自然に酢味をもたせた魚ばかりのものであった。その後、早ずしとか一夜ずしといって飯を使って鮨をつくるようになったが、これは発酵作用のために飯を利用したもので、食べるのはやはり魚ばかりであった、

とあり(たべもの語源辞典)、飯は、捨ててしまったのである。つまり、

動物の生肉を塩と合わせ、それを飯の間に漬け、数日たつと飯が発酵して酸味を生じたものを食べた。…飯は食べずに、肉だけを食用とした(日本食生活史)、

冬場、雪に閉ざされる北海道や東北地方の港町ならではの食べ物で、冬の保存食として年末やお正月には欠かせない郷土料理として食べられてきました。魚をどのように美味しく保存できるのか考えられ開発されたのが「飯寿し」ですhttp://takemoto-suisan.com/user_data/whats.php

等々とあるように、あくまで主役は、魚であった。

近江の鮒ずし、
北海道のニシンずし、

等々。『今昔物語集』にも、

「鮨売りの女が酔いつぶれて、売り物の鮨桶の中に嘔吐してしまったので、あわててかき混ぜてごまかした」
「三条中納言朝成は肥満に悩み、医師に減量法を尋ねたところ、『夏は水漬け飯、冬は湯漬け飯を召しあがればよい』と教えられた。そこで瓜の漬物や鮎の鮨をおかずに湯漬け飯を食べたが、食べる量があまりにも多いので結局痩せなかった」

等々の記述があり、飯部分を除去して食されていたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%8F%B8ことがわかる。のちには、飯(いい)も食べるすしができ、現在の飯鮨は、それである。

鮒ずしは、

日本古来の“鮓すし(なれずし)”の代表的一種、

古代から琵琶湖産のニゴロブナ(煮頃鮒)などを主要食材として作られ続けている滋賀県(近江国)の郷土料理である。今日では「ふなずし」「鮒鮓」「鮒鮨」「鮒寿司」「鮒寿し」などとも記し、「鮒寿司」が最も一般的となっている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%92%E5%AF%BF%E5%8F%B8

鮒寿司.jpg


「鮒鮓」「鮒鮨」「鮒寿司」「鮒寿し」「鮒寿司」等々と表記しているが、「鮒のなれずし」という特徴を的確に表せるのは「鮒鮓」、

である(仝上)とあるのは、「鮨」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456254952.htmlで触れたように、

「鮨」の字は

魚の鰭,
うおびしお,魚のしおから,

を意味し,我が国だけで,

酢につけた魚,
酢・塩をまぜ飯に,魚肉や野菜などをまぜたもの,寿司,

の意で使う。「酢」は,

塩・糟などにつけ,発酵させて酸味をつけた魚。たま,飯を発行させて酸っぱくなった中に魚をつけた込んだ保存食,

の意で,「華南・東南アジアに広く行われた」(『漢字源』)物を指す。これは,

なれずし(熟れ鮨・馴れ鮨),

と重なる。「酢」を「鮨」と同様の意味で使うのは,我が国だけである、という背景からと思われる。

表記については,『十巻本和名抄-四』に「鮨(略)和名須之 酢属也」とあり,「鮨」と「鮓」は同義に用いられていた可能性がある。ただし,飯の中に魚介類を入れて漬けるのが酢で,魚介類の中に飯を詰めて漬けるのが鮨であるとも言われている、

とあり(日本語源大辞典)、また、

スシのスは酸であり,シは助辞である。すなわち「すし」とは「酸(ス)シ」の意である。古く延喜式の諸国の貢物のなかに多く「すし」が出てくる。これは「馴れずし」で魚介類を塩蔵して自然発酵させたものである。発酵を早めるために,飯を加えて漬けるようになったのは,慶長(1596‐1615)ころからと伝えられる。飯に酢を加えて漬けるようになったのは江戸時代になってからで,江戸末期に酢飯のほうが主材となって飯鮨とよばれるようになり,散らしや握り鮨が生まれる、

とあり(たべもの語源辞典)、

最も古い表記は「鮓」で、元々は塩や糟などに漬けた魚や、発酵させた飯に魚を漬け込んだ保存食を意味した漢字であるため、発酵させて作るすしを指し、馴れずしが当てはまる。「鮓」の漢字は、鯖鮓や鮎鮓、鮒鮓などで使われる、

ともあるhttps://chigai-allguide.com/%E5%AF%BF%E5%8F%B8%E3%81%A8%E9%AE%A8%E3%81%A8%E9%AE%93/

平安時代中期に制定された延喜式には、西日本各地の調としてさまざまななれずしが記載されているが、

アユやフナ、アワビなどが多いが、イノシシ、シカといった獣肉のもの、

も記述されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%81%9A%E3%81%97、とある。

ミサゴ.jpg


大言海の「すし」の項を見ると、

古へ、飯と鹽とにて魚を蔵し、酸味を生ぜしめたるもの、即ち源五郎鮒の酢の如し。又、魚介の肉に鹽を加へおき、数日を歴て、自然に酸味を生じたるもの、即ちみさご酢の如し、

とあり、「鮨」の古形、「酢」を示している。「みさご酢」というのは、みさご(鶚)という鳥は、

其捕りたる魚を、海上の巌の間、又は、深山の巌陰に貯へ、宿を経しめて食とす、みさご酢と云ひ、鹽、醤を加へずして食ふべく、味、人の作れる酢の如し、

という(大言海)伝説があり、

ミサゴが貯蔵した魚が自然醗酵し、酢漬けのような状態になって旨味が増したものを人間が見つけて食したのが寿司の起源である、

ともされ、そのため、

みさご鮨の屋号、

を持つ寿司屋は全国に少なからず点在するhttps://washimo-web.jp/Report/Mag-Misagozushi.htmのだとか。

「なれずし」は、

北陸以北の日本海側と北海道の寒い地域に集中した分布圏がみられる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%AF%BF%E5%8F%B8ように、

冬の保存食、

の性格がよく出ているが、「飯鮓」の語源は、

飯鮓(いいずし)の転訛、
魚鮓(いおずし)の転訛、

の二つの説がある(仝上)ようだ。ただ、

日本のなれずしは、弥生時代に稲作が渡来したのと同時期にもたらされたものとする見解があるが、これは飯に漬けて発酵させるという製法から米に結び付けて説明されており、明証があるわけではない、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%81%9A%E3%81%97ように、米とつなげるのは後で、

魚鮓(いおずし)、

の転訛で、後に、

飯酢、

と当て、

飯に酢を加えて漬けるようになったのは江戸時代になってからで,江戸末期に酢飯のほうが主材、

となるようになって(たべもの語源辞典)、

飯鮨、

と当てたのではないか、と思われる。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2020年06月28日

餡掛豆腐


「餡掛け」は、「餡」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475943050.html?1593196838で触れた「餡」の意味の、

水またはだし汁に葛粉、片栗粉などのデンプン粉を加えて加熱しとろみをつけたもの。または、これに野菜や挽き肉などを加えたもの、

を掛けた料理の意である。江戸語大辞典には、

葛溜(くずだまり)をかけること、またその料理、

と載り、

初鮭のあんかけ、

を引く(天保四年・壽御夢相妙薬)。「葛溜」とは、

くずあん(葛餡)、

の意である。「葛餡」について、

葛を入れてとろみをつけた餡。調味した出汁に葛粉を用いてとろみを出したもの。南禅寺蒸しなどの蒸し物や、煮もの(炊きあわせ)、茹でた料理、うどん(あんかけうどん・ 京都のたぬきうどん・のっぺい、等)やそば(あんかけそば)などにも用いられる。葛餡をかけた料理は、見た目に透明感があって品がよく見え、口当たりが滑らかで、料理の温かさを保つ効果もある。餡を下に敷いている場合もあり、その場合は敷餡とも呼ばれる、

とありhttps://japan-word.com/kuzuan、葛餡を用いた料理は、

冬瓜の葛あんかけ、
湯葉の葛あんかけ、
胡麻豆腐の葛あんかけ、

といった「~の葛あんかけ」と呼ばれる(仝上)、とある。

大言海に、「餡掛け」は載らないが、

餡掛饂飩、
餡掛豆腐、

が載る。「餡掛豆腐」について、

豆腐を好きほどに切りて煠(ゆ)で、葛餡をかけたるもの、古くはアンドウフとも云ひき。饂飩をおなじやうに製したるものを、アンカケウドンと云ふ、

と載る。江戸初期の『大草家料理書』に、

アンドウフと云ふは、二寸許に切りて、葛煮をして、皿に入れて、上に葛溜をかけて、

とある(大言海、精選版日本国語大辞典)、という。

「今出川豆腐」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475718816.html?1592505906でも触れたが、天明二年(1782)刊行の、豆腐を題材にした料理「豆腐百珍」に、「尋常品」の一つとして、

高津湯(こうづゆ)とうふ、

が載り、

絹ごしとうふを用い、湯烹して、熱葛あんかけ、芥子おく。又、南禅寺ともいふ、

とありhttps://ttms.exblog.jp/6672512/

大坂高津の廟の境内に、湯とうふ家三、四軒あり。其料に用ゆ豆腐家、門前に一軒あり。和国第一品の妙製なり。京師に南禅寺とうふあり。江戸浅草に華蔵院といふとうふあり、

と付言されている(仝上)。更に、「奇品」の一つとして、

縮緬とうふ、

が載り、

ところてんの突き出しに豆腐を入れて押し出し、茶碗蒸しの中に入れます。葛のあんかけとおろしわさびを添えます、

とあるhttp://www.toyama-smenet.or.jp/~tohfu/tofuhyakutin.html。江戸時代、夜に、

茶飯と葛かけ豆腐を売っていた、

とある(たべもの語源辞典)。いまは、

かつおぶしのだしを煮たてて味醂と醤油を加え、味かげんしたものに水どきした葛を杓子でだし汁にかきまわしながらときこむ。豆腐は、沸騰した湯の中に入れてゆで、網杓子ですくい上げて、椀に入れ、あんをかけて、上におろしたワサビを添えて出す、

が(仝上)、昔は、

餡豆腐、

と呼び、

湯煮した豆腐の上に葛だまりをかけて、ケシ・粉胡椒、胡桃の実を上置きした、

とある(仝上)。

豆腐の真ん中をさじですくいとって、その中に生卵を落とし込み、蒸して半熟程度にして「葛餡」をかけた「玉蒸豆腐」、

は、石川県の郷土料理、とある(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2020年06月27日


「餡」には、いくつかの意味がある。例えば、

ゆでた小豆・白小豆・白隠元・うずら豆・ささげなどに、砂糖をまぜて、更に煮て煉ったもの、

という漉し餡・粒餡・つぶし餡などの種類のある豆類の他、

サツマイモ、栗などを煮て砂糖を加えて練ったもの、

も含め、いわゆる「あんこ(餡子)」といわれるものの意味がありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A1

枝豆で作った豆打(ずんだ)、青豌豆(グリーンピース)で作った鶯餡(うぐいす餡)、

などもある(実用日本語表現辞典)。この他に、

うぐいす餡.jpg

(うぐいす餡 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A1より)

饅頭や餅、中華点心の包子(餃子、焼売など)などの中に包み込むために調理した挽き肉、野菜などの具、
水またはだし汁に葛粉、片栗粉などのデンプン粉を加えて加熱しとろみをつけたもの。または、これに野菜や挽き肉などを加えたもの、

という意味、さらに、饅頭などから意味が広がったが、

中に包み込まれているもの、

という意味もある(広辞苑、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A1)。

小豆餡(粒餡).jpg

(小豆餡(粒餡) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A1より)

漢字「餡」(漢音カン、唐音アン、呉音ゲン)は、

会意兼形声。臽(カン)は、おしこめる、くぼめて中に入れるの意。餡はそれを音符とし、食を加えた字、

とある(漢字源)。本来、「餡」は、

中に包み込まれているもの、

つまり、

詰め物、

を意味し、

金銀の細工物などに、内部に銅など籠めたるものを、アンヅメと云ふ、贋金などにも云ふ、此の如くつくりたるを、外部の金銀に就きてはテンプラと云ふ、コロモをかけたりと云ふなり、

とあるいい方(大言海)は、詰め物の意である。

『字彙』では餅の中の肉餡を指しhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A1

饅頭などの中にいれる肉や野菜など、

の意であった。「餡」の字には、日本語の「あんこ」の意味も、「葛餡」の意味も、ない。

日本へは聖徳太子の時代に中国から伝来したとされ、中国菓子で用いられる肉餡がその原形となっていると考えられている、

とある(仝上)。小豆を用いた小豆餡が開発されたのは鎌倉時代であるとされ、当初は塩餡であったが、安土桃山時代になって甘い餡が用いられるようになり、砂糖が用いられるようになったのは江戸時代中期からで高貴な身分に限られていた、

とされる(仝上)。餡には、

肉や野菜を用いる塩味系統、
と、
豆や芋などを用いる甘味系統、

があり、豆や芋を用いる餡も砂糖が普及するまでは、塩味のいわゆる塩餡であった、とある(仝上)。

「あん」は、

唐音、

とする(広辞苑)のが主流、大言海が、

餡(カン)の字の宋音、

とするのは、由来と関わる。

禅寺の調理より出たる語なるべし。鹽尻「餅、及び、饅頭の内に満つる物をアンと云ふ、餡の字なり、唐音はアンと云ふ、」、正字通「凡、米麪食物、坎(アナニシ)其中、實(ミタス)以雑味、曰餡」、支那にては多く肉類を入る、禅家にて、小豆に代へたるならむ、

とする。饅頭http://ppnetwork.seesaa.net/article/473566185.htmlで触れたように、

日本の饅頭の起源には二つの系統https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%85%E9%A0%ADがあり、ひとつは、

「臨済宗の僧龍山徳見が1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)に帰朝した際、その俗弟子として随伴してきた林浄因が伝えたとするものである。当初林は禅宗のお茶と食べる菓子として饅頭を用いる事を考えたものの、従来の饅頭は肉を入れるため、代わりに小豆を入れた饅頭を考案されたと言われている。その後、奈良の漢國神社の近くに住居して塩瀬という店を立てたことから、漢國神社内の林神社と呼ばれる饅頭の神社で、菓祖神として祀られている」

とあり、もうひとつの系統は、

「1241年(仁治2年)に南宋に渡り学を修めた円爾が福岡の博多でその製法を伝えたと言われる。円爾は辻堂(つじのどう)に臨済宗・承天寺を創建し博多の西、荒津山一帯を托鉢に回っていた際、いつも親切にしてくれていた茶屋の主人に饅頭の作り方を伝授したと言われる。このときに茶屋の主人に書いて与えた『御饅頭所』という看板が、今では東京・赤坂の虎屋黒川にある。奈良に伝わった饅頭はふくらし粉を使う『薬饅頭』で、博多の方は甘酒を使う『酒饅頭』とされる」

とあるが、いずれも禅宗と絡む。大言海は、

「元代の音、暦應四年、元人、林浄因建仁寺第三十五世、徳見龍山禅師に従ひて帰化し、南都にて作り始むと」

と前者を採る。

「南都の饅頭屋宗二は、先祖は唐人なり、日本に饅頭といふ物を将来せし開山なり」

と、江戸前期の見聞愚案記にもある、と。たべもの語源辞典もまた、前者を採り、

「南北朝時代の初期興国年間(1340~46)、京都建仁寺の三五世徳見龍山禅師が、留学を終えて元から帰朝するとき、林和靖の末裔林浄因という者を連れて帰国した。この人が日本に帰化して奈良に住み、妻をめとって饅頭屋を開き、初めて奈良饅頭をつくった。浄因五世の孫に饅頭屋宗二(林逸)という。『源氏物語林逸抄』、饅頭屋本と呼ばれる『節用集』はこの人の著作である。宗二の孫紹伴は、菓子の研究に明に渡り、数年して帰ると、一時、三河國塩瀬村に住んでいたが、京に出て烏丸通りで饅頭をつくった。これが塩瀬饅頭である。(中略)紹伴は時の将軍足利義政に饅頭を献じたところ、将軍から『日本第一饅頭所』の看板を賜ったとされている」

としたとあるところから見ると、

唐音、

ではなく、

宋音、

の「アン」ではないか、と思われる。ただ、「菓子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474306504.htmlで触れた、倭名類聚抄に載る、

八種唐菓子(やくさからがし)、

のひとつ、

団喜(だんき)、

は、これより古く、

小麦粉を練った皮で巾着(きんちゃく)形の福袋をつくり、中に甘葛煎(あまずらせん)で調味した桂皮や数種の木の実を詰め、ごま油で揚げたもの、

がある(日本大百科全書)。今日の餡にはほど遠いが、中国の月餅を考えれば、団喜の中身はまさに餡の祖型であった、といえる(仝上)。京都には「清浄歓喜団」(亀屋清永)と呼ばれる団喜が(江戸時代中期以降に現在のように小豆餡を包むようになったので、当初の団喜とは異なるが)現存しているが、いまは、

小麦粉の生地で小豆餡を茶巾状に包み胡麻油で揚げたもの、

となっていてhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E8%8F%93%E5%AD%90、寺院に奉納される他、和菓子として市販もされている、という。

清浄歓喜団.jpg


なお、「あずき」については「豆」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473371197.html?1580864227で触れた。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年06月26日

安倍川餅


「安倍川餅」は、

安倍川のほとりの名物、

とあり、

搗きたての餅に黄粉や餡をまぶしたもの、また、焼餅を湯・密などにつけ、黄粉と砂糖でまぶしたもの、

とある(広辞苑)。たんに、

あべかわ、

とも言う(仝上)。転じて、

黄粉餅、

とも言い、さらに、

唐茄子のあべ川を食ふ上戸(文化十年・浮世風呂)、

というように、

茹でて黄粉まぶしたもの、

をも言うようになる(江戸語大辞典)。個人的な経験では、

焼餅を湯につけて、黄粉をまぶしたもの、

が、「安倍川餅」であった。確かに、

黄粉餅、

とも呼んだ。

歌川広重『東海道五十三次之内 府中 あへ川遠景』.jpg

(歌川広重『東海道五十三次之内 府中 あへ川遠景』 https://ippin.gnavi.co.jp/article-9574/より)

浮世絵にもあるように、安倍川付近で、東海道を上り下りする旅人に供した掛茶屋の名物だが、評判になったのは、天明年間(1781~89)から、らしい(たべもの語源辞典)。それは、

当時珍しかった砂糖を用いたから、

であるらしい(仝上)。たべもの語源辞典には、

搗きたての餅を臼の中から小さくちぎり、砂糖蜜を塗り、砂糖を等分に加えてつくったきな粉に少量の塩を加える。まぶして皿に盛り、その上から白砂糖を振りかけて出した、

とある。後に、

土産物に小豆の漉し餡でくるんだものができ、黒と黄の二色の安倍川餅になった、

とある(仝上)。東海道中膝栗毛(十返舎一九)にも、

ここは名にあふあへ川餅の名物にて両側の茶屋いずれも奇麗にはなやかなり、

とあり、

「五文どり」(五文採とは安倍川餅の別名)、

としてhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%B7%9D%E3%82%82%E3%81%A1、登場する。

茶屋女が名物餅を、

「あがりゃアレ」

と旅人に呼び掛けたため、旅人の話題になった(たべもの語源辞典)、とある

由来については、いくつかある。ひとつは、

慶安年間(1648~52)、東海道府中(静岡)、堤添川越町の弥勒院の仏弟子のひとりが、師僧の勘当をうけて還俗し、名を源右衛門と改め、河原で茶を出し餅を売り始めたのが起こり、

といい(仝上)、また別に、

慶安年間(1648~52)、徳川家康が井川笹山金山を御用金山として採掘させたころ、家康が巡検に赴いたとき、餅をつくって献上したものがあり、家康は大いに喜び、その餅の名を尋ねると、「金の粉が安倍川に流れますのをすくい上げまぶしてつくるので、金なこ餅と申します」と答えた。家康が気に入って、「安倍川餅」の名を貰った、

という(仝上)。東海道をたびたび往来したことのある八代将軍徳川吉宗はよく知っており,当時の御賄頭(おまかないがしら)の古郡孫太夫が駿河からもち米を取りよせて調進したところ大いに嘉賞されたと,江戸南町奉行でもあった根岸鎮衛(やすもり)がその著『耳囊(みみぶくろ)』に書いている(世界大百科事典)。

なお、お盆に安倍川餅を仏前に供え食べる風習のある山梨県などでは黄な粉と黒蜜をかけるらしいが、餅の形も基本的に角餅である。同じく安倍川餅と呼んでも、言っても静岡市内のものとは違う。この風習から派生した土産菓子が信玄餅であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%B7%9D%E3%82%82%E3%81%A1、という。

安倍川もち.jpg


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:黄粉餅 安倍川餅
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2020年06月25日


梅雨、

とあてる「つゆ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/458783261.htmlは触れたことがあるが、ここでは、

露、

と当てる「つゆ」である。「露」は、

空気中の水蒸気が地物の表面に凝結してできる水滴。風のほとんどない晴れた夜,地物の表面温度が放射冷却で降下したとき発生する、

が(ブリタニカ国際大百科事典)、植物の葉や建物の外壁などで水滴となったもの。物に露が着くことを、

結露(けつろ)、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2

葉の上の露.jpg

(葉の上の露 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2より)

「露」(漢音ロ、呉音ル、慣用ロウ)は、

形声。「雨+音符路」で、透明の意を含む。転じて、透明に空けて見えること、

とあり(漢字源)、「はかないもの」や「うるおいや恩恵」に喩えるし、露天のように、「さらす」意や、露見、暴露のように、「あらわれる」意でも使う。

和語「つゆ」も、「露」をメタファに、

涙、

わずかなこと、

はかないこと、

の意で使う。そのため、

つゆまどろまず、

というように、副詞で使う「つゆ」は、

ほんのわずか、

の意から、下に否定を伴って、

少しも、

の意で使うが、そこには、「はかない」「わずか」という「露」をメタファとしたことばの翳がある。

「つゆ」は、

液、
津、

と当てる、

汁、

の意の「つゆ」がある(大言海)。江戸語大辞典には、「つゆ」に、

(遊里語)祝儀、

の意で使い、

金銀曰花、又曰露、

とあるように(享保十五年・史林残花)、「花」ともいい、また、

すまし汁、

の意で載るのも、「汁」の意であるが、「つゆ」には、

水気、
湿り、

の意があり(大言海)、「露」とあてる「つゆ」の意と同じに意味を持つ。そのため、大言海は、「つゆ(露)」の語源を、

(シル、水気の意と)同じきか、或は云ふ、粒斎(つぶゆ)の意にて、圓くして浄きを云ふと、

とする。似た説に、

ツ(統)+ユ(斎・清浄なもの)、

として、清らかな水の玉の意、とするものもある(日本語源広辞典)。しかし、

斎、

と当てる「ゆ」は、

ユユシ(斎・忌)と同根。接触・立ち入りが社会的に禁止される意、

とあり(岩波古語辞典)、

イミ(忌)の約、

ともあるように(大言海)、

斎笹、
斎屋、

等々と、

名詞・動詞の上に冠せられて熟語とする、

ともある(仝上)。「つゆ」とは使い方も、意味の上からも、異和感がある。しかし、

ツイエル意(和句解・和語私臆鈔)、
ツユ(津弥)の義(言元梯)、

という他の説は、しっくりこない。ただ、

ツは丸い意、ユはただよわしの意(槙のいた屋)、

が少し気になる。

「ツ」は、「ツブ」の「ツ」と考えると、「独楽」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474857902.htmlで触れた「ツブ」は、「かたつむり」http://ppnetwork.seesaa.net/article/460441943.htmlで触れたように、

粒・丸、

と当て、

「つぶし(腿)・ツブリ・ツブラ(円)・ツブサニと同根」

とあり、「ツブリ(頭)」は、

「ツブ(粒)と同根」

とある。「ツビ」(粒)ともいい、「つぶ(螺)」は、

ツビ、

とも言い、「つぶら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464485052.htmlで触れたように、「つぶら」の「ツブ」は、

粒、

と関わり、「ツブ」は、

ツブラ(円)、

と関わる。「粒」は、「ツビ」(粒)ともいい、

円いもの、

と重なり、「粒」「丸」「円」「螺」は、ほぼ同じと見なしたらしいのである。それなら、

ツブ→ツユ、

もありなのではないか、という気がしてならない。もちろん憶説だが。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:
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2020年06月24日

雲居


「雲居(くもゐ)」は、

雲井、

とも当てる。

「居」は居座る意、

なので、

「井」は当て字、

とある(広辞苑)。

高積雲.jpg


「雲居」は、

雲が居るほど高いところ、

すなわち、

大空、

の意であり、「雲の居る」ところは、すなわち、

雲、

の意ともなり、たとえば、

雲居隠り、
雲居路、

の「雲居」は、ほぼ「雲」の意であるが、さらに、それが比喩的に、

遠くまたは高くてはるかに離れているところ、

の意となり、

雲の上、

の意で、

宮中、皇居、

を意味する。万葉集の、

神の御面(みおも)と継ぎ来る那珂の港ゆ船浮けて我が漕ぎ来れば時つ風雲居に吹くに沖見ればとゐ波立ち辺(へ)見れば……、

は、「空」の意である。同じ、

雲居なる海山越えてい行きなば我れは恋ひむな後は逢ひぬとも

は、「はるかに離れた」という意になり、古事記の、

はしけやし我家(わぎへ)への方よ雲居立ち来も、

は、「雲」の意であり、「南殿の花を見てよみ侍りける」とある、

春ごとの花に心はそめ置きつ雲居の櫻我を忘るな(玉葉)、

は、「宮中」を指す。

大言海は、「雲居」を、

雲の集(ゐ)るところの義(仙覚抄)、即ち、中空(なかぞら)の意、万葉集、「三船の山に、居雲(ゐるくも)の」或は、雲揺(くもゆり)の約(地震を、なゐと云ふも、根揺(ねゆり)の約)、雲の漂うところの意、

と説く。「ゐ」は、

居、
坐、

と当て、

立ちの対、すわる意、類義語ヲル(居)は、居る動作を持続し続ける意で、自己の動作ならば卑下謙遜、他人の動作ならば蔑視の意が籠っている、

とある(岩波古語辞典)が、

琴頭(ことがみ)に來ゐる影姫珠ならばわが欲る珠のあはび白珠、

とある「ゐる」は、

(雲・霞・人・舟などが)動かずに同じ場所にじっとしている、

という意(岩波古語辞典)で、ニュートラルに思える。

集(ゐ)る(仙覚抄)、
雲揺(くもゆり)の約(大言海)、

とするまでもなく(日本語源大辞典)、

雲の居(ゐ)る場所、

でよさそうである。

なお「雲」については、「くもる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/459727462.htmlで触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:雲井 雲居
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2020年06月23日

霜を履んで堅氷至る


「霜を履(ふ)んで堅氷至る」は、

堅き氷は霜を踏むより至る、

ともいう。

霜を見て氷を知る、

という言い方もあり、

葉落ちて天下の秋を知る、

と似た意味になる。

「霜を履んで堅氷至る」は、

霜が降りる時期になれば、やがて厚い氷が張る寒い冬がやってくる。少しでも災いの兆候が現れれば、やがて大きな災難がやってくることにいう、

とある(広辞苑)。物事には前兆がある、という喩えに使われる。また、

前兆を見たら、次に来るものに対してあらかじめ備えよ、

という意でもある(故事ことわざの辞典)。易経・坤が出典である。

霜を履みて堅氷とは、陰のはじめて凝るなり、その道を馴致すれば、堅氷に至るなり、

とある(易経)

(初六は)陰気の初めて生ずる時、その勢いはなお微弱であるが、放置すればやがて強勢になるから、早くにこれを警戒せねばならぬ。たとえば初めて霜を履む季節ともなれば、やがて堅い氷の張る時がやって来ることを予想すべきである、

と説く(仝上)。易は、

陰陽、

の二爻(こう)であり、これを重ねること三にして、

乾、兌(だ)、離、震、巽(そん)、坎(かん)、艮(ごん)、坤(こん)、

の八卦をなす、とある(易経)。爻とは効(なら)い交わる意。天地の現象に効って互いに交わり、また他に変ずるの意味、とある(仝上)。八卦を、自然現象に配当すれば、

天、沢(たく)、火(か)、雷、風、水、山、地、

となり、性情に当てれば、

健(健やかに強く)、説(えつ よろこび)、麗(付く)、動、入、陥、止、順、
となる(仝上)。

易に太極あり、これ両義を生ず、両義は四象を生じ、四象は八卦を生ず、

とあり、陰陽二爻から、八卦を組み合わせて、六十四卦三百八十四爻をもって、あらゆる一切の事物の現象の性体及びその作用をみようとする。そこには、天地の理から、神明の情、一身の修養、処世の要諦まで余すところなく含んでいるのだという(仝上)。

陰陽は無限の変化、

である。その変化作用を説こうとする。

一陰一陽、これを道と謂う、

と。陰となり陽となり、また陽となり陰となる無限の変化の原理を取り出して、その実相を説明するのである。

易は天地と準う。故に能く天地の道を弥綸(びりん もれなく包み込む)す。仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す、この故に幽明の故を知る。始めを原(たず)ね終わりに返る、故に死生の説を知る、

とある。

霜を履んで堅氷至る、

もまたそうした卦のひとつである。

「霜」は、「露」http://ppnetwork.seesaa.net/article/458783261.htmlで触れたことと重なるが、

霜は露の発生と同様,地表面が冷却することででき,その付近の温度が 0℃以下のときに霜となる。このとき気温は地表から 1.5mの高さではかっているため,気温が 3~4℃でも,地表面付近は 0℃以下となり霜ができる場合がある、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

木の枝や地表より高いところにできる霜を樹霜といい,窓ガラスの内側にできる霜を窓霜(霜華)という、

ともある(仝上)。霜の形は、

雪の結晶と同じく六方晶系である。代表的なものには針状、羽毛状、樹枝状、板状、柱状、コップ状などがあるが、形のはっきりしない無定形のものが多い、

ともある(日本大百科全書)。これをメタファに、

かしらに霜をいただく、

というように白髪をいうこともある。これは、

霜毛、

というように「霜のように白い」という漢字の意味や、

星霜、

という漢字の含意から来たのかもしれない。

「霜」(漢音ソウ、呉音ショウ)は、

会意兼形声。「雨+音符相(縦に向かい合う・別々に並び立つ)」。霜柱が縦に並び立つことに着目したもの、

とある(漢字源)ように、「霜」の字は、どうやら、「霜柱」から作られたもののようであるが、別説は、

霜柱.jpg


形声文字です(雨+相)。「天の雲から水滴がしたたり落ちる」象形と「大地を覆う木の象形と人の目の象形」(「木の姿を見る」の意味だが、ここでは、「喪(ソウ)」に通じ(同じ読みを持つ「喪」と同じ意味を持つようになって)、「失う」の意味)から、万物を枯らし見失わせる「しも」を意味する「霜」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji1974.html。個人的には、霜柱から来たとするのがいい気がする。確かに予兆と考えると、霜の気がしないでもないが、

霜を履んで堅氷至る、

は、霜柱にこそふさわしい気がするが、如何であろうか。

地面に張った霜.jpg

(地面に張った霜 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%9Cより)

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
高田真治・後藤基巳訳『易経』(岩波文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2020年06月22日

あられ


「あられ」は、

霰、

と当てる。「霰」(漢呉音セン、慣用サン)は、「あられ」の意だが、白い賽の目状のもの、あるいは餅菓子のあられ餅の意で使うのは、わが国だけである。

「あられ」は、

水滴が付着して凍り、白色不透明の氷の小塊となって地上に降るもの、

の意である(広辞苑)。今日、「あられ」は、

雲から降る直径5mm未満の氷粒、

とされ、

5mm以上のものは雹(ひょう)、

として区別されるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B0が、違いは大きさだけである。古くは、「雹」をも含めて、「あられ」といった(広辞苑)。また、

凍雨、

を含めて、あられと総称することもある(仝上)、らしい。

あられの粒.png

(あられの粒 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B0より)

「あられ」は、

雪あられ、
氷あられ、

に区別され、「雪あられ」は、

雪の周りに水滴がついたもので白色不透明。気温が0度付近の時に発生しやすく、

「氷あられ」は、

白色半透明および不透明の氷の粒。発生原理は雹と同じで、積乱雲内で発生する。ともに地面に落下すると、パタパタと音を立てる、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B0。単にあられと言った場合、雪あられをさすこともある(仝上)。

「あられ」は、

散(あら)くの語根を重ねて、あらあら、あららの約轉なるべし、

とするのが大言海、

あられとは、散(アラレ)なり、迸り散るの義なるべし、日本紀に、散の字、読みて、アラケと云ふが如き、是れなり(東雅)、

も同趣。日本語源広辞典の、

アラ(粗)+レ(接尾語)、

も関連する。「散(あら)く」は、

疎く、

とも当て(岩波古語辞典)、

粗(アラ)を活用せしむ、疎疎(アララ)になる意、

とあり(大言海)、

散(あら)ぶ、

という語もある。「あら(粗・疎)」は、

こまか(濃・密)の対、

で、

アラアラ(略・粗)・アラク(粗)・アライミ(粗忌)・アラキ(粗棺)などのアラ。物がバラバラで、粗略・粗大である意を表す。母音交替によってオロと転じ、オロカ・オロソカの形で使われる、

とある(岩波古語辞典)。ただ、蛇足ながら、

荒、

と当てる「あら」は、

にき・ニコ(和)の対、

で、

アラカネ(鉄)・アラタマ(璞)・アラト(磺)ノアラで、物が生硬・剛堅で、烈しい、

意を表し、「粗」と当てる「あら」とは起源は別であったが、後に、「荒」一字で両義を意味するようになった(岩波古語辞典)、とある。

小さい粒状の氷塊がパラパラと降るさまは、確かに、

粗、

あるいは、

あらあら、

の感じである。

あられの天気記号(日本式).png

(あられの天気記号(日本式) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B0より)

なお、あられ餅(霰餅)の「あられ」については、「煎餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/468559673.htmlで触れた。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル: あられ
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2020年06月21日

あられ酒


「あられ酒」は、

霰酒、

と当てる。

みぞれ酒、

ともいう。

奈良名産の混成酒、蒸米と米の麹とを入れた味醂、麹が霰のように浮いて見えるのでいう、

とある(岩波古語辞典)が、

糯米(もちごめ)の麹または霰餅を入れて密封し、熟成させた混成酒(広辞苑)、
あられ餅を、焼酎につけて干すことを数回繰り返してから、味醂の中に入れて密封・熟成させた酒(デジタル大辞泉)、
糯米の粕、溶化せずして交(まじ)る(大言海)、

ともあり、結局、酒のなかに、

糯米の麹、
か、
あられ餅、
か、

を浮かしたもの、

ということになるが、

奈良特産のみりんの名。白いかすが混じっているのを、あられに見立てていう(精選版日本国語大辞典)、
もろみが白く残るのでこの名がある(世界大百科事典)、

ということなのではないか。もろみ(醪・諸味)とは、醤油・酒などを作るために醸造した液体の中に入っている、原料が発酵した柔らかい固形物のことである。とすると、敢えて、浮くようにして、妙趣を出そうとした、ということもあるかもしれない。たべもの語源辞典は、

小さく砕いたかき餅を焼酎につけては引き上げて乾かし、これを繰り返して霰をつくり、味醂に入れて密封醸成させた、

という説と、

酒の中に糯米の糀(こうじ)を浮かべたもの、のし餅をつくってから、細かく刻んで焼酎につけ、乾燥することを繰り返し、霰をつくり、酒に加える、

の二説あるとする。どちらも、自然に出た浮遊物ではなく、意識的に「あられ」を浮かべた、ということになる。その由来は、

慶長年間(1596~1615)に、奈良在住の町医者糸屋宗仙(一説には酒造家浅田某という)が、猿沢の池面にあられが降るようすを見て創案したという。製法は、のし餅を細かく刻み、それを焼酎に浸し漬けては乾燥させ、これを繰り返してできるあられ様のものを酒に加える、

とある(日本大百科全書・たべもの語源辞典)。ただ、たべもの語源辞典は、その時期を、

寛永年間(1624~44)、

とし、

猿沢池畔の酒造家浅田某が、池の水に霰が落ちて浮遊するのを見て思いつき、それを真似て作った酒に、霰酒という名を付け、明正天皇に献じた、

とする別説も載せる。明正天皇は、元和九年(1624)~元禄九年(1696)の在位なので、寛永年間ということになる。しかし、多聞院日記の天正三年(1575)一二月一八日に、

十後よりあられ酒樽一つ可二調下一之由被二申上一了、

とあり、あるいは、「あられ酒」は、その由来よりもっと古くからあった可能性はぬぐえない(精選版日本国語大辞典)。その「あられ」は、

糯米の粕、溶化せずして交(まじ)る、

であったのではないか。それに「あられ」を意識的に混ぜた手柄はあるにしても。

あられ酒.jpg


現在も奈良で売られている「南都霰酒(あられ酒)」は、

かき餅、またはもち米を薄く伸ばしてからあられのように切ったものを、焼酎に漬けては引き上げて日に干し、これを数回くり返した後、上みりんとともに瓶に入れ、密封して20日ほど熟成させたもの、

とあるhttp://www.kitora.com/harusika-araresake.htm。その由来には、

起源は慶長時代(1610ごろ)の師走半ば、漢方医絲屋宗仙という人が春日大社へ参詣の帰路、猿沢池の水面に俄(にわか)に降ってきた霰(あられ)がポツポツと落ちて沈んで行く様子を見て、この面白さを風流人であった彼は、医師の立場からも、百薬の長である酒に、この風情を生かせないものかと工夫したのが始まりであるという説が伝えられえています、

とあるhttp://nara-shokubunka.jp/yamato/16-02.html、とか。

「あられ」が文献に名が見られるのは江戸時代のはじめごろからであるが,日本料理ではこまかいさいの目に切ったものをあられと呼んだらしく(世界大百科事典)、のし餅や海鼠(なまこ)餅を切って作ったので,井原西鶴の「武道伝来記」(1687)には、

搔餅(かきもち),霰餅(あられ)をきざみゐしが、

という表現が見られる(仝上)、とある。「犬子集」(寛永)に、

玉よりもさけになしたき霰かな、

という句があり(大言海)、

爐びらきや 雪中庵のあられ酒(蕪村)、
旬のゑらぶみぞれふる夜のあられ酒(其角)、

の句もあり、「あられ酒」は、冬の季語である。

「あられ酒」は、みりん酒の一種なので、料理用のイメージが強いが、江戸時代の人々は薬用として、また高級な甘美酒として愛飲していたらしく、みりんと焼酎を混ぜたものを、上方では「柳陰(やなぎかげ)」、江戸では「本直し」と呼び、井戸で冷やして暑気払いとして飲む習慣があったhttps://nara.jr-central.co.jp/kankou/article/0179、という。

なお、米菓の「あられ」については、「煎餅」http://ppnetwork.seesaa.net/article/468559673.htmlで触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:あられ酒 霰酒
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2020年06月20日

桜餅


「桜餅」は、

小麦粉・白玉粉を練って薄く焼いた皮(紅白二種ある)に、餡を入れて、塩漬けの桜の葉で包んだ菓子。もとは、小麦粉の皮に餡を入れ、塩漬けの桜の葉で包んで、蒸籠で蒸したもの。桜時に江戸長命寺で売り出したのに始まる、

とあり(広辞苑)、

紅皮には白餡を包み、白皮には並餡を包む、

とある(たべもの語源辞典)。

関西風は、蒸した道明寺粉を用いて作る、

とある(広辞苑)。道明寺粉(どうみょうじこ)は、水に浸し蒸したもち米を干して粗めにひいたものである。

桜餅(長命寺餅)白皮.jpg

長命寺桜餅.jpg

(関東風桜餅(長命寺桜餅) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85より)

「桜餅」と呼ばれる餅菓子には、

関東風、

関西風、

がある、らしい。関東風は、関東以外では、

長命寺餅、

とも呼ばれることもあるが、関東で長命寺餅と呼ぶことは少なく、

長命寺の桜餅、

と称した場合、向島の、

長命寺桜もちhttps://sakura-mochi.com/info/kodawari.php

を意味するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85。関西風は、

道明寺餅、
または略して、
道明寺(どうみょうじ)、

ともいう。関東及び一部の地域以外では、関東風の桜餅を見ることはほとんどなく、単に「桜餅」といえばこの道明寺餅のことを指す。

古文書に表れる「桜餅」は、南方熊楠によれば、

天和三年(1683年)である。大田南畝の著「一話一言」に登場する京菓子司、桔梗屋の河内大掾が菓子目録に載せたという。天和三年には桔梗屋菓子目録が出版され、また京菓子司・桔梗屋の河内大掾が江戸に店舗を構えた。これは蒸菓子であり、後の世の桜餅とは別物のようである。昔の作り方では、餅を桜の葉で包み、蒸籠で蒸すやり方がある、

とあり、さらに、

男重宝記(元禄六年、1693年)に「桜」とあるところに桜の五弁の花びらを模した桜餅の図が載っていて、その傍らに「中へあん入れる」と記されている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85。これより後だと思われるが、元禄四年(1691)に、下総から長命寺の門番になった山本新六という者が、享保年間(1716~36)八代将軍吉宗が墨田川の堤に桜を植えて遊覧地になると、この桜の葉を利用して桜餅をこしらえて売り始めた(たべもの語源辞典)。

長命寺門内、山本屋新六、初めて売り出せり、

と、大言海にある。江戸名物詩には、長命寺桜餅として、

幟は高し長命寺邊の家、下戸爭買(ヒフ)三月頃、此節業平吾妻橋遊(せば)、不吟都鳥吟桜餅、

と載る(大言海)。文政十三年(1830)の嬉遊笑覧には、

近年隅田川長命寺の内にて櫻の葉を貯へ置て櫻餅とて柏餅のやうに葛粉にて作るはしめハ粳米にて製りしがやがてかくかへたり

と、柏餅のように粳米で製していたものを、葛粉に替えたらしい。大言海には、その製法が、

葛粉に砂糖を加へ、水にて溶き、銅鍋に胡麻油を敷きたる上にて、薄く焼き成したるにて、赤小豆餡(あづきあん)を包み、その表裏を、又、鹽漬の櫻の葉に熱湯を注ぎたるもの二枚にて包み、蒸籠にて蒸して、成る、葉に、香気あり、

とある。文政八年(1825)の、曲亭馬琴他編『兎園小説』の中で、屋代弘賢が、

去年甲申一年の仕込高、桜葉漬込卅壱樽、但し一樽に凡そ二万五千枚程入、葉数〆七拾七万五千枚なり、但し餅一に葉弐枚宛なり、此餅数〆卅八万七千五百、一つの価四文宛、此代〆壱千五百五拾貫文なり、金に直して二百廿ヒ両壱分弐朱と四百五拾文、但六貫八百文の相場、此内五拾両砂糖代を引き、年中平均して一日の売高四貫三百五文三分宛なり

と書いているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85。桜餅一つの売値四文は、推定で米の価格から換算した場合は約63円らしい(仝上)。

ちなみに、墨田川東岸、向島長命寺は、天台宗で遍照院といい、常泉寺と称したが、寛永(1624~44)の末、三代将軍家光が鷹狩りにきて、急に腹痛を起こし、この寺に休息し、寺の井戸水を一杯汲んで家光が飲んだところ、腹痛が治ったというので、この井戸に、「長明水」と名づけたところから、長命寺と称するようになった、という(たべもの語源辞典)。

長命寺桜もち(桜の葉が3枚).jpg

長明寺・桜もち.jpg

(長命寺桜もち https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85より)

浪華百事談(明治二十八年頃成立)によると、桜餅は、

天保の頃までは、浪花に於いて製せる家なく、北堀江高台橋の東の方浜の家に、土佐屋何某と云へる菓子司ありて、その家に製したるが始めなり、衆人めづらしとて求むること多し、もっともその製佳品にて、冬季はかたくりの粉の水にてときし物をうすくやき、中に白小豆の餡を入れて包み、その上を桜の葉にて挟み、夏秋には吉野葛にて、

とある(たべもの語源辞典)、とか。ただ、

もち米でできた昔からの桜餅が、古くから伝わる和菓子の流れに合って各地に広まっている、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85、同じように道明寺粉で作った餅を椿葉で挟む椿餅があるので、桜の葉で包むこと自体が新しいのであって、道明寺粉で作ること自体は特別の創意ではないらしい。

これが道明寺桜餅なのかどうかははっきりしないが、関西の道明寺「桜餅」が、後発ながら、「桜餅」の代名詞になった。

因みに、「道明寺」は、尼寺である。「ほしい」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474940298.htmlで触れたが、道明寺も、

糒(ほしい 干飯)の一種、

で、保存食として使われhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%98%8E%E5%AF%BA%E7%B2%89

糯米を水に浸し、吸水した後水を切り、古くは、釜の上にせいろを置いて、下から火をたいて蒸した。その蒸し上がった物を天日にさらして乾燥させて、干飯(ほしいい・ほしい)として保存した(仝上)。作り出したのは、

道明寺の尼僧、

で、

道明寺糒、

として有名になって、

道明寺、

といえば、糒のこととなった(たべもの語源辞典)。この道明寺糒を碾いて粉にしたものが道明寺粉である。

道明寺桜餅.jpg

(関西風桜餅(道明寺桜餅) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85より)

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年06月19日

今出川豆腐


「今出川豆腐」は、

豆腐を醤油と酒で薄味に煮、しょうが・わさびを添えた料理、

とある(広辞苑)。別に、

豆腐を昆布のだし汁・酒・しょうゆで薄味に煮て、おろししょうが・わさび・かつお節・いったくるみなどを添えた料理(世界の料理がわかる辞典)、

四角に切った豆腐を酒・醬油の薄味で煮て、おろし生姜しようがや花がつおなどをそえた料理(デジタル大辞泉)

豆腐をコンブとともに酒、しょうゆで味をつけて煮、おろしショウガ、ワサビ、花かつお、ときにはクルミをあしらって食べる。京都今出川産の豆腐を使用したことに由来する(精選版日本国語大辞典)、

等々ともある。本筋は変わっていないようだが、微妙に細部が違う。その細部が鍵のように思われる。

今出川豆腐.jpg

(今出川豆腐 http://www.oboshi.co.jp/okan/recipe_04.htmlより)

天明二年(1782)出版の豆腐百珍(とうふひゃくちん)は、100種の豆腐料理の調理方法を解説している。そこでは、

豆腐料理を六段階に分類・評価、

しているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E8%85%90%E7%99%BE%E7%8F%8D、とされる。つまり、

尋常品:どこの家庭でも常に料理するもの。木の芽田楽、飛竜頭など26品、
通品:調理法が容易かつ一般に知られているもの。料理法は書くまでもないとして、品名だけが列挙されている。やっこ豆腐、焼き豆腐など10品、
佳品:風味が尋常品にやや優れ、見た目の形のきれいな料理の類。なじみ豆腐、今出川豆腐など20品、
奇品:ひときわ変わったもので、人の意表をついた料理。蜆もどき、玲瓏豆腐など19品、
妙品:少し奇品に優るもの。形、味ともに備わったもの。光悦豆腐、阿漕豆腐など18品、
絶品:さらに妙品に優るもの。ただ珍しさ、盛りつけのきれいさにとらわれることなく、ひたすら豆腐の持ち味を知り得るもの。湯やっこ、鞍馬豆腐など7品、

で、その詳細は別に譲るhttp://www.toyama-smenet.or.jp/~tohfu/tofuhyakutin.htmlが、「今出川とうふ」は、佳品の一品として、

昆布をしき鰹脯(かつほ)のだし汁と酒しほとにて烹ぬく也 中ほどより醤油さし烹調(ハウテウ)しかくし葛をひき碗へよそひてみ胡桃(くるみ)の碎きをふる也、

と載る(仝上)。「酒しほ」とあるのは、

調味用に使う酒のこと。酒だけを使う場合と、少量の塩を入れる場合があります、

とありhttp://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?mode=comment&no=1112

「かくし葛をひく」は、

材料に葛粉をはたいて茹でることで葛のコーティングを作ること。つるんとした食感になる。水で溶いた葛粉を汁にいれ加熱することでとろみをつけることの意味があるのですが、ここでは後者の意味にとって、なおかつ「隠し」なのでごく薄く、とろみと感じない程度、

とある(仝上)。要は、

昆布を鍋に敷き、
酒とかつおだしで豆腐を煮、
途中で醤油をさし味加減をし、
葛を少し入れ、
椀によそい、
砕いたクルミの実をふりかけ、

というプロセスになるhttp://www.toyama-smenet.or.jp/~tohfu/tofuhyakutin.html。たべもの語源辞典には、

豆腐を一切盛に切って、両方から面をとって、串二本を用い、焦げないように焼く。この焼いた豆腐は湯水で洗ってはいけない。洗えば水を含んで良くない。……つぎに松前昆布を洗って、ひきさき、鍋の底に敷いて、この焼いた豆腐を幾重にも平たく並べ、酒をたくさん入れ、上に松前昆布を蓋のようにおおい、内蓋をして、また本蓋をする。炭火にかけて、静かによく煮る。酒の気も抜け、膳部を出そうというときに、醤油をさして味加減をする。盛って出すときも、蓋をした昆布は取らずに、昆布の下から盛って出す。……酒は十分たくさん入れた方がよい。かつおぶしのだしは少し入れ、酒に混ぜてもよい。だしを多く入れてはいけない。上置きはわさびばかりである、

と、

豆腐大きさ二寸(六センチ)四方、厚さ三、四分(0.9~1.2センチ)に切って、面を取って、焼き、かつおぶし一節、酒一升、醤油を杓子に三杯入れ、昆布を鍋底に敷いて、炭火で(二時間くらい)煮て、味加減する、

と、当時の二種の料理法を紹介している。

「今出川豆腐」の命名のいわれには、

今出川というのは京都の地名でしょうか。今出川の料亭か屋台の名物料理といったところかと思います、

とかhttp://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?mode=comment&no=1112

昔、菊亭前大納言が関東に御下向なされたとき御馳走が何日も続いた。そのうちにこの豆腐料理をこしらえて勧めた。大変喜ばれ、たびたび所望された。そしてこれは何という料理かとお尋ねになると、ただ、豆腐の煮ものですと答えたところ、名がないのは残念だ、今出川とでもいったらよかろうと笑われたので、そう名付けた、

とか(延享二年(1745)「伝演味玄集」跋文)があるらしいが、菊亭膳大納言の関東下向は、享保(1716~36)か、それ以前であること、この料理は関東で作られたものであり京都の今出川とは無縁であることから、今出川家とは関係なく、今出川豆腐を使用したからでもない、とたべもの語源辞典は一蹴する。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:今出川豆腐
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2020年06月18日

今川焼


「今川焼」は、

銅板に銅の輪型をのせ、水で溶いた小麦粉を注ぎ、中に餡をいれて焼いた菓子、今は輪の代わりに多数の円形のくぼみをもつ銅の焼型を用いる、

もののことで、大言海には、

銅の版に、胡麻の油を延(こ)き、銅の輪を載せ、うどん粉を水に溶かしたるを注ぎ入れ、餡を包み、打ち返して炙(や)きたるもの、

と載る。この方が当時の作りの方がよくわかる。

今川焼.jpg


江戸時代中期の安永年間(1772~1780)、江戸市内の名主今川善右衛門が架橋した今川橋付近の店で、桶狭間合戦にもじり「今川焼き」として宣伝・発売し評判となった、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%84%BC%E3%81%8D。あるいは、

神田の今川橋埋立地にあった露店が売り出した焼き菓子が由来ではないか、

とされているhttps://dic.nicovideo.jp/a/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%84%BC%E3%81%8Dのが正確かもしれない。他に、

駿河国などを治めた守護大名・戦国大名、今川氏の家紋である二つ引両(引両紋)を由来とする説、

もあるらしいが、江戸時代の文献にはそのような記述は見受けられないらしい。今川橋は、

天和年間(1681年-1684年)に神田の名主であった今川善右衛門が竜閑川(神田堀)に掛けた橋で、今川橋埋立地は1869年(明治2年)に神田今川町、翌年に川を境にして神田西今川町・神田東今川町に分けられた。竜閑川は1950年(昭和25年)には全て埋立られてしまい、また西今川町は1935年(昭和10年)、東今川町は1965年(昭和40年)に消え、現在は鍛冶町一丁目、内神田三丁目(旧・鎌倉町)、岩本町一丁目のそれぞれ一部となってしまっているが、今川橋の名は交差点名として現在も残っている、

とある(仝上)。江戸語大辞典には、

はま千鳥禿(かむろ)があどなき噺合手も……今川焼の児僕(こぞう)とはなんなりぬ(天明四年・浮世の四時)

と載る。

後に、(大型の)小判状をした型を使用したものが全国各地に大判焼き(おおばんやき)として広がった。その名称は、「今川焼」という名称は全国各地に広がっているが、

二重焼き(広島県)、
大判焼き(東北や東海地方、ま四国地方など)、
小判焼き(西日本)、
巴焼き、
義士焼き、
太鼓饅(太鼓饅頭、太鼓焼き 西日本各地、)、
太閤焼き、
回転焼き(回転饅頭 大阪市、堺市、九州・山口地方など)、
文化焼き、
大正焼き、
復興焼き、
自由焼き、
夫婦まんじゅう(フーマン)、
御座候(兵庫県、大阪府など全国各地)、
おやき(北海道、青森県、茨城県西部など)、

等々(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%84%BC%E3%81%8D、語源由来辞典)、形状や地域、店により他にもさまざまな呼び名がつけられて普及した(仝上)。その他にも、

浅草焼(青森県)、あじまん(山形県ほか)、甘太郎焼(埼玉県、千葉県、神奈川県、茨城県、群馬県)、画廊まんじゅう(静岡市清水区)、御紋焼(奈良県天理市)、しばらく(滋賀県長浜市)、じまんやき(富士アイス系列)、人工衛星饅頭(兵庫県神戸市)、ずぼら焼き(兵庫県神戸市)、太郎焼(埼玉県川口市・越谷市、福島県会津若松市ほか)、天輪焼(三重県松阪市)、七越焼き(三重県松阪市)、花見焼き(埼玉県蕨市)、日切焼(愛媛県松山市)、びっくり饅頭(広島県呉市)、ヒット焼き(愛媛県新居浜市)、武家まん(愛媛県新居浜市)、横綱まんじゅう(岡山県津山市)、蜂楽饅頭(熊本県熊本市、鹿児島県、福岡県)、あづま焼(静岡県浜松市・磐田市)、きんつば(千葉県・福島県・新潟県)、

等々という名のものもある(仝上)。日本の植民地支配の影響で、台湾では、

車輪餅(チャールンビン)、

韓国では、

オバントク/オバントック、

という名で食べられているらしい(仝上)。

地域・店舗によっては、

カスタード、抹茶あん、チョコレート、

などの中身があり、単純に言えば、「今川焼」は、

鯛焼きが鯛の形ではなく、丸く分厚くなったようなお菓子、

であるhttps://dic.nicovideo.jp/a/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%84%BC%E3%81%8D。現に、「鯛焼き」は、

現在も麻布十番商店街にお店を構える浪花家総本店さんが「今川焼きが売れないから縁起のいい鯛の型にしてみよう」と閃き販売を開始、その後飛ぶように売れたことから広まっていった、

とあるhttps://uzurea.net/about-name-of-imagawayaki/

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年06月17日

あばよ


「あばよ」は、

普通男性の使う、別れのあいさつ、
さようなら、

の意味である。江戸語大辞典には、

「せんどん、いってきなよ、あばや」(寛政初年(1789)・玉の幉)、

の用例が載る、

あばや、

という言い方もした。

「あばよ」の語源には、

さらばよ、
さあらば、
幼児語の「あばあば」、
また逢はばや、
感動を示す語「あは」、
按配よう、

等々があるとされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%B0%E3%82%88)。

さあらばよ、

とする説(広辞苑)も含め、

さらばよ、
さあらば、

は、同一語源説とみていい。大言海は、

さあらばよ、さらばよの略、

とし、

小児の、相別れむとする時、相告る詞、

の、

下略して、重ねてアバアバとも云ふ、

とするので、

幼児語「あばあば」も、同一語源の範囲に入る。ただ、同じ「あばあば」でも、

赤児が始めて発する正音ア、バの二音を互いに言い合って別れを告げる言葉とした(両京俚言考)、
「あばあば」の「あば」に終助詞「よ」が付いたもの(精選版日本国語大辞典)、

は、幼児語としているので別説だが、大人の使う言葉を、幼児が真似るというのならともかく、幼児語を大人が、サヨナラの代わりに使うものかどうか。ちょっと疑問に思う。

人を見送る時の言葉ア(彼)ハのにごったアバにヨが付いたもの(毎日の言葉=柳田国男)、

は、いかにも無理筋な気がするし、

「案配良う」の「案配」は、「体調」の意味で近世から使われており、「あばよ」も近世から使われた言葉であるため、この説が妥当、

とする説(語源由来辞典、方言から見た東海道=山口幸洋)、あるいは、

マタアハ(又逢)バヤの転(俗語考)、

等々は、どちらかというと、単独ではなく、

ごきげんよう、

という言い方が、「さようなら」「あばよ」とセットで言うのと同じで、

また逢おうよ、さようなら、
案配よう、さようなら、

というように、単独で使わない気がする。特に、「案配よう」は、その労わる含意と、「あばよ」のぞんざいな物言いの含意との間の落差がありすぎる気がする。いくらなんでも、「案配よう」は「ごきげんよう」のニュアンスに近く、それが「あばよ」へと、いくら親しき仲にしろ、ぞんざいに落ちるのは、少し疑問である。

「こんにちは」http://ppnetwork.seesaa.net/article/447391058.htmlで触れたが、「さようなら」は、

元来,接続詞で,それならばの意(広辞苑)

然(さ)らばと同意なり。談終はりて,然様ならば,暇申すなどの意。サヨナラは,約めて云ふなり。サイナラは,サヨナラの音転(大言海)

「左様ならば(さやうならば)」の『ば』が略され、挨拶になった語。現在で別れ際に言う「じゃあ、そういうことで」のようなもので、「さやうならば(さようならば)」は、「そういうことならば」を意味する(語源由来辞典)、

「そういうことならば」という意味の句「さようならば」の「ば」が省略されたもの。本来の語構成は「さ」+「様(よう)」+「なら」+「ば」。「さようならば、これにてごめん」のように用いられたことから、「さようならば」だけで別れの言葉となり、さらに「さようなら」となった。近世後期に一般化した(由来・語源辞典)、

「さようは中古よりみられるが,(接続詞「されならば」「しからば」)の用法は主に「さらば」(和文)と「しからば」(漢文訓読文)によって表されていた。中世末期においては「さらば」「それなら(ば)」が多く用いられ,「さようならば」の使用頻度が高くなるのは近世中期以降である。(「さようなら」という)別れの挨拶の用法については,まず「ごきげんよう」「のちほど」などの他の別れの表現と結びついた形で用いられ,次いで近世後期に独立した別れのことばとして一般化した(日本語源大辞典)、

等々、「そういうわけで」という含意があり,「さようなら」には,より強く,文脈依存性が滲み出ている。「そういう次第」を了解し合っている間柄,という関係性を強く言い表しているように見える。だから,田中英光は,他國の言葉が、たとえば、

再見
Au revoir
Auf wiedersehen

の,再会というニュアンスか,

Adios(aへ+Dios神)
Goodbye(God be with you の古形の略)
Tschuss(adiosが語源)

の、神とともに,というものとに二分され,

アンニョンヒ カセヨ

も,気をつけてお帰りくださいというニュアンスだから,この系譜に入るかもしれない(「ごきげんよう」はこの分類かも)等々比して,悲哀,悲壮感がある,と言う言い方をした。

二人か三人かは別にして,その場とその時間を共有したもの同士でしか伝えようのない,ニュアンスが,そこにあると言えば言える。誰に対しても,と言うのではない,

一緒に過ごしてきましたが,そういうわけなので,お別れしなくてはなりません,

なのか,

一緒に時間を共にしてきましたが,かくなるうえは,お別れしなくてはなりません,

なのかはわからないが,別れが,主体的な事由によるのではない,不可抗力な何かによって,もたらされたというニュアンスが付きまとう。

もちろん,二人だけにわかる理由があって,

かくかくの次第ですので,お別れします,

でもいいが,別れたくて別れるなら,そういう言い方はしないような気がする。

もうご一緒にはいたくないので,お別れします,

というよりは,

もうご一緒にはいられませんので,お別れします,

のほうが近いような気がする。

「左様ならば,お別れします」「そういうことならばお別れします」でいう「さようならば」「そういうことなら」というのは,文脈依存の日本語らしく,その場の二人,あるいはその場に居合わせた人にしか,「左様」の中身はわからない,そういう次第を共有している者同士が,「そういうこと」で,と別れていくニュアンスではないか,と感じる。

「左様ならなくてはならない運命だからお別れします」と言うと深刻だが,

「そういう次第なのでお別れします」
「そういうわけなら,お別れします」
「そういうわけで,お別れしましょう」
「そういうことでお別れしましょう」
「そういうことなら,(ここで)お別れしましょう」

というふうに,並べてみると,いまの言い方も,その簡略版で,

「…てなことで,お別れします」
「ていうか,じゃあここで」
「それなら,ここで」
「(それ)じゃあ,ここで」
「(そういうこと)では,ここで」
「そんじゃあ,また」

等々と言うが,結局その場にいるものにしか伝わらない,共有した時間と空間の中での,「そういうことで」と言うニュアンスが,言外に含まれている。江戸語大辞典には,

さよう(然様)ならば,
さらば,

が別れの言葉として載る。「さようなら」への過渡として使われていたとみられる。

さらば、

は、

告別の談,終はりて,然(さ)らばわかれむと云ふを,略して云ふなり。小児の語に,アバヨと云ふも,さあらばよの約転なり、

とあり(大言海),接続詞「さらば(然・則)」の項には,名義抄の、

然者,さらば、然(さ)あらばの約。サバと云うふは,サラバの約略なり(竝(なら)べて,なべて)、

を載せる。となると、

さよう(然様)ならば→さあらば→さらば、
さよう(然様)ならば→さようなら、

の二つに転訛がわかれたと見ることが出来る。そして、「あばよ」は、

さよう(然様)ならば→さあらば(よ)→さらば(よ)→あばよ、

敢えて記せば、

Saraba(yo)→aba(yo)

と、やはり、

さよう(然様)ならば、

というお互いに文脈を共有した者同士が、

そういうことだから、
そういうことなら、

と別れた、見ていいのではないか。

「さようなら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/402221188.htmlhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/388163123.htmlについては、触れた。

参考文献;
田中英光『さようなら』(現代社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年06月16日

有平糖


「有平糖」は、

アルヘイトウ、

とも、

アリヘイトウ、

と訓ます。

阿留平糖、
金花糖、
氷糸糖、
窩糸糖、

とも呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B9%B3%E7%B3%96。略して、

アルヘイ、
アリヘイ、

とも言う(広辞苑)。

ありへいとう.jpg


「アルヘイ」は、

ポルトガル語alfeloa(砂糖菓子の意)、

で、

砂糖に水飴(みずあめ)を加えて煮詰め、冷やして引き伸ばしたり彩色したりした菓子、

で、棒状のもののほか、花・果物の形に細工して飾り菓子にする(デジタル大辞泉)。「アルヘイ糖」が、「重語」(大言海)、というのはその通りである。「有平糖」と一緒に入った「金平糖」は、

ポルトガル語のコンフェイトconfeitoの転訛(てんか)といわれる。ケシ粒を心にして砂糖液をかけてかわかし(古くはゴマを使用),加熱しさらに糖液をかけて作る。心に吸収された糖分が加熱によって吹き出すので周囲にとがった角ができ,その形が不思議がられて珍重された、

ものである(百科事典マイペディア)。「金平糖」「有平糖」ともに、安土桃山時代にポルトガルより伝わった南蛮菓子である。天文十八年(1549)、鹿児島に上陸した、フランシスコ・ザヴィエルが、持ち込んだ中に、

カスティラ、
ボウル、
カルメイル、
アルヘイトウ

等々があった、とされる(たべもの語源辞典)。その後、寛永十五年(1638)の『日野資勝卿記』に、「あるへいとう」の記述があるので、鹿児島上陸の七、八十年後には京都で食べられていた、ということになる(仝上)。元禄十三年(1700)に、日光輪王寺門跡弁法親王が柳沢吉保に招待の御礼に「あるへいとう」を贈っている(仝上)、とあるが、まだこの時期は、「あるへいとう」は珍しいものであった。

「干菓子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474341312.htmlで触れたように、本朝世事談綺(江戸中期、1733年)に、

白雪糕(はくせっこう)で製するもので、中古は、アルヘイ糖、コンペイ糖の類をいった、

とあり(たべもの語源辞典)、「干菓子」とみなしていたらしい。

「白雪糕」とは、「落雁」http://ppnetwork.seesaa.net/article/472919321.htmlで触れたが、

精白した粳米(うるちまい)粉と糯米(もちごめ)粉を等分にあわせ、これに白砂糖と少量の水を加えて十分にもみ、木箱にふるい落として、ならしてから軽く押して3、4時間置いたのち、取り出して短冊(たんざく)形あるいは算木形に切る。本来はハスの実の粉末を入れた、

とあり(日本大百科全書)、

落雁の一種、

とある。どうもこれと同じ原料だと、本朝世事談綺はみなしており、

金平糖、
有平糖、

を干菓子とみていたらしい。砂糖を使った菓子が作られるようになるのは、宝暦(1751~64)以後からのことで、

「有平糖」は、

初期の頃は、クルミのように筋がつけられた丸い形をしていたが、徐々に細工が細かくなり、文化・文政期(1804~1830年)には有平細工(アルヘイ細工)として最盛期を迎えた。棒状や板状にのばしたり、空気を入れてふくらませたり、型に流し込んだり、といった洋菓子の飴細工にも共通した技法が用いられる。江戸時代、上野にあった菓商、金沢丹後の店の有平細工は、飴細工による花の見事さに蝶が本物の花と間違えるほどとされた、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B9%B3%E7%B3%96。また、

有平糖は茶道の菓子として用いられることが多く、季節ごとに彩色をほどこし、細工をこらしたものが見られる。縁日などで行われている即興的な飴細工とは異なるものである、

とあり、技巧が進化し高価なものとなってしまった有平糖を、見た目よりも味を重視して廉価にしたものとして、

榮太樓本店の「梅ぼ志飴」、
村岡総本舗の「あるへいと」、

などがある(仝上)、ともある。江戸末期の守貞謾稿には、

アルヘイは、専ら、種々の形を手造りにするもの多し、然るに、近年、京阪にて、鎔形にするものあり、白砂糖を練り、鎔形を以て焼き而後に、筆刷毛等にて彩を施し、濃鮒、独活、蓮根等を製す、眞物の如し、號けて金花糖と云ふ、嘉永に至り、江戸にも傳へ製す、

とある(大言海)。

ようやく、元禄から三十年くらいたって、一般の人々の口に入るようになる。吉宗の時代、

まづいもの好きなをかしに公方さまあるへい捨てて松風にする、

という狂歌がある。「松風」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473581577.htmlは、表にケシなどを振った菓子。裏には何もつけないので、「浦さびし」の意から名づけた。

松風というたべものは、表にケシの実をふるとか、にぎやかに化粧してあるが、裏には何も細工をしない。裏が淋しいを浦さびしとして、浦とは、海岸・海辺であるから、浦さびしき風情を考えると、松があってそこに風が吹いて、音を立てる。浦のさびしさは、松風によるものと思えば、松風とよんだのは天晴れである、

とたべもの語源辞典は評していた。「あるへいとう」がうまいものとして既に親しまれていたことがわかる(仝上)。

享保三年(1718)の『古今名物御前菓子秘伝抄』に、その製法を、

上々氷砂糖一返(いっぺん)洗ひ捨て、砂糖一斤に水一、二升入れ、砂糖の溶け申す程煎じ、絹にてこし、其後煎じつめ、匙にて少しすくひ、水に冷し、うすく伸ばしぱりぱりと折れ申す時、平銅鍋に胡桃の油を塗り、その中へうつし、鍋こしに水に冷し、手につき申さぬ程にさまし、その後成る程引伸ばし候へば白くなり申候を小さく切り、いろいろに作るなり、

と記されている(日本大百科全書)が、『和漢三才図会(1715)』には、

円形で胡桃のような筋のある菓子、

と説明され、単純な形状であった。いろいろに細工され、紅白黄緑に彩色されて妍(けん)を競うようになるのは、文化・文政年間(1804~1830)以降である(仝上)。

因みに、有平糖と飴の違いは、

材料中の砂糖と水飴の比率、

で、

砂糖の結晶化を抑制する効果や保湿効果があり、滑らかな口当たりが有ることから、現在市販されている飴の多くは、水飴を主原料としたものが多いのに対して、有平糖は砂糖の結晶化を防止し飴細工に必要となる、粘土を確保するだけの量しか水飴を使用しません。有平糖の主原料はあくまでも砂糖となっている部分が、一般的な飴と有平糖の違いだと言われています、

ということだとかhttps://i-k-i.jp/16122

有平糖(梅の花).jpg


参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:有平糖
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2020年06月15日

したたる


「したたる」は、

滴る、瀝る、

等々と当てる。「しずく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475606337.html?1592072466で触れたように、「滴」(漢音テキ、呉音チャク)は、

会意兼形声。啇は、啻(一つにまとまる)の変形した字。滴はもと「水+音符啇(テキ)」。しずくはひと所に水が集まり、たまったときぽとりと垂れる。ひと所にまとまる意を含んだ言葉である、

とある(漢字源)。「したたる」「ひと所に集まったしずくが垂れ落ちる」意である。「瀝」(漢音レキ、呉音リャク)は、

会意兼形声。歴の上部はもと「厂(やね)+禾(いね)二つ」の会意文字で、稲をつらねて納屋にならべたさま。歴は、それに止(足)を加え、つぎつぎとつづいて各地を歩くこと。いずれもじゅずつなぎに続く意を含む。瀝は「水+音符歴」で、水のしずくがじゅずつなぎに続いて垂れること、

とある(仝上)。「したたる」「しずくが続いて垂れる」意である。同じく、「しずく」の意をもつ、「零」(漢音レイ、呉音リョウ)、「涓」(ケン)を当てないのは、原意をくみ取っていたと見ることが出来る。

「したたる」は、

下垂るの意、

とされる(広辞苑・大言海他)。

近世中期ごろまでシタダルと濁音、シタはシタム(湑・釃)のシタと同根、

とある(岩波古語辞典)。「したむ」は、

しずくをしたたらす、特に酒などを漉したり、一滴も残さず絞り出したりするのにいう、

とある(仝上)。

したみ酒、

という言葉があり、

枡やじょうごからしたたって溜まった酒、

の意で、

転じて、飲み残しや燗(かん)ざましの酒、

の意となる(精選版日本国語大辞典)、とあり、

したみ、

とも言う(仝上)。この「したむ」は、酒の例から見ても、確かに、

下(した)の活用、

とある(大言海)のが納得いくが、

シタ(下垂)ムの義(日本語源=賀茂百樹)、
液をシタ(下)に垂らす義(国語の語根とその分類=大島正健)、

と、「したたる」と絡ませる説がある。

「したたる」は、本来、

水などがしずくとなって垂れ落ちる、

意である。「したむ」は、それを、

酒に特化した用例、

とみられるのかもしれない。ただ、「しずく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475606337.html?1592072466で触れたように、「下枝」を、

シヅエ、

と呼ぶように、「下」を、

シヅ、

と呼ぶ可能性があり、とするなら、「しず(づ)く」の「しづ」は、垂れる意の、

しづ(垂)、

と関わるけれども、

しづ(垂)+垂る、

では重複するし、「しづ」を、

下の活用、

とするなら、「したたる」は、

しづ(下)+垂る、

となり、

「下がる」+「垂れる」

と、下垂る語源説だと、どこか重複感があるような気がしてならない。確かに、

下+垂る、

と考えるのが、無難なのだろうが。

ところで、「したたる」の意味に、

緑したたる候、

というように、

美しさやみずみずしさがあふれるほどである、

の意味に使われるが、さらに、それをメタファに、

水もしたたるいい男、

といった使い方をするのは、岩波古語辞典、大言海には載らず、結構最近になって使われる用例のようである。

水滴が落ちた後.jpg

(しずくが落ちる https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%B4より)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2020年06月14日

しずく


「しずく」は、

水や液体がしたたりおちる粒、

の意である(広辞苑)。

雫、
滴、

と当てる。「雫」(漢音ダ、呉音ナ)は、

会意。「雨+下(おちる)」。中国でもこの字を使うが、雫の意味に用いる場合は、国字、

とある(漢字源)。

曲線をえがいてしたたるさま、

の意だが、

しずく、

では用いない、らしい。「滴」(漢音テキ、呉音チャク)は、

会意兼形声。啇は、啻(一つにまとまる)の変形した字。滴はもと「水+音符啇(テキ)」。しずくはひと所に水が集まり、たまったときぽとりと垂れる。ひと所にまとまる意を含んだ言葉である、

とある(仝上)。「したたる」「ひと所に集まったしずくが垂れ落ちる」意である。漢字には、他に、

零、
涓、
瀝、

等々も、「しずく」の意味がある。「零」(漢音レイ、呉音リョウ)は、

会意兼形声。令は、清らかなお告げのことで、清らかで冷たい意を含む。零は「雨+音符令」で、清らかなしずくのこと。また「雨+〇印三つ(水玉)」とも書く(霝)。小さな水玉のことから、小さい意となった、

とあり(仝上)、「清らかな水玉」の意、「おちる」「欠けて小さい」意がある。「涓」(ケン)は、

会意兼形声。右側の字(エン・ケン)は、丸く体をひねるぼうふら。涓はそれを音符とし、水を加えた字で、細くひねる意を含む、

とある(仝上)。「しずく」の意もあるが、ちょろちょろと流れる水、の意である。「瀝」(漢音レキ、呉音リャク)は、

会意兼形声。歴の上部はもと「厂(やね)+禾(いね)二つ」の会意文字で、稲をつらねて納屋にならべたさま。歴は、それに止(足)を加え、つぎつぎとつづいて各地を歩くこと。いずれもじゅずつなぎに続く意を含む。瀝は「水+音符歴」で、水のしずくがじゅずつなぎに続いて垂れること、

とある(仝上)。「しずくが続いて垂れる」意である。

雫.jpg


「しずく(しづく)」は、

シヅム(沈)・シヅカ(静)のシヅと同根、、

で、「しづく」の、

シヅは、下に沈んで、安定しているさま、

とある(岩波古語辞典)。

沈む意、

とする(大言海)のも同趣旨と思える。「静か」について、

「沈む、鎮む」と同語源、ジスは、静か、閑か、シズマル、シズマリカエル、シズメル、シズシズなど、多くの語を作り出しています、

とする(日本語源広辞典)のも、同じ流れである。しかし、

垂(し)づ、

という動詞がある。

したたり落ちる、

意の、

垂(し)づるの他動詞形、

であり、

垂らす、
しだれさせる、

意である。

組みの緒しでて宮路通はむ(拾遺・神楽)、

という用例があるように、名詞形は、注連縄や玉串、祓串、御幣などにつけて垂らす、

垂・紙垂・四手(しで)、

である(岩波古語辞典)。「し(垂)づ」の連用形から名詞化した。

紙垂.png


「垂(し)づる」のシヅは、やはり、

シヅム(沈)・シヅカ(静)のシヅと同根となる。「垂(し)づる」の名詞形、

垂(し)づり、

は、

水滴などのしたたりおちること、また、滴り落ちたもの、

の意であり、

垂(し)づれ、

とも言う(仝上)。

つまり、「垂れる」意の、

垂づ、

の「しづ」が、「しづく(滴)」の語根と見られるが、それは、

沈む、

の「しづ」にたどり着く。

沈(しづ)く、

という言葉がある。

水底にしずみつく(岩波古語辞典)、
水の中に透き映りてみゆ(大言海)、

という意味で、やはり、

シヅ・シヅム(沈)などと同源(時代別国語大辞典-上代編)、

と、

「しづく(滴)」とは、少し意味は違うが、表記は同じ「しづく」である。「しづく(沈)」と「しづく(滴)」が、重なる要因にはなるかもしれない。

さて、「しづ(ず)む(沈)」は

水の中に下がる(大言海)
水中に没する(岩波古語辞典)、

意だが、

シ(下)+ツム(積む)(日本語源広辞典)、
シ(下)+ウム(埋む、(日本語源広辞典・言元梯・和句解)、
シ(下)+ツム(付)(日本語源=賀茂百樹)、

等々、「シ」を

下、

と解するものが多い。「下」は、

シタ(下)・シモ(下)などのシ、

で、下枝(しづえ)のように、複合語をつくる(岩波古語辞典)。そう考えると、「しづく(滴)」も、

シ(下)+つく(付)、

というのはあり得る。しかし、

「下」もまた「しず」と読む、

とするhttps://www.ihi.co.jp/var/ezwebin_site/storage/original/application/10d34a25711637ececc726a22a5ecb2e.pdf説がある。それが正しいとすると、「しづむ(沈)」も、

下、

の動詞化とも考えられ、「しづく(滴)」も、「シヅ(垂)」も、「下」と関わるのかもしれない。とすると、

賤しい意の、

賤(し)づ、

は、

シズム(沈)・シヅカ(静)シヅク(滴)などのシヅと同根、

とある(岩波古語辞典)のは、

下(しづ)、

と見ると、その状態を価値表現とする意がすんなり入る気がする。もしそうなら、「下枝」を、

しもつえ・したつえ→しづえ、

の転訛ではなく、はじめから、

シヅエ、

と訓ませた可能性も出てくる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:しずく
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2020年06月13日

みたらし団子


「みたらし団子」は、

御手洗団子、

と当てたりする。「みたらし団子」は、

竹串に米粉で製した数個の団子を刺し、砂糖醤油の葛餡をかけた串団子(焼き団子)、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%97%E5%9B%A3%E5%AD%90。この由来を、

御手洗詣での時、京都下賀茂神社糺(ただす)の森で売ったのが最初、

とする(広辞苑)。たべもの語源辞典は、

昔は、毎年六月一九日または二十日から晦日まで、京都市左京区の賀茂御祖(みおや)神社(下鴨神社)に参詣して境内の御手洗川に脚をひたし、無病息災を祈った。これを御手洗参りとか御手洗会(え)といったが、納涼をかねた遊びであったから、糺(ただす)の涼みとも称した。境内には茶店が並んで酒食を供したが、ここで御手洗団子を売っていた、

とする。「御手洗川」は、神社近くにながれている川で、参拝者はここで手を清め、口をすずいだ(仝上)。大言海には、

團子、毎年六月晦日、社司(賀茂)於御手洗河修祓、其前日自十九日、京師男女参詣、掬社外之井水而祓暑穢、又林閒設茶店賣飲食、其中小粉團、毎五箇以青竹串貫之、……是云御手洗團子、

を引く(雍州府志)。たべもの語源辞典も、

竹串に小粒の団子を五つさして、醤油で付け焼きしたもの、

と、五個とする。

みたらし団子.jpg

(みたらし団子 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%AD%90より)

「団子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475567670.html?1591900451については触れた。「御手洗」は、

みたらし、

と訓ませるが、

神社の社頭にあって、参詣者が手や口を浄めるところ、

の意である。上記の、

御手洗川、
御手洗祭り、
御手洗詣、

の略の意もあるが、それも、「御手洗」の、

手や口を浄める、

からきている。「御手洗」は、

みたらい、

とも訓ませる。大言海は、

タラシは手洗水(てあらひし)の約、ミは神前なるに就き、尊称を加えたるならむ、

とする。「し(水)」は、

水(スイ)の音の約、水良玉(シラタマ)、水長鳥(シナガドリ)、シがらみ、シずく、シたたる、シむの類例、

とする(大言海)

ミタラシ(水垂)の義か。また御垂の義か(類聚名物考)、

も類似の説。たべもの語源辞典も、

シは水(スイ)の音の約である。「しずく」とか「したたる」のシと同じで、水の意である、(中略)ミは尊称である。タラシはテアラヒシ(手洗水)の約である。御手洗水(ミテアラヒスイ)と御をつけたとき、スイがシになり、テアがタとなって、ミタラシとヒを略していい、また、ミタラヒとスイを略したようによぶのは、ヒシが一つになって、ヒとかシといわれたものである、

とし、御手洗を、参拝者が口や手を浄める場所として、

ミタライ(ヒ)を御手洗と解して、ミタラシは御手洗ハシと説いたものがある。ハシ(端)とするならば、場所を意味することになる、ミタラシのシをハシとする説には、反対である、

と異議を唱えている。「しずく」の「し」であり、「御手洗(みたらし)」の「し」は、水でいいのではあるまいか。

江戸後期の『嬉遊笑覧』には、

鉄砲の玉、
数珠の粒、
そろばんの玉、

と称しているし、寛文(1661~73)の『狂歌咄』には、

細い竹に刺して土塗り爐に立ち並べて五十本串立てた、

とある(たべもの語源辞典)。下鴨神社の神饌菓子の御手洗団子は、

上新粉(白米の粉)でつくった直径二センチほどの白団子を十本の細い竹に刺してある。竹は扇の骨のように十本に割いてあり、その一本に団子が五つずつさしてあるから五十個ある。この五つは、いちばん先がやや大きくて、二番目との間が少しあいている。この団子は厄除けが目的である。一つ目は頭で、下の四つが手足・体である。人形をかたどった団子を神前に供えてお祈りをし、それを家に持ち帰り、醤油をつけ、火に炙って食べると厄除けになる。これが昔の団子で、堅くなったものを食べたのである。今は、始めから醤油を付けて火にあぶったものを売っている、

とある(仝上)。ただ、異説があり、

境内(糺の森)にある御手洗池(みたらしのいけ)の水泡を模して、この団子がつくられた、

とされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%97%E5%9B%A3%E5%AD%90

鎌倉時代から建武政権期、後醍醐天皇が行幸の際、御手洗池(みたらしいけ)で水を掬おうとしたところ、1つ大きな泡が出、続いて4つの泡が出てきた逸話による説がある。この泡を模して、串の先に1つ・やや間をあけた4つの団子を差して、その水泡が湧いた様を表している(仝上)、

下鴨神社の糾の森に井上の社というお宮があるが、その前に清水が湧き出ている。この手洗いの池の水が、まず一つ湧き出て、つぎに四つ続けて出る。そのさまをとって、団子を、一つと四つに分けてつけたという。団子は、熊笹に包んで、扇形にしてあった。古くは、北野社頭の茶店でも売っていた(たべもの語源辞典)、

とあり、五個の団子の、一つ目とそれ以下の区別も、別の根拠となる。しかし、水泡由来よりは、厄除けの意味の方が、五平餅http://ppnetwork.seesaa.net/article/474063861.htmlがそうであったように、神饌団子の由来としては、いいように感じる。

もっとも、

関東では団子が4個の方が多い。これは四文銭ができたことによるとする説が有力である(団子1個が1文。四文銭で団子1串)、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%97%E5%9B%A3%E5%AD%90

飛騨高山にも、

御手洗団子、

というものがあるが、これは、

下鴨神社糺の森で売られていた御手洗団子が、高山に伝わった、

ものとされる。ただ、

みだらし、

と濁る(たべもの語源辞典)。なお、精進料理の台引(お土産用の膳)で、御手洗団子、というのは、クワイや山の芋を小さい団子にして一串に五つ刺したものをいうが、これは御手洗団子をまねたものである(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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