2014年07月24日

仕事




という字を調べていて,

侍ろう

から来ており,その連用形,

サブラヒ→サムライ

と音韻変化した,という。高位の人,目上の人の,側近くに仕える人を言う。後,北面の武士ではないが,

武士

を指すようになった,という。つまりは,ただ役割を指しているにすぎない。



は,成人男子を指すが,周代だと,

諸侯―大夫―士

の三層に分かれたし,春秋・戦国時代以降は,

広く,学問や知識によって,身を立てる人

を指す。論語で言う,

士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任となす。亦重からずや。死して後己む。亦遠からずや

という,あの士である。

この士の字を,中国語源では,

仕事をする場所の目印

とある。つまり,

一(目印)+|(杭)+一(地面)

と分解できるという。そして,事は,

旗を立てる,立つ

と同系,仕とも同系とある。

では,ついでに,

侍という字は,というと,

貴人のそばで仕事をする人,またその仕事

で,

人+寺(仕事)

と分解できる。ついでに,仕事の「事」はどうかというと,

つかえる,

という意味だが,この字は,

計算に用いる竹のくじ+手

で,役人が,竹棒を筒の中に立てるさまを示し,

そこから転じて,所定の仕事や役目の意になったという。

では,「仕」は,というと,同じく,

つかえる

という意味だが,

真っ直ぐに立つ男(身分の高い人の側にまっすぐ立つ侍従)のこと,

という。

事君(君につかふ)と仕君(君につかふ)とは同じこと,

とある。

仕事という言葉自体は,語源的には,

シ(為る)+事

で,すること,しなければならないこと,の意。平安期では用例がなく,中世になって初めて現れる言葉らしい。明治期以降,物理用語として訳されて,

物体が外力で移動する

意らしい。

「侍」は結局のところ,始源的には,その立っている位置というか,立場を示しているだけに過ぎず,大事なのは,どういう「事」に仕えるか,ではないか。

事とは,旗である。旗とは,

「旗」の字のつくりの「其」を除いた部分(風になびくハタの意)+其(合図)

の意味という。旗幟鮮明の「旗」である。「はた」には,

旛(旗幅の下に垂れ下がるしるしばた),旂(鈴のある旗),旃(曲り柄の旗),旆(種々の色の帛でつくった旗),旄(毛で造った旗飾り),旌(あざやかな色の鳥の羽をつけた旗印),旐(亀谷蛇を描いた旗),旒(はたあし,旌旗の垂れ下がるもの),旟(隼を描いた旗)。

等々があるが,なぜ「旗」が,ハタの総称かというと,

龍虎を描く大将の立てるもの

だからである。

自分の旗を立てる,あるいは,仕事に旗を立てる,ということについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163010.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163049.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163175.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163553.html

等々で何度も書いたが,自分の旗を立てるとは,自分が何を仕事にしているか,あるいは,自分は何をするためにここにいるか,を明示するということに通じる,と改めて感じた次第…とは,我田引水が過ぎたか。

しかし,所詮,士とは,役割にしか過ぎない。大事なのは,

死してのち已む

という志というか,心映えがあるかどうかということなのではないか。それが,

事に当たる

の「事」であり,事は,すなわち,

おのれの旗

である。結局,その旗に,仕えることを,

仕事

という。旗なきを,

労働を

何と言うのだろうか。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)



今日のアイデア;
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2014年07月23日

劣化


佐伯啓思『正義の偽装』を読む。

帯には,

稀代の社会思想家

とある。しかし,読んで,異和感のみが残った。福田恆存はまだしも,件の長谷川三千子を麗々しく引用するあたり,そのレベルの人かと,ひどく幻滅した。

著者は,本書について,

「時々の時事的な出来事や論点をとりあげつつ,それをできるだけ掘り下げて,使嗾的に論じるというのが連載の趣旨なのです。」

という。そのうえで,

「私には今日の日本の政治の動揺は,『民主主義』や『国民主権』や『個人の自由』なる言葉を差したる吟味もなく『正義』と祭り上げ,この『正義』の観点からもっぱら『改革』が唱えられた点に在ると思われます。われわれは,本当に信じてもいないことを『正義』として『偽装』してきたのではないでしょうか。」

と書く。この文章に,詐術がある。自分は,

「この世の中に対する私の態度はかなりシニカルなものです。」

といって,まず部外者に置く。そうすることで,上記の「偽装」については,責任を逃れている。そして,

さしたる吟味もなく,

「正義」と祭り上げ

もっぱら「改革」が唱えられた

本当に信じてもいないことを「正義」と「偽装」

しているのは,著者ではない,「愚かな日本人」ということになる。著者の論拠は,保守だから,主として,

サヨク

野党

がその批判の対象になる。しかし,かくおっしゃる世の中で,ご自分はのうのうと大学教授を享受している,この社会の当事者である点を,置き去りにしている。かつて,吉本隆明が,丸山眞男の当事者意識を痛烈に批判していたのをふと思い出す。当然,僕は,この著者の言うところの,

サヨク

に該当するらしいのだが,しかしいまどき左翼だの右翼だのというふるい分けというか,レッテル張りに意味があるのだろうか。せいぜい石破氏のデモを「テロ」と名付けたり,安倍氏が批判者を「左翼」というラベル貼りする以上の実態はないと思うが,未だラベル貼りすることで,自分をその埒外に置きたい人がいるらしい。けれども,自分を埒外におこうと,どの立場に立とうと,時事に対して,批判することはもちろん自由だ。しかし,評論家であることは許されない。この日本において,自分だけ埒外にいることはできない。自分または自分の家族も巻き込むことを意識しない当事者意識の欠けた意見は,基本,聴くに値しない。

しかし,本書へのいらだちは,それだけではない(当事者意識のないどころか,高みから見下ろしているのは,この手の論客のお得意技なので,そのことはさて置いても)。

たとえば,

「『自由』や『民主』『富の獲得』『平和主義』といった戦後の『公式的な価値』は,実は,一皮むけば,すべて自己利益の全面肯定になっている」

と書く。「公式的な価値」って,誰にとって,誰が,と言う茶々は入れない。そういう言い回しで,皮肉たっぷりに言うのが,ご自分の存在基盤になっているらしいので,言ったところで,痛痒を感じまい。問題は,これは,著者の仮定にすぎないということだ。そう著者が仮に仮説として言った,ということだ。ところがである。つづいて,

「すると人はいうでしょう。人間とはそういうものだ。どうして利己心をもって悪いのか。そうです。別に悪くありません。誰もが自分の生命や生活を第一に考え,自己利益を目指し,富が欲しい。これは当然と言えば当然です。しかし,戦後の『公式的な価値』は,この本質的にさもしい自己利益,利己心を『正しいもの』として正義にしてしまったのです。それに『自由』や『民主』や『経済成長』や『平和主義』という『錦の御旗』を与え,『政治的正しさ』を偽装してしまったのです。」

こういうのをマッチポンプと言う。ご自分で問い,それに「さもしい」という問いにはなかった価値判断までも加え,「(自分ではないアホな国民が)正しいものにしてしまった」と言っている。この論旨は,詐欺である。

そもそも仮定は,著者がした。この仮定を受け入れなければ,たとえば,「自己利益」という前提を外せば,別の結論になる。こういうのを,前提に結論を入れている詐術という。

決められない政治,責任を取らない云々と批判のある風潮に対して,こう言う。

「『決断をする』にせよ,『責任をとる』にせよ,これは指導者に求められる責務なのです。そして,『決断』も『責任』も,それなりの力量や先見性をもった『主体』でなければできません。『決断』はいうまでもなくまったく未知で不確定な未来へ向けてひとつの事柄を選び取ることで,そこには先見性と強い意志がなければなりませんし,『責任』の方も,選択の結果がいかなる事態を引き起こすかというある程度の因果関係の推論がなければ意味を持ちません。」

ここまでは,まあ,いい。しかし,ここからがお得意の論旨の展開である。

「こうしたことを予見できるのは,人並み外れた能力なのです。ということは,われわれは,人並み外れた力量を指導者に求めているのです。(中略)ところが他方で,われわれの理解する『民主主義』とは,『民意を反映する政治』であり,われわれの常日頃の思いや感情や不満が正字に反映されるべきだ,という。指導者とは,われわれのいうことをよく聞き,われわれの不満を代弁してそれを解消してくれるはずの者なのです。端的に言えば,民主主義のもとでの政治家とは,『庶民感覚』をもった者で,できる限り我々に近い人であるべきなのです。
こうなると矛盾は覆い隠すべくもないでしよう。われわれは,一方で,指導者に対してわれわれにはない卓越性とたぐいまれな力量を求め,他方では,指導者はわれわれとチョボチョボであるべきだといっているのです。」

こうやって,単純化して,あえて,論点を明確にするというやり方はある。しかし,この矛盾は,著者が立てた仮説に基づく。その仮説が違っていれば,話はかみ合わない。

たとえば,「無責任」で問題にしていることは,こういう抽象的なことではない。もっと具体的な,あのこと,このことである。ひとつひとつの具体的なことについて,責任を取っていない,と言っているのである。

最近の例で言えば,原子力規制委員会の田中委員長は,合格を認定したが,

「再稼働の判断には関与しない。安全だとは私は申し上げません」

と言い,菅官房長官は,

「規制委が安全性をチェック。その判断にゆだねる」

と言い,岩切薩摩川内市長は,

「国が責任を持って再稼働を判断すべき」

と言う。そして,

「もし事故が起きたら、その時の責任は?」

と質問されて,岩切薩摩川内市長は,

「これは国策だから、国が責任を取るべきだと思う」

と言う。責任とは,たとえば,この一連のなすり合いのような,具体的な言動,事案について言っている。

あるいは,メルトダウンしたフクイチは,いまだコントロールできず,全太平洋を汚染つつあるのに,

コントロールロー出来ている,

という平然とウソを言い,ウソがまことの如く頬かむりしているという,個々の具体的な言動を指している。それを一般論に置き換えて,それは,

ないものねだりだ,

ということで,無責任を容認しようとする,この論旨こそが無責任な,論旨のすりかえである。たとえば,政治も,国家→県→市町村という政治レベルのクラスを意識的にぼかし,一般論として,ひとしなみに捉えて,政治家は,

われわれの不満を代弁してそれを解消してくれるはずの者

と言い替えてしまう。まさに,巧妙かつ卑劣である。この手の論旨に満ち溢れていて,もういちいち指摘するのも辟易する。

G・ライルは,知性は,

Knowing that
だけではなく,
Knowing how

がなければだめだという。著者は,シニカルに逃げて,

Knowing how

を一切示さない。自分なりにどうするかを示さなければ,所詮知識のひけらかしか,批判への評論でしかない。自分は安全なところで,時代を享受しながら,時代をシニカルに皮肉る。知性的なふりをした,巧妙なプロパガンダ以外の何ものでもない,

社会思想

の「偽装」である。しかし,ご自分が当事者意識を持とうが持つまいが,ご自分の子息,縁者の子息は巻き込まれる。あるいは,黒澤明がこずるく兵役を免れたように,この手の人には,抜け道があるのかもしれない。でなければ,ご自分を対岸においてものを言う神経が理解不能だ。

たしか,ミルトン・エリクソンをベースにする,NLP(神経言語学的プログラミング Neuro-Linguistic Programming)には,ミルトンモデル(その反対はメタ・モデル)というのがあり,物事をあいまいに糊塗する言葉遣いというのを列挙している。たとえば,

一般化
省略
歪曲

とあるが,とくに気になるのは,省略の一種(だと思う),

遂行部の欠落(あるいは遂行主体の曖昧化)

といわれるものだ。

誰が,
誰にとって,

という主体が,対象が,意識的にぼかされる。NLPのテキストは言う,

「話し手は,自分に当てはまるルールや自分の世界モデルを,他人にも押し付けようとする時に,遂行部の欠落を使います。」

あたかも,

すべて,
みんな,

ということで,何かを手に入れようとする子どものよく使う手のように。

「みんなそうだよ」。

参考文献;
佐伯啓思『正義の偽装』(新潮新書)
G・ライル『心の概念』(みすず書房)



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2014年07月22日

知性


田坂広志『知性を磨く』を読む。

律儀なファンではないが,以前に,何冊か強い印象を懐かされた本を読んでいる。基本的に,その知性に惹かれていることが,普段は読まない「ノウハウ」チックな本書を手にした動機である。

著者は問う。

「学歴は一流,偏差値の高い有名大学の卒業。
頭脳明晰で,論理思考に優れている。
頭の回転は速く,弁もたつ。
データにも強く,本もよく読む。
しかし,残念ながら,
思考に深みがない。(中略)
端的に言えば,「高学歴」であるにもかかわらず,深い「知性」を感じさせない…,
ではなぜ,こうした不思議な人物がいるのか?」

と。著者は,

知能

知性

をこう区別する。

「知能」とは,「答の有る問い」に対して,早く正しい答えを見出す能力
「知性」とは,「答の無い問い」に対して,その問いを,問い続ける能力

と。さらに,

知識

知恵

知性

をこう整理する。

「知識」とは,「言葉で表せるもの」であり,「書物」から学べるもの
「智恵」とは,「言葉で表せないもの」であり,「経験」からしか摑めないもの
「知性」の本質は,「知識」ではなく,「智恵」である

と。そして,いまひとつ,「専門性」について,

「我々は,『高度な専門性』を持った人物を『高度な知性』を持った人物と考える傾向にある」
しかし,
「『高度な専門性』を持った人物が無数にいながら,肝心の問題が解決できない」
と。

フクイチの放射汚染はまだ続いており,太平洋全体に汚染が広がりつつある。しかし,少なくとも,汚染を止める手立てを,専門家は何一つ構築できていないどころか,めどさえ立っていない。

ふと思い出すのは,アーサー・C・クラークが言っている言葉である。

「権威ある科学者が何かが可能と言うとき,それはほとんど正しい。しかし,何かが不可能と言うとき,それは多分間違っている」

と。著者は,サンタフェ研究所で,

「この研究所には,専門家(スペシャリスト)は,もう十分いる。われわれが本当に必要としているのは,それらさまざまな分野の研究を『統合』する『スーパージェネラリスト』だ」

という発言に触発されて,これからは,

「垂直統合の知性」を持ったスーパージェネラリスト

が必要と説く。それは,

さまざまな専門分野を,その境界を超えて水平的に統合する「水平統合の知性」

ではない。その例を,アポロ13号の事故の時,NASAの主席飛行管理官を務めていたジェーン・クランツに,そのモデルを見る。そこでは,混乱し絶望的状況の中で,

「我々のミッションは,この三人の乗組員を,生きて還すことだ!」

と明確な方向性を示し,次々に発生する難問を,専門家たちの知恵を総動員して,次々とクリアし,無事に帰還させた。そして,ここに,知性のモデル(「スーパージェネラリスト」)を見つける。

「まさに『知性』とは,容易に答の見つからない問いに対して,決して諦めず,その問いを問い続ける能力のこと。」

として,「七つのレベルの思考」を提示する。

第一は,明確なビジョン
第二は,基本的な戦略
第三は,具体的な戦術
第四は,個別の「技術」
第五は, 優れた人間力
第六は,すばらしい「志」
第七は,深い思想

この字面だけを見ていると,常識的に見えるかもしれないが,たとえば,

戦略とは,「戦い」を「略(はぶ)く」こと
技術の本質は,知識ではなく,「智恵である」

というように,ひとつひとつに,著者なりの「知略」が込められている。

このすべてに僕は賛成ではないが,すくなくとも,自分なりの体験と知恵から「知性」を描き出そうとする,オリジナルな思考のプロセスがよく見える。

智恵をつかむための智恵とは,

「メタレベルの知性」

という著者の「知性」のメタ・ポジションには,深く同意するところがある。

ライルは,知性について,

Knowing how(ある事柄を遂行する仕方を知っている)

Knowing that(何かについて知っている)

に分けた。そして,こう書く。

「ある人の知識の卓越や知的欠陥を問題にしている場合においてさえも,すでに獲得し所有している真理の貯蔵量の多寡は問題ではない」

と。ただ,このKnowing howとKnowing thatは,同じクラスと考えず,クラスが別と考えると,

Knowing howについてのKnowing that

というメタレベルの「知」であることも含意していることになる。

僕は,必要なのは,智恵とか知識とか知能というレベルではなく(それがあることを前提にしないと話は進まないが),

メタ・ポジション

での思考力なのだと思う。自分の経験を智恵にすることが必要だとは思うが,著者の言うように不可欠とは思わない。むしろ,

目利き

出来るメタ化の力なのだと,感じた。

参考文献;
田坂広志『知性を磨く』(光文社新書)
G・ライル『心の概念』(みすず書房)



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2014年07月21日

さようなら


語源的には,

左様ならば(そうであるならば)

だとされる。つまり,

そうであるならば,お別れしましょう

の古形である,と。あんまり,学者の説というものにいまいち信がおけない。へそ曲がりのせいばかりではない。何度も書いているが,

さようならなくてはならぬ故,お別れします,

という一種無常観のニュアンスがある気がしてならない。だから,

そういうわけだから,

というよりは,

そういう次第なので,

そういう仕儀なので,

という文脈というか,状況に強いられて,と言うニュアンスが強く漂っている。だから,田中英光は,他の言葉に比して,悲哀,悲壮感がある,と言う言い方をした。確かに,調べると(自信はないが),

再見

Au revoir

Auf wiedersehen

は,再会というニュアンスか,

Adios(aへ+Dios神)

Goodbye(God be with you の古形の略)

Tschuss(adiosが語源)

神とともに,というものとに,二分され,あまり,哀しみのニュアンスが出てくるものはないようだ。

アンニョンヒ カセヨ

は,気をつけてお帰りくださいというニュアンスだから,この系譜に入るかもしれない。

さようならば,お別れします,

はやはりちょっと特殊と言えるだろう。

しかし考えようによっては,二人か三人かは別にして,その場とその時間を共有したもの同士でしか伝えようのない,ニュアンスが,そこにあると言えば言える。誰に対しても,と言うのではない,

一緒に過ごしてきましたが,そういうわけなので,お別れしなくてはなりません,

なのか,

一緒に時間を共にしてきましたが,かくなるうえは,お別れしなくてはなりません,

なのかはわからないが,別れが,主体的な事由によるのではない,不可抗力な何かによって,もたらされたというニュアンスが付きまとう。

もちろん,二人だけにわかる理由があって,

かくかくの次第ですので,お別れします,

でもいいが,別れたくて別れるなら,そういう言い方はしないような気がする。

もうご一緒にはいたくないので,お別れします,

というよりは,

もうご一緒にはいられませんので,お別れします,

のほうが近いようなきがする。

しかし,われわれは,自分がそうしたいときでも,何か別の理由があるような言い回しをすることが多い。そう見れば,

そういう次第なので,

という前ふりは,なんとなく,本心を糊塗する色がなくもない。

ご免なさい

より,

すいません,

と逃げるように,

別れたい,

より,

別れなくてはなりません,

という言い方を好むのではあるまいか。

よんどころない事情で,

とか,

諸般の事情で,

という言い方をして,主意を薄める。それは,責任をあいまいにする,という色合いがある。

言葉を濁す,

誰が,という主語をごまかす,

等々,われわれ自身が,ごまかしている精神構造そのものに行き着く気がするのは,おおげさだろうか。

その意味で,

さようなら,

には,日本語特有の曖昧に,墨色に流していくニュアンスがなくはない。別れに当たってすら,そんな糊塗がいるのか,と思わないでもない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
田中英光『さようなら』(現代社)



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2014年07月20日

仕儀


辞書を調べると,

ことの次第,
ことのなりゆき

とある。語源を調べようとしたが,持っているものでは載っていない。で,大槻 文彦編『新訂大言海 』を繰ると,

旨義
あるいは
時宜

の転か,とある。

旨義は,文章などで表現されているものの,おもむき,意味,とある。

時宜は,ときの宜しきにしたがうこと,程よき頃,とある。

そのとき

を少し長くすると,

過程

ということになり,

次第,

成り行き,

顛末,

経緯,

首尾,

結末,

とほぼ重なってくる。

仕儀の「仕」は,

つかえる

意味であり,「儀」は,

のり,手本となるべき基準,作法,

という意味だ。とすると,たんなる成り行きではない。かくあるべき流れに従って,矩につかえる,といった意味になる。

そう考えると,丸めると,次第とも顛末とも変わりなくなるが,あるレベルを維持して,かくなったという意味になる。

しかも,ものによっては,仕儀には,ただ,ニュートラルな成り行きではなく,

特に,思わしくない結果・事態,

を指すともある。

そう考えると,

左様なる次第にて,おわかれします,



左様なる仕儀にて,おわかれします,

とでは,お互いのそれまでの経緯が,まったくニュアンスが変わる。格式ばっているというようなことではない。

両者の関係が,ニュートラルな,あるいは友好的とは限らず,

かような事態になり,

かかる仕儀になり,

と,どこか詫びるニュアンスが出てくる。そこに,基準においているのが,

両者の期待値なのか,

世の中の求める規準なのか,

は別として,それから外れている,というニュアンスが出る。だから,

野辺の送りもでき兼ねる仕儀と相成り,

といった用例につながっていく。

いやはや,かかる仕儀にて,かようなる結末と相成り,面目次第もござりませぬ。

参考文献;
大槻 文彦編『新訂大言海 』(冨山房)




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2014年07月19日

九条


松竹伸幸『憲法九条の軍事戦略』を読む。

昨年刊行されたものだ。もはや時機を失したか,と悔いつつ,失いつつあるものの大きさに思い至る。

はじめにで,著者はこう書く。

「九条と軍事力の関係が相容れないという点では,護憲派と改憲派は共通している…。だが私は,この既成事実に挑戦することにした。護憲派にも軍事戦略が必要であると考えるにいたった。」

と。その意味では,本書の主張は,堂々の議論と,国民全体のコンセンサスを経るという,改憲プロセスを念頭に置いての論旨というふうに考えられる。しかし,議論も討議もないまま,泥棒猫のようにこそこそと既成事実を積み重ねて,実質改憲を果たし,集団的自衛権の行使を可能とし,武器輸出三原則を放棄し,あろうことか,イスラエルと共同開発まで踏み込むとは,著者の予想を超えている。

おそらく,今後,いままでの対米従属の政治路線からは,アメリカの戦争に従属従軍し,いまそうであるように,イスラエル側に加担し,アラブを敵に回すことになるだろう。ついこの間,3.11のために祈ってくれたガザの子供たちのことは報じられないまま,その子供たちが戦車に蹂躙されているのを,黙認している日本政府の行動は,世界に,日本のポジションを明確に語っている。

では,われわれは,一体何を喪おうとしているのだろうか。

九条のもと,専守防衛を旨としたきたが,それは,

「専守防衛とは相手からの武力攻撃を受けたときに初めて防衛力を行使し,その防衛力行使の態様も自衛のための必要最小限度にとどめ,また保持する防衛力も自衛のための必要最小限度のものに限るなど,憲法の精神にのっとった受動的な防衛戦略をいう…」(大村防衛庁長官 参議院予算委員会 81.3.19)

つまり,

日本側が反撃を開始するのは相手から武力攻撃を受けたときであり,
その反撃の態様は,自衛のための必要最小限度の範囲にとどめ,
その反撃をする装備も自衛のための必要最小限度

というものである。これに合わせて,自衛権発動の三要件というのがある。

「憲法第九条のもとにおいて許容されている自衛権の発動については,政府は,従来からいわゆる自衛権発動の三要件(我が国に対する急迫不正の侵害があること,この場合に他に適当な手段のないこと及び必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと)に該当する場合に限られると解している」(参議院決算委員会提出資料 72.10.14)

「他に適当な手段がない場合」を除くと,専守防衛の要件と重なっている。この趣旨は,

「外交交渉とか経済制裁などで相手国の侵略をやめさせることができるならそうすべきであって,武力で自衛するのはそういう手段ではダメな場合に限る」

という意味である。

こういう専守防衛の考え方を,

九条にしばられている

故,と考えるのは,的外れである,と著者は言う。

「そもそも自衛権という概念は,憲法九条で発生したわけではない。武力行使を禁止する国際法が発展するなかで,その例外措置のようなかたちで生まれたものである。武力行使は違法だが,自衛の場合は違法性が阻却されるという考え方である。」

それは,アメリカ独立戦争時を嚆矢とし,当時のアメリカのウェブスター国務長官のイギリス側への書簡がある。

「英国政府としては,差し迫って圧倒的な自衛の必要があり,手段の選択の余地がなく熟考の時間もなかったことを示す必要があろう。加えて,…非合理的もしくは行き過ぎたことは一切行っていないことを示す必要があろう。自衛の必要によって正当化される行為は,かかる必要性によって限界づけられ,明白にその範囲内のものでなければならない…」

これは今では「慣習法として定着したといわれている」として,著者は,

「国際法上の自衛権とは,憲法九条のもとにおける自衛権の三要件とほぼ同じなのである。日本は憲法九条があるから自衛権さえ制約されているというひとがいるが,自衛権発動の要件は,日本も外国も変わらないのだ。」

と言う。この慣習法とは別に,国連憲章第五十一条が,自衛権発動について,

第一,各国が自衛権を発動できるのは,(国連安保理が)必要な措置を取るまでの間に限定されること
第二,各国が自衛措置を取った場合,安保理に報告しなければならないこと
第三,自衛権が発動できるのは,武力攻撃が発生した場合に限定したこと

の三つの制限を設けている。第三項は,英語だと,現在完了形ではなく,現在形である。つまり,

「自衛権の要件を厳守することは,九条のある日本だけの制約ではない」

ということを,著者は強調する。

そして,むしろ,いままでの日本の姿勢が,世界的には武器になってきたのだと,次の二点を象徴として挙げる。

第一は,武器輸出三原則
第二は,集団的自衛権行使の制約

武器輸出は,かなり緩和されてはきたが,それが功を奏したのは,

国連軍備登録制度

制定である。

「その資格を持った国がひとつ存在した。武器を輸出してこなかった日本である。日本はこの制度を創設するために,『軍備の透明性』と題する国連総会決議の案をもって各国を説得し,調整し,最終的に決議の採択にまで持ち込んだのである。」

これが果たせたのは,武器輸出三原則があったからである。武器規制に関しては,

世界的に注目されている

のは,もはや過去のことだ。三原則は,

防衛装備移転三原則

に変え,武器見本市に初参加し,防衛副大臣が,ライフルを構えていた写真が配信された。もはや,政府は武器商人の露払いになっている。

いまひとつは,言うまでもなく,集団的自衛権である。日本が海外で殺傷行為をしていないというイメージは,世界的には確立していた。そのことではたせる役割はあったし,ある。しかし,もはや,その意味で,「普通の国」と成り果てた。これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/401642428.html

で触れたので繰り返さない。

このつけは,集団的自衛権を行使した瞬間,日本が攻撃の対象となる,ということを意味する。それは,対アラブならば,日本国内のどこかが無差別テロの標的になる,ということにほかならない。

まだ間に合うのかどうかは,もはや微妙であるが,本書の掲げた「九条をバックとした軍事戦略」は,実質的に,不可能になりつつあることだけは確かである。

参考文献;
松竹伸幸『憲法九条の軍事戦略』(平凡社新書)



今日のアイデア;
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2014年07月18日

趣味


一般には,

趣き(おもむき)+味(あじ)

で,

おもしろみ,

興味をそそられてするもの,

を意味する。そして,tasteあるいはhobbyの役として使われる,と。で,ウィキペディアでは,二つの意味を挙げている。

@人間が自由時間(生理的必要時間と労働時間を除いた時間、余暇)に,好んで習慣的に繰り返しおこなう行為、事柄やその対象のこと。道楽ないしホビー(英: hobby)。
A物の持つ味わい・おもむき(情趣)を指し、それを観賞しうる能力(美しいものや面白いものについての好みや嗜好)のこと(英: taste)。調度品など品物を選定する場合の美意識や審美眼などに対して「趣味がよい/わるい」などと評価する時の趣味はこちらの意味である。

そこから,ひとつは,対象の状態というか,

感興を誘う状態。あじわい。おもむき

であり,他方で,それを受け止める主体側の状態というか,

ものごとの味わいを感じ取る力,美的な感覚,

を指すことになる。因みに,興味は,

興(おもしろい)+味(あじわい)

であるが,それが,玄人であるか素人であるかというと,素人の好み,という側面ということになる。それをひけらかせば,

衒学,

気取り,

ということになる。あるいは,

好事,物好き,酔狂,数寄,道楽,風雅,風流,

と並べていくと,ちょっと印象が変わる。そもそも,



という字は,

向かうところを定めて疾く行く,走る,

で,本義は,時間をちぢめてせかせかといくこと,らしく,

味わいに赴く,と解すると,なかなか味わい深い。

その意味で,

情趣,風趣,興趣,妙趣,趣向,詩趣,野趣,雅趣,玄趣,意趣,深趣,幽趣,旧趣,筆趣,新趣

と,どうも素人というニュアンスから遠ざかる。

思うに,仕事と対比して,趣味を語るから,意味がねじれるのではないか。趣味は,仕事とは別次元の話なのではないか。という言い方だとおかしいか…,趣味と仕事は対比するものではない,という感じなのだ。(先の定義のように,余暇の時間=自由時間という固定観念に縛られているのではないか,自由は時間枠ではない)

興味は,

興(おもしろい)+味(あじわい)

で,ものごとに関心を向ける,とある。

味は,本来は,口で微細に吟味すること,であるようだが,それが直截性から抽象度が上がれば,

ものの味の感覚,

から,

こころに感ずる味わい,

へ変ずるのもよくわかる。仕事のモードとは別の次元,というと語弊がある。そうではない,

仕事に味わいを感趣するかどうか,という,

感覚

の鋭さの問題なのかもしれない。

楽しみて淫せず,哀しみて傷(やぶら)ず

と。ここまでいくと,品格の問題さえ含む。

ある意味,仕事に淫するを,よしとする風潮がありはないか。淫するとは,

(色事,邪悪なこと,邪道)に深入りする,度を越えてのめり込む,ひたる,

というニュアンスが色濃い。いわば,トンネルビジョンに陥っていることを指す。

楽は,

木の上に繭のかかったさまをえがいたもので,山繭が繭をつくる檪(くぬぎ)のこと,

らしい。そのガクの音を借りて,謔(おかしくしゃべる),嗾(のびのびとうそぶく)などの語の仲間に当てたのが音楽の楽。音楽で楽しむという,その意味から派生したのが快楽の楽という。だから,楽しむには,

淫する,

よりも軽やかなのではないか。その意味がなくては,

これを知る者はこれを好む者に如かず,これを好む者はこれを楽しむ者に如かず

は通じない。だから思うのだが,

仕事の息抜きに趣味

というのは,仕事の仕方としては,どこか偏りがある。昔,冗談で,

仕事が趣味

と言っていたが,そういう軽やかな仕事の仕方がいいのではないか。そのほうが,トンネルビジョンに落ち込まないだろう。

これはまた別途考える必要がある。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)




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2014年07月17日


約束というのは,

括り束ねること
ある物事について将来にわたって取り決めること,約定
種々の取り決め
かねてから定まっている運命,約束事

といった意味がある。日葡事典は,

ヤクソクヲトグル
ヤクソクヲタガユ

という用例があるらしいので,戦国期には使われていたらしい。

これを守るかどうかは,たぶん,その人のコアの倫理観を反映している気がする。あまり迂闊に言うと,お前だって,と突っ込まれそうだが,いったん約束したことは(軽々に約束しがちなところがあるにしろ),何とか守ろうとする。昔,僕自身が切羽詰っていたのに,ある人に頼まれて先輩に御願い事をしていたとき,お前は人の世話を焼いている場合か,と呆れられたことがある。小心ということもある。律儀ということもあるが,その辺りは,その人の価値に拠って立つところがおおきいのだろう。しかし,「約」という字には,ちょっと悩まされているところがある。

『論語』に,何度かこの字が出る。

子曰く,不仁者は以て久しく約に処(お)るべからず,以て長く楽しきに処るべからず,仁者は仁に安んじ,知者は仁を利す(里仁篇)

の「約」は,逆境とか苦境,といった意味だ。しかし,

子曰く,約を以て失(あやま)つものは鮮(すく)なし(里仁篇)

でいう「約」は,節度とか控え目,といった意味だ。古注では,驕者への戒め,新注では,広く人全般の行動を指すが,意味は同じだ。あるいは,

子曰く,君子博く文を学びて,これを約するに礼を以てすれば,亦以て畔(そむ)かざるべし(雍也篇)

でいう「約」は,しめくくる,束ねる,集約するといった意味になる。

同じ「約」でも意味が違う。

ためしに,漢和辞典をひくと,意味としては,

つづめる,つつましい,あらまし,

といった意味になる。おおよそ,

@やくす,一点に向かって引き締める,小さく細くつづめるで,類語に,「束」(たばねて締める)が来る。
Aやくす,つづめる,細く小さく締めてまとめる,簡略にする
Bやくす,紐や帯を引き締めて結び目をつくり,それ見決めたことを思出し,目印とする,またその目印,取決め
約束は,その結び目の目印を指し,そこから転じて,取決めとなる
Cやくす,つつましい,つましく引き締める
Dあらまし
Eやくす,二つ以上の数を共通に割る

といった意味になる。



は,一部をくみ上げるさまを表し,

杓(ひしゃく)

酌(くみあげる)

の原字。約は,

糸+勺

で,

目立つように取り上げる

意味で,

ひもを引き締めて結び,目立つようにした目印

を意味する,とある。

要(ひきしめる)

腰(細く日は締めた腰)

と同系という。

考えてみれば,象形文字には,表意がある。

ひもをつぼめる

を広げていけば,確かに,倹約になるし,目印にもなるし,集約にもなる。その意味も広がりは,文脈が変われば,また変じ,時代に合わせて,重みもなくなっているのかもしれない。

約を以て失(あやま)つものは鮮(すく)なし

を,勝手読みすれば,

節約するもの
であったり,
要約するもの
であったり,
束ねる

であったりとても,意味は通ずる。考えようによると,漢字は,汎用性が高い。高い分,いかようにも丸められる。その分意味が広がり,解釈が多様になる。面白いと言えば面白いが…!

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)




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2014年07月16日


宇佐美文理『中国絵画入門』をよむ。

よく考えると,例えば,山水画,水墨画,というように,結構中国絵画の影響を受けているのに, 中国絵画について,ほとんど知らないことに気づく。

著者は,

気と形を主題にした中国絵画史

というイメージで本書を書いたと説明する。そして,

中国絵画について何かを知りたいと思われた方,そこで知りたいと思うことはなんなのか。それを知ることがなければ読んだ意味がないと思うことは何なのか。

それをまず書くという。

中国絵画の流れを何か一本スジを通して記述できないか,

という問題意識で俎上に上ったのが,



である。では,気とは,何か。

最初は,孫悟空の觔斗雲のような形

で表現されていた(後漢時代の石堂の祠堂のレリーフにある),霊妙な気を発する存在としての西王母の肩から湧くように表現されていた気が,

逆境にもめげず高潔を保つ精神性を古木と竹で表現した(金の王庭筠の「幽竹枯槎図」の),

われわれが精神や心と呼んでいるものも,

気の働きと考えるようになり,そういう

画家の精神性が表現されたということは,画家のもっている気が表現された,あるいは形象化された,

という気まで,いずれも,気を表現したと見なす。

簡単に言えば,中国絵画における気の表現は,気を直接形象化した表現から,実物の形象を使いつつ気を表現するという

ところまで変換していく。そこから,

どのようにすれば気そのものを形象化することなく,気を表現できるか,という問題が,常に中国絵画の中心課題として存在していた,

と著者は見る。この転換点になったのは,(「帝王図鑑」の)


気韻生動

と言われる,

(皇帝を描いた場合)皇帝が,皇帝たる風格(精神性も含めて)を感じさせるものでなければならない。それが人物画の肝要な点だと考えられた

ところだという。つまり,

絵画にとって重要なことは,形を写し取ることではなく,形を超えたもの,人物画では気韻あるいは人物の精神性であると考えたのである。

それは,たとえば,静物では,(李迪「紅白芙蓉図」)の,

芙蓉の気,それは,読者の方がこの絵を見て感じる,その匂い立つ美しさそのものが芙蓉の気なのである。

と著者は言う。

ともかくこの絵から感じとられたこと,それがまさにこの絵のもっている気にほかならない,

ということが重要なのだと言う。

その気には,いまひとつ,

筆墨の気

がある。いわゆる,

筆気

である。これは,

筆意ともよばれ,線の流れに作者の心の流れを読み取ろうという発想である

という。気の表現は,

直截的形象化,描かれた対象のもつ気の表現,作者自身の気の表現,線のもつ気,墨の気など,

様々な形を使ってなされてきたが,この,

形をもたない気が形をとって現れること

を,

気象,

と呼ぶ。これが,

中国芸術全般を支配する思想

といっていい,と著者は断言する。気は,

万事万物を構成する「もと」

であり,物質はもとより,

我々の「精神」も気のはたらき

であり,陰陽の気の交代が昼と夜であり,

世界のすべては気を原理として生成変化し,……気でできた世界は形をめざして動いている。簡単に言うと,世界とは造形力そのものなのだ。

しかし,と著者は言う。気が画家自身の気の表現であるとしても,

画家がもっている気がそのまま画面の形象になるという気の思想だけですべては片づかない。いかめしい顔をしていても心は優しいというのはきわよめてよくある話である。

で,著者は,

外見と内面が一致しないとする発想を,「箱モデル」と呼ぶ。箱の外見からは箱の中身が分からないからである。対して,気象の発想によるものを「角砂糖モデル」と呼ぶ。角砂糖全体は中心部分も含めてその性質は同じである…から,外見と中身は一致し,中身は外見から推知できるのである。

後者のそれが,

作者の持っている気がそのまま作品に現れるもので,それは生得のものだ,

という考え方に通じ,人格主義につながる。

中国の芸術は,しばしば作品ではなく,作者によって価値を判断する。…絵が上手いとか下手とかという問題をわきにおいて,絵を描いた人物自体の価値を基準としようとする,

考えへとつながり,さらに,蘇東坡の,

形が似ているかどうかで絵を論じてはいけない

につながる。形をこえたものを求める形象無視の頂点に来たのは,

文人画

である。

絵画も文人が描けば芸術だが,画工が描けばそうではない,

というように。その頂点に,

牧谿

がくる。牧谿は光の画家と言われるが,それは,レンブラントの,光と影とは全く違う。

牧谿のひかりは,…「気そのものが輝いている」光である。光が三次元空間に充満している。我々の言葉で言う「空気」が光っているのである。それが照らされた光ではない,

から影がない。ここにあるのは,

透徹した精神性

である。それは,

絵画がまるで言葉によって語りかけ,それに絵を見ている人間がこたえているようなもの,

である,と著者は言う。

書もそうだが,作者の精神性というものが,最後に,作品を凌駕する。

個々の作品ではない,

らしいのである。

数千年を,一冊で読み切るのは無理には違いないが,読み終えて,そこかしこで,老荘,孔孟の気配を感じた気がしたのは,錯覚だろうか。

参考文献;
宇佐美文理『中国絵画入門』(岩波新書)



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2014年07月15日

面倒


最近,何事もめんどくさがるようになった。えっ,面倒って?ということで調べると,

語源的には,四説ある。

@目+ドウナ(だるい)の変化。見るのも大儀な,の意。
Aメドウ(目遠)の撥音便化で,見にくいの意。
B見たくもないの意の「面伏せ」を漢字に訳し,「面倒」として音読した。
C目+ダウ(無益)で,見るのも無駄の意。

どうもこれといって確定していないようだが,見苦しい,くどくてうるさいの意,から転じて,するのが煩わしい,厄介,世話がかかるの意味になったようだ。

面倒臭い,

は,口語的表現。

めんどくさい,

とも略される。億劫,大儀も同義だが,

億劫

は,中国語では,「億劫(おっこう)」=長い時間の意味。仏教用語。

「劫」は,サンスクリット語の音写で,古代インドで,最長の時間単位。「一劫」の長さは,百年に一度天女が高い岩山に舞い降りて頂上を撫で,その摩擦で岩山が消滅するまでの時間,だという。

その一劫の一億倍が,億劫。

きわめて長い時間。まあ,永遠と言ってもいい。そこから,長い時間がかかってやりきれない,から転じて,

おっくう

となった。

大儀は,

重大な儀式

からきて,転じて,

費用が多くかかる,
骨が折れて厄介だ,
面倒で億劫だ,

と意味が変化した,とされる。そこから転じて,

他人の労をねぎらうときに用い,ご苦労,

の意でも使う。

意味を丸めれば,確かに同義になるが,どうも,ちょっと違う。

面倒,

というのは,何しろ,煩を厭う,というか,手間を取ったり,手数を掛けるのを厭う,意味に見える。しかし,

億劫,

というのは,それをするために取られる時間の長さが予想されて,気が乗らない,という感じに見える。で,

大儀,

は,儀が,手本とか,規準とか作法の意味だから,とかく形式ばるというか格式ばって,大仰で,大袈裟で,気が重い,というニュアンスに見える。

だから,

めんどうがる,

のは,ただの怠けに聞こえ,

おっくうがる,

のは,手間を考えて,気が乗らなさに見え,

たいぎがる,

のは,辟易する感じに聞こえる。

元の意味は微妙に違ったのだろうが,日々使ううちに,違いの棘が,すり減って,違いを丸めていく,そういうものなのだろう。

しかし,歳と共に面倒になるのは,

生きること自体

が厄介で大変になるからに違いない。

よっこらしょ,

どっこいしょ,

といわないと,いちいち体が言うことをきかない。これは,いわゆる,

面倒

というのとはちょっと違うのかもしれない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)


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2014年07月14日

店仕舞い


店仕舞いというのは,開店というか,店を張るよりもはるかに難しいと思う。店仕舞いは,例えば,僕には経験はないが,定年退職とは違う。転職の退職とも違う,と思う。後始末ということではないのだ。

そのことについては,し残したことについて,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/392762774.html

で触れた。しかし,これとも少し違う。

昔コーヒーショップをやっていた時,居抜きで買ってくれる物好きがいたおかげで,投資分は返ってこないまでも,かろうじて赤字にならないで,店を閉めた。その店仕舞いでも,なじみ客との関係は,けりのつけようのないものがある。

まして二十年以上も店を張っていると,はいさようならとはいかない,という面はある。たとえば,スケジュールは,再来年まで決まっていく,とすると,一年半以上前までに決めなくてはならないという面がある。

しかしここで言いたいのは,それでもない。ここで店仕舞いするというのは,

どう見切るか,

ということだ。昔,知り合いの講師が,客先で仕事中倒れて,そのまま帰らぬ人になったと聞いたことがある。そうならないところでどう見切りをつけるか,である。

自分の出来る,やりたいという思いを,どこでなだめ,断念させるか,ということだ。

単に健康のことだけを言っているのではない。



というのは,語源は,「見せ」。ミセともタナ(棚)とも言う。「广(ゲン,家)」に「占」(テン,ものを置く)が中国語源。

しかし,仕舞うは,確かに,「シマウ」で,片づける,収納する,の意だが,

仕舞

は,素(装束をつけない)+舞

なのだという。つまり,

仮面や衣装なしの舞い,

ということになる。いやいや,なかなか意味深である。



とは,「しろ」であり「もと」であり,「はじめ」である。意味としては,

撚糸にする前の基の繊維,蚕から引き出した絹の原糸

とか,

模様や染色を加えない生地のままの,白い布

等々,下地とか地のままとか生地とか元素といった意味合いが強い。

横道にそれるようだが,それで思い出した,大塩平八郎,いわゆる大塩中斎は,諱を後素と言った。これは,『論語』の,

絵の事は素(しろ)きを後にす,

から来ているという。このとき,この孔子の言葉を受けて,子夏が,

礼は後なるか,

と言い,孔子に,

始めて与(とも)に詩を言うべし,

と褒められた,とある。古注では,

絵とは文(あや),つまり模様を刺繍することで,すべて五彩の色糸をぬいとりした最後にその色の境に白糸で縁取ると,五彩の模様がはっきりと浮き出す,

と解すると,貝塚茂樹注にはある。しかし新注では,

絵の事は素(しろ)より後にす,

と読み,絵は白い素地の上に様々の絵の具で彩色する,そのように人間生活も生来の美質の上に礼等の教養を加えることによって完成する,と解する。どちらが正しいかは知らないが,朱熹の注釈は少しお為ごかしに過ぎる気がする。

しかし大塩の諱の由来は,新注によった,とみられるらしい。

ま,読みの是非はともかく,新注では,素地,というものに教養で上塗りする,その上塗りの仕上げ次第というように読める。あるいは,古注でも,仕舞いの仕方,というか仕上げが重要,ということになる。しかし,

素舞

の「素」というのは,その仕上げた「素」をいうのか,生地の「素」を言うのだろうか。

上塗りの最たるものは,社会的役割だ。

人は,社会的役割を降りても,おのれをやめるわけにはいかない。いつ,衣装と仮面を脱ぐか,というふうに考えると,この問いに焦点が当たる。

おのれの人生の舞台,

を降りることはないが,役割は降りる。そこで「素」が,結局問われる。。

社会的役割については,前にも触れた気がするが,

社会的役割は,もっぱら他者の期待にもとづく意味でも,もっぱら自己の認定に基づく意味でもなく,両者の相互作用の結果として多かれ少なかれ共有される,

したがって,

主体は,他者との相互作用において,自己にとっての意味に応じて他者に役割を割り当て,その役割と相即的に対応する自己の役割を獲得する,つまり,相互作用は,すべて役割関係なのである,

という。ぶっちゃけて言えば,

お互いが関係する中でしか役割は生まれない。つまり,役割を降りるとは,

お互いの作り出していた関係

から離脱するということだ。

結局,上塗りしたメッキの剥げた

素地

というか,化粧ののらなかった

地肌

というか,後は,その素で舞うほかはない。最後は,おのが素地次第,と言えなくもない。

しかし,思うに,素地は,昔のままの素地であるはずはない。化粧やけ,というか,白粉やけで,素地自体が変色しているかもしれない。仮面も長くかぶりつづければ,痕がつく。そのことに気づいていないかも知れない。

だから,(おのれを)見損なう。

結局,その意味も含めて,仕舞いでしかないのだろう。


参考文献;
栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
宮城公子『大塩平八郎』(ぺりかん社)




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2014年07月13日

クーデター


半田滋『日本は戦争をするのか』を読む。

解釈改憲をはじめとする現政権の進めている憲法空洞化は,

クーデターである,

そう本書は断罪する。

本書は,

安倍政権が憲法九条を空文化して「戦争ができる国づくり」を進める様子を具体的に分析している。法律の素人を集めて懇談会を立ち上げ,提出される報告書をもとに内閣が憲法解釈を変えるという「立憲主義の破壊」もわかりやすく解説した。

と「はじめに」に書くように,解釈改憲が閣議決定される前までの,安倍政権の言動を,つぶさに分析している。

はじめに憲法空洞化ありきだから,理屈と膏薬は,どこにでもつく。ほとんど,ウソと屁理屈で,本当は理由などいらないのだろう。

集団的自衛権の行使容認に踏み切ること自体に目的があり,踏み切る理由はどうでもよい…,

と言わしめる所以である。空念仏のように,「我が国を取り巻く安全保障環境が一層悪化している」と言いつつ,それを緩和するための政治家として為すべき外交努力を一切しないのも,その伝なのだろう。

だから著者は,こう言う。

なぜ,事実をねじまげるのだろうか。憲法を変えさえすれば日本はよくなるという半ば信仰に似た思い込みがあるのだろうか。

近隣諸国との緊張を高めてナショナリズムをあおり続ける背景には「占領期に米国から押し付けられた日本国憲法を否定し,自主憲法を制定する」との強い意思を示す狙いがあるのだろう。

と。しかし,その自民党憲法改正草案は,

驚くべき内容である。現行憲法の特徴である「国民の権利や自由を守るための国家や為政者を縛るための憲法」は,「国民を縛るための国家や為政者のための憲法」に主客転倒している。近代憲法の本質が権力者が暴走しないように縛る「立憲主義」をとっているのに対し,自民党草案は権力者の側から国民を縛る逆転の論理に貫かれている。

そういう時代錯誤の為政者を生んだのが,国民だとすると,国民の中にある,ドストエフスキーのいう「大審問官」を求める,そう水戸黄門の印籠を求める心性が反映している,としかいいようはない。そう考えると,絶望感に駆られる。

しかし,そういう改憲手続きの手間さえ,安倍政権は省こうとしている。つまり,現内閣の閣議決定による,

解釈改憲

である。そのための道筋は,

@安保法制懇からの報告書を受け取る
A報告書を受けて,あらたな憲法解釈を打ち出し,閣議決定する。
Bその解釈にもとづき,自衛隊法を改正したり,必要な新法を制定したりする

で,すでにAまで経た。ここには,国民は不在であり,議会も全く不在である。そして,ロードマップを兼ねる国家安全保障法の制定を目指す。

武器の輸出の緩和
武器輸出三原則の見直し,
秘密保護法
教育基本法の改正

こうして,実質憲法は骨抜きにされていく。ついには,徴兵制を口にされるところまで来ている。自民党憲法草案の現実化である。

国会論議を経ないで閣議決定だけで憲法の読み方を変えてよいとする首相の考え方は,行政府である内閣の権限を万能であるかのように解釈する一方,立法府である国会の存在を無視するのに等しい。憲法が定めた三権分立の原則に反している。(中略)
首相の政策実現のためには,これまでの憲法解釈ではクロだったものを,シロと言い替える必要がある。歴代の自民党政権の憲法解釈を否定し,独自のトンデモ解釈を閣議決定する行為は立憲主義の否定であり,法治国家の放棄宣言に等しい,

為政者が「法の支配」を無視して,やりたい放題にやるのだとすれば,その国はもはや「法治国家」ではない。「人治国家」(ありていに言えば独裁国家であるのだ=引用者)ということになる。ならず者が街を支配して,「俺が法律だ」と言い放っているのと何ら変わらない。

「人治国家」とは,ありていに言えば独裁国家であるのだ(そのせいか,中韓とは敵対しつつ,妙に独裁国家・北朝鮮とはパイプが強まっている,ように見えるのは,勘ぐりすぎか?),そして,著者は,

首相のクーデター

と呼ぶほかはない,と言い切る。麻生の言う,

ナチのやり口をまねる,

まさにそのままである。それが,たんなる糊塗やごまかしではなく,確信犯であるのは,安倍氏の発言からも見て取れる。

安倍氏は,国会答弁でこう言い切った。

「最高の責任者は私です。政府答弁に私が責任を持って,その上で私たちは選挙で国民の審判を受けるんですよ。」

著者は,こう解説する。

意味するところは,「国会で憲法解釈を示すのは内閣法制局長官ではなく,首相である私だ。自民党が選挙で勝てば,その憲法解釈は受け入れられたことになる」ということだろう。

と。選挙で大勝し,内閣支持率が高い,

思い通りにやって,何がわるい,

ということなのだろう。そして,憲法とは何かの質問に対して,

(憲法が)国家権力を縛るものだ,という考え方は絶対掌王権時代の主流な考え方
憲法は日本という国の形,理想と未来をかたるもの

と述べた。ここには,

国民の権利

自由の保障

もない。この延長線上に,自民党の憲法草案がある。

憲法を普通の政策と同じように捉えている
立憲主義の考え方が分かっていない

といっても,たぶん聞く耳というか,そういう考え方は視野にないだろう。まして,国民の自由などは。

さて,安倍氏がただひたすら求めている集団的自衛権は,何をもたらすのだろう。

僕の理解では,集団的自衛権とは,

他の国家(アメリカを想定していい)が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国(日本である)が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利である。

その本質は,

直接に攻撃を受けている他国を援助し,これと共同で武力攻撃に対処する

ところにある。なお,

第三国が集団的自衛権を行使するには,宣戦布告を行い中立国の地位を捨てる必要があり,宣戦布告を行わないまま集団的自衛権を行使することは,戦時国際法上の中立義務違反になる。

そして,著者は言う。

集団的自衛権は東西冷戦のゆりかごの中で成長した。驚くべきことに第二次世界大戦後に起きた戦争の多くは,集団的自衛権行使を大義名分にしている。

ベトナム戦争は,南ベトナム政府からの要請があったとして,集団的自衛権行使を理由に参戦した。

このときの集団的自衛権行使の仕方には,

アメリカのように攻撃を受けた外国(南ベトナム)を支援するケース

韓国のように,参戦した同盟国・友好国を支援するケース

の二つがある。そして,著者は言う。

集団的自衛権を行使して戦争に介入した国々は,「勝利」していない

と。

自国が攻撃を受けているわけでもないのに自ら戦争に飛び込む集団的自衛権の行使は,きわめて高度な政治判断である。一方,大国から攻撃を受ける相手国にとっての敗北は政治体制の転換を意味するから文字通り,命懸けで応戦する。大義なき戦いに駆り出された兵士と大国の侵略から時刻を守る兵士との士気の違いは明らかだろう。

こういう説明のないまま,集団的自衛権行使を,内閣の閣議決定のみで,事実上,

憲法九条

の解釈を変えて,改憲した。集団的自衛権の必要性を説明するために政府の挙げた事例は,個別自衛権,つまり,現状のままで対応可能なのに,である。その説明もない。

しかし,ほとんどその境界線をあいまいのまま,対外的な国際公約としてようしている。

この違いを分かりやすく解説しているのは,

http://www.asahi.com/articles/DA3S11221914.html

である。あいまいのまま,いかにも,自衛の延長戦上に,集団的自衛権があるように思わせたいのであろう。

手続き上と言い,
国民への説明の内容と言い,

ほとんど詐欺同然,泥棒猫の仕業である。

しかし,いままで,アメリカの

ブーツ・オン・ザ・グラウンド(陸上自衛隊を派遣せよ)

の要請を,歴代政権が,九条を楯に拒んできたが,もはや,後方支援ではなく,前線に,戦闘力として参加ができる。つまり,アメリカ兵に代わって,あるいは一緒に血を流してくれる。アメリカ政府が歓迎するわけである。

そしてたぶん,日本が独自に集団的自衛権を行使することはない。恐らく。ほとんどアメリカの集団的自衛権行使に参加することになる。しかもアメリカの(そしてイスラエルの)同盟軍として。それは,アラブを敵にするということになる蓋然性が高い。同時に,それは,スペインやイギリスで起きた無差別テロの標的にもなるだろうリスクをはらんでいる。その言の説明は一切ない。突然,銀座で自爆テロが起きるかもしれない。

ここまですることは,誰かの利益になるからするのであろうと推測はつく。現政権がそのお先棒をかついているのだとして,われわれ国民にとっての利益でないことだけは確かである。

参考文献;
半田滋『日本は戦争をするのか』(岩波新書)



今日のアイデア;
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2014年07月12日

ご免


天下御免の向う傷,

と言ってピンとくる人は,ほぼ同年代といっていい。しかし,この場合の,

御免



ごめんなさいの

ご免

が同義とは到底信じがたい。語源的には,

御+免

で,

免ずる(免許,免職)の尊敬語

とある。「お許しを」の尊敬語となる。しかし,語義は,

@免許の尊敬語。お上のおゆるし。「天下御免」はそれ。
A免官・免職の尊敬語。お役御免。
B容赦・朱免の尊敬語。転じて,謝罪(ごめんなさい),訪問(ごめんください),辞去(ごめん蒙る)
C希望しないこと,嫌なこと。何々は御免だ。

と微妙に違う。

思うに,本来は,対手に対して,

許可

をもらうということであったはずが,その尊敬語としてのニュアンスが,立場の上下関係に転じて,というか,あるいは,へりくだって,

お許しをいただけますか

と言うニュアンスに転じたといっていい。

だから,本来は,

免じていただけますか,

という風韻,というか味わいだったような気がする。

それが,文脈によって,

お尋ねしたいのですが,お許しいただけますか

が玄関口や店先での,

ご免ください

であり,

ここで失礼したいのですが,お許しいただけますか,

が,辞去や退席の,

御免蒙ります(ごめんなすって)

となり,

それだけはご勘弁いただきたい,

が,

御免蒙る,

となった。もともとどんな言葉も,文脈依存だから,英語はよくわからないが,

God bless you!

もそういう転調の一種だろうが,日本語は,とくに文脈に依存して,

左様なる次第ですので,ここでお別れします,



さようなら,

になり,

ここで,

になり,

じゃあ,

になり,

では,

になる。そこにる人にのみに,「じゃあ」のニュアンスは伝わる。そこには,その場にいる人同士の,互いの関係性の

ぬくもり,

というのがあるはずだからである。

その意味では,丁寧語と言うのは,

文脈によっては,場違いと言うか,場の雰囲気を壊すこともある。

その意味では,

ご免なさい,

よりは,

ご免,

の方がいいし,

悪い,

のほうがもっといいこともある。あるいは,

ご免あそばせ,

の方がいい場合もある…か?

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)




今日のアイデア;
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2014年07月11日

編集


落語については,何度か書いたことがある。たとえば,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/395330135.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163570.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163543.html

等々。

少し前,落語をきく機会があった。

演目は,「目薬」「祇園祭」「夢見の八兵衛」。

どこかで,同じ噺を聴いていても,枕と入り方でまったく様相が変わる。

落語は時間だとつくづく思った。というか,語りは,あるいは言葉は,時間なのだ。流れて,後へは戻れない。そこには,

シーケンシャルだという意味
と,
一瞬一瞬の中に生きている,

という意味と二つがある。

実は,その二つは,噺の帰趨を握るのではないか,と感じた。

なぜなら,噺は,噺家の演出というか,編集次第で,まったく違ってくるからだ。それで同じ噺でも流れ方が変わり,印象が変わる。さらに,ズームアップする部分次第で,その一瞬の効果が,まったく変わるのではないか。

噺家は演出家,という話は,前にも書いたが,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163336.html

それは,

同じ噺のどこをどうつなぐか,

という場面構成のつなぎ方,つまりは時間の流れのつなぎ方と,

同じ噺のどこをフォーカスするか,

というカメラワーク,つまりどうパンするか,どうズームアップするかという話の,あるいは場面の,あるいは人の,あるいはやり取りの,どこをピックアップして,強調するか,

に,演出家としての噺家の腕の見せ所なのではあるまいか。もちろん出演者は,ご自身である。

それは,図と地の問題でもある。どこかに焦点を当てれば,どこかが,霞む。
 
その抽出の仕方,つなぎ方は,例えが古いが,

映画フィルムの編集,

とほぼ同じなのだと思う。ということは,そのつなぎ方で,同じ噺も,大袈裟に言うと,人情話ではなく,別のものに変わるということだってある。怪談が単なる色恋話に変わったっておかしくないのだ,と思う。

要は,演出とは,

噺の解釈

である。そこに,噺家の腕がある。どう料理するかで,噺の焦点が動く。場合によっては,噺家は自分の得意の分野に持ち込もうとするだろう。

それも含めて演出であり,

編集である。

編集というのは,何度も触れて恐縮だが,映画のモンタージュ手法を例にとってみる(フィルムの例だが)。

「一秒間に二四コマ」の映画フィルムは,それ自体は静止している一コマ毎の画像に,人間や物体が分解されたものである。この一コマ一コマのフィルムの断片群には,クローズアップ(大写し),ロングショット(遠写),バスト(半身),フル(全身)等々,ショットもサイズも異にした画像が写されている。それぞれの画像は,一眼レフのネガフィルムと同様,部分的・非連続的である。ひとつひとつの画像は,その対象をどう分析しどうとらえようとしたかという,監督のものの見方を表している。それらを構成し直す(モンタージュ)のが映画の編集である。つなぎ変え,並べ換えることによって,画像が新しい見え方をもたらすことになる。

たとえば,

男女の会話の場面で,男の怒鳴っているカットにつなげて,女性のうなだれているカットを接続すると,一カットずつの意味とは別に男に怒鳴られている女性というシーンになる。しかし,この両者のつなぎ方を変え,仏壇のカットを間に入れると,怒鳴っている男は想い出のシーンに変わり,それを思い出しているのが女性というシーンに変わってしまう。あるいはアップした男の怒った表情に,しおたれた花のカットを挿入すれば,うなだれている女性をそう受け止めている男の心象というふうに変わる。その後に薄ら笑いを浮かべた女性のアップをつなげれば,男の思い込みとは食い違った現実を際立たせることになる……

みたいな感じである。

実は大事なのは,編集によって,ただ流れというか,噺のプロット(時間軸)が変わるだけではない。

つなぎ替えには,

短縮カット,

焦点の変更,

も含む。それは,地と図を入れ替えるということも含む。それは,極端に言えば,

主客の変更

も含むのではないか,と憶測をする。それが噺家が噺を演出する意味だと思うのだが,どんなものだろう。一度噺家の方に確かめてみたい。

参考文献;
瓜生忠夫『新版モンタージュ考』(時事通信社)



今日のアイデア;
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2014年07月10日

喩え


たとえば,熱い思いとか,思いの深さというときの,

熱いとか深いは,「思い」というものを熱せられた何か,あるいは深い淵になぞらえなければ,表現できない。しかし思いはカタチのあるモノではない。まあ,

喩え,
あるいは
比喩

なのだが,何気なく使うこれは,何なのだろう,とあらためて整理し直してみたくなった。比喩については,アナロジーを中心において考えると分かりやすい。

アナロジー(Analogy)は,analogueつまり,類似物から来ているはずだから,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/398240083.html

で触れたように,

当該の何かを理解するのに,それと似た(あるいはそれと関係ありそうな)別の何かを媒介にして,

〜として見る

ことである。言ってみるとパターン認識である。昔から,

問う、如何なるか是れ、「近く思う」。曰く類を以って推(お)す

と言われているのと同じである。いわば,アナロジーというのは,自分の既知のものから,

異質な分野との対比を通して,

推測することといっていい。

W・J・J・ゴードンは,『シネクティクス』の中で,アナロジーの手法を,

・擬人的類比(personal analogy)
・直接的類比(direct analogy)
・象徴的類比(symbolic analogy)
・空想的類比(fantasy analogy)

の4つ挙げている。

直接的類比は,対象としているモノを見慣れた実例に置き換え,類似点を列挙していこうとするもの

であり,

擬人的類比は,対象としているテーマになりきることで,その機構や働きのアイデアを探るという,いわゆる擬人法

であり,

象徴的類比は,ゴードンの取り上げている例では,インドの魔術師の使う伸び縮みする綱のもつイメージを手掛かりに連想していこうとする

ものであり,

空想的類比は,潜在的な願望のままに,自由にアイデアをふくらませていこうとするもの

である。

いずれも,やろうとしていることは,比較する両者に,

共通点

を見つけようとすることに尽きる。どういう共通項を見つけるかが,鍵になるが,僕は,両者に,

関係性

類似性

をどう見つけるか,に尽きるのではないか,と仮説をたてている。。

前にも触れたことがあるが,それを鍵に分類していくとすると,

・類似性に基づくアナロジーを,「類比」
・関係性に基づくアナロジーを,「類推」

に整理できるのではないか。

前者は,内容の異質なモノやコトの中に形式的な相似(形・性質など),全体的な類似を見つけだす

のに対して,

後者は,両者の間の関係(因果・部分全体など)を見つけ出す。

詳細は,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view24.htm

に譲るとして,メタファーとの関係に踏み込めば,たとえば,類似性を手掛かりに,鳥をアナロジーとすることによって,コウモリを理解しようとするとき,われわれがよくするのは,モデルをつくることだ。あるいは写真や図解もその一種だ。そして,それを言葉で表現しようとすると,「夜飛ぶ鳥,こうもり」といった比喩を使うことになる。

いわば,アナロジーによる発想は,われわれが自分たちの思い描いているものを,

一種の〜,
〜を例に取れば,
〜というように,

といった具体像で表そうとするときの方法であり,それは2つの方法で具体化することができる。

1つは,言語による表現である“比喩”(アナロジーのコトバ化)
もう1つは,モノ・コトによる表現である“モデル”(アナロジーのモノ・コト化)

である。

ただ,断っておけば,アナロジー→モデル・比喩という順序を固定的に考えているわけではない。

アナロジー思考があるから,比喩やモデルが可能なのではない。確かに,関係にアナロジーの認知がなくては,それを喩えたりモデルとしたりすることはできないが,逆にAをBに喩えるから,その間に類似性を認識できることがあるし,モデル化することで,より類推が深化することもある。逆に類比が的確でなければ,比喩やモデルが間の抜けたものになることもあるからである。

むしろ,3者は相互補完的であって,アナロジーの発見がモデル・比喩を研ぎ澄ましたものにするし,モデル・比喩の発見が新しい類比を形成することになる。

ただ,すくなくとも,比喩が使えるには,それに見立てたものとの間のアナロジーが認知できていなくてはならない。

モデルについて挙げれば,詳しくは省くが,

・スケール(比例尺)モデル
・アナログ(類推)モデル
・理論モデル

とあるが,比喩は,

ある対象を別の“何か”に喩えて表現することである。通常言葉の“あや”と言われる。その意味やイメージをそれによってずらしたり,広げたり,重層化させたりすることで,新しい“何か”を発見させることになる(あるいは新しい発見によってそう表現する)。

これもアナロジーの構造と同様で,比喩には,

直喩(simile),
隠喩(metaphor),
換喩(metonymy),
提喩(synocdoche)

といった種類があるが,類似性と関係性に対応させるなら,

直喩,隠喩が《類似性》の言語表現,
換喩,提喩が《関係性》の言語表現<

となる。

直喩

は,直接的に類似性を表現する。多くは,「〜のように」「みたいな」「まるで」「あたかも」「〜そっくり」「たとえば」「〜似ている」「〜と同じ」「〜と違わない」「〜そのもの」という言葉を伴う。

従って,両者は直接的に対比され,類似性を示される。それによって,比較されたAとBは疑似的にイコールとされる。ただし,全体としての類似と部分的な性格とか構造とか状態だけが重ね合わせられる場合もある。

とはいえ,「コウモリは鳥に似ている」「昆虫の羽根は鳥の翼に似ている」等々,既知の類似性を基に「AとBが似ている」と比較しただけでは直喩にならない。「課長は岩みたいだ」「あの頭はやかんのようだ」といった,異質性の中に「特異点」を発見し,新たな「類似」が見い出されていなくては,いい喩えとは言えない気がする。。

隠喩

も,あるものを別の“何か”の類似性で喩えて表現するものだが,直喩と異なり,媒介する「ようだ」といった指標をもたない(そこで,直喩の明喩に対して,隠喩を暗喩と呼ぶ)。

したがって,対比するAとBは,直喩のように,類比されるだけではなく,対立する二項は,別の全体の関係の中に包括される,と考えられる。AとBの類似性を並べるとき,

@AとBが重なる直喩と同じものもある(「雪のような肌」と「雪の肌」)
A「心臓」と「ポンプ」を比較するとき,両者を包括する枠組のなかにある
B一般的な隠喩であり,「獅子王」とか「狐のこころ」といったとき対比する一部の特徴を取り出して表現している。

この隠喩は,日本的には,「見立て」(あるいは(〜として見なす)と言うことができる。こうすることで,ある意味を別の言葉で表現するという隠喩の構造は,単なる言語の意味表現の技術(レトリック)だけでなく,広くわれわれのモノを見る姿勢として,「ある現実を別の現実を通して見る見方」(ラマニシャイン)とみることができる。

それは,AとBという別々のものの中に対立を包含する別の視点(メタ・ポジション)をもつことと見なすことができる。これが,アナロジーをどう使うかのヒントにもなる。即ち,何か別のモノ・コトをもってくることは,問題としている対象を“新たな構成”から見る視点を手に入れることになる。

換喩と提喩

は,あるものを表現するのに,別のものをもってするという点では共通しているが,直喩,隠喩とは異なり,その表現が両者の“関係”を表している(“言葉による関係性"の表現)という共通した性格をもっている。

両者の表現する《関係性》は,

換喩が表現する《関係性》が,空間的な隣接性・近接性,共存性,時間的な前後関係,因果関係等の距離関係(文脈)

であり,

提喩が表現する《関係性》が,全体と部分,類と種の包含(クラス)関係(構造)

となっているが,この違いは,換喩で一括できるほどの微妙な違いでしかない。

換喩の表す関係は,「王冠」で「王様」,「丼」で丼もの,詰め襟で学生,白バイで交通警察,「黒」「白」で囲碁の対局者,ピカソでピカソの作品等々に代置して,相手との関係を表現することができる。そうした関係を挙げると,

・容器−中身 たとえば,銚子で酒,鍋で鍋物,丼で丼物
・材料−製品 アルコールで酒
・目的−手段 赤ヘルで広島カープ
・主体−付属物 王冠で王様
・作者−作品 ピカソでピカソの絵
・メーカー−製品 味の素でAJINOMOTO
・産地−産物 灘で清酒
・体の部分−感情 頭にくるで怒り

等々,がある。いわば,その特徴は,類縁や近接性によって,代理,代用,代置をする,それが表現として《関係》を表すことになる。

一方,提喩となると,その代置関係が,「青い目」で外人,白髪で老人,花で桜,大師で弘法大師,太閤で秀吉,といった代表性が強まる。この関係としては,

・部分と全体 手が足りないで人手
・種と類 太閤で秀吉,小町で美人
・集団−成員 セロテープでセロハンテープ

等々がある。ただ注意すべきは,全体・部分といったとき,

木→幹,枝,葉,根……
木→ポプラ,桜,柏,柳,松,杉……

では,前者は分解であり,後者はクラス(分類)を意味している。前者は換喩,後者が提喩になる。

この《関係性》表現が,われわれに意味があるのは,こうした部分や関連のある一部によって,全体を推測したり,関連のあるものとの間で《文脈》や《構造》を推測したりすることである。

対象となっているものとの類縁関係やその包含関係によって,その枠組を推定したり逆に構成部分を予測したりすることで,われわれは,隣接するものとの関係や欠けているものの輪郭や全体像の修復や補完をすることができるのである。これは,すでに推理にほかならない。

こうした比喩の構造をまとめてみれば,

  [類似性]   [関係性]  [推論]
 《直喩・隠喩》→《換喩・提喩》→《推理》

となるだろう。われわれは,“まとまり"としての類似性をきっかけに,似た問題を探すことができる。そして更にその中の《文脈》と《構造》の対比を通して,未知のものを既知の枠組の中で整理することができる。しかし,最も重要なことは,ひとつの見方にこだわるのを,比喩を通した発見によって,全く別の《文脈》と《構造》を見つけ出せるという,いわば見え方の転換にあるといっていいのである。

こう考えると,

アナロジー・モデル・比喩

は別のものではないこの三者の,補完関係は次のように整理できるだろう。

[類似性]→[関係性]→[論理性]

直喩・隠喩→換喩・提喩→推理 (比喩)
類比→類推→推論 (アナロジー)
スケールモデル →類推モデル →理論モデル(モデル)

「〜として見る」がアナロジーであるなら,それを比喩的に言えば,

“意味的仮託"あるいは“意味の置き換え"であり,“価値的仮託"あるいは“価値の置き換え”

である。モデル的に言えば,

“イメージ的仮託"あるいは“イメージの置き換え”

であり,

“形態的(立体的)仮託"あるいは“形態の置き換え”

である。仮託あるいは置き換えること(仮にそれにことよせる,という意味では,代理や代置でもある)で,ある“ずれ”や飛躍"が生ずる。だから,それを通すことによって,別の見え方を発見しやすくなるということなのだ。なぜなら,われわれの意味的ネットワークの底には,無意識のネットワークがあり,意味や知識で分類された整理をはみ出した見え方を誘い出すには,このずれが大きいほどいいのだ。

として,冒頭の話に戻すと,

思いが深い,

というのは,いい喩えなのだろうか。そんなことは勝手なことで,深きかろうと浅かろうと,その思いをかけられる側にとっては,何の関係もない。思いの大きさを言うのだとしたら,いい喩えではない。惰性の表現であって,異質さを対比していないから。


参考文献;
W・J・J・ゴードン『シネクティクス』(ラティス社)
佐藤信夫『レトリックの消息』(白水社)



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2014年07月09日

嫉妬


嫉妬については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163434.html

で触れたことがある。

僕は,嫉妬というのは,

その立場に成り代われなかった,そこに自分がいたらよかったというそのポジションに自分がいない,どうあがいてもそこにいられないということに対する,

悔しさといっていい。

しかしそもそもそこには自分は立てないことは気づいている。気づいているから,なお悔しい。

自分は,その方向を向いていないのに,その方向にいたいと思う,その矛盾が嫉妬を生む。

羨むというのは,穏やかだが,それは,距離があるからだ。遠い向こうを見ているからだ。その距離が感情を生々しくしない。生臭くしない。

嫉妬は,その距離が微妙だ。その位置にいられそうな,一つ間違うとそこにいたかもしれない,そうなれたかもしれないのにそうなりそこなった,そんな間合いが,悔しさというか,身もだえするような生なまましい悔しさを感じさせる。

もう少し広げると,

そのときそこにはいられない,

という,切歯扼腕,の思いである。それは,歳とともに募る。たとえば,十年後,二十年後と考えたとき,それは切実に,切なさとして,感じる不在感である。自分が,

そのとき,

その場,

その時代,

その状況,

にはいない,いることができないと分かっているからなお募る,一種承服しがたい焦燥感に近い。

嫉妬について,専門的には,

嫉妬とは,自分にとって重要な人,ものが他者に奪われる不安,恐怖により引き起こされる感情。怒り,悲しみ,恐れ,苦痛の感情が含まれる。英語の jealousy は嫉妬と訳され、envy は妬みと訳される。

この二つはは心理学用語としては区別される。妬みは,他者が持っている属性や関係を自らも所有したいという欲求を指し,関係の喪失に対する恐れの感情がない点で嫉妬と異なる。

という,と心理学辞典にはある。

とすると,羨望か,いや。そうではない。

羨望は,嫉妬と違い,独占ではなく,称賛が交じる,とある。

専門家に,素人が逆らうのも何かと思うが,どうもそれは専門家の固定観念(機能的固着ともいう)ではないか,と思う。

二者関係にこだわり過ぎている。

嫉妬という感情(?)は,もう少し,自分のありように深く根ざしている気がしてならない。

自分が,そこにいられない,

その人との関係,そのものとの関係,そのときとの関係,その場との関係,

等々,必ずしも人とは限らない。

その時代に居合わせなかったこと,

そのときに居合わせられなかったこと,

への,(その場にいたいからこその)その場にいたら,という強い思いからの口惜しさだってある。

いま僕の中にあるのは,その思いだ。

その場にいたらどうかというと,たんなる目撃者になれない,というだけのことかもしれない。

ずいぶん昔,学生時代,その思いがあった。

その場にいたい,

という焦燥感で,そこへ駆けつけたことがあった。それは,同時代であり,そのとき,その場にいられる,という幸運のせいでもある。

そう,そういう僥倖は,同時代にいなければ,得難いのだ。

同時代に生きていられない,

という悔しさかもしれない。誤解してほしくないが,オリンピックなどではない。僕は,東京オリンピックは,二度目の幻(のオリンピック)に終わるのではないか,という強い危惧を懐いている。

参考文献;
中島義明他『心理学辞典』(有斐閣)等々。



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2014年07月08日


品位とか品格とか品性という使われ方をする,

品について,調べていると,

音自体で,

ヒン(漢)
ホン(呉) 
しな[訓]

と分かれ,たぶん伝来(当然時代も違うが)によって,由来が異なるらしい。当然意味が少しずつ違う。

語源では,中国語源では,

器物を並べる

で,品物の意味とある。

当然,品にちなんで,

物や人の質によって分けた等級
等級をつける

ということが派生する。「ほん」と呼ぶのは,仏典かららしく,等級以外に,

仏典の中の編や章

という意味がある。

品位,品格,気品,下品,上品,人品

というのは,言ってみれば,人を品物に見立てて,その等級づけをしている,というに近い。品評である。

しかし,それは誰が評価するのか。身分社会なら,位階の高いのが,上品,と一応は言えることになる。

下賤だの下卑だのというのは,下に見てそう言う。しかし,仏教でいう,

ほん

は,極楽往生する者の能力や性質などをに分ける語。上中下の等級に分け,さらにそれぞれを上中下に分ける,という。

九品

くほんである。しかし,それを,理不尽ではないかと思うのは誰もがそうで,

九品皆凡といい,一切衆生は本質的にみな迷える存在であると捉えた浄土宗の流れは,必然で,その果てに,親鸞の,

善人尚もて往生をとぐいわんや悪人をや

は,僕には,往生の位階を破壊したアナーキズムに見える。信心深いとか,篤いから救われる云々は,こちらの計らいなのであって,絶対他力の前には,意味をなさない。ただ,計らいを捨てて,

他力には義なきを義とす,

である。清澤満之が,

天命を安んじて人事尽くす,

と言った言葉がそれを示す。

人事を尽くして天命を待つ

で,どこかに驕りがある。我欲がある。しかし,

天命を安んじて人事尽くす,

には, 丸ごと受け入れている感じがある。

そう見れば,氏や育ちは,言い訳にしかすぎず,品は,

いまの生き方そのもの

を指す,というしかない気がする。それは,

いま,ここに,生かされてある

おのれを受け容れて,立っている,という気構えではないか,という気がする。

そこが,なかなか。




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2014年07月07日

ことば


ことばというのは,『大言海』には,

口にあらわるる意なるべし。ことのは,とも,口のは,ともいう

とある。しかし,語源的には,三説あるらしい。

@コト(言)+ハ(葉)で,言の葉が語源とする,紀貫之の『古今集』の序で述べている説
Aコト(言・事未分化)+葉(茂らせる)が語源。事柄を口に出し茂らせる意
Bコト(言・事)+ハ(端)が語源で,事柄の一端を口に出すのが言葉,という説

しかし,「ことば」を,漢和辞典でひくと,





辭(辞)

と出る。ことばを,いろいろな漢字に当てたらしいのである。そのつど,どの字に当てるかで,そこに見えて(見ようとして)いた世界が違うはずである。

確かに,中国語では,それぞれ意味に差がある。

舌は,口に在り,言う所以,とあるので,それとの関連だろう。弁舌,饒舌,舌戦など。

言は,辛(切れ目をつける刃物)+口で,口をふさいでもぐもぐいうことを,音・諳といい,はっきりかどめをつけて発音することを言と言う。彦(げん)は,かどめのついた顔,岸(がん)はかどだったきし,で同系。

語は,交差して話し合うこと,

詞は,言+司(つなぐ)で,次々とつないで一連の文句を作る小さい単位,単語や単語のつながりを言う。嗣(後を継ぐ小さい子)と同系。

辭(辞)は,乱れた糸をさばくさま+辛(罪人に入れ墨をする刃物)の意で,法廷で罪を論じて,乱れを捌く言葉を指す。詞と同系。

合わせて「言う」との使い分けで言うと,

言う・謂うは,ほぼ同じで,言うは,口に思うところを口に述べる。謂う,人に対して言う,あるいはその人を評する時も,これを使う。

曰う・云うは,ほぼ同じ。ただ,云うは,意が軽く,曰うは,意が重い。

とある。

言葉は,それを使うことで見える世界が違う,あるいはそれによって(相手に)見させようとする世界があるのだとしたら,

こと(言)

ですんでいたものに,あえて,

ことば(言葉)

と,「は」をつけるには意味があったのではないか,という気がしてならない。



が端緒とするならそこに謙譲というか,謙遜が込められている,というのが正しいかもしれない。

かつては,言霊というほど,事と言とは一体化していた。言は事を引きずっていた。いわゆる言霊とは,一般的に言われるように,

人から出た言葉が現実に何らかの影響を及ぼす,

ということだけではないようである。そこにあるのは,畏れである。

神意

があって,初めて

言葉がその霊力を発揮する,

神意の込められた言が,霊力を持つのである。有象無象の言ではない。そこにあるのは,神への畏れである。そういう類の「言」であったとすると,それとは別の言は,

端くれ

である。そういう意味ではないか。

特に,事とのつながりの強い象形文字の漢字ではなく,かな,を指していると想像するのは,無理筋ではないだろう。

しかし紀貫之が,『古今集』の仮名序で,

やまとうたは,人の心を種として,万の言の葉とぞなれりける 世の中にある人,ことわざ繁きものなれば,心に思ふ事を,見るもの聞くものにつけて,言ひ出せるなり 花に鳴く鶯,水に住む蛙の声を聞けば,生きとし生きるもの,いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし,目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ,男女のなかをもやはらげ,猛き武士の心をも慰むるは,歌なり

と書くとき,そこには,ひそかな矜持がある。神の霊力からも「事」からも解放された,

(ひら)かな

という文字の,たかが,

端くれ

の言の葉への自信である。

それは,やまとことばが,自分を表現できる文字を持ったことへの高らかな宣言にも見える。

もっとも,この序は,『詩経』の大序の,

天地を動かし,鬼神を感ぜしむるは,詩より近きは莫し,

からのパクリらしいのだが,まさに,そこにこそ,やまとことばが獲得した表現世界がある,というべきである。

言(=事)

からの離脱であり,

借り物の万葉仮名

からの自立でもある。

それは,漢字のもつ,象形文字ならではの,重い意味と事のくびきからの自由でもある。そこではじめて,やまとことばの表現の世界が,広がったのである。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)



今日のアイデア;
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2014年07月06日

発心


発心とは,

菩提心を起こすこと,

とある。そこから,あることをしようと,思い立つこと,

発意

とある。

発心などと殊勝な気を起こしたこともないし,何かそんな大げさな決意をした覚えもない。確かに,何かを心願することはあるが,さほどの重みがない。

生来の怠け者だから,なかなか,思い立って,などという健気で殊勝な心根の持ち合わせがないせいかもしれない。

なりゆきの中に,流されていることが多い。

たまたま,

行掛り,

成り行き,

でそういう羽目に陥ることが多い。だから,道草のつもりが,そこが本道になってしまう。だからといって,そのことを恨む気はない。そこで状況を引き受け切れれば,おのが器量,それを受けきれず敗北の憂き目にあっても,やはりおのが器量のなせるわざに過ぎない。

状況を創り出すというより,状況に巻き込まれて,

否応なく,それを乗り切ることを迫られる,ということが多い。そんなわけだから,時代にさからう羽目になることも多々ある。

そのせいか,大体が,大袈裟な物言いをしたがらない。自己防衛というか,あらかじめ,言い訳を立てておくというところがないわけではないが,それ以上に,そういうことを為遂げる人間とは,自分をあまり信じていなかったし,信じていないせいに違いない。

為遂げるもなにも,それを為遂げても,一文の得どころか,それをクリアしなくては生き切れない,そんなシチュエーションだから,当たり前と言えば当たり前だ。

種田山頭火の

春が来た水音の行けるところまで

という感じ,いや,というより,

分け入つても分け入つても青い山

というほうが近い,という感じなのである。たぶん,

志す

ものがあるから,

思い立つ

のではないか。たまたま巻き込まれたのでは,志すも,発心も,あったものではない。

発心

という以上,何かそこに,スタートラインのような,明確に区切りがあるに違いない。振り返れば,あそこだった,あの時だった,というような。

しかし,少なくとも,僕の場合,

気づくと始めざるを得ない,

というのに近い。周りが迫るのである。しかし別の見方をするなら,

選んで,そういう場に立っている,

ということが言えなくもない。なぜなら,拒んでもいいし,逃げても,避けてもいいのに,そうしないで,

受けている,

からだ。場が,状況が,迫るものを,かっこよく言えば,

引き受ける,

あるいは引き受けざるを得ないと思い込む,のが正しい。避けるのは,できない,と自分に思い込ませている。あるいは,言い聞かせている,のかもしれない。

で,それに立ち向かうことになる。

いつもいつもではないが,そういう矢面に立つことを,選んでいる。言い方を変えれば,発心はしていなくても,そのシチュエーションになったら,

引き受ける,

ということを,知らぬ間に決めている,というのかもしれない。しかし,たまには,

自分でシチュエーションを創り出す,

ということをしてみたい…,が,まあ,おのが性分には似合わないけれど。




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posted by Toshi at 04:48| Comment(0) | 生き方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月05日

経済視点


武田知弘『「桶狭間」は経済戦争だった』を読む。

信長の政策を経済面に焦点を当てている。その面で,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/400155705.html

の,戦国大名の鉢植化の背景を理解するのには好都合ではある。表題は,桶狭間となっているが,それだけを掘り下げたわけではなく,ただの入口,後は,武田,上杉,毛利などの戦国大名との対比。少し突っ込み不足は,新書の限界として諦めるとして,

桶狭間の戦いが知多半島をめぐる戦い,

という仮説は,面白い着眼には違いなすが,まだ論証が足りない気がする。

知多半島とその周辺地域というのは,実は商工業において重要な地域だった…,

とする根拠が,

知多半島の窯業,

つまり常滑焼の生産地だった。常滑焼というのは,当時の全国的な陶器ブランド,

というのは,どの程度確かなことなのか。日用雑器としての土器にブランドがあったのかどうか,その他の窯業地との比較,他地域の例示等々がないまま,

知多半島の窯業は,12世紀ごろからさかんになったとされ,本州,九州,四国の多くの中世の古墳群から土器が発見されている。(中略)中世の遺跡から知多半島の土器が発見されていないのは,本州,九州,四国の中ではわずか二,三県である。つまり,中世から知多半島の土器は日本全国に流通していたのである。知多半島は,中世から日本最大の土器生産地域であり,もっといえば中世ではにほん有数の工業地帯だったわけだ。

と言われても,にわかには信じられない。いや,経済視点を除いて,地政学的にこの地域に意味があったのではないか,という他の視点の検討抜きでは,どうもいまひとつ説得力が欠ける。

ところで,信長が,津島を抑え,経済力を持っていたことは,通説である。謙信が直江津,柏崎の関税収入だけで,

年間四万貫,

だいたい三十万石の収入に匹敵する,ということから,その二つの港よりはるかに栄えていた津島からは,

三十万石

以上の収入があり,遠江,駿河,三河,終りの一部を支配する,百万石の今川義元と,尾張一国約六十万石と,津島の収入を合わせると,ほぼそれに匹敵し,動員兵力は,

ほぼ互角

だったのではないか,という話は,説得力がある。その証拠に,最近発掘されつつある清州城は,

南北2.7キロ,東西1.4キロもの惣構えをもつ巨大な城下町だった。あの大阪城にも匹敵するものだった,

という。そう考えると,織田対今川の軍勢,

二千対二万四千

というが,実勢は,織田方は一万近く,しかも,義元本陣は,四,五千,別に奇襲しなくても,十分勝てる計算になる,という理屈である。

さて,その信長の経済政策の画期を,整理しているところが分かりやすい。

一つは税制,

本年貢以外の過分な税を徴収してはいけない,

関所の税を課してはならない,

という信長の指示が残されている。それも,収穫高の三分の一と,江戸時代に比しても低い。それに対して,武田は,土地の貧しい甲斐のせいもあるが,度重なる重税,棟別税,後家役まで課したのと好対照である。

第二は,貨幣納税の貫高制から,米での納税の石高制に変えたこと,

これも換金のための農民の負担を減らしている。

第三は,金銀を貨幣として設定したこと。ここでは,

金と銀,銅銭の交換価値が明確に定めてあり,史上初めての試み。

という。

第四は,検地。それも,かなり細かな歩の単位まで,実測していたと言われる。このことが,大名を鉢植化することになるのだが。

第五は,楽市楽座。多く寺社が座の後ろ盾になり,冥加金をとるという既得権益になっていた。それは一種の価格破壊につながる,と著者は言う。

安土に楽市楽座をつくれば,畿内にある「座」は大きな影響を受ける。安土に売り上げを奪われないために,価格競争をせざるを得なくなる。

結果として,京都の座は消滅していく。

第六は,枡や単位の統一。このことは,関所の撤廃と同時に,物流の革命をもたらす。

第七は,インフラ整備。関所の撤廃と同時に,道路をつくる。『信長公記』には,

入り江や川には,船橋を造り,石を取り除いて悪路をならす
道幅は三間半(6m)とし,街路樹として両側に松と柳を植える

等々を指示したとある。

傑作は,安土城を一般公開したことだ。これは,以前も以後もあり得ない。しかも,大勢が押し寄せたため,百文を徴収したという。

こうした信長の視界に,全国があったことが分かると同時に,自分を遥か高みにおいて,戦国武将どころか,天皇も,自分の眼下においていたように思えてならない。

最後に苦言をひとつ,

足利義昭を,「義輝」と誤植するのは,まあ勘違いとして許されるとしても,その後,今度は,武田義信が出てきて以降,再三,義昭を「義信」と誤植するのは,いくらなんでもいかがかと思う。誤植の多寡は,出版社の格をしめす,とはよく言うが,そういうものだと思う。昔,先輩が,一冊の単行本を上梓して,

ひとつ誤植があった,

とひどく悔やんでいたのを思い出す。それは,編集者の矜持でもある。


参考文献;
武田知弘『「桶狭間」は経済戦争だった』(青春出版社)




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posted by Toshi at 05:03| Comment(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする