2021年03月05日

刀自



「刀自」は、

とじ、

と訓ませる。「おも」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480055678.html?1613419123で触れたように、「母刀自」は、

おもとじ、
とも、
ははとじ、

とも訓ませる。「とじ」は、

トヌシ(戸主)の約、戸口を支配する者の意、家公(いへきみ)の対、

とあり(岩波古語辞典)、

「刀自」は万葉仮名、

とある(広辞苑)。

一家の主婦、老若に関わらない、

意である。

「家長」は男ですから、「刀自」は女、つまり、「一家の主婦」なのですが、奈良時代には「一族の女主人的な立場の人」でもありました、

ということらしいhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1312892348が、

古代の后妃(こうひ)の称号の一つである夫人(ぶにん)も和訓はオホトジである。……7~8世紀の石碑・墓誌に豪族層女性の尊称としてみえ、……さまざまなレベルの人間集団を統率する女性が原義か。族刀自的なものから家刀自へと推移するが、古代には里刀自や寺刀自もいて、後世のような主婦的存在に限られない、

とある(日本大百科全書)のが分りやすい。万葉集に、

真木柱(まけはしら)頌めて造れる殿のごといませ母刀自(ははとじ)面(おめ)変りせず(坂田部首麻呂)、

とある。この意が転じて、

女性に対する敬称(岩波古語辞典)、
あるいは
主に年輩の女性を敬意を添えて呼ぶ語(広辞苑)、

として、

青海夫人(おおとじ)(欽明紀)、

と、名前の下につけて用いる、とある。更に、

御膳宿(おものやどり)の刀自を呼びいでたるに(紫式部日記)、

のように、

禁中の御厨子所(みずしどころ)、台盤所(だいばんどころ)、内侍所(ないしどころ)に奉仕した(事務・雑務に従う)女房、

の意でも使う(仝上)。

能面 姥.jpg

(能面「姥」 http://sakurai.o.oo7.jp/men.uba.htmより)

「刀自」の語源は、岩波古語辞典が、

tonusi→tonsi→tonzi→tozi、

というの転訛を示したように、

トヌシ(戸主)の義で、家をつかさどる者の意(万葉考別記・萍(うきくさ)の跡・俚言集覧・八重山古謡=宮良当壮・日本語源広辞典・広辞苑)、

と多数派である。大言海も、

戸主(とぬし)の義か。ジは宮主(みやじ)・群主(むらじ)・主(あるじ)などと同趣。叉、古書に負と書けるは、白水郎(あま)を泉郎と書けると同趣にて、倭名抄の誤を承けたり、

とする。確かに、和名抄に、

負、度之、劉向、列女列伝云、古語老母為負、今案和名度之俗用刀自二字者訛、

と「刀自」を誤用とし、さらに、「刀自」を老女に言うについて、

謂老女為召(度之)、字従目也、今訛以貝為自歟、

とする。和名抄がこう書くには理由がある。「刀自(トウジ)」は漢語であり、

老母の称、

とある(字源)。そして、

婦、即ち「女篇+負」の古字たる負の字を誤りて二分し、さらに転訛せしものか(書言字考)、

とある(仝上)。つまり、

負→刀+貝→刀+自、

と転訛したのであり、和名抄は、「負」を「刀」と「貝」に二分したのが、劉向・列女伝であること、それがさらに転訛して「刀」と「自」になったことを承知していたのである。我国では、それを、

主婦、また年たけたる夫人の称、

の意味で使う(字源)。つまり和語「とじ」に当てたのである。今日では、「負」(慣習フ、漢音フウ、呉音ブ)の由来にも、

会意。「人+貝(財貨)」で、人が財貨を背負うことを示す、

とあり、「負」は、「おう」とか「せおう」「せをむける」といった意であり、「婦」の含意は丸きりないが、

老母の称、

の意は、確かに辞書に載る(漢字源)。

つまり、「負」は「婦」の古字であった。それが、誤って、「刀」と「自」に分けたとき、

刀+自なのに刀+貝とした、

とまで言っているのだから、和名抄は、漢語「刀自」の由来を弁えていたのである。この来歴から考えると、

刀自、

を、意味のずれを承知の上で、和語「とじ」に当てたと見える。あるいは、本来、「とじ」は、

老母、

を指していたのかもしれない。そう見てくると、

トジ(戸知)の義(話の大事典=日置昌一)、
トジ(杜氏)の転。女性が酒を管理したことから(明治大正史=柳田国男・たべもの語源抄=坂部甲次郎)、
トは富、ジはアルジ・ヂ(主)の意で女性への敬称(仙覚抄・日本古語大辞典=松岡静雄)、
トドマリテ、シマリをすべき人の意(本朝辞源=宇田甘冥)、

等々の諸説は、採りがたい。

「負」(慣用フ、漢音フウ、呉音ブ)は、

会意。「人+貝(財貨)」で、人が財貨を背負うことを示す、

とあり、「おう」とか「せおう」「せをむける」といった意であり、「婦」の含意はない。

「刀自」の「刀」(漢音トウ、呉音ト・トウ)は、刀そのものを描いた象形文字(漢字源)。

金文 刀.png

(金文(殷) 「刀」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%88%80より)

「婦」(慣用フ、漢音フウ、呉音ブ)は、

会意。「女+帚(ほうきをもつさま)」で、掃除などの家庭の仕事をして、主人にぴったり寄り添う嫁や妻のこと、

とある(漢字源)。

甲骨文字 婦.png

(甲骨文字(殷) 「婦」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A9%A6より)

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:刀自
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2021年03月04日

ちょぼちょぼ


「ちょぼちょぼ」は、

点々、

と当てる(広辞苑・大言海)。

疎(まばら)に点を打つ状に云ふ語(大言海)、

が原意のように思われる。それをメタファに、

量や程度が少ないさま、ちょびちょび(虎明本狂言・鱸庖丁(室町末‐近世初)「なりてんぢくのかいしきに、ふかくさがわらけに、ちょぼちょぼとよそふておまらせうが」)、
物が所々に少しずつあるさま、ちょびちょび(病論俗解集(1639)「斑点小児はもがさ、或ははしか、大人はかざぼろし等ぞ。何さまちょぼちょぼ見ることぞ」)、

とか(精選版日本国語大辞典)、さらに、

所々に、

とか、

小さい、または少ない、

といった意味でも使い(広辞苑・大言海)。また、「点々」の意の派生で、

点を並べて打つ記号「:」や踊字「〻」などを、

チョボチョボで書てある線は始の波、また波形で書てある線は後の波(「颶風新話(航海夜話)(1857)」)、

とも使い(精選版日本国語大辞典)、さらに、同じことを重ねて記す場合に、略して点を打つ(〃)ところから、

前に同じ、
両者とも大したことがないさま、

の意で、

二人の成績はちょぼちょぼ、

等々とも使う(広辞苑)。ただこれについては、

ともども(共々)→ちょぼちょぼ(伯仲)、

と転訛したとする説がある(日本語の語源)。

「ちょぼ」を、大言海は三項別に分けている。ひとつは、

点、

を当てる「ちょぼ」で、

しるしに打つ点、

の意で、

ぽち、
ほし、

とも言い(広辞苑)、本の中のその部分に傍点が打ってあるところから、

歌舞伎で、地の文(登場人物の動作・感情などの部分)を浄瑠璃で語ること、

を指す(広辞苑)。

芝居の義太夫語は丸本を全部語らず、役者のセリフに文中に言ふ語のときに、自分の語るだけの所を、本の中に点(ちょぼ)をつけてそこを語りしに云ふ、

とある(大言海)。元来は、

説経節から出た称、脚本中の語るべき文句にチョボ(墨譜)が打ってある、

とある(江戸語大辞典)。「墨譜(すみふ・ぼくふ)」とは、

雅楽、声明(しょうみょう)、平曲、謡曲、浄瑠璃などに見える日本音楽の楽譜の一つ。文句の右側に墨でしるす点や線の譜、節博士(ふしはかせ)、ごまてん、

とある(精選版日本国語大辞典)。浄瑠璃の譜も,平曲の記譜法にならったものである。

義太夫節.jpg


ついでに、「義太夫節」とは、

竹本義太夫が大坂に竹本座を興して創始した浄瑠璃(語り物)で、劇的要素や豪快さ緻密さにひときわ優れ、人形浄瑠璃はもとより歌舞伎を芯で支える重要な音曲となっています。竹本義太夫と共に作者として近松門左衛門が台頭し、人形浄瑠璃を隆盛に導いてゆきましたが、その後歌舞伎にも多く移され、歌舞伎の中で義太夫物は重要なポジションを担っています。三味線は太棹と呼ばれる豊かな音量とともに低音が利いた大型で、語りも低音から高音まで幅広く使われ、ドラマティックな表現力の豊かさがまさに命です、

とあるhttp://enmokudb.kabuki.ne.jp/phraseology/3432。このため、「ちょぼ」を語ることを、

ちょぼ語り、

という(岩波古語辞典・江戸語大辞典)。

「ちょぼ」の二項目は、

江戸の佃島にて、白魚の廿一疋の称、これを一堆にして一ちょぼ、二ちょぼと云ふ、

とあり、これは、

博奕の簺(サイ)の目、廿一点出づるを勝とす、これより出でしか、

とある(大言海)。廿一は、サイコロの目の総和と等しいのである。

「ちょぼ」の三項目は、

樗蒲、
摴蒱、

と当てる。

サイコロ (2).jpg


サイコロを使った日本の賭博、

で、

ちょぼうち(樗蒲打)、

が訛って

ちょぼいち(樗蒲打)、

とも言う(大言海)。その道具を、

かり(樗蒲子)、

というため、

かりうち(樗蒲)、

ともいう(大言海)。

「ちょぼいち」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%81の詳細は譲るが、

一個の賽で勝負する博奕。賭けた目がでれば賭金の四倍・四倍半・五倍を得るなど種類がある、

とある(江戸語大辞典)。「ちょぼいち」の、

「一」は、サイコロを一つだけしか使わないことに由来、

するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%81ともある。

「ちょぼちょぼ」と「ちょぼいち」と関連づける説がある。

点を並べて打つ符号「:」や踊字「〻」などを「ちょぼちょぼ」ということがある。中国渡来の遊び「ちょぼ(樗蒲)」に使うサイコロの目に似ているので、点を「ちょぼ」というようになり、それを重ねたところから。また前と同じということも「〃」と表すことから、二つ以上の物事が同程度である様子も「ちょぼちょぼ」と言う、

とある(擬音語・擬態語辞典)。ただ、「ちょぼいち」は、

起源は江戸時代頃、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%81、「かりうち(樗蒲)」の項には、

後世に、樗蒲(ちょぼ)と音読する博奕あり、

ともある(大言海)。あるいは、「ちょぼ(樗蒲)」と「かりうち(樗蒲)」は別なのかもしれない。

「かり(樗蒲)」が中国から渡来したのは古く、

晋の時代には大変流行したようで、『晋書』劉毅伝には劉毅と劉裕が樗蒲を行ったときの様子が詳しく記されている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%97%E8%92%B2。しかし宋の頃には滅んだらしい。嬉遊笑覧には、

樗蒲と云ふものは、和名抄にも出、令などにもあれど、ここに盛んに行はれたるものとも見えず、されど、万葉集に是を仮名に用ひたる事見ゆれば、まれまれ此戯したる事なきにはあらず、漢土にても、こはいと古き戯にて、早く宋の代には滅びて、その制を知るものなし、

とある。ただ「かり(樗蒲子)」は、和名抄に、

樗蒲、一名、九采、加利宇知、

とあり、万葉集にも、

折木四哭(かりかね)、
切木四之音泣(かりがね)、

とあり、これについて、

雁(かり)が音(ね)の借字。折、切の字は、木を切りて作る意かと云ふ。木四は樗蒲子(かり)の四木なるを云ふなり、又万葉集「三伏一向(つくよ)」「一伏三起(ため)」「一伏三向(ころ)」などある、ツク、タメ、コロなど、四箇の樗蒲子(かり)を投げ、起伏してあらはれたる象、則ち、采の名称なり、突出(つけ)、囘(ため)、自(ころ)にもあるべきか。然れども、詳なることは知らず、

とある(大言海)。どうも「樗蒲」を「ちょぼいち」と呼ぶものと、「樗蒲」を「かり」と呼ぶものとは別のようである。前者は賽一個で出目を競うが、後者は、

中国古代のダイスゲーム・賭博で、後漢のころから唐まで遊ばれた。サイコロのかわりに平たい板を5枚投げて、その裏表によってすごろくのように駒を進めるゲームであったらしい、

のであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%97%E8%92%B2。樗蒲は、唐の李翺『五木経』および李肇『唐国史補』によると、

サイコロのかわりに5枚の板(五木)を投げた。板は片面が黒く、もう片方が白く塗られていた。5枚のうち2枚には白い側に雉が描かれており、その2枚の裏側(黒い側)には牛(犢)が描かれていた。目の出方には下の10通りがある、

とある(仝上)が、大言海には、

木造の橢圓、扁平なるもの、四個を用いる。各箇一面黒くして、其中二箇に犢を畫き、他の一面は、各白くして、其二個に雉を畫きく、此四箇のカリを、盤上に投げうつが、カリウチにて、其黒、白、犢、雉の面の種種に表るることを、采と云ふ、其色采の象(カタ)に寄りて、勝負あるなり、

とある。個数の違いなと、細かな点は別にして、ゲームの中身は、似ているが、ここからは、「ちょぼ」は出にくい。

五木.png


「ちょぼちょぼ」の語感からいうと、「ちょぼいち」の「しょぼい」ゲーム感がなくもないが、わざわざ「ちょぼいち」とつなげる必要はなさそうで、

擬態語、ちょぼ、ちょび、ちょぼっ(日本語源広辞典)、

でいいのではないだろうか。

ちょぼっ、

は、

ひとつだけ小さくまとまってある様子、

ちょびっ、

は、

数量や程度が少しだけある様子、

のそれぞれ擬態語である(擬音語・擬態語辞典)。

ちょっぴり、
ちょびちょび、
ちょびりちょびり、
ちょろちょろ、
ちょろり、

等々近縁の擬態語はいっぱいある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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2021年03月03日

将門眼鏡


江戸川乱歩の『鏡地獄』を読んでいたら、

将門目がね、
万華鏡、

と出てきた。「万華鏡(まんげきょう)」は、

ばんかきょう、

とも訓み、

百色眼鏡(ひゃくいろめがね)、
錦眼鏡(にしきめがね)、

とも呼ばれ、

カレイドスコープ(kaleidoscope)、

のことである。

2枚以上の鏡を組み合わせてオブジェクトと呼ばれる内部に封入または先端に取り付けた対象物の映像を鑑賞する筒状の多面鏡、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%8F%AF%E9%8F%A1が、

三枚の長方形の鏡板を三角柱状に組み、色紙の小片などを入れ、筒を回しながら一方の端の小孔からのぞくと、美しい模様が見えるようにしたもの、

とある(広辞苑)方がわかりやすい。

万華鏡(内部).jpg


万華鏡はわかるが、

将門目がね、

というのはわからなかった。

鏡三枚の時.jpg

(万華鏡 鏡三枚の時 https://www.nikon.co.jp/sp/kids/kaleidoscope/より)

鏡四枚の時.jpg

(万華鏡 鏡四枚の時 https://www.nikon.co.jp/sp/kids/kaleidoscope/より)

「将門目がね」は、

将門眼鏡、

とも当てるが、落語「めがねや」(別名「眼鏡屋盗人」「がみはり」)でも、

店にあった将門眼鏡を節穴の前の桟に乗せますと、7~8つに像が見えます、

と出てくるhttps://rakugonobutai.web.fc2.com/23meganeya/meganeya.html。別に、

眼鏡を物が七つに見える将門眼鏡に付け替えた。平将門が七人の影武者を従えていたことから将門眼鏡というやつだ、

ともあるhttp://sakamitisanpo.g.dgdg.jp/meganedoro.html。これが、「将門眼鏡」の由来らしい。

「将門眼鏡」とは、

プリズムスコープ、

の謂いで、「将門眼鏡」の他に、

ドラゴンフライ、
八角眼鏡、
将軍鏡、
タコタコ眼鏡、

等とも呼ばれる、

複眼鏡の一つ。板に据えられたレンズがトンボの目のように多面にカットされ被写体が複数重なって見える。江戸末期には子供達にこれを覗かせる大道芸もあった、

とあるhttps://rakugonobutai.web.fc2.com/23meganeya/meganeya.html。現在はカメラのレンズにフイルターとして装着し、3面や5面の多重映像を記録できる物もある(仝上)らしい。古くは、7面カットを将門鏡、13面カットを明治将門鏡とよんだhttp://yamada.sailog.jp/weblog/2018/09/post-9a6c.html、とある。

タコタコメガネ.jpg

(紅毛百眼鏡(将門メガネ) https://rakugonobutai.web.fc2.com/23meganeya/meganeya.htmlより)

「将門眼鏡」という名は、

将門七変化、

由来するとみていい。

将門眼鏡.jpg


これは、将門伝説のひとつ、

七人将門の伝説(将門の影武者の伝説)、

に由来する。

将門と全く同じ姿の者が六人いた(俵藤太物語)、
とか、
同じ姿の武者が八騎いた(師門物語)、

等々とされ、

将門に助力した興世王、藤原玄茂、藤原玄明、多治経明、坂上遂高、平将頼、平将武とする説、弟六人説、

などがあるhttps://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/e4855b02e311db7808dd7250eb35f0a1とかで、これが、

7面カット、

を「将門眼鏡」といった理由になる。

各種のドラゴンフライ.jpg

(各種のドラゴンフライ https://www.spij.jp/2019/06/20/より)

山東京伝(1761-1816)の黄表紙『時代世話二挺鼓』では、

身体が7つあった将門に対抗するため、藤原秀郷(俵藤太)は、八角眼鏡を取り出し、「わたしは姿が8つあるからお前よりも勝っている。お前には見えないだろう。この眼鏡で見てみろ」と、将門にかけさせて自分の姿を見させ、将門の度肝を抜いた、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%A3%E4%B8%96%E8%A9%B1%E4%BA%8C%E6%8C%BA%E9%BC%93、この時代の人々が、八角眼鏡を知っていた、ということになる。

黄表紙(時代世話二挺鼓).gif

(黄表紙『時代世話二挺鼓』 https://hamasakaba.sakura.ne.jp/062k/062800/062810/sub062810より)

参考文献;
http://www5f.biglobe.ne.jp/~tashi/page010.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%A3%E4%B8%96%E8%A9%B1%E4%BA%8C%E6%8C%BA%E9%BC%93
https://rakugonobutai.web.fc2.com/23meganeya/meganeya.html

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年03月02日

ちょんまげ


「ちょんまげ」は、

丁髷、

と当てる(広辞苑)が、

髷が「ゝ(ちょん)」の形に似ているところからという、

とする説(広辞苑)と、

「ちょん」は、ちょう(丁)の音便の誤、

とする説(大言海)がある。しかし、

結んだ髪の毛先を前に折り返した形がチョン(ゝ)に似た髷だから(日本語源広辞典)、
前面に折り返した髷の形が踊り字 の「ゝ(ちょん)」に似ているからで、「丁髷」の「丁」は当て字(語源由来辞典)、

とするのが妥当なようである。ただ、別に、「ちょんまげ」の「ちょん」は、

「ちょん」が「ちいさい」「すくない」などの意味で、丁髷が小さいため「ちょんまげ」となった、

とする説がある(仝上)。確かに、「わずかな時間」の意の、

ちょんの間、

という言葉があるし、「ちょっぴり」の意の、

ちょんぼり、
ちょんびら、
ちょんびり、

もある(岩波古語辞典・江戸語大辞典)。「ちょっと切る」意の、

ちょん切る、

もある(大言海・江戸語大辞典)。しかし「ちょんまげ」は、

額髪を剃り上げ、後頭部で髻(もとどり )を作り、前面に向けた髷、

の意であり(仝上)、「少し」という感じではないのではあるまいか。ただ、「ちょんまげ」を、

江戸時代中期以降、額髪を広く剃り上げ、髻(もとどり)を前面に向けてまげた小さな髷、

をさす(広辞苑)とする説明もあり、「ちいさい」という感じを捨て切るのには躊躇う。本来の「丁髷」は、

髪の少ない老人などが結う貧相な髷、

を指す、ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E6%9D%8F%E9%AB%B7、「小さい」「少ない」の含意は捨てきれない。

ところで、「ちょんまげ」の、「髻(もとどり)を前面に向けてまげる髷」は、中世後期には、

一般に烏帽子などをかぶらなくなり、髷を後ろに纏めて垂らし、烏帽子や冠は公家・武士・神職などが儀式に着用する程度になり、近世には、月代が庶民にまで広がって剃るのが一般化し、髷を前にまげて頭の上に置く、

ようになったためhttps://www.kokugakuin.ac.jp/article/11121であるが、大坂の陣以降、戦国時代が遠くなり、兜をかぶる機会が減った、平和な時代ということなのだろう。「さかやき」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480265673.html?1614541415の由来については触れた。

成人男性の丁髷は、大きく分けて、束ねた髪を元結(もとゆい)で巻いて先端を出した、

茶筅髷(ちゃせんまげ)、

と、元結の先端を二つ折りにした、

丁髷、

とがみられ、元服前の男子は前髪を残し中剃りする、

若衆髷(わかしゅまげ)、

で元服後に前髪を剃り落としたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%81%E9%AB%B7、とある。「ちょんまげ」といわれる由来のもとになったのは、本多忠勝家中の髪形から広まったという、

本多髷(ほんだまげ)

といわれる、明和・安永(1764~1781)のころに流行した男子の髪形のようである。

本多髷②.jpg

(本多髷 デジタル大辞泉より)

中ぞりを大きく、髷(もとどり)を細く高く巻き、7分を前、3分を後ろにしてしばったもの、

であり(広辞苑・デジタル大辞泉)、

ほんだわげ、

ともいい、

金魚本多、
兄様本多、
団七本多、
浪速本多(なにわほんだ)、
豆本多(まめほんだ)、
蓮懸本多(はすかけほんだ)

等々の種類を生み、通を競った(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E9%AB%B7・広辞苑)、という。「本多髷」は、

文金風の変化したもので,宝暦〜明和(1751年―1772年)ごろに芝居の役者が結い始め,安永(1772年―1781年)ごろ全盛をきわめた、

とある(百科事典マイペディア)。

本多髷.bmp

(本多髷 精選版日本国語大辞典より)

その結い方は、

耳の上ぎりぎりから側頭部にかけてまで極端に広く月代(さかやき)を取り、鬢の毛を簾のように纏め上げる。鼠の尻尾のように細く作りなした髷は元結で高く結い上げて、急角度で頭頂部にたらすというもの。広い月代と頭と髷先、髷の根元を線で結んだ間の部分に空間ができるのが特徴、優美で柔和な印象で最初吉原に出入りする客の間で大人気を博した髷で、本多髷でなければ吉原遊郭では相手にされない、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E9%AB%B7

文金風.jpg

(文金風 デジタル大辞泉より)

「文金風(ブンキンフウ)」というのは、

髷 (まげ) の根を元結で高く巻き上げ、毛先を月代 (さかやき) のやや前方に出したもの。豊後節の祖、宮古路豊後掾 (みやこじぶんごのじょう) が始めたという。通人に好まれた、宮古路風ともいう、

とあり(デジタル大辞泉)、

元文年間(1736~41)の文字金(「文」の極印のある金貨)と同じころ始まったからという、

とある(広辞苑)。

辰松風(たつまつふう)から出て、まげの根を上げて前に出し、月代に向かって急傾斜させた、

とある(広辞苑)。

辰松風.jpg

(辰松風 デジタル大辞泉より)

辰松風(たつまつふう)とは、

江戸中期、辰松八郎兵衛が結い始めた、

とされ、

元結で髷 (まげ) の根を高く巻き上げ、毛先を極端に下向きにしたもの、

である。

辰松風→文金風→本多髷、

と、まさに、本来の「月代」の実用性を逸脱し、広く大きく剃り、髷も、現代の髪型を競うのに似て、江戸期、平和な時代になった証のように、様々な髪型が流行したのである。

一般的だった男性の髪形、特に時代劇などで使われている銀杏髷(いちょうまげ)、
中間・奴の間に流行した、月代が大きく、髱が小さく、髷が太く短い髪型奴髷(やっこまげ)、
後頭部で髷を細く結った材木屋風」(ざいもくやふう)、

等々https://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%AB%AA%E5%9E%8B、正に現代さながらに髪型を競ったようである。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:ちょんまげ 丁髷
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2021年03月01日

さかやき


「さかやき」は、

月代、
月額、

と当てるが、訛って、

さかいき、
さけえき、

ともいう(江戸語大辞典)。時代劇で見る、

男の額髪を頭の中央にかけてそり落としたもの、

である(広辞苑)。

もともと冠の下に当たる部分を剃ったが、応仁の乱後は武士が気の逆上を防ぐために剃ったといい、江戸時代には、庶民の間にも流行し、成人のしるしとなった、

とある(広辞苑)が、しかし、「月代」は、

つきしろ、

とも訓み、本来の意は、

月の出る直前に、月の近くの空が半円形に白んで見えるもの、

を(誤って「月」そのものをも)指し(岩波古語辞典)、日葡辞書にも、

Tçuqixiroga(ツキシロガ)ミエタ(すでに月がのぼった。または月の光が見えた)、

と載る。それに準えて、

半円形にそり落としたもの、

を指した(仝上)。それは、

古へ、男子、頂髪の中央の毛を、圓く抜き去りおくもの。後世に云ふ中剃(なかぞり 頭頂の中央のところのみ剃り去ること)なり。古へは皆総髪にて、全髪を頂に束ねて髻(もとどり)とし、冠の巾子(コジ)に挿したり。然して逆上(のぼせ)を漏らさむために、中剃をしたるなりと云ふ。又、冠の額に当たる髪際を、半月形に抜けるを額月(ひたいづき)と云ひき、

とある(大言海)。貞丈雑記(1784頃)にも、

古代の人はさかいきをそる事なし。髪のもとどりをばかしらの百会の所にてゆふ也、

とある。「百会(ひゃくえ)」は、頭のてっぺんにあるツボを指す。「巾子(こじ)」は、

(「こんじ」の「ん」を表記しない形)冠の頂上後部に高く突き出ている部分。髻(もとどり)を入れ、その根元に笄(こうがい)を挿して冠が落ちないようにする。古くは髻の上にかぶせた木製の形を言った。元来は、これをつけてから幞頭(ぼくとう 冠部分)をかぶったが、平安中期以後は冠の一部として作り付けになった、

とある(広辞苑・デジタル大辞泉)。

巾子(こじ) (2).jpg

(冠の名所並びに家別冠の刺繍紋様 『有職故実図典』より)

「額月」(ひたいづき)とは、

額の月代(つきしろ)の意、

で、

額付、
額突、

等々とも当て、

古へ、男子の額上の毛髪を半月形に抜き去りおくもの。又月額(さかやき)とも云へり、冠又は烏帽子を被りて、額の髪際(はええぎわ)の見えぬやうにとて抜き去れるなり、

とあり(大言海)、略して、

ひたひ、

という(仝上)。

だから、「つきしろ」とは、

形、圓ければ、月の代わりにて、月様(つきよう)の意なるべし、

と、本来の「月代」の意味に準えたものといっていい。

しかも、本来は、剃るのではなく、抜いていたと見え、

天正年代(1573~92)まで毛抜きを用いて頭髪を抜いた、

とある(日本大百科全書)。そのため、ルイス・フロイスは、

合戦には武士が頭を血だらけにしている、

と記しているhttps://www.kokugakuin.ac.jp/article/11121、とある。ただ、

頭皮に炎症を起こし、兜を被る際に痛みを訴える者が多くなったため、この頃を境に毛を剃ってさかやきを作るのが主流となる、

という次第https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%8B%E3%82%84%E3%81%8Dで、剃るのに代わる。

月代をした浅井長政.jpg


戦国時代は,貞丈雑記に、

合戦の間は月代をそれども、軍やめば又本のごとく惣髪になるなり、

あるように、戦の時だけであったが、やがて、

月代を剃っていることが勇敢さの印にもなり,武家の男子が成人になると兜をかぶらないでも,月代を剃るようになった、

とあり(ブリタニカ国際大百科事典)、それが江戸時代、庶民にまで広まった理由のようである。もともとは、

武士は鉄製の兜をかぶったが,頭が蒸れるので,兜の頂上に通気孔を開けて,その穴の真下の髪を剃った、

とあり(仝上)、

頭髪の蒸れによって、のぼせるのを防ぐために編み出されたもので、……最初は半月のような形をしていて、中剃り的なものであった。元来、公家、武家ともに日常生活で頭に冠や烏帽子を着用したが、戦乱が続くようになって、甲冑姿で頭が蒸れるところから、百会に月代をあけ、戦いが終わると同時にもとに戻していた。しかし、室町時代に入って応仁の乱など戦いが長く続くようになってからは日常化し、それがいつとはなく、戦乱が終わったのちでも、月代をあけておくのが習わしとなった。それも最初は小さな月代であったのが、だんだんと大きくなっていった、

とある(日本大百科全書)。「つきしろ」の由来から鑑みると、額際(額月)と頭頂部(つきしろ)を抜いていたものを、つなげて、ひろく「さかやき」にしたのだと見える。もともとは、「つきしろ」と「額月」とは離れていたし、「さかやき」とも別であったものが、つなげて額から頭頂部までを剃るようになって、ひとくくりに、

さかやき、

というようになった、というように見える。

つきしろと同義なので、(さかやきに)月代と当てた、

とある(岩波古語辞典)のはその意味である。では、「さかやき」はどこから来たか。

頭が蒸れるので,兜の頂上に通気孔を開けて,その穴の真下の髪を剃った。空気が抜けるので,逆息(さかいき)といい,その音便とするもの

とする、貞丈雑記の、

「さかいき」と云ふは、気さかさまにのぼせるゆえ、さかさまにのぼするいきをぬく為に髪をそりたる故「さかいき」といふなり、

説があるが、大言海は、

サカイキ云ふは、後世の音便なり、これを、逆息の義とし、逆上の気なりと云ふ説は、後世に云ふサカヤキには云へ、額月(ひたいづき)の語原とはならず、また月代(ゲッタイ)の字は、ツキシロにて、異義なるを因襲して用ゐるなり、

と、否定し、

逆明(さかあき)の転にて(打合(うちあひ)、うちやひ)、髪を抜きあげて、明きたる意、

とする。他に、たとえば、

サカ(境・生え際)+アキ(明き)、生え際を広く明けて剃り上げる意、

とする(日本語源広辞典)のは、「額月」(ひたいづき)の意味とは重なっても、「さかやき」のそれには当たらないのではないか。あるいは、

昔、冠を着けるときに、前額部の髪を月形に剃ったところから、サカは冠の意、ヤキ(明)は船名の意(茅窓漫録・嬉遊笑覧・和訓栞・風俗辞典=森本義彰等々)、
額毛をいうサカヒケ(界毛)の訛り(俗語考)、
サカイケヤキ(頭毛焼)の略転(燕石雜志)

も、「額月」(ひたいづき)や「つきしろ」の説明にしかなっていない。「つきしろ」は、月の出のことを指していて、和訓栞が、

冠下に劫月(大言海は初月(みかづき)の誤りか、とする)の如く剃るなるべし、似たるを持って名づくる也、

としている通り、月の形ないし、月の出の光の暈を指しているし、「額月」(ひたいづき)は、

額の月代(つきしろ)の意、

である。しかし、「さかやき」の由来を、説明する説は、

サカは栄、若えさかやぐと祝っていう語から(類聚名物考)、
サカエケ(栄毛)の義(名言通)、
ソキアケ(刵欠)の義(言元梯)、

というものしかなく、結局由来不明とするしかない。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年02月28日

しめじ


「しめじ」は、

シメジダケ、

といい、

占地、
湿地、
占地茸、
湿地茸、
王茸、

等々と当てる食用キノコであるが、「原野湿地に生ずる」ので、

湿地蕈(しめじきのこ)

とも名づけられた(たべもの語源辞典)。だが、分類学的には定義が曖昧で、

キシメジ科シメジ属ホンシメジ、
キシメジ科シロタモギタケ属のブナシメジ、
ヒラタケ科ヒラタケ属のヒラタケ、

が含まれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A1%E3%82%B8、とあるように、

千本シメジ、
カブラシメジ、
ヌノビキ、

等々の異名も多く、

(白色の)シロシメジ、
(黄色の)キシメジ、
(黒ずんだ)シモフリシメジ、

などがある(たべもの語源辞典)。総称的にシメジと呼んでいるが、植物学的には、「しめじ」は、

キシメジ科のキノコ、とりわけキシメジ科シメジ属のホンシメジ、

を指しhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A1%E3%82%B8

匂いマツタケ味シメジ、

といわれるのは、ホンシメジである。別名、

ダイコクシメジ(大黒占地)、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A1%E3%82%B8。ホンシメジは、生きた木の外生菌根菌であるために栽培が非常に困難であり、ほぼ天然物に限られ稀少なため高級品とされる。ほとんど流通していない(仝上)。しかも、

ホンシメジはとった翌日になると味が落ちる、

とある(たべもの語源辞典)。

ホンシメジ.jpg


場合によっては、漠然と他のキシメジ科のキノコ、

シメジ属のハタケシメジやシャカシメジ(センボンシメジ)、
シロタモギタケ属のブナシメジ、

等々も含めた総称とされることもある(仝上)。かつて「ホンシメジ」の名で流通していたのは、キシメジ科シロタモギタケ属のブナシメジの栽培品である。スーパーなどで必ずと言っていいほど販売されている「シメジ」は、ブナシメジであるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A1%E3%82%B8

ブナシメジ.jpg

(ブナシメジ 菌床栽培品 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A1%E3%82%B8より)

ホンシメジは、菊の花が咲くころ、松のまじったミズナラやナラの雑木林に五、六本ずつかたまって列をなし、毎年同じ場所に生える、

とある(たべもの語源辞典)。ために、「シメジ」の名は、

コナラなどの根元に群生し、地面を占領するところから「占地」

とする説がある(仝上)。他に、

湿出(しめい)づの約(大言海・日本語源広辞典・たべもの語源辞典)、
湿地(しめぢ)に生ずるところから(衣食住語源辞典=吉田金彦)、
茅(ちがや)の多く生えた地にあるところから、シメヂタケ(標茅茸)の義(本朝食鑑)、

その他、

シジムレイデタケ(繁群出茸)、
鎌倉時代の書物に夏の異称として「しめじ」があることから「夏頃に発生するきのこ」の意、
ソヒ、ムレ、タケの反シメテの転、

等々とする説もあるが、常識的には、「湿地」とも当てるので、

湿ったところから出る茸ということでシメイズ(湿出)、
湿地(しめぢ)に生ずるところから、

というところに落ち着くのだろうが、「占地」と当てるところから、

「しめじ」とはもともと「標地」、つまり菌輪をつくって生えるきのこのことではなかっただろうか、

とする説を見つけた。

「しめる」(古語「しむ」)という言葉は、現在の「占める」とはニュアンスが違うので、折口はわざと「標めた」と書いている。『日本国語大辞典』によれば、「しめる」の古い意味は「標(しめ)を張って自分の占有であることを示し、他人の立入りをとめる」こと、そして「標」とは「神の居る地域、また、特定の人間の領有する土地であるため、立入りを禁ずることを示すしるし」であった。「標」にはいろいろな形があるが、その代表は縄で周囲を囲うもので、それが「縄張り」の語源である、

とするものである(三浦励一「『しめじ』の語源について」)。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(万葉集)、

の「標野」(しめの)は、一般人立ち入り禁止となっている野原のことである、と(仝上)。これは、

占地、

の「占」に特殊な意味を持たせたものである。これは、

地面を占領するほど一面に生える、

という意味であるが、「占」(セン)は、

会意。「卜(うらなう)+口」。この口は、くちではなく、ある物ある場所を示すむ記号。卜(うらない)によってい、一つの物や場所を選び決めること、

とある(漢字源)。あるいは、

「卜」(甲骨の割れ目の象形、うらない)+「口」の会意、説文解字に「視兆問也」とあり、うらないの結果を口述すること。「口」は神器とも(白川)。うらないの結果により物事が決まることから、確定し動かないことを意味する、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%A0。わざわざ「標」に当てなくても、「占」には、ただ「占有」という意味だけではなく、「占卜(センボク)」ともいい、ある意味特別な地である意味がある。穿ち過ぎではないか。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
三浦励一「『しめじ』の語源について」http://chibakin.la.coocan.jp/kaihou34/p19-21shimeji.pdf

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2021年02月27日

遊び心


鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』を観る。

鳥山石燕・画図百鬼夜行全画集 (2).jpg


江戸時代、妖怪、幽霊は総称して、「もののけ」と言われたが、もはや恐れおののく対象ではなく、娯楽の対象と化した。その象徴の一つが、鳥山石燕の、

画図百鬼夜行、

である。好評を博したため、

今昔画図続百鬼、
今昔百鬼拾遺、
百器徒然袋、

と続編が刊行された。本書は、それを一冊にまとめている。

鳥山石燕は、正徳二年(1712)生まれ、天明八年(1788)に77歳で没している。代々幕府の御坊主(幕府の役職としての「茶坊主」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/473866893.htmlについては触れた)の家系に生まれ、絵師として作品を残すようになったのは、四十歳以降、「画図百鬼夜行」シリーズのように版本画は六十代以降、太田南畝によると、

石燕は根津に庵を編み、隠居仕事で絵を描いていた、

という。

収入のために描いていたのではなく、自己表現の手段として絵画を嗜んでいた、

とある(多田克己「あとがき」)。

石燕は、

狩野玉燕(ぎょくえん)(あるいは狩野周信(ちかのぶ))に学んだ狩野派の絵師、

である(仝上)。妖怪画を始めたのは、

狩野派の祖、狩野元信、

といわれ、『画図百鬼夜行』の跋文には、

もろこしに山海経吾朝に元信の百鬼夜行あれば、予これに学て、

とあり、元信の『百鬼夜行』を手本にしたと書いている。『百鬼夜行』は現存しないが、狩野派の佐脇嵩之(さわきすうし)がそれを模写した絵巻物である『百怪図巻』と重なる絵が多い、とされる(小山聡子『もののけの日本史』)。

佐脇嵩之『百怪図巻』より「ぬつへつほう」.jpg

(佐脇嵩之『百怪図巻』より「ぬつへつほう」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AC%E3%81%A3%E3%81%BA%E3%81%B5%E3%81%BB%E3%81%B5より)

鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「ぬつへつほふ」.jpg

(鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「ぬつへつほふ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AC%E3%81%A3%E3%81%BA%E3%81%B5%E3%81%BB%E3%81%B5より)

「百鬼夜行」とは本来は妖怪たちが集団で跳梁する様子のことであり、室町時代の『百鬼夜行絵巻』などはその通り妖怪の集団を描いたものだが、本書は妖怪を1点1点、個別の光景に切り分けて描いた点が特徴である、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%80%AA%E5%9B%B3%E5%B7%BBが、これも、1体ずつ妖怪の姿を描き、そこにそれぞれの名称を添えて紹介する絵巻物『百怪図巻』に倣ったのかもしれない。

ただ、

浮世絵版画に用いられる「拭きぼかし」の技法を発明し版本にはじめて利用したのは石燕の画集『鳥山彦』(『石燕画譜』1774年)であると伝えられている、

とあり、版画独自の工夫をされたものらしい。

百々目鬼.jpg

(鳥山石燕「百々目鬼」(『今昔画図続百鬼』より) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E3%80%85%E7%9B%AE%E9%AC%BCより)

ところで、「百々目鬼(とどめき)」には、

函関外史(かんかんがいし)云(いわく)、ある女生れて手長くして、つねに人の銭をぬすむ。忽(たちまち)腕に百鳥の目を生ず。是鳥目(ちょうもく)の精也。名づけて百々目鬼と云。外史は函関以外の事をしるせる奇書也。一説にどどめきは東都の地名ともいふ、

と添書がある。これについて、

「百々目鬼という妖怪は手長(盗み癖のある人の意)な女で掏摸師だったため、鳥目(ちょうもく 鳥の目のような孔のある意で銅銭の意)の精が腕について祟られたとありますが、これはお金を「御足(おあし)」とも呼ぶことから、足が付いて手に罹る(犯罪事実の手がかりを見つけられて、嫌な目にあう)という意味にひっかけた石燕の洒落、

とある(あとがき)。

そんないやな目に百回も遭った、弱り目に祟り目ならば、さっさと掏摸の「足を洗えばいい」というわけで、

百々目鬼、

というのは石燕の創作、とある(仝上)。つまり江戸の人らしく、洒落をきかせ、

二百数体、

の妖怪の中の、

三分の一、

は、石燕の「遊び」という。石燕は、上記の添え書きでもわかるように、博学の人で、和漢の古典、本草書、仏典、各地の伝説、民間伝承等々に通じ、

百器徒然袋、

には、四十八種の妖怪すべてが能、浄瑠璃、歌舞伎と結び付けられている、とある(仝上)。

水木しげるが鳥山石燕の妖怪画を参照にしたというのは、知られた話である。

水木げる・妖怪事典 (2).jpg


参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
水木しげる『水木しげるの妖怪事典』(東京堂出版)
小山聡子『もののけの日本史―死霊、幽霊、妖怪の1000年』(中公新書)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年02月26日

物の気から物の怪へ


小山聡子『もののけの日本史―死霊、幽霊、妖怪の1000年』を読む。

もののけの日本史.jpg


本書は、

古代から現代までのモノノケを歴史学の視点から通史的に記述、

したもので、従来、

モノノケの歴史を扱っているかのように見える書籍も、言葉を厳密に区別せず、「物気」あるいは「物の怪」とは書かれていない霊、妖怪、幽霊、怨霊(おんりょう)、化物(ばけもの)の類まで含めてモノノケとして捉えて論じてきた傾向がある、

が、それでは、モノノケの本質を明らかにできないとして、本書では、

モノノケ、

と、

幽霊、
怨霊、
妖怪、

を区別している。

古代、モノノケは、

物気(もののけ)、

と表記し、多くの場合、

正体が定かではない死霊(しりょう)の気配、もしくは死霊を指した、

とある。モノノケは、

生前に怨念をいだいた人間に近寄り病気にさせ、時には死をもたらすと考えられていた、

のである。少なくとも、中世までは、モノノケは、

病をもたらす恐ろしい存在であった、

が、幽霊は、

死者や死体そのものも幽霊であり、人間に祟る性質は持たなかった、

とされる。しかし、近世、

幽霊はモノノケと混同される、

ようになり、祟る性質を持つようになる。そして、近世になると、

モノノケ、幽霊、怨霊、妖怪、化物が混淆して捉えられるようになり、前代のようには恐れられなくなった、

とあり、その結果、モノノケは、

物気、

ではなく、

物怪、

と表記されるようになり、

妖怪、

に、「もののけ」と訓ませたりするようになる。

生霊(いきりょう).jpg

(生霊(いきりょう) 鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』より)

死霊(しりょう).jpg

(死霊(しりょう) 仝上)

江戸時代になると、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』に見られるように、モノノケは、娯楽の対象へと変じていく。そして最後、モノノケは、水木しげるの漫画では、

物の怪、

という妖怪の名の一つへと堕している。妖怪「物の怪」は、こう述懐するのである。

むかしはなあ人間を暗い夜道なんかでおどかして……、おそなえものを頂くのが我々の商売だったんだが、このごろ人間は少しもおどろかなくなって、こちらの方がこわい位だ。商売は上ったりだ。科学が進むにつれてお化けの信用もガタ落ちしたもんだなあ……。

しかしコロナ蔓延の仲で、

半人半魚のは姿をしたアマビエの柄を描けば(もしくは見れば)疫病に罹患しないという伝説、

が蘇ってきた。古代のように、恐れおののく対象ではなくなったけれども、今日にも、モノノケの効き目はあるらしい。

アマビエの出現を伝える瓦版.png

(アマビエ 江戸時代後期の弘化3年(1846)刊行の木版画 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%93%E3%82%A8より)

モノノケとは、結局、人の心の心配、恐れの反映であり、それは、鬼も、幽霊も、妖怪も、かつては別々の由来と縁を持つものであったのに、今日ひとつ、妖怪に収斂したということは、細かく分けて恐れる対象ではなくなったということなのだろうか。それとも、「気」とか「気配」というものに対する感度が薄れてきた結果なのだろうか。

なお、「もののけ」に関連する事項としては、
「物の怪」http://ppnetwork.seesaa.net/article/462170562.html
「オニ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461493230.html
「たま(魂・魄)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/479583039.html
また、各種の「妖怪」については、
「妖怪」http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163408.html
「あやかし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/469248998.html
「つくも」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471093295.html
「蛇女房」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470866559.html
「豆腐小僧」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470849373.html
「魑魅魍魎」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470725845.html
「かまいたち」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470651320.html
「河童」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470280182.html
「化け猫」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461633915.html
「くだん」http://ppnetwork.seesaa.net/article/456407720.html
「山の神」http://ppnetwork.seesaa.net/article/449487464.html
「通り魔」http://ppnetwork.seesaa.net/article/437854749.html
「ぬえ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/433749921.html
「逢魔が時」http://ppnetwork.seesaa.net/article/433587603.html
「こだま」http://ppnetwork.seesaa.net/article/433340757.html
「きつね」http://ppnetwork.seesaa.net/article/433049053.html
「天狗」http://ppnetwork.seesaa.net/article/432888482.html
「うぶめ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/432495092.html
「火車」http://ppnetwork.seesaa.net/article/432314473.html
「鬼」http://ppnetwork.seesaa.net/article/430051927.html
「鬼女」http://ppnetwork.seesaa.net/article/425471202.html
また、「もののけ」「妖怪」に関連する書籍としては、
堤邦彦『江戸の怪異譚―地下水脈の系譜』http://ppnetwork.seesaa.net/article/432575456.html
山田雄司『怨霊とは何か』http://ppnetwork.seesaa.net/article/407475215.html
阿部正路『日本の妖怪たち』http://ppnetwork.seesaa.net/article/432927068.html
高田衛『日本怪談集〈江戸編〉』http://ppnetwork.seesaa.net/article/456630771.html
今野円輔『日本怪談集 妖怪篇』http://ppnetwork.seesaa.net/article/461651277.html
今野円輔『日本怪談集 幽霊篇』http://ppnetwork.seesaa.net/article/461217174.html
種村季弘編『日本怪談集』http://ppnetwork.seesaa.net/article/456520310.html
岡本綺堂『中国怪奇小説集』http://ppnetwork.seesaa.net/article/444432230.html
等々でそれぞれ触れた。

参考文献;
小山聡子『もののけの日本史―死霊、幽霊、妖怪の1000年』(中公新書)
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2021年02月25日

なみする


「なみする」は、

無みする、
蔑する、

と当て(広辞苑)、

君をなみし奉る(平家物語)、

というように、

ないがしろにする、
軽んずる、
その人が居ても居ないように振舞う、

意である。今日は、ほぼ使わない。平安期の名義抄に、

無・无 ナミス、
蔑 ナミス、ナイガシロ、

とある(大言海・岩波古語辞典)。「なみ」は、

無み、

と当て、

若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴(たづ)鳴きわたる(万葉集)、

と、

ないので、
ないままに、
ないために、

といった意味で使う(明解古語辞典)。「なみする」「なみす」は、

無みすの義、

とある(大言海)。つまり、

無いものと見做す、

というのが原義のようである。(多少価値表現が含まれるが)ただの状態表現が、

ないがしろにする、
軽んずる、

と意味の外延を広げ、価値表現の勝った使い方になっていったとみられる。

「み」は、

形容詞無しの語幹に接尾語ミのついたもの、

とある(広辞苑・明解古語辞典)。接尾語「み」は、一つは、

春の野の繁み飛び潜(く)くうぐいすの声だに聞かず(万葉集)、

というように、

形容詞の語幹について体言を作る、

とあり、ふたつには、

黒み、白み、青み、赤み(ロドリゲス大文典)、

と、

色合いを表し、三つには、

甘み、苦み(仝上)、

と、味わいを表すとある(岩波古語辞典)が、どうも、「なみ」は当てはまらない。その他に、

采女(うねめ)の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く(万葉集)、

と、

形容詞及び形容動詞型活用の助動詞の語幹につき、多くは上に間投助詞「を」を伴って、

のゆえに、によって、なので、

と、

原因・理由を表す(広辞苑・明解古語辞典)、

という接尾語があり、上記の、

若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴(たづ)鳴きわたる(万葉集)、

にも該当しそうである。

「なみする」に当てる、「蔑」(漢音ベツ、呉音メチ)は、

会意。大きな目の上に、さかさまに戈(カ 刃物)をそえて、傷ついてただれた目をあらわした。よく見えないことから、転じて目にとめないとの意に用いる、

とあり(漢字源)、「ただれた目」の意の他に、「相手を目にとめない」という意を持つ。別に、

会意、「艹」(艸くさ) +「罒」(目) +「戍」。『戍』は戈ほこで、目前の草を刈って見なかったように扱い、「ないがしろ」にすること、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%94%91が、

会意兼形声文字です(苜+伐)。「かすかで目に見えない精霊(草・木に宿っているとされる魂)」の象形と「横から見た人の象形と握りのついた柄の先端に刃のついた矛」の象形(「人に矛を当てて切る、取り除く」の意味)から、「精霊の力で退けて存在を認めない」、「あなどる」を意味する「蔑」という漢字が成り立ちました、

とあるhttps://okjiten.jp/kanji2112.html説明が、納得がいく。

「無(无)」(漢音ブ、呉音ム)は、

形声。原字は、人が両手に飾りを持って舞うさまで、のちの舞(ブ・ム)の原字。無は「亡(ない)+音符舞の略体」。古典では无の字で、無をあらわすことが多く、今の中国の簡体字でも无を用いる、

とある(漢字源)。また、

日本語の「なし」は形容詞であるが、漢語では「無」は動詞である、

ともある(仝上)。

甲骨文字(殷)「無」.png

(甲骨文字(殷)「無」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%84%A1より)

参考文献;
金田一京助・春彦監修『明解古語辞典』(三省堂)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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2021年02月24日

じゃがいも


「じゃがいも」は、

ジャガいも(芋)、

と表記するのは、

ジャガタラいもの略、

だからである(広辞苑)。

ジャバイモ、
オランダイモ、
カピタンイモ、

等々というのも、それとつながる(たべもの語源辞典)。

慶長年間(1596~1615)ジャカルタから渡来したから、

いう(広辞苑)が、「ジャガタラ」とは、

ジャカルタの呼称。近世日本ではジャワ島の意に誤解して、オランダ船がジャワ島から舶載した貨物にこの語を冠して呼んだ、

とある(仝上)。

バタヴィァ(Batavia)、

あるいは、

咬𠺕吧(からっぱ)

のことである(大言海)。

17世紀のバタヴィア.jpg


このため、

ジャガタラ縞(和漢三才図絵「咬𠺕吧柳條(じゃがたらじま)、紺與浅葱、縦横柳條木綿、俗称盲縞」)
ジャガタラみかん(ざほんのこと)、
ジャガタラ水仙(アマリリスの異称)、

等々と、ジャガタラを冠したものは少なくない。「じゃがいも」も、

ジャガタラいも、

と呼ばれたものの略称である。この由来には、「ジャガタラいも」説以外に、

ジャワ島の芋の意味のジャワイモが変化したもの、
天保の大飢饉ではジャガイモのおかげで餓死を免れたことから呼称された「御助芋」が転じたもの、

とする説もあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%A2

「じゃがいも」は、

馬鈴薯、

とも言うが、「じゃがいも」が渡来したのは長崎だが、全国に普及したのは、

明治七年(1874)アメリカから優良種イモが持ち込まれた、

以降とあり(たべもの語源辞典・日本語源大辞典)、そのせいか、

日本の行政では馬鈴薯と呼んでいる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%A2

「じゃがいも」の呼び名が、園芸学会、日本植物学会、日本土壌微生物学会では、

じゃがいも、

だが、日本育種学会、日本作物学会、日本植物防疫協会では、

バレイショ、

と呼ぶ(仝上)のは、日本において、

当初は観葉植物としての色合いが濃く、食用としてなかなか普及しなかった、

ことの反映でありhttps://www.jakitamirai.or.jp/nousantop/potato/potato2/、前者が植物としての名であり、後者は農作物としての名であり、「じゃがいも」が、本格的な農産物とされて以降かどうかに因るようである。

「馬鈴薯」の語源は、

マレーの薯の意https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%88%B4%E8%96%AF
駅馬の鈴馬の尻繋(しりがい)につける球形または楕円球形の鈴)のように実がなるから(外来語の話=新村出後)、

等々がある。

中国の文献『松渓県志』(1700年)に「馬鈴薯菜依樹生掘取之形有大小略如鈴子色黒而円味苦甘」(意訳:馬鈴薯は、葉は樹によって生ず。これを掘り穫れば、形に大小ありてほぼ鈴の如し。色は黒く、丸く、味は苦甘し)との記述がある、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%88%B4%E8%96%AF、そのため18世紀に小野蘭山が『耋筵小牘』(1807年)で、「じゃがいも」に、馬鈴薯を当てたものだが、これは、

まったくの別物(牧野富太郎博士)、

で、現在ではこの馬鈴薯は

アメリカホドイモであろうと比定されている、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%88%B4%E8%96%AF。漢名は、

洋芋、
または、
陽芋、

とされる(たべもの語源辞典)。ただ「馬鈴薯」の文字から、

馬につける鈴のように鈴なりにできる、

ことからこの漢字を当てたのではないか、と見られている(仝上)。英語のポテト(potato)の語源は、

タイノ族の言葉でサツマイモを意味するbatataがスペイン語のpatataに変化したもの、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%A2

ジャガイモ.jpg

(ジャガイモ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%8Bより)

「じゃがいも」は、江戸時代以降、米の収穫に不利な山間・寒冷地での栽培が広まったため、地方名や地方品種も多い(仝上)。

ごしょいも(五升薯)、
ハッショウイモ(八升薯)、
にどいも(二度芋)、
さんどいも(三度芋)、

という(仝上・たべもの語源辞典)のは、収穫量を言っているのだし、

善太夫芋、
清太夫芋、
治助イモ、

等々というのは、ジャガイモの普及に尽力した人の名を取っている(仝上)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2021年02月23日

そそけだつ


「そそけだつ」(そそけ立つ)は、

髪の毛などがそそける、

意だが、その状態表現をメタファに、

身の毛がよだつ、
ぞっとする、

という価値表現の意でも使う。「そそける」は、

(髪・織物などが)ほつれ乱れる、けば立つ、

意で(広辞苑)、「そそく」からきている。「そそく」は、

噪く、

と当て、

せかせかと物事をする(堤中納言物語「あすのこと思ひ侍に今より暇なくて、そそきはむべるぞ」)、
ざわざわさせる、けばだたせる(大鏡「これかれそそき侍らむもうるさきに」)、

の意となる(岩波古語辞典)。

ただ、「そそく」には、

進く、

と当てて、

忙しくする、

意の「そそく」と、

噪く、

と当て、

乱れる、

意の「そそく」とがある(大言海)。だから、乱れた髪の意で、

そそけ髪、

という言い方もある(広辞苑)。

前者の、「そそく(進)」は、

ソソクは、燥急(そそ)くの義、イススクの上略、

とあり、「いすすく」は、

倉皇、

と当て、

心落ち着かず身震いする、

とあり、

イは発語、ススクは、進む、すすろぐ、と通ず、

とある(大言海)が、

うすすきの母音交替形、

とあり(岩波古語辞典)、

うつつす、

とも通じ、

そわそわする、
おろおろする、

意である(仝上)。「すすろぐと通ず」とある「すすろぐ」も、心が落ち着かなくなる意である。

一方、後者の「そそく(噪)」は、

蓬蓬(ほうほう)、

と当て(大言海)、

髪、紙、織物などのけば立つ、

意となり(仝上)、

ソソは擬態語。そわそわ・せかせか・ざわざわなどの意。キは擬音語・擬態語を受けて動詞を作る接尾語。カカヤキ(輝き)・ワナナキ(震)のキに同じ。ソソキ(注・灌)とは別音の別語、

とある(岩波古語辞典)。この他に、第三の「そそく」として、

みだれ、そそくる、

意として、

ささく(噪進)の転、

とする「そそく」を別項として上げている(大言海)。これは、

すかすく、いすすく、そそくと通ず、

とあり(仝上)、

すすむ、
ぞめく、

意とする。こうみると、「そそく」は、由来を異にする、

せかせかする、
ざわざわさせる、けばだたせる、

の両義が重なっていると見ることができる。だから、

そそく→そそくる、

と転じた「そそくる」は、

ソソはソソキ(噪)のソソ、クリは繰り、

とあり(岩波古語辞典)、

せかせかと忙しく手先を動かす、

意となり、おそらく、

そそくさ、
そそかし(そそっかし)、

は、その意の外延に連なる。

そそく→そそけ(名詞)→そそける(→そそけ立つ)、

の転訛の「そそける」は、

髪の毛のほつれる、

意となる(大言海)。

けば立つ、ほつれる、

の意の

そそくれ、

という語があり(江戸語大辞典)、この「そそ」は、

髪のそそけ立つ、

意から、

そそ髪、

さらに、そこから、恐怖の為に髪の毛が逆立つ意の、

ぞぞ髪立つ、
あるいは、
ぞぞ髪がたつ、

という言葉に到る(大言海・江戸語大辞典)。あるいは、

総毛立つ、
総毛立ち、

は、

そそげ立つ、
あるいは、
ぞぞ髪立つ、

からの転訛なのかもしれない。ちなみに、「総毛立つ」は、今日、

そうけだつ、

と訓むが、室町末期の日葡辞書には、

そうげだつ、

とある(広辞苑・岩波古語辞典)。

ところで、第三の「そそく」の意味に「ぞめく」があったが、「ぞめく」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475352944.htmlで触れたように、「ぞめく」は、

ざわざわと騒ぐ、
(遊里や盛り場を)騒いで浮かれ歩く、

という意(岩波古語辞典)で、この「ぞめく」、古くは、

そめく、

で、「そめく」は、

さめくの転、

とある(大言海)。そして、

そそめくに同じ、

そして、

急ぎ騒ぐ、

意とする。「そそめく」は、

騒騒(さわさわ)する、そよめく、そめく、

の意が載る(大言海)。

ソソはソソク(噪)・ソソノカス(唆)のソソと同根、

とある。「ぞめく」もまた「そそく(噪)」の、

ソソは擬態語。そわそわ・せかせか・ざわざわなどの意、

とつながるのである。

とすると、「そそく」の、

そそ、

「そそめく」の、

そそ、

は、もととなる擬態語は、せわしいさまの、

そわそわ、

のようである。

とすると、「ぞめく」が、

そそ→そそく→そそめく→そめく、

と転訛し、「そそけ立つ」が、

そそく→そそけ(名詞)→そそける(→そそけ立つ)、

と転訛したとみると、「そそく」の意味の、

せかせかする、
ざわざわさせる、けばだたせる、

の両義は、せわしなく、

わさわさ、
そわそわ、
そそくさ、
あたふた、

した落着かない擬態を、けば立つさまの、

細かい毛がそそけ立つ、

状態表現に転用したものではあるまいか。

「そそく」に当てた「噪」(ソウ)は、

会意兼形声。喿(ソウ さわがしい)は、「木+口三つ」の会意文字で、木の上で鳥ががやがやと騒ぐさまを示す。佐噪はそれを音符とし、口を加えた字で、騒と極めて近い、

とある(漢字源)。

漢字 噪.gif


参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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2021年02月22日

しかと


「しかと」は、

シカトする、

の「シカト」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461268136.htmlではなく(これについては触れた)、

しかと相違ありません、

と使う副詞の「しかと」である。今日、あまり使わない。

「しかと」は、

確と、
聢と、

と当て(広辞苑)、たとえば、

①はっきりしているさま、はっきりと、分明に、ちゃんと(万葉集「志可登(シカト)あらぬ鬚かき撫でて吾れをおきて人はあらじと誇ろへど」)、
②たしかであるさま、確実なさま、たしかに、かならず(史記抄(1477)「縦しかと腎か両方にあると云証拠はなくとも、命門を指て陰支蘭蔵と云べきぞ」)、
③いいかげんでないさま、かたく、しっかりと(太平記「淵辺御胸の上に乗懸り、腰の刀を抜て、御頸を掻んとしければ、宮御頸を縮て、刀のさきをしかと呀(くわへ)させ給ふ」)、
④十分に、完全に、よく(上杉家文書(1569)四月二七日・北条氏康書露状「次遠州之儀、兵粮然と断絶候」)、
⑤すきまのないさま、びっしりと(太平記「誰か候と被尋ければ、其国の某々と名乗て、廻廊にしかと並居たり」)、
⑥自分の望みどおりにするさま(日葡辞書(1603‐04)「xicato(シカト)ゴザレ〈訳〉自分の望みどおりにしている」)、

等々といったように、かなり意味の幅がある(精選版日本国語大辞典)が、要は、

かたく、しっかりと、また、十分に、完全に、しっかと、
はっきりと、
すきまなく、びっしりと、

といった意味(広辞苑・岩波古語辞典・デジタル大辞泉)の外延を広げた使い方をしているということだと思う。

「しかと」を促音化した、

しっかと(確と)、

は、

「しかと」を強めた言い方、

で、

①動作・態度などがしっかりしているさま、しっかり(史記抄(1477)「嗇夫は嗇はをしむやうな心で物をよくしっかとつましふする小官の名也」、浄瑠璃・烏帽子折(1690頃)「飛びかかってしっかと取れば」)、
②物事の状態などがしっかりしているさま(百丈清規抄(1462)「韈(たび)を以てしっかと褁(つつみ)て鞋(わらじ)を着けよぞ」)、

と使われているところを見ると(精選版日本国語大辞典)、より意味の幅は狭められる。

この「しかし」は、「しっかり」http://ppnetwork.seesaa.net/article/445338219.html?1612319017で触れたように、

確り、
聢り、

と当てる「しっかり」とつながり、

シッカは、聢(しか)の延(大言海)、
シカとの語根シカが、音韻変化で、シッ+カ+リ、となった(日本語源広辞典)、

と見る説がある。さらに、

「しっかり」の最古の語形は、奈良時代の「しかとあらぬひげ(多くはない髭)」(万葉集)に見られる。これは現代でも、「しかと聞く」「しかと見分ける」などのように使われる。この「しかと」の強調形が「しっかと」で、室町時代に、「(扇の)かなめしっかとして」(狂言「末広がり」)という例がある。それが江戸時代になり、「しっかりとした商人のひとりむすこ」(洒落本『辰巳婦言』)のように、「しっかり」の例が出てくる(擬音語・擬態語辞典)、

とあり、「しっかり」は、

しかと→しっかと→しっかり、

と変化した(仝上)とみて、「しかと」を始原とするとする説があった。意味の流れから見ると、その説が自然に思えるか、「しっかり」で触れたように異説もあるhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/445338219.html?1612319017

では、「しかと」は、何に由来するのか。大言海は、意味で分け、

固く結する状に云ふ、

しかと(緊)、

と、

しっかりと、たしかに、
分明に、

の意の、

しかと(聢と)、

を分け、前者は、

シカはたしかの略、

後者は、

シカは、シカ(然)と同意か、

としている。「しか(然)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480132942.html?1613850354については触れた。

シは緊縮の義、固く保ち、極める意(国語の語根とその分類=大島正健)、
シカ(然)と助詞トの複合(岩波古語辞典)、
タシカ(確か)の略(言元梯)、
シカ(確か)+と(福祉化)(日本語源広辞典)、
其斯と慥かめる義(日本語源=賀茂百樹)、

と諸説を見ると、大言海の言う、

しかと(緊)、

しかと(聢と)、

らほぼ二つに分かれる。これは和語「しかと」が幅広い意味を持っていたせいではないか、と推測される。その意味の幅の分、由来は別の可能性はあると思う。

「しかと」に当てた漢字を見ておくと、「確」(カク)は、

形声。隺(カク)は、高く飛ぶ白い鳥を表す。ここでは単に音を示すだけである。確は、もと固くて白い石英。石のようにかたくて、しかも明白なの意を含む、

とある(漢字源)。「しかと」に当てたのは慧眼である。別に、

形声文字です(石+隺)。「崖の下に落ちている石」の象形(「石」の意味)と「はるか遠いを意味する指事文字と尾の短いずんぐりした小鳥の象形」(鳥が高く飛ぶの意味だが、ここでは「硬」に通じ(「硬」と同じ意味を持つようになって)、「かたい」の意味)から、かたい石を意味し、そこから、「かたい」、「たしか」を意味する「確」という漢字が成り立ちました、

とありhttps://okjiten.jp/kanji824.html、より具体的である。

漢字 確.gif


もうひとつ「しかと」に当てる「聢」は、和製漢字。

会意。「耳+定(しかときめる)」で、耳で聞いて決める意、

で国字である(漢字源)。

「しかと」には当てないが、「たしかに」に当てる「慥」(慣用ゾウ、呉音・漢音ソウ)は、

会意兼形声。造次(ゾウジ 急ごしらえ)の造は、あわただしく寄せ集めること。慥は「心+音符造」で、そそくさと急場を作ろう気持のこと、

とあり(仝上)、「あわただしい」意であり、「たしか」の意はない。「急慥え」とつかう、「こしらえる」意も、漢字にはもともとない(仝上)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:しかと
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2021年02月21日

しか


「しか」は、

然、
爾、

と当てる(広辞苑)。

奥城(おくつき)をここと定めて後の世の聞き継ぐ人もいや遠に偲(しの)ひにせよと黄楊小櫛(つげおぐし)しか刺しけらし生ひて靡けり(万葉集)、

のように、

そのように、さように、

の意味である(岩波古語辞典)。さらに、転じて、

内裏(うち)よりと宣(のたま)へばしかまかではべるままなり(源氏)、

というように、

(感動詞的に用いて、相手の言葉を肯定する)そう、そうです、

の意味で使う(仝上)。「しか」は、

シはサと同義の副詞、カは接尾語、

とある(広辞苑)が、

指示代名詞「し」+接尾語「か」から(デジタル大辞泉)、
指示語「し」に接尾語「か」のついたもの(日本語源大辞典)、

とあるので、「し」は指示詞とみていい。さらに、

代名詞シと状態を示す接尾語カとの複合。すでに述べた状態を指示する語。上代では歌にも使われたが、平安時代には漢文訓読に使い、平安女流文学ではこれに当たる語は「さ」で、「しか」は男性の言葉として使われることが多い、

とある(岩波古語辞典)。そして、

和文では平安以後「さ」が多くなるが、「さ」が発生した後でも、「しか」は漢文訓読語として、依然として使われた。室町以後は一般には減少し、「かく」から変じた「こう」や、「さ」から変じた「そう」などがこれに代わっていく、

とある(日本語源大辞典)。ところで、

指示語「し」+接尾語「か」

の、接尾語「か」は、

カアヲ・カボソシなど接頭語のカと同根、

とあり、確かに、

物の状態・性質を表す擬態語などの下につき、それが目に見える状態であることを示す、

とあるが(仝上)、

のどか、
ゆたか、
なだらか、

等々の用例から見ると、ちょっと違う気がして、少し疑問が残る。といって、

其気(そけ)の転(大言海)、
シは発語、カは古語カレ(故)のカと相通ず(国語の語根とその分類=大島正健)、
シカ(息香)の義。息は水、香は火をいい、万事は皆水火をもととするため、種々品々をさしてシカという(柴門和語類集)、
イカスガ、またはサスガの略(類聚名物考)、

というと、あまりにもひねくりすぎて首をかしげる。

ただ、「か」が、

接頭語「か」と同根、

とある(岩波古語辞典)。接頭語「か」は、

アキラカ・サヤカ・ニコヨカなど、接尾語カと同根、

とあり、

か細し、
か弱し、

等々のように、

目で見た物の色や性質などを表す形容詞の上につき、見た目に……のさまが感じられるという意を表す、

とあり、

転じて、ケ(気)となる、

とある。接尾語「か」も、

後に母音変化を起こして、「け」となり、「あきらけし」「さやけし」などのケとして用いられ、「さむげ」などのゲに転じた、

とある(仝上)。とすると、

其気(そけ)の転(大言海)、

はあり得るが、しかし「しか」の「し」が指示詞なら、「か」は、

ありか(有處)、
すみか(住處)、
かくれが(隠處)、

の、

處、

とあてる接尾語「か」ではあるまいか。

處(こ)に通ず、

とあり(大言海)、「しか」は、

指示「し」+か(處)、

の方が意味が一貫する気がするのだが、もちろん勝手な憶説ではある。

漢文訓読で使われ、残ってきたせいからか、今日残る言葉は、

しかして(然して 漢文訓読 体で使う、シテは助詞 そして)、
しかしながら(然しながら・併しながら シカは然、シは有りの意の古語。ナガラは助詞。そうであるままの意。転じて、そのまま、すべての意。事の成り行きはすべて……であると判断を下す用法から、接続詞として、結局のところの意。ナガラがそのままの意から転じて、……けれどもと逆接の意を表すに至ったと同じく、シカシナガラも広く逆接の条件句にも使うようになって、けれども、だが、の意。現在の「しかし」はこの語の下略形(岩波古語辞典))、
しかすがに(然すがに シカは然、スは有りの意の古語。ガは所の意。アリカのカの転。ニは助詞。平安時代以後、サスガニとなる(岩波古語辞典)、シカスルカラニの約(大言海) そうであるところでの意が古い意味、転じてそうではあるが)、
しかのみならず(然のみならず そればかりでなく)、
しかも(然も 副詞シカに感動の助詞モのついたかたち)、
しからば(然らば シカアラバの約 そうであるのならば)、
しかり(然り シカアリの約 そうである)、
しかるあひだ(然る間 シカアルアヒダの約。そうであるうちに)、
しかるに(然るに シカアルニの約 そうであるのに)、
しかるべし(然るべし シカアルベクの約 そうなるように定められている)、
しかるを(然るを シカアルヲの約 そういう状態で)、
しかれども(然れども シカアレドモの約 そうではあるが)、
しかれば(然れば シカアレバの約 そうだから)、

等々、漢文訓読風である。「然り」は、「シカアリ」の約だが、

さり、

とも訓ませる。

サアリの約、

とあり(広辞苑)、

平安女流文学ではこれに当たる語は「さ」、

とある「さ」に転じた後も「しか」と「さ」は両用だったことによるのだろう。

然云ふ、

は、

漢文で「云爾(うんじ)」の訓読、

で、

文章の末尾に用い、上に述べた通りである意、

である。

「しか」に当てられた漢字を見ておくと、「然」(漢音ゼン、呉音ネン)は、

会意。上部はもと厭の厂を除いた部分と同じで、犬の脂肪肉を示す会意文字。然は、その略体で、脂(あぶら)の肉を火で燃やすことを意味する。燃の原字で、難(自然発火した火災)と同系、のち然を指示詞ゼン・ネンに当て、それ・その・その通りなどの意をあらわすようになった。そのため燃という字でその原義(もえる)を表すようになった、

とある(漢字源)。で、「しかり」と肯定・同意するときの言葉、転じて、「そう、よろしい」と引き受けるのを「然諾」といい、イエスかノーかを「然否」という、とある(仝上)。別に、より分解して、

会意。「月」(肉) +「犬」+「灬」(火)を合わせて、犬の肉を炙ること。「燃」の原字。音が仮借されたもの(藤堂)、又は、生贄の煙を上げ神託を求める(白川)。難と同系、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%84%B6のがわかりやすい。

金文(戦国時代) 然.png

(金文(戦国時代) 「然」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%87%91%E6%96%87より)
「爾(尓)」(漢音ジ、呉音ニ)は、

象形。柄にひも飾りのついた大きいはんこを描いたもの。璽(はんこ)の原字であり、下地にひたとくっつけて印を押すことから、二(ふたつくっつく)と同系のことば。またそばにくっついて存在する人や物をさす指示詞に用い、それ、なんじの意を表す、

とある(漢字源)。同趣旨だが、

象形。(例えば漢委奴国王印のような形の)柄に紐を通した大きな印を描いたもの(あるいは花の咲く象形とも)。音が仮借され代名詞・助辞などに用いられるようになったため、印には「璽」が用いられる、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%88%BE。近くにいる相手を指す二人称の「なんじ」の意と、近くにある事物や前に述べた事物・事柄を示す「それ」「そのような」の意でもある。

「然」「爾」は、「しこうして」の意の「而」とともに接続詞として使われるが、三者の違いはこう比較されている(字源)。

「而」は、て、にて、して、しかるに、しかも、などと訓み、「承上起下之辞」と註す。されば而の字を句中に置くときは、かならず上下二義あり、上下の二義、折るることあり、「哀而不傷」の如し、折れざることあり、左傳に「有威而可畏、之謂威」の如し。折るる場合には、しかもと訓むべし、
「然」は、而と同用にして、意重し、しかれどもと訓むときは、雖然の義にして、語緊(かた)し、
「爾」は、如是の義にて、然と同じ。卓然を卓爾、卒然を卒爾などと云ふにて知るべし。但し、然の字よりは意軽し、……爾時は然りし時の義にて、其の当時をさして云ふ。故に、爾の字を一に指辞とも解す、

要は、意味の差ではなく、意の重さを言うだけのようである。

因みに、「而」(漢音ジ、呉音ニ)は、

象形。柔らかくねばったひげのたれたさまを描いたもの。ただ、古くから、中称の指示詞に当て、「それ」「その人(なんじ)」の意に用い、また指示詞から接続詞に転じて、「そして」「それなのに」というつながりを示す、

とあり(漢字源)、

象形。頬ひげ(説文解字など)、または、結髪をせず髪を振り乱した様をかたどる。巫女が、そのようにして雨乞いをするさまを「需」という(白川)。早くに元の意味は失われ、音を仮借した意味のみ残る、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%80%8C

甲骨(殷)而.png

(甲骨文字(殷)「而」) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%80%8Cより)

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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ラベル:しか
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2021年02月20日

しく


「しく」は、

及ぶものはない、

の意で、

如くは無し、

と使い、また、

百聞は一見に如かず、

の「しか」は至り及ぶ意の「しく」の未然形に打消しの助動詞ズをつけて、

(それに比べて)及ばない、
(それに)まさるものはない、

の意で使う(岩波古語辞典)。「しく」は、

如く、

と当てる。「如く」を、

ごとく、

と訓む「ごとし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480100196.html?1613678333は触れた。そこで触れたことと重なるが、「如」(漢音ジョ、呉音ニョ)は、

会意兼形声。「口+音符女」。もと、しなやかにいう、柔和に従うの意。ただし、一般には若とともに、近くもなく、遠くもない物を指す指示詞に当てる。「A是B」とは、AはとりもなおさずBだの意で、近称の是を用い、「A如B」(AはほぼBに同じ、似ている)という不則不離の意を示すには中称の如を用いる。仮定の条件を指示する「如(もし)」も現場にないものを指す働きの一用法である、

とある(漢字源)。「人世如朝露」というように、「~のようだ」の意で使うが、「若」と同じく、「如有復我者(もし我を復する者有らば)」のように「もし」の意でも使うし、A如B(AもしくはB)の形でも用いる(仝上)。

「如」については、

会意形声。「口」+音符「女」。「女」は「若」「弱」に共通した「しなやかな」の意を有し、いうことに柔和に従う(ごとし)の意を生じた。一説に、「口(神器)」+音符「女」、で神託を得る巫女(「若」も同源)を意味し、神託に従う(ごとし)の意を生じた、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A6%82

会意兼形声文字です(女+口)。「両手をしなやかに重ねひざまずく女性」の象形(「従順な女性」の意味)と「口」の象形(「神に祈る」の意味)から、「神に祈って従順になる」を意味する「如」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1519.htmlあるので、旁の「女」には、「神託を得る巫女」の意があるものとみてよさそうである。

甲骨文字 殷 如.png

(甲骨文字(殷)「如」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A6%82より)

しかし、「しく」は、

及く、
若く、

とも当てる。

甲骨 殷 若.png

(甲骨文字(殷)「若」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8B%A5より)

「若」(漢音ジャク・ジャ、呉音ニャク・ニャ)は、

象形。しなやかな髪の毛をとく、からだの柔らかい女性の姿を描いたもの。のち、草冠のように変形し、また口印をくわえて若の字になった。しなやか、柔らかく従う、遠回しに柔らかく指を指す、などの意を表す。のち、汝(ジョ)、如(ジョ)とともに、「なんじ」「それ」をさす中称の指示詞に当てて用い、助詞や接続詞に転用された、

とある(漢字源)が、

象形。手を挙げて祈る巫女を象る物であり、「艸」(草)とは関係ない。髪をとく、体の柔らかい女性を象る(藤堂)。手や髪の部分が、草冠のように変形した。後に「口」を添え、「神託」の意を強くした(藤堂)、又は、神器を添えたものとも(白川)。神託から、「かく」「ごとし」の意が生じる。「わかい」巫女が祈ることから、「わかい」の意を生じたものか。音は、「女」(本当?)「如」「弱」「茹」等と同系で、「やわらかい」の意を含む。また音を借り、中称の代名詞、助詞や接続詞に用いられた、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8B%A5、「若」の由来がよくわかる。「如」と似た使い方をされ、「A若B」で、AもしくはB、AまたはBの意や、若是と、かくのごとしのように、「ごとし」の意で使われる。ために、「しく」に当てたものと思われる。

「及」(漢音キュウ、呉音ゴウ)は、

会意。「人+手」で、逃げる人の背に追う人の手が届いたさまを示す。その場、その時にちょうど届くの意を含む、

とあり(仝上)、「如」「若」とは異なり、AとBと事物を列挙する意を表す。むしろ後述の通り、「しく」の意から、「及」を当てたと見える。「如」の項で、

奈良時代の日本語で、「及ぶ、届く」の意、「不如(しかず)」(~に及ばない)、「莫如(しくなし・しくはなし)」(其れに及ぶものはない)、「不如学也(学ぶに如かず)」

とある(仝上)のは、その意味と受け止めた。

甲骨(殷)及.png

(甲骨文字(殷)「及」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8F%8Aより)

和語「しく」は、まさに、「及」の意で、

距離を隔てたものの後を追って対等に並ぶ意(広辞苑)、
追って行って、先行するものに追いつく意(岩波古語辞典)、

とあり、

追いつく、
及ぶ、肩を並べる、
匹敵する、

意味である。

シク(敷・頻)と同根、

とある(岩波古語辞典)。「しく」(敷・領)は、

一面に物や力を広げて限度まで一杯にする、すみずみまで力を及ぼす意、シク(及・頻)と同根、

とあり、

曲廬(まげいほ)の内に直土(ひたつち)に藁解き敷き父母は枕の方(かた)に妻子(めこ)どもは足(あし)の方(かた)に囲み居て憂へ吟(さまよ)ひ(貧窮問答歌)

と、

物を平らに延べ広げて隅まで一杯にする、

意だが、「しく」に「領」を当てると、

すめろぎの神の命(みこと)の敷きいます国のことごと湯はしもさわにあれども(万葉集)、

と、

辺り一面に隅々まで力を及ぼす、一帯を治める、

意となり、「しく」に「頻」「茂」を当てると、

シク(敷・及)と同根、

で、

住吉の岸の浦廻(うらみ)にしく波のしくしく妹(いも)を見むよしもがも(万葉集)、

というように、

痕から後から追いついて前のものに重なる、

意で使われる。「しくしく」は、

及く及く、

で、

波が寄せてくるように後から後から絶えないで、

という意味で、要は、

絶え間なく、

の意である。「しくしく」と「しく(頻)」とつながる言葉と思われる。こうみると、「しく」(及)と「しく」(頻)とは、

痕から追いつく、

という含意で、ほぼ意味が重なる。とすると、「しく」は、

物を平らに延べ敷く、
あるいは、
力が目一杯広がった、

結果、

追いついた、という意味に、意味の外延が広がった、と見ることができるのではないか。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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ラベル:しく 如く 及く 若く
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2021年02月19日

ごとし


「ごとし」は、

~の如く、

と使う。これは、

比況の助動詞「ごとし」の連用形、

で、

活用語の連体形、体言、助詞「の」「が」に付いて、

彼の言うごとく、
とか、
今さらのごとく、

といったように、

比喩・例示を表し、~のように、~のとおり、

の意で使う(デジタル大辞泉)。現代では文章語的表現、または改まった表現をする場合に用いられる(仝上)、とある。

甲骨文字 殷 如.png

(甲骨文字(殷)「如」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A6%82より)

「ごとし」に当てる「如」(漢音ジョ、呉音ニョ)は、

会意兼形声。「口+音符女」。もと、しなやかにいう、柔和に従うの意。ただし、一般には若とともに、近くもなく、遠くもない物を指す指示詞に当てる。「A是B」とは、AはとりもなおさずBだの意で、近称の是を用い、「A如B」(AはほぼBに同じ、似ている)という不則不離の意を示すには中称の如を用いる。仮定の条件を指示する「如(もし)」も現場にないものを指す働きの一用法である、

とある(漢字源)。「人世如朝露」というように、「~のようだ」の意で使うが、「若」と同じく、「如有復我者(もし我を復する者有らば)」のように「もし」の意でも使うし、A如B(AもしくはB)の形でも用いる(仝上)。

「如」については、

会意形声。「口」+音符「女」。「女」は「若」「弱」に共通した「しなやかな」の意を有し、いうことに柔和に従う(ごとし)の意を生じた。一説に、「口(神器)」+音符「女」、で神託を得る巫女(「若」も同源)を意味し、神託に従う(ごとし)の意を生じた、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A6%82

会意兼形声文字です(女+口)。「両手をしなやかに重ねひざまずく女性」の象形(「従順な女性」の意味)と「口」の象形(「神に祈る」の意味)から、「神に祈って従順になる」を意味する「如」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1519.htmlあるので、旁の「女」には、「神託を得る巫女」の意があるものとみてよさそうである。

さて「ごとし」は、確かに助動詞であるが、

動詞・助動詞の連体形を承ける。しかし、「……がごとし」「……のごとし」のように助詞の「の」「が」にもつづく。助動詞は助詞を承けることはないものであるから、上のような用法のある「ごとし」は本来の助動詞ではない、

とされる(岩波古語辞典)。その背景は、「ごとし」の成り立ちと絡む。「ごとし」は、

同一の意味の体言「こと」の語頭の濁音化した「ごと」に、形容詞化する接尾辞「し」のついた語。活用語の連体形、助詞「が」「の」につく。まれに名詞につく使い方もある。古くは「ごと」が単独で使われた。活用形の変則的用法として、副詞的には「ごとく」の他に「ごとくに」も用いられ、指定の助動詞「なり」には「ごとき」の他に「ごとこく」「ごとし」からも続く。平安時代には漢文訓読分に用いられ、かな文字系(女流文学系)では「やうなり」が一般であった。現代口語では、文章語的な文体で「ように」の意味で「ごとき」が用いられる、

とある(広辞苑)。「ごと」は、

同、
如、

と当て(岩波古語辞典)、

古に恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きし我が恋るごと(額田王)

と使われ、

コト(同)と同根、後に如しの語幹となる、連体修飾語をうけて、

とあり(仝上)、「~と同一」の意で、

ごと(毎)、

とはアクセントと意味から別語とある(仝上)。「こと」は、

同、

と当て、

花細(ぐは)し桜の愛(め)でてこと愛でば早くは愛でず我が愛づる子ら(允恭天皇)、

と使われ、

如し(ゴトシ)と同根、仮定の表現を導くに使う。「こと」(別・異)とは起源的に別語、

とあり(仝上)、

此語、常に多く、何のごと、某(ソレ)のごとと、他語のしたに用ゐられ、連声にて濁る、されど独立なるときは清音なるなり(万葉集古義)。ただし、清音にて、語尾の活用したるを見ず、古今集の歌の、ことならむを、顕注密勘に、かくの如くならむの意と釈せり、

としている(大言海)。

しかしもともと、「こと」は、体言である。だから、

「見けむがごと」といえば、「見たというのと同一」の意である。この用法の発展として、他の事・物に比較して「……とおなじだ」「……のようだ」の意を表す「ごとし」があらわれた(岩波古語辞典)、

というような用法を可能にしたのである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ラベル:ごとし 如し
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2021年02月18日

おやま


「女形」http://ppnetwork.seesaa.net/article/430104540.htmlについては触れたことがある。「おやま」は、

女形、

と当て、

仮名遣いでは、

をやま、

とも表記した(広辞苑)。また、「おやま」は、

お山、
於山、

とも当て、

女形人形の略、またはその人形遣い手、
歌舞伎で、女の役をする男役者、おんな形、またはその略、
(上方語)色茶屋の娼妓、後に遊女の総称、
美女、または女、

といった意味がある(広辞苑)。幕末の『守貞謾稿』には、「於山」について、

江戸にて芝居の女形を於山とも云也、一座中の女形の上品をたておやまと云也、立於山也、

とあり、さらに、

妓品の名目に非ず、京阪の俗は、太夫、天神の二妓を除きて、その他は官許非官許の賣女ともに、遊女の惣名をおやまと云也、

とある(大言海)。で、江戸後期の『嬉遊笑覧』には、

小山次郎三郎といふもの女の人形をよくつかふ。遊女傾城の類をおやまといふにより是をおやま人形といふといへり。紛らわしき書やうなり。思ふに上かたにて遊女をおやまといふによりとなへしならむ、

とある(日本語源大辞典)。つまり、

上方には人形遣いや歌舞伎に先立ってもともと遊女を意味する「おやま」という語があった、

と考えられる(仝上)。その由来は、

遊女は眉墨を山の形につけたから(嬉遊笑覧・和訓栞)、
遊女を指す「やましゅう」(山衆・山州)に、接頭語「お」をつけて「しゅう」を略した(物類称呼)、

等々があるが、「おやま」を「遊女」の意で使ったのは上方のみであり、『守貞謾稿』と同様、江戸中期の『物類称呼』も、

江戸にてはをやまと云名は戯場(しばい)のみ有、

としている。ちなみに、歌舞伎では、

貞享元年(1684)刊の役者評判記「野良三座詫」に、二代目伊藤小太夫が他の女形と区別して「おやま」と称されているのが最初、

とある(日本語源大辞典)。なお、「女形人形」(おやまにんぎょう)とは、

承応年間(1652~1655)、人形遣いの小山次郎三郎が江戸の操り人形芝居で巧みに使った遊女の人形、また女形の人形、おやま、

の意で、このため「おやま」の語源を、

小山次郎三郎が巧みに使った女の人形を「小山人形」といい、その後、女の人形を使う人形遣いを「おやま……」というようになり、それが歌舞伎の世界に移って「女形(おんながた)」のことを「おやま」というようになって、美女や遊女の称に用いるようになった、

とする説があるのである。しかし、上記の「おやま」の上方での由来を見ると、

遊女を指す「おやま」→小山(おやま)人形→女形(おやま)、

と真逆の変遷とみるべきなのかもしれない。

なお、今日東京都の無形文化財 に指定された「江戸糸あやつり人形」というのがあるが、これは、

江戸時代の寛永12年(1635年)に初代結城孫三郎が創設以来、現在12代目結城孫 三郎まで380年以上の歴史があります、

とあり、「小山人形」とのつながりはないが、面影を推測はできる。

伽羅先代萩.jpg

(江戸糸あやつり人形「伽羅先代萩」 http://www.tokyo-tradition.jp/archive/15/program/p01_03.htmlより)

「女形」を、

おんながた、

と訓むと、

女方、

とも当て(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%BD%A2・江戸語大辞典)、

演劇で、女役に扮する男の役者、またその役柄、

という意味で、

おんなやく、

とも言い、

おとこがた、

がその対で、

男形、
男方、

と当てる。いわゆる、

立役(たちやく)、

とも言うが、ただ、「立役」は、

もとは座っている地方(じかた)・囃子方に対して、立って舞う立方(たちかた)すなわち俳優全体の意であったが、後には女形以外の男役の総称となり、さらに老役(ふけやく)・敵役(かたきやく)・道外方(どうけかた)以外の男役の善人の役を言うようになった、

と少し意味を変えているが(広辞苑)。

「おとこがた」「おんながた」の、「がた」は、

接尾語で、ガタと濁る、

とあり、

~役、

という意味になる(岩波古語辞典)。囃子方などと同じとある。だから、

ガタは「方」つまり、能におけるシテ方、ワキ方などと同様、職掌、職責、職分の意を持つものであるから、原義からすれば「女方」との表記がふさわしい。歌舞伎では通常「おんながた」と読み、立女形(たておやま)、若女形(わかおやま)のような特殊な連語の場合にのみ「おやま」とする、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%BD%A2、ここでも、

「おやま」は一説には女郎、花魁の古名であるともされ、歌舞伎女形の最高の役は花魁であることから、これが転用されたとも考えられる、

とある(仝上)。

これは、「女形」http://ppnetwork.seesaa.net/article/430104540.htmlで触れたように、小谷野敦氏が、遊女の由来から、女形の呼び方について、

「遊女」というのは平安朝以来の名称で、むしろ中世の、江口・神崎で、水辺に棲んで舟に乗り、淀川を下ってくる男たちに声をかけるのが遊女、地上を旅して春を鬻ぐのを傀儡女(くぐつめ)、男装したものを白拍子などといった。中世には前の二つはあわせて遊女とされ、遊女の宿といったものが宿駅に出来たりしたし、京の街中には、地獄などと呼ばれる遊女宿があり、遊君(ゆうくん)、辻君(つじきみ)、厨子君(ずしきみ)といった娼婦が現れた。…近世以来、上方では娼婦を「おやま」と呼んだ、

とし、

歌舞伎の女形が「おやま」と言われるのは、人形浄瑠璃で、遊女の人形を「おやま人形」と呼んだことから来ている。だから、女形の人は、「おやま」と言われるのを嫌い、「おんながた」としてもらうことが多い、

とするのとも重なる。「女形」を、

おんながた、

と呼ばせる謂れはここにあるらしい。『大言海』が、「をやま」の項で、

歌舞伎の女形(おんながた)の称、その大立者(おおだてもの)なるを立をやま、少女なるを、わかをやまと云ふ、

と、「おんながた」と「をやま」を区別しているのは、この由来のようである。

坂東善次の鷲塚官太夫妻小笹と岩井喜代太郎の鷺坂左内妻藤波.jpg

(坂東善次の鷲塚官太夫妻小笹と岩井喜代太郎の鷺坂左内妻藤波(東洲斎写楽) https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/sharaku023/より)

参考文献;
小谷野敦『日本恋愛思想史~記紀万葉から現代まで』 (中公新書)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2021年02月17日

会津降人


星亮一『会津落城―戊辰戦争最大の悲劇』を読む。

会津落城.jpg


会津人は、

会津降人(こうじん)、

という国賊、犯罪者のレッテルをはられ、明治期、苦難の道を歩むことになる(「はじめに」)。しかし、著者はいう。

「この戦いを詳細に検証すると、いくつもの疑問点が浮かんでくる。……なぜここまで戦う必要があったのか」

と(仝上)。

現に、16歳で越後に出兵した少年兵遠藤平太は、重傷を負った父を敵襲を受けた野戦病院からかろうじて救い出し、母の実家に担ぎ込んだが、父は恐怖のあまり錯乱し、悶死した。戦後、平太は、

「かくのごとき悲痛凄惨な憂き目を見たのは、先見の明なく、無知短才の致すところであり、感慨無量の次第なり」

と、この戦争を痛烈に批判した。

悲劇の会津、

というが、それは、ある意味、戦略を欠いた対応で、自ら招いた部分もあるのである。たとえば、城下の戦闘の当日、大勢の婦女子が殉難したが、著者は、こう突き離す。

「婦人の鑑ととらえることはしなかった。それは避難態勢の不徹底であり、会津軍事局の手落ちが存在したからであり、むしろ人災の部分が濃厚だった。」

と。それには理由がある。

「主君容保の指導力に限界があり、白河では戦争を知らない西郷頼母を総督に立てて失敗し、…内藤介右衛門や田中土佐が戦況を見誤り、母成峠を破られた。そして、佐川官兵衛が十六橋で防戦に失敗した。判断ミスの連続で戸ノ口、大野ヶ原とまたたく間に破られ、敵は城下に殺到した。ここでさらにミスが起こった。城下に住む人々に対する告知の遅れである。城下の人々は軍事局を信じ、砲声を耳にしながらも多くは避難せずに城下にとどまっていた。」

のである。著者は、会津戦争を、こう要約する。

「会津藩の見事さは、若き政務担当家老梶原平馬の努力によって、奥羽越列藩同盟が結成され、仙台藩が白河に兵を出し、越後の長岡藩が参戦したときに示された。
 しかし戦闘に入ると、どこの戦場でも敗れ、同盟は瓦解した。その責任のいくつかは会津藩にあった。それは長州の大村益次郎に匹敵するような戦略家の不在だった。
 かつて京都守護職の時代、会津藩には公用局があり、情勢分析に大きな成果を上げたことがあった。だが、会津戦争では冷静に戦争を見つめ、勝利の方程式を立案、実施する参謀が不在だった。
 会津藩は同盟がなった時点で、勝てると判断し、戦争に対する取り組み方に、革命的な発想が見られなかった。軍事局もあるにはあったが、俗吏が詰めているに過ぎなかった。
 母成峠が破られても、何処からも連絡が入らず、たまたま猪苗代に出かけた藩士が急報し、半日後にやっとわかる始末だった。このとき、軍事局の面々は、唖然、呆然とし、ただただ顔を見合わせるだけだった。」

つまり、戦闘態勢だけで、広い意味の防備、戦時体制づくりが完全に抜けていたのである。この原因を、会津もまた他藩と同様、

寄らば大樹、

と、幕府が助けてくれると信じていた、と著者は見る。

「フランスの支援で洋式陸軍を持ち、東洋一の大艦隊を品川の海に浮かべていた。(中略)幕府はこれらの近代兵器で会津藩を守ってくれる」

と。その結果、

「近代戦争を熟知した戦略家、参謀の育成を怠り、武器弾薬の備蓄もすくなかった。」

と。しかし転換点はあった、と僕は思う。鳥羽伏見の戦いの最中に、

「将軍徳川慶喜と会津藩主松平容保が大阪から軍監開陽丸で江戸へ逃げかえった」

ところである。慶喜もそうだが、容保も、近侍のものにも告げず逃げ帰った。容保は、後に江戸で、

余が過ちなり、

と答えたというが、容保は、

「将軍から『東下に決したので会津(容保)、桑名(容保の実弟、桑名藩主松平定敬)は随うように』と命令があったという。『余は驚いて、ねんごろにこれを止めんとしたが、却って怒りに逢った』」

と答えた、という。著者はいう、

「この正直さが容保の純粋で、憎めないところであった。容保には、慶喜から誘われたならば断り切れない人のよさ、優柔不断さがあった。」

と。

しかし以降、慶喜は、おのれの命と徳川家の存続だけを考えた。慶喜の命を受けた勝海舟も、それのみを交渉した。会津と容保は見捨てられた。にもかかわらず、会津には、一人の勝海舟もおらず、どうして、薩長の、

「会津本城攻撃の話が伝えられると、会津藩主従は死を決意した。鳥羽伏見の戦いで壊滅的な損害を出し、武器弾薬も乏しく、勝算はないが、討ち死にの覚悟で臨むしかなかった」

となるのか。鳥羽伏見の惨敗の、

雪辱を期す、

ということだったのだろうか。ふと、論語の、

暴虎馮河し、死して悔なき者は吾れ与にせざるなり、必ずや事に臨みて懼(おそ)れ、謀(はかりごと)を好みて成さん者なり、

を思い出す。容保は、

「後年、日光東照宮の宮司として東照宮の永久保持に努めた。『往時のことは茫々として何も覚えてはおらぬ』が口ぐせだった。明治二十六年(1893)、59歳で没した。」

という。犠牲者は、

「ゆうに数千人を超すと見られた。一体、この戦争で何人の人が命を落としたのか、いまもって不明である。下北に移住した会津人はまず最初に戦死者の名簿の作成に当たった。三千人ほどの名を確認したが、この戦争に従軍した農兵、郷兵、人夫などは全く把握できず、『死者数千人』と算定した。凄まじい戦争であった。」

にもかかわらず、トップはのうのうと生き残った。結局、死者数千人を犠牲にして、藩主容保の命を救っただけに見える。ふと今次大戦を、思い起こす。

参考文献;
星亮一『会津落城―戊辰戦争最大の悲劇』(中公新書)

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2021年02月16日

おも


「母」は、古代、

おも、

と訓ませ、万葉集に、

わが門の五本柳(いつもとやなぎ)いつもいつも母(おも)が恋ひすす業(なり)ましつしも(矢作部真長)、

とあり、

はは、

の意であったが、同じく万葉集に、

緑児のためにこそは乳母(おも)は求むといへ乳(ち)飲めや君が乳母(おも)求むらむ(作者未詳)、

とあるように、

乳母(うば)、

の意でもあった(広辞苑)。

上代語であり、中古以降は「おもとじ」など複合語の構成要素にのみみられる。東国では、「おも」「おもちち」とともに「あも」「あもしし」「あもとじ」の形が見える、

とある(日本語源大辞典)。因みに、「おもとじ」は、

母刀自、

と当て、

ははとじ、

ともいい、「とじ」は、

トヌシ(戸主)の約、主婦の意、

とある(岩波古語辞典)。

「おも」から想定するのは、朝鮮語、

オモニ(어머니)、

である。「おも」は、

ömö、

「オモニ」は、

ömi、

である(仝上)。

朝鮮語と通じる(東雅・古事記伝・和訓栞)、

とする説は長く主張されてきたが、「おも」は、

東国語形が古形とすれば、アモの母音交替したもの、

ではないか、とされている(日本語源大辞典)。沖縄では、

あんまあ、

という、とある(大言海)。「なゐ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/478967716.htmlで触れたことと重なるが、

周圏分布、

と見られなくもない。「周圏分布」とは、『蝸牛考』で柳田國男が提示した仮説で、

相離れた辺境地域に「古語」が残っている現象を説明するための原則で、文化的中心地において新語が生れると、それまで使われていた単語は周辺へ押しやられる。これが繰返されると、池に石を投げ入れたときにできる波紋のように、周辺から順に古い形が並んだ分布を示す、

とするものである(ブリタニカ国際大百科事典)。柳田國男は、

蝸牛を表わす語が、時期を違えて次々と京都付近で生まれ、各々が同心円状に外側に広がっていったという過程である。逆からみると、最も外側に分布する語が最古層を形成し、内側にゆくにしたがって新しい層となり、京都にいたって最新層に出会う。地層を観察すればかつての地質活動を推定できるのと同様に、方言分布を観察すればかつての言語項目の拡散の仕方を推定できる、

としたものであるhttp://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2012-03-07-1.html

つまり、古形が、東北に残っている、ということである。この説が比較的受け入れやすい。ただ、その由来を辿ると、やはり朝鮮語「おもに」と無縁とは思えない。

『大言海』は、「はは」と同様に、

オモと云ひ、アモと云ひ、共に、形容詞うまし(旨)、あまし(甘)の語根にて、……乳の味に就きて云ふ語なり、

と「あまし」「うまし」にこだわっているが、

乳を、ウマウマと云ひ、さらに約めて、乳母を、ママと云ふ、母は百済語にも、オモ、今の朝鮮語オマニ、沖縄にてアクマア、翻訳名義集、梵語「阿摩、此云女母」、

との説明は説得力がある。和訓栞も、

梵語の阿摩で、乳母の意、

としているが、幼児語由来は、「かか」「はは」と通じるものがあり、

擬声語で、嬰児の最初の発音ウマはオモとも聞こえ、これをとって、その欲求するもの、すなわち母および乳の名としたもの(日本古語大辞典=松岡静雄)、

も同じ発想である。

母(Mo)に、親愛の接頭語、阿(o)を添えたもの(日本語原考=与謝野寛)、
母のオン(恩)はオモ(重)いということから(円珠庵雑記)、

等々の説は考え過ぎではあるまいか。

ところで、

母屋、

と当てる「おもや」は、

母家、
主家、

とも当て、

もや、

ともいうが、

寝殿造りなどの建物の紂王の部分、

で、

庇、廊、

などに対して言う、とある(日本語源大辞典)。この「母」とあてる「おも」を、「母」の複合語と思ったが、「母屋」は、

もともと「もや」と読み、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8D%E5%B1%8B、漢字「母屋」を訓んだだけの、別由来である。

蝉取りの子と母.jpg


参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:おも
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2021年02月15日

はは


「はは」は、

母、

と当てる。ただ、上代、「母」を、

オモ、

とも訓ませた(岩波古語辞典)。

「母」(慣用ボ、漢音ボウ、呉音ム・モ)は、

象形。乳首をつけた女性を描いたもので、子を産み育てる意味を含む、

とある(漢字源)。

甲骨 殷 母.png

(甲骨文字(殷)「母」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AF%8Dより)

母の字の成り立ち.jpg

(女の人がひざまずき乳房を出している姿から「母」へ(書道家 八戸 香太郎氏) http://blog2.kotarohatch.com/?eid=1380984より)

「はは」の意味の漢字には、

「嬢(孃)」(漢音ジョウ、呉音ニョウ)、

があり、

会意兼形声。「女+音符襄(ジョウ 中にこもる、ふんわりとして柔らかい)」で、からだつきの柔らかい女性のこと、はは・むすめの両義に用いる、

とあり(仝上)、

爺嬢(やじょう)、

というと、「ちちはは」の意になる。

妣(ヒ)、

は、

会意兼形声。「女+音符比(ならぶ)」。父と並ぶ人という意味であろう、

とあり(仝上)、死んだ父に対して、

死んだ母の意、

で、

生前には母といい、死後は妣という、

とある(仝上)。

媽(漢音ボ、呉音モ)、

は、

形声。「女+音符馬」。父をパといい母をモまたはマというのは上古の漢語以来の古い称呼である。媽は、俗語の中に保存されたもの、

で、

かあちゃん、

の意(仝上)。

嫗(ウ、慣用オウ)、

は、

会意兼形声。「女+音符區(ク ちいさくかがむ)」。背中の屈んだ老婆、

で、「老いた母」を意味する。

さて、和語「はは」は、

奈良時代はファファ、平安時代にはファワと発音されるようになった。院政期の写本である「元永本古今集」には「はわ」と書いた例がある(広辞苑)、
ファファが平安、中世の発音(日本語源広辞典)、
平安時代以後ハワと発音が変化したが、ロドリゲス大文典などによると、室町時代はハハとする発音もあった(岩波古語辞典)、

等々とあり、「母」を、

はは、

と訓むのは後のことのようである。

は行子音は、語頭では、p→Φ→h、語中ではp→Φ→wと音韻変化したとされる(Φは両唇摩擦音。Fとも書く)。これに従えば、「はは」は、papa→ΦaΦa→Φawa→hawaとなったはずで、実際、ハワの形が中世に広く行われたらしい。仮名では「はは」と書かれたものの読み方がハハなのかハワなのかは確かめようがないが、すでに12世紀の初頭から「はわ」と書かれた例が散見されるから、川のことを「かは」と書いてカワと訓むごとく、「はは」と書いてハワと読むことも少なくなかったと考えられる。キリシタン資料を見ると、「日葡辞書」では「Fafa」と「faua」の両形が見出しにあるが、「天草本平家」などにおける実際の用例ではハワの方が圧倒的に多い、

とある(日本語源大辞典)。したがって、「はは」は、「母」と表記しても、

ファファ(奈良時代)→ファワ(平安時代)→ハハ(「ハハ」と表記してハワと読む。室町時代)→ハハ(江戸時代以降、ハハ)、

と読んでいったという経緯になる。なお、国際音声記号で、

[ɸ]は無声両唇摩擦音を、[ø]は円唇前舌半狭母音を表す、

とされているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%CE%A。無声両唇摩擦音(むせいりょうしんまさつおん)は、

子音のひとつである。両唇で調音される摩擦音で、ロウソクの火を吹いて消したり、粥を吹いて冷ます時に発生する音、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%A3%B0%E4%B8%A1%E5%94%87%E6%91%A9%E6%93%A6%E9%9F%B3

現代日本語では、ファ行全段とハ行の「フ」をこの音で発音する。これらの文字の子音はローマ字表記においてFで転写されることが主流であるが、多くの日本語話者は外国語などの無声唇歯摩擦音([f])もこの音で発音してしまうことがある。(中略)日本語の歴史上では、平安中期から江戸初期までは、ハ行の全段をこの音で発音していたが、ハ行転呼の現象により両唇接近音[β](下唇と上唇が接近することで作られた隙間から生じる音)、すなわちワ行の音に変化した、

とある(仝上)。「こんにちは」を、「こんにちわ」と発音するのがそれだろう。その意味で、和名抄に、

母、波波、

字鏡に、

母、波波、

は、「はは」と訓ませたとは限らないことになる。

おもしろいことに、どの呼び方にせよ、「おやじ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480008165.html?1613160043、「おふくろ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480023558.html?1613246072で触れた「かか」「とと」と同じように、「はは」も、

乳首を求める乳児の甘え声が語源(日本語源広辞典)、
愛(は)しの首言の身を重ねて云へるにて、小児語に起これるならむ(大言海)、
子供が発音しやすく偶然発した音声ファアから(国語溯原=大矢徹)、

等々、幼児語由来とする説がある(日本語源大辞典)。

室町末期(17世紀初頭)までは、「母」は、「ハワ」が優勢だったが、それが、表記、発音とも「ハワ」が滅び、「ハハ」になっていったのだが、その理由として、

①他の親族名称、チチ・ヂヂ・ババ……は、二音節語、同音反復、清濁のペアをなす、といった特徴があるから、ババから期待される形はハハと類推されるから、
②江戸時代には、口頭語で母を……、カカ(サマ)・オッカサンなどが次第に一般的となり、「はは」は子供がちいさいとき耳で覚える語ではなく、大人になって習得する語になっていった、
③江戸時代でも、仮名表記する際には「はは」が一般的であり、この表記の影響による、

等々があるとする(仝上)。表記と読みが違うのは、

てふてふ、

を、「ちょうちょう」と読ませることなど多々ある。「ちち」「はは」と連呼したとき、「チチ」「ハワ」は、言いにくいということが大きいのではあるまいか。

こうみると、「はは」の語源は、

子をハラム(孕)ところから(本朝辞源=宇田甘冥・日本語源=賀茂百樹)、
ハゴクムの義(仙覚抄)、
ハはヒラフシ(日足)の転ヒタラサの約(和訓集説)、
ハラ(腹)の義(言元梯)、
胞衣の意のフフム(含)から(名語記)、
母の意の古語イロハのハを重ねたもの(国語蟹心鈔)、

はいずれも、語呂合わせに近い。ただ、「いろは」との関連については、

母をイロハと云ふときは、ハの一音に云へり(大言海)、

というのもあり気になるが、「母」の意の「いろは」は、名義抄にも、

母、イロハ、俗云、ハハ、

とあり、

イロは、本来同母、同腹を指す語であったが、後に単に母の意と見られて、ハハ(母)のハと複合してイロハとつかわれたものであろう、

とあり(岩波古語辞典)、

伊呂(イロ)兄(え)、
伊呂兄(せ)、
伊呂姉(せ)、
伊呂弟(ど)、

等々、同腹の兄弟姉妹を云ひし(大言海)とある。どうやら、由来が先後逆である。

「はは」と同義の「おも」については、項を改める。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ラベル:はは
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2021年02月14日

おふくろ


「おふくろ」は、

御袋、

とあてる(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)。

母親を親しんで呼ぶ語、

である。由来は、諸説あり、

昔は、金銭、衣類、器什、すべて袋に入れたり、外出にも、従者に持たする物、皆袋に入る、母は家政を取り、袋の出し入れの締めくくりをすれば、時世の詞にて称したるなり(大言海)、
かやうに家の御袋とならむ人は、物の締めくくりをよくしはべる故に、家の内の人、お袋様と申しはべる也(俗語考)、
今は借り盡し貰ひ盡して、お袋の袋の内も空しくなりにけり(負博奕)、

と、「袋」に絡める説が多い。一理あるとは思うが、理屈ばっているのが気になる。他にも、

袋の中の物を探りとるような安産を祝って名づけられたるものか(嬉遊笑覧)、
家計の袋(日本語源広辞典)、
オ+袋、ふくれるものが袋の語源ですから、家の繁栄のために子袋に子宝を宿して身を膨らませて産んでくださった御方の意(日本語源広辞典)、

等々「袋」由来とする説は多い。その他に「ふところ」と絡めて、

オ(御)フトコロの義(貞丈雑記)、
母は子供をふところに包み懐くところから(日本語源=賀茂百樹)、

というのもある。しかし、

「観智院本名義抄」に、「胞 胎衣也、はらむ フクロ」とあり、フクロが子宮、胞衣を指す例が見える、

とあり(日本語源大辞典)、

母の胎内で胞衣をかぶり包まれ、あたかも袋に入れた状態であるところから(後宮名目抄)、
フクロが子宮を指すところから(江戸東京語=杉本つとむ)、

という説は捨てがたい。前出の、

袋の中の物を探りとるような安産を祝って名づけられたるものか(嬉遊笑覧)、
オ+袋、ふくれるものが袋の語源ですから、家の繁栄のために子袋に子宝を宿して身を膨らませて産んでくださった御方の意(日本語源広辞典)、

とする説も、「胞衣」絡めると見え方が変わる。

室町末期の日葡辞書には、

Fucuro(ふくろ)、

の項で、

普通はヲフクロと言い、これは女性たちの間でもまた他の人々(男性)の間でももちいる、

とあるので、「胞衣」説が妥当とする(日本語源大辞典)が、「袋」とも「胞衣」とも決めがたい。

「おふくろ」は、敬称の意で、たとえば、

本日室町殿姫君御誕生也、御袋は大館兵庫頭妹也(享徳四年(1455)「康富記」)

というように、

高貴な対象にも使用したが、徐々に待遇価値が下がり、近世後期江戸語では、中流以下による自他の母親の称となった、

とあり(日本語源大辞典・江戸語大辞典)、

おやじの対、

として(江戸語大辞典)、

おやじよりやァおふくろがやかましくって成りやせん(安永四年(1775)「甲駅新話」)、

と使われるに至る。

母親の意では、他に、

かか、

という呼び方がある。これは、

ととの対、

で、

小児語、母を親しんで言う語、

であり(岩波古語辞典)、

可愛しの首肯を重ねたる小児語、

とあり(大言海)、「可愛(かはゆ)し」が、

愍然の意より可愛いの意に移せるは、室町時代なり、

とする(仝上)。「かか」は、

母、
嚊、
嬶、

と当てる。「かか」の転訛で、

かかあ、
おっかあ、
おっかさん、
おっかちゃん、

ともいうが、

自分の妻に対しても使う(仝上)のは、

子が母をカカと呼ぶを父が、口真似して云ひしより移れる、

とある(大言海)のは、妻が「おとうさん」と夫を呼ぶのに類似している。

「かか」は、「とと」が、「おやじ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/480008165.html?1613160043で触れたように、武家や中流以上の商家で、

おととさん、
おととさま、

といったように、

おかかさん、
おかかさま、

といい、

御母様、

と当てる(江戸語大辞典)。庶民では、

おとっつぁん、
おっかさん、

の対になる。今日の「おかあさん」は、「かか」とつながり、

元来は小児語、

で、

おかかさんの転訛、

とある(江戸語大辞典)。

おとっつぁんの対、

になる。「おかあさん」は、

江戸時代に上方の中流階級以上の家庭の子女で使われ始め、明治36年(1903年)に尋常小学校の国定教科書に採用され急速に広まった。それ以前の江戸・東京では「おっかさん」が多かった、

とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E6%AF%8D%E3%81%95%E3%82%93・広辞苑)、「おとうさん」の普及の仕方と同一である。

ところで、「かか」を幼児語とみるのは、「とと」との関連で妥当に見えるが、

幼児語カカは疑問、

とする異説があり(日本語源広辞典)、「おかあさん」も、

御方(おかた)+様、

とし、「おっかさん」は、

大方様が語源、

であり、

カカサマ、カアチャン、カアサン、キカア、カカ、オカカは、方様が、

とする(仝上)。

オカタの小児語(綜合日本釈名民俗語彙)、

はそれだし、

カミ(上)のカを重ねた語(懐橘談)、

も似た発想になる(日本語源大辞典)。これについては、

カミサマのカを重ねた語とする説は、近世初期の儒者・黒沢石斎が「懐橘談」で唱えたのが古いが、その後、江戸中期の伊勢貞丈の「安斎随筆」で否定されてからはほとんど顧みられなかった。しかし、近年になって、カミサマ出自の女房詞カモジの存在などから、カミサマとカカの関係を見直す考えもある、

と説いている(日本語源大辞典)。しかし、「とと」と「かか」は対なのではないか、と思うので、「かか」のみ「カミ」「カタ」とつなげるのはどうなのだろう。

夢にうなされる子どもと母.jpg

(喜多川歌麿「夢にうなされる子どもと母」 https://www.kumon-ukiyoe.jp/index.php?main_page=product_info&cPath=23_24&products_id=407より)

なお「はは」については、項を改める。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:54| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする