2017年12月19日

かべ


「かべ」は,

壁,

と当てる。「壁」の字は,

「辟(ヘキ)は,壁(ヘキ)の原字で,薄く平らに磨いた玉。表面が平らで,薄い意を含む。壁は『土+音符辟』で,薄くて平らなかべ」

で,

「牆(ショウ 家の外をとりまく長いへい)に対して,薄く平らなついたて式の中庭かべをいい,家の内外の平らなかべをいう」

とある。『岩波古語辞典』には,

「カはアリカ・スキカのカ。ヘは隔てとなるもの」

とあり,本来の家の内外の「壁」とは異なり「かべ」は,

部屋などの間を隔てるもの,

と,障壁となるもの,隔てとなるものに広げた意味をもっている。だから,『大言海』も,

「構隔(かきへ)の意かと云ふ。部曲(かきべ)と云ふ語あり,駕籠(かご)も,舁駕(かきこ)なるべし」

とする。ちなみに,「かべ」には,

「寝(ぬ)るを,塗るにかけたる謎詞」

として,「夢」の異名としても使われる。『大言海』は,「かべ(壁)」「かべ(夢)」と別に項を立て,後者について,

「夢をば,寝(ぬ)る時見るによりて,夢をカベとは云へり,カベも,塗るものなるによりてなり」(歌林良材)

を引く。さらに,後撰集(廿 哀傷)から,

「妻(メ)のみまかりて後,住み侍りける所の壁に,彼の侍りける時,書きつけて侍りける書(て)を見侍りて,『寝ぬ夢に,昔のカベを見てしより,うつつに物ぞ,悲しかりける』。同,九,戀『まどろまぬ,カベにも人を,見つるかな,まさしからなむ,春の代の夢』」

を引く。「かべ」の意は,さらに,

(壁を「塗る」と「寝(ぬ)る」に掛けて)夢の異称,
(女房詞)豆腐,
女郎部屋の張見世の末席,
近世後期,野暮の意の通後,

等々に広がる(『岩波古語辞典』)。野暮という意味で,

壁と見る,

としいう言い方があったらしい。『江戸語大辞典』では,

野暮,無粋,

の意が最初に載る。どうやら,

「其者(そいつ)を壁て見,不通(やぼ)と見て為口論(とりあ)ふべからず」(安永八年・大通法語),

とある,「通じない」という含意のようだ。関係ないが,

黙っていても
考えているのだ
俺が物言わぬからといって
壁と間違えるな(壺井繁治)

という詩を思い出す。通じない,ということは,そういう含意を相手に与えるものらしい。

壁に為る,

という言葉があって,

ないがしろにする,

という意味だが,いわば,シカトすることである。『江戸語大辞典』には,「女郎部屋の張見世の末席」について,

吉原詞。見世を張る時,壁際に坐ること。またその女郎(新造)。籬(まがき)と共に一座の末席である,

と載る。

壁を背負う,

という言い方があったらしく,吉原の張見世には擬して,

「かゝアが宗旨の本尊を中坐にして,我仏を隅へ押し籠めて壁を背負(しょは)せて置きながら」(文化十四年・大千世界楽屋探)

を引用している。

Perfectwall.jpg

石壁(マチュ・ピチュの切石積み)


『日本語源広辞典』は,「かべ」の語源を二説挙げている。

説1 「カ(処)+へ(隔)」。場所の隔ての意。
説2 「カキ+ヘ(垣・隔)」。建物のまわりや内部内部の仕切の意。転じて,物事の障害,じゃまの意。

『日本語源大辞典』は,もう少し丁寧に異説を列挙している。

カヘ(垣隔)の義(東雅・言元梯),
カキヘ(構隔)の意か(大言海),
カはアリカ・スミカのカ。ヘは隔てとなるもの(『岩波古語辞典』),
カキヘ(垣方)の義(和訓栞),
カギリベ(限方)の義(名言通),
カタヘ(片辺),また,カタヘ(堅辺)の転(本朝辞源=宇田甘冥),
カゲ(陰)の転声(和語私臆鈔),

しかし,『岩波古語辞典』の,

「『かべ』の『か』は、『ありか』や『すみか』などの『か』と同じで『所』という意味、『べ』は隔てるものという意味の『へ』で、『かべ』は『ある場所をへだてるもの』ということ」(『日本語俗語辞典』)

というのが,説得力がある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
https://www.fleapedia.com/%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%9F%B3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/%E3%81%8B/%E5%A3%81%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%81

ホームページ;
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今日のアイデア;
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ラベル: かべ
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2017年12月18日

もみじ


「もみじ」は,

紅葉,
黄葉,

と当てられる。いずれも,漢語からの当て字のようである。『広辞苑』には,

「上代には,モミチと清音。上代は『黄葉』,平安時代以後『紅葉』と書く例が多い」

とある。秋に,木の葉が赤や黄色に色づくことやその葉を指す。カエデの別称でもあるが,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E8%91%89

に,

「秋に一斉に紅葉する様は観光の対象ともされる。カエデ科の数種を特にモミジと呼ぶことが多いが、実際に紅葉が鮮やかな木の代表種である。狭義には、赤色に変わるのを『紅葉(こうよう)』、黄色に変わるのを『黄葉(こうよう、おうよう)』、褐色に変わるのを『褐葉(かつよう)』と呼ぶが、これらを厳密に区別するのが困難な場合も多く、いずれも「紅葉」として扱われることが多い。」

とする。『デジタル大辞泉』には,

「動詞『もみ(紅葉)ず』の連用形から。上代は『もみち』」

とある。『岩波古語辞典』には「もみぢ(紅葉づ・黄葉づ)」の項で,

「奈良時代にはモミチと清音で四段活用。平安時代に入って濁音化し,上二段活用」

とある。紅や黄色に色づくという意の動詞である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E8%91%89

には,

「もみじ(旧仮名遣い、もみぢ)は、上代語の『紅葉・黄葉する』という意味の『もみつ(ち)』(自動詞・四段活用)が、平安時代以降濁音化し上二段活用に転じて『もみづ(ず)」となり、現代はその『もみづ(ず)』の連用形である『もみぢ(じ)』が定着となった言葉である。
上代 - もみつ例
『子持山 若かへるての 毛美都(もみつ)まで 寝もと吾は思ふ 汝は何どか思ふ (万葉集)』
『言とはぬ 木すら春咲き 秋づけば 毛美知(もみち)散らくは 常を無みこそ (万葉集)』
『我が衣 色取り染めむ 味酒 三室の山は 黄葉(もみち)しにけり (万葉集)』
平安時代以降 - もみづ例
『雪降りて 年の暮れぬる 時にこそ つひにもみぢぬ 松も見えけれ (古今和歌集)』
『かくばかり もみづる色の 濃ければや 錦たつたの 山といふらむ (後撰和歌集)』
『奥山に 紅葉(もみぢ)踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき(古今和歌集)』
秋口の霜や時雨の冷たさに揉み出されるようにして色づくため、『揉み出るもの』の意味(『揉み出づ』の転訛『もみづ』の名詞形)であるという解釈もある。」

と詳しい。いずれにしても,秋の葉の色づくのを言ったものらしい。その「もみぢ」の語源について,『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/mo/momiji.html

は,

「元々は『もみち』と呼ばれていた。 秋に草木が赤や黄に変わることを『もみつ(紅葉つ・黄葉つ)』や『もみづ』ちいい,その連用形で名詞化したのが『もみち』であった。平安時代に入り,『もみち』は『もみぢ』と濁音化され『もみじ』へと変化した。古くは『黄葉』と表記されることが多く,『紅葉』や『赤葉』の表記は少ない。」

色づく意とする。しかし,『大言海』は,

「色は揉みて出すもの,又,揉み出づるもの,されば,露,霜のためにモミイダさるるなり」

と,「モミイヅ→モミヂ」を採る。『日本語源広辞典』も,

「『モミ(揉み)+ツ(出づ)』の連用形名詞化モミヂ」

を採る。しかし,古形が,「もみち(つ)」だとするなら,ちょっと辻褄が合わない。『日本語源大辞典』をみると,しかし,その説を採るのが多い。

色を揉み出すところから,モミジ(揉出)の義。またモミイヅ(揉出)の略(和字正濫鈔・日本声母伝・南嶺遺稿・類聚名物考・槙のいた屋・大言海),

しかし,その他,

モミヂ(紅出)の義。モミ(紅)の色に似ているところから(和句解・冠辞考・万葉考・和訓栞),
モユ(燃)ミチの反(名語記),
モミテ(絳紅手)の義(言元梯),
モミチ(炷見血)の義(柴門和語類集),
マソメイタシの約(和句解),
秋の田のモミ(籾)が赤くなるところからか。チは田地の義(日本釈名),

と載るが,そもそも色づくことを,「モミチ」と言った謂れは分からない。

DSC06535.JPG


なお,
http://mobility-8074.at.webry.info/201510/article_43.html

に,

「紅葉 (もみじ) とは,秋に木の葉が赤や黄色に色づくことです。語源としては,〈色づく〉 という意味から『揉み出 (い) づ』 が音韻変化して『もみぢ』になったと言われています。
ここで大事なことは,植物学の上では『もみじ』という樹木名はありません。『もみじ』とは,あくまで〈葉が色づくこと〉であり,まあ,その延長として〈色づいた葉〉のこともいいますが,樹木を具体的に限定したことばではありません。
ただ,秋に赤や黄色に色づく樹木の中で,『楓 (かえで)』の葉が最もきれいに色づくということから,〈色づく〉という意味での『紅葉 (もみじ)』の代表格である『楓』のことを『もみじ』と呼ぶようになってしまったということです。
なお,『楓 (かえで) 』の語源は,〈葉が蛙の手に似ている〉ことから『蛙手 (かえるで)』と呼ばれていたものが縮まって『かえで』になったとされています。
『椛』『栬』も『もみじ』と読む漢字ですが,本来の『もみじ』を表しているように思えます。」

とあるのが,妥当なのかもしれない。結局,色づく意味で「もみち」と言った,その謂れは分からなかった,ということだろう。

ただ,「椛」の字は,木が花のように色づくという意で造られた和製漢字である。また「栬」の字は,くいを指し,「もみじ」の意とするのは,我が国だけのようである。

かえで.jpg

(ハウチワカエデ)


参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A8%E3%83%87

ホームページ;
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2017年12月17日

あんぽんたん


「あんぽんたん」は,『広辞苑』は,

安本丹,

と当て,

アホタラの撥音化か,

とし,

愚か者をののしって言う語。
カサゴ(笠子)の俗称(寛政の末江戸ででまわったが,味がよくなかったので),

という意味を載せる。

かさご.jpg

カサゴ(笠子)


カサゴ(笠子)については,

「和名は、頭部が大きく、笠をかぶっているように見えることから起こった俗称「笠子」に由来すると考えられている。」

もので,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B5%E3%82%B4
https://www.zukan-bouz.com/syu/%E3%82%AB%E3%82%B5%E3%82%B4

に詳しいが,

「無骨な武士を思わせる外見から、端午の節句の祝いの膳にのせられる。」

というし,

「旬は初夏から冬。 ただし年間を通じてあまり味が落ちない。外見とは裏腹に白身魚で、非常に上品な味わい。」

とあるので,「まずい」というのがよくわからない。しかし,『江戸語大辞典』にも,「あんぽんたん」の項で,

「笠子の類。この魚,寛政末年に市中に出盛った不味なのでこのながあると。」

とし,

「馬鹿もあんぽんたんも海で出来 芦風」(馬鹿は馬鹿貝)

という用例を載せている。

それはともかく,「あんぽんたん」は,『大言海』が,『広辞苑』同様,

「アホタラを,音便にはねたる語。約(つづ)しき服を,ツンツルテンなど云ふ類なり(種々なる語源説あれど,皆付会なり),和訓栞,後編,あんぽんたん『近世の俗語也。あほうの轉也』」

としており,『日本語源広辞典』も,

「アホダラを,撥音化して,薬名らしくもじったもの」

とし,「江戸期の,反魂丹,万金丹になぞらえ,安本丹とした語」としている。『江戸語大辞典』も,

「あほ太郎を薬名に似せたしゃれ。阿呆。馬鹿。宝暦十三年頃から流行し出したという。上方語(宝永期)の移入。宝暦十三年・風流志道軒伝序『夫(それ)馬鹿の名目一ならず。(略)また安本丹の親玉あり』」

としているところから見ると,「あほた(だ)ら」の撥音化に間違いはなさそうであるが,『日本語源大辞典』は,和訓栞・後編の,「あほうの轉」につづいて,

「あほうの轉。また,西南海の蛮国の名か。日本に漂着したその国の人が,言語不通で愚痴だったとろから,人を軽蔑していう流行語になったという」

という説を載せているが,

「本来上方語とされるが,宝暦本から江戸でも流行した語。『日本語源広辞典』には諸説あるが,アホウから生じたアホタラ,アホ太郎を,『反魂丹』『万金丹』などの薬名になぞらえたものと考えられる。」

とまとめている。ただ,これだと,「あほう」と「あほだら」とのつながりが見えないが,『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/a/anpontan.html

は,

「あんぽんたんは、『阿呆』と愚か者の意味の『だらすけ』が複合された、『あほだら』『あほんだら』が、転じた言葉である。『阿呆』は『あっぽ』とも言われ、『陀羅助(だらすけ)』 という薬(『陀羅尼助』の略)もあったため、『反魂丹(はんごんたん)』や『萬金丹(まんきんたん)』という薬の名から、『安本丹』ともじられた。あんぽんたんは、近世に上方で生まれた言葉で、宝暦末年(1764年)頃には、江戸でも流行したことが、江戸時代の随筆に残されている。あんぽんたんの語源として、1789~1801に江戸市中に出回った『アンポンタン』と呼ばれる魚(カサゴの一種)が、大きい割に美味しくなかったため、『独活の大木(うどのたいぼく)』と似たような意味で使われ、それが転じたという説もある。しかし,あんぽんたんという言葉は、それ以前から存在していたため、その魚があんぽんたんからつけられたとは考えられるが、あんぽんたんの語源とは考え難い。他には、フランス語で性交不能を意味する『アポンタン』からとする説、江戸時代に漂流した外国人の名前からとする説もあるが、そのような文献は見当たらない。」

で,諸説の脈絡がつながる。「あほう」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/432266854.html

でふれた。「あほたら」「あほだら」は,

あほたれ,

の転訛で,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/455176487.html?1511813544

で触れたように,『広辞苑』は,

阿呆垂れ,

とあて,「たれ(垂れ)」は,

「(名詞の下に付けて)人を悪く言う意を表す語」

とある。

洟垂れ,
くそたれ,

という言い方もする。「あほんだれ」の「だれ」,「あほんだら」の「だら」は,「たれ」の転訛と見ることができる。『日本語源大辞典』は,「あほだら」に,

阿呆陀羅,

と当てているが,『日本語源広辞典』は,

「阿呆+ダラ(陀羅)」

として,

「おまえみたいな無能な奴に陀羅尼経を読ませても全く分かるまい」という意だと,少し穿ち過ぎの解説をしている。『大言海』は,

愚,

と当て,

「大和國の方言なり。阿房(阿呆)を擬人して,阿房太郎(あほたら)なり(愚太郎[ぐふたら]兵衛,鈍太郎,惡太郎)。阿房陀羅経あり,アホタをはねて,アンポンタン,アホチンタンなどとも云ふ。京阪にては,アンダラと云ふ(カホバセ,カンバセ。オホバコ,オンバコ)。」

としている。

あほう→あほたら→あほたれ→あほんたれ→あんぽんたん

といった,揶揄の変化といったところか。なお,アホ・バカ分布については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/420036187.html

で触れた。また,「あほだら経(阿呆陀羅経)」は,

「俗謡の一種。江戸時代後期に流行し、近代に及んだ。世態、風俗、時事などから取材した戯(ざ)れ文句を、経を読むように歌った。「仏説あほだら経……」で始まり、小さな木魚をたたいて拍子をとり合の手を入れながら早口に歌うところに特色がある。願人坊主や僧形の芸人がよく歌った。安永(あんえい)・天明(てんめい)(1772~1789)ごろの発生という。文化(1804~1818)のころ呑龍(どんりゅう)という説教坊主が大坂や名古屋で阿呆陀羅経を口演して評判だったことが『摂陽奇観』『見世物雑志』などにみえる。明治時代にも「尽し物」が大いに受けていた。祭文(さいもん)、ちょぼくれ(ちょんがれ)などとともに浪花節(なにわぶし)成立への一過程をなす。」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』)

というが,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%BB%E3%81%A0%E3%82%89%E7%B5%8C

に詳しい。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B5%E3%82%B4
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2017年12月16日

あなご


「あなご」は,

穴子,

と当てる。その生態から名づけたものと想像される。『日本語源広辞典』は,

穴+子,

と,穴に住む意とし,

「穴から首を出して餌を狙う習性が,語源に関わったと思われます。」

としている。

http://www.yuraimemo.com/892/

では,

海鰻,

とも当て,

「アナゴは『ウナギ目アナゴ科』とのことなので、やはり(ウナギと)同類のよう。日中は岩穴や砂の中に棲む夜行性の魚だそうで、「穴籠り(あなごもり)」することから「穴子」となったという説が最有力といわれています。」

としている。たしか,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/455534185.html?1513196483

で触れたように,『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/u/unagi.html

は,

「うなぎは,古名『むなぎ』が転じた 語で,『万葉集』などには『むなぎ』とある。 むなぎの語源は諸説あるが,『む』は『身』を,『なぎ』は『長し(長い)』の『なが』からとする説が有力とされる。この説では,『あなご』の『なご』とも語幹が共通する。」

としていた。「アナゴ」の項では,

http://gogen-allguide.com/a/anago.html

「日中は岩穴や砂の中に棲む夜行性の魚であることから、『穴子』と呼ばれるようになっ たとする説が有力とされる。 この説では、『穴籠り(あなごもり)』が変化したとの見方も ある。 また、『なご』の語根がうなぎの『なぎ』と共通し、水中に棲む長い生き物を『nag』の音で表していたとも考えられている。『nag』の音に関連する説では、『長魚(ながうお)』が転じたとする説がある。」

とする。「うなぎ」が,

「む(身)+なぎ(長)」→うなぎ,

なら,「あなご」は,

「あな(穴)+なぎ(長)」→あななぎ→あなぎ→あなご,

ではないか,と想像したくなる。となると,「子」は当て字ということになるのだが。

あなご.jpg

まあなご.jpg

(マアナゴ[ウナギ目アナゴ科クロアナゴ属]https://www.zukan-bouz.com/unagi/anago/anago.htmlより)


『日本語源大辞典』は,

ナガウオ(長魚)の変化した語で,ウナギ(鰻)と同根か(日本語を考える=柴田武),
アナゴ(穴魚)。穴に居るから(言元梯・日本語源=賀茂百樹),
アナゴモリ(穴籠)の義(日本語原学=林甕臣),
古く水中の或種の霊物をNとGの子音で表示する風習があった(魚王行乞譚=柳田國男),

と諸説を並べるが,昔アナゴを獲った者たちが,ウナギとアナゴを同一視するはずはない。どう考えても,その生態の,

穴魚,

穴籠,

と考えるのが妥当だろうが,個人的には,

あなうお(穴魚)→あなご,
あなご(穴籠)→おなご,

という転訛よりは,

「あな(穴)+なぎ(長)」→あななぎ→あなぎ→あなご,

という転訛かという臆説にこだわりたい気がするが。

ちなみに,穴子の稚魚「のれそれ」については,

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1258721702

で,その語源について,

「高知で、アナゴ類の稚魚を『ノレソレ』と呼びます。高知市付近ではノレソレ、須崎市付近ではタチクラゲと呼ばれています。地引網を引くと、ドロメは弱いのですぐに死んで網にくっついてくるのですが、ノレソレは、そのドロメの上にのったり、それたりしながら網の底に滑っていきます。この『のったり、それたり』という地引網の中の様からこう言われているようです。」

としている。やはり,生態の擬態語から来ている。

なお,同じウナギ目のウナギとアナゴの違いについては,

https://chigai-allguide.com/%E3%81%86%E3%81%AA%E3%81%8E%E3%81%A8%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%94/

に詳しいし,アナゴについては,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%B4

に詳しい。

参考文献;
https://www.zukan-bouz.com/unagi/anago/anago.html
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)


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2017年12月15日

うなぎのぼり


「うなぎのぼり」は,

鰻上り,
鰻登り,

と当てるが,

物価・温度,また人の地位などが,見る見るうちにのぼること」

という意味である。語源は,二説ある。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/u/unaginobori.html

には,

「以下の通り二説あり,いずれもうなぎの性質に由来する。 ひとつは,うなぎは急流であっても水が少ないところであっても,登っていくことからとする説。もうひとつは,うなぎの体はぬるぬるしていて,捕まえようとしてもさらに上に登ってしまうことからとする説。」

と二説を整理している。『広辞苑』は,

「ウナギが水中で身をくねらせて垂直に登ることから」

と,前者を採り,『大言海』は,

「鰻を摑むに,粘ありて昇る。両手で代る代る摑むに,益す益す昇りて,降りることなし」

と後者を採る。『江戸語大辞典』は,二つの意味を載せている。

「①すべて物事が,見る見るうちにのぼる形容。鰻はどんな急流をもさかのぼるのでいう。②鰻か身をくねらせて泳ぎ切るところから,のらりくらりと逃げるさまにいう。」

とある。後者の用例に,

「いや明日はきっと発足する,間違ひないと被仰(おっしゃ)っても,夜が明けてみると一日々々鰻のぼりののんべんぐらり,ついついのびのびに為りました。」(文政十年・其俤夕暮譚)

どうやら,この二説は,『日本語源大辞典』によれば,

鰻の体には粘りがあるのでつかむとのぼってしまい,両手でかわるがわるつかもうとするとますます上にのぼり,降りてことないことから(大言海),
ウナギはどんな急流をもさかのぼるから(江戸語大辞典),

とあるところから見ると,『大言海』と『江戸語大辞典』に元があるらしい。しかし,『大言海』の説は,上記『江戸語大辞典』の言う②の意味,

のらりくらりとつかみどころがない,

という意味を指しているのではあるまいか。「のらりくらり」という擬態語は,

仕事につかず遊んで暮らす様子,
仕事にまじめに取り組まず,怠けている様子,

の他に,

答弁や言い訳の際,要点をそらしたり,明確なことを言わないなど,さまざまに言い抜ける様子,

という意味がある。この「のらりくらり」より弱めなのが,

ぬらりくらり,

という言い方で,『擬音語・擬態語辞典』には,

「『ぬらりくらり』は験を左右にして質問をかわし言い逃れる様子を言うが,『のらりくらり』はそういう様子に加えて,応対が鈍くまともに取り合わない態度で接する感じがある。」

とあり,

「現在では,『ぬらりくらり』は言葉をめぐるやりとりでの人の態度について用いるが,もともとは,鰻や鯰などが滑ったりして,つかみにくい様子をいう。」

とある。とすると,「うなぎのぼり」は,今日使う上昇一途という意味とは程遠いのではないか。

さらに,水中を遡る,という説についても,『日本語の語源』は,「うなぎのぼり」について,音韻変化説で,

「『鰻が水中で身をくねらせて垂直に登ることから,物価や温度や,また人の地位身分などが見る見るうちにのぼるのにいう』(『広辞苑』)。この説明も納得できない。
 『絶えることがない』ことを〈わが泣く涙止むこともない〉(万葉)といった。連続的上昇のことをヤムナキノボリ(止むなき昇り)といったのが,語頭をおとしてムナギノボリになり,さらに語頭の子音[m]を落としてウナギノボリ(鰻登り)になったと推定される。
 実は,それには根拠がある。〈石麿にわれ申す夏やせによしといふものぞムナギ取り召せ〉(万葉)という歌があるが,鰻の古名をムナギ(武奈伎)といい,子音[m]を落としてウナギになった。」

とある。「うなぎ」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/455534185.html?1513196483

で触れた。この音韻変化が妥当に思えるが,気になるのは,「うなぎのぼり」について,『岩波古語辞典』は,

鰻幟,

の字を当て,

「近世,端午の節句に揚げた,ウナギのように長くなびくようにつくった紙幟」

とあることだ。用例に,

「釣竿と見ゆるは鰻幟かな」(俳・口真似草)

とある。しかし,「紙幟」は,

「5月の節句に用いる紙製ののぼり。《季 夏》「笈 (おひ) も太刀も五月にかざれ紙幟/芭蕉」(『デジタル大辞泉』)

等々と説明が載るが,「鰻幟」という言葉は,ちょっと調べ切れなかった。しかし,「のぼり」を調べると,

「祭礼,戦陣などに用いる旗の一種。のぼり旗の略といわれる。布の上部と横側に乳 (ち。竿,紐などを通すためにつけた小さな輪) をつけて竿に通す。旗は元来高く掲げ,風にひるがえることを特徴としたが,そうすると旗の裾がほかの物にからみ,戦陣で使うのに不便であったので,乳を用いるようになった。」(『ブリタニカ国際大百科事典』)

とあり,さらに,

http://www.callmyname-rec.com/archives/28.html

に,

「のぼりには『乳付き旗』という別名があります。
これは、のぼりを竿に止めるための筒状の布部分を『乳』(ち)と呼ぶためです。なぜあの部分が『乳』と呼ばれるかは、一説によれば『犬の乳首の様に行儀よく並んでいるため』であることからだそうで、なるほど言われてみれば、伝統的なのぼりの形をみてみると、きちんと行儀よく乳が並んでいます。
のぼりの語源には、旗竿の上へ上へと押し上げることから『昇り』と表現されるようになったという説があり、幟の持つ意味や使われ方などを見ても、その語源の信ぴょう性は高そうです。
『鯉幟』の場合は、もともと武家が始めた端午の節句に幟を掲げるという風習の中で、中国の古事にある『鯉は天に昇って龍になる』という話を、男児の立身出世への願いに重ねて、幟に『鯉が昇る絵』を描いたことから始まりました。」

とある。この由来は,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%9F

に,

「近代までの軍用の幟は、綿もしくは絹の織物を用いた。布の寸法は由来となった流れ旗に準じ、高さを1丈2尺(約3m60cm)、幅を二幅(約76cm)前後が標準的であった。このほか、馬印や纏に用いられる四方(しほう)と呼ばれるほぼ正方形の幟や、四半(しはん)と呼ばれる縦横比が3対2の比率(四方の縦半分ともされる)の幟が定型化する。もっともこれらはあくまで一般的な寸法であり、家によって由緒のある寸法を規定することや、流行に左右されることもあった。
また旗竿への留め方によって、乳(ち)と呼ばれる布製の筒によって竿に固定する乳付旗(ちつきばた)と、旗竿への接合部分を袋縫いにして竿に直接縫い付けることによって堅牢性を増した縫含旗(ぬいふくめばた)に区別できる。
旗竿は千段巻と呼ばれる紐を巻いた漆塗りの樫材や竹を用い、幟の形態に応じて全体をトの字型あるいはΓ字をにした形状にして布を通した。」

とある。この幟は,けっして下がらない。風に吹かれても,上に巻き上がるばかりである。どうも,

うなぎのぼり,

は,『岩波古語辞典』の言う,

鰻幟,

から来ているように思えてならない。

img085.jpg

(高橋賢一『旗指物』より)


参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
高橋賢一『旗指物』(人物往来社)


ホームページ;
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今日のアイデア;
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2017年12月14日

うなぎ


「うなぎ」は,『岩波古語辞典』『大言海』に,

むなぎの転,

とある。『大言海』は,さらに,「むなぎ」の項を立て,

「胸鰓(あぎ)のぎと云ふ。或いは云ふ,胸黄の義と。腹赤の類」

とある。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/u/unagi.html

にも,

「うなぎは,古名『むなぎ』が転じた 語で,『万葉集』などには『むなぎ』とある。 むなぎの語源は諸説あるが,『む』は『身』を,『なぎ』は『長し(長い)』の『なが』からとする説が有力とされる。この説では,『あなご』の『なご』とも語幹が共通する。その他,胸が黄色いため『胸黄(むなぎ)』が変化したとする説や,『棟木(むなぎ)』に似ているからといった説もあるが,いずれも俗説である。鵜が飲み込むのに難儀するからといった説もあるが,『うなんぎ』→『むなぎ』→『うなぎ』の変化は考え難いため,『うなぎ』の呼称が成立した以降に作られた俗説であろう。」

とする。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%8A%E3%82%AE

も,

「日本では奈良時代の『万葉集』に『武奈伎(むなぎ)』として見えるのが初出で、これがウナギの古称である。院政期頃になって『ウナギ』という語形が登場し、その後定着した。そもそものムナギの語源には
家屋の『棟木(むなぎ)』のように丸くて細長いから
胸が黄色い『胸黄(むなぎ)」から
料理の際に胸を開く『むなびらき』から
など、いくつかの説があるが、いずれも民間語源の域を出ない。前二者については、『武奈伎』の『伎』が上代特殊仮名遣ではキ甲類の仮名であるのに対して、『木』『黄』はキ乙類なので一致しないという問題があるし、『ムナビラキ』説については『大半の魚は胸側を開くのになぜ?』という特筆性の問題がある上、ムナビラキ→ムナギのような転訛(または省略)は通常では起こり難い変化だからである。この他に、『ナギ』の部分に着目して
『ナギ』は『ナガ(長)』に通じ『ム(身)ナギ(長)』の意である
『ナギ』は蛇類の総称であり、蛇・虹の意の沖縄方言ナギ・ノーガと同源の語である → 参考: 天叢雲剣#「蛇の剣」
『nag-』は「水中の細長い生き物(長魚<ながうお>)」を意味する。この語根はアナゴやイカナゴ(水中で巨大な(往々にして細長い)魚群を作る)にも含まれている
などとする説もある。いずれにしても、定説と呼べるものは存在しない。
近畿地方の方言では『まむし』と呼ぶ。『薬缶』と題する江戸小咄では、『鵜が飲み込むのに難儀したから鵜難儀、うなんぎ、うなぎ』といった地口が語られている。また落語のマクラには、ウナギを食べる習慣がなかった頃、小料理屋のおかみがウナギ料理を出したところ案外美味だったので『お内儀もうひとつくれ、おないぎ、おなぎ、うなぎ』というものがある。」

と,懇切な詳説が載る。そうすると,『日本語源広辞典』の,

「ウナ(うねうね)+ギ(接尾語)」

とする説は,擬態語として魅力的ではあるが,「むなぎ」が「うなぎ」の古形とすると,棄てざるを得まい。

『日本語源大辞典』は,「うなぎ」と「むなぎ」と項を分け,

「うなぎ」では,

古語ムナギの転(東雅・大言海),
ムナギは,皮をムク(剥)から(名語記),
ムナギ(棟木)に似ていることから生じたムナギから(日本釈名),
胸が黄色いことから(日本語源=賀茂百樹),
ハムノコ(鱧子)の約転(日本古語大辞典=松岡静雄),
ムは身を表す語。ナギは長いものを表し,蛇類の総括名称。ムの子音が脱落して母音のみのウとなったもの(南島叢考=宮良当壮),
ウヲナガキ(魚長)の義(和句解・日本語原学=林甕臣),

と挙げ,

「①奈良・平安時代は『むなぎ』で,『万葉-十六・三八五三』『新撰字鏡』『和名抄』などに見られる。②『万葉-十六・三八五三』の家持歌に『石麻呂にわれ申す夏痩に良しといふ物ぞ武奈伎(むなぎ)取りめせ』があった,古来鰻が栄養価の高い食品とされたことがわかる。これ以降,伝統的な和歌に詠まれることはなく,俳諧狂言などに,庶民の食生活を描く素材として取り上げられる。③調理法としては,室町時代に酢(すし)や蒲焼きが行われるようになり,これらを『宇治丸』と称した。夏の土用の丑の日に鰻を食する習慣は,江戸時代の文化年間に始まったという。」

と付記する。さらに,「むなぎ」の項では,

ムナアギ(胸鰓)の義(和語私臆鈔・和訓栞・大言海),
ムナキ(胸黄)の義か(大言海),
ミナガキ(身長)の転,

を挙げ,

「『時代別国語大辞典-上代編』では,ムナギのナギについて,琉球語のナギ・ノーガ(虹・蛇の意)と同じであるとする説を紹介している。」

と付記する。

ここまで来ると,『語源由来辞典』の有力とする,

「『む』は『身』を,『なぎ』は『長し(長い)』の『なが』からとする説」

に傾くほかはない。「『あなご』の『なご』とも語幹が共通する」というのも,惹かれる。それを,『日本語の語源』は,音韻変化から,補強してくれる。

「ムナガキ(身長き)魚は,ガキ[g(ak)i]の縮約でムナギ(万葉集に武奈伎)に転音し,『ム』の子音[m]の脱落で,ウナギ(鰻)になった。」

と。

うなぎ.jpg



因みに,「鰻」の字は,「うなぎ」の意だが,

「魚+音符曼(マン かぶさってたれる,細く長くのびる)」

とされる。「曼」の字は,

「『おおうしるし+目+又(て)』で,長いたれ幕を目の上にかぶせてたらすこと」

とある。

http://zatsuneta.com/archives/001707.html

には,

「『鰻』のつくりの字『曼』は、『細長い』『長くのびる』という意味で、ずるずると長く伸びた草木の『つる』を『曼』という。この『曼』という字が、細長い魚であるウナギを表す字に当てられた。」

と説く。

なお,ニホンウナギについては,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%A6%E3%83%8A%E3%82%AE
http://www.ysk.nilim.go.jp/kakubu/engan/kaiyou/kenkyu/hakase/unagi-phd.pdf

に詳しい。

参考文献;
https://www.zukan-bouz.com/syu/%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%A6%E3%83%8A%E3%82%AE
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%8A%E3%82%AE
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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ラベル:むなぎ うなぎ
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2017年12月13日

鵜の目鷹の目


「鵜の目鷹の目」は,

「鵜が魚を,鷹が小鳥を捜すように,一所懸命にものを捜し出そうとするさま,その目つき」

という意味である。

http://kotowaza.avaloky.com/pv_ani23_01.html

に,

「鵜が水の中の魚を探そうとする目つきや、鷹が獲物をとらえようとする時の 目つきが、とても鋭く勢いがあるようすから生まれたことわざのようです。 特に、他人の欠点や物事の不足や間違いなどを必死に探そうとする時のようすを言う場合が多いようです。」

というように,「粗探し」,つまり,

人や作品などの欠点を捜して,けちをつける,

というニュアンスで,僕などは受け止めている。注意深く対象を見つめる底意に,悪意がある,ということである。『大言海』には,

「鵜飼に,鷹狩りに,鵜の鮎を,鷹の小鳥を,鋭き眼にて窺ひ狙ふに因りて云ふ」

と,場面が限定されている。ここが始まりなのかもしれない。さらに,

「目角を立てて,他の為すことを,鋭く見守ること」

とある。「目角」とは,

目の端,

の意だが,

「眼の,鋭く物を見る状をなすこと,めくじら,眼力,眼識」

とある。「目に角を立てる」もそうだが,「めくじら」(目角の意)は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/403963816.html

で触れたように,

ささいなことにむきになる,
目角を立てて他人の欠点を探し出す,

という意味だが,語源的には,

「目+くじら(端・尻)」

で,目尻のことである。で,

目くじらを立てる,

というと,

目角を立てて他人の欠点を探し出す,ささいなことにむきになる,目に角を立てる,

と,あまりいい意味ではなく,人を詮索する,という意味に近い。

http://kotowaza-allguide.com/u/unometakanome.html

の言うように,

「ただ熱心に何かをするときに使うのは誤り」

で,

血眼になる,

というのが,類語らしい。これも,ただ必死というより,逆上という含意で,「むきになる」と,マインドは似ているのかもしれない。

さて,この出典だが,

http://sanabo.com/kotowaza/arc/2005/05/post_1340.html

は,江戸前期の俳書,松江重頼著『毛吹草』(けふきぐさ)を採り,

http://kotowaza.avaloky.com/pv_ani23_01.html

は,平賀源内の『根無草』(ねなしぐさ)を採る。しかし,『広辞苑』には,

「日葡」

とのみ載る。室町末期の『日葡辞典』のことだと思う。『故事ことわざ辞典』には,

「鵜や鷹が獲物をあさるときのように,鋭く物を捜し出そうとするめつき,またそのようなさま。一説に,『ウノメ』『タカノメ』とは硫黄の上等品の名で,いずれ劣らぬの意とする」

とある。あるいは,「硫黄」説なのか,と思うのは,この出典,『日葡辞典』には,

「ウノメ,タカノメ〈訳〉鋭くてすばしこい目」

とあり,時代は戦国末期,あるいは,と思うだけである。ま,うがち過ぎかもしれない。『日葡辞典』に採録されているということは,結構すでに人口に膾炙していたと見なすことが出来る。ただ,これ以上は遡れない。

つづいて,

「うの目たかの目」(『毛吹草』),
「何か珍しき物見出さんと,鵜の目鷹の目にいさがし求れば」(『根無草』)

と用例が載る。どうやら,文献上は,『日葡辞典』を嚆矢とする。

なお,「毛吹草」については,
https://kotobank.jp/word/%E6%AF%9B%E5%90%B9%E8%8D%89-490969
「根無草」については,
https://kotobank.jp/word/%E6%A0%B9%E7%84%A1%E8%8D%89-595452
平賀源内については,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E6%BA%90%E5%86%85
に詳しい。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)


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2017年12月12日

うんぷてんぷ


「うんぷてんぷ」は,

運否天賦,

と当てる(否はぴとも訓む。)。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/455466721.html?1512936982

で触れた,「のるかそるか」とちょっと似ているが,

人の運不運は天のなすところである,

という意で,

運を天にまかす,
命は天に委ねる,

という意味から,

一六勝負,

と似ているようでいて,成行きに任せる,もっとはっきり言うと,

ケセラセラ,

に近く,どこかやけくそではあるが,悲壮感はない気がする。『日本語源広辞典』には,

「運否(運,不運)+天賦(展が与える)」

として,

「運不運は天が与えるものだ。人間の力ではどうすることもできない」

としている。和製漢語らしい。

「いちかばちか」は,『広辞苑』は,

「(もとカルタ博奕から出た語)運を天にまかせて冒険すること」

とするが,『大言海』は,

「一か罰(ばち)かなるべし。博徒より出たる語なると思はる。壺皿に伏せたる骰子(さいのめ)に,一が出るか,失敗(しくじ)るかの意と云ふなるべし。出たとこ勝負,出たら出たら目,などと意通ふ。一擲賭乾坤と云ふ語あり」

と,サイコロ賭博のことだとする。確かに,『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/i/ichikabachika.html

は,

「一か八かは博打用語で、『一』 は『丁』、『八』は『半』の各漢字の上部分をとったもので、丁半賭博などの勝負を意味していた(ここでの『丁』『半』は奇数・偶数ではなく、漢字のみをさす)。 『一か罰か』の意味 でサイコロの目が一が出て成功するか、外れて失敗するかといったサイコロ賭博説や,『一か八か釈迦十か』といったカルタバクチの用語説もある。」

と二説を挙げる。これだと分かりにくいが,『日本語源広辞典』は,この二説をこう説明している。

「説1は『一か八か』です。三枚のカルタばくち,二枚で一と八でカブ(九)の時,三枚目は,釈迦の十が出るのは希である。そこでつぶやく言葉『一か八か釈迦十か』が語源とする説です。
 説2は,壺に伏せたサイコロばくちで,丁半の文字の上部が隠語,丁(一の意),半(八の意)が語源です。そこで,つぶやく『一か八か』『丁か半か』が,語源となったというのです。いずれもハチにはバチ(失敗)の意が掛けてあるのだそうである。」

「三枚のカルタばくち」というのは,『日本語源大辞典』によると,

「めくりカルタで一から十までの札四十枚を用い,順にめくって手札との三枚の札の合計の末尾の数字が九を最高点とするもの。」

とある。これを見る限り,「バチ(失敗)」かどうかは別として,サイコロではなく,カルタに軍配を挙げたくなる。サイコロ賭博には,

一六勝負,

という言葉があって,

サイコロで一が出るか六が出るか,

を賭ける。『大言海』には,

「博奕に,壺皿に伏せたる簺目(さいのめ)に,一が出るか,六が出るか,何れかに賭けて勝負を決すると云ふごなり」

とある。「一六勝負」という言葉があるのに,「一か八か」という言葉はないだろう。

このサイコロ博奕の最高なのは,たぶん,

乾坤一擲,

という言葉だろう。「一六勝負」や「一か八か」は,

サイコロを投げて,天が出るか地が出るかを賭ける,

に比べると,ずいぶんしょぼい。

http://kotowaza-allguide.com/ke/kenkonitteki.html

に,

「『乾』は『天』、『坤』は『地』、『乾坤』で『天地』の意味。『一擲』はさいころを投げること。天地をかけて一回さいころを投げるという意味から、自分の運命をかけて、のるかそるかの勝負に出ることをいう。韓愈の詩「鴻溝を過ぐ」の「竜疲れ虎困じて川原に割ち、億万の蒼生、性命を存す。誰か君王に馬首を回らすを勧めて、真に一擲を成して乾坤を賭せん」から。」

とある。『易経』に,

「乾為天,坤為地」

とあるところから来た。因みに,韓愈の詩『過鴻溝』は,

龍疲虎困割川原
億万蒼生性命存
誰勧君王回馬首
真成一擲賭乾坤

で,漢楚の戦いをうたったもの。

「劉邦(前247~195)と項羽(前232~202)とは協力して秦王朝を倒すが、その後、二人は天下の盟主となるために激烈な戦いを展開して、結局勝負がつかない。詩にいう『龍は疲れ虎は困しむ』状態におちいり、そこで二人は『天下を二分して互いの領土としよう』と約束しあった。その境界線が題名にある『鴻溝』で、以西を漢(劉邦の国名)、
以東を楚(項羽の国名)と取り決めたのである。」

と,

http://www2.odn.ne.jp/kotowaza/BBS/KANSI/14-kenkon-itteki.htm

にある。「乾坤一擲」は,

一擲乾坤,

とも言うが,似た言葉に,

梟盧一擲(きょろいってき),

とも言う。「梟盧」とは,ばくちのこと,であるらしい。

参考文献;
http://www2.odn.ne.jp/kotowaza/BBS/KANSI/14-kenkon-itteki.htm
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
田部井文雄編『四字熟語辞典』(大修館書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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2017年12月11日

のるかそるか


「のるかそるか」は,つい,

乗るか反るか,

と書きたくなるが,

伸るか反るか,

と当てる。『広辞苑』には,

「『のる』は長くのびる,『そる』は反対にそりかえる意」

として,

成功するか失敗するか,いちかばちか,

の意が載る。

伸るか反るかの大ばくち,

といった言い回して,

成否は天にまかせ,思い切って物事を行うこと,

という意味(『デジタル大辞泉』)

うんぷてんぷ(運否天賦),
一か八(ばち)か,
乾坤一擲,

等々という,

運を天に任せる,

というのと,意味が重ならないでもないが,「人事を尽くして」天に委ねる,という含意は,「のるかそるか」にはなさそうである。これは丁半博奕の,「いちかばちか」の含意とかさなる。

「の(伸)る」は,

伸びる,

という意だが,実は,

そる,そりかえる,

という意もある。室町末期の『日葡辞典』には,

「カタナガノル」

という用例があるらしい。『大言海』は「の(伸)る」の項で,

「伸ブに通ず,ノスの自動」

として,

背を髙くして,前へ臨く,身,前へ差しかかる,

の意とする。『岩波古語辞典』の「の(伸)り」には,

うしろへ伸びる,反る,のけぞる,

の意が載る。『大言海』は,その意の「のる」には,別に,

仰,

を当てた項をたて,「そる(反)」に同じ,としている。

他方,「そる」は,

のけぞる,
物が弓なりに曲がる,

という意味で,『岩波古語辞典』には,「そ(反)り」の項で,

「ソは背(そ)の意」

とある。『大言海』は,「そる」について,

「背(ソ)の活用,背折(そお)るの義」

とする。「せ」の項,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/455025277.html?1511209075

で触れたように,「そ」は,

「セ(脊)の古形」

であり,

「反(ソレ)の約。背(ソ)と通ず」

と,「そる」と「せ(背)」は,つながっている。

こう「のる」と「そる」を見ていくと,「のるかそるか」は,「そる」という意味を重ねて強調している感じがある。しかし,「のびたりそりかえったり」でも,はっきりしないが,「そる」の意を重ねただけだと,なおさら運否天賦になるのかは,わからない。

『日本語源大辞典』は,

「のる」は前に屈む意か(小学館古語大辞典),
南方語で地獄をいうヌルカ,天国をいうソルガから転じて日本語になったものか(ことばの事典=日置昌一),

の二説を挙げた上で,

「ノルは前にかがむ意の四段動詞『伸る』,ソルは後ろにのけぞる意の四段動詞『反る』と考えられている。ただしなぜそれで成功するか失敗するかの意になるか,説明がつかない。あるいは,ノルは『乗る』,ソルは『逸る』で,軌道にのるか軌道を外れるか,調子にのるかはずれるかの意か。なお,『逸る』は,古くは四段と下二段の両活用があり,しだいに下二段に一本化され,江戸時代には下一段化してソレルとなった。ノルカフゾルカは,ノルカフンゾルカの転で,ソル(逸る)がソレルに定着した後,ソルを『反る』と誤解し,ソル(反)を強調したフンゾルとしたものと考えれば,先述の説と矛盾しないことになる。」

しかし,ノルカフンゾルカが,どうして成否の意味になるかは解決していない。『日本語源広辞典』は,「ノルカソレルカ」説を取る。

「ノル(人生の順当な道に乗る)か,ソル(逸れる)」

で,こう付け加える。

「『広辞苑』の『伸るか反るか』(長くのびるか,反対側に反るか)説は,のけぞる意だから,成功か失敗かという意になりにくいので疑問です。日置昌一氏の『南方語ヌルカ(地獄),ソルガ(地獄)』説は,来歴が不明で疑問です。」

確かにこれなら,成功するか失敗するか,の意には違いない。しかし,「乗るか逸る」かは,(屁)理屈に堕していまいか,こういうふうに言葉が使われ始める,というのは,少し信じがたい。

『日本語源大辞典』は,実は,さらに続けて,

「『くらしのことば語源辞典』は,矢を製作する矢師の用語で,矢竹が『のるか(真直ぐに伸びるか)そるか(曲がるか)』の説を紹介する。」

と述べている。実は,「ためつすがめつ」

http://ppnetwork.seesaa.net/article/455445472.html?1512851616

の項で,「矯めつ眇めつが」が弓の用語であることに触れたが,同じように,

http://kotobahiroi.seesaa.net/article/453860847.html

で,

「矢師が矢を作る時、『のため型』と呼ばれる竹の曲がりを直す物に入れ、竹を乾燥させます。そこから取り出した竹が、真っ直ぐに伸びていたら矢として合格品。少しでも曲がっていたら不良品。矢師は『のるかそるか』と、成否を気にしながら竹を取り出したんですね。」

を紹介している。そして,

『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/no/norukasoruka.html

「伸るか反るかの語源は,矢師の矢作りに由来する。矢師が矢を作る時,竹の曲がりを直す『のため型』と呼ばれる物に入れ,竹を乾燥させる。そこから取り出した竹が,真直ぐに伸びていたら矢として使えるが,少しでも曲がっていたら使い物にならず,捨てなければならなかった。矢師が,『のるかそるか(真直ぐ伸びるか曲がるか)』と,正否を気にしながら竹を取り出したことから,『伸るか反るか』といわれるようになった。また,物を賭けて勝負を決めることを,『賭る(のる)』ということから,勝負的な意味合いが強まったとも言われる。」

とする。和訓栞に,

「今も,かけものするにノルといふ詞あり」

とある。どうやら,矢作りからきたものらしい。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)


ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
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2017年12月10日

ためつすがめつ


「ためつすがめつ」は,

矯めつ眇めつ,

と当てる。『広辞苑』には,

「(ツは助動詞)いろいろの向きから,よくよくみるさま,とみこうみ,

と意味が載る。「とみこうみ」は,

と見こう見,

で,『広辞苑』には,

「(トミカクミの音便。一説に,ミは並列を表す接尾語)あちらを見たり,こちらをみたり,」

とある。『大言海』の「とみかうみ」には,

左を見,右を見る状に云ふ語。あちこちに気を配るさま,右顧左眄,

とある。『岩波古語辞典』には『伊勢物語』の,

「門に出でて,とみかうみ見れども,いづこをはかりとも覚えざりければ」

の用例が載る。ただ,右を見たり左を見たり,きょろきょろするさま(の状態表現が右顧左眄の価値表現へと転じたの)であって,「ためつすがめつ」とは,少し違う気がする。どちらかというと,

何かをいろいろな角度からよく見る,

さまを言い表したもので,何かを丹念に精査する,という含意に思える。『岩波古語辞典』には,

「目をためたり,すがめたり。いろいろな角度からよく見ようとするさま」

とある。『大辞林』には,

「動詞『たむ』『すがむ』の連用形に完了の助動詞『つ』が付いたもの」

とある。

差しつ差されつ,
押しつ押されつ,
くんずほぐれつ(「くみつほぐれつ」の音変化),

等々,他にも似た使われ方がある。「たむ」について,『岩波古語辞典』は,「ため」の項で,

矯め,
揉め,

と当て,「タミ(廻)と同根」として,

弾力のあるものをかがめ曲げたり,真直ぐに伸ばしたりして,形をつける,

という意味(この意味なら,「角を矯めて牛を殺す」という諺の使い方)と,

弓を挽き絞ってねらいを定める,

という意味が載る。『広辞苑』の「ためる(矯める)」の項でも,

ねらいをつける,ねらいをつけて,放さない,

の意味の後に,日葡辞典の,

「テッポウヲタムル」
「ためつすがめつ」

のよう例を載せる。どうやら,「ためつすがめつ」の「たむ」は,的を狙う意とつながるらしい,と見当が付く。『大言海』は,「たむ(揉)」の項で,

「撓むの略の他動詞」

とし,やはり,いわゆる「たわむ」の意味の後に,

「控え,支え持つ(狙ひて未だ放たぬに云ふ)。」

とし,さらに,

「転じて,片目塞ぎて狙ひ見る(ためツ,すがめツ)」

を載せる。「たむ」は,

何かを狙ったり,ものの繊細な具合を見たりする時の,片目を閉じて見る様子,を指している,

ということらしいのである。

当然,「すがむ」もそれに類すると想像される。「すがむ」は,

眇む,

と当てる。『大言海』に,

「(スガは,細き義)眇(すがめ)にてあり」

とある「すがめ(眇)」とは,

おぶにらみ,

の意だが,そのように,

目を片寄せて見るさま,

をいう。『日本語源広辞典』が,「すがめ」を,

「スカシ(透)+目」

として,

隙間から透かして見るような目,

というのがよく分かる。何かを注視するとき,

意識的に瞳を片寄せて見る,

その目つきである。まさに,的を狙っている目つきそのものである。やはり,「とみこうみ」とはニュアンスが違う。あえて言うと,「とみこうみ」は,

遠くを,あちらこちら,と見回す,

のに対し,「ためつすがめつ」は,

見るのは,一点に絞られる,

というところか。「とみこうみ」はサーチライト,「ためつすがめつ」はスポットライトに準えられる。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/ta/tametsusugametsu.html

は,

「狙いをつける・じっと見る意味の『たむ(矯む)』。片目を細めて見る意味の『すがむ(眇む)』。『たむ』と『すがむ』のそれぞれの連用形に,『~したり』を表す完了の助動詞『つ』が付いたのが,『ためつすがめつ』である。つまり,ためつすがめつは『じっと見たり片目を細めて見たりする』意味を表す。同意句に,『矯めつ歪(ひず)めつ』『矯めつ透かしつ』がある。」

としているが,「狙っている」目つきには触れていない。

http://kotobahiroi.seesaa.net/article/453860847.html

は,

「『矯める』は弓に関わる言葉で、矢をたわめてみては、それを目元にもっていって、その強さや曲がり具合を吟味したことから。転じて、物事をいろいろな角度から見定めようとする意味に。「すがむ」は強調的な意味でくっついたもの。」

としている。ここが原点のようだ。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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2017年12月09日

すかす


「すかたん」

http://ppnetwork.seesaa.net/article/455401916.html?1512678172

で触れた「すかす」には,

賺す,
透(空)かす,
好かす,

とある。それ以外に,

あいつスカしてゃがる,

の「すかす」もある。「すかす」について,『広辞苑』は,

きどる,すましこむ,

意の他に,隙間を拵える意の,

透かす,

と,だます,おだてる,なだめる意の,

賺す,

を載せるが,『大言海』は,きどる意の「すかす」の代わりに,

竊,

をあてる「すかす」を載せ,

音無く,ものをする,

意,つまり「屁をすかす」の「すかす」で,『江戸語大辞典』は,

透かす,

を当てて,「すかし屁をする」意とする。『広辞苑』を見ると,

透かす,

の意に,「すきまをこしらえる」という意から,

物を通して,,その向こうを見る,
へらす,減ずる,
空腹にする,
外す,取り除く,

等々の最後に,

音を立てずに,屁をする,

意が載るので,「透かす」と当てているもののようだ。

「賺す」と当てる「賺」の字は,「貝+兼」で,

だまして高く買わせる,

意だが,日本語の「すかす」の意はない。日本語「賺す」は,

だましいざなう,おだてあげる,機嫌を取る,

という意で,「なだめすかす」という使い方をする。『大言海』は,

「他の用心に,透(すき)あらしむる意か」

とあり,

他の心に,隙を生ぜしむ,

とある。『岩波古語辞典』は,

賺す,
欺す,

と当て,

「好きと同根。気持ちが傾くようにさせる意」

とあり,

すすめてその気にさせる,
慰め,なだめる,
巧みに言いくるめる,

という意が載る。「すかしている」の「すかす」は,ここからきているのではないか。他人を,「気持ちが傾くようにさせる」のを意図して,気取っている,というわけだ。『日本語源広辞典』は,「賺す」を,

「スカ(透・空)+ス」

で,「他人の心に透きをいれる」意とする。そうすると,「賺す」は「ほぼ,「透かす」とつながる。「透かす」は,

空かす,

とも当て,「透く」の他動詞だが,「透く」は,

「ス(狭い空間がカラに近い状態)+ク(動詞化)」

と,何もない状態を表し,

間に物がないか,少ないかして,向こう側が見える状態,

をいう(『日本語源広辞典』)。「すかす」の「すか」は「すかすか」という擬態語からきているのではないか,と思う。いずれにせよ,「すかす」が,ただの状態表現,

隙間をこしらえる→相手のここに隙間を入れる,

から,一方では,「賺す」で騙す方に,他方では,「好かす」で,好きにさせる方に,これが過ぎれば「すかした奴」と,価値表現へと変ずる,ということか。それを,

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1243728462

は,

「すかす→好かすではありませんか。人に好かれようと気取ることです。」

とする。

https://www.fleapedia.com/%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%9F%B3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/%E3%81%99/%E3%81%99%E3%81%8B%E3%81%99%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B/

では,

「すかすとは、きどるとか、カッコつけるといった意味で、『好かす』つまり人から好かれるように自分を見せるということ。この言葉のリアルな用法を聞きたければ、大阪地方で江戸弁をしゃべるのがよい。たちまち地元民に取り囲まれて『なに、すかしとんねん(カッコつけてんじゃねえ)』と因縁をつけられる。このように大阪方面では、『すかす』ことに強いアレルギー反応が見られるが、これは大阪の地元民がめいっぱい『すかし』てもあまりカッコよくならないという自覚があるからかと思われる。」

というが,ちょっと怖くて同調しかねる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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2017年12月08日

すかたん


「すかたん」は,

すことん,
すかまた,

とも言うらしいが,「すこたん」は,人をののしる,あるいは揶揄する含意があるが,『広辞苑』には,

あてのはずれること,だまされること,また,まちがい,見当違いのことをした人をののしって言うのにも用いる,

とある。しかし

当て外れ→だまされること→間違い,

間では意味の外延がつながるが,その状態表現と,

見当違いのことをした人をののしって言うのにも用いる,

という価値表現への転化とは,少し乖離があるように感じる。

実は,「すか」だけで,『広辞苑』には,

あてがはずれる,見当違い,へま,すかまた,

という意味が載るので,「すかたん」の「たん」は「すか」に付けた接尾語とみえる。

『大言海』には,「すかたん」の項に,

「賺(すか)されたる意」

とあり,

くひちがふこと,欺くこと,待ちぼうけること,すかを喰はすこと(だしぬく),

とある。「食い違い」が原意に見える。つまり,「食い違い」が思惑の違いなら,「当て外れ」になるし,意図的なら,「だまされる」となる。さらに,何らかの基準に外れるなら,「間違い」になる。それを人に当てはめれば,「当て外れ」は期待外れ,になり,「へま」「すか」にも転ずる。この「すか」は,はずれくじやはずれ馬券などに使う「すか」でもある。それを人に当てはめれば,罵りに転ずるはずである。しかし,どこか,罵倒にはならないのは,天に唾するようなもので,期待した自分に返ってくるからである。

そして,『大言海』は,『名言通』を引く。

「鶍〔いすか〕,(鳥名)行過ぐるなり,行過ぐるは,その嘴の上下,嚙(く)ひ差ふを云ふ。俗,スコタンなど云ふ。スコも同じ。スコタン或は,スカタンとも云ふ。又,スヤスとも,ソヤスと云ふ。皆,轉なり」

「賺す」とは,

だましいざなう,おだてあげる,機嫌を取る,

という意で,「なだめすかす」という言い方をする。『大言海』は,

「他の用心に,透(すき)あらしむる意か」

とあり,

他の心に,隙を生ぜしむ,

とある。『岩波古語辞典』には,

「好きと同根。気持ちが傾くようにさせる意」

とある。おだてるのも,なおだてるのも,機嫌を取るのも,まさに「心に隙を生じさせる」とは言い得て妙である。「賺す」は,「透かす」とつながる。「透かす」は,「透く」の他動詞で,『大言海』には,

透くようになす,まびく,透す,

と載るが,『広辞苑』は,

透かす,
空かす,

と当てて,

すきまをこしらえる,
物を通して,その向こうを見る,
減らす,

の意味が載る。どうやらこの「すかす」は,「すかすか」という擬態語ともつながるのではないか。『擬音語・擬態語辞典』には,「すかすか」について,空間的な隙間を指すが,室町末期の『日葡辞典』に,「矢で的を射損なう様」の意が載り,今日の「すか」の意味のはしりと見られる。「すかたん」の意味の奥行は,どうやら,ここまで行くようだ。

「すかたん」は,『岩波古語辞典』にも載り,

当てのはずれること,また失敗すること,

とあり,江戸時代からの用例が載る。『江戸語大辞典』には,

「(たんは接尾語)すか②に同じ」

とある。「すか」の項には,

「(動詞『すかす』の語幹)①すきま,②あてはずれ,肩空かし」

と載る。『日本語源広辞典』は,「すかたん」について,

「スカ(透かすの語幹)+タン(人)」

とするが,『日本語俗語辞典』

http://zokugo-dict.com/13su/sukatan.htm

に,「江戸時代~」として,こう説明が載るのは,妥当だろう。

「すかたんとは古く江戸時代から使われる言葉で、当てが外れること、騙されること、間違いや見当違いを意味する。また、間違いや見当違い、間抜けなことをした人を罵る言葉としても使われる。ちなみにすかたんのスカは透かす、スカを食うのスカで、これだけでも基本的意味は同じだが、人を罵る際は語調を整えたり、語感を荒くする接尾語『タン』を付けた形が使われる。」

今日では,

https://www.x-memory.jp/glossary/every/evr204.html

の言うように,

「日常的には、『すかたんを食わされる』や『このすかたんが』、『スカタン野郎』、『めっちゃすかたん』というように使われます。」

という状態である。

なお,接尾語「たん」については,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%82%93_(%E6%8E%A5%E5%B0%BE%E8%AA%9E)

に詳しい。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

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今日のアイデア;
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2017年12月07日

意識


ダニエル・C.・デネット『解明される意識』を読む。

解明される意識.jpg


二段組,六百頁を超える大著である。

少し前の本なので,本書の主張が,現在どの程度の位置を占めているかは分からないが,著者が,言うほど,明晰に意識が解明された,とは到底思えない。それにしても,この本はどうしてこんなに読みにくいのか。かつて,誰かが吉田拓郎のめんどくささを評して,手旗信号に準えて,ただ赤(旗)揚げる,と言えば済むところを,

赤揚げないで,白揚げないで,赤揚げる,

と言う,と言っていたのを思い出した。白挙げる,と言えば済むのを,

白揚げないで,赤挙げないで,白揚げないで…,

と延々と続け,その間にもさらに入子になった説明が入る。しかもその説明がまだるっこしくて,ついには,何を説明しているのかが,僕のような浅学の徒には,迷路に入り込むように,分からなくなる。

その迷路の果てに,著者は,最後の最後,掉尾に,こう書いている。

「意識についての私の説明は,とても完全なものとは言われない。それは,説明の手始めでしかなかったと言ってもよいだろう。けれどもそれが手始めであるのは,意識の説明を不可能と思わせた,魔法にかかった観念群の呪縛が,それによって断ち切られるからである。わたしは『カルテジアン劇場』という比喩的理論を,一つの〈非〉比喩的な(つまりは,『字義通りの,科学的な』)理論によって置き換えたわけではない。実際のところ,私がしたのは,『劇場』,『証人〔目撃者〕』,『中心の意味主体』,『空想の産物』などの観念を下取りに出して,その代りに『ソフトウエア』,『ヴァーチャル・マシーン』『多元的草稿』,『ホムンクルスたちのパンデモニアム』などの観念を立てることによって,一群の比喩とイメージに置き換えたことでしかない。それでは比喩同士の戦いにすぎないではないかと,あなたは言われるかもしれないが,比喩というのは,『単なる』比喩に『すぎな』いわけではない。それは,思考の道具だからである。誰も,比喩なくしては,意識について考えることは出来ないのだから,手に入る一式のもっとも優れた道具をそろえておくのが,肝腎である。私たちが自分の道具をつかってつくりあげてきたものに注目したらよい。はたしてあなたには,道具がなくても,それらを思い描くことが出来るだろうか。」

この一文に,この著者のめんどくささと,微妙に話をずらしていく手際がよくみてとれるだろう。「比喩」は自分が持ちだした。そのくせ,比喩なしで意識は語れない,と話をずらし,比喩の話へとずれていく。そして,何か肝腎なことが,ずらされていく,というか,ずれている,という感じを抱かせる。ここで問題にしていたのは,この本で意識が解明できたかどうかではないのか。

この一文に,象徴的に,読み手に苛立ちを与える一端が見える。

正直のところ,かつて,『脳のなかの幽霊』( V・S・ラマチャンドラン)等々,いくつもの脳に関わる本を読んだが,本署ほど,一向にワクワクもドキドキもしない本はない。なぜなのかは,上の一文に見える。本書は,ある種,

メタ哲学,

というか,さまざまな理論ををメタ・ポジションから,論ずるメタ理論というやり方のせいなのかもしれないが,それにしても,説明過多,,贅言が過ぎる。

著者の本書での方法は,

ヘテロ現象学,

と名づけた,

「客観的物理科学と三人称的視点へのこだわりから出発して,このうえもなく私的でこのうえもなくいわく言い難い主観的体験(原理的な)の公平を期しながらも,科学の方法論的疚しさをも同時に貫くことが出来るといった,そういった現象学的記述にまで到る〈中立的な〉道」

をとる。つまり,現象学の,

一人称パースペクティブ,

だけでなく,

三人称的パースペクティブ,

からも,併せて見ていこうとする。まさに,主観的アプローチ,客観的アプローチをも,メタ視点から見ようとするものである。

そこで槍玉に挙げられるのは,

究極の観察者,

を措定する,著者の言う,

カルテジアン劇場,

である。著者は繰り返し,

「脳は,究極の観察者がひかえる本部ではあるが,脳そのもののなかにも,そこに達することが意識体験の必要条件であったり十分条件であったりするような,何かさらに密かな本部やさらに内なる聖域があるのだと信じなければいけない理由は,どこにもはない。つまり脳のなかには,観察者などどこにもいないのである。」

と言い,脳の中にある最終的な集中するポイント,という考え方を否定し,代わりに,著者は,

多元的草稿モデル,

という仮説を提起する。それは,

「知覚をはじめ思考や心的活動はどのようなものも,脳のなかの,感覚インプットを解釈したり遂行したりする多重トラック方式にもとづくたがいに並行したプロセスによって,遂行されている。神経系統にに入ってくる情報は,絶え間なく『編集・改竄』に付されているのである。(中略)
 このような編集プロセスは一秒間の何分の一という時間の幅で起こっており,その間には,内容の付け足し,合体,修正,重ね合わせなどが,様々な形で,様々な順に生じることが,可能である。私たちは,自分の網膜,自分の耳,自分の皮膚の表面で起こっていることがらを,直々に体験しているわけではない。私たちが現実に体験しているのは,多くの解釈プロセス―実際には多くの編集プロセス-から生まれた,一つの帰結にすぎない。そうした編集プロセスは,比較的生で一面的な表象を取り入れて,それらに照合と改竄とレベルアップをほどこしているのであるが,それらの営みは,脳の多様な部分で生じている活動のの流れ全体を通じて行われている。(中略)ここで私たちは,特徴発見や特徴弁別は〈一度行われるだけでよい〉という,『多元的草稿』の新しい特徴に立ち合うことになる。つまりこれは,ある特徴についての個別的な『観察』がひとたび脳の特定の一部によって行われれば,そこで定着した情報内容は,さらにどこか別のところへ送られて,誰か『支配者づらした』弁別者の手で再び弁別されたりする必要はない,ということを意味する。」

と,「カルテジアン劇場」の観察者は存在しないことを強調している。しかし,それが,脳に構造として,臓器として特定の箇所がなかろうが,意識のポイントは,かつての,

即自・対自,

といったような,メタ構造を持っていると感じさせるところに本質があると思っている。意識の本質は,ここではないのか。その情報処理が,並行的になされていようと,それをメタ・ポジションで見るような感じを抱かせるのは,人類にとって,何か必要があったからこそなのではないか。そこを,否定してしまっても,何の解決にもならない気がする。そもそも,言葉は,意識のメタ化がなくては,生み出せないのではないのか(進化の部分で,自問自答に触れていたが,それがメタ化の話とはつながっていかなかったと,感じる)。

「意識というのは,何かがある一点に到達する,ということをめぐる問題であるのではなく,むしろ何かが,大脳皮質全体もしくはその大部分にわたって活性化の閾値を越えることによって,表象となる,ということを巡る問題であるのではなかろうか。」

この言い換えて,僕には,何かがすり替えられて,その一点への集中の代替案として可なのか非なのかが曖昧のまま,ずるずると,贅言に引きずられてしまう感覚だけが残る。そのことは,人の,

「内的識別状態〈もまた〉,何か特別の『内在的』特性を,つまりは〈ものが私たちに見えたり,聞えたり,味を与えたりす〉るときのその見え方〈聞こえ方,味の仕方など〉を構成する,主観的で,私的で,いわく言い難い特性」

つまり,

クオリア,

についての,著者の見解にも,つながる。クオリアは,ない,と著者は断言する。そして,

「機械と人間という経験主体(…私が想像したワインの質を見分ける機械のことを思い起こされよ)の間に人々があると想像している〈ような〉違いを,私は断固否定しているのである。」

と。メタ化を否定するなら,当然の帰結かもしれない。そして,その究極は,意識の,

バーチャル・リアリティ仮説,

である。

「人間の意識という現象が『ヴァーチャル・マシーン〔仮想機械〕』の働き」

なのであり,つまりは,

「人間の脳の働きを形づくるある種の進化した(そして今なお進化し続けている)コンピュータ・プログラムの働き」

である,というのが結論である。

今日,どう評価されているかは分からないが,脳の活動=発火にともなう,ホログラフィックなものが,意識ではないか,と思っているので,別に脳がソフトウエアに準えられても驚かないが,肝腎のメタ構造を,説明してもらわないと,いまひとつ納得できない。


参考文献;
ダニエル・C.・デネット『解明される意識』(青土社)

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2017年12月06日

とにかく


「とにかく」は,

兎に角,

と当てるが,

とにかくにの転,

とされる。「とにかくに」は,

あれやこれや,なんやかや,
それはさておき,何にせよ,ともかく,

の意味があり,はじめは,

あれもこれも,

と指示する状態表現であったものが,変じて,

(「あれやこれや」あるだろうが,まあ)それはさておき,

と,価値表現に転じた,とみることができる。「とにかく」は,その後者の意味で使われる。

「とにかくに」は,また,

とにもかくにも(兎にも角にも),

の略であり,やはり,

あれもこれも,
なににせよ,ともかく,

の意味があるので,

とにもかくにも→とにかくに,

までは意味を重ねていたが,

とにかくに→とにかく,

で,意味も端折られたということになる。「とにもかくにも」「とにかくに」は,古くから使われている。

http://www.yuraimemo.com/549/

には,

「とにかくは、平安から江戸までは『とにかくに』として用いられてきました。とにかくの『と』は『そのように』、『かく』は『このように』で、『あれこれと』とか『何やかや』といった意味でありました。」

あるいは,『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/to/tonikaku.html

は,

「兎に角は『とかく』の当て字『兎角』を真似た当て字で、仏教語の『兎角亀毛』からと考えられる。ただし、兎角亀毛の意味は、兎に角や亀に毛は存在しないもので、現実には あり得ないものの喩えとして用いられたり、実際に無いものをあるとすることをいったもので、意味の面では関連性がなく、この当て字は、夏目漱石が多用したことで広く用いられるようになったと考えられる。とにかくは,平安時代から江戸時代までは『とにかくに』の形で用いられていた。とにかくの『と』は『そのように』、『かく』は『このように』で、いずれも副詞。『あれこれと』『何やかや』といった意味で用いられ、転じて『いずれにせよ』などの意味になった。」

とある。「とにかく」のニュアンスは,

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q116882091

は,

「『とにかく』は『とにもかくにも』が短縮してできた副詞です。『とにもかくにも』は『と(あなたが言ったようである)にしても、(あるいは違って)このようであるにしても』の意味で、つまり『何がどうであれ』『なんとしても』に近い意味合いです。」

と,『日本語語感の辞典』のいう,

「ほかのことはどうであっても,いずれにせよ」

と,それまでの流れを断ち切るという意味合いだが,その意味なら,「何しろ」という言葉もある。『広辞苑』は,

「(シロはス(為)ルの命令形。他のことは一応別にして,これだけは強調したいという気持ちを表す)なんにしても,なににせよ,とにかく」

と載るので,「とにかく」と重なる。『デジタル大辞泉』は,「とにかく」について,

1 他の事柄は別問題としてという気持ちを表す。何はともあれ。いずれにしても。ともかく。「とにかく話すだけ話してみよう」「間に合うかどうか、とにかく行ってみよう」
2 (「…はとにかく」の形で)上の事柄にはかかわらないという気持ちを表す。さておき。ともかく。「結果はとにかく、努力が大切だ」

と意味を並べた上で,

「『彼はとにかく(なにしろ)まじめな人だから』『このごろ、とにかく(なにしろ)忙しくってね』のように、取り上げた事柄をまず強調しようとする意では相通じて用いられる。『時間だから、とにかく出発しよう』『とにかく現場を見てください』のように、細かいことはさて置いて、まず行動をという場合は、『とにかく』しか使えない。『私はとにかく、あなたまで行くことはない』のような『…は別として』の意の用法も、『とにかく』に限られる。『なにしろ』は『なにしろあの人の言うことだから』『なにしろ暑いので』のように『から』『ので』と結び付いて、その事柄を理由・原因として強調する用法が多い。」

と,「何しろ」と比べている。しかし,「何しろ」が,

いろいろあるにしても,なにをおいても,

というニュアンスなら,「とにかく」も,

あれこれあったにしろ,いずれにせよ,

と,次へと断ち切る意味では変わらない。「何しろ」は,「何にしろ」でもあるし,「何にせよ」でもある。更に約めて「なにせ」となるが,それだと,上記の「とにかく」の用例とほぼ重なっていく。差異は,さほどになさそうである。

『大言海』は,「とにかく」「とにかくに」に,

左右,
兎角,

を当て,「とかく」を見よ,とある。「とかく」は,

左右,
取捨,
兎角,

と当て,

「第一類の天爾遠波のトと,副詞の斯(かく)とを連ねたる語。兎角亀毛の説は,付会も甚し」

として,

かにかくに,かにもかくにも,どうもこうも,どうかこうか,かれこれ,あちこち,
ややもすれば,ともすれば,
とにかく,何にせよ,

と意味を記すが,最初の意味のところで,

「竹取物語,上『「トカク申すべきにあらず」トカクして出立ち給ふ』此の二語の間に,他の語を挿みて用ゐること多し。『とニかくニ』『とテモかくテモ』『とニモかくニモ』『とヤかく』『とサマかうサマ』など,その意推して知るべし」

と解説する。「その意推して知るべし」と,突き放されたが,結局,『大言海』は,

とにかく,
とにかくに,
とにもかくにも,
とさまこうさま,

は,いずれも,「とかく」を原型として,他の語を挿んで使っているだけという主張なのであある。「とかく」は,

「と(副詞・ああ)+かく(副詞・こう)」

で(『日本語源広辞典』),『岩波古語辞典』によれば,

「指示副詞トとカクとの複合。トは,あれ,あのようの意。カクは,こう,このようの意。状態とか立場・条件などが,あれこれと二つまたはそれ以上あって不確定なさま」

であり,結局,

あれやこれや,
ややもすると,

の意になる。つまり,『広辞苑』の意味をならべるなら,はじめは,

あれやこれや,かれこれ,いろいろ,

という状態表現が,時間経過を経て,

とすれば,ややもすれば,

と少しどれかにシフトし,

結局,つまるところ,

いずれにせよ,
とにかく,

と,切断を迫られるところへと煮詰まる,ということになる。この意味の幅は,

とにかく,
とにかくに,
とにもかくにも,

と同じである。つまり,「とにかく」は,「とにもかくにも」の約ではなく,元は,

とかく,

に,言葉の語調や言葉を強調する意味で,「に」や「も」を足したというのが正確なのではないか。ただ,「とかく」には,

とかくの噂,

という,価値表現を含んだ言い方がある。これは,「あれやこれや」の反語的な「どうのこうの」のニュアンスとみることができる。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/to/tokaku.html

は,

「『と』は『あのように』『そのように』を意味する副詞。『かく』も『斯くして』などと使う副詞で,『このように』『こう』を意味する。この二つの副詞が一語となって,『あれやこれや』の意味で中古から使われ始めた。中世以後,『(あれこれがあるが)いずれにせよ』の意味が生じ,さらに『ややもすれば』『何はさておき』などの用法が生まれた。」

とまとめている。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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2017年12月05日

兎の数え方


兎は,

一羽,二羽,

と数える。これについては,諸説あるが,

http://japanknowledge.com/articles/kze/column_kaz_02.html

には,

「獣(けもの)を口にすることができない僧侶(そうりょ)が二本足で立つウサギを鳥類だとこじつけて食べたためだという説や、ウサギの大きく長い耳が鳥の羽に見えるためだとする説などが有力です。
それだけでなく、ウサギの数え方の謎は、ウサギの名前の由来とも少なからず関係があるようです。ウサギの『う』は漢字の『兎』に当たるものですが、残りの『さぎ』はどこから来ているのかはっきりしたことが分かりません。一説では、『さぎ』は兎の意味を持つ梵語(ぼんご)『舎舎迦(ささか)』から転じたものだとか、朝鮮語から来ているとされています。さらに、『さぎ』に鳥のサギ(鷺)を当てたとする俗説まであります。仮に、ウサギが『兎鷺』と解釈され、言葉の上では鳥の仲間と捉(とら)えられていたとしたら、『羽』で数える習慣が生まれても不思議ではありません。現代では、ウサギを『羽』で数えることは少なくなり、鳥類とウサギを『羽』でまとめて数える場合以外は、『匹』で数えます。」

とある。また,

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000101035

は,うさぎを“何羽”と数える由来は諸説あり、正確な説は定かではないとされているとしつつ,

・宗教上の理由で僧侶が獣の肉を食べるのを禁止されていたため,後ろ足二本で立つウサギを鳥と見なして食べていた時代の名残,
・「ウ(鵜)とサギ(鷺)という二羽の鳥」ということで,兎二匹で一羽と数えるという説,
・獲るときに鳥と同じように網に追い込んで捕まえたからという説,
・ウサギの長い耳を羽に見立てているという説,

を挙げる。また,

https://www.benricho.org/kazu/column_usagi-2yurai.html

は,

① 長い耳が鳥の羽のようだからとする説。
② 骨格が鳥に似ているからとする説。
③ 二本の足で立つ兎を鳥に見立てて、鳥と称して食べたとする説。
④「ウサギ」を「ウ・サギ」と分解して発音し、「鵜う」と「鷺さぎ 」の二羽の鳥であるとする発音説。
⑤ ぴょんぴょんと跳ねる様が飛ぶ鳥のようだからとする説。
⑥ 肉が鳥肉に似ているからとする説。
⑦ 耳を括って持つことがあり、括ったもの、束ねたものを数える「 一把いちわ」「二把にわ 」から、鳥にも似ているので「一羽」になったとする説。
⑧ 網を使った捕獲方法があって、鳥を捕る方法に似ているからとする説。
⑨ 兎を聖獣視する地方で、そのほかの獣と区別する意味合いで数え方を変えたとする説。

等々を挙げ,その他に,

「一種の『 洒落しゃれ 』から始まったのではないかとする説もあります。上記のような様々な理由から鳥に似ているため、猟師などが『洒落』で、鳥を数える『一羽』を使っていたのではないかとする」
やはり,

説も加えているが,結局,南方熊楠『十二支考』の「兎に関する民俗と伝説」の,

「従来兎を鳥類と 見做みなし、獣肉を忌む神にも供えまた家内で食うも忌まず、一疋二疋と数えず一羽二羽と呼んだ由、」

に落ちつくようだ。鍵は,「うさぎ」という言葉にありそうである。

うさぎ.jpg

〔草の葉を食べるニホンノウサギ(日本野兎、学名:Lepus brachyurus)〕


『広辞苑』には,

「『う』は兎のこと,『さぎ』は兎の意の梵語『舎舎迦(ささか)』の転とする説と朝鮮語起源とする説とがある」

としている。『大言海』も,

「本名ウにて,サギは,梵語,舎舎迦(ささか)(兔)を合せて略轉したる語かとも云ふ(穢し,かたなし。皸(あかがり),あかぎれ)。転倒なれど,乞魚(こつお),鮒魚(ふな),貽貝(いがい)など,漢和を合したる語もあり。朝鮮の古語に,兔を烏斯含(ヲサガム)と云へりと云ふ(金澤庄三郎,日鮮古代地名)。」

と,両説挙げる。「う(兔)」の項では,

「此の獣の本名なるべし。古事記上三十二に,『裸なる菟伏也』継体紀に,『菟皇子』などある,皆,ウと訓むべきものの如し」

としている。『岩波古語辞典』は,「うさぎ(兎)」の項で,

「兔,宇佐岐〈和名抄〉,朝鮮語t`o-kkiと同源」

とするのみである。『日本語源広辞典』は,梵語説の他に,

「ウサ・ヲサ(設)+ギ(接尾語)」

で,いつでも飛び出せるように,ヲサ(用意)のある動物を指す,という。「おさ」とは,

おさおさ怠りなく,

の「おさ」なのだろうか。しかし,この「をさ」は,「長を重ねた語」で,

いかにも整然としているさま,

の意で(『岩波古語辞典』),ちょっと意味がつながらない。『日本語源大辞典』は,「う(兔・兎)」と「うさぎ(兎・兔)」と「おさぎ(兎)」とを項を別にし,「う」については,

「ウ」の音は安らかに発せられるところから易産の意で名づけたか(和訓栞),
ウム(産)の「ウ」と同じ(俗語考),
ウサギの略(日本語原学=与謝野寛),

と挙げているが,

「一拍語の語源解釈は,その音を含む種々の語に付会されやすい。また一拍しか音がないのであるから,諸説の真偽の判定も困難である。」

としている。「うさぎ」では,

ウと言う。ウサギは後の訓(和訓栞),
「万葉-東歌」にはヲサギとあるので並び用いられたか(時代別国語大辞典・上代編),
本名はウで,サギは梵語ササカ(舎舎迦)を合わせて略轉した語(大言海),
ヲサキ(尾先切)の転(言元梯),
ウはウ(菟),サギはサケ(細毛)の転(日本古語大辞典=松岡静雄),
ウスゲ(薄毛)の転(日本釈名),
ウサギ(愛鷺)の意か(和字正濫鈔),
うちへうつぶいた鷺の意(本朝辞源=宇田甘冥),
かがまったさまが,憂くみえるからか。ウは中,サキは上(和句解),
ミミフサナギ(耳房長)の義(日本語原学=林甕臣),
朝鮮語t`o-kki(兎)と同源(岩波古語辞典),

等々を挙げた上で,

「ウが古形であり,オサギ(ヲサギ)は,上代より東国語形として見える。一拍語であるのを嫌って『サギ』を補ったのであろう。このサギを『暮らしのことば語源辞典』では鷺にもとづく説を紹介している。」

とし,「おさぎ」では,

うさぎ(兎)の訛語(大言海),
ヲサギ(尾先切)の転(言元梯),
白兎は形が白鷺に似ているところから,ヲソギ(偽鷺)の義(言元梯),

としている。『岩波古語辞典』も,「をさぎ」を,

「うさぎ」の上代東国方言,

としているので,あるいは,この言葉が鍵になるのかもしれない。

『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/u/usagi.html

は,

「うさぎの語源は諸説あり未詳、大まかに分けると以下のとおりである。
1.古形は『う』で,『さぎ』を補ったとする説。
2.『ヲサキ(尾先切)』が転じたとする説。
3.『ウスゲ(薄毛)』が転じたとする説。
4.高句麗語で『うさぎ』を意味する『オサガム(烏斯含)』が変化したとする説。
5.特徴的な耳と口から,『ウス(薄)』+『アギ(顎)』からか,『ウス(失)』+『アギ(顎)』からとする説。
 古形『う』については,『うさぎ』から『う』の呼称が生じたともいわれるが,一拍語は嫌われる傾向にあり,古形が『う』で『さぎ』がついたと考えるのが妥当であるため,[1]の説が有力である。[1]の中にも,白い色から鳥の『さぎ(鷺)』のこととする説,『うさぎ』を意味するサンスクリット語『ササカ(舎舎迦)』が付いたとする説,東国語形では『ヲサギ』といったことから,古形の『ウ』と『ヲサギ』きが合わさったとする説などがある。しかし古形の『う』が何を表したかも定かでなく,うさぎの語源を特定することは非常に難しい。
 うさぎの数え方には,『匹(ひき)』と『羽(わ)』があり,地域によっては『耳(みみ)』とも数えられる。『一羽,二羽』と数える由来は,獣肉を口にすることが出来なかったことから,鳥類といって食べたとする説があるが定かではない。鳥に見立てたのは,二本足で二つこと,大きな耳が羽に見えること,うさぎの名前には『ウ(鵜)』と『サギ(鷺)』の鳥の名が含まれていることからなどといわれる。」

とうまく整理している。要は,古名「う」は,古くから,「うさぎ」(東国では訛って「をさぎ」)といったということがわかる。おそらく,獣肉云々は後世の付会にすぎないと見る。むしろ,「をさぎ」が「うさぎ」の転とするなら,ずいぶん昔から,「うさぎ」と呼んでいたに違いない。なぜサギをつけたかは,もはやわからなくなっている。「さぎ」にいろいろ付会するのも,後世の後知恵に過ぎまい。むしろ「うさぎ」ということばの「さぎ」のもつ多重な含意から,後に,鳥に見立てたり,洒落で,鶏肉といったに過ぎぬように見える。

そう見ると,『日本語の語源』が,

「牛・兎は草食の家畜であるためクサクヒ(草食ひ)と呼んだ。『ク』の子音交替[kf],クヒ[k(uh)i]の縮約でフサキに転音し,『フ』の子音[f]が脱落してウサギ(兎)になった。さらに,サギ[s(ag)i]の縮約がウシ(牛)に転音した。」

という音韻変化説が,新鮮に見える。しかし,この説では,一羽,二羽,と数える謂れが見えなくなってしまうが。

因みに,「兎(兔)」の字は,

兎のすがたを描いた象形文字,

である。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%82%A6%E3%82%B5%E3%82%AE
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B5%E3%82%AE
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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ラベル:兎の数え方
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2017年12月04日


「の」は,

野,

と当てるが,「はら(原)」について,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/455267128.html?1512172397

で触れた折,『日本語源大辞典』は,こう述べていた。

「上代において,単独での使用例は少なく,多く『萩はら』『杉はら』『天のはら』『浄見はら』『耳はら』など,複合した形で現れ,植生に関する『はら』,天・海・河などの関する『はら』,神話・天皇・陵墓に関する『はら』等々が挙げられる。したがって,『はら』は地形・地勢をいう語ではなく,日常普通の生活からは遠い場所,即ち古代的な神と関連づけられるような地や,呪術信仰的世界を指す語であったと考えられる。この点,『の(野)』が日常生活に近い場所をいうのと対照的である。しかし,上代末,平安初期頃から,『の』と『はら』の区別は曖昧になった。」

戦場ヶ原.jpg

(戦場ヶ原)


今日,

野原,

と一括りにして言うが,この説に従えば,





とは,区別があった,ということである。繰り返しになるが,「はら」は,「晴れ」に通じ,

ハレ(霽),

になるのであり,「の」は,

ケ(褻),

なのである。ハレ(晴れ、霽れ)は,

儀礼や祭、年中行事などの「非日常」,

「ケ(褻)」は,

普段の生活である「日常」,

を表しているとされるが,「ハレ」は日常の軛から脱するとき(場)でもある。あるいは,「の」は,

現実の平らに開けた地,

を指すが,「はら」は,

非現実の地,

を指すという言い方もできるのかもしれない。

「野(埜)」の字は,

「予(ヨ)は,□印の物を横に引きずらしたさまを示し,のびる意を含む。野は『里+音符予』で,横にのびた広い田畑,のはらのこと。古字埜(ヤ)は『林+土』の会意文字。」

で,のび広がった郊外の地,という意味である。和語「の」は,『岩波古語辞典』には,

「ナヰのナ(土地)の母音交替形」

とある。「なゐ」は,

地震,

と当て,その項に,

「ナは土地,ヰは居。本来,地盤の意。『なゐ震(ふ)り』『なゐ揺(よ)り』で自身の意であったが,後にナヰだけで」

とある。その「ナ」が母韻交替で「ノ」になったということになる。つまりは,「土地」という意である。『大言海』は,

「ヌの轉」

とある。「ぬ(野)」をみると,

「緩(ぬる)き意」

として,

「野(の)の古言,

として,『古事記』の,

次生野神(ヌノカミ)名,鹿屋野比賣神,

等々を引く。とすると,

ナ→ヌ→ノ,
あるいは,
ヌ→ナ→ノ,

と交替したということなのだろうか。ただし『日本語源大辞典』には,

「ノ(野)を表すときに用いられる万葉仮名『努』は,江戸時代以来ヌと呼ばれてきたが,昭和の初め橋本進吉の研究によってノの甲類に訂正された。ただし,『奴』と表記されたものはヌと読む」

とあるので,「ヌの轉」説は,消える。

『日本語源広辞典』は「の」の語源について,『大言海』の「ぬ(野)」を「緩(ぬる)き意」としたのと同じく,

「ゆるやかにのびているノ(和)」

で,緩い傾斜の平地の意,とする。『日本語源大辞典』

伸びる意の古語ノから(東雅),
ノブ(延)の義(国語本義・音幻論=幸田露伴),
ノブル(延)のノに通ず(国語の語幹とその分類=大島正健),
ナヰ(地震)のナの母音交替形。山のすそ野,緩い傾斜地(岩波古語辞典),
ノ(野)は,平地に接した山の側面。麓続きをいう(地名の研究=柳田國男),
ヌルキの義か(名言通),
田畑などに境を分けてノコ(残)る所の義か(和句解),

と並べた上で,

「上代の用法はハラ(原)とよく似ているが,古代にノ(野)と呼ばれている実際の土地の状況などを見ると,もと,ハラが広々とした草原などをさすのに対して,ノは低木などの茂った山裾,高原,台地状のやや起伏に富む平坦地をさしてよんだものかと思われる。」

と述べる。山が神体と見なされた時代,「の」はその裾の地を指した,というような気がする。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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2017年12月03日

思いの重奏


方の会第61回公演「はかなくも また,かなしくも」(作・平山陽,演出・狭山鉄)を観る。

img063.jpg


啄木の死後,その作品を世に出そうとした土岐哀果ら友人,知人などの人々と残された妻子の物語,である。それを,残された詩歌,手紙を介して,綴っていく。

そのとき,読む人によって,その詩句や手紙の文面の言葉に読みこむ思いや感情は,発信者と受信者とでは違うはずである。あるいはズレルといってもいい。

言葉は,コード化できる。しかし,0と1に転換できない思いや感情は,そのことばを読む側の思いで転換される。発信者の思いと受信者の思いとが同じとは限らないのである。これは,小説を読む時も,詩歌を読む時も,同じである。作者が使った言葉に込めた思いや感情と,その同じ言葉に読者が読みこむ思いと感情は,けっして同じではない。同じなら,それは読書ではなく,摺り込みにすぎない。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/389809186.html

で触れたことがあるが,情報には,

コード化できる情報である「コード情報」

コードでは表しにくいもの,その雰囲気,やり方,流儀,身振り,態度,香り,調子,感じなど,より複雑に修飾された情報である「モード情報」

とがある。その思いや感じを表現した発信者の言葉を,受け手が,その同じ思いで受け取るとは限らない。そもそも同じはずはない。クオリアは人によって違う。人のもっているリソース,つまり記憶には,

意味記憶(知っている Knowには,Knowing ThatとKnowing Howがある)
エピソード記憶(覚えている rememberは,いつ,どこでが記憶された個人的経験)
手続き記憶(できる skillは,認知的なもの,感覚・運動的なもの,生活上の慣習等々の処理プロセスの記憶)

等々があるが,その言葉の意味をモード情報に置き換えさせるのは,その人のエピソード記憶である。これは自伝的記憶と重なるが,その人の生きてきた軌跡そのものである。人の軌跡が違えば,言葉というコードに載せるモードは違う。

Takuboku_Ishikawa_and_his_wife_Setsuko.jpg

1904年(明治37年)婚約時代の啄木と妻の節子(部分)


本劇の「タイトル」

はかなくも また,かなしくも

は,「家」(『呼子と口笛』所収)の,

 今朝も、ふと、目のさめしとき、
 わが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、
 顔洗ふ間もそのことをそこはかとなく思ひしが、
 つとめ先より一日の仕事を了へて歸り來て、
 夕餉の後の茶を啜り、煙草をのめば、
 むらさきの煙の昧のなつかしさ、
 はかなくもまたそのことのひよつと心に浮び來る――
 はかなくもまたかなしくも。(1911.6.25 TOKYO)

から採られている(後半は略した)。

この「はかなくもまたかなしくも」を,

はかなくも
また,
かなしくも

と三段に別けて記したのは,啄木ではない。この劇の作者だ。その思いは,啄木の思いとは違うはずである。

人は,同じ言葉を使っていても,同じ思いを語っているとは限らない,

のである。この劇が,手紙を使って,書き手と訓み手に語らせていることで,ある意味で,同じ言葉を使いながら,相互に,受け取る思いの違いが生まれる,その多重性がおもしろい協奏,あるいは重奏になるはずである。啄木が,土岐哀果に,

これからもよろしく,

といった言葉以上の思いを汲み取って,哀果は,啄木の遺稿を整理し,全集という形で世に出そうと尽力する。宮崎郁雨の啄木の妻節子への手紙の送り手と受け手の齟齬も,やはりそれだ。言葉を受け取るエピソード記憶とは,その人の自伝的記憶,いわば人生そのものだ。言葉の思いの受け取りに齟齬が生まれて当たり前だ。

おそらく,劇の作者の意図がそこまで狙っていたかどうかは分からないが,随所に,言葉と向き合う,送り手(発信者)と受け手(読み手)との,思いの違いが,言葉を輪唱のように木魅させるはずなのだが。

たとえば,

雨が降っています,

という文を書いた人間が,イメージした雨と,受け手のイメージした雨が違うように,この言葉に託した思いは微妙に違う(あるいは「交う」と書く方がいいかもしれない)。それが,読み交わした後の振舞で現れてくれば,そこにまた別のドラマが生まれると思う。

劇中で使われた,「古びたる鞄をあけて」(『呼子と口笛』所収)

 わが友は、古びたる鞄をあけて、
 ほの暗き蝋燭の火影ほかげの散らぼへる床に、
 いろいろの本を取り出だしたり。
 そは皆この國にて禁じられたるものなりき。
 やがて、わが友は一葉の寫眞を探しあてて、
 「これなり」とわが手に置くや、
 静かにまた窓に凭りて口笛を吹き出だしたり。
 そは美くしとにもあらぬ若き女の寫眞なりき。(1911.6.16 TOKYO)

この詩を劇の作者が使った意図は,啄木の意図とは微妙にずれるだろう。啄木の思いは,「この國にて禁じられたるもの」と「若き女の寫眞」のギャップにあると,僕なら読むが(とするとこの劇の流れとはそぐわない),その言葉を挿んだ,対峙というか協奏,あるいは重奏こそが,たぶん面白さのはずなのだが。

ところで,人は,二度死ぬ,という。

一度は,生物的に,
二度は,社会的に,

二度目の死とは,その人のことを覚えている人がいる限り,社会的には生きている,という意味だ。啄木は,恐らく,多くの友人の心に巨大な跡を残したのだろう。その強烈な記憶が,その死を惜しむ友人知人が一杯おり,その二度目の死を延命し続けている。そして,今回,その妻子もまた,二度目の死を延命する,これを観た人の心に。その意味で啄木を「遺す」を意図した作者の思いは伝わったと言える。,

「家」の最後の節は,

 はかなくも、またかなしくも、
 いつとしもなく、若き日にわかれ來りて、
 月月のくらしのことに疲れゆく、
 都市居住者のいそがしき心に一度浮びては、
 はかなくも、またかなしくも、
 なつかしくして、何時までも棄つるに惜しきこの思ひ、
 そのかずかずの満たされぬ望みと共に、
 はじめより空しきことと知りながら、
 なほ、若き日に人知れず戀せしときの眼付して、
 妻にも告げず、眞白なるランプの笠を、見つめつつ、
 ひとりひそかに、熱心に、心のうちに思ひつづくる。

で終る。この啄木の翳は,今回の劇の外にある。それは啄木の『ローマ字日記』にある啄木でもある。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%95%84%E6%9C%A8
http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/47892_31512.html
http://www5c.biglobe.ne.jp/n32e131/tanka/takuboku012.html

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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2017年12月02日

はら(原)


「はら」は,原っぱの「はら」である。

「腹」や「向かっ腹」で触れた,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/424241083.html

や「はら(腹)」

http://ppnetwork.seesaa.net/article/455047479.html?1511295116

で,触れたように,「腹」の語源の一つに,「ハラ(原)」があり,人体の中で広がって広いところ,の意,という説がある。『大言海』は,

「廣(ひろ)に通ず,原(はら),平(ひら)など,意同じと云ふ。又張りの意」

とする。「原」の項では,

「廣(ひろ),平(ひら)と通ず。或いは開くの意か。九州では原をハルと云ふ。」

とある。しかし,『岩波古語辞典』は,

「晴れと同根」

とする。「晴れ」を見ると,「晴・霽」の字を当て,

「ハラ(原)と同根か。ふさがっていた障害となるものが無くなって,広々となる意」

とするので,意味は,『大言海』と同じである。『大言海』の「はる」の項を引くと,

墾,
治,

という字を当てるものと,

晴,
霽,

の字を当てるものと区別しているが,前者は,

開くの義,開墾の意,掘るに通ず」

とし,後者は,

「開くの義,履きとする意,

として,いずれも「開く」につながる。その意味は,

パッと視界が開く,

晴れ晴れ,

という感じと似ているが,それは,

開いた(開墾した),

という含意があることらしい。つまり,開く(開墾する)ことで,開けたという意味である。

「原」の字は,

「『厂(がけ)+泉(いずみ)』で,岩石の間の丸い穴から水がわくいずみのこと。源の原字。
水源であることから『もと』の意を派生する。広い野原を意味するのは,原隰(ゲンシュウ)(泉の出る地)の意から。また,生真面目を意味するのは,元(まるい頭→融通のきかない頭)などに当てた仮借字である。」

とあり,もともとは起源の意味で,そこから派生して,平原の意がでてきた,ということらしい。

その「原」を当てた「はら」の語源について,『日本語源広辞典』は,二説挙げる。

説1は,「ハラ(ハリ,開・墾・治・拓の音韻変化)」が語源で,開墾して広がった地の意,
説2は,「ヒロ(広),ヒラ(平)」が語源で,ハルバル(遥々)やハラ(腹)と同根で,広がった平地の意,

である。「はるばる」あるいは「はるか」という語感とつながっていく。『岩波古語辞典』は,「はるか」で,「はら」と同じことを書いている。

「ハレ(晴)と同根。途中に障害となるものが全くなく,そのままずっと,かなたの果てまでみえているさま」

と,日本は照葉樹林帯であり,本来,草原が手つかずであるはずはない,ということを考えると,「墾」「治」を当てた意味はなかなか深いのではないか,と思う。念のため,「墾」の字は,

「貇(コン)は,深くしるしをつける意を含む。墾はそれを音符とし,土を加えた字で,力を込めて深く地にくわをいれること,力をこめてしるしをつける意を含む」

であり,「たがやす」「荒れた地にすきやくわを入れてたがやす」意であり,「治」の字は,

「古人はまがった棒を耕作のすきとして用いた。以の原字はその曲がった棒の形で,工具を用いて人工をくわえること。台は『口+音符厶(=以)』の会意兼形声文字で,ものをいったり,工作するなど作為を加えること。治は『水+音符台』で,河川に人工を加えて流れを調整すること。以・台・治などはすべて人工で調整する意をふくむ。」

と,「墾」「治」ともに,自然を開く(加工する)意を含む。

『日本語源大辞典』も,「はら」について,諸語源説を,

ハラ(開)の義(東雅・和訓栞・大言海),
ヒロ(広)の義(日本釈名・和語私臆鈔・言元梯・大言海),
ヒラ(平)の義か(日本釈名・大言海),
平らで広いところから,ヒララカの反(名語記),
ヒロクタヒラ(広平)の義(言葉の根しらべの=鈴木潔子・国語の語幹とその分類=大島正健),
ハラはヒラ(平)またはヒロ(広)の約,ラはツラ(連)の約ダの転(和訓集説),
平々として人のハラ(腹)に似ている4ところからか(和句解),
腹も同語か(時代別国語大辞典・上代編),
ハルカ(遥)の義か(名言通),
ハレ(晴)と同根か(岩波古語辞典),

と並べるが,しかし,その上で,「はら」について,こう述べる。

「上代において,単独での使用例は少なく,多く『萩はら』『杉はら』『天のはら』『浄見はら』『耳はら』など,複合した形で現れ,植生に関する『はら』,天・海・河などの関する『はら』,神話・天皇・陵墓に関する『はら』等々が挙げられる。したがって,『はら』は地形・地勢をいう語ではなく,日常普通の生活からは遠い場所,即ち古代的な神と関連づけられるような地や,呪術信仰的世界を指す語であったと考えられる。この点,『の(野)』が日常生活に近い場所をいうのと対照的である。しかし,上代末,平安初期頃から,『の』と『はら』の区別は曖昧になった。」

つまり,この説でいくと,「はら」は,もっと曖昧な,意味の幅の広い言葉で,その意味では,

はるか(遥),

という言葉のもつ語感が,始原に近く,

晴,
霽,

を当てる字から,

墾,
治,

という字を当てる意味にシフトした,と見ることができる。「はるか」について,『日本語源広辞典』は,

「ハル(ハルバルの意)+カ(接尾語)」

で,遠く離れた状態をあらわす,という。もとは,空間的な意味だが,時間的にも使う,とある(『岩波古語辞典』)。その,

人からの遥かに離れた感覚,

が,

広がり,

を感じさせ,

はるけき,
はるかす,

といった遠い感じだけでなく,視界が開く感じにも,意味はつながっていく。「はるか」に,日常から離れている「はら」だからこそ,「晴れ」に通じ,

ハレ(霽),

になるのであり,「の」は,

ケ(褻),

なのである。ハレ(晴れ、霽れ)は,

儀礼や祭、年中行事などの「非日常」,

「ケ(褻)」は,

普段の生活である「日常」,

を表しているとされるが,「ハレ」は日常の軛から脱するとき(場)でもある。その意味で,僕には,

はるか,
はるばる,

は,そういう気分や状態を表す擬態語だったのではないか,という気がしてならない。

なお,「ハレとケ」については,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AC%E3%81%A8%E3%82%B1

に詳しい。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)


ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
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2017年12月01日

むくげ


「むくげ」は,

木槿,
槿,

とあてる。

蓮(はちす),
木蓮(きはちす),
槿花(きんか),

とも言う。芭蕉の『野ざらし紀行』にある,

道のべの木槿は馬に喰はれけり,

が,記憶に残る。

むくげ.jpg


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%AF%E3%82%B2

に,

「ムクゲ(木槿、学名: Hibiscus syriacus)はアオイ科フヨウ属の落葉樹。別名ハチス、もくげ。庭木として広く植栽されるほか、夏の茶花としても欠かせない花である。和名は、『むくげ』。『槿』一字でも『むくげ』と読むが、中国語の木槿(ムーチン)と書いて『むくげ』と読むことが多い。また、『類聚名義抄』には『木波知須(きはちす)』と記載されており、木波知須や、単に波知須(はちす)とも呼ばれる。『万葉集』では、秋の七草のひとつとして登場する朝貌(あさがお)がムクゲのことを指しているという説もあるが、定かではない。白の一重花に中心が赤い底紅種は、千宗旦が好んだことから、『宗丹木槿(そうたんむくげ)』とも呼ばれる。
中国語では『木槿/木槿』(ムーチン)、韓国語では『무궁화』(無窮花; ムグンファ)、木槿;モックンという。英語の慣用名称の rose of Sharon はヘブライ語で書かれた旧約聖書の雅歌にある「シャロンのばら」に相当する英語から取られている。」

とある。

しかし,同時に,

「初期の華道書である「仙伝抄(1536年)」では、ムクゲはボケ、ヤマブキ、カンゾウなどとともに『禁花(基本的には用いるべきではない花))とされ、『替花伝秘書(1661年)』『古今茶道全書(1693年)』でも『きらひ物』『嫌花』として名が挙がっている。ほか『立花初心抄(1677年)』『華道全書(1685年)』『立華道知辺大成(1688年)』では『一向立まじき物』『一向立べからざる物』としてムクゲの使用を忌んでいる。『池坊専応口伝(1542年)』『立花正道集(1684年)』『立花便覧(1695年)』などではいずれも祝儀の席では避けるべき花として紹介されているが、『立花正道集』では『水際につかふ草木』の項にも挙げられており、『抛入花伝書(1684年)』『立華指南(1688年)』などでは具体的な水揚げの方法が記述され禁花としての扱いはなくなっている。天文年間(1736-1741)の『抛入岸之波』や『生花百競(1769年)』では垂撥に活けた絵図が掲載される一方で、1767年の『抛入花薄』では禁花としての扱いが復活するなど、時代、流派などによりその扱いは流動的であった。江戸中期以降は一般的な花材となり、様々な生け花、一輪挿し、さらには、枝のまたの部分をコミに使用して、生け花の形状を整えるのに使われてきた。茶道においては茶人千宗旦がムクゲを好んだこともあり、花のはかなさが一期一会の茶道の精神にも合致するとされ、現代ではもっとも代表的な夏の茶花となっている。」

ともあり,その扱いの変化はおもしろい。

DSC06915.JPG

(宗丹木槿)


『日本大百科全書(ニッポニカ)』によると,

「ムクゲは古代の中国では舜(しゅん)とよばれた。朝開き、夕しぼむ花の短さから、瞬時の花としてとらえられたのである。『時経(じきょう)』には、女性の顔を『舜華』と例えた記述がある。白楽天も一日花を『槿花(きんか)一日自為栄』と歌った。一方、朝鮮では、一つの花は短命であるが、夏から秋に次々と長く咲き続けるので、無窮花(ムグンファ)と愛(め)でた。朝鮮の名も、朝、鮮やかに咲くムクゲに由来するとの説がある。ムクゲは木槿の転訛(てんか)とされるが、朝鮮語のムグンファ語源説もある。日本では平安時代から記録が残り、『和名抄(わみょうしょう)』は木槿の和名として木波知春(きはちす)をあげている。これは『木の蓮(はちす)』の意味である。『万葉集』の山上憶良(やまのうえのおくら)の秋の7種に出る朝顔をムクゲとする見解は江戸時代からあるが、『野に咲きたる花を詠める』と憶良は断っているので、栽培植物のムクゲは当てはめにくい。初期のいけ花ではムクゲは嫌われた。『仙伝抄(せんでんしょう)』(1536)には『禁花の事、むくげ」、『替花伝秘書(かわりはなでんひしょ)』(1661)にも「きらい物の事」に木槿と出る。『立華正道集(りっかせいどうしゅう)』(1684)では、『祝儀に嫌(きらふ)べき物の事』と『水際につかふ草木の事』の両方にムクゲの名があり、以後立花(りっか)、茶花に広く使われている。ムクゲは木の皮が強く、江戸時代は紙に漉(す)いた(『大和木経(やまともくきょう)』文政(ぶんせい)年間)。これはコウゾの紙よりは美しい。ムクゲの品種は江戸時代に分化した。『花壇地錦抄(かだんちきんしょう)』(1695)は、八重咲き、色の濃淡を含めて12の品種をあげている。その一つ『そこあか』は、千利休(せんのりきゅう)の孫の千宗旦(そうたん)の名をとどめる、白色で中心部が赤いソウタンムクゲを思わせる。」

と,お国によって,愛で方が異なるのも面白い。「槿」について,『漢字源』には,

「花は朝開いて,夕方にはしぼむので,移り変わりのはやいことや,はかなてことのたとえにひかれる」

とあり,「舜(しゅん)とよばれた」というだけの謂れはある。日本で,古く,「あさがお(朝顔)の名があったのもそのゆゑである。しかし,朝鮮では,「夏から秋に次々と長く咲き続けるので、無窮花(ムグンファ)と愛(め)でた」というが,今日,「木槿」は,韓国の国花,という。

さて「むくげ」の謂れである。『大言海』は,

「字の音の轉」

とする。『由来・語源辞典』

http://yain.jp/i/%E6%9C%A8%E6%A7%BF

も,

「日本には奈良時代に渡来したとされる。漢名『木槿』の字音『もっきん』が音変化したもの。また、韓国名の『無窮花』(ムグンファ)から来たという説もある。」

としている。

http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%83%A0%E3%82%AF%E3%82%B2

は,

「木(モク)+菫(ゲ)すなわち『木に生えるスミレ』が訛って「モクゲ」⇒「ムクゲ(槿)」となったとする説が有力である」

とする。『日本語源広辞典』も,

「中国語で,『木(ムク moku)+槿(ぎん kin gin)の音韻変化』が語源」

とする。『日本語源大辞典』も,

木槿の字音の轉(万葉代匠記・日本釈名・年山紀聞・滑稽雑談所引和訓義解・古今要覧稿・外来語辞典=荒川惣兵衛),

を挙げる。僕は,字音の転は転としても,

中国語の木槿(ムーチン),

ではなく,

韓国語の『무궁화』(無窮花; ムグンファ),

の転,ではないのか,と思う。ただ,木槿のイメージが,我が国では,中国と似て,朝顔のような儚さ,であったところから見ると,朝鮮半島経由ではない,という気もするが。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
https://item.rakuten.co.jp/hana-online/niwaki_mukuge_soutan/

ホームページ;
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2017年11月30日

いじめる


「いじめる」は,

苛める,
虐める,

と当てる。

弱いものを苦しめる,
あるいは,
ことさらきびしい扱いをする,

という意味で,

さいなむ(苛む),
いじる(弄る),
しいたげる(虐げる),
いびる(呵責る),

と似た意味になる。当てた漢字を先に見ておくと,「苛」の字は,

「可は,『⏋印+口』からなり,⏋型に曲折してきつい摩擦をおこす,のどをからせるなどの意。苛は『艸+音符可』で,のどをひりひりさせる植物。転じてきつい摩擦や刺激を与える行為のこと」

で,「苛」は,からい,ひりひりする,きつくしかりつけてしかる,という意味で,最後の意味は,呵責のような,「呵」に当てた用法,という。ついでに,「呵」の字は,

「『口+音符可』。可の原字は⏋型に曲がったさまを示す。それに口を添えて,更に口を加えて,呵となった。息がのどもとで屈曲し,はあ・かっと摩擦を帯びつつ出ること。」

で,のどをかすらせてどなる,という意味になり,「呵」の字が「苛」の字とダブったようである。「虐」の字は,

「虍は虎の略体。虐は『虍+つめでひっかくしるし+人』で,とらが人をつめで引っかくさま。ひどい,激しいという意味を含む。」

この字には,しいだける,むごいしうちをする,という意味がある。

「いじめる」は,比較的新しい言葉らしく,『岩波古語辞典』に載らない。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q119912656

には,

「『苛める』はすでに江戸時代に使われています。滑稽本『浮世風呂』式亭三馬1809~13年刊)『初めての座敷の時、がうぎといぢめたはな』がうぎ=豪儀。程度のはなはだしいさま。」

とある。確かに,『江戸語大辞典』には,「いじめる」が載り,

「(意地の音を活用させたものとも,弄〔いじ〕るの派生語ともいうが確かでない)強い者が弱い者を意地悪く苦しめる,辛い目に合わせる」

として,安永二年・南閨雑話の,

「何ンでもおいらんを,またいじめねんすまいか」

の用例をひく。『大言海』は,「いじめる」に,

「虐待」

を当てて,

「弄るの語根に,別に,口語動詞の活用を生じたるなるべく,ナブルの所為の,烈しくなれるものと思はる・俚言集覧,イヂメル『いぢるとも云へり』

とある。因みに,「弄る」の項では,

「又,イジクル,静岡県にて,イゼル,と云ふ。その転じたる生り(現身〔うつしみ〕,うつせみ)。クルは,一転なり(ねぢる,ねぢくる)。此語,セセル,セセクルに同意の語なる。綺(いろ)ふを下略して,其のイを冠したるならむ(窺狙〔うかがひねら〕ふ,うかねらふ。拜〔をろが〕む,をがむ)」

としている。「いじめる」が「弄る」と意味が重なっているのがよく分かる。

『日本語源広辞典』は,「いじめる」の語源を,二説載せる。

説1は,「イジル(弄)+める」で,弱い者を,指で弄ぶように苦しめる意が語源,「める」は,次第にそのようにさせる意の,造語成分,
説2は,「意地+める」で,仏教の意地を活用させた語とみて,意地悪をする意,

で,説2には否定的である。そして,

「この言葉は,近世から使用例が増えます。1603年の日葡辞典にはなく,比較的新しい語のようです。」

としている。逆に,

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/2478266.html

は,「意地」説を取り,

「いぢ:『意地』はこころ。『意地悪し』はこころのねじけたさまである。わざと他人を困らせるようなことをする。
める:『減る』は自動詞。「罵る」は他動詞。非難する。悪口をいう。罵詈(めり)を活用させた語。ののしること。」

と,分解している。因みに,「める」は,しかし,

減る,
下る,

と当てて,「少なくなる」「衰える」意である。ちょっと首肯できない。『日本語源大辞典』は,「弄る」説,「意地」説意外に,

イーシメル(締)の意(国語本義・日本語源=賀茂百樹),
イヒチヂメルの略語か(両京俚言考),

を挙げるが,いまひとつではないか。やはり,意味の重なりから見ると,『大言海』の,

「弄る」説,

に傾く。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/i/ijime.html

で,名詞「いじめ」について,

「動詞『いじめる(苛める・虐める)』を名詞化した語。『いじめる』は『いじる』からか、『いじ( 意地)』の活用と考えられるが断定は難しい。『囲締(いじめ)』の意味からといった説もあるが、いじめの原義には集団による行為の意味は含まれていない。特に集団による行為をさすようになったのは、1980年代初頭から、陰湿な校内暴力を言うようになってからである。『いじめにあう』ではなく『いじめられる』としか言わなかったように、社会的問題となるまで名詞の使用例は非常に少ない。名詞の『いじめ』が成立したのは、陰湿な校内暴力が増えたことと,その問題がクローズアップされたことからといえる。」

としている。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;
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