2020年11月27日

さわす


「さわ(は)す」は、

醂す、

と当てる。「味醂」http://ppnetwork.seesaa.net/article/478678846.html?1606334116で触れたように、

柿の渋を抜く、
水に浸して晒す、

の意があるが、この他に、

黒漆で光沢のないように塗る、

意もあり、その場合、

淡(さわ)す、

とも当てる(広辞苑)。また、

醂す、
淡す、

は、

あわす、

と訓ませて、

柿の渋を抜く、

意になり(広辞苑)、

さわす、

と重なる。だから、

渋を去った柿の実、

を、

さわし柿(醂柿)、

というが、

あわしがき(淡柿・漬柿)、

とも言い、

あわせかぎ(「あわしがき」の音轉)、

とも言うのは、憶説だが、

sawasu→awasu、

と子音「s」が脱落したのではないか。

なげすつ(投げ棄つ)→なげうつ(投げうつ)、
さばく(捌く)→あばく、

等々の例もある(日本語の語源)。岩波古語辞典には、「さはし」は、「さはしがき」(醂柿・淡柿)しか載らず、「あわし」(醂し)は、

アハ(淡)と同根、

とのみ載る。しかし、大言海は、

爽(さは)を活用せしめたる語(熟(うむ)す、腐(くさ)す)、

とする。「淡い」は、意味からは、渋が淡くなった、という意味で重なるが、

(雪などが)今にも消えそうである、

の意であり、それをメタファに、

淡白である、

転じて、

情愛や関心が薄い、

意で使う。「濃い」http://ppnetwork.seesaa.net/article/478150705.htmlで触れたように、「淡い」は、

濃いの反、

である。「淡」とは考えにくい気がする。和訓栞に、「さわす」は、

醂の字を訓めり。物の渋みを去りて、サハヤカにするをぃへり、

とある。

漢字「醂」(リン・ラン)は、

会意兼形声。「酉+音符林(つらなる)」

とされ、

たらたらと垂れる発酵した汁、

の意で、「醂柿」は、酒を垂らして渋を去ったたる柿の意とある(漢字源)。ちなみに、「たる柿」とは、

渋柿を空いた酒樽に詰め、樽に残るアルコール分で渋を抜いて甘くした柿。樽抜き、

の意である(デジタル大辞泉)。ために、「醂」には、「ほしがき」の意もある(字源)。「さらす」に、

醂す、

と当てるのは、「醂」の本来の意味に適っている。

さわし柿.jpg

(さわし柿 https://shinyanagi.exblog.jp/21335252/より)

因みに、

さわ師、

とあてる「さわし」は、隠語で、

詐欺行為をするもの、

を言うとある(隠語大辞典)。「醂し」とはちょっと無縁に思えるが。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年11月26日

味醂


「味醂」は、

味淋、

とも当てる(広辞苑)が、

味霖、

とも当てるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%82%8A%E3%82%93

味醂酒、
味醂酎、
蜜淋酒、
密淋酎、
密林酒、
美淋酎、
美淋酒、
美琳酒、

等々ともいう(たべもの語源辞典・大言海)。

蒸した糯米(もちごめ)と米麹とを焼酎またはアルコールに混和して醸造し、滓をシホ下痢とった酒、

とある(広辞苑)。大言海には、

焼酎十石、白糯飯九石二斗、麹二石八斗の割合にてまぜ合はせ、時々掻きまぜて、二十五日許り醸し成して、其滓をしぼり去れるもの、

とあり、たべもの語源辞典には、

焼酎一斗四升(25.2リットル)に、蒸糯米九升(12.9キログラム)、麹三升三合とを混ぜ合わせ、一日おきにかき交ぜ、約二日静置して、うわずみの液を取る。これが「みりん」である。あとに残った粕も、漉して味醂が得られるので、結局、計二斗(36リットル)余となる、

とある。

味、甚だ甘美なり、

とある(大言海)。甘みがあるのは、

麹が米の澱粉を等分に変え、同時に焼酎分が混じって、麹の酒精酵母が発育を妨げられることによる、

とある(たべもの語源辞典)。

元来は飲用であり、

江戸期に清酒が一般的になる以前は甘みのある高級酒として飲まれていた。現在でも薬草を浸したものを薬用酒として飲用する(屠蘇、養命酒など)、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%82%8A%E3%82%93

「味醂」の「醂」(リン・ラン)は、

会意兼形声。「酉+音符林(つらなる)」

とされ、

たらたらと垂れる発酵した汁、

の意で、「醂柿」は、酒を垂らして渋を去ったたる柿の意とある(漢字源)。ちなみに、「たる柿」とは、

渋柿を空いた酒樽に詰め、樽に残るアルコール分で渋を抜いて甘くした柿。樽抜き、

の意である(デジタル大辞泉)。ために、「醂」には、「ほしがき」の意もある(字源)。「醂す」は、

さわす、

と訓ませ、

柿の渋を抜く、
水に浸して晒す、

意味で使うのは、本来の「醂」の字からきている。だから、

味醂、

の当て字は、和製と言われたりするが、

美淋の淋に誤用、

とある(字源)。「淋」(リン)は、

会意兼形声。林は、木立のつづく林、絶え間なく続く意を含む。淋は「水+音符林」で、あとからあとから絶えず汁がしたたること、

とあり、

したたる、
水がたらたらと絶えず垂れる、

意で、似た意味なので、「酒」ということから、「醂」を採ったのはわかる気がする。現に、

美淋酒、味淋酒と書かれていたが、淋より酒であるから醂がよいというのでもちいられた、

とある(たべもの語源辞典)。で、

美淋とか蜜林また蜜淋も古くあって味淋と味をつかったものは新しい。「みりん」に「味」の字を用いねばならぬ理由はなかったようである。ミというよみから、たべものだから味の字が良かろうということであろう。……ミとは果実の実で、果実を多く集めてしぼり出した汁のように甘いものといった意で、ミリンと称した、

とする(仝上)。つまり、

実+林(淋 たらたら垂れる)、

ということであろうか。

味(味の深い)+醂(長時間酒につける)、

とする説(日本語源広辞典)は、

味醂、

という当て字の解釈のように思える。

中国清明の時代の『湖雅巻八造醸』という書に、「密淋(ミイリン)」と呼ばれる甘いお酒があったと記されています。このお酒が、戦国時代の頃、琉球や九州地方に伝来し、「蜜淋」「美淋」といった漢字があてられ、日本中に広まっていきましたhttps://kokonoe.co.jp/mirin01

味醂は、中国の密淋(みいりん)という酒が戦国時代に日本に入り、製法が改良されたものが由来とされる。密淋とは、蜜のような甘い淋(したた)りの意の漢語(由来・語源辞典)、

等々という中国由来説は、

現在でも浙江省に蜜酒という直糖分 20% 以上の酒があり、紹興酒の酒母を「淋飯酒」という、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%82%8A%E3%82%93、さらに、文禄二年(1593)『駒井日記』がみりん(蜜淋)の名称が記され(仝上)、

博多の豪商神谷宗湛(1551~1635)が密林酒を黒田如水に贈った、

という文書があり(たべもの語源辞典)、時代的には合っている。『文政年間漫録』に、

みりん酒は慶長(1596~1615)ころに起こった、

との記述もあるし、慶安二年(1649)『貞徳文集』にも、

みりんは異国より渡来したものである、

という記述があるhttps://kokonoe.co.jp/mirin01ので、この時期に渡来したものとみられる。慶長七年(1602)の奈良・般若寺の記録に、

みりん一升が六五文、清酒の三倍、

とあり、慶安年間(1648~52)のチラシにも、

極上味醂酒百文、

とあり、

大阪上酒四十文・伊丹極上酒八拾文、

とあって、上方のブランド酒より高価なものであったhttp://shokubun.la.coocan.jp/mirin.html

それが、元禄八年(1695)『本朝食鑑』には、

焼酎を用いた本みりんの製法、

が記載されるに至るhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%82%8A%E3%82%93。そして、天明五年(1785)『萬寶料理秘密箱』「赤貝和煮」の記述以降、

蕎麦つゆや蒲焼のタレに用いる調味料として使われ始めていった、

という記述となる(仝上)。喜多川守貞の『近世風俗史』(1837~1853)には、

美琳酒は多く摂の伝法村で醸した。然し京阪はあまり用いず多くは江戸に送って、たべものを醤油とこれを加えて煮た。京阪は夏月に夏銘酒柳蔭というものを専ら用いた。江戸では本直しといって美琳と焼酎を半々に合わせたものを用いた。ほんなおし、やなぎかげ、いづれも冷酒で飲んだ、

とあるので、調味料に転じつつありながら、飲用もされたことがわかる。

因みに起源説には、別に、

日本に古くから存在した練酒、白酒などの甘い酒に腐敗防止策として焼酎が加えられた、

という説https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%82%8A%E3%82%93があり、文正元年(1466)の『蔭凉軒日録』には、

「練貫酒(ネリザケ)」という甘いお酒が博多にあったと記述されています。これらのお酒は、酒の中に米や麹を加えるとアルコール度数が下がり腐敗しやすかったため、腐敗防止策として焼酎が加えられました、

ともあるhttps://kokonoe.co.jp/mirin01。どちらと決めかねるが、「練貫酒(ネリザケ)」に焼酎を入れることを知ったのは、

味醂、

渡来してから、という風にも考えられる。

みりん.jpg


なお、「麹」http://ppnetwork.seesaa.net/article/476495294.html、「ささ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/461251438.html、「さけ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/451957995.html、については、それぞれ触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:味醂 味霖 味淋
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2020年11月25日

佃煮


「佃煮」は、

江戸佃島で製造したのでこの名がある、

という(広辞苑)。

醤油と砂糖で甘辛く煮付けた日本の食べ物。とりわけ小魚、アサリなどの貝類、昆布等の海藻類、山地ではイナゴ等の昆虫類などを煮染めたものをこう呼ぶ。シソやゴマなどを加えることもある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%83%E7%85%AE、保存食品である(広辞苑)。

佃島は、

墨田川の河口にある小島。寛永年間(1624~44)摂津国西成郡佃村の漁民が江戸幕府に招かれて移住したことから、「佃島」の地名になった。江戸時代は漁師が多く、白魚がとれた、

とある(日本語源大辞典)。シラウオは、

伊勢湾から品川沖へ移したもので、この漁業権を与えた、

という(たべもの語源辞典)。

毎年暮れから春先へかけて佃島沖でシラウオがとれ、さらに二月ごろになると墨田川へ上ってきた、

のだという。佃島の漁師は、

家康のお蔭で白魚漁ができるというので家康の命日の一月一七日には「おみき流」をした。この行事をするとベラという魚が白魚に変わるといった。そしてその魚の頭には家康の紋である葵がついている、

と言い伝えた、とされる(仝上)。家康とのかかわりについては、背景に、

本能寺の変が起きた時、徳川家康はわずかな手勢と共に堺にいた。家康は決死の覚悟で本拠地の岡崎城へと戻ろうとしたが、神崎川まで来たところで川を渡る舟が無く進めなくなった。そこに救世主のごとく現れたのが近くの佃村の庄屋・森孫右衛門と彼が率いる漁民たちで、手持ちの漁船と、不漁の時にとかねてより備蓄していた大事な小魚煮を道中食として用意した。気候の悪い時期に人里離れた山道や海路を必死に駆け抜けねばならない一行にとって、この小魚煮がどれだけ身を助けてくれたか。その結果、家康らは生きて岡崎に戻ることができた。後に家康が江戸に入った時、命を救ってくれた摂津・佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、特別の漁業権を与えたのである、

という伝承があるhttp://www.kanehatsu.co.jp/oishisaikiiki/020/。真偽はともかく、

江戸時代、徳川家康は名主・森孫右衛門に摂津国の佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の腕の立つ漁師を江戸に呼び寄せるよう言い、隅田川河口・石川島南側の干潟を埋め立てて住まわせた、

ことは確からしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%83%E7%85%AE。佃島の漁民は、

悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていた。雑魚がたくさん獲れると、佃煮を大量に作り多く売り出すようになったといわれ、保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及し、さらには参勤交代の武士が江戸の名物・土産物として各地に持ち帰ったため全国に広まったとされる、

とあ(仝上)、

小雑魚を煮詰めて自家用の惣菜にし、余剰を市販した(飲食事典=本山荻舟)、

と同一説をとるものもあるが、

佃の漁師は、大きい魚は将軍家をはじめ諸大名に納めたが、自家用に小雑魚を醤油で煮詰めることを考えついた。値段も安いし保存もきくので近隣にも売り始め、江戸から国に帰る大名が江戸土産として持ち帰るようになった。それで全国的に知られるようになった、

とする説もあり(たべもの語源辞典)、それを、

佃島で、四手網でとった魚をすぐに船の上で煮たものをいう(俚言集覧)、

とする説もあり(仝上)、それを、

安政五年(1858)に青柳才助が創始し、才助は佃島の塩煮から「佃煮」と名付けたとされる、

と個人に帰す説もあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%83%E7%85%AE。この説は、

江戸城籠の口、銭亀橋の下に、佃島の漁師が二隻ずつ繋留したが、夜中には篝(かご)を置いて網をおろした。これを捨篝(すてかご)といった。とった小魚を呉服橋の稲荷新道にいた青柳才助という者が、安政五年(1858)の春ころから煮込んで小商売(こあきない)を始め、これを佃煮と呼んだ、

ともされる(たべもの語源辞典)。もともとは、

漁師の常備食であり保存食となっていたもので、雑魚や貝類を塩で煮つけたものであった、

とされる(仝上)が、「醤油」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471986028.htmlの由来、また「砂糖」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474151591.htmlの普及等々から見ても、最初は「塩で煮つけた」ものと思われる。その意味で、それを後々醤油で煮つけた者がいたということはあり得る気がする。

その他、佃島漁師由来ではないとする説には、

文久二年(1862)に浅草瓦町の鮒屋佐吉が創始したとし、佐吉は、それまで塩煮であった佃煮を独自な改良(種類ごとの素材に分け、当時高級であった醤油を初めて使用するという斬新な発想)のもと現在の佃煮の原型を創り出した、

日本橋の伊勢屋太兵衛が創始した、

あるいは、

大阪・住吉明神を江戸・佃島に住吉神社として分霊したが、その祭礼では雑魚を煮詰めたものを供えていた(醬油煮説と塩煮説がある)、その住吉神社に雑魚を煮詰めたものを「佃煮」として供えたことに由来する、

等々があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%83%E7%85%AE

佃煮と似たものに「しぐれ煮」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471476208.htmlがある。

生姜を加えた佃煮の一種、

であるが、本来は、

「蛤のむき身に生姜を加え、佃煮にしたもの」

を指す(たべもの語源辞典)。生姜が入っているのが特徴になる。

イカナゴの佃煮.jpg


参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2020年11月24日

賽銭


「賽銭」は、

祈願成就のお礼として神仏に奉る賽物(さいもつ)の錢、

の意(広辞苑)か転じて、

神仏に参詣して、幣帛(ミテグラ)の代へて奉る錢、

の意となる(仝上・大言海)。「賽物」は、

お礼参りのしるしに神仏に供えるもの、
または、
祈祷の時の供物(くもつ)、

を指す(広辞苑)。その供物のひとつが、

賽銭、

ということになる。

「賽」(サイ)は、

形声。「貝+音符塞(サイ)の略字体」

とあり(漢字源)、「神から服を授けられ、そのお礼としてまつりをする」「むくいる」という意味である(仝上)。「賽」を、

賽は投げられた、

のように、

さいころ、

の意で使うのはわが国だけである。中国では、

骰子(トウス)、
色子(シアイツ)、

という(仝上)。

賽銭、

は、

日本で作られた和製漢語か、

という説(日本語源大辞典)があるが、「賽銭」は、

参詣して神仏に奉る錢、

とあり(字源)、中国語のようだ。

賽銭箱.jpg


「賽銭」は、

サンセン(散錢)の義(志不可起)、

とあるように、「賽銭」は、

香花錢、

ともいう(大言海)、とある。これは、

香銭(こうせん)、

のことかと思うが、

仏前に香のかわりに供える金銭、

の意である(精選版 本国語大辞典)。これを、

散錢(サンセン)、

ともいう(大言海)のは、

寶前に、銭を撒き散らすに似て、散米(サンマイ うちまき)と、同趣なるべし、

とある(仝上)。江戸後期の松屋筆記に、

聖福寺佛傳記に、銭幣之獻、材木之奉、……按ずるに、これ、今日の賽銭也、

とある。錢が、他の賽物に代えられたのである。「散米」は、

うちまき、
くましね、

ともいう(大言海)。「うちまき」は、

打撒、

と当て、

打撒米(ウチマキヨネ)の略、

とあり(仝上)、

陰陽師の祓いに、粿米(カシヨネ)を撒き散らすこと、禍津比(マガツビ)の神の入り来むを、饗(あ)へ和めて、退かしむるなりと云ふ、

とあり、

魔物の心を和める意味で米を撒き散らすこと、

とあり(岩波古語辞典)、

節分の夜の豆撒きはこの名残り、

ともある(仝上)。それが、

神仏に供える米、

の意(仝上)に転じたものと思われる。「くましね」は、

糈(岩波古語辞典)、
糈米(大言海)、

と当て、和名抄には、

糈米、和名久万之禰(くましね)、精米、所以享神也、

とある(岩波古語辞典)。大言海は、だから、

精稲(クハシシネ)の転ならむ、

とする。

神に供える精米、

つまり白米、である。略して、

くま、

敬称して、

おくま、

といい、

御洗米(おせんまい)、

の意である(大言海)。「うちまき」と「くましね」は、由来は真反対だが、転じて、

神への供物、

となった。

お米を白い紙でつつむ、
あるいは、
洗った米を紙に包んで供える、

おひねり、

もこの流れの中にあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%BD%E9%8A%AD。それが、

錢、

に代えられた、とみていい。

金銭が供えられるようになったのは中世以降であり、庶民に貨幣経済と社寺への参詣が浸透しはじめた時期である、

とある(仝上)。ただ、

賽銭は願いを聞いてもらう対価ではない、

とする説もあり、日本書紀の「罪を素戔嗚尊に負わせ、贖罪の品々を科して差し出させた」というところから、

自身の罪を金銭に託して祓うとする説(浄罪箱)
と、
賽銭箱に硬貨を入れる音で罪祓う(鈴と同じ)

とする説がある(仝上)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年11月23日

けし


「けし」は、

異し、
怪し、

等々と当てる。「けしからん」http://ppnetwork.seesaa.net/article/452101005.htmlで触れたことがあるが、

普段と異なった状態、または、それに対して不審に思う感じを表す、

とあり(広辞苑)、

いつもと違う、普段と違って宜しくない。別人に事情をもつ、病気が悪いなどの場合に使う(万葉集「はろばろに思はゆるかもしかれどもけしき心を我が思はなくに」)、
劣っている、悪い(源氏「心もけしうはおはせじ」)、
不美人だ(源氏「よき人を多く見給ふ御目にだにけしうはあらずと…思さるれば」)、
(連用形「けしう」の形で副詞的に)ひどく(かげろふ「けしうつつましき事なれど」)、

等々といった意味が載り(岩波古語辞典)、

け(異)の形容詞形。平安女流文学では,「けしうはあらず」「けしからず」など否定の形で使うことが多い(仝上),
異(ケ)を活用せしむ、奇(く)しと通ず(大言海)、

とあり、「異(け)」には、

奇(く)し,異(け)しの語根(大言海)、

とあり、別に、

怪、

と当てる「怪(け)」も載り、

怪(カイ)の呉音とするは常説なれど、異(ケ)の義にて、異常のいならむ、

ともある(大言海)。

怪し、

奇し、

とは、どちらから転訛したかは別として、意味の上からは、重なるようである。

当てている漢字からみるなら、「異」(イ)は、

会意。「おおきなざる、または頭+両手を出したからだ」で、一本の手のほか、もう一本の別の手をそえて物を持つさま。同一ではなく、別にもう一つとの意、

とある(漢字源)。

異は同の反。物の彼と此と違うなり、

とあり(字源)、「ことなる」意であり、だから、「怪しい」「奇し」「めずらしい」という意になっていく。

「怪」(漢音カイ、呉音ケ)は、

会意兼形声。圣は「又(て)+土」からなり、手で丸めた土のかたまりのこと。塊(カイ)と同じ。怪は、それを音符とし、心をそえた字で、まるい頭をして突出した異様な感じを与える物のこと、

とあり(漢字源)、「ふしぎなこと」「あやしげなもの」といった意味を持つ。

「奇」(漢音キ、呉音ギ・キ)は、

会意兼形声。可の原字は┓印で、くっきりと屈曲したさま。奇は「大(大の字の形に立った人)+音符可」で、人のからだが屈曲してかどばり、平均を欠いて目立つさま。またかたよる意を含む、

とあり(仝上)、「めずらしい」「あやしい」という意味を持ち、当てている感じも、意味が重なる。

「けし」の大きな意味の変化は、

上代では「古事記」や「万葉集」に連体形のケシキがみられる。中古になると連用形のケシクとその音便形ケシウが、

あるべき状態と異なっているさま、よくないさま、

という状態表現の意から、

変わっていることに対して不審に思うさま、あやしい、

という主体の感情、価値表現の意で使われることが多くなり、「ケシウ」は、

程度がはなはだしいさま、

の意で、「けしうはあらず」「けしうはあらじ」の形で、

打消しを伴い、「たいしてよくない」「たいして悪くない」「格別のことはない」の意味で使用されることが多くなる。さらに、「けし」を否定した形の「けしからず」が意味的には肯定に使われることが多くなり、副詞的な使用は、

けしからず、

が、

けし、

にとってかわった(日本語源大辞典)、とある。

「けしからず」http://ppnetwork.seesaa.net/article/452101005.htmlが、

打消しの助動詞ズが加わって,ケシの,普通と異なった状態であるという意味の強調された語、

となり、「けし」は、それを否定した「けしからん」と,ほぼ同じ意味になる。

「あやし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/469274125.htmlで触れたように、「あやし」が,

不思議なものに対して,心をひかれ,思わず感嘆の声を立てたという気持ちを言う、

という原義(広辞苑)が,

霊妙である,神秘的である。根普通でなくひきつけられる,

不思議である,

常と異なる,めずらしい,

いぶかしい,疑わしい,変だ,

見慣れない,物珍しい,

異常だ,程度が甚だしい,

あるべきでない,けしからん,

不安だ,気懸りだ,

確実かどうかはっきりしない,

ただならぬ様子だ,悪くなりそうな状況だ,

(貴人・都人からみて,不思議な,或可きでもない姿をしている意)賤しい,

みすぼらしい,粗末である,

見苦しい,

等々といった意味を変えていったように、「けし」も、

在るべき状態と異なっている,異様である、

よくないさま,けしからん、

解せない、

変っていることに対して不審に思うさま,怪しげだ,

怪しいまでに甚だしいさま,ひどい,

と意味を変じて言ったということになる。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:けし 異し 怪し 奇し
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2020年11月22日

気色


「気色」は、

けしき、

とも訓ますが、

きしょく、

とも訓ます。ほぼ意味は重なる。「気色(ケシキ)」は、

「色」はきざし。ほのかに動くものが目に見えるその様子。古くは自然界の動きに言う。転じて、人のほのかに見える機嫌・顔色・意向などの意。類義語ケハヒは匂い、冷やかさ、音など、目に見えるよりは、辺りに漂って感じられる雰囲気、

とあり(岩波古語辞典)、

自然界の動き、様子(枕草子「霞も霧もへだてぬ空の景色の」)、
人の心のほのかな動き、機嫌(土佐日記「歌主、いと気色あしくて怨ず」)、
ほのかな顔色(源氏物語「気色にだすべきことにもあらず」)、
(ちらりとした)そぶり(古今「つらげなる気色も見えで」)、
(ちらりと現れた)きざし、兆候(源氏「にはかに(出産の)御気色ありて悩み給へば」)、
内意をほのめかすこと、意向(源氏「わざとの御消息とはあらねど、御気色ありけるを、待ち聞かせ給ひて」)
内情のほのかな現われ(源氏「事の気色にも知りけりとおぼされむ、かたはらいたき筋なれば」)、
怪しい感じ、不安(大鏡「今宵こそいとむつかしげなる夜なめれ。かく人がちなるにだに気色おぼゆ」)、
ちょっととりたてた様子(源氏「式部がところにぞ気色あることはあらむ」)、
恰好(平家「少しも物詣での気色とは見えさぶらはず」)、
風景、景色(平家「雪ははだれに降ったりけり、枯野の気色の誠に面白かりければ」)、

等々の意味の幅であり(仝上)、「気色(キショク)」は、

大気の動き(続日本紀「風雲の気色常に違うことあり」)、
気持や感情などが顔に現れ出ること、またその顔色の様子など(保元「その気色まことにゆゆしくぞ見えける」)、
(御気色の形で)思し召し、御意向(平家「然らば屋島へ帰さるべしとの御気色で候」)、
気持、気分(浄瑠璃・藍染川「母上気色を損じ」)、
容態(伊曾保物語「折しも、獅子王違例の事ありけるは、御気色大事に見えさせ給ふ」)、

等々の意味の幅で、「気色(キショク)」には、風景の意はない。だから、

ケシキは、人事、自然などのようすを言っていたのですが、人間の心の様子の場合は、しだいに「気色」を使うようになり、自然物の眺めには、中国語源の「景色」を使うようになった、

とある(日本語源広辞典)ように、

ケシキ(気色)→ケシキ(景色)、

と使い分けが進んだが、「気色(キショク)」は、元の意の幅のまま使われた、と見ることができる。たとえば、

気色(きしょく)悪い、

とはいうが、

気色(ケシキ)悪い、

とは言わず、逆に、

気色ばむ、

は、

けしきばむ、

だが、

きしょくばむ、

とも訓ませ、前者が、岩波古語辞典が、

何となくそれらしい様子が現れる、
気持の片はしをあらわす、
何となく様子ありげなふりをする、気取る、

広辞苑が、

意中をほのめかす、
気取る、
怒ったさまが現れる、
懐妊の兆候が現れる、

で、いくらか顕現する気配のニュアンスが残るが、後者が、

得意になって意気込む、
怒りの気持を顔色に出す、

で(広辞苑)、少し、後者が、気持ちの表現に収斂しているが、ほぼ意味が重なる。これは、他の言い回しで比較してみると、「気色(けしき)」系は、

気色有り(ひとくせある、何かある。趣がある)
気色酒(ご機嫌取りに飲む酒)、
気色立つ(自然界の動きがはっきり目に見える、きざす。心の動きが態度にはっきり出る)、
気色付く(どこか変わっている、ひとくせある)、
気色取る(その事情を読み取る、察する。機嫌を取る)、
気色給(賜)わる(「気色取る」の謙譲語。内意をお伺いする、機嫌をお取りする)、
気色ばまし(「ムシキバム」の形容詞形。何か様子ありげな感じである。思わせぶりである)
気色許り(かたちばかり、いささか)、
気色覚ゆ(情趣深く感じる。不気味に感じる)、
気色に入る(気に入る)、

であり(広辞苑・岩波古語辞典)、「気色(きしょく)」系は、

気色顔(けしきばんだ顔つき、したりがお)、
気色す(顔つきを改める、(怒りや不快などの)感情を強く表に現わす)、
気色ぼこ(誇)り(他人の気受けのよいのを自慢すること)、

等々であり、「きしょく」「けしき」両方で使う言葉は、

気色ばむ、

だけだが、両者は、例外的なものを除いて、殆ど人の様子・気持の表現にシフトしていることがわかる。これは、

鎌倉時代以降、人の気分や気持ちを表す意は漢音読みの「きそく」「きしょく」に譲り、「けしき」は、現在のようにもっぱら自然界の様子らを表すようになって、表記も近世になって、「景色」が当てられた、

とある(日本語源大辞典)ことが背景にある。

さて、「気色(ケシキ)」を、大言海は、

ケハヒに、気色(キショク)の字を充てて、気色(ケシキ)と讀む語、

とするが、

「気」は、

漢音で「キ」、呉音で「ケ」、

「色」は、漢音で「ショク・ソク」、呉音で「シキ」、

である。それから見ると、

「ケシキ」と訓ませるのは、呉音、
「キショク」と訓ませるのは、漢音、

と見るのが妥当なのではないか。つまり、「気色」は、漢語由来なのである。

和文中では、平安初期から用いられているが、自然界の有様や人の様子や気持ちを表す語として和語化していった、

とみられる(日本語源大辞典)。

「景色」の「景」は、漢音ケイ・エイ、呉音キョウ・ヨウ、であり、「景色」を、

ケシキ、

と訓ませるのは、大言海は、

景色(ケイシキ)の約、

としているが、

漢音「ケイ」+呉音「シキ」

と、変則である。『字源』をみると、「景色」に、

ケイショク、

ケシキ、

と訓がある。中国でも、「ケシキ」と訓ませる可能性がある。「景色」に「気色」の含意があるためか、単なる、

風景、

という意味だけではなく、

山水、風物などの趣、

の意が含まれ、それが転じて、茶道具で、鑑賞上興味を引く、

釉(うわぐすり)の色、頽(なだ)れ、窯変(ようへん)、斑紋など、主として陶器について、

もいうようになる(精選版日本国語大辞典)。

参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:気色 景色
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2020年11月21日

重詰


「重詰」は、

料理などを重箱に詰めること、またその料理、

であり(広辞苑)、「重箱」は、

食物を盛る箱型の容器で、二重、三重、五重に積み重ねられるようにしたもの、多くは漆塗りで、精巧なものは蒔絵、螺鈿をほどこす、

で(仝上)、略して、

重、

ともいう(大言海)。「重箱」は、室町時代にその名が見られるが、

一般庶民に普及したのは江戸時代で、本格的に重箱が製造されてからである。武家や大名のもとでは、漆塗や蒔絵の豪華なものも作られた。また、狩りなどに出かけるときに持ち運びに便利なものも使用された、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E7%AE%B1。もとは、

中国の食籠(じきろう、六角形や八角形の重ねて使用する容器)、

が、日本に伝来して重箱になった、とある(仝上)。

重詰.jpg


酒肴を、

鉢肴(はちざかな)、

と呼んだらしいが、それは、

鉢という器にさかなを盛ってだしたから、

という(たべもの語源辞典)。「会席料理」は「懐石料理」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471009134.htmlで触れたが、「会席料理」では、たとえば、

先付(さきづけ) 前菜
椀物(わんもの) 吸い物、煮物
向付(むこうづけ) 刺身、膾
鉢肴(はちざかな) 焼き物、焼魚
強肴(しいざかな) 炊き合せ等
止め肴 原則として酢肴(酢の物)、または和え物
食事 ご飯・止め椀(味噌汁)・香の物(漬物)
水菓子 果物

として出されるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E5%B8%AD%E6%96%99%E7%90%86ように、「鉢肴」は、

会席料理に使われる言葉、

で、

食事の中盤に出される焼物、

で、懐石料理のメインの一品目にあたる。

魚の切り身を焼いたものや、一口サイズにカットされた肉などを出されることが多く、酒のつまみとして提供されるものであるため、ボリュームはそれ程多くありません、

とあるhttps://www.cookdoor.jp/japanese-food/dictionary/21471_japan_021/。それが、やがて、「鉢肴」と並んで、酒肴として、

重肴(じゅうざかな)、

というものが現れる(たべもの語源辞典)。

重箱に詰めた酒のさかな、

の意である。で、

重箱肴、

という名称になり、

重詰、

となっていく(たべもの語源辞典)、という。「重詰」は、

時節の見舞いに贈ったり、花見遊山に携えたりした、

が(仝上)、「重詰」にする料理の品数は、基本的に、

三種、五種、七種、九種などの奇数とした、

とある(仝上)。

賀客饗応の用に供したものに、

喰積(くいつみ)、

というものがあった。江戸などで一般に用いられた、

取肴(とりざかな)、

で、「取肴」とは、

正式の日本料理の饗膳のとき、三度目に出す酒に添えてすすめる酒の肴。主人自身が漁猟したものや遠来の珍品などの心尽しの物を主人が取ってすすめるところからこの名がある、

とあり(精選版日本国語大辞典)、転じて、

酒の肴、

をもいうようになる(仝上)が、

食うべきものを集めて積み飾った、

ところから「喰積」の名がついた、とある(たべもの語源辞典)。

京坂では正月の床の間飾として据えおいたが,江戸では蓬萊のことを「喰積(くいつみ)」ともいい,年始の客にまずこれを出し,客も少しだけこれを受けて一礼してまた元の場所に据える風があった。蓬萊の飾物を少しでも食べると寿命がのびると信じられたのであった、

とある(世界大百科事典)。「蓬莱(ほうらい)」とは、

蓬莱飾、

の意で、

中国の伝説で、東海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされる霊山、

とされる、

蓬莱山、

をかたどった台上に、松竹梅、鶴亀、尉姥(じょううば)などを配し、祝儀などの飾り物に用いるもの、

で、「すはま」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473834956.htmlで触れたように、

島台、
蓬莱台、

ともいう。関西では、

蓬莱飾り、

江戸では、

喰積、

といい、

三方の盤の上に白米を盛り、熨斗鮑・搗ち栗・昆布・野老(ところ)・馬尾藻(ほんだわら)・橙(だいだい)・海老などを飾った、

ようである(デジタル大辞泉)。

後に、これを、

重箱、

に詰めるようになった、ということらしい(仝上)。

四角の重箱.jpg


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2020年11月20日

エクリチュール


ロラン・バルト『零度のエクリチュール』を読む。

零度のエクリチュール.jpg


本書は、

零度のエクリチュール、
記号論の原理、

の二本の論文を載せる。前者は、

「文語の歴史的条件についての自由な考察である。自由ではありえないエクリチュールを通してつねに自らを意味づけざるを得ない文学のある種のむずかしさ」

を、後者は、ソシュール後の、

「構造主義的言語学の概念」

を叙述している、と著者は「まえがき」で述べる。二つの共通点は、

「通称従属的意味作用(コノタシオン)と呼ばれている同じ言語の事実を扱っている。コノタシオンとは、どのような記号(シーニュ)のシステムの上にあろうと、二次的な意味が発展する現象をいう。」

とし、その「二次的な意味が発展する現象」が、前者は、

「作家の言述(ディスクール)は、それが語っている内容と同時に、それが文学だということを語っている」

ということを、後者は、

「コノタシオンと、その反対命題である意味表示作用(デノタシオン)とが言語学概念のシステムを仕上げている」

ということを分析している、と著者は絵解きしている。

僕には、「エクリチュール」についての論述の方が興味深かった。「エクリチュール」は、英語では、

Writing,mode of writing,

に当たり、敢えて訳せば、

書字、
書法、
書き方、
文章以外の映画・演劇・音楽などの表現法、

等々と説明される。たとえば、

評論モード、
小説モード、

と言ったり、

物語モード、
私小説モード、

と言ったりする、表現の様式を指す、と思われる。バルトは、冒頭、

「エベールは『ペール・デュシェーヌ』紙の記事をいつもきまって、『くそ』とか、『ちくしょう』といった類のコトバではじめたものだった。これらの粗野な口調は別に何も意味(シニフィエ)しはしなかったが、さし示し(シニヤレ)はしていた。何をか? ある革命的シチュエーションの全体をである。だからこれはもはや単に伝達(コミュニケ)したり、表現(エクスプリメ)したりするだけではなくて、言語(ランガージュ)のかなたのものを強いるのが機能であるエクリチュールの見本といっていいし、言語のかなたのものとは歴史であると同時に、そこにおける主体の決意なのである。」

と書き、その文章が時代に対する罵り言葉の中に、革命時の「過激派」であるという言外の意味を滲ませている。この「エクリチュールの見本」は、書き手の選択でもあることを、同時にバルトは言っている。そして、こう補足する。

「告げ知らせるあてなしに書かれる言語というものはないし、『ペール・デュシェーヌ』紙について真実なことはまた、文学についても同様だ。文学も内容や個性的な形式(フォルム)とはちがった何事かをさし示しているはずであり、その何事かはまさしく文学が文学として刻印されるゆえんのもの、つまり自らの囲い(クロチュール)にほかならない。そこから、言語体(ラング)とも文体(スチル)とも関係なしに与えられ、あらゆる可能な表現様式の厚みのなかである儀式的言語の孤立を明示することをめがけた諸記号(シーニュ)の総体が生ずる。」

この総体、つまりエクリチュールが、

「文学をひとつの制度と位置づけ、明らかに文学を歴史から引き離す傾向をもつ。どんな囲いも永続の観念抜きには作られないからである。」

それは作家の前に、彼の、

言語体(ラング、例えば、日本語、フランス語を指す)、
文体(スタイル、センテンス、句読点、語彙、改行などのその人の文章スタイル)、

とは別に、

「選択を不可避とさせるもののように」

立ち現れ、

「自分が思うままにできないもろもろの可能性にしたがって文学を意味づけることを作家に余儀なくさせる」

と。このとき、エクリチュールは、制度として、あるいは「約束事」として、ある。しかし、

「作家の最初のミブリは、過去のエクリチュールを引き受けるにせよ拒むにせよ、そうすることによって自分の形式の拘束(アンガージュマン)を選ぶことだった。」

だから、エクリチュールは、

「作家がその途中で出会い、眺め、対峙し、引き受けなければならず、作家としての自分自身を破壊しないではけっして破壊できないオブジェ=形式を馴らしたり、はねつけたりする一種の修練」

となった、と。矮小化した言い方をするようだが、たとえば、

小説とはこういうもの、

という制度化したものを崩すのは結構きつく、

これは小説ではない、

といういい方で拒絶されうる、一種、小説というものの、

パラダイム、

である。そうみると、バルトが、

零度のエクリチュール、
あるいは、
エクリチュールの零度、

というものを、

中性のエクリチュール、

と言っていることの意味が、分かってくる。現代の最先端の作家が何を意識的に試みているかは、僕にはわからないが、

小説であるという結構、

をどう崩すか、逆にいうと、文学を、

どう書くか、

が、今日の作家の最大の眼目であった。しかし、今日、それはほぼ崩壊しているように、僕は感じられてならない。

「自由としてのエクリチュールはほんの一瞬にすぎない。その瞬間は歴史のもっとも明白な一瞬のひとつである。というのは、歴史とはつねに何よりもまず選択であり、その選択の制限なのだから。」

とし、本論文の最後を、

「エクリチュールの多様化は、文学が自分の言語をつくり出し、もっぱら投企となるかぎりにおいて、新しい文学を設定する。」

と締めくくる。しかし、いま、今日、少なくとも日本では、新しいエクリチュールが生まれているとは、僕には思えない。

ちょっと蛇足だが、言語をコードとみなしたとき、

「コード化できる情報を「コード情報」と呼び,コードでは表しにくいもの,その雰囲気,やり方,流儀,身振り,態度,香り,調子,感じなど,より複雑に修飾された情報を「モード情報」と呼ぶ。」

という(金子郁容『ネットワーキングへの招待』)。エクリチュールは、モードとみなすと、文脈はからは自由にはなれない。文脈を、歴史と言い換えてもいい、社会、政治、といいかえてもいい。今日、その呪縛が、強まっている、と言えるのかもしれない。そこから自立しようとするには、相当の膂力が要る。そんな作家は、現在、少なくとも日本にはいない、と僕は思う。

さて、もう一編の論文、

記号論の原理、

は、僕にはいただけなかった。言語を、

コミュニケーションの手段、

と考え、コード(言語)と意味だけに細分化しても、言葉に出されたものの深奥はつかめない、と思えてならない。僕が、ソシュールをあまり買っていないせいかもしれないが、

「『言(パロル)』の言語学と『言語(ラング)』の言語学を対立させるソシュール的見地は、承認し難いことである。それは宛も、個々の動物の外に、帰納的概念である哺乳動物がそれと同列同格に対象として存在すると考へることに等しい。右の如き結論は、畢竟するに具体的な『言(パロル)』循行が科学の対象たるには、混質的にして科学的考察に堪えへないとして、それ自身一体なるべき単位要素を求めようとしたことに起因する。(中略)絵画は種々なる要素の混淆から成立してゐるにも拘わらず、絵画としての統一原理を持ってゐる。言語に於いても全く同様であることを知る必要がある。」(時枝誠記『国語學原論』)

とする時枝誠記の主張に賛成である。要素に分解して、それを並べて直しても、意味は通ずるが、文章にはならず、まして文仕様のもつ言葉の奥行きは見えてはこない。たとえば、

「われわれは、生活の必要から、直接与えられている対象を問題にするだけでなく、想像によって、直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり、過去の世界や未来の世界について考えたりしています。直接与えられている対象に対するわれわれの位置や置かれている立場と同じような状態が、やはりそれらの想像の世界にあっても存在するわけです。観念的に二重化し、あるいは二重化した世界がさらに二重化するといった入子型の世界の中を、われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり、現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしているのです。昨日私が「雨がふる」という予測を立てたのに、今朝はふらなかつたとすれば、現在の私は
        予想の否定  過去
  雨がふら  なく  あっ た
 というかたちで、予想が否定されたという過去の事実を回想します。言語に表現すれば簡単な、いくつかの語のつながりのうしろに、実は……三重の世界(昨日予想した雨のふっている〃とき〃と今朝のそれを否定する天候を確認した〃とき〃とそれを語っている〃いま〃=引用者)と、その世界の中へ観念的に行ったり帰ったりする分裂した自分の主体的な動きとがかくれています。」(三浦つとむ『日本語はどういう言語か』)、

という複雑な言葉の、つまり、

話者にとって、語っている「いま」からみた過去の「とき」も、それを語っている瞬間には、その「とき」を現前化し、その上で、それを語っている「いま」に立ち戻って、否定しているということを意味している。入子になっているのは、語られている事態であると同時に、語っている「とき」の中にある語られている「とき」に他ならない、
という(「語りのパースペクティブhttp://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htm」)、何重にもわたる語りの入子構造は、ソシュールの言語構造論からは、ほとんど立ち入り不可能だろう。その意味で、ぼくには、僭越ながら、

記号論の原理、

は、ほぼ薄っぺらに、「象の背中」をなぞっただけのように思えてならなかった。

語る、
あるいは、
書く、

は、ただ能記(シニフィアン 記号表現)を並べただけは、単語の所記(シニフィエ 意味内容)はわかっても、調度英語の単語が理解できても、語られた(書かれた)文章の奥行きが理解できるわけではない、というのと同じである。

参考文献;
ロラン・バルト『零度のエクリチュール』(みすず書房)
時枝誠記『国語學原論』(岩波書店)
三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)
言葉の構造と情報の構造」http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0924.htm
語りのパースペクティブ」http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htm

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年11月19日

野球


「野球」というのは、正岡子規が命名したものと思っていたが、そうではないらしい。確かに、

打者、
走者、
死球、
飛球、
四球、
直球、

等々、子規が訳した野球用語は多い(明治29年に新聞「日本」に連載した
随筆「松蘿玉液(しょうらぎょくえき)」)、とされるhttp://www.yakyu.okinawa/article/do_you_know/article_52.html。しかし、「野球」は、確かに、

野球、

という言葉を、子規は表記しているが、これは、子規の幼名、

升(のぼる)、

にちなんで、

野球(のぼーる)、

という雅号を用いていたもので、「ベースボール」の訳として使用したわけではない。子規自身、その連載の中で、

「ベースボールいまだかつて訳語あらず」

と書いているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%90%83%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2、とある。

正岡子規.jpg


子規が、「野球」という言葉を使ったのは確かであるが、それは、雅号としてであり、明治23年(1890)に使い始めている、ということは、「野球」が「ベースボール」の訳として登場するより前であったことは確かである。しかし、子規が野球に夢中であったことは知られており、

東大予備門(のちに一高)ベースボール部で捕手としてプレイした、

といわれる。ために、

久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも
国人(くにびと)ととつ国人と打ちきそふベースボールを見ればゆゝしも
若人(わかひと)のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如しくものはあらじ
九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす
九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり
打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来きたる人の手の中に
なかなかに打ち揚げたるはあやふかり草行く球のとゞまらなくに
打ちはづす球キャッチャーの手に在りてベースを人の行きがてにする
今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸のうちさわぐかな

等々を明治31年(1898)に新聞『日本』に発表(歌集『竹の里歌』(明治37年)所収)しているが、このとき、「野球(のぼーる)」の雅号を使っている。ただ、まだ、この時点では、「野球」という言葉は一般化していなかったようであるhttps://plaza.rakuten.co.jp/meganebiz/diary/201303040003/

野球は、

1871年(明治4年)に来日した米国人ホーレス・ウィルソンが当時の東京開成学校予科(その後、旧制第一高等学校)で、

教えたのが始まりでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%90%83%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2、その後、

打球鬼ごっこ、
玉遊び、
底球、

等々と訳されたが、定着せず、初めて「野球」と日本語に訳したのは、

中馬庚(ちゅうまん かなえ/ちゅうま かのえ)、

とされる。明治27年(1894)秋、第一高等中学校(1894年第一高等学校に改称)の野球部員であった中馬庚は、彼らが卒業するにあたって「校友会雑誌号外」に書いた文章中に、

野球、

という言葉が登場する(仝上)、という。

「Ball in the field」という言葉をもとに「野球」と命名しました。ベースボールは野原でするので「野球」と説明したhttp://www.yakyu.okinawa/article/do_you_know/article_52.html
「Ball in the field」という言葉を元に「野球」と命名し、テニスは庭でするので「庭球」、ベースボールは野原でするので「野球」と説明したhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%A6%AC%E5%BA%9A

という。

同僚で名投手の青井鉞男が「千本素振り」をやっている所に中馬がベースボールの翻訳を「Ball in the field-野球」とすることを言いに来た、

と言われているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%90%83%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2。中馬は、第一高等中学校で名二塁手として活躍し、卒業時に描いた「ベースボール部史」は、

翌明治28年(1895年)2月に、学制改革で第一高等学校となったことから「一高野球部史」として発行されました。中馬は、明治30年(1897年)に一般向けの野球専門書「野球」を出版。これは日本で刊行された最初の野球専門書で、日本野球界の歴史的文献と言われています。明治30年代には一般にも「野球」という言葉が広く使われるようになった、

とあるhttp://www.yakyu.okinawa/article/do_you_know/article_52.html。ただ、「ベースボール」の訳語として「野球」が、雑誌や新聞で使われるようになるのはそれから5年ほど後のことになる、とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%A6%AC%E5%BA%9A

中馬庚.jpg


ちなみに、中馬庚は昭和45年(1970年)には野球殿堂入り(特別表彰)を果たし、子規も、2002年に野球殿堂入りを果たしているhttp://www.yakyu.okinawa/article/do_you_know/article_52.html

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:野球
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2020年11月18日

釈迦豆腐


「釈迦豆腐」は、

葛粉揚げ、
釈迦揚げ、

とも言う。江戸時代の料理本『豆腐百珍』に、佳品のひとつとして、

釈迦とうふ、

中骰にきり笊籬(いかき)にてふりまはして角とり葛をあらりと米粒ほどに碎き豆腐に纏しつけ其まゝ煠るなり、

とあるhttp://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?no=1127

豆腐をサイの目に切って角を取り、葛を米粒大に砕いて豆腐にまぶし、油で揚げるものである。別に、

豆腐を中賽に切って、ざるに入れて振り回して、角をとる、

とある(たべもの語源辞典)が、これは、後述の「霰豆腐」と混同したもののようである。

葛を米粒大に砕いて豆腐にまぶし、油で揚げる、

とあるが、

米粒大位の大きさに砕いて豆腐にまぶしてくっつけてから、卵白をといてとうふにまぶしつけてから、油で揚げる、

ともある(仝上)。

釈迦豆腐.jpg


「釈迦豆腐」は、

葛粉の粒々を釈迦の螺髪に似せた、

ところからの命名らしい(仝上)。「螺髪(らほつ 呉音で「ホツ」と訓む)」は、

螺(にし)状をした、仏像の髪型、

をいう。

螺髻(らけい)、

ともいう(広辞苑)。

東大寺大仏の螺髪.jpg

(東大寺大仏の螺髪 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9E%BA%E9%AB%AAより)

同じ『豆腐百珍』の尋常品の一つとして、

霰豆腐(あられどうふ)、

というのがある。これは、

よく水をおししぼり小骰(さい)に切り笊籬(ゐかき)にてふりまはし角とりて油にてさつと煠(あけ)る也 調味好ミしだひ、

とありhttp://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?no=1127

少し大きなるを松露(しやうろ)とうふといふ、

とある。

あられ豆腐.jpg


この系譜では、今日、

揚げ出し、

と言われるものがある。豆腐だと、

揚げ出し豆腐、

になるが、近世においては、

豆腐に限らず、茄子、大根、芋などについても衣をつけずに揚げ、これを「揚げ出し」と呼びました、

とある(語源由来大全)が、現在では、

揚げ出し、

は「揚げ出し豆腐」を指すのが一般的のようである。「揚げ出し豆腐」は、

片栗粉を豆腐にまぶして揚げたものと、小麦粉をまぶして揚げたものがある、

ようだがhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%9A%E3%81%92%E5%87%BA%E3%81%97%E8%B1%86%E8%85%90、その「揚げ出し」の由来は、

油で揚げただけで他に手を加えずに出すところから、
揚げることによって水分を出すところから、
出し汁につけて食べることに由来する、

等々ある。

揚げただけで出す、

というところかもしれない。戦前まで、東京都台東区下谷元黒門町(現在の上野池之端)にあった老舗料理屋「揚出し」は、朝早くから揚げ出し豆腐を供し、風呂にも入れるということで吉原帰りの客に有名だった。同店は洋画家の小絲源太郎の生家、

とある(仝上・https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1038693185)。

揚げ出し豆腐.jpg


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年11月17日

かかし


「かかし」は、

案山子、

と当てる。

かがし、

とも言う。

鹿驚、

とも当てる(岩波古語辞典)。当初は、

田畑が鳥獣に荒らされるのを防ぐため、それらの嫌うにおいを出して近づけないようにしたもの。獣の肉を焼いて串に刺したり、毛髪、ぼろ布などを焼いたものを竹に下げたりして田畑に置く、

意で(日本語源大辞典)、そのため、

かがし、

ともある(岩波古語辞典)。元来、

かがし、
または、
かがせ、

で、焼いた獣肉を串に刺して田畑に立て、その臭気を嗅がせて退けた(江戸語大辞典)、ともある。そのため、「かかし」の語源は、

嗅がしの意(岩波古語辞典・類聚名物考・卯花園漫録・柳亭記・俚言集覧・年中行事覚書=柳田国男)、
ヤキカガセを上略して、セを、シ転じたる語(松屋筆記・大言海)、

とする説が大勢である。この「かがし」の意が転じて、

竹やわらで作った等身大、または、それより少し小さい人形。弓矢を持たせたり、蓑や笠をかぶせたりして田畑などに人が立っているように見せかけ、作物を荒らす鳥や獣を防ぐもの、

の意となった(日本語源大辞典)とする。この説によると、人形の意で使われるようになったのは、

比較的新しく、中世頃から、

とある(仝上)。しかし、古く、

あしひきの山田の曾富騰(ソホド)、

と古事記にあるように(岩波古語辞典)、

そおど(そほど)、
そおづ(そほづ)、

と呼ばれ人形があった。「そほづ」は、

そほどの転、

とされる(仝上)。共に、

案山子、

と当てられる。「案山子」は、漢語で、

アンザンシ、

と訓み、

かかし、とりおどし、

の意であり、

案山は、几(キ 机)の如く平たく低き山の義。山田なり、山田を守る主たる義、

とある(字源)。傳燈禄、道膺禅師傳、または會元、五祖常戒禅師の章に、

「主山高、案山低」とありて、案山は低くして机の如く、平らなる山の義なるべく、案山の閒に、耕地ありて、其邉に、鳥おどしのありしより、

とある(字源・大言海)。「梅園日記」(1845)にも、

隨斎諧話に、鳥驚の人形、案山子の字を用ひし事は、友人芝山曰、案山子の文字は、伝燈録、普燈録、歴代高僧録等並に面前案山子の語あり、注曰、民俗刈草作人形、令置山田之上、防禽獣、名曰案山子、又会元五祖師戒禅師章、主山高案山低、又主山高嶮々、案山翠青々などあり、按るに、主山は高く、山の主たる心、案山は低く上平かに机の如き意ならん、低き山の間には必田畑をひらきて耕作す、鳥おどしも、案山のほとりに立おく人形故、山僧など戯に案山子と名づけしを、通称するものならんといへり、徂徠鈴録に主山案山輔山と云ことあり、多くの山の中に、北にありて一番高く見事な山あるを主山と定めて、主山の南にあたりて、はなれて山ありて、上手につくゑの形のごとくなるを案山とし、左右につゞきて主山をうけたる形ある山を輔山といふとあり、又按ずるに、此面前案山子を注せる書、いまだ読ねども、ここの人の作と見えて取にたらず、此事は和板伝燈録巻十七通庸禅師傳に、僧問。孤廻廻、硝山巍巍時如何、師曰孤迥峭巍巍、僧曰、不会、師曰、面前案山子、也不会とあり、和本句読を誤れり、面前案山子也不会を句とすべし、子とは僧をさしていへり、鹿驚の事にあらぬは論なし、

とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%8B%E3%81%97・大言海・日本語源大辞典)、

僧曰、不会、師曰、面前案山子、也不会、

というのは、中国禅僧の用いた語で、それをかりて、「かかし」に当てた、と思われる(日本語源大辞典・大言海)。

しかし、もともと、古くから、

そほど、
そほづ、

という「人形の人形」があったのだとすると、

かがし(嗅)→かかし、

の転訛はおかしいことになる。「そほづ」「そほど」の語源は、「そほず」は、

雨露にぬれそぼち、山田に立っているところからソボチビト(濡人)の義(和訓栞・大言海)、
シロヒトタツ(代人立)の反(名語記)、

が語源、「そほど」は、

山田の番人などが日に照らされ、風雨に打たれて皮膚が赭色(そおいろ 赤土の色)をしていたところからソホビト(赭人)の転か(少彦名命(すくなびこなのみこと)の研究=喜田貞吉)、
朱人(ソオビト)の約(角川古語辞典)、
神の名ソホド(曾富騰)から(北辺随筆)、
ソホはソホフル・ソホツのソホか。またドは人の意か(時代別国語大辞典-上代編)、

等々の語源説があり(日本語源大辞典)、いずれと決め手はない。しかし「そほづ」は、

久延毘古(くえびこ)、

ともいい、古事記に、

久延毘古(くえびこ)は、今に山田のそほどといふそ、

とある(古語大辞典)。

此神者、足雖不行、盡知天下之事神也、

とある。このとき、「そほど」「そほづ」は、

かたしろ、

ではないか。「かたしろ」とは、

形代、

と当て、

本物の形の代わり、

の意で、

禊・祓などに用いる紙製の人形で、神を祭る時、神霊の代わりとしては据えたもの、

である(古語大辞典)。とすると、神体の代わりに据えた、

カタシロは語尾を落としてカタシになるとともに、「タ」の子交(子音交替)[th]で、カカシ(関東)・カガシ(関西)になった、

とする説(日本語の語源)が、注目されてくる。「そほど」「そほづ」との関連が見えてこないのが難点であるが、ひとがたの人形だったところは、「形代」らしい。

大言海は、「かかし」を、

鹿驚、

とあてる「かかし」と、

案山子、

と当てる「かかし」を区別している。前者は、

ヤキカガセを上略して、セを、シ転じたる語、

とし、後者は、

鹿驚(カガシ)を立鹿驚(タチカガシ)と用ゐたるを、略したる語、

とする。そして、

鹿驚、

は、獣肉を焼いて串に刺した、

かがし(嗅)、

とし、後者を、

山田のそほづ、

とする。これは見識である。いずれも、役目は、

鳥おどし、
獣おどし、

であるが、

獣の臭い、
と、
神体の形代、

とではギャップがありすぎる。本来異なる由来だったものが、共に、漢語、

案山子、

を当てたことで、

かがし、

そほづ、

が混同されていった、ということではあるまいか。

安永四年(1775)の『物類称呼』は、

関西より北越辺かがしと云ふ。関東にてカカシト清みて云ふ、

とする。

江戸時代後半には「かかし」が勢力を増した、

とある(日本語源大辞典)。

かかし.jpg

(日本の水田にあるかかし https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%8B%E3%81%97より)

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2020年11月16日

三成像


白川亨『石田三成の生涯』を読む。

石田三成の生涯.jpg


本書は、津軽藩(三成辰姫の子が三代津軽信義)の、三成の裔する三家(杉山、山田、岡家)に連なる著者が、

津軽杉山家の伝承を継承させる、

役割とりしてまとめた。で、

石田三成の生涯、
石田三成とその一族、

の二編にわけて、その検証を図ろうとするものだ。特に、本書が見直しを図ろうとする、江戸時代、特に『甫庵太閤記』等々によって流布された佞臣三成像は、もはや今日、主流ではないが、それでもなお、

太閤の側近にあるを幸いとして、賢良の士を害し、正義の士を賊して大綱に迎合した、
小才子、才に溺れた、

とする説は底流にある。著者は、(大谷)吉継、三成ほど、

愚直で、一途で、要領の悪い人間はいない、

と理解できるようになったとする。これも、もはや、今日、通説に近くなっている。『老人雑記』の、

奉公人は主君より禄を拝領しても、残してはならない。残すのは盗である。また、使い過ぎて借財するのは愚人である、

とか、『甲子夜話』の、

三成は日頃節約を旨として冗費を省けり。その佐和山城の如きも、当時二十三万余石の大名の城としては、建築全般質素なりき。城の居間なども、大概は板張りなれども、その壁は粗壁なりき。また庭園にも樹木の物好きなく、手水鉢なども、粗末な石なりき。当時の人々、城内の様子を見て、すこぶる案外と感ぜしと云う。去れど決して吝嗇ならざりき。吏務に長じたる三成の事なれば、固より処世の原則たる、「入るを計り出るを制する」の注意は寸時も忘れざりき、

等々は、よく知られている。個人的には、三成は、

信長死後、秀吉と対抗した柴田勝家、

に比すべき人物かと思っている。良くも悪くも、豊臣家あるいは織田家の安寧をはかろうとする三成や勝家と比べ、天下を視野に入れている秀吉、家康とは、戦う土俵を異にしていた、と思う。

三成出陣に際して、

散り残る 紅葉はことに いとおしき 秋の名残は こればかりとぞ

と詠んだとされる。意図は明らかである。朱子学の理屈から言うなら、水戸光圀が『西山遺事』で、

石田治部少輔三成は、憎からざる者なり。人各々其の仕うる人の為に、義によって事を行う者は、敵(かたき)なりとて憎むべからず。君臣共に、よくこの心を体すべし、

という通りなのである。

著者は、結論として、三成の挙兵について、「聖戦であったのか」という疑問を、個人的見解として

第一は、秀吉晩年の子として生まれ、その盲愛の中に育ち、秀吉没後は大坂城で真綿にくるまれ、しかも淀君周囲の阿りの中で、果たして天下統治の器量ありや否や、
第二は、三成の純粋な豊臣家想いの真情が、当時の彼の政治的・経済的力量をもって、群雄多き中に於いて果たして何処まで貫き、それを推し通せるか、
第三は、たとえ関ヶ原に於いて勝利を得たとしても、その結果は長期戦の様相を呈することは必然であり、やがて戦国乱世の時代に逆行する可能性が濃厚である。その場合の最大の被害者は民百姓であり、わけても社会的弱者たる老人や女子供である、

と述べ、まとめとしている。しかし、このまとめには疑問を感じる。本書を通して感じたことだが、

俗説にまみれた三成像を見直す、

という意図のわりに、第一の、

淀君、
秀頼、

周辺については、その俗説に則って批判的で、もちろん本書の主眼でないにしろ、資料的検証をしないままにその俗説に基づく貶めたイメージで論を進めている。

さらに、第三の、関ケ原合戦についても、江戸期の俗説をそのまま踏襲して、明らかに東軍側に加担した俗説にもとづいて展開しているだけである。ついでに言うなら、

秀次、

については、もっとひどく、ほぼ俗説のまま、その非を咎めている。

ここでいう俗説とは、三成のそれと同様に、江戸時代に敵役として創り上げられた説であるにもかかわらず、秀次像、秀頼像、淀君像をつくりあげている史料を再検討しようともしていない。三成がそうであるなら、秀次、淀君、秀頼も、同じように貶められていると疑って然るべきであり、江戸期に拵えあげられたそのイメージを疑うべきではなかったか。このことは、三成像の見直しと言いつつ、結局、

身内の身びいき、

としか見られなくなる、ということに著者はいかほど御自覚があるのであろうか。結果として、折角の、

三成像見直し、

の論旨にも、偏りを感じさせてしまう気がしてならない。江戸期の俗説を振り払うためには、ただ三成のみを抽出して、その身を洗い直しても、その周囲の状況そのものも、改めて家康側視点から抜け出して、見直していかなくては、本当の三成の見直しにはなるまい、と思う。もちろん、専門の歴史家ではない著者にそう申し上げるのは、酷なのは承知の上で。

なお、「関ケ原合戦」については、
「戦術の勝利、戦闘の敗北」http://ppnetwork.seesaa.net/article/478046901.html
「関ヶ原の合戦」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470429722.html
豊臣秀頼については、
「秀頼」http://ppnetwork.seesaa.net/article/408642088.html
豊臣秀次については、
「秀次」http://ppnetwork.seesaa.net/article/440783746.html
「秀次の切腹」http://ppnetwork.seesaa.net/article/453454065.html
小早川秀秋については、
「秀秋」http://ppnetwork.seesaa.net/article/451148221.html
で、それぞれ触れた。

参考文献;
白川亨『石田三成の生涯』(新人物往来社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2020年11月15日

ごんすけ


「ごんすけ」は、

権助、

と当てる。

江戸時代、下男や飯炊き男などに多い名であったところから、

下男、
しもべ、

の意とされる(広辞苑)。

釈迦も孔子も於三(おさん)も権助も(浮世風呂)、

と使われる。「おさん」は、

御三、
御爨、

とも当て、

おさんどん、

とも呼ばれる、江戸語の、

飯炊き女、
女中、
下女、

を指し(仝上)、広く、

腰元や台所で働くむ下女、

を指す(日本語源大辞典)、由来は、貴族の邸の奥向きで、下婢(かひ)の居るところである、

御三の間の略、

とする説(大言海)と、かまどをいう、

御爨、

に掛けた洒落とする説(広辞苑・日本語源大辞典)等々があるが、何れも、「かまど」と関わるとみていい。「おさん」と「権助」が並んでいるところを見ると、「権助」は、確かに、

人名、

ではあるが、下男の代名詞のように使われている、とみていい。

下男・飯焚男の通名・異称(江戸語大辞典)、
元々「権助」という名前は個人名というより、地方出身の商家の使用人、特に飯炊きの総称で、職業名を示す普通名詞だったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E5%8A%A9

等々とあるのは、そのためかと思われる。『権助芝居』『権助魚』『権助提灯』等々、江戸落語ではおなじみである。しかし、『隠語大辞典』には、

無宿浮浪ノ窃盗犯人、
浮浪窃盗犯を云ふ(関東)、

とあるので、余りいいイメージはなさそうである。ちなみに、

権七、

というのも、

下男・飯焚男の通名・異称、

である(江戸語大辞典)らしい。これは、少し転じて、

安っぽい男、

の意となり、後述の、

居候、

の意の、

権八、

に代えて使ったりする(寛文十二年(1672)風俗通「まだ居候の権七だ」)。

同じ「権」つく名でも、

権太、

となると、

わるもの、
ごろつき、

の代名詞であり、それが、

いたずらで手に負えない子供、

つまり、

腕白小僧、

にも使う。浄瑠璃「義経千本桜」の鮨屋の段の人物、

いがみの権太、

に由来するらしい。

いがみの権太.jpg

(歌川国貞「いがみの権太」 https://ja.ukiyo-e.org/image/ritsumei/arcUP0127より)

食客を権八と云ふ例なり、

とある(大言海)。権八は、

白井権八、

で、

侠客幡随院長兵衛の家の食客だったところから、

居候、
食客、

の代名詞として使われている(広辞苑)。これも、歌舞伎「傾情吾嬬鑑」で演じられたことからきている(大言海)。

白井権八.jpeg

(三代目歌川豊国『東海道五十三次の内 川崎駅 白井権八』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E6%A8%A9%E5%85%ABより)

それにしても、「権(權)」(漢音ケン、呉音ゴン)は、

はかり、
はかりごと、

の意で、

形声。雚(カン)が音をあらわし、元、木の名。しかし一般には棒ばかりのおもりの意に用い、バランスに影響する重さ、重さをになう力の意となる。バランスを取ってそろえる、

とあり(漢字源)、「権衡」と使われ、「権謀」とつかわれ「権力」と使われるが、別に、

形声文字です(木+雚)。「大地を覆う木」の象形(「木」の意味)と「2つの冠毛と両眼が強調された水鳥」の象形(「こうのとり」の意味だが、ここでは「援」に通じ(同じ読みを持つ「援」と同じ意味を持つようになって)、を意味する「権」という漢字が成り立ちました、

ともありhttps://okjiten.jp/kanji940.html

たすける、

という含意がある。仏教の「権化」「権現」等々とも使い、

かりの、
かりそめの、

という意味もある。そこから、

権中納言、

というような、

定員のほかに仮に任じた官位、

の意や、

権僧正、

というような、

最上位の次の地位、副(そえ)、

の意味がある。「権助」の「権」は、

仮名、

の含意がある。柴田勝家は、通称、

柴田権六、

といった。「通称」は、

仮名(けみょう)、

であり、

江戸時代以前に諱を呼称することを避けるため、便宜的に用いた名、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E5%90%8D_(%E9%80%9A%E7%A7%B0)。「権助」「権太」「権八」は、下男、悪漢、居候の代名詞であった。「権」の字のもつ、まさに、仮に人間界に現われた菩薩を言う「権化」のような、

かりそめの名、

である。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2020年11月14日

こんこんちき


「こんこんちき」は、

狐の異称、

だが、いまではほぼ使わない。

江戸時代には、「江戸ッ子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/436936674.htmlが、

大違いのこんこんちきさ、
とか、
あたりきしゃりきのこんこんちき、
とか、
合点承知のこんこんちき、

といったように、

他の語の下に着けて語彙を強調する語、

としても使われた(広辞苑)。また、「すっとこどっこい」http://ppnetwork.seesaa.net/article/478309931.html?1604691323で触れた、

ばか囃子などの拍子を表わす語、

でもあった(大辞林・精選版日本国語大辞典)。

「こんこんちき」は、

こんこん(狐の鳴き声)+チキ(人)、

とする説もある(日本語源広辞典)が、

こんこんとこんちきの合成語、

とする説(江戸語大辞典)もある。「こんちき」は、

こんきちの下半を転倒した語、

で(仝上)、

彼(あ)の爺は野狐(こんちき)か古狸(ももんじ)のばけたのかもしれねへわい(安政四年(1857)「七偏人」)、

と使われている。

コンチキは、戯れか、語路滑らかならぬためか、吉(きち)を倒に云ふなり(變ちき、鈍ちき、高慢ちき)、

とする(大言海)。ただ、「トンチキ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/478114763.htmlで触れたように、「変ちき」「高慢ちき」の「ちき」は、「的」の転訛と見る方が妥当と思うが。

「こんきち」は、

狐吉、

とも当て(大言海)、

こんこん、

という狐の鳴き声から、擬人化したもの。

三浦屋の遊女吉野、度々子を産みしとて、子を易くたびたび生める故にこそこんきちさまとひとは云ふなり(寛文(1661~73)「吉原袖かがみ」)、

と使われる。

鳴聲を狐として、擬人したる語(石部金吉、膝吉、臑吉)、

とある(大言海)。「こんこん」は、

狐の鳴き声、

の他、

木質系を軽く打つ音、
軽い咳をする音、
雪のしきりに降る音、

という意もある擬音語であるが、咳の音や雪の音として使われるのは、近代になってからのようで、

かたいものを軽く続けて打ったときに出る音、

は、室町時代からみられる(擬音語・擬態語辞典)とあるが、

狐の鳴き声、

としての擬音は、古く、奈良時代からみられる(仝上)、とある。万葉集に、

さし鍋に湯沸かせこども櫟津(いちひつ)の檜橋(ひばし)より來む狐に浴(あ)むさむ、

という歌があり(長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ))、

狐の声「こむ」に、「來(こ)む」(来るであろう)を掛けている、

とある(仝上)。狐の声、

こんこん、

は、しばしば、

來ん来ん(来よう来よう)、

に掛けて聞かれる(仝上)、とある。たとえば、

こんこんと言ひし詞の跡なきはさてさて我をふる狐かも(寛文一二年(1672)「後撰夷曲集」)、

といったように。

ただ、狐の声は、室町時代から江戸時代にかけては、

くわいくわい、

という別の聴き方があり、狂言では、

命を助けうほどに、くわいくわいと啼け(「寝代」)、

とあり、「こんこん」と「くわいくわい」を合体させた、

こんくわい、

と、「後悔」の意味を掛けた聴き方もあったらしい(仝上)。

参考文献;
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:こんこんちき
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2020年11月13日

こじり


「こじり」は、

鐺、

と当てる。「鐺」(漢音ソウ・トウ、呉音ショウ・トウ)は、

会意兼形声。「金+音符當(あてる、おしあてる)」

で、

こて、
なべ、

といった意であり、

こじり、

の意で用いるのは、我国だけである(漢字源)。

金文 鐺.png

(後漢・説文解字・小篆 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%90%BAより)

「こじり」は、

璫、

とも当てる(広辞苑)。「璫」(トウ)は、「みみかざり」の意だが、

椽頭(たるきのはし)の飾り、

の意があり、中国では、「こじり」の意は、「璫」の字を当てる(字源)。

さて、「鐺(こじり)」は、ふつう、

刀の鞘の末端につける装飾の金具、

の意で使う(仝上)が、もともと

垂木(たるき)の端、またその飾り、

の意である(仝上)。その意の「こじり」に、大言海は、

木尻、

と当て、

椽(たるき)の端、榱(スイ たるきの意)端、

とする。和名抄には、

榱、椽、太流岐、

とある。垂木(たるき)は、

古くは垂木(たりき)、又は、へぎ、

とある(大言海)。建築における小屋組構造材で、軒桁-母屋-棟木の上に等間隔に渡され、

頂上の棟木から垂らすように斜めに取り付けられているから「垂木」と呼ばれる、

とあるhttp://www.yaneyasan13.net/rafter

垂木.jpg


一つ草堂あり、津堂と云ふ、其の堂の軒の椽の木尻、皆焦がれたり、

と(今昔物語)ある。たとえば、仏教建築で、

十餘閒の瓦ぶきの御堂あり、たるきのはしばしは金の色なり(栄花物語)、

とあるように、

我が国の垂木は朱色を塗るだけで、一切の文様はありません。ただ、垂木の「鼻・木口」には銅板の透かし彫りに金メッキした「飾金具(青矢印)」を取り付けるかまたは、黄色で装飾いたしました、

とあるhttps://www.eonet.ne.jp/~kotonara/tarukinooha.htmのが、「椽端」である。

それが転じて、

木尻の飾りもの、

の意とも使われ(大言海)、

璫、

を当てるのは、もともと「こじり」の意で使うのは、「璫」の字をもってするからである。たとえば、班固・西都賦に、

裁金璧以飾璫、

とあり、その註に、

璫、椽端の飾り、

とあり、和名抄にも、

璫、古之利、

とあるところを見ると、「璫」と「鐺」が混同された、とみられる。しかし、「璫」が、

刀剣の鞘尻、多くは、其端を、金属(かね)、角、等々にて包み、飾りたるものに云ふ、

ようになって、あるいは、

金當の合字、

という(大言海)のが正解なのかもしれない。「鞘尻」の意の「鐺」には、

小尻(広辞苑)、
戸尻(図録日本の甲冑武具事典)、

とも当てる。

刀①.jpg

刀②.jpg

(鐺 デジタル大辞泉より)

「こじり」と似た意味で、

石突(いしづき)、

がある。もっぱら、

矛・槍・長刀(なぎなた)の柄の端を包んだ金具、

の意で使われるが、もともとは、

太刀の鞘尻を包んだ金具、

の意であった(広辞苑)。「太刀」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464272047.htmlで触れたように、佩刀が,

太刀(たち),

であり、腰に佩く。腰に差すのは、

打刀(うちがたな)、

であり、太刀が主に馬上合戦用なのと違い、徒戦(かちいくさ)用に作られた刀剣である。武士の主流になっていく。

太刀は、後下りに佩くものなり、……太刀を佩きて蹲踞すれば、鞘尻は必ず石へつく、……庭上には、必ず甃(いしだたみ)あるべきゆえ、石づきと云へルカ(刀剣略説)、

とある(大言海)。さらに、

鐺の字を書きたるあるは、かなものの當るといふ二合字なり、

とし(仝上)、「いしづき」にも、

鐺、

を当てていることになる。古くは、

鐺金(こじりがね)、

ともいった(図録日本の甲冑武具事典)らしい。

石突(槍).jpg


これが転じて、

戈、槍、長刀などにも云ふ、

ようになる(仝上)。これがさらに転じて、今日、

杖、蝙蝠傘などの柄の地に突く部分に嵌めた金具、

にも云うが、既に古く、

樫の木の棒の一丈余りに見えたるを八角に削って両方に石突をいれ(太平記)、

という用例もある。

山中鹿之助幸盛 月岡芳年画「芳年武者无類」.jpg

(山中鹿之助幸盛 月岡芳年画「芳年武者无類」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8Dより)

なお、「長刀」は、
「薙ぐ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/467233028.html
「槍」は、
「やり」http://ppnetwork.seesaa.net/article/451696531.html
「刀」は、
「かたな」http://ppnetwork.seesaa.net/article/450320366.html
「太刀」は、
「太刀」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464272047.html
で、それぞれ触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:こじり 垂木 石突
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2020年11月12日

呉汁


「呉汁」というものがある。

豆汁、

とも当てる(広辞苑)。

水にひたして柔らかくした大豆をひいた「ご」(豆汁)を入れた味噌汁、

とある(仝上)。

呉汁.jpg


醐汁、

とも当てるが、

呉汁、

も共に当て字である(たべもの語源辞典)。

「ご」は、

豆汁、

と当て、

水に浸した大豆をひきつぶして乳状にしたもの、

で、

豆油、

とも当て、

まめあぶ、

ともいい(デジタル大辞泉)、

豆腐の原料や染物または油絵の彩料に用いる、

とある(広辞苑)。中国でいう、

豆汁(とうじゅう)、

は、中国語で、

豆汁儿、
酸豆汁儿、

といい、

緑豆を煮てから、すりおろして作った豆乳を乳酸発酵させた、少し酸味のある飲料、

でありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E6%B1%81、別のものである。で、

大豆を水に浸し、すりつぶしたペーストを、

ご(豆汁)、

といい、「ご(豆汁)」を味噌汁に入れたものを、

呉汁、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E6%B1%81のだが、擂り潰した枝豆を入れた味噌汁は、

青呉汁、
あるいは
枝豆呉汁、

というのだそうである(仝上)。「ご(豆汁・豆油)」の語源は、

糊の義か(名語記)、
豆汁をいうコウ(膏)からか(袂草)、
コミヅ(濃水)の下略(鈴木棠三説)、

等々あるが、はっきりしないが、「濃い」http://ppnetwork.seesaa.net/article/478150705.htmlは、古くは接頭語「こ」として、

濃、

と当て、接頭語として、

濃紫(こむらさき)、
濃酒(こさけ/こざけ)、
濃染(こぞめ)、

色や液汁の濃いことを示す(大言海・岩波古語辞典)。この「こ」(濃)はまた、「こ(凝)」と通じる。「濃い」の「こ」の転訛の可能性が高い気がする。

さて、「呉汁」は、

大豆を水につけて軟らかくなったら、擂鉢に入れてかきまわすと豆の表皮がむけるから水を加えて浮いた皮を流す。皮がなくなったら、さらによくすりつぶし、裏漉しにかけて、鍋に入れ、煮出汁を加えてのばす。具には蓮のごく若い葉をつまみ、塩ゆでにしたものを碗に盛っておく。ほうれん草でもよい。鍋の大豆汁に味噌を加えて汁をつくって碗に盛る、

とある(たべもの語源辞典)が、

秋に収穫された大豆が出回る秋から冬が旬で、呉汁に入れる大豆以外の具材は、人参、大根、牛蒡、玉葱等の根菜類、豆腐、厚揚げ、油揚げ等の大豆加工品、葱、芹、唐辛子等の薬味、芋がら、こんにゃく、椎茸、煮干し、鶏肉等で地域毎に様々である、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E6%B1%81

擂り潰した大豆と野菜類が豊富に入った呉汁は栄養価が高く体が温まり、冬場の郷土料理として日本各地で昔から親しまれている(仝上)が、大豆を擂らずに、おからをそのまま使って、油揚げやネギを入れた味噌汁を作ることも多かった、という(仝上)。一説に、

厚木地方の農家で、大豆打ちをしたときにこぼれた豆が雨の降られてふくれているのを利用したのが起こり、

という(たべもの語源辞典)。しかし、各地にあるので、何処と地域は限定できまい。

「呉汁」に、

豉汁、

と当てる説もあるが、「豉」は、「納豆」http://ppnetwork.seesaa.net/article/473658590.htmlで触れたように、

中国では、納豆を「鼓(し)」といった。これは後漢時代の文献に現れている。日本に伝わったのは古く平安時代の『和名鈔』に和名クキ(久喜)としてある。鼓をクキとよんだ。中国の鼓には、淡鼓、塩鼓がある。淡鼓が、日本の苞納豆(糸引き納豆)にあたり、塩鼓が日本の浜名納豆・寺納豆・大徳寺納豆の類である、

とあり(たべもの語源辞典)、「ご」とは別物である。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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ラベル:呉汁 ご(豆汁)
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2020年11月11日

こしき


「こしき」は、

甑、

と当てる。

米などを蒸すのに用いる器。瓦製で、形は丸く、底に蒸気を通す穴がある。のちの蒸籠(せいろう)にあたる、

とある(広辞苑)。

「甑」(漢音ショウ、呉音ソウ)は、

会意兼形声。曾(ソウ 曽)は蒸籠をのせて蒸す、こしきを描いた象形文字。上部のハ印は、湯気の出るさま。いくえにも重ねる意を含み、「かつての経験が重なっている」意の副詞となった。甑は「瓦(土器)+音符曾」で、曾の原義(こしき)を表す、

とあり(漢字源)、

せいろうを上に重ねて、下から火をもやし蒸気で穀物を蒸す器具、

の意である。「曾」(漢音ソウ・ソ、呉音ゾ・ゾウ)は、

象形。「ハ印(湯気)+せいろう+こんろ」をあわせてあり、うえにせいろうを重ね、下にこんろを置き、穀物をふかすこしきの姿を描いたもので、甑の原字、

とある(仝上)。「粥」http://ppnetwork.seesaa.net/article/474375881.htmlで触れたように、弥生時代、米を栽培し始めるが、この時は、

脱穀後の米の調理は、…玄米のママに食用にした。それも粥にしてすすったのではないかと想像される。弥生式土器には小鉢・碗・杯(皿)があるし、登呂からは木匙が発見されている、

とある(日本食生活史)。七草粥は、この頃の古制を伝えている(仝上)、とみられる。

弥生時代の終わりになると、甑(こしき)が用いられ、古墳時代には一般化する(日本食生活史)。

3世紀から4世紀にかけて朝鮮半島を伝い、日本にも伝来した、

と見られhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%91、「甑」は、中国で、

新石器時代に袋状をなした三脚を有する鬲(れき)や、底部に若干の穴をほったこしき(瓦+曾)、また鬲と甑を結合させた甗(こしき)などがあった。甑は漢代に使用され、それが南満・朝鮮半島を経て、米の流入とともにわが国に伝わった、

とある(日本食生活史)。「鬲(れき)」は、

古代中国において用いられた中空構造の三足を持った沸騰機。3本の足の中の空間に水を入れ、その上に甑(こしき/そう)を載せて火にかけ、水を沸騰させることで粟や稲などを蒸した。鬲と甑を1つと看做した場合には甗(げん)とも称する、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%B2

饕餮文が刻まれた商代中期の鬲.jpg

(饕餮文が刻まれた商代中期の鬲 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%B2より)

「甑」は、

こそき、

ともいい、

土製の甑のほかに、木製のものもあったので、

橧、

とも当てる(仝上)。

甕(かめ)に似た器の底に1つ、あるいは2つ以上の穴をあけ、これを湯沸しの上に重ね、穴を通って上る湯気によって穀物を蒸す仕組みとなっているもの。弥生時代以来使われるようになり,平安時代以降は木製の桶や曲げ物の甑が普通となって,江戸時代からのせいろうに引継がれた、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

内に麻布のような粗織の布をしき、洗った米を入れてかたく蓋をし、湯をたぎらせた壺に重ねて仕掛ける。下から火をたくと、壺の湯はさかんに湯気をあげ、湯気は甕底の穴をとおって米を蒸す、

のである(日本食生活史)。

古墳時代の遺物に、

竈と釜と甑の一揃いになったもの、

が、発見されており、

土師器(はじき)の竈の上に須恵器の釜が載り、その上に下部に蒸気穴のある甑を置く蒸し器のセットである。釜の底部は黒く焼けた跡がある。この三点を組み立てた高さは約80センチである。土師器は、弥生式土器の流れをくむ黄褐色または赤褐色の土器で、整形された粘土素地を大気中の酸化焔で焼成されるため、多孔質で硬化の度合いは低い。これに対し、須恵器は半密閉の竈の還元焔で、時間をかけて焼かれるので、陶器に近い硬さをもつ帯青灰色の土器である、

とあるhttp://www.sakaiminato.net/c817/roadmap/bunkazai/doki/

甑(コシキ)、釜(カマ)、竈(カマド).jpg

(古墳時代後期、土師器の竈の上に須恵器の釜が載り、その上に下部に蒸気穴のある甑を置く蒸し器のセット http://www.sakaiminato.net/c817/roadmap/bunkazai/doki/

「こしき」の語源としては、

カシキ(炊)の転(大言海・東雅)、

似たものに、

米をかしぐ器の意(名語記・日本釈名)、
動詞「かし(炊)く」と同源か(小学館古語大辞典)、
カシキ(炊)からできた(時代別国語大辞典-上代編)、
炊籠(カシキコ)からコシキになった(たべもの語源辞典)、

等々がある。その他、

カシキ(粿器)の意(言元梯)、
コシキ(越器)の義。ものを蒸す時、火気を中にへだてて上へ越すところから(和句解・柴門和語類集)、
木の葉を敷いたり覆ったりしたので木敷(こしき)(たべもの語源辞典)。
出産時のまじないや合図に用いたことからコシキ(児敷)(和訓栞)、

等々があるが、たべもの語源辞典が言う通り、

炊器(かしき)が、コシキになった、

とするのが妥当なのだろう。

参考文献;
渡辺実『日本食生活史』(吉川弘文館)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:こしき
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2020年11月10日

こけら


「こけら」は、

杮、

と当てる(広辞苑)。「かき」の、

柿、

とは別字である。「かき(柿)」http://ppnetwork.seesaa.net/article/455683625.htmlで触れたように、

「柿(柹)」の字は,

「右側はもと市ではなく,つるの巻いた棒の上端を一印で示した字(音シ)。上の棒の意を含む。柿の元の字はそれに木を加えたもの。かきの皮を水につけ,その上澄みからしぶをとる。」

とある(漢字源)。これは,

「もともとカキという字は『柹』という風に書き、つくりの部分は『し』という音読みで、『一番上』という意味を持っている字です。カキは、皮を水につけて、その上澄みからしぶをとっていたためこの字になりました。そのあと、形が変化し、『柿』という字になったのです。これと似たようなものに『姉』があります。これも『あね』が一番上のため「姊」という字になり、「姉」に変化したんです。」

という説明がよくわかるhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10146565810。ただ,「柹」の字については,『大言海』が,

「正しくは,杮なり,柹は俗字なり。然れども,市(イチ)にて通用す。」

としている。「柿」(シ かき)と「杮」(ハイ こけら)」の区別は,正直つかない。ただ、「杮(こけら)」(漢音ハイ、呉音ホ)の字は、

会意兼形声。「木」+音符「巿」。「巿(フツ:『市』とは別字、『朮』から、右肩点を除いた形が本来の字体)」は「肺」の旁に見られる文字で、左右に切り分けるの意、

であり、「柿(かき)」(漢音シ、呉音ジ)は、

会意兼形声。元の字体は「柹」、旁は、「姊(=姉)」などに見られる蔓の巻いた棒の上部を指したもので「上方の」「上位の」を意味する語。柿の皮を水につけ上澄みから渋を取ったことによるもの、

でありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9D%AE、「柿(かき)」の「市」は、

「亠(なべぶた)」+「巾」で、「柿」は、九画、

で、

「柿(こけら)」の「市」は、

「市」で、八画、

であり、「柿(かき)」の、「市」は、「なべぶた」と巾の間に隙間があり、「柿(こけら)」は一本に通っている、という違いがあるhttps://eigobu.jp/magazine/kokera。大言海も、

杮の旁の中の竪畫は、上下を貫けり、コケラブキをカキブキとも云ふは、果(くだもの)のカキの字と見誤りて讀むなり、

としている。

「こけら」は、

木屑、

とも当て(広辞苑)、

木材を削るとできる木の細片、また木材を細長く削り取った板、

の意で、

杮板(こけらいた)の略、

でも使う。大言海は、

コケは、木削(コケヅリ)の下略(弓削(ゆけづり)、ゆげ)、ラは、添えたる辞(苔(コケ)をコケラとも云ひ、鱗(コケラ)をコケとのみも云ふ)、

とし、本来は、

木材を、斧又手斧にて、削りて落ちたる細片、いまコバと云ふ、

それが転じて、

特に板屋を葺くのに用ゐる薄き板、大小、種々なり、檜、槙、椹(さはら)などの材にて、長方形に削り成す、長さ六七寸、又、尺余の者あり、幅三寸許、厚さ一分許、こけら板とも云ふ。そぎいた、くれ、こばいた、やねいた。此の板にて屋根を葺きたるを、こけら葺きといふ、

とする。他の、

「木の切屑」のことをコケラ(和名抄)というのはコギレ(木切れ)の転である。また、ケケラ(名義抄)というのはキギレ(木切れ)の点である(日本語の語源)、
コヘラ(木片)の義(言元梯)、
コケは細小の義、ラは助語(類聚名物考)、
コは木、ケラは削ラヌの意(和句解)、

等々、何れも意味は同じである。

削ぎ落す意味の動詞「こく(扱)」や、肉が削ぎ落ちた状態になる動詞「こく(痩)」と同源か。木の表面を削ぎ落したことでできる木片を指し、魚の表面を削ぎ落すことでできる「鱗(こけら)」も同語原、

とある(日本語源大辞典)し、また、

キ音(木・今・金・欣・勤・期・近)をコと発音する例は多い。コノミ(木の実)・コケラ(木切れ)・キコル(木伐る)・ココン(古今)・コンジョウ(今生)・コンゴウ(金剛)・ゴンク(欣求)・ゴンギョウ(勤行)・マツゴ(末期)・ムゴ(無期)・サイゴ(最期)・コノエ(近衛)、

とあり(日本語の語源)、i→oと母音交替することが多い(仝上)、

コギレ(木切れ)→コケラ、
か、
コケヅリ(木削り)→コケラ、

ということになる。

鱗(うろこ)を、

こけら、

と訓ませるのは、

こけら、

に似ているというより、

こけら葺きの形に似る、

というべきだろう(大言海)。「こけら葺き」は、

屋根を、こけらにて葺く、

意(仝上)で、

薄く短い板を重ねて葺く。曲線的な造形も可能で、優美な屋根をつくることができ、主に書院や客殿、高級武家屋敷などに用いられた。耐用年数は25年程度とされる。また、瓦葺の下地として用いられることもあり、土居葺あるいはトントン葺と呼ばれる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%91%E3%82%89%E8%91%BA

杮葺の屋根(慈照寺).jpg


「こけらおとし」は、

新しい劇場・舞台ではじめて催される公演のこと、

を指すが、

「こけら」とは木材を加工した時に出てくる木くずのこと。劇場などの新築や改築工事の最後に、内外装の「こけら」を払い落とした(掃除した)、

ことから、完成後初めての興行を言うようになったhttp://www.smile-labo.jp/article/15297536.html

また、「こけらずし」というのがあるが、

魚肉を飯に載ること、コケラ葺の如き意、飯を魚腹に籠めたる鮨に対する語、

とあり(大言海)、

薄く切った魚肉などを飯の上に並べた姿が、こけら板(屋根を葺くのに用いるスギやヒノキなどの薄い削り板)に似ていることから付いた名である、

ともある(語源由来辞典)ので、「飯鮨」http://ppnetwork.seesaa.net/article/475973752.htmlに対して、飯の上にコケラのように並べたからいうものと思われるが、

魚腹に飯を詰めた丸鮨などに対して言う、

ともある(江戸語大辞典)ので、よく分からないが、

米に恵まれなかった南予の沿岸沿いの人達が、すし飯の代わりにおからを使い、酢でしめた魚を巻いて握ったもの、

を「丸ずし」といった、とあるhttps://www.pref.ehime.jp/nan53123/yawatahama-hc/hokenjo/resipi/04resipi03.htmlのは、郷土料理化したもののようである。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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ラベル:こけら
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2020年11月09日

ゆたか


「ゆたか」は、

豊か、
裕か、

と当てる(日本語源広辞典・大言海)。「豊(豐)」(漢音ホウ、呉音フ、慣音ブ)は、

会意兼形声。峰、鋒などの、丰は、△型にみのった穂を描いた象形文字。豐はその字(ホウ)を音符とし、山と豆(たかつき)を加えて、たかつき(高坏)の上に山盛りに△型をなす穀物を盛ったことを示す。のち、上部を略して豊と書く、

とある(漢字源)。「丰」(漢音ホウ、呉音フウ)は、

象形。封の原字、草の穂が(三角形に)茂るさま。夆(逢の原字、峰、鋒、蜂の音符)、邦、豐の音符となる、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%B0

「ゆたか」は、

豊富・富裕なさま、
広々と余裕のあるさま、
不足なく整っているさま、
六尺豊か、というように他の語について、不足のないことを表す、

といった意味の幅がある(岩波古語辞典 大言海は、他の語につくのは、接尾語として別項を立てている)が、どうやら、

物の豊かさ、
から、
心の余裕、

の意に広がったように見える。

「ゆたか」の語源は、

「ゆた」+接尾辞「か」

とみられるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%9F%E3%81%8Bが、「ユタ」は、

擬音語に基づく、

とする説がある(広辞苑)。日本語源広辞典は、

ユタ(のびやか・ゆったり)の形容動詞化、

とし、

ユタカ→ユタケシ→ユタカナリ、

と変化したとするが、それは、「ユタカ」の形容詞形、

ゆたけし、

を前提にした話で、「ゆたか」の語源とは別のことではないか。確かに「ゆた」は、

寛、

と当て(広辞苑・岩波古語辞典)、

かくばかり恋ひむものそと知らませばその夜はゆたにあらましものを、

と万葉集にあるように、

ゆるやかなさま、
ゆったりとしたさま、

の意で載る(仝上。

しかし、「ゆたか」は、たとえば、

「この子をみつけて後に竹取るに、ふしをへだてて、よごとにこがねある竹を見つくること重なりぬ。かくて翁やうやうゆたかになりゆく」(竹取物語)

というように、

物事の満足りること、
富裕、

の意であり、せいぜい、

嬉しさを何に包まん唐衣袂ゆたかに裁てと言わましを(古今和歌集)、

と、

ゆるやか、

の意である。時系列は前後するが、

ゆた、

の心理的な「ゆるやかさ」と、

ゆたか、

の物理的な「ゆるやかさ」とは、乖離がある。この「ゆた」が「ゆたか」の語源とは思えず、むしろ、「ゆたか」の意味が心理的なものに広がった後のことばなのではないか、と思え、

擬音語に基づく、

という説が、意味ありげに見えてくる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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ラベル:ゆたか 豊か 裕か
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2020年11月08日

世界と世界史


K・レーヴィット『世界と世界史』を読む。

世界と世界史.jpg


著者の、次のことばは印象的である。

「何かを問うこと、そしてそれによってそのことを問題にすることは、与えられたものを超えて問う者だけができる。何かを問うことなしにそのまま受け取る者は、そのことを求め検べつつ問題にすることができない。問題にされうるのは、人が距離をおいたものだけである。(中略)距離をおくということは、世界および自分自身から離れていることによって、自分自身および世界の何の疑いもない自明的存在を放棄したことを意味する。そのように距離をおいて遠ざけることなしには、世界の解明は存在しない。(中略)動物も人間も無言で直接に苦痛を表すことができる。しかし人間だけが、何が苦しいかを言い、それによって自分自身および自分の苦痛に距離をおくことができる。距離をおくというこのすべての人間的態度を特徴づけることがらに、人が相対するものを対象化する可能性が存する。」

それは、「世界」や「世界史」という概念をつかむためには、この世界を、そして、その全体を対象化しなければならない。日本には、「世界」も「世界史」も、近代化する以前、つまり開国するまでは存在しなかった。今日の「世界」は、仏教語の「衆生が住む時空」の意味でしかなかった。つまり、日本には、今日言う、

地球上の人間社会全体、

という意の、

世界、

はなかった。世界が無ければ、

世界史、

もない。そういう対象化する者は、

「そのことによって、世界および自分自身から自分自身を疎外したことになる。人間は、他在にあって自分自身を失わずにいるためには、世界の中へ、何か他の見知らぬものの中へはいるように、よそ者として居をかまえることができ、またそうしなければならない。疎外という距離を保ちながら、人間は、存在するすべてのものに近づき、見かけの上ですでに熟知しているものを不審なものとして習得することができる。もし人間が、自分が浸透している自然と自分を包囲している世界から、それを不審なものと見るほど、自分を遠ざけることができず、植物のように大地に合生して、地面に根を張っているか、あるいは動物のように特別な環境に縛りつけられているとしたなら、人間は自分自身および世界に対して何らかの態度をとることも、自分自身および世界に、それが(自分自身および世界が)何であるかを、問うこともできないであろう。」

といういうマインドは、西欧的だが、それは、『鎖国―日本の悲劇』で、和辻哲郎をして、敗北によって,情けない姿をさらけ出した日本民族の,

科学的精神の欠如,

を嘆かせた「世界的視圏」,特に「視圏」の射程の短さを撃つ言葉につながる気がする。

そのマインドは、ギリシャの、ギリシャ語の「テオリア」、

知識のための知識欲、

から始まる。「実際的に有用な目標をもたない純粋な知識欲」は、

あるものから距離を保つ、

ということが本質的な特徴である。

「あるものから距離を保つということは、世界の中における習慣的な生活から遠ざかったことを意味する。そのように遠ざかって距離を保つことがなければ、いかなる世界解明も存在しない。(中略)そこに、人がある態度をとって対するものの対象化の可能性が存する。」

そして、

存在するものの全体を包括的に把握する者を、

哲学者、

と呼ぶ。

「事物がそのようにあって別のようにあるのではないということに驚異することができる」

それは、

「可視的な世界の驚くべき事実、太陽の規則的な運行、月の盈虧(えいき)と星の運動、一般に天界、そして地上で発生し消滅しながら生きている一切のもの」

に向けられる。ここには今日言う「歴史」はない。経ていく時間は「宇宙」(コスモス)の循環の一つでしかない。アリストテレスは、

「『世界』は、コスモスと同時にウーラノスをも意味する。そのさいウーラノスはもっと外側の天球の包括的なものを、コスモスは包括されたもののそれ自身において組織されたものを表す。両者はあわせて、世界秩序としての世界、宇宙の秩序づけられた支配と管理を表す。」

という世界を描く。ギリシャ人にとって、

死すべき人間に対する永遠の天界、

は、人とは別の世界であり、そこには、

世界史、

は存在しない。しかし、

「ユダヤ教とキリスト教が超世界的な創造者たる神に対する人間の関係に問題を集中してコスモスを軽んずる用になって以来、世界は世界史になってしまった。」

のであり、

「人間があらゆる被造物のなかで神の唯一無類の似姿であり、あるいは選ばれた民として神と契約を結んでいるものとすれば、人間は世界においてある特別な地位――人間のみを神的なものと同類のものたらしめ、『神の死』の後に地上の創造主にするような地位――を占めることになる。」

つまり、「世界」は、ギリシャ的「コスモス」から、

「神によって意欲された創造から、人間のための人間世界になる。」

という、「救済」のための「世界史」になる。この、

救済史、

つまり、

神的な始りから神的な終わり、

を、

約束からその実現(最後の審判)への前進、

とみなしたことが、

ヘーゲルの世界精神の現実化、

という、

キリスト教的信仰の世俗化をもたらし、それが、マルクスの、

史的唯物論、

という終末論の世俗化を理論化に至らしめた。しかし、こうした「何かを目指している歴史」という考え方、

歴史主義、

は根深く、

「もろもろの理念、神、道徳律、理性の権威、進歩、支配者の幸福、文化、文明などがその建設的な力を失い、無価値」

になったとし、

「人間は歴史的に制約されているのみならず、根本的に歴史的に存在する――つまり人間は徹頭徹尾時間的な存在だからである。歴史的な意識と伝達の可能性は、ハイデッゲルによれば、人間的実存――それの時間性がもっとも決定的に表現されるのは、それが死を予想して実在している、あるいは『終わりに向かう存在』である、という事実においてである――の総体的かつ徹底的な歴史性に存する。」

とするハイデッガーですら、

「存在そのものは『存在の生起』であり、その真理は真理の生起であり、歴史的な出現と隠伏はそれぞれ、そのさどの決定的な瞬間に変化する『現前』と『不在』である」

と、言ってみれば、時間軸を短くし、終末を、「存在の運命」の瞬間に貶めただけのように見える。だからこそ、ヘーゲルとハイデッガーとは、「異なるものではない」と、著者は言ったのであろう。

「両者は精神史的歴史主義と存在史的歴史主義の同じく近代的な思い上がりの中で動いている。」

と。

「世界は、われわれが『世界の中に在る』というそのつどの歴史的な事実を超えて、存続する。世界と世界史は互いに等置されているのでもなければ、おのずから生きている人間がただちに歴史的実存なのでもない。哲学が昔から要求してきたように、全体において存在するものを単に言葉の上だけでなく真に考察する者は、世界を世界歴史で狭めようとすれば、かならずその主題を取りはずすことになるであろう。ヘーゲルの形而上学的歴史主義、マルクスの歴史的唯物主義、ハイデッゲルの『存在の定め』(中略)はいずれも、人間から出発するがゆえに、世界の理解のためにはひとしく不十分である。」

とし、こう言う。

「おのずから存在するコスモスの全体においては、すべての人間的な言説、すべての饒舌は、自然をつらぬいている無言の沈黙の音のない声を中断するものにすぎない。」

と。ふと、今日の宇宙論においても、同じく「人間から出発する」発想の、「人間原理」http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3-6.htm#%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%8E%9F%E7%90%86理論を思い出したように、

「世界を世界史と、そして世界史を人間の作ったものと、取りちがえる」

のは、いまも生きている。

著者は、最後に、

「われわれが知識を有する以前には、山や川が単純に山や川であり、それ以上の何物でもないように見える。われわれがある程度の洞察を獲得すると、山や川は山や川以上の何物でもないことをやめる。……しかしわれわれが完全な洞察に到達すると、山はふたたび単純に山になり、川はふたたび単純にかわになる。」

という禅語を引く。それは、

このようにあって別のようにない、

という世界の承認へとたどり着く。道元の、

而今(じこん)の山水は古仏の道どう現成(げんじょう)なり。ともに法位住じゅうして、究尽の功徳を成ぜり、

という

今、眼前の山水の自然の姿はそのまま仏の悟りであり、それ以上の教説はあり得ない、

と通ずるが、対象化するプロセスを経ていないものは、修行前の「山と川」しか見ることはできないのである。その差は大きい。それは痛烈な警告である。

参考文献;
K・レーヴィット『世界と世界史』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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