2019年12月08日

何れ菖蒲


「何れ菖蒲」は、

何れ菖蒲か杜若、
菖蒲と杜若、

とも言う。

いずれあやめかかきつばた、

とは、

どちらもすぐれていて、選択に迷うことのたとえ、

とされるが、この諺の出典は、平安時代末期に『源三位(げんざんみ)』と称された源頼政の、

五月雨に沢べのまこも水たえていずれあやめと引きぞわづらふ、

という歌に由来する。それは、

「頼政がぬえ退治の賞として菖蒲前(あやめのまえ)という美女を賜るとき、十二人の美女の中から見つけ出すようにいわれて詠んだとされる」

という『太平記』の話に基づく(故事ことわざ辞典)。

アヤメ.jpg



「あやめ」は、

菖蒲、

と当てる。「菖蒲」は、

ショウブ、

と訓ませると、「あやめ」は、

しょうぶの古称、

である。これは、あやめとは、葉の形が似るだけでまったくの別種(サトイモ科ショウブ属)。五月の節句に用いる「しょうぶ湯」の「ショウブ」。武芸の上達を願う「尚武」、戦に勝つ「勝武」に通じることかららしい。これは、

「晩秋から冬期にかけて地上部が枯れてから、採取した根茎のひげ根を除いて水洗いし、日干しにしたものが生薬の「ショウブコン(菖蒲根)」です。ショウブコンは特有の芳香があり、味は苦くやや風味がある精油を含みます。その水浸剤は皮膚真菌に対し有効であると言われています。また、採取後1年以上経過したものの煎剤は芳香性健胃薬、去痰、止瀉薬、腹痛、下痢、てんかんに用いられます」

とあるhttps://www.pharm.or.jp/flowers/post_7.htmlように、薬草で、

和名は同属のセキショウ(漢名・石菖)の音読みで、古く誤って菖蒲に当てられたらしい(仝上)。本来、「菖」(ショウ)は、

「会意兼形声。『艸+音符昌(ショウ あざやか、さかん)』で、勢いがさかんで、あざやかに花咲く植物」

の意で、「菖蒲」の意。「ショウブ」は、「白菖」という。「蒲」(漢音ホ、呉音ブ)は、

「会意兼形声。『艸+音符浦(みずぎわ、水際に迫る)』」

で、「がま」の意。「あやめ」は、だから、「ショウブ」の古称として、

文目草の義、

とし(大言海)、

「和歌に、あやめ草 文目(あやめ)も知らぬ、など、序として詠まる、葉に体縦理(たてすぢ)幷行せり。アヤメとのみ云ふは、下略なり」

とする。しかし、岩波古語辞典は、

菖蒲草、

と当て、

「漢女(あやめ)の姿のたおやかさに似る花の意。文目草の意と見るのは誤り」

とし、

「平安時代の歌では、『あやめも知らぬ』『あやなき身』の序詞として使われ、また、『刈り』と同音の『仮り』、『根』と同音を持つ『ねたし』などを導く」

とする。いずれとも決めがたいが、「ショウブ」の別名として、

「端午の節句の軒に並べることに因んだノキアヤメ(軒菖蒲)、古名のアヤメグサ(菖蒲草)、オニゼキショウ(鬼石菖)などがあります。(中略)中国名は白菖蒲といいます。」

とあるhttps://www.pharm.or.jp/flowers/post_7.htmlので、

菖蒲草、

と当てる方に与しておく。

ショウブの花.jpg

(ショウブの花 https://www.pharm.or.jp/flowers/post_7.htmlより)


同じ「菖蒲」を当てるためややこしいが、「あやめ」は、アヤメ科アヤメ属。「ショウブ」と区別するため、

はなあやめ、

と呼んだ。「あやめ」が、

はなあやめ、

の意と、

ショウブの古名、

の意と重なるため、どちらの語源を言っているのかが、曖昧になる。たとえば、「ショウブ」は、

「葉はハナショウブに似ており、左右から扁平で中央脈が高く、基部は左右に抱き合うように2列に並び、芳香がある」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%83%96
「葉にはアヤメのような扁平な剣状(単面葉)で、中央にはっきりした中肋(ちゅうろく)があります。」https://www.pharm.or.jp/flowers/post_7.html

という葉の特徴から、

葉脈に着目して、その文目の義(名言通・古今要覧稿・大言海)、
アヤベ(漢部)の輸入した草だからか(日本古語大辞典=松岡静雄)、
アヤメ(漢女)草の義(和訓栞)、

は、「ショウブ」(古名あやめ)を言っていると思われ、

アヤはあざやか、メは見える意。他の草より甚だうるわしく鮮やかに見える(日本釈名)、

は、どちらともとれる。「あやはあざやかなり、めはみゆるなり、たの草よりあざやかにみゆるなり」の記述からすると、花の意のようである。

菖蒲の冠をした女が蛇になったという天竺の伝説から、蛇の異名であるアヤメを花の意とする(古今集注)、
アハヤと思いめでる花の意から(本朝辞源=宇田甘冥)、

は、「はなあやめ」のことを言っているらしい。決め手はないが、しかし、

花弁の基部に筋目模様があることから、「文目(あやめ)」の意、

とされるのが自然なのではないか。

肥後系ハナショウブ.jpg


ハナショウブ.jpg



日本語の語源は、例によって、

「紫または白色の上品な様子をアデヤカナルミエ(貴やかなる見え)といった。見え[m(i)e]が縮約されてアヤメになった」

とするのは、いかがなものだろう。

さらにややこしいのは、

はなしょうぶ(花菖蒲)、

と呼ばれている、水辺に咲く植物。これも、アヤメ科アヤメ属。「ハナショウブ(花菖蒲)」は、

葉が菖蒲に似ていて花を咲かせるから、

そう呼ぶ。アヤメ類の総称としてハナショウブをアヤメと呼ぶことも多いのも、アヤメ科アヤメ属だからまちがいではないものの、輪をかけてややこしい。ハナショウブは、

ノハナショウブ、

の園芸種で、花の色は、白、桃、紫、青、黄など多数あり、絞りや覆輪などとの組み合わせを含めると5,000種類あるといわれている。

その系統を大別するとhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%83%96

品種数が豊富な江戸系、
室内鑑賞向きに発展してきた伊勢系と肥後系、
原種の特徴を強く残す長井古種、

の4系統に分類でき、他にも海外、特にアメリカでも育種が進んでいる外国系がある(仝上)、とか。

「カキツバタ」は、

燕子花、
杜若、

と当て、やはりアヤメ科アヤメ属である。借りた漢字、「燕子花」はキンポウゲ科ヒエンソウ属、「杜若」はツユクサ科のヤブミョウガを指す。ヤブミョウガは漢名(「とじゃく」と読む)であったが、カキツバタと混同されたものらしい(仝上、語源由来辞典、日本語源大辞典)。

ふるく奈良時代は、

かきつはた、

と清音であった、とされる(岩波古語辞典)

「カキツバタ」は、

書付花(掻付花 かきつけばな)の変化したもので、昔は、その汁で布を染めたところからいう、

とするのが通説らしい。「汁を布に下書きするのに使った」(日本語源広辞典)ところからきているが、「音変化が考えにくい」(語源由来辞典、日本語源大辞典)と異論もあるが。

カキツバタ.jpg



万葉集は、

垣津幡、

と当てている。

垣下に咲く花(東雅)、
カキツバタ(垣端)の義(本朝辞源=宇田甘冥)、

も的外れではないかもしれない。

「カキツバタ」は、江戸時代の前半にはすでに多くの品種が成立していたが、江戸時代後半にはハナショウブが非常に発展して、カキツバタはあまり注目されなくなったらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%90%E3%82%BF

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2019年12月07日

さるまた


「さるまた」は、もう死語かもしれない。たしか、松本零士の漫画(『男おいどん』だったか)に「サルマタケ」というのが出てきたが、あれは70年代、それ以降聞かない。

「さるまた」は、

猿股、
申又、

と当てる。広辞苑には、

男子が用いる腰や股をおおうももひき。さるももひき、西洋褌、

とあるが、

ぱっち、

とも呼ぶ。僕の記憶では、漫画で、「サルマタ」と呼んでいたのは、

トランクス型の下着のパンツ、

であった。どうやら、「さるまた」は、

短い股引、

を指していたものらしい。

ユニオンスーツ.jpg

(1902年に作られたとされる、ユニオンスーツのカタログ https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1805/22/news136.htmlより)

「19世紀頃の欧米の主な下着であったユニオンスーツから派生し、日本に導入された。大正時代以降、褌と並ぶ男性用下着であった。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%BF%E8%82%A1

「ユニオンスーツ」は、上下がセットになった下着で、は腕や足までカバーできるものもあり、どちらかというと全身タイツのような外見であったhttps://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1805/22/news136.htmlらしい。胸から股間のあたりまでボタンが並んでおり、前部分が開閉できた(仝上)、とある。さらに、

「一体型の下着であったユニオンスーツが1910年代に上下に分離化され、第一次世界大戦前頃(1914年)よりショートパンツ化されたことで、日本に出現したのは大正期以降ではないかと推測される」

ともある(仝上)。とすると、「さるまた」は、近代以降のものということになる。しかし、「さるまた」は、

猿股引(さるももひき)、

ともある。大言海は、「さるまた」は、

猿股引の、股を股(また)と読みたるなり、

とする。江戸語大辞典も、「猿股引」は、

膝下一、二寸の長さの股引、

とある。とすると、「股引」は、

猿股引の略、

ともある(広辞苑)ので、「さるまた」は、

股引(ももひき)、

モモヒキ(股引).gif

(モモヒキ(股引) http://www.steteco.com/archives/history.htmlより)


と重なる。「股引」は、

両の股を通してはく狭い筒状の下ばき、

で、

ももはばき(股脛巾)、

ともいい大言海)、

股着(またはき)の転なるべし、脚絆に対して、股まではく、

とある(仝上)。脚絆は、脛に着け、小幅の長い布を巻き付けて紐で留める。

こうみると、確かに「さるまた」は、西洋由来かもしれないが、その土壌になる「股引」があったことになる。しかし、その「股引」自体、

ポルトガルから伝わったカルサオ(カルサンとも)が原形、

とされるが。

「さるまた」は、猿股引の略とする以外、

生地は薄茶色のメリヤス地、

で、そのため「さるまた」の「さる」は、

サラシ(晒)のサル(衣食住語源辞典=吉田金彦)、

という説もあるが、

京都や山梨県北都留郡では下部の短い猿股をキャルマタ、ケエロマタ(蛙股)といっており、それがサルマタと聞こえた(おしゃれ語源抄=坂部甲次郎)、
マタシャレという袴の一種を逆さに言ったという説(世界大百科事典)、

等々という説もある(日本語源大辞典)。しかし、股引からきて、猿股へつながった流れから見ると、

猿股引の略、

でいいのではあるまいか。「股引」は、

「江戸時代,職人がはんてん(半纒),腹掛けと組み合わせて仕事着とした。紺木綿の無地に浅葱(あさぎ)木綿の裏をつけ袷(あわせ)仕立てにしたが,夏用には白木綿や縦縞の単(ひとえ)もあった。すねにぴったりと細身に作るのを〈いなせ〉(粋)とし,極端なものは竹の皮をあてて踵(かかと)をすべらせなければはけないほど細く仕立てた。後ろで打ち合わせてつけ紐で結ぶのが特徴で,腰の屈伸が自由で機能的な仕事着である」

とあり(世界大百科事典)、さらに、

「脚の膨らみにあわせるように、後ろに曲線裁ちの襠(まち)が入っている。腰を包む引回しに特徴があり、裁着(たっつけ)、もんぺなどと構成を異にする。」

ともある(仝上)。

「江戸時代には武家、町人ともこれを用い、江戸末期になると、半纏(はんてん)、腹掛け、ももひき姿は職人の制服のようになり、昭和初期まで続いた。ももひきの生地(きじ)は盲縞(めくらじま)の木綿、商人は千草色、浅葱(あさぎ)色などで、武家用のは小紋柄(がら)であった。」

ともある(日本大百科全書)。

足代の不二.jpg

(北斎『富獄百景』三編 足代の不二 江戸時代の職人の股引姿 http://www.steteco.com/archives/history.htmlより)


「股引」は、

股脛巾(ももはばき)の変化した語、

とされる(貞丈雑記)が、上述したように、安土桃山時代にポルトガルから伝わったカルサオ(カルサンとも)と呼ばれる衣服が原形とされる。これが日本の伝統的ボトムスであり、下着としても使われた。腰から踝まで、やや密着して覆い、腰の部分は紐で締めるようになっているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A1%E5%BC%95。江戸時代には鯉口シャツ(ダボシャツとも)や、「どんぶり」と呼ばれる腹掛けと共に職人の作業服となり、農作業[や山仕事などにも広く使われた(仝上)。

この変形に、

半股引(はんだこ)、

と称する、膝上までのハーフパンツに似た形のものがある。祭りなどで着るものである。

半ダコ.jpg



これが、

ステテコ、

の原型であるが、「ステテコ」は、

パッチ、

と呼ばれるものとつながる。「パッチ」という言葉は、18世紀頃には日本語として定着していた。

「京阪と江戸ではその呼び方に違いがある。京阪では素材を問わず足首まである丈の長いものをパッチ、旅行に用いる膝下ぐらいのものをモモヒキといい、江戸では(宝暦ごろから流行し始め)チリメン絹でできたものをパッチ、木綿ものは長さにかかわらずモモヒキと呼んだ。短いモモヒキは半モモヒキ(=半タコ)、または猿股引(さるももひき)と呼んで区別する事もある。パッチは一般にゆるやかに仕立てられ、モモヒキは細めに作られた。」

とあるhttp://www.steteco.com/archives/history.html。また、

「筏師(いかだし)の間では極端に細いももひきが好まれ、これを川並(かわなみ)といった。はくときに竹または紙をくるぶしにあててはくほどの細さであった。これに対して五分だるみ、一寸だるみのものもあり、これを象ももひきといった。火消(ひけし)の者は江戸では釘(くぎ)抜きつなぎ、上方(かみがた)ではだんだら模様を用いた。」

ともある(日本大百科全書)。

つまり、「股引」から、「パッチ」「ステテコ」「半タコ」と経て、「さるまた」「トランクス」と変じてきたことになり、原形は、「股引」ということになる。その原型は、カルサオ(カルサン)である。

カルサオ(カルサン).jpg

(カルサオ(カルサンとも) https://pt.wikipedia.org/wiki/Cal%C3%A7asより)


「ステテコ」は、着物や袴の下に穿く下着として、明治以降の日本の近代化に伴い全国的に普及したが、

1880年頃、初代(本当は3代目)三遊亭圓遊が「捨ててこ、捨ててこ」と言いながら、着物の裾をまくり踊る芸「ステテコ踊り」の際に着物の裾から見えていた下着であったためとする説、

着用時に下に穿いた下着の丈が長く、裾から下が邪魔であったため裾から下を捨ててしまえでステテコと呼ばれるようになった説、

等々に語源があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%86%E3%82%B3、といわれているが、圓遊のはいていたのは、「パッチ」らしく、ステテコ踊りなので、

ステテコパッチ、

と呼ばれ、略して、

ステテコ、

になった(上方語源辞典=前田勇)、ともある。こちらのほうだろう。

「ぱっち」は、朝鮮語由来とされ、

朝鮮語ba-jiは男性がはくズボン状の服、

とある(日本語源大辞典)。

ぱっち.jpg

(パッチ 「金々先生栄華夢」日本語源大辞典より)


参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
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書評;
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2019年12月06日

皮膜の広がり


大岡昇平他編『存在の探求(下)(全集現代文学の発見第8巻)』を読む。

存在の探求下.jpg


本書は、

現代文学の発見,

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し,テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、二巻に分かれた、

存在の探求,

と題された後半である。収録されているのは、

石上玄一郎『自殺案内者』
野間宏『暗い絵』
島尾敏雄『摩天楼』『夢の中での日常』
坂口安吾『白痴』『堕落論』
大岡昇平『野火』
安部公房『S・カルマ氏の犯罪―壁』
石川淳『無盡燈』
三好十郎『胎内』
吉田一穂「極の誘い」「穀物と葡萄の祝祭」「野生の幻影」
花田清輝「沙漠について」「楕円幻想」

である。

『自殺案内者』は、僕には作意が過ぎ、それが透けて見えるようで、とても好きになれない。小説は虚構だが、その結構が作為的では、ちょっとついていけない、と思った。あくまで憶説だが。これを「ゆたかな虚構」という評価もありえるが、僕は採らない。戦争文学の金字塔とされる『野火』は、敗走する日本兵の無残さを余さず描く。230万の戦死者の六割とか七割が餓死者といわれる、戦争指導者そのものの失策の附けを、兵卒が荷わされた惨状を、象徴的に描くのは、人肉を食うというシーンだ。捕虜となった主人公は、

「彼らを殺したけれど、喰べなかった。殺したのば、戦争とか神とか偶然とか、私以外の力の結果であるが、たしかに私の意志で喰べなかった。」

と言う。そう言わしめたのは、この国の指導者である。十分の補給も確保できないまま、机上で戦線を拡大した連中の無為無策、無能ぶりを、後に、大岡は、『レイテ戦記』でその実態を詳らかにした。

ただ、僕は、この小説の結構を、狂人日記としたのは不満である。「三七 狂人日記」以降は、蛇足ではないか。もちろん、時代の制約はある、と認めたうえで、なお小説の結構としては、斜めに逃げず、真正面から描くべきではなかったかと、惜しむ。

花田清輝の『復興期の精神』からとられた、二編は、戦争中に書かれたという点でも、出色である。精神は自在に、虚実の皮膜の隙間を泳ぎ回っている気配である。すでに、戦後の活躍の胚珠を抱えている。

島尾敏雄の『夢の中での日常』の、

「私の頭にはうすいカルシウム煎餅のような大きな瘡が一面にはびこっていた。私はぞっとして、頭の血が一ぺんにどこか中心の方に冷却して引込んで行くようないやな感触に襲われた。私はその瘡をはがしてみた。すると簡単にはがれた。しかしその後で急激に矢もたてもたまらないかゆさに落込んだ。私は我慢がならずにもうでたらめにきかきむしった。始めのうちは陶酔したい程気持がよかった。しかしすぐ猛烈なかゆさがやって来た。そしてそれは頭だけではなく、全身にぶーっと吹き上って来るようなかゆさであった。それは止めようがなかった。身体は氷の中につかっていた首から上を、理髪の後のあの生ぬるい髪洗いのように、なめくじに首筋を這い廻られるいやな感触であった。手を休めると、きのこのように瘡が生えて来た。私は人間を放棄するのではないかという変な気持の中で、頭の瘡をかきむしった。すると同時に強烈な腹痛が起こった。それは腹の中に石ころをいっぱいつめ込まれた狼のように、ごろごろした感じで、まともに歩けそうもない。私は思い切って右手を胃袋の中につっ込んだ。そして左手で頭をぼりぼりひっかきながら、右手でぐいぐい胃の中のものをえぐりだそうとした。私は胃の底に核のようなものが頑強に密着しているのを右手に感じた。それでそれを一所懸命に引っぱった。すると何とした事だ、その核を頂点にして、私の肉体がずるずると引き上げられてきたのだ。私はもう、やけくそで引っぱり続けた。そしてその揚句に私は足袋を裏返しにするように、私自身の身体が裏返しになってしまったことを感じた。頭のかゆさも腹痛もなくなっていた。ただ私の外観はいかのようにのっぺり、透き通って見えた。そして私は、さらさらと清い流れの中に沈んでいることを知った。」

という体感覚と、一瞬で裏返る自分という、我々のありようの別の貌を意表を突く形で現出してみせた。ここには、作家が、夢の文脈をなぞりながら、ただ、「私」の体感覚に一体化しているのではなく、その「私」をも、突き放す視点を持っている証である。それは、安部公房『S・カルマ氏の犯罪―壁』の、

「不意に舞台の両袖で気負い立った足音がしました。どこから現れたのか、グリーンの服の大男たちでした。立直るまもなく二人は左右から襲いかかり、力いっぱいぼくの背中を突きとばしました。ぼくはスクリーンの中に顔からつっこんでいきました。
 と、ぼくは―というよりももはや彼はと言わなければならないでしょう―そのままスクリーンをつきぬけて画面の中にはいりこみ、部屋の中に倒れているのでした。」

と、映画のスクリーンの中に入り込むシーンとつながる。この時、作家は、「ぼく」も「彼」も、等間隔で眺める視点で、ずっと描いてきていることが、ここでわかるのである。それは、作家の、虚実皮膜の、皮膜の拡大と言ってもいい。そして、ひっくり返った「私」を見る位置と、スクリーンを通り抜けた「彼」を見る位置とは、ほぼ同じである。

解説で、埴谷雄高が、

「この方法的な領域において私達はまだ極めて僅かな歩幅の踏み出ししか行っていないのである。(中略)仮象の体操法とでも名づけるべき領域において、より僅かな踏み出ししかおこない得ないことに比例するかの如く、さて、さらに視点を遠くに投げて、存在の変容といった課題へ目を移せば、まことに寥々たる仕事しか見当たらないのである。」

と嘆いているのは、なにも、島尾や安部の試みた、変身や時空移動を指しているのではない。それは、作家の前の皮膜の幅の拡大である。かつて、

「世界像」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/456849243.html

「メタ小説」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/457109903.html

で触れたように、鴎外は、

小説を書くことを書く、

ことによって、格段に皮膜の世界を広げた。そのことを言及した石川淳は『無盡燈』で、

「そこで、弓子の心願の正體を突きとめにかかるとすれば、わたしはわたしといふ質點に於て傾斜して來たところの、ひとりの女の心情曲線を微分して行くことになるだろう。そして、わたしが無藝の一つおぼえにもつている思考の方法は散文よりほかは無いのだから、この微分の操作をつづけて行つた揚句はしぜん小説の形式に出來上つてしまふかもしれないだらう。」

と書き、それが『無盡燈』という作品であるかのごとき体裁をとっている。むろん、それは、

「どこまで行つても地上のくされ縁がたたき切れずに、行つたさきから振出しに跳ねかへつて來るやうなぐあひに、所詮作者の生活に還元されてしまふことを見越しながら、書かれるであらう作品としいふものはむ、わたしの小説観にとつてぞつとしないしろものである。」

と書くように、作家自身を「私」とするような、皮膜が虚ではなく、実によりそうような、狭苦しい作品世界でなく、このために設えられた世界であることは、当然である。

そして、この各自分を書く位置と、ひっくり返った「私」、スクリーンを通り抜けた「彼」を見る位置とは、重なるのである。皮膜の奥行きとは、このことである。

参考文献;
大岡昇平他編『存在の探求(下)(全集現代文学の発見第8巻)』(學藝書林)

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2019年12月05日

いふ


「いふ(う)」は、

言う、
云う、
謂う、
曰う、
道う、

等々と当てる。「言」(漢音ゲン、呉音ゴン)は、

「会意。『辛(きれめをつける刃物)+口』で、口をふさいで、もぐもぐいうことを音(オン)・諳(アン)といい、はっきりかどめをつけて発音することを言という」

とある(漢字源)。漢字は、使い分けられていて、

「言」「謂」の二字は、義略々同じ。
「言」は、心に思ふ所を、口に述ぶるなり。言論・言説などと熟す、
「謂」は、報也、告也と註す。人に対して言ふなり。「子謂顔淵曰」の如し。又、人に対して言ふにあらずして、其の人を評して言ふにも用ふ。「子謂子賎」の如し。又、謂は、おもへらくとも訓む。心に思ふことは、必ず口にあらはるればなり、
「曰」「云」の二字は、義略々同じ。正字通にも「云與曰、音別義同、凡経史、曰通作云」とあり。但し、云は、意稍重し。云の字、文の終におきて誰氏云との如く結ぶことあり。これは誰が此の如く云へりとの意なり。かかる所に、曰の字を用ふることなし、
「道」は言と同じ、ただ言は多く実用にして重く、道は虚用にして軽し、孟子に、「道性善、言必称堯舜」また「非先王之法言、不敢道」の如し、

と明確である(字源)。

「言ふ」は、

必ずしも伝達を目的とはせず言葉や音声を発する表出作用をいう、

とあるが(広辞苑)、

「『言う』は『独り言を言う』『言うに言われない』のように、相手の有無にかかわらず言葉を口にする意で用いるほかに、『日本という国』『こういうようにやればうまく行くというわけだ』など引用的表現にまで及ぶ。」

と幅広く使われる。

「話す」http://ppnetwork.seesaa.net/article/448588987.html?1490905148で、言葉を口に出す,という言い回しの,「言う」「話す」「申す」「述ぶ」「宣る」「告ぐ」についてで触れているが、岩波古語辞典は「言ふ」を、

「声を出し,言葉を口にする意。類義語カタリ(語)は,事件の成り行きを始めから終わりまで順序立てて話す意。ノリ(告)は,タブーに触れることを公然と口にすることで,占いの結果や名などについて用いる。ツグ(告)は,中に人を置いて言う語。マヲシ(申)は,支配者に向かって実情を打ち明ける意」

とし、「めし」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471966862.html?1575318322触れたように、「めし」の古名「いい(ひ)」(飯)は、

イフ(言ふ)と同根、

であり「言ふ」は、

口に出し、言葉にする意、

だけではなく、さらに、

食(い)ふ、

とも同根で、

口にする意でもある(仝上)。日本語源広辞典は、「言う」は,

「『イ(息)+プ(唇音)』です。イ+フゥ,イフ,イウとなった語」

とし,『日本語の深層』では,

「『イ』音の最初の動詞は『イ(生)ク』(現代語の『生きる』)です。名詞『イキ(息)』と同根(同じ語源)とされ,『イケ花』『イケ簀』などと姻戚関係があります。(中略)おそらく/i/音が,…自然界で現象が『モノ』として発現する瞬間に関わる大事な意味を持っているので,この『イ』を語頭にもつやまとことばがたくさんあるのでしょう。『イノチ(命=息の勢い)』『イノリ(斎告り)』などにも,また「い(言)ふ」にもかかわって意味を持ちます。」

とあり,あるいは,息ではなく,「言葉」が発語された瞬間の重要性をそこに込めているのかもしれない。

「いま」http://ppnetwork.seesaa.net/article/442558118.htmlで触れたように,「イ」は,

「『イ』は口を横に引いて発音し,舌の位置がほかの四つの母音よりも相対的に前にくるので,一番鋭く響きますし,時間的にも口の緊張が長く続かない,自然に短い音なので,『イマ』という『瞬間』を表現できるのです。」

とある(仝上)。「いう」の「い」の意味は深い。

ちなみに、「息」は、

生くと同根(岩波古語辞典・日本釈名)、
イはイデ(出)、キはヒキ(引)から(和句解)、
イキ(生気)の義(言元梯・日本語原学=林甕臣)、
イは気息を意味する原語(日本古語大辞典=松岡静雄)、

と、生きると関わり、「生く」は、

息と同根(岩波古語辞典)
イキ(息)の活用(大言海・国語溯原=大矢徹・日本語源=賀茂百樹)、
イキク(息来)の義(日本語原学=林甕臣)、

等々、「息」「生き」とつながる。

食ふ、
言ふ、
イヒ(飯)、

とつながるのは当然のように思える。なお、

「いきる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/465742517.html
「かたる」http://ppnetwork.seesaa.net/article/448623452.html
「はなす」http://ppnetwork.seesaa.net/article/448588987.html?1490905148

については、それぞれ触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
熊倉千之『日本語の深層』(筑摩書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年12月04日

醤油


「醤油」と「味噌」は深くつながる。「味噌」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471703618.htmlについては、すでに触れた。

「醤油」の成語の初見は、慶長二年(1597)の『易林節用集』とされる(たべもの語源辞典)。そこで、

「漿醤」に「シヤウユ」と読み仮名が振られている、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9。比較的新しい。

「醤」(漢音ショウ、呉音ソウ)は、

「会意兼形声。『酉+音符将(細長い)』。細長く垂れる、どろどろした汁」

で、

肉を塩・麹・酒で漬けたもの。ししびしお、

の意と、

ひしお。米・麦・豆などを塩と混ぜて発酵させたもの、

の二つの意味がある。前者は、「醢」(カイ しおから)、後者は、「漿」(ショウ 細長く意とを引いて垂れる液)と類似である(漢字源)。

「醤は原料に応じさらに細分される。その際、原料となる主な食品が肉であるものは肉醤、魚のものは魚醤、果実や草、海草のものは草醤、そして穀物のものは穀醤である。なお、現代の日本での味噌は、大豆は穀物の一種なので穀醤に該当する」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4、味噌から発展した液状のものが現在の日本の醤油になる。

「醤は、シシビシオである。シシは肉、だから肉の塩漬のことである。ヒシオのヒは隔つる義で、醸して久しくおくと塩と隔つのでその名とする説、また、浸塩(ひたししお)の意との説もある。またミソともよむ。漿(コンツ)と同じである。」

とある(たべもの語源辞典)。「ひしお(醤・醢)」とは、

なめみそ、

である。

味噌は鎌倉時代の精進料理の伝来のなかで大きな影響を及ぼし,寺院でのみそ作りが盛んになったという。当時は調味料としてよりも『なめみそ』扱いをされたことが『徒然草』にも記されている」

とあるhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/47/4/47_233/_pdf。「ひしお」は、

大豆に小麦でつくった麹と食塩水を加えて醸造したもの、

の意だが(日本語源大辞典)、

「醤の歴史は紀元前8世紀頃の古代中国に遡る。醤の文字は周王朝の『周礼』という文献にも記載されている。後の紀元前5世紀頃の『論語』にも孔子が醤を用いる食習慣を持っていたことが記されている。初期の醤は現代における塩辛に近いものだったと考えられている。
日本では、縄文時代後期遺跡から弥生時代中期にかけての住居跡から、獣肉・魚・貝類をはじめとする食材が、塩蔵と自然発酵によって醤と同様の状態となった遺物として発掘されている。5世紀頃の黒豆を用いた醤の作り方が、現存する中国最古の農業書『斉民要術』の中に詳細に述べられており、醤の作り方が同時期に日本にも伝来したと考えられている」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4、これが「未醤」(みさう・みしゃう)と書いた味噌につながる。

「醤油は、醤からしみだし、絞り出した油(液)」

の意(たべもの語源辞典)の意であるが、室町時代に醤は「漿醤」となって、それに「シヤウユ」との訓読みが当てられた。現代の日本の醤油の原型は、味噌の液体部分だけを絞ったたまり醤油で、江戸時代に現代の醤油の製法が確立したhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4

「日本では、塩を海水からとったので、塩がすぐ溶けてしまう。そこで塩の保存法として食料品と塩とを合わせた。草醤(漬物になる)・魚醤(肉醤、塩辛になる)、そして穀醤(味噌になる)があり、奈良時代に中国から唐醤(からびしお)が入り朝鮮から高麗醤(こまびしお)が入ってくる」

ことで、

「701年(大宝元年)の大宝律令に官職名として『主醤』(ひしおのつかさ)という記載が現れる。なおこの官職は、宮中の食事を取り扱う大膳職にて醤を専門に扱う一部署であった。主醤が扱ったものには、当時『未醤』(みさう・みしゃう)と書いた(現代の)味噌も含まれていた。このことから味噌も醤の仲間とされていたことがわかる。
醤の日本語の訓読みである『ひしお』の用例は平安時代の903年(延喜3年)に遡る。同年の『和名抄』(日本最古の辞書)において、醤の和名に『比之保』(ひしほ)が当てられている。また927年(延長5年)に公布された『延喜式』には、醤の醸造例が記され、『京の東市に醤を売る店51軒、西市に未醤を売る店32軒』との旨の記述もある。」

ということになるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4

「多聞院日記」の1576年の記事では、

「固形分と液汁分が未分離な唐味噌から液を搾り出し唐味噌汁としていたとあり、これが現代で言う醤油に相当する」

と考えられる(仝上)。つまり、

「味噌ができると、その汁を『たれみそ』と称して用いた。『たまりみそ』とも『うすだれ』ともいった。醤油の現れる前は、たれみそが用いられた」

つまり、「たまり醤油」である。初見は、慶長八年(1603)の『日葡辞書』で、

「Tamari. Miso(味噌)から取る、非常においしい液体で、食物の調理に用いられるもの」

との記述があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9。また「醤油」の別名とされている「スタテ(簀立)」の記述も同書にあり、天文十七年(1548)の古辞書『運歩色葉集』にも「簀立 スタテ 味噌汁立簀取之也」と記されている(仝上)。「たまり」の発祥は、

「後堀河天皇の安貞二年(1228)に紀伊国由良、興国寺の開山になった覚心(法燈国師)が宋から径山寺(きんざんじ)味噌の製法を日本に伝えた。そして諸国行脚の途中、和歌山の湯浅の水がよいので、ここで味噌をつくり、その槽底に沈殿した液がたべものを煮るのに適していることを発見した。後、工夫して文暦元年(1234)に醤油を発明した」

と伝える(たべもの語源辞典)、とある。同趣は、

「醤油は中国からもたらされた穀醤,宋の時代に伝わった径山寺みそ,日明貿易で中国から輸入されたという説があるが,紀州湯浅での醤油は径山寺味噌から発しているという説が有力である。この説は三世紀に宋で修業をおさめた僧(覚心)が径山寺味噌をひろめ,その製作工程中の上澄み液や樽の底にたまった液を集めて調味料として利用したというものである。」

があるhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/47/4/47_233/_pdf。覚心が中国で覚えた径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を、

「紀州湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」に似た醤油の原型」

ともいうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9。しかし、その他に、

「伝承によれば13世紀頃、南宋鎮江(現中国江蘇省鎮江市)の金山寺で作られていた、刻んだ野菜を味噌につけ込む金山寺味噌の製法を、紀州(和歌山県)の由良興国寺の開祖・法燈円明国師(ほっとうえんみょうこくし)が日本に伝え、湯浅周辺で金山寺味噌作りが広まった。この味噌の溜(たまり)を調味料としたものが、現代につながるたまり醤油の原型」

とする説、

「500年代に記された『斉民要術』には現代の日本の味噌に似た豆醤の製造法と、その上澄み液から作る黒くて美味い液体『清醤』の製造法が詳細に記述されており、その製造法や用途から清醤が現代のたまり醤油の原型であると理解されている。たまり醤油が中国で普及していった過程において、その製造法が日本にも伝来した」

とする説等々もある(仝上)。

この時代のたまり醤油は、

「原料となる豆を水に浸してその後蒸煮し、味噌玉原料に麹が自然着生(自然種付)してできる食用味噌の製造過程で出る上澄み液(たまり)を汲み上げて液体調味料としたもの。発酵はアルコール発酵を伴なわない。また納豆菌など他の菌の影響を受けやすく、澄んだ液体を採取することは難しかった」

が、木桶で職人がつくる、現代につながる本格醤油は、酒蔵の装備を利用し酒造りとともに発展した。そのため、

「麹はこうじカビを蒸した原料に職人が付着させ、原料の表面に麹菌を増殖させる散麹(ばらこうじ)手法をとる。麹は採取し、保存しておいて次の麹の種にする友種(ともだね)という採取法も取られている。発酵はアルコール発酵を伴う。こうじカビを用いたこのタイプは、17世紀末に竜野醤油の草分けの円尾家の帳簿に製法とともに『すみ醤油』という名前で現れている。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9。これが今のヒガシマル醤油である。

「龍野醤油の醸造の始りは、天正十五年(1587)から後の寛文年間(1670)に、当時の醸造業者の発案により醤油もろみに、米を糖化した甘酒を混入して絞った。色のうすい『うすくち醤油』が発明」

された、とあるhttp://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/mame01.html。兵庫県龍野は淡口醤油発祥の地、

「もともとは酒造業が発達した地域であったものの、鉄分を含まない揖保川の水や播州赤穂の塩、播州平野の大豆など、醤油造りに適した土地柄でもありました。領主の脇坂氏の積極的な産業推進もあり、次第に醤油造りに移っていったのです」

とありhttps://jp.sake-times.com/think/study/sake_g_sake-and-soysauce、龍野の醤油造りを担ったのが、地元で酒造りをしていた、または灘へ出稼ぎに出ていた播州杜氏たちであり、龍野の醤油造り唄の中には、

〽この寒いのに洗い番はどなた かわいい殿ごでなけりゃよい
〽かわいい殿ごの洗い番の時は 水は湯となれ風吹くな(龍野の醤油造り唄)

の一節があり、灘の歌にも、

〽寒や北風今日は南風 明日は浮名の巽風
〽今日の寒さに洗い番はどなた かわいい殿さの声がする
〽かわいい殿さの洗い番の時は 水も湯となれ風吹くな(丹波流酒造り唄)

というのがありhttps://jp.sake-times.com/think/study/sake_g_sake-and-soysauce、酒造りの作業を醤油造りでも応用していたことがわかり、木桶を通した酒蔵と醤油蔵の関係や、蔵人たちの人的交流を通した技術の継承によって、「うすくち醤油」につながったものとみられる(仝上)。

うすくち・こいくち醤油.jpg

(うすくち醤油(左)、こいくち醤油(右) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9より)


甘酒http://ppnetwork.seesaa.net/article/470325231.htmlで触れたように、甘酒は,「昔は酒蔵が夏に手が空いた時期の副業として作られていた」のである。

淡口醤油と称する色の薄い醤油は、

「煮物に色がつかないので関西料理に愛好された。江戸では『下り醤油』と称して関西から船で運んでくる醤油を用いていたが、やがて関東の野田、銚子の醤油を用いるようになった。」

とある(たべもの語源辞典)。永禄年間(1558~70)に、武田方にたまり醤油が野田から納められた、という記録がきろくがある、という(仝上)。

いわゆる濃口醤油は、

「紀州の浜口儀兵衛が湯浅醤油(濃口醤油)の生産を関東の銚子で始め,江戸市場をバックに醤油醸造を成功させ,現在のヤマサ醤油になっている。関東平野での大豆・麦の産地を控えて,作った醤油を水路で江戸に運搬する利便性をもとに,銚子と野田が醤油の生産地として発展していった。そして濃口醤油の利用は江戸の料理の特徴にもなっていく。」

とあるhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/47/4/47_233/_pdf。また、天明元年(1781)に、

「玖珂郡柳井津(現在の山口県柳井市)の高田伝兵衛によって「甘露醤油」(「再仕込み醤油」「さしみ醤油」)が開発されている」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9

ところで、俗に、調味料を料理に用いる順番を表す語呂合わせの、

さしすせそ、

に当たる「せ」を、

せうゆ、

とするが、歴史的仮名遣いでは、

しやうゆ、

が正しいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9が、「せうゆ」は、いわゆる許容仮名遣として広く行われていたものらしい(仝上)。

江戸時代の醤油・塩売.jpg

(守貞謾稿・江戸時代の醤油・塩売 たべもの語源辞典より)

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
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ラベル:醤油
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2019年12月03日

めし


「めし」は、

飯、

と当てる。「飯」(漢音ハン、呉音ボン)は、

「会意兼形声。『食+音符反(バラバラになる→ふやける、ふくれる)』で、米粒がふやけてばらばらに煮えた玄米のめし」

とある(漢字源)。

米を炊いたもの、

の意から、

時を定めてする食事、

の意に広げて使う。「めし」にあたる同意のことばには、

「ごはん・ごぜん・おぜん・こご・やわら・まま・まんま・いい・ひいめし・おだい(御台)・だいばん・おもの・ぐご(供御)・ごれう(御料)・おほみけ(大御飯)」

等々がある(たべもの語源辞典)。

漆器のお椀に盛りつけた御飯.jpg

(漆器のお椀に盛りつけた御飯 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AFより)


万葉集にも、

家にあれば笥(け)に盛るいひを草枕旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る、

と歌われている「めし」は、

「『食ふ(食う)』の敬語のうち尊敬語である『召す』に由来する。日本語に継続的に生じている『敬語のインフレーション』(初めは尊敬を込めた表現でも、長く使っているとありがたみが薄れて普通またはそれ以下の表現になる)という現象により、現在はややぞんざいな表現になった。敬語のうちの丁寧語では『御飯』(ごはん)。幼児語は『まんま』。老人語は『まま』。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF。大言海は、

「聞食物(キコシメシモノ)の略。何によらず、身に受け納めるるをメスと云ふ。飯は其第一にて、人の尊びて云ひししに起こる」

と書く。

「室町時代にそれまでのイヒに代わって現れた。語源には諸説あるが、動詞メス(召す)の名詞化という説が有力である。『召す』は『呼び寄せる』『着る』『食べる』『乗る』など複数の用法を持っていたが、名詞としてはそれらの意味を共存させず、『呼び寄せること』の意味から『食べるけもの=飯』の意へと交替した」

とあり(日本語源大辞典)、本来「メス」は、

「『見(ミ)』スの尊敬語」

であった(岩波古語辞典・大言海)が、

「室町後期にはすでにオメシのようにオ(御)を冠した形も認められる」(日本語源大辞典)

と敬語の意識がなくなっていたらしい。上述のように、「めし」の語源は、「召す」とする説が大勢だが、

「中国の漢字から考えると、飯とはかならず蒸したものである」(たべもの語源辞典)

と考えると、

ムシ(蒸)の義、

とする説も、ちょっとムシ(無視)できない気がする。

ところで、日本人が米の飯を食べたのは弥生時代だが、米の飯を炊く初めは、此花開耶姫(このはなさくやひめ)が浪田(なだ、沼田)の稲を用いて飯をつくったのが最も古いことになっている(たべもの語源辞典)が、中国では、『周書』に、

黄帝が穀を蒸して飯となすとか、穀を烹(に)て粥となす、

とある(仝上)。

「穀類を煮たり蒸したりすることを古くは〈炊(かし)ぐ〉といい,のち〈炊(た)く〉というようになった。〈たく〉は燃料をたいて加熱する意と思われる。飯の炊き方には煮る方法と蒸す方法とがあり,古く日本では甑(こしき)で蒸した強飯(こわめし)を飯(いい)と呼び,水を入れて煮たものを粥(かゆ)といった。粥はその固さによって固粥(かたがゆ)と汁粥(しるかゆ)に分けられた。」(世界大百科事典)

とあり、

「飯を固粥(かたかゆ)または粥強(かゆこわ)とよび、今日の粥を汁粥(しるかゆ)といった。また固粥は姫飯(ひめいひ)とも称した。蒸した飯は強飯(こわいい)である」

とある(たべもの語源辞典)ように、飯は、

甑(こしき)、

を用いて蒸してつくられた(たべもの語源辞典)。伊勢物語に、

「飯をけこ(ざる・かご)の器物に盛ってたべるとある」

が、蒸した強(こわ)い飯であったことがわかる(たべもの語源辞典)、とある。

「甑(こしき)は古代中国を発祥とする米などを蒸すための土器。需とも。竹や木などで造られた同目的のものは一般に蒸籠と呼称される。 日本各地の遺跡で発見されており、弥生時代には米を蒸すための調理道具として使われていたと考えられる」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%91

「昔かなえ(鼎)の上に甑をのせて飯をかしいだことが『空穂物語』にある。室町時代になると、かなえを『かま』とよんだ。飯はかしぐといい、粥は煮るというが、かしぐとは甑をつかうからであろう」

とある(たべもの語源辞典)ので、

ちょうど「こしき」が「かま」に転じるころ、「いひ」が「めし」に転換した時期のようである。

「いい(ひ)」(飯)は、

イフ(言ふ)と同根、

とあり(岩波古語辞典)、「言ふ」は、

口に出し、言葉にする意、

だが、さらに、

食(い)ふ、

とも当て、

口にする意でもある(仝上)。「イヒ」の語源には諸説あり、大言海は、

忌火(イムヒ)に縁のある語か、

と、少し曖昧だが、その説をとるのは、

イミヒ(忌火)の義(名言通)、

その他、

イは接頭語、ヒは胎芽を意味する原語(日本古語大辞典=松岡静雄)、
イは発語、ヒは良しの意(東雅)、
イヒ(息霊)の義、息をつなぎとめるヒ(霊)というが、ヒは実の義であろう(日本語源=賀茂百樹)、
煮ることから、ユヒ(燖)の転(言元梯)、
ユイ(湯稲)の転後(柴門和語類集)、
「粒」の別音ipがihiに転じた語(日本語原学=与謝野寛、日本語源広辞典)

等々あるが、言ふ、食ふ、イヒ(飯)、と関連させる語源に魅力がある。言葉の音から辿るのは、語呂合わせになるきらいがある。

現在は「めし」も広く使われているが、「ごはん」という呼び方が一般的である。「ごはん」は、

「漢文の影響のうかがわれる軍記や室町時代の物語から用例」

が現れ始め(日本語源大辞典)、

「やがて女房ことばとしてこれに『お(御)』を加えた『おばん(御飯)』という語が現れる。そしてこれが広まり、江戸時代末期には『お』を『ご』に替えた」

とありhttps://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=393、『ごはん』の形になるのは、近世末期のようである(日本語源大辞典)。

「『飯』の呼び方の変遷は、イヒからメシへ、メシからゴハンへと、意識の上でより丁寧な言い方を指向した」

ようである(仝上)。「めし」が日常語として用いられるのは江戸時代以後のことである。『召す』は尊敬の動詞であるから、『めし』にも敬語意識が伴っていたと考えられる(語源由来辞典)。「めし」が位置を落として後も、確かに、「ごはん」という言い方には、なにがしか丁寧な語感がある。

「ゴハンは16世紀前半に例が見られるが、『飯』を音読したハン(日葡辞書)に、敬語の接頭語「御」をつけた語と考えられる。ゴハンは現在でも、メシに比べて上品な表現と考えられている」

とある(暮らしのことば新語源辞典)。

ところで、「めし」の、

「メという字は、芽・妻(め)・目・群(め)を意味している。また、メは未来の意を表す助辞でもある。芽はめぐむ、妻は孕むもの、目はめがでる、群はものが聚(あつ)まるという意味。シは、汝(シ)・己(シ)・其(シ)で、汝と己(おのれ)であり、指示するときに出る声である。『めし』という音には未来の喜びを示すものがある」

とある(たべもの語源辞典)。これと関連すれば、「いひ」が、

言ふ、
食ふ、

とつながるのもありえるのではないか。なお、

こめhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/454757401.html
いねhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/454779702.html

については、それぞれ触れた。

参考文献;
山口佳紀編『暮らしのことば新語源辞典』(講談社)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年12月02日

雉も鳴かずば


「きじ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/459827203.htmlについては、触れたことがあるが、少し補足的に追加しておきたい。

「雉」(漢音チ、呉音ジ)は、

「会意兼形声。『隹+音符矢(シ・チ)』で、真っすぐ矢のように飛ぶ鳥の意。転じて、真っすぐな直線をはかる単位に用いる」

とある(漢字源)。

「矢は直線状に数十mとんで、地に落ちる。つまり雉とは『矢のように飛ぶ鳥』という意味である。特に雄キジの飛び方をよく表している」

とあるhttp://yachohabataki2.sakura.ne.jp/torinokotowaza%20kiji.htm

「繁殖期のオスは赤い肉腫が肥大し、縄張り争いのために赤いものに対して攻撃的になり、『ケーン』と大声で鳴き縄張り宣言をする。その後両翼を広げて胴体に打ちつけてブルブル羽音を立てる動作が、『母衣打ち(ほろうち)』と呼ばれる。メスは『チョッチョッ』と鳴く」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%B8

「きじ」は、

日本の国鳥、

であるが、国内の多くの自治体で「市町村の鳥」に指定されているにも関わらず、国鳥が狩猟対象となっているのは、世界でも珍しい例、とされる。

「日本のキジは毎年、愛鳥週間や狩猟期間前などの時期に大量に放鳥される。2004年(平成16年)度には全国で約10万羽が放鳥され、約半数が鳥獣保護区・休猟区へ、残る半数が可猟区域に放たれている。(中略)放鳥キジには足環が付いており、狩猟で捕獲された場合は報告する仕組みになっているが、捕獲報告は各都道府県ともに数羽程度で、一般的に養殖キジのほとんどが動物やワシ類などに捕食されていると考えられている。」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%B8

キジ(オス).jpg

(キジ(オス) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%B8より)


「『記紀』において天津神が天若日子(あめのわかひこ)のもとへ雉を遣わしたように、古くから神の死者とみなされていたらしく、『名言わずの鳥』という忌詞があり、特に白雉は吉兆あるものとされた」

とある(日本昔話事典)と同時に、味が美味なために、食用としても重用され、平安時代、

「宮中では、炭火で焼いた雉肉を燗酒に入れた『雉酒』を祝い酒としてふるまう習慣もあった」

とされる。「雉焼」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/471882162.html?1575144670)で触れたように、「雉酒」は、

「雉の肉の鹽焼に、熱燗の酒を注ぎたるもの。元旦の供御に奉る」(大言海)

が、「雉焼」の略である「雉焼豆腐」は、

「豆腐を二寸四方、厚さ五六分に切りて焼き、薄醤油にて味を付け、酒を沸して注けたるもの。酒のみ飲みて、豆腐は食はすものと云ふ」(大言海)

のは、この「雉酒」の名残のようである。「きじ」は歌にも登場し、

春の野にあさる雉(きぎし)の妻恋ひにおのがあたりを人にしれつつ(大伴家持)
武蔵野のをぐきが雉(きぎし)立ち別れ去(い)にし宵より背(せ)ろに逢はなふよ(不明)
春の野のしげき草葉の妻恋にとびたつ雉子のほろほろとなく    (平貞文)

等々と歌われる。

和語「きじ」は、すでに触れたように

古名きぎしの転、

である(岩波古語辞典)。古名には、

キギス、

もあるが、

「古名には『キギス』もあるが、『キジ』よりも新しく、『キギシ』の方が古い」

ようだ(語源由来辞典)。「きぎ」は、おそらく、

鳴き声、

から来た擬音語で(岩波古語辞典・語源由来辞典)、「キギシ」「キギス」の「シ」「ス」は、「カラス」「ウグイス」「ホトトギス」でなじみの、鳥を表す接尾語である。

「キギは鳴く聲。キキン,今はケンケンと云ふ。シはスと通ず。鳥に添ふる一種の音。…キギシのキギスと轉じ(夷(えみじ),エビス),今は約めてキジとなる」(大言海)

「万葉東歌,記紀歌謡の仮名表記には『きぎし』とあり,古くは多く『きぎし』と呼ばれていたが,『古今六条』には『きじ』が六首,『きぎす』が二首見られる。後者は共に万葉の歌だが,『きぎし』から『きぎす』に移行した時期は不明」(日本語源大辞典)

ということのようだ。

「雉」は、馴染みの鳥でもあるが、神の使者でもあり、桃太郎に雉が登場するのも、そんな由来からのようである(日本昔話事典)が、そのせいか、雉にまつわる諺は多い。

朝雉が鳴くは晴れ、夜鳴くは地震の兆(きざし)、
雉が三声つづけて三度叫ぶと地震あり、
雉、鶏が不時に鳴けば地震あり

と地震予知に関するものもあるが、

雉の草隠れ、
焼け野の雉子、夜の鶴、
多勢に無勢、雉と鷹、
雉子(きぎし)の頻使い、

と雉にからむ諺は少なくない(たとえば、http://yachohabataki2.sakura.ne.jp/torinokotowaza%20kiji.htm、故事ことわざの辞典)。しかし、

ものいわじ 父は長柄の人柱 鳴かずば雉も 射たれざらまし、

の歌に由来する、

キジも鳴かずば射たれまい、

の諺ほど有名なものはあるまい。「長柄(ながら)の人柱」という伝説に由来する。

現在の名柄橋.jpg



「むかし長柄橋を架設するとき、工事が難渋して困惑しきった橋奉行らが、雉の鳴声を聞きながら相談していると、一人の男が妻と2、3歳の子供を連れて通りかかり、材木に腰掛けて休息しながら、『袴の綻びを白布でつづった人をこの橋の人柱にしたらうまくいくだろう』とふとつぶやいた。ところがその男自身の袴がそのとおりだったため、たちまち男は橋奉行らに捕らえられて人柱にされてしまった。それを悲しんだ妻は『ものいへば父はながらの橋柱 なかずば雉もとらえざらまし』という歌を残して淀川に身を投じてしまった。」(神道集)

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%9F%84%E6%A9%8Bが、異説も多く、室町時代の『康富記』には、長柄橋に、子を負った女の人柱を立てた伝、男の人柱を立てたと伝える猿楽のある旨が記されている(日本伝奇伝説大辞典)。また、元禄年間の地誌『摂陽群談』に、

「西成郡垂水村の長者岩氏が人柱になったとある。岩氏には光照と呼ばれるほど美貌の娘がいたが、唖のように言葉を発することなく成長した。嫁いでもものをいうことがなく、実家に送り帰されることになった。その道中、夫が雉を射るのを見てはじめて声を発し、『物言じ父は長柄の橋柱鳴かずば雉子も射られざらまし』と吟じた。後に出家、自ら不言尼と称して父の後世を弔った」

とある(仝上)。また、あるいは、

「昔、摂津の長柄川で橋を架ける工事が行われたが、幾度、架けても流されるので、人柱を立てようということになった。そのとき、長柄の里の長者が『袴につづれのある者を人柱に立てよう』いった。ところが、袴につづれのあったのは言い出した長者自身だった。
 里人たちは、有無を言わせず、長者を捕らえて、長者を人柱にし、橋が出来上がった。長者には河内に嫁いだ娘がいたが、その娘は、この話を聞いて一言も口をきかなくなった。愛想をつかした夫は、摂津まで送り返そうと連れだって家を出て、交野まで来たとき、草むらで、『ケン ケン』とキジが鳴いた。夫は弓矢で射ろうとすると、娘は、懸命に止めた。夫は、いぶかしそうにしていると、娘は、口を開き、こんな歌を詠んだ。『ものいはじ 父は長柄の人柱 鳴かずば雉も 射られざらまし』。夫は心をうたれ、娘にわび、二人で河内にもどり、仲良く暮らしたという。」

という話もあるhttp://yachohabataki2.sakura.ne.jp/torinokotowaza%20kiji.htm

長柄橋は、

「嵯峨天皇の御時、弘仁三年夏六月再び長柄橋を造らしむ、人柱は此時なり(1798(寛政10)/秋里籬島/攝津名所圖會)(なお推古天皇の21年架橋との説もある。)」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%9F%84%E6%A9%8B、長柄橋の名は、古代より存在した。現在の橋は、大阪市大淀区と東淀川区との間にかかっているが、往古は、現在の大阪市淀川区東三国付近と吹田市付近とを結んでいたとされている、が、正確な場所についてははっきりしない(仝上)。攝津名所圖會(寛政年間)には、

「此橋の旧跡古来よりさだかならず、何れの世に架初めて、何れの世に朽壊れけん、これ又文明ならず、橋杭と称する朽木所々にあり、今田畑より掘出す事もあり、其所一挙ならず」

とある(日本伝奇伝説大辞典)。にもかかわらず、摂関時代以後の中世に、この存在しない橋が貴族たちの間で「天下第一の名橋」と称され、歌や文学作品に多数取り上げられることとなった(仝上)。

ながら、ふる、朽つなどの意味を引く句として、

わればかり長柄の橋は朽ちにけり なにはの事もふるが悲しき(赤染衛門)
君が代に今もつくらば津の国の ながらの橋や千度わたらん(藤原家隆)

等々(仝上)、多くの歌人に詠まれたが、

時代が下がるにつれて、跡や跡なしに用いられるにいたる(仝上)。

参考文献;
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年12月01日

きじやき


「きじやき」は、

雉焼、
雉子焼、

とも当てる。

雉焼豆腐の略、
雉が美味なので、それに似せた料理。カツオ・マクロなどの切身を醤油と味醂を合わせた汁に浸して焼く、
鴫焼に同じ、

と載る(広辞苑)。或いは、

マグロ・カツオなどの魚の切り身を、生姜(しようが)の汁を入れた醬油でつけ焼きにしたもの、

とも載る(大辞林)。鴫焼と同じと載る(広辞苑・大辞林)が、鴫焼http://ppnetwork.seesaa.net/article/471514070.html?1573674929で触れたように、山椒味噌をつけるか、醤油付焼にするので、どこかで、混同されたのかもしれないが、同じではない。「しぎやき」の項で、

「江戸での呼称であったことが《料理網目調味抄》(1730)などに見える。もともとはシギそのものを焼いた料理であったが,きじ焼がキジの焼物から豆腐,さらには魚の切身の焼物へと変化したのと同様,ナスの料理へと変わったものである。」

とある(世界大百科事典)ことには触れた。

「鴫焼は茄子の田楽、…醤油で味つけしたものは、どちらかといえば『きじ焼き(雉焼き)』に近いのではないでしょうか?」

ということhttps://oshiete.goo.ne.jp/qa/392518.htmlからの、混同なのかもしれないが。

「雉焼」は、

「本来は、名前通り美味で知られる雉の肉を焼く料理であったが、徐々に変化して今では雉を使うことはほぼ無く、献立名だけが残った例である。鳥類で最も美味しいのが雉であるとされた為で、これも『あやかり料理』の一種といえよう。始めのうちは身の色が似ている『カツオ』の漬け焼きを雉焼きと呼んでいたが、徐々に対象が広がり、サバ、ブリ、マグロも範疇に。その後鶏肉、獣肉でも『雉焼き』の対象になって今に至る。つまり正確には『雉肉ふう・・・』である。赤身の魚は焼くと身がパサつくので、ごま油等油を塗り補助する。油で揚げずに油を塗って、生から焼いてもよい」

とあるhttps://temaeitamae.jp/top/t2/kj/6_G/010.htmlのが正確のようである。

「焼きものの一つで、とり肉や、かつお、ぶり、さばなどの魚の切り身などの材料を、しょうゆ、みりん、酒で作った漬け汁に漬けて焼いたもののこと。室町時代から江戸時代まで、きじは鳥類の中では美味とされ、そのきじの肉を味わってみたいというところから生まれた擬似料理が始まりといわれる。材料は、一般では魚、精進料理では豆腐が使われた。」

ともあるhttps://www.lettuceclub.net/recipe/dictionary-cook/211/。岩波古語辞典には、「きじやき」は、

「豆腐を小さく切り、塩または薄醤油を付けて焼き、燗酒をかけた料理。雉焼き料理」

としか載らない。ところが、江戸語大辞典は、

「まぐろ・鰹の切身を醤油に付けて焼くこと、またその物」

とのみ載る。江戸時代、既に、雉は使えなかったようである。大言海は、

「元は、雉の肉を鹽焼にしたるを用ゐき、その料理法の魚肉、豆腐に移りたるなり鴫焼、狸汁皆同じ」

と載せ、併せ、「きじざけ(雉酒)」の項で、

「雉の肉の鹽焼に、熱燗の酒を注ぎたるもの。元旦の供御に奉る」

とある。

足利時代の天文年間(1532~55)の『犬筑波集』という山崎宗鑑の蓮歌本に、精進の汁にまじって不精進の雉焼があったが、よくよくみたら豆腐だったという作がある(たべもの語源辞典)、という。寛永二十年(1642)の『料理物語』に、

「きじやきは、豆腐を小さく切って塩をつけて焼いたものだとある」

ともあり(仝上)、この時代、「きじやき」は、

豆腐料理、

であったようだ。

雉焼田楽.gif

(雉焼田楽 豆腐に醤油をかけて焼いただけのシンプル http://www.tofu-ya.com/t-hyakuchin/th-002.htmより)


つまり、「雉子焼」とは、

雉子焼豆腐の略、

であった(仝上)。大言海は、

「豆腐を二寸四方、厚さ五六分に切りて焼き、薄醤油にて味を付け、酒を沸して注けたるもの。酒のみ飲みて、豆腐は食はすものと云ふ。正月の佳例に供したり」

と書く。

「きじの肉が白いので豆腐の白をこれにたとえた」

ともいわれる(世界の料理がわかる辞典)。しかし、

「他に鮪・鰹などの魚の切身を醤油でつけやきにしたものも、きじやきといった。料理名には『きじやきでんがく』などあり、豆腐に串をさして狐色に焼いて猪口に煮返しの醤油に摺柚子を添えて出した。ただの豆腐のきじやきは、塩をつけて焼いたところに熱い酒をかけて食べた」

とある(たべもの語源辞典)。

野鳥は古くから食用にしており、焼きキジのおいしさは昔から一般に知られていた。このキジの味に近い味をほかの材料を用いてつくり、それをきじ焼きと名づけた、ということらしい。

「現在は魚鳥肉を用いてしょうゆのつけ焼きにかじ焼きの名称をつけることが多く、色彩だけが似ている場合もある」

とある(日本大百科全書)。なお、「きじ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/459827203.htmlについては触れた。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2019年11月30日

五反百姓出ず入らず


五反百姓出ず入らず(ごたんびゃくしょうでずいらず)、

という諺がある(臼田甚五郎監修『ことわざ辞典』)。手元のことわざ辞典にも載らないが、

五反歩の耕地をもっている百姓は、金が残りもせず、借金もせず、また他人の手も使わず内輪の手で足り、恰度とんとんの経営であると言う事、

とあるhttp://the-kotowaza.seesaa.net/search?keyword=%E4%BA%94%E5%8F%8D

反(段)、

とは、

三百歩(坪)、

で、約千(991.7)平方メートル。十反で一町、約百(99.17)アールである。

江戸時代の農村.jpg



寛政六年(一七九四)の『地方凡例録(じかたはんれいろく)』(大石久敬)「作徳凡勘定之事」では、

「農夫作徳(サクトク)の儀ハ、賦税の高下、土地の善悪、米穀并に肥養價(ヒヨウアタヒ)の尊卑、用水掛引の損益等にて、国々村々一定せずして作徳の多少ハ悉く差(タガヒ)あり……一概の勘定ハ會て成りがたしといへども、国政に携ハる人は此大旨を知ずんばあるべからず、故に此概略(アラマシ)を左に記す。仮令バ上州群馬郡(グンバゴホリ)辺両毛作の場所に小百姓壱軒ありて、此家内を五人暮しとなし、其内老幼不用のもの弐人、耕作の働等をなすもの三人としたる凡そ積りの勘定左の如し」

として、以下のように、田畑五反五畝歩の農家の収支試算をしている。

 収入は、
中田四反歩-米六石七斗二升、此代金八両。麦六石四斗、此代金四両一分二朱永四十二文七分。
中畑一反五畝歩-麦二石四斗、此代金一両二分永百文。雑穀類等(大豆・稗・粟・小豆・芋)、此代金一両三分二朱永二十二文五分(他に菜・大根・茄子・大角豆の類の収穫があるが計算外)。
合計金十五両三分二朱永三十九文三分
 支出は、
年貢、作方諸雑用費(雇人夫・雇馬・肥料代)、合計金七両永六十七文一分。
 差引残金八両三分永九十七文二分。
 作徳の分
  此遣方
 金八両一分永十文(麦十二石三斗九升)
 一家五人の一人平均一日七合宛の一年間の食用分
 金二両 一家五人の塩・味噌・薪・衣帯・農具修復等の諸雑費
 合計金十両三分永十文

 とし、差引不足が一両一分二朱永三十七文八分としている(飯野亮一「地方書による近世農民の食生活」)。

この不足について、久敬は、

「右の作徳勘定ハ不足立て、百姓世話に引合がたしと雖も、夫食(ブジキ)の儀は麦計り食するにもあらず、粟(アハ)・稗(ヒエ)・菜物・木葉・草根をも加へ、又は米拵への砕(クダケ)・粃(シイナ)の落溢(ヲチアブ)れも取集めて食するこ
となれバ、前書積(ツモ)り丈の夫食(ブジキ)入用ハ掛らず」

と、麦に粟や稗などを混ぜた雑穀食を食べることにより、この不足分は補えるとしている。また、諸雑費二両については、

「家内五人暮しの者の諸雑用(ショゾウヨウ)ハ金弐両にては不足なれども、何国(イヅク)にても農業の外に少し充(ヅヽ)の稼(カセギ)ハあるものなり、分て上州ハ蚕飼(カイコ)あり煙草作(サク)あり、又何れの村々にても縞木綿(シマモメン)を織出し、自分の着用にもし、又売出す処もあり、或ハ筵(ムシロ)を織り縄を綯(ナ)ひ、山方ハ材木を伐(キリ)出し炭薪(スミタキギ)を出し、海川附の村々は漁猟(ギョレウ)をもいたし、都合の近里(キンリ)ハ菜園を重に作りて売出し、其外農業の間(イトマ)男女とも其処に仕馴たる相応の稼(カセギ)ありて、少々の助成(ジョセイ)を以て取つづくことなり」

と説明している、とある(仝上)。随分な言いようであるが、田畑五反五畝歩で、この体たらくである。ぎりぎりの分水嶺である。

五反百姓出ず入らず、

の、トントンとはこの程度を指す。ちなみに、

地方凡例録(じかたはんれいろく)、

は、高崎藩主松平輝和(てるやす)の命令を受けた郡奉行大石久敬が著した地方書(じかたしょ)。つまり(地方(じかた)支配(所領支配)に関する手引書である。内容は、

総論から始まり、石高・検地・新田開発・度量衡・義倉など、領主及びその代官・役人が地方(領地)支配を行うにあたって重要な事柄についての解説がほぼ網羅されている、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%96%B9%E5%87%A1%E4%BE%8B%E9%8C%B2

作徳(さくとく)、

とは、年貢を支払った後に手元に残る分の意。夫食(ぶじき)は、農民の食料一般をさす。夫食は米以外の雑穀が中心で、芋やこんにゃくを主食とした地方もある。中田、中畑とあるのは、土地の等級が、田だと、上田、中田、下田、荒田、畑なら、上畑、中畑、下畑、とある中の「中等」の意。

「近世では一人前の男が一年に消費する米の量は一石(玄米で一五〇キロキグラム)から二石、また夫婦と子供・親の五人から六人の家族が自らを自力で維持していくことのできる標準的な規模は、裏作も可能な田畑を合わせて五反五畝程度、石高にして八石前後の所持であった。表作の米は年貢・諸役(貢租)として徴収され、裏作の麦を主食としながら、である。麦は米とほぼ同じ収量を期待できるから、五反以上の高持百姓は再生産が可能で、上手くやれば、いくらかの蓄積も可能なる。但し、これは裏作の不可能な地域では通用しない。
それに反して、五反(約八石)以下の百姓はかなり苦しい。五反が家族を含めた自給自足の限度、再生産経営の一般的基準である」

とあるが(渡邊忠司『近世社会と百姓成立―構造論的研究』)、たとえば、江戸時代初期、田5反、畑5反の小農。家族は夫婦と子供1人、下男の構成で、

収入
田(5反) 米 7.5石
畑(5反) 雑穀 15.0石
 収入合計 22.5石
支出
年貢 4.5石 三ツ取(三公七民として)
飯料 12.0石 馬1匹分2石を含む
衣類、下人給金、馬損料、農具・馬具その他の雑費 6.0石 金4両相当
支出合計 22.5石 差し引きなし

という例があるhttp://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J071.htm。これでトントンだが、四ツ取(6石)とすると1.5石の不足になる。何かあれば、窮する状態である。

「高持百姓である以上、所持高の多少に関わりなく年貢や諸役の負担がある」のである。高持百姓、つまり、

本百姓、

とは、

高請地(たかうけち)、つまり、

検地帳に登録され年貢賦課の対象とされた耕地(田畑)および屋敷地、

を所持し、検地帳に登録された農民は、江戸時代中・後期になると、商品経済の波にのまれ、このレベルでさえ、かつかつである。しかもこれ以上は少数派、過半は、三反、四反以下、飢饉がくればひとたまりもない。ましてそれ以下、無高百姓、水飲百姓の窮乏は目を覆うばかりである。

高持百姓http://ppnetwork.seesaa.net/article/464612794.htmlで触れたように、

「不勝手之百姓ハ例年質物ヲ置諸色廻仕候」

と,

「春には冬の衣類・家財を質に置いて借金をして稲や綿の植え付けをし,秋の収穫で補填して質からだし,年貢納入やその他の不足分や生活費用の補填は再度夏の衣類から,種籾まで質に入れて年越しをして,また春になればその逆をするという状態にあった」

のであり、つまり、

「零細小高持百姓の経営は危機的であった」(仝上)

のである。摂津国を例にしているが,寒冷地では,もっと厳しい状態で,近世慢性的に飢饉が頻発した背景が窺い知れるのである。

近世の飢饉http://ppnetwork.seesaa.net/article/462848761.html

についてはすでに触れた。

参考文献;
臼田甚五郎監修『ことわざ辞典』http://the-kotowaza.seesaa.net/article/448845714.html
渡邊忠司『近世社会と百姓成立―構造論的研究 』(佛教大学研究叢書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
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2019年11月29日

弁当


「弁当」は、

外出先で食事するため、器に入れて携える食品、またはその器、

を意味し、転じて、

外出先で取る食事、

の意になった(広辞苑)。「弁当」自体に、「器」の意味があるので、

弁当箱、

というのは、重複した使い方になる。

「弁当」は、

行厨(こうちゅう)、
厨傳(ちゅうでん)、
簞食(たんしょく)、
乾飯(かんぱん)、
破籠(はちょう)、
樏子(るいこ)、

等々の類語がある(日本類語大辞典)、らしいが、和語では、

餉(かれい)、

で、

餉、
乾飯、

とも当てる(岩波古語辞典)。「かれい」は、

乾飯(かれいひ)、

の略で、

旅などに携行した干した飯、

転じて、

携行食糧、

にもいう(広辞苑)。その容器は、「餉(かれい)」を入れる「笥」(け)」で、

餉笥(かれいけ、かれいげ)、

で、

樏子、

とも当てる(仝上)。「わりご」である。「わりご」は、

破子、
破籠、
樏、
割子、
割籠、

等々とも当てる(仝上)。平安頃は、昼弁当を

昼養(ひるやしなひ)、

といった(たべもの語源辞典)。宇治拾遺に、

「奈島の丈六堂の辺にて昼破籠を食ふに」

と載り、「破籠」(わりご)を用いた。

「たべものを入れる器で、その中にしきりがある。割ってあるから『わりご』と呼んだ。今日の折箱のように手軽なものであったから、竹笥(たけささえ 酒・茶・などを入れる物)とともに使い捨てにされたものである。この破子に飯・菜を盛って出したのが弁当」

とある(仝上)。「わりご」は、

「ヒノキなどの白木を折り箱のようにつくり,中に仕切りをつけ,飯とおかずを盛って,ほぼ同じ形のふたをして携行した。古くは携行食には餉 (かれいい),すなわち干した飯を用い,その容器を餉器 (かれいけ) といったが,『和漢三才図会』には『わり子は和名加礼比計 (かれいけ),今は破子という』」

とあり(ブリタニカ国際大百科事典)、

「平安時代におもに公家の携行食器として始まったが,次第に一般的になり,曲物(まげもの)による〈わっぱ〉や〈めんぱ〉などの弁当箱に発展した」(百科事典マイペディア)

らしい。「弁当」の初出は、江戸初期の『老人雑話』(江村専斎)に、

「信長の時分は辨当と云物なし、安土に出来し辨当と云物あり」

とある(大言海)が、これは、

「安土城作事の時、食事の配当に弁ずる」

者の意味であったとする説もある(日本語源広辞典)。また、江戸中期の『翁草』(神沢貞幹)には、

「安土に出来て弁当と云ふ物有り、小さき内に諸道具をさまる」

とある(仝上)し、江戸後期の『和訓栞(わくんのしおり)』にも、

「昔はなし、信長公安土に来て初めて視(み)たるとぞ」

とある。織田信長が安土城普請で、大ぜいの人にめいめいに食事を与えるとき、食物を簡単な器に盛り込んで配ったが、そのとき、

配当を弁ずる意、

当座を弁ずる意、

で、初めて弁当と名づけた(日本大百科全書)ということらしい。しかし、ただ江戸後期の『松屋筆記』には、

「宗二が節用集(饅頭屋本節用集、明応五年(1496)十一代足利義澄のころ)に弁当あれば室町の代の製にて、信長よりも以前の物也」

とあるので、嚆矢は、時代が少し遡るかもしれないが、室町末期の『日葡辞書』には、「bento」が弁当箱の説明で記載されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E5%BD%93ので、この時代には、弁当という器物ができて、それに納められるたべものが一般的に弁当とよばれるようになった(たべもの語源辞典)、ということのようである。

では、この「べんとう(べんたう)」の由来は何か。

岩波古語辞典は、

便当、

と当て、

「不便の対。『便道』『弁当』などは当て字」

とし、

便利なこと、
豊かで不自由のないこと、

の意とし、

弁当、

と当て、

外出などの時、食物を入れて携行する容器、またその食物、

とする。「便利」な意味から、「弁当」として使われた、という趣旨らしい。日本語源大辞典も、

「『弁当』の意は、その由来を中国南宋ごろの俗語『便当』に求めることができる。日本でも『便利なこと』の意で中世の抄物などに用いられている。『便利なこと→便利なもの→携行食』といった意味の変化によって生じたと考えられる」

としている。

「『便道』『弁道』などの漢字も当てられた。『弁えて(そなえて)用に当てる』ことから、『弁当』の字が当てられ、弁当箱の意味として使われた」

と考えられる(語源由来辞典)。

辨えてその用に当てる意。弁当の飯の略(柳亭記)

も同趣である。大言海は、

「面桶(めんとう)の轉。面桶(めんつう)に同じ。漢呉音の別なり」

とするが、

「『飯桶(めしおけ)』を意味する『面桶(めんつう)』を漢音読みした『めんとう』から『べんとう』になったとする説もあるが、歴史的仮名遣いは『べんたう』なので考え難い」

ようである(語源由来辞典、日本語源大辞典)。

弁当と酒を携えて花見を楽しむ江戸時代の人々。歌川広重「江戸名所 御殿山花盛」.jpg

(弁当と酒を携えて花見を楽しむ江戸時代の人々。歌川広重「江戸名所 御殿山花盛」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E5%BD%93より)


江戸時代になると、弁当はより広範な文化になり、旅行者や観光客は簡単な「腰弁当」を作り、これを持ち歩いた。

「腰弁当とは、おにぎりをいくつかまとめたもので、竹の皮で巻かれたり、竹篭に収納されたりした」

ものでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E5%BD%93、「幕の内弁当」は、江戸時代に始まった。

「能や歌舞伎を観覧する人々が幕間(まくあい)にこの特製の弁当を食べていたため、『幕の内弁当』と呼ばれるようになったという説が有力である」

とある(仝上)。江戸時代になり弁当は大いに発達し、容器もいろいろくふうされてきた。提重(さげじゅう)というような豪華なものもできたが、一般には漆器、陶器、木箱などの弁当容器が使われた(本大百科全書)。

葛飾北斎 「冨嶽三十六景  東海道品川御殿山ノ不二」.jpg

宴に興じる三人.jpg

(葛飾北斎 「冨嶽三十六景  東海道品川御殿山ノ不二」 桜の花の下で弁当を広げ、宴に興じる三人が描かれている https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hokusai038/より)


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年11月28日

にわか


「にわか」は、

俄、

と当てる。

急に変化が現れる、

意で、

だしぬけ、
すぐさま、

という意である(広辞苑)。「俄」(ガ)は、

「会意兼形声。我(ガ)は、厂型に折れ曲がり、ぎざぎざの刃のついた熊手のような武器を描いた象形文字で、われの意に用いるのは当て字。俄は『人+音符我』で、何事もなく平らに進んだ事態が、急に厂型にがくんと折れ曲がる意を含む」

とあり(漢字源)、「にわかに」「急に」の意である。昨今、

俄ラグビーファン、

が急増したという使い方で、おなじみである。語源は、

イマカ(息間所)の義(言元梯)、
急なことは、一、二と分かずの意か(和句解)、
ニはニヒ(新)から分化した語か。カは形容語尾(日本古語大辞典=松岡静雄、国語の語根とその分類=大島正健)、

等々諸説あるが、はっきりしない。ただ、この

にわかに、

の意からきていると思うが、「俄」は、

俄狂言、

の意で使われる。「俄」は、

仁輪加、
仁和歌、
二和加、

等々、さまざまな当て字を使う、

宴席や路上などで行われた即興の芝居、

の意だが、

またの名を茶番(ちゃばん)、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%84のは、後世、混同されたのちのことで、本来、

茶番(狂言)、

俄(狂言)、

とは別である。そのことは、茶番http://ppnetwork.seesaa.net/article/435545540.htmlで触れた。

茶番、

にわか、

は、素人芸としてひとくくりにされているが、「俄」は,

「俄狂言の略。素人が座敷・街頭で行った即興の滑稽寸劇で,のちに寄席などで興業されたもの。もと京の島原で始まり,江戸吉原にも移された。明治以後,改良俄・新聞俄・大阪俄といわれたものから喜劇劇団が生まれた。地方では,博多俄が名高い。茶番狂言。仁輪加。」

とある(広辞苑)。岩波古語辞典に、「にはか」について、

「もと、座興のために素人が演じた…洒落、滑稽を主とした一種の茶番狂言。享保頃遊里に発生し、後、専門の芸人が演ずるようになった」

とある「一種の茶番狂言」という言い方が正確である。あるいは、

「俄、つまり素人が演じたことからこう呼ばれる。あるいは一説に、路上で突然始まり衆目を集めたため、「にわかに始まる」という意味から「俄」と呼ばれるようになったと伝えられる」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%84通り、

「享保年間(1716~36)、大坂住吉神社の夏祭の行列で、素人が行った即興劇を起源とするという」

ともある(日本語源大辞典)。あるいは、

「享保元文の頃、二羽屋嘉平次の頓作をはやして『二羽嘉』と称したところから思いついて、提灯に『二〇加』と書いて頓作を流して歩いたことから」

という説(話の大辞典=日置昌一)もある。すでに、

「天和時代の京島原遊廓に源流の芸が存在した。安永時代 (1772 – 1780年)の諸書に俄の芸が登場する」

らしい(仝上)。いずれにしても、関西発祥で、大阪で最も盛んにおこなわれ(仝上)、各地に俄が伝わり、

大阪俄、
博多俄、
肥後俄、
佐賀俄、

等々があるらしいが、各々の地域が俄と呼んでいる内容は

①オチのついたコント、②踊り、③獅子舞、④仮装、⑤行列、⑥山車や屋台などの造り物、

と多岐にわたる、という(歌舞伎研究者・佐藤恵理、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%84)。

それが江戸にも伝わった。大言海には、こうある。

「俄に趣向をつけて、当意即妙、道化滑稽(おどけ)の事を演ずるもの。江戸、新吉原にては、男女芸者、廓内の街道を演じて行く。これ毎年、秋期、陰暦八月おこなはるるなり」

と。

歌麿 青楼仁和嘉全盛遊.jpg

(喜多川歌麿「青楼仁和嘉全盛遊 豊年太神楽」吉原で8月の最大の行事、仁和嘉(俄)の一場面を描く。即興の狂言や踊りながら練り歩く様は人気を呼び、天明、寛政の頃に最高潮に達した。歌麿は同じ表題で寛政中期と享和期に2種類の揃物を描いている。後者は俄踊りの外題と演ずる芸者の名前が記される。本図は豊作を祈願あるいは感謝する神楽に基づく俄を取材している http://ch.kanagawa-museum.jp/dm/ukiyoe/esi/kitagawa/d_kitagawa12.htmlより)

歌麿 青楼仁和嘉 女芸者之部.jpg

(喜多川歌麿 青楼仁和嘉 女芸者之部 江戸時代青楼すなわちここでは吉原の各種行事に際して、男女の芸者たちが思い思いの扮装をこらして郭内を練り歩き、行事ににぎわいをそえたそうだが、この図はいわゆるこの吉原俄における当時売れっ子の女たちの若衆姿を描いたものであろう。浅妻船、扇売、歌吉とある http://www.gekkanbijutsu.co.jp/shop/goods/02070419.htmより)


しかし、「茶番」は、「茶番」http://ppnetwork.seesaa.net/article/435545540.htmlで触れたように、山東京山『蜘蛛の絲巻』(弘化)が、

「天明元年の十二月,ある所なる勢家にて,年忘れとて茶番ということありしに,云々,茶番の題は,鬼に金棒,二階から目薬,猫の尻へ木槌など云ふ卑俗の諺なり」

と書くように(大言海)に,お題が,諺から与えられて,何かを演ずる,ということらしい,

「江戸にて,芝居の役者共,顔見世の頃,楽屋にて,茶番,餅番,酒番などとて,其番にあたりし者より饗することあり,色々たはれ(戯)たる趣向を尽くす。此時茶番に当たりし役者の,工夫思ひつきに,景物を出してせしを,云いひなるべし。略して,ちゃばん,にはか(京都)」

と,「茶番」の出自が明らかになっている。大田覃「俗耳鼓吹」(天明)は,

「俄と茶番とは,似て非なるもの也」

としているように、茶番は、あくまで、

江戸歌舞伎の楽屋内、

で発生したもので、

「下手な役者が手近な 物を用いて滑稽な寸劇や話芸を演じるもののこと。本来、茶番はお茶の用意や給仕をする者のことであるが、楽屋でお茶を給仕していた大部屋の役者が、余興で茶菓子などをつかいオチにしたことから,この芝居を『茶番狂言』と呼ばれるようになった。此の寸劇では,オチに使ったものを,客に無料で配っていたため,見物客の中には,寸劇ではなく,くばられる品物を目当てに訪れる者もいたといわれる。」

それには、

口上茶番

立ち茶番

とがあったらしい(大辞林)。「口上茶番」は,

身振りを入れず,座ったまま、せりふだけで演じる滑稽を演じるもの,

「立茶番」は,

「かつら・衣装をつけ,化粧をして芝居をもじったこっけいなしぐさをする素人演芸」

となる。

どちらかというと、俄はお座敷芸だが,茶番は,歌舞伎役者の内々の芸,あるいは,落語の前座の芸比べといった雰囲気で,俄が,「喜劇劇団」になっていくのに対して,茶番は,実体を失い,

茶番劇,

と,出来レースというか,見えすいた小芝居,と喩えられる言葉の中にのみ,かろうじて生きている,という感じである。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
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コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2019年11月27日


「麩」は、

ふすま、

と訓むと、

小麦をひいて粉にするとはに残る皮の屑、

を指し、

麬(フ)、

とも当てる。

もみじ、
からこ、
むぎかす、
こがす、

ともいう。

洗い粉、牛馬の飼料にする(広辞苑)。普通小麦 100に対し,22~25%の比率でできる、という(ブリタニカ国際大百科事典)。

「麩」(フ)は、

「形声。『麥+音符夫(皮)』で、平らに散りしく穀皮の意」

とあり(漢字源、日本語源広辞典)、「麩」は、

ふすま、
むぎかす、

の意である。いわゆる「おふ」の意で使うのは、わが国だけらしい。大言海は「麩」の項で、

「ムギカス。小麦粉のフスマ。即ち、洗粉に用ゐるもの。中世、誤りて、豆腐皮(トウフノウバ)に此字を用ゐたり(鹿苑日録)」

と記す。「麩」は、中国では、

麺筋(麪筋、めんきん、麵筋/面筋、miànjīn)、

と呼ばれ、宋代に書かれた『夢渓筆談』にもその名が登場する。日本では、

「『麩』という字で麬(ふすま)を指し、後にその加工品である麪筋にもこの字が当てられた(『本朝食鑑』)また、小麦そのものが中国大陸から伝来されたことから唐粉(からこ、殻粉)とも称した。鎌倉時代には唐粉を宮廷に貢納する供御人(唐粉供御人)がいた。「麩=ふ」としての最古の記録は南北朝時代に書かれた『嘉元記』正平7年(1352年)5月10日条に登場する「フ」の記述である」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%A9

いまの製法は、

「小麦粉に食塩水を加えてよく練って生地を作り、粘りが出たところで生地を布製の袋に入れて水中で揉む。デンプンが流出した後に残ったグルテンを蒸して生麩(もち麩)が作られる。生麩を油で揚げると揚げ麩になる。生麩を煮てから成形して乾燥させると乾燥麩になる。(中略)グルテンに、小麦粉、ベーキングパウダー、もち米粉などを加えて練り合わせ、焙り焼きしたものが焼き麩である。」

とある(仝上)が、昔の作り方は、

「小麦粉のフスマと分離しない粗い粉を桶に入れて水でこねる。足で踏んでねばり気が出てから桶の下にざるを置いて、その上でこね粉を取り入れて、水をかけながらもむと、澱粉はほとんど洗い流されて、ざるの目から桶の底に沈む。これが『しょう麩』になり、ざるの中に残ったねばったものが『なま麩』になる」

とある(たべもの語源辞典)。

中国では麩の原料のグルテンを、

麩質(ふしつ、麩質/麸质、fūzhí)、
もしくは
麩質蛋白(ふしつたんぱく、麩質蛋白/麸质蛋白、fūzhídànbái)、

と呼ぶhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%A9らしいが、

「麩質は主に外皮の内面にある。麩(フスマ)と分離せぬ粗粉を用いる」

のは、そのためのようである(たべもの語源辞典)。室町時代初期に明から渡来した禅僧によって製法が伝来したが、

「僧院がこれを用いたので、在家では、精進のたべものと考え、仏事・法要以外には常用しなかった」

もの(たべもの語源辞典)が、次第に、貯蔵食品として重用され、年中食べ物で、乾燥四天王、

麩、
湯葉、
凍豆腐、
椎茸、

のひとつとなった(仝上)。

麩の種類は、

生麩(なまぶ、俗に蒸麩(むしふ)ともいう)、
焼麩(やきふ)、
揚げ麩(あげふ)、
乾燥麩、

等々があるが、生麩には、

「竹輪形にした竹輪麩、すだれでおしつけた形のある簾麩、すだれふに似て厚い相良麩、また御所麩とよばれるものもある」

焼麩には、

「四角の板形の板麩、角麩、渦を巻いた黄渦麩(うづぶ)、菊の花形をした菊麩、切った切麩、主に金魚の餌になる金魚麩、車の形にした車麩、丸形にして中に筋模様のある観世麩、小型の罌粟麩、七色の色分けになった七色麩、牡丹の花型をした牡丹麩、紅葉の形をした楓麩(もみじぶ)がある」

とある(たべもの語源辞典)。

一般的な焼き麩.jpg

(一般的な焼き麩 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%A9より)


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
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書評;
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ラベル: ふすま
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2019年11月26日

點心


「點(点)心(てんしん)」は、

てんじん、

とも訓む。中国語である。

あひだぐひをする、

の意で、河東記に、

「板橋三娘子、置新作焼餅干食牀上、與客點心」

とある(字源)。また、転じて、

其の食物、菓子の類、

ともあり(仝上)、輟畊(てつこう)録に、

今以早飯前及午前後小食為點心、

とある(仝上)。つまり、

早飯前と飯後・午前・午後に食べる小食のこと、

であり、どうやら、

一時の空腹をいやすための少量の食事、

のことである(たべもの語源辞典)、らしい。中国の食事は、大きく分けて、

飯(主食),
菜(副食),
湯(スープ)、
点心(間食,小食)

となる(世界大百科事典、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%B9%E5%BF%83)。「点心」は、

ツァイ(菜,料理の意)に対するもので,麺(めん)類,シューマイ,ギョーザなどの軽食や菓子、

をいう(百科事典マイペディア)が、「点心」は、

鹹(かん)点心(塩味),
甜(てん)点心(甘味),
小食(鹹,甜以外のもの),果物

に、分類される(世界大百科事典)、という。「点心」は、解釈が多く、たとえば、

「めん類,ギョーザなどは,食べる時により飯になったり点心になったりする」

ので、食べる時間帯によって

早点(朝御飯)
午点(おやつ)
晩点(夜食)

となるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%B9%E5%BF%83が、

間食,非時の食,小食、

としておくのがいいようである(仝上)。

「点心」という名前は

「禅語『空心(すきばら)に小食を点ずる』からきたという説や、心に点をつけることから心に触れるものと言う説がある。明確な定義はないが、食事の間に少量の食物を食べることなので、菓子や間食、軽食の類いは全て点心と呼ばれる。中国の朝食は点心ですまされる事が多い」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%B9%E5%BF%83、間食や軽食をさすという意味では、

茶の湯の料理である懐石も,本来は同義、

と考えられる(百科事典マイペディア)。

日本には室町時代に伝来し、朝食と夕食の間に食べる箸休めの品とされ、

「『間食』の意に用いられる語となった」(たべもの語源辞典)

が、当時は1日2食が普通だったので、朝と夕の間、と幅が広い。

『七十一番職人尽歌』(室町時代)だと、

饅頭を点心とよんでいる、

とある(たべもの語源辞典)。「点心」は、

「字義は、胸に点ずるという意味で、僅かなものをすすめるということで、茶のこ、茶うけなどといい、小食をとることと同じ意味」

である(仝上)。『庖丁聞書』(16世紀後半)、『禅林小歌』(応永年間(1394~1427))には、

点心とは、腹心に点加する意であり、禅家では、昼食の意に用いるようになる、

とあり、『浮世草紙』(元禄期)には、

「侍は中食といひ、町人は昼食といひ、寺がたは点心と云、道中はたご屋にては昼息といひ」

とあり、「点心」は、どうやらこの時期、

昼食、

の意に落ち着いてきたようである(たべもの語源辞典)。

で、『貞丈雑記』(天保四年(1843))には、

「朝夕の飯の間のうどん又は餅などを食ふをいにしへは点心と云今は中食(ちゅうじき)又むねやすめなどといふ」

とあり、『類聚名物考』(宝暦三年(1753)~安永九年(1780))には、

点心は、俗にいう茶子(ちゃのこ)である。飯粥の類ではない、菓子の類で、心を点改する故に点心という。禅家のことばとのみ思ってはいけない。唐の時にすでにあったことばである、

とある。『嬉遊笑覧』(文政十三年(1830))には、

点心は、食後の小食である、蒸菓子の類を点心とする、

とある。

なお、「点心」には、豆沙包子(あんまん)、桃包(タオバオ、桃饅頭)、月餅等々の甜点心(てんてんしん)、餃子、焼売、春巻、ラーメン、チャーハン等々の鹹点心(かんてんしん)があるが、詳しい内容は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%B9%E5%BF%83に譲る。

ついでながら、

飲茶(ヤムチャ)

とは、

お茶を飲むこと、

であり、

中国茶を飲みながら点心を食べる行為、

を指す。

香港の飲茶.jpg



参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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ラベル:飲茶 点心
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2019年11月25日

みやげ


「みやげ」は、

土産、

と当てる。

ミアゲ(見上げ)の転、

とあり(岩波古語辞典、広辞苑)、

見上げ、

の項で、

ミヤゲの古形、

とあり、

よく見、えらんで、人に差し上げる品物、

とある(岩波古語辞典、広辞苑)。

しかし、日本語源大辞典は、

「『見上げ』の転といわれるが、『みあげ』『みやげ』の前後関係は明らかでなく、したがってその語源もはっきりしない」

と否定的である。「見上げ」とは、

上の方に視線を注ぐ、仰ぎ見る、

意で、そのメタファで、

人物・力量などが優れていると認める、

意であり、名詞としては、

まびさし、

つまり、

兜の鉢の前方から。庇のように出て、額を深く覆うもの、

と、やはり、「見上げる」に関わる言葉である。それと、

お土産、

の「みやげ」とのつながりははっきりしない。大言海は、

「都笥(ミヤコケ)の義。宮倉(ミヤケ)より都へ持って上がれる由にて、云へるにかと云ふ」

とする。

ミヤケ(宮笥)の義か(志不可起)、
ミヤケ(宮倉)の義か(三余叢談)、
ミヤケ(都帰)の義(言元梯)、
ミヤコケ(都笥)の義(日本釈名・国語の語根とその分類=大島正健・日本語源広辞典)、

も、ほぼ同趣旨とみられる。日本語源広辞典は、

宮(伊勢神宮)+ケ(筐)、

とする代参の御礼の意、とする説も載せるが、同趣の説を、

「寺社仏閣を参詣した証拠の品として、神札などの授かりものを故郷に持ち帰るのが、おみやげの原初的な形態。伊勢神宮で購入された神札「神宮大麻」もおみやげの元祖のひとつ」

と載せる(https://jisin.jp/life/living/1658791/)ものもある。

しかし、「土産」を、

ドサン、
あるいは、
トサン、

と訓ませると、

土地の産物、

の意であり、

みやげ、

の意もある。この「土産(ドサン)」は、中国語である。宋史・張齊賢傳に、

「齊賢詢知云々、虔州土産銅鐵鉛錫之數」

遼史・食貨史に、

「太平初幸燕、燕民以年豊、進土産珍異、上禮高年、恵鰥寡、賜酺連日」

とある(大言海)。「土産」は、「どさん」と訓んで、

土地の名産、

の意で用いていたので、「みやげ」とは別の言葉であった。「みやげ」の意では、万葉集の大伴家持の歌に、

家苞に貝そ拾へる浜波はいやしくしくに高く寄すれど

と、「家苞(いへづと)」という言葉があった。「家苞」は、

家へ持ち帰る「みやげ」であった。「みやげ」の言葉の由来は、どうも明確ではないが、「土産」に当てられたのは、

「『易林節用集』に『土産』の訓として『ミヤゲ』『ドサン』があり、『日葡辞書』には、『ミヤゲ』『トサン』に同様の語釈が施されていることなどから、『とさん』と混用され、『みやげ』に『土産』の字を当てるようになったのは室町末期以降と考えられる」

というところのようである(日本語源大辞典)。

「土産」は、

土産物の略、

ともある(諸橋大漢和)ので、たとえば、

「『旅先で求めて持ち帰る、その土地の産物』をミヤゲモノ(土産物)という。その語源は、モチカヘリアゲルモノ(持ち帰り上げる物)で、その省略形ノモチアゲモノが、モチ[m(ot)i]の縮約で、ミアゲモノになり、『ア』に子音[j]が添加されてミヤゲモノになった」

という音韻変化を辿る(日本語の語源)のも正攻法かもしれない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:土産 みやげ
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2019年11月24日

味噌


「味噌」の字については、手前味噌http://ppnetwork.seesaa.net/article/471631451.html?1574193427で触れた。「味噌」そのものの起源には、

中国伝来説、
日本独自説、

の二説があるらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8C

味噌蔵の木桶(愛知県岡崎市のまるや八丁味噌).jpg

(味噌蔵の木桶(愛知県岡崎市のまるや八丁味噌) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8Cより)


中国伝来説は、

古代中国の醤を根源とし、遣唐使により中国を経て伝来したとされる説、

である。醤(ひしお)は、中国語では同文字を jiàng (チァン)と発音するペースト状の調味料で、原料によって、肉のものは肉醤、魚のものは魚醤、果実や草、海草のものは草醤、穀物のものは穀醤と呼ぶ。日本での味噌は、大豆は穀物の一種なので穀醤に該当することになる(仝上)。

「語源も『未だ醤にならないもの』という意味の未醤から平安時代に味醤、味曽、味噌となった。701年の大宝律令に未醤が課税対象としてあらわれ、『主醤』という醤を管理する役職の記述もある」(仝上)

日本独自説は、

古く弥生時代からとする説もあるが、豆を用いた現在の味噌とは違う液体状のもので、魚醤に近い。日本においては縄文時代から製塩が行われ、醤(ひしお)などの塩蔵食品が作られていたと見られる。縄文時代後期から弥生時代にかけて遺跡から穀物を塩蔵していた形跡が見つかっている(仝上)。

「現在の味噌の起源に連なる最初は、奈良時代である。当時の文献に『未醤』(みさう・みしょう:まだ豆の粒が残っている醤の意味)と呼ばれた食品の記録がある。また『末醤』とも書かれ、『大宝令』(大宝元年(701年))の『大膳職』条では『末醤』と記される。他に味醤、美蘇の字もすでに見える。藤原京(700年前後)の遺跡からは、馬寮(官馬の飼養などを担当する役所)から食品担当官司に醤と末醤を請求したものとして、表は『謹啓今忽有用処故醤』、裏には『及末醤欲給恐々謹請 馬寮』と書かれた木簡が発掘されている」(仝上)

中国由来説は、豉(くき)をミソの前身とするものである。「豉」については、

納豆http://ppnetwork.seesaa.net/article/470884655.html)、

で触れたように、

「豆腐と同じように、中国から製法が伝わったものである。中国では、納豆を『鼓(し)』といった。これは後漢時代の文献に現れている。日本に伝わったのは古く平安時代の『和名鈔』に和名クキとしてある。鼓をクキとよんだ。中国の鼓には、淡鼓、塩鼓がある。淡鼓が、日本の苞納豆(糸引き納豆)にあたり、塩鼓が日本の浜名納豆・寺納豆・大徳寺納豆の類である」(たべもの語源辞典)

鑑真が持ってきたのは、豉ではないか、とする(たべもの語源辞典)。で、たべもの語源辞典は、味噌日本独自説を、こう展開する。

「日本列島の原住日本人は、海水から塩をとることを発見していたが、この保存に苦しんだ。海水からとった塩は、岩塩と違って、ニガリが多く、空気中の湿気をすぐとけて液体となり、流れ去ってしまう。この保存法として塩と食物を一緒にすることを考えついた。ダイズと塩を合わせることは、最も早く行われた。ダイズは、日本列島にコメよりも早く栽培されていた。アメリカのダイズは、日本のダイズをもっていったものである。醤というたべものは塩の保存法として生まれた。完全な醤になる前の状態のもの、未完成のものという意味で未醤(みそ)という名称が生まれた。(中略)中国から豉が入り韓国からも醤が入ってくる。これらを参考として日本のミソは生まれたものである」

と(仝上)。つまり、「味噌」の原点は、にがりの多い、海水由来の塩をどう保存するかから生まれた、という発想は、是非はともかく面白い。

「醤」から始まっても、日本独自に発展したにしても、「未(末)醤」から、

「未醤、あるいは末醤が、やがて味醤、味曽、味噌と変化したものであることは、『倭名類聚抄』(934年頃)や『塵袋』(1264-1287年頃)という辞書に書かれている」

と、「味噌」は始まることになる(仝上)。古く、

「天平二年(730)、尾張の醤・未醤が奈良朝廷に納めたという記録がある」

とか(たべもの語源辞典)。

鎌倉時代の『塵袋』には、

「味噌という字は正字かあて字か、正字は末醤であり、書きあやまって未醤となった」

と(たべもの語源辞典)し、

「末というのは搗抹することで、未せぬものは常のヒシホで、末したものがミソである」

と論じているとか。しかしこの論は、誤りとするのが江戸後期、文化末年(1818)の『松屋筆記』(小山田與清)で、

「未とすべきを味とし、醤を曾とし味噌となった」

とする。江戸中期、享保四年(1719)の『東雅』(新井白石)は、

「高麗醤を弥沙(ミソ)という、醤をヒシホというが、ヒがミに転じ、シホはソと転訛シタノガ、ミソである」

としているという(たべもの語源辞典)。大言海が「みそ」に、

味噌、
味醤、

と当て、

「韓語なり。東雅『宋の孫穆の鶏林類事に、醤を密祖と云ふ』とあり、今も然り、和名抄に、高麗醤の称あり、證とすべし、同書に末醤(マツシヤウ)を未醤(ミシヤウ)と誤れりとの説、或いは、唐僧、鑑真、嘗めて未曾有と称したるに起こるなど云ふ皆付会なり」

とするのは、東雅に基づいている。和名抄には、確かに、

「未醤、高麗醤、美蘇、俗用味噌二字」

とある。

朝鮮語miso(密祖)から(外来語辞典=楳垣実・外来語辞典=荒川惣兵衛)、

も同説である(日本語源大辞典)。江戸初期の、慶長一九年(1614)の『慶長見聞集』(三浦茂信)に、殿上人がミソをヒクラシというから味噌を虫というのだと書いてある(たべもの語源辞典)が、これは、

「古く味噌を香(かう)ともいうが、香の名に『ひぐらし』があるので味噌をヒクラシとよんだ」

ところによるらしい(仝上)。

鑑真が嘗めて、未曽有といったとか、文徳天皇のときに唐僧湛誉が来朝して献上した等々はみな誤りのようで、

「天平時代日本において独自の製法が工夫され、日本的に完成されていた」

と、たべもの語源辞典はいう。ただ、経緯から、それが、

未(末)醤、

なのか、

味噌、

なのかの区別は、後世ではつかない。「味噌」の語源として、

蒸し→みそ、

とする説がある。

「お蒸しmusi、omusiが、音韻変化によりmiso、omisoになった」(日本語源広辞典)
「秋大豆を蒸してつき砕くところから、岡山県・滋賀県神埼郡では味噌のことをムシ(蒸し)という。女性語のオムシ(お蒸し)は近畿・福井・大垣・岡山県小田郡・四国で用いられ、石川・三重県阿山郡では転音してオモシという。このムシ(蒸し)の転音がミソ(味噌)であった」(日本語の語源)

しかし、この言葉は、後世のものとみられる。

(左から)麹味噌・赤味噌・合せ味噌.jpg

((左から)麹味噌・赤味噌・合せ味噌 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8Cより)


参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
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ラベル:味噌
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2019年11月23日

うつらうつら


「うつらうつら」とは、今日、

しきりと眠りを催し、浅く眠ったり覚めたりするさま、

の意で使う。

うとうと、
うつうつ、
うつっ、
とろとろ、
とろり、

等々の類語がある。しかし、「うつらうつら」は、万葉集では、

なでしこが、花取り持ちて、うつらうつら、見まくの欲しき、君にもあるかも(船王〈ふなのおおきみ〉)

と歌われ、そこでは、

まのあたりにはっきりと、

という意味である。「うつつ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/415235904.htmlで触れたように、この「うつ」は、

現(うつつ)、

の意味である。「うつつ」は、ウツシ(顕)の語幹のウツを重ねた

「ウツ(現実)+ウツ(現実)」

の約で,目覚める意であった。しかし,『古今集』で「夢かうつつか」「うつつとも夢とも」等々と使われるうちに,夢と現の区別のつかない状態,

夢見心地

を指すようになった,とされる。そのため、「うつらうつら」の「うつ」を、

現、

の意とする説がある。つまり、

「うつ(現)し」などの「うつ」に接尾語「ら」の付いた「うつら」を重ねた語(デジタル大辞泉)、
あるいは、
「うつうつを約めて、うつつ(現)と云う。うつに助辞のらの添はりたる語」(大言海)、

で、本来の意は、

目の当たりにはっきり、

という意味であるが、「うつつ」の意味が、夢うつつの状態に変わったのに合わせて、

うとうと、
とろとろ、

の意になった、とするものである。しかし、別に、

「『うつ(空)』に接尾語『ら』の付いた『うつら』を重ねた語」(デジタル大辞泉)、
あるいは、
「『うつろな目』など『空虚』を意味する『うつ』」(語源由来辞典)、
あるいは、
「『ウツロウツロ(意識が空)』」

とする説がある。しかし、この意味は、はじめから、

浅い眠りにひきこまれるさま、

の意で使われており、あるいは、由来を別にするのかもしれない。半ば眠り半ば冷めているような状態の意で「うつらうつら」が使われ始めたのは、室町時代で、

「本来は、『うつらうつらと~する』のように、気の抜けた状態で何らかの行動をする時に用いた」

が(擬音語・擬態語辞典)、

「江戸時代になってから、特に睡眠と結びつき、現在のような意味で用いられるようになった」

とある(仝上)。こうみると、「うつらうつら」は、

現(うつつ)、

の意味のそれと、

空(うつ)、

の意味とは、別の由来と思われる。

「『目もうつらうつらに鏡に神の心をこそはみつれ』(はっきりと鏡に映るように神の本心を見た)』(土佐日記)のように、古くは全く逆の意味で使われていた。これは『現(うつつ)』を語源とする別の語と言われる」

とあるように(仝上)、「うつらうつら」の「うつ」は別であったが、「うつらうつら」の意味が、「うとうと」の意味に転じたとき、重なってしまったもののようである。

「うとうと」は、大言海は、

「うつらうつらのらを略したる、うつうつの轉なり(鴇(つき)、トキ)、ウを略してツラツラが、とろとろと轉じ、トロリと眠るなどと云ふ」

とする(大言海は、「とろとろ」も「うつらうつら」の略轉としている)が、これだと、「うつらうつら」が「現」由来なら辻褄が合うが、「空」由来なら、帳尻があわない。やはり、

「『うとうと』の『うと』は『う(っ)とり』の『うと』と同じく『うつ(空)』の変化した『うと』を重ねた語で、原義は『意識がなくなっている状態』を表す」

という説明(擬音語・擬態語辞典)が妥当に思える。「うとうと」が気の抜けた状態を意味したせいか、

「江戸時代には『うとうととありく春日野の里 座頭の坊三笠に杖をくくり付』(犬子集)のように、『歩行などがたどたどしいさま』の意を表す『うとうと』もあった。江戸時代、身体の機能が十分でない様子をいった『疎い』と関連する語と思われる」

との説明もある(仝上)。「疎(うと)し」は、

「空遠(うつとほ)しの約にもあるか」(大言海)、

なら「うつ(空)」と関わるが、

「ム(身)ト(外)シの転か。わが身が対象に対して疎遠な状態にある意」(岩波古語辞典)、

となると、「うとうと」の語源を改めて考えなくてはならない。しかし、

「『うと』は『うつろ』『うつほ』の『うつ』と同じく、空虚・からっぽを意味する」(日本語源大辞典)、

で落ち着きそうである。

日本語語感の辞典によると、「うとうと」は、

「『うつらうつら』よりさらに意識が薄れている状態」

らしい。

「『うとうと』は浅い眠りが持続する状態で、…『うつらうつら』は浅く眠ったり、覚めたりを繰り返す状態」

という(擬音語・擬態語辞典)。

ちなみに、「とろとろ」「とろり」は、「とろける」の「とろ」である。

「トロはとろく(蕩く)のトロと同じ」

であり(岩波古語辞典)、室町末期の日葡辞書には、

「溶け、または軟化するさま」

とあり、「とろとろ」「とろり」は、蕩けた状態をメタファに、

心の締まりがなくなる

気持ちよくうとうと眠る

避けに快く酔ったさま、

のような使い方をしたもののようである。ちなみに、「とろとろ」「とろり」は、

「眠気を催したり浅い眠りに入る様子を表すのに対して、『うとうと』は心地よい半眠りの様子」

とある(擬音語・擬態語辞典)。「とろとろ」は「うつらうつら」に近い。

参考文献;
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)

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2019年11月22日

戦いの痕


大岡昇平他編『存在の探求(上)(全集現代文学の発見第7巻)』を読む。

存在の探求上.jpg


本書は、

現代文学の発見,

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し,テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、二巻に分かれた、

存在の探求,

と題された前半である。収録されているのは、

梶井基次郎『櫻の木下には』『闇の繪巻』
北條民雄『いのちの初夜』
中島敦『悟浄出世』『悟浄歎異』
稲垣足穂『彌勒』
椎名麟三『深夜の酒宴』『スタヴローギンの現代性』
埴谷雄高『死霊』『存在と非在ののっぺらぼう』『夢について』『可能性の作家』『不可能性の作家』
武田泰淳『ひかりごけ』『滅亡について』

である。いずれも、何回か読んだことがある。この中で、群を抜くのは、

埴谷雄高『死霊』

である。これについては、別途触れたhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/471454118.html?1574308068が、存在とのかかわりを、自己意識側から、広げるだけ広げて見せたというところは、他に類を見ない。特に、本書に納められた、一~三章は、文章の緊張度、会話の緊迫度、無駄のない描写等々、のちに書き継がれた四章以降とは格段に違う、と僕は思う。

俺は、

と言って、

俺である、

と言い切ることに「不快」という「自同律の不快」とは、埴谷の造語であるが、少し矮小化するかもしれないが、

自己意識の身もだえ、

と僕は思う。埴谷は、自己意識の妄想を極限まで広げて見せたが、「存在」との関わり方には、

自分存在に限定するか、
世界存在に広げるか、

その世界も、

現実世界なのか、
或いは、
自然世界なのか、

で、方向は三分するように思う。『いのちの初夜』は、自分の癩に病にかかったおのれに絶望して、死のうとして死にきれず、

「ぬるぬると全身にまつわりついてくる生命を感じるのであった。逃れようとしても逃れられない、それはとりもちのような粘り強さ」

の生命を意識する。そして同病の看護人の佐柄木に、

「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです」

と言われる。その生命そのものになった己を受け入れよ、と言われる。

「あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこからくるか、考えてみて下さい。ひとたび死んだ過去を捜し求めているからではないでしょうか」

似た発想は、稲垣足穂『彌勒』にもある。主人公、

「江美留は悟った。波羅門の子、その名は阿逸多、いまから五十六億七千万年の後、竜華樹下において成道して、さきの釈迦牟尼の説法に漏れた衆生を済度すべき使命を託された者は、まさにこの自分でなければならないと」

ここにあるのは、自己意識の自己救済の妄想である。しかし、それは、叔父の用意した紅白の、輪を作った綱を示されて、

「咄嗟に思いついて、その綱の輪を首にかけた。そしてネクタイでも締めるようにゆるく締めてから二、三度首を振った」

主人公の、現状の悲惨な状況を無感動に受けいれているのと、実は何も変わってはいない。

「そのとき、突然僕は時間の観念を喪失していた。僕は生まれてからずっとこのように歩きつづけているような気分に襲われていた。そして僕の未来もやはりこのようであることがはっきり予感されるのだった。僕はその気分に堪えるために、背の荷物を揺り上げながら立止った。そして何となくあたりを見廻したのだった。すると瞬間、僕は、以前この道をこのような想いに蔽われながら、ここで立止って何となくあたりを見廻したことがあるような気がした。……この瞬間の僕は、自分の人生の象徴的な姿なのだった。しかもその姿は、なんの変化も何の新鮮さもなく、そっくりそのままの絶望的な自分が繰り返されているだけなのである。すべてが僕に決定的であり、すべてが僕に予定的なのだった。……たしかに僕は何かによって、すべて決定的に予定されているのである。何かにって何だ―と僕は自分に尋ねた。そのとき自分の心の隅から、それは神だという誘惑的な甘い囁きを聞いたのだった。だが僕はその誘惑に堪えながら、それは自分の認識だと答えたのだった」

「認識」と己に言い切らせる限りで、自己意識は、まだおのが矜持を保っているが、それはそのまま今のありように埋もれ尽くすという意味では、より絶望的である。それは、

絶望を衒う、

といってもいい。

それにしても、しかし、いずれも、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャのように、

神の作ったこの世界を承認することができない、

という、

「僕は調和なぞほしくない。つまり、人類に対する愛のためにほしくないというのだ。僕はむしろあがなわれざる苦悶をもって終始したい。たとえ僕の考えが間違っていても、あがなわれざる苦悶と癒されざる不満の境に止まるのを潔しとする」

境地から後退してしまうのだろう。埴谷も椎名も、ともに投獄の経験を持ち、そこから後退したところで、身もだえしているように見える。確かに、

戦いの痕跡、

はある。しかしそれで終わっていいのだろうか。そこには、日本的な、余りにも日本的な、

自己意識の自足、
か、
自然への埋没、
か、

しかないのだろうか。今日の日本の現状を併せ考えるとき、暗澹たる気持ちになる。

参考文献;
大岡昇平他編『存在の探求(上)(全集現代文学の発見第7巻)』(學藝書林)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2019年11月21日

点前


「手前」は、「手前味噌」http://ppnetwork.seesaa.net/article/471631451.html?1574193427で触れたように、

自分の手の前、
目の前、

の意で、そこから、目線で、

自分に近い方、
こちら、

あるいは、

自分の手元、

の意となり、

相手に対してこちらの立場、

の意となり、より近づいて、

自分の持ち物、
抱えている者、

の意となり、それをメタファに、

自分の腕前、
技倆、

の意となり、

家計、
暮らし向き、

の意としても使われる。茶道では、

点前、

と書いて、

茶道の所作、作法、

の意で使う。手元で、

茶を点(た)てるから、

点前、

というのかもしれないが、茶道では、お茶を点てることを、

点前(てまえ)

と呼び、

お茶を点てる道具を茶席に運び出して置きつけ、客の前で茶器、茶碗などを清め、茶碗をお湯で温め、そこへ抹茶を入れ、湯を注ぎ、茶筅でかき回す。点てた抹茶を客へ出す、最後に使った道具をもう一度、清めて、元の場所へ片付け、道具を持ち帰る、

という茶を点ずるための順序,手続、作法を、

点前、

と呼ぶ。もっともどの範囲を指すかは、素人にはわかりにくく、

茶道の作法のうち茶を点てたり,炉や風炉に炭を入れる所作(炉または風炉に炭を入れる所作は炭手前)、

という言い方(デジタル大辞泉)と、

茶の湯において茶を点(た)てたり、炭を置く行為、

という言い方がある(日本大百科全書)。運び入れ、運び出しは、入れないようであるが、準備と後片付けを入れないのは、茶道という限り、ちょっと納得しかねるのだが。

「点前」は、古くは、

手前、

と当てていたが、現在は、炭を置く行為である、

炭手前、

にのみ手前の字を使い、ほかはすべて点前の字をあてている。たとえば、

盆点前、
運び点前、
棚点前、
茶箱点前、

等々。「点」について、

「『小さな目印』という意味。つまり「少量のお茶を作る事」という意味で「点前」という漢字が使われるのです。
『点』という文字は『点眼』『点鼻』などにも使われますよね。どれもみんな『少量をさす』という意味があると思います」

という説明https://plaza.rakuten.co.jp/kaporinfukufuku/diary/200706080000/があったが、ちょっと疑わしい。

チャヲタツル、

という言い方が室町末期の日葡辞書に載る。

かき回して整える、

意とある(広辞苑)が、「立つ」http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140615-1.htmlで触れたように、「立つ」の語源は、

タテにする、
地上にタツ、

である。「たつ」の意味の、

抹茶を点てる様子.jpg

(抹茶を点てる様子 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6より)


上方へ向かう運動を起こさせて、目立たせる、
とか、
行為や現象の度合いを高めて、目立たせる、

といった含意の中、

薬を水に立てて、

という用例のように、

かき混ぜて、泡立たせる、

意である(この場合「点つ」と当てる)。「茶を点てる」とは、そのままの意ではないか。大言海も、

茶を立つとは、抹茶を湯にかきまづ、

としている。あるいは、日本語源広辞典の、

湯気をまっすぐ立ち昇らせる、

意とするのも、「たつ」の含意から見てあり得る。「点前」は、

「中国宋(そう)代の茶書『茶録』に『点茶』とあって、点前の語の初見となっている」

とあり(日本大百科全書)、炭手前の他は、流派によって違うが、

ふつうの点前を平(ひら)点前

といい、

薄茶(うすちゃ)点前

濃茶(こいちゃ)点前

とがある、とか。

竹台子総飾りを客付き(台子の正面に向かって右側)からみたもの.jpg

(竹台子総飾りを客付き(台子の正面に向かって右側)からみたもの https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E5%AD%90より)


『南方録(なんぽうろく)』によると、茶の湯の点前が初めて行われたのは、

「将軍足利義教が後花園(ごはなぞの)天皇を招いて饗応したあと、寵臣赤松貞村(さだむら)が水干(すいかん)・折烏帽子(おりえぼし)姿で披露した台子(だいす)点前が最初であったということになっている。それは、天皇拝領の唐物(からもの)道具を使った台子による3種極真荘(ごくしんかざり)の点前であった。現存する『室町殿行幸御餝記(おかざりき)』(徳川美術館蔵)によると、永享(えいきょう)9年(1437)10月21日のことであって、二か所に茶湯所がしつらえられており、そこで点前が披露されたことになる。『海人藻屑(あまのもくず)』(1420)に「建盞(けんさん)ニ茶一服入テ、湯ヲ半計(なかばばかり)入テ、茶筅(ちゃせん)ニテタツル時、タダフサト湯ノキコユル様ニタツルナリ」とあるので、貞村の点前とはこうした点て方であったと考えることができる」

とある(仝上)。ちなみに、「台子・臺子」(だいす)は、

茶道の点前に用いる茶道具で、水指など他の茶道具を置くための棚物の一種。真台子・竹台子をはじめとして様々な種類がある、

とかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E5%AD%90。こののち、やがて、

「草庵(そうあん)茶の成立とともに炉(ろ)の点前が考案されていった。興福寺別当光明院の実堯(じつきょう)による『習見聴諺集(しゅうけんちょうげんしゅう)』に記載された『古伝書』(1604、05写)には、「いるり(囲炉裏(いろり))の立様之事」「薄茶之立様之事」があって、台子を使った風炉(ふろ)と炉の濃茶と薄茶の両様の点前が記述されている。その後、わび茶の大成するにつれて茶席の極小化が行われ、千利休(せんのりきゅう)による「一畳半の伝」といわれるような運び点前が成立し、点前の基本がすべて整ったのである」

とある(仝上)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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ラベル:手前 点前
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2019年11月20日

手前味噌


「手前味噌」は、

手味噌、

ともいう。

自分のことを誇ること、
自慢、

の意である。一般には、「手前味噌」の語源は、

自前の味噌、
自家製の味噌、

の意味とされる。「手前」は、

自分の手の前、
目の前、

の意で、そこから、目線で、

自分に近い方、
こちら、

あるいは、

自分の手元、

の意となり、

相手に対してこちらの立場、

の意となり、より近づいて、

自分の持ち物、
抱えている者、

の意となり、それをメタファに、

自分の腕前、
技倆、

の意となり、

点前、

と書いて、

茶道の所作、作法、

に特定されたりするが、点前は、手前とも当てるので、あるいは逆に、点前の用例から、腕前の意になったのかもしれない。さらに、内々の意から、

家計、
暮らし向き、

の意としても使われる。その意味では、「手前味噌」の「手前」は、

自前、
あるいは、
自家製、

といった意味であったとみられる。それは、

昔は味噌は各家庭で作られており、それぞれがおいしくなるようにと工夫を凝らしていました。
そして、おいしく出来た味噌を「手前(わたし/自家製)の味噌おいしくできたから食べてみて」と自慢し合うようになった、

とみるhttps://eigobu.jp/magazine/temaemisoのが自然である。戦前までは、多くそうであった。もう少し踏み込めば、

自家製の味噌を独特の味があると自慢する、

意とみる(デジタル大辞泉)、ことになる。

赤味噌の一つ・江戸甘味噌(左)と淡色系の信州味噌(右).jpg

(赤味噌の一つ・江戸甘味噌(左)と淡色系の信州味噌(右) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8Cより)

しかし、異説を、

「手前味噌という際の「手前」は、…『自家製』や『自前』、また一人称の『自分』のことである。 手前味噌の『味噌』は食品の味噌のことだが、現代でも『ポイント』の意味で『味噌』が使われるように、『味噌』には『趣向をこらしたところ』の意味がある。これは各家庭で味噌を作り、それぞれかよい味を出すために工夫を凝らしていたためで、近世には『趣向をこらしたところ』の意味から、人に自慢する様子にも『味噌』が使われた。『手前どもの味噌は…』と自家製の味噌を自慢することから、『手前味噌』という言葉が生じたとするのも間違いではないが、『味噌』という言葉自体に、『自慢』の意味が含まれることから、自分を自慢する言葉として『手前味噌』が使われるようになったと考える方がよいであろう」

と述べるものがある(語源由来辞典)。しかし、逆ではあるまいか、

手前味噌、

という言い方があったから、それをメタファに、

特色とする点、
得意に思っている箇所、

という意味でも使われるようになっただけなのではないか。ことわざに、

手前味噌で鹽が辛い、

というのがある。

自分で作った味噌なら、塩が辛くてもうまいと思うこと、

転じて、

自慢話ばかりするので聞いていて苦しいことのたとえ、

の意である。

「味噌」の「噌」(漢音ソウ、呉音ショウ、慣ソ)は、

会意兼形声。「口+音符曾(層をなして重なる)」

としかない(漢字源)が、別に、

「噌」の字.gif

(「噌」の字 https://okjiten.jp/kanji2400.htmlより)


「会意兼形声文字(口+曾)。『口』の象形(「言葉」の意味)と『蒸気を発する為の器具の上に、重ねたこしきから、蒸気が発散している』象形(「かさねる」、「かさなる」の意味)から、『言葉が積み重なる』、『やかましい』を意味する『噌』という漢字が成り立ちました」

とあるhttps://okjiten.jp/kanji2400.html

「味噌」は、わが国だけで使うようである。字源には、

大豆を煮て米又は麦の麹と鹽とを和して醸す、

と載り、

豉(シ)、

と同じとある。「豉」は、

豆と鹽とを和して作りし食品(幽尗)、味噌の類、

とある。「豉」は、

くき、

と訓ませ、新撰字鏡に、

「豆を原料とした食物。味噌・納豆(なっとう)の類とも、たまりの類ともいう」

とある(精選版 日本国語大辞典)が、「納豆」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470884655.htmlで触れたように、

「中国では、納豆を『鼓(し)』といった。これは後漢時代の文献に現れている。日本に伝わったのは古く平安時代の『和名鈔』に和名クキとしてある。鼓をクキとよんだ」

ので(日本語源大辞典)、

塩鼓、

つまり、

浜名納豆、
寺納豆、
大徳寺納豆、

の意味である。「味噌」については、項を改める。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:手前味噌
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2019年11月19日

奇を衒う


「奇を衒う」は、

一風変わったことをして見せる、
わざと普通と違っていることをして人の注意を引こうとする、

といった意味である。しかし、

奇を好んで奇なること能わず、

という諺もある。

突飛なことを望んで、結局平凡な結果に終わる、

ことはままある。

揚子雲之文、好奇而卒不能奇也、故思苦而詞難、善為文者、因事以奇出、江河之行、順下而已、至其触山赴谷風搏物激、然後盡天下之変、子雲惟好奇、故不能奇也

とある(後山詩話)。

事に因りて以て奇を出だす、江河の行くや、下るに順うのみ、其の山に触れ谷に赴き風搏ち物激するに至りて、然る後に、天下の変化を尽くす、

でなくてはならないようだ(故事ことわざの辞典)。

「てらう」の「衒」(漢音ゲン、呉音ケン)は、

「会意兼形声。玄(ゲン)は、細くて見えにくい糸をあらわす。よく見えない、あいまいである意を含む。衒は『行(おこなう)+音符玄』で、相手の目をごまかして、真相がよく見えないようにする行いのこと」

である(漢字源)。「てらう」意であり、

学問・才能や外見を、(あるようにごまかして)みせびらかす、

意となる。

和語「てらふ(う)」は、

照るを他動詞に活用す。韻會「衒、自矜(ほこる)也」、

と載る(大言海)。

自矜、

とはなかなかうまい言い方である。字鏡には、

「衒、亂也。天良波須、又賣也」

とある。古語大辞典に、「てらふ」の意味として、「みせびらかす」以外に、

買い手をつのる、
売る、

とある。四声伊呂波韻成に、

「売、ウル・ヒサグ・テラフ」

とある(古語大辞典)。売るために、己を誇示する、という含意が、「てらう」にある。しかし「照る」には、

四面に強い光を放つ、光る、
つやがある、
(光を受ける意で)うつむく、あおむく、
(面照ルの略)能楽で顔面が少し上向きになる、

等々の意はあるが、「売る」意はない。「てらう」のみが持つ意味のようである。

「衒う」の語源は、

「照る」の他動詞、

とあるが、岩波古語辞典、広辞苑は、

照らふの意、

とある。つまり、

光を当てる、

意であるが、「照る」には、いくつかの解釈がある。

人にテラス(照)義(名言通・和訓栞・大言海・国語の語根とその分類=大島正健)、
ひけらかし売る意で「照る」の他動詞形(日本語源=賀茂百樹)、
「てらふ」の意(小学館古語大辞典)、
テリ(光)ハヒの約。ハヒは活用語尾(日本古語大辞典=松岡静雄)、

どうも、元々の意は、

自矜、

と、自らを売り込むために、自分を光り輝かせる、という意味であったのではあるまいか、と疑問を感じたが、元々の「衒」という漢字自体が、

通じて眩に作る、

とあり(字源)、

誇衒、

という言い方で、見せびらかす意のほかに、

自ら己をとりもちて世に広告する、自ら行きて、てらひ賣る、

という意味がある。

估衒、

というように、

衒女不貞、衒士不信(越絶書)、

と、

自己の美貌学才などを自ら世に広告する者、

の意で使われる。「売る」という意味は、「てらふ」に、

衒う、

と当てて以後、「衒」の漢字の意味から出たのかもしれない。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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