2012年10月26日

アイデアを一杯出す


アイデアは,いわば脳内のリンクをどう多岐に張るかにかかっている。はっとひらめいたとき,0.1秒脳内の広範囲が活性化するという。つまり,いつもとは違うところがつながって,ひらめきにいたったことになる。
それを前提にすると,アイデア出しは自己完結させてはならない。ブレインストーミングが有効のなは,それによって,自分の脳が刺激を受け,思わぬところとリンクさせることが出来るからだ。
また一つは,その意味では,いつものように見ている限り,同じようにしか見えない。そこで,見え方を変える工夫がいる。
たとえば,ひっくり返す,裏返す,遠ざける,近づける,分解する,解体する等々。そうやって見え方を変えることで,いつもと違う見方を強制的にする,というのもひとつ。
おいおいお伝えするとして,大事なことは,脳内リンクが多様化,多岐化するのを常態にすること。それには,脳内リンクの筋力トレーニングしかない。
ばかばかしくても,日々考え続ける。いま一日一個を実践している。ぶっちゃけると,実は今年にって,一日一個にしたが,従来は一日二個であった。歳とともに,二個目が出なくなって,とうとう諦めた。二個にチャレンジするのもいい。
その成果は,次のページを見てほしい。実にくだらないことに着目してほしい。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

アイデアは,完成品が出るのではなく,くだらないものから,揉んでいく。その意味で,アイデアにくだらないものはない。くだらないと一蹴した瞬間,大事な獲物を逃す。出発点にすぎないことを肝に銘じなくてはならない。


http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0211.htm

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#アイデア
#発想
#製品開発
ラベル:アイデア 発想
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2012年10月27日

脳は何でも知っている~相手の可能性を信ずるとはどういうことか


ミルトン・エリクソンは,若い頃の自分の体験で,迷い馬に出会ったとき,ただその馬に跨って,馬の行きたいところにしたがい,馬の歩くにまかせ,やがて,飼い主の牧場にたどりつき,戻ってきた馬に飼い主が驚いた,という逸話を,無意識を信ずるという例として,紹介していた。
最近の脳研究では,人が自分の意思する意図を意識の上るのが,実際に運動が生ずる150ミリ秒前,さらにそれよりも400ミリ秒も前に,脳の運動神経系の活動電位が変化している,という。つまり,手を伸ばして,コップを取ろうと意思する150ミリ秒前に,無意識は動いており,それより400ミリ秒も前に,脳は動かそうという活動開始している,というわけだ。
脳が損傷し,意識的な笑い顔が作れなくなっても,脳は自然に笑い顔つくれる,ともいう。よく,脳は,自分が知っている以上のことを知っている,というが,脳という自分のリソースのもつ奥深さから考えると,人が意識している部分はほんの一部で,その一部でおのれ全体左右しようとするのではなく,無意識というより,おのれの脳の志向を確かめて動いてみる方が先かもしれない。
その意味で,自分のリソースというのは,自分で意識的に探索しようとするよりは,無意識の志向をどう引き出すか,という視点で考えた方がいい。精神科医の神田橋條治は,精神療法の目指すのは,その人の遺伝子を開花させることであり,それがその人の自己実現だ,という趣旨のことを書いていたが,それはこの文脈で考えると,よくわかる。
それは,必ずしも,本人が意識している「なりたい自分」,口に出している「ありたい自分」ではないかもしれない。それ探し出すために,対話療法をするともいえる。コーチングもまたその一翼を担っているとすれば,本人の語る言葉ではなく,その人のリソースの語りだすもの,とりあえずは言葉にならない感情,思いを導きださなくてはならないのかもしれない。「クライアントの可能性を信ずる」というのは,単にその人の伸び白を信ずることではない。まだ本人も知らないリソースの可能性現前化させること,それこそが遺伝子開花させることでなくてはならない。結構奥深く,重い。(敬称略)

今日のアイデアは,
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#エリクソン
#脳
#神田橋條治
#無意識
ラベル:自己実現 無意識
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2012年10月28日

リーダーシップをとるという生き方を選択する


 明治維新後,四半世紀経て執筆され,更に10年後にやっと上梓された,福沢諭吉が『痩我慢の説』で,勝海舟の幕末の政権運営を,「予め必敗を期し,その未だ実際に敗れざるに先んじて自ら自家の大権を投棄し,只管平和を買わんとて勉めた」と痛罵したのに対し,福沢から送られたその本へ,勝はこう返事したといわれています。「行蔵は我に存す,毀誉は他人の主張,我に与からず我に関せずと存じ候」。簡潔な,しかし痛烈な返答の後背にあるのは,リーダーを語ることとリーダーたることとは違います。リーダーシップを論じることとリーダーシップとも違います,という勝の矜持です。『痩我慢の説』は,維新後四半世紀経て後執筆され,更に10年も後に上梓されています。そのときが終わってから,何を言おうと所詮評論でしかない。勝の口癖,「機があるのだもの」という声が聞こえてきそうだ。

 リーダーを論ずることとリーダーシップを論ずることとは,微妙な違いがある。確かにリーダーはポジションを指し,そのポジションを機能せしめる働きとして,リーダーシップは重要になる。だからといってリーダー論ずることが,リーダーシップを論ずることの代用にはならない。なぜなら,リーダーシップはポジションに関係なく,すべてのものに必要なものだからだ。すくなくとも,組織で動くものにとっては,それなしでは仕事することは,蛸壺の中で自己完結して仕事することを意味し,それは真に仕事するということにはならないからだ。
 
 たとえば,仕事を問題解決と置き換えて考えてみる。問題を解決していくというのは,次々起こる問題に対処するという意味ではない。目標立て,そこのある障害(問題)をクリアして,目標を達成していくことと置き換えれば,仕事のイメージが明確になる。単に原状回復ではなく,目指すべき水準(期待値と置き換えてもいい)を実現していく,ということである。その場合,問題のハードルが高ければ高いほど,つまり目指す達成水準が高いほど,自己完結していて実現できるはずはない。そのとき,問題解決とは,それ解決できるモノやコトを動かせる人を動かさなければ,一人で出来るはずはないのだ。
 では幕末,海舟と諭吉にとって,目指すべき目標は何か。それは,徳川家を存続させることでしかない。なぜなら,既に大政奉還し,幕府機能は朝廷に返上しており,幕府はないからだ。そのとき,勝がつかった論法は,薩摩,長州という藩を残したまま,徳川家のみを潰そうとするのは,「薩長の私だ」という理屈だ。西郷は,「我国を捨て皇国を興す」(ここでいう国は薩摩藩を意味する)と書いていた。慶喜に辞官納地を求めるなら,薩摩も長州も領地を返納しなくてはならない。徳川だけにそれを求めるのは,「私」であり,それを強いるのは「私」だ。大政奉還した慶喜のほうが「公」である,という論法だ。
鳥羽伏見の敗戦で戦線離脱し,逃げ帰ってきて,しおれている徳川慶喜と幕閣に,「だから言わんことじゃない,どうするつもりか」と,面罵した。さんざん慶喜に煮え湯を飲まされた海舟は,ここで既に慶喜が投げ出してしまっているのだ,海舟も投げ出しても良かった。「何をいまさら,俺は知らぬ」という選択肢もあったはずだ。しかし,勝はすべてを引き受ける。松浦は,「ひとは状況にしたがって自分の価値を最も発揮できる生き方を確立する権利がある」と書く。
 ここから勝のリーダーシップが発揮されていく。まずは,徹底恭順するよう上司(慶喜)を動かし,そうやって「私」を捨てた徳川が「公」を貫くことで,相手にも「公」で応じさせようとする。相手にも「私」を捨てさせようとする。「我今至柔示して,之に報ゆるに誠意以ってし,城渡す可し,土地納む可し,天下の公道に処して,其興廃を天に任せんには,彼また如何せむや」と。見事に徳川家を残したのだ。
諭吉のような外部の人間には,その瞬間の勝の立ち位置は見えない。このとき最もおのれの真価を発揮できる,そういう生き方を,このとき勝は選択している。リーダーシップとはそういうものだ,と勝は言っている。だから後から何をいわれても,毀誉は他人の主張,我に与からず我に関せず,なのだ。その一瞬,その人の生き方の価値にかかわる,選択肢が目の前に現れる。それを選んだとき,そのリーダーシップは,そういう個性,個の輝きをもっている。それはほんの些細な問題解決でも同じである。
組織にいる人間にとって,リーダーシップとは,トップに限らず組織成員すべてが,いま自分が何かをしなければならないと思ったとき(それを覚悟という),みずからの旗を掲げ,周囲に働きかけていく。その旗が上位者を含めた組織成員に共有化され,組織全体を動かしたとき,その旗は組織の旗になる。リーダーシップにふさわしいパーソナリティがあるわけではない。何とかしなくてはならないという思いがひとり自分だけのものではないと確信し,それが組織成員のものとなれば,リーダーシップなのである。

参考文献;松浦玲『勝海舟』(中公新書)

今日のアイデア;
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#リーダーシップ
#勝海舟
#リーダー

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2012年10月29日

人生を表現する生き方~影響を受けた二冊


 今回は,影響を受けた二冊,『ノマドワーカーという生き方』『タレントだった僕が芸能界で教わった社会人としての大切なこと』について語りたい。

 自己表現というとき,私にとっては,自分の内面のことであり,自分の思いであり,自分の感情であった。その自己を自分の生活に広げたとき,自然主義文学が輸入され,勘違いから,日本的な私小説が始まった。別に田中英光も好きだし,葛西善蔵も嫌いではない。しかし私小説のめり込むのは嫌であった。その意味で,生活を表現する,ということにはどこかに偏見というか先入観があった。文学的な表現力として私小説レベルにいかなければ,ただの公開日記に過ぎない,と。
 しかしそういう鱗が目から落ちたのは,飯塚和秀氏の『タレントだった僕が芸能界で教わった社会人としての大切なこと』出版記念イベントで,プロのブロガーとして紹介された立花岳志氏に会い,「日記と情報の違い」を気づかせてもらい,改めて『ノマドワーカーという生き方』を読んだことが大きい。そこで気づいたのは,自己表現から自己の生活表現へ,そして自己の生活表現から,自己の人生の表現へ,さらに自己の生き方そのものの自己表現へという,表現の何重もの変化を経ている,という印象である。
文学表現ということではなく,自己表現として考えたとき,何か大きな変化が,とうに起きているのに,気づけぬまま,相当遅れてたどりついた,という感じなのである。
 で,その視点から見たとき,私がたまたま出会った,二冊の本,『ノマドワーカーという生き方』『タレントだった僕が芸能界で教わった社会人としての大切なこと』は,期せずして,自己の人生を表現しており, 面白いことに,そこ徹底していくと,自分の人生そのものの自己表現へと,表現媒体が移行している感じなのである。テーマが,生き方になった瞬間,生き方自体の自己表現へと発展せざるえないのではかろうか。
 この二冊並べることの客観的な妥当性はわからない。他にも先行する人生表現はあるのかもしれないが,自分の中では,両者が出会い,初めて,表現方法の逆転に気づかされたという意味では,並んでいるのである。
 考えてみれば,たった一回しか上演されない演目を,みずから主役を張っているのだ。それを表現してみることも大事だが,そう意識したとたん,その自分自身の表現そのもの工夫する方向にいくのは当然の流れなのかもしれない。

 いま,そう言っている自分自身が,自己表現の場としてブログに参入したのも,この二冊の影響が大きい。まだまだとても人生の表現にまでいたっていないにしろ,自己表現のもうひとつの舞台として,ブログを選択したのに違いはない。
 自分の先入観から考えると,多分本屋ではこの二冊を手にすることはなかったと思う。しかし自分の人生を表現し,さらには自分の人生そのものを自己表現するというのは,おのれの生き方そのもの変えていく,いやより高みへと変えざる得なくなるはずなのだ。そのことを,すくなくとも私は,この二冊から教えられた。
 己を知ること莫き患えず,知らるべきことを為さんこと求む,と孔子の仰せも,その文脈でみると,生き方としての自分ブランドを高めることと言い換えてもいいかもしれない。

 たしかフランクルがいったと記憶しているが,どんなひとも語りたい自分の人生もっている。そうなら,語る面白さを知れば知るほど,語るに値する人生を,たった一度の舞台で自己表現をきわめたくなるに違いない。それでいいのではないか。できるだけ極上の質の高い表現をするために。

今日のアイデア;
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#立花岳志
#飯塚和秀
#ノマドワーカーという生き方
#ブロガー
#自己実現
#自己表現
posted by Toshi at 22:39| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする

2012年10月30日

自分の仕事に旗を立てる~誇りに名づけする

 
 かつてある大きな装置産業で仕事をさせていただいたとき,担当者は,「うちの社員はやる気がない,昨日本社の健康管理室の人が話しをしにきてくれたが,あまりの態度の悪さに怒って帰ってしまった」というのである。何で外部の人間にそんなこと言うのかも変だが,「やる気がない」と決め付けられたものは,もっとやるせないに違いない。
確かに,言われる通り,態度はよろしくない,しかし,一応聞いてはいる。そこで,ちょっといつもとより早く,「自分のやっていること振り返って,自分にキャッチフレーズつけてみよう」といった。
(オーソドックスな旗の意味と手順は,http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0653.htm
やり方は簡単なのにした。ただ自分のやっている仕事を洗い出して,それにキャッチフレーズをつけるだけ。でもけっこう面白がって,こんなのありかと聞いてくる。詳しいことは忘れたが,「番長」とか「囃子役」というのがあったと思う。なかなかかわいいものだ。
これは,改めて自分の誇りに名づけ,ラベルつける作業なのだ。
そして,ふと思った。自分の仕事に誇りもつ機会など与えられていないのだ。ただ日々,やらなくてはならないことに追いまくられ,それが出来るか出来ないかしか問われない。それをやることの意味やそれを自分がすることの意味は考える機会もない。一体何が自分にしか出来ないことなのか,自分だから出来ることなのか,立ち止まる機会もない。
いや,多分機会は一杯あるし,キャリアについて考える場も与えられている。しかし生身の誰それに引き寄せた,自分の誇りを考える機会とは受け止められなかったのかもしれない。なぜなら,出来ることリストをいかに早く積み上げるかに関心を向けざるえない,強いプレッシャーがあったに違いない。
 大体,やる気という言葉のイメージは,一般には,「何にでもばりばりやる」「積極的に何でも取り組む」「困難なことでも根気よくやり遂げる」「何にでも進取の気持がある」のようだが,ある調査では,「静かに熟考する」「納得しないことはやらない」「感受性が強い」「生き生きしている」「仕事を楽しんでいる」「何かを達成しようとする意志が強い」「ユーモアがある」「心に余裕がある」「人中では目立たない」「やさしい配慮がある」と,それぞれのキャラや個性によってかなり幅広いのだ。
 だから,やる気があるとかないとかということ,たとえば親や会社の上司がいうときは,自分のイメージに基づいていっている恐れがある。そのとき,どういう期待をしているかによっては,それ自体が本人のやる気殺ぐことだってありうる。たとえば, 「バリバリ動き回る」とか「根性がない」といった肉体的な表現,「あんまり会議でも発言しない」「自分の主張がない」「チャレンジする気持がない」「言われたことしかしない」「高めの目標を与えてもそれをクリアしようと努力しない」「すぐできません,わかりませんと音を上げる」「自分でとことん考えようとしない」「仕事を掘り下げようとしない」「仕事の幅が狭く,積極的に努力したり勉強したりしない」等々。前出の多様なやる気とのギャップは大きい。
 それなら,それぞれのやる気を表現してもらう,それぞれがやる気のある状態になっているとどなっているのかを語ってもらうほうが,手っ取り早い。それを仕事上の役割や立場にひも付けするのは上司の役割なのだ。


今日のアイデア;
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#やる気
#仕事の旗
#仕事の誇り

posted by Toshi at 07:26| Comment(1) | やる気 | 更新情報をチェックする

2012年10月31日

相手に〇をつける


われわれは,まず相手に先入観をもつ。
強持てだ,不潔だ。愛想が悪い。目が怖い等々。自分には,それと,こちらの持つ仮説とどこが違うのかがわかっていないようだ。たとえば,コーチAでは,タイプ別けということをいう。私はコントローラーというタイプが強く。それと並んで,プロモーターがある。それがわかると,私の振る舞いのすべてがコントローラーにふりわけらけられる。やることなすことが,コントローラーの枠にはまって見えられることで,いらだつかしょげるか,相手にしないかしか選択肢がない気がしてくる。それで納得している相手の当てはめを聞かされていると,自分が自分でなくなっていく印象がある。セラピストが,DSM-Ⅳの分類基準に当てはめて病名診断をするのも,それとよく似ているのかもしれない。

今更めくが,ロジャースは,「人間的成長の促進に関するいくつかの仮説」の中で,こういっている。
「私がある種の関係を提供できるなら,相手は自分が成長するために,その関係を用いる力が自分の中にあることを見出すであろうし,そこで変化と人間的な成長が生じるであろう」
そして,有名な3つの要点を取り上げている。

「私は自分自身が関係の中で純粋であるほど,その関係は援助的なものになることを見出してきた。このことは,私が出来る限り,自分自身の感情に気づいている必要がある,ということを意味している。つまり表面的には,ある態度を表しながら,より深層の無意識的な水準では,別の態度を持っているのでは,純粋であるとは言えない。」

「第二の条件として,私は次のことを見出している。すなわち,私がその人に対して受容と好意を持てば持つほど,その人自身の成長のために用いることができるような関係を創りだすことが出来る。受容という言葉の意味は,私にとって,無条件に自己の尊厳を持つ人間―つまりどんな状態や行動や感情であろうと,価値ある人間―として,その人に暖かい配慮を寄せるということである。」

「私はまた,私がクライアントを理解したいと思い続けていると感じている度合いに応じて,つまり,その瞬間の相手の感情とコミュニケーションのどちらについても,その人が見ているままに,感受性豊かに共感することによって,関係が重要なものになるということ見出している。」

ここにすべてが尽きているような気がする。だから,こころある人は,仮説を立てて人に向きあわない。あるいはすぐに自分の仮説てばなすことができる。
でも,自分でもたぶん無意識でやることがあるだろう。その仮説から見れば,すべてが,そう見えてくる,というように。それで相手がわかった気になる。

その意味では,コミュニケーションについていった,エリクソンの原則を,自分は大切にしたいといつも思っている。

ひとつ,相手について仮定しないこと
ひとつ,緩やかな変化
ひとつ,相手の枠組みであること
ひとつ,自らの考えを変える力があることを,相手自身が気づけるような状況つくること
ひとつ,そのために使える相手のリソースとなるもの相手の中に見つけて利用する
そこにあるのは,眼鏡や仮説ではなく,逃げることなく,相手と向き合うことだ。

同じことを,ブリーフセラピーの若島礼文先生は,
 まずは相手に○をつける。
 自然な変化の語り(どう良くなっているか,良くなっているところに焦点あてる)
 Do something different
の三原則挙げる。

またCTI系のコーアクティブ会話術では,
 先ずは受け止める
 いいところを見つける(①とにかく「いいね!」という。②その考えのいいところは,といい点にフォーカスする,③さらに加えると,とそれを発展させる )
 感謝を見つける
の三原則を挙げる。

先ずは相手に○印つけなくて,どうするのか,自分にまず言い聞かさなくてはならない。わたし自身が,人以上に,好き嫌いの先入観が強いから。

参考文献;『ロジャースが語る自己実現の道』(岩崎学術出版)



今日のアイデア;
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