2012年11月23日

耐えられない言葉の軽さ~緘黙の勧め



いつから無口が貶められるようになったのだろう。会話の中の沈黙が,いつから無視されるようになったのだろう。
沈黙もまた主張であり,発言だということを,いつから忘れられてしまったのだろう。いつから,黙り続ける自由まで,失ったのだろう。あるいは人がしゃべりたい時まで待つだけの間をいつからうしなったのだろう。緘黙という言葉がある。黙る,ということだ。そこには強烈な意志がある。もっとも,妻から問い詰められて,完全黙秘という完黙というのもあるが。

一体いつから我々はこんなに言葉を雑音のように吐き出すようになったのか。昔の,というと笑われそうだが,父親は必要な時しかしゃべらなかった。ここぞという時にだけしゃべった。それがいつの間にかそういう父親は,父親失格の烙印を押されかけている。しゃべるというのは,ハミングのように言葉をまき散らすことなのか。

もちろん,僕は,「口に出さないことは伝わらない」という主義なので,黙っているだけで感じ取るとか,見ただけで相手を目利きするとかということのできないせいもあるので,しゃべるということをなおざりにする気がないが,何が大事で何が大事でないかの区別もつかないくらい,オンオフなしに,ずっとしゃべり続けていれば,耳は自動的に半開きになり,聞かなくなるのではないか。

さんまに代表されるような吉本芸人が,軽快にしかし薄っぺらにしゃべりつづけるだけのテレビ番組がいつから,ゴールデンタイムを占領するようになったのだろう。芸人だけが楽しんでいるのを,こちらはあほ面をして眺めている(ということは自分も観ているのだが)。軽薄にしゃべり続けることが,どうして価値あるとみなされるようになったのだろう。電車の車内放送から始まって,家庭,警察,みな喋り捲っている。子供に教え諭すように,おせっかいなおばさんのように。もっとも,おせっかいなおばさんも少なくなったが。

例が悪いが,オバマの演説は確かにうまい。しかし,四年たって,あの熱気を引き起こした演説がもたらした効果が,どれだけ本気だったのか,どれだけ実現されたのか,それぞれの希望に灯がついたのか,そろそろ検証されるだろう。演説のうまさだけを云々することに,いまもかつても疑問だった。この間の大統領選が,うってかわって熱気がうせている(伯仲という別の熱気だった)のも,そのせいかもしれない。どうもつい,巧言令色鮮なし仁,を思い浮かべてしまう。わが国にも,演説のうまさは比べようもないけれど,そういう政治家が多い。覚悟がなさすぎる。リスポシビリティとは,有言実行のことだ,と訳した人がいるが,つまりは言ったことに覚悟するということだ。言い訳も,説明も無用ではないか。やったか,やらなかったか,だけなのだから。

その意味では,壺井繁治の詩が好きだ。そこには,饒舌にも,沈黙にも無用な意味を与えていない。しゃべることも黙ることも,同格のコミュニケーションなのだ。

黙っていても
考えているのだ
俺が物言わぬからといって
壁と間違えるな

かつて沈黙は,寡黙に通じ,寡黙は黙考に通じた。しかし無口は嫌われる。自分を主張しろ,という。しかし主張することだけがいつも正しいわけではない。緘黙という言葉がある。意志として黙ることだ。沈黙しがちなことを,しゃべれないとおせっかいに言うようになったのは,なぜなのだろう。なんにでも,病名というレッテルを貼り,そうすることで,相手を理解したつもりになり,無遠慮に,土足で人の中へ踏み込んでくるのとよく似ている。

黙って
暮らしつづけた
その間に
空は
晴れたり
曇ったりした

と壺井繁治は詩に書いた。かつて職人は寡黙であった。静かな毎日がそうして過ぎていった。

黙り虫壁を通す

あるいは

言葉寡なきを求めて子の師たらしむ

とも言う。もちろん,昔から,

木像物言わず

とか,

黙り者の屁は臭い

と,諺にも無口への悪口はある。韻を外すときは,外すことを意識していた。そこに格調があった。しかし誰もがしゃべり続け,韻を外しっぱなしになると,ただ無秩序に,エントロピーが増大し,ノイズが漂うだけだ。底の浅さだけが目立つ。

だからと言って,誤解されたくないので,付け加えるが,昔の日本人は格調が高かったなどとは口が裂けても言わぬ。日中戦争での上海上陸作戦で,上陸に加わった部隊のほとんどが全滅し,わずかに生き残った数十名の中にいた父が,左腕を負傷し帰国した(だから僕が生まれた)が,あるとき,ぽつりと,「(中国では)ひどいことをしてきたからな」といったことがある。その時の表情を忘れない。何か苦いものを飲みこむ感じだった。そんな人でなしのことをしたのも,かつての日本人だ。しかし,こんなに意味なく,むやみにしゃべりはしなかったのではないか。ただそれをかみしめるやつも,かみしめないやつも,黙って受け止める度量があった気がする。器量があった。いまは黙って受け止めるだけの器がない。もちろん僕自身も含めて,器が小さくなった。

平均身長は,何十センチも伸びて,倭人ではなくなったのに,倭人であった頃のほうが,はるかに器が大きかった。それは幻想かもしれないが。

歳を食った人間の繰り言かもしれないが……。


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#沈黙
#コミュニケーション
#緘黙
#壺井繁治


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2012年11月24日

コミュニケーションのダブルバインドとコミュニケーション教育~『わかりあえないことから』よりⅠ


平田オリザ『わかりあえないことから』(講談社現代新書)について

企業の人材担当者は重視する能力のトップにコミュニケーション能力を上げる,という。しかし,そのコミュニケーション能力の内実がはっきりしない。学生は,「きちんと意見が言える」「人の話が聞ける」「空気を読むこと」等々という。しかし,著者は,企業が求めるコミュニケーション能力は,ダブルバインド(二重拘束)に陥っている,と指摘する。たとえば,自主性を重んじる,と常日頃言われ,相談に行くと,「そんなこと自分で判断できないのか,いちいち相談にくるな」と言われる。しかしいったんトラブルが起きると,「なんできちんと上司にホウレンソウしなかった」と叱られる。

これは,創造性や商品開発でもある。「それぞれの創造性を生かす」と言いながら,指示されたこと以外をする余地はあまりない。勝手なことをしても,上司は無視する。有名な例では,大手家電メーカーの技術者がある技術を開発し,上司に提案した。なんとその上司は,「うちのような大手がそんなことをやれるか,ほかにやるところがあるだろう」と拒まれ,挙句,本人は起業し,その技術がいまや家電各社に採用されている,という。

コミュニケーションでも本音と建前がある。たとえば,異文化理解能力,つまり異なる文化,価値観を持った人に対しても,きちんと自分の主張を伝えることができる能力でグローバルな経済環境で力を発揮してもらう。しかし一方では,上司の意思を察して機敏に行動する,会議の空気を読んで反対意見は言わない,輪を乱さない等々が暗黙のうちに求められている。

こんな矛盾した能力が求められているが,求める側がその矛盾に気づいていない,ダブルバインドの典型だ。ベイトソンは,これが統合失調症の原因だという仮説を提起したことがある(今は否定されている)が,例えば,親が「体さえ丈夫ならいい」と一方で言いながら,成績が悪いと怒り出す,こうした例と比べると,異文化理解力と同調圧力のはざまで,コミュニケーションに戸惑う状態が目に見える,と著者はいう。

著者が全国の小中学校でコミュニケーションの授業や国語教材開発を通して,気づいたのは,コミュニケーションの意欲の低下。

特に単語でしゃべる。「ケーキ」「というように。しかし子供が少ないから,優しい母親が,それだけでわかってケーキを出す。子供に限らず,言わなくて済むなら,言わないように言わないように変化する。しゃべれないのではなく,しゃべらない。能力ではなく,意欲の低下。これは学校でも同じだ。少子化で,小1から中3まで30人一クラスというところが結構ある。いくらスピーチの練習をしても,お互いに知り尽くしていて,いまさら話すことはない。少子化が「ボディブロー」のように効いている,と著者はいう。

「伝えたい」という気持ちは,「伝わらない」という経験からしか来ないのではないか。いまの子どもたちには,その経験が不足している,という。

そこで,著者は,現在のコミュニケーション問題を,二つの切り口から提起する。

ひとつは,コミュニケーション問題の顕在化,
もうひとつは,コミュニケーション能力の多様化。

第一の点については,こう言っている。

若者全体のコミュニケーション能力は,どちらかと言えば向上している。「近頃の若者は……」と,したり顔で言うオヤジ評論家たちには,「でも,あなたたちより,いまの子たちの方がダンスはうまいですよ」と言ってあげたいといつも思う。人間の気持ちを表現するのに,言葉ではなく,たとえばダンスをもって最高の表現とする文化体系があれば(中略)日本の中高年の男性は,もっともコミュニケーション能力の低い劣った部族ということになる。
リズム感や音感は,いまの子どもたちの方が明らかに発達しているし,ファッションセンスもいい。異文化コミュニケーションの経験値も高い。けっしていまの若者たちは,表現力もコミュニケーション能力も低下していない。

事態は,じつは逆ではないか。

全体のコミュニケーション能力が上がっているからこそ,どんなときも一定の数いる口下手な人が顕在化したのではないか,と著者はいう。

かつては,そういう人は職人や専門技能者になっていった。「無口な職人」だ。しかしいま日本の製造業はじり貧で,大半は第三次産業,いわばサービス業につかざるを得ない。それは製造業から転職した場合も,同じ問題に出会う。大きな産業構造の変化の中,かつての工業立国のまま,「上司の言うことを聞いて黙々と働く産業戦士を育てる仕組みが続く限り,この問題は,解決しない」という。

必要なのはべらべらしゃべれることではなく,「きちんと自己紹介ができる。必要に応じて大きな声が出せる」その程度のことを楽しく学べるすべはある,と著者はいう。

もうひとつの,コミュニケーションの多様化については,ライフスタイルの多様化によって,ひとりひとりの得意とするコミュニケーションの範疇が多様化している,という。たとえば,一人っ子が2,3割を占める。大学に入るまで親と教師以外の大人と話したことがないという学生が一定数いる。あるいは母親以外の年上の異性と話したことがないものも少なくない。身近な人の死を知らないで医者や看護師になる学生もいる。

いま中堅大学では就職に強い学生は,体育会系と,アルバイト経験の豊かなもの,つまり大人との付き合いになれている学生だ。ここで必要なのはコミュニケーション能力ではなく,慣れの問題ではないか。だから,著者は学生にこういう。
「世間でいうコミュニケーション能力の大半は,たかだか慣れのレベルの問題だ。でもね,二十歳過ぎたら,慣れも実力のうちなんだよ」

ではどう慣れされるコミュニケーション教育をするのか。二つの例を紹介している。
ひとつは,著者が手掛けた中学国語教材の中で,「スキット」を使った劇つくりをさせる。ストーリーは,朝の学校の教室で,子供たちがわいわい騒いでいる。そこへ先生が転校生を連れてくる。転校生の自己紹介と,生徒から転校生へのいくつかの質問。先生は職員室へ戻り,生徒と転校生が残されて,会話していく。

このテキストを,班ごとに配役を決めて,演じる。先生がくるまでワイワイ何の話をするのか,転校生がどこから来たのか,どんな自己紹介をするのか,先生のいなくなった後,どんな話をするか,すべて生徒たちに決めさせ,台本をつくり,それを発表する。

従来のように正解を持っていて,それによって訂正するやり方を取らず,すべてを任せる。

「日常の話し言葉は,無意識に垂れ流されていく。だからその垂れ流されていくところを,どこかでせき止めて意識化させる。できることなら文字化させる。それが確実にできれば,話し言葉の教育の半ばは達成されたといってもいい。」

という。ここに狙いがある。自分たちが使っている言葉を意識する,たとえば「ワイワイ話している」ことを具体的に検討していく中で,話さない子もいる,そこにいない子もいる,遅刻する子もいる,寝ている子もいる等々,そうしたことを意識することを通して,話さないこともいないことも,表現として感ずることになる。

いまひとつは,高校生,大学生,大学院生との演劇ワークショップ。

「わたしの役割は,せいぜい,特に理系の学生にコミュニケーション嫌いを少なくして,余計なコンプレックスを持たせないこと」

と言い切り,コミュニケーションの多様性,多義性に気づいてもらうことだ,という。使っている教材の一例は,列車の中で話しかけるというエクササイズ。

四人掛けのボックス席で,知り合いのAとBが向かい合って座っている。そこにも他人のCがやってきて,「ここ,よろしいですか?」というやり取りで,Aさんが,「旅行ですか?」と声をかけて世間話が始まる,というスキットを使う。

現実の場で,話しかける人が実は少ない。平均的には1割程度という。半分以上が話しかけず,場合による,というのが2,3割。場合によるの大半は相手による,という結果らしい。しかも各国でやってみると,様々。開拓の歴史が浅いアメリカやオーストラリアは話しかける。イギリスの上流階級は,人から紹介されない限り他人に話しかけないマナーがある等々。日本語や韓国語は敬語が発達しているので,相手との関係が決まらないと,どんな言葉で話しかけていいかが決まらないところがある。仮に相手が赤ん坊を抱いたお母さんなら,何か話しかけるかもしれない。

「旅行ですか?」という簡単な言葉をどう投げかけるかを考えることを通して,

自分たちの奥ゆかしいと感じるようなコミュニケーションの特徴が,国際社会では少数派であり,多数派のコミュニケーションをマナーとして学ぶ必要があること

そして,高校生の9割5分は自分からは話しかけないという,だからこの言葉が,その子たちのコンテキスト(その人がどんなつもりでその言葉を使っているかの全体像)の外にあるということ

普段使わない言葉のもつずれが,コミュニケーション不全になりやすい,ということ

を確かめていく作業になる。そして,「他人に話しかけるのは意外にエネルギーのいるものだ」「そのエネルギーのかけ方や方向も人によって違う」ということを実感してもらう。これも慣れる流れにはいるのだろう。

ここまで紹介して,コミュニケーションを考えていくことが,単に個人のコミュニケーション能力の問題に還元できない,社会的,文化的,教育的背景の中で生じていること,それを全体に国としてやる姿勢は見られず,何か方向違いの復古性だけが際立ち,ますます子供たちを追い詰めていく危惧を感じた。

ともすると,コミュニケーションをスキルと考えがちだ。しかし,そのスキルには,シチュエーションがある,バックグラウンドとなる文化的社会的背景がある。コミュニケーションは,その中で浮かんでいる,あぶくと考える。例えば,ヒトと話すときは,こうしましよう。こういうやり方をするといいですわ,等々。そういうあぶくの立て方をどれだけ学んでも,本当に意味があるのか。著者はそう問いかけているように思う。それは,あくまで,コミュニケーションの出来不出来を個人の能力やスキルに還元しているからだ。それができなければ,本人は追い詰められていく,ますます自分がため人間だ,と。コミュニケーションスキルを好意で教えていく人間が,実は追い込む側に加担している。

ちょっと長くなってしまったので,このつづきは,次回に紹介したい。


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2012年11月25日

わかりあうという幻想を手放すコミュニケーション~『わかりあえないことから』よりⅡ


引き続いて,平田オリザ『わかりあえないことから』について

いま日本人に要求されているコミュニケーション能力の質が,大きく変わりつつある,と著者は言う。かつては同一民族という幻想でくくれたが,いまもう日本人はバラバラなのだ。この新しい時代には,バラバラな人間が,価値観はバラバラなままで,「どうにかうまくやっていく能力」が求められている。著者は,「協調性から社交性へ」とそれを呼んでいる。

わたしたちは「心からわかりあえる関係をつくれ」「心からわかりあえなければコミュニケーションではない」とすりこまれてきたが,「もう日本人はわかりあえないのだ」と,著者は言い切る。それを,たとえば,高校生たちに,次のように伝えているという。

「心からわかりあえないんだよ,すぐには」
「心からわかりあえないんだよ,初めからは」
この点が,いま日本人が直面しているコミュニケーション観の大きな転換の本質,という。つまり,心からわかりあえることを前提にコミュニケーションというものを考えるのか,人間はわかりあえない,わかりあえない同士が,どうにか共有できる部分を見つけ,広げていくということでコミュニケーションを考えるか,国際化の中で生きていくこれからの若者にとってどちらが重要と考えるか,協調性が大事でないとは言わないが,より必要なのは社交性ではないか,という。

金子みすゞの「みんなちがって,みんないい」ではなく,「みんなちがって,たいへんだ」でなくてはならない,とそれを表する。この大変さから目を背けてはならない,と。

ところで,日本語では,対話と会話の区別がついていない。辞書では,

会話=複数の人が互いに話すこと,またその話。
対話=向かい合って話し合うこと,またその話

とする。著者は,こう区別する。

会話=価値観や生活習慣なども近い親しいもの同士のおしゃべり
対話=あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも,価値観が異なるときにおこるそのすりあわせなど

日本社会は,対話の概念が希薄で,ほぼ等質の価値観や生活習慣を持ったもの同士のムラ社会を基本とし,「わかりあう文化」「察しあう文化」を形成してきた。いわば,温室のコミュニケーションである。ヨーロッパは異なる宗教,価値観が陸続きに隣り合わせ,自分が何を愛し,何を憎み,どんな能力を持って社会に貢献できるかを,きちんと他者に言葉で説明できなければ,無能の烙印を押される社会を形成してきた。

たとえば,

柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺

という句を聞いただけで,多くの人々は夕暮れの斑鳩の里の風景を思い浮かべることができる。この均質性,ハイコンテキストな社会が,世界では少数派であると認識し,しかもなお,察しあう,わかりあう日本文化を誇りつつ,他者に対して言葉で説明できる能力を身につけさせてやりたい,それが著者の問題意識であることは,全編を通して伝わってくる。それは若者に限らず,同調するコミュニケーションしか身に着けないまま,転職を余儀なくされている中高年の元製造業技能者も同じ状況にある,という強い危機感でもある。

それは韓国に二十歳で留学し,海外での演劇上演,演劇ワークショップをこなしてきた著者の日本の現状への危機意識でもある。

その中で,コンテキストのずれのもたらすコミュニケーション不全を,強調している。こんな例を挙げている。
ホスピスに,50代の末期癌患者が入院してきた。この患者は,解熱剤を投与するのだが,なかなか効かない。つきっきりの奥さんが,「この薬,効かないようです」と看護師に質問する。看護師は,「これは,これこれこういう薬なんだけれども,他の薬の副作用で,まだ効果があがりません。もう少しがんばりましょう」と丁寧に説明をする。その場では納得するが,また翌日も同じ質問をする。看護師は,親切に答える。それが毎日1週間繰り返される。当然ナースステーションでも「あの人クレーマーではないか」と問題になってくる。そんなある日,ベテラン医師が回診に訪れた時,奥さんは,「どうしてこの薬を使わなきゃならないんです」と,例によって食ってかった。医者は,一言も説明せず,「奥さん,つらいねぇ」といったのだという。奥さんは,その場で泣き崩れたが,翌日から2度と質問をしなかった,という。

コンテキストを理解することは,誰にでも備わっているもので,特殊な能力ではない,と学生に説く,という。その場合,大事なことは,その能力を個人に原因帰属させないことだ。そうではなく,どうすればそういうことが気づきやすい環境をつくれるか,という視点で考えることだ。それをコミュニケーションをデザインする,と表現している。

わたしも,それはいつも感じている。組織内でコミュニケーション齟齬が起きると,個々人の能力に還元する。そのほうが楽だからだ。しかし人はミスをするし,勘違いもする,早飲み込みもする。その齟齬を置きにくい,しくみやルールをつくる。それはすでに当たり前になっている,復唱だが,同じ言葉を繰り返すことではない。自分の理解したことを相手にフィードバックするのだ。大体,しゃべったことではなく,伝わったことがしゃべったことなのだから。何を受け止めたかを必ず返すルールにする。それをたったいまからでもやろうとするかどうかだ。そこには,原因を個人ではなく,仕事の仕組み側にあるという認識がない限り,踏み出せないだろう。フールプルーフと同じ発想ではないだろうか。

最後に著者の言っていることを記しておきたい。

「いい子を演じることに疲れた」という子どもに,「もう演じなくていいんだよ,本当の自分を見つけなさい」ということが多い。しかしいい子を演じさせたのは,学校であり,家庭であり,周囲が,よってたかってそういう子どもを育てようとしてきたのではないのか,と。

第一本当の自分なんてない。私たちは,社会において様々な役割を演じ,その演じている役割の総体が自己を形成している。霊長類学者によれば,ゴリラは,父親になった瞬間,父親という役割を明らかに演じている,という。それが他の霊長類と違うところだという。しかしゴリラも,いくつかの役割を演じ分けることはできない。人間のみが,社会的な役割を演じ分けられる。

私も思う。いい加減,「本当の自分」という言い方をやめるべきだ。いまそこにいる自分がそのまま自分でしかない。いい悪いではなく,自分の価値もまた,何もしないで見つかるはずはない。必至で何かをすることを通してしか見つかるはずはない。まずは歩き出さなくてはならない。そこではじめて,自分の中に動くものがあるはずなのだ。


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2012年11月26日

混沌と混迷の違い~『足軽の誕生』から


早島大祐『足軽の誕生』(朝日新聞出版)について

処士横議という言葉があったと思う。本書を読んで思い出した。幕末,藩の覊絆を離れ,士農工商の身分を超えて,下級武士から郷士,豪農までが,国を出て諸国で勝手に国を憂い,議論をして,結果として彼らの多くは薩長から見捨てられていくことになるが,そのエネルギーは混沌と言っていい。幕末,その嚆矢を放ったのは,大阪天満の元与力大塩中斎であった。その彼をはじめとする下級の武士は,近辺豪農たちと血縁を結びながら,身分社会末期の統治機構の機能不全という混迷に立ち向かった。いま日本は,大塩中斎の立ち向かったと同様の混迷の中にある。身分の固定と階級社会に近い格差の固定は,社会を閉塞し,いらだつエネルギーは個人の爆発としてしか発揮できないジレンマの中にある。

本書は,丁度応仁の乱前後,寺社や公家の荘園を管理していた地下の国人たちが,時代の変化,鎌倉と京都という二重権力の時代から,京都で武家が室町幕府として実権を一元的に握る時代へと移った時代の趨勢にのって,荘園の主である公家や寺社から守護である武家へと主を乗り換えていく。それは,単に村や地域の顔役であった荘官層,土豪層だけではなく,その荘園の民の各層までが,武家の被官となり,中間・小者として村々から出ていく,あるいは覊絆を脱する機会として出ていこうとする。

しかし京は今のような街ではない。商品を商えるのは,朝廷や幕府から売買の権利を得ている神人や供御人であり,寺社造営の建築に携われるのは,寺社から大工職という権利を安堵されたものだけだ。残りは,か細い地縁血縁を頼るほかは,乞食か盗賊に落ちるしかない。それでも,諸国から牢籠人と呼ばれる浪人もあふれる。その人たちは,グレーゾーンといわれる五条,六条から九条にかけての洛中洛外の境域的地域などに蟠踞する。あるいは武家宿所,寺社といった治外法権的に場所にもたむろしている。

彼らは何をしていたか。博打である。特に流行ったのが四一半と呼ばれた博打。そこでは,寺僧,武家,荘民,牢人,盗賊が多数寄り合って,博打に興じている。そこでは,「掛け金が喧嘩のもとになった半面,彼らの間に独特の連帯・つながりをもたらしたのではないか」という。

このなんというか,身分を超えたつながり方は,尋常ではない。すでに,時代のマグマが活性化しているといってもいい。まさに幕末,各層を超えてつながったエネルギーとよく似ている。

室町幕府は,威令が届かず,土一揆や徳政一揆の鎮圧に,征伐の軍が編成できず,結局現実的に動員可能なものを優先する。そうして彼らが正規軍の中に編成され,応仁の乱では,かつての暴れ者が足軽大将になって登場する話を紹介している。たとえば,侍所所司代として陣頭に立った多賀出雲は,洛中の浮浪の徒を組織化したという。また骨皮道賢という目付は,河原ものか野伏上りと言われ,かつて都鄙悪党のリーダーであり,部下は中間・小者ばかりなのである。その人たちが,幕府の威令を保つために活躍する。

幕府の機能不全から,各層から,ふさわしい人材が自分の居場所を見つけ,幕府の要職を占め,あるいは勝手に自分の利益のために,平然と将軍の上意を騙って,己の意を通そうとする。すでに下剋上の戦国へと踏み出している。ここにも幕末との類似が見える。幕末の幕府を担う逸材の多くは,勝海舟をはじめ,武家身分の埒外から登場している。

村上一郎は,名著『草莽論』を「草莽とは,草莽の臣とは違う」と書き始めた。草莽とは,孟子の「国に在るを市井の臣といい,野に在るを草莽の臣という。皆庶人なり」とあり,地方にひそむ庶士を草莽の臣と呼ぶ。その封土内に住んでいるから,君主に対しては臣であるが,仕えている臣とは同じではない。草莽は草茅に通じ,草野,草深いあたりに身を潜め,たとえ家に一日の糧がなくとも,心は千古の憂いを懐くという,民間慷慨の処士であり,それこそが維新に噴出してきた草莽の典型だと,村上は言っていた。松蔭の「恐れながら天朝も幕府もわが藩もいらぬ。ただわが六尺の微軀あるのみ」といったときの,草莽崛起とはそんな意味だという。

ただ個人的には,このファナティックなマインドが突破力を持っていることは信ずるが,とてもついてはいけない。むしろ,松蔭の『講孟余話』をたしなめた山県太華の,冷静・理知的な評が好きだ。松蔭の華夷の弁について,こう言っている。

「我が国のひとが,漢土の言葉に倣って,日本を自称して中国といい,すべての海外の国を蛮夷と称するのは,漢土での意味とは違っている。漢土で昔から中国と夷狄の別があるのは,中国は礼儀を尊ぶ国であって,中国の外の国で,世々朝貢して中国の属国となっていながら,遠方のため王化が及ばず,中国の礼儀の礼儀を守ることのできぬ国を号して夷狄といっていやしめた。」

にもかかわらず,漢土の例に倣って,わが国の攘夷論は,自国を中国といい他国を夷狄といい,時刻を尊く,他国をいやしいというべき論拠がないと言っている。しかしこの正しさは,いまも,昔も沸騰した時代の世論に通用しない。確かに,その時正しいことを言う人は,その時代,体制の享受者だから,その正しさを言うことが,自己弁明のにおいをもっている,ということはよくわかる。しかし理非曲直をきちんと正せないものに,時代をつくる資格はない,僕はそう信じている。だから,ファナティックな主張には,聞く耳は持つが,たぶん一緒に行動する友にはならないだろう。

時代の覊絆や格式が融けていく時,その隙間から人材が湧いて出る。いま日本は格差が固定化し,身分とは異なるが,階層が固定化しつつある。その閉塞感を打ち破る変革を日本人が自分の手でやれるかどうかか問われている気がする。

ペリー来航,第二次大戦の敗戦,石油ショック,すべて外圧だ。そこで時代が大きく変わった。考えてみると,応仁の乱から,戦国期は,自分たち自身で国の枠組みを壊し,溶かした時代であった。それが,何をきっかけにできたかといえば,室町幕府という統治機構の機能不全だ。今日,日本は議会制民主主義という統治機構が機能不全に陥っている。その意味で,大きな崩壊と融解の時期が来ているのかもしれない。

ただこのとき,ともすると,我が国は武に走りがちだ,侍大好きの人たちが多いから。しかしそういう場合は多く失敗してきた。これからは,もっと視野広く,全焦点(パンフォーカス)のモノの見方で,次世代を描きたいものだ。横井小楠が,武からの脱皮を懸命に模索したように。


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2012年11月27日

承認の効果と位置づけについて~その存在を認め,相手に関心と好奇心を向ける


日本コーチ協会神奈川チャプター (JCAK)のコンピテンシー勉強会で,たまたま「承認」のところをファシリテーションする機会を得て,自分なりにいろいろ考えたことがあり,そのことについて,少しまとめてみたい。

一般に,承認(アクノレッジメント)については,

「a statement or action which recognizes that something exists or true」

そこに存在していることに気づいていると表明したり振る舞いで表すこと,とされている。つまり,相手の存在を認め,更に相手に現れている違いや変化,成長や成果にいち早く気づき,それを相手に伝えることである。

承認という場合,ほめることと同じではないし,評価ではなく,事実を伝えること,とされている。事実として,相手が何をどう達成したのか,どう変化したのか,を言葉にして伝えることだとされる。

例えば,ザックリと,「よくできたね」と伝えるのではなく,どこどこが,以前に比べてどれくらい成長したかを,事実として伝えることを意味する。それを伝えられた側は,その承認された事実がほんの些細な成長であっても,それをきちんと見てくれている,ということによって自己肯定感を高め,相手への信頼を強くする効果があるように思える。

承認の伝え方としては,次の3つのタイプがあるとされる。
① YOUメッセージ 「あなたは○○だね」というように,これは,見えている事実を,「あなたは,」と客観的に伝えることになる。
② メッセージ 「あなたが○○したことは,わたしにこんな影響があった」というように,私にはそう感じられた,そう見えたというように,主観として,相手に伝える伝え方である。
③ WEメッセージ 「あなたが○○したことは,わたしたちにこんな影響があった」と,これはIメッセージの「われわれ」版ということになる。ただ伝えているのが,私なので,私の主観である側面が入るかもしれない。

以上が公式の承認の考え方だが,これを,他の他者認知,たとえばほめる,あがめる等々とどう区別するのかを試論として整理したのが,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06431.htm

である。ここで問題になるのは,賞賛とは違うとして,認知や敬意とどう違うかだ。

まず,「認知」とは,CTI系で主として使うが,クライアントがある特定の行動を起こしたり,ある特定の目標を達成したりする過程で発揮したその人の強みや良さに気づき,それを本人に伝えること。自分の本当の姿をコーチがみてくれている,知ってくれていると感じられるようにするためのスキル。単に相手の行動を表面的に誉めたり,評価するのではなく,コーチとして感知した相手がどんな人なのか,その人自身が気づいている以上のリソースや力,価値観などを伝えること,とされる(『コーチングバイブル』)。

ただ主観的には,それはあくまで,こちら側の受け止めなので,事実というよりは,Iメッセージとしての承認に近いような気がする。

次は,ブリーフセラピー,特にソリューション・フォーカスト・アプローチでいう,「コンプリメント(敬意)」との違いだ。

「コンプリメント」とは,ねぎらうこと,敬意を表すること。あくまでクライアントの言葉や行動にもとづいた事実に根ざしていなくてはならない。直接的なコンプリメントと間接的なコンプリメントがある。直接的なコンプリメントは,肯定的評価(「それはすごいですね,よくやれましたね」)と肯定的反応(「わあ,すごい!」)がある。間接的コンプリメントは肯定的な質問である。①望まして結果について更に「どうやってそれをやったんですか」と質問する,②関係を通して,「それを聞いたらお子さんはどう反応するでしょうね」と,肯定的なものを暗示する質問,③何が最善かはクライアントがわかっていることを暗示する,「どうしてそれをしたらいいとわかったんですか」と質問する(『解決のための面接技法』)。

コンプリメントは,比較的承認と似て,事実を伝えること,に力点がある。承認と敬意(コンプリメント)は,何を伝えるかについては結構重なっている。ただ,それはYOUメッセージについてであって,Iメッセージで伝えようとすると,すべては「わたしには~だ」の,主観を伝える中に入ってくるような気がする。

日本語の構造から考えると,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0924.htm

でのべたように,基本は,「辞」につつまれれば,すべてはIメッセージになりうるので,逆に言うと,客観的事実を伝えているのだと,強調するためには,「あなたは,」あるいは「誰々さんは,」とはっきり言う必要があるのかもしれない。

では,フィードバックとはどう違うのだろうか。この言葉自体は,大砲の砲弾の着地点の修正という意味だと言われるが,サイバネティクス的に言えば,システム外の情報をシステム内への取り込むことで,自分の動き,自分の認識の軌道修正を図るところにあるのだから,伝える側が,「あなたは,○○です」と返すことで,自分の自己認識や自己イメージ,自分の振る舞い,言動を軌道修正したり位置確認をしたりすることになる。

その意味で言えば,フィードバックは,相手が自己認識を確認したり修正ができるように返す,ということができる。承認は,こちらの受け止めた相手認識を伝えるので,そのことによって,軌道修正することは同じだが,基本は,プラス要因を伝えることが多いので,自尊感情,自己肯定感を刺激し,自分のプラス要素を広げていくのに有効なのではないか,という気がする。

ただ,この承認にしろ,フィードバックにしろ,両者に信頼関係という土台のないところでは機能しないので,ひょっとすると,承認の大前提は,相手を信頼し,相手を受け止め,丸ごと受容してくれるという環境を設定すること自体が,相手への承認になっているのであり,その上にこそ,事実にしろ主観にしろ,承認を伝えていくことに一層効果があると言えるだろう。

とすると,笑顔や頷き,感嘆といった返し自体も,その雰囲気づくりには有効ということになる。あるいは,そもそも相手に好奇心をむけて,聞く姿勢そのものが,相手を承認している,と言えるはずである。そういえば,ジョセフ・オコナーは,コーチングのスキルは,注意を向けることに尽きる,と言っていた。

ところで,コンプリメントの直接コンプリメントと間接コンプリメントとの関連で言えば,承認にも,直接伝える以外に,間接の承認があり得るのではないか。

つまり,そこに存在していることに気づいていると表明したり振る舞いで表すこと,相手の存在を認め,更に相手に現れている違いや変化,成長や成果にいち早く気づき,それを相手に伝える,というアクノレッジメントには,直接そのことを伝えることの他に,相手の変化や成長を前提にして,
「なぜそんなことができたんですか」
「どうしてそんなことをしようと思ったんですか」
と,その先を相手に質問する方法があるはずである。仮に,それを間接的なアクノレッジメントと呼んでおくと,そういう効果のある質問は肯定質問を呼ばれ、下記のような例が挙げられる。この質問をする場合,質問する側に,そのことが既に相手ができている,という承認を前提にしており,そのことは相手にも伝わる。

間接的なアクノレッジメントのための肯定質問例
1. どうやって(そんなことが)できたんですか
2. 何がきっかけでそうしようと思ったのですか
3. それができたわけを教えてください。
4. あなたにそんな力があると,どこで気づいたんですか
5. どうしてそんなことが可能になったんですか

6. どんな幸運がそれを可能にさせたんですか
7. どういうふうにそれがうまくいったのですか
8. 何がうまくいったのですか
9. そうしたらいいとどうしてわかったんですか
10. (それをしたことで)何が変わりましたか

11. (なしとげた後)何から変わったとわかりましたか
12. どんな学びがありましたか
13. そこから何がえられましたか
14. そこからさらに学べそうなことは何ですか
15. そこで役に立ったことは何ですか
 
16. 誰(何)か助けになったものはありますか
17. どんことをやってそれができたんですか
18. いまからもっともっとできそうなことは何ですか
19. どうやってそんな心境になれたんですか
20. そんな状況なのにどうしてそれが可能だったんですか

肯定質問も,コンプリメントのように,もう少し整理できるのかもしれないが,こう見ると,実はコーチングらしいポジティブ質問は,そのまま承認の意味を持つ可能性があると言ってもいい。そして,承認された側は,自己肯定を許容されて,自己イメージが膨らみ,自分の中に隠れていた自分の可能性や潜勢力を拾い上げていくエネルギーを受け取ることになる。どっちにしても,承認は,コーチングの強力な武器なのである。いや,あるいは,コーチングという舞台そのものが,承認するためにあるのかもしれない,という気がしている。


参考文献;
インスー・キム・バーグ他『解決のための面接技法(第三版)』(金剛出版)
ヘンリー・キムジーハウス他『コーチング・バイブル(第三版)』(東洋経済新報社)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#コーチング
#コミュニケーション
#承認
#認知
#コンプリメント
#コーチングバイブル
#ソリューション・フォーカスト・アプローチ
#インスー・キム・バーグ
#ジョセフ・オコナー

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2012年11月28日

発想の前提条件について~マインドセットの切り替え


発想をスキルから考えるのもいいし,人とのキャッチボールから考えるのもいい。例のブレインストーミングストーミングは,いわば,アイデアや発想を自己完結しないためのいい仕組みだ。ブレストについては,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod083.htm

を見ておいてほしいが,そのほか,コミュニケーションにかかわるチェックリストは,次のように結構ある。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod064.htm
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0640.htm
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06400.htm

基本的に,アイデアや発想に,否定やネガティブはないのだから,このブレスト4条件は,マインドセットの基本中の基本だろう。確か,カーネギーも『人を動かす』で言っていた気がする。
「二人の人がいて,いつも意見が一致するなら,ひとりはいらない」
と。人はそれぞれ違う。しかしその違いは,微細かもしれない。アイデアで大事なのは,その微細にこだわることでもある。アイデアを考えるのは,議論するのではない。勝ち負けでもない。正否でもない。カーネギーの言う,「議論に負けても意見を変えない」というその個を大事にしつつ,しかし,人は一方で,使い慣れた脳しか使わない,機能的固着に陥っている。自己完結は,絶対タブーなのだ。

そのほかに,考えられるのは,3つあるように思う。

第一は,どうしても外に答えを探そうとすることだ。答えは自分たちの中にある。というより,徹頭徹尾自分たちの中で考えなくては,発想とは言わない。自分たちのリソースを使い尽くす。たとえば,「正方形がいくつあるか」という設問がある。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod021.htm

この出典では,正解が巻末にあった。こういうのをパズルという。たとえば,
ためらわず,こういう人がいる。
 「ラインの交差したところは正方形ではないか」
 それに,どう反応されるだろうか。「そんなばかな」「それは禁じ手だ」「そんなことがOKなら……」
 こういう自由に考える人が必ずいる。こういう意表をつく発想は,大概はそれを押しつぶすか,面白いジョークとして聞き流されて,まともに相手にされない。こういう発想があるから,自己完結してはいけないのだ。キャッチボールする意味がある。

第二は,アイデアに正しい間違いはないということだ。こういう質問がある。「部下に,何かいいアイデアはないか,あったらどんどん出してくれ,というのだが,なかなか出てこない,出てきてもありきたりでつまらないものばかりだ,部下の発想力をアップするいい方法はないか」と。
これに,二つの疑問が浮かぶ。まず,アイデアは完成型でなくてはいけないという誤解がある。アイデアづくりとは,端緒の思いつきをキャッチボールで深めていくものであり,完成品が出てくるものではない。一緒にまとめ上げていく共同作業のおもしろさを管理職は気づいていない。いまひとつは「ありきたり」と思っているのはトップだけかもしれない,ということだ。自己完結している限り,それに気づけない。

むしろ,こう考えるべきだ。くだらないアイデアはない。くだらないといった瞬間,そのアイデアは生かされることなく,消えていく。例えば,くだらないと思ったら,こう聞いてみる。「わかった,もしこのアイデアが実現できたら,何が起こる,あるいはどういうことができるようになる」と。部下は何か言うだろう。そしたら,「その目的を実現するのに,ほかにどんなアイデアが考えるだろう」と,一緒に洗い出していく。どんなアイデアも,完結品ではない。一緒に完成していくプロセスが大事なのではないか。

第三は,まずできるかどうかを考えない。どうなったらベストかを考える。われわれは大体できることを少しずつ積み上げていく。その意味で失敗はないが,突出もできない。ダイソンがあの掃除機を提案した時,どの家電メーカーも見向きもしなかった。我々は扇風機を五枚羽,十枚羽と積み上げて,そよ風を作り出す。しかしダイソンは羽根のない扇風機をつくる。失敗しないために,「できること」を積み上げていっても,「こうなったらいい」「こういうのがあればいい」という発想から,どこまで実現可能か,どうやったら実現できるかを考えるタイプには永遠に追いつけない。

そもそも発想とは,どうしたら実現できるかを考えることであって,できることを積み上げることではない。むしろ,できない(と思われている)ことを,できる (と思える) ようにすることだと信じている。

だから,個人的には,多機能は発想とは言わない,と思っている。組み合わせることは多機能で代替してはならない。なぜなら機能をつけたして働かせるのではなく,機能を加えないで同等の働きをさせるにはどうしたらいいかを考えることが,発想だと思うからである。

川喜田二郎氏の「本来ばらばらで異質なものを意味あるようにむすびつけ,秩序づける」という創造性の定義をかみしめなくてはならない。つなぎ合わせただけではだめなのだ(それは多機能)。つなぎ合わせた時,まったく別の意味が見える。その時,機能は足したのではなく,一つになってしまう,あるいはなくなってしまう,そういうことを考えるのが,発想の面白さなのではないか。

参考文献;
エドガー・ハーディ『「2+2」を5にする発想』(上出洋介訳 講談社)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





#ブレインストーミング
#アイデア
#発想
#キャッチボール
#川喜多二郎
#カーネギー
#ダイソン

ラベル:アイデア 発想
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2012年11月29日

共感とブレインストーミングの意外な関係~ブレストマインドでの共感



この間,ある人と話をしていて,ふと,今更のように気づいたことがあるので,ブレインストーミングの続きで,もう少し考えてみたい。

ブレインストーミングストーミングは,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod083.htm

にあるように,4原則があるが,その中の第一条に,「メンバーの発言への批判禁止」というのがある。

「批判」は,既存の価値や知見での評価である。アーサー・C・クラークも言っている。「権威ある科学者が何かが可能と言うとき,それはほとんど正しい。しかし,何かが不可能と言うとき,それは多分間違っている」と。批判しないということは,自分の価値判断や感情,準拠枠を脇に置くことだ。そのことで,相手の声や意見が入りやすくなる。

こちらの枠組みを外すことで,シャッターが開く,そのことで相手の話が入りやすくなり,共通点見つけやすくなる。さらに相手の土俵で受けとめられれば,共感につながるのではないか。

ロジャースは,共感について,

「クライアントの私的世界をそれが自分自身の世界であるかのように感じとり,しかも『あたかも……のごとく』という性質(“as if”quality)を決して失わない-これが共感なのであって,これこそがセラピーの本質的なものであると思われる。クライアントの怒り,恐れ,あるいは混乱を,あたかも自分自身のものであるかのように感じ,しかもその中に自分自身の怒り,恐れ,混乱を巻き込ませていないということ」

が条件であると書いている。あたかも,自分のそれであるように受け取る。しかも自分の感情を混乱させるような巻き込まれのない状態で,ということです。それには訓練がいる,と書いている。

ここでは,日常的に,あるいは生活面で共感「的」であるとはどういうことなのか,を考えてみたい。

カーネギーは,「議論に負けても意見を変えない」と名言を吐いている。勝ち負けになるのは,どちらかが正しいと思っているからだ。所詮どちらも,自分の知識と経験からきた『仮説』に過ぎないと思えるかどうかだ。

この背景にあるのは,どこかに正解や正しい答えがあり,それが自説だと思い込むからだ。アインシュタインの理論ですら,仮説にすぎない。ついこの間,敗れたの破れないのと,大騒ぎになっていた。

では,仮説だとすれば,どうすればいいのか。どちらもが,自分の土俵から相手を見るのではなく,共通のテーマを,両者の頭上に置いて,それを見ている構図,を取ることではないか。これを神田橋條治さんは,二者関係から,三項関係へと呼んでいた。

こういうことだ。話し相手が部下や後輩だとして,どうしても部下のしたこと,部下の発言,部下の失敗,部下の報連相等々となると,「どうして君はそうしたの」と,上位者や先輩として,部下に話を聞く姿勢となる。それでは,どうしても部下側は,聞いてもらう立場であり,言い訳する立場になる。そういう会話のスタイルをしている限り,話をしにくいし,聞きにくい。そこで,部下の「したこと」,「発言」「報連相」「成果」そのものを,ちょうど提出された企画書を前にして,一緒に企画そのものを検討するように,部下と一緒に「したこと」,「発言」「報連相」「成果」「テーマ」を,上位者と下位者が一緒になって眺めている関係がほしい。二者関係から,そういう三角形の関係にすること。そうすることで,聞く側も,部下という属人性を話して検討しやすくなる。その位置関係は,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod064301.htm

で触れておいたので,その構図を見てほしい。コーチング的な質問で,それを表示すると,次のようになる。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06432.htm

いわば,お互いがそれぞれの土俵から見るか,相手の土俵で一緒に考えるか,土俵を頭上に描くか,の違いになる。そのとき,マインドとしては,ブレインストーミングをするのと同じだ。つまり,批判しない,ということだ。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view51.htm

アイデアを考えるときも,事情は同じだ。結局,自分の土俵,つまり立場,考え方,価値観からものを言うということは,相手にそれに従えと言っているのと同じことだ。そうでないなら,両者イーブンで,そこから共通の答えを探していく作業ができる。それなら,あたかも同じとみなすことはなく,同じものを見つけ出していけるのではないか。

もっと行けば,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10967952.html

で書いたように,まずは相手に○を付けてしまう。フェイスブックで,「いいね!」するつもりで,相手にOKをだす。OKした以上,話を聞かざるを得ない。自分にそう課すのも一つの手かもしれない。

カーネギーは,「議論したり反駁したりしているうちには相手に勝つようなこともあるだろう。しかそれはし空しい勝利だ。相手の好意は絶対にかちえないのだから。」と言っていた。といって意見の対立はある。そんなときは,

意見の不一致を歓迎せよ-二人の人がいていつも意見が一致するなら,そのうちの一人はいなくてもいい人間だ。

を忘れないことだ。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





#ブレインストーミング
#カーネギー
#ロジャース
#土俵
#コミュニケーション
#アーサー・C・クラーク
#共感
#カーネギー
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2012年11月30日

iPS細胞と臍帯血バンクの深い関係~再生医療の実現へ


市民講座「iPS細胞こんにちは!~臍帯血はいのちのお母さん~に参加した。ただ山中伸弥先生の講演予定だったのを期待してのことだった。ノーベル賞授賞の報道直後もあり,思わずミーハーで応募した。しかし受賞式準備で多忙のため,山中伸弥先生が来演できなくなったとのメールを受け取ったが,やはり行く気になった。代わりに,iPS細胞研究所の副所長(所長は山中先生)で,山中先生とタッグを組んでiPS細胞を発見された中畑龍俊先生が見えると聞いたからだ。

正直iPS細胞については,素人で,実のところそんなにわかっているわけではない。ただ,iPS細胞によってすべての細胞へと分化でき,再生医療を現実的なものにした程度しか知識はない。

で,ネットで調べたウィキペディアによれば,

人工多能性幹細胞とは,体細胞へ数種類の遺伝子を導入することにより,ES細胞(胚性幹細胞)のように非常に多くの細胞に分化できる分化万能性 と,分裂増殖を経てもそれを維持できる自己複製能を持たせた細胞のことである。

元来,生物を構成する種々の細胞に分化し得る分化万能性は,胚盤胞期の胚の一部である内部細胞塊や,そこから培養されたES細胞(胚性幹細胞),および,ES細胞と体細胞の融合細胞,一部の生殖細胞由来の培養細胞のみに見られる特殊能力であったが,iPS細胞の開発により,受精卵やES細胞を全く使用せずに分化万能細胞を単離培養することが可能となった。

分化万能性を持った細胞は理論上,体を構成するすべての組織や臓器に分化誘導することが可能であり,ヒトの患者自身からiPS細胞を樹立する技術が確立されれば,拒絶反応の無い移植用組織や臓器の作製が可能になると期待されている。ヒトES細胞の使用において懸案であった,胚盤胞を滅失することに対する倫理的問題の抜本的解決に繋がることから,再生医療の実現に向けて,世界中の注目が集まっている。

また,再生医療への応用のみならず,患者自身の細胞からiPS細胞を作り出し,そのiPS細胞を特定の細胞へ分化誘導することで,従来は採取が困難であった組織の細胞を得ることができ,今まで治療法のなかった難病に対して,その病因・発症メカニズムを研究したり,患者自身の細胞を用いて,薬剤の効果・毒性を評価することが可能となることから,今までにない全く新しい医学分野を開拓する可能性をも秘めていると言える。

ということだ。で,元へ戻ると,はじめに,山中先生のビデオメッセージがあり,そこで,「私の受賞は便乗受賞で,50年前の,ジョン・ガードン先生が,カエルの腸細胞の核を別のカエルの卵子の核と入れ替えただけで,受精せずにオタマジャクシが生まれることを実証されることで,受精卵と生殖細胞だけが,完全な遺伝子の設計図を持つという,100年前以来の常識を覆したことが,私のiPS細胞につながった」という趣旨のことを発言されたのが印象深かった。普通の細胞からでも,遺伝子操作ができるという,大きなパラダイムの変更があってはじめて,研究の道筋が作られた,という意味で,共同受賞者のイメージがかなりクリアになった。

そして,iPS細胞研究所の今後10年の目標として,
① iPS細胞研究の基盤強化としての,知的財産の確立
② 再生医療のためのiPS細胞のストックをつくり,国内外に提供
③ iPS細胞を使った臨床研究を始める
④ 患者からiPS細胞をつくり,病気の原因を解明し,創薬していく
を掲げ,①はすでにほぼできつつあり,③と④がこれからの課題なっている,ということであった。そこで,②にかかわって,臍帯血バンクとの関連が生じてきたことがよくわかる。

中畑先生は,臍帯血(へその緒から摂取する赤ちゃん血液)の中に,医療に有効な造血幹細胞があることを世界で最初に発見された方で,いまiPS細胞を作るためにさい帯血がもっとも有効であることなどをお話していただいた。

実はiPS細胞も拒絶反応が起きる。それは白血球の型,HLAが,血液型違い数万あり,第三者の提供する体細胞では拒絶反応が起きる。しかし母親と父親から同じHLAという型を引き継いだ人(HLAホモドナー)の体細胞では,血液型O型と同じように,多くの人に移植できる。実は,1名のドナーで日本人の80%がカバーできることが予測されている。そのために,京都大学ではiPS細胞のストックづくりに,臍帯血縛の協力を得ようとしている。

日本臍帯血バンクネットワークは,それぞれ独立した8つ(平成24年4月1日現在)の地域バンクの集合体であり,臍帯血移植に必要なHLA(白血球の血液型)情報等の全国一元管理および公開適合検索,より安全なさい帯血の保存と提供のための検討など,移植が公平かつ安全に行われるための事業を行っている。

臍帯血移植は,白血病などの重い血液疾患に対して骨髄移植という治療が有効であり,病気になって正常な造血ができなくなっている患者さんの骨髄を健康なドナーの方からいただいた骨髄でおきかえて病気を治すという方法である。

あくまで,臍帯血移植のためのネットワークだが,そこで,HLAドナー登録をしているために,そのタイプの蓄積がiPS細胞のストックにとって,凄く有効になる。で,こうある,臍帯血からのiPS細胞ストックには,「HLAホモドナーを対象に,臍帯血移植に使用できないものを対象とする」と。

体細胞からiPS細胞をつくれば,①ほぼ無限に増殖し,②すべての細胞へ分化できる,という特色を,最大限に生かし,しかも,多くの人の再生医療に備えて,HLAタイプごとのストックを増やしていく,今回の市民講座の背景にはこんな連携があり,さらには,そのための資金支援が期待されている。

実は政府資金の支援では,多くの人材を長期に賄えず,190人の職員中,実に169人が非正規職員で,その人たちが,知的財産の確立や広報活動にかかわっている。そのひとたちをどう正規の人としていくか,欧米に立ち遅れている,研究のバックアップ組織の在り方についても,強いアピールがなされた。

研究者本人に焦点が当たりがちだが,その研究を支援するための,知財確立,法規制との調整・交渉,広報等々,幅広い人的なバックアップがなければ,そのすべてが研究者個人の負担にかかってくる。いってみると,正規軍と孤立したゲリラが科学の第一線で戦っているようで,圧倒的に不利だ。その上,そういう研究者を支援する,私的基金はアメリカと比較しても少ない。どうも日本の大金持ちは,社会への還元の仕方を知らないようで(といって金のない自分がそういう言い方をするのもなんだが),基金作りまで研究者がやらなくてはならない。恐らくそういうことも含めて,臍帯血バンクとの連携なのだろう。

それにしても,そうした研究のファウンデーション,バックアップ体制のない中で,日本の科学者,研究者はよくやっているなあ,と感心した日でもあった。


日本臍帯血バンクネットワーク
http://www.j-cord.gr.jp/ja/qa/index.html;jsessionid=0385ADF0CB103B9D323FEC9EC9DE6010

京都大学iPS細胞研究所
http://www.cira.kyoto-u.ac.jp/j/index.html

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm






#山中伸弥
#iPS細胞
#臍帯血移植
#再生医療
#NPO臍帯血国際患者支援の会
#有田美智世
#中畑龍俊
#iPS細胞研究所

posted by Toshi at 06:33| Comment(32) | iPS細胞 | 更新情報をチェックする