2012年11月24日

コミュニケーションのダブルバインドとコミュニケーション教育~『わかりあえないことから』よりⅠ


平田オリザ『わかりあえないことから』(講談社現代新書)について

企業の人材担当者は重視する能力のトップにコミュニケーション能力を上げる,という。しかし,そのコミュニケーション能力の内実がはっきりしない。学生は,「きちんと意見が言える」「人の話が聞ける」「空気を読むこと」等々という。しかし,著者は,企業が求めるコミュニケーション能力は,ダブルバインド(二重拘束)に陥っている,と指摘する。たとえば,自主性を重んじる,と常日頃言われ,相談に行くと,「そんなこと自分で判断できないのか,いちいち相談にくるな」と言われる。しかしいったんトラブルが起きると,「なんできちんと上司にホウレンソウしなかった」と叱られる。

これは,創造性や商品開発でもある。「それぞれの創造性を生かす」と言いながら,指示されたこと以外をする余地はあまりない。勝手なことをしても,上司は無視する。有名な例では,大手家電メーカーの技術者がある技術を開発し,上司に提案した。なんとその上司は,「うちのような大手がそんなことをやれるか,ほかにやるところがあるだろう」と拒まれ,挙句,本人は起業し,その技術がいまや家電各社に採用されている,という。

コミュニケーションでも本音と建前がある。たとえば,異文化理解能力,つまり異なる文化,価値観を持った人に対しても,きちんと自分の主張を伝えることができる能力でグローバルな経済環境で力を発揮してもらう。しかし一方では,上司の意思を察して機敏に行動する,会議の空気を読んで反対意見は言わない,輪を乱さない等々が暗黙のうちに求められている。

こんな矛盾した能力が求められているが,求める側がその矛盾に気づいていない,ダブルバインドの典型だ。ベイトソンは,これが統合失調症の原因だという仮説を提起したことがある(今は否定されている)が,例えば,親が「体さえ丈夫ならいい」と一方で言いながら,成績が悪いと怒り出す,こうした例と比べると,異文化理解力と同調圧力のはざまで,コミュニケーションに戸惑う状態が目に見える,と著者はいう。

著者が全国の小中学校でコミュニケーションの授業や国語教材開発を通して,気づいたのは,コミュニケーションの意欲の低下。

特に単語でしゃべる。「ケーキ」「というように。しかし子供が少ないから,優しい母親が,それだけでわかってケーキを出す。子供に限らず,言わなくて済むなら,言わないように言わないように変化する。しゃべれないのではなく,しゃべらない。能力ではなく,意欲の低下。これは学校でも同じだ。少子化で,小1から中3まで30人一クラスというところが結構ある。いくらスピーチの練習をしても,お互いに知り尽くしていて,いまさら話すことはない。少子化が「ボディブロー」のように効いている,と著者はいう。

「伝えたい」という気持ちは,「伝わらない」という経験からしか来ないのではないか。いまの子どもたちには,その経験が不足している,という。

そこで,著者は,現在のコミュニケーション問題を,二つの切り口から提起する。

ひとつは,コミュニケーション問題の顕在化,
もうひとつは,コミュニケーション能力の多様化。

第一の点については,こう言っている。

若者全体のコミュニケーション能力は,どちらかと言えば向上している。「近頃の若者は……」と,したり顔で言うオヤジ評論家たちには,「でも,あなたたちより,いまの子たちの方がダンスはうまいですよ」と言ってあげたいといつも思う。人間の気持ちを表現するのに,言葉ではなく,たとえばダンスをもって最高の表現とする文化体系があれば(中略)日本の中高年の男性は,もっともコミュニケーション能力の低い劣った部族ということになる。
リズム感や音感は,いまの子どもたちの方が明らかに発達しているし,ファッションセンスもいい。異文化コミュニケーションの経験値も高い。けっしていまの若者たちは,表現力もコミュニケーション能力も低下していない。

事態は,じつは逆ではないか。

全体のコミュニケーション能力が上がっているからこそ,どんなときも一定の数いる口下手な人が顕在化したのではないか,と著者はいう。

かつては,そういう人は職人や専門技能者になっていった。「無口な職人」だ。しかしいま日本の製造業はじり貧で,大半は第三次産業,いわばサービス業につかざるを得ない。それは製造業から転職した場合も,同じ問題に出会う。大きな産業構造の変化の中,かつての工業立国のまま,「上司の言うことを聞いて黙々と働く産業戦士を育てる仕組みが続く限り,この問題は,解決しない」という。

必要なのはべらべらしゃべれることではなく,「きちんと自己紹介ができる。必要に応じて大きな声が出せる」その程度のことを楽しく学べるすべはある,と著者はいう。

もうひとつの,コミュニケーションの多様化については,ライフスタイルの多様化によって,ひとりひとりの得意とするコミュニケーションの範疇が多様化している,という。たとえば,一人っ子が2,3割を占める。大学に入るまで親と教師以外の大人と話したことがないという学生が一定数いる。あるいは母親以外の年上の異性と話したことがないものも少なくない。身近な人の死を知らないで医者や看護師になる学生もいる。

いま中堅大学では就職に強い学生は,体育会系と,アルバイト経験の豊かなもの,つまり大人との付き合いになれている学生だ。ここで必要なのはコミュニケーション能力ではなく,慣れの問題ではないか。だから,著者は学生にこういう。
「世間でいうコミュニケーション能力の大半は,たかだか慣れのレベルの問題だ。でもね,二十歳過ぎたら,慣れも実力のうちなんだよ」

ではどう慣れされるコミュニケーション教育をするのか。二つの例を紹介している。
ひとつは,著者が手掛けた中学国語教材の中で,「スキット」を使った劇つくりをさせる。ストーリーは,朝の学校の教室で,子供たちがわいわい騒いでいる。そこへ先生が転校生を連れてくる。転校生の自己紹介と,生徒から転校生へのいくつかの質問。先生は職員室へ戻り,生徒と転校生が残されて,会話していく。

このテキストを,班ごとに配役を決めて,演じる。先生がくるまでワイワイ何の話をするのか,転校生がどこから来たのか,どんな自己紹介をするのか,先生のいなくなった後,どんな話をするか,すべて生徒たちに決めさせ,台本をつくり,それを発表する。

従来のように正解を持っていて,それによって訂正するやり方を取らず,すべてを任せる。

「日常の話し言葉は,無意識に垂れ流されていく。だからその垂れ流されていくところを,どこかでせき止めて意識化させる。できることなら文字化させる。それが確実にできれば,話し言葉の教育の半ばは達成されたといってもいい。」

という。ここに狙いがある。自分たちが使っている言葉を意識する,たとえば「ワイワイ話している」ことを具体的に検討していく中で,話さない子もいる,そこにいない子もいる,遅刻する子もいる,寝ている子もいる等々,そうしたことを意識することを通して,話さないこともいないことも,表現として感ずることになる。

いまひとつは,高校生,大学生,大学院生との演劇ワークショップ。

「わたしの役割は,せいぜい,特に理系の学生にコミュニケーション嫌いを少なくして,余計なコンプレックスを持たせないこと」

と言い切り,コミュニケーションの多様性,多義性に気づいてもらうことだ,という。使っている教材の一例は,列車の中で話しかけるというエクササイズ。

四人掛けのボックス席で,知り合いのAとBが向かい合って座っている。そこにも他人のCがやってきて,「ここ,よろしいですか?」というやり取りで,Aさんが,「旅行ですか?」と声をかけて世間話が始まる,というスキットを使う。

現実の場で,話しかける人が実は少ない。平均的には1割程度という。半分以上が話しかけず,場合による,というのが2,3割。場合によるの大半は相手による,という結果らしい。しかも各国でやってみると,様々。開拓の歴史が浅いアメリカやオーストラリアは話しかける。イギリスの上流階級は,人から紹介されない限り他人に話しかけないマナーがある等々。日本語や韓国語は敬語が発達しているので,相手との関係が決まらないと,どんな言葉で話しかけていいかが決まらないところがある。仮に相手が赤ん坊を抱いたお母さんなら,何か話しかけるかもしれない。

「旅行ですか?」という簡単な言葉をどう投げかけるかを考えることを通して,

自分たちの奥ゆかしいと感じるようなコミュニケーションの特徴が,国際社会では少数派であり,多数派のコミュニケーションをマナーとして学ぶ必要があること

そして,高校生の9割5分は自分からは話しかけないという,だからこの言葉が,その子たちのコンテキスト(その人がどんなつもりでその言葉を使っているかの全体像)の外にあるということ

普段使わない言葉のもつずれが,コミュニケーション不全になりやすい,ということ

を確かめていく作業になる。そして,「他人に話しかけるのは意外にエネルギーのいるものだ」「そのエネルギーのかけ方や方向も人によって違う」ということを実感してもらう。これも慣れる流れにはいるのだろう。

ここまで紹介して,コミュニケーションを考えていくことが,単に個人のコミュニケーション能力の問題に還元できない,社会的,文化的,教育的背景の中で生じていること,それを全体に国としてやる姿勢は見られず,何か方向違いの復古性だけが際立ち,ますます子供たちを追い詰めていく危惧を感じた。

ともすると,コミュニケーションをスキルと考えがちだ。しかし,そのスキルには,シチュエーションがある,バックグラウンドとなる文化的社会的背景がある。コミュニケーションは,その中で浮かんでいる,あぶくと考える。例えば,ヒトと話すときは,こうしましよう。こういうやり方をするといいですわ,等々。そういうあぶくの立て方をどれだけ学んでも,本当に意味があるのか。著者はそう問いかけているように思う。それは,あくまで,コミュニケーションの出来不出来を個人の能力やスキルに還元しているからだ。それができなければ,本人は追い詰められていく,ますます自分がため人間だ,と。コミュニケーションスキルを好意で教えていく人間が,実は追い込む側に加担している。

ちょっと長くなってしまったので,このつづきは,次回に紹介したい。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



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posted by Toshi at 06:34| Comment(3) | 書評 | 更新情報をチェックする