2012年12月25日

自己幻想の罠をどう抜け出すか~人を好きになるということ




人に好きといったことが何度あるだろうか。その一瞬のことを思い出してみると,どうも,相手に対してというよりは,自分の影に向かって言っているのではないか,という気がする。自分自身を見ている。つまり,好きというのは,自己完結して,自己循環しているような気がするのだ。自分というプロジェクターが写したように,自分の幻影の膜の中で見ている相手のような気がする。

キルケゴールは,自己とはひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいはその関係においてその関係がそれ自身に関係するということである。自己とは関係そのものではなく関係がそれ自身に関係することである,といっていた。つまりは,自分との関係を関係するのである。

それは,丁度透明な風船の中に入って,影の自分と対話している。絶望する自分とそれほどでもないと思う自分との対話であったり,希望を照らし出す自分と踏みとどまろうとする自分との対話であったり等々,似たように,好きな人を前にして,その人自身ではなく,自分の描いた自分を見ている。

二人が向き合っていても,自分は,自分自身の中の自分と向き合っているとする。相手も,相手自身の中の自分と向き合っているとするなら,お互いが会話していても,相手の言っていることを,自分の影を通してしか耳に入れていないかもしれない。あばたもえくぼとは,よく言ったものだ。

それでは,自分と相手が,その自分という真の意味で向き合うには,どうすればいいのか。

ここは,妄想だが,啐啄同時ではないが,自分と相手が同時に,自分という自己幻影の膜を抜け出さなくてはならない。

「啐啄同時」が,鶏の雛が卵から産まれ出ようとするとき,殻の中から卵の殻をつついて音をたてる。これを「啐」と言い,その一瞬,すかさず親鳥が外から殻をついばんで破る,これを「啄」と言う。この「啐」と「啄」が同時であってはじめて,殻が破れて雛が産まれる。お互いが,同時に,相手の自己幻影の膜を,啐啄同時に破る。

そうやって,自己幻影の膜を破るとすると,それは,どういう一瞬なのか。自己充足とも,自己満足とも違う,相互が厳しい自己確認をしなければ,自己幻想の膜からは出られない。一人ではなく,相互だからできる気がするのだが,お互いが,相手をただ一人のその人として認め合うことなのではないか。それは,霧の向こうに,一瞬見える。立った一瞬。その時を逃すと,またおのれの影しかそこに見なくなる。

ブーバーは,一人の人に対し,私の<なんじ>として向き合う,という。僭越だが,僕は,丁度さかさまから,ブーバーと出会っているらしい。

ブーバーは,われわれが何かを経験するとき,世界には関与していないという。経験とはわれわれの内部におこることであって,われわれと世界の「あいだ」におきることとはなっていない,と。だから,まず,私という我の中に汝を見出すべきなのだ,経験とは,だから,「我からの遠ざかり」である,と。

でも,それでは,結局自分の影を見ているだけなのではないか,という懸念がある。間違っているかもしれないが,その自分の影を,破らなくてはならない。

フロムはいう。「愛とは,特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの『対象』にたいしてではなく,世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度,性格の方向性のことである」という。だから,「一人の人をほんとうに愛するとは,すべての人を愛することであり,世界を愛し,生命を愛することである。誰かに『あなたを愛している』と言うことができるなら,『あなたを通して,すべての人を,世界を,私自身を愛している』と言えるはずだ。」と。

確かに,人は人を相手しいるとき,心が広く大きくなり,世界を祝福したい気分になる。でも,それは,まだ自分が自分の幻想に惹かれ,その時,その場に自己満足しているからではないのか。そういう態度になるために何が必要なのか。

更に,フロムは言う。「二人の人間が自分たちの存在の中心で意志を通じ合うとき,すなわちそれぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき,はじめて愛が生まれる。この『中心における経験』のなかにしか,人間の現実はない。人間の生はそこにしかなく,したがって愛の基盤もそこにしかない。」と。そしてこう言う。

二人の人間がそれぞれの存在の本質において自分自身を経験し,自分自身から逃避するのではなく,自分自身と一体化することによって,相手と一体化するということである。

自分自身を「信じている」者だけが,他人にたいして誠実になれる。なぜなら,自分に信念をもっている者だけが,「自分は将来も現在と同じだろう,したがって自分が予想している通りに感じ,行動するだろう」という確信が持てるからだ。自分自身にたいする信念は,他人にたいして約束ができるための必須条件である。

そして,こう言う。

愛するということは,なんの保証もないのに行動を起こすことであり,こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に,全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり,わずかな信念しかもっていない人は,わずかしか愛することができない。

もしお互いが,相手の「なかの芯のようなもの」を信じあえれば,たとえ「環境がどんなに変わろうとも,また意見や感情が多少変わろうとも,その芯は生涯を通じて消えることなく,変わることもない」自己の中にある確信を,しっかり確認できれば,あるいは自己完結の膜は破れていくかもしれない。

コミュニケーションは,「何かを共有する」ことでもある。言葉は,少なくとも,膜を濾してでていく。その言葉を介してしか,それを破り,見つける方法はないのなら,もっともっと,自分を語り,自分をさらけ出していくしかないのかもしれない。

その果てで,自分というプロジェクターが映しているような自己幻想の「好き」から,リアルなおのれを認知してもらうことを通して,相手のリアルな認知をつかみ,そこから,互いの<芯>を認め合うことが,ひょっとすると,本当の意味での自己完結の幻を破れるのかもしれない。仮に幻が破れなくても,まあ,それはそれでいいのかもしれないが,それでは自己満足をついに脱することはできまい。

まずは自分の物語を,もっともっと語らなくてはならない。


参考文献;
エーリッヒ・フロム『愛するということ』(紀伊國屋書店)
デヴィッド・ボーム『ダイアローグ』(英治出版)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#エーリッヒ・フロム
#愛
#キルケゴール
#デヴィッド・ボーム
#ダイアローグ
#愛するということ
#マルチン・ブーバー
#我-汝

posted by Toshi at 13:21| Comment(14) | | 更新情報をチェックする

2012年12月26日

「自分を開く」について


一昨年,評判を聞いて,C・オットー・シャーマー『U理論』を読んだ。そこで,直感したのは,「開く」という言葉であった。それを,あるセミナーで公言したら,たまたまそこに,版権を持っている会社の社員の方がいらして,名刺交換した時,「恥ずかしながら,ザックリと開くことだと受け止めた」と申し上げたら,笑いながら,肯定的な反応をいただいた記憶がある(勝手読みか?)。

翌年早々のある勉強会で,「今年のテーマは『開く』だ」と,また公言したところ,何人かから好意的な反応をもらい,その後の懇親会で,それまで,つかず離れず,長い付き合いのあるカウンセラーに,付き合ってくれと言われて,驚いたのをよく覚えている。自分を開く,という言葉に,それほどの反応があるとは予期せずに,動揺したのを覚えている。残念なことに,3月に3.11が来て,しばらくそれどころではなくなったが,気持ちとしては,続いていた。ただ,あまりそれを公言しないでいた。ただ,「自分を開く」と公言することに,自分の予想を超えて,(すべての方ではないが)強く反応される方々がいらっしゃることに,少し戸惑っているのは確かだ。

自分のイメージでは,この「開く」は,いわゆる自己開示とはちょっと違う。自己開示は,心理学辞典では,

他者に対して,言語を介して伝達される自分自身の情報,およびその伝達行為をいう。狭義には,聞き手に対して何ら意図を持たず,誠実に自分自身に関する情報を伝えること,およびその内容をさす。広義には自己に関する事項の伝達やその内容を示す。自己開示の中でも,非常に内面性の高いものを開示することを告白という。

として,自己開示と自己呈示をこう分けている。

自己開示は言語的な伝達のみを対象としているのに対し,自己呈示は非言語的な伝達も含む。自己開示は意図的であるか否かはかかわりないが,自己呈示は意図的であることを前提にしている。他者が好むような行為をあえて見せたりすることを含む。自己開示については,すでに,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11027122.html

で触れた。

しかし,自分のイメージでは,ちょっとこれとは違う。単にドアを開けている,というのでも,シャッターを下ろさないというのでもない。もう一歩踏み出して,自分の考えていること,自分の感じていること,自分の思いを,必要な時に,いつでもオープンにできるし,そのことにこだわらず,いつでも手放せられるというニュアンスがある。

いってみると,自分についての執着を捨て,こだわりを捨て,とらわれを放ち,頓着しない,という感じが強い。あまり自己限定しないという意味では,ブレインストーミングでアイデアをまとめていくときのあの感覚に近いかもしれない。そのあたりは,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2012-1129.html

ですでに触れたが,ここではもう少し先へ踏み込むと,その時,二人であれ,三人であれ,もっと多くの人がいるのであれ,その場に溶け込める,というニュアンスもある。

それまでは,いい意味でも,悪い意味でも,どこか肩肘張って,おれがおれがという感じが付きまとい,浮いている感じがあった。いや,もうちょっというと,浮いている自分を,むしろ,よしとしていたきらいがあった。それを自恃と称していた。いまも,それがなくはないし,完全溶け込んだのでは,情けない。ここでの意味は,その場とひとつになり,その場そのものが独自に動き出すのに,主体的にコミットできるようにする,という感じだ。いつもそれがうまくできているわけではないが,姿勢としてはそのつもりだ。

それとの関連で言うと,もうひとつ「自分を開く」にニュアンスがあるとすれば,人との接し方というか,人とのかかわり方である。これは自分特有の問題かもしれないが,育成歴もあって,人との接触の範囲が狭く,それを広げることに消極的だったということがある。だから,人見知りをする。初めての場には行きにくい。大体初めての場に行かなければ,ますます自己閉鎖していくことになる。悪循環だ。

ある日突然,というか,これは,「開く」と公言する十年位年前,あるコーチングの勉強会で,講師から「鎧を着ているみたいだ」と言われ,その人に,カウンセリングでも学んだら,と言われたのがきっかけで,以来,カウンセリング,セラピー,コーチング,心理学等々,好奇心の赴くまま,積極的にいろんな集まりに出るようにしてきた。だから,開くには人との接触への馴れというのもある,という気がする。馴れれば,おのずと開いていく。「自分を開く」と公言した前後から,この傾向がますます増幅してきた。その意味で,自分の中では,「開く」のニュアンスには,もっともっともっと広く人と接するというのがある。

ところで,『U理論』では,直接的に「開く」にかかわることを,そんなに言及していないが,まずは,3つの「私たちが生まれついて持っている」能力について,

①開かれた思考(マインド) 理性的な,IQタイプの知性にかかわる能力。ここでは,物事を,事実も数字も先入観なく,新鮮な眼で客観的に見る。「思考はパラシュートのようなもの-開いて初めて機能する。」

②開かれた心(ハート) これは感情指数,EQを働かせる能力だ。他者と共感し,異なるコンテキストに適応し,他者の立場になって物事を考える力。

③開かれた意思 真の目的と真の自己を知る能力。このタイプの知性は意図やSQ(スピリチュアル指数)と呼ばれることもある。この能力は,手放す,迎え入れるという行為にかかわっている。

この能力は個人レベル(主観性)だけではなく,集団のレベル(間主観性)のどちらにも備わっている,とシャーマーさんはいう。

そのためにしなくてはならないことは,いっぱいあるのだろうが,まずは,

・評価・判断の声(VOJ:Voice of Judgment)を保留し,
・その時,その場,相手への皮肉・諦めの声(VOC:Voice of Cynicism)を棚に上げて,
・古い自分を手放して,恐れの声(VOF:Voice of Fear)を克服する,

必要があると,シャーマーさんは言っている。しかし,こう考えれば,難しいことではないと感じる。

評価・判断の声(VOJ:Voice of Judgment)を保留し,
その時,その場,相手への皮肉・諦めの声(VOC:Voice of Cynicism)を棚に上げて,

は,いわば,おなじみの,ブレインストーミングのマインドだ。つまり,「批判禁止」。相手を批判するということは,自分の価値・評価からしているので,批判をやめた瞬間,こころのシャツターが開くことを意味する。相手の意見を閉ざすことは,自己完結して意見をまとめているのと同じだ。自分一人の価値と評価でまとめるくらいなら,人と話さなければいい。

そして,そうやってこころのシャッターを開けた瞬間,自己完結した,閉じた世界を開いたことなので,すでに古い自分を手放すことを始めているといっていいのではないか,と思う。

そのための自分の習慣として,シャーマーさんが,こんなことを提案しているのが,気に入っている。

①朝早く起きて,自分にとって一番効果のある,静かな場所へ行き,内なる叡智を出現させる
②自分なりの習慣となっている方法で自分を自分の源につなげる。瞑想でもいいし祈りでもいい。
③人生の中で,今自分がいる場所へ自分を連れてきたものが何であるかを思い出す。すなわち,真正の自己とは何か,自分のなすべき真の仕事は何か,何のために自分はここにいるのかと問うことを忘れない。
④自分が奉仕したいものに対してコミットする。自分が仕えたい目的に集中する。
⑤今はじめようとしている今日という日に達成したいことに集中する。
⑥今ある人生を生きる機会を与えられたことに感謝する。自分が今いる場に自分を導いてくれたような機会を持ったことのないすべての人の気持ちになってみる。自分に与えられた機会に伴う責任を認識する。
⑦道に迷わないように,あるいは道をそれないように,助けを求める。自分が進むべき道は自分だけが発見できる旅だ。その旅の本質は,自分,自分のプレゼンス,最高の未来の自己を通してのみ世の中にもたらされる贈り物だ。しかし,それは一人ではできない。

このすべてがわかっているわけではないが,自分を取り戻する時間が必要だということはわかる。しかし,この前提に,あらゆるところで,自分を開けていなければ,この習慣は意味がない。

開くというのは,ある意味,平田オリザのいう,「協調性から社交性」に通ずるとも思っている。協調とは,周りとの関係性に主眼がある,しかし社交性は,こちら側からのアプローチだ。それは,開くことで効果をアップする,と信じている。

そして,「自分を開く」は,開けば開くほど,ますます深く開ける。そう確信している。


参考文献;
C・オットー・シャーマー『U理論』(英治出版)
平田オリザ『わかりあえないことから』(講談社現代新書)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#U理論
#C・オットー・シャーマー
#VOJ
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#VOF
#自己開示
#自己呈示
#告白
#平田オリザ

posted by Toshi at 08:55| Comment(11) | カウンセリング | 更新情報をチェックする

2012年12月27日

捨てるあるいは棄てるについて


昨今捨てるが流行っているらしい(ちょっと遅れてる?)。それを何たら,というらしい。へそ曲がり流に言うと,物に執着する心を捨てるのだとすれば,物を捨ててもだめで,自分の中の何かの執着を捨てなくてはならない。しかし執着を捨てるということは,人生への自分の固執を捨てることだ。自分のこだわりを捨てることだ。そこを悪者のように言うのがよくわからない。なぜそこまで自分を貶めるのか,理解できない。

こだわっているのは,自分の何かだ。その何かには,意味がある。そのままにしろとは言わないが,その執着がエンジンになっているのか,ブレーキになっているのか,アクセルになっているのか,で意味が変わる。超えるべきものは自分が超える。他人の力を借りなくても,必要な時に必要なものに出会い,必要な決断をする。きちんと生きている限り,必ずそうする。

その程度に自分を信じられない人が,右顧左眄して,人の生き方に左右されるのはどうなんだろう。その提唱者は自分のためにやったのだ。それは成功した,しかしそれを取り入れるには,慎重でなくてはならない。自分の人生なのだ。自分の人生には自分の流儀があるはずだ。そんな無駄なことをやっている間に,生きることに執心した方がいい。

それに,一度捨てたら,二度と戻ってこないものがある。その時,価値がないと思ったとしても,人間のいまなど,ほんの数秒しかないと言われている。

老婆に見えたり若い娘に見えたりする,漫画家ヒルのだまし絵が有名だが,立方体の二つの見え方がする,ネッカーの立方体というのもある。どちらが見えるとしても,「その瞬間にはいつもひとつしか認識できない」と,エルンスト・ヘッペルは言う。両方が同時に見えることはない。

これは,意識の中に一つの対象しか存在していないことを示している。一つの対象が注意の中心にあるとき,別の見え方も含めて他のすべては背景に引っ込んでしまい,そして背景になる。……一つの意識内容はいつも数秒しか留まらず,それもまた沈下して他のものと交代してしまうのである。

こんな危うい今の決断は,今の背後のさまざまな思いを地に押し込んで,図として表面化しているだけだ。そしてこういっている。

現在すなわち私たちの意識は,鞍の背のように時間の上にあり,そこに私たちがまたがっている。そしてそこから時間の二方向,つまり過去と未来を眺めている。

過去のすべては自分の中にある。捨てるべき対象ではない。どんな恥ずかしい過去も身を隠したくなる過去も,すべては自分のリソースなのだ。そんな経験をしたことのない人は,その分失敗も過誤も犯さない経験しかしていないのだ。それをリソースと呼ばなくてどうするのだろう。僕は自死を含めて,三度死に損なった。それを恥ずかしいとは思わない。そのすべてを含めて自分のリソースだ。自分というものの人生だ。

第一,もし捨てるというのなら,徹底的にやらなくてはならない。ものを捨てる。金を捨てる。家を捨てる。職を捨てる。家族を捨てる。欲を捨てる。名誉も誇りも捨てる。そこまでいけば出家だ。自分の執心を捨てる一番いい方法は,自分を捨てることだ。そこまで徹底的に考えた末の廃棄なのだろうか?

僕には,どうも捨てることに執心する気持ちがわからない。わざわざ棄てなくても,僕は棄てるべき時が来れば,普通の人は棄てられると思う。棄てることで人生が変わるような人は,今まで何もしなかった証でしかない,と思っている。

そういう人は,身を切るような(まさに何かを捨てるような)決断も気なかったし,決意もしなかったし,というかもしれない。

しかし僕は,そういうふうに自分を貶める人を信じない。その人は謙遜しているか,自分を観ていないだけだ。人生で,何も捨てなかった人などいない。親を捨てなくては結婚できない。親の戸籍を捨てることではないか,結婚とは。就職は,それしかなかったというかもしれないが,それを選択したのだ。そこに決断がなかったとは言わせない。決断とは捨てることだ。その瞬間,あり得る可能性を,捨てて選んだのだ。

僕は,引っ越しするにあたって,3年ほど前,30年以上書き綴ってきた日記をすべて捨てた。それは後悔していない。過去を捨てるとは,この程度でなくては棄てたことにはならない。僕の執着は本だ。それも同じ時期1/3捨てた。しかし,これだけは後悔している。なぜなら,本はものではない。自分の知的好奇心そのものだ。知的好奇心がやまない限り,また必要になる本がある。その時は必要ないと思っても,また螺旋のように知的好奇心,問題意識は戻ってくる。だから,何冊かを買い戻した。しかし,もう二度と買い戻せないものもある。本に引いた線だ。その時の自分の関心は,今も同じ関心になる。そこを確かめるだけで,その本のエッセンスがわかる。そういう読み方をしてきた。それだけは,戻ってこない。

捨てた瞬間戻らないものがある。それでも捨てたいなら,捨てればいい。自分の人生だから。ただし,その行為が人真似でない証をするべきだ。捨てる基準は自分で作る。僕なら,四段階の捨て方をする。
速攻で棄てていいもの,
判断猶予しておくもの,
絶対捨てないもの,
そして絶対捨てる対象にしないもの。
それも,少し間を置く。本当に速攻で棄てていいのか。その判断は今という時だけか,将来の自分も見据えているのか,明日の自分の方向は見えているのか等々。

ひとの記憶には,大きいもので,3つあると言われている。
①意味記憶(知っている Knowには,Knowing ThatとKnowing Howがある)
②エピソード記憶(覚えている rememberは,いつ,どこでが記憶された個人的経験)
③手続き記憶(できる skillは,認知的なもの,感覚・運動的なもの,生活上の慣習等々の処理プロセスの記憶)
この他,記憶には感覚記憶,無意識的記憶,ワーキングメモリー等々があるが,なかでもその人の独自性を示すのは,エピソード記憶である。これは自伝的記憶と重なるとされているが,その人の生きてきた軌跡そのものである。すべてものには,人生が絡む。それを捨てるには,よほどの慎重さがいる,と思っている。

デカルトは,問題分析の時に従うべき4つの原則を書いているそうだ。

①真であると明証的に認識できないものを決して真であると承認しないこと
②調べようとする問題をもっと簡単に解決するためには,適切で必要なだけ多くの部分に問題を分けること
③適切な順序で思考すること。すなわちもっとも単純で見抜かれるべくことからはじめて,それから次第にいわば階段を上るように,複雑なものの理解へ進むこと。さらにいうと,普通は連続しないものにすら順序をもちこむこと。
④何も忘れていないと確信できるほど何もかも完全に列挙して,一般的な見解を打ち立てること。

性急さはもちろん,これがいいと思い込む先入観を避け,疑う余地がないほどはっきりと自分で確証できないことに従わない。これが原則だ。



参考文献;
エルンスト・ヘッペル『意識のなかの時間』(岩波書店)


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#捨てる
#エルンスト・ヘッペル
#意識のなかの時間
#意味記憶
#エピソード記憶
#手続き記憶

posted by Toshi at 09:07| Comment(105) | 捨て方 | 更新情報をチェックする

2012年12月28日

視点について~視点をめぐる多角的な視点


コーチングでも視点を大事にします。いわばものの見方だからです。

たとえば,CTIの基礎コースのテキストには,「視点転換のスキル」について,こうある。

「視点転換のスキル」とは,クライアントが自ら置かれている状況を別の視点からとらえることで,異なる選択肢が見つけられるようにサポートするためのスキルです。ちなみに,視点を変えるということは,コーチがクライアントから得たデータに異なる解釈を与えることを意味し,通常は否定的にそのデータを解釈している相手に対し,肯定的な解釈を提示することで,相手は新たな可能性を見出すことができるのです。たとえば,あるクライアントが,非常に激しいマーケットで権限の強いポジションの候補者になりながら一歩及ばず,そのポジションを逃したとしましょう。そのクライアントは落ち込み,自分の仕事能力に自信を失っています。この状況に視点転換を使うならば,「それほど競争の激しいマーケットで候補にあがったということは,あなたの経験と知識がそれだけ素晴らしいということなのです」となります。

しかしこの例では,視点の転換というより,ものの見方を示唆してしまっている。これは視点をクライアント自身に変えさせるための質問を使う方が効果的に思える。たとえば,「それほど競争の激しいマーケットで候補にあがったということについて,同僚や部下はどう見ているでしょう」という方が,クライアントの視点そのものを変えることになる。視点転換を,その結果えられるものではなく,転換そのもので得られるものに,力点を置くべきだと思うが,これは別の視点。閑話休題。

ところで,CTPのテキスト(自分が学んだ2004年当時のもの)では,こうあります。

コートには,クライアントが,今の状態は自分が起こしたものであり,これから望む未来も自分でつくっていくことが可能だという立場に立つよう促すスキルが求められます。そして,そのためには相手に多面的な視点を与えることが役に立ちます。

多面的という言い方は,視点そのものというより,視点から見えるものに力点を移している。しかし,視点がクライアントのものの見方を変えるのだとすれば,「選択肢」という言い方のほうが妥当な気がする。

それはともかく,続いて,そのために,

①責任を引き寄せる たとえそれが望ましくないようなものであっても,今ある状況や起こっている問題は自分が作り出したものであるということを,クライアントに自覚させることです。(コーチング大好きな人からは顰蹙を買うだろうが,あえて言えば,大きなお世話,こういう上から目線が,ときどき鼻につく。もしそれに敏感でなければ,鼻につくコーチになるはずだ。いまの多くのセラピストは,こういう言い方をしない。もう少しセンシティビティが必要だろう。)
②枠を替える クライアントは,ときに,自分の置かれている状況を,ある特定の枠組みに当てはめ,身動きができなくなってしまうことがあります。その状況を,飛躍へのチャンスという捉え方に変換できたとしたら,その後の行動は大きく変わってきます。「枠を替える」とは,クライアントがゴールに向かうことを妨げている,物事に対する見方(枠)を取り替え,相手に新しい視点を与え,行動への動機づけを行うことです。
③支柱を外す クライアントの基本的な考え方や解釈,仮説,コミュニケーション・スタイル,優先順位について,それが機能していないことを指摘し,取り除く手伝いをすることです。
④バージョンアップする クライアントの行動を決めている基本的な考え方や解釈を点検し,その幅を広げたり,新しいものに変えたりする機会とする。
⑤自分の体験を伝える コーチはすでにそれを試していることが必要です(これは変!クライアントから何が出てくるのかわからないのに,何をためすの?こういうおこがまし差が,時に鼻につく)
⑥提案する 相手に新しい視点を提案する。イエス・ノーの選択権は相手にある。CTIでは,イエス・ノー・逆提案の三択を提案する。この方が選択肢として正しい。
⑦リクエストする コーチが望んでいることをストレートに相手に伝えることです。その人がまだ試していない,その人の可能性を引き出す,その人が無意識につくっている枠の外へ連れ出す狙いがある。

さて,こう見てくると,視点そのものについては,あまり深入りしていないように思えます。それは,自分の視点について考えるよりは,「~という視点で見たらどう見えます」「それをあえて好きだと思ったら,どうなります」のように,別の視点をコーチ側から提起することで,別の視界を開かせることで,おのずと気づきを得られるようにするところに,力点があるからだと思われます。

ここでは,視点そのものについて,もう少し突っ込んで,私見をまとめてみました。

人は意識していないが,自分の見方を持っていると思っています。それは価値観であったり,生まれつきの見る位置であったり,こだわりであったり,暗黙の前提であったり,慣れであったり,なんとなく制約を考慮していたり,気づかず固定した位置でみていたりしています。それを自分でチェックすることで,変えることができます。ただし,見方だけは,意識しないと変えられない。特定の見方をとっていることを気づかない限り,変えることはできないのです。

つまり,こうです。「変える」とは,それを意識してみるという意味なのです。例えば,「価値を変える」とは,「~と見た」とき,「いま自分は,どういう価値観・感情から見たのか」と振り返ってみるということです。そのとき,善悪なのか美醜なのか喜怒なのかをチェックし,それ以外の,価値観で見たらどうなるか,無意識の見方を意識し,「では,別の見方ならどうなるか」と,改めて別の見方を取ってみる“きっかけ”にするのです。

①[みる」をみる-見る自分の対象化
視点を変えるというのは,視界(パースペクティブ)を変えるためにそうするのです。それを「見え方を変える」ということができます。見え方を変えることで,見ているものの印象が変わります。視点,たとえば具体的には,見る位置の移動することで,見え方が変わるからです。

その意味で考えると,われわれの想像力は,見る位置を動かせるのです。頭の中で,モデルを回転させたり,拡大縮小したりできますが,たとえば,現実的に,見る位置を近づければ,対象は大きくなりますし,遠ざければ小さくなるはずですし,ひっくり返せば,逆さまに見ることになります。見えているものを変えてみることで,見え方を変えることができます。見え方を変えることで,いままでの自分の見方が動くはずです。

しかしそれをするためには,対象を見ている自分の位置にいる限り,それに気づきにくいのです。なぜなら,見ているもの,対象の方に意識の焦点があっているからです。

それが可能になるのは,「見ている自分」を「見る」ことによってだけです。つまり,見る自分を突き放して,ものと自分に固着した視点を相対化することです。そうしなければ,他の視点があることには気づきにくいのです。だから,コーチングの質問で,「ほかの視点は?」と聞いたり,「○○の視点で見たらどう見えますか?」というのが効果的になるのです。

これをメタ化と呼びましょう。自分自身を含め,自分の見方,考え方,感じ方,経験,知識・スキル等々を対象化することです。それは,「『見る』を見る」ことだ,といえましょう。「見る自分」を意識しない限り,何を見ているかに意識の焦点が向かっており,どう「み(てい)る」か,どこから「み(てい)る」かは,「見る自分」自身は気づけないからです。

何かを対象化するためには,いったん立ち止まって,自分を,自分の位置を,自分のしていることを,自分のやり方を振り返らなくてはなりません。たとえば,言葉にする,言語化する,図解する,というのもその方法のひとつになるでしょう。それをするためには,対象化する必要があるからです。つまり,象徴的な言い方をすれば,「『見る』を見る」ということになる,というのはその意味です。

たとえば,「どつぼ」にはまって,トンネルビジョンに陥っているとき,視野狭窄の自分には気づけません。自分がトンネルに入り込んでいること自体を気づけない。それに気づけるのは,その自分を別の視点から,見ることができたときだけです。そのとき,初めて,止まる,前進し続ける,戻る,横へ行く等々の選択肢が見えてきます。つまり,視点を意識するとは,他の選択肢を意識できるようになる,ということなのです。なぜなら,見ているものではなく,見ている「見る」が対象になっているからです。

もう一つ,「どつぼ」を脱出する方法があります。あえて,自分の視点(視野狭窄に陥っている)を捨てて,意識的に,他人に仮託してみることです,たとえば,上司,トップ,先輩,家族等々,具体的なイメージのわく視点を想定して立ってみる。それ以外に自分の視点の狭窄に気づきにくいのです。これしかないと思いこんでいる自分の状態では,それ以外にあることには気づきにくい。だから,それを,「みる」をみると呼んでいる。「他には」の視点バージョンといってもいい。コーチングが意味が出てくるのは,ここなのです。これも,コーチングでよくやる質問です。「○○さんなら,どういうでしょう?」等々。

②「『見る』を見る」ための4原則~メタ化によってものの見方を相対化する

では,② 「『見る』を見る」ための視点として,どんなものがあるのか。4つほど例示をしてみました。

①「問い」(問題)の設定を変える-その「問い」(問題)の立て方がものを見えにくくしていないか
 ●問いの立て方を変える 問題そのものを設定し直す,別の問いはないか,問題そのものが間違っていないか,新たな疑問はないか,見逃した疑問はないか
 ●目的を変える 別の意味に変える,別の意義はないか,別の目的にする,意味づけを変える,意図を変える
 ●制約をゼロにする 時間と金を無制限にする,別の制約に変える,人の制約を無視する
 ●根拠を見直す その前提は正しいか,前提を見直す,前提を捨てる,こだわりを捨てる,価値を見直す,大切としてきたことを見直す

②視点(位置)を変える-その視点(立脚点)が見え方を制約していないか
●位置(立場)を変える 立場を変える,他人の視点・子供の視点・外国人の視点・過去からの視点・未来からの視点になってみる,機能を変える,一体になる・分離する,目のつけどころを変える,情報を変える等々
●見かけ(外観)を変える 形・大きさ・構造・性質を変える,状態・あり方を変える,動きを変える,順序・配置を変える,仕組みを変える,関係・リンクを変える,似たものに変える,現れ方・消え方を変える等々
●意味(価値)を変える まとめる(一般化する),具体化する,言い替える,対比する別,価値を逆転する,区切りを変える,連想する,喩える,感情を変える等々
●条件(状況)を変える 理由・目的を変える,目標・主題を変える,対象を変える,主体を変える,場所を変える,時(代)を変える,手順を変える,水準を変える,前提を変える,未来から見る,過去から見る等々

③枠組み(窓枠)を変える-その視界が見える世界を限定していないか
 ●全体像から見直す 全体像を変える 広がりを変える,別の世界のなかに置き直す,位置づけ直す
 ●設計変更する 出発点を変える,ゴールを変える,要員を変える,仕様を変える,組成を変える
●準拠を変える 別の準拠枠を設定してみる,よりどころを見直す,前提を変える,制約を消す(変える)
 ●リセットする すべてをやり直す,リソースを見直す,ゼロにする,チャラにする,なかったことにする

④やり方(方法)を変える-その経験とノウハウ(経験のメタ化)が方法を狭めていないか
●本当に可能性は残っていないか まだやれるというには何が必要か,何があれば可能になるか,どういうやり方ができれば可能になるか,何がわかれば可能になるか,
●まだやり残していることはないか 他にやっていないことはないか,まだ試していないことはないか,まだやって見たいことはないか,ばかげていると捨てたことはないか,限界を決めつけていないか,
●プロセスを変える まだたどりなおしていないことはないか,別の選択肢はないか,分岐点の見逃しはないか,捨てていいプロセスはないか,経過を無視する,逆にたどる,資源の再点検,見落としはないか
●手段を変える 試していないことはないか,異業種で使えるものはないか,捨てた手段に再チャレンジする


実は,初めは視点については,視点の位置をどう変えるかのみを念頭に置いていましたので,②だけしか考えていませんでした。しかしあるメーカーで,こんなことを言われたことがあります。「問題」はわかっている。しかし解き方がわからない,と。

しかし,思ったのです。もし問題がわかっていて,どうしても解き方がわからないのだとしたら,自分が「どつぼ」にはまっていると思うべきです。とすると,わかっていると思い込んでいる「問題」の設定そのものを見直す必要があるのではないか。本当にそれがもんだいなのか,と。そこから,考えを進めて,上記の4つの視点を整理してみました。ポイントは,見ることを制約すると思われるものを,少し広げて検討しようとしたところだと思います。

しかし,まだ仮説です。仮説ということは,僕自身の機能的固着(固定観念)から脱していないところがあるのではないか,ということです。絶えずそういう問題意識を持ち続ける必要があります。すべては仮説ですから,正解ではないということです。

今日のアイデア;
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#CTP
#CTI
#視点
#機能的固着
#ものの見方
#「見る」を見る
#コーチング
#質問

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2012年12月29日

得体のしれぬものに向き合う~石原吉郎の詩をめぐってⅡ



言語化することの大切さを先日も感じさせられることがあった。言語に置き換えることで,あるいは言語を置き換えることで,それから脳が受ける刺激が変わる。所詮日本語で考えている。言葉が発想を左右する。ヴィトゲンシュタインは,持っている言葉で見える世界が違うと言った。たぶん,虹だけでなく,日本語の虹を見るのと,他の言語で虹を見るのとは違うように,他にも一杯違いがあるはずだ。

一生の人との出会いを,一期一会というとすると,その言葉の持つ潔さと,礼儀正しさと,凛とした立ち姿を言葉で言うなら,

一期にして
ついに会わず
膝を置き
手を置き
目礼して ついに
会わざるもの(「一期」)

というよりほかに,適切な表現を見たことはない。その一生がきれいごとでは済まないことも,よく知っている。

耳のそとには
耳のかたちをした
夜があり
耳穴の奥には
耳穴にしたがう夜があり
耳の出口と耳穴の入り口を
わずかに仕切る閾の上へ
水滴のようなものが
ひとつ落ちる

耳穴だけのこして
兵士は死んでいる(「閾」)

そこにあるのは,覚悟というのもなまやさしい,得体のしれぬものとただ向き合う,というようなことだ。ただ向き合う,ひたすらに。自分に,自分の思いに,得体のしれぬ何かに。だから,こうもいう。

いまは死者がとむらうときだ
わるびれず死者におれたちが
とむらわれるときだ
とむらったつもりの
他界の水ぎわで
拝みうちにとむらわれる
それがおれたちの時代だ
だがなげくな
その逆転の完璧において
目をあけたまま
つっ立ったまま
生きのびたおれたちの
それが礼節ではないか(「礼節」)

逆説のように。そう逆説なのだ。死者が生きていて,生者が死んでいる。そのいたたまれぬいばらの中で立ち続ける。

いわばはるかな
慟哭のなか
わらうべき一切は
わらうべきその位置で
ささえねばならぬ(「食事」)

それを覚悟と呼ぶのか,決断と呼ぶのかはわからない。決断というのは,何かを捨てることだ。覚悟は,その踏ん切りをつけることなのだろう。

そこにあるものは
そこにそうして
あるものだ
見ろ
手がある
足がある
うすらわらいさえしている
見たものは
見たといえ(「事実」)

それを,ただ,見る。神の眼も,理屈の眼もなく,ただ見る。そこに断念がある。断念というのは,しかし諦めることではない。切り捨てることだ。その瞬間に,ありうる自分の選択肢を,ありうる未来を断ち切ることだ。その究極が,一切のおのれの未来を断つ自死になる。しかしかつてそれを試みたから言うのではないが,それは断念というより,諦めに似ている。

諦めは,背を向けることだ。それと対峙することから逃げることだ。しかし,断念は,対峙に向き合って,己の力量を見極めることだ。例えば,立ち会って,その瞬間に知るのだ。これは勝負にならない,と。それを逃げとは呼ばない。見栄も名誉も誇りも矜持をも捨てて,立ちを捨てて,勝負を放棄することだ。それは諦めではない。わかっていて,暴走するのは,自殺行為であり,それがわからずに暴走するのは,判断の放棄であり,思考停止であり,自死と同じことで,いずれも,猪突に過ぎぬ。

しかしだ,

断念と
諦めの
微妙な
狭間に落ちる
断念に未練はあるか
諦めに意思はあるか

てなことを考えたこともある。本当に諦めに意思はないのか,というと疑わしい。と同時に,断念に未練がないというのも信じがたい。認知的不協和を合理的にすり抜けていく心理の欺瞞かもしれない。

この日 馬は
蹄鉄を終る
あるいは蹄鉄が馬を。
馬がさらに馬であり
蹄鉄が
もはや蹄鉄であるために
瞬間を断念において
手なづけるために
馬は脚をあげる
蹄鉄は砂上にのこる(「断念」)

「瞬間を断念において手なづけるために」という,この言葉が好きだ。単なるおためごかしなのかもしれない。しかし,捨てたものは戻ってはこない。その瞬間,何かを捨てなくては,次へ行けない。恋愛が,失恋に終わったなら,おのれの恋を捨てるか,おのれの命を捨てるか,恋したそのプロセスのおのれの人生すべてを捨てるか,いずれにしろ,捨てなくては,その一瞬をやり過ごすことはできない。

弓なりのかたちに
追いつめておいて
そのまま手を引いた
そのままの姿勢で
決着はやってくる
来たときはもう
肩をならべて
だまってあるいている
満月の夜のおんなのように
ぎりぎりの影を
息もせず踏んで
こわい目で しんと
あるいている
決着のむこうの
まっさおなやすらかさ
いっぽんの指の影も
そこをよぎってはらぬ(「決着」)

そうした積み重ねの中で,「あっという間に」一生が終わる。しかしそれを理不尽とは思わぬ。その一跨ぎへの,その一跨ぎのかけがえなさへの,いとおしさこそが,生きるということなのではないか。

素足がわたる橋の
ひとまたぎの生涯の果ては
祈るばかりの
その袂から どれほどの
とおさとなるだろう
いきをころした
ひとまたぎの果てへ
弓なりのさまに研ぎおろす
うす紙のような薄明に
怖いすがたでふりむかれたままの
おびえたなりの橋の全行を
たどりかえして
どれほどのとおさと それは
なるだろう(「橋」)

よく,怒ってはいけないという言い方をする。しかし逆だ。怒らない人間を信じない。ひとはどんな時に真実怒るのかで,その人がわかる。その人が真実怒っているとしたら,どれだけ理不尽でも,はた迷惑でも,その人にとっては真実,腹の底から怒らざるを得ない,何かがあったのだ。その怒りは理解できる。でも,もちろんその矛先に立つのは嫌だが。

ふつうは,四六時中怒ってなんかいられない。それは怒っているのではなく,屈託や鬱屈を吐き出しているだけだ。自分の中の何かに苛立っているだけだ。しかし怒るべき時は怒る。その「べき」の一瞬に,その人がある。それがどういうときかは,本人にも,その時が来ないと,わからないかもしれない。

おれの理由は
おれには見えぬ
おれの涙が
見えないように(「理由」)

自分が瞬間湯沸かし器と呼ばれたせいか,感情の起伏のない人間を信じない。人は,一瞬一瞬いろんな情報(刺激)を受けている,それに反応して,恐れたり,おびえたり,悲しんだり,笑ったりする。しかし一番その人がその人らしいのは,怒りだと思う。それも爆発するような憤怒だ。

おのれの尊厳にかかわることで,怒らぬものを信じない。私は,友人が,共通の友人を裏切ろうとした,ただそれだけで,そいつとは二度と口をきかない決心をした。そうしなければ,自分の尊厳がけがされる。しかしその場で相手に怒りを爆発させてもわからないだろう。だから彼はそういうことを平然とした。けれど,当の裏切られた本人はあまり気にしていない,というか,深刻に受け止めていない。しかしそれは本人の問題だ。簿間の問題とは別だ。

こういう場合は,切る。一切の交渉を切る。一切の関係を断つ。それが怒りの表現だ。怒ってはいけないというのは,感情的になってはいけないという意味だ。怒りを表現することは構わない。その表現には,こういうやり方があってもいい。しかし,同時に覚悟しなくてはならない。それは,いつか,違う相手から,僕自身が同じように切られることもある,ということを。怒りの表現については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2012-1104.html

で触れた。


今日のアイデア;
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#石原吉郎
#詩
#怒り
#生き方
#死に方
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2012年12月30日

宇宙という玉ねぎに「芯」はあるか?~『重力とは何か』を読んでⅠ


大栗博司『重力とは何か』(幻冬舎新書)を読んだ。

著者自身が超弦理論(超ひも理論)研究の最前線で,六次元空間から三次元素粒子の性質を導き出すトポロジカルな計算方法(「トポロジカルな弦理論」)を開発した共同研究者の一人であり,わくわくするような,ミクロからマクロにわたる宇宙研究の最前線への歴史を,数式を使わず読ませていく。ベストセラーだそうだが,なかなか面白いし,考えさせられる。

ただ,私の知識では,ここにあるすべてを解きほぐせないので,なぞるだけになるかもしれない。しかしそれにしては,一回では無理で,何回かに分けて,紹介したい。

京都市青少年科学センターに,朝永振一郎の色紙がある,という。そこにはこう書かれている,という。

ふしぎだと思うこと これが科学の芽です
よく観察してたしかめ そして考えること これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける これが科学の花です

そのために,まず重力の7不思議から書き始めている。これが科学の芽にあたる。それがどう解かれてきたのかを説明して,最後に今の科学の到達点,まだ花開いていないけれども,そこを締めくくりとして,全体が構成されている。

第一の不思議は,重力は力である。ニュートンによって,りんごが地面に落ちる現象も月が地球の周りを回る現象も,同じひとつの理論,万有引力で統一された。

第二の不思議は,重力は弱い。重力はほんの小さな磁石の方が強い。電磁気力があるから,分子がしっかりくっついていて,物質もわれわれの身体もまとまっていられる。

第三の不思議は,重力は離れていても働く。磁石が鉄を引き寄せる時,両者の間では力を伝える粒子が行き来している。重力も,まだ発見されていないが,目に見えない粒子が重力を伝えていると考えられている。

第四の不思議は,重力はすべてのものに等しく働く。同じ大きさの鉄の玉と木の玉を落とすと,同じ速さで落下する。質量の大きい物体は,動かしにくい性質と重力に強く惹かれる性質があり,重いものと軽いものが同時に落ちるのは,プラマイゼロで相殺されていると考えられている。重力は質量が大きいほど強いのに,重力が運動に与える影響は質量と無関係になる。

第五の不思議は,重力は幻想である。飛行機の自由落下で無重力状態を作り出すことができる。逆にエレベーターで上昇するとき,強く重力を感じる。重力は消せるし,強さが変わる。見方によって姿を変える性質がある。

第六の不思議は,重力はちょうどいい。宇宙は137億年前に生まれ,現在のように銀河が生まれ,宇宙全体の構造が出来上がるまでに100億年かかり,その間に太陽系も生まれて,地球は46億もの時間をかけて人間を作り出している。しかしもし少しでも重力の働きが違っていたら,生まれた瞬間に重力の重みで潰れてしまうか,逆にあっという間に膨張して冷え切ってしまい,星さえできなかったかもしれない。その意味で,重力がちょうどいい強さだった,といえる。

第七の不思議は,重力理論は完成していない。重力の働きを説明する理論はまだ完成していない。身近なことなのに,なかなか説明できない。それは,宇宙の謎と深くつながっている。

科学史にあたる部分は,少し端折って,最近の解明に飛ばすと,「宇宙という玉ねぎ」はどこまで皮がむけるか,という問いが面白い。

いままで,原子→原子核→陽子・中性子→クォーク,と皮をむいてきた。「その先がある気がします」という。そして,

結論から申し上げましょう。それがクォークかどうかは別にして,この玉ねぎには必ず「芯」があります。物理学者の皮むき作業は,永遠に続くわけではありません。

ミクロの世界を観察する現代の顕微鏡は,「できるだけ波長の短いものを観察対象にぶつけなくてはいけません。対象のおおきさよりも波長が長いと,波が相手を回り込んで通り過ぎてしまいます」。しかし「『波長が短い』とは『エネルギーが高い』」ので,どれだけエネルギーをどこまで高められるかが解像度を左右する。

そのため粒子加速器は巨大化し,CERN(欧州原子核研究機構)のLHC(大型ハドロン衝突型加速器)は,一周27キロの装置が,地下100メートルに埋められている。その中で,陽子を回転させて加速し,反対方向からくる陽子と衝突させて,≪100億×10億≫分の一メートルというミクロの世界を観察する(ナノが10億分の一メートルなので,ナノ×名の10分の一)。

きわめて小さな領域に大きな質量が集中すると,ブラックホールが生まれる。ブラックホールができると,その質量に応じた事象の地平線ができ,そこより内側の領域を見ることができなくなる。だから,LHCを超える加速器をつくっても,ブラックホールが無視できない大きさになり,観測領域が覆い隠されてしまう。そのため,原理的には,≪1億×10億×10億×10億≫分の一,10ナノ・ナノ・ナノ・ナノメートルが限界とされている。これを「プランクの長さ」と呼ぶ。これが宇宙の玉ねぎの「芯」とされる。

原理的に観測できない以上,それより小さいものはありません。それが宇宙という玉ねぎの「芯」であり,そこから先は,もう皮をむくことができないのです。

だとして,

その「芯」を説明できる理論さえ築くことができれば,それ以上に理論を拡張する必要はありません。その先にフロンティアはないのですから,そこが理論の終着点です。そこまでたどり着けば,この世界の根源を統一的に記述する
「究極の理論」が完成することになります。

実は,すでにその目星はついています。その統一理論は,量子力学と一般相対論を融合したものになるに違いありません。というのも,まず「波長」をもつ粒子は量子力学の守備範囲です。一方,ブラックホールは一般相対論の世界。つまり,その両者が一致する10ナノ・ナノ・ナノ・ナノメートルの「プランクの長さ」は,量子力学と一般相対論がどちらも同じくらいの影響を及ぼす領域なのです。

しかしそれを統一するのは,大きな障害がある。ひとつは,計算に無限大が現れて物理的な意味をなさないことが一つ。さらに,

アインシュタイン理論では,重力の伝わり方を空間の曲り具合や時間の伸び縮みで説明します。そこでは時間と空間が混ざり合っているのですが,これに量子力学を当てはめると,時間と空間の構造そのものがミクロの世界で揺らいでしまう。空間が固定されないので,「長さ」という概念も成り立ちません。長さを決めようと思っても,揺らいでいる空間のどこを測定していいのかわからないからです。

この量子重力の無限大の困難を克服し,様々なパラドックスを解決することで,量子力学と一般相対論を融合すると期待されている理論,それが…「超弦理論」です。

超弦理論は,超ひも理論と表記されることもある,Superstring Theory。ストリングとは,現在わかっている素粒子,クォーク,光子,電子,ニュートリノなどとしてあらわれてくる素粒子の基本単位,皮をもう一枚むいた,共通単位として,すべての粒子は同じストリングからできている,と考えている。

この超弦理論が,宇宙論(ミクロの世界とマクロの世界を統一する)のフロンティアなのである。この弦理論を,「素粒子が『点』ではなく,弾力のある『弦』でできていると考えれば,次々と見つかる粒子の性質をその公式で説明できることを発見」したのが,ノーベル賞を受賞した南部陽一郎であった。

このほかにも,素粒子論の湯川秀樹,朝永振一郎,益川敏英,小林誠,米谷民明から,インフレーション理論の佐藤勝彦まで,綺羅,星のような学者・研究者群の中に,日本人の多くの学者が数多くかかわっていることが,よくわかる。

その多くは,仮説の連続であり,ついこの間,アインシュタインの仮説が崩れたと大騒ぎになっていた。まだ仮説なのだと思い知らされた逸話だ。著者は,はじめにでこう書く。

科学的な発見は,最初は研究者の知的好奇心から生まれたものであっても,長い目で見ると,結果的に世の中の役に立つことが少なくありません。かつて「数学のノーベル賞」とも呼ばれるフィールズ賞を受賞した森重文は,自身の研究している基礎数学が,「いますぐには無理でも,5〇年先か,100年先かわからないが役に立つ。そのためには探究心が最高のコンパスだ」と語っています。

そうした余沢にあずかっている。GPSもニュートンがいなければ人工衛星を飛ばせず,アインシュタインがいなければ,距離を正確に測定できなかった。

物理学の歴史は,10億のステップで広がってきた,と著者は言っている。月の軌道の10億メートルの世界と地上の身の丈とが同じ原理で動いているのを発見したのが,ニュートンであり,10億の階段をもう一つ上がって,10億×10億の世界,銀河一つ分の世界になると,アインシュタインの理論が必要になる。

ところが,そのアインシュタインの理論も,10億×10億×10億より先の世界,宇宙の果ての距離,光で見ることのできる限界になると,遠くを見れば見るほど過去を見ていることになり,アンドロメダ銀河は250万年前であり,さらに遠くを見れば,137億年前の宇宙のはじまりを見ることになる。そこではアインシュタインの理論は破綻する。

逆にナノレベル,10億分の一,素粒子研究は,量子力学がなくてはならないものです。素粒子加速器は,≪10億×10億≫分の一の世界を観測できる。しかし≪10億×10億×10億≫分の一の世界では,新しい理論を必要とする。

いま,ミクロとマクロを統一理論する理論が求められているのは,ミクロの解明が,そのまま宇宙の解明につながっているからに他ならない。

その最前線,超弦理論と,それが描き出す驚天動地の世界については,次回,次々回にまとめたい。

参考文献;
ブライアン・グリーン『宇宙を織りなすもの』(草思社)
ブライアン・グリーン『エレガントな宇宙』(草思社)

今日のアイデア;
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#超弦理論
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#一般相対性理論
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2012年12月31日

弦(ひも)は線ではなく面であり立体でもある~『重力とは何か』を読んでⅡ


前回に引き続いて,大栗博司『重力とは何か』(幻冬舎新書)を読んだ感想を続ける。

70年代からマクロとミクロを統合すると期待された超弦理論であったが, 困った問題が立ちはだかっていた。

そのひとつは,理論が成り立つためには宇宙が10次元(空間9次元+時間1次元)である必要があり,6つの余分な次元がなぜ必要なのかが,理論の欠陥とみなされたこと。

さらに,実験で見つかっていない奇妙な粒子が,理論に含まれていること。

後者は,ジョン・シュワルツと米谷民明によって,前者は,十年後の 1984年, ジョン・シュワルツらによって,6つの余剰空間を小さな空間に丸め込むことで,通常の三次元を除く余剰空間が見えなくなるメカニズムを発見し,再び日の目を見ることになる。

当時の研究者たちにとって,それは奇跡的なことだと思えました。最初からそこを目指していたわけではないのに,たまたま最高の形であらゆるパーツが揃っていた。そのため多くの研究者が「これが最終解答に違いない」と考え,超弦理論に惹かれていったのです。

当時大学院に進んだばかりの著者自身も,この分野を主戦場にしょうと決めた,という。しかし,

一筋縄では理解できません。とくに,超弦理論に使われる「カラビ=ヤウ多様体」と呼ばれる六次元空間では,2点間の距離をどうやって測るかという単純なことさえわかっていなかったのです。

そんな超弦理論の行きづまりを打破したのは,10年後の1995年,エドワード・ウィッテンが,一次元の弦でなくてもいいという画期的な構想を発表した。

「点」でない粒子を考えるなら,一次元だけではなく,たとえば,「二次元の膜」や「三次元の立体」のようなものを考えてもいいはずです。なにしろ空間が九次元まであるのですから,素粒子が広がる次元にも選択肢はたくさんある。四次元,五次元,六次元…に広がった素粒子があってもいいでしょう。……アインシュタインの重力方程式から導かれるブラックホールの解は,質量がある一点(ゼロ次元)に集まってできるものでした。しかし超弦理論の方程式を解くと,ゼロ次元に質量が集まるブラックホール以外に,線(二次元),面(二次元),立体(三次元)…などに沿って質量が集まる解があることがわかります。それをすべて考えよう,というウィッテンが提案したところから「第二次超弦理論革命」が幕を開けました。

いままでもそれに近いアイデアはあったが,一旦,そこで新しいパースペクティブが開くと,クーンのパラダイム変革ではないが,一気に視界が広がっていく。一つの仮説が行き詰まり,それを諦めず追い詰めたものが,それを突破するアイデアを着想する。そういう繰り返しの中,螺旋階段を上る,というより,踊り場から数段ステージを一気に登る,今その時代の中にあるらしい。

想定するさまざまな「膜」のことを「ブレーン(brane)」と呼びます。これは,二次元の膜を意味する「メインブレーン(membrane)という英語からの造語です。…ゼロ次元の点を「0-ブレーン」,一次元の線を「1-ブレーン」,二次元の面を「2-ブレーン」…と呼び,一般にp次元の(pは0,1,2といった次元を表す整数)の膜を「p-ブレーン」と呼んでいました。

ちなみに,英語では,「pea」は「豆」のことで,「pea brain」と言えば,「豆頭=お馬鹿さん」の意味もあり,綴りは違うが,「p-brane」は,それにひっかけたイギリス流のユーモアでもありました。

と著者は付け加えてる。そういえば,iPS細胞のiも,当時世界的に大流行していた米アップルの携帯音楽プレーヤーiPodのように普及してほしいとの願いが込められているそうだ。そういえば,最初になづけるには,それなりに発見者や発明者の思いがこもっている。

名づけるとは,物事を想像または生成させる行為であり,そのようにして誕生した物事の認識そのものであった。(中略)人間は名前によって,連続体としてある世界に切れ目を入れ対象を区切り,相互に分離することを通じて事物を生成させ,それぞれの名前を組織化することによって事物を了解する。(中略)ある事物についての名前を獲ることは,その存在についての認識の獲得それ自体を意味するのであった。(『「名づけ」の精神史』)

だからこそ,ヴィトゲンシュタインのいう,持っている言葉によって見える世界が違うことが起こる。それは別の話だが,ここでは,新たに視界に入った図,いままでは一様の地でしかなかったものに,図が見えたことを意味する。とすれば,その名づけには特別な意味がある。

この数か月後,ジョセフ・ボルチンスキーが,両端のある「開いた弦」のアイデアを提起する(この膜をD-ブレーンと呼ぶ。このDは,19世紀の数学者のグスタフ・ディリクレからとっているらしい)。それを,こう説明する。

ブラックホールの近くを閉じた弦がたくさん飛び回っているとしましょう。ブラックホールの表面は事象の地平線で,その中の様子は遠方からは観察することができません。そのため,閉じた弦の半分だけが,たまたま事象の地平線を越えて中に入ったとして,それを遠方からみると,「両端のある弦」がブラックホールの表面に張り付いているように見えます。このような考察から,ボルチンスキーは,ブラックホールの表面には開いた弦の端が張り付いていると考えました。

この結果,次のような視界が開けていく。

表面に張り付いた弦をブラックホールの「自由度」とみなせることがわかりました。物理学では,物の状態を表すのに自由度という概念を用います。たとえば,ある部屋の空気の自由度は,それぞれの分子の位置です。分子の位置をすべて決めれば,部屋の中の空気の状態が完全に決まります。

ブラックホールの場合には,その自由度が表面に張り付いた弦であることが,ボルチンスキーのアイデアによってわかったのです。自由度がわかれば,ブラックホールにどのような状態があるのかもわかり,その状態の総数(すなわち書き込める情報量)を計算することができるようになりました。

たとえば私のミクロな自由度は,私の体を構成する原子の配置にほかなりません。それになぞらえて言うなら,表面に張り付いた弦はブラックホールの「原子」のようなものだと言えるでしょう。

だとすれば,空気の分子によって熱や温度などの性質がミクロな立場から導き出せるのと同じように,「原子」である開いた弦によって,ブラックホールの発熱をミクロな立場から理解できるはずです。

その計算を最初に行ったのは,アンドリュー・ストロミンジャーとカムラン・バッファで,その結果ブラックホールが大きくなる極限ではホーキングの計算から期待された状態数(10の「10の78乗」)と一致し,質量の大きなブラックボックスでの問題を解決し,次は,ミクロの小さいブラックホールの状態をどう理解するかです。そこで,著者は,かつて三人の共同研究者と発表した「トポロジカルな弦理論」を使って,アンドリュー・ストロミンジャーとカムラン・バッファに呼び掛け,あらゆるサイズのブラックホールの状態数を計算できることを突き止める。

しかしブラックホール問題には,奇妙な計算結果が見つかる。

それは,ホーキングの計算と超弦理論の計算が一致したブラックホールの状態の数が,ブラックホールの体積ではなく,「表面積」に比例していることです。

この不思議な事実から,ひとつのアイデアが生まれる。ブラックホールの中で起きていることは,すべてその表面が知っているのではないか。つまり,

三次元空間のある領域で起きる重力現象は,すべてその空間の果てに設置されたスクリーンに投影されて,スクリーンの上の二次元世界の現象として理解することができる…。

これを,重力のホログラフィー原理と名付けられている,という。

この結果,奇妙な事態に陥るのだが,それは次回に譲る。しかし次々とアイデアに時代が開かれ,さらにまたそこから次のアイデアに導かれていく,その沸騰する雰囲気がうらやましい。もちろん,すべてが紳士的であるわけではなく,出し抜いたり,改竄したり,ねつ造したり,だましたり,人を追い詰めたり,といった,どの世界にもある葛藤,闘争もある。そのあたりは,アレクサンダー・コーンの『科学の罠』『科学の運』(工作舎)やアービング・M・クロツの『幻の大発見』(朝日新聞社)あたりに詳しい。

それでも,アイデアを競いあうという,いわばタイムラグのあるブレストというかキャッチボールは,いまや時々刻々,ネットを介して瞬時に行われている。著者が,ジョン・シュワルツらの論文を船便で待ち,スタートダッシュで三か月の遅れをとったという,焦りがよくわかる。

参考文献;
ブライアン・グリーン『宇宙を織りなすもの』(草思社)
ブライアン・グリーン『エレガントな宇宙』(草思社)
市村弘正『「名づけ」の精神史』(みすず書房)


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#アインシュタイン
#重力
#超弦理論
#量子力学
#一般相対性理論
#素粒子
#ブラックホール
#自由度
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#重力とは何か
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