2012年12月02日

プロフェッショナル性について~異分野のプロフェッショナルから引き出す「気づき」と「学び」に参加して


自分は,どこまでもプロフェッショナルになりきれずにいる。それは,自分がやっていることを,迷わず邁進できる突進力のようなものに欠けているせいのように感じている。もちろん,はた目にはそう見えても,本人が悩み続けているだろうことは,宮本武蔵を見ていればわかる。天草の乱で,養子伊織のいる小笠原軍に陣借りして,原城の城の石垣を攀じ登り,落下する宮本武蔵は想像できない。しかし迷いの中にいた武蔵にとっては,この出陣は必然だったのだろう。

ずいぶん昔,プロフェッショナル性について,

世の中には,一流と二流がある。しかし,二流があれば,三流もある。三流があれば四流がある。しかし,それ以下はない。

と,書いたことがある(http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view03.htm)。そこで,こんな区分けをした。

① 「一流の人」とは,常に時代や社会の常識(当たり前とされていること)とは異なる発想で,先陣を切って新たな地平に飛び出し,自分なりの思い(問題意識)をテーマに徹底した追求をし,新しい分野やものを切り開き,カタチにしていく力のある人。しかも,自分のしているテーマ,仕事の(世の中的な)レベルと意味の重要性がわかっている。
② 「二流の人」とは,自らは新しいものを切り開く創造的力はないが,「新しいもの」を発見し,その新しさの意義を認める力は備えており,その新しさを現実化,具体化していくためのスキルには優れたものがある。したがって,二番手ながら,現実化のプロセスでは,一番手の問題点を改善していく創意工夫をもち,ある面では,創案者よりも現実化の難しさをよくわきまえている。だから,「二流の人」は,自分が二流であることを十分自覚した,謙虚さが,強みである。

③ 「三流の人」とは,それがもっている新しさを,「二流の人」の現実化の努力の後知り,それをまねて,使いこなしていく人である。「使いこなし」は,一種の習熟であるが,そのことを,単に「まね」(したこと)の自己化(換骨奪胎)にすぎないことを十分自覚できている人が「三流の人」である。その限りでは,自分の力量と才能のレベルを承知している人である。

④ 自分の仕事や成果がまねでしかないこと,しかもそれは既に誰かがどこかで試みた二番煎じ,三番煎じでしかないこと,しかもそのレベルは世の中的にはさほどのものではないことについての自覚がなく,あたかも,自分オリジナルであるかのごとく思い上がり,自惚れる人は,「四流以下の人」であり,世の中的には“夜郎自大”(自分の力量を知らず仲間内や小さな世界で大きな顔をしている)と呼ぶ。

せめて,自分は四流ではなく,三流程度ではいたいと,思っていたし,今もその思いに変わりはない。どうも自分のプロフェッショナルのキーワードは,オリジナリティ,マネや二番煎じを嫌う。それがプロフェッショナルとして最重要かどうかは,異論があるかもしれないが,そこに自分のプロとアマの境界をおいている。

先日の,「異分野のプロフェッショナルから引き出す「気づき」と「学び」 第1回-プロのバレエダンサーから学ぶもの-」(http://www.facebook.com/events/129979750486573/)に参加したのも,「プロ」という言葉に惹かれたからだった。

招待にはこうあった。

異分野からいかに「学び」を引き出すかというテーマで,ホスト役のわたし(=佐藤けんいち)が,「対話」をつうじて,ゲストの河合かや野さんから,みなさまの「気づき」と「学び」となるような話を引き出します。
河合かや野さんは,プロのダンサーとしてバレエの世界で長く活躍されてきた方です。現在は活動の中心を教育に置かれています。このキャリアをつうじて,「楽しみとしてのバレエ」,「プロのダンサーとしてのバレエ」,「教師としてのバレエ」という3つのフェーズをすべて体験されています。
ビジネスとは異なる専門分野であるバレエでキャリアを積まれてきた河合かや野さんから,「キャリア」や「プロフェッショナル」そして「目標設定と上達」といった観点から「対話」を行うことで,ビジネスとバレエとの共通点や相違点について明らかにしていきたいと思います。

プロらしい発想やモノの見方というのは,どこにあるか,ということに関心があって,それなりにメモをしたが,十分言っておられる意味がつかめないことも多かったのは,こちらの眼がプロではないからだろう。

僭越ながら,いくつかのキーワードから,プロフェッショナル性と関わると感じたことを拾ってみると,まずは,

① テクニック中心で,ミスを恐れる傾向が日本人には強い。というか,これは,江戸時代以降の国民性だろう。咎められる,批判される,ということにどうしても矢印が向き,「楽しむ」マインドが少ない。ただ,もっと突っ込むと,欧米的には,「正確である自分を楽しめる」性分らしいと感じた。

② 平田オリザの『わかりあえないことから』で触れたことと関係があるが,奥ゆかしい,遠慮がちであることと,自分自身をきちんと説明できることとは,別で,自分のポジション(立ち位置),自分のキャリアの流れと意味,自分のスキルについて,きちんと説明できる言葉をもっていることは結構重要だと思った。それをプレゼン力と呼ぶかアピール力と呼ぶかで,持っている価値の差を感じる。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2012-1124.html
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2012-1125.html

③ ひとつのことを掘り下げて専門性を高めるというが,その専門性だけの単独井戸だと,貧弱になる気がする。これは佐藤けんいちさんの『人生を変えるアタマの引き出しの増やし方』とつながるのだろうが,底流のマグマとつながっていないと,井戸はやがて枯れる。マグマはその人自身のすべてなので,すぐれたプロを見ていると,凄く多様な自分を表現できている気がする。河合かや野さんの話で,象徴的なのは,「ロシアは軸足を変えない。ヨーロッパは軸足を変える」というのがあるが,実は両方できて,その上で,自分の得意を明確にするというのだろうが,自分もそうだが,最初から自分にやりやすいほうを選んでしまう。その瞬間,プロである自分の道を自分で閉ざすことになるよう気がする。

④ 自分のメンターというか自分の師匠を持ち続けていることが条件ではないか。セラピーでは自分のセラピーセッションをレビューしてくれるスーパーバイザーのいないセラピストはだめだというのを聞いたことがある。そこには,慢心ということもあるが,自分流の癖や偏りが,自分で気つげけることは少ない。その意味で,いつも自分立ち位置,立ち姿をレビューする機会と人があるかどうかが大きい。

⑤ いまひとつ重要と思ったのは,我を忘れて熱中した時期,フロー体験のようなものを持っているかどうかも,プロとして大事な自分のリソースの根源のような気がする。それが,ヒギナー時代なのか,表舞台デビューしたときなのか,プロとして自覚した時なのかは別にして,大事な体験のような気がする。それが「楽しみ」の源泉なのではないか。

⑥ プロは自分の,ヒトに語れる独自のノウハウをもっている気がする。野村監督しかり,羽生さんしかり。今回も,たとえば,独自のけがをしない練習法,あるいは,日本独特の,教室主体のバレリーナー育成システムで,すそ野を広げるために敷居を下げるよりも,ある程度集客を犠牲にしても,そこにモデルとなる,あるいは目指すべき目標となるトップランクの人が留まれるかどうかが大事だ,等々。

⑦ もう一つあえて付け足すと,どん底経験というのも必要かもしれない。しかしそんなものなくて,生まれてこの方成功体験しんないというひともいるので,これは負け惜しみなのかもしれないが。

こんなことをあらためて,いろいろ考えさせられた時間であった。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





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posted by Toshi at 21:06| Comment(5) | プロフェッショナル | 更新情報をチェックする