2012年12月12日
収納と納骨のトホホな関係~東本願寺納骨失敗談
先日,東本願寺に母の遺骨の納骨をした。
東本願寺への納骨にあたって,確か父の時は,母と一緒にいったな,と記憶をたどり,菩提寺に連絡したら,「こちらで手続きしておきますから」ということで,三回忌が終わってからがいいといわれたこともあり,今年の初め,電話でお願いをした。
しばらく経ったら,東本願寺から,「肩衣」と一緒に「真宗本廟収骨證」が送られてきた。当日は,肩に肩衣を掛け,他の参拝者(400人位か)と供に,読経の後,東本願寺境内の御影堂の親鸞聖人の御真影の須弥壇下に桐の小箱収められて,無事納骨が終わったのだが,ふと疑問がわいた。
自分の記憶では,40年前父の遺骨の納骨の際は大谷廟へ行った覚えがあり,そこでは広い穴に収めたと覚えていた。その光景にちょっとしたショックを覚えた記憶があった。で,確かめたくなり,まず東本願寺の宗務所へ電話したら,いや大谷祖廟でもいまも納骨をしている,という。「???」クエスチョンマークが頭の中を駆け巡った。しかも,確か,東本願寺の御影堂内については「収骨」といい,大谷祖廟へでは「納骨」というらしい,ということが分かった。 まずその違いが判らない。
今度は,大谷祖廟へ電話してみた。「納骨」と「収骨」の違いは,御影堂の須弥壇下に「収納」する「収骨」というらしく,大谷祖廟は,親鸞聖人の墳墓近くに納骨するからだ,という。それは,どういう違いがあるのか,というより,その区別は何か。そう伺うと,「家族が選択する」のだという。大谷廟への申し込みは,直接。本願寺境内はお寺を通して,申し込むことになるのだ,という。
そういえば,と妻が言う。納骨は「直接やる方法もあり,どちらでもいいですよ」というニュアンスのことを,住職は言っておられた。そのとき,直接申し込んでも,住職を通してもいいですよ,という意味で受け取ったが,それは直接なら,大谷廟への納骨,住職を介せば境内への収骨という意味を含んでいた,ということを,結果として思い当ったことになる。だから,住職に,お願いしますよ,ということはそのまま「収骨」をお願いしてしまったことになる。迂闊といえば迂闊だが,こんなところで,コミュニケーションエラーを起こすとは,トホホだ。
最初の時点で,直接と間接の違いを,「何か違いがありますか」とお尋ねすべきであった。まずその時点で思い込みがあった。途中で,確か京都駅からタクシーに乗ったのに,という疑問というより,記憶が違ったのか,といったような朧な感覚があり,確かめるほど明確な疑問になっていなかった。
大谷祖廟というのは,宗祖親鸞聖人ご入滅後10年の1272(文永9)年,それまでの親鸞聖人の墳墓を改め,廟堂を建てて聖人の御影像を安置したのが起源で,その後,いくたびかの移転等の変遷を経て,本願寺の東西分派後の1670(寛文10)年,墳墓にほど近い現在地(京都市東山区円山町)に祖廟として造営された。元禄年間に御廟の改装,守堂の建立がなされ,1745(延享2)年には八代将軍・徳川吉宗から一万坪の土地を寄進されるなど拡充を続け,現在に至っている,とある。だから,大谷祖廟に納骨するということは,親鸞聖人のそばにいっしょに納骨される,というニュアンスがある。
他方,須弥壇に収骨する方は,その依頼をした瞬間,「相続講の精神である法義相続・本廟護持(親鸞聖人が明らかにされた本願念仏の教えを受け継ぎ,真宗本廟を崇敬・護持すること)の趣旨に賛同」した,「相続講員」として,東本願寺を護持するという立場を明確にしたことになる,らしい(因みに,西本願寺でも,趣旨は同じかどうかわからないが,やはり大谷本廟と西本願寺境内への納骨の制度があるようだ)。こちらは,戦後再建や修復支援の趣旨で始まったもののようだ。いまふうに言えば,東本願寺のサポーター登録をしたという感じだろうか。
どうやら,納骨と言ってしまったが,収め方で,違うのは,祖廟か御影堂の須弥壇かの違いだけではなく,一般門徒として納骨するのか,「法義相続(宗祖親鸞聖人の教えを受け継ぎ,後の人々に伝えること)・本廟護持に賛同して,単なる納骨費用ではなく,相続講への賛助を表明したことになる,ということのようなのだ。
さらに深読みすれば,檀家を失い成り立たないお寺も増える中,寺を通して,門徒とお寺,お寺と東本願寺のパイプの強化にもつながる。昨今を故里の墓を捨てたり,墓そのものを共同墓地のようなものに代えたり,少子化で家そのものの存続すら危うい中,寺どころか,本願寺そのものだって先細りしていく危機はある。そんな中で,ひょっとすると,ある種効果的な機能をするのかもしれない。一方は,墓地と菩提寺,菩提寺と東本願寺のパイプ,他方大谷祖廟は,個人が直接つながることで,墓そのものをなくした人,子孫のいない人は,丸ごとお骨を持ち込む(確かめてはいないが,原理的には可能)ことで,墓問題を解決できる。
我が家は,私の粗忽のために,結果として,意識せず,自分が一定の門徒としての役割を取ってしまったということになる。単なる真宗の手続きの,分骨・納骨のつもりであったが,そこに別の意味と意図が加わってしまった。ふと,思い出した。
善人なほもて往生をとぐ,いはんや悪人をや
と,いう親鸞のことばがあった。これは悪人のほうが近道だという意味とされている。阿弥陀仏の第十八願(阿弥陀如来が人々を救済するために誓った48願のうちの18番目の願。すべての方向にいる人が一生懸命浄土に生まれたいと願って,それで浄土へ行けないのなら,自分は悟りを得ない)は,もともと煩悩具足の凡夫のため,あるいは悪人成仏のためにある願なのだから,悪人のほうが往生に近い意味とされている。
つまり,もともとそういうものだということであって,善なる人は,何か善いことをしたい,善いことをしているということが無意識にも前に出る。それが,「善いことをしているんだから」より往生できるはずとなると,こちらからの「はからい」であり,思惑となる。それは,自力の要素が加わり,いわば絶対他力ではない。悪人は,善いことをしようとも思っていないし,人を押し分けても善いことをしたいとは思わない。この方が,計らいがない状態になりやすい,という意味だ。
他力本願については,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10986129.html#comments
ですでに触れたので,これ以上は追いかけないが,自分のちょっとした勘違い,思い込みで,父と母の分骨先が違ってしまった。父は顰め面をし,母はけらけらと笑うかもしれない。今度,墓へ行ったら,詫びなくてはならない。
ま,しかしどっちにしろ,こっちだったらどう,あっちだったら,どうというのは,いわば生きている側の思惑,忖度,そのすべてをありのまま他力にゆだねる,というのが親鸞聖人の絶対他力の本意なのだから,とまあ言い聞かせている。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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