2012年12月15日
漫然と決めても意思決定にはならない~『「朝敵」から見た戊辰戦争』を読んで
水谷憲二『「朝敵」から見た戊辰戦争』(歴史新書y)を読んで感じたことをまとめました。
決断とは,覚悟のことだ。覚悟とは,何かを捨てる覚悟だ。その意味で,何かを決断する時,選択肢が浮かんでいる。決定する以上,情勢に流されてとか,事態に追い詰められてということでは受け身だ。追い詰められても,自分にとっての意味を考えながら,主体的に考えていくものでなくてはならない。そこで思い出すのは,勝海舟です。
維新時,最大の危機の徳川宗家を残したのは,勝海舟の政治力です。
鳥羽伏見で敗走してきた慶喜をはじめとする幕閣の面々に,勝はこう言い放ちます。
慶喜公は,洋服で,刀を肩からコウかけて居られた。己はお辞儀もしない。頭から皆に左様言うた,アナタ方,何と云う事だ。此れだから私が言わない事じゃない,もう斯うなってからどうなさる積りだ,とひどく言った,上様の前だからと,人が注意したが,聞かぬ風をして十分言った。刀をコウ,ワキにかかえてたいそう罵った,己を切ってでも仕舞おうかと思ったら,誰も誰も,青菜の様で,少しも勇気はない,かく迄弱って居るかと,己は涙のこぼれるほど嘆息したよ。
松浦玲は,こう書いている。
「失意の将軍と,失意の回収との出会いである。その失意の内容は二人以外にはわからなかったろう。慶喜と海舟とは,お互いの考え方の一致点と相違点とを心得ている。そうしていま,その相違点・一致点を含めて,全部がだめになってしまっているのだ。海舟はここで,すべてを投げ出してしまってもよかった。慶喜の方は,すでになかばなげだしている。」
しかし海舟は投げ出さない。彼が幕府に登用されて以来の流れの中で,「自己の技術と思想をかため,それを人につたえ,そのことによって反幕勢力の中にも人的なつながりをつくってきた」。その中心に,「かつて海舟が,幕府の頼むべからざるゆえんを教えた西郷隆盛がたっている。極端にいえば,元治元年の時点で海舟が一度幕府を見はなし,そのことを西郷に伝えたからこそ,現在の状態が起こっているともいえるのだ。海舟は,この後始末をつけなければならない。」
どうしようとしたか,その嘆願書で,薩長の「私」を非難する。官軍が居留地で外国人と衝突し,諸外国が軍艦を呼び,居留地を兵で固めようとしている。そんな中で,一方で,徹底恭順を貫徹する体制を整え,すでに大政を奉還し,他の大名と横並びである徳川家をただつぶすためだけに兵を動かすのは,「私」だと,勝は非難する。
結果として,徳川家は残った。では,一桑会と呼ばれて,鳥羽伏見の責任を問われた,会津,桑名はどうしたのか。本書は,会津ではなく,桑名藩生き残りを中心に描いている。しかし,一人の勝もいない,一人の慶喜もいない気がする。むしろ行きがかりから,全面戦争に走った会津藩に眼が向きがちだ。
桑名の当主,松平定敬は,慶喜とともに海路江戸へ逃げ,一時恭順の意を示しながら,家臣とともに,仙台,函館と最後まで,反政府側にとどまり続けた。だが,他方,戦闘力のほとんどを出陣させた藩側は,朝敵とされ,地理的にも,真っ先に征討軍の矢面に立たされて,意思決定を迫られる。藩論は,三つに分かれる。
・開城東下論 跡継ぎ万之助(十二歳)を擁して江戸へ向かう
・恭順論 藩主定敬の実兄が藩主の尾張藩による周旋
・守戦論 籠城して末代まで名を残す
結局,藩論がまとまりきらず,というかまとめきれず,神饌で開城東下論と決めたが,それでも異論続出してまとまらず,最終的に恭順に決まったという。戦うと言ったところで,戦闘主力は藩主とともに藩外の大阪ないし江戸におり,籠城のしようも,開城東下論もないのだ。それをまとめきれない状態で,腰砕けになったに近い。
それは,西国諸藩においても同様で,慶応四年一月三日鳥羽伏見で開戦後,僅か三日で新政府の勝利が決定すると,七日には慶喜追討令,11日には諸藩に率兵出京を命じている。事態の急変についていけている藩などない。土佐の山内容堂ですら,鳥羽伏見の戦いを会桑と薩長の私闘と見ていたほどなのだ。わずか一か月で,個々に孤立した諸藩は,横並びに,新政府に服していく。
結局,征討軍への出兵か資金提供かを求められて,それに応ずる形で,西国各藩は,新政府に組み込まれていく。朝敵と名指された藩も,そうでない藩も,結果として雪崩をうって右へならえしていく。個々の気概等々吹き飛ばすほどの時代の奔流を前に,各藩が孤立して意思決定をせざるを得ない時代状況はよくわかる。その意味で,なおのこと,勝の卓越した時勢観,交渉術が目を見張る。
転々と転戦した松平定敬は,函館陥落前に投降し,罪一等が減じられ,津藩へ永預となる。桑名藩は四割位の減封ながら,藩を存続させた。ほぼ壊滅的な戦いをした会津藩とは好対照で,確かに生き残りをはかった留守部隊の責任者の酒井孫八郎の苦労はよくわかるが,言ってみれば,ただ恭順し,嘆願しただけだ。
他の藩が,かようにほとんどがなすすべを知らず,呆然としている中で,東北諸藩は,東日本政権樹立という夢とビジョンを持っていたとされる。ただ武名と意地のみで,東北諸藩の戦争があったのではないし,会津戦争があったのではない。そのあたりは,著者とは見解を異にする。ただ時勢に合わせて,周章狼狽するだけではなく,その中で,大義と名分を立て,大きなビジョンを持って会同した東北諸藩は,会津を中心に,単なる武辺ものの意地で戦ったのではない。そのあたりは,星亮一『奥羽越列藩同盟』に,詳しい。考えてみれば,薩長土肥熊といった西南諸藩を除けば,山川浩,雲井龍雄,河井継之助等々錚々たる顔ぶれなのだ。
では,どうしたらよかったかが,誰が,是非が言えるのだろうか。
会津藩,桑名藩の戊辰戦争の結末を,こういう数値を出している。
会津藩
死者数 約2500名
領地 会津23万石から斗南3万石へ転封
藩主の処罰 松平容保,鳥取藩へ永預
桑名藩
死者数 約100名
領地 桑名11万石から6万石へ減封
藩主の処罰 松平定敬,津藩へ永預
犠牲だけで是非は言えない。まして数だけでは,言えない。ただ,死者については,国内戦をしていない桑名は戦闘員である藩士だけだが,会津は,籠城前,多くの婦女子,老人が自害している人数も含まれている。結果から是非は言えないけれども,そこには大きな差がある。しかしいずれをとっても,いずれにも悔いはある。ただ,選択してか,選択を強いられてか,そこにそれぞれの価値観による判断があるだけだろう。
あえて言えば,強いられてでもなく,なすすべもなくでもなく,いやいやでもなく,横並びしただけでもなく,その場で最善の決断をためらわずになした,勝の決断を取る。
松浦玲はいう。
「むこうが兵を向けてくるかぎり,たとえ官軍の名前をもっていようと,薩長側が『私』だという論法は,海舟の胆の中にこうして確率された。この『公』『私』の論は,彼が十数年鍛えぬいてきたものだけに,きわめて強固な信念となっている。彼はこの論法で,西郷との会談をピークとする幕府瓦解始末を乗り切ろうとするのである。その論法が正当かどうかはここでは問うまい。ひとは状況にしたがって自分の真価をもっともよく発揮できる生き方を確立する権利をもっている。」
この瞬間に真価を発揮した勝海舟は,維新前後の中で,最も輝いている。
参考文献;
松浦玲『勝海舟』(中公新書)
松浦玲『徳川慶喜』(中公新書)
星亮一『奥羽越列藩同盟』(中公新書)
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