2012年12月17日
病んで枯野を~死のにほひをめぐって
芭蕉の最後の句に,
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
此の道や行人なしに秋の暮
がある。病んだり,落ち込んだりした時,ふと頭をよぎる。別に芭蕉の心境と重ねているわけではなく,勝手に,自分の凹んだ気持ちを思い入れているだけだ。とかく病むと気弱になる。
ずいぶん昔,あまり休んだことがなかった学校を休んだ夕方,友達がプリントを届けがてら見舞いによってくれたことを今でも思い出すことがある。あの時,気持ちとしては,休むほどでもないのに,休んだという感覚があり,友達の見舞いに面映ゆさを感じたのをよく覚えている。会社勤めの頃も,病気を口実に休んだことはあるが,あまり病欠をした記憶は多くはない。しかし,休んでひとり部屋で寝ているときの感覚は,奇妙なものだ。
人が元気でいる日常から,一人取り残されたような,一人だけ穴に落ち込んだような感覚で,同僚が立ち働いているオフィスの様子がイメージとして浮かんだりする。この感覚は自分だけのものなのかどうかはわからないが,狭いながら,自分のいる世界から,一瞬はじき出された感覚をもつ。
天命という言葉がある。天から与えられた寿命という意味もあるが,天によって定められた宿命という意味もある。それに対して反対は,非命。非命は,天命を全うしない,横死を意味する。
その一瞬には気づかないが,振り返ると,あのときがそうだったと思い当たる,歴史の転換点に,偶然立ち会うことが,ほんの限られた幸運な人間に訪れる。誰もが,おのれ一個の力のみを頼りに,それに立ち向かう。
そのとき,二種類の人間にわかれる。一人は,その流れを,おのがものとして,馬乗りに乗りこなす。いま一人は,その流れに翻弄され,押し流され,やがて力尽きて呑まれる。あるいは逃げ惑うか,ただ横切るので精一杯か,そもそも傍観者で終わるか,いずれにしても,多くは,その流れとの,束の間の交差を果たしながら,ついに足跡すら残せず,翻弄されたまま,一瞬の光芒として消えていく。その束の間の,ひとりひとりと歴史の奔流との交差点だけが,累々とつづいていく。それもまた,別の意味で,もうひとつの歴史なのかもしれない。
あるいは,束の間,歴史の馬を乗りこなしたつもりでも,結局振り落とされ,はかない一閃に終わるのかもしれない。織田信長も,明智光秀も,結局そうした光芒の一つでしかなかった。いま馬乗りにのっているものが,そうではないかどうかは,いまはまだわからない。
だとすると,非命が天命でもありうるし,横死というには当たらないのかもしれない。自分は野垂れ死にという言葉が似合っている,と思っているが,二度だろうか,そういう歴史の変わり目に,当事者の一員として加わったのは。一度は,大学で,二度目は羽田で。しかし,ただ驥尾に伏したまでで,見事に振り落とされた。
最近,維新という言葉が,いろんな意味でつかわれている。しかし,村上一郎はこんなことを書いていた。
影山(正治)は,革命者ないし改革者に対立するものとして,維新者という名称を用いている。維新者は,本質的に,涙もろい詩人なのである。維新者は,また本質的に浪人であり,廟堂に出仕して改革の青写真を引くよりは,人間が人間に成るというとき,そのような設計図は役に立たぬことを知っているのである。維新者は,若々しい情熱を政治にそそぐこと,人後に落ちなかった。が,とど時務・情勢論の非人間性を知る者でもあった。だから,岩倉具視や大久保利通のようにはあり得なかった。
そして,
文化・文政以来の明治維新の精神過程をたどると,それは永久革命というに近い変革のプロセスであると同時に,竹内好もいうように,革命であり反革命である。この矛盾は,けっして単純ではない。開国が革命的で攘夷が反革命でもなければ,その反対でもない。
と続けている。
たぶんあれかこれかの二分ではなく,四つも五つも交錯し,自身反革命の徒と思われようとなお信ずる志のもとに生死した。だから,維新者なのだという。まあ,いまふうにいうと,右も左も関係なく,突破していく力強さといった感じか。松浦玲さんは,坂本龍馬を,「突破力」と称したが,そういう感じか。
だから維新者には,どこか死者のにおいがする。昨今のためにする議論とはどうも違う。死を賭したというべきか。後ろの方の安全なところから,人をけしかけるのとは違う。自分が最前線に立つ気概がないところに,死のにおいはない。空元気のように,粋がることでもない。猪武者は武者ではないから,そう呼ばれる。暴虎憑河し死して悔いなき者は吾与にせざるなり,と孔子の言われる通りだ。
孔子つながりで言うと,村上一郎は,こう書いた。
「友あり遠方より来る,また楽しからずや」とは,友人が九州か東北からやって来た,さあ上がりたまえ,いっぱいやろうなぞというくだらぬことではなく,百年の後に知己あるを信ずる志だと,太宰治の小説にもいっているのである。
と,この連想で言うと,
温故知新
も,貝塚茂樹は,「煮詰めてとっておいたスープを,もう一度あたためて飲むように,過去の伝統を,もう一度考え直して新しい意味を知る」と解釈していた。知識ではなく,時代の中で読み直さなくては,実践知にはならない。
そういえば,石原吉郎は,あるあとがきで,こんなことを書いていた。
「もしもあなたが人間であるなら,私は人間ではない。/もし私が人間であるなら,あなたは人間ではない。」
これは,私の友人が強制収容所で取調べを受けたさいの,取調官に対する彼の最後の発言である。その後彼は死に,その言葉だけが重苦しく私のなかに残った。この言葉は兆発でも,抗議でもない。ありのままの事実の承認である。
ついでに言うと,神田橋條治さんは,「人事を尽くして天命を待つ」をこう言い換えた。「天命を信じて人事を尽くす」と。その方がしっくりくる。
参考文献;
村上一郎『非命の維新者』(角川新書)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
今日のアイデア;
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