2012年12月18日
冒険は異界を意識するところから始まる~『義経の冒険』をめぐって
金沢英之『義経の冒険』(講談社選書メチエ)を読んだ。
ここでいう,義経の冒険というのは,義経がジンギスカンだったという話ではなく,御伽草子『御曹子島渡』を指す。
義経は,奥州秀衡にかくまわれているが,そこでゑぞが島の「かねひら大王」のもつ「大日の法」という兵法書を手に入れるべく,とさの湊から海路漕ぎ出し,ころんが島,大手島,ねこ島,もろが島,ゆみ島,きかいが島等々を通り過ぎ,むま島,はだか島,女ごの島,ちいさご島に上陸し,やっとゑぞが島につく。そこから千島の都まで七十余日で。たどりついたかねひら大王の内裏は,八十丈の鉄の築地を張り巡らし,牛頭,馬頭,阿防羅刹といった鬼たちが門を守っていた。義経を餌食にしようとした鬼たちに取り囲まれたところで,この世の名残に笛を吹くと,鬼どもを魅了し,大王にも奏聞された。
大王は,五色の身の丈十六丈,八つの手足に,三十の角,百里の先まで届く大声の持ち主で,笛に上機嫌で,上陸した理由を聞く。義経は,大日法の兵法の伝授を賜りたいというと,それなら,わが身と師弟関係を結び,かんふう河で朝に三三三度,夕べに三三〇度垢離を取り,三年三月の精進をした後ようやくならうことができる。葦原国の大天狗太郎坊も,半ばの二十一巻で終わった。もし太郎坊よりならっているのなら,語ってみよ,その後大事を伝える,と言われ,義経は,鞍馬の山奥で習ったことをことごとく行ってみせる。大王は感心して師弟の約束を交わしたが,なかなか教えてもらえない。
大王の娘に「あさひ天女」がいるが,やがて両者は契りを交わし打ち解けあうようになり,義経は天女に,大日の兵法をひと目みたいと打ち明けた。初めは私の手におえないと拒んでいたが,懇願する義経に説かれて,覚悟を決めた天女は,父に勘当されるのを覚悟で,石の蔵を開け,義経は持ち帰った巻物を三日三晩書き写した。
天女は,父に知られる前に葦原国に帰るように訴え,一緒に行けないという天女から,追手に追われた時の「ゑんざん」「らむふうびらんふう」の法を教わり,無事日本へ着く。
わが身を案じる際は,「ぬれてのほう」を使い,茶碗の水に阿吽の文字を書けば,そこに血が浮かぶでしょう。そのときは,わが身は父の手にかかり最期を迎えたと察し,読経してこう背を弔ってほしいと言われたとおりにすると,水の上に一滴の血が浮かんだ…。かくして,義経は,兵法の威徳で日本を思いのまま従え,源氏の御代となった。
大体こんなストーリーである。ここへ結晶するまでに,『古事記』の根堅州国訪問奇譚,吉備真備入唐譚を経て,その間,陰陽道,鞍馬信仰,修験道,それに田村麻呂伝承,聖徳太子伝説等々,様々な日本の文化の地層をくぐりぬけていることを丁寧に追跡している。
しかし伝承・伝説にそんなに詳しくない読者に興味深いのは,鬼というものの意味の方だ。鬼の退治者として登場するのは,いろいろな説明の仕方がある。
ひとつは,神楽の鬼のように,来訪神のような存在。これは,里に対して,山の世界,里にとっての外部としての山の世界,つまり異界性を反映している。
いまひとつは,世界の周縁に存在し,向こう側から現れるものの存在によって,逆に,自分たちの立ち位置が中心であるとする認識を支える役割を果たす。地理的には,東北であったりする(その位置はどんどん北へ移動していく)が,もうひとつ,身近な洞穴であったり,木のほこらやを入り口とした,冥界であったり,竜宮城であったりという,異次元であったりする。
しかし『御曹子島渡』の伝本の新しいものになるにつれて,ゑぞの認識が変わって,鬼から人になっていくという。それはその当時の人々にとって,異界が異界ではなくなっていくことを意味する。異界としてまだ見ぬ世界があればこそ,それとの対比で自分たちを中心として支える物語が作れる。ある意味,異界を意識しながら,自己確認をしているのに近い。これは,何も御伽草子や伝承といった過去の話とは限らないのではあるまいか。
今日のように,世界がひとつにつながり,かつて内と外を隔てていた境界線がなくなり,公と私も,国内と国外も,リアルとバーチャルも境界線があいまいになっていき,一面均一の「いま」「ここ」だけがある,とこんな言い方をされる。別の言い方をすれば,グローバル化,インターネット化で世界は一つになった,と。
どうも,そういう単層の,均一の世界に,われわれは耐えられないのではないか,という気がする。科学一辺倒で,科学ですべてが解き明かされるかに見えて,他方で,かつて以上に,心霊現象やパワースポット,幽霊や祖霊が,かえって信じられるように,かつて鬼と呼ばれたものが,いまは別の名前になっただけではないのだろうか。鬼退治した桃太郎は,鬼が島にいったが,いまわれわれの中では,祈祷師や呪い師が,桃太郎なのだろうか。
御伽草子『御曹子島渡』は過去の世界の話とはいえない気がする。
ひょっとすると,SFの世界は,別の意味の,異界への冒険譚なのかもしれない。あるいはタイムマシンも,平行世界も,もうひとつの冒険譚なのではあるまいか。義経伝説が,異界へのわれわれの想像をかきたてたように,いまは宇宙が我々にとっての異界のひとつであり,SFはわれわれにとっての,現代の義経伝説なのだろう。
この宇宙での惑星外惑星を探すことに夢中になっているプラネットハンターの話は,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2012-1120.html
で触れたが,かつて大航海時代,ジパング伝説に駆り立てられて,東へ,東へ向かったように,いま新たな鬼の住む異界を目指して探索しているといえるのかもしれない。そこには,鬼ではなく宇宙人が存在している。かつて鬼という存在を,奇天烈に描き出したように,われわれは「スターウォーズ」や「マーズアタック」,「アバター」で,宇宙人を奇天烈に,想像力豊かに描き出している。そうすることで,自分という存在を意識し,アイデンティティを確認しているところがある。であれば,われわれは,その世界に新たに乗り出していく,新たな義経伝説の話が,宇宙探検へのパイロットのように,これからも,別の形で,続々語られるに違いない。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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