2012年12月24日

死に向き合うとは孤独に向き合うことだ~石原吉郎の詩をめぐってⅠ



これから,少しずつ,何回かにわけて,石原吉郎のアンソロジーをまとめてみたいと思っている。別に専門家でもないし,詩にくわしいわけでもない。ただ,なぜ,石原吉郎の詩が好きなのか,自分なりに一度は整理してみたいと思った。言ってみると,まあ自分の好きな詩句のみを集めた感じか。専門家から見れば,噴飯ものなのかもしれないが,あえて,順次,チャレンジしてみたい。

石原の詩は,一言でいえば,言葉が,凛として立っている。それは,極限まで無駄を省き,ノイズのない言葉になっていると言っていい。

日本語の構造については,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0924.htm

で触れたように,辞と詞で成り立っている。辞が主観であり,詞が,客観表現になる。しかし辞をなくしてしまうと,詞だけが屹立する。それもちょっとそぎ取ったような片言隻句の,ちょっと奇異に聞こえるかもしれないが,辞のない(あるいは限りなく少ない),詞だけの詩句といっていい。一見客観的に見えて,それは,鋭く切り取ったアングルの写真と同じく,辞のパースペクティブ(視角)が隠れている。いや,そもそも,詞に見えて,辞だけで語られているのに等しいのかもしれない。ふと思い出したが,古井由吉が好きなのも,そのせいかもしれない。古井由吉については,

http://www31.ocn.ne.jp/~netbs/critique102.htm

で触れた。

さて,石原吉郎は,「詩へ駆り立てたもの」という文章の中で,こんなことを書いている。

「もしもあなたが人間であるなら,私は人間ではない。/もし私が人間であるなら,あなたは人間ではない。」
 これは,私の友人が強制収容所で取調べを受けたさいの,取調官に対する彼の最後の発言である。その後彼は死に,その言葉だけが重苦しく私のなかに残った。この言葉は兆発でも,抗議でもない。ありのままの事実の承認である。そして私が詩を書くようになってからも,この言葉は私の中に生きつづけ,やがて「敵」という,不可解な発想を私に生んだ。私たちはおそらく,対峙が始まるや否や,その一方が自動的に人間でなくなるような,そしてその選別が全くの偶然であるような,そのような関係が不断に拡大再生産される一種の日常性ともいうべきものの中に今も生きている。そして私を唐突に詩へ駆り立てたものは,まさにこのような日常性であったということができる。

シベリア抑留の体験が,彼の詩の背景にある。そして,人との関わり,自分とのかかわりで,極限の中に立つイメージがいつも付きまとう。言葉は,そぎ落とされ,ほとんど骨のようにやせ細りながら,そこに,凛とした姿勢がいつも付きまとっている。

それは言葉の死,あるいはほとんど脈絡や背景や文脈をそぎ落とした,言葉そのものが屹立していることば。たとえば,

一期にして
ついに会わず
膝を置き
手を置き
目礼して ついに
会わざるもの(「一期」)

人と人の出会いと別れが,このように毅然としてかつ凛としていれば,どんなにいいか。あるいは,

花であることでしか
拮抗できい外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花のかたちのまま
おしかえす
そのとき花であることは
もはや ひとつの宣言である
ひとつの花でしか
ありえぬ日々をこえて
花でしかついにありえぬために
花の周辺は適確にめざめ
花の輪郭は
鋼鉄のようでなければならぬ(「花であること」)

花を「世界でたった一つの花」に置き換えてもいいし,花を他の何に置き換えてもいい。「ついに花でしかありえぬ」なら,花でいようではないか。

そして,もうひとつは,常に,石原吉郎の傍らに,死がある。だから,詩は,死を意味づけようとする衝迫がある。そこら中に,死が付きまとっている。

重大なものが終わるとき
さらに重大なものが
はじまることに
私はほとんどうかつであった
生の終わりがそのままに
死のはじまりであることに
死もまた持続する
過程であることに
死もまた
未来をもつことに(「はじまる」)

死んだ後に何かが始まる。人は二度死ぬといったのは,柳田國男だったか。その二度目の死が,持続する。その人のことを知っている人の中で,生きつづける。もし,それを誰かに引き継げば,永遠に生き続ける。「はじまる」とはそういう意味なのではないか。

その死の場所あるいは位置について,

かぎりなく
はこびつづけてきた
位置のようなものを
ふかい吐息のように
そこへおろした
石が 当然
置かれねばならぬ
     空と花と
おしころす声で
だがやさしく
しずかに
といわれたまま
位置は そこへ
やすらぎつづけた(「墓」)

という詩がある。死を考えることは,どう死ぬかであり,それは,どう生きてきたか,どう生きるか,ということを考えることになる。少し前,この詩に触発されて,こんなものを書いたことがある。

自己とはひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいはその関係においてその関係がそれ自身に関係するということである。自己とは関係そのものではなく関係がそれ自身に関係すること,とキルケゴールが関係の関係といっていたのを朧に覚えていて,それを調べ直してみたら,単なるメタではなく,メタ関係のメタという意味だと気づいた。ややこしいのだ,自分とつきあうということは。だから,自分にどう関わっているかだけではなく,それとどう関わるかがないと自己は完成しない。しかも人は自己完結しては生きられない。他人の目を自分の関係をみる視点に取り込むからもっとややこしい。

最近、自分が猛烈な好奇心にかられて,いろいろなことに接触しようとしている(これについては,別途まとめてみたいと思っているが,「自分を開く」ということをあちこちで公言しているところから始まった)。その衝動は,自分というものの影を,ストップモーションのように連続して作り出していくことから,ずらそうとしていることからきているらしい。しかも,そのずらしていく,ずれ方そのものにも関心がある。ハイデガーが言った(と思うのだが,ちょっと調べたが見つからなかった)「ひとは死ぬまで可能性の中にある」の実践の心積もりである。

そして,生きることとは「位置」を定めること,と考えた。

生きるとは
位置を見つけることだ
あるいは
位置を踏み出すことだ
そして
位置をつくりだすことだ

位置は一生分だ
長い呻吟の果てに
たどりついた位置だ
その位置を
さらにずらすことは
生涯を賭すことだ
それでもなおその賭けに
釣り合う
未来はあるか
それに踏み切る
余力はあるか
まだ

石原の「墓」に触発されて,考えた。最後安らぐ位置を見つけるために,必死で生きる。だからと言って,別の世界に逃げてはいけない。神になってはならない。神的なものに帰依してもいけない。徹頭徹尾孤独でなくてはならない。孤独に耐えなくてはならない。「そうすれば,必ず道が拓ける」。そうでなく,相対的でしかない自分を,絶対的なものに帰依することで,あたかも自分自身が絶対的なものに転じたかのような自己欺瞞に陥ってはいけない,といったのは吉本隆明だった。

この言葉を肝に銘ずる。神の名を口にしたり,神のごとき口吻の人間には近寄らない。そこには欺瞞だけがある。さらに,本人自身がそのことに気づいていないのに,相手に気づきを促す欺瞞を見逃さないことにする。

しずかな肩には
声だけがならぶのではない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である(「位置」)

そのおのれの位置を,ともかくいまは死守しよう。それに耐えていくうちに,自分の前に道が拓ける。確か,美空ひばりが干されていたとき,「焦らず,怒らず,諦めず」を肝に銘じていたという。それをもじると,「腐らず,おごらず,諦めず」になる。ともかく自分を諦めてはいけない。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




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posted by Toshi at 10:48| Comment(0) | 死に方 | 更新情報をチェックする