2012年12月26日
「自分を開く」について
一昨年,評判を聞いて,C・オットー・シャーマー『U理論』を読んだ。そこで,直感したのは,「開く」という言葉であった。それを,あるセミナーで公言したら,たまたまそこに,版権を持っている会社の社員の方がいらして,名刺交換した時,「恥ずかしながら,ザックリと開くことだと受け止めた」と申し上げたら,笑いながら,肯定的な反応をいただいた記憶がある(勝手読みか?)。
翌年早々のある勉強会で,「今年のテーマは『開く』だ」と,また公言したところ,何人かから好意的な反応をもらい,その後の懇親会で,それまで,つかず離れず,長い付き合いのあるカウンセラーに,付き合ってくれと言われて,驚いたのをよく覚えている。自分を開く,という言葉に,それほどの反応があるとは予期せずに,動揺したのを覚えている。残念なことに,3月に3.11が来て,しばらくそれどころではなくなったが,気持ちとしては,続いていた。ただ,あまりそれを公言しないでいた。ただ,「自分を開く」と公言することに,自分の予想を超えて,(すべての方ではないが)強く反応される方々がいらっしゃることに,少し戸惑っているのは確かだ。
自分のイメージでは,この「開く」は,いわゆる自己開示とはちょっと違う。自己開示は,心理学辞典では,
他者に対して,言語を介して伝達される自分自身の情報,およびその伝達行為をいう。狭義には,聞き手に対して何ら意図を持たず,誠実に自分自身に関する情報を伝えること,およびその内容をさす。広義には自己に関する事項の伝達やその内容を示す。自己開示の中でも,非常に内面性の高いものを開示することを告白という。
として,自己開示と自己呈示をこう分けている。
自己開示は言語的な伝達のみを対象としているのに対し,自己呈示は非言語的な伝達も含む。自己開示は意図的であるか否かはかかわりないが,自己呈示は意図的であることを前提にしている。他者が好むような行為をあえて見せたりすることを含む。自己開示については,すでに,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11027122.html
で触れた。
しかし,自分のイメージでは,ちょっとこれとは違う。単にドアを開けている,というのでも,シャッターを下ろさないというのでもない。もう一歩踏み出して,自分の考えていること,自分の感じていること,自分の思いを,必要な時に,いつでもオープンにできるし,そのことにこだわらず,いつでも手放せられるというニュアンスがある。
いってみると,自分についての執着を捨て,こだわりを捨て,とらわれを放ち,頓着しない,という感じが強い。あまり自己限定しないという意味では,ブレインストーミングでアイデアをまとめていくときのあの感覚に近いかもしれない。そのあたりは,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2012-1129.html
ですでに触れたが,ここではもう少し先へ踏み込むと,その時,二人であれ,三人であれ,もっと多くの人がいるのであれ,その場に溶け込める,というニュアンスもある。
それまでは,いい意味でも,悪い意味でも,どこか肩肘張って,おれがおれがという感じが付きまとい,浮いている感じがあった。いや,もうちょっというと,浮いている自分を,むしろ,よしとしていたきらいがあった。それを自恃と称していた。いまも,それがなくはないし,完全溶け込んだのでは,情けない。ここでの意味は,その場とひとつになり,その場そのものが独自に動き出すのに,主体的にコミットできるようにする,という感じだ。いつもそれがうまくできているわけではないが,姿勢としてはそのつもりだ。
それとの関連で言うと,もうひとつ「自分を開く」にニュアンスがあるとすれば,人との接し方というか,人とのかかわり方である。これは自分特有の問題かもしれないが,育成歴もあって,人との接触の範囲が狭く,それを広げることに消極的だったということがある。だから,人見知りをする。初めての場には行きにくい。大体初めての場に行かなければ,ますます自己閉鎖していくことになる。悪循環だ。
ある日突然,というか,これは,「開く」と公言する十年位年前,あるコーチングの勉強会で,講師から「鎧を着ているみたいだ」と言われ,その人に,カウンセリングでも学んだら,と言われたのがきっかけで,以来,カウンセリング,セラピー,コーチング,心理学等々,好奇心の赴くまま,積極的にいろんな集まりに出るようにしてきた。だから,開くには人との接触への馴れというのもある,という気がする。馴れれば,おのずと開いていく。「自分を開く」と公言した前後から,この傾向がますます増幅してきた。その意味で,自分の中では,「開く」のニュアンスには,もっともっともっと広く人と接するというのがある。
ところで,『U理論』では,直接的に「開く」にかかわることを,そんなに言及していないが,まずは,3つの「私たちが生まれついて持っている」能力について,
①開かれた思考(マインド) 理性的な,IQタイプの知性にかかわる能力。ここでは,物事を,事実も数字も先入観なく,新鮮な眼で客観的に見る。「思考はパラシュートのようなもの-開いて初めて機能する。」
②開かれた心(ハート) これは感情指数,EQを働かせる能力だ。他者と共感し,異なるコンテキストに適応し,他者の立場になって物事を考える力。
③開かれた意思 真の目的と真の自己を知る能力。このタイプの知性は意図やSQ(スピリチュアル指数)と呼ばれることもある。この能力は,手放す,迎え入れるという行為にかかわっている。
この能力は個人レベル(主観性)だけではなく,集団のレベル(間主観性)のどちらにも備わっている,とシャーマーさんはいう。
そのためにしなくてはならないことは,いっぱいあるのだろうが,まずは,
・評価・判断の声(VOJ:Voice of Judgment)を保留し,
・その時,その場,相手への皮肉・諦めの声(VOC:Voice of Cynicism)を棚に上げて,
・古い自分を手放して,恐れの声(VOF:Voice of Fear)を克服する,
必要があると,シャーマーさんは言っている。しかし,こう考えれば,難しいことではないと感じる。
評価・判断の声(VOJ:Voice of Judgment)を保留し,
その時,その場,相手への皮肉・諦めの声(VOC:Voice of Cynicism)を棚に上げて,
は,いわば,おなじみの,ブレインストーミングのマインドだ。つまり,「批判禁止」。相手を批判するということは,自分の価値・評価からしているので,批判をやめた瞬間,こころのシャツターが開くことを意味する。相手の意見を閉ざすことは,自己完結して意見をまとめているのと同じだ。自分一人の価値と評価でまとめるくらいなら,人と話さなければいい。
そして,そうやってこころのシャッターを開けた瞬間,自己完結した,閉じた世界を開いたことなので,すでに古い自分を手放すことを始めているといっていいのではないか,と思う。
そのための自分の習慣として,シャーマーさんが,こんなことを提案しているのが,気に入っている。
①朝早く起きて,自分にとって一番効果のある,静かな場所へ行き,内なる叡智を出現させる
②自分なりの習慣となっている方法で自分を自分の源につなげる。瞑想でもいいし祈りでもいい。
③人生の中で,今自分がいる場所へ自分を連れてきたものが何であるかを思い出す。すなわち,真正の自己とは何か,自分のなすべき真の仕事は何か,何のために自分はここにいるのかと問うことを忘れない。
④自分が奉仕したいものに対してコミットする。自分が仕えたい目的に集中する。
⑤今はじめようとしている今日という日に達成したいことに集中する。
⑥今ある人生を生きる機会を与えられたことに感謝する。自分が今いる場に自分を導いてくれたような機会を持ったことのないすべての人の気持ちになってみる。自分に与えられた機会に伴う責任を認識する。
⑦道に迷わないように,あるいは道をそれないように,助けを求める。自分が進むべき道は自分だけが発見できる旅だ。その旅の本質は,自分,自分のプレゼンス,最高の未来の自己を通してのみ世の中にもたらされる贈り物だ。しかし,それは一人ではできない。
このすべてがわかっているわけではないが,自分を取り戻する時間が必要だということはわかる。しかし,この前提に,あらゆるところで,自分を開けていなければ,この習慣は意味がない。
開くというのは,ある意味,平田オリザのいう,「協調性から社交性」に通ずるとも思っている。協調とは,周りとの関係性に主眼がある,しかし社交性は,こちら側からのアプローチだ。それは,開くことで効果をアップする,と信じている。
そして,「自分を開く」は,開けば開くほど,ますます深く開ける。そう確信している。
参考文献;
C・オットー・シャーマー『U理論』(英治出版)
平田オリザ『わかりあえないことから』(講談社現代新書)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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