2012年12月27日
捨てるあるいは棄てるについて
昨今捨てるが流行っているらしい(ちょっと遅れてる?)。それを何たら,というらしい。へそ曲がり流に言うと,物に執着する心を捨てるのだとすれば,物を捨ててもだめで,自分の中の何かの執着を捨てなくてはならない。しかし執着を捨てるということは,人生への自分の固執を捨てることだ。自分のこだわりを捨てることだ。そこを悪者のように言うのがよくわからない。なぜそこまで自分を貶めるのか,理解できない。
こだわっているのは,自分の何かだ。その何かには,意味がある。そのままにしろとは言わないが,その執着がエンジンになっているのか,ブレーキになっているのか,アクセルになっているのか,で意味が変わる。超えるべきものは自分が超える。他人の力を借りなくても,必要な時に必要なものに出会い,必要な決断をする。きちんと生きている限り,必ずそうする。
その程度に自分を信じられない人が,右顧左眄して,人の生き方に左右されるのはどうなんだろう。その提唱者は自分のためにやったのだ。それは成功した,しかしそれを取り入れるには,慎重でなくてはならない。自分の人生なのだ。自分の人生には自分の流儀があるはずだ。そんな無駄なことをやっている間に,生きることに執心した方がいい。
それに,一度捨てたら,二度と戻ってこないものがある。その時,価値がないと思ったとしても,人間のいまなど,ほんの数秒しかないと言われている。
老婆に見えたり若い娘に見えたりする,漫画家ヒルのだまし絵が有名だが,立方体の二つの見え方がする,ネッカーの立方体というのもある。どちらが見えるとしても,「その瞬間にはいつもひとつしか認識できない」と,エルンスト・ヘッペルは言う。両方が同時に見えることはない。
これは,意識の中に一つの対象しか存在していないことを示している。一つの対象が注意の中心にあるとき,別の見え方も含めて他のすべては背景に引っ込んでしまい,そして背景になる。……一つの意識内容はいつも数秒しか留まらず,それもまた沈下して他のものと交代してしまうのである。
こんな危うい今の決断は,今の背後のさまざまな思いを地に押し込んで,図として表面化しているだけだ。そしてこういっている。
現在すなわち私たちの意識は,鞍の背のように時間の上にあり,そこに私たちがまたがっている。そしてそこから時間の二方向,つまり過去と未来を眺めている。
過去のすべては自分の中にある。捨てるべき対象ではない。どんな恥ずかしい過去も身を隠したくなる過去も,すべては自分のリソースなのだ。そんな経験をしたことのない人は,その分失敗も過誤も犯さない経験しかしていないのだ。それをリソースと呼ばなくてどうするのだろう。僕は自死を含めて,三度死に損なった。それを恥ずかしいとは思わない。そのすべてを含めて自分のリソースだ。自分というものの人生だ。
第一,もし捨てるというのなら,徹底的にやらなくてはならない。ものを捨てる。金を捨てる。家を捨てる。職を捨てる。家族を捨てる。欲を捨てる。名誉も誇りも捨てる。そこまでいけば出家だ。自分の執心を捨てる一番いい方法は,自分を捨てることだ。そこまで徹底的に考えた末の廃棄なのだろうか?
僕には,どうも捨てることに執心する気持ちがわからない。わざわざ棄てなくても,僕は棄てるべき時が来れば,普通の人は棄てられると思う。棄てることで人生が変わるような人は,今まで何もしなかった証でしかない,と思っている。
そういう人は,身を切るような(まさに何かを捨てるような)決断も気なかったし,決意もしなかったし,というかもしれない。
しかし僕は,そういうふうに自分を貶める人を信じない。その人は謙遜しているか,自分を観ていないだけだ。人生で,何も捨てなかった人などいない。親を捨てなくては結婚できない。親の戸籍を捨てることではないか,結婚とは。就職は,それしかなかったというかもしれないが,それを選択したのだ。そこに決断がなかったとは言わせない。決断とは捨てることだ。その瞬間,あり得る可能性を,捨てて選んだのだ。
僕は,引っ越しするにあたって,3年ほど前,30年以上書き綴ってきた日記をすべて捨てた。それは後悔していない。過去を捨てるとは,この程度でなくては棄てたことにはならない。僕の執着は本だ。それも同じ時期1/3捨てた。しかし,これだけは後悔している。なぜなら,本はものではない。自分の知的好奇心そのものだ。知的好奇心がやまない限り,また必要になる本がある。その時は必要ないと思っても,また螺旋のように知的好奇心,問題意識は戻ってくる。だから,何冊かを買い戻した。しかし,もう二度と買い戻せないものもある。本に引いた線だ。その時の自分の関心は,今も同じ関心になる。そこを確かめるだけで,その本のエッセンスがわかる。そういう読み方をしてきた。それだけは,戻ってこない。
捨てた瞬間戻らないものがある。それでも捨てたいなら,捨てればいい。自分の人生だから。ただし,その行為が人真似でない証をするべきだ。捨てる基準は自分で作る。僕なら,四段階の捨て方をする。
速攻で棄てていいもの,
判断猶予しておくもの,
絶対捨てないもの,
そして絶対捨てる対象にしないもの。
それも,少し間を置く。本当に速攻で棄てていいのか。その判断は今という時だけか,将来の自分も見据えているのか,明日の自分の方向は見えているのか等々。
ひとの記憶には,大きいもので,3つあると言われている。
①意味記憶(知っている Knowには,Knowing ThatとKnowing Howがある)
②エピソード記憶(覚えている rememberは,いつ,どこでが記憶された個人的経験)
③手続き記憶(できる skillは,認知的なもの,感覚・運動的なもの,生活上の慣習等々の処理プロセスの記憶)
この他,記憶には感覚記憶,無意識的記憶,ワーキングメモリー等々があるが,なかでもその人の独自性を示すのは,エピソード記憶である。これは自伝的記憶と重なるとされているが,その人の生きてきた軌跡そのものである。すべてものには,人生が絡む。それを捨てるには,よほどの慎重さがいる,と思っている。
デカルトは,問題分析の時に従うべき4つの原則を書いているそうだ。
①真であると明証的に認識できないものを決して真であると承認しないこと
②調べようとする問題をもっと簡単に解決するためには,適切で必要なだけ多くの部分に問題を分けること
③適切な順序で思考すること。すなわちもっとも単純で見抜かれるべくことからはじめて,それから次第にいわば階段を上るように,複雑なものの理解へ進むこと。さらにいうと,普通は連続しないものにすら順序をもちこむこと。
④何も忘れていないと確信できるほど何もかも完全に列挙して,一般的な見解を打ち立てること。
性急さはもちろん,これがいいと思い込む先入観を避け,疑う余地がないほどはっきりと自分で確証できないことに従わない。これが原則だ。
参考文献;
エルンスト・ヘッペル『意識のなかの時間』(岩波書店)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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