2012年12月29日
得体のしれぬものに向き合う~石原吉郎の詩をめぐってⅡ
言語化することの大切さを先日も感じさせられることがあった。言語に置き換えることで,あるいは言語を置き換えることで,それから脳が受ける刺激が変わる。所詮日本語で考えている。言葉が発想を左右する。ヴィトゲンシュタインは,持っている言葉で見える世界が違うと言った。たぶん,虹だけでなく,日本語の虹を見るのと,他の言語で虹を見るのとは違うように,他にも一杯違いがあるはずだ。
一生の人との出会いを,一期一会というとすると,その言葉の持つ潔さと,礼儀正しさと,凛とした立ち姿を言葉で言うなら,
一期にして
ついに会わず
膝を置き
手を置き
目礼して ついに
会わざるもの(「一期」)
というよりほかに,適切な表現を見たことはない。その一生がきれいごとでは済まないことも,よく知っている。
耳のそとには
耳のかたちをした
夜があり
耳穴の奥には
耳穴にしたがう夜があり
耳の出口と耳穴の入り口を
わずかに仕切る閾の上へ
水滴のようなものが
ひとつ落ちる
耳穴だけのこして
兵士は死んでいる(「閾」)
そこにあるのは,覚悟というのもなまやさしい,得体のしれぬものとただ向き合う,というようなことだ。ただ向き合う,ひたすらに。自分に,自分の思いに,得体のしれぬ何かに。だから,こうもいう。
いまは死者がとむらうときだ
わるびれず死者におれたちが
とむらわれるときだ
とむらったつもりの
他界の水ぎわで
拝みうちにとむらわれる
それがおれたちの時代だ
だがなげくな
その逆転の完璧において
目をあけたまま
つっ立ったまま
生きのびたおれたちの
それが礼節ではないか(「礼節」)
逆説のように。そう逆説なのだ。死者が生きていて,生者が死んでいる。そのいたたまれぬいばらの中で立ち続ける。
いわばはるかな
慟哭のなか
わらうべき一切は
わらうべきその位置で
ささえねばならぬ(「食事」)
それを覚悟と呼ぶのか,決断と呼ぶのかはわからない。決断というのは,何かを捨てることだ。覚悟は,その踏ん切りをつけることなのだろう。
そこにあるものは
そこにそうして
あるものだ
見ろ
手がある
足がある
うすらわらいさえしている
見たものは
見たといえ(「事実」)
それを,ただ,見る。神の眼も,理屈の眼もなく,ただ見る。そこに断念がある。断念というのは,しかし諦めることではない。切り捨てることだ。その瞬間に,ありうる自分の選択肢を,ありうる未来を断ち切ることだ。その究極が,一切のおのれの未来を断つ自死になる。しかしかつてそれを試みたから言うのではないが,それは断念というより,諦めに似ている。
諦めは,背を向けることだ。それと対峙することから逃げることだ。しかし,断念は,対峙に向き合って,己の力量を見極めることだ。例えば,立ち会って,その瞬間に知るのだ。これは勝負にならない,と。それを逃げとは呼ばない。見栄も名誉も誇りも矜持をも捨てて,立ちを捨てて,勝負を放棄することだ。それは諦めではない。わかっていて,暴走するのは,自殺行為であり,それがわからずに暴走するのは,判断の放棄であり,思考停止であり,自死と同じことで,いずれも,猪突に過ぎぬ。
しかしだ,
断念と
諦めの
微妙な
狭間に落ちる
断念に未練はあるか
諦めに意思はあるか
てなことを考えたこともある。本当に諦めに意思はないのか,というと疑わしい。と同時に,断念に未練がないというのも信じがたい。認知的不協和を合理的にすり抜けていく心理の欺瞞かもしれない。
この日 馬は
蹄鉄を終る
あるいは蹄鉄が馬を。
馬がさらに馬であり
蹄鉄が
もはや蹄鉄であるために
瞬間を断念において
手なづけるために
馬は脚をあげる
蹄鉄は砂上にのこる(「断念」)
「瞬間を断念において手なづけるために」という,この言葉が好きだ。単なるおためごかしなのかもしれない。しかし,捨てたものは戻ってはこない。その瞬間,何かを捨てなくては,次へ行けない。恋愛が,失恋に終わったなら,おのれの恋を捨てるか,おのれの命を捨てるか,恋したそのプロセスのおのれの人生すべてを捨てるか,いずれにしろ,捨てなくては,その一瞬をやり過ごすことはできない。
弓なりのかたちに
追いつめておいて
そのまま手を引いた
そのままの姿勢で
決着はやってくる
来たときはもう
肩をならべて
だまってあるいている
満月の夜のおんなのように
ぎりぎりの影を
息もせず踏んで
こわい目で しんと
あるいている
決着のむこうの
まっさおなやすらかさ
いっぽんの指の影も
そこをよぎってはらぬ(「決着」)
そうした積み重ねの中で,「あっという間に」一生が終わる。しかしそれを理不尽とは思わぬ。その一跨ぎへの,その一跨ぎのかけがえなさへの,いとおしさこそが,生きるということなのではないか。
素足がわたる橋の
ひとまたぎの生涯の果ては
祈るばかりの
その袂から どれほどの
とおさとなるだろう
いきをころした
ひとまたぎの果てへ
弓なりのさまに研ぎおろす
うす紙のような薄明に
怖いすがたでふりむかれたままの
おびえたなりの橋の全行を
たどりかえして
どれほどのとおさと それは
なるだろう(「橋」)
よく,怒ってはいけないという言い方をする。しかし逆だ。怒らない人間を信じない。ひとはどんな時に真実怒るのかで,その人がわかる。その人が真実怒っているとしたら,どれだけ理不尽でも,はた迷惑でも,その人にとっては真実,腹の底から怒らざるを得ない,何かがあったのだ。その怒りは理解できる。でも,もちろんその矛先に立つのは嫌だが。
ふつうは,四六時中怒ってなんかいられない。それは怒っているのではなく,屈託や鬱屈を吐き出しているだけだ。自分の中の何かに苛立っているだけだ。しかし怒るべき時は怒る。その「べき」の一瞬に,その人がある。それがどういうときかは,本人にも,その時が来ないと,わからないかもしれない。
おれの理由は
おれには見えぬ
おれの涙が
見えないように(「理由」)
自分が瞬間湯沸かし器と呼ばれたせいか,感情の起伏のない人間を信じない。人は,一瞬一瞬いろんな情報(刺激)を受けている,それに反応して,恐れたり,おびえたり,悲しんだり,笑ったりする。しかし一番その人がその人らしいのは,怒りだと思う。それも爆発するような憤怒だ。
おのれの尊厳にかかわることで,怒らぬものを信じない。私は,友人が,共通の友人を裏切ろうとした,ただそれだけで,そいつとは二度と口をきかない決心をした。そうしなければ,自分の尊厳がけがされる。しかしその場で相手に怒りを爆発させてもわからないだろう。だから彼はそういうことを平然とした。けれど,当の裏切られた本人はあまり気にしていない,というか,深刻に受け止めていない。しかしそれは本人の問題だ。簿間の問題とは別だ。
こういう場合は,切る。一切の交渉を切る。一切の関係を断つ。それが怒りの表現だ。怒ってはいけないというのは,感情的になってはいけないという意味だ。怒りを表現することは構わない。その表現には,こういうやり方があってもいい。しかし,同時に覚悟しなくてはならない。それは,いつか,違う相手から,僕自身が同じように切られることもある,ということを。怒りの表現については,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2012-1104.html
で触れた。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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