2014年01月01日

責任



責任の取り方を知らないものは,ヒトの責任の取らせ方も,自分が責任を取るとはどういうことかをも弁えない。だから,いったん人が責任を取ったことで決着したことを蒸し返す。そして,リセットしたがる。

日本に多いのは,

一億総懺悔

のように,誰もが悪いというカタチにすることだ。これは,誰も責任を取らないということだ。すべての人のせいにするということにひとしい。

そういう無責任な人ほど,

自己責任

として,個人に押し付け,見捨てる。その当の本人は,イラクについても,原発についても,一切の責任を取らない。いまどき原発ゼロを安全な圏外から叫ぶのは無責任そのものでしかない。

一億総懺悔と自己責任は,

無責任体制を示す双極といっていい。

リスボンシビリティとは,結果責任と言われるが,そうではない。これを有言実行の意味だと言った人がいるが,だからこそ,結果責任なのだ。

自分の責任で決断し,自分でその責を負う,

という人を昨今見かけたことがない。

かつて勝海舟は,行蔵は我に存す,毀誉は他人の主張,とうそぶいたが,それだけの責任を一身に背負い,幕臣の戦後処理を続けた。こう言う人を見かけない。

勝にとって一身を賭けて譲った国家が,私されるのを厳しく批判し,伊藤博文らの批判者であり続けた。

戦後体制を壊し,アンシャンレジームを目指すのは,それこそ無責任なもののすることだ。戦後体制は,

第二次世界大戦を始めたもののけじめ,

である。このけじめすら取れないものに,世界に伍して発言していく資格はない。

靖国も,憲法改正も,

結局一度もきちんと責任をとらない,取らせることができない国民であることを,世界に標榜することでしかない。
戦後一貫して,なし崩しに,戦後のけじめをぐじゅぐじゅにしてきた総仕上げといってもいいのかもしれない。しかし,その瞬間,日本という国は,結局,何百万,何千万の人間を殺し,あるいは苦しめた責任を,取らないのだと宣言することに等しい。

人のせいにして始めた戦争の責任のけじめの取りようがないのと同様,人に押し付けられた戦後体制ということにして,結果として,また責任を放棄する。

これがけじめであり,

たとえそれが擬制であったとしても,それを受け入れて,続けていくことが自分のした始末のけつをぬぐうことだという,当たり前のことさえわからぬ人が多いことに,僕は恥ずかしい。

それは,結局,

負け,

を一度も受け入れられず,負けたふりれをしていただけということだ。これは,卑怯者のすることだ。女々しいとはこういうことを指して言う。

負けとは,あるいは全面降伏とは,その時点で,自分を捨てることだ。両手を上げるとはそういうことではないのか。

そのはずだ。降伏文書に署名するというのはそういうことだ。

負けた以上,その責任を誰かが取らなくてはならない。恥ずかしいことに,自分が責任者だと,自裁した人は,ほんのわずかしかいない。そのこと自体,さむらいなどという言葉を二度と使ってほしくないほど,恥ずかしい。

ようやくけじめとして責任を取らせたはずなのに,それ自体不当という,認めないという。

ではもう一度戦い直すのか,その勇気もない。

にもかかわらず,卑怯にも,その後ずっと一貫して,そのけじめをなかったことにしたがってきた。そして,その責任を取らせたはずのモノを復権させようとしてきた。それは,負けの撤回に等しい。恥ずかしくないのだろうか。

だろうな,でなければ死んだ者(殺したもの,死に追いやったものとはあえて言わない)に顔向けできないはずだ。そしてそのことをかみしめている人は,黙って,語らない。沈黙している。

それをいいことに,…

やめよう,きっと馬の面にションベンだ。

僕は恥ずかしくて仕方がない。そういうひとが,臆面もなく,さむらいなどということばをいい,責任などということばをいうことに。

いずれ,早晩,また臍をかまされるに違いない。

しかし,また一億総懺悔か自己責任だけがまかり通るのだろうか。

それだけはなしにしなければならない。歴史は,一度目は悲劇だが,二度目は茶番だ。



今日のアイデア;
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#一億総懺悔
#自己責任
#責任
#悲劇
#茶番


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2014年01月02日




旗については,もう何度も書いた。自分の旗を立てる意味については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11129007.html

で触れたし,そもそも仕事で,「旗」を立てるについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11011724.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10966920.html

で触れた。で,自分の旗についても,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11156432.html

であらましは触れた。ここでは,もう少し突っ込んで,自分の旗についての続きを考えたい。

前提になる考えは,

第一は,すべての人の人生に意味があるということ。これも触れた。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2013-0313.html

第二は,清水博さんが,『コペルニクスの鏡』で書いていた,「生きている」(現在)ことと「生きていく」(未来)ことの差だ。これも,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11149915.html

で触れた。つまり,いのちは一人では生きられない,生きる場所なしでは生きられない。「居場所」という。僕らは,「そこで自分は何をするためにいるのか」の答えを出すことが,求められている。それを旗と呼ぶ。あるいは,組織論的には,ポジショニングと呼ぶ。

旗とは何だろうか。自分で言っていながら,それを表現しようとすると,うまく伝えられない。改めて,かつての武将の旗指物と同じだとして,その意味は何か。それでおのれを掲げるのだとして,考えられるのは,

①自己表現 自分自身をそれによって表現しようとする。旗そのものが自己表現。
②自分の存在のアピール 自分がここにいると存在を表示し,存在を誇示
③自分の出自 言ってみると,家紋,家柄等々。西洋でも紋章がある。
④自分のあり方,生き方を表現する 自分の思想の表明としては,赤旗というのもあるが,いまどき流行らない。

等々が思い浮かぶが,単なる自己表現では,ファッションと変わらない。

自分は何者か
何をするために生きているのか
何処へ向かうのか
自分のリソースは何か

を示せるものがいい。

確かに家紋は,出自を表わしはするが,たとえば我が家は「横木瓜」。しかし源平藤橘以外は,所詮地名を苗字にした程度の,どこぞの馬の骨だから,大した出自でもない。

別に自分はペンネームを持っているが,それはあくまで仕事用の,ビジネスネーム。大して考えもせず,適当に決めたものだから,あまり意味はない。せいぜい同姓同名がいないというのが奇跡に近い。

仕事,つまり生業にしていることを旗印にするというのもいいが,小説家とか劇作家とか,劇団主宰といったものならともかく,個人事業主では大した旗にもならない。それに,なりわいはあくまで生業で,それがおのれを示していることにはならない。サラリーマンが,営業です,人事です,という程度では,ただやっていることを表現したに過ぎない。確かに何者であるかの一端を示してはいるにしても。ましてや,職業や社会的地位,名声では表現としては足りない。

旗は,ただおのれが何者かを示しているだけでなく,その背負っている使命を示し,その向うべき方向も示さなくてはならない。そして,併せて思いつくのは,旗をひらめかせるということは,ただ自己表現ではなく,同時に仲間に自分をアピールする機能もあるのではないか,ということだ。

そこで改めて,思い出すのは,清水博さんが示している「自己の卵モデル」だ。それは,

①自己は卵のように局在的性質をもつ「黄身」(局在的自己)と遍在的性質をもつ「白身」(遍在的自己)の二領域構造をもっている。黄身の働きは大脳新皮質,白身の働きは身体の活(はたら)きに相当する。

②黄身には中核があり,そこには自己表現のルールが存在している。もって生まれた性格に加えて,人生のなかで獲得した体験がルール化されている。黄身と白身は決して混ざらないが,両者の相互誘導合致によって,黄身の活(はたら)きが白身に移る。逆もあり,白身が黄身を変えることもある。

③場所における人間は「器」に割って入れられた卵に相当する。白身はできる限り空間的に広がろうとする。器に広がった白身が「場」に相当する。他方,黄身は場のどこかに適切な位置に広がらず局在しようとする。

④人間の集まりの状態は,一つの「器」に多くの卵を割って入れた状態に相当する。器の中では,黄身は互いに分かれて局在するが,白身は空間的に広がって互いに接触する。そして互いに混じり合って,一つの全体的な秩序状態(コヒーレント状態)を生成(自己組織)する。このコヒーレント状態の生成によって,複数の黄身のあいだでの場の共有(空間的な場の共有も含む)がおきる。そして集団には,多くの「我」(独立した卵)という意識に代わって,「われわれ」(白身を共有した卵)という意識が生まれる。

⑤白身が広がった範囲が場である。したがって器は,白身の広がりである場の活(はたら)きを通して。黄身(狭義の自己=自分)に「自己全体の存在範囲」(自分が今存在している生活世界の範囲)を示す活(はたら)きをする。そして黄身は,示された生活世界に存在するための適切な位置を発見する。

⑥個(黄身)の合計が全体ではない。器が,その内部に広がるコヒーレントな白身の場を通じて,黄身に全体性を与える役割をしている。現実の生活世界では,いつもはじめから器が用意されているとは限らない。実際は,器はそのつど生成され,またその器の形態は器における人間の活(はたら)きによって変化していく(実際,空間的に広がった白身の境界が器の形であるという考え方もある)全体は,卵が広がろうとする活(はたら)きと,器を外から限定しようとするちからとがある。

⑦内側からの力は自己拡張の本能的欲望から生まれるが,外側からの力は遍在的な生命が様々な生命を包摂しようとする活(はたら)きによって生まれる。両者のバランスが場の形成作用となる。

というものだ。コアの黄身が自分。そして自分の振る舞いや行動によって,人と接触していく。そこに場ができる。そこでは,ただいるのではなく,自分が何をしようとしているかが,相手にはっきりしているほど,相手に伝わる。

どこへいっても,そこで割られた割られ方で,誰とどう接触し場ができるかは,自分の振る舞いにもよるが,相手の自分への志向にもよる。

そこでやろうとしているのは,「つながり」の可能性を周囲に示していることになるのではないか。あるいは,「この指とまれ!」を触れ回っていることになる。

その意味では,旗が自己を主張するだけではなく,そこに旗のもつ機能と効果と意味が,出てくるような気がする。

「この指とまれ!」

と言うためには,旗は何を表していなくてはならないのか,を照らし出してくれるような気がする。

それは,単に,

自分のリソース
自分の夢・目指すもの
自分の役割

を表現するだけでは伝わらないのではないか。自分の役割を表現するということは,その持つ社会的意味を表現するということにつながる。それには,まだ結論は出ていないが,どうも,物語が必要な気がしている。旗と旗をめぐる物語が。

しかしここまで書いてきて言うのもなんだが,旗に必要なのは,あるいは,旗は,もはや,

自分そのものなのではないか,

自分の顔であり,
自分の振る舞いであり,
自分の衣装であり,
自分の言葉であり,
自分の口吻であり,
自分という存在そのものであり,

それ自体が何かを醸し出す,そういうものではないか。

自分自身が自分の物語の結末であり,夢の果てであり,自分のリソースそのものの顕在化であり,自分の役割そのものの表現である,

とすれば,そこにいるだけで,すでになにかを主張している,というような。

となるとだ,もう旗はある。それを飾ろうとしたり,いい格好しようとしたり,繕ったりしようとしても,隠せぬものがある。それが,旗なのではないか。

それを,

生きざまのつけ,

と呼ぶとちょっと可哀そうだが。いまさら隠しようもないから,そのままさらし者にしておいていい。

ただ,負け惜しみかもしれないが,まだのりしろが残っている。

ということは,まだ旗は変えられる,ということだ。

そのための余命といってもいい。

棺の蓋を覆うまで,

人は可能性の中にある。


参考文献;
清水博『コペルニクスの鏡』(平凡社)
清水博『』(東京大学出版会)

今日のアイデア;
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#旗
#清水博
#コペルニクスの鏡
#場の思想
#物語
#リソース
#居場所

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2014年01月03日

チャレンジ



チャレンジというのは,ニュアンスとしてアグレッシブという意味合いがある。挑戦というのは,戦いに挑むので,当然そうなる。

ただそこには,戦いそのものが,他人とであれ,自分とであれ,状況とであれ,結果として,蛻変とか変身とか変化とか変態とか変容とか変貌というものが付きまとう。というか,そういうのがあるから,チャレンジする。

チャレンジは,

●自分自身を,ひとつも二つも上の(理想ないし目指す)レベルへと飛躍させようとする,

●自分の目の前の懸崖やハードルを飛び越えようとする,

●目の前の壁や抵抗を突き破る,

●いまの自分を乗り越える,

●いまいるところよりも,より高みへ,もっと高みへと挑む,

●自分の閾値,世間の常識や限界を突破していく,

●自分の殻や膜を破る,

●いままでとは違うこと,いつもとは違うことをしようとする,

●いまの自分を維持したり,持続しようとする圧力に逆らう,

●体制や権力にあえて異を唱え,立ち向かう,

●権威や正統に刃向う,

●前へ前へと進み続けようとする,

●したいことを探してやり続ける,

●いままでの伝統や記録や姿勢を突破する,

●新しいステージや舞台を創り出す,

●何かに挑むこと自体にこだわり続ける,

等々,自分に対してか,他人に対してか,状況や現状に対する,Noを突きつけ続ける姿勢といっていい。しかし,多くは,自分自身が足枷であったり,桎梏であったりする。それを断ち切ることが一番のチャレンジかもしれない。

チャレンジそのものが目的ということもなくはないが,多く,

それは,現状維持の否定である。

それは,いまのままの否定である。

それは,権威の否定である。

それは,既得権の否定である。

それは,守勢の否定である。

それは,墨守の否定である。

そして,

それは,限界の否定である。

つまり,チャレンジは,何かを目指すための手段に過ぎない。それがどれだけエネルギーを擁することであれ,それが得られなければ,意味はない。

その多くは,変化といっていい。

蛻変,

脱皮,

を経て,変身,変容,変貌,変態等々。

自分が変わるにしろ,

状況が変わるにしろ,

そこに新しいステージが拓ける。

僕のイメージは,ストップモーションのように,自分が少しずつ,いまの自分からずれて,変化していき,やがて,気づくと,蛇や甲殻類の変態のように,自分が変わっている,そういう変化のプロセスそのものが面白いと思っている。

それは,自分が微妙に変化していく感触というか肌触りが面白いのかもしれない。あるいは,徐々に移っていく自分の変化の流れが,味わいたいのかもしれない。

しかし,多くは,気づくと,すでに,目の前に,別の景色が見えている,ということの方が多い。

変化のプロセスは,僕の場合,一瞬だったり,目覚めたら,気づいたら,既に起きている,ものらしい。

だから,そのプロセスなのだと思っている。

さて,残り少ない人生,怠け者で,あまり大袈裟なことは言いたがらない性分の僕の場合は,ひそかに,ただ黙って,ちょっと挑み続けるというのがいい。

挑むのはおのれの才能という,巨大な壁である, こいつだけは努力や精進だけでは超えられない,生得というか,遺伝子レベルで決まっているというか,そういうものに,しかし終生挑む,というのが,いまの自分の残された課題である。勝ち目は薄い,しかし薄いから,やってみない手はない。勝てる戦ならやらなくてもわかる,しかし勝てない戦いであるからこそ,やらなくてはわからない。

そして,わずかながら,微動する気配のある,そのプロセスを楽しむ,という心意気でいい。


今日のアイデア;
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#蛻変
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#変貌
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#チャレンジ
#遺伝子レベル
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2014年01月04日

思い込み



思い込みとは,おのれの信じたことを堅く思い決めることという。それは,視野狭窄と変わらない。あるいは,その思いからしか世界が見えないことを言う。そこでは,議論の余地はない。なぜなら,そもそも議論で意見が変わるなら,思い込みとは言わない。

思い込みを別の言い方をすると,固定観念という。

固定観念は,機能的固着,とも言う。つまり,その余の脳の部位とのリンクができない状態である。それを崩すには,(もちろん本人が崩す気があればの話だが),

ひとつは,言語レベルから現実レベルに降りる,

あるいは,

より高みの目的から手段を洗い直す,

の二つがある。しかし,いずれの場合も,現実といって,自分の見える現実しか見ようとしない場合,「現実」いう同じ言葉を使っていても,同じ現実を見ていない。

コントロールできていないものが,

完全にコントロールできていると言い切れるような場合,

たぶん,現場に行っても,現物を見せても,現実を突き付けても,コントロールできているものしか目に入らないだろう。

この絶望感,この閉塞感をどうしたらいいのか。

さて,ここ連日ある新聞社が,河野談話について,いろいろ騒ぎ立てている。ツイッターでも,「意向」を「指示」に変えたということを,ことさら騒ぎ出している人間がいた。で,

何を騒いでいるやら,言葉レベルで言っていても現実は見えない,軍が意向といったら,指示と同じだ。それが現実だ,

云々といった書き込みしたら,

現実とはそうではない,云々として,切られてしまった(らしい)。

しかし,日本の上位者は,多く,明確に意思を指示しない。下は,その意向をくみ取って,それを下へ指示する。だから,トップは多く責任を免れる。そういう言葉のレベルの現実的問題がある。

言葉レベルでいくら現実を見ようとしても,現実は丸められている。丸められたレベルのことを問題にしたら,誰が大戦の意思決定をしたのか,はわからなくなる。そういう無責任体制というか,文言で明晰にするような仕組みにはなっていなかったし,なっていない。だから,証拠はない,文書として残るはずもないし,残すはずもない。

それが現実なのだ,ということを言いたかったのだが,要は,談話を潰したい向きにとっては,そんなことはどうでもいいのだ。

しかし,一国が世界に向けた談話を,ころころ変えるような国や人民を信用するだろうか。

綸言汗の如し,

それ自体は,すでに国是なのだ。その覚悟がないから,一事が万事,簡単に,降伏文書と講和条約に基づく戦後体制を否定し,アンシャン・ジームに復帰したがる。憲法を欽定憲法に戻し,教育勅語を復活させ,治安維持法もどきを制定し,一体どういう国家にしたいのか。今上天皇も,誕生日に明確に述べられていたように,まったく望んでいないのに。

少なくとも,戦後こそが,本当に世界に伍していく国力を蓄えたのであって,戦前の比ではない。しかし,彼らは,どうも復古することで,人民というか,国民をおのれのコントロール下に起きたいらしいのだ。それは,そのまま家父長制イデオロギーの復活であり,男尊女卑の復活であり,結局そういうことを考えている人たちは,自由で平等で多様な世界に耐えられず,それが不埒な世界にしか見えないのだろう。だから,心の中まで,踏み込んでひとつのイデオロギーでコントロールしたがる。

というより,人は,右向け右でないと,コントロールできないと思っているのかもしれない。そんな均一社会のもろさは敗戦で証明されたではないか。第一,いまどきそんなリーダーシップもマネジメントも,世界中で通用するのは,北朝鮮だけだ。そういう中で,頂点に立っていないと,不安でしょうがないのだろう。まるで金正恩のようだ。

哀れで,みじめで貧相な,人品骨柄の賤しい人たちに見える。

自由なくして,世界に伍す発想も発明も生まれない。

平等なくして,闊達な議論は生まれない。

侃侃諤諤の議論なくして創造性は育まれない。

創造性なくして,未来を切り開く力は生じない。

このマインドは,五箇条の御誓文そのものだ。藩閥政府によって踏みにじられた,五箇条の御誓文の趣旨が,80年を経て,戦後,いろいろ問題はあっても,曲りなりに,やっと実現し(かけ)たに等しい。

広く会議を興おこし,万機公論に決すべし
上下心を一にして,盛に経綸を行ふべし
官武一途庶民に至たる迄まで,各の其の志を遂げ,人心をして倦まざらしめん事を要す
旧来の陋習を破り,天地の公道に基づくべし
知識を世界に求め,大に皇基を振起すべし

これを起草した,由利公正,三岡八郎は横井小楠の強い影響下にあった。小楠のもとでの殖産興業政策で窮乏した福井藩財政を再建した。そう,だから,この御誓文には,小楠の『国是七条』や『国是十二条』が反映している。これは,坂本龍馬の「船中八策」にも色濃く反映している。そのせいか,龍馬に二人の甥を託した折の,壮行の詩にふつふつとみなぎる,

堯舜孔子の道を明らかにし,
西洋器械の術を尽くさば,
なんぞ富国に止まらん,
なんぞ強兵に止まらん,
大義を四海に布かんのみ,

といった気概と希望が満ち満ちている。

そう,考えようによっては,80年を経て,自力でできなかった,五箇条の御誓文の世界が戦後体制で初めて実現でき(そうに見え)たのだ。

それが気にいらないのは,侮民政策というか,愚民政策をとろうとする藩閥政府と同じ発想なのかもしれない。安倍氏は,長州なのだから。そして,聞くところでは,そもそも靖国神社は,幕末維新で亡くなった長州の奇兵隊を祀る招魂社から始まったというし…。


今日のアイデア;
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#河野談話
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#アンシャン・レジューム
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#三岡八郎


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2014年01月05日

素朴信念



高橋惠子『絆の構造』を読む。

われわれは,人との関係,家族との関係について,多くの常識というか,先入観を刷り込まれ,それに縛られて自縄自縛に陥っているところがある。本書は,それを改めて解きほぐしていこうとしている。

著者は言う。

本書では,それぞれの人が現在持っている「人間関係」,ひととの「絆」の「仕組み」を検討することを提案している。その「仕組み」が実は興味深い「構造」をなしていることを明らかにすることで,それぞれの人が自分の人間関係の内容を知り,ユニークなオーダーメイドの絆の再構築をするヒントになればうれしい

と述べる。それは,逆にいえば,多くの人が,オーダーメイドではなく,お仕着せの人間関係観,家族観に拘束されている,ということでもある。そして,

人は,誰とでも同じように,無差別につながれるわけではないのである。…一生涯にわたって,人は周りの人びとの自分にとっての意味,つまり,安心・安全をもたらす人,行動を共にしたい人,困っていたら助けてあげたい人などを区別しながら,自分にとって好きで有効な数人を選択しているのである。(中略)注目すべきは,表現された対人行動ではなく,各人が持っている頭の中のプログラムなのである。このプログラムは,複数の重要だと選択されたメンバーで構成されているが,彼らは雑然とそこに入れられているのではなく,各メンバーにはそれぞれ心的役割が振られ,整理されているとするのが妥当である。そして,あるメンバーの役割は別のメンバーの役割と関連し,ネットワークをなす構造を持つと考えるとよさそうなのである。

大事なことは,人間関係に,こうあるべきだ,こうでなければならないという価値や常識,イデオロギーにあるのではない,人は,自分が生きるために,人との関係を選択し,自分の関係を創っていくことができる。あるいは現にそうやってつくっている現実の関係を認めることだ。でなければ,強制でしかないし,拘束でしかない。

たとえば,「絆」はいいものだという神話について,

「絆はよいものだ」「人は絆を持つのが当たり前だ」とし,さらに,「もっと親密で,しかも,自然な絆は親子・家族間のものだ」「母子の絆が絆の原型だ」

という常識や思い込み(「素朴信念」と著者は言う)に苦しめられている人が多いのではないか,と著者は問う。マストになった瞬間,そうでない人を異常にする,あるいは異常ではないかと悩まされる。それでは,

オーダーメイドの人間関係をつくるうえでの障がいになるのはなにか。

まずは家族について。311の後,絆の大合唱が起こったが,朝日新聞の調査では,

危機に瀕して,実際に(家族との)関係が深まった,

というひとは三割に満たない。

家族が困ったときに助けてくれる愛ある共同体であるというのは根拠のない思い込み,つまり,神話なのだと思い知らされる,

と著者は言う。しかし,国のすべての制度は,「標準家族」というものをベースにしている,世界でも例がない仕組みを取り続けている。つまり,社会的なリスクを担う,最小単位のセーフティネットとされているのである。

それは,

夫が主たる稼ぎ手で,妻が専業主婦で家事・育児を受け持つ

という生別役割分担を前提とした「男性稼ぎ主型」で,それが,家族のあたりまえの生活,子どもの育児・教育,老人の介護などの生活・福祉をスムーズに実行する社会の単位とみなされている。だから,

すべての人は標準家族に属するという前提に立ち,市民ひとりひとりが社会の単位,

とはみなされていない。税制,健康保険,介護保険,企業の賃金体系まで様々な風習に至るまでが,それで貫徹されている。

しかし,標準家族は三割に満たず,一番多いのは,単身世帯で35%程度,夫婦のみの世帯が二割,一人親世帯が一割,二世帯は,微々たる数でしかない。しかも生涯結婚しない人も,増え続けている。

標準家族ではない人が,七割を占めているのに,家族主義を前提にして施策が進められ,多くが不利益だけではなく,

幼い子供は母親の手で育てるべきである,

という素朴信念が,逆に女性に生むことをためらわせ,自分の人生を諦めさせられたくない,

という事態を生み,少子化の遠因になっている,と著者は言う。では女性を拘束する,

幼児期にしっかり育てなれば取り返しがつかない,

乳幼児の経験が後の人生を決定する,

というのは,本当なのか。著者は言う。

人間の発達には柔軟性があり,取り返しがきき,その人がやる気になった時が,発達の適時なのである。親に虐待されて不幸な乳幼児期を贈らざるを得なかった子どもがその後に十分な養育・教育を受けて回復したという事例

が増えてきたという。つまり,

乳幼児期の発達から将来を予測することは難しいこともわかったきた

のである。どう考えていも,90年に及ぶ人生の中で,わずか三年間が決定する,というのは納得できない,という著者の言葉に賛成である。

では母子関係は特別なのか。その根拠に使われているのが,イギリスのジョン・ボウルビィの「愛着理論」である。ボウルビィは,

人類には生存を確保するために,強い他者に庇護を求めるというプログラムが遺伝子にくみこまれるようになった,

とした。愛着とは,

「無能で無力な人間」が「有能で賢明な他者」に生存,安全を確保するために擁護や援助を求めること,

と定義される。ボウビィルは,その「他者」に母親を重視した。しかし,著者は,最晩年ボウビィルが,「母親が働きに出るのは反対だ」と発言したことを例に,

家父長制イデオロギーがボウルビィルの科学者としての者を狭めた,

と言い切る。そして,サラ・ハーディの研究結果に基づいて,

人類を含め類人猿では母親になっても育児をするとはかぎらない。母性本能は疑わしい…。母親になることには学習が必要である,母親以外が養育する事例が類人猿に広く見られる…,そして類人猿の雌も幾次と生産活動を両立させている…。

と指摘する。そして,

母子関係は大切ではあるが偏重する必要はない。

とも。つまり,母性本能というのは,社会的文化的に刷り込まれた結果である,ということである。

著者が最後に紹介する,カーンとアントヌッチの,

コンボイ

という,サポートネットワークの測定法がなかなか面白い。

面接調査によって,

同心円に,中央が自分,その外に,最も大切な人,その人なしに人生が想像できない位親密に感じている人,その外に,親しさの程度は減るがなお重要なな人,一番外の円に,それほど親しくはないが重要な人を,挙げてもらう。

次に,それぞれの人を上げた理由,どう重要なのか,を聞く。

著者は,8歳から93歳までの1800人余りの面接調査を試みている。三つのうん平均で七~八人,そこに出るのは,

他者に助けられつつ,自分らしくあるという自立を手に入れるうまい仕組みだといえる。なぜなら,誰か一人に全面的に左右されずにすむ。つまり,誰かにすべて依存することはない。その上,誰がどのように有効なサポーターであるかがわかっていれば,あるサポートが必要になった時にあわてなくてすむ。

という自分で選んだネットワークなのである。重要なのは人数ではない。

自分が選んだ大切な役割・意味を持つ人々を構成メンバーとする人間関係の中で暮らしている,

ということなのだ。それを更新しながら生きている。大事なことは,母親が重要な存在ではあっても,子どもたちにとって,

重要な他者の一人であるというのが正しい,

ということなのだ。父親や祖母が愛着の一番手として挙がることものである。

気づくのは,日本の根強い素朴信念が,多くの呪縛や心の病をもたらすということだ。そのほとんどは,家族を主体とする政策やイデオロギーによる拘束でもある。そして,いま,その家父長制イデオロギーというか,家族主義が復権されようとしている。「おひとりさま」(上野千鶴子)が大勢なのに,である。

現実と政治家のイデオロギーのギャップの中で,子どもの貧困率は16%になろうとし,実に子供の,6~7人に一人が貧困状態にあるという,先進国の中でも政治の貧困が際立つ。それは標準家族という幻想(イデオロギー)の上に立つ政策が,そこからこぼれていく一人親家族の貧困を放置している(見捨てている)結果でもある。

アンシャン・レジュームというイデオロギーの妄想の中,いまも子供が貧困の中死んで行く,こんな「美しい国」が何處にあるのか。激しい怒りを感じつつ,ドストエフスキーがカラマーゾフの兄弟の中で子供の悲劇を指摘していたことを思い出す。あれは,19世紀の話なのだ。21世紀になってもこの体たらくなのだ。

そう思うとき,絆自体が,イデオロギーとして使われたのだと思い至る。



参考文献;
高橋惠子『絆の構造』(講談社現代新書)

今日のアイデア;
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2014年01月09日

いのち



清水博『〈いのち〉の普遍学』を読む。

本書は,

仏教と科学の視点から「〈いのち〉を問う」ことを目的にして,竹村牧男さんと私の間で…始まった往復書簡が,本多弘之さん,竹内整一さんと,対論の相手を変えて引き継がれ

たものを中心において,第一部で,「〈いのち〉の科学」,第三部「〈いのち〉の普遍学からの構想」を配置して,

〈いのち〉の居場所としての地球の危機を考える…共通の精神が…貫いて流れている…

ものとなっている。

著者は,「はじめに」で,こう書く,

往復書簡の主題が「〈いのち〉への問い」であるように,人間が生きていくことは,「未来に向かって問いかけ」,そしてその答えを自分なりに見つけては,また「問いかけていく」ことの繰り返しであり,答えはすでに問いかけのうちに隠れているのです。
したがって生きていくために必要なことは,「正解」を探すことではなく,自分を包んでいる新しい状況に対する問いかけ方を知ることです,

と。そして,これから必要なのは,自分一人を主役として際立たせることに生きがいを求めることではなく,

皆が主役となって役割を分担しながら共に生きていく「生活共創」の時代,

だとも。それには,

多くの人びとがそれぞれの貴重な〈いのち〉を与贈し,共に主役となって,時代を越えて愛されるものごとを,ドラマの共演のように一緒につくり出していく創造的な活動です,

とも。

ところで,〈いのち〉という表現について,なぜ生命ではなく,〈いのち〉なのか。

〈いのち〉とは,それ自身を継続していくように地球の上ではたらいている能動的な活き(はたらき)のことです。

だから,

生きものをモノという面から捉えるために使われてきた「生命」という概念だけでは不十分であり,現実に不足しているコト(関係性)の面からも生きものを具体的に捉える方法が必要,

として,〈いのち〉という概念を使う,という。これは,

日本人が昔から使ってきた「命」に近いのではないか,

と。そして,〈いのち〉を語るとき,生きものが生きている居場所抜きでは語れない。

生きものの〈いのち〉とそこに生きている生きものとは,たんなる全体と部分以上の関係にあります。またそればかりではなく,生きものの〈いのち〉が存在している場所でなければ,居場所とは言いません。その意味から,居場所には居場所としての〈いのち〉があります。その〈いのち〉は,生きものの〈いのち〉を加えあわせたものではなく,居場所に広がって遍在する「全体的な〈いのち〉」です。さらに居場所から取り出した生きものの性質は,居場所にあるときの性質とは一般的に全く異なってしまいます。

この関係を,こう説明します。

居場所の部分である生きものたちの内部には,それぞれ居場所全体の〈いのち〉の活き…を映す活き「コペルニクスの鏡」(と仮称します)があり…,その「コペルニクスの鏡」に映っている全体の〈いのち〉の活きが個々の生きものの性質を内部から変える…,

として,人間の身体と約60兆個の細胞との関係で例示します。

人間の身体は…約60兆個と言われる非常に多くの多様な細胞たちの居場所です。また,それらの細胞は,それぞれの〈いのち〉をもって自律的にいきています。その身体が一つの生命体として統一された活きをもっているのは,細胞たちがそれぞれ共存在原理にしたがって共創的な活動をしているからですが,…人間の身体の〈いのち〉という全体とこれらの細胞たちの〈いのち〉という部分を,全体と部分に分離することなく,一つのものとしてつないで「生きていく複雑系」としている活きがあるから,

その統一性が生まれてくる。この全体と部分がわけられないことを,

居場所の〈いのち〉の二重性

と著者は呼びます。つまり,

その居場所の〈いのち〉の活きと,その居場所で生活している生きものの〈いのち〉の活きを機械的に全体と個に分けることは原理的にてきません。(中略)生きものの〈いのち〉が居場所の〈いのち〉に包まれると,生きもののうちにある「コペルニクスの鏡」がその居場所の〈いのち〉の活きを映し,居場所の「逆さ鏡」が生きものの〈いのち〉の活きを映して,互いに他に整合的になるように変わる〈いのち〉のつながりが居場所と生きものの間に生まれるからです,

と。それを量子力学の粒子と場になぞらえ,

粒としての〈いのち〉と場としての〈いのち〉,

あるいは,

局在的な存在の形と遍在的な存在の形,

と,その二重性を表現しています。それをサッカーを例に,こう説明しています。

場の〈いのち〉の活きであるチームの活きは,個々の粒としての〈いのち〉の活きである選手の活きを単純に足し合わせたものものではないということです。それは,居場所に場として広がった「一つに統合された活き」,すなわち一つの「全体的な〈いのち〉」の活きです。

こうして広がった場こそが,

居場所に広がった〈いのち〉の遍在的な形態,

なのだ,と。

考えてみれば,人は,さまざまな場で生きている。家庭であり,企業であり,地域社会であり,国家であり,…の中で,継続して生きていくためには,その場所が,

居場所,

にならなくてはならない。そのためには,

粒の〈いのち〉と場の〈いのち〉の活きが,互いに整合的になることが必要

なのだという。そして,

ある場所に場所的問題が存在するということは,自己の〈いのち〉をそこへ投入してみると,〈いのち〉の二重性の形をつくれないことがわかるということです。それは,その場所が自分の居場所にならないからです。したがって,自分の〈いのち〉が相互誘導合致の活きによつて〈いのち〉の二重性をつくることができたと感じることができるまで,―その場所が自分にとって居場所になったと感じることができるまで―場所の環境条件を変更したり,自分の〈いのち〉の活き方を変えたりする努力をしてみるのです。

そこに,自分のポジションと役割が見つかることで,自分がそこにいることで場そのものが動き変化していく,そういう場と自分の関係をつくっていく,ということは,一人ではできない。いじめを考えたとき,

個々の〈いのち〉と場の〈いのち〉,

だけではない,もうひとつ必要な気がする。そのヒントは,場所的世界を劇場に見立てた,「場の即興劇理論」にあるように思える。すなわち,

場としての舞台,

舞台上の役者,

見えない形で参加しいてる観客,

の三者のうち,観客ではないか,という気がしている。それを,西田幾多郎を借りて,

「どこまでも超越的なるとともにどこまでも内在的なる(存在)」としてしかとらえられない「他者」(=「絶対の他者),

であり,それは,自己の無意識の深層に存在している,と同時に,

それが自己(役者)が存在している場所的世界(劇場)を超えて自己が関係するどのようなる劇場をも大きく包む存在,

とも呼びます。それを,著者は,「観客の声なき声」とも呼ぶ。

観客を,こう説明すれば,イメージがわくはずです。

関係子(役者)は重層構造をした〈いのち〉の居場所(劇場)に存在して,そしてそれぞれの居場所で〈いのち〉のドラマを同時並行的に演じていると考えます。たとえば,一人の人間の場合,簡単に見ても,家庭と,企業と,地域社会と,日本と,アジアと,世界と,地球というように,重層的な居場所で同時に即興劇を演じるように生きています。役者がそのうちの一つの居場所における即興劇を意識しているときに,それより大きな居場所において進行している〈いのち〉のドラマの影響が即興劇の観客の活きに相当します。

役者と舞台が整合的になるのは,その居場所よりも。重層構造の上でより大きな居場所の相互誘導合致の活きから,対応して考える,ということなのだと言える。

それは,狭く限定した「島宇宙」だけで問題解決しないというふうに言いかえると,なんだかありふれてしまうか。しかし〈いのち〉は,その小さく限定した中だけで,自己完結してはいけない。またそういう視野で見ている限り土壺にはまる。

つまりより上位の視界の中で,その視野の中において見ることで,一見相互誘導合致の活きが損なわれているように見える〈いのち〉も,その活きが生き返る解決が見える,ということなのではないか。

とりあえず,そういう「問いかけ方」をすることで,その場で生きる道が見えてくる。居場所が未来からくる,とはそういうことではないか。

浄土が未来から呼びかけてくると,心から信受するところに,「正衆聚」が与えられる,そこで現生は安心して未来からのはたらきをいただく「いま」になる,という。そのことに通ずる,ような気がする。

それは,親鸞の「如来の回向」とつながり,清澤満之の「天命を安んじて,人事を尽くす」の意欲へとつながる,と思える。

参考文献;
清水博『〈いのち〉の普遍学』(春秋社)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#清水博
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2014年01月10日

天命



天のことについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11276568.html

で触れたように,

死生命有
富貴天に在り(『論語』)

でいう,天には,「生き死にの定め」「天の与えた運命」の二つが並列されている。

つまり,天命には,二つの意味があり,一つは,天の与えた使命,

五十にして天命を知る

の天命である。いまひとつは,天寿と言う場合のように,「死生命有」の寿命である。だから不慮や非業の死は非命という。

しかし,いまひとつ,

彼を是とし又此れを非とすれば,是非一方に偏す
姑(しばら)く是非の心を置け,心虚なれば即ち天を見る(横井小楠)

で言う「天理」のことでもある,と。

天命で,よく知られていることわざは,

人事をを尽くして天命を待つ,

であるが,これだと,これだけやったんだから,どうだ,という褒美を当てにしているようなニュアンスがなくもない。そのせいか,神田橋條治さんは,

天命を信じて人事を尽くす,

と逆転した言いようを,紹介されていた。これだと,おのれの使命にしろ,天理にしろ,を信じて,やれるだけのことをやる,というニュアンスに変わる。

しかし,清澤満之は,これを,

天命を安んじて人事尽くす,

と言った。微妙に意味が変わる。

「安んずる」とは,

安心するという意味もあるが,

それに満足して不満に思わない,甘んずる,

という意味がある。あるいは,もう少し踏み込むと,

受け入れる,

あるいは,

引き受ける,

というニュアンスになる。さらに少し踏み込むと,

甘受する,

となる。

そこには,成果や成功とは関係なく,苦難や困難の意味合いが深く出てくる。それでも,それを引き受けて,人事を尽くす,と。

清澤は,言う。

請うなかれ。求むるなかれ。なんじ何の不足かある。もし不足ありと思はば。これなんじの不信にあらずや。

彼は,絶対他力からそう言っているが,そこにあるのは,どんな過酷な運命も,そのまま受け入れ,引き受けて,その中で,おのれの出来ることを尽くす,というように聞こえる。

だから,こう言う。

独立者は常に生死巌頭に立在すべきなり。殺戮餓死,もとより覚悟の事たるべし,

と。

すでに殺戮餓死を覚悟す,

とも。この覚悟は,言葉が重い。自分のような軟弱もののよく言える言葉ではない。しかし,天命を受け入れるというのは,こういうことだ,という意味で,重いが,同時に,身震いするほどの緊迫感がある。

不意に思い出したが,横井小楠が,二人の甥を坂本龍馬に託して洋行させる折,送った送別の詩に,

心に逆らうこと有るも
人を尤(とが)むること勿れ
人を尤むれば徳を損ず
為さんと欲する有るも
心に正(あて)にする勿れ
心に正にすれば事を破る
君子の道は身を脩むるに在り

というのがあった。「心に正にすれば」と抑制するところが,あったこと,を。自責,とはこのことだ。絶対他力は,つまるところ。絶対自責に通ずる。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#論語
#横井小楠
#清澤満之
#神田橋條治
#絶対他力

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2014年01月11日

好悪



僕は,ストーカーと恋は,わずかの差だと思う。

同じ土俵に乗っていると思う,

のと,

同じ土俵に乗っていると感ずる,

のと,

同じ土俵に乗っているつもり,

のとは少しずつずれる。しかし,「同じ土俵に乗っている」のと「同じ土俵に乗っているつもり」とは,ほとんど変わらない。お互いにそう思っていても,それは,別々の土俵かもしれない。一方だけがそう思って,他方は合わせているだけかもしれない。

そもそも全く接点のなかった関係で,ストーカーは起きない。起きたとしたら,妄想か病気である。

だから,なにがしか,土俵を共有した,という幻想を抱くに足る時間があったということになる。

そういう意味では,恋とストーカーとは,ベン図ふうにいうと,重なる部分がもともと大きい。

恋は仕勝ち

とも,

恋は思案の外,

ともいう。好き嫌いとか愛憎というが,

好きと嫌いは対ではなく,
愛すと憎むは対ではない,

気がしている。もちろん,好きが嫌いに転じることもある。愛が憎しみに変わることもある。だが,対ではない。好きなものは,ずっと好きなのだ。ストーカーの心理を追いかけたわけではないので,勝手な妄想だが,

ストーカーは好きという幻想から抜け出られなくなっている,

だから,相手の土俵は見えていない。自分の土俵に乗っていたはずの(と思っている)相手を,勝手に追い求めている。これだけ追いかければ,わかってくれるだろう,気持ちも変わるだろう,と勝手に思い込む。

だからストーカー規制法によって警察から事情聴取や警告を受けた瞬間,その土俵から降りた相手に気づく。気づいたおのれが愚かしく見えるか,これだけ好意を示すおのれへのこんなふるまいに対して,相手が憎く見えるか,そこで憎悪に転ずるかどうかの岐路がある(かもしれない)。

多くは,そこで断念する。というか,みじめに見える自分を,これ以上みじめにする振る舞いには耐えられない。だから,その土俵を降りる。しかし,おのれの土俵から降りなければ,というか,同じ土俵の上にあった(はずの)相手しか見えていないので,そのときのおのれの思いの丈,好意の分量だけ,相手への憎悪の分量もかさ上げされる。

もともと好きと憎しみとは,好悪という言葉があるように,隣接している。好きから嫌いには転じないが,好きから憎む(悪む)には転じやすい。

愛は,いつくしむ,めぐむ,したしむ,かわいがる,このむ,と,いわゆるlove(の反対はhate)とは微妙にずれている気がする。だから,愛憎より,好悪の方がしっくりくる。

よく,ことわざに,

恋の道には女が賢しい

とある。一般には女性の方が,冷淡と言われる。さっぱりしている,というか,踏ん切りがいい。モトカレのものは洗いざらい捨てる。しかし,未練たらしいのは,男のほうだと言われる。本当のことは人によって,そのときの心理状態によって,二人の関係性によって,違うとは思うが,女性の方が思い切りがいいと聞かされることが多い。女性のストーカーの方が圧倒的に少ないのは,そのせいかもしれない。しかし,これも,個人差があるし,彼我の関係の中で変わる。

よく聞くのは,結婚詐欺師は,女性に信じられているという。相手の土俵にうまく,おのれの好意を残す。というか,そもそも騙されたと相手は思っていないのだという。だから,相手は憎まないのだ,という。そのあたりの,詐欺師の手腕は,

いつまでも,相手の心の土俵に,自分を残りつづけさせる,

ところにあるのかもしれない。どうせ幻なら,そういう土俵の降り方がいい。

そう,ここにはコミュニケーションの基本がある気がする。思えば,こういうコミュニケーションの仕方がいいのかもしれない。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#好悪
#愛憎
#土俵

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2014年01月12日

書く



言葉を覚えるということは,ある種俯瞰する視点を手に入れたことを意味する。それは,ユンギアンが言うように,そのときから,空を飛ぶ夢を見るというのは,その象徴といってもいい。

例えば,目の前の石くれを,石という言葉で置き換えることで,多くの石のひとつに,それはなった。

しかし,そのことで,石と目の前の石とは,ギャップが生まれる。置き換えて失ったのは,自分にとってのかけがえのないニュアンスといってもいい。

表現にそんなものはいらないという考え方もあるだろうが,そぎ落としてはいけないものをそぎしか落としてしまっているかもしれないのだ。

言葉のスピードの20~30倍で,意識は流れている,といわれる。それは,言語化できるのは,意識の1/20~30ということだ。そのとき自分が考えていたこと,思っていたことの1/20~30しか拾い上げられない。その余は,落ちていく。

書くということを考えると,

ひとつは,自分の思いを言葉にしようとする,

いまひとつは,言葉が次の言葉をつなげていく,

の二面がある。もちろん,何か書きたい思いがあって書きはじめる。しかし,言語化した瞬間,言語の意味の範囲から,思考が流れ始める。その時,すでに,ずれがはじまっている。

虚実皮膜

というのは,何も虚構を作っている時だけとは限らない。

日記を書いたことのある人ならお分かりのはずだが,自分の出来事を書いているはずなのに,その出来事自体は変わらないのに,そのニュアンスが書き方によって,変わっていくことがある。それは,言葉の作用に他ならない。

もちろん嘘ではない。嘘ではないが,そのときのコトを正確に写しているのとは少しずれる。

ひとつは,言葉の持つ俯瞰性から,視点が変わる,

ということはもちろんある。しかし,言葉に感情が籠ると,それほどの感情でなかったはずなのに,感情が煽られてしまうことがある。

つまり,いまひとつは,言葉が,勝手に言葉を紡ぎ出す。

つまりは,どっちにしろ,言葉が,見える世界を変える,ということになる。このことを,虚実皮膜というのではないか。

虚実皮膜については,近松門左衛門は,

http://www.kotono8.com/2004/06/27chikamatsu.html

によると,こう言っている。

芸というものは,実と虚との皮膜(ひにく)の間にあるものだ。

なるほど,今の世では事実をよく写しているのを好むため,家老は実際の家老の身振りや口調を写すけれども,だからといって実際の大名の家老などが立役者のように顔に紅おしろいを塗ることがあるだろうか。また,実際の家老は顔を飾らないからといって,立役者がむしゃむしゃとひげの生えたまま,頭ははげたまま舞台へ出て芸をすれば,楽しいものになるだろうか。

皮膜の間というのはここにある。虚にして虚にあらず,実にして実にあらず。この間になぐさみがあるものなのだ。

と。これは,真実らしく見せるために,黒澤明が,『七人の侍』のラストシーンで,墨汁の雨を降らしたことと似ているが,どうも不遜ながら,そこに,虚実の皮膜があるのではなく,

コトを写そうとすると,

言葉であれば,すでに,丸めるほかなく,映像であれば,自然光ではなく反射板や照明を使わなくてはきちんと撮れないように,表現自体が,現実ではなくなる,ということの方が大きい。

それは,自分の想いを語っていても,その思いは,言語のレベルで,言語に連なって,語られていく。語られていくにつれて,思いの原形質の質感ともニュアンスとも,ずれていく。

そのずれの感覚がないと,描いたものだけで,すべてを判断する。

書くというのは,いわば,すべての情報がそうであるように,フレームワークの中に入れることだと言ってもいい。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0924.htm

でそのことは,触れたが,書くということの持つ,宿命といっていい。しかし,そのことに自覚的な人は少ないかもしれない。

書くということは,書いた瞬間から,現実から乖離する。しかし,書いたものからしか,視界は拓けないのも事実なのだ。

私の言語の限界が私の世界の限界を意味する,

とヴィトゲンシュタインが言ったように,書かなければ始まらないのだから。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#ヴィトゲンシュタイン
#近松門左衛門
#虚実皮膜
#ユンギアン

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2014年01月13日

衝突



人と衝突するということは,そうはない。いさかいというのなら,結構ある。しかし,衝突と呼べるものは,数えるほどしかない。

しかし衝突するというのは,どういうことか。

普通は,利害の対立か,考え方の対立か,価値観の対立か,いずれにしても,両者は,なにがしかについて,共通の対立項を持っていて,そこでぶつかる,ように感じる。

しかし,僕の場合は,少し違う。

一番古くは,初めて,父親に対して,真正面から,母を庇って,怒声を上げた時だろう。このとき,何に怒っていたのかはわからないが,たぶん,母親の立場から,父親に怒りを向けたのかもしれない。

しかし,子どもは母親の立場にはなれない。夫婦の土俵に,違うところから鉄砲玉が飛んできたので,父親はびっくりしたに違いない。

多く,衝突というとき,こういう微妙な土俵の違い,はっきり言うと,すれ違いを感じさせることが多い。本来衝突しないところで,僕の側が,まるで対等の立場のように,相手に向き合う。親子だから,まあ許される越権も,社会的には,結構やばいことになる。

それ以降の生き方そのものを変えるような対立は,会社のトップとの激突だ。

それまでに,一年間,執行部にいた時,団体交渉で労働組合と経営者ということで,いろんな面で,対立したし,激しくやり取りしたこともあるが,そこでは,労使交渉というテーブル上でのことで,それぞれが役割を背負っていて,その立場は異なっても,そのテーブルでは,対等であった。

しかし,その後の,仕事上での対立は,少し事情が違う。

自分が進めていた仕事について,それ自体はゴーサインが出ているので問題ないが,細部というか,僕にとっては,本質を左右しない些事について,直接ではなく,間接に,茶々を入れられた。それがカチンと来ていたところで,直接のきっかけは,たいしたことではないが,やり取りが始まり,衆目の前で,激突した。

いわば,こちらは,部下なのだが,当該の仕事ということについては,対等と考えているから,一歩も引かない。相手は,トップという視点から,ものを言っているから,当然,こっちが引くものと決めてかかっている。

客観的にみれば,立場など関係なく,是非を言っている。どっちが正しいかということではなく,自分の是非を言ってはばからない。そのことが,直接には,逆鱗に触れた,ということになるのだろう。

しかし,何かについて語っている,それがテーマだとすると,立場は別にしても,それぞれの立場から,そのことを,外に置いて,それについて語りあっている。その場合,テーマに関する限り,

二者関係ではなく,

三者関係にある。

つまり,テーマを頂点において,僕とトップが三角形をこさえている感じである。それは,立場が違うときに,何かを論じる場合,不可欠な関係の取り方なのだ,と後年,記憶に間違いがなければ,神田橋條治さんの著作から学んだ。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06400.htm

でいう。相手を主題にしない,ということだ。つまり,

話し相手が部下や後輩だとして,どうしても部下のしたこと,部下の発言,部下の失敗,部下の報連相,部下の成果等々となると,「どうして君はそうしたの」と,上位者や先輩として,部下に話を聞く姿勢となる。それでは,どうしても部下側は,聞いてもらう立場であり,言い訳する立場になる。そういう会話のスタイルをしている限り,話をしにくいし,聞きにくい。そこで,部下の「したこと」,「発言」「報連相」「成果」そのものを,ちょうど提出された企画書を前にして,一緒に企画そのものを検討するように,部下と一緒に「したこと」,「発言」「報連相」「成果」をテーマ,上位者と下位者が一緒になって眺めている関係がほしい。二者関係から,そういう三角形の関係にすること。そうすることで,聞く側も,部下という属人性を 離して検討しやすくなる。また聞く側が,相手に巻き込まれて,同情したり,一体化したりするのを妨げるのにも有効になる。

とある通りだ。

僕はそう意識していたわけではないが,そのつもりだったと思う。そうすることで,それぞれは別の土俵にいながら,そのテーマ,案件について語るという意味で,共通の土俵に立つことになる。

しかし,相手はそうではなく,あくまで,

トップという立場から,

僕や僕の仕事の中身を主題にしたいらしいのだ。そうなれば,当然,トップは,トップの土俵の,是非判断に基づいて,僕や僕の仕事の可否を云々することになる。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod064301.htm

で言う通り,主導権を譲る気はなかったということだ。そうなれば,噛み合うはずはない。

似たことは,その後もう一度,別の会社で,やはりトップとの間であったが,共通するのは,僕は,事の是非を論じる場合,上下関係を無視して,ただその案件だけについて,可否を云々するという傾向が強い。それは,相手がトップである場合,結構カチンとくる姿勢らしい。トップという立場を斟酌しないと受け止めるからだ。まあ,上が言ってるんだから,聞けよ,ということに過ぎない。しかし,案件自体の可否を論ずるということでは,対等でしかないし,そうでなければ,結論先にありきになる。

そういう考えは上から見る目線では,権威や権限に挑戦している,と映るらしい。

ただ,面白いことに,二度とも,人も,相手も違うが,直属の上司は,僕の言っていることを諒としていたことだ。しかし,トップがノーと言えば,ノーでしかない。この辺りは,不思議なことが起きる。

それにしても,衝突は,相手に起因するというより,僕の姿勢に起因する。

僕のコミュニケーションスタイルそのものなのかもしれない。是非はともかく,たぶん性格に因る。

いまでも,この基本的な立ち位置はあまり変わらない。しかし,もう少し,言葉,というか言い回しは,柔らかくなっているはずだが…!



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


#衝突
#二者関係
#三者関係
#土俵


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2014年01月14日

異議



清水昭三『西郷と横山安武』を読む。

著者は,あとがきで書く。

対朝鮮とのかかわりの中で,今なお正視すべきはあの国是の如きかつての「征韓論」である。またこれを行動として実現してしまった「韓国併合」とその消えぬ波紋のことである。けれども,こうした日本人としてまことに恥ずべき思想や行動を可とせず,抗議の諌死を遂げた人物が,たった一人存在していたのは,なんという救いであったろう。その人物こそ草莽の士で,西郷隆盛と生き方としては対照の関係にあった横山安武である。彼はわが国最初の内閣総理大臣伊藤博文の初代文相森有礼の兄でもあった。
横山安武は,唯一,日本人の良識である。彼こそ幕末維新を生きた真の知識人だったのである。

いまもなお,薩摩藩士,横山安武の抗議の建白書は,現代日本をも鋭く刺し突く槍である。いまなお,嫌韓,ヘイトの対象にして,言われなく他国を侮蔑する者への,無言の刃である。

読めばわかるが,建白書は,維新政府そのものへの痛烈な批判になっている。五箇条の御誓文に反する,政府の施策,政治家の生きざまへの,真摯な怒りである。これもまた,今に通ずる。150年たっても,未だに,維新はなっていない。

五箇条の御誓文はいう,

広く会議を興おこし,万機公論に決すべし

上下心を一にして,盛に経綸を行ふべし

官武一庶民に至る迄,各の其の志を遂げ,人心をして倦ざらしめん事を要す

旧来の陋習を破り,天地の公道に基づくべし

知識を世界に求め,大おおいに皇基を振起すべし

と。

これと比較しながら読めば,彼が何に絶望していたかが,見えてくる。

では安武はどんな建白書を書いたのか。明治3年である。

方今一新の期,四方着目の時,府藩の大綱に依遵し,各々新たに徳政を敷くべきに,あにはからんや旧幕の悪弊,暗に新政に遷り,昨日非とせしもの,今日却って是となるに至る。細かにその目を挙げて言わんに,第一,輔相の大任を始め,侈糜驕奢,上,朝廷を暗誘し,下,飢餓を察せざるなり。
第二に,大小官員ども,外には虚飾を張り,内には名利を事とする,少なからず。
第三に,朝礼夕替,万民古儀を抱き,方に迷う。畢竟牽強付会,心を着実に用いざる故なり。
第四,道中人馬賃銭を増し,かつ五分の一の献金等,すべて人情情実を察せず,人心の帰不帰に拘わらず,刻薄の処置なり。
第五,直を尊ばずして,能者を尊び,廉恥,上に立たざる故に,日に軽薄の風に向かう。
第六,官のために人を求るに非ずして,人のために官を求む。故に毎局,己が任に心を尽くさず,職事を陳取,仕事の様に心得るものり。
第七,酒食の交わり勝ちて,義理上の交わり薄し。
第八,外国人に対し,条約の立方軽率なるより,物議沸騰を生ずること多し。
第九,黜陟の大典立たず,多くは愛憎を以て進退す。春日某(潜庵のこと)の如き,廉直の者は,反って私恨を以て冤罪に陥る数度なり。これ岩倉(具視)や徳大寺(実則)の意中に出ずと聞く。
第十,上下交々利を征りて国危うし。今日在朝の君子,公平正大の実これありたく存じ奉り候。

そして,別紙を添える。ここに安武の満腔の思いがある。全文を載せる。

朝鮮征伐の議,草莽の間,盛んに主張する由,畢竟,皇国の委糜不振を慷慨するの余,斯く憤慨論を発すと見えたり,然れ共兵を起すに名あり,議り,殊に海外に対し,一度名義を失するに至っては,大勝利を得るとも天下萬世の誹謗を免るべからず,兵法に己を知り彼を知ると言ふことあり,今朝鮮の事は姑らく我国の情実を察するに諸民は飢渇困窮に迫り,政令は鎖細の枝葉のみにて根本は今に不定,何事も名目虚飾のみにて実効の立所甚だ薄く,一新とは口に称すれど,一新の徳化は毫も見えず,萬民汲々として隠に土崩の兆しあり,若し我国勢,充実盛大ならば区々の朝鮮豈能く非礼を我に加へんや慮此に出でず,只朝鮮を小国と見侮り,妄りに無名の師を興し,萬一蹉跌あらば,天下億兆何と言わん,蝦夷の開拓さへも土民の怨みを受くること多し。
且朝鮮近年屡々外国と接戦し,顧る兵事に慣るると聞く,然らば文禄の時勢とは同日の論にあらず,秀吉の威力を以てすら尚数年の力を費やす,今佐田某(白茅のこと)輩所言の如き,朝鮮を掌中に運さんとす,欺己,欺人,国事を以て戯とするは,此等の言を言ふなるべし,今日の急務は,先づ,綱紀を建て政令を一にし,信を天下に示し,万民を安堵せしむるにあり,姑く蕭墻以外の変を図るべし,豈朝鮮の罪を問ふ暇あらんや。

震災の復興,福島のコントロールがいまだしなのに,と考えると,そのまま今日に当てはまる。

信を天下に示し,万民を安堵せしむるにあり,姑く蕭墻以外の変を図るべし,豈朝鮮の罪を問ふ暇あらんや,

は,今のわれわれを突く刃である。

ふと思い出したが,マザー・テレサの講演を聞いて感動した日本の女子大生が,マザーに「私もインドに行き貧しい人の為に働きたい」と伝えたそうです。マザー・テレサの返事は,「日本にも貧しい人,苦しんでいる人はいます。目の前で苦しんでいる人を助けてあげてください」というエピソードが,胸に迫る。隗より始めよ,である。

明治5年,西郷隆盛は,安武の碑文を書いた。

朝廷の百官遊蕩驕奢して事を誤る者多し。時論囂囂たり。安武乃ち慨然として自ら奮って謂う。王家衰頽の機此に兆す。臣子為る者,千思万慮以て之を救わざるべからず。然して尋常諌疏百口之を陳ずと雖も,力矯正する能わざれば,則ち寸益無きのみ。一死以て之を諌めんに如かず,

しかし,淡々としたのこ文は,他人ごとに見える。西郷は当事者であったにもかかわらず,である。

その西郷隆盛自身が,翌年征韓論に敗れ,7年後城山で自害するのは,皮肉である。

それにしても,いつから,義を重んじなくなったのか。義を見てせざるが士なら,義を失ったものに,士という言を使うこと自体がおこがましい。横井小楠の理想はどこに消えたのか。

堯舜孔子の道を明らかにし,
西洋器械の術を尽くさば,
なんぞ富国に止まらん,
なんぞ強兵に止まらん,
大義を四海に布かんのみ,

といった気概と希望が満ち満ちている横井の夢を泥まみれにして,大義なき国に貶め,他国を塗炭の苦しみに陥れても,少しも惻隠の情すらなく,他国を侮って悔いなきものどもの国にしてしまい,またしつつある,この国に,

どんな,「天地の公道」があるのか。

どんな,振起すべき「皇基」があるのか。

今上天皇の心に,少なくとも,それがあることが,わずかな救いでしかないとは,情けなく,恥ずかしい。




参考文献;
清水昭三『西郷と横山安武』(彩流社)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#横山安武
#清水昭三
#西郷と横山安武
#森有礼
#西郷隆盛
#横井小楠
#五箇条の御誓文

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2014年01月15日

芸術の脳



酒井邦嘉編『芸術を創る脳』を読む。

編者の酒井邦嘉氏については,『言語の脳科学』について,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11237688.html

で触れたことがある。言語脳科学の専門家である。その著者が,本書の意図を,

ふたつの意図を込めた。それは,芸術家一人一人が持つ独自の頭脳」と「芸術を生み出す人間一般の脳機能」を明らかにすること,

と述べる。そのための手法として,各分野で活躍中の,

曽我大介(指揮者,作曲家)
羽生善治(棋士)
前田知洋(クロースアップ・マジシャン)
千住博(日本画家)

との対談という方法を取り,

芸術を創っていく過程や創造的能力の秘密

を探ろうとしている。それを,

人間が芸術を生み出す能力は,より基本的な言語能力と密接に関係していると思われる。そこで,芸術に関する興味深い問題を,私の専門である「言語脳科学」を手がかりに考えることにした,

というわけである。是非の判断は,読んでいただくほかないが, 読んでみての私的印象では,

ひとつは,言語の専門家である小説家あるいは詩人が対象にいないこと,
いまひとつは,どうしても対談の散漫さ(会話は受け手に左右される)を免れず,掘り下げは不十分であること,

二つの憾みを残す。それと,ないものねだりかもしれないが,たった一人を相手にした方がよかったという印象をぬぐえない。

ただ,「言語を芸術と置き換えても整合性が取れる」と,上記の『言語の脳科学』について,千住氏が言及していることと,「言語は人間の言語機能を基礎にする」という著者の仮説からいうと,あえて文学者を設定する必要はなかった,ということかもしれないが。

さて,対談者ごとに共通項を拾い上げていくのは,素人には手に余るので,各対談者について,ちょっと引っかかったところを取り上げて,読んでみたいと思ってもらえれば「よし」としたい。

「(間宮芳生先生から伺ったところでは)作曲中にインスピレーションが沸きだしてくる瞬間というのがあって,その瞬間はあらゆることが理路整然と素晴らしく順序立てて頭の中に湧き出してくるそれが止まらなくなって書き続けるのです。それなのに,例えば,ベートーヴェンの時代だったら,女中が「だんな様,ご飯ができましたよ!」とやってくる。そうすると集中力がプチッと途切れてしまいます。(中略)その瞬間に途切れてしまったものを,後からつなぎ合わせる必要が出てきます。そのつなぎ目がどの作品にもあるというのです。
そのとき私はよくわからなかったのですが,いざ自分が作曲をするようになったら,その意味がとてもよくわかるようになりました。そうしたら,ほとんどの曲に継ぎ目がみえてくるわけで,そこに何らかの無理が残っているのです。」(曽我大介)

これは,ある意味,意識の流れを言語化(コード化)しているまさにその瞬間のことに他ならない。言語は,意識の1/20から1/30のスピードしかない。その集中している最中に途切れると,意識の流れは,遠ざかり,消えてしまう。後からは再現不能の,瞬間の,今しかない。そのことは,拙い経験でもわかる。思っていることを言語化しようとしている時に,他に気を取られると,その思いの方が消えて行く。

「将棋でもたくさんの手が読める,よく考えて計算できるという能力はもちろん大事なのですが,もっと大切なことがあります。それは,『この手はダメだ』と瞬間的にわかることです。(中略)プロ棋士は,アマチュアの高段者より10倍も100倍もたくさんの手が読めるわけではなくて,読んでいる手の数はほとんど同じくらいでしょう。それでも,バッと見たときに選んでいる手がたぶん違う。」(羽生善治)

その能力は,目利きだが,それは理屈ではない。たぶん手続き記憶による。10歳くらいまでに「体内時計」のように体に組み込まれた,将棋のセンスのようなものらしい。だからといって英才教育が成功するとは限らない。「好き」で「面白い」「やりたい」が必要なのかもしれない。

棋士は,対戦した全体を再現できるが,それについて,羽生さんは,こう言っている。

「それは歌や音楽を覚えるのとまったく同じでしょう。最初の数小節を聞いたら,誰の歌かとか何の音楽家がわかるのと同じで,将棋も慣れてくると『あっ,この局面は矢倉の一つの展開だな』とか,「これは振り飛車の将棋だな」とわかってきますよ。
音楽でも一つ一つの音符をバラバラに覚えているわけではなく,メロディーやリズムのまとまりを聴いて認識しますね。それと同じで,ひとつひとつの駒の配置を覚えているのではなくて,駒組みのまとまった形や指し手の連続性から捉えているのです。」

これって,どこかの研修で教わった,記憶術と似ている。つながりに意味があれば,全体の時系列が一気に蘇る。

「マジックを創作するときに,…複雑怪奇なものになってしまうことがあります。でも明確な言語化できない限りは,たとえ自分がとても気に入ったものであっても,あまり良いマジックではない。(中略)第二に,私にとってマジックとは『対話(ダイアローグ)』です。マジックの台詞を考えるとき,お客さんとキャッチボールするように構成していきます。…私はこのようなスタイルを『呼吸型』と呼んでいます。」(前田知洋)

だからこそ,前田さんは,ロベール・ウーダンを引いて,「人はただ騙されたいのではなく,紳士に騙されたいと思っている」と,言う。そしてこんな逸話を紹介する。

二人の絵描きが腕を競う話です。…それぞれの絵が宮殿に持ち込まれます。一人目がキャンバスを覆う布を取ると,見事な葡萄が描かれてましたすると,窓から鳥が入って来て,その絵の葡萄をつたのです。その絵を描いた画家は意気揚々として,「どうだ,鳥の目も騙すような葡萄を描いた自分は,この国一番の絵描きだ」と言って,もう一人の絵描きに「どんな絵を描いたのか,その布を取って見せろ」と迫りました。迫れた絵描きは何もしようとしません。その絵は,なんとキャンバスを覆う布を描いたものだったのです。「動物を騙す絵描き」と「絵描きさえも騙す絵描きという発想がおもろいでしょう。

落語の「抜け雀」を思わせるエピソードだ。もちろん,前田氏は,内輪受けのあざとさを自覚したうえで,あえて紹介している。マジシャンの矜持と受け止めていい。

「芸術は,何も人がびっくりするようなことではなくて,皆が忘れてしまっていること,忘れているけれども人々が必要とすることを提案できるかどうかで真価が問われるのです。」(千住博)

それを「切り口の独創性」と呼ぶ。そこが,その人とのオリジナルなものの見方だからだ。あるいは,認知の仕方といってもいい。いわば,自分の方法を見つけるとは,ものごとへの切り込み方を見つけることだといっていい。それが,各主題ごとに様々に横展開していくことになる。だからこそ,

「実は芸術は,とても簡単なことをやっているのです。『私はこう思う。みなさん,どうですか』と問いかけているのです。」

と。だから答えではなく,「わからない」という感想もまた一つのメッセージなのだ。ということは,すべての生き方,がそこに反映する。いや反映しなくてはならない。

「私たち絵描きは,アトリエに入ったときには,もう勝負がついているのですよ。アトリエに入って,『さあ,何を描こうか』というのでは手遅れなのです。」

ジムで運動しているとき,散歩しているとき,食事しているとき,常住坐臥,すべてが準備と予習であり,すべてが,無駄ではない,

人生に無駄なし(大阿闍梨 酒井雄哉)

なのであり,

「人生そのものが製作のプロセスでもあって,毎日何を食べて,誰と話をして,どんな本を読むかということが大切なのです。」

美しい絵を描きたかったら,美しい人生を過ごせ,

ということに尽きる,と。自分の人生,生き方,が自分のリソースなのだということだ。

ところで,最後に,脳と芸術に関わるエピソードを二つ。

認知症の人と羽生さんが将棋を指したとき,盤面が理解できていた,という。そして,次の指し手をちゃんと考えていたのだ,という。

もうひとつ,認知症の人にマジックを見せたところ,健常者と変わらぬ反応を示した,という。

人間的な脳の高機能が保たれているのだ,という。僕は,ふと思い出したが,脳溢血で倒れた人が,意識しして笑うことはできなくなった。しかし,確かV.S.ラマチャンドランの本で読んだ記憶があるが,おかしい漫才のようなものを聞くと,自然に笑みがこぼれたのだ,というエピソードを。

人の脳の奥深さは,まだまだ分かっていない。失われた意識レベルの奥に,まだ知られぬ機能が生きているということらしい。

参考文献;
酒井邦嘉編『芸術を創る脳』(東京大学出版会)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





#酒井邦嘉
#芸術を創る脳
#曽我大介
#羽生善治
#前田知洋
#千住博
#芸術
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2014年01月16日



士が士であることを許されるのは,

二本差し

であるということだ。一本なら,長ドスを差したヤクザ,渡世人と変わらない。士が士であるとは,脇差を指している,ということだ。それは,自分を裁く刀を持っている,という意味でなくてはならない。だから,士には切腹が許される。でなければ,士が無職渡世と変わらぬ暮らしをしているだけの無駄飯食い,寄生虫と変わらない。

戒め,

である。自戒あっての士である。

士とは,志あるものをいう。

士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己れが任となす,亦重からずや。死して後已む。亦遠からずや

ならば,

約を以て失(あやま)つもりは鮮(すく)なし

と。つまりは,

日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか,朋友と交わりて信ならざるか,習わざりしを伝えしか,

である。何度も例示する,五省は,

一,至誠に悖る勿かりしか
一,言行に恥づる勿かりしか
一,気力に缺くる勿かりしか
一,努力に憾み勿かりしか
一,不精に亘る勿なかりしか

本来自省を促しているはずである。だから,日本を占領したアメリカ海軍の英訳文をアナポリス海軍兵学校に掲示したのだと思う。それを忘れれば,夜郎自大に過ぎない。

志士仁人は生を求めて以て仁を害することなく,身を殺して以て仁を成すことあり

自己責任とは,ある意味自戒と自制をもつ者のことだ。その意味では,有言実行とは,

言は必ず信,行は必ず果,

でなくてはならない。だから,

仁を為すは己れに由る

のである。

それゆえ,士道とは,

暴虎馮河し,死して悔いなき者,

ではない。士道の「士」とは,

子曰く,士にして居を懐うは,以て士と為すに足らず

で,貝塚茂樹氏曰く,ここで言う士は道を求める同士の意味が強い。理想の実現できる国を求めてどこへでも出かけなくてはならない。故郷にしがみついていてはいけない,と。

「士」とは,「志」のために,「私心」を捨てるもののことだと思う。とすれば,それは,腕力でも,膂力でもない。まして武力でもない。

必要なのは,心映え,

である。それは,ただおのれの胸中にある。僕の記憶では,横井小楠は,

士道とは,ここにある,

とおのれの胸を拳で叩いた。そのことである。

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)


今日のアイデア;
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#貝塚茂樹
#論語
#横井小楠
#五省

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2014年01月17日

ありがとう



この何年か,できるだけ,

ありがとう,

というようにしている。これは,関西の友人が,何につけても,

ありがとう,

というのが口癖なのを見倣ったまでだが,よく考えれば,アメリカ映画でもドラマでも,

Thank you.

を必ず口にするのと同じで,口癖になると,まあ,言い方は悪いが,心が籠っていなくても,口だけは出る。

Thank

は感謝する,という意味のようだが,

ありがとう,

は,

有り難い,

から来ている。

有り勝ち

ではなく,

めったにない,

ありそうもない,

からこそ,ありがたいのではないか。だから,

礼の意味で,

忝(かたじけな)い,

に通じる。かたじけないは,

面目ない,

恥ずかし,

からきていて,だからこそ,その好意が,

身に染みる,

となる。

そこからかどうか,

有り難い,



在り難い,

と書けば,在りえない,珍しい,につながり,

めっそうもない,

もったいない,

恐れ多い,

尊い,

に通じていくのかな(かどうかは妄想だが)。有り難いだけでも,なかなか考えさせられる。

こう考えると,当たり前のことに,

ありがとう,

といちいち言うのは,いかがかとも思うが,有り難く感じて謝意を表する,という感謝の表現で,無駄はないのだろう。要は,

お蔭様,

ということにつながる。まあ,大袈裟に言うと,

生かされてある,

ことへの,感謝ということになる。




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#有り難い
#在り難い
#ありがとう
#感謝
#お蔭様
#忝い

posted by Toshi at 06:39| Comment(0) | 感謝 | 更新情報をチェックする

2014年01月18日

主客



先日,「マインドフル・コーチング リスニング編」(ファシリテーター:福島規久夫コーチ)に参加してきた。

https://www.facebook.com/events/585652598172083/?ref=2&ref_dashboard_filter=upcoming

マインドフル(mindful)は,意味的には,

(…を)心に留めて,忘れないで
(…であることに)注意して,(…であることを)忘れないで

となる。瞑想,坐禅由来らしいので,自分の内側に注意を向ける,と言ったところになるだろうか。

いただいたレジュメには,

マインドフルネスとは,意図的に今の瞬間に,価値や判断とは無縁に注意を払うこと。

マインドフルネスとは,自分の意識を今の現実に敏感に保つこと。

マインドフルネスとは,物事をあるがままに受け容れ,現在の瞬間に,価値判断を加えずに,注意を向けることによって現れる意識=気づきのこと。

といくつかの定義が紹介されている。

キーワードは,

いまここ,

あるがまま,

受け容れる,

ということだろう。受け入れる,というのは,ロジャーズの自己一致,

自由にかつ深く自分自身であり,現実に経験していることが,自分自身の気づきとして正確に表現されていなければならない,

を思い出す。つまり,自分の中に起きていることを正直に自覚し,

正確に自分自身であり,…セラピーのこの瞬間においてありのままの自分,

であること,ということに通じる。それは同時に,クライアントについても,

クライアントを自分とは別個の一人の人間として,自分自身の感情,自分自身の経験を持つことを許されている人間として好きになるということである,

という,いわゆる無条件の肯定的配慮につながる。

そして,いまここ,については,帰り道,ふいに,邯鄲の夢を思い出した。例えば,ネットの紹介は,こんなふうだ。

趙の時代,廬生という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ,趙の都の邯鄲に赴く。廬生はそこで呂翁という道士に出会い,延々と僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。するとその道士は夢が叶うという枕を廬生に授ける。そして廬生はその枕を使ってみると,みるみる出世し嫁も貰い,時には冤罪で投獄され,名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり,運よく処罰を免れたり,冤罪が晴らされ信義を取り戻ししたりしながら栄旺栄華を極め,国王にも就き賢臣の誉れをほしいままに至る。子や孫にも恵まれ,幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず,多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。ふと目覚めると,実は最初に呂翁という道士に出会った当日であり,寝る前に火に掛けた粟粥がまだ煮あがってさえいなかった。全ては夢であり束の間の出来事であったのである。廬生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い,故郷へ帰って行った。

まさに一炊の夢である。いろんな解釈があるが,結局いま,ここの自分を省みず,遠くに見果てぬ何かを見て,いまとここを見落としていた,という言い方もできる。

しかし,もし盧生がクライアントだったとしたら,どう盧生その人を見守るのか。自分といまに不平不満の人に,何を気づいてもらえばいいのか。夢が実現した状態からアプローチするのか,それはどんな楽しいことなのか,と。あるいは夢を実現するための手段を,そのためのリソースをリストアップするのだろうか。

しかし,呂翁は,盧生の夢が実現した状態を,とことん味あわせた。ソリューション・フォーカスト・アプローチのミラクルクエスチョンのようだ。しかし,普通,それを味わって,その夢を捨てるという選択肢はない。そのためのミラクルクエスチョンではないからだ。

しかし呂翁は,ただその一生分の夢を味わわせることによって,盧生に気づきを与えた。呂翁は,一言も,盧生の夢も,盧生その人をも,批判していない。質問すらしていない。しかし,盧生は,気づき,納得し,自分の「いま」「ここ」へ帰っていった。

ここに,究極の,コーチングを含めた,(E・H・シャインの言う,援助関係に携わる)プロセス・コンサルテーションがある気がする。

いま,ここに集中するというのは,コーチングでいえば,いま目の前にいる,一瞬一瞬のクライアントの,

ありよう,

息遣い,

振舞い,

言動,

身振り手振り,

等々に,興味と関心を持って,いわゆる「好奇心」を持って注視することだ。それをレジュメでは,

マインドフルな状態,つまり,いまこの瞬間にしっかり気づけていて,あるがままなすがままに,起きていることに価値判断を加えずに注意を向けて見守っている状態でコーチをすること,

をマインドフルなコーチングであると。ともすると,コーアクティブでも,

レベル1(矢印が自分)
レベル2(矢印が相手)
レベル3(矢印が全体)

という言い方をしている。そのとき,あるがままの,相手自身に関心を向けている,というのは,言ってみると,レベル2の状態といっていい。

たとえば,そのとき,

エネルギーが高いですね,

嬉しそうですね,

言葉と振る舞いがぎくしゃくしているように見えますね,

という言い方をするだろう。

僕は,直感を無意識で連発するが,それは,

レベル2

のそれだ。つまり,youメッセージなのだ。無論,それもありだが,今回のワーク(レーズン・ワークショップや感じるワーク)を通して,主客の矢印を少し変えてみたほうがいい,という気がした。

つまり,相手が嬉しがっているのを見て,感じた自分の,

身体の,

心の,

感情の,

反応を意識し,それを返す,ということだ。たとえば,

あなたが喜ぶのを見ていて心の中に暖かいものを感じました,

あなたの言葉をうかがっていてすごく違和感を感じました,

あなたの振る舞いに,体の中で黒くわいてくる不快感を感じました,

等々。これは,フィードバック(のIメッセージ)とは微妙に違う。相手に見た,

振舞い,

言動,

テンポ,

エネルギー,

等々を,Iメッセージやyouメッセージで返すのではない。相手を見て,自分の中で起こった,

体感覚,

感情,

心の動き,

等々を返す。それは,レベル2の相手を客体として観察するのではない,相手との関係の中で,私の中で起きたことを,レベル1で認めて,感じて,返す。

このとき,僕は,微妙なことが起きていることに気づく。

レベル1→レベル2→レベル3

を言っているときは,コーチは,クライアントと対等にならなければならないから,そう自制する。しかし,自分の中に起きていることを返しているとき,そういう関係はない。むしろ,

相手に感応し,
共振れし,
共鳴し,
反発する,
揺さぶられる,

自分を見つめて,表現している。コーチ-クライアント関係は,その

照り返し,

リフレクションによって,リ・リフレクションが起き,それに反照して…,という関わりになる。

それが,つながる,のではなく,

つながっている

という感覚なのかもしれない。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#マインドフル
#マインドフルネス
#コーチ
#コーチング
#コーチ-クライアント関係
#マインドフル・コーチング
#ソリューション・フォーカスト・アプローチ
#ミラクルクエスチョン
#ロジャーズ
#邯鄲の夢
#E・H・シャイン
#プロセス・コンサルテーション
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2014年01月19日

文脈



コンテクスト(Context)である。それこそ,その文脈により「脈絡」,「状況」,「前後関係」,「背景」などとも訳される。

コンテクストについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11239628.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11131407.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10996546.html

等々で直接間接に触れた。いわば,理解をしあう,コミュニケーションを取るときに,同じ土俵に立てるかどうかは,コンテンツレベルではなく,その文脈に依存する,ということだ。たとえば,

さようなら,

は,左様なるわけですからお別れします,をつづめたものだが,「左様なる」が共有できる関係性の中にいるから,

さようなら,

が,

じゃあね,

でも,

またね,

でも通じる。

しかし,僕の場合,とっさに浮かぶのは,ひとつは情報にかかわる。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod05111.htm

にも書いたが,

情報には,コード情報と,モード情報がある。

コード情報は,言語化できる情報。モード情報は,文脈。一般化されにくい,そのとき,その場所で,その人が,といった文脈や状況に拘束された情報ということになる。

別の言い方をすると,コード情報は,認知系,モード情報は,情動系。だから,コード情報はデジタル,モード情報は,アナログということになる。

モード情報は,いわば,質感やニュアンス,手触り,におい,と言った,コード情報からはそぎ落とされる部分になる。しかし,コード化できる,あるいは言語化できるということは,俯瞰,あるいは一般化されるということで,それ自体のもつ,個別性,特別性,一回性が消える。

文脈と言ったとき,実は,もう一つ思い浮かぶのが,アイデアを考えるときの構造だ。

人が,モノやコトと向き合って,

まずはモノやコト自体についてアイデアを考える。

もうひとつは,モノやコトとのインターフェイスというか使い勝手を考える。多く改良型だ。

しかし,アイデアには,もう一つある。それが文脈だ。

この文脈にはいろんなニュアンスが含まれる。例えば,

使っているシチュエーション,

使っている場所,

使っている時間,

等々があるが,これだとインターフェイスのニュアンスが強くなる。ここで言いたいのは,例えば,傘というのを考える。傘には,洋傘と和傘で少し開かせ方に違いがあるようだが,発祥以来形はほとんど変わらない。







の三点セットは,折り畳み傘なっても,ビニール傘になっても変わらない。それは,

雨という状況で濡れないようにする,

雨の降らない時に邪魔にならないようにする,

等々の使い勝手の工夫から考えるからだ。しかし,

雨そのものがなくなるか,

雨に濡れなくする,

なら,傘はいらなくなる。例えば道路にすべて屋根をつけるとか,地下にするとか等々。ここでいう文脈とはそういう意味だ。そういう視点を持つと,発想の視点ががらりと変る。

それは,コンテンツレベルだけでなく,コンテクストを考えることで,発想が変わる,というのに近い。

コンテクストのすり合わせというのが,演劇において使われているらしい。

劇のあるシーンで,役者Aは自分の演じるキャラクターが,そのシーンで怒っているのだと思い,共演する役者Bは,役者Aの演じるキャラクターは,悲しんでいるものだと考えたとする。こんなギャップはあまりないが,このままでは,ふたりの演技は食い違う。それを事前に,一致させる作業を指すらしい。

コンテクストは,ことほど左様に,微妙なのだ。同じ脚本という文脈にいても,それぞれそこから汲み取るニュアンスが違う。

よく思うのだが,ロジカル・シンキングは,論理の筋道の整合性を取る。しかし,論理は正しくても,現実との整合性が取れないことがある。だから,問題解決はロジカル・シンキングだというのを信じない。論理があっても,現実は,動かない。人は,アナログで,それぞれ別々の文脈に生きている。問題解決は,最後は現実に合わせて,論理を曲げなくてはならない。そこが,人の世界を解決することのむずかしさなのだ,と思う。

だから,同じ文脈にいるからといって,同じ関係性を保つとは限らない。いま日本という文脈にいながら,人は,全く別の夢を見ている。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#コンテクスト
#コンテンツ
#文脈
#情報
#ロジカル・シンキング
#コード情報
#モード情報

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2014年01月20日

返す



先日,JCAKの「マインドフル・コーチング」(吉田典生コーチ)に参加してきた。

マインドフルについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11420982.html

で触れたが, 吉田コーチは,マインとフルを,こう定義している。

今,この瞬間の自分の意図,行動,感覚に意識を向け,その状態を保ち続けること。

それを,たとえば,

いま,ここにいると意図する→呼吸に意識を向ける→起きていることを認知し,味わう→評価や判断をせず手放す→

という循環の中で,瞑想する。たとえば,3分5分7分8分,とワークをすることで,自分なりに体験する。

本題と関係ないが,この瞑目して自分の中に意識を向ける作業は,ある意味,皮肉なことに,結果として自分の意識の流れに注目する状態になっているといっていい。そして実はこの状態は,もっともアイデアが生まれやすいのである。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11393394.html

でも,そのことに触れたが,ぼおっとしている三上(厠,馬,枕)でぼんやりしている時が,意識が何かに拘泥しないで,ある意味,覊絆から,つまりトンネルビジョンから解かれて,浮遊している状態になる,それは,視点フリーの状態といっていい。だから,こだわっていた視点や視界や価値がとかれることで,意外なものとリンクし,着想を得やすい。もちろん,それまで持続している問題意識があれば,という前提だが。

閑話休題。

さて,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11420982.html

で,クライアントに対して自分のうちに起きることに注意することで,共振するということを言ったが,このワークショップを受け,さらに何人かとシェアをしあっている間に,気づいたことがある。

この場合,言葉として,それを返すかどうかは別に,クライアントのいま・ここでの振る舞い,言動に,いま反応する自分に着目する,ということは,(クライアントへの)反応の仕方としては,

ひとつは,自分の中で起きていることを率直に言語化して返す,

というのが確かにあるが,いまひとつは,

その自分の中の状態を受け止め,それを振る舞いとして返す,

在り方として,そのまま返す,

ということがあるのではないか。

自分がいま・ここにある自分の状態を受け止めといるという,自分のありようそのものが,

相手への照り返しなのであり,それがそのまま,相手への,

質問になっている,

フィードバックになっている,

承認になっている,

認知になっている,

受容にっている,

という返しなのである。それは,頷きにしても,表情にしても,身振り手振りにしても,佇まいそのものにしても,それをきちんと受け止めましたよ,として,

そこにある,

ということである。これが,いわば,

Dancing in this moment

そのものなのではないか,という気がしてる。だから,クライアントと一緒にダンスするというのは,ただ,クライアントの言動に反応して,つきあうということとではない。

その言動に,自分の中に違和感があれば,立ち止まるか,うずくまるかもしれない,

それは,クライアントのいま・ここと一緒にいるからこそ,それに反応して,共振れして,生じる反応だ。

その意味で,コーチが,いま・ここにいる状態であることで,理屈で言うと,

一瞬いま・ここにいなくなるクライアントを,いま・ここに引き戻すアンカーでもある,

ということになる。それは,言葉レベルだけではわからないかもしれない。クライアントの身体の表情,声の表情,顔の表情,あるいは言葉の表情から反応することなのかもしれない。

その違和感の表現が,

クライアントのいまの状態への照り返しとして,伝わるかもしれない。

もちろん,その自分の感応が勘違いということはある,そこが問題なのではない。

違えば,違という反応が,そういうニュアンスを帯びて返ってくる,それを感受すればいいだけのことだ。

コーチ-クライアント関係という,いま・ここの場にいる自分が,いま・ここにある自分の状態に対しての感度が高ければ高いほど,クライアントのいま・ここに感応し,二人の感応しあう,照らし合う場ができる,ということなのだ。

ま,まだまだ,いま・ここの自分のレベルでは,もっと自分の感度を上げなければ,ただの勘違いの連発になりかねないが…!





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#マインドフル
#マインドフルコーチング
#吉田典生

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2014年01月21日

笑い


らくごカフェで,柳家一琴師匠の落語を三席うかがってきた。

常々思うが,人は,どこで,笑うかは一様ではなく,確かにおかしいが,それほどでもないところに,反応する人もいれば,その場がどっと反応するのに,自分は,それほどでもなく,つられて,笑うということもある。

笑いというのは,その場にいると伝播する,というところがある。あくびも伝わるが,それとはちょっと違う。あくびは,その場を共有している何人かに,伝わるが,その伝わり方は,場の共有の深さに比例する。どういうか,くつろぎ感というか,安心感というか,心のほのぼの度を共有している感じである。

笑いの伝播は,笑いの漣に,渦に,波に,飲み込まれる,という感じである。場そのものが笑っているというか,笑いを促すところがある。主体は,「場」のように思う。だから,「場」が重要なのだと思う。

ある意味,その場にいる人が,落語家(この場合一琴師匠)の噺を聴きに来ている,という状態。いわば,耳になっている。

それはレディネス状態といっていい。

http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8D%E3%82%B9

によると,レディネスとは,

ある行動の習得に必要な条件が用意されている状態をいう。これが,特に学習のレディネスとも呼ばれる概念の定義である。 そして必要な条件としては,身体や神経系の成熟,すでに習得している知識や興味,態度などが想定されている。あることがらの習得に,学習者の身心の条件が準備されているとき,すなわち一定のレディネスが成立していれば,学習者は,その学習に興味を持ち,進んでこれを習得しようとし,学習の効果をあげることができる,

と。つまり,程度の差はあれ,落語とはどういうものかということを弁え,噺を聴くことはどういうことかが了解できている,いわば,

笑い,

を期待して,そういう構えで,その場にいる。つまり,笑う準備はできているのである。

言い方は悪いが,笑いの臨界点に達している。だから,ちょっとしたことでも笑いが起きやすい。そこで笑いに共振れすること自体が,そこにいる,その場そのものにいることの共有のように感じる。もしも,何か,自分に笑えないことがあって,場の笑いから取り残されると,なんとなくさびしく感じる,そういう場になっている,ということだ。だから,場の笑いに身をゆだねて,ひととき,おのれを解き放つ。

噺家は,

ひとりで何役も演じ,語りのほかは身振り・手振りのみで物語を進め,また扇子や手拭を使ってあらゆるものを表現する,

ことで,聴衆の想像力が物語の世界が広げていくのを支える。だから,師匠が,たとえば,ただ表情だけで,ただを捏ねる子供の反応を演じているとき,客観的にみれば,ふた色にわかれる,

子どもと一体になって口元を歪めているか,

父親と一体になって困惑した表情になっているか,

いずれも,ただ身振りと声色だけで演じられている世界の向こうに,噺家ではなく,噺家の描く噺の世界にどっぷりつかっている。にもかかわらず,それを笑うとき,

その世界と一体になっていては笑えない。その場の,

滑稽さ,

は,それを判別するもう一つの目があるから,笑える。子供の仕草を笑うには,それがおかしいと思うには,それを第三者として見る位置からでなければ,おかしいとは感じない。しかし,一方で,子どもの身振りとシンクロして口をゆがめている。

とすると,観客は,複雑な意識の動きをしていることになる。

一方で,噺家の身振りに一体化して,演じられている子どもと一体化した表情になりつつ,

他方で,その身振り手振りの滑稽さを,第三者の目(観客)の目で観る視点も持っている,

映画でも演劇でも,似たことは起きているが,落語では,噺家の語る言葉以外に,噺の世界はどこにも現前していない。つまり,それを聴く観客の人の心の中にだけ描き出されているのである。

それだけに,一方で,世界に一体化し,他方で,それを観るという意識の行きつ戻りつが,際立つ。

もちろん持っている言葉によって,人は見える世界が違いうから,同じ噺家が発した言葉でも同じ世界が見えているとは限らない。特に江戸の世話物になると,もう同じものが見えてはいない。しかし,

笑いは,同期し,

笑いの波は伝搬する。だから,面白い。


今日のアイデア;
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#落語
#噺家
#噺
#笑い
#世話物
#レディネス

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2014年01月22日

表現



表現を,仮に,

現(うつつ)を表わす,

としたとする。そうすると,

「現」とは,

あらわれる(あらわす),
うつつ,
起きている,

という意味になり,まあ出来事,現実,と捉えておく。では「表す」の「表」はどうか,同義語と比較すると,

見は,隠れたものが出てくる,
現は,見と同じ。現在=見在,
表は,うわ側へ出してあらわす,
顕は,照り輝くほどにあらわれる,
著は,あらわす,あらわる,
暴は,さらす,

等々,まあ表へ出る,表面化する,という感じなのではないか。

とすると,表現を,

現を表わす,

と言ったが,こう言い換えるとどうなるか,

現に表す,

現で表す,

現から表す,

現が表す,

現も表す,

現へ表す,

等々,その都度微妙にニュアンスが変わる。

「を」にすると,現が何にせよ,それを外へ表出するということになる。しかし,

「に」にすると,何を表出するにせよ,「現」にする,つまり現実化,顕在化する,というように変わる。

「で」にすると,「現」そのものが表出する手段に変わる。

何が言いたいのか,というと,表現というとき,

自分の内面(思い,思想,感情,心等々)を,外在化することに力点がある。つまり,自分を表現する,というように。しかし,それを,

自分で表現する,

自分に表現する,

自分も表現する,

自分へ表現する,

自分が表現する,

自分から表現する,

等々,自分を表現するという,というこだわりを手放すと,自分は,

表現そのものの媒体であってもいいし,

表現のキャンバスそのものであってもいい。

だから,自分は何をしても,自己表現になっている,と言ってもいいし,人生は,自己表現の舞台そのものであると言ってもいい。

僕は,自分を対象に,自分が表現の主体であることにこだわっているが,それは,視野を狭めていないか,ということなのだ。

人からのフィードバックは,それ自体,僕についての表現なのだし,それは自分の中に,その人自身が自分を投影しているのかもしれない。でも,それは,

自分に表現された何かなのだ。

表現が,言葉によるのであれ,他の手段によるのであれ,

現前化,

するということに尽きる。それが,自分に表現されても構わないし,それ自体を逆手に,表現し直してもいい。たとえば,表現は,

表言
表原
表間
表源
表呟
表嫌
表眼
表玄
表験
表見
表限
表顔
表訝
表幻

等々なんでもいい,極端に言えば,

他人が自分(をキャンバス)に表現する,

ということもあり,なのだと思う。目指す表現(現前化)には,それにマッチした手段があるとき,

世評はどうあれ,それが最高傑作なのだ,と信じている。



今日のアイデア;
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#表現
#フィードバック
#現前化
#キャンバス

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2014年01月25日

即興


ずいぶん昔,学生の頃,人形劇を持って,地方を巡回と称して,回っていたことがあった。

たぶん,クラブへ入部した年だと思うが,何かのトラブルで,人形劇の設営が手間取り,時間に間があいてしまい,場つなぎで,すでに集まってしまった子供たちに,何かしなくてはならなくなり,先輩に,誰か何かできるのはいないか,と聞かれた。誰も手を挙げず,名指しで,お前どうだ,と尋ねられ,思わず,

じゃあ,やります,

と答えてしまったことがあった。

何かできるのはいないか,という問いに,僕なりに,頭をめぐらして,ひとつだけ,こつん,と当たるものを思い出していた。鉱脈といった感じではなく,なんとなく思い出せそうな話があった。

タイトルは忘れたが,子どもの頃買ってもらった絵本で,

迷子の子象,

といったたぐいのもので,母象にはぐれた子象が,豹やライオンに襲われながら,猿たちに助けられて,最後は母親たちの象の群れに救われる,といった話の内容だった。

たぶん,そのとき覚えていたのは,この程度で,途中を適宜膨らませられれば,いいという程度で,ほんの,場つなぎという安易な心構えで,そう50人程度の子供の前に立った。

はっきり覚えているわけではないが,確か最初は,あがっていたはずだ。しかし,象の身振りをするために,右腕を鼻の前でかざして,象の鼻のようにふったところ,子どもたちが,きゃっきゃと大喜びした。

不思議だが,その後,どんな話をしたかはほとんど覚えていないが,いったん象の鼻で,大袈裟な身振りを作って,ひとつの場面を現出させてしまうと,あとは,それと同じレベルの大袈裟な身振りで,

襲い掛かるひょうの大口をあけた口と両のひとさし指で象った牙だの,

狡猾なライオンのこずるそうな表情だの,

怯える子象の震える仕草だの,

等々が,同じレベルで表現されないと,つじつまが合わないと(演じている僕自身が)感じて,オーバーな仕草を続々繰り出していった。

その仕草が,子供たちには,おかしかったのか,懸命に演じている僕の格好・表情がおかしかったのか,きゃっきゃと笑い転げてくれると(僕自身は)感じて,ますます調子に乗って,語り続けた。

思うに,同じことは,二度とできない,という意味では,ラフのストーリーはあったものの,即興といっていい。即興は,素人考えながら,同じレベルで,というか,同じテンションで続けなければ,全体の調和が崩れ,破綻を生じる。どうも,無意識でそれを意識していたらしい。

そして,何より大事なのは,そこに,子どもたちの反応が不可欠だということだ。

子どもがどう反応しているか,


目を輝かせて,こちらを注視しているか,

笑い転げて,隣同士で笑いの相乗効果を発揮しているか,

その場全体が,一体になって,話の舞台に一緒になって乗っているか,

話の展開に,一喜一憂し,ハラハラドキドキしているか,

は反応を見ているとわかる。

だから,乗っているところでは,わざと繰り返し,腕の鼻を何度も,何度も,大仰に振り回して見せたり,象の大群が駆けつけるときは,両足で,床をバタバタさせて,その場のクライマックスを盛り上げたりと,

子供たちの反応にあわせ,

その反応をけしかけるように,繰り返し,

それに倍増するリアクションで,

振りが更に大袈裟になる,

というキャッチボールを,子どもたちと一緒に演じていた。

そこでは,きっと子供たちと同じ舞台で,同じ場面に,同じ感慨と,感情を共有し合えていたに違いない。

思うに,そのとき,言葉以上に身振りが大事には違いないが,言葉がなければ,パントマイムに過ぎない。パントマイムは面白いが,遂に観客は,観客席から出ることはない。演者と観客の隔ては消えない。

しかし,セリフがあるだけで,聞いたそれぞれが脳内で,その台詞を反芻し,反芻することで,

その場に,今,自分が立っている,

というような臨場感を味わえる,というか,その登場人物と一体になっている。

演じている側からも,観客の反応で動いていく自分がわかる。

まあ,いっかいこっきり,二度とやらなかった語りだが,まさに即興であった。

今日のアイデア;
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#人形劇
#即興
ラベル:即興 人形劇
posted by Toshi at 07:34| Comment(0) | 即興 | 更新情報をチェックする