2014年01月02日




旗については,もう何度も書いた。自分の旗を立てる意味については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11129007.html

で触れたし,そもそも仕事で,「旗」を立てるについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11011724.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10966920.html

で触れた。で,自分の旗についても,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11156432.html

であらましは触れた。ここでは,もう少し突っ込んで,自分の旗についての続きを考えたい。

前提になる考えは,

第一は,すべての人の人生に意味があるということ。これも触れた。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2013-0313.html

第二は,清水博さんが,『コペルニクスの鏡』で書いていた,「生きている」(現在)ことと「生きていく」(未来)ことの差だ。これも,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11149915.html

で触れた。つまり,いのちは一人では生きられない,生きる場所なしでは生きられない。「居場所」という。僕らは,「そこで自分は何をするためにいるのか」の答えを出すことが,求められている。それを旗と呼ぶ。あるいは,組織論的には,ポジショニングと呼ぶ。

旗とは何だろうか。自分で言っていながら,それを表現しようとすると,うまく伝えられない。改めて,かつての武将の旗指物と同じだとして,その意味は何か。それでおのれを掲げるのだとして,考えられるのは,

①自己表現 自分自身をそれによって表現しようとする。旗そのものが自己表現。
②自分の存在のアピール 自分がここにいると存在を表示し,存在を誇示
③自分の出自 言ってみると,家紋,家柄等々。西洋でも紋章がある。
④自分のあり方,生き方を表現する 自分の思想の表明としては,赤旗というのもあるが,いまどき流行らない。

等々が思い浮かぶが,単なる自己表現では,ファッションと変わらない。

自分は何者か
何をするために生きているのか
何処へ向かうのか
自分のリソースは何か

を示せるものがいい。

確かに家紋は,出自を表わしはするが,たとえば我が家は「横木瓜」。しかし源平藤橘以外は,所詮地名を苗字にした程度の,どこぞの馬の骨だから,大した出自でもない。

別に自分はペンネームを持っているが,それはあくまで仕事用の,ビジネスネーム。大して考えもせず,適当に決めたものだから,あまり意味はない。せいぜい同姓同名がいないというのが奇跡に近い。

仕事,つまり生業にしていることを旗印にするというのもいいが,小説家とか劇作家とか,劇団主宰といったものならともかく,個人事業主では大した旗にもならない。それに,なりわいはあくまで生業で,それがおのれを示していることにはならない。サラリーマンが,営業です,人事です,という程度では,ただやっていることを表現したに過ぎない。確かに何者であるかの一端を示してはいるにしても。ましてや,職業や社会的地位,名声では表現としては足りない。

旗は,ただおのれが何者かを示しているだけでなく,その背負っている使命を示し,その向うべき方向も示さなくてはならない。そして,併せて思いつくのは,旗をひらめかせるということは,ただ自己表現ではなく,同時に仲間に自分をアピールする機能もあるのではないか,ということだ。

そこで改めて,思い出すのは,清水博さんが示している「自己の卵モデル」だ。それは,

①自己は卵のように局在的性質をもつ「黄身」(局在的自己)と遍在的性質をもつ「白身」(遍在的自己)の二領域構造をもっている。黄身の働きは大脳新皮質,白身の働きは身体の活(はたら)きに相当する。

②黄身には中核があり,そこには自己表現のルールが存在している。もって生まれた性格に加えて,人生のなかで獲得した体験がルール化されている。黄身と白身は決して混ざらないが,両者の相互誘導合致によって,黄身の活(はたら)きが白身に移る。逆もあり,白身が黄身を変えることもある。

③場所における人間は「器」に割って入れられた卵に相当する。白身はできる限り空間的に広がろうとする。器に広がった白身が「場」に相当する。他方,黄身は場のどこかに適切な位置に広がらず局在しようとする。

④人間の集まりの状態は,一つの「器」に多くの卵を割って入れた状態に相当する。器の中では,黄身は互いに分かれて局在するが,白身は空間的に広がって互いに接触する。そして互いに混じり合って,一つの全体的な秩序状態(コヒーレント状態)を生成(自己組織)する。このコヒーレント状態の生成によって,複数の黄身のあいだでの場の共有(空間的な場の共有も含む)がおきる。そして集団には,多くの「我」(独立した卵)という意識に代わって,「われわれ」(白身を共有した卵)という意識が生まれる。

⑤白身が広がった範囲が場である。したがって器は,白身の広がりである場の活(はたら)きを通して。黄身(狭義の自己=自分)に「自己全体の存在範囲」(自分が今存在している生活世界の範囲)を示す活(はたら)きをする。そして黄身は,示された生活世界に存在するための適切な位置を発見する。

⑥個(黄身)の合計が全体ではない。器が,その内部に広がるコヒーレントな白身の場を通じて,黄身に全体性を与える役割をしている。現実の生活世界では,いつもはじめから器が用意されているとは限らない。実際は,器はそのつど生成され,またその器の形態は器における人間の活(はたら)きによって変化していく(実際,空間的に広がった白身の境界が器の形であるという考え方もある)全体は,卵が広がろうとする活(はたら)きと,器を外から限定しようとするちからとがある。

⑦内側からの力は自己拡張の本能的欲望から生まれるが,外側からの力は遍在的な生命が様々な生命を包摂しようとする活(はたら)きによって生まれる。両者のバランスが場の形成作用となる。

というものだ。コアの黄身が自分。そして自分の振る舞いや行動によって,人と接触していく。そこに場ができる。そこでは,ただいるのではなく,自分が何をしようとしているかが,相手にはっきりしているほど,相手に伝わる。

どこへいっても,そこで割られた割られ方で,誰とどう接触し場ができるかは,自分の振る舞いにもよるが,相手の自分への志向にもよる。

そこでやろうとしているのは,「つながり」の可能性を周囲に示していることになるのではないか。あるいは,「この指とまれ!」を触れ回っていることになる。

その意味では,旗が自己を主張するだけではなく,そこに旗のもつ機能と効果と意味が,出てくるような気がする。

「この指とまれ!」

と言うためには,旗は何を表していなくてはならないのか,を照らし出してくれるような気がする。

それは,単に,

自分のリソース
自分の夢・目指すもの
自分の役割

を表現するだけでは伝わらないのではないか。自分の役割を表現するということは,その持つ社会的意味を表現するということにつながる。それには,まだ結論は出ていないが,どうも,物語が必要な気がしている。旗と旗をめぐる物語が。

しかしここまで書いてきて言うのもなんだが,旗に必要なのは,あるいは,旗は,もはや,

自分そのものなのではないか,

自分の顔であり,
自分の振る舞いであり,
自分の衣装であり,
自分の言葉であり,
自分の口吻であり,
自分という存在そのものであり,

それ自体が何かを醸し出す,そういうものではないか。

自分自身が自分の物語の結末であり,夢の果てであり,自分のリソースそのものの顕在化であり,自分の役割そのものの表現である,

とすれば,そこにいるだけで,すでになにかを主張している,というような。

となるとだ,もう旗はある。それを飾ろうとしたり,いい格好しようとしたり,繕ったりしようとしても,隠せぬものがある。それが,旗なのではないか。

それを,

生きざまのつけ,

と呼ぶとちょっと可哀そうだが。いまさら隠しようもないから,そのままさらし者にしておいていい。

ただ,負け惜しみかもしれないが,まだのりしろが残っている。

ということは,まだ旗は変えられる,ということだ。

そのための余命といってもいい。

棺の蓋を覆うまで,

人は可能性の中にある。


参考文献;
清水博『コペルニクスの鏡』(平凡社)
清水博『』(東京大学出版会)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



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posted by Toshi at 06:23| Comment(0) | 自己表現 | 更新情報をチェックする