2014年02月01日

懐の深さ


勝海舟が,こんなことを言っている。

久能山だとか,日光だとかいふものを,世の中の人は,たゞ単に徳川氏の祖廟とばかり思つて居るだらうが,あそこには,ちやんと信長,秀吉,家康,三人の霊を合祀してあるのだ。これで織田豊臣の遺臣なども,自然に心を徳川氏に寄せて来たものだ。この辺の深味は,とても当世の政治家には解らない。

うろ覚えで書くが,確か,司馬遼太郎が,『街道をゆく』の中で,

徳川幕府が,森林保護のために結構尽力してきた,

という趣旨のことを言っていた。それが維新後消え,荒れた,と。目安箱にしてもそうだが,封建制という限界はあるにしても,為政者側の懐は深かった。それが天保頃になると,制度疲労を起こし,幕末になると,ほとんど当事者能力を失ったのは,人材登用が,うまく機能しなくなったということにあるように見える。

それにしても,この懐の深さは,計算づくではできない。目先の利益だけでは,到底間尺が合わないからだ。例の米百俵にしても,小泉元総理が違う文脈で利用したのと゛は異なり,長岡藩が河井継之助に率いられて列藩同盟に加わり,戦火で荒廃した中でも,人材育成という長期的視点に着目したところにこそ目を向けなくてはならない。しかし,それは,自分たちは贅沢三昧しながら,民に節約を強いる政治とは別物でなくてはならない。それは,詐欺である。

懐が深い,というのは,

①度量が広い。包容力がある,
②理解や能力に幅がある,
③相撲で,身長が高く,両腕の長い力士に見られる能力で,四つに組んだとき,両腕と胸とで作る空間が広く,相手になかなかまわしを与えないことをいう。

の意味がある。言い換えると,

・器量とか,度量とかという,器の大きさになるか,
・奥深さ

になる。ここで言いたいのは,それとは微妙にずれる気がする。

ただあわてず騒がず,悠然とことに当たる,

というニュアンスだと,大きさしか示していない。ここで見ているのは,視野の広さという意味のような気がする。近視眼的ではなく,もっと幅広く,奥行き深く,長期の視点でものが見られる,という意味だ。

目の前の問題処理だけではなく,長期間視点で,布石を打ち,種をまいていく,

という感じになる。かつての日本企業がそうであったように,それは余裕が必要になる。それは,システムにも,財政的にも,人材的にも,キャパシティがあるからこそできる,ように見える。

今日の日本は,余裕を失っている。ヘイトスピーチ,それへの対抗,人種差別,一極集中バッシング等々,社会全体が狭量になっている。苛立ち,些細なことで突っかかり,とげとげしているように見える。そのせいか,短期の,目先のことに振り回されて,長期の視点が消えているように見える。

日本が近隣諸国に,特に中韓に強気になるのは,総じて,国内が窮しているときが多い。明治の征韓論も,国内の政情不安と経済的困窮とが,外に目を向けさせていた。それは,余裕のなさといっていい。

だが,そんな中にも,勝のように,日清韓の三国連携で欧米列強に抗すべしという論を張っていた人もいた。そこには,長期の視点があった気がしてならない。

目先の自尊心や利害に振り回されて,強硬姿勢を取るのは,百年の計がなさすぎる。

確か竹内好だと思うが,中国人と日本人では時間のスケールが百年単位か十年(?)位の差がある,といっていたような気がするが,その中国も,いまや懐の深さを失ってしまったように見える。

それは言ってみると,個人になぞらえれば,

トンネルビジョン,

に陥っているに等しい。ぶっちゃけ,どつぼにはまっている。その視野狭窄から抜け出す方法は,

時間的にか
空間的にか,

距離を取ることしか抜け出す道はない。空間的には,なかなか難しいかもしれないが,少なくとも,時間のスケールを100年とは言わないまでも,30年,40年単位で考える視点が欲しい。そうすると,視界が変わる。

ついでながら,竹内の,

大東亜戦争は、植民地侵略戦争であると同時に、対帝国主義の戦争でもあった。この二つの側面は、事実上一本化されていたが、論理上は区別されなければならない。(中略)太平洋戦争において両側面は癒着していたのであって、この癒着をはがすことはこの段階ではもう不可能だったからである。というよりも、癒着をはがす論理がありうることを、われわれは戦後に東京裁判でのパール判事の少数意見からはじめて教わった…,

という文章が目に留まった。これが僕には視界の広いものの見方に見える。


今日のアイデア;
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#勝海舟
#竹内好
#日清韓の三国連携

posted by Toshi at 06:53| Comment(3) | 器量 | 更新情報をチェックする

2014年02月02日

デモ


デモは,テロだという妄言を吐いた政治家がいたが,タイの政治家の爪の垢でも煎じて飲んだらよい。吉宗は目安箱を設置した。封建時代の将軍すら,民意を探ろうとしていたのだ。

国民は,奴隷か羊のように,従順に右向け右というのが御しやすいに違いない。そう考えている政治家は,多様性を束ねる政治力のなさを白状しているようなものだ。政治は,自分の思う通り国を動かすことではない。国民の負託を受け,あくまで民意を実践するものでなくはならない。しかし,多く,戦後自民党政権は,民意を重んずるより,私益を重んじて国を運営してきたとしか思えない。現在の体たらくのすべては,ほとんど戦後一貫して国のかじ取りをしてきた自民党の責任以外のなにものでもない。にもかかわらずわずか三年弱の民主党に責任をおっかぶせて,あたかもみずからは,無罪のごとく振舞う。この厚顔無恥を許しているのも民意なら,この国が,後戻りの効かないティッピングポイントを通過しても,それを看過するのだろう。

後になって,一億総懺悔だけは御免蒙る。

さて,デモの話だった。デモは,署名活動と並んで,国民が自らの意志を主張できる合法的手段だ。

しかし,日本の場合警備が非常に厳しく,デモ隊より警備の警察官の方が多くなることもしばしば。しかも警察官がデモ隊をぐるりと包囲する形で監視している。これは,警察がデモ活動を周囲の見物人や通行人などと切り離し,飛び入り参加者を阻止するためで,このために歩行者などにデモに気を取られて立ち止まらないよう命じられることも多い。

日本でのデモ活動は事前計画を超えられず,他国にしばしばみられるように,デモが自然発生的に大規模化することは困難。しかも,道路交通法又は都県または市が定める公安条例の縛りがきつく,まるで,

おなさけで(いやいや)デモをさせていただいている,

という具合である。だから,冒頭の暴言が出る。

かつて,それを突破するために,暴力的に警官隊を突破することがあった。いまや伝説にしか過ぎない。かつてまだ若者は,未来に夢を持っていた。

創りたい社会像

があり,

目指す未来像

があったように思う。それが若者のエネルギーであった。いまや国を挙げて,社会を挙げて,家庭を挙げて,飼いならし,牙を抜いて,おとなしい羊と化した若者(というか,いい子に,寄ってたかって仕上げた)に,かつてのエネルギーはない。

なぜなら,国の未来は,若者には一番厳しく,相対的に少数派になっている若者は,選挙でも勝ち目はなく,相対的に多数派の老人,既得権益を握っている大人たちに勝ち目はない。

しかもアメリカと異なり,起業(ここでいう起業は企業ごっこを指さない)は,厳しい環境にあり,寄ってたかって大手に潰される。

目立つのはヘイトスピーチと人種差別のデモだ。ネトウヨと呼ばれる若者を誤指導しているのが誰かは知らない。しかし,怒りの向け方が間違っている。相手は,老人と既得権益者ではないか。かつて白人の低所得者が黒人排斥に血道を上げたのと似た構造だ。だからか,未来像が過去になる。過去がそんなよかったのなら別だが,過去に未来なんかない。それは(疑似)懐古趣味に過ぎない。

僕は,もううん十年前,警官隊に追い散らされたデモ隊にいて,逃げ遅れて逮捕されたことがある。別に誇りはしないが,自らが主張すべきことを主張し,結果警官隊とぶつかり,追い散らされた結果の逮捕を恥じてはいない。が,逃げそびれたおのれの頓馬さは悔しい。

あのころ,まだ若者は生き生きしていた。荒馬のようにエネルギーに満ち満ちていた。

それを駄馬のように,羊のようにしたのは,国と社会だ。若者がエネルギーを持てない国は,未来はない。未来を担うべき若者に,

夢を見ることを放棄させたからだ。

未来を見えなくしたからだ。いまや,夢は,

自分の発見という小宇宙にとどめられてしまった。しかし,そんなものは,国が亡び,社会が荒んだら,糞の役にも立たない。

いまそれは顕在化しつつある。

貧困率は2位,六人に一人,子どもが貧困にあえいでいる。

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/o/44/index.html

この先にあるのは,奴隷だ。ただわずかに給与を得るために,唯々諾々と従う。しかし,人は奴隷にはなりきれない。自分があり,自由を求める。そこに憤懣がマグマのように蓄積する。

言いたいことを言えず,一人で抱え込んで,製品に毒を入れたり,無差別殺人に走ったりという非生産的な心境に,若者(とは言えないが,失われた20年を経れば,就職に失敗したものは,壮年になる)が,憤懣を一人抱え込むしかない心情を,痛いほどわかる。

今,それを救い上げるものがどこにもない。労働組合は既得権益の巣窟でしかなく,いまや保守そのものだ。各個ばらばらに個別撃破されて,一人一人の労働者がかなうわけはない。

しかし,この下へしわ寄せした分,日本の企業は競争力を確保したかというと,逆だ。いま,どの企業も職場は荒れている,と見ている。一人一人,個別バラバラに,各個撃破され,羊になるか,病気になるか,ドロップアウトするかしか選択肢はない。

だが,そんな日本企業が競争力があるとは思えない。

モノづくりは,すでに多く追い抜かれ,それ以外のソフト力もシステム力も,対抗できるだけに育ってはいない。労資ともどもも,すでにティッピングポイントを超えた,と僕は見ている。悲観的に過ぎる,と言われるかもしれないが,人を大事にしない企業が,社会が,国が,将来何を担保にして成長するのか。

自己責任とは,便利な言葉だが,セーフティネットがあって初めて機能する言葉だ。それなしの自己責任の要求は,国の,社会の,企業の責任放棄だということが,この国の為政者には全く分かっていない。

アメリカは,311の後,9000人のアメリカ人脱出計画を立てた,と聞く。福島県の全県避難すら,拒絶され(それを当時の管首相が要請したが福島県知事が拒否したと言われている),未だに住み続けさせられている。むしろ定住を促進しようとする運動(その主体が誰かは想像に難くない)がまかり通っている。その付けを払うべき何十年後は,それを進めたものは鬼籍に入り,住まわせられた子供たちに負いかぶさる。こんな国に,未来があるのか,と絶望的になる。


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#吉宗
#デモ
#目安箱
#貧困率

posted by Toshi at 06:57| Comment(1) | 政治 | 更新情報をチェックする

2014年02月03日

断念



断念,という言葉のニュアンスが好きだ。何だろう,ちょっと個人的には,潔さを感じてきた。

意味は,「諦めて,思いきる」。しかし,調べていくと,少しずつ,ニュアンスが変わる。思い切ると一言で言っても,

諦める,

思いきる,

の他に,

見切る,

見限る,

放り出す,

投げ出す,

思いとどまる,

踏みとどまる,

投げ捨てる,

手放す,

匙を投げる,

手を引く,

お手上げ,

ひっこめる,

等々,必ずしも,自分の意志とは限らず,

何かの想いを捨てる,

何かの執着を捨てる,

という意味合いにも,自分で見切って,断ち切る場合と,投げ出す場合のふた色があるが,その他に,

何かを仕掛けていたのを中断する,

イケイケどんどんな突進に急ブレーキをかける,

という踏みとどまるニュアンスもある。しかし,自分の意志でそうしたという以外に,

不承不承といったニュアンスの,ちょっと追い詰められた,詰め腹を切らされる感じも色濃くある。だから,

断念したのか,

断念させられたのか,

断念せざるをえなかったのか,

断念を強いられたのか,

で,思いは違う。

「念」という字は,同義の他の文字と比較すると(『字源』による),

「思」は,思案の思い,
「憶」は,思い出す,
「意」は,こころばせ,心映え,
「想」は,相手やカタチに心を映す
「惟」は,ただ一筋に思う,
「懐」は,ふところ,心にこめて思う,

とあり,「念」は,「思」より軽い,とある。

ということは,断念は,あまり思い入れするようなことではなく,ペットボトルを道端に捨てようと思って諦めた,程度のことなのかもしれない。

しかし,「念」を何々という単語を洗ってみると,

想念/雑念/情念/記念

というニュートラルなものよりは,

信念/丹念/懸念/執念/観念/専念



邪念/怨念/疑念/放念/失念

といったものの方が多い。必ずしも,「思」より軽いとは感じない。そのせいか,

瞬間を断念において
手なづけるために(石原吉郎「断念」)

と言ったり,

海は断念において青く
空は応答において青い
いかなる放棄を経て
たどりついた青さにせよ
いわれなき寛容において
えらばれた色彩は
すでに不用意である(石原吉郎「耳を」)

と言ったり,断念には,重さが付きまとう。

時間が筋肉をもつときの
断念と自由を
同時にきみは
信じなくてはいけないのだ(石原吉郎「時間」)

断念は,手放す自由とつながっている。断念が重いほど,手放す自由が大きい。最期,否応なく,すべてを手放さなくてはならない。それが,強いられたものではなく,おのれの「断念」となるために,すべてを手放していく必要がある。最後の最期は,すべての関係も,関わりも手放す。そのとき,

非礼であると承知のまま
地に直立した
一本の幹だ (石原吉郎「非礼」)

一本の,ただ立つおのれになる。ひとは,

自分自身になるために,

生きる。最期まで生きる。

今日のアイデア;

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#断念
#石原吉郎
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2014年02月04日

心ばえ



心ばえは,心映えとも,心延えとも書く。いい響きの言葉だ。

辞書には,こうある。

「映え」はもと「延へ」で,外に伸ばすこと。つまり,心のはたらきを外におしおよぼしていくこと。そこから,ある対象を気づかう「思いやり」や,性格が外に表れた「気立て」の意となる。特に,心の持ち方が良い場合だけにいう。

そのほかに,

「おもむき」「風情」「事の次第」「気立て」「心遣い」「おもむき」「心だて」

といった意味もあるらしい。心の状態が,外へ広がっている,写し出されている,というニュアンスなのだろうか。まずも悪い意味で使われることはなさそうだ。

「心映え」の「映え」の,「映える」は,栄えるという意味で,

光を映して,美しく輝く。その結果目立つ,というニュアンスになる。「化粧映え」につながる。

「心延え」の「延え」の,「延える」は,敷きのばす,という意味で,

「進む」「伸びる」「及ぶ」「展きのぶる」,というニュアンスになる。蔓延の,蔓がはい延びる,につながる。

ここからは,妄想になるが,

心ばえ

といっても,

心映え

と書くのと,

心延え

と書くのでは,少しニュアンスが変わる。

上記にもあったように,心延えと書くと,

その人の心が外へ広がり,延びていく状態をさし,

心映え

と書くと,「映」が,映る,月光が水に映る,反映する,のように,心の輝きが,外に照り映えていく状態になる。

似ていると言えば似ているが,

おのずから照りだす,

心映え

がいい。それが,その人の,

ありようからきている,

なら,なおいい。僕個人は,

周りへの影響のニュアンスの,

心延え

よりは,何か一人輝きだしている,

心映え

がいい。まあ,そういう生き方をしてみたい,と思う。つい,何か言葉でそれを言い出してしまう。しかしそこには,我執がある。何かすることで目立とうとする自分がいる。それは,心映えが悪い。

そのありよう自体が,おのずと輝く,

はえは,

栄え

とも書く。その在り方自体が,誉れであるような,

そういう生き方,あり方をしてみたいものだ。


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#心延え
#心映え
#心だて
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2014年02月05日

みっともない



日本国憲法前文は言う。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

安倍氏は,これを,みっともない,いじましいと言った。そして目指しているのが,どうやら戦前らしいが,しかも,秘密保護法(特定秘密の保護に関する法律)を制定し,教育勅語を復活しようとしているところから見ると,,大日本帝国憲法へと戻ろうとしているように見える。しかし今上天皇は,明確な意思として,現行憲法を尊んでおられる。だから,戦前には戻れないが,戦前のような強大武力の国家にしたいらしい。まるで,北朝鮮の目指す強盛国家のようだ。

しかしその陰で北朝鮮では,数万から十万の餓死者が出て,人肉食騒動まで起きている。同様に日本は貧困率二位で,六人に一人の子供が貧困にあえいでいる。所得が国民の「平均値」の半分に満たない人の割合が高い,つまり貧富の差が広がっている。

因みに,みっともない,とは,

外聞が悪い,体裁が悪い,見苦しい,

を意味する。語源的には,

「見たくもなし」

が音便化しいて「見とうもなし」となり,「見とうもない」「見っともない」と変わったとされる。本来は,見たくない,の意味であり,それが見たくもないほど見苦しい,と変じてきた,とされる。

見苦しさは,どこから来るか。

ひとつは,自分の価値に反するから,

いまひとつは,GHQの監督下で,(無理やり?)民主化されたことが気にいらない,

ということだろう。しかし,それが自分の価値に反していなければ,そうは言わないから,主要な理由は,自分の価値に反する,というところにあるのだろう。

僕には,

大人げない,

というか

女々しい

というか,

覚悟が足りない,

というか,要は,負けていやいや呑んだが,本当はこんな国家にも,こんな国のあり方にも不満でしょうがないと言っているようにしか聞こえない。忘れているらしいが,(仮にそれを押し付けられたのだとしても)それを呑んだ,ということは,その瞬間,「諾」だったということを表明したことだ。その自分を忘れている。だから,本気で,

国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する

国にしようと思ったこともないし,

恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい

とも願ったこともないのだということが,ようやく露骨になってきた。

平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう

と決意したことなどないのだろう。

ほとんど戦後とともに生きてきた僕には,それこそが,

みっともない,

の一語に尽きる。というか,

女々しい,

と言ってはばからない。

もし,本気でそうしたくないなら,そのとき,徹頭徹尾論議し,GHQと戦えばよい。しかし,そんなことをしないで,ただ弱気をくじき強気にへつらう根性だったから,とりあえず,面従腹背したが,

そろそろ機が来た,

とこうべをもたげてくる,その根性こそが,

いやしく,

みっともない。

だから覚悟がないというのだ。一旦受け入れたとき,本当は嫌でしたが,強権が怖くてなどとどの面さげていうのか。その根性の下劣さにはへどが出る。

そのくせ,人には文武両道を言う。しかし,文武両道の本質は,横井小楠が,「文武一途の説」で,こう言い切っている。

徳性に基づき原理に従って正しく導くのが文の道であり、その心を治め、胆を練り、その清華を武伎や政で試して見るのが武である。伎芸に従って心を治めるのと、心が充実しているのを武伎で試すのとは正反対であるとわきまえねばならない。武伎なしで上手ぶるのは論外だけけれども、武士は武芸で体を強くするというのはよくない。躰を強くしたいのであれば、漁師、樵、農夫が勝っている。ただ躰をきたえるだけなら、漁をし狩をした方が道場の修業よりましだ。士道をわきまえぬなら、農夫より劣っている。侍に値しないのだ。士農工商といえども、いやしくも道を学ぶものは皆士である。士にして家職にあるものは士というべきだ。家職を卑しいとして勉めないのは、恥ずべきことだ,

と。士とは心映えをさす。士とは武ではない。まして軍ではない。士心を持たぬものが,やたらサムライを言い立て,ひとをけしかける。よく見ておくといい。そういう人は,ほとんど自分は矢面には立たない。

この手の猛虎馮河の類には,つける薬はない。

総じて,この手の人は,強者にはペコペコする。もしそういう気があるなら,断固としてアメリカとの間で地位協定を交渉する機会はいくらでもあっただろう。あれだけ中国に対して,韓国にたいて強気の連中が,対アメリカには弱腰になり,そのことを咎めもしない。よほど,

うちなーんちゅ

の方が男気があり,男伊達である。



今日のアイデア;
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#日本国憲法前文
#大日本帝国憲法
#横井小楠
#文武両道
#文武一途の説

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2014年02月06日

コーヒー



僕はコーヒー好きだが,そうなったのは,結構昔だ。かつては,コーヒーのおいしい店というのが,いっぱいあった。布ドリップで一日分を仕込み,後は客に一杯ずつ温めて出してくれる店があった。そのコクといったら,なかなか味わえないもので,クリームを入れると更に味が変わった。

そんなコーヒーに全神経を使った店が,いまやどうでもいい機械出しのコーヒーショップに変わってしまった。ドトールとスタバと比較することはほとんど意味がない。あれは,コーヒー風味の飲み物に過ぎない。インスタントがそうであるように。

ほんとうのコーヒーを探すほどの酔狂ではなく,ただ場所を借りるつもりで,スターバックス,ドトールコーヒー,タリーズコーヒー,ベローチェ,サンマルク,プロントと渡り歩く。しかし,昔の喫茶店ほどにも落ち着けず,早々に逃げ出してしまうことになる。

コーヒーもどきを売って,コーヒーショップというのは詐欺だが,しかし消費者があれがコーヒーと認めたのだから,コーヒーなのだろう。

ルノアールがコーヒーではなく,くつろぎをもらうつもりでいく店であるように,コーヒーショップは,時間調整の場所でしかないのだろう。

大体,コーヒーショップで紙のドリップやサイフォンを使っているような店は,プロとは言わない。素人が自宅で出せるものを出して,コーヒーショップとして,大金を取るのは,詐欺だ。しかし,昨今プロフェッショナルは,どの世界にもいなくなった。

小説の世界でも,ベストセラーになったら大家だと勘違いしているのが大勢いる。しかし,それを見とがめる批評家のプロもいなくなって,どの世界も,夜郎自大だらけになった。というか,夜郎自大だらけになると,まっとうな人間が,異端になる。

さて,かつて,仲間と一緒に喫茶店,コーヒー専門店をやった時期がある。ちょうどコーヒー専門店ブームの頃で,珈琲館が何店もチェーンを連ね,あのルノアールさえも,コーヒー専門店を出店したくらいだ。ただ,カウンターに座った時,カウンター内にいた店員が,注文したアメリカンをお湯で薄めて出してきたのには,ちょっと驚いた。まあ,その程度の知識だったのだろう。

われわれも,ひと様のことを言えた義理ではなく,出店二年で,見事に失敗したが,といっても不格好なことに,一年目は赤字をどう減らすかに悪戦苦闘し,二年目はどう傷を少なく店仕舞いするかに振り回されただけで,その時のことを思い出すと,まだ冷や汗が出る。水商売とはよく言ったものだ。

「水」は「勝負は水物だ」と言われるような,運次第で大きな利益を得たり,損失をこうむるといった,流水のように収入が不確定な状態を指している,

ところから来たらしいが,それは他人事の言い方で,僕の反省では,すでに出店の段階で,勝負は決まっていた,と思っている。誰が通り,誰が客になりうるかといった立地というのも大きいが,どういうコンセプトにし,どういう内装にし,どういうアプローチにするかといった店づくり,調度品・備品の構成,どういう商品構成にするのか,何で収益を得るのか,どう回転率を高めるのか,経営というか店の運営主体をどうするのか等々,それが店の命運を決める,とは一般的には言える。

が,僕は,ちょっと違うと思っている。要は,

覚悟,

なのではないか。ただコーヒーショップをやりたいのか,うまいコーヒーを提供したいのか,そこに寛ぎの空間を作りたいのか等々,それは何でも構わない。決めたら,それをやりきる,何が何でもやりきって貫徹する,というものがなければ,どんなに外見や立地が良くても,それは手段に過ぎない。魂ではない。別の言い方をすると,

こだわり,

あるいは,

執念,

なのかもしれない。たとえば,

コーヒーと呼ぶか,珈琲と呼ぶか,カフェと呼ぶか,

どちらでもいいのではない。どっちを取るかで,その思いが違う。こだわりが違う。そこにこだわりがなくてはならない。コーヒーを提供するとは,そういうこだわりを提供することだ。

僕は,いま思うのは,コーヒーの淹れ方一つでも,プロフェッショナルはある,という当たり前のことを思い知らされる。われわれは結局素人であった。

ひよっとしたら布でも,紙でも,サイフォンでも,何でもいいのかもしれない。少し薄目なのか,ぬるめなのか,濃い目なのか,そこにもこだわりがあっていい。その先に道具が来る。

プロフェッショナルとは,執念だと思っている。梃子でも動かない自恃である。こだわりである。おのれの信念を捨てたら,それは素人になる。

しかし,素人は,素人であるとは気づかない。

プロフェッショナルは,自身がプロフェッショナルでなくては,そのプロのプロたる所以がわからない。蟹はおのれの似せてしか穴を掘れない。

そのとき仕入れていたコーヒーは,キーコーヒーだったが,長く舌がその味を覚えていて,何年か後,ある大きなコーヒー店で,ブラックで飲んだ舌が,それだと教えてくれた。嫌な顔をされたが,店の人に聞くと,わざわざマネージャーが出てきて,不承不承キーコーヒーと肯った。それだけが,残った遺産かもしれない。


今日のアイデア;
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#プロフェッショナル
#執念
#覚悟
#キーコーヒー
#こだわり

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2014年02月07日

眼鏡


バロン=コーエンは,共感できる(Empathizing)脳とシステム(Systemizing)脳があるという説を提案しているという。

共感とは,他人が何を感じ,何を考えているかを知り,それに適切に反応することをいう。共感できる脳は相手の感情や心の状態を知って心を動かす活きをすると仮定されるので,心の理論が働くことに通じる,という。

心の理論(theory of mind)というのは,ひとはそれぞれ自分の心を持っていてそれにもとづいて行動していることができることを言う。つまり,

心の理論が理解できるようになると,自分の心と他人の心は違うことがわかるので,自分と他人とは,感情,意思,考えなどが違うことがわかる。大体四歳くらいで理解できるようなる(一歳でもできるという指摘もある)らしい。

これが社会を形成してきた人の共通の特徴とされている。

一方システム化に優れた脳は,システムを分析したり検討することが得意で,システムの隠れた法則に気づいたり,新しいシステムを創り出す傾向を持つ。心の理論とは縁遠いことになる,という。

バロン=コーエンは,二つの脳について,

E(共感できる脳)とS(システム脳)について,

EがSよりまさるEタイプ,SがまさるSタイプ,バランスの取れているBタイプに分けたが,95%はBタイプであるとしている。そして極端に人間関係が苦手なアスペルガー症候群の人をSタイプとした。

しかし,それを立証する生物学的マーカーは見つかっていない。むしろ,高橋惠子氏は,

個性と障がいの線引きは簡単ではない。ある社会的ルールを知らないことが本人を苦しめたり,不利にする,(中略)個性を尊重し個性を活かすことが…根本原則である,

という。妥当だろう。所詮仮説でしかないもので,人を類別し,人を理解した気になることは,浅薄だと,僕は常々思っている。

仮説というのは,所詮,仮の説明概念である。それを持ってみると,現実がよく説明できる。あくまで,仮にそう説明するとわかりやすいというだけだ。当然別の眼鏡を掛ければ別のものの見え方がする。

ロジャーズは,(これもたびたび引用するが)共感について,

「あくまで……のごとく」という性質(“as if” quality)を決してうしなわない

で,クライアントの私的世界をそれが自分の世界であるかのように感じとる,ことだと言っている。ロジャーズには,それは錯覚かもしれないし,思い過ごしかもしれないし,思い込みかもしれないことを,よく自覚していた。

それを失ったら,単なるきめつけに過ぎない。

右脳左脳で切り分ける俗説もこれに似ている。

これで思い出したが,前にも書いたことだが,

人の認知形式,思考形式には,

「論理・実証モード(Paradigmatic Mode)」



ストーリーモード(Narrative Mode)」

がある(ジェロム・ブルナー)があるとされている。

前者はロジカル・シンキングのように,物事の是非を論証していく。後者は,出来事と出来事の意味とつながりを見ようとする。

ドナルド・A・ノーマンは,これについて,こう言っている。

物語には,形式的な解決手段が置き去りにしてしまう要素を的確に捉えてくれる素晴らしい能力がある。論理は一般化しようとする。結論を特定の文脈から切り離したり,主観的な感情に左右されないようにしようとするのである。物語は文脈を捉え,感情を捉える。論理は一般化し,物語は特殊化する。論理を使えば,文脈に依存しない凡庸な結論を導き出すことができる。物語を使えば,個人的な視点でその結論が関係者にどんなインパクトを与えるか理解できるのである。物語が論理より優れているわけではない。また,論理が物語りより優れているわけでもない。二つは別のものなのだ。各々が別の観点を採用しているだけである。」(『人を賢くする道具』)

要は,ストーリーモードは,論理モードで一般化され,文脈を切り離してしまう思考パターンを補完し,具象で裏打ちすることになる。

だから,共感できる(Empathizing)脳とシステム(Systemizing)脳は相互に補完し合っていることになる。95%から外れた人を,個性と見ることが出来なければ,所詮個性などどこにもない。

僕は個性は,百人いれば,百個の個性があると思っている。

問題は,人と同じ尺度だけで測っているから,それが見えない。百個違う尺度がいるのだ。それだけのことだ。

そしてこれが理解できない人は,

ブレインストーミング

の意味が永久にわからないだろう。

百個の個性とは,百個の異質さなのだ。それが前提でなければ,ブレインストーミングなど活かせっこないし,

キャッチボール

によって生み出される,異質な何かなど見えはしない。

そこにあるのは,創造性のとば口なのだ。


参考文献;
高橋惠子『絆の構造』(講談社現代新書)
H・カーシェンバウム&V・L・ヘンダーソン編『ロジャーズ選集』(誠信書房)
ドナルド・A・ノーマン『人を賢くする道具』(新曜社)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#高橋惠子
#絆の構造
#H・カーシェンバウム
#V・L・ヘンダーソン
#ロジャーズ選集
#ドナルド・A・ノーマン
#人を賢くする道具
#ブレインストーミング
#創造性
#個性

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2014年02月08日

決断



先日,「第7回 アートディレクター竹山貴のガチンコ人生!!!月例晒し者にする会」

https://www.facebook.com/events/258508767648683/268877603278466/?ref=notif¬if_t=plan_mall_activity

に参加してきた。久しぶりにトークライブを聴かせていただいた。そこで話されたことのほとんどは,あまり詳細にはここで語れないことがあるので,僕なりに受け止めたことを,整理してみたい。

キーワードで言うと,

決断,

チャンス,

ということだ。僕は,ほとんどの意思決定は,直観だと,どこかで読んだ記憶があるし,体験的にもそんな気がしている。未知のこと,未来のことを決定する以上ロジカルな筋だけで,決断ができるとは思えない。確かに,時間をたっぷりかければ,シェルの例のように,シナリオライティングによって,いくつかのありうる未来を選択肢として提示することはあるし,現に,シェルは,確かそれで石油ショックを乗り切ったのだと聞いているが。

まあ,一般論は言い,何かを瞬時に決定する,そのとき,何が決め手になるのだろう。

竹山貴氏は,

やれる感,

というような言い方をされた。それが僕にはよく分かった。

それは,まさに直観なのだが,ひとは,(三年位と見ているが)ある程度仕事に習熟すると,仕事のスムーズな感じ,うまくいっている感がわかる,そして,逆に,そのいつものスムーズ感があるから,変だなという感じ,微妙な違和感を感じることがある。言葉では言えないが,その感覚を,僕は大事にしている。

人は,別に頭だけでモノを考えているのではなく,体全体で考えている。感じ取っている。その体感覚,皮膚感覚は大事だと思っている。

それが,新規の仕事,未知の案件に遭遇したときも,働くような気がしている。それは,ヤマ勘ではあるが,丁半の
博打とは違う,経験と知識とに裏打ちされた直観なのだと思っている。

直観は,パターン認識である。自分の経験の中から,(ほとんど無意識に)その案件を測っている。経験の全くないことは,その直観が働かないはずである。

そのとき,

なんとなくできる感じがし,

何となく完了している状態が目に浮かび,

自分の使えるリソース片が,ジグソーパズルのように,あてはめていける,

感じがしたら,たぶんできるという感じになる。竹山氏が,決断したことには,そんな雰囲気があったと(僕の勝手な読みだが)感じ取った。当然,リソースの中には,ヒト・モノ・カネ・チエ等々がすべて含まれる。

人の能力は,知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)だと思っている。最後の発想が,博打の部分,つまり,何とかなるという判断の部分だ。しかし全くできないことには,パターンは当てはめようがない。

その瞬間に,いろんなことが駆け巡る。でも,僕は思うのだが,一番最初の関門は,

やるか,やらないか,

でしかない。なのに,実は,それをぼやかせる,不安や野心や思惑が,もやもやとわく。しかし,その靄を追い払えば,その択一しかない。そして,やる,と決めて初めて,どうするか,誰の手を借りるかという,Howが具体的に俎上に上ってくる。その瞬間に視界が開ける,といってもいい。

決断は,やるかやらないかの,二者択一しかない。時間延ばししても,その択一は,変わらない,という気がする。

そこで,その案件が,自分にとってどんな意味をもつかが,重要な気がする。

チャンス

と呼べるような機会は,確かにそうそうはない。あるいは,自分の飛躍のチャンス,あるいは,世に出るチャンス。成功するチャンス等々,なんでもいいが,いまの自分の現状から見たら,とてつもない大冒険,大勝負,と言えるものを,逃す人と逃さない人の差は,

自分を信ずるか信じないか,

あるいは,

自分の経験を頼むか頼まないか,

あるいは,

自分の技量を当てにするかしないか,

ではないか。結局決断を後押しするのは,自分の中のエネルギーでしかない。前もってチャンスの準備などできるはずはなく,不意に訪れるそのときに,間髪をいれず,

やる,

と,自分に一歩を踏み出させるのは,自分自身の積み重ねてきた人生そのものでしかない。僕などは,何度も逃してきたので,口幅ったいことはいえないが,たぶん,瞬時に,

やりたい,

と感じたら,心は,すでに前のめりになっている。その自分の心を見逃さず,意志が後追いできるかどうか,なのではないか。理屈では決断できない。

脳は,意志がそう決める何秒か前に,活性化している,という。それに従えばいいのだろう。脳は,意識化できている以上のことを知っている,というのだから。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#竹山貴
#アートディレクター
#決断
#脳

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2014年02月09日

寝る


世の中に
寝るほど楽はなかりけり
浮世の馬鹿は
起きて働く,

という三年寝太郎に由来するらしいセリフが,僕は好きなのだが,あるいは,

起きて半畳,寝て一畳,

というのも,足るを知る,というニュアンスで,結構気に入っている。あるいは,

胡蝶の夢,

もいい。昔,荘子が蝶になった夢を見た。夢の中で自分が人間であることを忘れ,楽しく飛び回った。 夢からさめ,自分が人間であることに気がつき,夢の中のことを思い出してみると, 荘子自身が蝶になったのか,それとも,蝶が荘子になったのか,よくわからなくなってしまった。 という。あるいは,

邯鄲の夢,

というのもあった。昔,邯鄲の 茶店で,盧生という貧しい青年が,富が思うようになるというふしぎな枕を借りて寝たところ,自分が出世して豊かな富を得, 50年余りの幸せな人生を終える。ところが,目をさましてみると,眠る前に茶店の主人が炊きかけていた大粟が まだ煮え終わらないほど短い時間だったという。

しかし,もう少し現実的なことを言うと,

寝ることの効果は,

(自分との,人との,事柄との,出来事との)距離を取ることだと思う。

たとえば,どつぼにはまって,トンネルビジョンに陥っているとき,視野狭窄の自分には気づけない。自分がトンネルに入り込んでいること自体を気づかない。それに気づけるのは,その自分を別の視点から,見ることができたときだ。そのために一番いい方法は,あえて,距離を取ることだ。それには,

時間的な距離化

空間的な距離化

の二つがある。寝るのは,まさに,この二つにあてはまる。岡潔が,

タテヨコナナメ十文字,考えてか考え詰めて,それでもだめなら寝てしまえ,

といった趣旨のことを言ったが,まさにその通り,寝ている間に,はまっていた視野狭窄を客観化する視点を手に入れて,起きたとき,

そうか,

と気づくことも,ままある。よく,アイデアを考えるときの,

三上,

つまり厠上,馬上,枕上,というが,いずれも,ちょっとした視点の移動を伴う,というのが共通している。僕は,これを,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11393394.html

でも書いたが,「見る」を見る,と呼んでいる。

いわば,ものの考え方や見え方を変えるというのは,見る位置を移動することである。

大きくなるとは見る位置を近づけること,
小さくなるとは遠ざけること,
逆にするとはひっくり返すこと,

だ。位置を動かせるわれわれの想像力を駆使して,見えているものを変えてみることで,見え方を変える。見え方を変えることで,いままでの自分の見方が動くはずである

しかしそれをするためには,対象を見ている自分の位置にいる限り,それに気づきにくい。それが可能になるのは,見ている自分を見ること(を意識的にすること)によってである。

つまり,見る自分を対象化して,ものと自分に固着した視点を相対化することだ。そうしなければ,他の視点があることには気づきにくい。

それを意識的にすることももちろん可能だが,

寝る,

のは,自然とそういう位置を自分の中につくり出すような気がしている。ここからは,妄想に類するが,人は,見ているうちに,体験したことを記憶し直す,というか,整理する。その操作自体が,

俯瞰する,

立ち位置をもたらすことになる。

さて,まあ,桃源郷の夢でも,見ることにするか。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#邯鄲の夢
#胡蝶の夢
#三上
#厠上
#枕上
#馬上
#岡潔

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2014年02月10日

きめつけ



きめつけも,思い込みの一種だ。こうでなくてはならない,という。それは自分だけにしてほしい。

たとえば,

人は,過去の経験がいまを決めている,

過去に蓋をしてはいけない,

自分に向き合わなくてはいけない,

自分をありのままに受け入れなくてはいけない,

自分を見つめなくてはならない,

等々というのが,僕は嫌いである。そういうことができない人間は自分を受け入れず,結果として他人を受け入れない,という。

それは過去からくるのでも,自分と向き合わないからでもなく,

いまその瞬間,

その人と向き合わない,

その人と向き合うのを避けた,

その人と向き合うのから逃げた,

等々という程度のことだ。そのことで,その人の人生が台無しになるようなことではない。その人は,そのとき,その人に向き合いたくないし,受け入れられなかった,というただそれだけのことだ。

いつもの持論として言うが,

過去がその人のいまを決めているのではない,

いまのその人のありようが,過去の見え方を決めている,

それだけのことだ。

大事なのは,いま生きている自分であり,

いま,何かから逃げているか,

いま,何かをしなければならないのに,避けているか,

いましなければならないことから,目を背けているか,

という「いま」だ。いま,

自分が生きていく上で,しなくてはならないこと,やらなければならないことを,弁えているかどうかだけのことだ。

あえて言えば,そういう立場や状況から逃げないでいることの方がもっと重要だ。向き合うなら,自分のいるその場面や状況にこそ向き合うべきだ。

過去や内省,自己分析を重視するのは,心理を齧ったものの悪い癖だ。ひとは,いちいち内省しない。そんな暇はなく,駆けずり回っている。

もし立ち止まることが必要なら,そのときが必ず来る。それが死の直前だろうが,それがどうしたというのか。ひとは,自分で選択する。自分と向き合う必要があると,気づけば,自分で向きあう。

それを向き合いなさい,

とは,他人のおせっかいだ。

僕は基本的に,過去を脱ぎ捨ててきた。その時々の人間関係も含めて,多くは脱ぎ捨ててきた。それについて,自分の性分や性格を分析しようとは思わない。所詮結果論だからだ。

ある時から,日記をやめ,すべて捨てたのも,それが理由だ。

その都度置き去りにした自分の影は,必要なら,必ず追いついてくる。

私は私に耐えない
それゆえ私を置き去りに
する
私は 私に耐えない それゆえ
瞬間へ私を置き去りにする
だが私を置きすてる
その背後で
ひっそりと面をあげる
その面を(石原吉郎「置き去り」)

追いついてきたとき向きあえばいいのではないか。



今日のアイデア;
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#石原吉郎
#過去
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2014年02月11日

若さ


サミュエル・ウルマンの詩の一部に,

歳を重ねただけでは,人は老いない。理想を失った時にはじめて老いがくる,

というのがあり,老人には,言い訳が出来そうな感じだ。さらに,

青春とは人生のある期間ではなく,
心の持ち方を言う,

となると,まだ若いとはしゃぐかもしれない。だが,僕はそうは思わない。

人は,20代では,その年代でしかできないことをし,その積み重ねの上に,30代があり,その上に,40代があり,
50代がある,60代がある。

僕は昨今の年寄が,若さだけを競うのはおかしいと思っている。若さしか強調できないということは,歳にふさわしい知識と経験を自分の中に蓄積できなかった証のように見えてくる。

子曰く,吾十有五にして学に志し,三十にして立ち,四十にして惑わず,五十にして天命を知る。六十にして耳に順う。七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず,

というのは,まあ人生五十年の時代のこととして,これに比して,何歳か上乗せするにしても,歳にふさわしいありようがなければ,単なる呆けと同じである,と僕は思う。

確かに若い心をもち,

60歳であろうと16歳であろうと人の胸には,
驚異に惹かれる心,おさなごのような未知への探求心,
人生への興味の歓喜がある。
君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美・希望・喜び・勇気・力の
霊感をうける限り君は若い,

というのは悪くない。しかし,それは若者だから,このあとの三十代,四十代があるから,意味のあることなのではないか。

僕は,若々しい精神を持つことと,積み上げてきた人生の蓄積の上で,何をするかというのは,別だと思う。後残り少ない人生で,何をするのか,何ができるのか,はそれまでに何をしてきたかの結果として,おのずと現れる。

二十代の冒険心と,五十代六十代の冒険心とは違う。だから,(ひとのすることに茶々をいれる気はないが)七十,八十で最高峰を踏破したからといって,ちっとも素晴らしいとは,僕は思わない。ましてそのために,若い人を支え役にする,というのは,その人の人生を費やさせていることなのではないか,そう思う。

もちろん,年甲斐もなく,などとは言わない。

しかし,天命を弁えたとき,おのずと,おのれの使命があるはずだと思うだけである。

子曰く,後世畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるをしらんや。四十五十にして聞こゆることなきは,これ亦畏るるに足らざるのみ,

とは,年月を積み重ねてきたものにしか言い得ないことのはずである。それを,目利きと呼ぶ。

いま本当に必要なのは,こういう目利きというか,時代眼というか,時代精神なのではないか。

若いということは,別の言い方をすれば,愚かということではないのか。思慮が足りないということなのではないのか。

しかし若さは,未来に向かって開いている。その若さを,生き生きと発揮できる世界を創っていくことが,先行したものの役目なのではないのか。

だからこそ,若さよりは,思慮を,知恵を重んじたい。

それは,たぶん,老成や熟成とは無縁の時代への突っ張り,尖がり方である。

後からくるものに,借金と,核のゴミと,荒廃した国土を残していくことが,いま生きている,今まで生きてきた先輩たちのすることなのか。

彼らが,先人の肩に乗って,更に遠くを見る視界を得られるようにするために,

いまできることは何か,

いましなくてはならないことは何か,

いましておかなくては取り返しのつかないことは何か,

を考えること,これこそが,先に生きてきたものの使命ではないのか。

天命を知る,

とは,おのれの寿命を弁えることであると同時に,おのれの生まれてきた所以,使命を自覚することなのではないのか。

だからあえて言うなら,

ときには20歳の青年よりも60歳の人に青春がある,

かもしれないが,20歳の青春と60歳の青春は,違うのだということだ。20歳のすることに,60歳がチャレンジして,競うことではない,そう僕は思っている。

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#サミュエル・ウルマン
#青春
#貝塚茂樹
#論語

posted by Toshi at 06:01| Comment(1) | 生き方 | 更新情報をチェックする

2014年02月12日

前倒し


「第16回 早起き賊の会」

https://www.facebook.com/events/523355594430232/?ref_newsfeed_story_type=regular

に参加してきた。早起き賊については,すでに何回か書いている。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11240473.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11286743.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11315293.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11370655.html

毎回,まあ,自己確認と,自己満足で終わる,と言えば,そうだが,早起きは,ただ漫然としていたのでは,毎日続けられない。その意味で,自分の生き方を自己承認(ほとんど自己陶酔に近い?)する場になっていると言えば言える。

今回も,アジェンダを出すところからスタートした。

・成功者はなぜ早起きなのか
・早起きになるには
・就寝時間をどのようにコントロールしているのか
・起床してから勉強しているのか

別に自分たちを成功者と見立てているわけではないが,

早起きするものが成功しないはずがない,

と思っていることは確かだ(成功という意味は各自の中にあるが)。まあ,自惚れ半分だが,結局,早起きを続けるためには,ただ何時に起きるということだけで完結するのではない。

たとえば,5時に起きて,その日がきちんとスタートしていくには,そのためにどう寝足りた睡眠を取るかがあり,それには何時に寝るかが重要であり,そのためには,いつ夕食を取るか,そのためには何時に帰宅するか,そのためには,どう仕事を切り上げるか,切り上げるためにはその日の仕事をどう段取りし,し終えるようにどう遂行するか,そのためには,どう部下や上司といった関係者と調整するか,そのためには何時までに出社しておく必要があるか,その時間までに出社するために,何時に始動しなくてはいけないか,それには何時に朝食を取るか等々と循環し,

結果として,24時間をタイムコントロールしなくてはならない。いや,もっと言うと,その人がそうコントロールできるためには,その前の日…とさかのぼると,最低でも,1週間単位の調整が必要になる。

そのためには,たぶん,

何かを捨てることが必要になる。

格好いい言い方をすれば,優先順位をつける,ということになる。勤めている限り,人との関係抜きでは仕事ができないから,人付き合いは,ゼロにはできない。だから,何かを捨てなくてはいけない,と言っている。そのことに法則はない。10割早起きだけに生活を回転させられるのは,自営のように自分の裁量で仕事を段取れるひとでも,難しい。だから,メリハリがいる。それも含めて,1日というより,長いスパンでのコントロールが必要になる。

たとえば,早朝にメールを出したり,早朝に出勤しつづけ早起きだからこそできる成果や実績を積み重ねて,あいつは朝早くから仕事をしているのだから,という周囲の認知を得てしまう,というのも早く帰るための一つの手だ,という発言もあった。

結局9~5時をコアとして,24時間働き続ける化け物(体力オバケという命名が酋長からされた)はそうは続かないのだから,早くに起動するか,遅くまで働くかで,たぶん働く時間にはそう違いがない。どちらが効率的か,ということも,人のタイプがあるので,早起きが絶対正しいとまでは言い切れない。ただ,

一日を,人より早く起動している,

というアドバンテージは大きい,と思っている。

僕は,基本的に,何でも,前倒しするタイプなので,早い時は,締め切りの一か月前には,完成稿の状態にしてしまう。企画も,原稿も,プランニングも。昔は,それを誇って,早々に提出したりしていたが,ぎりぎりまでそのまま寝かす,というようにずいぶん前から,方針を変えた。それは,精神的余裕ということもあるが,それまでの期間に,別のいいアイデアや別の良案が出てくることがあり,修正可能であることと,相手が方針を変えたりした事態の急変にも,骨格が出来上がっていれば,,手早く変更できる,という実利が大きい。これは,他の人から出た,計画95%という意見や,早目に骨格をつくりあげて,寝かすというような意見と同じだと思う。

じゃあ,早起きになるには,という問いには,

起きる時間を決める
寝る時間を決める

という物理的な方法もあるが,実は,

早く起きてする(したい)こと(タスク)をつくること,

というのが集約された意見のようだ。そのために,個々の工夫はあるが,

朝早く起きなくてはできないこと,

が自分の中に明確になることで,早く起きたくなり(起きざるをえなくなり),朝起きることが習慣化する。それをしないと,一日が始まらないし,一日気色悪くて仕方がない,というような感じになれば,もうしめたものだ。癖になっている,といっていい。

実は,大事なことは,早起き賊は,

睡眠時間を削っているのではないか,
無理して頑張っているのではないか,

と思われがちだが,大半が,六時間の睡眠時間を取っていること,しかも,無理していないこと,だ。

その日体調が悪ければ,起きない,二度寝する,

というのが,実は早起きを長続きさせるコツなのかもしれない。別にその日だけに朝があるわけではない。明日早く起きるためには,しんどいときには,体調を整えるのも,時間のコントロールの一つなのだ。

これも,一日単位で考えているのではなく,一週間以上のタームで,朝起きるための工夫を積み重ねている結果といっていいのかもしれない。

その意味では,たえず,

前倒しで,

早く起きる意志をもって,

毎日をコントロールしているというのが,早起き賊共通のマインドといっていい。


今日のアイデア;
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#早起き賊
#時間のコントロール
#意志
#前倒し

posted by Toshi at 05:27| Comment(0) | 早起き賊 | 更新情報をチェックする

2014年02月13日

悔い


怒りは常に愚行に始まり,悔恨に終わる,

と,ピタゴラスが言ったそうだ。しかし,怒りが爆発する瞬間,束の間,そうどれくらいかわからないが,コンマ,コンマ何秒か,頭をこのまま行くとまずいぞ,という思いがよぎる。それを蹴散らすほど怒りが大きければ,その止め立てする,何と呼ぶか,理性のようなものを,踏み潰す。しかし,何十回に一回か,踏みとどまることがある。この差は何だろうか。

前にも書いたことがあるが,人生で最大の怒りの爆発時,あっ,これはまずいかも,という思いが頭をかすめた。それを蹴散らして噴出させた怒りについて,しかし不思議に後悔したことはない。

ここは勝手な妄想だが,コンマ何秒かで,どうする,このまま行くか,やめるか,を秤にかけたのだと思う。だから,一瞬自分の頭に,目の前で自分を止める両手が浮かんだときは,ほんの一瞬,是非を測っている,と信じている。

では,悔いるとはどういうことか。

辞書的には,

自分のしたことについて,そんなことをすべきではなかったと思う,

のだという。そこで思うのだが,

それは結果が失敗だったからか,成功だとしたら,そうは思わないのか。成功でも思うことがありそうなことはあるが,ともかく,だとしたら,それは,

結果から,

あるいは,

その結末から蒙ることから,

そう後悔するのだろうか。後悔先にたたず,というが,あらかじめ予期することができるなら,そんなことはしない。ということは,

結果を覚悟せず,軽率に踏み出した,そのマインドのことをいうのか,

結果を考えて,慎重にすべきだった,その振る舞いのことをいうのか,

結果を考えず,やみくも突っ走る,その生き方をいうのか,

結果を推し量りもせず,軽々に動くそのありようをいうのか,

どれを指しているのだろうか。そして,そう問いを立ててみて気づくのは,

もうひとつ,その踏み出し,あるいは振る舞いは,

自分でコントロールできないことをコントロールできるかのごとく考えたことなのか,

自分でコントロールできるかどうかをよくよく考えずに踏み出したことを言うのだろうか,

僕は,石橋を叩いて渡るタイプではないので,あえて暴言を吐くとすると,

コントロールできるかどうかは,実はやってみなくてはわからない,問題は,コントロールできないと分かった時,どうするか,誰に支えてもらうか,といったことを考慮していたかどうかが,問題なのではないか,

とは思う。しかし,もっと言うと,

やってみなくてはわからないなら,無駄にあれこれ逡巡するより,やっちゃった方が早い,

で,もしそれで,引っ返しが効かないのなら,その時点で改めて考えればいい。そう考える。少なくとも,そこに,他責はない。時代のせいでも,状況のせいでもなく,ただおのれの力量不足のせいとしか考えない。

だから,ひょっとすると,悔いる,ということはあまりない。あるとすると,

自分の力量,技量の見誤り,

を悔いるだろう。もっと力があると思ったのに,こののろま,と自分を罵るかもしれない。

だから,天命を安んじて人事を尽くす,

という清沢満之の姿勢が,自分にはぴったりくる。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:20| Comment(2) | 生き方 | 更新情報をチェックする

2014年02月14日

クライアント


クライアントになるとは,どういうことなのか。特に,コーチングにおいて,クライアントになるとはどういうことなのか。

当たり前のように,クライアントの問題や目標やテーマを聴きながら,

なぜ,この人は,自分の前でそれを語りたいのだろう,

という疑問を感じないだろうか。「僕」に力点があるのではなく,コーチというものの前に,ということだ。

一般的には,

自分のパフォーマンを上げたい,

自分の問題を解決したい,

自分の課題を克服したい,

自分を変えたい,

自分の前のハードルや壁を乗り越えたい,

成功したい,

仕合せになりたい,

夢を実現したい,

等々,まあ,自分が何とかしたいことを抱えている,あるいは自分自身を含めて,克服したい何かをもっとている,実現したい何かをもっている,ということになる。

いや,それがあるのは当たり前とは言わない。が,そんなことはどうでもいいという人は,そうはいない。まあ,ほとんど諦めるか,まあ仕方ないと思っているか,でも,コーチングというものがあって,そこでは夢を実現するサポートをしてくれる,と感じて,コーチの前に立つのだろうか。

正直,僕にはそこがわからない。皮肉ではなく,

先ず何でも一人でとことんやって来た人間,

逆にとことん自分でやったことのない人間,

どん詰まりになるまでとことん悩み続けた人間,

逆にどん詰まりになるまで悩みに悩んだことのない人間,

は人に頼ろうとしない気がしている。僕がコーチングに出会ったのが,晩年のせいもあるが,それまで,頼ろうにも頼れず,頼りたいとも思わず,自分なりに解決してきた(つもりだ)。その意味では,自分にとって一番大きな問題は,生死にかかわる問題だが,それが解決して,ここまで生きてきた。

どう自分を売り込むかをわからないまま98の時代にホームページを自分で作り,それを日々更新して(いまはそれほど熱心ではないが),それだけで顧客を得てきた。いい時は,テーマ別には,グーグルのトップページの巻頭に居座り続けていたこともある。スキルがあってそうしたのではないから,どうしてそれができたかはわかっていない。たまたまそうなっていた。いまは,各社がしのぎを削っているので,1ページ目に残れるか残れないか,瀬戸際にいる。

しかし,その方法も自分で会得した。こうすればいいと語るほどのことはないが,こういうことをコーチングで語りたいとは思わない。

僕は,その時間も惜しんで,走り出していたろう。走らなければ,歩き出さなくては,生きていけないからだ。だからわからない。生死にかかわることを,人に語る,ということが。

僕がいまコーチングでの主要テーマにしているのは,生涯伴走してきた自分の夢のことだ。しかし,それが叶わないからといって,自分がダメになるとか,自分が自分でないとかは思わない。

それは所詮夢に過ぎない。

夢を仕事にしようと思ったことはない。どうしても,金稼ぎに指向せざを得ない。僕にとっては,それは仕事なのだ。仕事と夢は違う。

仕事について,人に教えを乞うことがあるかもしれない。しかし,仕事は,学びではない。学んだところで一人前にはならない。仕事は仕事の修羅場で,おのれ自身を投企して,そこに自分を反映させ,そこに自分を形づくる。それは,どんな仕事にでもある。

それができない人間を,僕は何処かで軽蔑しているかもしれない。

事に仕える。そこで自分を投げ出し,そこに自分の引っ掻き傷を残す。違う言い方をすると,自分でなければできないことをし遂げる。それこそが,自分の仕事いうものを,ほんのひっかき傷かもしれないし,かすり傷かもしれないが,そこに遺す。そのために努力をし,命を削る。それが仕事の誇りというものではないか。

そこでは,仲間との,同僚との,部下との対話は,仕事だそのものだ。それ自体が創造的な仕事だ。そこに,コーチングの入る余地はない。なぜなら,人との対話,キャッチボール自体が,次の仕事を生む仕事だからだ。自分はこうしたい,相手はこうしたい,その会話の中から,アイデアが生まれ,企図が芽生え,企画となっていく。無駄なおしゃべりはない。

僕はそう思うし,そう信じている。

言い過ぎかもしれないが,まあこれが,二十年何年,一人で曲がりなりにも仕事をしてきた人間の,へそ曲りの仕事観だ。だから,僕は,部下とキャッチボールしないで,コーチとキャッチボールしているトップを信用しない。そのおのれの想いは,部下と,同僚と語るべきことだ。部下や同僚こそが,その思いを受け止めるべき相手だ。そういう相手を持てなかったということは,仕事を一人で抱え込んできたということだ。

ひとりで仕事を抱え込んできたものは,チームリーダーになっても,部門長になっても,トップになっても,そこだけで自己完結しようとする。当然孤独だ。トップが孤独だなどと言っている人は,トップとしての器量と技量を疑う。

そこで,疑問は残る。コーチングとは何か。

自分の中では,まだ答えがでず,出ないまま,コーチをし,コーチングを受けている。それが仕事なら,その修羅場で,自分のスタイルを形づくっていくほかはない。

答は,自分の中にある,

のではなく,

答は,自分が創っていく,

そういうものだと思っている。だから,まだ,答えを出し続けているのかもしれない。答えが見つかれば,それで終わりだからだ。

だから,問いも出し続ける。

問いがあるからこそ,未来が開く。まだ問いはある。

いまの一つの答えは,自己対話ということだ。それは考える,ということとイコールだ。それをコーチ-クライアント関係の場で外在化する。しかし,また疑問がわく…!

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



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2014年02月15日

自己



ケネス・J・ガーゲンは問う。

自分の心の状態を観察しようとしているとき,心のどの部分が観察を行い,どの部分が観察されているのか。…心をある種の鏡とみなすならば,鏡がそれ自身の像を映し出すことは,どうして可能になるのか。私たちは世界を眼で見る。とすると,何が「内なる世界を見る眼」の役をはたすのだろうか。また,その対象は何か,

と。あるいは,

心の状態を,正しく認識しているという確信は,どこから得られるのか。もしかしたら,ある心的プロセス(例えば抑圧や認知的バイアス)が,正しい自己認識を妨げているかもしれない。また,バイアスはかかっていないという確信をもっているとしても,自分が正しく「あるがままに」自分の心を見たということがどうしてわかるのだろうか,

と。たしかに,われわれは,簡単に,

自己に向き合う,

とか,

自己を直視する,

とか,

自己を大事にする,

とか,

自己を愛する,

とか,

自分らしく,

と言う。しかしそういうときの自己というのは,そんなにはっきりしたものなのか。向き合う,大事にする,直視する等々,いずれも,モノか対象物のようなイメージでとらえているように見える。自己をそうした固定した何かのように感じているのは幻想ではないのか。

幻想は,みなが,それが幻想であることを忘れている限りにおいて幻想たりうる,

とニーチェが言ったそうだが,自己というものを鏡で自分を見るように明確なイメージで抱いているとすると,ちょっと首をかしげたくなる。

キルケゴールの有名な一節が,瞬時に浮かぶ。

人間は精神である。しかし,精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし,自己とは何であるか?自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいは,その関係に関係すること,そのことである。自己とは関係そのものではなくして,関係がそれ自身に関係するということである。

だから自己対話そのものは自己ではない。自分を是とする自分と非とする自己の関係そのものは,自己ではない。それに関係することが自己なのである。

内省とは,自己対話そのものではなく,自己対話と対話することと言い換えてもいい。

花びらを一枚ずつはがして,来る,来ない,

と言っていることが自己対話だとすると,その対話自身と対話するのが自己ということになる。,その関係性は,他者との関係性を反映していると,僕は思う。

他者との関係での相互作用への不安が,そのまま自己対話の双方になり,その双方をにらみながら,逡巡している。それはそのまま,他者との関係の反映以外ではない。

そこで自己完結している限り,自己撞着は崩せない。僕が内省に懐疑的になったのは,ここに由来する。例えば,漫画チックに言うなら,

僕(と僕の対話)を見る僕(と僕の対話)を見る僕(と僕の対話)を見る僕(と僕の対話)を見る僕(と僕の対話)を見る僕(と僕の対話)…

はどこまで続くのだろうか。

例えば,鏡の中の自分の目を見ている場合を仮定すると,

鏡の中の自分の目の中に,鏡を見る自分の目があり,その目の中に,鏡の中の自分の目があり,その中に鏡を見る自分の目があり,その目の中に,鏡の中の自分の目があり,その目の中に,鏡を見る自分の目があり,…

と続いていく。ただし物理的には何というか忘れたが,限界が来る。それと同じように,原理的には,

自分を見る自分を見る自分を見る…,

も実は,次元を超えていくように見えて,同じ自分のレベルの堂々巡りに陥る。それを破るには,他者との対話以外にはない。

ひとつの鍵は,栗岡幹英氏が言う,

〈私の世界〉は,実際にはコミュニケーションを通して他者と共有する間主観的な役割世界なのである。

他者が意味をもって,すなわち役割存在として私の世界に現れるとき,私はこの意味によって反照される。

主体は,他者との相互作用において,自己にとっての意味に応じて他者に役割を割り当て,その役割と相即的に対応する自己の役割を獲得する。つまり,相互作用は,すべて役割関係なのである。したがって,そこには,相互に関連する役割のネットワークが存在すると考えられる。そして,各々の主体は,自己を中心としたこのネットワークの連環のありようを,ひとつの図式として意識のうちに備えていると考えられる。

等々にある。

他者とのさまざまな関係を通して,さまざまな役割を照らし出し合う,そういう関係性があることで,自分に関係する関係自体が,多次元になりうるということができる。あるいは多声性と言い換えてもいい。自己との関係性の次元は,そういう他者との関係性の次元を反映するのだと思う。

まあ,ぶっちゃけて言えば,さまざまな人との関係を持つことが,自分の自己対話と対話する視点が多様性と,多視点性,多声性を持てるのではないか,という当たり前のことを言いたいだけかもしれない。

自分との対話は,さまざま別の自分との対話を誘発するものでなくてはならない。それが自分を豊かにし,自分の可能性を掘り起こす。とすれば,自分が,多様な人との関わりのなかで,多様な自分(の役割)を獲得できなければ,その自己対話は,自己同一の悪循環から抜け出せない。

参考文献;
ケネス・J・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』(ナカニシヤ出版)
栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


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2014年02月16日

書く


書くについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163427.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163560.html

等々,何度か,すでに書いた。今回は少し違う切り口で,僕の書くについて,書いてみたい。

僕にとっては,書くことは,まとめること,あるいは,編集することだ。したがって,思いをそのまま,つらつらと書き殴る,ということではない。

例えば,依頼されたテーマがあるとすると,

そのテーマについて,まず最初に,いくつかの断片が浮かび,断片がまたいくつかの断片を引っ張りだしてくる。これが出てくれば,なんとなく書ける予感がする。

それはもう少し具体的には,,頭の中に,いくつかのアイデアや,語彙,自分の過去に書いた文章の断片,それからとっさに浮かぶ参考文献や,そこから出てくるフレーズ等々が,雑多に頭を駆け巡り,その段階では,思いつくままに,メモを取る。

そのほとんど,フレーズだったり,ひとかたまりの考えの流れだったり,骨子のラフスケッチだったり,いろいろだ。そんなことをしているうちに,そのうちに,なんとなく全体像がかたちになり,流れになる。

口幅ったいが,それは,ちょうど,ヴァン・ファンジェの言う,

創造性とは,既存の要素の新しい組み合わせ,

という感じである。もう少し言うと,川喜多二郎氏の言う,

本来バラバラで異質なものを意味あるように結びつける,

というか,結びついて,意味がひとつらなりになっていくときが,流れの感じである。だから,編集なのである。

頭のなかで(メモを取ることもあるが)本当にラフの流れができると,もう書きたくなる。

大体そんな段階で,いきなりパソコンに向かって,打ち始める。

そうすると,流れが固まりのようになって,次々と出てくるときと,ある程度で止まってしまうときと,ほとんど数行でとん挫するときと,いろいろあるが,うまくいくときは,大体終わりまでが,書き上がる。うまくいかないときは,流れの見込み違いなのである。だから,再度,メモへ戻す。仕事だと,何とか書き上げるが,仕事でなければ,没になることもままある。

推敲とか,構成とかは,その後にすることが多い。

だから,基本は,流れのまま書き流す,というスタイルになっている。

昔は(手書きの時代だが),表現や語句に結構こだわっていて,あれこれ考えあぐねたりしたが,ワープロになってから(正確には8ビットのパソコン→ワープロ→98という流れだが)は,あまり遂行せず,出てきたものをそのまま書いていくようになった。いいか悪いかはわからないが,表現に凝る,ということがなくなった。

それは最適な表現を探すという内的な葛藤がなくなったという言い方もできるが,ストレートに書いている流れのままに紡ぎ出す方が自然だという感じなのかもしれない。

ブログを書く時も,似たもので,

書くテーマが浮かぶときは,何かに憤っていたり,思いが募っていたりするが,そうでない場合は,

フレーズ,

テーマ,

語句,

読んだ文章,

がきっかけで,自分の中から反応する思いや言葉を書き連ね,何とかまとめきろうとする意志が働く。

自分の中に反応するのは,

それへの共鳴,共振れ,

過去に考えたこと,

それへの反発・同感,

いまの心境とのシンクロ,

過去に読んだものとの共振れ,

等々多岐にわたるが,僕のなかでは,書きはじめたら,何が何でもまとめきりたいという意志だけが強い。大体,目安は,400字詰めで,10枚を基準にして,帳尻をつける。

いまの理想は,

自然体の文章,

だ。思いの流れにまかせて,淡々と,流れる文章でありたい。

文は,人なり,

というが,そんなことはどうでもよく(それは結果だから),筆がスムーズに流れていくのがいい。どこかで,無理に凝ったり,練ったりするのは,邪魔になる。

それだけに,逆にこちらの力量・技量がもろに問われる,そんな文章なのではないか。

そして,どんなお題にも,何かを必ず書ききれる,(ブログレベルの話だが)そういう書き手になりたいと思っている。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


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2014年02月17日

役割



われわれが,

この社会で他人に出会うとき,彼/彼女が自分にとってなんであるかを問われれば,何らかの答えを返すことができる。その答えは,たとえば〈妻〉であったり,〈友人〉であったり,ときには見知らぬ「他人」であったりするだろう。社会的世界において私たちが他社に与えるこの規定を,「役割」

と呼ぶ。仮に,ある人を固有名詞で呼ぶとすると,

そこには固有名で呼ぶことを可能とする関係が前提にされているばかりでなく,私自身も自分がこの他者を固有名で呼ぶことのできる関係をもっていることを知っている。

ということは,われわれは,日常的に役割存在である。

行為者は,ある役割関係を前提に,すなわちすでに存在する相互作用過程のなかで,ある役割を担う他者を見出し,対応する役割を担う行為者として,他者に対する関係好意を行う,

要は,何らかの役割なしには,この世の中に存在しえない,ということらしい。

社会的世界は先ず役割を担う個人の集合として,役割世界として,

存在している。たとえば,

他者が意味をもって,すなわち役割存在として私の世界に現れるとき,私はこの意味において反照される。

相手を上司として認識することは,自分がその部下であると認識する。しかし,それは,確定したものなのか。たとえば,ストーカーが,

相手を私の恋人

と認識したとき,相手は私の恋人になるわけではない。その瞬間,相手が私をストーカーと認識した時,私の認識には関係なく,私はストーカーという役割に転ずる。

そこは,

コミュニケーションを通して他者と共有する間主観的な役割世界,

を持ち合えなければ,妄想と現実(どちらが妄想かは,実はわからない)のすれ違いになり,どちらにとっても何も生まないことになる。なぜなら,

行為者は,役割関係のネットワークのなかで役割行為を遂行することによって,この関係のネットワークと自分自身とを生産・再生産する。この役割関係や役割行為のあり方は多種多様であり,それ自体が何らかの重層的・複合的な関係において構造化されている。その最も…基層にあるのは,人間は社会のなかでのみ個別化されうる存在である…普遍的な依存と貢献の関係である。私たちが役割関係のなかで行為し,自己実現するときの最終的な根拠は,行為者がそのなかで行為能力を備えた個人として生成するこの普遍的な相互連関にある,

からである。一方的では役割は生じない。

両者の相互作用の結果

としてしか共有されない。それは,上司(リーダーと置き換えてもいい)として君臨しても,上司として認知されないことはありうるということに他ならない。

主体は,他者との相互作用において,自己にとっての意味に応じて他者に役割を割り当て,その役割と相即的に対応する自己の役割を獲得する。つまり,相互作用は,すべて役割関係なのである。

相互作用があるときのみ,役割関係が相互で認識される,と言い換えてもいい。

相互作用を関係性と呼びかえると,その人のポジションに応じて,関係性が変わり,自分の役割が変わる。だからこそ,ポジショニングというのが,役割を考えるときに,大事になる。それについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11292391.html

でも触れた。役割関係というのは,その瞬間,相互に責務(責任と言い換えてもいい)が生まれてくる。それに伴って,

役割期待

が生まれる。期待はコントロールできないが,期待を自覚はできる。それに応えていくことが,信頼や評価につながる。

しかしである。この関係性自体が,自分とはかけ離れていくことが多い。つまり,

一度社会化された人間は,おそらくすべてが潜在的な〈自己自身への反逆者〉

となる可能性がある。しかしそれは相互関係のなかでは,多く許されない。

主観的に選ばれたアイデンティティは,個人の意識のなかでのみその〈真の自我〉として客観化されるにすぎない幻想的なアイデンティティとなる。人間は常にかなえられない目的達成の夢をもつ,

と。関係性が,桎梏になることもある。というより,関係性の向こうに(関係性を抜けた)自分自身のありようを探したがる。

自分探し,

はそれだが,結局別の関係性の中にまた結びつけられるしかない。蒸発が,そうであるように。

で思う。いま,ここでの関係性の中で,

自分のありようを示せないものに,

示せる場所はない。人は関係性の結節点そのものとしてし生きられない,社会的動物であり,逆に,そこでこそ,自分が発揮できるのだから。



参考文献;
栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社)
P・L・バーガー=T・ルックマン『日常世界の構成』(新曜社)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2014年02月18日

リソース


先日,日本産業カウンセラー協会・神奈川支部の「ブリーフセラピー・ステップアップコース」(講師;森俊夫先生)に参加させていただいた。

ブリーフ・セラピーのステップアップということで,実践的なテーマが取り上げられ,今回は,リソースがメインでワークが行われた。

キーワード風に言うと,

ソリューション・フォーカスト・アプローチにおいて,傾聴とはリソースとして聴く(問題として聴くのではなく)

ということになる。で,立て続けに,

クライアント役の「最近の最大に困ったこと」

を聴き,そこからリソースを見つけて,コンプリメントとしてフィードバックするワークを行った。

ソリューション・フォーカスト・アプローチでは,クライアントへのフィードバックには,

コンプリメント

ブリッジ

提案

がある。

コンプリメントは,第一に,クライアントにとって重要なものを肯定する。第二に,クライアントの成功と長所を肯定する。

コンプリメントは,意味的には,ねぎらうこと,敬意を表することだが,あくまでクライアントの言葉や行動にもとづいた事実に根ざしていなくてはならない。やり方としては,直接的なコンプリメントと間接的なコンプリメントがある。

直接的なコンプリメントは,肯定的評価(「それはすごいですね,よくやれましたね」)と肯定的反応(「わあ,すごい!」)がある。

間接的コンプリメントは肯定的な質問である。
①望まして結果について更に「どうやってそれをやったんですか」と質問する,
②関係を通して,「それを聞いたらお子さんはどう反応するでしょうね」と,肯定的なものを暗示する質問,
③何が最善かはクライアントがわかっていることを暗示する,「どうしてそれをしたらいいとわかったんですか」と質問する。

コンプリメントは,言語的だけではなく,非言語的な頷き,表情,身振りなどの反応も含まれる。森先生曰く,(自分には)頷きだけで何十種類ある,と。

ブリッジは,コンプリメントと提案を結びつける,提案の理由づけである。提案したことをしてもらうには,リソースを活かすのだということを,理由づけするが,そうなると,コンプリメントが,ピンポイントを突いてないと,ブリッジは,不発になる。

提案は,クライアントにしてもらうことを提案する。提案には,行動提案と観察提案がある。

森先生曰く,

コンプリメントは,ブリッジになる,

と。いいコンプリメントは,クライアントの思ってもいなかったリソースを突く。それは,リソースのピンポイントを突いているからだ,と。

コンプリメント自体が目的ではない。コンプリメントは,介入である。介入は,「こうすればこうなる…」という変化を想定してする。コンプリメントも同じである。

なぜそのコンプリメントをするのか
   ↓
その後のクライアントの良い変化を導くためである
   ↓
そのためには,どこを突けばいいのか
   ↓
それは,どこを変化させたいのか,とイコールになる。

そこにコンプリメントを入れることによって,そのリソースが生きてくる,そのようにコンプリメントをどうすればいいのか,というように変化が想定されたコンプリメントでなければならない。

それは,当然,クライアントの目指す解決像をつくるのに役立たなければならない。

結果として,そういうセラピストの頭の中の動きと,クライアントの頭の中の動きが同時に,一緒につくる,つまり,

セラピストが,このリソースがあれば解決像が実現できる

と思うことが,同時に,

クライアントも,これがあれば,解決像が実現できる,

と思えるようなものでなくてはならない。

だから,ワークで,リソースを見つけることは,多寡はあっても,それほど難しくない。

出来ている具体的なものを,

僅かな変化も見逃さず,

拾い上げていくことはできる。しかし,それは,

あくまで食材で,

それが,どういう変化に,

どう機能するかを見きわめて,ピンポイントで言語化して,

コンプリメント,

として提示する,そこには確かに森先生の言われるように,「クリエイティブ」がいる。ただリソースを並べ立てても,クライアントにとっては,いつも耳慣れていることだけかもしれない。それを,

どう変化につながるリソースとしてフィードバックできるか,確かにセラピストの技量が問われる。

それは,

現状出来ていることではなく,

またいま顕在化していることでもなく,

まだ現れてもいないし,クライアントも気づいていない,

クライアントの隠された可能性,

まさに力の源泉を探り当てることなのだから,

メタ化(あるいは一点にフォーカス)

想像力

見通す力

が必要になるようだ。

最後にやったワークショップは,

こいつだけは絶対許せない人

をクライアントに語らせ,カウンセラーも一緒になって掘り下げて,その後,その許せない人を

コンプリメント

というか,その人のリソースリストを作る,ということを試みた。そこで必要なのは,

リソースを聴く,

だが,もっと必要なのは,価値や是非や好悪の判断を手放して,

その人に焦点をあて,

その人がその人としてあるのは何か,

その人がさらにその人らしくあるには何が不可欠か,

を見抜く視点のように思えた。

これは,まさにコーチの姿勢とリンクしていく。しかしここまでの見通しをもってリソースの見極めををしているかどうか…!


参考文献;
ピーター・ディヤング&インスー・キム・バーグ『解決のための面接技法【第三版】』(金剛出版)

今日のアイデア;
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2014年02月19日

いま・ここ


ここでいう,

いま・ここ

は,カウンセリングやコーチングのセッションという閉ざされた場でのそれではない。おのれが生きている,この一瞬一瞬のいまであり,ここのことだ。

心理や内面のやり取りという抽象的な疑似空間は現実ではない。ともすると,内に向いてしまって,現実が見えなくなっていないか。そういう危惧がある。

純粋の会話は成り立たない。言葉は,その人の現実を反映し,価値を反映している。

マンガチックに言うなら,例えば,国が亡びんとしている風前のともしびの中,儒者が,最期の皇帝に,皇帝としていかにあるべきか,を講じている図に近いことはないか。

その意味で,会話自体が,時代という状況の文脈に依存している。そのことを忘れれば,温室の会話になる。

では,どれだけいまここに,生きているのだろう。毎日は,何もしなくても過ぎていく。自分が何もしないからといって,世の中が何もしないのではない。実感としては,日々,世の中が,息苦しく,閉塞感が強まっているように思えてならない。

それは,ひとりひとりがバラバラに,自己責任という名のもとに,個々に閉じ込められ,個々の感性・知性で測れるだけしか世の中の流れが汲み取れなくなっているからに違いない。

人は,ひとりで自己完結して情報を受け止めてはいけない,というのが,原則だ。

だが,そう言いながら,一体誰と,どう,ざっくばらんにキャッチボールできるだろう。そういう場が,失われつつあるように思えてならない。杞憂だろうか。

いま・ここは,過去からの時代の流れを背負い,いまがあり,ここがある。いま,ここでどうするかで,未来が決まる。

その意味で,いまの一瞬一瞬に注意を払い,集中力をもって見届けているだろうか。

なんとなく,惰性に流していないだろうか。

昨日と同じように,今日が過ぎてはいかない,過ごさせてはいけない,そんな僅かな違いに着目しているだろうか。些細だからと,そんなサインを見落としてはいないだろうか。

後から振り返って,ああ,あれが通過点だという,ティッピングポイント(それを過ぎたら後戻りの効かない時点)を見落としてしまっていないだろうか。

僕はまあ,老い先短いが,しかし,だから,責任があるのではないか。

あの時,あれを見逃したために,こうなったのか,という悔いは,後からくるものに,はコントロールできない不可抗力になる。しかし,いまを生きているわれわれには,まだわずかながら,何とか出来る,かすかな希望がある。それがたとえ,わずかでも,諦めたら,終りだ。

いまの一瞬一瞬の見落としが,妥協が,怠慢が,気の緩みが,未来を歪める。未来に影を落とす。そう考えて,一瞬の,いま・ここを生きなければ,後から来る人々に,未来を託せはしない。

未来に,自分が投企する。自分(たち)にある,わずかな可能性を開き,着地させ,実現していかなくてはならない。

投企とは,

自己の存在の可能性を未来に向かって投げ企てること,

を言うらしい。常に,自分の可能性が,未来に開かれている,という意味らしい。

ならば,まだまだ,諦めてなんかいられない,

投げ出してなんかいられない,

やけになるにはまだ早い。まだ時間が終わったわけではないのだ。未来は,まだ,少なくとも,いま・ここの一瞬先にも,開いているのだから。

自分にとっても,

友人にとっても,

仲間にとっても,

われわれ日本人にとっても,

すべての一人一人が,

死ぬまで可能性の中にある,

を少しもじれば,

自分の可能性を,未来へ投げることは,自分に関わる人の可能性も,一緒に未来へ投げることになるのではないか。自分を諦めないことが,結果として,未来を諦めないことにつながる,

少なくとも,そう信じることにしたい。

いま・ここでは。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


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2014年02月20日

表現


表現については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163571.html

で書いたが,

現(うつつ)を表わす

と書くか,

現(うつつ)に表わす

かで,微妙に違う。

「現を表わす」のを,仮にドキュメンタリーだとしよう。それは,現実を,自分の現実感で再構成することだ。そして,「現に表わす」のは,その現の現実感をベースに,現らしく表現して見せる,と置き換えてみると,背景にあるのは,その人の現実感覚であり,現実を捉える価値観(現実を見る窓枠)であることがわかる。その意味では,同じ人の現実感覚がベースにあるが,

現実として表現する

のと,

現実のように表現する

のの差は,ほんのわずかだと言いたいのだ。

僕は素人なので,あくまで,素人考えだが,

表現とは,

空間を現出させる,

ことだ。あるいは,世界と言い替えたほうがいいかもしれない。世界の見え方を決めるのは,窓枠だ。その窓枠を,価値と呼んでもいいし,感情と呼んでもいいし,知識と呼んでもいい。

いや,逆かもしれない。窓枠が世界を現出させる。

ものの見え方というか考え方が,世界をそのように見えさせる。ロラン・バルトの,

文学の描写はすべて一つの眺めである。あたかも記述者が描写する前に窓際に立つのは,よくみるためではなく,みるものを窓枠そのものによって作り上げるためであるようだ。

と言う「小説」を,絵に置き換えても,写真に置き換えても同じことだ。

アラン・ロブ=グリエの『嫉妬』は,語り手=夫の嫉妬の目を通した世界が徹底的に描かれていた。しかし,アラン・ロブ=グリエがそれを研ぎ澄ましたけれども,もともと表現は,そういうものなのではないか。

作家の限られた価値で見られた世界しか描けない。というか,作家の窓枠に入った世界しか,描けない。そのことを,手法的に顕在化させてみただけと見ることができる。

たとえば,神の目線だ,物語世界そのものを俯瞰しているといっても,その世界そのものが,すでに窓枠で限られているのだということを忘れているか,無自覚なだけだ。

そのことを非難の意味で言っているのではない。もともと表現そのものが,そういう主観的な営みなのだ,ということだ。

例えば,新聞によれば,

http://www.asahi.com/articles/ASG2L5HHSG2LUTIL033.html

造形作家の中垣克久さんの作品に特定秘密保護法の新聞の切り抜きや「憲法九条を守り,靖国神社参拝の愚を認め,現政権の右傾化を阻止」などと書いた紙が貼り付けてあることを東京都美術館が問題視し,自筆の紙を取り外させ,観客から苦情があれば作品自体を撤去する方針

だという。

これが日本の美術館のレベルだということだ。

それが政治的だ(仮にこれが,靖国や永遠のゼロ系ならどういう反応をしたのだろう)と,途端に,そこに現実の可否をダイレクトに接続してしまう。この学芸員だか美術館だかが,政治的に圧力をかけられているのでなければ,表現というものの基本が全く分かっていない人間であることを,自ら白状している。

作家の目で切り取られた世界でしかない表現に,(芸術としてのレベルを云々しているのではなく)こっち(学芸員だか美術館だか)の価値で是非を判断することは,自分の価値にしかあわないものしか展示しない,と言っているに等しい。

表現は,どういうカタチにしろ,作家が,現実を自分の主観で,切り取り,世界として描く。その描いたものが,観る側に不都合だろうが,そうでなかろうが,それ自体が表現の世界だ。

それを前提としたうえでしか,表現としてのレベルの是非は判断できない。

それを制約したり,削らせたりするのは,もう,表現そのものを制約している,作家への侮辱だということがわかっていない。

現実の政治動向や為政者の動向でふらついたり,ぐらついたりするのは,表現者ではなく,それを見ている側だ。そういうインパクトが,表現が主観的的世界だからこそある。それに振り回されるのなら,こういう企画をそもそもする器量と技量が,この美術館にはない,というほかない。

この程度の表現への意識では,たぶん,芸術の鑑識眼もいかがわしいといわなければならない。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


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