2014年02月11日

若さ


サミュエル・ウルマンの詩の一部に,

歳を重ねただけでは,人は老いない。理想を失った時にはじめて老いがくる,

というのがあり,老人には,言い訳が出来そうな感じだ。さらに,

青春とは人生のある期間ではなく,
心の持ち方を言う,

となると,まだ若いとはしゃぐかもしれない。だが,僕はそうは思わない。

人は,20代では,その年代でしかできないことをし,その積み重ねの上に,30代があり,その上に,40代があり,
50代がある,60代がある。

僕は昨今の年寄が,若さだけを競うのはおかしいと思っている。若さしか強調できないということは,歳にふさわしい知識と経験を自分の中に蓄積できなかった証のように見えてくる。

子曰く,吾十有五にして学に志し,三十にして立ち,四十にして惑わず,五十にして天命を知る。六十にして耳に順う。七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず,

というのは,まあ人生五十年の時代のこととして,これに比して,何歳か上乗せするにしても,歳にふさわしいありようがなければ,単なる呆けと同じである,と僕は思う。

確かに若い心をもち,

60歳であろうと16歳であろうと人の胸には,
驚異に惹かれる心,おさなごのような未知への探求心,
人生への興味の歓喜がある。
君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美・希望・喜び・勇気・力の
霊感をうける限り君は若い,

というのは悪くない。しかし,それは若者だから,このあとの三十代,四十代があるから,意味のあることなのではないか。

僕は,若々しい精神を持つことと,積み上げてきた人生の蓄積の上で,何をするかというのは,別だと思う。後残り少ない人生で,何をするのか,何ができるのか,はそれまでに何をしてきたかの結果として,おのずと現れる。

二十代の冒険心と,五十代六十代の冒険心とは違う。だから,(ひとのすることに茶々をいれる気はないが)七十,八十で最高峰を踏破したからといって,ちっとも素晴らしいとは,僕は思わない。ましてそのために,若い人を支え役にする,というのは,その人の人生を費やさせていることなのではないか,そう思う。

もちろん,年甲斐もなく,などとは言わない。

しかし,天命を弁えたとき,おのずと,おのれの使命があるはずだと思うだけである。

子曰く,後世畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるをしらんや。四十五十にして聞こゆることなきは,これ亦畏るるに足らざるのみ,

とは,年月を積み重ねてきたものにしか言い得ないことのはずである。それを,目利きと呼ぶ。

いま本当に必要なのは,こういう目利きというか,時代眼というか,時代精神なのではないか。

若いということは,別の言い方をすれば,愚かということではないのか。思慮が足りないということなのではないのか。

しかし若さは,未来に向かって開いている。その若さを,生き生きと発揮できる世界を創っていくことが,先行したものの役目なのではないのか。

だからこそ,若さよりは,思慮を,知恵を重んじたい。

それは,たぶん,老成や熟成とは無縁の時代への突っ張り,尖がり方である。

後からくるものに,借金と,核のゴミと,荒廃した国土を残していくことが,いま生きている,今まで生きてきた先輩たちのすることなのか。

彼らが,先人の肩に乗って,更に遠くを見る視界を得られるようにするために,

いまできることは何か,

いましなくてはならないことは何か,

いましておかなくては取り返しのつかないことは何か,

を考えること,これこそが,先に生きてきたものの使命ではないのか。

天命を知る,

とは,おのれの寿命を弁えることであると同時に,おのれの生まれてきた所以,使命を自覚することなのではないのか。

だからあえて言うなら,

ときには20歳の青年よりも60歳の人に青春がある,

かもしれないが,20歳の青春と60歳の青春は,違うのだということだ。20歳のすることに,60歳がチャレンジして,競うことではない,そう僕は思っている。

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




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posted by Toshi at 06:01| Comment(1) | 生き方 | 更新情報をチェックする