2014年02月13日
悔い
怒りは常に愚行に始まり,悔恨に終わる,
と,ピタゴラスが言ったそうだ。しかし,怒りが爆発する瞬間,束の間,そうどれくらいかわからないが,コンマ,コンマ何秒か,頭をこのまま行くとまずいぞ,という思いがよぎる。それを蹴散らすほど怒りが大きければ,その止め立てする,何と呼ぶか,理性のようなものを,踏み潰す。しかし,何十回に一回か,踏みとどまることがある。この差は何だろうか。
前にも書いたことがあるが,人生で最大の怒りの爆発時,あっ,これはまずいかも,という思いが頭をかすめた。それを蹴散らして噴出させた怒りについて,しかし不思議に後悔したことはない。
ここは勝手な妄想だが,コンマ何秒かで,どうする,このまま行くか,やめるか,を秤にかけたのだと思う。だから,一瞬自分の頭に,目の前で自分を止める両手が浮かんだときは,ほんの一瞬,是非を測っている,と信じている。
では,悔いるとはどういうことか。
辞書的には,
自分のしたことについて,そんなことをすべきではなかったと思う,
のだという。そこで思うのだが,
それは結果が失敗だったからか,成功だとしたら,そうは思わないのか。成功でも思うことがありそうなことはあるが,ともかく,だとしたら,それは,
結果から,
あるいは,
その結末から蒙ることから,
そう後悔するのだろうか。後悔先にたたず,というが,あらかじめ予期することができるなら,そんなことはしない。ということは,
結果を覚悟せず,軽率に踏み出した,そのマインドのことをいうのか,
結果を考えて,慎重にすべきだった,その振る舞いのことをいうのか,
結果を考えず,やみくも突っ走る,その生き方をいうのか,
結果を推し量りもせず,軽々に動くそのありようをいうのか,
どれを指しているのだろうか。そして,そう問いを立ててみて気づくのは,
もうひとつ,その踏み出し,あるいは振る舞いは,
自分でコントロールできないことをコントロールできるかのごとく考えたことなのか,
自分でコントロールできるかどうかをよくよく考えずに踏み出したことを言うのだろうか,
僕は,石橋を叩いて渡るタイプではないので,あえて暴言を吐くとすると,
コントロールできるかどうかは,実はやってみなくてはわからない,問題は,コントロールできないと分かった時,どうするか,誰に支えてもらうか,といったことを考慮していたかどうかが,問題なのではないか,
とは思う。しかし,もっと言うと,
やってみなくてはわからないなら,無駄にあれこれ逡巡するより,やっちゃった方が早い,
で,もしそれで,引っ返しが効かないのなら,その時点で改めて考えればいい。そう考える。少なくとも,そこに,他責はない。時代のせいでも,状況のせいでもなく,ただおのれの力量不足のせいとしか考えない。
だから,ひょっとすると,悔いる,ということはあまりない。あるとすると,
自分の力量,技量の見誤り,
を悔いるだろう。もっと力があると思ったのに,こののろま,と自分を罵るかもしれない。
だから,天命を安んじて人事を尽くす,
という清沢満之の姿勢が,自分にはぴったりくる。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm