2014年03月01日
機
渡邊大門『信長政権』を読む。
このところ連続して,読み逃していたのを拾い出して読んでいる。これもその一冊。
本能寺の変に焦点を当て,信長政権というものに迫っている。
著者の結論は,
信長の「天下一統」(あるいは戦争)の根幹には自己の権力欲と言う,極めてパーソナルなものがあった。「天下一統」後における展望や構想などがはっきりと見えてこない。…際限なき勢力拡大欲である。
信長の政権はパーソナルなものから出発したが,領土拡大とともに分国支配を配下の者に任せざるを得なくなった。そして,統治を任された配下の大名たちは,一定程度の自立性を保ち,領国支配などを行った。一見して信長独裁ではあるが,実体は多くの配下の大名たちに支えられていたのである。しかし,譜代や一門が優遇されたのに反して,外様は危機感を抱いていた。…荒木村重,別所長治はその代表であり,謀反の危険性は絶えず内包していたのである。意外と政権の基盤は,脆弱であったと言えるかもしれない。
と言う。そして,信長の対室町幕府,朝廷に対しても,それを潰そうとか,変えようとかとする姿勢はなく,
温存しながら自らの権力を伸長しようとしていた,
とみる。たとえば,義昭と交わした五カ条にわたる条書には,第五条に,
天下静謐のため,禁中への奉仕を怠らぬこと
を,義昭に求めている。著者は言う,
信長にとっての天下とは,少なくとも朝廷と幕府との関係を抜きにしては語ることができなかった。しかもその政策は意外なほど保守的である。
その意味で,本能寺の変の朝廷黒幕説はほとんど意味をなさないし,変後の光秀の行動を見る限り,突発的に決断したとみるのが妥当だ。
与力であるはずの,しかも娘婿でもあり舅でもある細川藤孝・忠興,筒井順慶が加担しなかったばかりではなく,摂津の,高山高友,中川清秀,池田恒興といった有力武将は誰一人積極的に加わらなかった。
光秀は,髷を切って出家した細川藤孝・忠興親子にあてた手紙が残っているが,そこでは,
摂津の国を与えようと考えているが,若狭がいいならそう扱う,
私が不慮の儀(本能寺の変)を行ったのは,忠興などを取り立てるためである,
等々と哀願に近い文面である。ここに計画性を見るのは難しく,著者が,
光秀が本能寺の変を起こしたのは,むろん信長がわずかな手勢で本能寺に滞在したこともあったが,他にも有力な諸将が遠隔地で戦っている点にも理由があった。彼らが押し寄せるまでには時間がかかると予測し,その間に畿内を固めれば何とかなると思ったであろう。こうした判断を下したのも,変の結構直前であったと考えられる。
と言うとおりである。しかし,
周囲の大名が積極的に光秀に加担しなかったところを見ると,光秀の謀反には無理があり,秀吉のほうに利があると考えたと推測される。
状況を見る限り,もともと無理筋の計画だったというほかはない。ところで,その光秀であるが,著者は,
これまで光秀は(室町幕府の)外様衆・明智氏を出自とすると考えられてきたが,それとは程遠い存在と言える,
のではないか,と名門の出自に疑問符を投げかけている。
つまり,幕府外様衆の系譜を引く明智氏ではなく,全く傍系の明智氏である可能性や,土岐氏配下の某氏が明智氏の名跡を継いだ可能性も否定できない。
と。つまりは,どこの馬の骨かははっきりしないということだ。だから,
いずれにしても当時の明智氏は,全くの無名の存在であった,
ということになる。だからこそ,変の直前の家中軍法で,
既にがれきのごとく沈んでいた私を(信長が)召し出され,さらに多くの軍勢を預けてくださった,
と,光秀自身が書いているのは,重みのある言葉なのだ。
光秀どころか,秀吉,滝川一益等々,信長家臣の多くは,氏素性のはっきりしないものが多い。著者は,高柳光壽氏の,
光秀の性格は信長に似ている,
を引き,こう付け加えている。
ちなみに秀吉も庶民派的な明るい性格のイメージがあるものの,実際は真逆であった。秀吉は戦場において磔刑を行い,抵抗するものには厳しい罰を科した。(中略)高柳氏が指摘するように,信長がこうした「アクの強い人物」を好んだことには注意を払うべきである。
主人は凶暴だが,部下もまた,それに似た凶暴な人物が集められている。つまり,世上言われるほど,光秀が,名門土岐氏出身の知識人というわけではないということだ。そういう先入観を取ってみれば,目の前の天下(ここでは中央すなわち畿内と意味)取りの千載一遇のチャンスを逃すはずはない,のではあるまいか。
参考文献;
渡邊大門『信長政権』(河出ブックス)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年03月02日
コーチング
第94回コーチング・フェローズのセッション会,
http://www.coachingfellows.jp/
に参加してきた。
ここには,思い出したように参加させていただいているが,最近は,なかなか人気で,毎回満席,今回も,空席が出てかろうじてすべり込ませていただいた。
懇親会の場で,
コーチをしているのか,
と聞かれて,
言葉を濁したのだろう。そこを突っ込まれた。しかし,
僕は,コーチングについて聞かれると,
やっていないと答える。あるいは,
あまり力を入れていない,
と。それは,
業として
やっていない,という意味だ。すると,よく,
コーチング
をしていないのか,と問い詰められる。そういわれれば,クライアントがいなくはない。すると,
やっているじゃないか,
と咎められる。しかし,「業」としてやっていないというのは,「業」として,それをする覚悟があるわけではない,という意味を込めている。だから,「業として」を省くと,「やっていない」という答え方になる。
依頼を受けると,させていただくが,でなければ,あまり積極的に自分を売り込まない。せいぜい,名刺交換か,ホームページの載せる程度。
それを業としていないということは,クライアントがいないと困る,という生業にはしていない,という意味だ。いい面と悪い面がある。
もちろん,クライアントに向き合って,全力でコーチングする。それは当たり前だ。しかし,どうも,僕は,それをなりわいにはしたくない。店を構える気が,あまりしない。そのために,上記のような,生ぬるい言い方になる。
コーチ
です,というのは,自分は,プロフェッショナルとしてコーチをしている,ということだ。そこが,煮え切らない。
プロフェッショナルというのは,もちろん,ピンもキリもあるが,日夜その技を研鑽して,究める努力をする。というか,していなくては,プロフェッショナルという名に恥ずかしい。イチローを見ていると,プロフェッショナルというのは,ああいうあり方であり,生き方だという,プロフェッショナルの鑑だと,つくづく思う。それほどの研鑽をしていない,という意味だ。
それに,自分は,気が多く,他にも究めたいものが,二つある。そのために,力の注ぎ方は,コーチングに一点集中ではない。
だから,いいという言い方もできる。
逆に言うと,僕は,コーチングにのめり込んでいない分,そのマイナスも見える。その内向きの穴にはまっている状態を,客観的に(もっと言うと批判的に)見る視点が,ある(はず)。それがいい面だろう。
考えるというのは,自己対話だ。しかし,自己対話をメタ化していても,結局その対話の循環,まあ堂々巡りを出るには,別の視角がいる。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388611661.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/389704147.html
に書いた。
その視角の多角化を,コーチが果たす。その時,その堂々巡り自体を写す鏡にもなる。
とすると,それをただ機械的に写すのではないはずだ。
コーチ側の視角の多様性,あるいは,幅広さが,写し方を変える。どう写すと,相手自身が,その自分のありように気づきやすいかを考えて(あるいは感じて,が正しい),その視点から写す。
俯瞰がいいとは限らない。虫瞰の方がいいこともある。一瞬に,時系列を写すこともある。
思うのだが,結局,相手を見る見方(それ自体に価値が入らざるを得ないが)は,見る人のあり方,生き方を反映している。反映して当たり前だ。その視点の取り方自体が,生き方の結果で,他の人には思いつかないことだってある。
だから,鏡は,機械的に写すのではない。
クライアントを受け止めること自体が,すでに,コーチの生き方を反映する。それを,どういう角度で写し返すかは,またコーチの価値や生き方を反映する。
鏡そのもの,あるいは鏡への写し方自体に,すでにコーチの生き方が滲まざるを得ない。
だから,コーチングが,アドバイスやコンサルティングやティーチング等々と違うということを言い立てているうちは,僕はコーチとして,プロフェッショナルではないと思っている。
なぜなら,
鏡の立て方,
何に鏡を立て,何を写そうとするか自体に,コーチのアドバイスやコンサルティングやティーチングが入り込んでいる。というか,入り込まざるを得ない。だから,セラピーでは,
コンプリメント
も
承認
も,クライアントへの
介入
という言い方をする。介入は目的がある。セラピーの方が正直だ。当然認知も,介入だ。そこを際立たせる,というのは,そこを突出して写し出したいという,コーチの意図がある。
それを際立たせる目,視点にこそ,コーチの生き方が反映している。そのとき,自分が生きている状況,時代にどれだけ鋭い目をもっているかが問われていると思う。
文脈抜きのコーチングごっこはしてはならない。
かつて,南宋が元に滅ぼされようとしているまさにその瞬間,儒者が,その幼い皇帝に,皇帝としてどうあるべきかを教えていた,という(うろ覚えだが),そういうマンガチックなコーチ-クライアント関係だけは,避けたいと,本気で思う。
人の能力は,
能力とは,知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする),
である,と思っている。その差は,発想にある。発想は,
知識と経験の函数
である。まさに生き方そのものの反映である。
となると,一本足であることを,僕はよしとしていないということになる。
だから,煮え切らないのは,コーチだけの生き方ではだめだという自分の返答を,直截に言わない方便なのかもしれない。
今日のアイデア;
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2014年03月03日
総括
谷口克広『信長の政略』を読む。
著者は,労作『織田信長家臣人名辞典』をまとめた,市井の歴史研究家である。僕は昔から,結構ファンで,『秀吉戦記』『信長の親衛隊』『織田信長合戦全録』『信長軍の司令官』『検証本能寺の変』『信長と消えた家臣たち』『信長の天下所司代』『信長と家康』等々,ほとんど読んでいる。
本書の動機について,
『織田信長家臣人名辞典』という本が,私の実質上のデビュー作である。出されたのが1995年…その18年間に単著だけで20冊近くも信長関係の本を書かせていただいた。(中略)ただそれら20冊近い著作を振り返ってみて気が付いたのだが,信長について総括した概説書が一冊もない,
という「信長の政治の総括」,いわば,政策全体の概説というか評価というのが本書である。
で,
外交と縁組政策
室町幕府と信長,
朝廷と信長,
宗教勢力と信長,
という周囲との政略と,
信長の家臣団統制
信長の居城とその移転政策
信長の戦略と戦術
という統一選へ向けた政略と,
土地に関する政策
商工業・交通に関する政策
町に関する政策
という民衆統治に関する政策とで最後に総括につなげていく。
朝廷との関係にしても,室町幕府との関係でも,それを破壊するという革命性は薄い,と著者は言う。
信長にとって,律令制の官位というのは,名誉栄典として利用する以上のものではなかったと思う。天正三年十一月の権大納言兼右大将任官は,追放した足利義昭(権大納言兼征夷大将軍)を意識したものだったと思われるが,その後…拒否の姿勢もない代わりに,猟官運動の跡などまったくない。…信長自身の政治的地位は,官位体系とは別次元に存在していた…と(いうのが)正鵠を得た表現といえよう。
そして,足利義昭との関係も信長には義昭を排斥するつもりはなかったようで,人質の子息義尋も殺していない。
著者は,吉田兼和の『兼見日記』にある兼和との対話で,自分の天皇や公家の評判を聞いている信長の様子から,
将軍と対決しようとしながらも,その正義の拠りどころを天皇に求めようとしている信長の姿,また京都にいる貴族や庶民の中に形成された世論をも気にしている信長の姿が浮かび上がるであろう。
そして,
信長ぐらい世間の思惑=世論を気にした為政者はいない,
と言う。
いわゆる,楽市楽座も,別に信長が嚆矢とするわけでもないし,信長が座を安堵しなかったわけでもない。いわゆる兵農分離は,直属の馬廻衆ですら,安土城下での出火騒ぎで,家族を尾張の領地に残したままであることが露見したくらいで,意図とは別に,徹底できていたとは言えないようである。
当然検地も,太閤検地と比べようもなく,
荘園制の特性である重層的で複雑な収取権を否定しきっていない,つまり,中間搾取の形を残してしまっている,荘園領主と妥協した政策を展開した,
と。また,安土城をみるように,近世の城郭の端緒をなすものとの位置づけがなされてきたが,
防御機能はほとんど顧みられず,政治・経済の中心としての役割を置いた白とみなされてきた。だが,惣構えの土手の発見により,
少し様相が変わってきた。近世の城に惣構えなど存在しない。いわゆる戦国自体特有の惣構えのある城,ということになると,安土城の位置づけも変わってくるのである。
しかし,にもかかわらず,著者は,革命児には当たらないが,こう総評する。
信長は現実家なのであり,その基調は合理性にある。だから,「合理的改革」と呼ぶのが最も相応しいのではあるまいか。仮に本能寺の変で倒れず,いよいよ信長の下で統一政権が発足したならば,その改革は次々と成就していったものと思われる。(中略)信長は,途中で倒れるけれども,その成果は時代の豊臣政権,更に徳川幕府へと受け継がれていく,
と。そして,「たら」「れば」で,もし本能寺の変がなければ,四国,九州,東北が,軍門に降るのは,
おそらく三年ほど。五年とかかることはなかった,
と著者は推測する。
参考文献;
谷口克広『信長の政略』(学研パブリッシング)
今日のアイデア;
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2014年03月04日
社会構成主義
ケネス・J・ガーゲン『あなたへの構成主義』を読む。
冒頭著者は宣言する。
今,世界中で,さまざまな学問の壁を越えた刺激的な対話が始まっています。それがいったいどのようなものかを,ぜひ,読者のみなさんに伝えたいというのが私の願いです。……それは,16世紀から17世紀に起こった,思想や実践の大きな転換…にも匹敵します。なぜならば,その対話は,私たちが「これは事実である」「これは善い」と考えているすべてのものの基盤を根底から揺さぶるだけではなく,クリエイティヴな考えや行為を生み出すまたとない機会を提供するものだからです。
ここで言う対話,こそが,キーワードである。事実も,価値も,我々の外にあるのではなく,我々自身の対話のなかで生み出している,これが,僕の理解した社会構成主義の肝である。それは,どこかに正解があるのではなく,正解はわれわれ自身が創り出している,ということになる。その意味では,専門性や科学性の権威性そのものを,民主化する,というような意味がなくもない。
この画期を,ポストモダンから,説き始め,それを三つに整理するところからスタートする。
第一は,言葉は現実をありのままに写しとるものではない。
第二は,価値中立的な言明はない。
第三は,記号論から脱構築へ。
第三は説明がいるでしょう。これは,ソシュールの,「意味するもの(シニフィアン)」と「意味されるもの(シニフィエ)」の関係は恣意的であり,「降っている雪」を「雪」とよぶのは,たまたま偶然にすぎない。とすると,
あらゆることばがいかなるシニフィエ―対象,人,できごと―でも意味しうる…,
ということになる。そして,もうひとつ,
記号のシステムはその内的な論理に支配されている,
ということをソシュールは言った。ということは,
言語の使用が内なる論理によって決められているということは,「意味」が言語の外の世界から独立したものである,ということを意味する,
ということになる。言語の脱構築を理論化したデリダは,
第一に,すべての有意味な行為は―合理的な決定をする,人生における重大な問題に対してよい答えを出す―はすべて,あり得たかもしれない多様な意味を抑圧することによって成り立っている,
第二は,私たちが行うすべての決定は,たとえいかに合理的に見えても,合理性の根拠を突き詰めてていけば必ず崩壊する可能性をはらんでいる,
と,その不確かさを説明している。それへの一つの答えを,ヴィトゲンシュタインは,
言語ゲーム
というメタファーで示した。どんなゲームにも(自己完結した)ルールがあるように,言葉の意味もそれと同じだと,ヴィトゲンシュタインは,言う。
言葉の意味とは,言語の中でその言葉がいかに使用されているかということ,
である。つまり,言葉は,言語ゲームのなかで用いられることによって,その意味を獲得していく。
それは,言語が事実や心を写す道具ではなく,
言葉を用いてものごとを行っている,
のであり,
相手と一緒に何かを行っている(パフォーマンスに加わっている),
のであり,その中で意味が生まれてくる。つまり,
状況を超えた事実というものは存在しない,
事実はある,ただし,常にある特定の限られたゲームの中に,事実はある,
ということになる。
こう言うことを前提に,社会構成主義は四つのテーゼをもつ。
第一は,私たちが世界や自己を理解するために用いる言葉は,「事実」によって規定されない。
第二は,記述や説明,そしてあらゆる表現の形式は,人々の関係から意味を与えられる。
第三は,私たちは,何かを記述したり説明したり,あるいは別の方法で表現したりする時,同時に,自分たちの未来をも創造している。
第四は,自分たちの理解のあり方について反省することが,明るい未来にとって不可欠である。
第三は,我々の未来が過去ではなく,
人と話したり,何かを書いたりしているまさにその瞬間にも,私たちは確かに未来を創造している
のであり,そのためには,
与えられた意味を拒否する―例えば,性差別者や人種差別者の言葉を無視する―だけではだめで…,それに代わる新しい言葉や,新しい解釈や,新しい表現を生み出さなければなりません,
と言い,それを生成的言説,と呼ぶ。結局社会構成主義は,
事実や全を,社会的なプロセスの中に位置づけ,我々の知識は,人々の関係の中で育まれるものであり,個人の心の中ではなく,共同的な伝統の中に埋め込まれていると考えている。したがって,社会構成主義は,個人よりも関係を,孤立よりは絆を,対立よりも共同を重視する,
という。その点から見ると,二つのポイントが特筆される。
第一に,心理的な言説は,内的な性格な記述ではなく,パフォーマティヴなものである。が,「愛している」ということで,ある関係を,他ではない特定の関係として形づくっている。
例えば,「愛している」を「気になる」「敬愛している」「夢中だ」と言い換えると,関係が微妙に変わる。だから,こうした発話は,単なる言葉ではなく,パフォーマティヴな働きをしているのである。
第二は,パフォーマンスは関係性の中に埋め込まれている。このパフォーマンスには,文化的・歴史的な背景を取り入れなければ何の意味も持たない。つまり,私があるパフォーマンスをするとき,さまざまな歴史を引きずり,それを表現している。言い換えると,文脈に依存している,ということになる。
ある人のパフォーマンスは,必ずある関係の構成要素である,
ということになる。
しかし,ここから疑問がわく。
関係性の中で,自分が依存している限り,確かに,
記憶やその他の心のプロセスが集合的なものであることは,いいかえれば,それらが共同体の中に配分されている,
ということは認めるし,感情も価値も,そうかもしれない。ヴィトゲンシュタインの言うように,
理解(や判断もそうかもしれない)を,心のプロセスとして理解しようとしてはいけない。……その代り,自分自身にこう問いかけてみなさい。私たちは,どんな時に,あるいはどのような状況において,「どうすればいいか,わかったよ」と言うのか,と。
意味を個人の心に閉じ込めるのではなく,人々の相互関係の中に位置づける,
と。それを,僕流に,
関係性の反映,
と呼ぶとすると,しかし,一人一人の脳のなかでの,
関係性の記憶,
というか思考のプロセスは,イコールではない。一人一人が考えていることは,文脈とイコールではない。人によって,異なる。
たしかに,
私はたった一人では,何も意味することはできません。他者の補完的な行為を通してはじめて,「私は何かを意味する」力を得る,
というのはわかる。しかし,社会構成主義の四つのテーゼの言う,第四の,
理解のあり方について反省する,
という,その反省の主体は,誰なのか。結局,この主体なくしては,対話も,反省もない。
この「私」
を「我思うゆえにわれあり」の「われ」を主客二分として,葬り去ったところから,社会構成主義はスタートしたと強調するが,しかし,反省する主体,会話する主体なくして,ゲームが成立するのか。その主体は,ゲームの単なる駒なのか。とすれば,関係性が紡ぎ出す中で,ただ紡がれていればいいのか。
関係性の他者は,主体あってこそ,他者ではないのか。
例えば,こう言っている。
私たちの現実が,他の人々に耳を傾けられ,肯定されて,会話がますます調和したものになった時,変化力をもつ対話へ向けてのさらなる動き―「自己内省」―が生じる可能性が生まれます。モダニズムの伝統として,私たちは常に「統合された自我(ego)」として会話の中に位置づけられています。つまり,私たちは,単独の首尾一貫した自己として構成されています。そのため,論理的あるいは道徳的な一貫性がない人は,人々の軽蔑の対象になりますし,私たちは自分と立場を異にする人々に対して,自らの意見を,ほころびのない織物のように作り上げようとします。したがって,私たちがいったん対立関係に入り込んでしまうと,私たちの距離は決して縮まることがありません。
その関係性に対して,
自らの立場を疑問視する試み―つまり「自己内省」への会話によって,異なる声を受け入れて,多声性を取り入れる会話がいる,と述べる,
その内省する主体である。たった一人のときでさえ,特定の文化に根差した話し方をしているにしても,その主体は,何なのか。統合された自我を否定しながら,そこは,スルーしている。いまある現状をそのままにしていくのか。普通の日常で,人と接している自分を,そのまま前提にするのか。
個人主義的な自己に変わって,関係性の中の自己,
という,その自己のことである。これについては,僕の読んだかぎり答えが見えなかった。
それを無批判に使っている,というところが気になった。それなら,例えば,
自己は,相手から認知されることで存在する,
と徹底的に置き換えてみる。しかし,それでも,そを認知し,受け止める「自己」とは何か,
答が先のばしというか,スルーされたままのような気がする。
僕は,自己について,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388611661.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/389704147.html
書いた。しかし…!
参考文献;
ケネス・J・ガーゲン『あなたへの構成主義』(ナカニシヤ出版)
今日のアイデア;
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2014年03月05日
紐
コミュニケーションが同じベースの上で行われているかを見る目安に,
同じ土俵に乗っているかどうか,
ということを考えるが,それと似たもので,二人(とは限らないが)の関係性を,
同じ紐の輪に入っているかどうか,
というのをイメージしてみた。メタファーという方がいいか。
紐と書くとなんか変だが,電車ごっこの紐ないしゴム紐を想定してほしい。
相思相愛というと,意味が変わるかもしれないが,思いを共有している状態をイメージしている。コミュニケーションの問題ではなく,思いが響きあっている関係を,この紐をもっている関係という形で象徴させてみた。
別に二人である必要はないのかもしれない。
電車ごっこ(をしているという関係)は,その紐を電車に見立てるということを共有しなければ,成り立たない。その意味では,ゲームと似ている。ヴィトゲンシュタインの言語ゲームではないが,紐で,思いの共有ゲームをイメージできる。
その思いに共鳴しているだけでいいのかもしれない,どっちへ向かうか,何をするかはともかく,そのひもを関係性の象徴として受け入れていれば,そこに関係性が成立する。
まあ,二人をイメージした方がわかりやすいので,そのままこれで進めるとすると,すくなくとも,その関係性を保とうとする意志が,その紐になる。
例えば,ブレインストーミンの,
批判禁止
質より量
自由奔放
相乗りOK
は,そういう紐のルールといっていい。それは,
相手を受け入れる,
相手を認める,
相手に○をつける,
という対人の認知,承認が前提ルールになっている,といってもいい。
それを信頼という言葉に置き換えてしまうと,少し違う。あえて言えば,恋という言葉のほうが近い。
響きあう,
というか,お互いの,
心の鐘,
思いの鐘を,
鳴らし合う,そういう関係なのだと思う。それが,両者の心を刺激し合い,アイデアや発想につながる,そういう関係である,といっていい。
成長しあう,
という言葉の方がいいか。そういう関係性を互いに認め合い,相手の想いを鳴らし,励ませる,それがそのまま自分の心の鐘に反照し,共鳴する。
あるいは,それぞれが,
おのれのままに,ありのままにふるまうことが,そのまま認められる関係,
を象徴するもの,と言ったらいいか。
紐の長さは一定とは限らない,距離の近さ,等差は,そのときどきの意志で,伸縮するだろう。そういうときはいつも近接したところでいることがいいとは限らない。
あるいは目指す方向が異なることもあるだろう。しかし引っ張りすぎれば,伸び切ってしまって,紐の関係自体が意味を失う。そんなに引き伸ばしたいなら,紐を外せばいいので,伸縮性があるといっても限度がある。
ある意味,緊張感は不可欠かもしれない。
認めあうというのは,
それなりの緊張した関係なのかもしれない。
品位,
というか,
品性,
というか,
節度,
というか。それを矜持と呼ぶか,自恃と呼ぶかはわからないか,一種の潔さと言っていい。人が何と言おうと,おのれというものを毅然として保つ,そういう凛とした姿勢だ。だから,
一期にして
ついに会わず
膝を置き
手を置き
目礼して ついに
会わざるもの(石原吉郎「一期」)
という緊張感は欠かせない。
あるいは,思うに,コーチングにしろ,カウンセリングにしろ,そのセッションは,共有する紐がなければ成り立たない。それは,あるいは,共有する意思と言い換えてもいいが。
今日のアイデア;
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2014年03月06日
勢い
第6回「女流漫画家 渡邊治四(ワタナベジョン)から学ぶキャリアアップのために必要なこと」に参加させていただいた。
https://www.facebook.com/events/237193076445754/?notif_t=plan_edited
今回のテーマは,
なぜ漫画家になりたかったのか,
今後の目標
だが,この中で,10代半ばで,投稿して,受賞した時,
勢いがある,
頁をめくらせる力がある,
と評されたという。で,いま,その勢いをどう意識化しているのか,とお尋ねしたところ,
内圧をためておいて,(ポンプのように)出し方を変える,
というような趣旨のことを言われた。それを,描くぞというモチベーションとも言われた。そのときは,ご自分の描くぞというエネルギーをコントロールできるという意味で承った。だから,
スランプはこない,
というのも,そういう貯め込む時期と放出する時期を自分で意識できるからだ,と。
が,微妙な違和感が少しだけあった。つまり,
自分のエネルギーをコントロールする,
ということと,
頁をめくらせる勢い,
とはちょっとずれがあると感じたのである。
で,考えた。勢いには,
①作家の内面のエネルギー(思いとか,描きたいという衝迫感)
と,
②作品レベル(表現レベル)での突進力
とは違うのではないか,と言うことだ。別に,表現のプロではないので,ここからは,素人の妄想だが,よく,
荒削りだが力がある,
という評が,どんな表現に対してもある。これは,表現のレベルを指す。そこには,描きたい何かかあり,描きたいという強い衝迫力が,あふれ出て,表現の巧拙を突き抜けて,奔出する,という感じになる。
そのとき,エネルギーの強さに見合う,表現技術が伴わない,という意味が強い。このときに,エネルギーが着目されるのは,表現との落差があるからだ。
しかし,そのエネルギーを,貯め込み方と,出し方がコントロールできるということは,せっかく持っていた自分の衝迫力を矯めることになるのではないか。
そこが,僕の感じた,かすかな違和感である。
必要なのは,エネルギーのコントロールではなく,エネルギーを表現する技術のコントロールなのではないか,という気がしたのだ。
あるいは,
(描きたいという,あるいはこれを描きたいという)思いの強さ,
を勢いだとしよう。それは,コントロールしてはいけないのではないか。その勢いを,勢いのまま,どう表現するかこそが,スキルだからだ。
スキルは,思いの強さを矯めるためのものではない。
そうではなく,
スキルは,思いの強さをそのまま(あるいはそれ以上に)どう現出させるか,というためにある。
僕はそう思う。
ではなくて,
モチーフの熟成し,発酵するエネルギー,
を勢いだとしよう。それはモチベーションの強さに当たるだろう。それでも,その強いモチーフに妥当する表現方法を現出させるのが,表現者の仕事なのではないのか。
当初の評者の言だけをタネに,あれこれ考えるのは邪道だが,
勢い,
という言葉に触発されたものがある。僕は,
がむしゃらさ,
無我夢中さ,
というものが勢いの原初だと思う。よく,処女作が最高傑作という言い方をしたりするのは,表現技術ではなく,その荒々しい,描きたい思いがストレートに現出しているからなのではないか,と思う。
洗練されるということは,うまくなることであってはならない。荒々しい,あるいは,
禍々しい
ほどのぎらついたものこそが,初発のエネルギーなのではないか。そのエネルギーを伸ばしつつ,あるいはそれに寄り添いつつ,それをどう表現するかにスキルの進歩がある,という気がしてならない。
処女作すら描いたことのないものが言うのも,おこがましいが。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年03月07日
突破力
【第8回 アートディレクター竹山貴のガチンコ人生!!!月例晒し者にする会。】に参加させていただいた。
https://www.facebook.com/events/663462340359215/?ref_newsfeed_story_type=regular
たまたま,その前日に,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/390642044.html
「勢い」について考えたせいもあり,そのまま引きずっている。
話の流れで,「一流とは何か」ということになった。それは,それぞれのお考えがあり,参加者も含めて,
絶対的な練習量,
その考え方というか努力の方向,
センス,
才能,
等々が出されたが,僕の頭には,野球をしている誰もが,どれだけ頑張っても(その練習の質と量自体が違うが),イチローにはなれない,ではその,イチローのイチローたらしめているものは何か,が頭の中を駆け巡っていた。
才能,
と言ってしまえば,それまでだ。僕は,遺伝子の持っている可能性の限界は,どうしようもない壁だと思っているけれども,でも,そう言ったのでは,一流とは,一流だからだと言っているようなもので,答えにならない。
ずいぶん昔,プロフェッショナルとは,を考える際に,一流,二流,三流の違いについて書いたことがあるが,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163044.html
そこでは,
①「一流の人」とは,常に時代や社会の常識(当たり前とされていること)とは異なる発想で,先陣を切って新たな地平に飛び出し,自分なりの思い(問題意識)をテーマに徹底した追求をし,新しい分野やものを切り開き,カタチにしていく力のある人。しかも,自分のしているテーマ,仕事の(世の中的な)レベルと意味の重要性がわかっている。
②「二流の人」とは,自らは新しいものを切り開く創造的力はないが,「新しいもの」を発見し,その新しさの意義を認める力は備えており,その新しさを現実化,具体化していくためのスキルには優れたものがある。したがって,二番手ながら,現実化のプロセスでは,一番手の問題点を改善していく創意工夫をもち,ある面では,創案者よりも現実化の難しさをよくわきまえている。だから,「二流の人」は,自分が二流であることを十分自覚した,謙虚さが,強みである。
③「三流の人」とは,それがもっている新しさを,「二流の人」の現実化の努力の後知り,それをまねて,使いこなしていく人である。「使いこなし」は,一種の習熟であるが,そのことを,単に「まね」(したこと)の自己化(換骨奪胎)にすぎないことを十分自覚できている人が「三流の人」である。その限りでは,自分の力量と才能のレベルを承知している人である。
④自分の仕事や成果がまねでしかないこと,しかもそれは既に誰かがどこかで試みた二番煎じ,三番煎じでしかないこと,しかもそのレベルは世の中的にはさほどのものではないことについての自覚がなく,あたかも,自分オリジナルであるかのごとく思い上がり,自惚れる人は,「四流以下の人」であり,世の中的には“夜郎自大”(自分の力量を知らず仲間内や小さな世界で大きな顔をしている)と呼ぶ。
と,整理した。いまは,少し違うところもあるが,基本は,変わっていない。自分は,
せめて,自分は四流ではなく,三流程度ではいたい,
と,思っていたし,いまもその思いに変わりはない。そこで大事にしているのは,
オリジナリティ,
ということのように思う。何かの本を読んだが,
研究者は,何を研究するかで,時代の流行を追うか,あらたな分野を追うか,そのセンスが問われる。しかし,どうにもならない袋小路に入り込んで,研究者人生を台無しにする人も一杯いる,
と。そこで穴が穿たれ,向こうが見えれば,一流となるのかもしれない。しかし,それは紙一重のような気がする。
会場で,僕は,結局,
突破力,
という言い方をしてしまったが,上記の意味で言えば,結果として,常識の壁,専門家の壁,評論家の壁,無理の壁,才能の壁,過去の壁等々を打ち破れれば,という意味だ。その壁の前に,死屍累々というのは,当然ある。自分が突破する側にいるとは限らない。
イギリスのSF作家,アーサー・C・クラークは,
権威ある科学者が何かか可能というとき,それはほとんど正しい。しかし,何かが不可能というとき,それは多分間違っている,
と言っていたそうだが,トーマス・クーンの言うパラダイムが,その時代の人の発想を制約する。僕流に言い換えると,文脈に制約される。それを破るには,強烈な衝迫力,突進力がいる。
それを破ると,何かかある,
というのは錯覚かもしれないし,勘違いかもしれない。しかし,
それを破る力がある,
と,おのれを見誤るとという過大評価するのも,考えたら,一流の証かもしれない。ただし,やりきらなければ,ただの思い上がり,自惚れに過ぎない。
自分の限界がどこにあるか発見するためには、自分の限界を超えて不可能だと思われるところまで行ってみる他はない,
という言い方を良くするが,その通りだろう,とことん,突っ走っていくことがなければ,どれだけ走れるかなんてわからない。その意味で,
走りながら考える,
という竹山さんの流儀は,僕もそうだから,首肯できる。走ってみなければ,わからない。
ただ,方向感覚は,確かめるメタ・ポジションを手放してはならない気がする。それは,
世界観,
といっていいものだ。ビジョンとは違う,自分の描こうとする,実現しようとする世界像ではなく,独自の世界観だ。大袈裟に言うと,
世界とは何なのか
どうして存在するのか
そのなかで人間はいかなる位置を占めるのか
等々についての自分なりの考え方だが,ぶっちゃけ,
この世界をどう見て,どうとらえているか,
である。そのものの見方が,どれだけ独創的か,がその人のパフォーマンスにつながる。それが,イチローのように,ベースボールについてのそれということもある。その中で,どう自分が生きるかが,イチローの実現してきたもの,これから目指すものだろう。表現の世界では,その人の目指す作品の世界像の根底にある。あるいは,それをさまざまに現出させようとして作品が生まれる。それを見失うと,どつぼにはまる。
因みに,どつぼにはまった時の脱出法は,
時間的,
にか
空間的,
にか,
そのとき,その場から,距離を置くしかない。その距離が,いつもとは違う視点での自己対話を促すのだと思っている。それもまた,走りながら会得していく。
考えると,イチローは片時も,立ち止まらず,走り続けている。しかも,日々変身し続けながら。あの長距離ランナーの姿勢もまた,一流の証なのではないか。当然,走り続ける心身のメンテナンスを欠かさない。
今日のアイデア;
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2014年03月08日
真相
フリップ・シノン『ケネディ暗殺(上・下)』を読む。
サブタイトルに「ウォーレン委員会50年目の証言」とある。ウォーレン委員会の全委員(この中には,後のフォード大統領も含まれる),その下で,調査に当たった若い調査員(ほとんどが若いバリバリの弁護士)の,委員会での活動を追っている。そこで,何が明らかになり,意図したかどうかは別に,何が明らかにされないままに残ったかを,つぶさに追う。
そして,報告書発表後の陰謀説ただならない中で,明らかにされたこと,開封された秘密にも言及し,委員会のスタッフたちが,CIAとFBIに,意識的に妨げられ,調査の方向を歪められ,隠されてきた一つの真実に,著者は辿り着く。
著者は,『9・11委員会』の調査報告書が,なぜ真実にたどり着けなかったか,本来責任を負うべき人間が免責されたかを追い詰めた『委員会9・11委員会調査の本当の歴史』を出版しているが,本書は,まさに,「ウォーレン委員会の真実の歴史」を描いている。
誰が何を妨げたか,誰が,どう消極的だったのか,何か明らかにされ,何が隠されたのか,何百という人間に会い,ほかのどの作家にも見せられてない秘密扱いの文書や私信,法廷筆記録,写真,フィルム,そしてその他多くの各種の資料に目を通すことを許された。本書内の発現や引用はすべて,側注巻末のソースノートが詳細に示すように,出典が明示されている。
と言い,こう指摘している。
わたしの目にあきらかなのは,この50年間―実際には,アメリカ政府の上層部の役人たちが,暗殺と,それにいたる出来事について,嘘をついてきたということである―とくに,誰よりCIAの高官たちが。
と,だから,当時のフーヴァーの後任のFBI長官ケリーは,
もしFBIダラス支局があのとき,FBIとCIAの他の部署でわかっていたことを知っていたら,「疑いなくJFKは1963年11月22日にダラスで死んでいなかっただろう」
と,言っている。防げる程度の情報を持っていた。もっていたのに,防げなかったことも,隠蔽の動機になっている。
本書は,当時メキシコのアメリカ大使館にいた,外交官の,国務省のロジャーズ長官にあてた,オズワルドのメキシコ滞在期間での行状に関するメモ(1969年)から,始まる。そして,それを50年後,著者が確かめることで終わる。
そのメモは,重大な方向を示していたが,それを送られたCIAはそれを,「さらなる措置は必要ない」と,CIAの防諜活動の責任者アングルトンの署名付きで,国務省へ返答した。その時点なら,まだより真実に迫れた可能性があったにもかかわらず,である。
著者は,責任者のリストとして,次の人々を挙げる。
第一に,CIAの元長官である,リチャード・ヘルムズを挙げる。ウォーレン委員会に,カストロを標的とした暗殺計画(これに,ケネディ大統領も,弟のロバート・ケネディも関わっている)を話さないという決定を下した。そして,アングルトンとメキシコ支部の責任者スコットが,フーヴァーのウォーレン委員会への手紙,「オズワルドがメキシコシティーのキューバ大使館にずかずか入っていって,ケネディ大統領を殺すつもりだと断言したことを報告する手紙,を行方不明にさせた,と著者は推測している。
アングルトンが隠そうとしたのは,CIAメキシコ支部がオズワルドについて知っていたすべて,さらには,CIAが,暗殺の四年前にさかのぼって,オズワルドを非合法に監視していた(なぜオズワルドをターゲットにしたのかはわからいまま)こと等々がある。
第二に,FBI。FBIは,暗殺日の数時間から,オズワルドに共犯者がいたという発見につながりそうな証拠を追うことを,わざと避けていた。著者は推測する。
フーヴァー(FBI長官)にとって,暗殺を暴行歴のない不安定な若いはみだし者のせいにするほうが,FBIが防げたかもしれない大統領殺害の陰謀が存在した可能性を認めるより,楽だった。(中略)もしFBIが1963年11月にすでにそのファイルに存在していた情報にもとづいてただ行動していればケネディ大統領は死ななかっただろうと断言したのは,フーヴァー自身の後継者のクラレンス・ケリーだった。
暴行歴のないどころか,オズワルドは,七ヶ月前,退役将軍ウォーカーを狙撃し,ニクソンも狙撃すると,公言していた。さらに,ケネディ射殺後,逃亡中に,職務質問した巡査を,射殺している。
第三は,委員会のトップ,ウォーレン最高裁首席判事。ケネディ家との個人的関係から,委員会に,大統領の司法解剖の写真とエックス線写真を,再検討することを拒んだ。それは,
医学的証拠が今日も手のほどこしようがないほど混乱したままになることを保証した,
と,著者は言う。さらに,スタッフに,メキシコでつながる,シルビア・ドゥランの事情聴取をさせなかった不可解な命令も含まれる。
著者は,断言する。
もし…ケネディの司法解剖の写真とエックス線写真を再検討することをゆるされていたなら,医学的証拠と一発の銃弾説についての議論の多くはとうの昔に片が付いていたかもしれない。
第四は,ロバート・ケネディ。著者は,(ウォーレンより)
もっと大きな責任を負っている。
と言い,こう説明する。
ロバート・ケネディ以上に真実を要求すべき立場にいたものはいなかった(中略)。それなのに,ロバート・ケネディは,兄と自身の非業の死のあいだのほぼ五年間,ウォーレン委員会の答申を完全に支持しているとおおやけに主張し続け,そのあいだずっと家族と友人には委員会は勘違いをしていると確信しているといっていた。
ロバート・ジュニアは,その理由を,
兄の暗殺における陰謀の疑念をおおやけに生じさせることで,差し迫った国民的問題,とくに公民権運動から注意をそらすかもしれないと恐れていた,
と言う。
著者の辿り着いた真実は,
カストロ支持者だけでなくキューバの外交官もスパイも参加するダンスパーティにオズワルドが参加していたという事実だけだ。
しかしそこでは,おおっぴらに,
来客の一部が,誰かジョン・F・ケネディを暗殺してくれないか,
と口にしていたのだ。ケネディが必死で叩き潰そうとしていたキューバ革命の生き残りのために。
著者は言う。
事実は,われわれがパーティでオズワルドを見たということだ,
とその目撃者は,50年目に再度それを確認した。その大事な情報が,その当時,ウォーレン委員会に届くことはなかった。
ケネディ暗殺の陰謀説の一部は,とくに陰謀の法的定義を考えれば,それほど強引なものではない。それにはふたりの人間が悪事をたくらむことしか必要ではないからだ。ほかの人間がひとりでもオズワルドにケネディ暗殺を焚きつけていれば,定義上,陰謀は存在したことになる。
と著者の言うように,
使嗾の機会があったという事実は,大きい。
ところで,本書は,陰謀説の根拠となっているらしいことが,いかにいかがわしいデータから出ているか,を示している例がいくつか出ている。暗殺本で著名になったマーク・レインについても,レインからもらった電話で腹を立てた,地元新聞記者エインズワースがかけたいたずらが,大騒ぎになっていくエピソードを紹介している。
この記者は,現場にいて,三発の銃声と,その場にいた人が,教科書倉庫の上部を指差しているのを確認し,走り出して,警官射殺と逃げ込んだ映画館での逮捕を,そのとき目撃している。
著者は,ウォーレン委員会のスタッフたちの地道な,ひとつひとつ洗い出していく手際もきちんと紹介している。たとえば,オズワルドの収入と,支出を,きちんと洗い出している,オズワルドが遮蔽のために積み上げた段ボールについた指紋を特定する,オズワルドは,どこへ逃走しようとしていたのか。手にしていたバスの乗り継ぎ切符から何が推測されるか等々。
著者は,
わたしは委員会の当時若かったスタッフ法律家の大半には賞賛の念しかいだいていない。彼らは明らかに暗殺についての真実にたどりつこうと奮闘していた。
と付言している。
因みに,オリバー・ストーン監督,ケビン・コスナー主演の『JFK』のギャリソン検事を,上記の新聞記者エインズワースは,ギャリソンから電話を受けて,
イカれていると同時に,選挙でえらばれた高位の公務員が,ギャリソンが信じていると明言するばかばかしい話を信じられるという事実に不安を覚える,
と一蹴している。
参考文献;
フィリップ・シノン『ケネディ暗殺』(文藝春秋)
今日のアイデア;
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2014年03月09日
奇襲
一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵』を読む。
本書は,
米陸軍軍事情報部が1942~1946年まで部内向けに毎月出していた戦訓広報誌に掲載された日本軍とその将兵,装備,士気に関する多数の解説記事などを使って,戦闘組織としての日本陸軍の姿や能力を明らかにしてゆく,
ものである。戦死者数については,
日本陸軍:戦死1,450,000、戦傷53,028
日本海軍:戦死437,934、戦傷13,342
アメリカ陸軍:戦死41,322、戦傷129,724
アメリカ海軍:戦死31,484、戦傷31,701
アメリカ海兵隊:戦死19,733、戦傷67,207
アメリカ軍の太平洋戦線での戦死は107,903、負傷171,898、その他(事故などで)死亡48,380
という数値がある。
日本兵の戦死者の六割が餓死とも言われる。病気になっても後送されることはなく,
戦争末期に至るまで,退却の際に味方重傷病者を捕虜とされぬよう殺害していた,
から,実際の戦闘で死んだ者は,もっと少ないかもしれない。しかしも後退を続ける戦線では,飛行機の特攻機だけではなく,陸戦でも,それと似た自殺攻撃が数々ある。たとえば,
木に縛り付けられた狙撃兵。
米兵はこう証言する。
日本軍が狙撃兵を木に縛り付けておくのは我が方の弾薬を浪費させるためだと思っている。(中略)三日経った日本兵の死体を木から切り降ろしたことがある。78発の弾痕があり…,
と。さらには,敵戦車に手を焼いて,
対戦車肉攻兵
を考え出す。その攻撃手順は,
①待ち伏せた一人が対戦車地雷などの爆雷を手で投げるか,竿の先に付けて戦車のキャタピラの下へ置く,②二人目が火炎瓶などの発火物を,乗員を追い出すために投げつける。③これに失敗すれば戦車に飛び乗り,手榴弾や小火器で展視孔を潰す,
というものだが,著者も言う通り,戦車には常に援護の歩兵がおり,そううまくいかない。で,こういうことになる。
日本兵が戦車正面の道路に横たわっていたのが見つかり,撃たれると体に結び付けられた対戦車地雷が爆発した。
こういう人命軽視の作戦を,軍中枢では,机上の空論で立てていた。犠牲は,一人一人の国民の人生を丸投げすることで支払われる。この種の作戦は,卑怯すれすれだから,
丘の頂上で日本兵が白旗を降りだした。(中略)彼はこっちへ来いと言った。兵が立ち上がると丘の麓に隠れていた敵が発砲した。
とか,
降伏するかのように泣きわめきながら近づいてきた。十分近づいたところで立ち止まり,手榴弾を投げてきた。
等々,「卑怯な日本軍」(戦訓広報誌)を演じることになる。これでは,ゲリラ兵と同じである。ついには,沖縄戦では,
蜘蛛の穴陣地
という人間地雷原を作り,
戦車の接近が予測されると蜘蛛の穴に入る。各自が肩掛け箱形地雷などをもっている,
という作戦を立てる。しかも,
手首に引き紐を結びつけるよう命じられているので,投げてから一秒後に爆雷は爆発する。
もちろん兵は爆発に巻き込まれる。
戦死者の中には,こういう人の命を虫けらのように扱われた兵が含まれる。その他に,撤退の命令がないための,ばんざい突撃などの自暴自棄の夜襲攻撃を加えれば,無意味な死者の数は,もっと増えるだろう。
しかもこういう作戦を考えた参謀たちは,八原博通大佐,後宮淳大将は,のうのうと生き残り,対戦車必勝法として,誇らしげに戦後語っている。しかも,八原は米軍に投降している。
戦訓広報誌は,日本兵の短所を,こう書いている。
予想していないことに直面するとパニックに陥る,戦闘のあいだ決然としているわけではない,多くは射撃が下手である,時に自分で物を考えず,「自分で」となると何も考えられなくなる,
将校を倒すと,部下は自分で考えられなくなるようで,ちりじりになって逃げてしまう,
と。著者はこう締めくくる。
米陸軍広報誌の描いた日本兵たちの多くは,「ファナティック」な「超人」などではなく,アメリカ文化が好きで,中には怠け者もいて,宣伝の工夫次第では投降させることもできるごく平凡な人々である。上下一緒に酒を飲み,行き詰ると全員で「ヤルゾー!」と絶叫することで一体感を保っていた。兵たちは将校の命令通り目標に発砲するのは上手だが,負けが込んで指揮官を失うと狼狽し四散した。それは米軍のプロパガンダに過ぎないという見方もできようが,私は多分多くの日本兵は本当にそういう人たちだったのだろうと,と思っている。その理由は,彼らの直系たる我々もまた,同じ立場におかれれば同じように行動するだろうと考えるからだ。
また嫌な時代の足音が聞こえ始めていることが気になる。徴兵,集団的自衛権,他国への兆発(多く自己肥大の結果)等々。挙句の果てに,命を使い捨てにされる。こういう太平洋戦争中の悲惨さを,もっともっと周知されるべきだろう,とつくづく思う。
参考文献;
一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵』(講談社現代新書)
今日のアイデア;
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2014年03月10日
統合
神奈川チャプター主催 ・近藤真樹コーチのファウンデーション講座「統合性を取り戻す」に参加してきた。
http://kokucheese.com/event/index/146923/
パーソナル・ファウンデーションとは,
自分自身の基盤を整えることであり,自分自身の人生の質を画期的に高めるためのシステマティックなアプローチ,
であり,自分自身の人生の質の向上のため,
基盤が強固なほど,自分の人生を思い通りに描くことができ,行動できる,
ということで,いわば,コーチ自身の自分の生き方を棚卸ししていくアプローチということになる。当然コーチの自己への視点が,クライアントへの視点に反照する。
それ自体は,別にいいのだが,僕の中では,ずっとちょっとした違和感がある。
今回の参加目的を,二人一組で話すというワークから,スタートしたが,そのとき,例によって,ファウンデーションというとき,ファウンデーションそのものにはあまり関心がなく,強いて言うと,物理的なそれではなく,心理的というか,心境としてのファウンデーションに関心がある,ということを言った。
これについては,前にも何度も書いたが,自分の基盤を整えていても,それは,ある時,突然崩れる,大事なのは,どんな一瞬でも,自分でいられる,という心的な状態が保てること,それを平常心というか,自然体というかは知らない。ただ,僕は,それを事前には準備できない,と思っている。
いや,その自分を支えるもの(がファウンデーション)ではないか,
という茶々が入りそうだが,例えば,パーソナル・ファウンデーション10の柱がある,
①妥協するのをやめる,
②自分自身を完了させる
③統合性を取り戻す
④自分のニーズを満足させる
⑤境界を広げる
⑥基準を引き上げる
⑦蓄える
⑧家族の基盤を強くする
⑨コミュニティを深める
⑩価値に向き合わせる
がクリアされても,されていなくても,極端に言うと,ボロボロな心理状態でも,クライアントに向き合った瞬間,自分を捨てて,クライアントに向き合える,そういう覚悟の方が,大事だと思っている。
僕は母が緩和ケアに入り,余命いくばくというときにも,死後葬儀までのあいだにも,クライアントには何も知らせず,コーチングをしたが,出来不出来は別に,コーチである瞬間に,自分を脇におけたと思う,その感覚が大事なのだという実感がある。それは,しかし特別なことではなく,サラリーマン時代,20代で父を失ったときも,できたかどうかは覚束ないが,仕事モードと私モードの切り替えを意識していた。そういうものなのではないか,と思う。
どんなに自己基盤を整えても,その基盤は崩れる,崩れても,今日はちょっと,という言い訳はできない。僕にはできない。だから,逆に,僕には,ファウンデーションを整えるのは,コーチ自身の(裏付けというか確信というかの)ためでしかなく,もちろんそれがクライアントを見る目を変える,ということは承知の上で,その自分をクライアントに投影するというのは,かえって余分な仮説をコーチが持つことにしかならないのではないかという懸念がある。
へそ曲がりの言い方かもしれないが,極端な話,お金がなくてあくせくしようが,未完了に押しつぶされそうになっていようが,妥協しまくっていようが,コーチングの一瞬に,そういう自分を脇に置いて,モードをさっと切り替え,クライアントに向き合える姿勢が必要なのではないか。それが,コーチという役割を背負った人間の覚悟だ,と言いたいのだ。それは,コーチングの巧拙とは別の,どんな仕事をするときにも共通の,基本的な仕事の姿勢なのではないか,と思う。それはファウンデーションとはどうもつながらない,というのが僕の感じなのだ。
コーチ自身の生活が修羅場の真っ最中であろうが,病気でヘロヘロであろうが,自分のことをさておき,クライアントに向き合うという覚悟というのか,それはスキルでも生き方でもなく,コーチとしての姿勢そのものなのではないかと思う。
それを不誠実という言い方もあるかもしれない,自分にできていないことを求めるのかという言い方もある。そうではないのではないか。何をするかを決め,それをするもしないもクライアント自身なのであって,そういうクライアントの自己対話を促すのに,コーチがどうあろうと,あまり関係はない。揺るがぬ鏡のポジションを保てるかどうかだ。それを職業マインドといってもいい。ただ,だからこそ,ロジャーズの「自己一致」は不可欠になる。自分のその状態に自覚的であることには…。
しかし,今回のテーマ「統合性」は,コーチ自身の生き方を考えるという意味では,自分のあり方を考えるいい,素材になったと感じている。いままでは,一番しっくりきたテーマだ。
統合性,
いわば,バランスである。
自分が充足している(うまくいっている)ときの自分の構成要素(のバランス),
のチェックである。当然,それを見るメタ・ポジションがいる。それがなければ,バランス云々は,注視されない。いや,考えてみたら,ファウンデーション云々を言うのは,自分の現状に問題意識があり,それを何とかしたいと思うからこそだから,その人には,メタ・ポジションがある,という言い方もできる。
要素の挙げ方自体に,その人の関心の向け方があるのではないか。例えば,
才能,知識,意欲,スキル,
知力,体力,感性,
といったところに向けるか,
環境,仕事,人間関係,家庭,経済,健康,
と分けるか,
対自己関係,対人関係,対家庭関係,対経済関係,
と分けるかは,どちらでもいい。僕は,
仕事,ワーク,家庭,生活パターン,人間関係,読書,
と並べて,結局,欠けている部分,健康に関心が向いた。
まあ,退院後一年経って,やっと,原状回復から,体力アップに関心が向き始めたことに気づいた。そして,それは,すでに,いま自分は着手し始めている,ということにも気づく。
僕はあまりバランス感覚のない人間で,偏頗なところがあるが,おのずと,生きるために,何が必要かは,自分は知っている,ということにも気づく。
最後に,統合性を取り戻すためのワークで,
来年の青梅にリベンジ,
と言ったのは,ちょっと言い過ぎかもしれない。ただ,ちょっぴり期待を込めている。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年03月11日
フラッシュバック
まいったね,これが,
フラッシュバック,
というやつなのかね。
先日,ある研修の場で,嫌な人に会った。いやな体験がフラッシュバックした。幸い,ワークを一緒にしなかったが,のっけの自己紹介のところで,遭遇した。
たぶん,相手は,自分の振る舞いにも,自信があり,こっちへ貼りつけたラベルにも自信があるのだろう。明らかな上から目線を感じて,
お元気ですか,
と言われたとき,一瞬で,フラッシュバックした,たぶん。そのとき自分の追い詰められたシチュエーションが一瞬で蘇った。
部屋の中が熱くて,汗をかいていたが,そのことも,相手の前に出たとき,(その人の前で冷や汗をかいているというように感じて)心理的な負い目として影響したかもしれない。
それは,多く僻目かもしれない。しかし,僕は,そのときの感触,不快感を忘れていないらしい。もう二年以上前の話だ。
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163096.html
それについては,もう思い出したくもないし,自分なりに決着がついたつもりだと思っていたが,未完了であった。しかし,この未完了は完了したいとは思わない。と言うか,もう,この不快感は,そのまま,自戒として,持ち続けていたい。そういうコーチングを,おのれはしていないか,と。
いやいや,ここで言いたいのは,そういうことではない。
自分と相手との関係は,そのまま引きずる,と言うことだ。もちろん現実的とは限らず,単なる心理的な関係かもしれないし,こっちの思い込みかもしれない。
例えば,コーチは,いつまでも,相手をクライアントとして見続ける。昔のコーチに会うと,相手は,意識してかしないかはともかく,クライアントとしての僕を見ているところがある。
因みに,僕は,クライアントと会っても(コーチング契約中でも,コーチング契約が終わった後も),そうは見ない。というか,そうは見られない。なぜなら,コーチ-クライアント関係は,コーチングという場での,お互いが電車ごっこの紐に入っている状態に過ぎない。ヴィトゲンシュタインの言語ゲームになぞらえれば,コーチングゲームをしている関係なのだ。ゲームが終われば,鬼ごっこの鬼が解消されるように。コーチ-クライアント関係という紐を,コーチングの場と,二人が見立てていて初めて成り立つ,仮象の関係に過ぎない。それを離れれば(紐を外せば),その関係は消えて,ただの知人関係になる。ただの知り合いになる。それができないということは,四六時中コーチでいる人か,役割としてのコーチという,役割の持つ意味を意識的に自覚できていない人だ,と思っている。
かつてのコーチングで痛めつけられた僕は,その人の前では,痛めつけられた自分の状態に戻る。そういう自分が,いないと言いたいのではない。多様な自分の中のある局面だけがクローズアップされ,それに向き合うコーチと,それを逃げるクライアントと(見られていると)いう図式に,舞い戻らされる,という意味だ。
僕が相手をそう見てしまうから,相手との間に,そういう関係を現実化してしまうのか,相手の眼にそれを感じるから,そういう自分になってしまうのかはわからない。あるいは,僕が,その人を正当に見られていないのかもしれないが,それは,その人が,正当に僕を直視しなかった,照り返しでもある。しかし,かように,コーチングのつけは,クライアントを苦しめる。
僕は,その日,ずっと心の底に苦い味を引きずっていた。
その苦味は,再会して,その関係性を意識した瞬間,
何かから逃げている,
過去に蓋をした,
と,言われて,追い詰められた,やましい自分を味あわされつづける。それは,酷い劣等感だったり,こっぴどい敗北感だったり,自己嫌悪だったり,どん底に落ち込んだ悲哀だったりする。
嫌なことに,その感覚は,翌日も,翌々日も,続いた。だからここに書いている。
それこそ,「蓋をしていた」ことがあふれてきた。
不快感が嫌だから,もう一度さらけ出す。
そのとき,ジョギングの話をしていたはずだ。まだ病気が発覚していない時だから,フルマラソンへのチャレンジを話していた,と思う。どこが楽しいのか,と聞かれた記憶がある。楽しい?と聞かれると,ちょっと違う。苦しいのだ,走っている最中は,しかし,その苦しさを耐えて,我慢して,ゴールを目指している感覚が,少ない体験ながら,僕には貴重な感覚だ,というようなことだったはずだ。
そのとき,横柄な話し方をした記憶はないし,ぞんざいな話し方をした記憶はないが,覚えているのは,
横柄だったのが,だんだんしょげていった,
というフィードバックがあったことだ。ふんぞり返っていたと取られたのかもしれないが,横柄だった覚えがなく,追い打ちをかけるように,
何かに蓋をしている,
そして,それを隠すために,何かに夢中になっていると,いう人の例をコーチが話した。いま考えると,ジョギングに夢中になることで,何かから逃げている,ということを言いたかったのかもしれない。しかし,そう言われたときに,何にも「蓋」のイメージがわかず,蓋をしていることにも思い当らず,呆然とした記憶がある。そこから,だんだん気力が萎えていった。何を言っても,逆さに受け取られていく気がして,気が滅入っていった。
書いているうちに,厄介だと思うのは,
蓋をしている,
と言われて,強いて過去を探していけば,なくはない。しかし思い浮かぶのは,たとえば,
子どもの頃,親戚でレコードを踏んづけたのに,知らんふりをした,
といった他愛のないことだ。なのに,そう言われると,それは,もっと大事なことから目をそらすために言っているのではないかと,蓋している中身を探さなくてはならなくなる。いま,懸命になっていること,夢中になっていることが,その代償行為と言われたのでは,立つ瀬がない。
そういうふうに陥っていく自分が嫌だ。
だから,潜在的に,そのとき問い詰められた,
何を隠すための蓋か,
という問いから,ずっと逃げられていないらしいのだ。
僕自身は,基本的に,過去に因果を求める考えには,反対と言うか,全く意味がない,と思っている。いま,ここで,生きている自分がどうなのか,だけだ。その自分のありよう,生き方が,過去をどうとでも見させる。
これが僕の持論だし,実感たが,
え,まてよ,この考え方自体が,過去に蓋をしている,ってこと?
まだ引きずっている…!
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年03月12日
コーチの姿勢
フラッシュバックについて,話題にしていたら,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/391125143.html?1394482487
ではどういうコーチングをしたいのか,どういうコーチでいたい(ありたい)のか,とコーチに問われた。
で,ラタンダムに,コーチとして,自分のしたいこと,ありたいことを,できているいないに関わらず,挙げてみた。コーチングは,基本的には,クライアントの自己対話の中に入り込み,そこに異なる視点を持ち込むことだと,僕は思っているが,挙げてみて思うのは,通底するのが,
●相手について仮定しない。
●緩やかな変化
●相手の枠組みであること
●みずからの考えを変える力があることを,相手自身が気づけるような状況をつくりだす
●そのために使えるリソースとなるものを相手の中に見つけだし利用する
という,エリクソンの原則だと,改めて,思った。そこで,
①まずは,自分を脇に置いて,クライアントの側にいる
コーチ自身の仮説や異見がわいてくることはある。しかし,それは,コーチの生き方であり,考え方であって,コーチの人生においては有効で,意味があっても,クライアントに意味があるとは限らない。その意見を言うときがあるかもしれないが,Iメッセージとして,伝える必要があるときまで,とっておけばいい。
コーチングは,ヴィトゲンシュタインの言語ゲームになぞらえれば,コーチングゲームである。両者が合意し,共有する土俵(あるいは電車ごっこの紐のようなものの中)に乗っていることで成り立つ。そこを外せば,成り立たない。
②鏡であること
徹頭徹尾,クライアントの,
言葉,体,心,思い,感情,気持ち,感覚,表情,しぐさ,振る舞い,息遣い,
等々を澄んだ反照で,写し返すこと。まあ,もちろん,コーチに様々な違和感,思いが巡るが,それをどれだけ脇に置いて,ただ,写せるかが,大事だ,と思っている。もちろん,
http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140302-1.html
で書いたように,そこにコーチの生き方が反映し,それに応じて鏡の立て方が,歪むかもしれないにしても。
ここには,コーチの関心で聴かないとか,仮説を貼りつけないとか,ということが含まれる。その人生のボスは,その人自身である。その人にとってのあるべき姿が大事なのであって,コーチのあるべき姿など,何の意味も役にも立たない。
③聴く
当たり前たが,耳を傾ける。ただ,クライアントに,語るクライアントに注意を傾ける。ひたすら,聴く。それは,その聴くという姿勢そのものが,受容であり,共感である。だから,関心と興味をもって,耳を傾ける。
そこにいるクライアントその人
に,ただひたすら焦点をあてて,聴き続ける。
④いいところにのみ焦点を当てる
相手がどんな人生を送っていようと,その人生のボスはクライアント自身でしかない。その人生を代わることはできない。であれば,相手自身が何を望むのか,どうなりたいのかを引き出すことはあっても,そんな人生は「間違っている」という言い方(そういう言い方をする人はいないが)をしないまでも,こちらに,あるべき姿をもっていて,それに対比しつつ,相手にラベルを貼るというやり方はしない。相手の隠された望みを引き出すために,
出来ていないところではなく,
出来ていることに目を向ける。ソリューション・フォーカスト・アプローチではないが,スケールクエスチョンで,10のうち2だとしたら,8に焦点を当てない。2に,できているところに,焦点を当てる。そこにしか,リソースはないからだ。
⑤一緒に解決しようとする気持ちを手放す
解決主体はクライアントである。そのために問題に焦点を当てるのではなく,解決状態(どうなったら解決したことになるか)に焦点を当てる。そこは当たり前だが,つい一緒に解決策を考えがちだが,解決するのはクライアントでしかない。コーチにできることは,クライアントが解決できるように,その手立て,方法を,クライアントから引き出し続ける。そのために,できないことに焦点を当てても仕方がない。出来ることに焦点を当てる。
⑥心地いいことを拾い上げる
心地よい状態でなくては,心に余裕はなく,発想は豊かにならない。発想力とは選択肢が一杯あること,そのためには,ゆとりがいる。それに効くのは,笑い,だと思っている。クライアントに笑いや笑顔が出たら,まずは正解。そういう雰囲気を一緒に醸成していく。
クライアントの痛いことを聴かないというのではない。別にそんなことをわざわざ引き出さなくても,そこに焦点が当たるように流れていく。そういうものだ。
⑦できることを信じる
というより,できるということを前提にして,コーチングする。クライアントができるとわかっているから,できることを拾い上げる。出来ていることに焦点を当てる。それは,信ずるというより,
出来るのが当たり前,
と考えている,というのが正しい。
⑧否定はない
発想というのに否定はない。ダメ,無理,はない。それと同じことだ。だから,できないところではなく,できるところにしか,できているところにしか,焦点を当てない。承認とはそういうものだ。
⑨リソースの発見
クライアント自身の気づいていないリソースを見つける。あるいは,クライアントにとって当たり前のことが,世の中的には,決して当たり前ではないと,きちんと拾い上げて,フィードバックしていくことが必要だ。
クライアント自身にとっては,特別でないことが,特別なことだと認知することが,リソースの自覚につながる。
⑩承認がベース
当たり前のことだが,そのためには,承認がベースだ。クライアントが,
そのままの自分でいい,
その人のままでいい,
ときちんとフィードバックしなくてはならない。コーチ自身に,生き方やあり方のついての理想像や,あるべき姿があって,それと対比して,そうなっていないクライアントを追い詰めてはならない。それは,二つの点で間違っている。
第一に,そのあるべき姿はコーチのそれでしかないこと,
第二に,問題にしか焦点を当てていないこと,
必要なのは,クライアントのあるべき姿であり,クライアントがどうなりたいと思っているかでしかない。仮に,クライアントがいまのままでいいと思っているなら,それをとやこういう資格は,コーチにはない。それを手放さなければ,それ望まないクライアントを追い詰めているだけだ。
⑪その人以上に見る
その人が思っている以上にその人は大きい,
その人のいま以上にその人は大きい,
そういう視点で,その人を見る。それは,単に,
できるその人,
なりたいその人,
ではなく,その人の中にある,その人の持つ大きさに着目することだ。本人以上のスケールと大きさで,本人を見ること。
⑫何でも話せる場をつくる
以上のことが,設えられて初めて,安心・安全な場になる。安心・安全な場,という言い方を,誰もがする。しかし,それができているためには,クライアントに,自分が何でも話せるのは,誰それだが,それ以外に,ここにもできた,と思ってもらわなくてはならない。そのためには,上記のコーチの姿勢がなければ無理というものだ。
僕は,コーチングにおいては,コーチのモードに切り替える。その瞬間,コーチという帽子をかぶる。そこで,いつも自然体でいたいと思う。その瞬間,コーチングという紐に入る。そのとき,僕は,フランクで,泰然として,クライアントの側にいたい。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年03月13日
コーチ-クライアント関係
かつて,コーチのファウンデーションについて,いくつか書いた。
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163156.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163157.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163158.html
しかしクライアントから見たとき,ではコーチのありようはどう見えるのか。
確かに,僕にとって,コーチが有名人であるか,高名であるか,金持ちであるか,信頼できる人物か,高潔な人か,人品骨柄のすぐれた人か,は知ったことではない。僕にとってコーチとして,僕のサポートにふさわしいかどうかが大事だ。そう思っている,これはいまも基本は変わらない。
だから,リアル世界で何をしていようと,どんなあり方であろうと,僕とのコーチングの舞台の上で,僕が信頼できるコーチとしての振る舞いをしてくれるかどうかが大事だと思う。
その意味で,逆の言い方だが,コーチングの場のみが大事で,リアルのコーチを知らない方がいい(かもしれない)。
ただクライアントの鏡として,正確に反映してくれる。その場にコーチとして存在するのではなく,自己対話の一人としてそこにいて,クライアントの対話に加わり,さりげなく自己対話を崩す問いかけをする。いつもの自己対話が,そうやって,微妙に変わって,自分を崩し,自分を変えていく。
そうであるなら,そういう環境をつくってくれるコーチが大事で,リアル世界に存在する,コーチ何某を,なまじ知らぬ方がいい。
そうは思うのだが,ハロー効果の逆を何というか知らないが,信頼度が下がることが,リアル世界での関わりがあると,結果として,コーチへのマイナスのハロー効果が増す。
それは直接コーチングとは関係ない。例えば,例は悪いが,仲間内に悪い評判が立ったとすれば,そのことで,コーチングをしている土俵上での,コーチの振る舞い,言動に不審を懐くだろう。いや,そうではない。ちょっとした違和感があると,すべては世評のせいにして,不審が勝手に膨らむだろう。一旦懐いた不安や懸念は,日に日に拡大し,ひび割れを大きくしていく。
クライアントにとって割れた鏡では,もはや正当に自分を映し出してくれる鏡にはならない。というより,写ったものが正確ではないと感じてしまうだろう。事実がどうかとは関係なく,クライアントの心理として。
そうして幾つかが重なっていくと,その懸念は,もはや不審から,不信に近づく。
しかし,それはコーチのせいではない。クライアントが勝手に懐いた不信だ。確かに,何か疑問や不安や等があれば,正直にフィードバックしてほしいと,どのコーチもいう。一般的にも,それがいいという。クライアントの正直さ,オープンマインドとして。
クライアント一人の問題ではなく,コーチ-クライアント関係での,二人の問題として,俎上に上げて,両者できちんと向き合う必要がある,というのも一理ある。そうするのがベストなのだとは,思う。
しかし,第一に,しかしこのあたりの心理的機微は,言葉になるか,という疑問がある。言葉にできないわけではないが,言葉にした瞬間,何かが零れ落ち,別のことを話していることになりそうだ。
第二は,両者で話すこと自体が,本当にそうか,という疑問がある。一般論で言うが,サービス業で,そのサービスに懸念を懐いた時,いちいちフィードバックするだろうか。黙って,立ち去るのではないか。フィードバックするということは,コーチへのモニター役を果たすことになる。それをする気持ちもないほどの心理状態というのはありうる。セラピーでは,次回の約束をすっぽかし,そのまま来なくなるケースは一杯ある。コーチングでもあるかもしれない。
例のセラピーの効果を調べたデータでは,
クライアントの要因40%
セラピスト・クライアント関係 30%
セラピーへの期待とかプラシーボ効果15%
セラピー技法 15%
といわれる。コーチングでも同じことで,クライアントの要因が大きいなら,クライアントの心的変化によって,少なくとも,関係性と期待が消えて行く。その二つが消えれば,コーチング技術への信頼も消えるだろう。
コーチ-クライアント関係は,共に成長していく。クライアントの成長に合わせて,コーチも成長していく。
しかしそれには,両者の絆というか,両者が共に同じ土俵に乗っているからこそ,お互いが切磋琢磨していくことができる。が,それが実感できない,あるいは微妙な違和感を,感じ出したとすると,その共に歩いている実感がなくなる。同じの土俵の上で,一杯コーチングの恩恵は受けた,しかしいったん失われた信頼感,一体感は,もう取り戻せない。それはクライアント側の思い違いかもしれない。しかし,それでも,崩れたものは戻らない。
そうなると,単なるサービスの契約関係になっていく。ペイはペイとして払っている。恩義はペイされている。ならば,それ以上のフィードバックは,クライアントからの返礼になる。それをしなくてはいけないのか,となる。
それは心理的なものに過ぎない。確かに,そうだが,信頼そのものが,もともと心理的なものではないのか。
コーチ-クライアント関係を解消するとき,コーチ側から言われることもある。しかし,もしその申し出がもしクライアントにとって理不尽だとすれば,それまでの信頼関係は,雲散霧消する。その申し出自体が,コーチ-クライアント関係そのものを崩すということもある。
ではクライアント側からはどうか。当初の目標が達成された,目指しているものが実現できたという円満卒業を別とすると,
ちょっとマンネリだな
コーチングそのものに不満
どうもコーチとの相性が合わない
行動変化が起きない
惰性化している
新しいコーチとの新たなコーチングをしてみたい
多くは,コーチとの関係性そのものへの葛藤からくる。
つくづく思うのは,信頼を築くには,時間がかかるが,崩れるには,ほんの小さな綻びひとつで,十分だということだ。それは,必ずしも,コーチのミスでも,コーチングの瑕疵でもないことがある。コーチ-クライアント関係そのものの土俵の崩れなのかもしれない。小さな綻びは,その気づいた時に繕わなくては,手遅れになる,そう実感した。
しかし取り繕ってまで維持する関係とは何か。つくづく,コーチ-クライアント関係というのは特殊だと思う。というより,僕のコーチ-クライアント関係の捉え方が,少し心情的すぎるのか。もう少し世の中の人は,ビジネスライクなのかもしれない。たぶん,ここにコーチング論の差が出る。期待するコーチ像の違いを反映している。
参考文献;
バリー・L・ダンカン&マーク・A・ハブル&スコット・D・ミラー『「治療不能」事例の心理療法』(金剛出版)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年03月14日
表現
brillant wing16展という,若手画家の方々の展覧会にお邪魔してきた。
https://www.facebook.com/events/214462895419363/?ref=2&ref_dashboard_filter=upcoming
ほんとに若い現役の美大生の方々と話をして,そんなに違和感なく話ができ,ふと,思い出したことがある。最近読んだ本で,大学のカウンセリングないし,臨床心理学科の先生が,最近の学生の特徴を,
第一は,悩めない。
第二に,巣立てない,
という指摘をしていたのを思い出したのである。後者は,精神的な疾患ではなく,引き籠る例だが,前者は,
問題解決のハウツーや正解を性急に求めるタイプ
漠然と不安と不満を訴えて何が問題なのかが自覚できていないタイプ,
に別れるようだ。問題なのは,この後者で,
内面を言葉にする力が十分育っていないために,大学に適応できず,対人関係にも支障をきたし,いきなり自傷,過食などを起こすが,その自分の行為自体を,説明できないのだ,という。
内面を言葉にし,イメージの世界で遊ぶ力が低下している,
という言葉と,現実に話をした若い二人との差が大きくて,その要因は,絵という表現技術を持っているせいなのではないか,と考えたのである。
それが,スポーツでも,早起きランニングでも,サッカー選手でも,野球選手でも,自分を現実に投げ出すことをしている人は,そういう違和感がないのは,自分という身体を使って,表現をしているに等しいからではないか。
ただ言われたことをしているだけの勉強では,自分というものを表現,ありていに言えば,
対象化する,
機会がなく,それだと,自分という同じレベルの自分と対話しているだけで,内省力はつかない。
前に書いたことと重複するが,キルケゴールの有名な一節が,浮かぶ。
人間は精神である。しかし,精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし,自己とは何であるか?自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいは,その関係に関係すること,そのことである。自己とは関係そのものではなくして,関係がそれ自身に関係するということである。
だから自己対話そのものは自己ではない。自分を是とする自己と非とする自己との関係そのものは,自己ではない。それに関係すること(をメタ化する)が自己なのである。
内省とは,自己対話と対話することと言い換えてもいい。その関係性は,他者との関係性を反映していると,僕は思う。だから,単なる日常的な接触程度の会話を積み重ねているだけならば,堂々巡りの自己対話を出し切れない。
のっけから話がそれたが,若い画家と話していて,違和感がなかったというのは,未熟さや不徹底はあるにしても,自分の問題意識を言葉にして,説明する力がある。それは,
いま自分は何をするためにここにいて,
何をしようとしているか
何がしたいか,
がはっきりしているということだ。その是非を云々する資格はないが,それは,自己対話を対象化している,ということに他ならない。
ひょっとすると,たまたまをそもそもとしているかもしれないが,セラピーの,
箱庭療法
や
絵画療法
が言語の拙い子供にも有効なように,箱庭のように人形やミニチュアを使って表現するにしろ,絵で描くにしろ,対象化して,表現しようとすること自体が,
自己対話と関係する場,
を作り出している,といえるのかもしれない。とすると,
表現,
というのは,特に,言葉ではなく,何かを使って表現するということは,自分が意識しなくても,自分を対象化し,対象化した自分と対話することにつながる効果がある,ように思える。
その意味では,お二人の,
コンセプトの具現化,肌の質感,
動きの瞬間の具象化,抽象への憧れ,
という言語化は,自分の自己対話と対話した,現時点での明確な自己表現になっている。それが,
技術的なものか
素材的なものか,
画材てきなものか,
主題的なものか,
は別にして,ともかく,そこへ自分を投企するテーマやモチーフを持っていることが確かに伝わってきた。
年寄りが話しても,違和感のないはずだ。
そう見ると,最後は,やはり,言語化は,欠かせない。言語を磨かないことには,その微細な自分を伝えきれないのだから。
参考文献;
最相葉月『セラピスト』(新潮社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年03月15日
看護師
【第1回 上原春日の知っていそうで意外と知らない「看護の世界」】に参加してきた。
https://www.facebook.com/events/534013656713049/?ref_notif_type=plan_edited&source=1
僕自身入院もしたし,外来は毎月通っているし,母の入院時には,通常の病棟から緩和ケアへ移動し,余命を数えるほどになって,死後に備えてのあらかじめの準備(葬儀社の手配等々)もアドバイスしてもらったり等々で,看護師の方々には結構世話になったし,なっている。その面では,患者としての視点からしか,見ていなかった看護師の方々の話を看護師の方から伺うというのは,なかなか興味深い。
まず,知っているつもりだが,知らなかったのは,
女性だけの世界…
(という下世話な興味に,男性看護師は,2~30人に一人程度だが)ドクターも,技師も男性が多く,女子だけの世界とは思わない,との答えが,一番意外であった。
そういえば,ナースセンターには,男性看護師以外にも,医師がいたり,技師の方がいたり,と確かに男性が結構いたことを思い出す。
いまひとつ関心があったのは,
看護師の仕事のやりがい,
をどこに見つけるか,ということだ。これは,看護師だからといって,皆同じということはないので,この場合,上原さんのやりがいということになるが,
楽しいスイッチ
を見つけることだ,と言われた。いわば,看護師の仕事は,援助職であり,一般化すればサービス業になる。サービスの対象は,病棟だから,入院患者になる。彼ら彼女らが,どうすれば喜んでくれるか,あるいは別の言い方をすると,患者の求めていること(ニーズ),欲していることと,どうマッチするところを見つけるかが,「楽しいスイッチ」の意味することのようだ。
身体を洗うとか体を拭くとか,看護師側が,良かれと思っても,そう欲していないこともある,いや逆に嫌だと思っていることもある,患者のシチュエーションを見極め,その間合いというかタイミングを合わせることで,せっかくのサービスをサービスとして受け取ってもらえるようにする,という意図とも言える。
上原さん本人は,注射や採決のスキルアップそのものではやりがいが感じられず,サービス相手の喜びとリンクして初めて,それがやりがいになる,ということのようだ。もちろん,自分のスキルアップそのものにやりがいを感じている方も結構いるだろう。
僕の知っている範囲では,コーチングやカウンセリングやNLPを学んでいる中に,結構看護師さんがおられた。それは,あるいは,どうすれば,患者とのコミュニケーションや関わりをよりうまくできるかを考えて,勉強に参加されておられるのだろうから,ある意味,上原さんと同様,患者とのかかわりにやりがいの焦点を当てている方は多い気がしないでもない。
専門職の世界だけに,確かに特殊さはあるにしても,組織の中で起きることは,大体起きる。病院という組織の世界で起きていることも,僕は,それほど,他の企業や自治体組織の中で起きていることと変わらないとは思っている。
大きな病院になると,結構研修システムがしっかりしていると聞くし,看護協会も,ステージごとのスキルアップやリーダーシップ研修をしているように聞いているが,それでも,聞くところによると,中堅がごっそり中抜けになっているところが多いという話は,看護師の方から必ずうかがう。
それが,国家資格に守られてたいるので,キャリアアップの転職がしやすいからなの,激務のために転職していくきっかけになるのかは,はっきりわからないが,僕の知っている範囲で言うと,看護師の方々は,多く,まじめで,それだけに,仕事を抱え込む傾向がある。それが,自分を責め,人を責めるきっかけになる気がする。
ここからは,僕の勝手な妄想になるが,
抱え込むということは,ある面,何でも背負い込むという傾向になる。それは,真面目ともいえるし,視野が狭いともいえる。たとえば,何かがあると,個人に起因させる。自分だと,
自分で何とかしなくては,
自分が頑張れば,
と,言ってみると,自分の能力に起因させてしまう,ということだ。基本的に,個々の能力アップの問題は当たり前だし,それぞれの能力アップの,個人として,組織としての努力は必要だが,それは承知の上で,僕は,何でもかんでも,個人の能力に還元させてしまう志向には,賛成ではない。
人に頼むより自分がやった方がいい,
当てにならないなら自分て処理してしまおう,
自分ががんばれば何とか回る
といった意識は,そのまま個々の能力に還元する発想に転ずる。大なり小なり,他の組織でもあるが,看護師の世界は,専門職集団だけに,これが強い,という気がする。しかも,それを自分がかかえこんでいる,抱え込ませているとは,思っていないことが多い。
電子カルテなど,IT化で,フールプルーフの仕組みが進んだ様に見えるが,個人の仕事レベルで各自が,それも仕事のキーマンが,抱え込んでしまったら,そこが,仕組みの脚を引っ張るのではないか。
例えば,コミュニケーション能力だが,個々の能力(伝えるのが上手い下手,親しくなるのが上手い下手等々)の問題にしてしまうと,結局「あいつが悪い」で済ませてしまって,組織としての能力はいつまでたったも,ちっとも変わらない。
最低限,誰がやっても,業務で必要なことは,必ず伝わるし,伝わったかどうかが確認できる,
そういう仕組みやルールを作るだけで,どれだけ無駄な悩みから解放されるか,と僕は思う。
例えば,部下に何かを指示したが,一向報告がない,でやきもきして,あいつは,報連相がなっていない云々という。そうではなく,指示したことについて,その結果報告がないことは,やっていないとみなす,それだけのルールでいい。そのルールが両者でか,チームでか,確認ができていれば,忘れていようが,報告しそこなっていようが,できていないのと同じになる。
つまらぬ例だが,別にIT化が必要なのではない。簡単なルール,取決めレベルで十分なのだ。それを部署レベル,組織レベルまで広げるには,別の仕掛けがいるかもしれないが,簡単な決め事をするだけで,無駄な心労から解放されることはある。
大事なことは,個々の能力に還元しない発想なのである。どうすれば失敗やロスやミスを,少なくするような仕組みはできないか,というふうに考える,本来,フールプルーフやフェイルセーフは,そういう発想のはずである。
だから,中抜けがほとんどの病院で問題になっているとすると,業界全体として,どこかに問題があるのではないか,個々の事情や個々の病院の組織に起因させず,どうすれば,中抜きを減らせるのか,それは,
モチベーションの問題なのか
キャリアとしての看護師の職業としてのあり方に問題があるか,
処遇に問題があるのか,
等々,いずれにしても,僕は解決できない問題はないと思っている。問題は,解決像を,個人レベルにおいているか,看護師レベルにおいているか,病院レベルにおいているか,業界レベルにおいているか,社会レベルにおいているか,それによって動かすべき対象が違うし,ハードルがどんどん上がるには違いないが,要は本気で解決したいと思うかどうかだと思っている。。
さほど内情に通じているわけではないのに,話がずれてしまったか…!
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年03月16日
セラピスト
最相葉月『セラピスト』を読む。
経糸に精神科医・中井久夫の絵画療法とユング派分析家・河合隼雄の箱庭療法を,緯糸に,戦後ロジャーズが持ち込まれて以降のカウンセリング史,彩りに,ご自身のセラピー体験を織り交ぜた,言ってみると,日本のセラピーの現状を,見事なタペストリーに織り上げている。
『絶対音感』の著者による,セラピーそのものへの肉薄である。そのために,著者は,取材を続けながら,
臨床家を目指す人々が通う大学院に通い,週末は,臨床心理士を始め対人援助職に就く人々が通う専門の研修機関で共に学びながら,臨床家になるための,またプロフェッショナルの臨床家であり続けるための訓練の一端を知ろうと考えた…。
この動機を,こう語る。
自分のことって本当にわからない―。そう。自分のことって本当にわからない。
そもそも私はなぜ専門機関に通ってまでこの世界を知りたいと思ったのだろう。私の内面にどんな動機や衝動があったのだろう。
守秘義務に守られたカウンセリングの世界で起きていることを知りたい。人はなぜ病むかではなく,なぜ回復するかを知りたい。回復への道のりを知り,人が潜在的にもつ力のすばらしさを伝えたい。箱庭療法と風景構成法を窓とし,心理療法の歴史をたどりたい。セラピストとクライエントが々時間を過ごした結果,あらわれる景色を見たい…。
まさにそのようにまとめられた著作になっている。
この問題意識にぴったりだったのが中井久夫である。中井は,河合に刺激を受けて,独自の絵画療法を工夫していく。
中井は当時,精神科医になって四年目。…患者が寡黙になる回復過程に絵画が使用できないものかと試行錯誤していた。(中略)中井が病棟を歩きながら思い描いていたのは,個別研究を通して(回復過程の)モデルを作ることだった。
その成果である「精神分裂病者の精神療法における描画の使用―特に技法の開発によって作られた知見について」で,精神医学における二つの問題を指摘している。
第一に,臨床では,なによりも徹底した研究が不足し,一般化への指向性が希薄であること,
第二に,分裂者の言語が歪められていること,
精神病理学の歴史はこれまで,患者の言語の歪みを切り取って妄想と名付け,これがいかに歪み異質であるかばかりに着目してきたけれど,臨床においてはむしろ,言語的であれ,非言語的であれ,治療者と患者がいかにして交流を可能にするかのほうが重要である。描画もこれと同じではないか。精神科医は患者の描画の異質さや特殊性にばかり注目してきたが,本当に重要なのは,意志と患者がいかにして描画で交流することができるか。
中井はそう考え,
治療者として患者にどう向き合うか,
を心掛ける。そして,箱庭療法からヒントを得て創案した「風景構成法」を,この論文で発表する。
箱庭は統合失調症の患者に使うには慎重でなければならない,という河合の紹介を受けて,
患者に箱庭療法をしてもらってよいかどうか,その安全性をテストする方法として,また,紙の上に箱庭を造るに,三次元の箱庭を手っ取り早く二次元で表現する方法として編み出した,
のが風景構成法である。この研究を踏まえて,
精神分裂病状態からの寛解過程―描画を併用した精神療法をとおしてみた縦断的監察
という,通称「寛解仮定論」をまとめる。
従来,統合失調症の精神病理学では発病の過程は多く観察されて記述されているのに,寛解(回復)の過程にはあまり関心が向いていない。中井は,統合失調症の患者に向き合って判明した事実を解説したのである。
そこでは,中井は,
沈黙に耐えられない医者は,心理療法家としてダメだと思います(山中康裕は10分間の沈黙を中井に陪席して体験している)
患者さんは,沈黙が許容されるかどうかが,医師を選ぶ際の一つの目安だと思っている…。
という姿勢であり,山中は,
中井の診察風景はまるで「二人の世界」だったとして,
こう言っている。
絵を描いてくださいというのではなく,流れの中にある。道具もわざわざ別の所からだしてくるのではなく,手元にあるものをさっと出して,ちょっと描いてみない,と誘う。とても自然です。患者が描いている間は,ほほ-,ほ,ほ,といって鑑賞する。上手下手の評価はせず,二人の世界で遊んでいるという感じでした。
この雰囲気を,著者は,一度は,クライエントとして,二度目は,中井をクライエントとして体験する。それが,逐語として載っている。著者は,
中井と行った絵画療法の逐語録を配置したのは,ふだんなら削除してしまう間や沈黙,メタファーで語り合う場の空気を感じとっていただきたいと思ったから…,
というが,読む限り,その雰囲気は,独特で柔らかである。
中井は,こう書いている。
絵を媒介にすると,治療関係が安定するのです。言葉の調子,音調が生かせるのです。ナチュラルな音調を交わすことができて,自然に気持ちが伝わる。
言葉はどうしても建前に傾きやすいですよね。善悪とか,正誤とか,因果関係の是非を問おうとする。絵は,因果から解放してくれます。メタファー,比喩が使える。それは面接のとき,クライエントの中で自然に生まれるものです。絵は,クライエントのメッセージなのです。
でも,それが一番わかるのは,不眠に悩む外来患者を見送る際,こう声を掛けるのだというエピソードだ。
「今晩眠れなかったら明日おいで。眠れたらせっかくの眠りがもったいないから明後日でもよいけれど」
こういう中井の姿勢というか態度に,いままでになかった精神療法の先達を見る。
著者の言う通り,箱庭療法や風景構成法は,数ある心理療法の一つでしかない。しかも,増大する心の病に対応するには,昨今はやりの認知行動療法やブリーフ・セラピーに比べて,時間がかかりすぎるかもしれない。
しかし,箱庭療法と絵画療法は,患者に向き合う中から日本独自に完成された療法である。そこには,第一級の河合隼雄と中井久夫という巨人の,真髄がある。
そう言えば,神田橋條治さんが,よく中井久夫のことを,尊敬をこめて言及していたのを思い出す。
読んでいて,確かにブリーフ系というかミルトン・エリクソン系譜に言及がないが,精神科医に焦点を当てたのだからやむを得ないという以上に,噂には聞いていたが,巨人,中井久夫の謦咳に接した気がして,アマゾンで,予約中の『新版・精神科治療の覚書』(中井久夫著)を,思わす速攻で購入予約してしまった。
参考文献;
最相葉月『セラピスト』(新潮社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年03月17日
作品
多く作品というと,芸術作品をイメージする。例えば,辞書的には,
作品とは,作者の精神活動を通じて創作された表現物を指す,
とある。
英語に詳しくはないが,英語に訳すと,productかworkであり,芸術作品なら,work of artとなるだけで,製品と作品を区別しないらしい。日本語だと作品と製品を分ける。作品には,個人の仕事,製品は,大量生産とは言わないが,工房の仕事,というニュアンスになる。
漢字的に言うと,
製は,
裁つからきている。
衣服を仕立てるところにあるようだ。しかし詩文を作るにも,この字を当てるらしい。どちらかと,カタ,カタチをなすものを指すらしい。製塩,製造,製紙,製糸,製糖,製版等々。
作は,
田をつくる
書をあらわす
ということに端緒がありそうだ。どうしても,作家,作詩,作曲,作事,作者,作品,作法,作用,作業,作文等々。
同じつくるだが,微妙に差がある。しかし,ここからは,個人の思い入れだが,
個人が自分がつくった,
と思えるものなら,作品なのではないか。
知人で,断熱・保温塗装の外装作業を請け負っている人がいるが,その人は,自分の完成品を,
作品
と呼んでいる。ひとつひとつ,カスタマイズし,その現場の状況に合わせてつくりあげている,という意味らしい。それは,ひとつの見識だと思う。
僕は,労働とは,
自己対象化
なのだと思っている。ほんのわずかしかそこに自分らしさが対象化できないこともあるし,自分丸ごと対象化できることもある。その意味で,その労働には,自分が生かされていなくてはならない。
これはおのれの仕事ではなくやらされていることだ,お金のためにしていることだ,と思う人は,自分の人生の無駄遣いをしている。そこで,時間と肉体と頭脳を使って,仕事をしている以上それが,自分にとってただの他人事であるなら,それこそ自己疎外を,自ら招いている。
疎外について,こうある。
人間は意識し,考える存在である。意識し続けながら,自分の中のものを自分の外へ出す。また外界に働きかけることによって,自分の外へモノをつくる。自分の考え出したことやつくった物が,自分を豊かにすることもあるし,反対に自分を抑圧し,非人間にすることもある。
もちろん仕組みや制度的に制約はあるが,そこに作品と見るか製品と見るかの分かれ道がある。
作品を表現と考えれば,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/389193629.html
で書いたように,そこに,
自分にしかできない何かを現出させたということになる。
それがわずかな工夫であれ,わずかな寄与であれ,自分にしかできないことを創り出すために,そこに自分がいる。それを,僕は誇りと呼ぶ。
知人は,
作品,
と呼んだ時,明らかに,誇らしげであった。
どんな仕事も,僕は,作品だと思う。あるいは,別の言い方をすると,自己表現である。前にも書いたが,労働とは,能力の現出化である。
能力とは,知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする),である。
発想とは,いままでの知識と経験ではできないことに向き合って,それを何とかすることである。ここに創意工夫がある。もし発想がなければ,単なる前例踏襲,日々同じことを繰り返すルーチンである。
だからこそ,それぞれの能力の自己表現は,作品なのである。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年03月18日
視野狭窄
あるところで,こういうことを書いているいる人がいた。
プロコーチとして活躍したければ,
コーチという職業の本質を理解しなければなりません。
クライアントより,自分としっかり客観的に向き合い,
クライアントと同じ以上に,自分の目標に向かい,覚悟を決め,リスクを負い,行動しつづける。
これができずして,クライアントから選ばれることも,
クライアントの心の声を聴くことも,共感することも,最適な質問をすることも絶対にできません。
一見もっともらしいが,僕は,視野狭窄だと感じた。所詮,蟹はおのれの甲羅に似せて穴を掘る,自分のコーチ観,コーチング観を語っているだけだが,そのことに気づいていない。第一,どうでもいいことのようだが,
絶対
という言葉を,見識ある人間は使わない。
僕は,この人は,ビジネスとしてのコーチングを前提にしているのだと推測する。そういう考えもあるが,そうでもない考えの人のことが,この人の頭には,からっきしない。全く視野に入っていない。だから,
視野狭窄
という。
自分が目標を達成し,ビジネスとして成功もしていないのに,コーチ面している,ないし自己満足している,
この一文にすべてがある。自分は,こういうコーチを目指している,ということを語っているだけなのに,それを人を非難する材料に使っている。それは,そのまま,おのれに返るだけだ。たとえば,
ほとんどの人が自分はさて置き,自分をごまかし,自分を癒すために,コーチングを人にやろうとしているか,自分と向き合うことに酔ってるだけの人だと感じてしまうからです。
こう感じるのは勝手だし,部分的に同感と思うことはないでもない,が,あくまで,自分がそう思っただけに過ぎない,という前提を置き忘れ,所詮仮説であるにもかかわらず,それを事実のごとくに,前提にして語り始める,
僕は,一読して,正直,
自分もやりかねないな,
と思った。ある一点で,相手が見えた気がしてしまう。錯覚に過ぎないが。
所詮,自分のコーチング観に当てはめて,それと違うコーチをけなしているにすぎないのだ。人がどういうコーチを目指しているかは,あるいは何も目指していないかは,人がどう生きるかと同様,他人の忖度すべきことではない。そのことが,この人にはまったくわかっていない。
悪いが,僕は,別にビジネスとして成功させているコーチを偉いとは思わない。また,そういうことを望むクライアントばかりでもない。誰もが,目標達成を悩んでいるわけではない。誰もが,そんなことをコーチングしてほしいと思っているわけでもない(僕は,そんなことぐらい,自分でできないやつこそ,ビジネスの失格者と思っている)。
クライアントが求めるコーチは,全く違うことかもしれないのである。目標などという目先ではなく,人生の目的かもしれない。生き方そのものかもしれない,自分の価値そのものについてかもしれない。自分の存在理由かもしれない。人との葛藤かもしれない。クライアントは,ビジネスに成功したいと人ばかりとは限らないのである。その意味でいうと,コーチングについても,コーチ(像)についても,クライアントついても,まったく,
メタ・ポジションをもてていない。
だから,「ある一点」で,と言った。自己肥大と言い換えてもいい。自惚れと言い換えてもいい。勘違いといってもいい。
世の中にどれほどのコーチがいるのか,どれほどのコーチングがあるのかも,弁えず,いや弁えていないから,野放図なことが言えたのだろうが,おのれのコーチングに鼻を高くしている図は,正直言ってみっともない。
今は昔の光通信の,何と言ったか知らないが,あの社長に似ている。
どうもこの人は,文章からみると,自分のコーチ業が,ビジネスとして成功することが,もっとありていに言えば,金儲けに成功すれば,自分のコーチングに箔がついたと思っているらしい。しかしそうは思っていない人にとっては,そんなことはコーチを測る目安ではない。
百歩譲っても,コーチングあるいはコーチを測る,唯一の目安ではない。逆に,コーチで(あるいはセラピーでといっても同じだか),金儲けしている輩こそ,胡散臭いと考える人間だっている。どっちが正しいかではない。なりわいとしてのコーチについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/390224446.html
で書いた。そういうコーチを求めるクライアントもいるだろうから,それはそれでいい。それはしかし,コーチが決めるのではなく,クライアントが決める。コーチに似たクライアントが,そのコーチに来る,というだけで,それがすべてではない。
大事なのは,相対的なものの見方だ。それを測る目安が,
メタ・ポジション
なのだ。
例えばだが,僕は,コーチをつけるエクゼクティブを軽蔑している。自分の起業をコーチングする人間も軽蔑している。自分ひとりでとことん考えないやつに,経営ができるはずはない。起業ができるはずがない。風潮だから,勝手にすればいいが,トップクラスの企業家がコーチをつけている,聞いた瞬間,トップクラスではないと見なすことにしている。そういうコーチング観もあるということだ。
そのことについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140214-1.html
で触れた。
ついでだから,書くが,自分に向き合うことも,コーチに必須とは思わない。そんなことをしなくても,クライアントに向き合い,クライアントの気づきに立ち会えるコーチはいる。まして,
クライアントと同じ以上に,自分の目標に向かい,覚悟を決め,リスクを負い,行動しつづける,
のも必須とは思わない。そんな程度のことは,普通の人間は,そう意識しないで日常やっている。働くということは,まさに,
自分の目標に向かい,覚悟を決め,リスクを負い,行動しつづける,
ことなのではないのか。日々営業マンも,事務の人も,開発の人も,研究者も,何も「リスクを賭ける」などという大袈裟な言い方をしないだけで,やってのけている。それだけのことだ。それを特殊と思うこと自体に,思い上がりがあるが,まあいい。
コーチがどんな経験をしているかなんぞは,どうでもいいのだ。クライアントに関心があるのは,クライアント自身であり,クライアントの人生だ。
あるいは,
自分の目標に向かい,覚悟を決め,リスクを負い,行動しつづける,
というのは,コーチが自分の納得のために,弁明のために,自尊心のためにやっているだけで,クライアントは,クライアント自身の人生について,聴いてほしいのだ。
僕は,呑兵衛でもろくでなしでも,いい加減な人生を送っている人でも,クライアントに向き合った瞬間,
クライアントのいるその場にいて,一緒にクライアントの見るものを見られる人,
なら,それで立派なコーチングなのだと思っている。生真面目に,自己に向き合うほど,らっきょの皮をむくように,何もない自己に気づくだけだ。
ああ,つまらんことに時間を使った。こういうコーチがいるから,コーチング界は,まだまだ未熟なのだ。多様性こそが,どの世界でも,活性化の鍵でしかない。
所詮,コーチング,コーチという理論と実践,方法自体,例によってアメリカから借り物の理論に基づいている。つまり,
自分の目標に向かい,覚悟を決め,リスクを負い,行動しつづけ…
た結果,自分が考え出したことではないということだ。僕流のプロフェッショナルの定義から言えば,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163044.html
で書いたように,一流ではなく,二流以下でしかないので,誰もかれも,同様に,
剽窃者,
下世話に言えば,
パクリ,
でしかないことを忘れないことだ。
それを謙虚という。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年03月19日
奇跡
前回に続いて,先日,日本産業カウンセラー協会・神奈川支部の「ブリーフセラピー・ステップアップコース」(講師;森俊夫先生)の
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388984031.html
第二回目。今回は,「ミラクル・クエスチョン(MQ)」を中心に,その実践バージョン。
ソリューション・フォーカスト・アプローチにおける,ミラクル・クエスチョンは,たとえば,こんなふうに始まる。
「それではちょっと変わった,たぶん耳慣れない質問をしたいと思います。少し想像力を働かせていただけますか」
「ちょっと想像してみてください」
「ここで面接を終えた後,あなたは家へ帰って夜,テレビを見たり,いつもどおりのことをしたりして,そしてその後ベッドに入っておやすみになられますよね」
「そして,あなたがおやすみになっている間に,奇跡が起こります…」
「そして今日ここで,あなたが相談にこられたことが解決するのです。アッと言う間にね…」
「しかしこの奇跡は,あなたがおやすみになっている間におきたので,あなたは奇跡が起きたということはわかりません」
「朝,あなたが目覚めたときに,
a;あなたに奇跡が起きたことを,どんな風にあなたは気づくのでしょうか?
b;あなたの一番の友達(あるいは家族)は,あなたに奇跡が起きたのをどのように知るのでしょうか?」
aは,自己視点,bは,他者視点で,相手に応じてどちらかの問いをして,変化を記述してもらうことになる。そして,ここからは,「ビデオトーク」というか,詳細に細部を,具体的に聞いていく。ここが,MQの肝なのである。
ところが,である。
実はお恥ずかしいが,今回初めて気づいたことがある。このMQは,いままでも試みたことがあるが,間違っていたのは,問いをしていくうちに,
起きている奇跡そのものを聞き出そうとしていた,
らしいのである。しかし,今回,改めて再確認したのは,ここで必要なのは,奇跡の,
何が(起きている)か
ではなく,それはクライアント自身にわかっていればいいことで,
既に手に入れた状態,
をこそ,詳細に聞いていくことなのだ。すでに,なりたい,ありたい,
解決状態にある,
そこでどういうふうに生活しているのか,こそが大事な,
手に入れた状態,
なのである。そこで,
何をしているのか(→何ができているのか)
何を感じているのか(→何が感じられているのか)
何を考えているのか(→何が考えられるようになったのか)
何を思っているのか(→何が思えるようになったのか)
という,具体的な状態,それこそが,クライアントが求めてきたことなのではないか。その,
起きてしまった奇跡の中でどう生活しているのか,
こそが,詳らかに,それこそ,微に入り細に渡って,具体化し,具象化しなくてはならない。それこそが,クライアントの手に入れたかったものだからだ。そして,そこで,いますでに,
起きている奇跡,
つまり,「例外」を探していくことになる。それは,すでに,いま,気づかないうちに,
できていること,
手に入れていること,
なっていること,
なのである。これが解決の手掛かりになる。
だから,ミラクル・クエスチョンが,
解決像の構築,
となる所以なのだ。もちろん,ミラクル・クエスチョンのバリエーションは一杯ある。よくあるのは,
自信がない,
というのに,
もし自信がついていたらどうなっている(解決状態)んですか
と問うやり方がシンプルかもしれない。コーチングでもよくやる。あるいは,
理想と言い替えて,
理想が実現したら,
というのもある。未来からの電話や,未来へのタイムマシンや,もう一人の自分への変身や,どこでもドアや,工夫次第で,いまのステージから,一気に手に入れた状態へ誘う,手段の取り方次第,ということになる。
だから,ミラクル・クエスチョンの要素としては,
●起こりえない変化が起きた,という表現であれば,奇跡でも,未来でも,構わない。
●すべての問題が解決されている,というところが鍵。そこで言われていることも,言われていないことも,すべて実現した状態,ということだ。
●それが,いますぐ,即時に,日常生活の中で起きている。
●それにクライアントは気づかず,起きてしまっている。なぜ起きたかは,どうでもいい。
その状態の中で,何ができるか,を詳細にたどることが,クライアントの求めている解決状態の確認になる。
それが求めていた解決状態
なのだから。
参考文献;
テリー・ピショー&イボンヌ・M・ドラン『解決志向アプローチ再入門』(金剛出版)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年03月20日
生かされてある
「地に足をつけてご機嫌に生きる」(川本恵コーチ)のワークショップに参加してきた。
https://www.facebook.com/pages/%E5%9C%B0%E3%81%AB%E8%B6%B3%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%91%E3%81%A6%E3%81%94%E6%A9%9F%E5%AB%8C%E3%81%AB%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B/428899830548619
もう何度目だろう。僕の中に,
大地に根が生える,
というとちょっと言い過ぎだが,
地軸につながる,
というか,
大地に足をつける,
という感覚が,すこしだけある。グランディングしている最中,地軸を意識した時,錯覚かもしれないが,
何かが,すっと身体を通り抜けていく,
感覚がある。胸キュンとはちょっと違うが,胸を,
じん,
とさせる何かが湧く。
グランディングのエクササイズは,時に,変化しているので,ある程度,
やっていても,
グランディングになっていない,ということが起きる。
今回は,従来と全く違う,
マカバチャクラ・スペシャル・エクササイズに変わった。
その多くは,
感謝と身体の確認
である。特に,今回加わった,おのが身体の部位を順次,確かめる動作をしているうちに,つくづく思ったのは,そうやって身体を意識する中で,
生かされてある,
ということを強く感じさせられたことだ。これは,
天,
あるいは,
天命,
と,関わる気がする。これについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163401.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163558.html
にも書いたが,そこで書いたように,清澤満之が,
天命を安んじて人事尽くす,
と言った言葉に惹かれる。
人事を尽くして天命を待つ
で,どこかに驕りがある。我欲がある。しかし,
天命を安んじて人事尽くす,
には,甘んずる,ということもあるが。そうではなく,
そこにある,
生かされてある,
を丸ごと受け入れている感じがある。
生かされている,
のでは軽く,
生かされてある,
がピタリ来る。
だから,
受け入れる,
あるいは,
引き受ける,
には積極的に,ここに生きていることを,認め,あるいは,
感謝する,
思いがある。
感謝は,まるごと,この世界に,いま,自分があることの,感謝である。
ほかでもなく,この人との関わりの中に,いま,このときに,生きてある,
その特別性を,
自分が認知するからこそ,意味が見える。とすれば,
一刻一刻,
一瞬一秒,
も無駄な時間はない。
やらなくてはならないことが,山積している。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm