2014年03月21日

普通


普通には,広く一般に通じるという意味と,どこにでも広く見受けられ,つまりありふれている,の意味がある。しかしこれを英訳すると,

常態,あるいはレギュラーという意味の,

Normal(反対は,abnormal)

と,共通というか共有するという意味の,

Commont(反対は,uncommon)

と,いつものの意味の,

Usual(反対は,unusual)

のほかに,

Ordinary(反対は,extraordinary)

というのがある。別に英語に強くないので,あてずっぽうで言うが,四者の区別は,厳密にはつかないが,average,つまり並みの,ありふれた,というか,特別ではないというか,平々凡々,というのが,Ordinaryにふさわしいような気がしている。

それは,勲章なのだ,とこの頃思う。

ルイス・キャロルの,『鏡の国のアリス』に登場する,赤の女王が,

その場にとどまるためには,全力で走り続けなければならない

It takes all the running you can do, to keep in the same place

と言ったが,その平凡さを保つのは,実はそんなに,容易ではない。水面下で,ばたばたと足をばたつかさなくては,その場にとどまりつづけることは難しい。

ワナメーカーというアメリカの実業家が,

自分の仕事を愛し,
その日の仕事を
完全に成し遂げて
満足した軽い気持ちで
晩餐の卓に帰れる人が,
最も幸福な人である

と,言っていた言葉は,彼の理想なのか,現実なのかはわからないが,そういうニュアンスが読める。

僕の父親は,官吏で,二三年毎に,全国転勤しまくったが,幸か不幸か,職住接近で,5時少し過ぎには官舎に帰ってくる毎日だった,と記憶している。

地方検事

が職業だったが,昨今は知らず,その当時は,地方では名士らしく,転勤の度に,当時の国鉄の駅長室に案内されて,そこで時間待ちをしていた。確か,赤絨毯が引き締められていたように覚えている。そこだけだったのかどうかは記憶にないが。

いま振り返ると,仕事は精神的には激務だったのではないか,と思う。中には父の関わった,未だに判例になっているらしい刑事事件もある。引いてみたことはないが,ネットでも調べられるらしい。閑話休題。

要は,そういう仕事と家庭とが,どういうふうに父の中でバランスが取れ,(子供心にも)日々を淡々と過ごしていったのか,がいま振り返ると,結構興味深い。

ありきたりの日常は,失ってみて初めて気づく。そのリズムというか,テンポというのは,そのときにはなかなか気づかない。しかし,だらしなく過ごしているのとは違う,

緊張感,

というか,張り詰めたものが,日々ある。

日々是好日,

とはこれを指すのだろう。それは,一日一日を,かけがえのない,他に換えられぬ一日として,

時々刻々

を大切に生きる,と言うことだ。それは,そんなに易しくはない。

一瞬一瞬の振る舞いを,

考えながら,意識しながら,生きる。

しかし,それは日々是好日して,という意味ではない。

自己完結させた,内向きだけでは突然,外から壊される恐れがある。それを防ぐために,自分の状況,時代を監視しつづけなくてはならない。いま,その普通が,普通であり続けることを可能にしない時代が来つつある気がしてならない。

戦前もそうやって普通にした日々が,気づくと,いつのまにか,死地にいさせられる状況になっていた,そんな感じだとよく聞かされる。

そういえば,戦傷して帰国した父が,思い出したように,ぽつりと口にした言葉は,

酷いことをしてきた,

という言葉だ。意図しようとしまいと,他国へ侵略するということは,そういうことだ。

上海敵前上陸で,ほぼ全滅した部隊をかろうじて生き残った者の,警告だったと思えなくもない。そうした経験者がいなくなると,こういう時代が来る。

その中から,父は,改めて司法試験を受け,人生をやり直して,やっと手に入れた平々凡々だったのだ。



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2014年03月22日

コーヒーショップ


コーヒーについての思い入れについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163584.html

で書いたことがあるが,昨今は,セルフサービス型のコーヒーショップが大流行だ,スターバックスだの,タリーズだの,ベローチェだの,ドトールだの,プロントだの,サンマルクカフェだの,エクセルシオールだのとあって,昔風の,喫茶店と言えるのは,珈琲館だの,ルノアールだのがわずかにあるだけで,なかなか落ち着かない。

だから,多く時間調整か,暇つぶし,時間稼ぎ程度の使い方になる。

あるいは待ち合わせて,そうそうに出る,というような。

そんなわずかな時間つぶしによくするのは,いまだと,

スマホ

をいじるということのようで,本を読んだりしているのは,学生さんの勉強を除くとまず見かけなくなった。確かに,ツイッターを眺めていたり,フェイスブックわ見ていれば,時間つぶしにはなる。

が,ふともったいない,と感じる。ツイッターで得られる情報というのは,あるが,玉石混交,悪意に満ちた書き込みを見ていると,こちらの心が乱れるし,こちらが汚れる気がする。

もともと,僕はメモ魔で,バスや電車の中で,結構メモを取る。

メモは忘れるために取る,

という名言を吐いた人がいたが,短期記憶にとどめておける絶対容量は少ない。で,メモることで,それを忘れて,脳の中の流れを滞らせない。

面白いもので,メモは,結構問題意識の持続を反映していて,間歇的に同じことを思いついていることに気づく。それも少しずつ発展して,思いつく。

脳は,「?」を投げかけると勝手に考え続ける,

とはよく言ったものだと思う。ただ,文脈に依存したことをメモした場合には,少し状況説明的なことを加えておかないと,全くその意図が思い出せないことがあるが。

で,だ。そういうメモを取ることに時間つぶしを当てる時,僕は,よく,

モードを決める,というか,

さあて,考えるか,

とスイッチを入れて,モードを切り替える。で,

よし,これから仕事の○○について,考えるぞ,

とか,

よし,これから(毎日1アイデアを課しているので)アイデアを考えるぞ,

とか,

よし,追いかけているテーマについて,考えるぞ,

とか,

よし,ブログのテーマ出し(テーマから中身を書き出すので)をするぞ,

と,考えるモードを決める。決めて,すぐに,前に考えていたことの継続を意識し始めることもあるが,決めても,他へ流れたり,雑念が出たりする。しかし,そうやって,行きつ戻りつしていることで,結果的に,アイデアが浮かんだり,別の仕事についての着想を思いついたり,と考えモードは持続していく。

傍から見ると,それは,ぼんやりしている状態といっていいが,

ぼんやりしている,

という状態は,実は,外への関心や注意を手放して,内部の意識の流れそのものにゆだねる,と言うのに近い。外への注意・警戒がいらない,コーヒーショップ,電車の中,旅行中の列車の中は,その意味で最適といってもいい。

アイデアの三上,

厠上
馬上
枕上

というし,英語でも,3B

Bus
Bath
Bed

と言う。

脳は,自分の知っている以上を知っている,

とも言う。自分のリソースが産み出すに任せても,たまには,いい。ことは意識的にいつもなるとは限らない。

そうそう,ぼくは,よく夢の続きを見る。思い違いかもしれないが,あっ,これはこの間の続きだ,と夢の中で気づくことと,目覚めてから,ああ,この間(何年も間隔があくこともある)の続きだった,と気づくこともある。

だから,ずっと継続している感覚が,いつもある。

脳は勝手に働いている。



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ラベル: メモ
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2014年03月24日

才能


才能,

という言葉に,ずいぶん振り回されてきた。最近は遺伝子レベルで限界がある,と言うことに,ようやく納得するようになった。まあ,ありていに言えば,諦めがついた。

才能を,辞書で引くと,

才知と能力,

とあり,

ある個人の一定の素質,または訓練によって得られた能力,

と。しかし,才知を引くと,

才能と知恵,

とあり,

物事をうまく行う,頭の働き,

と。

要するに,これではよくわからない。

では,能は,と見ると,

為しうる力,

とあり,才は,と見ると,

ただす,見分ける,目利き,

とある(「裁」と同義)。ここから,僕流に,勝手に妄想するに,

才能と言うのは,

自分の能を目利きすることができる,

ということなのではないか。

言い換えると,

能力の即自性,あるいは,即自的な能力,

ではなく,

能力の対自性,あるいは,対自的な能力,

つまり,自分の能力への批評力がある,ということではないか。

才知は身の仇

という言い方があるが,小賢しい才知で何とでもなっている,思い上がりを諭している。

つまり,ただ能力があるだけでは,才能とは言わない。それはただの自惚れに過ぎない。そうではなく,

自分の力量,技量を,測れる,

ということに力点がある。因みに,能力は,何度も言うが,

知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする),

である,と考えている。

多少能力があると,ついつい自惚れ,鼻が高くなる。それは,井の中の蛙に過ぎない,それを,客観的に測る目利き,つまりもっと広い世界の中に,自分を配置し,位置づけることができて,初めて,本当の意味で才能がある,と言うのではないか。

まあ,自分へのメタ・ポジションを持っているかどうか,と言うことだ。

過不足なく,自分の力を,測れる,それ自体が,能力といっていい。だから,ただ能力の有無だけでなく,おのれの能力の凄さ,ダメさを,きちんと目利きでき力,

それがあるのを才能と言うのだろう。

そう考えたとき,イチローの凄さがわかる。たとえば,こんなことを言うのである。

実際見るとラッキーのヒットだったって言う人って結構いると思うんですよ。でも,僕の中では全く違うんですよね。
変化球が来ても,ヒットにできる。真っ直ぐが来ても,詰まらせてヒットにするっていう技術があるんですよね。

誰も,自分のやっていることは,自分にとって当たり前で,それが人より優れていると,気づけることは少ない。だから,多少能力があっても,

いやいや,私なんて,

と謙遜する。それは悪いことではないが,ただの謙遜でなければ,その瞬間,その人自身が,

自分の才能の目利きができない,

ということを露呈している。

自分の才を,正確に,つまり等身大に,目利きすることは,ことほど左様に,難しい。邪心,我欲なしに,

自分の才を測る,

それ自体が,いかに冷静な客観的な視野を持っているかの目安に違いない。

それが出来なければ,ただの自惚れ屋か自己卑下屋になってしまう。

いやいや,これは,おのれのことを言っている。




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2014年03月25日

緩和ケア


緩和ケア

たくさんの「死」に触れ,看取りをしてきたという看護師の方と,ちらっと立ち話をした。ただ会話の接点を探すつもりで,

母が緩和ケアにいた,

と話したら,あれは私の看取っているのとは違う,という趣旨のことを言われた。話の接ぎ穂がなく,

三ヵ月も持たなかった,

と言ったが,関心を示されなかった。そうか,緩和ケアは,ホスピスとはちがうのか,とそのとき,なんとなく,そんな話を持ち出した自分を恥ずかしく感じた。しかし,心のどこかにわだかまりがあった。

なぜなら,僕のあのとき受けた説明は,

治療しない(治療しても無駄だから,とは言わなかったがそういう意味)で,苦痛だけを和らげる,

ということだった。最早治療が効果がないので,無駄に医療行為をしないで,緩慢に,死をまつ,ということだ。そうは,母には説明できなかった。一緒に車いすで,説明をききに緩和ケア病棟まで行ったことを思い出す。

実は,治癒の見込みがないというか,はっきり言わないが,

治療行為が医療費の無駄遣い,

というニュアンスで,自宅へ帰ることを病院から迫られていた。

つまり,治療しない,ということは,自宅へ帰って,自宅で死を待つ,という決断を迫られていた。しかし母は,医者の娘でもあったので,

自宅へ帰って何をするのか,(治療できないという意味で)帰っても仕方ない,

と言っていた。まだ,本人は治療行為を諦めていなかった。

幸か不幸か,その病院には緩和ケア病棟があり,空きが出た。後に,そんな僥倖はない,と言われたものだが,緩和ケア病棟のある病院自体が少ないからだ。

治療しないということは,緩慢に死を待つだけだ。というより,治療をしないということは,癌と戦わないということだから,必然的に急速に癌が進行する。緩慢ではなく,急速ケアといってもいい。

つまり,緩和ケアは,死を見守る,

というより,死期をひたすら早める,

ということだ。

因みに,日本ホスピス緩和ケア協会では,

緩和ケアとは

緩和ケアとは,生命を脅かす疾患による問題に直面する患者と其の家族に対して,痛みや其の他の身体的問題,心理社会的問題,スピリチュアルな問題を早期に発見し,的確なアセスメント対処(治療・処置)を行うことによって,苦しみを予防し,和らげることで,クオリティ・オブ・ライフを改善するアプローチである。

緩和ケアは・・・,

・ 痛みやその他の苦痛な症状から解放する
・ 生命を尊重し,死を自然なことと認める
・ 死を早めたり,引き延ばしたりしない
・ 患者のためにケアの心理的,霊的側面を統合する
・ 死を迎えるまで患者が人生を積極的に生きてゆけるように支える
・ 家族が患者の病気や死別語の生活に適応できるように支える
・ 患者と家族―死別後のカウンセリングを含む―のニーズを満たすためにチームアプローチを適用する
・ QOLを高めて,病気のかていに良い影響を与える
・延命を目指す其のほかの治療―化学療法,放射線療法―とも結びつ
・それによる苦痛な合併症をより良く理解し,管理する必要性を含んでいる

と定義している。そして,緩和ケアとホスピスの違いについて,ウエブで調べると,

緩和ケアという言葉は「緩和ケア入院加算料」を算定している場合に使います。

要件は,
末期悪性腫瘍患者の終末医療を行う医療施設で厚生労働大臣の認可を受け,
①病室は1人あたり8㎡以上であること。病棟は1人あたり30㎡以上であること。
②個室が病床の50%以上あること。差額病床については病床数の50%以下であること。
③家族控室,患者専用の台所,面談室,談話室があること。
④入退棟についての判定委員会が設置されていること。
⑤病院の医師数が医師法の標準を満たし,かつ常勤の専任の医師が当該病棟内に勤務していること。
⑥当該病院が基準看護の承認を受けていること。
⑦看護婦が患者1.5人に対し1人の割合で当該病棟内に勤務していること。

です。つまり上記の要件を満たしている施設だけを緩和ケア病床(病棟)と呼び,要件に関係なく,終末医療を行う施設を指して言うときはホスピス,と分けていいのではないか,

と。この説が正しいかどうかは知らない。しかし,これを前提にすると,

上記の看護師の方は,ホスピスと緩和ケアは別物だと思われたのかもしれない。いやいや,厳密に言うと,現場感覚では,そうなのかもしれない。

患者家族にとって,死を待つということでは同じだというところではなく,その厳密な違いだけに焦点を当てられたのかもしれない。「緩和」という言葉に,母と同様騙されたのではないか,と疑っている。

そして,僕は,いま猛烈に腹を立てている。

迂闊にそんなことを言い出したことに,

そのために,結局母をお為ごかしに,死に追いやっただけだったことを思いださざるを得なかったことに,

そして,自宅治療か緩和ケアかと二者択一を迫った医師に,そして病院に,

更に,そういうふうに追い込まれる患者家族を生み出す国の仕組みに,

結局いつも個々人の責任で死を背負い込まざるを得なくさせる日本という国に,

そして,八つ当たりだが,件の看護師の方の配慮のなさに,

ついでに,そういうことをいまさら思い出している自分自身に。

結局人は,自分のキャリア以上の視界(パースペクティブ)を持てない。そのことに自覚できるためには,広い,メタ・ポジションを持てなくてはならない。

メタ・ポジションの自覚のない人を信じてはいけない。それは,コーチでもカウンセラーでも,ビジネスマンでも,自分の視点しかなければ,

たまたまをそもそも,

としていることに気づけない。

そして,そのことは,そのまま自分に返ってくる。おのれはどれだけメタ・ポジションを持てているか,言い換えると,どれだけ広いパースペクティブを持っているか,と。

和辻哲郎は,確か,

視圏

という言葉を使った。その広さこそが,その人を見る目安だ。そして,それは,言い換えると,おのれの知っていることは,所詮おのれの経験したことに過ぎないという,

謙虚さ,

を欠いてはいけないということだ。




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2014年03月26日

ニッチ


ニッチ時間,つまり隙間時間のことだ。

隙間時間の使い方の上手い人は,並行処理のうまい人だと思う。

シーケンシャル処理の人は,ひとつコトが終わらないと,次の案件処理に行かない。それだとすごく能率が悪い。ひょっとすると,単なる段取りの力というか,頭の中の設計プランの問題なのかもしれないが,頭の中で,並行処理する案件を想定しながら,案件ごとではなく,案件の中の具体的な作業レベルで,処理を設計しているかどうかの問題のような気がする。

WBS(Work Breakdown Structure)というのがあるが,そこまで厳密ではないが,頭の中で,案件のおおよその仕事のプロセスを作業段階に分解する。そうすると,一緒にできるものがある。

ただ,各案件の,ちょうどPERT (Program Evaluation and Review Technique )で言う,クリティカルパスのようなものは,別扱いをせざるを得ない。段取りながら,それをあぶりだすという方がいい。

よく段取り8分,

という言い方をするが,前もっての作業をプランするとか,作業設計をするというのとは,ちょっと違うのだ,と僕は思っている。クリティカルパスをあぶりだすというのは,そこが,その人が,難所ということでもある。だとすれば,本来のクリティカルパスの意味とはまったく違う使い方かもしれないが,それに先に取りかからなくてはならない。順逆が,ひっくり返っても,そういう作業想定をする,ということが,段取りの意味だと思っている。

問題解決の鍵は,

誰を(どのレベル)を動かさくては解決できない問題か,

ということが見きわめられることだ,と僕は思っているが,それとよく似ている。問題解決案をロジカルと言うか,ロジカル・シンキングで創作しても,現実は動かない。

おれは聞いていない,

の一言で,いっさいが潰えることがある。問題解決がロジカル・シンキングなどと言っているうちは,自分の裁量範囲内の問題しか解決したことのない人か,よほどの僥倖に恵まれた人だ。

ここでの問題の瀬踏みと言うか,目利きも,

段取りに通じる。

「情報化社会とは,重工業を中心とした世界からコンピュータを中心とした情報通信機器によるネットワーク化した社会」と言う言い方をすることがあるが,いまの話が,工業が情報によってあらたな結び付きの中に入るというのに似ていると言うと,大袈裟か。

工業化,つまり機械化は,

□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□

という線形の工程で表現できる。その各工程ABCは,高度化しても,

A□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□
B□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□
C□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□

と,各工程は短縮できても,A+B+C…の総和にしかならない。しかし,情報化では,

  ┌A□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□

 X┼B□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□

  └C□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□→□

1コンピュータシステムXにおいて,ABCの工程を同時処理することができる(もちろんフレキシブルに工程を組み合わせられる)。それは,更に集積すれば,いくつものXをZによって,いくつものZを,Yがというように,同時処理の集積度は高っていく。

大袈裟な例だが,段取りができるというのは,こういうことだ。まあ,要は,メタ化ということだ,とも言える。

だから,細切れの仕事を,案件のシーケンシャルなフローとは別立てて,処理できる。

僕は,よくそういうのを,デスク脇に,ポストイットで貼っていた。

この細かな,とは限らないが,ニッチな案件処理,そういう未決案件示す,ポストイットを片づけて一掃するのが,けっこう楽しみであった。あんまり,思考しなくてもいい(だけとは言えないが)のが,一種の息抜きであった。

そのせいかもしれないが,ニッチ時間の処理のうまい人は,仕事の並行処理が出来る人だ,と思っている。それは,しかし,仕事が効率的かどうか,スピーディかどうかとは,必ずしもイコールではないように思う。


参考文献;
吉本隆明『ハイ・イメージ論Ⅰ』(福武書店)




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2014年03月27日

し残したこと


年齢的に言うと,そろそろ店仕舞いが近い。しかし,

し残したことは何か,

と考えてみたとき,

やりたいように生きてきた,

ように見えて(そう言われることもあるが),本人は,

やりたいことの半分もできていない,

と思う。チャンスは,目の前を,一杯通り過ぎたが,気まぐれなので,気が向かないと,摑まない。といって,摑まなかったことで,あるいは摑めなかったことで,後悔したことは,そんなに多くはない。最大のチャンスと思ったとき,たぶん,人生でこれほど頭を使い,全精力を使ったことがないほどに,ひとつのことをまとめ,更に諦めずに,再度まとめたが,

絶対的な才能という壁,

というのか,遺伝子の持つ限界というのか,遂に届かなかった。そのとき,

ああ,やはり,才能には,絶対的な差がある,

と思い知らされた。能力は,才能によって引っ張られる。というか,才能以上には発揮できない。それが悔しかったが,

誰もがイチローにはなれない,

と思い知れば,まあ,すがすがしく諦められる。そこには悔いはない(つもり)。

死はそれほどにも出発である
死は全ての主題のはじまりであり
生は私には逆向きにしかはじまらない
死を<背後>にするとき
生ははじめて私にはじまる
死を背後にすることによって
私は永遠に生きる
私が生をさかのぼることによって
死ははじめて
生き生きと死になるのだ(石原吉郎「死」)

背中に背負うというか,後ろ向きに歩くというか,その姿勢が,前のめりになっていると見えないことが,見える気がする。

で思う。いま,まだやれることで,やり残したことはないか。

思うのだが,完結したいとは思わない。後ろ向きだから,

たえず未完了,

の状態で進行する。終りは,自分には見えない。というか,見ない。

まだ永遠にあるかのようにいまを,生きる。

僥倖

を頼むほどお人よしではないし,

偶然

を頼むほどの猶予はない。

多く片想いで終わるかもしれない。しかし,考えてみたら,後ろ向きだからこそ,その結果はまだ見えない。

いま三つ,いや,四つ,もしかすると,五つ,六つ…。

し残したこと,というか,仕掛かりがある。こいつは片づけたい。しかし,片づけると,また次が生まれるだろう。だから,絶えず,未完了は続く。

未完了,

というのは,生きている証拠なのだ。

例えば,積読。これは,読むスピードの十倍二十倍購入するのだから,クリアできるはずはない。しかし,それは,

いずれ読む,読みたい本なのだ。

それは,人生のスケジュール表に,読書予定を積み上げているようなものだ。これが,未完了なら,大いに結構。読み終わるまで,死ねない。

どうせなら,もっと積み上げるか。

いやいや,すでにウエブで二冊注文し,さらに,

未注文のものが,一冊,待っている。

何歳まで生きたら,読み終わるのかはわからない。

それが,人生そのもののように見える。



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2014年03月28日

読書


本を読むというのが,習い性のようになっている。昔は,あまり本を読んだ記憶がない。少なくとも,高校生の時代は。まあ,おくてである。

しかし,大学に入って以来,無知を悟り,というか思いっきり恥をかいて,夏休みまでに,平凡社の世界文学全集,という文庫サイズのものが実家にあって,それを読破した。その中に,『戦争と平和』もあったはずだか,ショーロホフ『静かなドン』にただ圧倒された記憶がある。

その後,『チボー家の人々』を読み,後は乱読になったと思う。その時代に深く印象に残ったのは,『カラマーゾフの兄弟』だろう。特に,大審問官は,強烈だ。

昔は,結構抜書きをしたり,場合によっては,一作丸々,写しとったこともあったが,日記をやめてからは,ずっと読みっぱなしになっていた。

最近,ブログで本を紹介するようになってから,全体を俯瞰するように変わった。前は,良くも悪くも,虫瞰的で,気に入ったフレーズを引っ張り出して,書きとめていた気がする。そのせいか,全体が見えない癖があるかも。

例えば,記憶では,(石子順造氏が)それぞれのラストシーンを,

鉄腕アトムは太陽に向かい,サイボーグ009は流れ星になった,

といった趣旨のフレーズで表現していたと覚えているが,ところがそれがどこにも見当たらない。あるいは,

人は持っている言葉によって,見える世界が違う,

というのは,ヴィトゲンシュタインだと思っているが,これが見当たらない。あるいは,

人は死ぬまで可能性の中にある,

はハイデガーの『存在と時間』に見当たらない。あるいは,誰だったか,大学の授業で聞いたフレーズかもしれないが,

握った手は握れない,

というのは,これもどこにも探せないでいる。

アイデア一杯の人は決して深刻にならない。

これは比較的最近だが,記憶が確かなら,バレリーだと思うが,定かではない。

フレーズが全体を象徴しているならそれでもいいが,そうでない場合は,とっても恥ずかしい目に合う。昔,ヘーゲルの『精神現象学』を逐語的に(訳が悪かったせいもあるが)読み進め,結局全体像がつかめなかった愚を犯した。そういうことになる。

前にも書いたことがあるが,僕は古井由吉にはまり,『杳子』はほぼ丸ごと,写しとった。その時感じたのは,文体が生理ではなく,文体が生理を呼び起こすという感じであった。吉本隆明の詩に,

風が生理のように落ちて行った,

というフレーズがあったが,意識の多層性,キルケゴールの言う,

自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいは,その関係に関係すること,そのことである,

を,表現していると感じたものだ。

その意味で,日本語というものの持っている表現可能性を,ぎりぎり極限まで突き詰めた文体は,美を通り越して,言葉が示せる極北の世界を見た,と感じた。これ程の文体をもつ作家は,以前も以後もいない。

それを, 不遜にも,

http://www31.ocn.ne.jp/~netbs/critique102.htm

で,まとめたことがあるが,これが,

http://www009.upp.so-net.ne.jp/ikeda/shirowada.pdf

で引用された。考えてみれば,いまは,ブログが,自分の発信ツールになっている。

ブログで読書感を書きながら,最近思うのは,結局読書も対話なのだ,と思う。たとえば,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/389603151.html

は,著者と対話した感じが残っている。

考えることが,自己対話だとしても,その対話の視点がどれだけ多角的であるかは,どれだけ多様な人との対話をしたかにかかっている。その意味で,読書は手軽な対話の場なのかもしれない。

昨今のわが国の為政者たちを見ていると,その対話が自己完結した人ばかりが,妄想している印象なのは,さまざまな視点や考え方の人と対話を積み重ねる努力をしてこなかったということを,無残にも露呈している。

それは,知的レベルの低さということだ。これでは,他国の知性あるリーダーと対話できるはずはない。そして,それは,日本人自身が,他国から侮られ,軽んじられることを意味する。投票行動を軽んじることは,結果として,天に唾するのと同じことになっている。

僕は,そういう意味で,物理,天文,数学,科学,詩,小説,演劇,落語,歴史,ビジネス,経営,哲学,古典,心理等々,何でもかんでも,興味と好奇心に引かれて,要は乱読だが,その分多様な対話を重ねてみたい。まだまだ出会ってない人が山のようにある。それが,結果として,自分の考える力,つまり自己対話の視点を増やし,おのれの自己完結性(うぬぼれ)を崩すことになる(はず?)。

自己完結は,痴呆のはじまりだ,とおのれを戒めよう。



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2014年03月29日

コーチング


コーチング・フェローズに参加してきた。

http://www.coachingfellows.jp/index.html

今回は,4人一組で,オブザーバー2人という贅沢なフィードバックになった。4回,セッション(今回は12分)を味わうのは,といっても一回は,自分がコーチ役だが,いろんな意味で気づきが多い。

今回,いまさらながらだが,へぼコーチなりに気づいたことがある。

それは,劈頭,クライアントが話したいテーマ,行き着きたいゴールというか手に入れたいものを確かめても,そこに拘泥しない,あるいは拘泥しなくてもいい,ということだ。

そういう言い方は変かもしれないが,とりあえず,テーマを言ってみた,という場合もあるし,いまちょっと気になっているから言ってみたという場合もある。あるいは,真剣に目指している何かがあり,それを口にしたのかもしれない。確かに真剣に解決したいトラブルを抱えているのかもしれない。

しかし,それは,いま,意識に上っていることであって,それが本当に,クライアント自身にとって重要な,

何を置いても何とかしなければならないことかどうか,

は,よくよく聞いてみないと何とも言えない。

別にないがしろにしていいというのではなく,

本当に大切にしている何か,

がやり取りの中で必ず出てくる。それを聞き逃さない,見逃さないことで,それを突破口に,口にしていたこと自体が,改めて新たなスポットライトを浴び直すことになる,気がする。

大事なのは,その,

スポットライト,

のほうなのではないか。

たとえば,といっていい例ではないかもしれないが,他に思い浮かばないので,

遅刻が目立つ職場だとしよう,それを何とかしたい,と。

で,どうすれば遅刻しなくなるか,

とか,

遅刻がどんな意味があるか,

とか,「問題」の周辺にいるのはつまらない。というか,煮詰まる。で,

では,どうなったらいいのか,

とか,

ほんとうはどうあったらいいのか,

とか,

どういう職場が理想か,

とかと,聞いてみる。すんなり出るかどうか知らないが,例えば,

朝,目覚めたら,早く出社したくてしたくてたまらない,

早くみんなの顔が見たくて仕方がない,

はやく職場に行きたいと,目がらんらんと輝いている,

といったことが出たとする。そこに,

どうなったら解決したことになるのか,

というその人の思いが出ている。夢がある。あるいは大切にしている価値がある。その前では,

遅刻云々は,ちっぽけて見えてくる。もちろん現実には,遅刻がなくなったわけではない。しかし,その状態になったら,

職場は,どんな風になっているか,

とか,

そうなったら,どんなことができるか,

とか,

そうなったら,どんな関係になっているか,

と,その状態を深めてもいいし,

そうなった時に,どんなものが見えるか,

そうなったら,いまと,何が違うか,

と,いまとの違いを深めてもいい,

あるいは,その状態を実現するために,

いま,できることは何か,

あるいは,

明日,できることは何か,

と,ファーストステップを訊くのもいいはし(あまり僕は,いいとは思はないが),

理想を10として,いまは,どのくらいか,

とスケーリング・クェスチョンをしてもいいし(この場合,多くは,できていることに焦点を当てるが),

そのいい状態が,いままで,ほんの一瞬でも実現していたことはなかったか,

と,ソリューション・フォーカスト・アプローチで言う,例外の質問をしてもいい。

最初のテーマの,狭い領域で,

何を,

どうする,

どうやって,

いつまでに,

という選択肢もなくはないが,そこで得られれることは,何もわざわざコーチングしなくても,ふだんさんざん考えていることなのではないか。

どうせなら,そういう問題対応に悪戦苦闘している自分が置き忘れているものに,あるいは考えても無駄と思っていることに焦点を当てた方が,結果として,スポットライトを手に入れることになるのではないか。

そうしてみてみると,12分は,結構長い,と感じた。

改めて思うのは,結局何も「戦略」も「構想」も持たず,

ただ,

Dance in the moment

その一瞬のクライアントの反応に対応しながら,

何が一番大事にしているのか,

にのみ焦点を当て続け,表情,エネルギーを見る。その意味で,必要なのは,

感度のいい鏡

でありつづけることの大切さなのかもしれない。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2014年03月30日

精神治療


中井久夫『[新版]精神治療の覚書』を読む。

あとがきで,精神科医の中里均氏が,

中井久夫氏はわが国の精神医療を変えてしまった。それまでは,精神医学に限らず内科学にせよ眼科学にせよ,すべての科目の教科書は,国内外を問わず疾患の成因病理の記述に厚く,治療については付け足しのように書かれているに過ぎなかった。
中井氏は常々それを嘆いておられた。だから氏の記述の最重要論点は常に治療論であり,成因論や精神病理的論考は,治療論を導くための助走に過ぎない。

と書いておられるように,実に,視野の広い,患者への治療姿勢が,細やかに書かれている。その一端は,中井氏と話をしながら,中里均氏が,

「精神治療とは美に入り細を穿って患者をサポートするものだ」と思い込んだ。幸せなインプリンティングだったかもしれない。氏の言行一致の態度が説得力を増幅した。中井氏以前の精神科治療の多くがもっと大雑把なものだと知ったのは,後になってからである。

そう中井氏の治療姿勢からの影響を,語っている。たとえば,その一端は,

一般に,患者は問題をいっぱいかかえており,急性精神病状態のおいては,問題に目を蔽うことができなくなっている。そのことは万々承知ではあるが,同時に急性精神病状態においては,一つ問題を解決している間に――解決できるとしての話だが――三つくらいはあたらしく問題が生まれている。「いま,あなたのかかえている問題を解決しようとすると,その間に問題がふえていないか。問題の中にはこちらが無理に解決しなくても問題のほうから消えてくれるものがあると思う。消えるものは消えてしまってよいのだし,それから残る問題を解決してもおそくないものが多いのではなかろうか。それに,よく休めた頭で考えることと,眠れない時の考えとは,ちがっているのを経験しないだろうか」という意味の助言はしてもよい…。患者と語ることばは,短い文章で,なるべく漢語が少なく,低声で,しかも平板でない音調のほうがよいと思う。ことばは途切れ途切れであってよい。錯乱状態でも,ちょうど台風が息をしているように,緩急はあるもので,この緩急のリズムをつかみ,それに合わせて語ると,意外に多くを語れるものである。時にはまったく押し黙っている患者の耳元で,「ほんとうは大丈夫なのだ。君はいまとうていそう思えないだろうけどね,ほんとうは大丈夫なのだ」とささやきつづけるよりほかにないこともある。この場合も決して馬の耳に念仏ではない。むしろ,患者は全身を耳にして聞いている,といっていいであろう。完全な緘黙不動不眠患者の隣室に泊まり込んで私は小さく壁をノックし続けたことがあったが,あとで患者は,私がずっと醒めていて,そのしるしを送りつづけていたことが判っていた,と話した。

と著者が語っている(「平板云々」は,後で触れる)が,前述の言行一致とは,これを指す。僕は,プロの覚悟と見た。中井は,これに続いて,

患者は決して堅い鎧をまとっているのではなくて,むしろ外部からの過剰な影響にさらされ続けている…。患者は粘土のごとく,無抵抗に相手の刻印を受け容れる…,

として,こんなことを書く。

精神科医の多くは思い当るふはしがあると思うが,再発を繰り返したり,長期に不安定な精神状態で治療を受けた歴史を持つ患者を新しく受け持つと,患者と話しているのか,過去に患者を診た精神科医たちのおぼろな影と対話しているのか分からなくなる。これは一種の,精神科医の憑依現象といってもよいかも知れない。…憑依しているものとされている人との仲は決してよいものではない。時には,自分の中に取り込まれてしまった精神科医と苦しい暗闘をつづけている人もある。(中略)患者と社会との接点は,ほとんと治療者一人に絞られていることを忘れてはならない。

と。この目配りは,具体的に治療行為になると,もっと広く,厚く,微細にわたり,なおかつ柔らかく優しい。

とにかく治療者は,“山頂”で患者と出会う。そうでないことは例外である。治療者は家族とともに下山の同行者である。(中略)重要なことは,本人と家族と治療者の三者の呼吸が合うかどうかである。この呼吸合わせのための労力はいくら払っても払い過ぎということはない。それが予後の最大決定要因であり,それを怠ると,最初の外泊時に両親がマラソンを強いたり,本人が職をさがしに出たりして,もっとわるいことに治療者がそれを知らないということが起こりうる。
この呼吸合わせに治療者はイニシャティヴをとらなければならない。本人も家族もあまりに深く病気という事態に巻き込まれているからである。(中略)医師はスペシャリストとして依頼をうけて事に当たるのであるが,必要なのは,絶対に加速してはならない過程と加速可能な過程とを見分けることである。加速してはならない過程を加速しようとして,本人を焦らせ,家族を焦らせ,そして医師当人が焦りの中に巻き込まれて,結局焦りの塊りが三つ渦を巻いて回っているだけという場合は皆無ではない。

で,必要なのは治療的合意であり,それには,

「本人と家族の呼吸が合わなければ治るものも治らない」という表裏のない事実を述べるべきだろう。実際この“呼吸合わせ”が成功し持続するかどうかで治療の九割は決まるといって差支えないだろう。「何か月で治りますか」と家族や本人がたずねても,医師はこの前提をくり返したのちに,もし見通しを述べるほうが望ましければ,述べるがよい。そして「この呼吸が合わない限り何回でも仕切り直しになりかねません」と告げるべきだろう。

と付け加える。専門外なので,あまり深入りはできないが,「聴く」について,書かれたくだりが,結構面白い。いくつか拾ってみる。

医学の力で治せる病気はすくない。医学は依然きわめて限られた力なのだ。しかし,いかなる重病人でも看護できない病人はほとんどない。(中略)急性精神病状態においては,医師の行為の大部分も看護と同じ質のものであろう。患者の側にだまって30分すわることのほうが,患者の語りを三時間聴き取るよりも耐えることがむつかしいことは,経験した者は誰でも知っていよう。しかし,おそらく,このことは精神科医の基本的訓練の一つとなるべきものだろうと思う。

「聴く」ということは,聞くことと少し違う。病的な体験を聞き出すということに私は積極的ではない。聞き方次第では,医者と共同で妄想をつくりあげ,精密化してゆくことになりかねない。
「聴く」ということは,その訴えに関しては中立的な,というか「開かれた」態度を維持することである。「開かれた」ということはハムレットがホレイショにいうせりふ「天と地との間には……どんなことでもありうる」という態度といってよいであろう。

「分かる,分かる」という応対は,ただ安易なだけではない。(患者は)「分かってたまるか」という感じとともに「すべてが見通しであり,すでに分かられてしまっている」という感じを…抱いている。(中略)この「言い当て」は患者の不安を増大する。(中略)時には患者がいわんとして表現がみつからず,ほとんどもがくように苦しむこともあるもので,その時は「あなたのお話をずっときいていると,ひょっとしたら,こんな風に感じているのではないかという気がするのだが」という前置きで,あくまで,他人の心中を憶測する際の慎みを忘れない態度で話すことは,一般に患者を楽にし,「分かられた」という受け身感がなく,やはり通じるのだという疎通感を生む…。

なぜ患者のそばに沈黙して坐ることがむつかしいのだろう。むつかしいことは,やってみればすぐわかる。(中略)患者の側に坐っていると,名状しがたい焦りが伝わってくる。…この焦りは,何に対する焦りという,特定の対象がはっきりしない。いや,そもそもないのかも知れない。患者はしばしば自分を「あせりの塊り」であると表現する。(中略)焦りは患者から伝わるようにみえるが,むろん治療者自身の中に眠っているものが喚起されるといっても一般にいいだろう。この二つはほとんど同じことかもしれない。沈黙思念のそばで治療者は一方では患者に目に見えないリズムの波長を合わせつつ他方では自分の持っている(そう豊かでもない)余裕感が患者に伝わるのをかすかに期待しようとする。そのほかに方法はなく,しかもこの時点で,治療者は―とにもかくにも―患者と社会のほとんど唯一の接点であろうからである。

傍らにいて,治療者が焦りを感じなくなることは,急性期が終わりを告げた,かなり確かな証拠である。

もうひとつ面白いのは,声で,聞き分けようとする姿勢だ。これも,聴くにかかわる(ここに,前述の平板云々への答がある)。

アメリカの精神科医,H・S・サリヴァンは,

訓練(トレーニング)の声



希み(デザイア)の声

というのを分けていたという。

「訓練の声」とは,音域の狭い,平板な声だろう,私は,妄想を語る時,音調がそのように変わること,逆に,そのような音調は,妄想を語っていることを教えてくれる…。一般弁論になる時,人間の声はそうなりがちである。数学の証明を読み上げる時,上司に問われて答える時,等々。それは防衛の声であり,緊張の声である。これに対して,
「希みの声」は音域の幅のひろい,ふくらみのある声だろう。患者にせよ,患者でないにせよ,自分の心の動きを自然に表現する時はそうなるものであろう。

と著者は書いている。そして,作曲家の神津善行氏の書いていた,

音域の広い人と狭い人とでは,同じことを語っていても,相手に受容される程度が大幅に違う,

を紹介して,音域が狭い人は人に反発を受けやすいのだ,という。

精神病患者の声は,ふだん後者であることが多い。切り口上や紋切型に属する声である。

という。それが普段から,対人関係の妨げになっていたのではないか,と想像している。そして,

時に患者から,音域の深々とした,あるいはしみじみとした,感情の籠った声が聞かれうることを聞き逃してはならないだろう。…まさに,そのような声を聞く時が急性期が終末に近づいたか,少なくとも,急性期からの脱出可能性が高まった一つのしるしである。

という。こうした目配りの細やかさには,驚かされる。

たぶん,精神科医にとってバイブルに他ならないということが,門外漢の僕にも伝わる。著者も,

学会に行くと,精神科医になった時に最初に読んだ本だと私に挨拶する人が結構いた,

というのはよくわかる。

出発がウィルス研究にある中井にとって,

病気のはじまりとか回復というのはどういう順序を追っていくかという研究に興味があった,

のは当然ながら,家族や患者への目配りも,ただごとではない。

その謦咳は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/391584184.html

で触れた,最相葉月が『セラピスト』で詳しく書いているとおりだ。


参考文献;
中井久夫『[新版]精神治療の覚書』(日本評論社)
最相葉月『セラピスト』(新潮社)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


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2014年03月31日

香道


無粋のきわみのような自分が,まさか,こんなところに参加するとは,思わなかった,片岡 宗橘さんのお誘いを受けて,

https://www.facebook.com/events/611591715590127/633555376727094/?notif_t=plan_mall_activity

御家流(おいえりゅう)の香道・茶道体験会に,参加してきた。

こう言う「いき」や「粋」とは無縁に生きてきたので,恥ずかしながら,初体験である。

一応来歴をネットで調べると,

茶道の御家流は,

江戸時代初期に美濃加納藩主・安藤信友が興した茶道の流派。譜代大名の安藤対馬守家(幕末期は磐城平藩主家)で伝承され,安藤家御家流とも言う。細川三斎の門人一尾伊織が興した一尾流の流れを汲み,織部流を合わせたものである。留流として安藤家中以外へは秘されてきたが,1970年より一般へ教授されるようになった,

という。

香道(こうどう)の御家流は,

三条西実隆を流祖とし,室町時代以来大臣家である三条西家によって継承されたが,後に亜流は地下(武士・町人)にも流れる。戦後,一般市民(民間)の香道家・一色梨郷や山本霞月などにより,堂上御家流香道を継承していた三条西尭山が正式に近代御家流宗家として推戴され,三条西家の当主が御家流家元を継承している,

という。

話には,聞いたことがあったが,特に,

香道とは,日本の伝統的な芸道で,一定の作法のもとに香木を焚き,立ち上る香りを鑑賞するものである。香木の香りを聞き,鑑賞する聞香(もんこう)と,香りを聞き分ける遊びである組香(くみこう)の二つが主な要素であるそうだが,今回は,香りの聞き分け,を体験させてもらった。

香道においては,多く,聞香炉に灰と,おこした炭団を入れ,灰を形作り,その上に銀葉という雲母の板をのせ,数ミリ角に薄く切った香木を熱し,香りを発散させる方式がとられる。銀葉を灰の上で押すことにより,銀葉と炭団の位置を調節する。これにより伝わる熱を調節し,香りの発散の度合いを決める。

いただいた案内によると,

一,斎院
一,斎宮
一,野々宮

と,源氏物語にちなんで,その名にふさわしい(と選んだ)香木を,順次聞いて,その後,聞いていない香を混ぜて,どの香かを当てる,というもの。正直言って,その微妙な違いが判るほどではなかったので,区別がつかなかったのだが,その香の,

微妙な,

というか,

微かな,

違いというか,それぞれの個性を聞き分けるのは難しいというより,その一瞬感じたのは,

ああ,こんなにも微妙な差異を楽しんでいたのか,という感嘆というか驚異といっていい。いま,巷にあふれている香りは,弱いとされるオーデコロンですら,鼻を刺激するのに比べたら,

何と仄かな,

と思ってしまう。

その後,濃茶と薄茶をいただいたが,まあ,所作のしきたりはともなく,ただなぞっただけだが,香道も,茶道も,

その独特の時間の流れ,

にまず,自分の佇まいが,その異質さがさらけ出される気がした。そう,おのれのふりまく,あわただしさ,ありていに言えば,

せわしなさ,

とは無縁の,すさまじく,時間の流れのゆったりした,ちょうど,所作ひとつひとつを,

スローモーションにした,

というと大袈裟だが,そんなゆったりした間合いが,どこか懐かしい気がした。

そして,それは,たぶん,あの場そのものが創り出すというのか,その場にいるということで,

ゆったりした時間を,

共有させてもらう,

という気がする。本当かウソか知らないが,秀吉に茶室に招待された黒田官兵衛(は茶道に関心がなかった)は,そこで一向に茶を点てず,小田原攻めの話に終始した,そして,

これこそが茶の湯の一徳というものである。もし茶室以外の場所で密談すれば,人から剣技を懸けられるが,茶室であれば,その心配がない,

と秀吉が言った,というのである。『名将言行録』のこの逸話は疑わしいが,

一期一会,

の言葉から推測するに,独特の時間と空間であることは,よく分かる。いわば,



が,時間を支配する,という感じである。あるいは,ちょっと大袈裟な言い方をすると,

感覚を研ぎ澄ます,

ことで,場に融ける,

とでもいうような。

ま,しかし,無粋な僕には,脚の痺れが,土産であった。

参考文献;
渡邊大門『黒田官兵衛』(講談社現代新書)



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posted by Toshi at 04:34| Comment(1) | カテゴリ無し | 更新情報をチェックする