2014年05月01日
愛用品
最近,ん十年愛用の,誰にもらったかも忘れた大理石の文鎮を落として割ってしまった。このところ似たようなことが続いていて,ちょっと気になる。
愛用するということは,日々手になじみ,そこにあることになじんでいて,一見風景になっているが,それが無くなると,風景の一か所に欠落が出る。それによって,なんとなく,違和感がある。
物にこだわる質でもないし,収集癖もない。
収集癖という以上,件の漫画家ではないが,徹底しなくてはならない。しかし,そこまで固執する物に出くわしたことがない。中途半端だから,かえって,未練が残るのかもしれない。そこに,なまじの思いや感情を投影しすぎる。それは,玩びつくしていないから,なのかもしれない。
玩物喪志
という言葉がある。
無用なものを過度に愛玩して,本来の志を見失ってしまう,という意味らしい。意で、
物を玩べば志を喪う,
『書経』旅獒の出典らしく,
人を玩べば徳を喪い,物を玩べば志を喪う
とある。この場合の物は,必ずしも,いわゆる物,
物品,物体,
を指すとは限らない。これを言った,召公が,武王を諌めたのは,武王が,献上された獒(ごう)という一頭の大きな犬に心を奪われて,政治が荒んだことを指している。物は,
天地間に存在する,有形・無形のものすべて,
を,本来指しているようだから,幅広い。ストーカーも,温泉マニアも,何たらフェチも,鉄男も,撮鉄も,博打狂いも,酒も,煙草も,麻薬も,主義主張も,信仰も,殉死も,珈琲も,すべて,
玩物喪志,
である。ところが,である。武田泰淳は,川端康成論の中で,「普通は悪い意味に使用されているが,ここでは,対象を手ばなさずに,専心している姿勢の意味である」が,と言いつつ,
志をうしなうほど物にが玩べれば,本望である。その物が,風景であろうと,女体であろうと,主義であろうと,そこに新しい魅惑が発見できるまで執着しつづけねば,何物も生まれはしない。玩物喪志の志,あるいは覚悟を持ちつづける作家は,そう数多くはないのである。
と書いているのに出くわした。ネットを調べているうちに,泰淳にであい,この小論に出会い,僕の玩物喪志のひとつ,全集買いが,ここで生きた。
玩物自体が「志」とは,逆転の発想である。そうか,
覚悟の問題
なのか。武王が,犬に執心なら,王位を捨てなくてはならない。その覚悟がなくてはならない。エドワード8世が,王位を擲って,恋に賭けたように。そのとき,恋は,王位と匹敵した。
織田信長が天下を玩物したときは,天下は,近畿をさす,それは三好三人衆にとっても,玩物であった。しかし,その「物」が全国になったとき,玩物自体が,「志」になる。そう意味だろうか。
さらに,泰淳は,川端康成にこう告げている。
玩物喪志の「物」の内容を変更しただけでは解決はつくまい。「物」のひろさと新しさが,「玩」の深さと新しさと密着して,深くひろく新しい魅惑を生み出さねばならない。
玩物の,
「物」のスケールも,
「玩」のスケールも,
気宇壮大ならば,もはや,召公のスケールを超える。はて,では,翻って,おのれは如何?
ただ横道にそれ,油を売っているのとは違う。たしかに,人生には,
何かを計画している時に起こってしまう別の出来事,
の面がある。しかしそれを言い訳にすれば,道草で良しとなる。しかし,こうある。
予期せぬ出来事の中で全身全霊を尽くしている時,予期せぬ世界が開けてくる。
つまり,玩物であろうと,道草であろうと,そこに全身で打ちこまなければ,
玩物が志となり代わる,
ということはない。結局,
覚悟,
はいずれも必要なのだ。覚悟とは,
迷いを取り去る,
ことに尽きる。でなければ,喪われた「志」が泣く。
参考文献;
武田泰淳「玩物喪志の志」(武田泰淳全集第12巻 筑摩書房)
龍村仁『ガイアシンフォニー第三番』
今日のアイデア;
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2014年05月02日
裏切り
裏切り
正直,この言葉が,あまりピンとこない。というか,こなかった。
辞書的には,
①敵に内通して,主人または味方に背くこと,
②約束・真偽に反する行為をする。人の期待に反する,
とある。
期待に反する
と
期待を裏切る
とでは若干ニュアンスに差がある気がする。人の期待に反することは,一杯あっただろうが,反しようと思ってするというより,できなかったということが実態で,裏切る,というニュアンスには遠い,
期待外れ,
な程度というのが,主観的な印象だ。
期待を裏切る
と
期待外れ
では,ずいぶん印象が違う。背負わされた「期待」が,オリンピック選手のそれと,僕のそれとの違い,に起因するのだろう。
自分では,細かなことはあるかもしれないが,決定的に人を裏切ることの出来るような,ある意味で大物ではなく,器量の小さい人間だと思うからだ。
ただ,そう考えていて,不意に思い出したことがある。
昔,労働組合,というほどのことはないが,理不尽なトップへの抵抗という意味で,労働組合をつくる羽目になったことがある。いつの間にか首謀者になっていて,その当時の下宿屋まで,調査の人が調べに来たということがあった。ま,組織側がやったらしいのだが,そんな仲間の中で,途中から抜けたのならいいが,最初から,仲間面して,内部のことをいちいち,報告していた人がいたことを,後日に知った。
これって裏切りなんだろうな,
と,思い出したのだ。しかし,この人は,某映画会社の労働争議の時,組合委員長なのに,経営側に通じていたということで,ある意味有名な人だったらしい。
それを聞いたとき,ふと,何だろう,不遜ながら,
可哀そう,
と感じた。たぶん,身の置き所がないのではないか。会社からは,重宝かも知れないが,
重んじられること,
はまずない。人として信用できないからだ。当然,組合側からも,これは,
軽侮と憎悪,
の対象になる。どこにも身の置き所がないのに違いない,と人としての寂しさを感じた。もう,ご存命ではないかもしれないが,その人についての記憶では,たまたま,
ガリバー旅行記,
を文庫版で読んでいて,それを見て,ニュアンスは忘れたが,原書で読まないのを,
憫笑,
された記憶がある。そう言えば,洋書を読む人で,著名な彫刻家の御子息なんだと,後日仲間の一人から聞いた。
その憫笑は,結構効いたが,しかし,人として,どうなのよ,と言いたい気持ちが,いまならある。
価値観が違う,
と言われればそれだけのことだが,僕の印象では,
信念として通報役,
を買って出た感じではない気がしている。その人の事情を知っているトップが,強いたのではないか,というような憶測をしている。それほどに,日常は,小太りの,気のいい人に見える,人なのだ。
気のいいのは僕なのかもしれないが,それほど怒りや反撥を感じた記憶がないのは,大した人数でもない,ちっぽけな組合づくりの活動にまで,そういう人が,役割として登場する,と言うのが,どことなく滑稽だったからかもしれないし,逆に,そのことを知ってからは,組織の凝集度が高まったと感じたせいかもしれない。
しかし,もうかなり昔のことなのに,裏切りというなら,そのイメージで,どこか,
寂しい,
ひとりぼっち,
というイメージがある。それは,僕の側の勝手な忖度かもしれないが,
誰にも相手にされない,
という感覚である。それは,たぶん,僕自身が大切にしている,
信義,
律儀,
に反しているので,僕の思いを投影しているだけかもしれない。
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2014年05月03日
ノブレス・オブリージュ
ノブレス・オブリージュ,
という言葉がある。
ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)は,直訳すると
高貴さは(義務を)強制する,
となる由。日本語では,
位高ければ徳高きを要す,
などと訳されるそうだ。
一般的に財産,権力,社会的地位の保持には責任が伴うことを指す。実際には,貴族などの特権と贅沢を正当化する隠れ蓑として使われていた側面もあるようだ。
ファニー・ケンブルが1837年に手紙に「……確かに『貴族が義務を負う(noblesse oblige)』のならば,王族は(それに比して)より多くの義務を負わねばならない。」
と書いたのが,使われた最初とされている。
倫理的な議論では,特権は,それを持たない人々への義務によって釣り合いが保たれるべきだという「モラル・エコノミー」を要約する際にしばしば用いられる。最近では主に富裕者,有名人,権力者が社会の模範となるように振る舞うべきだという社会的責任に関して用いられる
と,ウィキペディアにはある。
しかし,僕は,孔子の言っていたことも,それだと感じた。なぜ,「士」としての,そのありようが,問われるのか,それは,その地位にいるものの,当然の使命からくる。
高貴である(と認められる)のは,その身分や地位ではなく,その地位にふさわしい責めを担う覚悟がある,
からではないのか。それを,
心映え,
と言うように思う。昨今,そんなトップも,リーダーも,本当に少なくなった気がする。昔はいたのか,と言われると,甚だ,心もとないけれども。しかし,自分のモデルにしたいと,思う人は,確かにいた。思想的にも,生き方的にも,
弊(やぶれ)たる縕袍(うんぽう)を衣て,狐貉を衣る者と立ちて恥じざるもの,
と評された子路のような人物は。
士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任となす。亦重からずや。死して後已む。亦遠からずや。
漫然と上に立ってはならない,ということではないか。上に立つとは,そういう資格とは言わないまでも,そういう覚悟がいる。しかし,昨今,その覚悟どころか,資格すらないものが,上に立っているのではないか。
その身正しければ令せずして行われ,その身正しからざれば,令すと雖も従わず,
と。というより,正しからざる振る舞いによって,いままで結界のうちに閉じ込めてきた悪しきものが,幽鬼の如く,
方は類をもって聚(あつ)まり…,
と,次々と湧き出て,巷を徘徊し始めた。
何を言っても,してもいいという範を,上が示しているからに他ならない。ナチスのハーゲンクロイツの旗を振りまわし,ヘイトスピーチをがなり立てる,人としての埒も矩も超えた言動が徘徊するのを許すのは,われわれ自身の恥そのものであり,みずから,人非人であると喧伝しているのも同じである。
あるいは,
名正しからざれば則ち言順わず,言順わざれば則ち事成らず,事成らざれば則ち礼楽興らず。礼楽興らざれば則ち刑罰中らず,刑罰中らざれば則ち民手足を措く所なし,
とも。おのれのすることに名目の有無など頓着せず,おのが信条を国是とすることに邁進するものは,士どころか,賊である。
少なくとも,士であるからには,みずからを戒め裁く,脇差が必要である。だから二本差しである。でなければ,ただの長どす一本のヤクザと変わらない。
いまや,士と称しつつ,長どす一本の,ヤクザまがいが増えた。その手合いを,
サムライもどき,
という。もどきは,所詮もどき,がんもどきは,
雁
にはなれぬ。
参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
今日のアイデア;
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2014年05月04日
迷い
いまさら迷うような歳ではない,とふとつぶやいて,迷い,という言葉の意味が気になった。
言ってみれば,迷うということは,煩悩は凡夫ゆえに仕方ないとして,何かを未決のまま,決めかねている状態といっていい。まあ,ここまで生きてくると,それは少ない。というか,迷いを蹴散らさなくては(見過ごす,目を瞑るも含めて),生きてこられまい。
辞書では一番に,
①布の経糸と緯糸がほつれて偏ること,
とでる。つづいて,
②紙などが乱れること
③迷うこと,惑い
④まぎれること
⑤成仏の妨げになる妄執
とある。煩悩の方はさて置くとして,しかし,
迷い,
と
惑い,
は同じか?でもって,辞書を引くと,
事態を見極められず,混乱して応対の仕方を定めかねる意,
として,以下を挙げる。
①見当を失って途方に暮れる
②悩む,心が乱れる
③取り違える,考え違いをする
④うろたえる,あわてる
⑤髪の毛の乱れる
⑥他の動詞について,その状態がひどい意を表す。たとえば,荒れ惑い,
とある。どうやら,迷って,迷路に,というか迷いっ放しのまま,迷宮に入り込んだ状態が,惑いで,迷路の中で,何かを決めかね,決断がつかないまま混乱した状態ということになる。
迷いが,気分や混乱ではなく,何に迷っているのか,そしてそれが更に選択肢に切り分けられれば,ただの決断の問題に変わる。そうすれば視界は晴れる。
語源的には,迷うは,
①マ(目)+ヨウ(酔う)で,方向がはっきりしない意
②マ(織物の目)+ヨウ(酔う)で,織物の目の間隔が偏り,弛む意に,惑うとの混同が起こり,いまの意に。
③中国語源では,「迷」は,之(しんにゅう)+米(昧)
とある。では,惑いはと,言うと,
目(見当)+問う
で,検討を心の中で問うという意で,ぐるりと回って,迷いへ戻ってきてしまう。漢字的には,
或(わく)+心
で,狭い枠にとらわれた心,となる。
結局,どうしようかと戸惑っている状態から,どうしようかと迷いが生まれ,そのまま混乱の中に迷い込み,惑乱するところまでの,心のどこに焦点を当てるかで,意味のずれが生じてくる,ということになる。
思えば,迷っている状態では,その状態自体が,自分を引っ張り込み,何に迷っているかすら,見えなくなることは,確かにある。
極端に言うと,どつぼにはまる。しかし,考えようでは,少しシニカルに言えば,人生そのものが,迷路のようなものなのだから,そこで少々,
迷おうが,
惑おうが,
そんな差など大したことではないと言えば,言える。しかし,そのわずかな差に,人生を賭けなくてはならない時だってある。わずかな違いにこそ,おのれと他人の差はある,と言えば,軽々に見過ごしていいことではない。
しかし,だ。迷いがなければ,選択肢がなく,選択肢がなければ,決断(何かを捨てること)はない。
そういう人生ってあるのか?
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
今日のアイデア;
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2014年05月05日
牢人
渡邊大門『牢人たちの戦国時代』を読む。
いわゆる牢人が歴史上現れるのは,源平争乱期からである。牢人には,
①郷土をはなれて,諸国を流浪する人
②主家を去り,封禄を失った人。
があり,前者は,律令国家で本貫地での税負担に窮乏化し,本貫地から逃げて浮浪人になっものを指す。国家の根柢を揺るがす問題であった。後者は,近世仕官していない武士を差した。江戸時代,浪人が定着する。
元来は,牢人と浪人は使い分けられており,『吾妻鑑』などでは,
浪人は,土地を離れた農民たちを,牢人は主のない本来武士身分にあったものを意味する,
ようである。
南北朝・室町期になると,守護がほろびると,牢人が生み出され,大きな問題となる。例えば,嘉吉の乱で滅ぼされた播磨・備前・美作の守護赤松氏の旧領に,山名氏が入部してくると,赤松氏被官の所領は闕所とされ,赤松支配下のものたちは,居場所を失い,牢人となっていく。かれらは,他国浪々を余儀なくされる。
こうした牢人たちが大量に出現するのが,戦国争乱期である。無数の主家を失った牢人を,例を挙げて紹介しているが,この時期有名なのは,尼子氏再興を懸けた,山中鹿之介である。
こうした主家再興は,そのまま,失った自分の所領や権益を取り戻す戦いでもある。その意味で,牢人は,あらたに入部したり,領有した支配者及びその被官人にとっては,自分たちの所領を脅かす,危険な爆弾といってもいい。
そのために,牢人規制が,その都度の支配者から発令される。古くは,室町幕府の,
浪人に家を貸してはいけない,
というものから,足利幕府の実権を握った三好長慶による,
浪人衆を許容するものは,聞きつけ次第成敗する,
というものまで,そして秀吉政権による,牢人停止令にとどめを刺す。
①主人を持たず,田畑を耕さないような士は村から追放せよ,
②もともと職人・承認の経験がある士なら,田畑を耕さなくても追放としない,
③主人のある奉公人は別にして,百姓は武具類の諸事を調査し,これを没収する,
百姓と武士の身分の厳格な区分を意図し,著者はこう書く,
主人持ちの奉公人身分でもなく,百姓,商人,職人にも属さない牢人は,村から追放されるか,武具を取り上げられる(実質的に武士身分を失う)かの,苦境に立たされた,
のであり,主取りの侍か,帰農するかの二者択一ということになる。
ここで言う奉公人とは,戦いの主力を担ったものであり,
①名字を持ち武士に寄子・被官として奉公する士・足軽
②名字をもたない中間・小者
を指す。主家を失った瞬間,身分を喪失し,社会の邪魔者となる。しかし,彼らが活躍の場を見つけるのは,
関ヶ原の合戦であり,大阪の陣であり,最期に島原の乱である(一説には,文禄・慶長の役も,あふれかえった牢人対策の側面があるとされる)。
この三回に,名が出てくるのが,宮本武蔵である。関ヶ原では,西軍についたという説があったが,近年,黒田家に属す新免家に組していたとされている。大阪の陣では,福山藩・水野家の客将として出陣している。そして,島原では,55歳で,中津城主・小笠原長次の後見として出陣し,一揆側の投石で負傷している。いずれも,仕官せず,最期は,細川家の客分のまま,五輪書を書き上げる。
しかし,大阪の陣後,
①落人を隠し置く者は,厳罰に処す,
②得体の知れない旅人の宿泊の禁止,
と,落人探索は,厳しく,多くの牢人は,失った所領の回復を果たすどころか,仕官の道も,当初は,
古参のもの,つまり,秀吉の代から仕えていたもののみ,
召し抱えてよいとされ,新参のもの,つまり大阪の陣で豊臣方についたものは,召し抱えてはならないという禁止がなされ,それが解かれるのは,十年後であった。
今も昔も,牢人は,あらたな仕官先を見つけるのは至難の業であったらしい。平和の時代に入ると,その困難は一層厳しいものになる。
これは,本書の対象ではないが,島原後,十数年,家光死後の,慶安の変,いわゆる由比正雪の乱も,大阪の陣以降の,改易,減封の中であふれた牢人問題が,背景にあった。
関ヶ原合戦後,牢人となった真田昌幸,信繁(いわゆる幸村)の父子は,配流先の九度山での生活は困窮をきわめ,信之への金の無心の手紙が多く残っている。いま和歌山の名産になっている「真田紐」は,生活を支えるために作製された。後世の講談のように,
来るべき日に備えて,虎視眈々と打倒徳川をうかがっていた,
生活とは程遠く,昌幸は,何度も郷里への帰国を規模していた,という。
秀忠軍三万八千を,わずか二千で上田城で翻弄し,関ヶ原に遅参させた,稀代の武将,真田昌幸も,
所領や軍勢を奪われ…,羽をもがれた鳥に等しい存在であった,
と,著者は言う。真田父子にして,これである。後は,推して知るべし,というところか。
参考文献;
渡邊大門『牢人たちの戦国時代』(平凡社新書)
今日のアイデア;
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2014年05月06日
境目
盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』をよむ。
「戦国諜報戦」は,いささかオーバーというか,境界線での陣取り合戦には情報のやり取りも含まれるので,ここから想定される忍者と早合点すると,少し当てが外れる。
本書は,
信長や秀吉が現れる戦国時代の最終段階に,島津・長宗我部・伊達などの大名が複数の領国を支配するようになる前は,国衆が分立している国の方が多数であり,大きな戦国大名がいる国の方が少数だった,
その時代の,一国全体を統一する側ではなく,言ってみれば,地元での地場の人たちの戦いに,焦点を当てている。
(そうした)多数派を無視して,少数派を戦国時代の代表として記述する従来の戦国像,
への新たな像の提示を目指している。
その焦点を,
境目
におく。こう述べている。
戦国時代の合戦のほとんどは,隣り合う戦国大名間で起きたものである。力がある戦国大名は隣接する大名を攻撃して,所領の拡大を目指していた。一方,攻撃される大名は,侵入を阻止するために,境界を防衛する。そのために必然的に,戦国大名の支配領域の境界付近で合戦が起きる…,
こうした境界をめぐる争いを,研究者は,近年,「境目相論」と呼んでいる。本書は,まさに,それを描こうとしている。
戦国大名は,一般に,武田氏は甲斐,上杉氏は越後のように,一国または複数の国を支配しているものと,一郡または複数の郡を支配領域とする小さな戦国大名があるが,後者を国衆と呼ぶ。その境目が,国境になる。
その視点で見ると,有名な合戦も,
川中島の戦いは,北信濃支配をめぐって,南下する上杉と北上する武田の間の境目での合戦であり,
桶狭間の戦いは,鳴海・大高という,今川・織田の境目をめぐる攻防であり,
長篠の戦いは,武田勝頼の三河・信濃の境目への出撃に呼応した戦いであり,
山崎の戦いは,摂津の高山右近,茨木の中川清秀,伊丹の池田恒興による山城との境目の攻防であり,
賤ヶ岳の戦いは,近江と越前の境目,柳ヶ瀬での対決であり,
関ヶ原の戦いは,畿内と東国の境,不破の関という境目での攻防であり,
と,ある種の境界線で戦われたというふうに見ることができる。
この境目,多くは,地形・水系に由来する。
例えば,山。
一般的な境目になるのが山。山城と近江の国境は逢坂山。古来「逢坂の関」が設けられていた。峠は,多く,分水嶺を分ける。三国峠は,関東側が利根川水系,越後川が信濃水系。その水系が多く,一つの郡を形成する。
例えば川。
川はしばしば境目となる。大井川は駿河と遠江を分け,木曽川は尾張と美濃を分ける。
そうした境目の攻防で,橋頭堡として,城が築かれる。それを,
新地,
もしくは,
地利,
と呼ぶ。新しく得た領地と言った意味だが,そこに城が築かれる。付城とも呼ばれる。したがって,新地は,城のことをも指すようになる。
境目に作られた城は,境目の防衛を担うと同時に,敵方の城への攻撃拠点となる…,
その意味で,敵の城を攻撃するために,周囲に付城を築くが,攻撃拠点であると同時に,橋頭堡の意味も持つことになる。
この攻防の先兵になるのが,その国を追われた牢人衆ということになる。そこには,国を奪われた国衆も含まれる。
牢人については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/396273414.html
で触れた。本貫地を奪われたという意味では,本貫地を取り戻す戦いにもなる。
また,境目の地域は,危険が高いため,村内に散らばって住めず,城の近くに,すぐに城に逃げ込めるように住む,当然他国へ逃散するのを防ぐ意図もある。これを,
寄居,
という。。
また,この境目は,両者の情報戦の主人公は,
草,
と呼ばれる。時代劇で出る,「草」とは,少しニュアンスが違う。『政宗記』にこういうことが書かれている。
奥州の軍(いくさ)言葉に草調儀などがある。草調儀とは,自分の領地から他領に忍びに軍勢を派遣することをいう。その軍勢の多少により,一の草,二の草,三の草がある。一の草である歩兵を,敵城の近所に夜のうちに忍ばせることを「草を入れる」という。それから良い場所を見つけて,隠れていることを「草に臥す」という。夜が明けたら,往来に出る者を一の草で討ち取ることを「草を起こす」という。敵地の者が草の侵入を知り,一の草を討とうとして,逃げるところを追いかけたならば,二,三の草が立ち上がって戦う。また,自分の領地に草が入ったことを知ったならば,人数を遣わして,二,三の草がいるところを遮り,残った人数で一の草を捜して討ち取る。
当然駆け引きが行われる。その主人公は,身分的には,
足軽,
として,足軽衆に組み入れられているが,その実態は,
乱波
あるいは
透波(素波),
と呼ばれる。折口信夫は,こう書いている。
透波・乱波は諸国を遍歴した盗人で,一部は戦国大名や豪族の傭兵となり,腕貸しを行った。透波・乱波は団体的なもので,親分・子分の関係がある。一方,それから落伍して,単独となった者を,すりと呼んだ。山伏も法力によって,戦国大名などに仕えることもあった。山伏の中には逃亡者・落伍者・亡命者などが交じり,武力を持つ者もいて,この点でも,透波・乱波と近い存在である。
草の異称として,
かまり,
しのび,
あるいは
伏,
があるが,
一人前の武士がすることではない活動の象徴として,大久保彦左衛門の『三河物語』には挙げられており,まさに,境目的な,人たちだったということができる。
信長,秀吉,家康という人物を視点に戦国を描くのが鳥瞰的とするなら,ここで描いた地場での戦いは,虫瞰的といえるもので,確かに華々しさはないが,もう一つの戦国史といっていい。
盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』(洋泉社歴史新書y)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年05月07日
能力
能力は,前にも何度も触れたが,独断と偏見によるけれども,
知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする),
である,と考えている。これに,
気力(がんばる)
体力(やれる)
努力(つづける)
を加えてもいいが,大した影響はない。大事なのは,発想だっと思っている。
何とかしなければならないレベルの,いままでの知識と経験では解けないことに,立ち向かって初めて,自分が,
何を知らないのか,
何ができないのか,
に気づく。それが第一。第二に,そこで初めて,自分の頭で(知識と経験は受け取ったものだ),
どうしたら解けるかを考える。
発想を経ない経験は,結局,
出来る範囲でやる,
か,
出来ないことに目を背ける,
ことでしか,クリアできない。それは,能力のキャパを増大するチャンスをみすみす潰すことになる。
発想といっても,持っている,
知識と経験の函数,
だから,マジックのようなことができるわけではない。しかし,持っている知識の組み合わせやつなぎ方を変えるだけで,新しいアイデアやモノの見方に気づけることが多い(もちろん,自分にとって)。
ひらめく瞬間に,
脳内の広範囲が活性化する,
と言われる。それは,いままでのリンクとは全く別のつながり方によって,自分にとっての,
アッハ体験
ができる,と言うことだ。そういう経験を積み重ねることが,考える,自分の頭で考えるということだと,僕は思っている。
それを別の言い方をすると,
編集,
という作業になる。情報も知識も,編集することで,様相を変える。例えば,前にも挙げたことがあるが,映画のモンタージュ手法を例にとってみる。
「一秒間に二四コマ」の映画フィルムは,それ自体は静止している一コマ毎の画像に,人間や物体が分解されたものである。この一コマ一コマのフィルムの断片群には,クローズアップ(大写し),ロングショット(遠写),バスト(半身),フル(全身)等々,ショットもサイズも異にした画像が写されている。それぞれの画像は,一眼レフのネガフィルムと同様,部分的・非連続的である。ひとつひとつの画像は,その対象をどう分析しどうとらえようとしたかという,監督のものの見方を表している。それらを構成し直す(モンタージュ)のが映画の編集である。つなぎ変え,並べ換えることによって,画像が新しい見え方をもたらすことになる。
たとえば,陳腐な例だが,
たとえば,男女の会話の場面で,男の怒鳴っているカットにつなげて,女性のうなだれているカットを接続すると,一カットずつの意味とは別に男に怒鳴られている女性というシーンになる。しかし,この両者のつなぎ方を変え,仏壇のカットを間に入れると,怒鳴っている男は想い出のシーンに変わり,それを思い出しているのが女性というシーンに変わってしまう。あるいはアップした男の怒った表情に,しおたれた花のカットを挿入すれば,うなだれている女性をそう受け止めている男の心象というふうに変わる。その後に薄ら笑いを浮かべた女性のアップをつなげれば,男の思い込みとは食い違った現実を際立たせることになる,
等々。
アイデアも,編集という意味では,似てると言える。たとえば,創造性についての代表的な定義は,E・ヴァン・ファンジェの,
①創造者とは,既存の要素から,彼にとっては新しい組み合わせを達成する人である,
②創造とは,この新しい組み合わせである,
③創造するとは,既存の要素を新しく組み合わせることにすぎない,
である。要するに,既存の要素(見慣れたもの)から新しい組み合わせ(見慣れないもの)を創り出すことである
であるが,川喜田二郎は,わかりやすく,
本来ばらばらで異質なものを意味あるようにむすびつけ,秩序づける(新しい意味があるように組み合わせる)
ことである,
と定義している。
いずれも,言い換えれば,異質な組み合わせによって,知っているもの(見慣れたもの)を知らないもの(見慣れぬもの)にすることである。あるいは,新しい意味づけを見つけることである。
この「組み合わせ」を,アーサー・ケストラーは,
互に矛盾する二つの見地(モノの見方)に,常識的にはとうてい均衡がとれそうもないないところで「不安定な平衡状態」を見つけることだ,
と言う。つまりは,単なる寄せ集めではなく,常識的には接合点の見つけられない「異質」なものに「交錯点」を見つけ出すのである。そこにつながりを見つけることなのである。
発想を別の言い方をすると,
選択肢,
である。さらに突っ込むと,
(できるだけ)沢山の選択肢が出せる,
ということになるのではないか。当然,組み合わせの選択肢は,自己完結では限界がある。人とのキャッチボールによる,異質な選択肢を加味することが,不可欠となる。
どこまでも,コミュニケーション抜きで能力は広がらないようにできている。
参考文献;
E・ヴァン・ファンジェ『創造性の開発』(岩波書店)
瓜生忠夫『新版モンタージュ考』(時事通信社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年05月08日
無様
セッションの中で,進退窮まるほどの窮地に追い込まれたとき,あるいはしくじってとことん落ち込んだとき,そういう自分をどう名づけているか,と問われた。
意味が分からず,
オレはあかんな,
とか,
やっぱりだめ,
とか言っていたが,それにどう名づけているか,と重ねて問われて,ふと思いついて,
二流である,
といった。正確には,自分の定義では,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view03.htm
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163461.html
で触れたように,三流というのが正確かも…。因みに,
「三流の人」とは,それがもっている新しさを,「二流の人」の現実化の努力の後知り,それをまねて,使いこなしていく人である。「使いこなし」は,一種の習熟であるが,そのことを,単に「まね」(したこと)の自己化(換骨奪胎)にすぎないことを十分自覚できている人,
である。まあ一流,二流をの背中を追いつつ,おのれの力量と才能のレベルを承知している人のはずである。だから,もっと正確には,それより下,
三流以下,
ということかもしれない。
で,その自分を受け入れることが,というか,それから目をそらさないこと,
なりたい自分になる
ことにつながる,ということらしい。そういう自分を抱え込む。そこに,地に足をつけるところから出発のしようはないので,それを忘れて背伸びしても,無理ということになる。これを言うなら,あるいは,
ざまあ,ねえなあ,
というおのれでおのれをあざけるその自分の,
無様(不様)
を受け止めるということになるのかもしれない。無様は,
無+様
で,
様にならない,
ということだ。様とは,法(のり),手本(法式),鋳型,という意味だから,
生き様
死に様
の様でもある。
どうあがいても,形にも型にもならないということになる。だから,
体裁が悪い,
みっともない,
につながる。あるいは,
格好がつかない,
という方が正確かもしれない。ときに舞い上がって,等身大のおのれに戻れなくなる自惚れを,ただ戒めるという意味だけではない。そういうおのれをも是としていい,ということなのではあるまいか。
そんな,こんな,おのれのかっこわるさをあれこれ思っていたせいか,ぼんやりといろいろ考えていたら,過去の一杯の失敗が,恥ずかしい行為が,迷惑をかけた振る舞いが怒涛のように,大挙して押し寄せて,押し潰されそうになった。そんなことを数え上げれば,きりはない。思わず冷や汗,脂汗がでる。確かに,やっぱり,
三流以下
には違いない。
しかし,その中から,ふいに,こんな怠け者が,
ここまでなんとかかんとか生きのびたきた,
ということに思い至る。いやいや,それどころか,いろんな人の手を借りたことが思い出されてくる。二進も三進もいかなくなる,いわゆる,
進退両難
のときに,不思議と,やってみたこともないことをやらないかと,声を掛けられたり,以前の出版物のつてから,手を差し伸べられたり,とずいぶん助けられてきたことを思い出す。ひょっとすると失敗を上回ったから,赤字決算ではなくすんでいるのかもしれない。
まあ,まんざらダメダメ尽くし,
ばかりでもない。そう思うのだ。
それがなければとうに野垂れ死にしているところだろう。
受け入れる,というなら,こういうことも,その一つなのだろう。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年05月09日
舞台
トークライブ【第1回 片岡宗橘が語る「近くて、深い」茶道の世界】に参加してきた。
https://www.facebook.com/events/1483583801859048/1486730851544343/?notif_t=like
茶道家・片岡宗橘は,磐城平藩安藤家に伝わる、御家流の茶道。武家の茶の湯である。
茶の湯については,無知なので,まあ,勝手な妄想かもしれないが,今日お話を伺って感じたのは,茶の湯は,
場,
だ,ということだ。僕の言い方では,
土俵,
だ。そこに,場を設える,
花入・掛け物・香合・風炉・釜・建水・柄杓・火箸・水差…,
等々をそろえる。そこに,お客に合わせて,その日の花を差し,季節や光を勘案し,軸を改める。
その舞台装置全体が,亭主の出迎える心映えである。心映えについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163582.html
でも書いたが,
おのずから照りだす,
ものだと思う。心が映る,月光が水に映る,反映する,のように,心の輝きが,外に照り映えていく状態である。舞台装置がそれを示す。
だから,その舞台である茶室なしに,茶の湯の心映えは成り立たない,そんな気がした。
一客一亭
である。それは,同時に客も試されている。そのもてなしにふさわしい,振る舞いと心映えで応えられるかどうか。もちろん反照として,亭主も,また客に試されている。
それは,いわば,立ち会いに似ている。立ち会いは,その場での人と人の,技量ではなく,器量と器量の対峙である。小手先の技ではなく,その人そのものの対峙である。
それに似ている。
そういう向き合いをするべく,場として,その茶室が設えられている。
聞き間違いかもしれないが,
さしたるはわろし
という言い回しをされた。押しつけというか,わざとらしさは,もてなしではない。
もてなしは,
持て+成す
心を籠めて相手に御馳走することである。大事なのは,その心映えなのであって,
一期一会
もそれにつながる。千利休の弟子の山上宗二が,
一期に一度の会
ということを記していたらしいが,それを,井伊直弼が,
一期一会
として言語化した,と聞く。
あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう,
との趣旨だ。これも,心映えを言う。
以前片岡さんのお招きで,香道と,茶道のさわりを体験せていただいたが,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/393251223.html
そこで感じたのは,相手のもてなしに対応するだけのものがなければ,その心遣い,心扱い,心尽くしを,客は受け止めきれない,という歯がゆさだ。
相手のもてなしが,受け止め切れるには,それなりの心得と心構えがいる。
だから思う,
おもてなし,
は,公言するものではない。その心構えで,応対するという心映えのことだ。迎える側が,おもてなしなどというところに,ろくな店がないのと同然である。
意味を取り違えているかもしれないが,世阿弥の
秘すれば花なり,秘せずば花なるべからず,
の心映えに通ずるものである。まして,茶の湯のそれは,
茶室という舞台あってのものだと思う。そこに,趣向をさりげなく示す。おもてなしは,小手先ではない,おのれの心映えを表現した場づくりがどれほどのものか,さもなくば,こちらの不心得を,客に,見透かされるのが落ちだ。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年05月10日
趣き
趣きは,辞書は,
①心の動く方向,心の動き
②事柄の大事な内容
③物事のなりゆき,ありさま
④しみじみとした味わい
⑤言おうとしていること。趣旨。~ということ,由
⑥やり方,方法
等々とあるが,「趣き」という言葉をあえて使うというところに,
しっとりとした味わい,
のニュアンスを伝えたい意志の反映であり,ただの「ありさま」を指しているにしても,
それを表現した主体のそれへの好意が伝わる,
という含意がある。
語源的には,
面+向き
で,心をそちらへ向ける意であり,転じて面白み,であり,背向(そむ)くの反対語とある。
まさに,そちらへ向けようとする意味がにじみ出る。僕は,趣きの味わいとは,
陰影
なのだと思う。残る隈なく,煌々と照らされて,のっぺりとした中に,味わいはない。
なぜこんなことから始めたのか,というと,根津美術館で,
http://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/index.html
特別展「燕子花図と藤花図 光琳、応挙 美を競う」を観てきたことから,
趣きがない,
と感じたせいだ。もちろん,美術には素人の朴念仁の言うことだから,大した意味はないが,帰り道,そう感じたことに気づいたのだ。
展覧会の趣旨では,
国宝「燕子花図屏風」の季節が,今年もやってきます。このたびは,尾形光琳の筆になる「燕子花図屏風」を,それからおよそ70年後,同じ京都で円山応挙が描いた「藤花図屏風」とともに展示し,美を競わせる趣向です。衣裳文様にも通じるデザインを,上質な絵具をふんだんに用いてあらわした「燕子花図屏風」と,対象の細やかな観察と高度で斬新な技法が融合した「藤花図屏風」。対照的な美を誇る2点の作品を中心に,琳派の金屏風の数々,さらには応挙にはじまる円山四条派の作品を加えて,近世絵画の魅力をご堪能いただきます。
とあり,
尾形光琳筆「燕子花図屏風」
と
円山応挙筆「藤花図屛風」
を対比すると,いまでも通ずるデザイン風と写生の対比が狙いなのだろうが,それって意味があるのか?と感じた。別にガラス越しに見ることに不平があるのでもないが,屏風が,
絵
として展示されても,その意味は見えてこない。せめて,畳を敷いたうえで,家屋としての背景を考えるとかしてみないと,本当にこの屏風の趣きは,滲んでこない。
(真偽は知らないが)伊藤若冲のプライス・コレクションが来日した展覧会では,先方の要望で,行燈とか蝋燭だとかの,揺れる灯りの中で,いくつかを展示したとかという話を聞いたことがある。そういう展示をしなければ,その絵の持つ意味が見えないと,コレクターは感じ取ったことがあるのではないか。
とりわけ,屏風も襖絵も,
その場,
とセットになっている。そこで見るから意味がある,それを場から切り離したのでは,群れで生きる野生動物を,折の中に入れて鑑賞するのに似ていなくもない。
花田清輝が,
猿知恵とは,猿のむれの知恵のことであって,むれからひきはなされた一匹もしくは数匹の猿たちのちえのことではない。檻のなかにいれられた猿たちを,いくら綿密に観察してみたところで,生きいきしたかれらの知恵にふれることのできないのは当然のことであり,観察者の知恵が猿知恵以下のばあいは,なおさらのことである。
と,皮肉たっぷりに言っていたのを不意に思い出す。
鑑賞者がトウシロウの場合は,なおのこと,そこに,技術が読めるわけでもなく,ただ感心して通り過ぎるだけだ。それなら,時代の「場」のただなかにおいて見たら,時代の中で,それがどのような,
味わい,
を醸し出していたのか,少なくとも,雰囲気として実感できた,そんな,ないものねだりをしてみたくなった。
味わいとは,
陰影
なのだ,とつくづく思う。陰影とは,
奥行き
でもある。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
中村明『語感の辞典』(岩波書店)
花田清輝『鳥獣戯話』(講談社文芸文庫)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年05月11日
違い
テリー・ピショー&イボンヌ・M・ドラン『解決志向アプローチ再入門』を読む。
ソリューション・フォーカスト・アプローチ(SFA)については,何度も触れたが,最近では,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388984031.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/391885947.html
で,触れた。そこで上がった参考文献を,改めて,読み直してみた。
復習という意味合いが強かったが,いくつか,改めて,気づいたこともある。
裁判所,保護観察部等々の紹介機関からやってくる,薬物中毒,アルコール中毒,DV等のクライエントをセラピーするという条件の中で,いかにソリューション・フォーカスト・アプローチが有効かを,実践的に確かめ,自分のものにしていった著者たちの,問題志向からの転換の悪戦苦闘が,反映されているという意味では,アメリカの事情に詳しくないものには,多少煩雑で,読みにくいところもあるが,創始者の,インスー・キム・バーグやスティーブ・ディ・シェイザーという第一世代の薫陶を受けた,第二世代のセラピストが,
臨床現場で習得していったプロセス,
が具体化されており,より噛み砕かれた内容になっている。その意味で,振り返るのに,丁度いい。特に,
第一章 解決志向の基本
第二章 個人セッションの流れ
第四章 たくさんのミラクル
は,振り返りと整理には,丁度良かった。たとえば,解決志向の原則は,
1.壊れていないならば,治すな
2.何かがうまくいっているならば,もっとそれをせよ
3.うまくいっていないならば,何かちがうことをせよ
4.小さな歩みの積み重ねが大きな変化につながる
5.解決は必ずしも直接的に問題と関連するとは限らない
6.解決を創り出すための言語に必要なものは,問題を記述するために必要なものとは異なる
7.どんな問題も常に起こっているわけではない。利用可能な例外が常にある
8.未来は,創り出されるし,努力して変えることもできる
ミラクル・クエスチョンについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/391885947.html
で触れたので,それ以外をすこし拾い出してみる。
例外については,スティーブの,
「不規則」な例外が不規則ではなく,実は,まだ記述されていないが,ある文脈のパターンの中に埋め込まれているのである。そして,これがもし記述されれば,例外を予測し,その結果,それを処方することもできるだろう,
を引用し,
例外は,変化が足元にあり現実である可能性があるという,かすかな望みを提供する場合が多い。例外が明るみに出ると,クライエントは希望を得る。というのは,自分の奇跡の一部が今起こっていると彼らにわかり始めるからである。
そう,例外は,「既に起こっている奇跡」だということの再確認である。
実は今回再度気づき直したのは,
違いの質問
である。著者は,こう言う,
違いの質問は,クライエントの変化の効果や変化の可能性を確認して目立たせ,その結果,提案された変化が確実に,現実的で,実現可能で,やりがいがあるものとなるための「エコロジーチェック」を提供する,
と。そして,
違いの質問は,クライエントの中に火をともすために必要な,拡大された状態を提供する。
典型的には,クライエントが現在,過去,または将来可能性のある具体的な変化を認識した後で,この質問はなされる。
第一に,
過去の変化の影響を探求する違いの質問は,同様の変化が現在の状況において有益と思われるかどうかを,クライエントが決定するのを援助する点で有益である。
この場合,忘れていたスキルや成功体験を認識し直すことが多い,という。たとえば,
「あなたが以前,毎晩一緒に夕食をとるようにしていたとき,そのことでご両親との関係でどんなことが違っていたのですか」
第二に,
可能性のある変化(例えば,奇跡の日に起こる変化や,一たび問題が解決された後のこと)を探求する質問は,クライエントの奇跡が,関係する人々にとって長期的に持続する利益を結果的に生み出す様子を明確にする点で役立つ。
変化が,どう周囲の人に影響し,それがどう自分に反照してくるかの確認だが,たとえば,
セラピスト「(クライエントに起こった変化)で,あなたにとってどんなことが違ってきたのですか」
クライエント「初めて実現しそうに思えたんです。…実際私は興奮しているの!」
セラピスト「そんなに興奮すると,どんなことが違ってきますか?」
クライエント「元気が出ます。…初めて力が湧いてきます。これが上手くいくようにしたいと思っています」
セラピスト「これらの変化で,息子さんにとってどんなことが違ってくるでしょうか?」
この周囲への影響の質問は,
関係性の質問
として著者が設定している介入と関係が強い。つまり,関係性の質問は,
自分の目標を達成することが自分の人生における重要な人々に与える影響を,クライエントが評価する,
よう援助する。それは,そのまま,可能性の実現がどういう違いをもたらすか,ということにつながる。たとえば,ミラクル・クエスチョンのあと,
「御主人に,夜中に奇跡が起こって,あなたの飲酒問題が解決したことがわかるでしょうか?」
とつながる。その意味で,著者は,「違いの質問」に,二つの切り口があるとして,
ひとつは,クライエント自身の変化の気づき,
いまひとつは,周囲の人,家族,友人の変化の気づき,
と言っている感じがする。ここからは,僕の勝手な理解になるが,この二つの切り口も,もう少し細かく,例示できそうな気がする。たとえば,
①変化の前と後
「ここに治療に着た結果として,どんなことが違ってくれたらいいと思いますか?」
「これを修了し,やり終えたことがケースワーカーにわかると,どんなことが違ってくるでしょうか?」
②変化そのものによる変化
「この奇跡で,あなたと息子さんにとってどんなことが違ってくるでしょうか?」
「もしケースワーカーがあなたのそんな側面を見ることができたとしたら,どんなことが違ってくるでしょうか?」
③変化の発生
「そういった行動でどういった違いがうまれると,あなたは思われますか?」
「あなたが(セラピーに)現れたことがケースワーカーにわかったら,あなたにとってどんなことが違ってくるでしょうか?」
④レベルアップの変化
「(スケーリング・クエスチョンで)あなたが6にいるとき,どんなことが違っていているでしょうか?」
「そうなったら,どんなことが違ってくるでしょうか?」
⑤変化の予測
「ここへ来た結果として,どんなことが違っていたらいいと思っていますか?」
「あなたのご両親は,あなたがここへ来た結果として,どんなことが違ってくればいいなと思っているでしょう?」
⑥変化の差異
「それはいつもと違うのでしょうか?」
「あなたにとって,どんなことが違ってくるでしょう?」
「そんなふうにすると,とても違ってくることを知っていたのですか?」
「どんな行動が違ってくるのが,見える必要があるのでしょうか?」
「それでどんなことが違ってくるのでしょう?」
等々,多少重複するところがあるが,
変化の差,違い,
変化の状態から見えるものの違い,
相手から見える違い,
といったものだが,細かく言うと,
違う,
違っている,
違ってくる,
違って見える,
と言い替えただけで,微妙に変わる。ここでは,クライエントに,
どういう立場で,
どの位置に立って,
どの条件のもとで,
どういう立場で,
どういう背景で,
どういう文脈で,
等々ビューポイントを設定してもらうことで,いまとの違いに気づき,そこに,自分の持っているリソース,あるいは,引き起こした変化に着目してもらうことが重要なのだ,と改めて再確認させられた次第。
参考文献;
テリー・ピショー&イボンヌ・M・ドラン『解決志向アプローチ再入門』(金剛出版)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年05月12日
物語る
ブリーフ・セラピー研究会の「『ナラティヴ・アプローチ入門』PART2(立正大学教授 安達映子先生)」に参加してきた。今回は,三回にわたっての連続ワークショップの第一回目は,「外在化」。
PART1については,
外在化について,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163526.html
と,ナラティブ・セラピーの考え方について,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163523.html
で触れた。
今回改めて,外在化を実践することを通して,初めて,外在化が,単なる問題の外在化によって,問題を自分の外に出して,それとの距離を取ることで,対処法が見える,というスキルチックな短絡的な理解を改めるに至った。
ナラティヴの面接では,(M・ホワイトの考え方では)
人々が豊かに現実を語る,(セラピストはクライエントが)厚い記述をするパートナーになる,
ゴール(設定)はない(何かを目指し,それをするために…という面接はない),
何かを話すことを通して,選択肢を増やす会話をしていく,
人生のストーリーを増やす
クライエントが話したいことが話せたかどうか,
セラピストは探検家である,
等々と言ったことを,講師は折に振れて繰り返した。ここにナラティヴ・セラピーの神髄があるのではないか。あくまで,僕の受け止め方たが,外在化もそのためにある,と。
たとえば,
「コミュニケーション不足で,就活が上手くいかない」
という訴えがあった時,こちらの通念(あるいは社会規範)から,
確かにコミュニケーションが下手だと,何についてもうまくいかないな,
と,クライエントの話にのってしまうことを指す。そこには,
コミュニケーションはうまくなくてはいけない,
コミュニケーションが下手だと世渡りにハンディだ,
という社会的規範に乗っかって,相手の話を聞いている,ということになる。ここで問われているのは,
セラピストが,どこまでそういう社会的通念や規範に対して,メタ・ポジションが取れるか,
と同時に,
セラピスト自身の中の,そういう社会的規範をよしとする考え方がないか,という批判的見方が持てるかどうか,
である。もちろん,正しいか間違っているかではない。クライエントが,
幅広い選択肢を取れるようにする,
そのために,セラピスト自身が,自由な視点を持てなくてはならない。もともと,
コミュニケーションが上手くないといけない,
という社会規範があるから,クライエントは悩むのである。つまり,
悩みはコンテクストがあって,悩みたらしめる。その背景を,
荷解き
することが,選択肢を広げ,ストーリーを広げ,厚くするのに欠かせないのである。
コミュニケーションが下手→就活がうまくいかない→コミュニケーションがうまくなりたい
というストーリーを,
薄い記述,
という。では,それを,
厚い記述,
にするにはどうすればいいか。それを,
多声性(ポリフォニー),
と呼ぶ。例えば,「コミュニケーションが下手」を,
コミュニケーションって,何?
コミュニケーションとは具体的に何を指すのか,
コミュニケーションが下手というのはどういうことを言っているのか,
コミュニケーションが上手いというのは,どういう状態を指しているのか,
等々。これって,コーチングやカウンセリングで,コーチやカウンセリングが,
分かったつもりにならない,
ということと同じことだ。わかったつもりになることで,「コミュニケーションが下手」は,多々薄っぺらな語りのまま,スルーされる。そこに,実は,
コミュニケーションに対する本人の思い,
コミュニケーションする時に感じている本人の感情,
コミュニケーションに対する過去の蹉跌,
コミュニケーションに対する価値観,
等々,その本人も忘れているような,あらたなストーリーが,生まれてくる。その語られる新しい物語は,本人の,
人生物語,
を多様にし,幅と奥行きを広げていくはずである。それが,その人の思っている自分を変えていく可能性がある。
そのパースペクティブの中で,外在化を考えるなら,
本人に埋め込まれた問題を本人から切り離して対象化する,
ことの意味は,
問題に悩まされているというストーリー
からクライエントを掘り出し,自分の外に問題を眺めることで,
問題の多様な面を眺めて別の自分というストーリー
を紡ぎ出す,と言ってもいい。だから,ある面で,
その問題は,社会的な文脈におき直すことで,
あなたの問題ではなく,
社会の問題でもある,
という視点を手に入れられるかもしれない。それは,もちろん,免責を意味しない。問題と本人の間に,
スペース
を取ることで,問題との距離がもて,
問題の影響
明らかにできれば,では自分はどうしたらいいかを,考えることができる。これは,神田橋條治さんが,
二者関係から三者(項)関係
と表現したのと似ている。
クライエントの中から,問題を客体として取り出し,それをクライエントとセラピストが,一緒に眺めている,構図である。
問題の外在化も,こういうコンテクストの中で,物語を厚くする手段と位置づけられる。だから,外在化は,たとえば(ホワイトは),
①問題の定義を協議する
②問題の影響をマッピングする
③問題の影響を評価する
④評価の正当性を証明する
といった手順で,具体化していくが,このとき,通常不可とされる,「なぜ」も有効に使われる。
「なぜ」質問は,人々が人生において価値を置く事柄について理解,人生知識と生活技術,生き方についての重要な考え方に声を与え,それを更に展開する,
とマイケル・ホワイトは言う。そこに,常識や通念に塞がれた視界を開き,新しい,自分のストーリーを見つけるには不可欠な問いでもある。「なぜ」を不可とする通念自体が,セラピストが囚われている先入観に過ぎない(かもしれない)。
なぜそう考えるのですか,
なぜそれがよくないことなのでしょうか,
なぜを通して,クライエントが閉ざしていた価値観を表立たせることも可能なのである。
すべて,クライエントが,
自分の人生を取り戻す
ためであり,そこで,セラピストこそが問われている,
社会的常識にとらわれているのはセラピスト自身ではないか,
と。当たり前とするのではなく,
それを疑う目を,
もたなければ,クライエントの幅広い選択肢のあるストーリーを語りださせることはできない。それは,セラピスト自身の常識,社会通念を炙り出す作業ともなる。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年05月13日
読む
読むというのは,
読むと,数(よ)むとは語原が同じ,つまり,
数える,
とされる。お経をヨム,と同じなのだそうだ。ヨムは,中国語源では,
文書をヨム
意味を抜き出す,
言葉を眼で追う,
を指すらしい。しかし,どうも作品(多くは文学作品だが)を読む,というときの,
読む,
はちょっと異なるのではないか,という気がする。
吉本隆明の発言に,
文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしか分からない、と読者に思わせる作品です、この人の書く、こういうことは俺だけにしかわからない、と思わせたら、それは第一級の作家だと思います。
というのがある。例によって,ちょっと逆転した物言いたが,自分に読み取れたことを人は別に読む,という相対的なものの見方が出来なければ,こういう言い方はできない。
多くが,そこに自分を読み込むことで,自分にしかこの作品は分からない,という確信(誤解)をえる。それが,作品の良し悪しの根拠という言い方は,独自で面白い。それは,逆に言うと,作家の自己完結した世界に閉鎖されれば,多くは,跳ねのけられた感覚になるに違いない。
これが正しいかどうかは別として,作品を読むというのは,
作品の意味を読み解く,
のとは異なる。そういう読み方を文芸評論家はするかもしれないが,それは,身過ぎ世過ぎのためであって,作品を読む,という場合,僕は,三つしかない,と思っている。
第一は,作家の描いた世界に,丸々乗ってしまう。まあ,これだって,読者が作品に思い描いた世界と,作家がイメージして文字にしたものとは異なっているかもしれないが。
なぜなら,ひとつの言葉の意味は,辞書的には同じでも,その言葉見るのは,それぞれのパーソナルエピソードに拠っている。人生が同じでないように,言葉に思い描くものが同じなわけはない。
僕にとっては,藤沢周平の作品がそれかもしれない。ただその世界に入り込んで,楽しんでいる。いまは,漫画の『キングダム』が,あるいは,そういう作品かもしれない。
第二は,言葉を自分の世界に置き換えて,読む。作家の描く世界を,自分流にイメージした世界として読む。そのとき,そのイメージは,明らかに,個人的なものだ。
クオリアレベルで言うと,同じ赤といっても,見ている赤の内実は違っている。にもかかわらず,「アカ」という言葉だ代替する。だから,「赤」に,おのれの描く朱を見ることで,その瞬間から,その言葉の拓く世界は,自分の世界に変わっている,と言ってもいい。
僕にとっては,これは,石原吉郎の詩だ。
第三は,作家の言葉の描く世界と,自分がその言葉に見る世界とを,キャッチボールしつつ,両者の向こうに,というか,ベン図の円の重なった部分,といったほうがいいか,そこに,独自の読んだ世界を見る。
あるいは,その作品に影響を受けて,自分の世界を築こうとする。それが,別の作品になるのか,商売になるのか,自分の生き方になるのかは,ともかく,作品に強い影響を受ける,というのは,そこから,自分が新たなアクションを起こそうとする,というのにつながる。それが,作品の完結した世界とはまったく別のものになるにしても,読み手にとっては,作家の世界とのキャッチボールの結果なのだ。
もちろん,このほかに,正確に,作家の発するメッセージを意味として受け取るという読み方もある。しかし,それでは受身だと僕は思っている。いい作品ほど,その影響と格闘することになる。
これは,僕にとっては,古井由吉であり,個別の作品で言うと,ドス・パソス『USA』であり, マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』だ。
この作家とこの作品は,僕の中でいつも格闘が続いている。それは,方法であり,世界観であり,描き出す世界像である。
いずれの読みが正しいかどうかは,ぼくにはわからない。しかし,世の中の大作,傑作については,僕はあまり関心がない。流行していようと,世界的作家であろうと,僕に刺激としてのインパクトと,強烈な存在感を示さないものは,僕にとっては,傑作でも,名作でもない。
その点では,吉本の言うことには,賛成できない。
結局読む,とは,僕にとって,僕個人と,
作家の作品との格闘,
に他ならない。作家とではないが,結果として作家個人と対峙していることになる。そして,いつも,完膚なきまでに負け続けている。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年05月14日
間合い
前田英樹『剣の法』を読む。
この本は,何のために書かれたのかが,読んでいて分からない。著者は,
この本は,新陰流の刀法を実技面からかなり詳しく書いたものである。けれども,技の解説書といったものではなく,この刀法が成り立つ根本原理を,誰が読んでもわかるように書いたつもりである。このような原理をつかんでいれば,流祖以来四百数十年にわたって続くこの刀法の中心は崩れないと思う。
と言われる。ならば,
ただ新陰流の原理を伝えるために書いたのか,
それとも,
その精神のもつ普遍性を描きたかったのか,
それとも,
刀身一如という刀と身体の捌きを伝えたかったのか,
いずれとも,読んで判然とせず,ときに苛立った。
いま新陰流を学んでいるものにとっては,あるいは学びたいと思っているものには,さらには武道を心得ている方々には,役に立つかも知れない。しかし,いまどき刀そのものをもっている人間も少ない。まして,刀で立ち会うなどということは,試合ですらない。刀なしでは役に立たない兵法について,詳細に語られる意図が,僕には遂にわからなかった。刀あっての兵法だろうと思うし,それなしならば,単なる作法と同じになるから。
僕はもともと,
士
と,
剣術家(兵法家)
とは別のものだと思っている。兵法家(剣術家)が士とは限らないのである。僕にとっては,士道とは,ここにある,胸を叩く,
横井小楠
をこそ士と思っているので(剣を嗜む,あるいは剣を究めることがないとは言わないが,あくまで嗜みの一つ。事実小楠は皆伝の腕ではある),
剣客,
剣士,
兵法家,
剣術家,
は,士とは思っていない。せいぜい,
剣術に特化した士,
でしかない。この著書を僕はよく知らないので,そのどちらなのかは知らない。しかし,いま,この兵法が,役に立つ,とは,読んだかぎりでは(剣も知らぬ愚鈍な自分には)少しも感じられなかった。最後を読んで,兵法に耽溺しているご自身の自己弁護のために,縷々書き連ねたのだと,あやうく思い違いしそうになった。
もしあえて言うなら,本書から学んだことは,
間合い,
だと思う。人との間合いだ。著者が,身勢,拍子,間積り,太刀筋,と言っている,
間積り
と間合いが同じものなのかどうかは知らないが。
その面から見ると,結構面白さが見えてくる。僕が読み取ったかぎりでは,相手の構え,目付,拍子,間積りを,いかに崩すか,いかに破るか,に真髄がある,と見た。たとえば,上泉伊勢守が,愛洲移香斎の陰流によって開眼したいきさつについて,著者はこう書いている。
まず,型の始めに取る脇構え(中略)…から敵は,脇構えのままの姿勢で太刀を頭の右横に持ち上げ,前の左足を踏み込んで,こちらの左肩を斜めに切りこんできます。こちらはどうするか。敵と全く同じように,太刀を頭の右横に持ち上げ…,これまた敵とまったく同じ動きで,左足をわずかに踏み込み,斜め切りに相手の左掌を切り落とす…。二人の動きは,相似形を描き,ただわずかな時間のずれで勝敗がわかれるのです。
この動きから,伊勢守が開眼したのは,
まっすぐな体の軸がわずかに前へ移動する,その移動のふわりとした力によって,敵を切り崩す原理です。敵の切り筋を,自分の切り筋で塞ぎながら勝つ,
と。しかし,
相手のほうが先に切るのに,なぜ,あとから出す,こちらの切りが,勝ってしまうのでしょう。…相手は,こちらの左肩を切ろうとしています。こちらは,その相手の,すでに打ち出されている左掌を切ればいいわけですから,それだけ相手よりも動く距離が少なくなる。この間合いの差によって,こちらの切りが先になるのです。
しかし,ここでの勝敗の在り方は,ただ動く距離の大小だけで説明のつく事がらではありません。相手が動く,その動きに対して,こちらの移動が作るわずかな〈拍子のずれ〉が,崩しを生むのです。
と。ここに新陰流の流祖の見た真髄がある,と著者は言っている。
この勝ち口には,限りない自由と有無をいわせない必然とが,完全に,同時にあります。
それをこう説明します。
ここでの自由は,ただ任意に動き回る自由とは違う。「車」の構え(脇構え)から,わずかに踏み込む時,こちらが踏み込む線は,相手が踏み込んでくる線と,まったく同じ線上にるのでなくてはなりません。つまり,双方の四つの脚が,一線上にある。この踏み込みによる軸の移動が,ふわりと相手の軸の移動に乗るわけです。この時に,連動して一挙に為される軸の移動,間合いの読み,拍子の置き方,太刀の切り筋には,原理として言うなら,毛一筋程の狂いがあってもいけません。この一挙によってだけ,勝敗は天地の理のように,必然のものになるのです。
この必然は,彼我の関係性のなかに,
ただ自分だけの考えで,強引に創るのではない。敵と自分との〈間〉にある関係,即ち間合い,拍子,太刀筋の関係から,おのずと創り出されてくる…,
と。そして,ここに,陰流の「陰」の意味も隠されている,著者は言う。
陰流の剣法において,陽は対手です。陰は自分です。この関係の置き方に,陰流の極意がある。……「猿廻」(えんかい。上述の立ち合いを指す)…の型では,打立ち(敵)と使太刀(自分)は,ほとんど同じ動きをします。勝敗が生まれるのは,,二つの動きの間にわずかなずれを作ることによってです。陽の打立ちは先に動き,陰の使太刀はそれに応じて遅れて動く。陰は,始めから陽のなかに潜んでおり,陽の動きに従って外に現れる。現れてひとつの太刀筋になる。
突っ込んだ言い方をするならば,そもそも相手が,そう繰り出すように仕組んでいる,と言ってもいい。著者は,
始めに動くのは相手です。が,それは対手の動きを待っているのではない。相手を「陽」として動かし,動く相手のなかに「陰」として入り込むためです。入り込めば,打太刀の「陽」は,おのずから使太刀の「陰」を自分の影のように引き出し,その「影」によって覆われ,崩されることになります。
ありていに言えば,脇構えが,左肩を打つように,誘っている,と言ってもいいのである。この,
敵に随って己を顕わし,敵がまさに切ろうとするところを切り崩す勝ち方,
を
随敵
というそうである。上泉伊勢守が求めているのは,
ただ勝つことではありません。勝つことをはるかに超えて,彼我のすぐれた関係を厳密に創造すること,
あるいは,
相手の動きに協力するかのように入り込み,そのまま相手が崩れてしまう位置に身を占め,重く,しかもふわりと居座ってしまう感覚が必要です。
と著者が言うとき,その閉ざされた関係には,誰ひとり入り込む余地はない。例えは,悪いかもしれないが,ダンスに似ている。両者が同じ土俵の上で,緊張した糸を手繰りあいつつ,ひとつの完結した世界を作っている。それは,余人の入り込むことのできぬ,閉鎖空間なのである。
例えば,三代将軍家光の御前で,江戸柳生の柳生宗冬(宗矩の子息)と尾張柳生の連也が立ち会った光景をこう描く。
宗冬は,三尺三寸の枇杷太刀を中断に取っている。その宗冬から四,五間隔てたところに立った連也は,右偏身で小太刀を下段に堤げ,その切っ先は左斜め下に向けている。つまり,右移動軸の線に切っ先を置いた(あるいは,切っ先を左斜め下向させたままの真正面向きか)。その位取りのまま,連也はスルスルと滞りなく間を詰め,たちまち大山が圧するように宗冬の眼前に迫った。この時,宗冬は,真っ直ぐの中断から左手を放し「思わず知らず」右片手打ちに,連也の左首筋から右肋骨にかけて切り下げてきた。連也は,右偏身から正面向きに変化しつつ小太刀をまっすぐ頭上に取り上げ,己の人中路(中心軸)を帯の位置まで切り通すひと振りによって,宗冬の右親指を打ち砕いた。
右偏身(みぎひとえみ。右半身)とは,
右足を前に,左足を後ろにして立ち,左腰だけを四十五度開いて立ちます。この時,右足は真っ直ぐ前を向き,左足は左に四十五度開いて
いる状態で,スルスルと間を詰めて,左肩を(打つように)誘っている,と言えなくもない。
こちらからスルスルと間を詰めていき,その結果,相手は先に打ち出さざるを得なくなる,
新陰流の「目付」では,相手の切りを,自分の左側か右側かの二つに分けて観るのですが,さらに進んで言えば,相手の切りが自分の左側へ来るように誘い込むことが大切…,
このように迎えた時,振られる相手の拳が自分の型の高さにくる瞬間が必ずある。切っ先より一瞬前に拳が降りてくる。。その瞬間を捉えて,こぶしを打つ…,
という。そのように切り下げた,と見ることができる。
この一瞬の見切りは,体が覚えている,その差はほんのわずかなのだろうと,推測するしかない。たしかに,剣術家は専門職には違いないが,
できないことは,決してわからず,わかる,ということは,稽古のなかで積み重なる〈新しい経験〉としてしかできません。
自分の体でできないことは,わからない,というのが芸事一般の決まりです…。
と言われると,そのただなかにあるものにしか見えない,体感覚があるのだろうと,羨望深く,ただため息をつくほかはない。
参考文献;
前田英樹『剣の法』(筑摩書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年05月15日
アイデア
もう二十年以上,1日1アイデアを続けている。実に下らない思いつきばかりだが,そのくだらなさが,なにごとも当たり前にしない目につながると信じている。
数年前までは,1日2アイデアであったが,とうとう音をあげて,1日1アイデアに,ハードルを下げた。当初は,忸怩たるものがあったが,いまは,1日1アイデアでも,悪戦苦闘している。
アイデアについては何回か書いた,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163006.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163520.html
が,基本的には,アイデアづくりの構造は,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod02100.htm
と考えている。基本的には,何度も触れたことがあるが,
本来バラバラで異質なものを意味あるように結びつける,
のを創造性と言った川喜多二郎の言は正しい。しかし,もっと踏み込むと,
どんなものでもつなげることで新しい意味づけをしさえすればいい,
あるいは,
新しい意味が見つけられるなら何と何を結びつけてもいい,
と読み替えてもいい。となると,
結びつけ,
に意味があるのではなく,
意味づけ,
の方にウエイトがかかる。本来バラバラの物を意味あるようにつなげること,と。これは,
情報の編集,
である。それは,ひらめきの,脳の反応に似ている。ひらめいた瞬間,
脳の広範囲が活性化する,
つまり,いつもとは別のものとつながり,意味に気づく。言い換えると,
いろんなものとリンクさせる力
である。これを僕は,脳の筋力と呼ぶ。
脚力も膂力も腕力も,日々鍛えなくてはすぐに衰えていく。それと同じで,
脳の筋力,
も,日々鍛えなくては,ありきたりの,当たり前に見てしまう。アイデアは,
当たり前と見ない,
ことからしか始まらない。例えば,コンビニが込む。当たり前か?切符の販売機に並ぶ。当たり前か?天気が急変する。当たり前か?アホな政治家が,おのれの思想信条を国是にしようとしている。当たり前か?名字が選べない。当たり前か?
当たり前とすれば,何も問題視しないということだ。いまのまま甘受するということだ。
それは,何も考えないのと同じだ。アイデアは,いまの当たり前をどう崩すか,どう変えるか,どうしたら自分たちのためになるようにするか,を考えることだ。
その意味で,筋力を鍛えることは,生き残る力を,蓄えることだ。アウシュビッツで生き残ったのは,
未来に自分がいる意味を見つけた人たちだ,
フランクルは言う。
(ニーチェの格言)「なぜ生きるかを知っている者は,どのように生きることにも耐える」
したがって被収容者には,彼らがいきる「なぜ」を,生きる目的を,ことあるこどに意識させ,現在のありようの悲惨な「どのように」に,つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え,抵抗できるようにしてやらなければならない。
生きることへの期待から,生きていることが自分たちに期待し,何をなさせようとしているかへ,180℃変えさせた,そこに自分の未来を見つけること,それが生きている意味だと,フランクルは言っているのだが,
自分が生きていることに意味を見つけたものにとって,どう生きるかは,どんな苦難の中でもどうやって生き延びるかを考えることでもあった。それが,
創造性,
に他ならない。
それは,いまのありようを,甘受せず,何としても生き残ろうとする,執念だ,
それを支えるのが,アイデアに他ならない。それは,人を出し抜くことでも,人を陥れることでもない。
フランクルの『夜と霧』で読み取った,勝手な教訓は,
創造性,
こそが生き残る鍵だということだ。どうすれば,
生き延びる創意と工夫を考え出すか,
それは,創造性というか,アイデアの,原基だと,つくづく思う。
発想力については,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view06.htm
かつてこう考えた。基本は今も変わらない。
参考文献;
V・E・フランクル『夜と霧 新版』(みすず書房)
今日のアイデア;
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2014年05月16日
プロ
先日,【第7回 女流漫画家 渡邊治四から学ぶキャリアアップのために必要なこと】に参加してきた。
https://www.facebook.com/events/267242173453374/
最後ということで,結構参加者からいろんな突っ込みがあったが,その中で,僕が気になったのは,かつてアシスタントをされていた,ある売れっ子漫画家が,何が受けるか,を考えて,
その感覚(あるいは嗅覚?)を具体的に落とし込んでいく,
というようなニュアンスのことを言われた。
そこが結構引っかかった。僕は,どんな仕事でも,
自分に解決できる形に置き換える,
こういうカタチになら出来る,と常にどうすればできるかを考える,
という姿勢が大事だと思っていて,それを,僕流に自責化と呼んでいた。
それを思い出したのだ。駆け出し時代は,やりたいことなどやらせてもらえない,というか本当に自分がやりたいことなど分からない。そんな中で,やりたくないこと,難しいことを,一つ一つクリアしていく中で,会得しなくてはならないことがあるように思う。それは,どんな仕事でも,自分流儀に捌いていく,捌き方を手に入れるということだ。それをすればするほど,自分のリソースが増える。あるいは,
得意のフィールド,
と呼んでもいいが,それが広がる,あるいは深まる。その経験が,まったく新規の仕事をする時の,そのひとのベース,というか,取り組み姿勢,取り組む身構え,になる。人によって違うかもしれないが,
やったこともないテーマや課題を与えられたとき,自分の中でどういうカタチならできるのか,できないところではなく,自分の出来ることに置き換えていく,
それで,おおよその仕事の枠組みが見える。例は違うかもしれないが,その売れっ子漫画家のやっていたのは,
世の中の売れ筋を,自分のフィールドに置き換えてみていた,
のではないか,と思う。
僕は,プロとアマの違いは,ここだと思った。もちろんピンからキリまであるが,プロは,依頼されたテーマを,自分のフィールドへと置き換えて,どうすれば自分がそれを料理できるかを考えるのだと思う。アマは,自分のフィールドからしか,テーマが見られないから,そことの距離に目が行く。そうではなく,それの埋め方を,考える。
違う言い方をすると,
(異領域から自領域までの)着地のためのステップ数を数え上げていく,
あるいは,
自分の感覚を(具体的なレベルまで)現実化するステップ数をたどる,
といってもいい。それでどうしても算段のつかないことはある。その算段のつかなさの度合いが,たぶん,プロになればなるほど小さいのではないか,と思う。というか,一流のプロになればなるほど,依頼する側が,得意領域を弁えていて,あさってのテーマを持ち込まなくなる,ということがあるのかもしれないが。
たしか,イチローが,
キライなことをやれと言われてやれる能力は,後でかならず生きてきます,
というようなニュアンスのことを言っていたと記憶するが,それが踏むべき場数なのである。ただの経験ではなく,いやなことも,できないことも,難しいことも,
むりくり算段して,
どうすればできるか,ということを経験することで,
未知を既知に当てこむノウハウ,
をつかむのだと思う。その積み重ねが,ますます,
どうやれば自分にできるカタチに持ち込めるか,
のキャパシティが膨らむ,あるいはおのれの懐が深くなるのである。違う言い方をすると,
得意技,
に持ち込むことができる,ということである。あるいは,
得意技が増えて,
容易に自分のフィールドへ持ち込む通路というか回路が増える。それはマンネリとは違う。
ああ,これは,誰某の書いたものだ,
と瞬時に読み手にわかる,その人の世界,を持っている,
あるいは,
その世界がいくつもある,
ということだ。ピンはピンなりに,キリはキリなりに,
自分の世界と呼べるもの,
を創り出してしまえる,そこがプロフェッショナルの技量なのだと思う。それは,テクニックではない。その技量の量には,
その人の人としての器量,
が入る。もちろん,ピンはピンなりに,キリはキリなりに。
だからといって,アマを軽侮する気はない。純粋にそれに打ち込むことで,損得抜きのフロー体験を味わったことのないプロは,結局テクニカルにそれをこなすが,本人には,フローというものがいつまでもわからないのかもしれない。そういうことを幸と思うか,不幸と思うかは,人によるが,僕はそのフローを知っていることで,
自分が時を忘れ,場所も忘れで,打ちこんでいる,脳内の大発火を知っている,身体(脳)が覚えている,
ことは,自分が燃え上がる状態を知っている,
ああ,これは発火している,爆発している,と感知できる,
という意味で,その感覚は,
自分の燃え上がり度のバロメーター
として,プロになっても欠かせないものだと思っている。
まあ,あんまりプロになりきれず,,いつまでもフロー体験に固執する,僕のようなセミプロ人間が言うことだから,あてにはならないが。
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2014年05月17日
捌く
てきぱきと手際よく物事を捌く,というのは,傍から見ていて気持ちがいい。手際とは,要するに,
もの事を処理する腕前,
ということになる。手際とは,
手+キワ(処理を極める)
だから,手並み,腕前となる。
捌くは,
サ+分く
で,入り組んだ物事をきちんと処理する意味である。だから,捌くの意味は,
①入り乱れたりからんだりしているものを解きほぐす
②鳥・魚などを切り分ける。解体する
③扱いにくいものをうまく扱う。また,道具などを使いこなす
④錯綜した物事を手際よく処理する
⑤物事を解き明かす
⑥商品を売りこなす
⑦目立つように振る舞う
⑧ふるまう,おこなう
⑨理非を裁断する
と多様に,ものごとを処理する意味がある。
確かに,捌くには,前捌き,売り捌く,荷捌き,手捌き,太刀捌き,といった腕前に絡むことがおおい。では,
こなす(熟す),
のとどう違うのか。
こなすは,
コ(小・細)+なす(為す)
で,細かく砕くが本義。それから,消化のこなれるにもつながる。意味的には,
①食べた物を消化する
②かたまっているものを細かく砕く
③技術などを習って、それを思うままに使う。また、身につけた技術でうまく扱う
④与えられた仕事などをうまく処理する
⑤売りさばく
⑥見下げる。けなす
⑦動詞の連用形に付いて、自分の思いのままにする意を表す。うまく…する。完全に…する
等々。使いこなす,乗りこなす,読みこなす等々。こなすだと分かりにくいが,
こなれる,
だと,状態を示して,
細かくなる,砕けて粉になる,
熟して味がよくなる
物事に馴れる。世情につうじて角が取れる,
巧みになる
等々とよりはっきりしてくる。捌くは,動作面で見ており,こなすは,主体側で見る,つまり,捌くは,仕事や物事側,こなすは,スキル側とみれば,なんとなく,区別がつく。なんとなく,こなすには,小手先という感じがしてしまう。気のせいか。
しかし,こなすには,どこか,
やってのける
やり終える
まっとうする
やり遂げる
まっとうする
というニュアンスが付きまとう。やっとこさっとこ,必死でやり繰りしたというような。因みに,やり繰りは,
遣り+繰り
で,不十分なものを,あれこれ算段する工夫をさす。そんなニュアンスがある。
しかし,捌くには,
つかいこなす
というか,どこか軽やかな,
手綱捌き
太刀捌き
鑓捌き
前捌き
腕捌き
手捌き
足捌き
等々と,颯爽感がある気がするのは,思い過ごしだろうか。
身のこなし
と
身の捌き
と比較すると,こなしの方が軽く,捌きが重厚な気がする。しかし,
捌けた(人),
と
こなれた(人),
と,状態で表現すると,結局あまり差が無くなってしまうように見える。けれども,ニュアンス差はいくらか残り,
こなれた
というと,やっぱりスキルチックな軽さがある気がするのは,ぼくだけか。
こなれた人,
と言われるよりは,
捌けた人,
と呼ばれた方が,人としては,上に感じてしまう。錯覚かもしれないが,捌きに長けたものの方が,こなしに長けたものよりも,人としての重みが違うような…。
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2014年05月18日
選択
選択している,
のと,
選択させられている,
のとどう違うか。選択しているつもりで,選択させられていることはないか,そして,そのことに無自覚であるということは。
吉本隆明は,こう言っていたのを,ちらりと見て,触発されたものがある。
人間の意志はなるほど,選択する自由をもっている。選択のなかに,自由の意識がよみがえるのを感ずることができる。だが,この自由な選択にかけられた人間の意志も,人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは,相対的なものにすぎない。
意思したつもりだが,結果として,関係性で引きずられている,これを文脈とか秩序とかと置き換えると,一般化されすぎ,どろどろした現実感が消えてしまう。
「関係が強いる絶対性」というのが,確か,『マチュウ書私論』のモチーフだと記憶している。
上記は,
人間は,狡猾な秩序をぬってあるきながら,革命思想を信じることもできるし,貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら,革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし,人間の状況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは,この矛盾を断ちきろうとするときだけは,じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき,ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間における矛盾を断ち切れないならばだ。
マチウの作者は,その発想を秩序からの重圧と,血で血をあらったユダヤ教との相剋からつかんできたにちがいない。
とも語られる。さらに,
秩序にたいする反逆,それへの加担というものを,倫理に結びつけ得るのは,ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である,
と。倫理,別の言い方をすると,
ひととしてどうあるべきか,
は,そのおのれの置かれている文脈抜きでは,他人事でしかない。
関係性の強いる絶対性とは,客観的にあるのではなく,自分の中に,意識的無意識的に,絶対性として強いる者を感じる,
という意味だとすると,吉本の言っているより,もっと広げている(和らげている)かもしれないが,
人は知らず,おのれにとっては,
と,言うとき,
人間と人間との関係が強いる絶対的な情況,
というもの(このとき,人も状況も個別,固有化されているが)から,思想も,発想も,意識的か無意識的かは別に,逃げられない。それを土着とか,アイデンティティと言い換えると,やっぱり,少しきれいごとになる。
父親・母親との関係,
上司との関係,
影響力のある先達との関係,
地縁・血縁,
自分の置かれている立場,
生い立ち,
等々,「強いる」と受ける関係にはさまざまある。
本当の意味とは別のところで,僕の中で,「関係性の強いる絶対性」という表現で,動いたのは,結局,
関係の強いるものからは逃げられない,
ということなのか,
関係の強いるものを意識することで,選択肢が広がる,
ということなのか,
関係の強いるものに無自覚で,選択している,
ということなのか,
関係の強いるものによって,選択肢は強いられている,
ということなのか,だ。それもまた選択なのではないか。
そのとき,
人は,関係の結節点そのもの,
という言い方もあるし,
人間は社会的諸関係のアンサンブルである,
という言い方も,もっと主体的な意味に変わる。その見方が,
自分の取りうる立場を選択させる,
と言い換えてもいい。その瞬間,関係の絶対性は,相対化される気がする。
中沢新一が,
知識はかならず身体性をとおさないと本物にならない,というのは,ぼくの基本的な考え方です,
と言っていたことを,少し(でもないが)膨らませるなら,
そういう,自分の結節点が無意識に強いるものとの対決抜きには,
いかに生きるべきか,
は,自分のものにならない。
とは,ちょっと格好つけすぎか。
今日のアイデア;
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2014年05月19日
次元
先日,江角健治さんの個展に伺ってきた。
http://gallery-st.net/
案内ハガキをいただいたときから,そこに載せられている絵の空間感覚が,気になっていた。今回は,ご自身の案内文にも,
街並み
をそろえられたということで,前回伺ったとき以上に,その印象が濃かった。会場で話をしているうちに,
押絵,
というように,僕の中であった空間感覚が言語化できた。
押絵というのは,
布細工の一種で,人物や花鳥の形を厚紙でつくり,裂(きれ)を押しつけて張り,その間に綿を入れて高低をつけて仕上げたもの。古く中国から渡来した細工技法で,正倉院の御物のなかにも祖型的なものが見られる。この細工は江戸時代に入って流行した。羽子板に応用したものを押絵羽子板といい,文化・文政ころから当時流行の押絵細工をとり入れて人気俳優の似顔などを写したものが登場した。そのほか手箱のふたや壁かけ,絵馬などにも用いられ,江戸時代には家庭婦人の手芸の一つとしておこなわれた。
と,ウィキペディアにあるように,いまだと,羽子板がイメージを浮かべやすいが,
押し絵により人気俳優などの有名人を模った羽子板
等々が描かれるのは,浅草の羽子板市でもおなじみだ。
面白いのは,ただの絵では立体感が出ないから,膨らませたのだと思う。
素人が言うのもおこがましいが,人間にとって立体に見えるものを,二次元平面に描くために,その制約を具象化する工夫として,たとえば,
遠近法(透視図法,透視法,線遠近法),
のような技法が考案され,何とか,絵に奥行きを出そうとした,と見えなくもない。
perspective
という言い方が,その意味をよく表しているように思う。それを前提にしないと,
キュビスム
の,一点透視図法へのアンチの意味がよく見えない。専門家ではないので,独断と偏見で言うと,これも,
二次元,
にいかにして,三次元,四次元を描こうか,という,二次元平面の枠を打ち破る工夫と見えなくもない。
で思うのだ。今回拝見して,
押絵
と感じさせる表現は,いわば,二次元に三次元(あるいは時間の流れも含めた四次元)を表現しようという方向とはまったく別に,
二次元の中で二次元として表現する,
工夫として見られなくもない,と感じたのだ。あえて,
押絵
として,デフォルメされた対象を,さらに平坦に,極端に,
奥行き
を消して,描くということの意味は,そういうことなのか,と僕は解釈した。
解釈など,絵には不要なのかもしれないが,僕は,
画家のパースペクティブ
を表現するのが,絵なのだと思う。
作家のパースペクティブ
を表現するのが,小説なのだから,そこには作家の見た(い,というか想像したい)世界が描かれる。画家の見た世界が,
押絵
として表現される,ということは,そこに,大袈裟な言い方だが,作家の世界観がある,と思う。
表現の世界は,自立しているので,押絵として世界を描いた瞬間,その押し潰された,というか,
次元を折り畳んだ世界,
に転換したことで,逆により自由に描ける世界が生まれてくるのだと思う。キュビズムが獲得した自由とは,まったく逆の,自由が得られているはずだと思うのである。
三次元を二次元世界で描く,
のではなく,
二次元を二次元世界として描く,というような。
ただ,今回,それは,逆に,
閉じ込められた世界,
というか,
閉ざされた世界,
になってしまっているように見えてしまった。それが何かは,僕の勝手な感想なので,僕にもよくわからないが,
表現が窮屈,
に見えたということかもしれない。
先日ネットで次元のことを調べていたら,ユークリッドは,
立体の端は面である。
面の端は線である。
線の端は点である。
と定義したという。つまり,立体以上はない,という前提だが,それを,ポアンカレはひっくり返して,点からはじめた,という。つまり,
端が0次元(点)になるものを、1次元(線)と呼ぶ。
端が1次元(線)になるものを、2次元(面)と呼ぶ。
端が2次元(面)になるものを、3次元(立体)と呼ぶ。
端が3次元(立体)になるものを、4次元(超立体)と呼ぶ。
とすると,五次元でも,六次元でも,無限に次元を増やしていける(超ひも理論では10次元が仮説として出されているという)。
折り畳めば,何次元でも表現できる,
押絵,
にそんなことを夢想した次第である。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2014年05月20日
基準
JCAK(神奈川チャプター)「近藤真樹コーチのファウンデーション講座」
http://kokucheese.com/event/index/159578/
に参加してきた。
パーソナル・ファウンデーションの柱のうち,今回のテーマは,「基準を引き上げる」。問題は,基準とは何か,だが,ここでは自分のファウンデーションを問題にしているので,当然,
世の中の,
とか,
あるべき,
とか,
周りからの期待
とか,
は関係なく,自分自身の中の基準ということになる。いただいたテキストでは,
基準とは,自分の自尊心を保つために必要な行動や態度,
とある。そして,
内側に向かってあなたが敬うあなたの基準を決めます(外側は境界線)
自分で選択するものであり,何かを解決するために設定するものではない
とある。しかし,基準は,
standards
の訳らしい。スタンダードというのは,
標準
だが,僕流に言い換えると,
(自分にとっての)当たり前
ということになる。ただ,この場合,
いまの当たり前,
と
これからの得たい当たり前,
の二つがある。ということは,まずは,自分が何を大切にしているか,違う言い方をすると,
自分の倫理,
言い換えると,
ひととしてどうあるべきか(ありたいと思っているか)
つまり,自分の人としての生き方,振る舞い,言動,仕事の仕方,素養等々について,
いま何を大切と思っているか(大切にして生きているか)
を,チェックしてみる必要がある。そこの狙いだと思うが,
魅力的な人・尊敬する人
を10人挙げるというワークがあり,それを,一緒に組んだ人の前で説明し,相手からフィードバックをもらうという作業をした。
さこで挙げた人の共通点は,フィードバックにもあったし,自分でもそう感じたのは,
(周囲に左右されず)一貫して何かをし続ける人,
一貫して,何かを追いかけている人,
というのがある。持続性といってもいいし,諦めない粘り強さと言ってもいい。そして,そこに,
強いエネルギー,
を感じる,とフィードバックを受けた。僕は,そういうあり方を,身上というか,心組みというか,大袈裟な言い方になるが,美学のょうなものを感じる。
たぶん,世の中や周囲の毀誉褒貶に振り回されながら,しかし,断固として,自分の思いを貫徹し続ける,ということに,価値を置いているらしい,ということなのだ。それを自分にはできてはいないが,
終始一貫して何かを貫くこと,
を,僕は基準に,つまり,
それが出来て当たり前,
と考えているということである。では,いまの自分は,どういう当たり前の状態にあるのか,そのために,次にしたワークは,三人一組で,二人が,一人に,さまざまに呼びかけ方をしながら,
(あなたは)どういう人なのか,
に応えていくことをした。たとえば,
名字を呼ぶ,
フルネームで呼ぶ,
愛称で呼ぶ,
等々をしつつ,答えたことについても,
~てどういう人ですか,
~てどういうことですか,
~と呼ばれるとどうですか,
等々と掘り下げたり広げたりして,終始,自分がどういう人であるかを答え続ける。
後から,その自分の答えたことについて,フィードバックをもらうと同時に,自分ではどういう人なのか,を
私は,~人です,
に当てはめて書き出していった。
通常だと考えられない,というかあまり言われたことのない,
優しい,
情が深い,
中から滲み出てくるものがある,
オープン,
話をしに店に行きたくなるようなバーや喫茶店のマスター,
子どものときの思いを持ちつづけている,
存在感がある,
等々と,ちょっとこそばゆくなるようなフィードバックをいただいた。
そこで,それを受けて,基準を,
いま当たり前,
から,
これからの当たり前,
へと挙げていく,ということを自分の中でする作業することになる。これを,
自分との約束,
という言い方を(近藤さんは)されたが,これからの自分の生き方というか,振る舞いを,
そのレベルが当たり前になるようにする,
ということを言語化する,ということだ。
僕は,いつも考えているのは,
いつの間にかその場に坐っているが,いなくなると,そこにいたことが,その場の人に伝わる,感じられる,
そんな静かなあり方がいいと思っている。よく,知人に,
顔はバリケード,心はデリケート
と言われるが,もう少しスマートにしたい。顔かたちは変えようがないが,もう少し,
ダンディ
でありたい。スマートと言ってもいいが,
心(精神)のダンディズム
というものをちたい。ダンディズムは,由来はともかく,
お洒落の真髄を見いだそうとする趣味に端を発している,
と聞く。なんだろう,
洗練された心映え,
というものを保ちつづけたい。心映えについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163582.html
で触れたが,心ばえも,
心延えと書くと,
その人の心が外へ広がり,延びていく状態をさし,
心映え
と書くと,「映」が,映る,月光が水に映る,反映する,のように,心の輝きが,外に照り映えていく状態になる。心情的には,
おのずから照りだす,
心映え
がいい。
それには,まだまだ修養が足りない。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm