2014年06月01日

心が折れる


心が折れる,とは,

諦めるや挫折といったような心境

を意味するらしい。

最近使われ出した。印象深いのは,イチローが使ったのだが,元祖は,女子プロだという。

折れる

とは,

曲って二重になる,
曲って,二つに別れ離りる,
道などを曲がる,
挫ける,気勢を削がれる(腰が折れる)
主張・意見を和らげ,相手に従う
ものごとに苦労する(骨が折れる)

とあって,いまのような使い方の「 心が折れる 」の含意がなくはないが,

勢いがそがれる

というニュアンスで,いまの言い方とは微妙に違う。

女子プロで使っていたのも,ウィキペディアでは,

相手の心を折ることだった。骨でも,肉でもない,心を折ることを考えていたんで,相手を痛めつけようとは思っていなかった。本当に相手を痛めつけることなんか,目的じゃなかった。柔道やってたから,勝負に負けるときっていうのは,最初に心が折れるってこと知ってた。

という言い回しだったらしく,

再び立ち上がろうとする相手選手の気力を萎えさせ,奮い立つ気持ちを煮えさせる,

という意味だということができる。その意味では,

気勢を削ぐ,

の延長線上で,別に特に新しい言い方とは言えない。しかし,格闘家にとって,

腕を折られても心が折れなければ負けではない,

どんなに敗北だとされても,自分の心が負けを認めるまでは闘争は続く ,

という敢闘精神というか,

心が負けない,

の意味だとされるから,少し意味がシフトしていなくもない。ダメージが,

精神(こころ)

に及んだ状態,ということだと,削がれるというよりは,

挫ける,

という意味になっている。その延長線上で,「心が折れる」の現在の使い方は,

懸命に努力してきたものが,何かのきっかけで挫折し立ち直れなくなる状況,

と解説される。たぶん,それを決定的にしたのは,イチローの,WBCでの,

ほぼ折れかけてた心がさらに折れて,

という言い回しだったらしい。しかし,この経緯をみると,心が折れるには,それなりの背景が必要で,ただ,

めげる,

落ち込む,

凹む,

ギブアップ,

という気分とは違うような気がする。文脈の中で,自分が最早どうにもならないほど,自分の力の限界を思い知らされて,完膚なきまでに,打ち負かされた状態,

失望

絶望

の差くらいの隔たりなのではないか。それなりの,

努力と精進を経て実力を養ったものにだけ使える言葉,

という気がする。とっさに思い浮かんだのは,武田信玄の挑発に(に乗らざるを得ない状況で,あえて)乗って,三方ケ原で,完膚なきまでに,まさに鎧袖一触,弾き飛ばされて,恐怖で自分の糞尿に紛れて,浜松へ逃げ帰った,松平家康の心境こそ,それにあたるのかもしれない。

しかし,そのおのれの醜態を,そのまま自戒の意味で肖像画として描かせたあたりが,家康の家康らしいしぶとさなのかもしれない。その意味で,

心が折れた,

と言っている人は,(イチローも振り返ってそう言っていたように)そういう自分の追い詰められた状況を,メタ・ポジションから見るもう一つの目をもっている。あるいは,だから,

折れた,

のではなく,

折れかけた,

と言ったのかもしれない。心の折れ切った人は,心が折れた,などとは言わない気がする。その意味で,軽々に,凡人が,

心が折れる,

などという言葉を使ってはならないのかもしれない。

と書いてみて気づいたが,

こころが折れる,

心が折れる,

精神(こころ)が折れる,

とでは微妙に異なるのではないか。

精神(こころ)が折れる,

は文字通り,おのれを失うに近いニュアンスな気がする。自分の骨格をなす精神そのものが木端微塵にされたような。だとすると,それを認めるおのれがいる。だから,こうなのではないか。

心は折れる

が,

精神(こころ)は折る

ものだ,と。



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2014年06月02日

手抜き


釘原直樹『人はなぜ集団になると怠けるのか』を読む。

副題に,「社会的手抜き」の心理学とある。要は,手抜き,著者はこう定義する。

個人が単独で作業を行った場合にくらべて,集団で作業を行う場合のほうが一人当たりの努力の量(動機づけ)が低下する現象を社会的手抜きという。

この例に,フランスのリンゲルマンの行った実験結果を上げ,一人の力を100%とした場合,集団作業時の一人あたりの力の量は,

2人の場合93%,3人85%,4人77%,5人70%,6人63%,7人56%,8人49%,

となったという。それは,

集団の中では責任感が希薄になる,

のが一因と,著者は推測し,そういう例を,見て見ぬふりから,カンニング,ブレインストーミング,スポーツの八百長,集団浅慮まで,幅広く例を挙げつつ紹介していく。

その原因として,

外的条件(環境要因)としては,

評価可能性 個々人の集団への貢献度がきちんと評価できるかどうか
努力の不要性 自分の努力が集団全体にほとんど影響せず,しかも他の人と同等の報酬が得られる場合
手抜きの同調 他の人が努力していなければ,自分だけ努力するきになれない。強い仲間意識や暗黙の集団規範

内的条件(心理的・生理的要因)としては,

緊張感の低下
注意の拡散

を挙げた。結果として内的条件は,外的条件の結果として発生するので,

どのような条件,とくに外的条件がどのように連結して社会的手抜きにつながるか,

の切り口から,

①期待 
個人の努力が個人のパフォーマンス向上につながるという予期。勉強しても成績が上がることが予期できなければ,期待は低くなり,自己効力感(自分の努力と成果が結びつく可能性が高いと認識している感覚)も低い。
②道具性 
パフォーマンスが何らかの報酬や罰に結びつくと思っている度合(信念)。業績が挙がれば給与が増えたり,賞賛されたり,名誉を得ることができる程度が強ければ,「道具性」が高いことになる。
③報酬(価値)
その人の主観的価値として,仕事や報酬に意味がある

の3要素が個人の動機づけとして高い,とまとめた。

では,どんな人が手抜きするのか。

評価可能性が低く,自分のパフォーマンス(業績)が必ずしも自分の報酬とはならない場合や,自分が努力しても集団のパフォーマンスの向上にはほとんど役に立たない(道具性が低い)場合には社会的手抜きが生じやすい。そのために評価可能性や道具性の認識に敏感なパーソナリティ(気質,正確,能力を含めたもの)の持ち主は社会的手抜きをしやすいと考えられる。

そこで,パーソナリティを,

外交性
情緒安定性
勤勉性
協調性
開放性

の5因子の組み合わせでパーソナリティを測ると,

強調性と勤勉性は手抜きと,負の関係,という実験があるようである。そのほかに,

達成動機(個人的な目標や基準を達成しようと努力する傾向)の高い場合,(中略)どのような時にも手抜きしなかった,

という。それはわかる気がするが,しかし,その動機と,や(らされ)ることのギャップが大きい場合はどうなのかと,ちょっと疑問が残る。

結論として,パーソナリティと社会的関係を見た場合,その人の認知として,

評価可能性(自分の努力が公けに認められる),
努力の不要性(自分の努力が集団全体に役に立つ)
道具性(自分の努力や報酬や罰と直接結びつく),
報酬価値(仕事事態や報酬に価値がある),

すべてに正の反応なのは,

勤勉性

達成動機

であるようだ。突っ込んだ言い方をすると,外的な条件がどうであろうと,自分の,

価値基準が明確である,

と手抜きがしにくい,ということになる。すべてのパーソナリティに効くのは,

評価可能性,

のようである。手抜きを左右する,重要な要因,ということになる。

気になるのは,

腐ったリンゴ効果

である。

自分の利益を優先して集団の利益をないがしろにするような利己的振る舞いをする者が集団の中にいた場合,

その利己的な人一人を認識していないと非協力は50%
その利己的な人一人を認識していると非協力は80%

と,たった一人の林檎でも,集団全体を腐らせる,と。

さて,では社会的手抜きにどう対応するのか,ありきたりだが,

目標の明確化,
正確なフィードバック
個人の役割の明確化

ということが挙げられていた。結局,

個々人のその仕事への意味づけ,

をはっきりさせる,という意味では,やる気をどう高めるか,ということと軌を一にする話に落ち着く。

しかし読み終わって,手抜きを,

本来やれる(はずの)こと,やるべきことをサボること,

と言い換えると,難しいのは,それが,そのひとの「本来できるレベル」と,どう決めるのか,その日その日で,その「本来」というのは変わるのに,ロボットのような機械的な対応を求めていいのだろうか,という疑問だ。

ある組織で,組織改革があった時,その当人が,これは,

スーパーマンを求めている,

とぽつりと言った。孔子ではないが,

人に備わらんことをもとむるなられ,

である。僕は社会心理学者が書いた本を読んだとき,いつも現実とは違う実験結果で現実を推し量ろうとしている,という気がしてならない。今回も,ずっと違和感をぬぐえなかった。

人は,一人一人違う,どの立場から,それを見るかによっても変わる。そもそも手抜きか手抜きでないかは,なんではかるのだろう。

その一瞬,手抜きしているように見えて,その手抜きが,次のパフォーマンスに寄与する,ということは,ありうる。だから,どの視点から見ているかで変わる,と思うのだ。

それと,集団になっている時と,ひとりでやっている時と,出す力が違うのは当たり前ではないかという思いがある。その余力が,次へのステップというか,バネになる。そこで次の手を考える。余力なく,全力でやっていて,組織が回転するとは思えない。同じ作業を永遠に繰り返していては,集団というか,組織自体が生き残れないのだから。

その意味でタイトル『人はなぜ集団になると怠けるのか』は,逆に,人は集団の中にいると怠けるもの,という著者側の先入観でものを見ているのではないか,そしてそれにふさわしい結果が出るように実験している,としか見えないところがある感じが拭えない。まあ,著者の勘ぐり,と言えば言いすぎか。しかし著者の想定している程度の仕事観,労働観では,今日の組織は生き残れない気がしてならない。

参考文献;
釘原直樹『人はなぜ集団になると怠けるのか』(中公新書)




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2014年06月03日

死期


体力や気力の衰えと,死とは必ずしもつながらない。

衰えると,逆に,生に執着する分,死を遠ざける。

肉親の死もこたえるが,友人の死は,もっとこたえる。同年代だから,ということもあるが,同じ時代の空気を吸い,同じ時代と戦ってきたという思いがある。

いつも,僕のことを遠くから見守ってくれていた友人は,婚家先で,四十代直前自死した。僕のことを気遣ってくれていたという(と間接的に聞かされたきた)友人は,大台を見ずに死んだ。最近死んだ友人は,医者に打つ手がないと言われてから,二年ほど生きた。

いずれも,死後,知らされた。死を知るまでは,その間,僕は,同じように生きているつもりで,生きていた。そのギャップが,やりきれない。

僕は勘が鋭くもないし,基本鈍感(愚鈍とも言う)なので,母の死後,親戚の人が,深夜別れに訪ねてきてくれた,というような,スピリチュアルな体験はまったくない。

母のときも,父のときも,その一瞬を逃している,まあ迂闊な人間なので,そのこと自体は悔いもしないし,恥じもしない。ただ,眠っている状態のまま,ふと気づくと息をしていない,不思議にそれは,直感でわかった。思うに,人が死ぬときは,眠りに落ちるのとほとんど変わらない,というのを感じている。そのフェイドアウトの瞬間は,どこにあるのか…。

両親とも,迂闊なことに,眠っていいるなと見守っているうちに,そのまま,いつの間にか死んでいた,

のである。本人だって,眠っているつもりで,そのまま暗い淵に入り込んでしまったのに違いない。その意味で,仕合せな臨終だったのかもしれない。

で,思うのだ。死期を悟ることはある。あると思うが,

最後の最後まで,まだ生きられる,

と思っているのではあるまいか。

ずっと眠っていて,ふと目覚めて,看護するものとひとことふたこと言葉を交わして,また眠りにつく。そのまま眠りが深くなり,ついに目覚めなくても,眠りの延長線の上にいて,本人だって,どこからが,眠りから死へと跨いだのか,分からないのではないか,という気がする。

いや,そうあってほしい,

というだけのことかもしれない。痛みに苦しんでいたのに,だんだんそれを感じなくなり,脚の指先の方から,少しずつ,神経が,血流が,行き届かなくなり,冷たくなっていく。温めようとこするが,そのこすられている感覚さえ消えていく。なんだろう,指が指と感じられず,それが脚になり,二の腕になり,股になり,腹になり…,やがて全身からの感覚が消えて,自分の体が感じられず,感覚が,少しずつ狭まって縮み,か細くなっていく。

その麻痺と睡魔は,リンクしている。

その方が苦しくないのかもしれない。死の直前,自分を俯瞰するところから,部屋全体を見渡す,という説がある。しかし,僕は,自分の感覚を失うことと,それはセットなのではないか,という気がする。

そう,自分を自分として,この世につなぎとめておく体の感覚が失われていく。

眠りについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140408-1.html

で触れたが,確か,レム睡眠時,身体の統覚が失せて,身体と切れて,脳が自己完結しているという,それに似ているのかもしれない。

だから,夢を見ている状態と,死んでいく状態とは,どこか重なる。

専門的なことは分からないので,勝手な妄想だが,それは,脳の自己防衛なのではないか,という気がしてならない。

最期の最後も,自分が眠っている感覚のまま,この世から浮き上がっていく。脳だけが,というか意識だけが,自己完結した状態で,宙に浮く。まさにレム睡眠時の状態そのものだ。それは,もはや外界に対する注意も感覚も必要としなくなった,脳のそういう判断の結果のような気がする。

最後,脳そのものからも,自分の意識が,というか,自己意識と言ったほういいのかどうかわからないが,蝋燭の火が消えていくように,ふっとすべての感覚が消えて,闇のただなかにいる。

それなら,最後の夢は,どんな夢なのだろう。



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2014年06月04日

遊び


遊びという言葉がふいに浮かび,『梁塵秘抄』の有名な,

遊びをせんとや生れけむ,戯れせんとや生れけん,遊ぶ子供の声きけば,我が身さえこそ動がるれ

が続いて浮き上がってきた。しかし,遊び,というのは,

遊び,遊興,なぐさみ,

の他に,

仕事や勉強の合間,

気持ちのゆとり,余裕,

機械の部品と部品の余裕,

といった意味がある。では,「遊」という字はどうか,というと,上記と重なるが,それ以外に,

楽しむ(遊学,遊山),

自説を説きまわる(遊説),

まじわり,よしみ(交遊),

ひまびと,常業なきもの(遊食,遊民),

一定の所属なきもの(遊軍,遊魂),

というのがある。日常や,定形,ルーティンから外れている,という意味がちょっと面白い。もともと遊びは,自分の文脈から切れる,

時間,

場所,

人,

を指しているように思える。

遊子,

遊侠,

遊女,

遊里,

はそんなイメージで,まさに,日常から,

遊離,

することを言っている。その,

解き放たれた,

感覚がないと,埋没して,モノが見えないからに違いない。

非日常,

とはそんな感覚なのではないか。別の言い方をすると,ハレかもしれないが,それでは,裃が付きすぎる。

祭り

が近い。まつり,には,それ以外に,

祀り,

祠り,

があるが,ともに,定まったまつりで,祭は,

いつに限らずものを供えてまつる,

とある。まあ,ちょっとその気になったらまつる,というのは,いっとき,日常から離れる。ちょっと飛躍か? 

ただ,仕事でも生活でも,ルーティン化することで,流せる。しかしそのまま流されず,そこから抜けて出る自分がいる。その違った自分の目で,改めて日常を見る。それを余裕というなら,そのことで,日常の自分の仕事や人との距離感が見える。

間合,

と呼んでいい。それが,

遊び,

なのではないか。遊びのない,密着した,というかがちがちのハンドルでは,操作しづらいに決まっている。生き方も,そういうのりしろが不可欠なのだと,つくづく思う。

子曰く,これを知る者はこれを好む者に如かず,これを好む者はこれを楽しむ者に如かず,

その通りだが…,なかなか。

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)



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2014年06月05日

フリーランス


トークライブ「フリーランス鈴木伸介と歩む、果てのない楽しみの旅」に参加してきた。

https://www.facebook.com/events/1420051244922766/1420819994845891/?notif_t=plan_mall_activity

フリーランスという言葉に惹かれた。その働き方を,ずっと聞きながら考えていた。

僕は20年以上ひとりで仕事をしてきたが,フリーランスという名乗りをしたことはない。

フリーランス(freelance)は,

特定の企業や団体,組織に専従しておらず,自らの才覚や技能を提供することにより社会的に独立した個人事業主もしくは個人企業法人である。企業から請け負った業務を実際に遂行する本人をフリーランサーと呼ぶ。一般的な職業分類では個人事業主や自由業に該当する。

と,ウィキペディアにはある。

単発の仕事として様々な仕事はするものの,その仕事を引き受ける都度契約を結ぶという形態をとる請負である。

ともある。職業としては,

IT業界のプログラマ,出版業界のライターやジャーナリスト,小説家,芸能人,放送業界のプロデューサー・放送作家,脚本家,演出家,フリーアナウンサー,レコーディングエンジニア,イベントプランナー,アニメーター,在野の研究者(博士を持っていて複数の大学でコマ単位で教える),トラック運転手(荷主と直接交渉・契約する個人経営の運送業者),バイク便ライダー,自転車便のメッセンジャー,JRA所属騎手(厩舎に所属しないフリー騎手),プロレスラー等々

多岐にわたるようだ。こう見るといわゆる,自由業というイメージである。だから,

クリエイター職のように専ら業務を担当する個人の能力によって成果が決まる職種

が多いようだ。これにコンサルタントや講師業も入るのかもしれない。

しかし,

freelance」の語源は,中世,王や貴族は戦争の度に傭兵団と契約して戦争に臨んだ。その中で傭兵団を離れて戦場に臨む兵士達がいた。当時は槍騎兵 (lancer) が自分の従卒として歩兵や弓兵を連れている形態が多かったため,契約の際には槍の本数=1戦闘単位としてカウントされた。まだ敵勢力と契約を交わしていない (free) 戦闘単位 (lance) を指す言葉として「freelance」が用いられるようになった。当時は兵士を指していた「free lancer」が,近世以降組織を離れて働く状態を指す言葉に変化した。フリーランスのフリー(free)は,政治的立場が自由さを意味するものであって,値段が無料という意味ではない。

とあって,なかなか面白い説がウィキペディアに載っている。日本では傭兵というと,悪党・野伏・野武士と呼ばれる半農の武装集団や雑兵,雑賀・根来などの鉄砲,伊賀・甲賀の忍術などの特殊技術を持っているものが当たるが,たとえば,

陣借り

というのがある。

合戦の際に正規軍で無い(郎党でも家中でも与力でもない)勢力が手弁当で駆けつけ参加する

ことである。ただ,わが国は,以前もいまも,契約社会ではないので,

報酬が約束された正規兵ではない。たとえ戦に勝利・貢献しても恩賞が約束されていない。いわば,手弁当の戦力の押し売りである(当然活躍の度合いによっては,仕官や恩賞にありつけるが)

と,まあ見込みで売り込むことになる。言ってみれば,牢人である。牢人は,なんとなく,自由業に重なる。

自由業というのは自営業の中の1カテゴリーです。
自営業の中でも,店舗や在庫,あるいは従業者を持つ必要のない仕事のことを特別にそう呼んでいます。例えば,ライター,イラストレーター,漫画家,カメラマン,デザイナーなどがそうですし,弁護士なども自由業に該当します。
要は,自分の個人的な才能や能力を売る仕事が自由業というわけです,

とある。まあ,設備投資いらない,ということで言うと,

無店舗の個人商店,

に似ているからといっても,楽天で店を開いているのとはまったく違う。

一領具足

というか,鑓一本で助っ人に駆けつける身軽な牢人と同じである。つまりは,仕事をしていないときは,というか,仕事のないときは,フリーターと同じである。僕を引用してくださった中堅の文芸評論家が,ご自分のことを,

フリーター

をしている,と自称されたのには,いささかの矜持が垣間見えた。

それなら,『ノマドと社畜』の谷本真由美や『ノマドワーカーという生き方』の立花 岳志の言う,いまはやりの,

ノマドワーカー

とも近いのかもしれない。

ノマドは遊牧民の意。自宅や会社のオフィスではなく,喫茶店やファーストフード店などでノートパソコンやタブレット型端末などを使って仕事をする人

に近いが,僕のイメージでは,

素手で,身一つで,どこへでも行ける,

という感じである。でも,僕は,自由業とは名乗らない。

自由ではない,

からだ。僕は,

個人事業主,

という言い方の方を好む。

個人事業主は,株式会社等の法人を設立せずに自ら事業を行っている個人をいう。一般には自営業者ともいう。事業主一人のみ,家族のみ,あるいは少数の従業員を抱える小規模の経営が一般的だが,制限はなく,大規模な企業体を経営することも出来ないわけではないが,多くは小規模なものである。

で,こうある。

自営業者とは,会社経営者でもサラリーマンでも公務員でもアルバイトでも無職でもない者の総称と言う,

と。自由とは,紐がついていない,という意味だが,紐のない職業はない。客がいなければ成り立たない。仕入れがないわけではない。おのれの腕を磨かなければ,

助っ人

にはなれない。だから,

専門的な知識や才能にもとづく職業への従事者で,雇用関係から独立した職業分野。開業医,弁護士,芸術家などを指す。この意味で専門的職業professionsに近い。産業社会の初期において自由業者は,新興の資本家・経営者や雇用労働者とは区別されて,その職業上の独立性と学問的裏付けをもった専門的知識とによって,一般に高い社会的地位を得ている。アメリカの社会学者C.W.ミルズは初期産業社会の自由業を,自営農民や中小企業経営者の階層とともに,一括して〈旧中間層〉としてとらえ,強い独立心をもつ知識人としての性格,それに伴う進歩的エートスに注目した。

という説明が,もっともしっくりくる。

そこに,矜持がある。その意味で,

個人商店

という言い方がふさわしい。昔,中上健次が

小説家としての店を張る

という言い方をしていた。そう,店を張る,ということである。そこに,覚悟がある,というのが中上の口調だった気がする。まあ,強がりを含めて,

自恃

なくしては成り立たない。



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2014年06月06日

甲斐



「かい」とは何だろう。

甲斐は,

行動の結果として現れるしるし。努力した効果,
期待できるだけの値うち,

とある。

甲斐は,

甲斐,
詮,
効,

を当てる。しかし,

甲斐がない,

詮がない,

効(目)がない,

では微妙に違う。

詮は,「はかり」の意味で,

物事の道理を明らかにとく,
物事の道理が整然と備わっている,
言葉や物事をきれいにそろえて,よいもの,正しいものを選びとる,
煎じ詰める,結局,
詳しく調べる,
なすべき方法,

と,ある。しかし,

甲斐性,
生き甲斐,
やり甲斐
年甲斐,
甲斐がある,
甲斐甲斐しい,

という使い方から見ると,「甲斐」には,

ただの効き目や効果やその測定だけではなく,

値打ちの有無,

のニュアンスがあるような気がする。語源的には,

かう(支う)の連用形。大工の「支う(かう)」では,「こんな細い棒ではカイ(支え)がないのと一緒」

という。とっさに浮かぶのは,突っ支い棒。そこでいう,「支い」と同じではないか,と思う。

かう(替う)の名詞化という説もあるが,そこからも,代価,代償,値打ちの意味が,確かに出てくる。

生きる(た)値打ち
やる代償

と解釈は可能になるようだ。

しかし,値打ちには,自分にとっての意味という部分と,ひと様から見ての意味の部分と二つある。甲斐というとき,その両方のニュアンスがある。

自分から見ると,値打ちだが,
相手から見ると,手ごたえ,張り合い,になる。

いや,

相手からの手ごたえ,張り合いが,
自分の値打ちを確かめるものになる,

とも言える。自分の甲斐が,相手に影響し,その影響が自分に反照する。結局,

甲斐,

は自己完結するのではなく,人との関係のなかで,影響し,反照する中で,強められるのかもしれない。

自分の自己対話の中では,甲斐は,張り合いのない,甲斐のないものなのかもしれない。それと,

行動の結果として現れるしるし,

という言い方からすると,一瞬のそれを測っているのではなく,積み重ねた結果を言っているようでもある。

そこにある,それ自体に,それまで生きてきた歳月の重みがあるのか,

そこで,このまま,生きていく値打ちがあるのか,

と。その歳月が,

馬齢,

なるかどうかは,自分の甲斐次第,ということになる。いや,そういう,照らし,照らし返される関係そのものの積み重ねの中で,

年甲斐

も生まれるのではないか。


参考文献;
北山修『意味としての心』(みすず書房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)




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2014年06月07日

すみません


つい言ってしまわないか。

すみません

と。大概曖昧だ。謝る意思を示すときは,

ごめんなさい,

と言う。しかし,すいませんは,ちょっとニュアンスを濁す感じがある。

すむ,

は,

住む,済む,澄む,清む,棲む,栖む,

と当てる。

すみませんは,語源的には,僕の見たものでは,

「澄み+ません」で,謝罪,感謝,依頼などで,「済みません」と書くので,「完了しない」とされることが多いが,違うのだという。

スミは,澄むが語源。かきまわした泥水が,時間経過とともに沈殿して清らかに澄んでくる。同じように,澄むはずの心が,澄まないのが,済みません,の語源,

なのだそうだ。

人から恩義を受けて,心がかき回され,いつまでも心の中が済まない,安定しない状態,

これが済みません,なのだという。

そう受け止めると,北山修氏が,こう書いていたのが,よく分かる。

「済みません」は,周辺や相手の状態がなかなかすまないという状況とともに,「御迷惑おかけして」「ご面倒をおかけして」と,相手にかけた迷惑が自分の心のなかで澄まない,落ち着かない,乱れている,という感覚や自体も捉えています。つまり,周りに濁りや乱れ,騒ぎを生じさせたことについて「すまない」と言い,相手だけではなく自分も内的にすんでいないことを進んで認め,謝罪の言葉としているわけです。それは対話の相手に向けられた謝罪であると同時に,澄んでいることを最高の規範のひとつとして共有する周りや周囲,つまり共同体に対し,自らのすんでいないという,浄化の不十分さを謹んで申し上げているのです。

そう考えると,あいまいさの中に,自分の側の落ち着かなさをも含めているということになる。その段階で,

謝罪,

の責任の所在を,相手にも分有させようとしている,と取れなくもない。

これを英語に訳そうとすると(確かではないが),

○感謝。 Thank you very much

○お詫び。I am sorry.   
     Excuse me

ネットで見ると,もっと細かく分けているのもある。

1相手の立場に関係なく使える表現(通常の表現)I'm sorry.
2「本当に申し訳ございません」と述べる時(通常の表現)I'm very sorry.
3「残念ながら,~です」という表現(丁寧な表現)Unfortunately, ~.
4会議に遅れる場合(丁寧な表現)Please excuse my lateness.
5たいへん地位の高い人に謝罪の意を述べる場合(丁寧な表現)A thousand apologies.
6「恐縮ですが,~です」という表現(やや丁寧な表現)I'm afraid ~.
7「ご理解お願いいたします」という言い回し(やや丁寧な表現)We hope you understand.
8ウェートレスがお客さんの注文を間違えた場合(やや丁寧な表現)I'm terribly sorry.
9本当に罪悪感を感じて謝る場合(やや丁寧な表現)I can't apologize enough.

まあ,ここまで細かに分けなくても,感謝と謝罪が,含まれているのでいいのだが,それだけの含意を,

すいません,

の一言ですませてしまうということは,

謝るのでも,

詫びるのでも,

礼を言うのでも,

ない,結局両者の文脈に強く依存していて,その微妙なニュアンスを,文脈まかせにする,

すいません,

なのだと思う。最近,僕が似たような便利な言葉で,多用しているのは,

恐縮です,

という言い方だ。これも,「すいません」よりは少し軽い,

ちょっとした感謝,

ちょっとしたお詫び,

ちょっとした謙譲,

を含めている。便利だが,本当に詫びなくて話せない時に,

ごめんんなさい,

が言えないということは,本当にお礼を言わなくてはならない,言いたいときに,

ありがとうございます,

が言えない,ということのような気がする。なんとなく,文脈に流して(相手のせいかも,という余韻を残す狡さがある),その場を切り抜けるような方便ではないか,という気がしないでもない。

言葉は,その人の姿勢を示す,もう少し,はっきり言うと,

生き方を示す,

曖昧で玉虫色の言い回しで切り抜ける,というのは,そういう生き方をしていく,と言っている,というか言わず語りに現れてしまっているようで,ちょっと気色悪い。

自分が,

というIメッセージというのは,

自分の責任で発する,という意味があるはずで,

主語を明確にするのと同様,

意味の明晰,明瞭な言い方をすべきなのだ,とつくづく思う。自省,自戒を込めて。

参考文献;
北山修『意味としての心』(みすず書房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2014年06月08日

消化


心の平安,と言うと大袈裟だが,僕にとって,心のバランスをどうとるか,と言うと,たとえば,外との関係で言うと,

①外に対し,バリアを張って外部刺激をはねつける,

②外に対し,バリアを張るが,取捨選択して,濾過する,

③別に何でも構わず浸透させ,混ぜ合わせる,

極端に言うと,こんな感じか。

かつては,まあ,バリアを張る,というか,閉じこもる,というのに近かった。自己完結したがるというか,そういう時間というか,そういう場所が必要だった。いまでもそれは,基本的に変わらないが,

別にいいじゃないか,

というほど大胆にはなれないが,

浸透させてみて,かき回し,自分でひねくり回してしまう,

というのが近いかもしれない。こちらの方が,質が悪いのかもしれない。

自分流儀に直してしまう。換骨奪胎,というと聞こえはいいが,真似という痕跡を残さない,というのに近い。そこに,自恃がある。

しかし,それは主体的になっている場合で,受け身に回ると,全くそれが出来なくなる。

自分が主体的にいろんな刺激を取りに行く,例えば,

先達の考え方,方法,

競合者の考え方,方法,

学びに行くときは,まだそれを受け止めるキャパかあるが,そうでないときは,押し込まれたり,波風立てられると,その状態をそのまま受け入れられるほどに器用でもないし,器量も小さいので,どうしても,

それを自分の中で整理統合する,

そのための時間が必要なことが多かった。いまも,そういう消化の期間は,必要でないことはないのだが,

その場で,前捌き,

ができる,面の皮が厚くなった。自分の世界と,人の世界との違いと共通点を,

そんなにタイムラグなく,

整理できる,

あるいは,

融合したり,分離したり,

出来る。なんだろう,場数を踏んだせいなのかもしれない。しかし,その本当の影響は,

後になって効いてくる,

ということが多い。特に,そこで反発や異論を感じたものほど,

自分の考えとすり合わせ,自分の世界にきちんと位置づけるためには,時間がかかるような気がする。これだけは,やはり変わらない。

その異質さというか,違和感が大きいほど,無理やり,それを呑みこまされる感じがあり,消化するのに時間がかかるということだ,しかし,その異質さを自分の中に,きちんと位置づけ直せた時,

自分に見える世界が,結構変わる,

そんな気がしている。

その意味で,結局思うのは,似た考えの人とだけ交わっていては,自分の変化というか,変身は起きず,その場合,皮下脂肪や内臓脂肪が増えるだけなのではないか,という気がする。

自分の考えの身の丈が大きくなるには,

棒を呑む

ように,本当に異質な考えを,何とか飲み下し,自家薬籠中のものにしていくという,消化の努力なしにはあり得ない,という気がしてならない。

いまは,自己完結は手放して,しかも前捌きで都合のいいものだけを濾過するのも,あまり得策ではない。むしろ,大いなる異質さ,違和感を,無理やり飲み込むことが,まだまだ必要だと,思っている。

それには,脳の消化機能を鍛えなくてはならない。




今日のアイデア;
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2014年06月09日

ねぎらい


ねぎらう

は,

ネギ(祈願・労う)+らう(動詞化)

で,神の心を慰め,かごを願う。禰宜も同源という。

祈るのは,結局自分のためなのだ,労いは,自分のためでもある。

棒を呑む

それも,無理やり飲まされる

ようなものだとつくづく思う。人の死を受け入れる,ということがだ。それについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/398323501.html

で触れた。

連絡が遅れたのは,ぼくら二人には必ず知らせるように,と言い残した当人が,連絡先をどこにも残さなかったからだ,という。まあ,年賀状とかを書かない人なので,偶然書庫を整理していて,本の見返しに,もう一人の友人の電話番号がメモ書きしてあるのを発見した,と言う。

主人が知らせてくれた,

と再三言われたようだ。

確か,昨年夏,一度会おうか,と僕はその友人に言ったらしいのたが,言われた本人が,仕事にかまけて遅れ遅れになったことを,知らせを聞かされて悔い,その夜は眠れなかった,と言う。

お互いが無理やり飲んだ棒のことを話し,当人の悪口を言い合いながら,昼間から,二人で,飲んだくれた。二人にしては,珍しい。大体それほど強くない僕が,あれほど飲んでも,そんなに強かったか,と呆れられるほど,ほとんど酔わない。

不思議な縁で,いったん切れた関係が,本当に奇跡的な偶然で,僕が死んだ彼と再会したことで,つながりが復活した。もう,三十年近く前のことだ。それ以降は,三人離れ離れで,バラバラに仕事をしていたのに,何年かに一回,多いときは,月に一回,さりげなく誘い合って飲み交わした。その飲み交わしの場をつくるために,僕と近所に住む友人は,まず飲み交わし,それから死んだ彼との場を設定する,と言う手順を取ることが多かった。二人は,横浜に住い,亡くなった一人が八王子に仕事場を持っていたせいで,八王子か,横浜で,ということが多かった。

始めは墓参りをする気はなかったが,飯能だか入間だかに墓があり,それも,亡くなったご子息の名を刻んだ墓石の中に,納まっている,と聞くと,やはり一度は行っておかなくては,と思う。墓に,息子の名を刻んだときは,そこに自分が入る予定はなかったのだろう。しかしそこに,納まるのは,彼らしい,と思う。

遊子

という言葉が似つかわしい奴だったと思う。

飄々として生きた彼は,何となく悠然と河を渡っていった気がする。

あまり怒った顔を見たことはないが,友人は,一度だけ,建築業の作業服を着た酔っ払いに絡まれ,大声で怒鳴りあっているのを目撃したという。相手は,こっちの風体を見て差別するのか,と絡んだらしいが,そういうことのまるでない人だから,そういう因縁のつけられ方に,切れたのではないか,という。

僕もあまり怒ったところを見たことはない。僕がいらちで,もう一人と結構衝突するが,二人(の意見)はどこが違っているのかわからん,結局同じじゃないか,とよく言われたものだ。丸めれば同じだが,その差に意味があるから,そう言われると,立つ瀬がなくなる。そんな関係であった。

もう若くはないので,いら立ちをぶつけるエネルギーは失せている。穏やかなものだ。

亡くなった友人をねぎらうというよりは,残された二人を互いにねぎらい合い,結局,墓参りをすることになった。それも,彼のためというよりは,自分たちのためのような気がする。互いに体内に爆弾を抱えているのだから。

重大なものが終わるとき
さらに重大なものが
はじまることに
私はほとんどうかつであった
生の終わりがそのままに
死のはじまりであることに
死もまた持続する
過程であることに
死もまた
未来をもつことに(「はじまる」)

石原吉郎のこの詩がふいに浮かぶ。はじまるのは,死んだ彼にとってではなく,残されたものにとって,なのだろう。

死もまた未来をもつ,

確かに。



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2014年06月10日

一貫性


どうも,

一貫性,

という言葉に弱い。始めから終わりまで一つのこと,あるいは考えを貫く,

一念岩をも通す,

というし,

虚仮の一心,

とも言う。あるいは,

匹夫も志を奪うべからざるなり,

と孔子の曰われるのも,その伝だろう。

しかし,たぶんまれだから,そういうのだろう。どうも,しかし,振り返ると,それほどの一貫性のある生き方ではない。たとえば,

人生とは,なにかを計画していている時に起こってしまう,別の出来事のことを言う,

とか,

結果が,最初の思惑通りにならなくても,…最後に意味を持つのは,結果ではなく,過ごしてしまった,かけがえのないその時間である,

というのに惹かれるのは,言い訳のにおいがするかもしれないが,そのときに身をゆだねる,ということの方に惹かれるせいかもしれない。

道草し,そこで一生過ごすかもしれない,

そのことが悪いことには思えない。よく童話であるのは,そういう道草してしまった兄弟姉妹を連れ戻す話が多いが,それは,日常側から見ているからではないのか。浦島太郎は,龍宮から戻ってきたが,それがよかったかどうか。

泉鏡花の『高野聖』の若い修行僧の宗朝が,山へ引き返さなかったことが,よかったかどうかは,誰にもわからない。山に戻り,その女の魔力で馬の姿に変えられ,猿に変えられても,その方がよかったのかもしれない。

小説では,

朝,女の家を発ち,里へ向いながらも美しい女のことが忘れられず,僧侶の身を捨て女と共に暮らすことを考え,引き返そうとする。そこへ馬を売った帰りの男と出くわし,女の秘密を聞かされる。男が売ってきた昨日の馬は,女の魔力で馬の姿に変えられた富山の薬売りだった。女には男たちを,息を吹きかけ獣の姿に変える妖力があるという。宗朝はそれを聞くと,踵を返しあわてて里へ駆け下りていった,

のだが,ここが,寄り道するかどうかの瀬戸際ということになる。

あくまでまっとうな日常をよしとするからこそ,僧の話に納得できるが,

もったいない,

あたら面白い人生を捨てた,

と思う人だっていなくはない。

安部公房の『砂の女』で,(記憶のままに書くので,思い違いかもしれないが),

砂の穴から必死で逃げようとしていたはずの男が,あるとき,砂に桶を沈めておくと,水がしみ込んでくるのを発見して,砂の中では,水の確保が最大の課題だったから,そのことをまず,自分を砂の穴に閉じ込めたはずの,当の女に伝えたい,

と思ったシーンがあった。そのとき,もう数十年も前のことだが,

ああ,日常に捉えられるというのはこういう感覚なんだ,

と感じたことを鮮やかに覚えている。それは,悪い感覚で気はなく,職場で,ある問題の解決を思い浮かべたとき,まず最初に伝えたいと思うのは,職場の仲間に,だというのと似た感覚だ。

もちろん,他方で,

死して後已む,

という思いがなくもないし,

この世に偶然はない。人は偶然を必然に変える力を持っている,

という言葉に惹かれないわけではない。だが,僕は,

寄り道,

回り道,

した人の方が好きだし,回り道したまま,戻ってこない人が,もっと好きだ。自分には,できない,何かをそこに感じるからだろう。

ひとり思い当たる人がいる。まさに,彼は,

遊子

である。

参考文献;
龍村仁『ガイアシンフォニー第三番』




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2014年06月11日

転倒


少し前,ものの見事にひっくり返った。何が起きているか,一瞬わからなかったが,気づくと,あおのけに床に倒れていた。幸か不幸か,頭を打たず,腰で,全体重を支えたらしい。

風呂で使う木製の椅子を,踏み台代わりにして,高いところをちょっと拭こうとして,背伸びした瞬間,その踏み台が,ひっくり返り,見事に,放り出された,というわけである。

その一瞬に,空白はないが,思い出すと,倒れるところが,全く意識にない,

あっと,

言ったときには,重力に押し倒された,ということなのだろう。確か,秋口にも,何かに引っかかって,路面に倒れたが,その時は,あっちこっちに擦り傷を作り,着ていたジャージというかジョギングウエアが,ダメになった。そのときのことは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163455.html

に書いた。しかし,今回は,真後ろにひっくり返ったのに,どこにもけがはなく,

腰の,というか,尻が打ち身,

になっただけで済んだ。

それにしても,よく転ぶ。

入院中は,後ろに椅子があるつもりでまともに座ろうとして,したたかに尾骶骨を痛めた。半年に一度のペースという勘定だから,

何かの警告,

と受け止めた方がいいかもしれない。加齢とともに,爪先が上がらず,躓いたり,引っかかったりして,前のめりに転ぶ,とことを聞いた記憶があるが,僕の場合は,どうやら,

勘違い,

というか,

思い込み,

によるものらしい。今回は,踏み台を信頼しすぎたが,本来,

踏み台ではないものを踏み台にした,

まあ,つけと言ってもいい。つくづく思うが,

嵩上げ,



下駄を履く,

というのは,いわば,靴底を嵩上げして実態より背を高く見せるのと同じで,すぐにメッキが剥げる。

僕は思うのだが,

遺産,



世襲,

というのも,そういう嵩上げの一種といっていい。昨今二世,三世が増えているのは,政治家だけではなく,俳優も,タレントも,そうらしい。それは,スタートラインが,何十メートルも先行して前にあるのと同じで,不公平なのだと思うが,しかし,いま,それが常態になっている。例が悪いが,

織田信長

羽柴秀吉

徳川家康

の,いわゆる戦国時代の覇者を比較したとき,毀誉褒貶はあるが,秀吉が好きなのは,身一つで,貧農百姓(ではないという説もあるが)から,伸し上がったという点だ。だから,かつては,「~太閤」などという喩が生きた。しかし,昨今は,格差社会になり,ある意味「金」による身分社会化してみると,小なりと言えど,

領国大名家の御曹司,

として生まれた,家康,信長とは,圧倒的なハンディキャップがあった,といっていいのである。そもそも相手には,嵩が,履くべき高下駄があった。しかも,強力な家中と眷属に囲まれている。それに比して,一家眷属も少ない。肝心な,

眷属,

が少ない。一族というべきものも,親族というべきものも,ほんの少ししかいない。しかも,まあ似たり寄ったりの,貧乏人,水飲み百姓である。弟小一郎を覗くと,甥っ子は,どれもこれも,不足だらけて,質量ともに足りない。だから,糟糠の妻の養家,実家の浅野家,木下家を囲い込み,か細い,地縁・血縁から,加藤虎之助,福島市松といった子供たちを引き取って,武将として育て,股肱の臣とするほかなかった。世に言う,黒田官兵衛も,実のところ,秀吉が,育てた,といっていい。官兵衛に焦点を当てて,秀吉を矮小化すると,あの梟雄・宇喜多直家が秀吉に屈するはずもなく,毛利の外交僧・安国寺恵瓊が,

信長之代,五年,三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後,高ころびに,あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候,

という手紙で,

さりとてはの者,

などという評価を残すはずもないのである。

そのあたりの,秀吉という人間の,器量・技量・力量・度量というのは(全国統一するまでだが),見直されていいのではないか,

と思う。というか,秀吉は,強烈なプロパガンダ,というかブランディングの名手だ。そういうおのれ自身を売りにしていく。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163531.html

でも書いたが,手元に,祐筆,大村由己を置き,おのれの戦勝記録を,同時進行で戦記物に仕立てている。その強烈なブランディングの中に,おのれがおり,黒田官兵衛も,加藤清正も,福島正則もいる。

いやいや,変な方へ話が飛んだ。

転ぶはずだ,携帯電話の占いでは,あの日,12位であった。

吾已んぬるかな,

である。



今日のアイデア;
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2014年06月12日

岐路


岐(わかれる・ふたまた)路。分かれ道のことだ。支は,細い小枝を手にした姿で,枝の原字だとされる。枝状に別れた山道というのが,原意らしい。

分かれ道については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163550.html

に書いたが,「わかれ」といっても,分かれ,訣れ,別れ,とある。

分は,合の反対,ものを別々にわける。
別は,弁別,これはこれ,彼は彼と区別する。
判は,分に断の意を兼ねて,判別,判決。
頒は,分かち賜う意。
析は,斤にて木をわる意。
訣は,永く別れる意。

と,わかれるだけでも,これだけある。分かれ道にも,それだけの意味がある。

そういえば,田中英光が,『さようなら』のなかで,

「人生即別離」とは唐詩選の一句,それを井伏さんが,「サヨナラダケガ人生ダ」と訳し,太宰さんが絶筆「グッドバイ」の解題に,この原句と訳を引用し…,

と書いていた。そう,どこかでも書いたが,原句は,于武陵の,

勧君金屈巵 (君に勧む金屈巵)
満酌不須辞 (満酌辞するを須いず)
花發多風雨 (花發けば風雨多く)
人生足別離 (人生別離足る)

だそうで,それを,井伏鱒二は,

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生だ

と訳した。

一期一会

に通じるのだろうが,と思って調べていたら,寺山修司が,

さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう

という詩を書いているという。調べると,『さよならだけが人生ならば』という題で,

さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう
はるかなはるかな地の果てに咲いている野の百合何だろう
さよならだけが人生ならば めぐり会う日は何だろう
やさしいやさしい夕焼と ふたりの愛は何だろう
さよならだけが人生ならば 建てた我が家なんだろう
さみしいさみしい平原に ともす灯りは何だろう
さよならだけが人生ならば 人生なんか いりません。

となっている。ついでに載っていたのは,カルメン・マキに贈った,『だいせんじがけだらなよさ』という詩も,寺山修司にはある。

さみしくなると言ってみる ひとりぼっちのおまじない
わかれた人の思い出を わすれるためのおまじない
だいせんじがけだらなよさ だいせんじがけだらなよさ

さかさに読むとあの人が おしえてくれた歌になる
さよならだけがじんせいだ
さよならだけがじんせいだ

寺山修司なりのこだわりを,この詩に書いたことが分かる。(「だいせんじがけだらなよさ」はさよなら云々を逆さにしている)。

人は二度死ぬ,

というのは,柳田國男が言ったのだとばかり思い込んでいたが,クリスチャン・ボルタンスキ―というフランスの芸術家が言った言葉だ,と言う説もあり,

たった1人でも,だれかがあなたを思っている。だれもあなたのことを思わなくなったら,人はこの世からいなくなって消えてしまう,

ネイティブアメリカンのブラックウルフ族の伝承という説もあり,真偽は分からない。ともかく,

人は二度死ぬ,

そう思うと,別れにも,二度の別れがあり,

面影

が残っているだけ,あるいは,別れは終わっていない,と言うこともできる。

別れ道は,しかし,一つを捨てることだ,それを捨てたことにこだわることは,そこで決断ができなかったことだ。ならば,戻った方がいい。心にそれを残したままでは,心は,未来ではなく,過去を見続けていることになるから。

参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
田中英光『さようなら』(現代社)
井伏鱒二『厄除け詩集』(筑摩書房)



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2014年06月13日

異和


異和については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163545.html

で書いた。異和は,違和より,ちょっと突出した感覚だが,昨今そう感じることが多くなった。

同じ時代に生き,同じものを見ているのに,自分は違うという違和感である。最近死んだ友人が,そう見ていたという感覚がよくわかる気がしている。

同じ場所で飲み食いはしていても,自分たちとはちょっと隔てがあったのではないか。たとえば,

こいつらが飲み食いしている,いつかそのときには自分はいないな…,

という感覚である。ひよっとすると,一緒にそのとき,その場にいて,同じ空気を吸っていても,見える地平が違っていたのかもしれない。

ふと思う。

それぞれが自分の天寿というか,寿命のベルトコンベアに乗っている。並んでいるように見えて,何年か先が切れている,と感じたとき,

ああ,そこには僕はいないんだな,

という感覚である。寂しさとか悲しさという感覚とは別で,もっと乾いた,

隔て

である。大袈裟な言い方をすると,

異空間にいる

という感じである。来年は,

ここで一緒に飲むことはできないのだな,

と友人が,僕らに感じていたのではないか,という隔て,というか,

隔絶感

を,いま自分がよくわかる,気がする。

未来のその時空にはいない,

という感覚は,説明のしようのない,隔てなのである。

行き先の違う仕分けのベルトコンベアに乗っているのに,一瞬は,そのとき,その場所に一緒にいる。そういう感じである。他のコンベアがまだ走っているところには,僕のベルトは切れている,その感覚である。

寂しさとか,哀しみとは違う,乾いた

違う

という感覚,違和感としか言いようはない。その感覚を伝えようがない,というのも含めて,隔たりなのである。

会話の声が,ときに遠くになる。

かぎりなく
はこびつづけてきた
位置のようなものを
ふかい吐息のように
そこへおろした
石が 当然
置かれねばならぬ
     空と花と
おしころす声で
だがやさしく
しずかに
といわれたまま
位置は そこへ
やすらぎつづけた(石原吉郎「墓」)

止まった時間と,まだ運び続けているという時間の感覚の差と言ってもいい。

ここでわかれることに
する
みぎへ行くにせよ
ひだりへ行くにせよ(石原吉郎「死んだ男へ」)

ふいに思い出した,谷川俊太郎が詩を書き,武満徹が作曲した曲があった。

死んだ男の
残したものは
一人の妻と
一人の子供
他には何も
残さなかった
墓石ひとつ
残さなかった(「死んだ男の残したものは」)

反戦歌なのだが,時代的にも,個人的にも,いま,身につまされる。


今日のアイデア;
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2014年06月14日

Dream


ここで言う,Dreamは,

マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの,「I Have a Dream」ではなく,

レム睡眠(Rapid eye movement sleep, REM sleep)で見る,

夢のことである。

夢はレム睡眠というごく浅い眠りに随伴する内的体験,

だとされている。本当に完全に脳が休んでいる状態なら意識は途切れるので,夢体験が起こることは考えにくい,といわれる。

脳がある程度の活動状態に保たれている,

からこそ,夢を見ることができる。夢を見ている最中は,

脳の奥のほうにある記憶に関連した大脳辺縁系と呼ばれる部分が活発に活動し…,同時に大脳辺縁系で情動的反応に関連した部位も活発に活動している…。一方で,記憶の照合をしている,より理性的な判断機能と関連する前頭葉の機能は抑制されている,

とされ,フランスの脳生理学者ミッシェル・ジュヴェの発言がいい。

レム睡眠中には,動物も人間も危機に対処する行動をリハーサルし,いつでも行動できるよう練習している,

という。つまりは,イメージ・トレーニングである。

ここでは素人が専門的な夢に立ち入るつもりはないが,自分の夢には,ずっと特徴がある,と思っている。といって,精神分析家やユンギアンにかかったことがないので,特徴かどうかも,素人判断だが…。

特徴は,二つある(といっても正確に覚えているわけではないので),ような気がする。

ひとつは,よく夢の続きを見る。
いまひとつは,よく探し物をしている。

探し物というのは,いろんなパターンがある。たとえば,

どこかと誰かと飲んでいて,店を出て,忘れ物をしたことに気づくが,なかなか店に辿り着けない,

あるいは,

多分会社とおぼしい事務所に,忘れ物をして,それを捜しに行くのだが,事務所へたどり着けない。

あるいは,よくあるのが,

トイレに行こうとするのだが,よく知っているはずなのに,なかなかたどり着けない。あると思うと,風呂だったりする。

そのプロセスだか,別のことだか分からないが,よくあるのは,高いところから,降りていくのに難渋するのケースだ。階段だと思うと,途中で切れていたり,途方もない高さのベランダのようなものに出て,そこから下への方法がなく,そろそろと,伝わりながら下りている,ということが多い。辿り着いたかどうかまでは,覚えていない。

それと関連するが,飛び降りなくてはならない,というシチュエーションが存外多い。いまでも少しだけ覚えている例でいうと,

高い山頂から,一直線に,尾根沿いを下る,急角度の坂の上で,そこを滑り降りるか,駈け降りるか,選択を迫られている,しかし他に余地はなく,渋々というか,恐る恐る,そこを下りだす,

というような感じだ。

何処かへ行こうとして行き着かない,

何かを捜そうとして,探し出せない,

何とか行こうとすると,道や階段がない,

こんなふうな感じの夢が多い。

僕は,いつも,何かを,

探しあぐねている,

らしいのだ。夢の専門家なら,何かを言い当てるかもしれないが,まあ僕には思い当らない。第一,そんな冒険家でも野心家でもドリーマーでもないので,夢を見ているときは,わくわくよりは,じりじり,という感覚が残っている。

しかし,ああ,これはいつぞやの夢の続きだ,

と夢の中で思っていることが再三ある。単なる,デジャヴ(?)かもしれないが,確かに,その感覚があるし,

話が続いている,

(と思って夢を見ている)のである。そして,稀に,忘れ物を探し当てることがある。しかし,これは最近だが,

忘れたと,思って急いでその場へ戻ると,カードすべてが抜き取られた空財布だった,

ということがある。そのぞっとした感覚は,なんとなく残っている。

別に夢判断をしたいとは思わないが,

レム睡眠は朝に向かって増える。夢は,

脳の機能から考えると,ノンレム睡眠の時に休んだ脳機能を朝の覚醒にむけて,外界の変化から離れた夢を見ながら徐々に働かせている。

つまりはオフライン状態のときに,ウォーミングアップしているのだという。そういえば,昔は,

空を泳いている,

夢をよく見た。ユンギアンは,言葉を覚えた時代のもの,という。

しかし,何のウォームアップになるのだろう。


参考文献;
内山真『睡眠の話』(中公新書)


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2014年06月15日

立つ


立つの語源は,「タテにする」「地上にタツ」らしい。立つ,建つ,起つ,発つ,は中国語源に従うとある。これと別系統で,「タツ」というのが,裁つ,絶つ,断つ,とある。これは,タチ切ル,のタチから来ているらしい。

では,立つの意味は,というと,これが凄い。広辞苑(電子辞書版)をベースにいくつか加えると…。

1事物が上方に運動を起こしてはっきりと姿をあらわす
 ①雲・煙・霧などがたちのぼる 「霧が立つ」
 ②月・虹などが高く現れる 「月が立つ」
 ③新しい月・季節がくる 「春が立つ」
 ④波・風などがおこる 「風が立つ」
2物事があらわになる,はっきりあらわれる
 ①高く響く 「声が立つ」
 ②人に知れ渡る 「名が立つ」「目立つ」
 ③はっきり示される 「値が立つ」「押し立てる」「打ち立てる」
3作用が激しくなる
 ①湯がわきたぎる 「湯が立つ」
 ②激しくなる 「腹が立つ」
 ③起こる,生ずる 「不思議立つ」
 ④切れる 「切り立つ」
4(「発つ」「起つ」)ある場所にあった物がそこから目立って動く
 ①たてに身を起こす 起き立つ」
 ②毛などが逆立つ 「逆立つ」
 ③身を起こしてそこを離れる 「座を立つ」
 ④まかる,退出する 「承りて立ちぬ」
 ⑤出発する 「京を立つ」「早立ち」「旅立ち」
 ⑥鳥が飛び去る 「飛び立つ」
 ⑦勇気をもってことを起こす 
5ものが一定の,たてに真っ直ぐになってある
 ①足などで体がまっすぐに支えられている 「火中に立つ」
 ②草木などがまっすく生えている 「電信柱がたつ」
 ③とげ・屋などがたつ 「矢が立つ」
 ④丈の高いものが位置を占めている 「山が立つ」
 ⑤とどまる,たたずむ 「辻に立つ」
 ⑥地位を占める 「先頭に立つ」「優位に立つ」「苦境に立つ」
 ⑦要な役目・地位につく 「教壇に立つ」「選挙に立つ」
⑧位に即(つ)く,位に昇る 「后に立たせ給う」
⑨戸,ふすま,扉などが閉ざされている 「襖が立つ」
 ⑩突き出た形のものができる 「霜柱が立つ」「角が立つ」
 ⑪目的をもってある場所に身を置く 「街頭に立つ」
6(建つ)事物が新たに設けられる
 ①建造物が造られる 「家が立つ」「銅像が立つ」 
 ②初めて設けられる 「市が立つ」
7物事が立派に成り立つ
 ①用にたえる 「役に立つ」「御用に立つ」
 ②そこなわれずに保たれる 「「男が立つ」
 ③やっていける 「暮らしが立つ」
 ④道理・筋道が通る 「理屈が立つ」「見通しが立つ」
 ⑤はたらきが優れている 「筆が立つ」「弁が立つ」
⑥目標などが定まる。 予定が立つ」「計画が立つ」
⑦割り算で商が成り立つ 「六を二で割ると三が立つ」
8物がたもたれた末に変わって無くなっていく
 ①炭火・油などが燃え尽きる 「蝋燭の立つ」
 ②(経つ)時が経過する 「月日が立つ」「一年が立つ」
9他の動詞について,その行為が表立っていることをあらわす
 「思い立つ」「いきり立つ」「はやり立つ」「急き立つ」「競い立つ」「気負い立つ」「勇み立つ」「力み立つ」「奮い立つ」

すっごく単純に言うと,具体的に横たわっているものを「立てる」,という意味が抽象度が上がっても,そのままの意味を保っている,というと大雑把すぎるか。

もともと坐っている状態が,常態だったのだから,

立つ,

ということはそれだけで目立つことだったのに違いない。そこに,

ただ立ち上がる,

という意味以上に,

隠れていたものが表面に出る,

むっくり持ち上がる,

と同時に,それが周りを驚かす,

変化をもたらす,

には違いがない。

立つ,

には特別な意味が,やはりある。

引き立つ,
思い立つ,
気が立つ,
心が立つ,
感情が立つ,

あるいは,

忠義立て
隠し立て
心立て

という使い方もある。伊達も「取り立て」のタテから来ているという説もある。そう思って,振り返ると,腹が立つ,というように,立つが後ろに付くだけではなく,

立ち会い,立ち至る,立ち売り,立ち往生,立ち返る立ち並ぶ立ち枯れ,立ち遅れ,立ち働く,立ち腐れ,立ち遅れ,立ち竦む,立ち騒ぐ,立ち直る,立ち退き,立ち通す,立ち回り,立ち向かう,立ち行く,立ち入り,立ち戻る,立ち切る,立ち居振る舞い,立ち代り,立ち消え,立ち聞き,立ち稽古,立ち込み,立ち姿,立ちどころに,立ち退き,立ちはだかる,立て替え,建て替え,立ち水,立ち塞がる,立待の月,立て板,立て付け,立て直し…。

「立つ」ことが目立つ,ある特別のことだというニュアンスが,接頭語としての「立ち」に波及している。しかし,

立場,立木,立つ瀬,建前,立て方,立ち衆,立行司,立て唄,立女形,立て作者,立ち役…,

と見ると,「立つ」には,特別な意味がある。詳しく調べたわけではないので,素人考えだが,「立つ」ことが,際立って重要で,満座が坐っている中で,立つことがどれほどの勇気がいることで,目立つことかと思い描くなら,「立つ」には,いい意味でも,悪い意味でも,目立つ,中心に立つ,という意味が込められている。

今日,立つこと,立っていることが当たり前になったとき,

立つ,

と同じような効果のある,振る舞いはなんであろうか。かつて,

立つ,

とは,

(おのれが)やる,

ということを主張するに等しかったとすれば,それと同じことは,いま,

よほど目立つことでなれければ,

誰にも気づかれぬことになる。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
『広辞苑(第五版)』(電子辞書)(岩波書店)




今日のアイデア;
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2014年06月16日


報美社の

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柴山千尋展に伺ってきた。その直前まで,落語を三席聴いてきて,時間が思った以上に余裕が出て,回ったのだが,落語を聞きながら,

落語は時間,

いや,

語りは時間,

そもそも

言葉は時間,

と考えていて,絵を観させていただいているうちに,

色は時間,

ということを,不意に思った。

鮮やかな色を組み合わせるのが特色なのだが,僕は,そこには時間を感じなかった。例えば山に,赤系統の鮮やかな色が,互いにひしめき合うようにしているところは,紅葉とも花盛りともとれるが,そこには時間ではなく,空間しか感じられなかった。

だからいけないというよりも,僕は,(タイトルに記憶違いでなければだが)

緑の流れ

流れる青

と題された,水流を,濃い蒼と緑系の色で,縞をなす流れに,惹かれた。そこに,時間を見た。いやいや,「流れ」とは,時間の謂いだ。

色は時間,

というより,

時間の色,

というように受け止めて,二作品を暫く眺めていた(もう一作,少し似た雰囲気のものがあった気がするが)。

僕は個人的に,絵には,画家が,どう時間を描くのか,に興味を持っていて,ダリのだれて融けた時計には,ちょっと感心したが,あれは死んだ時間でしかない,ようにみえる。

色と色がせめぎ合うのは,ひとつところで,ぎゅうぎゅうひしめき合う,

饒舌さ

を感じるか,時間は感じられない,むしろ,広がりが感じられるように思う。

それに比して,「流れ」を表現しようとする,寒色系(?)の暗い縞のうねりに,微妙に動く時間を感じた。

作家の中には,タイトルを重視する人とあまり重視しない人がいるようだが,今日は拝見した作家は,たとえば,

気になる線
とか
その先の線
とか
線,かげになる,

(と,確か…)と題するように,タイトルとセットで,絵に奥行きを見せる(そこに描かれていない何かを共に見せようとする)ものと,

前述のタイトル,

緑の流れ

流れる青

(だったと思う)のように,象徴するものと,たとえば,

庭のかたすみ

(だったかな…)というような,あまり意味のなさそうな(失礼!)タイトルとにわけられる。どうせなら,タイトルにも,主張が欲しいというのが,僕の思い。タイトルをみるかぎり,まだ迷いというか,躊躇いが見えるように見える(もちろん錯覚かも!)。まあ一貫性が欲しい,とは思ったが,素人の勝手な思い込みかも。ただ,タイトルは,僕には絵と一体だと思うところがあるので,その点では,タイトルの表現スタイルが,少しばらけている気がした(のは勘違いかもしれないが)。



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2014年06月17日

謀叛


谷口研語『明智光秀』を読む。

本能寺の変で一躍歴史に名を残したが,さて,では事跡はというと,ほとんどが残っていない。歴史に登場したのは,彼の生涯五十数年のうち,

後期の足かけ十四年,

である。

その十四年間で光秀は,一介の浪人から,当時の日本でベストテン入りするだろうほどの権勢者へと成り上がった。

と著者は言う。しかし,

これはまったく信長の十四年間と重なるのであり,光秀の伝記を書くはずが,信長外伝になってしまう可能性がある。

とまえがきで書いた著者は,彼についてのほとんどが本能寺の変に関わるもので,本書執筆にあたって,

一つは,「本能寺の変の原因をさぐる」という視点を意識的に避けたこと,
もう一つは,江戸時代の著作物をできるだけ排除したこと,

の二点を留意した,という。結果として,実は,信長抜きでは,ほとんどその人生のない,という伝記になっていることは否めない。

唯一歴史に残った,本能寺の変の前年に光秀の制定した,

家中軍法

も著者に言わせると,

こんなことで戦争ができるのか,

と言わしめる代物らしいが,その後書きで,

瓦礫沈淪の輩を召出され,あまつさえ莫太の御人数を預け下さる,

と書いた。その本人が,「預け下さ」つた主を,翌年弑するのだから,人生は分からない。

その光秀の「瓦礫沈淪」の前半生については,ほとんど分からない。確かなのは,

「永禄六年諸役人附」

の足軽衆の末尾にある「明智」が,光秀と推測される,という程度である。だから,土岐の流れとかと言われる光秀だが,正体は,

光秀と室町幕府との関係は,義昭以前にさかのぼるものではなかったと結論するのが妥当だろう,

ということになる。明智を名乗っているが,

どこの馬の骨か分からない,

ものが,兄義輝の暗殺で担ぎ出され,あちこち転々とする義昭の,まあどさくさに紛れて足軽衆に潜り込んだ,というのが実態ではないのか,と勘繰りたくなる。光秀は,

細川の兵部太夫が中間にてありしを引き立て,中国の名誉に信長厚恩にて召遣わさる,

と多聞院日記にある,というし,ルイス=フロイスは,

彼はもとより高貴の出ではなく,信長の治世の初期には公方様の邸の一貴人兵部大輔と称する人に奉仕していたが,その才略・深慮・狡猾さにより,信長の寵愛を受けることになり,主君とその恩恵を利することをわきまえていた,

と『日本史』に書いた。

まずは,幕臣細川藤孝の知遇を得,信長との交渉役を経て,世に出て行ったということになる。

光秀が『信長公記』に登場するのは,上洛した義昭が,撤退したはずの三好三人衆らに,宿所の本圀寺を襲撃された折,その防戦に当たった人数の中に,

明智十兵衛

として,である。その一年後の,元亀元年の浅井・朝倉勢三万が南下した志賀の陣では,二,三百を抱えるほどになっている。さらに山門焼き討ち後,近江志賀郡を与えられ,坂本に城を築城するに至る。城持ち大名になったのである。

翌年元亀二年,摂津高槻へ出陣した折には,一千人をひきており,四年後の天正三年には,すでに二千人を率いるまでになっている。そして丹波・丹後平定を経て,丹波一国を拝領した後の,天正八年以降は,一万を超える軍勢を擁するのである。

例の佐久間信盛折檻状では,

日向守は丹波国を平定して天下の面目をほどこした,

と,外様にもかかわらず,織田家中第一の働きをしていると,名指され,ひるがえって宿老の信盛の怠慢を責めるだしに使われるほどになっていくのである。

にもかかわらず,備中出陣のため,わずかな人数で上洛した信長の虚をつくかたちでも謀反を起こしたのである。著者は言う。

光秀の心の葛藤をとやかく詮索しても所詮わかろうはずがないが,積極的にせよ消極的にせよ,信長に取ってかわろうという意志はあったとしなければならない。変後の行動,すなわち近江の平定,安土城の接収,朝廷・五山への配慮,細川・筒井両氏の勧誘,そして山崎の合戦,この流れをみれば否定できないだろう。そして,軍事的な背景についていえば,光秀にとって千載一遇,またとないチャンスであったことははっきりしている。

その背景について,与力の筒井のあわただしい動きから,筒井順慶,光秀に,信長から,何らかの指示があったのではないか,と推測する。

「謀反」があまりにも突然のことであり,しかも何の準備もなかったらしいから,光秀をして決断させた(信長から指示された)何事かがあったはずである。

と推測する。それを,著者は,光秀を中心に,細川藤孝,筒井順慶を与力とする体制の解体にある,とみている。

前にも書いたが,フロイスの言う通り,光秀評を,

裏切りや密会を好み,刑を科するに残酷で,独裁的でもあったが,己を偽装するのに抜け目がなく,戦争においては謀略を得意とし,忍耐力に富み,計略と策略の達人であった。また築城のことに造詣が深く,優れた建築手腕の持ち主で,選び抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた,

という,

一筋縄ではいかない,したたかで有能な戦国武将,

というイメージで見るとき,光秀も,

そういうことなら,おのれが,

と,信長にとって代わりたい,と思うに至ることはありうる,とは思う。しかし,そこまで追い詰めたのが,信長の何がしかの指示だとすると,結局,光秀は,

信長に振り回された,

というか,信長の光に照らし出された一人だということができる。しかし,変後の処理を見ると,どうもちょっと,器が小さかったのではないか,という気がしないでもない。変後の秀吉の周到な手際に比べると,光秀は,

おのれを見誤った,

ような気がしてならない。


参考文献;
谷口研語『明智光秀』(洋泉社歴史y新書)




今日のアイデア;
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2014年06月18日

ブログ


もうこれで,600日近くブログを書いたので,かれこれ,一年半は超える。しかし,なぜブログを書くかについては,あまり深く考えていない。はじめの頃,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163113.html

という趣旨で,一応自分なりのブログを書く意図のようなものをまとめた。そこで,

①まずはなにより,オリジナリティがなくてはならない。そういう視点で見ることができるのか,そういう考え方をしてもいいのか等々
②まずは,物知り顔,訳知り顔ではなく,独りの人間の尖がった意見であり続けること。先端という意味ではないが,尖りがほしい。変に妥協した,目配りした物言いをしない。
③隠さない。弁解しない。怖じず,おびえず,ひるまずに,直言していきたい。開示というと生易しい,もっとももっと開く。
④時代におもねらない。媚びない。流行を追わない。しかし時代とは闘い続けたい。時代の主流にはなれなくても,時代の厳しい批判者ではあり続けたい。
⑤そして人としてのありようについての,信念は曲げまい。どんな人も,人である。人であるという前提を失わないこと。人であることを尊重し続けよう。

と書いたが,まだまだ実行できていないところもあるが,変わりはない。そこで,ルイス・キャロルがたった一人,姪のためだけに,

『不思議の国のアリス』

を書いたことになぞらえて,

誰かたった一人を念頭において,ただひたすら語り続けてみよう。ひょっとしたら,思いは届かないかもしれない。しかし,そのたった一人にも届かないような思いや考えは,きっと誰にも届かないのだろう。少ししかないにしても,自分の知識と経験を絞りに絞って,その都度,たった一人に届くように,語り続けてみよう。

と書いた。まあ,

ラブレター

というとちょっと言い過ぎかもしれないが,究極,そういう自己表現には違いない。しかも,日記と違うのは,そもそも公表を前提にしているので,結局誰かに向かって書く。誰でもない誰かより,

特定の誰か,

の方が,伝わりやすいのかもしれない。

たった一人にさえ伝わらないのなら,それは誰にも伝わらない,

のかもしれない。そこで,テーマごとに,誰かを想定してみている。しかし,その人が読んでくれているかどうかは,確かめようがないことが多い。それでもそのことで,テーマが立てやすいということはある。

ところで,自己表現は,日記でもそうだが,書くということの中に,

虚実の皮膜,

に漂うところがある。書いた瞬間に,ウソではないが,表現化されたとき,現実との乖離が生まれる。そもそも対象化するとか,メタ・ポジションになったとき,見えるものは,即自の自分のそれとはギャップがある。

ある意味自分でも読み返せば,読んでいる自分と書かれている自分とは,微妙な隙間ができる。

時間が経たせいかもしれないし,

自分自身が,日々微妙に変化しているせいかもしれない。

しかし,そもそも書くということが,

リアルとの距離を取ること,

なのだからかもしれない。かつて読んだユンギアンの本に,

言葉を覚えると空を飛ぶ夢を見る,

という趣旨の一文があった。僕自身も,幼少の頃,よく空中を泳ぐ夢を見た。言葉そのものが,リアル世界を丸めることだからだ。抽象化と言い換えてもいい。

とすると,言葉の選び方,言葉の連ね方一つで,意味が変わる。言葉は,

言葉の前後の脈絡

に支配されるので,語った瞬間,語られることとは関係なく,語る側の筋の流れ(文脈)に拘束される。文脈によってそう書くよう促されざるをえないところがある。

言いたいこと

が,

言えることに変わる。表現は,言いたいことを書くことではなく,書けることの中で,折り合いをつける。言葉の選択然り,言葉の続き方然り,文章の流れ然り。

毎回,言葉との格闘(というほどでもないが)の中で,いつの間にか,

皮膜,

の隙間で漂うことになる。

というか,同じことを書こうとしても,日々,言葉の選択,つなげ方で,微妙に意図がずれていく。その面白さが,書くことの面白さなのかもしれない。

結局ここに行きつく。

これを知る者はこれを好む者に如かず,これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

その隙間の空間に漂うのが楽しいのかもしれない。


今日のアイデア;
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2014年06月19日

どつぼ


どつぼ,

土壺ともかく。これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163587.html

で触れたが,どつぼは,

深く落ち込んだ状態や最悪な状況を意味し,そういった状況になるという意味の「どつぼに嵌まる(はまる)」といった形で使われることが多い。どつぼはもともと関西エリアで肥溜め(肥溜めは野にあることから野壷ともいい,それが音的に崩れたものか?)のことをいうが,一般には1970年代末辺りからよく使われるようになる,

と説明される。僕のイメージでは,探し物をしている状態がそれに近い。

あったはず,というかあると思ったところになかったりすると,あとは,どこにあるかわからない。外で忘れたり落とした感覚はなく,間違いなく部屋の中にあるはずなのに,どこを探しても見つからない。だから,一度探した鞄を,再度洗いざらい探す羽目になる。そういうときは,同じところを,何度も何度も探す。要は,

堂々巡りに陥っている,

のである。それが,である。探し物だけではないかもしれないが,諦めて,出かけて帰宅すると,見たはずの所を少しずれて,あっけなく見つかったりする。死角があるらしい,というか,視野狭窄に陥っているので,そこが,

見ていても見えていない,

ということが起きる。陥っている状態から言えば,

どつぼ,

だが,ものを見る側からというと,

視野狭窄,

あるいは,

トンネルビジョン,

といっていい。どん底,切羽詰る,という心理状態に陥っているが,それは,視野狭窄に陥っているせいだと言い換えてもいい。

窮すれば即ち変じ,変ずれば即ち通ず,

とも言う。逆に言えば,変じさせればいい,ということになる。それは,ものの見方が一番手っ取り早い。

前にも書いたが,トンネルビジョンに陥っているとき,視野狭窄の自分には気づけない。自分がトンネルに入り込んでいること自体を気づかない。それに気づけるのは,その自分を別の視点から,見ることができたときだ。そのために一番いい方法は,あえて,距離を取ることだ。それには,

時間的な距離化



空間的な距離化

の二つがある。その場から離れるか,時間を置くか,だが,それを意識的にするには,

立ち止まる,

ことだと思う。探し物の例で言うなら,いったん探し続ける動作をやめる(なんか,すぐ見つかりそうなときほど,やめられないが)。そうすると,選択肢が生まれる。

このまま続けるか,

ここでいったん止めるか,

思案し続けるか,

等々。発想とは,

選択肢を生み出せること

というなら,選択肢が出たことで,自分に距離を置ける。自分に距離が置けると,存外,すぐに見つかることとが多い。

捜し続けている自分の嵌ってしまった状態,

をどつぼといっても言い。とすれば,その自分の状態,あるいは自分の心理,自分の感情に距離を置いて,

おいおい,嵌ってるぜ,

という余裕が出れば,距離が持てたのと似ている。

見方を変えることは,見え方を変える方が手っ取り早い。

見え方を変えるとは,見る位置の移動である。

大きくなるとは見る位置を近づけること,小さくなるとは遠ざけること,逆にするとはひっくり返すことだ。位置を動かせるわれわれの想像力を駆使して,見えているものを変えてみることで,見え方を変える。見え方を変えることで,いままでの自分の見方が動くはずである。

しかしそれをするためには,対象を見ている自分の位置にいる限り,それに気づきにくい。それが可能になるのは,見ている自分を見ることによってである。

つまり,見る自分を突き放して,ものと自分に固着した視点を相対化することだ。そうしなければ,他の視点があることには気づきにくい。

メタ化

である。メタ・ポジションをとる。

自分自身を含め,自分の見方,考え方,感じ方,経験,知識・スキル等々を対象化することだ。それは,

「みる」をみる

ことだ。「みる」を意識しない限り,何をみているかはわかるが,どう「み(てい)る」か,どこから「み(てい)る」か,みる自分自身は気づけないからだ。

そのためには,いったん立ち止まって,自分を,自分の位置を,自分のしていることを,自分のやり方を振り返らなくてはならない。

たとえば,言葉にする,言語化する,図解する,というのもその方法のひとつになる。

おれはどつぼにはまっている,

という独り言でもいい。

それをするためには,対象化する必要があるからだ。つまり,象徴的な言い方をすれば,

「みる」をみる,

ということになる。

さて,おのれは,いまどういう状態にあるのか,

まあ,立ち止まってみるか。しかし,ずっと立ち止まっていないか?そろそろ動いた方がいい。思案しても,事態は変わらない。。。。。



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2014年06月20日

未完


いまひそかに僕が読んでいて,その続きを首を長くして楽しみにしているのは,

原泰久『キングダム』

である。きっかけは,NHKのアニメだったが,途中で放映が終わってしまい,気になってその続きを読み,さかのぼって,一巻からKindle版で読み直した。アニメ化では,いくつかが削られていて,それを削ったら,将登場人物の背景の持つ陰翳が削られて,まずいだろうというようなところも見つけたりしながら,Kindle版では待ちきれず,単行本で,いま34巻まできた。来月35巻が出るのを,待ちきれずに,もうアマゾンに予約したくらいに楽しみにしている。

まだ,嬴政が,丞相・呂不韋との権力争いで,秦国内の実権を握れていない。中華統一までは,まだまだ遥かに遠く,長い。僕が生きている間に終わらないだろうな…!

そういえば,白土三平の『カムイ伝』も,まだ終わっていないらしい。

かつて,漫画は毎号堂々と変えず,とびとびに密かに買って読んだ記憶がある。それでも,「冒険王」か「少年画報」…だったかを読んでいた記憶があるし…,好きだったのは,杉浦茂のギャグ漫画(の走り?)の『猿飛佐助』。因みに赤塚不二夫は,杉浦のファンで,レレレは,杉浦に由来するという。

僕はスポーツ音痴なので,スポ根系は,あまり好きにならない。

009は流れ星になり,鉄腕アトムは太陽に向かって飛んで行った,

という名文句を,石子順造という評論家が書いたのを読んだ記憶があるが,作品の終り方は難しい。

長ければ長いほど,その終り方は,難しくなる。無理に終わらせて,墓穴を掘った例は多いのではないか。しかしそれ以上に難しいのは,いったん終わったものを再開させる場合だ。『サイボーグ009』も再開したが,到底蛇足としかいいようがない。

だから,はじまりよりも,終らせ方が難しい,

とつくづく思う。コナン・ドイルは,ファンの声に押されて,

シャーロック・ホームズを帰還させて以降,駄作になった。

中里介山も,『大菩薩峠』中で長さを誇っていたが,ついに終わらせられなかった。未完のままのものというのは,結構多い。

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』もそうだし,

プルーストの『失われた時を求めて』もそうだし,

ムージルの『特性のない男』もそうだし,

夏目漱石の『明暗』もそうだし,

そうだ,カフカの『城』もあったし,マニアックなところでは,

国枝史郎『神州纐纈城』もあったし,

埴谷雄高『死霊』も,途中で付き合うのをやめてしまった…,

と,数えあげていけば,結構ある。僕の好きな,ショーロホフの,

『静かなドン』

は,未完ではないが,新田たつおの漫画『静かなるドン』にタイトルを剽窃されて汚された気がしてならない。ショーロフの題名を意識したらしいが,腹を立てている。「ドン」の意味が全く違う。ウィキペディアによると,小林信彦の『唐獅子シリーズ』で最初に使われたギャグからきたものといわれている。真似の真似,ということだ。ギャグなら,福田善之『真田風雲録』くらいの見識と上質さがないと。

話が横へ逸れた。流れたついでに,漫画というなら,

つげ義春の『沼』

が好きだ。『ねじ式』もいいが,『もっきり屋の少女』系がいい。そう言えば永島慎二の『フーテン』や『漫画家残酷物語』もいい。

大友克洋の『童夢』

がいい。『AKIRA』も確かにいいが。

『機動戦士ガンダム』はアニメか(因みに,これも続編中,耐えられるのは,その後のアムロの出てくる『Zガンダム』くらいだ),

宮崎駿のアニメではなく,漫画の,

『風の谷のナウシカ』

もいい(アニメもいいが)。

何か大事なものを忘れているかもしれないが,挙げればきりがない。

でも,終り方が,やはり気になる。

未完は,作家の構想大きさに,ついに手と時間が足りなかったということだ。

手塚治虫は,まだ頭の中に構想が数本あったという。

広がった構想を,展開するだけでなく,それを収斂し,大団円に持っていくには,構想が大きければ大きいほど,難しいのだろう,と想像する(しかないが)。

そんな大構想は,僕には,リアルにもフィクションにもないが…。

参考文献;
原泰久『キングダム』(集英社)



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