2014年06月09日

ねぎらい


ねぎらう

は,

ネギ(祈願・労う)+らう(動詞化)

で,神の心を慰め,かごを願う。禰宜も同源という。

祈るのは,結局自分のためなのだ,労いは,自分のためでもある。

棒を呑む

それも,無理やり飲まされる

ようなものだとつくづく思う。人の死を受け入れる,ということがだ。それについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/398323501.html

で触れた。

連絡が遅れたのは,ぼくら二人には必ず知らせるように,と言い残した当人が,連絡先をどこにも残さなかったからだ,という。まあ,年賀状とかを書かない人なので,偶然書庫を整理していて,本の見返しに,もう一人の友人の電話番号がメモ書きしてあるのを発見した,と言う。

主人が知らせてくれた,

と再三言われたようだ。

確か,昨年夏,一度会おうか,と僕はその友人に言ったらしいのたが,言われた本人が,仕事にかまけて遅れ遅れになったことを,知らせを聞かされて悔い,その夜は眠れなかった,と言う。

お互いが無理やり飲んだ棒のことを話し,当人の悪口を言い合いながら,昼間から,二人で,飲んだくれた。二人にしては,珍しい。大体それほど強くない僕が,あれほど飲んでも,そんなに強かったか,と呆れられるほど,ほとんど酔わない。

不思議な縁で,いったん切れた関係が,本当に奇跡的な偶然で,僕が死んだ彼と再会したことで,つながりが復活した。もう,三十年近く前のことだ。それ以降は,三人離れ離れで,バラバラに仕事をしていたのに,何年かに一回,多いときは,月に一回,さりげなく誘い合って飲み交わした。その飲み交わしの場をつくるために,僕と近所に住む友人は,まず飲み交わし,それから死んだ彼との場を設定する,と言う手順を取ることが多かった。二人は,横浜に住い,亡くなった一人が八王子に仕事場を持っていたせいで,八王子か,横浜で,ということが多かった。

始めは墓参りをする気はなかったが,飯能だか入間だかに墓があり,それも,亡くなったご子息の名を刻んだ墓石の中に,納まっている,と聞くと,やはり一度は行っておかなくては,と思う。墓に,息子の名を刻んだときは,そこに自分が入る予定はなかったのだろう。しかしそこに,納まるのは,彼らしい,と思う。

遊子

という言葉が似つかわしい奴だったと思う。

飄々として生きた彼は,何となく悠然と河を渡っていった気がする。

あまり怒った顔を見たことはないが,友人は,一度だけ,建築業の作業服を着た酔っ払いに絡まれ,大声で怒鳴りあっているのを目撃したという。相手は,こっちの風体を見て差別するのか,と絡んだらしいが,そういうことのまるでない人だから,そういう因縁のつけられ方に,切れたのではないか,という。

僕もあまり怒ったところを見たことはない。僕がいらちで,もう一人と結構衝突するが,二人(の意見)はどこが違っているのかわからん,結局同じじゃないか,とよく言われたものだ。丸めれば同じだが,その差に意味があるから,そう言われると,立つ瀬がなくなる。そんな関係であった。

もう若くはないので,いら立ちをぶつけるエネルギーは失せている。穏やかなものだ。

亡くなった友人をねぎらうというよりは,残された二人を互いにねぎらい合い,結局,墓参りをすることになった。それも,彼のためというよりは,自分たちのためのような気がする。互いに体内に爆弾を抱えているのだから。

重大なものが終わるとき
さらに重大なものが
はじまることに
私はほとんどうかつであった
生の終わりがそのままに
死のはじまりであることに
死もまた持続する
過程であることに
死もまた
未来をもつことに(「はじまる」)

石原吉郎のこの詩がふいに浮かぶ。はじまるのは,死んだ彼にとってではなく,残されたものにとって,なのだろう。

死もまた未来をもつ,

確かに。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 04:36| Comment(0) | | 更新情報をチェックする