2014年06月18日

ブログ


もうこれで,600日近くブログを書いたので,かれこれ,一年半は超える。しかし,なぜブログを書くかについては,あまり深く考えていない。はじめの頃,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163113.html

という趣旨で,一応自分なりのブログを書く意図のようなものをまとめた。そこで,

①まずはなにより,オリジナリティがなくてはならない。そういう視点で見ることができるのか,そういう考え方をしてもいいのか等々
②まずは,物知り顔,訳知り顔ではなく,独りの人間の尖がった意見であり続けること。先端という意味ではないが,尖りがほしい。変に妥協した,目配りした物言いをしない。
③隠さない。弁解しない。怖じず,おびえず,ひるまずに,直言していきたい。開示というと生易しい,もっとももっと開く。
④時代におもねらない。媚びない。流行を追わない。しかし時代とは闘い続けたい。時代の主流にはなれなくても,時代の厳しい批判者ではあり続けたい。
⑤そして人としてのありようについての,信念は曲げまい。どんな人も,人である。人であるという前提を失わないこと。人であることを尊重し続けよう。

と書いたが,まだまだ実行できていないところもあるが,変わりはない。そこで,ルイス・キャロルがたった一人,姪のためだけに,

『不思議の国のアリス』

を書いたことになぞらえて,

誰かたった一人を念頭において,ただひたすら語り続けてみよう。ひょっとしたら,思いは届かないかもしれない。しかし,そのたった一人にも届かないような思いや考えは,きっと誰にも届かないのだろう。少ししかないにしても,自分の知識と経験を絞りに絞って,その都度,たった一人に届くように,語り続けてみよう。

と書いた。まあ,

ラブレター

というとちょっと言い過ぎかもしれないが,究極,そういう自己表現には違いない。しかも,日記と違うのは,そもそも公表を前提にしているので,結局誰かに向かって書く。誰でもない誰かより,

特定の誰か,

の方が,伝わりやすいのかもしれない。

たった一人にさえ伝わらないのなら,それは誰にも伝わらない,

のかもしれない。そこで,テーマごとに,誰かを想定してみている。しかし,その人が読んでくれているかどうかは,確かめようがないことが多い。それでもそのことで,テーマが立てやすいということはある。

ところで,自己表現は,日記でもそうだが,書くということの中に,

虚実の皮膜,

に漂うところがある。書いた瞬間に,ウソではないが,表現化されたとき,現実との乖離が生まれる。そもそも対象化するとか,メタ・ポジションになったとき,見えるものは,即自の自分のそれとはギャップがある。

ある意味自分でも読み返せば,読んでいる自分と書かれている自分とは,微妙な隙間ができる。

時間が経たせいかもしれないし,

自分自身が,日々微妙に変化しているせいかもしれない。

しかし,そもそも書くということが,

リアルとの距離を取ること,

なのだからかもしれない。かつて読んだユンギアンの本に,

言葉を覚えると空を飛ぶ夢を見る,

という趣旨の一文があった。僕自身も,幼少の頃,よく空中を泳ぐ夢を見た。言葉そのものが,リアル世界を丸めることだからだ。抽象化と言い換えてもいい。

とすると,言葉の選び方,言葉の連ね方一つで,意味が変わる。言葉は,

言葉の前後の脈絡

に支配されるので,語った瞬間,語られることとは関係なく,語る側の筋の流れ(文脈)に拘束される。文脈によってそう書くよう促されざるをえないところがある。

言いたいこと

が,

言えることに変わる。表現は,言いたいことを書くことではなく,書けることの中で,折り合いをつける。言葉の選択然り,言葉の続き方然り,文章の流れ然り。

毎回,言葉との格闘(というほどでもないが)の中で,いつの間にか,

皮膜,

の隙間で漂うことになる。

というか,同じことを書こうとしても,日々,言葉の選択,つなげ方で,微妙に意図がずれていく。その面白さが,書くことの面白さなのかもしれない。

結局ここに行きつく。

これを知る者はこれを好む者に如かず,これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

その隙間の空間に漂うのが楽しいのかもしれない。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:22| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする