2014年07月01日

沈黙


沈黙については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/393712202.html

を含め,何度か書いた。たぶん,

沈黙,

寡黙,

緘黙,

という言葉が好きなのだが,ついつい,いつも,

黙っていても
考えているのだ
俺が物言わぬからといって
壁と間違えるな

という,壺井繁治の詩を思い浮かべてしまうが,しかしこれは,黙っていると言いつつ,妙に,というかやたらと饒舌なことに気づく。言い訳がましい。

石原吉郎にこんな一節がある。

詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば,沈黙するためのことばであるといってもいいと思います。もっとも語りにくいもの,もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が,ことばにこのような不幸な機能を課したと考えることができます。

例えば,

一期にして
ついに会わず
膝を置き
手を置き
目礼して ついに
会わざるもの(「一期」)

のほうが,寡黙だ。ここには何も語ろうとしない姿勢がある。

黙とは,内心の言葉を主体とし,自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分に言葉を発し,問いかけることがまず根底にあるんです,

と吉本隆明が言っていたが,それは,沈思黙考だ。自己対話であって,それ自体,すでに言葉になっていないが,喋っている。沈黙は,それとはわずかに違う。

単純な意味での外側への働きかけという姿勢は,私にはないかもしれません。ただ,最終的に沈黙することはできない。なにをいってもだめだけれど,最終的に沈黙することはできないというぎりぎりの所で,私は詩を書いてきたと思うし,これからも書いていくしかないとい思うわけです。

とも石原は言っているので,ヴィトゲンシュタインの言う,

およそ言いうることは言い得,語りえないことについては沈黙しなければならない,

のぎりぎりの瀬戸際ということになる。そこには,心の中で考えていたことが,思わず声に漏れる,ということとも違う。

石原は,こうも言う。

ひとつの情念が,いまも私をとらえる。それは寂寥である。孤独ではない。やがては思想化されることを避けられない孤独ではなく,実は思想そのもののひとつのやすらぎであるような寂寥である。私自身の失語状態が進行の限界に達したとき,私ははじめてこの荒涼とした寂寥に行きあたった。

例えば,

いわれなく座に
耐えることではない
非礼のひとすじがあれば
礼を絶って
膝を立てることだ
膝は そのためにある
そろえた指先も
そのためにある(「控え」)

沈黙は,お喋りや言葉の対語ではない。対ではない。バランスは,はるかに沈黙が重い。あるいは贅言百万と匹敵する。

もちろん,沈黙は,ただ

しゃべらないこと

でもないし,よくセラピーやコーチングで言うような,

沈黙もまた一つのノンバーバルな言語,

というのでもない。沈黙は,ただ沈黙なのだ。黙っているのとは違うのだ。。

言葉にならないありようそのものを,何とか言葉にしょうとする,その突き抜けるように結晶していく,結晶化の臨界点のようなものだ。それは,思考という理性的なものとも,感情や感覚ともちょっと違うのだろう。

非礼であると承知のまま
地に直立した
一本の幹だ(「非礼」)

例は悪いが,

たとえば,種田山頭火の,

いつもつながれてほえるほかない犬です



何が何やらみんな咲いてゐる

は自由な一節のように見えて,実は完結している。俳句という一つの世界像の中で,完結している。俳句というものがなければ,ただの未完のつぶやきでしかなくても,俳句として語りだされている以上,完結している。完結した世界が目に見えてくる。完結した短句の中に,凄い饒舌がある。言葉があふれ出る。

しかし,石原にはそれがない。漏れ出たものは,一節でしかない。

そう。沈黙とは,ありようなのだ。言葉と対等のレベルではない。

おれひとりで呼吸する
おれひとりで
まにあっている
世界のちいさな天秤の
その巨きな受け皿へ
おれの呼吸を
そっとのせる(「呼吸」)

思想のやすらぎである寂寥,

としてのありようが見える,気がする。

沈黙は,黙っていることではなく,言葉による表現を拒否したありようなのかもしれない。でなくば,言葉による表現の出来ない限界を示している。だからそこから漏れ出る言葉は,ありようそのものの滴としか言いようはない,のではないか。



今日のアイデア;
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2014年07月02日

知への意志


ミシェル・フーコー『〈知への意志〉講義』を読む。

「ミシェル・フーコー講義集成1」である。「コレージ・ド・フランス講義 1970‐1971年度」。フーコーの講義録である。実際の講義の録音を基にすることになっているが,この年度には,それがないため,フーコーが講義のために残した草稿にもとづいている。

こんな知の巨人について。何か論評できるはずもなく,ただその精緻な論理と奥行きの深さに,昨今の日本の知のレベルの劣化というか,痴呆化に思いが至る。

しかも,これがコレージュ・ド・フランスの講義だということだ。出席者は,大学生,教職員,研究者,その他の興味本位の人たちに,毎週行われている。この知的レベルの高さに,まず驚嘆するしかない。それに比して…,もはや言葉もない。

「知への意志」と題したのこ講義は,

真理への意志が,言説に対して排除の役割を果たすのではないかどうか,すなわち,真理への意志が,狂気と理性の対立が果たしうる役割,もしくは禁忌のシステムが果たしうる役割に―一部において,そしてもちろん一部においてのみ―類似した役割を果たすのではないかどうか知ることである。

と始まる。そしてこう問う。

真理への意志は,他のあらゆる排除のシステムと同様,根底において歴史的なものではあるまいか。真理への意志は,その根底において,他の排除のシステムと同様,恣意的なものではあるまいか。真理への意志は,他の排除のシステムと同様,歴史のなかで変容を被りうるものではあるまいか。真理への意志は,他の排除システムと同様,制度的なネットワーク全体によって支えられ,絶えず再開されるものではあるまいか。真理への意志は,他の緒言説にたいしてのみならず他の一連の実践に対してなされる拘束のシステムを形成するのではあるまいか。要するに,問題は,真理への意志のなかに,いかなる現実の闘いといかなる支配の介入が入り込んでいるかを知ることなのだ。

問いは,それが新しく,鋭ければ鋭いほど,あらたな答えを秘めている。そこには,

真理は権力の外にあるのでもなければ,権力なしにあるのでもない,

というフーコーの立場が含意されているらしい。つまり,

知は,無私無欲でも,正義でも,まして,自由でもない,

ということを,フーコーは暴き続けている流れの中において見なくてはならない。別のところで,フーコーは,次のように語っている,という。

知識人の役割は,他の人々に対して何を為すべきかを語ることではありません。いかなる権利があって知識人はそんなことをしようというのでしょう。……知識人の仕事,それは,他の人々の政治的なのかたちを定めることではありません。そうではなくて,それは,自分自身の領域において行う分析の数々によって,自明性や公準を問い直し,慣習および思考や行動の仕方に揺さぶりをかけ,一般に認められている馴染み深さを一掃し,規則や制度の重要性を測り直し,そして,そうした再問題化から出発しつつ,一つの政治的な意志の形成に参加することなのです。

おのれの専門領域で,既成概念を崩し,そこから政治的な意志形成に参加しろ,ということだ。いまなら,各々の立場で,いまの日本の方向性を正すべく,深掘りし,知の再形成に挑め,ということなのだろう。しかし,怠惰と惰眠のせいで,いま,もう時間は限られているが。

さて,そこで,フーコーは,さらに,問う。

真理への意志という言葉を口にするとき,……問題となっているのは,真理への意志なのか,それとも知への意志なのか。そして,真理と知という二つの概念のうちの一方あるいは他方を分析する場合には必ず出会うことになる概念―つまり認識という概念―についてはどのようなことが言えるだろうか。

そして,さらにフーコーは,問う。この問いの連鎖の中で,ふと思い出すが,清水博が,

創造の始まりは自分が解くべき問題を自分が発見することであって,何かの答えを発見することではない,

と書いていた。そのフーコーの問い。。。

意志という語を,どのような意味で理解すべきであろうか。この意志という語の意味と,認識への欲望ないし知への欲望といった表現のなかで使用されている欲望という語の意味とのあいだに,いかなる差異をみいだせばいいのか。「知への意志」という,ここで他と切り離して考えられている表現と,「認識への欲望」という,より馴染み深い表現とのあいだに,いかなる関係を打ち立てればよいのか。

と。そして,この例題として,アリストテレスの『形而上学』の冒頭が引かれる。こうある。

すべての人間は,その自然本性によって,認識への欲望を持っている。諸感覚によって引き起こされる快楽がそのことの証拠である。実際,諸感覚は,その有用性を抜きにしても,それら地震によつて我々に好まれるものである。そして,あらゆる感覚のなかでも最も我々に好まれるのが,視覚である。

フーコーは,ここの三つのテーゼを読み取る。

①知にかかわる欲望が存在する
②この欲望は普遍的であり,あらゆる人間のうちに見いだされる
③この欲望は自然によって与えられている

そして,アリストテレスの論証を推測しつつ,また問う。

第一の問い。感覚および感覚に固有の快楽は,いかなる点において,認識への自然的欲望のしかるべき例であるのか。

第二の問い。もし,あらゆる感覚が,それぞれの感覚が行う認識活動に応じてなにがしかの快楽を与えるのであるとするなら,動物たちはなぜ,感覚を持つにもかかわらず認識することを欲望しないのか。アリストテレスが,認識への欲望を,すべての人間に備わるもの,ただし人間のみに備わるものとみなしているように思われるのは,いったいなぜだろうか。

そして,フーコーは,こう答える。

アリストテレスは,一方では,認識への欲望を自然のうちに組み入れ,その欲望を感覚と身体に結びつけて,ある種の形態の喜びをその欲望の相関物とすることに成功する。しかし他方,それと同時に彼は,認識への欲望に対し,人間の類的自然本性のなかで,つまり,知恵の境域,自己のみを目的としており,そこでは快楽が幸福であるような一つの認識の境域のなかで,その地位と基礎を与えるのである。
そしてその結果,身体,欲望が省略される。感覚すれすれのところで諸原因の大いなる平静かつ非身体的な認識へと向かう運動,この運動は,すでにそれ自身,知恵に到達しようとする漠とした意志である。この運動は,すでに哲学なのである。

そこから, こうまとめる。

アリストテレスのモデルが…含意しているのは,知への意志が好奇心以外のなにものでもないということ,認識が感覚のかたちで常にすでにしるしづけられているということ,認識と生とのあいだには根源的な関係があるということである。

ここまでの,わずか数行のアリストテレスの文章を掘り下げ,拡大し,敷衍化していく思考のダイナミズムは,とてもひとつひとつの背景と根拠をフォローしきれない。しかしその奥行きと問いの深さのもつ知の巨きさには,感嘆するほかはない。

このアリストテレスに対比して,フーコーは,ニーチェを取り上げる。

ニーチェのモデルが主張しているのは,逆に,知への意志が認識とは全く別のものに送り返されるということ,知への意志の背後にあるのは感覚のような一種まえもっての認識ではなく,本能,闘い,力への意志であるということだ。

さらに,

ニーチェのモデルは,知への意志が,もともと真理と結びついていたというわけではないことも主張している。知への意志は,錯覚を作り上げ,虚偽をこしらえ,誤謬を繰り返し,真理がそれ自身一つの効果でしかないような虚構の空間において自らを繰り広げるものなのだ,と。

さらに,

ニーチェにとって,知への意志はすでにそこにある認識の前提条件を想定するものではない。真理は前もって与えられるものではなく,一つの出来事として産出されるものであること。

ニーチェは,こう言い切っている。

認識それ自体などない,と言うこと,それは,主体と客体の関係が(そして,アプリオリ,客観性,純粋認識,構成的主体といったその他派生物のすべてが),実は認識の基礎として役立つものではなく,逆に認識によって産出されたものである,

そして,ニーチェは,

コギトのような認識の核心のようなものを拒絶し,

主体と客体との関係は,認識を構成するものではない。それどころか認識によってもたらされる第一の主要な錯覚,

と言い切る。むしろ,

主体と客体との関係から解放された認識,それが知なのである。さらに,哲学的伝統で,

意志と真理との関係の核心に見出されるもの,それは自由である,

というものを,ニーチェは根底から,覆す。

真理と意志との連接は,自由ではなく,暴力

である,と。で,フーコーは問う。

真理が認識以後のものであり,認識から出発しつつ暴力として不意に出現するものであることが本当であるとすれば,真理は認識に対して加えられた暴力であることになる。真理は,真なる認識ではない。真理は,変形され,捻じ曲げられ,支配された認識である。真理は,偽なる認識なのだ。真なる認識との関係において,真理は,誤謬のシステムなのである。

そこを,さらに,フーコーは詰める。

更に一歩先へと進めねばならない。もし真理が,認識することの錯覚を破壊するものであるとすれば,そして,もしその破壊が,認識に逆行して,認識そのものの破壊としてなされるとすれば,そのとき,真理は虚偽であることになる。…真理は,認識することへの報いとして言表されるまさにそのとき,真理を語ってはいない,

と。そして,こうフーコーはまとめる。

このようにして明るみに出された力への意志とはいったい何か。それは,存在(不動で永遠の真なる存在)から解放された一つの現実,すなわち生成である。そしてその生成を暴露する認識は,存在を暴露するのではなく,真理なき真理を暴露するのである。
したがって,二つの「真理なき真理」があるということだ。
―誤謬,虚偽,錯覚としての真理,すなわち,真ならざる真理。
―そうした虚偽としての真理から解放された真理。すなわち,真理を語る真理,存在と相互性を持ちえない真理。

真理の絶対性から解放されたとき,真理は相対化され,その地平の延長戦上に,社会構成主義がある,と見なせば,ここまでの論考に,一つの光明が見える。認識は,生成され,真理もまた生成される。飛躍かもしれない…が。

ところで,付録の「オイディプスの知」は,知の問題を分析した,象徴的な論考で,読み応えがある。その最後に,フーコーは,こう締めくくっている。

我々は,知を,意識=良心という観点から思考しているのだ。それゆえに,我々はオイディプスとその寓話をネガティブなものとしてしまったのである。無知と有罪性という言い方がされるにせよ,無意識と欲望という言い方がされるにせよ,いずれにしても我々は,オイディプスを知の欠如の側に置いており,知に結びついた権力を持つ人物をそこに認めようとはしない。神託と都市の証言が,それらの種別的な手続きおよびそれらによって産出される知の形態に従って,過剰と侵犯の人として追い立てる人物。そうした人物を,我々は底に認めようとはしないのだ。

そこにも,知があるとは,ニーチェの結論から必然的につながっていくように思われる。そして,それは。,権力とつながってもいる,と。

参考文献;
ミシェル・フーコー『〈知への意志〉講義』(筑摩書房)
清水博『生命知としての場の論理』(中公新書)




今日のアイデア;
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2014年07月03日

虚点


レペッカ・ブラウン『体の贈り物』を読む。

これは僕の意志ではなく,「ナラティヴ・アプローチ入門』の第三回目用の事前課題として出されたもの(肝心のセミナーには不参加にしだのだが)。まず,僕の手にすることのない類の本,というか小説だ。僕の関心領域の外にあるので,視野に入ることはない。いわゆるベストセラーではないらしいのだが。

推測するに,第三回は,「パラレルチャート」がテーマなので,それに絡めると,ここから,「私」及び登場人物の人生の物語を理解し,描き出そうということなのではないか,と思うが,ま,そこは,セミナーに参加しないのでわからない。

「私」は,USCという組織から,PWA(エイズウイルス感染者の)ホームヘルスケア・エイドとして,ホスピスへ入居す(でき)る前の患者の自宅に,このサービスは,医療行為は行えないらしいので,その他のハウスキーピングも含めた患者のサポートをするために,戸別訪問を行っている。どうやら,USCの創設間近い頃から活動に参加しているらしい。

全体のタイトルもそうだが,各章も,

The gift of ~

で始まり,

汗の贈り物
充足の贈り物
涙の贈り物
(略)
希望の贈り物
悼みの贈り物

と続く。面白いことに,「私」については,ほとんど語られない。患者とのやり取り,患者とのサービス,組織とのやりとりだけが,淡々と語られる。例外は,

今度の人は見た目に一番不気味だった。本当に病そのものに見えた。マーガレットからは,特別に必要なのは体に軟膏を塗ってあげることだけだと言われていた。軟膏はどろっとして不透明で,黄色っぽいゼリー状だった。大きなプラスチックの広口壜に入っている。何の匂いもしなかった。はじめて行って,壜のふたを開けたとき,誰か他人の指が軟膏をすくい取った跡が残っていた。なぜかそれ見てあんなに怯えたのか,自分でもわかない。でもとにかく私は怯えた。私はその人に触るのが怖かった。その人を見るのも怖かった。
腫れ物はどれも黒っぽい紫色で,二十五セント貨くらいの大きさだった。縁は黄色く,その人の肌は黒っぽ茶色だった。腫れ物から液や膿は出ていたりはせず,かさぶたもできてはいなかった。年じゅう軟膏を塗っていたからだ。

というところに(はじめて)感情が出ているくらいに思う。この章が,「姿の贈り物」だ。因みに,マーガレットとは,組織のマネジャーの一人だ。他は,患者を,抱き起したり,食べさせたり,風呂に疲らせたりのサポートを淡々とこなす。

たとえば,上記の軟膏を塗ってあげた患者に,ジュースを飲ませるところがある。

私はスプーンでジュースをすくった。すごく少量だ。澄んだピンク色のジュースの,ほんの一口。スプーンを口の方へ動かしていきながら,片手を彼の手首近くに当てたまま私は言った。「これからこのジュースを口元に持っていきますよ。もう唇のすぐそばにあります。オーケー。さあどうぞ」
かちん,とスプーンの底が下側の歯に当たるのが聞こえた。私は彼の口のなかでスプーンを傾けた。彼は唇を閉じ,飲み込んだ。
「ようし」と私は言った。「いい感じですね。もっと飲みます?」
彼はまばたきした。
「オーケー」と私は言った。もう一杯スプーンにジュースを入れて,口に持っていった。「さ,またジュース,来ましたよ」。彼の唇が,吸いこもうとするかのように動いた。私はスプーンを口に入れて,裏返した。彼は飲み込んだ。
「いいですねえ」と私は言った。「すごくいいですよ」
彼はまばたきした。
結局スプーン六杯分,ジュースを飲ませた。でも,六杯目で,喉がゴロゴロと音を立て,ジュースが一部飛び出してしまった。彼は口を大きく,怯えたようにO字型に開け,クーンと甲高い声を上げた。息が詰まってしまうのでは,と私は慌てた。

という調子である。「私」の感情を表現することはほとんどない。ここにあるのは,自分の感情を押し隠して,淡々と仕事をしかし,丁寧にこなす姿だけがある。いわば,淡々と,

前捌きする援助職のベテラン,

という感じである。

そういうとき,ある意味「私」は,虚点(という言葉があるかどうか知らないが)というか,ここに「虚」として,しかい(存在し)ない,ように見える。だから,「私」の生活も,私の背景も,まったく語られない。性別も,本当はよくわからない。

患者と,すでに死んだ,「私」も世話をしたカーロスの話を,こんなふうに会話する。

マーティは大きく息を吸って,顔にある種の表情を浮かべた。自分が本当に答を知りたいのか,よくわからないまま訊ねるみたいな表情だった。
「死ぬのって,救いになりうると思う?」とマーティは訊ねた。
「思う」と私は答えた。
マーティは息を止めていた。それから,ふうっと吐き出した。口元が柔らかくなった。そして,切なそうに私を見た。マーティは私に知ってほしかったのだ。
「僕,手伝ったんだ」とマーティは言った。
「カーロスのいい友だちだったんだね」と私は言った。
「うん,そうだった」とマーティは言った。「僕は思いやりある行いをしたんだ。僕はあいつに死の贈り物をあげたんだ」

この章は,「死の贈り物」と題されている。

「私」は,病気に感染したマネジャーのマーガレットの送別のミーティングに参加して,マーガレットと,古くから参加しているという話題の後,マーガレットに問われる。

「あなたこれ,永久につづける気じゃないでしょ?」と言った。
「実は,辞めようかと思ってるんだよね」と私は口にした。口にしたのも,そもそもはっきり意識して考えたのも,そのときがはじめてだった。
「それがいいね」とマーガレットは,私が言い訳を並べる暇もなく言った。わたしのことをよくわかっていてくれているのだ。「何かほかのことをするのもいいよね。またやりたくなったら,いつでも戻ってきてペレニアルになればいいし」
ペレニアルとは,UCSでしばらく働いて,それから何か別のことをやり,またしばらく戻ってきて,それからまた何か別のことを,と出入りを繰り返す人のことだ。

「私」が虚点というのをよく表しているのは,マーガレットと会話していて,背後で,夫のディヴィッドが話しているのが聞こえるところだ

次の次の夏に,上の子が小学校を卒業したら彼とマーガレットとで子供たちをディズニーランドに連れて行くんだと言っていた。「次の次の夏」と言ったのを聞いて,私の目がきっとディヴィットの方を向いた。ほんの一瞬だったけれど,マーガレットは見逃さなかった。あとどれぐらい生きられるのだろう,と私が考えているのを彼女は見てとった。
私はマーガレットに謝りたかった。でも何も言えなかった。
マーガレットはまだ私を見るのをやめていなかった。「あなたにやってもらえることがあるわよ」と彼女は言った。
彼女は私の頬に片手を当てた。二たりでリックを車に乗せたあのとき,彼女に触れた手触りを私は思い出した。彼女の手が私の肌にくっつくのを感じた。彼女は言った―「もう一度希望を持ってちょうだい」

この最終章は,「希望の贈り物」と題されている。

「私」は周囲をひたすら反照する。「私」側から,働きかけるのは,患者のサポート,ハウスキーピングについてだけだ。「私」自身については,まったく語られない。

ただ一か所,ミーティングへ出る前,

五時ごろだった。私は家に帰って,猫に餌をやり,しばらく一緒に遊んでいた。ミーティングではピザが出るから,何も食べなかった。しばらくして,気を取り直し,無理して湖畔へ散歩に出た。しばらく歩きまわった。

ここでだけ,私生活が語られる。

「私」が虚点になっている分だけ,絶望的な患者の状況が,感情抜きで無表情に映し出される。その分,状況の絶望が伝わる,しかし,各章では,必ず,ギフトを見つけ出す。まるで,エレナ・ポーター『少女ポリアンナ』の,

どれだけ苦しい状況でも、牧師である父親の遺言の「よかった探し」をする,

ポリアンナ(パレアナ)のように。それも,「私」が虚点で,ただ患者を淡々と映し出しているだけであることによって,際立ち,フォーカシングされることになる。

そして,思うに,この虚点という位置こそが,この種の

サービス

の,あるいは,

サポート

そのものの,あるいは,

それを担う人の,

ポジショニングそのものの象徴なのではないか,という気がする。そう気づいて,思い出したことがある。

旅先でのったタクシーの女性ドライバーが,それまで長年勤めていた介護施設で,あるとき,ふいに糞尿の匂いに耐えられなくなり,辞めた,と。

淡々と,虚点でサポートしていたのに,嫌悪というか,マイナス感情が起こった途端,虚点には立てなくなった,と言うふうに考えられる。前捌きだけでは対応できなくなった,というか破綻をきたしたのだ。

その分岐点が,腫物への不気味さ

である。感情が,虚点を踏み出してしまった,のかもしれない。

参考文献;
レべッカ・ブラウン『体の贈り物』(新潮文庫)
エレナ・ポーター『新訳 少女ポリアンナ 』(角川文庫)



今日のアイデア;
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2014年07月04日

ナラティヴ


アリス・モーガン『ナラティヴ・セラピーって何?』を再読。

「ナラティヴ・アプローチ入門」を受講するのを契機に,かなり前に読んだ,本書を再度読み直してみた。

基本中の基本の再確認だが,結構大事なことを忘れていた気がする。その基本を,おさらいしておきたい。

著者は,イントロダクションで,

ナラティヴ・セラピーは,カウンセリングとコミュニティー・ワークにおいて,相手に敬意を払いつつ非難することのないアプローチとなることを自らに課しています。人々をその人の人生における専門家として位置づけるわけです。問題は人々から離れたものとして捉えられ,人々は本人の人生における問題の影響を減らすのに役立つようなスキル,遂行能力,信念,価値感,取り組み,一般的能力を豊富に備えていると考えられています。
多用な原理がナラティヴな仕事の仕方を支えていますが,私の意見としては,次の二つが特に重要です。ひとつは,絶えず好奇心をもっていること,もうひとつは,あなたが本当に答を知らない質問をすることです。

このことを,この本を読むときに念頭に置いておいてほしい,と勧めている。

さらに著者は,ナラティヴ・セラピーにおいて,

私はも相談者に合うとき,会話の方向性に対する可能性をまるで旅路のように考えることがあります。選択可能な分かれ道や交差点,小道,行路が数多くあるのです。一歩踏み出す度に,前後左右,斜めにと,いろいろな種類の新しい別の分かれ道や交差点が現れます。相談者と共に見出すたびに,私たちは可能性を広げていくのです。どこへ行くか,そして途中で何を捨てていくのかは,私たちに選ぶことができます。いつも違った道に行くことができます。

と。そして,

ナラティヴ・セラピストが相談者にたずねるひとつひとつの質問は,旅路の中の一歩なのです。

と。いわば,共同作業なのである。しかしそのために,

セラピストは,相談者の興味が何か,そして,旅がいかに相談者の好みと一致しているか理解したいと考えます。

例えば,こんな質問をしながら。

この会話は,あなたにとってどんな感じがしますか?
このことについて続けて話をしましょうか?それとも……について話した方がいいですか?
あなたはこのことに興味を感じますか?このことは,時間を割いて話した方がいいでしょうか?

等々。

ナラティヴ・セラピーは,「再著述」の会話または「リ・ストーリング」の会話,

である。ストーリーとは,

出来事が
(過去・現在・未来の)時間軸上で,
連続してつなげられて
プロット(筋)になったもの

である。実は,人は,いくつものエピソードをもっているのに,ひとつの意味でつなげた自分の物語をもっていて,その意味から外れた多くのエピソードは,筋からはずされている。本当は,

すべてのストーリーは同時に存在し得,なにか出来事が起こると,そのときにドミナントである意味(プロット)によって解釈される。

その限りで,

出来事に対して…与えている意味は,自分自身の人生に対する影響力において中立的ではない…,

のである。しかも,

自分の人生を理解する仕方は,自分たちが生きている文化というより広範なストーリーによって影響を受けている。

それには,

ジェンダー,階級,人種,文化,そして性的指向性,

等々がストーリーのプロットを大きく左右する。そのことに,必ずしも自覚的,意識的とは限らない。

では,見つけるべきドミナント・ストーリーに代わるオルタナティヴ・ストーリーは,

代わりのストーリーであれば何でもよいわけではなく,相談者自身によって同定され,相談者自身が生きたいと考える人生に沿ったストーリーでなければなりません。

しかし,

問題をはらんだストーリーの影響から自由になるためには,オルタナティヴ・ストーリーを再著述するだけでは十分ではありません。ナラティヴ・セラピストは,オルタナティヴ・ストーリーが「豊かに記述」される方法を探る…

ことが必要になる。そのために,問題を外在化し(例えば擬人化し),名付け,問題の歴史をたどり,その影響を明らかにすることを通して,

問題に対しいかに対処し,処理したかについての気づきの可能性を広げ,それによって引き出された一般能力と遂行能力に光を当てることになる…,

と同時に,それを通して,

問題と問題のストーリーを支持している幅広い文化の信念やアイデア,それに実践を発見し,認識し,「分解すること」(脱構築)

をしようとする。たとえば,

このストーリーのつじつまを合わせるためには,どのような前提がその背後にあるのだろうか?
このストーリーは,まだ名前も付けていないどんな前提を背景にして成り立っているのだろうか?
問題の生命を支えている,当たりまえと思われている生き方や在り方は,何だろうか?

等々の質問をしながら,

当たり前とされている

ことを分解し,検討する。さらに,

それらの考えは,どのようにして発展してきたのでしょう?
あなたは,これらの考えに納得できますか?
性的・親密な関係における人々の役割について,あなたの信念をいくつか聞かせてくれませんか?

等々。こうした会話を通して,

ドミナント・ストーリーの「荷解き」を助け,異なる視点からそれらを捉えるように援助します。

脱構築の会話で重要なことは,セラピストが「当人の考えを変えよう」としてセラピストのアイデアや思想を押し付けないことです。……セラピストは,答えがわからないがゆえに質問をしているわけですから,好奇心を持ちつづけることになります。

問題を支えている価値観や考え方について,

それが役に立つものか否か,

を明らかにしていく。

役に立たないものだと判断されて初めて,

問題の影響を受けていない期間やユニークな結果(ソリューション・フォーカスト・アプローチで言う例外)

が,クライエントにとっても意味が出てくる。しかし,重要なのは,

ユニークな結果を探るのを急がないことです。人がセラピストに相談に来た以上,問題のストーリーは大きな影響力を持っていて,その人の人生に多大な影響を与えてきたと考えるのが妥当です。セラピストがこれらの影響を探求し,その中で,影響を認識すること…

なのである。だからこそ,

ユニークな結果は,オルタナティヴ・ストーリーの窓口

なのであり,それだけに,

ユニークな結果(ドミナント・ストーリーないし問題の外に位置する出来事)は,セラピストが気をつけて耳を傾けない限り,気づかれないことがしばしばです。人々はこれらの出来事はさして重要ではないと見なす傾向があり,そのことについて早口で話したり,さらっと流してしまうことが多いものです。

ただし,

相談者が注目に値すると認めない限りドミナント・ストーリーにはなり得ない,

ということを忘れてはならない。だからこそ(ここがソリューション・フォーカスト・アプローチとは決定的に異なることだが),

セラピストは,出来事が特別でユニークなものか当人に確かめてもらう必要があります。相談者がそのできごとをいつもとは異なる重要なことだと捉え,ドミナント・ストーリーと矛盾していると考えた場合にのみ,ユニークな結果とみなされる。

そのためにも,

(ドミナント・ストーリーから外れた)……は,あなたにとってどんな意味がありますか?
あなたは,問題が悪化していくのをどうやって止めたんですか?
問題がそれほど支配的ではなく,いばっていないときはありましたか?
問題があなたを止めたり邪魔しようと試みたのに,問題の思い通りにはならなかったときのことを思い出せますか?何が起きたのですか?
あなたが問題に抵抗して,思い通りにやり通したときのことについて話してくれませんか?

といった質問が不可欠になる。

このユニークな結果が後づけられ,地固めされればされるほど,そして新しいストーリーと結びつけられ,意味が与えられるほど,新しいプロットが生み出され,オルタナティヴ・ストーリーがより豊かに記述され…

ていくことになる。

参考文献;
アリス・モーガン『ナラティヴ・セラピーって何?』(金剛出版)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2014年07月05日

経済視点


武田知弘『「桶狭間」は経済戦争だった』を読む。

信長の政策を経済面に焦点を当てている。その面で,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/400155705.html

の,戦国大名の鉢植化の背景を理解するのには好都合ではある。表題は,桶狭間となっているが,それだけを掘り下げたわけではなく,ただの入口,後は,武田,上杉,毛利などの戦国大名との対比。少し突っ込み不足は,新書の限界として諦めるとして,

桶狭間の戦いが知多半島をめぐる戦い,

という仮説は,面白い着眼には違いなすが,まだ論証が足りない気がする。

知多半島とその周辺地域というのは,実は商工業において重要な地域だった…,

とする根拠が,

知多半島の窯業,

つまり常滑焼の生産地だった。常滑焼というのは,当時の全国的な陶器ブランド,

というのは,どの程度確かなことなのか。日用雑器としての土器にブランドがあったのかどうか,その他の窯業地との比較,他地域の例示等々がないまま,

知多半島の窯業は,12世紀ごろからさかんになったとされ,本州,九州,四国の多くの中世の古墳群から土器が発見されている。(中略)中世の遺跡から知多半島の土器が発見されていないのは,本州,九州,四国の中ではわずか二,三県である。つまり,中世から知多半島の土器は日本全国に流通していたのである。知多半島は,中世から日本最大の土器生産地域であり,もっといえば中世ではにほん有数の工業地帯だったわけだ。

と言われても,にわかには信じられない。いや,経済視点を除いて,地政学的にこの地域に意味があったのではないか,という他の視点の検討抜きでは,どうもいまひとつ説得力が欠ける。

ところで,信長が,津島を抑え,経済力を持っていたことは,通説である。謙信が直江津,柏崎の関税収入だけで,

年間四万貫,

だいたい三十万石の収入に匹敵する,ということから,その二つの港よりはるかに栄えていた津島からは,

三十万石

以上の収入があり,遠江,駿河,三河,終りの一部を支配する,百万石の今川義元と,尾張一国約六十万石と,津島の収入を合わせると,ほぼそれに匹敵し,動員兵力は,

ほぼ互角

だったのではないか,という話は,説得力がある。その証拠に,最近発掘されつつある清州城は,

南北2.7キロ,東西1.4キロもの惣構えをもつ巨大な城下町だった。あの大阪城にも匹敵するものだった,

という。そう考えると,織田対今川の軍勢,

二千対二万四千

というが,実勢は,織田方は一万近く,しかも,義元本陣は,四,五千,別に奇襲しなくても,十分勝てる計算になる,という理屈である。

さて,その信長の経済政策の画期を,整理しているところが分かりやすい。

一つは税制,

本年貢以外の過分な税を徴収してはいけない,

関所の税を課してはならない,

という信長の指示が残されている。それも,収穫高の三分の一と,江戸時代に比しても低い。それに対して,武田は,土地の貧しい甲斐のせいもあるが,度重なる重税,棟別税,後家役まで課したのと好対照である。

第二は,貨幣納税の貫高制から,米での納税の石高制に変えたこと,

これも換金のための農民の負担を減らしている。

第三は,金銀を貨幣として設定したこと。ここでは,

金と銀,銅銭の交換価値が明確に定めてあり,史上初めての試み。

という。

第四は,検地。それも,かなり細かな歩の単位まで,実測していたと言われる。このことが,大名を鉢植化することになるのだが。

第五は,楽市楽座。多く寺社が座の後ろ盾になり,冥加金をとるという既得権益になっていた。それは一種の価格破壊につながる,と著者は言う。

安土に楽市楽座をつくれば,畿内にある「座」は大きな影響を受ける。安土に売り上げを奪われないために,価格競争をせざるを得なくなる。

結果として,京都の座は消滅していく。

第六は,枡や単位の統一。このことは,関所の撤廃と同時に,物流の革命をもたらす。

第七は,インフラ整備。関所の撤廃と同時に,道路をつくる。『信長公記』には,

入り江や川には,船橋を造り,石を取り除いて悪路をならす
道幅は三間半(6m)とし,街路樹として両側に松と柳を植える

等々を指示したとある。

傑作は,安土城を一般公開したことだ。これは,以前も以後もあり得ない。しかも,大勢が押し寄せたため,百文を徴収したという。

こうした信長の視界に,全国があったことが分かると同時に,自分を遥か高みにおいて,戦国武将どころか,天皇も,自分の眼下においていたように思えてならない。

最後に苦言をひとつ,

足利義昭を,「義輝」と誤植するのは,まあ勘違いとして許されるとしても,その後,今度は,武田義信が出てきて以降,再三,義昭を「義信」と誤植するのは,いくらなんでもいかがかと思う。誤植の多寡は,出版社の格をしめす,とはよく言うが,そういうものだと思う。昔,先輩が,一冊の単行本を上梓して,

ひとつ誤植があった,

とひどく悔やんでいたのを思い出す。それは,編集者の矜持でもある。


参考文献;
武田知弘『「桶狭間」は経済戦争だった』(青春出版社)




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2014年07月06日

発心


発心とは,

菩提心を起こすこと,

とある。そこから,あることをしようと,思い立つこと,

発意

とある。

発心などと殊勝な気を起こしたこともないし,何かそんな大げさな決意をした覚えもない。確かに,何かを心願することはあるが,さほどの重みがない。

生来の怠け者だから,なかなか,思い立って,などという健気で殊勝な心根の持ち合わせがないせいかもしれない。

なりゆきの中に,流されていることが多い。

たまたま,

行掛り,

成り行き,

でそういう羽目に陥ることが多い。だから,道草のつもりが,そこが本道になってしまう。だからといって,そのことを恨む気はない。そこで状況を引き受け切れれば,おのが器量,それを受けきれず敗北の憂き目にあっても,やはりおのが器量のなせるわざに過ぎない。

状況を創り出すというより,状況に巻き込まれて,

否応なく,それを乗り切ることを迫られる,ということが多い。そんなわけだから,時代にさからう羽目になることも多々ある。

そのせいか,大体が,大袈裟な物言いをしたがらない。自己防衛というか,あらかじめ,言い訳を立てておくというところがないわけではないが,それ以上に,そういうことを為遂げる人間とは,自分をあまり信じていなかったし,信じていないせいに違いない。

為遂げるもなにも,それを為遂げても,一文の得どころか,それをクリアしなくては生き切れない,そんなシチュエーションだから,当たり前と言えば当たり前だ。

種田山頭火の

春が来た水音の行けるところまで

という感じ,いや,というより,

分け入つても分け入つても青い山

というほうが近い,という感じなのである。たぶん,

志す

ものがあるから,

思い立つ

のではないか。たまたま巻き込まれたのでは,志すも,発心も,あったものではない。

発心

という以上,何かそこに,スタートラインのような,明確に区切りがあるに違いない。振り返れば,あそこだった,あの時だった,というような。

しかし,少なくとも,僕の場合,

気づくと始めざるを得ない,

というのに近い。周りが迫るのである。しかし別の見方をするなら,

選んで,そういう場に立っている,

ということが言えなくもない。なぜなら,拒んでもいいし,逃げても,避けてもいいのに,そうしないで,

受けている,

からだ。場が,状況が,迫るものを,かっこよく言えば,

引き受ける,

あるいは引き受けざるを得ないと思い込む,のが正しい。避けるのは,できない,と自分に思い込ませている。あるいは,言い聞かせている,のかもしれない。

で,それに立ち向かうことになる。

いつもいつもではないが,そういう矢面に立つことを,選んでいる。言い方を変えれば,発心はしていなくても,そのシチュエーションになったら,

引き受ける,

ということを,知らぬ間に決めている,というのかもしれない。しかし,たまには,

自分でシチュエーションを創り出す,

ということをしてみたい…,が,まあ,おのが性分には似合わないけれど。




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2014年07月07日

ことば


ことばというのは,『大言海』には,

口にあらわるる意なるべし。ことのは,とも,口のは,ともいう

とある。しかし,語源的には,三説あるらしい。

①コト(言)+ハ(葉)で,言の葉が語源とする,紀貫之の『古今集』の序で述べている説
②コト(言・事未分化)+葉(茂らせる)が語源。事柄を口に出し茂らせる意
③コト(言・事)+ハ(端)が語源で,事柄の一端を口に出すのが言葉,という説

しかし,「ことば」を,漢和辞典でひくと,





辭(辞)

と出る。ことばを,いろいろな漢字に当てたらしいのである。そのつど,どの字に当てるかで,そこに見えて(見ようとして)いた世界が違うはずである。

確かに,中国語では,それぞれ意味に差がある。

舌は,口に在り,言う所以,とあるので,それとの関連だろう。弁舌,饒舌,舌戦など。

言は,辛(切れ目をつける刃物)+口で,口をふさいでもぐもぐいうことを,音・諳といい,はっきりかどめをつけて発音することを言と言う。彦(げん)は,かどめのついた顔,岸(がん)はかどだったきし,で同系。

語は,交差して話し合うこと,

詞は,言+司(つなぐ)で,次々とつないで一連の文句を作る小さい単位,単語や単語のつながりを言う。嗣(後を継ぐ小さい子)と同系。

辭(辞)は,乱れた糸をさばくさま+辛(罪人に入れ墨をする刃物)の意で,法廷で罪を論じて,乱れを捌く言葉を指す。詞と同系。

合わせて「言う」との使い分けで言うと,

言う・謂うは,ほぼ同じで,言うは,口に思うところを口に述べる。謂う,人に対して言う,あるいはその人を評する時も,これを使う。

曰う・云うは,ほぼ同じ。ただ,云うは,意が軽く,曰うは,意が重い。

とある。

言葉は,それを使うことで見える世界が違う,あるいはそれによって(相手に)見させようとする世界があるのだとしたら,

こと(言)

ですんでいたものに,あえて,

ことば(言葉)

と,「は」をつけるには意味があったのではないか,という気がしてならない。



が端緒とするならそこに謙譲というか,謙遜が込められている,というのが正しいかもしれない。

かつては,言霊というほど,事と言とは一体化していた。言は事を引きずっていた。いわゆる言霊とは,一般的に言われるように,

人から出た言葉が現実に何らかの影響を及ぼす,

ということだけではないようである。そこにあるのは,畏れである。

神意

があって,初めて

言葉がその霊力を発揮する,

神意の込められた言が,霊力を持つのである。有象無象の言ではない。そこにあるのは,神への畏れである。そういう類の「言」であったとすると,それとは別の言は,

端くれ

である。そういう意味ではないか。

特に,事とのつながりの強い象形文字の漢字ではなく,かな,を指していると想像するのは,無理筋ではないだろう。

しかし紀貫之が,『古今集』の仮名序で,

やまとうたは,人の心を種として,万の言の葉とぞなれりける 世の中にある人,ことわざ繁きものなれば,心に思ふ事を,見るもの聞くものにつけて,言ひ出せるなり 花に鳴く鶯,水に住む蛙の声を聞けば,生きとし生きるもの,いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし,目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ,男女のなかをもやはらげ,猛き武士の心をも慰むるは,歌なり

と書くとき,そこには,ひそかな矜持がある。神の霊力からも「事」からも解放された,

(ひら)かな

という文字の,たかが,

端くれ

の言の葉への自信である。

それは,やまとことばが,自分を表現できる文字を持ったことへの高らかな宣言にも見える。

もっとも,この序は,『詩経』の大序の,

天地を動かし,鬼神を感ぜしむるは,詩より近きは莫し,

からのパクリらしいのだが,まさに,そこにこそ,やまとことばが獲得した表現世界がある,というべきである。

言(=事)

からの離脱であり,

借り物の万葉仮名

からの自立でもある。

それは,漢字のもつ,象形文字ならではの,重い意味と事のくびきからの自由でもある。そこではじめて,やまとことばの表現の世界が,広がったのである。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)



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2014年07月08日


品位とか品格とか品性という使われ方をする,

品について,調べていると,

音自体で,

ヒン(漢)
ホン(呉) 
しな[訓]

と分かれ,たぶん伝来(当然時代も違うが)によって,由来が異なるらしい。当然意味が少しずつ違う。

語源では,中国語源では,

器物を並べる

で,品物の意味とある。

当然,品にちなんで,

物や人の質によって分けた等級
等級をつける

ということが派生する。「ほん」と呼ぶのは,仏典かららしく,等級以外に,

仏典の中の編や章

という意味がある。

品位,品格,気品,下品,上品,人品

というのは,言ってみれば,人を品物に見立てて,その等級づけをしている,というに近い。品評である。

しかし,それは誰が評価するのか。身分社会なら,位階の高いのが,上品,と一応は言えることになる。

下賤だの下卑だのというのは,下に見てそう言う。しかし,仏教でいう,

ほん

は,極楽往生する者の能力や性質などをに分ける語。上中下の等級に分け,さらにそれぞれを上中下に分ける,という。

九品

くほんである。しかし,それを,理不尽ではないかと思うのは誰もがそうで,

九品皆凡といい,一切衆生は本質的にみな迷える存在であると捉えた浄土宗の流れは,必然で,その果てに,親鸞の,

善人尚もて往生をとぐいわんや悪人をや

は,僕には,往生の位階を破壊したアナーキズムに見える。信心深いとか,篤いから救われる云々は,こちらの計らいなのであって,絶対他力の前には,意味をなさない。ただ,計らいを捨てて,

他力には義なきを義とす,

である。清澤満之が,

天命を安んじて人事尽くす,

と言った言葉がそれを示す。

人事を尽くして天命を待つ

で,どこかに驕りがある。我欲がある。しかし,

天命を安んじて人事尽くす,

には, 丸ごと受け入れている感じがある。

そう見れば,氏や育ちは,言い訳にしかすぎず,品は,

いまの生き方そのもの

を指す,というしかない気がする。それは,

いま,ここに,生かされてある

おのれを受け容れて,立っている,という気構えではないか,という気がする。

そこが,なかなか。




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2014年07月09日

嫉妬


嫉妬については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163434.html

で触れたことがある。

僕は,嫉妬というのは,

その立場に成り代われなかった,そこに自分がいたらよかったというそのポジションに自分がいない,どうあがいてもそこにいられないということに対する,

悔しさといっていい。

しかしそもそもそこには自分は立てないことは気づいている。気づいているから,なお悔しい。

自分は,その方向を向いていないのに,その方向にいたいと思う,その矛盾が嫉妬を生む。

羨むというのは,穏やかだが,それは,距離があるからだ。遠い向こうを見ているからだ。その距離が感情を生々しくしない。生臭くしない。

嫉妬は,その距離が微妙だ。その位置にいられそうな,一つ間違うとそこにいたかもしれない,そうなれたかもしれないのにそうなりそこなった,そんな間合いが,悔しさというか,身もだえするような生なまましい悔しさを感じさせる。

もう少し広げると,

そのときそこにはいられない,

という,切歯扼腕,の思いである。それは,歳とともに募る。たとえば,十年後,二十年後と考えたとき,それは切実に,切なさとして,感じる不在感である。自分が,

そのとき,

その場,

その時代,

その状況,

にはいない,いることができないと分かっているからなお募る,一種承服しがたい焦燥感に近い。

嫉妬について,専門的には,

嫉妬とは,自分にとって重要な人,ものが他者に奪われる不安,恐怖により引き起こされる感情。怒り,悲しみ,恐れ,苦痛の感情が含まれる。英語の jealousy は嫉妬と訳され、envy は妬みと訳される。

この二つはは心理学用語としては区別される。妬みは,他者が持っている属性や関係を自らも所有したいという欲求を指し,関係の喪失に対する恐れの感情がない点で嫉妬と異なる。

という,と心理学辞典にはある。

とすると,羨望か,いや。そうではない。

羨望は,嫉妬と違い,独占ではなく,称賛が交じる,とある。

専門家に,素人が逆らうのも何かと思うが,どうもそれは専門家の固定観念(機能的固着ともいう)ではないか,と思う。

二者関係にこだわり過ぎている。

嫉妬という感情(?)は,もう少し,自分のありように深く根ざしている気がしてならない。

自分が,そこにいられない,

その人との関係,そのものとの関係,そのときとの関係,その場との関係,

等々,必ずしも人とは限らない。

その時代に居合わせなかったこと,

そのときに居合わせられなかったこと,

への,(その場にいたいからこその)その場にいたら,という強い思いからの口惜しさだってある。

いま僕の中にあるのは,その思いだ。

その場にいたらどうかというと,たんなる目撃者になれない,というだけのことかもしれない。

ずいぶん昔,学生時代,その思いがあった。

その場にいたい,

という焦燥感で,そこへ駆けつけたことがあった。それは,同時代であり,そのとき,その場にいられる,という幸運のせいでもある。

そう,そういう僥倖は,同時代にいなければ,得難いのだ。

同時代に生きていられない,

という悔しさかもしれない。誤解してほしくないが,オリンピックなどではない。僕は,東京オリンピックは,二度目の幻(のオリンピック)に終わるのではないか,という強い危惧を懐いている。

参考文献;
中島義明他『心理学辞典』(有斐閣)等々。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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2014年07月10日

喩え


たとえば,熱い思いとか,思いの深さというときの,

熱いとか深いは,「思い」というものを熱せられた何か,あるいは深い淵になぞらえなければ,表現できない。しかし思いはカタチのあるモノではない。まあ,

喩え,
あるいは
比喩

なのだが,何気なく使うこれは,何なのだろう,とあらためて整理し直してみたくなった。比喩については,アナロジーを中心において考えると分かりやすい。

アナロジー(Analogy)は,analogueつまり,類似物から来ているはずだから,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/398240083.html

で触れたように,

当該の何かを理解するのに,それと似た(あるいはそれと関係ありそうな)別の何かを媒介にして,

~として見る

ことである。言ってみるとパターン認識である。昔から,

問う、如何なるか是れ、「近く思う」。曰く類を以って推(お)す

と言われているのと同じである。いわば,アナロジーというのは,自分の既知のものから,

異質な分野との対比を通して,

推測することといっていい。

W・J・J・ゴードンは,『シネクティクス』の中で,アナロジーの手法を,

・擬人的類比(personal analogy)
・直接的類比(direct analogy)
・象徴的類比(symbolic analogy)
・空想的類比(fantasy analogy)

の4つ挙げている。

直接的類比は,対象としているモノを見慣れた実例に置き換え,類似点を列挙していこうとするもの

であり,

擬人的類比は,対象としているテーマになりきることで,その機構や働きのアイデアを探るという,いわゆる擬人法

であり,

象徴的類比は,ゴードンの取り上げている例では,インドの魔術師の使う伸び縮みする綱のもつイメージを手掛かりに連想していこうとする

ものであり,

空想的類比は,潜在的な願望のままに,自由にアイデアをふくらませていこうとするもの

である。

いずれも,やろうとしていることは,比較する両者に,

共通点

を見つけようとすることに尽きる。どういう共通項を見つけるかが,鍵になるが,僕は,両者に,

関係性

類似性

をどう見つけるか,に尽きるのではないか,と仮説をたてている。。

前にも触れたことがあるが,それを鍵に分類していくとすると,

・類似性に基づくアナロジーを,「類比」
・関係性に基づくアナロジーを,「類推」

に整理できるのではないか。

前者は,内容の異質なモノやコトの中に形式的な相似(形・性質など),全体的な類似を見つけだす

のに対して,

後者は,両者の間の関係(因果・部分全体など)を見つけ出す。

詳細は,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view24.htm

に譲るとして,メタファーとの関係に踏み込めば,たとえば,類似性を手掛かりに,鳥をアナロジーとすることによって,コウモリを理解しようとするとき,われわれがよくするのは,モデルをつくることだ。あるいは写真や図解もその一種だ。そして,それを言葉で表現しようとすると,「夜飛ぶ鳥,こうもり」といった比喩を使うことになる。

いわば,アナロジーによる発想は,われわれが自分たちの思い描いているものを,

一種の~,
~を例に取れば,
~というように,

といった具体像で表そうとするときの方法であり,それは2つの方法で具体化することができる。

1つは,言語による表現である“比喩”(アナロジーのコトバ化)
もう1つは,モノ・コトによる表現である“モデル”(アナロジーのモノ・コト化)

である。

ただ,断っておけば,アナロジー→モデル・比喩という順序を固定的に考えているわけではない。

アナロジー思考があるから,比喩やモデルが可能なのではない。確かに,関係にアナロジーの認知がなくては,それを喩えたりモデルとしたりすることはできないが,逆にAをBに喩えるから,その間に類似性を認識できることがあるし,モデル化することで,より類推が深化することもある。逆に類比が的確でなければ,比喩やモデルが間の抜けたものになることもあるからである。

むしろ,3者は相互補完的であって,アナロジーの発見がモデル・比喩を研ぎ澄ましたものにするし,モデル・比喩の発見が新しい類比を形成することになる。

ただ,すくなくとも,比喩が使えるには,それに見立てたものとの間のアナロジーが認知できていなくてはならない。

モデルについて挙げれば,詳しくは省くが,

・スケール(比例尺)モデル
・アナログ(類推)モデル
・理論モデル

とあるが,比喩は,

ある対象を別の“何か”に喩えて表現することである。通常言葉の“あや”と言われる。その意味やイメージをそれによってずらしたり,広げたり,重層化させたりすることで,新しい“何か”を発見させることになる(あるいは新しい発見によってそう表現する)。

これもアナロジーの構造と同様で,比喩には,

直喩(simile),
隠喩(metaphor),
換喩(metonymy),
提喩(synocdoche)

といった種類があるが,類似性と関係性に対応させるなら,

直喩,隠喩が《類似性》の言語表現,
換喩,提喩が《関係性》の言語表現<

となる。

直喩

は,直接的に類似性を表現する。多くは,「~のように」「みたいな」「まるで」「あたかも」「~そっくり」「たとえば」「~似ている」「~と同じ」「~と違わない」「~そのもの」という言葉を伴う。

従って,両者は直接的に対比され,類似性を示される。それによって,比較されたAとBは疑似的にイコールとされる。ただし,全体としての類似と部分的な性格とか構造とか状態だけが重ね合わせられる場合もある。

とはいえ,「コウモリは鳥に似ている」「昆虫の羽根は鳥の翼に似ている」等々,既知の類似性を基に「AとBが似ている」と比較しただけでは直喩にならない。「課長は岩みたいだ」「あの頭はやかんのようだ」といった,異質性の中に「特異点」を発見し,新たな「類似」が見い出されていなくては,いい喩えとは言えない気がする。。

隠喩

も,あるものを別の“何か”の類似性で喩えて表現するものだが,直喩と異なり,媒介する「ようだ」といった指標をもたない(そこで,直喩の明喩に対して,隠喩を暗喩と呼ぶ)。

したがって,対比するAとBは,直喩のように,類比されるだけではなく,対立する二項は,別の全体の関係の中に包括される,と考えられる。AとBの類似性を並べるとき,

①AとBが重なる直喩と同じものもある(「雪のような肌」と「雪の肌」)
②「心臓」と「ポンプ」を比較するとき,両者を包括する枠組のなかにある
③一般的な隠喩であり,「獅子王」とか「狐のこころ」といったとき対比する一部の特徴を取り出して表現している。

この隠喩は,日本的には,「見立て」(あるいは(~として見なす)と言うことができる。こうすることで,ある意味を別の言葉で表現するという隠喩の構造は,単なる言語の意味表現の技術(レトリック)だけでなく,広くわれわれのモノを見る姿勢として,「ある現実を別の現実を通して見る見方」(ラマニシャイン)とみることができる。

それは,AとBという別々のものの中に対立を包含する別の視点(メタ・ポジション)をもつことと見なすことができる。これが,アナロジーをどう使うかのヒントにもなる。即ち,何か別のモノ・コトをもってくることは,問題としている対象を“新たな構成”から見る視点を手に入れることになる。

換喩と提喩

は,あるものを表現するのに,別のものをもってするという点では共通しているが,直喩,隠喩とは異なり,その表現が両者の“関係”を表している(“言葉による関係性"の表現)という共通した性格をもっている。

両者の表現する《関係性》は,

換喩が表現する《関係性》が,空間的な隣接性・近接性,共存性,時間的な前後関係,因果関係等の距離関係(文脈)

であり,

提喩が表現する《関係性》が,全体と部分,類と種の包含(クラス)関係(構造)

となっているが,この違いは,換喩で一括できるほどの微妙な違いでしかない。

換喩の表す関係は,「王冠」で「王様」,「丼」で丼もの,詰め襟で学生,白バイで交通警察,「黒」「白」で囲碁の対局者,ピカソでピカソの作品等々に代置して,相手との関係を表現することができる。そうした関係を挙げると,

・容器-中身 たとえば,銚子で酒,鍋で鍋物,丼で丼物
・材料-製品 アルコールで酒
・目的-手段 赤ヘルで広島カープ
・主体-付属物 王冠で王様
・作者-作品 ピカソでピカソの絵
・メーカー-製品 味の素でAJINOMOTO
・産地-産物 灘で清酒
・体の部分-感情 頭にくるで怒り

等々,がある。いわば,その特徴は,類縁や近接性によって,代理,代用,代置をする,それが表現として《関係》を表すことになる。

一方,提喩となると,その代置関係が,「青い目」で外人,白髪で老人,花で桜,大師で弘法大師,太閤で秀吉,といった代表性が強まる。この関係としては,

・部分と全体 手が足りないで人手
・種と類 太閤で秀吉,小町で美人
・集団-成員 セロテープでセロハンテープ

等々がある。ただ注意すべきは,全体・部分といったとき,

木→幹,枝,葉,根……
木→ポプラ,桜,柏,柳,松,杉……

では,前者は分解であり,後者はクラス(分類)を意味している。前者は換喩,後者が提喩になる。

この《関係性》表現が,われわれに意味があるのは,こうした部分や関連のある一部によって,全体を推測したり,関連のあるものとの間で《文脈》や《構造》を推測したりすることである。

対象となっているものとの類縁関係やその包含関係によって,その枠組を推定したり逆に構成部分を予測したりすることで,われわれは,隣接するものとの関係や欠けているものの輪郭や全体像の修復や補完をすることができるのである。これは,すでに推理にほかならない。

こうした比喩の構造をまとめてみれば,

  [類似性]   [関係性]  [推論]
 《直喩・隠喩》→《換喩・提喩》→《推理》

となるだろう。われわれは,“まとまり"としての類似性をきっかけに,似た問題を探すことができる。そして更にその中の《文脈》と《構造》の対比を通して,未知のものを既知の枠組の中で整理することができる。しかし,最も重要なことは,ひとつの見方にこだわるのを,比喩を通した発見によって,全く別の《文脈》と《構造》を見つけ出せるという,いわば見え方の転換にあるといっていいのである。

こう考えると,

アナロジー・モデル・比喩

は別のものではないこの三者の,補完関係は次のように整理できるだろう。

[類似性]→[関係性]→[論理性]

直喩・隠喩→換喩・提喩→推理 (比喩)
類比→類推→推論 (アナロジー)
スケールモデル →類推モデル →理論モデル(モデル)

「~として見る」がアナロジーであるなら,それを比喩的に言えば,

“意味的仮託"あるいは“意味の置き換え"であり,“価値的仮託"あるいは“価値の置き換え”

である。モデル的に言えば,

“イメージ的仮託"あるいは“イメージの置き換え”

であり,

“形態的(立体的)仮託"あるいは“形態の置き換え”

である。仮託あるいは置き換えること(仮にそれにことよせる,という意味では,代理や代置でもある)で,ある“ずれ”や飛躍"が生ずる。だから,それを通すことによって,別の見え方を発見しやすくなるということなのだ。なぜなら,われわれの意味的ネットワークの底には,無意識のネットワークがあり,意味や知識で分類された整理をはみ出した見え方を誘い出すには,このずれが大きいほどいいのだ。

として,冒頭の話に戻すと,

思いが深い,

というのは,いい喩えなのだろうか。そんなことは勝手なことで,深きかろうと浅かろうと,その思いをかけられる側にとっては,何の関係もない。思いの大きさを言うのだとしたら,いい喩えではない。惰性の表現であって,異質さを対比していないから。


参考文献;
W・J・J・ゴードン『シネクティクス』(ラティス社)
佐藤信夫『レトリックの消息』(白水社)



今日のアイデア;
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2014年07月11日

編集


落語については,何度か書いたことがある。たとえば,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/395330135.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163570.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163543.html

等々。

少し前,落語をきく機会があった。

演目は,「目薬」「祇園祭」「夢見の八兵衛」。

どこかで,同じ噺を聴いていても,枕と入り方でまったく様相が変わる。

落語は時間だとつくづく思った。というか,語りは,あるいは言葉は,時間なのだ。流れて,後へは戻れない。そこには,

シーケンシャルだという意味
と,
一瞬一瞬の中に生きている,

という意味と二つがある。

実は,その二つは,噺の帰趨を握るのではないか,と感じた。

なぜなら,噺は,噺家の演出というか,編集次第で,まったく違ってくるからだ。それで同じ噺でも流れ方が変わり,印象が変わる。さらに,ズームアップする部分次第で,その一瞬の効果が,まったく変わるのではないか。

噺家は演出家,という話は,前にも書いたが,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163336.html

それは,

同じ噺のどこをどうつなぐか,

という場面構成のつなぎ方,つまりは時間の流れのつなぎ方と,

同じ噺のどこをフォーカスするか,

というカメラワーク,つまりどうパンするか,どうズームアップするかという話の,あるいは場面の,あるいは人の,あるいはやり取りの,どこをピックアップして,強調するか,

に,演出家としての噺家の腕の見せ所なのではあるまいか。もちろん出演者は,ご自身である。

それは,図と地の問題でもある。どこかに焦点を当てれば,どこかが,霞む。
 
その抽出の仕方,つなぎ方は,例えが古いが,

映画フィルムの編集,

とほぼ同じなのだと思う。ということは,そのつなぎ方で,同じ噺も,大袈裟に言うと,人情話ではなく,別のものに変わるということだってある。怪談が単なる色恋話に変わったっておかしくないのだ,と思う。

要は,演出とは,

噺の解釈

である。そこに,噺家の腕がある。どう料理するかで,噺の焦点が動く。場合によっては,噺家は自分の得意の分野に持ち込もうとするだろう。

それも含めて演出であり,

編集である。

編集というのは,何度も触れて恐縮だが,映画のモンタージュ手法を例にとってみる(フィルムの例だが)。

「一秒間に二四コマ」の映画フィルムは,それ自体は静止している一コマ毎の画像に,人間や物体が分解されたものである。この一コマ一コマのフィルムの断片群には,クローズアップ(大写し),ロングショット(遠写),バスト(半身),フル(全身)等々,ショットもサイズも異にした画像が写されている。それぞれの画像は,一眼レフのネガフィルムと同様,部分的・非連続的である。ひとつひとつの画像は,その対象をどう分析しどうとらえようとしたかという,監督のものの見方を表している。それらを構成し直す(モンタージュ)のが映画の編集である。つなぎ変え,並べ換えることによって,画像が新しい見え方をもたらすことになる。

たとえば,

男女の会話の場面で,男の怒鳴っているカットにつなげて,女性のうなだれているカットを接続すると,一カットずつの意味とは別に男に怒鳴られている女性というシーンになる。しかし,この両者のつなぎ方を変え,仏壇のカットを間に入れると,怒鳴っている男は想い出のシーンに変わり,それを思い出しているのが女性というシーンに変わってしまう。あるいはアップした男の怒った表情に,しおたれた花のカットを挿入すれば,うなだれている女性をそう受け止めている男の心象というふうに変わる。その後に薄ら笑いを浮かべた女性のアップをつなげれば,男の思い込みとは食い違った現実を際立たせることになる……

みたいな感じである。

実は大事なのは,編集によって,ただ流れというか,噺のプロット(時間軸)が変わるだけではない。

つなぎ替えには,

短縮カット,

焦点の変更,

も含む。それは,地と図を入れ替えるということも含む。それは,極端に言えば,

主客の変更

も含むのではないか,と憶測をする。それが噺家が噺を演出する意味だと思うのだが,どんなものだろう。一度噺家の方に確かめてみたい。

参考文献;
瓜生忠夫『新版モンタージュ考』(時事通信社)



今日のアイデア;
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2014年07月12日

ご免


天下御免の向う傷,

と言ってピンとくる人は,ほぼ同年代といっていい。しかし,この場合の,

御免



ごめんなさいの

ご免

が同義とは到底信じがたい。語源的には,

御+免

で,

免ずる(免許,免職)の尊敬語

とある。「お許しを」の尊敬語となる。しかし,語義は,

①免許の尊敬語。お上のおゆるし。「天下御免」はそれ。
②免官・免職の尊敬語。お役御免。
③容赦・朱免の尊敬語。転じて,謝罪(ごめんなさい),訪問(ごめんください),辞去(ごめん蒙る)
④希望しないこと,嫌なこと。何々は御免だ。

と微妙に違う。

思うに,本来は,対手に対して,

許可

をもらうということであったはずが,その尊敬語としてのニュアンスが,立場の上下関係に転じて,というか,あるいは,へりくだって,

お許しをいただけますか

と言うニュアンスに転じたといっていい。

だから,本来は,

免じていただけますか,

という風韻,というか味わいだったような気がする。

それが,文脈によって,

お尋ねしたいのですが,お許しいただけますか

が玄関口や店先での,

ご免ください

であり,

ここで失礼したいのですが,お許しいただけますか,

が,辞去や退席の,

御免蒙ります(ごめんなすって)

となり,

それだけはご勘弁いただきたい,

が,

御免蒙る,

となった。もともとどんな言葉も,文脈依存だから,英語はよくわからないが,

God bless you!

もそういう転調の一種だろうが,日本語は,とくに文脈に依存して,

左様なる次第ですので,ここでお別れします,



さようなら,

になり,

ここで,

になり,

じゃあ,

になり,

では,

になる。そこにる人にのみに,「じゃあ」のニュアンスは伝わる。そこには,その場にいる人同士の,互いの関係性の

ぬくもり,

というのがあるはずだからである。

その意味では,丁寧語と言うのは,

文脈によっては,場違いと言うか,場の雰囲気を壊すこともある。

その意味では,

ご免なさい,

よりは,

ご免,

の方がいいし,

悪い,

のほうがもっといいこともある。あるいは,

ご免あそばせ,

の方がいい場合もある…か?

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)




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2014年07月13日

クーデター


半田滋『日本は戦争をするのか』を読む。

解釈改憲をはじめとする現政権の進めている憲法空洞化は,

クーデターである,

そう本書は断罪する。

本書は,

安倍政権が憲法九条を空文化して「戦争ができる国づくり」を進める様子を具体的に分析している。法律の素人を集めて懇談会を立ち上げ,提出される報告書をもとに内閣が憲法解釈を変えるという「立憲主義の破壊」もわかりやすく解説した。

と「はじめに」に書くように,解釈改憲が閣議決定される前までの,安倍政権の言動を,つぶさに分析している。

はじめに憲法空洞化ありきだから,理屈と膏薬は,どこにでもつく。ほとんど,ウソと屁理屈で,本当は理由などいらないのだろう。

集団的自衛権の行使容認に踏み切ること自体に目的があり,踏み切る理由はどうでもよい…,

と言わしめる所以である。空念仏のように,「我が国を取り巻く安全保障環境が一層悪化している」と言いつつ,それを緩和するための政治家として為すべき外交努力を一切しないのも,その伝なのだろう。

だから著者は,こう言う。

なぜ,事実をねじまげるのだろうか。憲法を変えさえすれば日本はよくなるという半ば信仰に似た思い込みがあるのだろうか。

近隣諸国との緊張を高めてナショナリズムをあおり続ける背景には「占領期に米国から押し付けられた日本国憲法を否定し,自主憲法を制定する」との強い意思を示す狙いがあるのだろう。

と。しかし,その自民党憲法改正草案は,

驚くべき内容である。現行憲法の特徴である「国民の権利や自由を守るための国家や為政者を縛るための憲法」は,「国民を縛るための国家や為政者のための憲法」に主客転倒している。近代憲法の本質が権力者が暴走しないように縛る「立憲主義」をとっているのに対し,自民党草案は権力者の側から国民を縛る逆転の論理に貫かれている。

そういう時代錯誤の為政者を生んだのが,国民だとすると,国民の中にある,ドストエフスキーのいう「大審問官」を求める,そう水戸黄門の印籠を求める心性が反映している,としかいいようはない。そう考えると,絶望感に駆られる。

しかし,そういう改憲手続きの手間さえ,安倍政権は省こうとしている。つまり,現内閣の閣議決定による,

解釈改憲

である。そのための道筋は,

①安保法制懇からの報告書を受け取る
②報告書を受けて,あらたな憲法解釈を打ち出し,閣議決定する。
③その解釈にもとづき,自衛隊法を改正したり,必要な新法を制定したりする

で,すでに②まで経た。ここには,国民は不在であり,議会も全く不在である。そして,ロードマップを兼ねる国家安全保障法の制定を目指す。

武器の輸出の緩和
武器輸出三原則の見直し,
秘密保護法
教育基本法の改正

こうして,実質憲法は骨抜きにされていく。ついには,徴兵制を口にされるところまで来ている。自民党憲法草案の現実化である。

国会論議を経ないで閣議決定だけで憲法の読み方を変えてよいとする首相の考え方は,行政府である内閣の権限を万能であるかのように解釈する一方,立法府である国会の存在を無視するのに等しい。憲法が定めた三権分立の原則に反している。(中略)
首相の政策実現のためには,これまでの憲法解釈ではクロだったものを,シロと言い替える必要がある。歴代の自民党政権の憲法解釈を否定し,独自のトンデモ解釈を閣議決定する行為は立憲主義の否定であり,法治国家の放棄宣言に等しい,

為政者が「法の支配」を無視して,やりたい放題にやるのだとすれば,その国はもはや「法治国家」ではない。「人治国家」(ありていに言えば独裁国家であるのだ=引用者)ということになる。ならず者が街を支配して,「俺が法律だ」と言い放っているのと何ら変わらない。

「人治国家」とは,ありていに言えば独裁国家であるのだ(そのせいか,中韓とは敵対しつつ,妙に独裁国家・北朝鮮とはパイプが強まっている,ように見えるのは,勘ぐりすぎか?),そして,著者は,

首相のクーデター

と呼ぶほかはない,と言い切る。麻生の言う,

ナチのやり口をまねる,

まさにそのままである。それが,たんなる糊塗やごまかしではなく,確信犯であるのは,安倍氏の発言からも見て取れる。

安倍氏は,国会答弁でこう言い切った。

「最高の責任者は私です。政府答弁に私が責任を持って,その上で私たちは選挙で国民の審判を受けるんですよ。」

著者は,こう解説する。

意味するところは,「国会で憲法解釈を示すのは内閣法制局長官ではなく,首相である私だ。自民党が選挙で勝てば,その憲法解釈は受け入れられたことになる」ということだろう。

と。選挙で大勝し,内閣支持率が高い,

思い通りにやって,何がわるい,

ということなのだろう。そして,憲法とは何かの質問に対して,

(憲法が)国家権力を縛るものだ,という考え方は絶対掌王権時代の主流な考え方
憲法は日本という国の形,理想と未来をかたるもの

と述べた。ここには,

国民の権利

自由の保障

もない。この延長線上に,自民党の憲法草案がある。

憲法を普通の政策と同じように捉えている
立憲主義の考え方が分かっていない

といっても,たぶん聞く耳というか,そういう考え方は視野にないだろう。まして,国民の自由などは。

さて,安倍氏がただひたすら求めている集団的自衛権は,何をもたらすのだろう。

僕の理解では,集団的自衛権とは,

他の国家(アメリカを想定していい)が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国(日本である)が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利である。

その本質は,

直接に攻撃を受けている他国を援助し,これと共同で武力攻撃に対処する

ところにある。なお,

第三国が集団的自衛権を行使するには,宣戦布告を行い中立国の地位を捨てる必要があり,宣戦布告を行わないまま集団的自衛権を行使することは,戦時国際法上の中立義務違反になる。

そして,著者は言う。

集団的自衛権は東西冷戦のゆりかごの中で成長した。驚くべきことに第二次世界大戦後に起きた戦争の多くは,集団的自衛権行使を大義名分にしている。

ベトナム戦争は,南ベトナム政府からの要請があったとして,集団的自衛権行使を理由に参戦した。

このときの集団的自衛権行使の仕方には,

アメリカのように攻撃を受けた外国(南ベトナム)を支援するケース

韓国のように,参戦した同盟国・友好国を支援するケース

の二つがある。そして,著者は言う。

集団的自衛権を行使して戦争に介入した国々は,「勝利」していない

と。

自国が攻撃を受けているわけでもないのに自ら戦争に飛び込む集団的自衛権の行使は,きわめて高度な政治判断である。一方,大国から攻撃を受ける相手国にとっての敗北は政治体制の転換を意味するから文字通り,命懸けで応戦する。大義なき戦いに駆り出された兵士と大国の侵略から時刻を守る兵士との士気の違いは明らかだろう。

こういう説明のないまま,集団的自衛権行使を,内閣の閣議決定のみで,事実上,

憲法九条

の解釈を変えて,改憲した。集団的自衛権の必要性を説明するために政府の挙げた事例は,個別自衛権,つまり,現状のままで対応可能なのに,である。その説明もない。

しかし,ほとんどその境界線をあいまいのまま,対外的な国際公約としてようしている。

この違いを分かりやすく解説しているのは,

http://www.asahi.com/articles/DA3S11221914.html

である。あいまいのまま,いかにも,自衛の延長戦上に,集団的自衛権があるように思わせたいのであろう。

手続き上と言い,
国民への説明の内容と言い,

ほとんど詐欺同然,泥棒猫の仕業である。

しかし,いままで,アメリカの

ブーツ・オン・ザ・グラウンド(陸上自衛隊を派遣せよ)

の要請を,歴代政権が,九条を楯に拒んできたが,もはや,後方支援ではなく,前線に,戦闘力として参加ができる。つまり,アメリカ兵に代わって,あるいは一緒に血を流してくれる。アメリカ政府が歓迎するわけである。

そしてたぶん,日本が独自に集団的自衛権を行使することはない。恐らく。ほとんどアメリカの集団的自衛権行使に参加することになる。しかもアメリカの(そしてイスラエルの)同盟軍として。それは,アラブを敵にするということになる蓋然性が高い。同時に,それは,スペインやイギリスで起きた無差別テロの標的にもなるだろうリスクをはらんでいる。その言の説明は一切ない。突然,銀座で自爆テロが起きるかもしれない。

ここまですることは,誰かの利益になるからするのであろうと推測はつく。現政権がそのお先棒をかついているのだとして,われわれ国民にとっての利益でないことだけは確かである。

参考文献;
半田滋『日本は戦争をするのか』(岩波新書)



今日のアイデア;
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2014年07月14日

店仕舞い


店仕舞いというのは,開店というか,店を張るよりもはるかに難しいと思う。店仕舞いは,例えば,僕には経験はないが,定年退職とは違う。転職の退職とも違う,と思う。後始末ということではないのだ。

そのことについては,し残したことについて,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/392762774.html

で触れた。しかし,これとも少し違う。

昔コーヒーショップをやっていた時,居抜きで買ってくれる物好きがいたおかげで,投資分は返ってこないまでも,かろうじて赤字にならないで,店を閉めた。その店仕舞いでも,なじみ客との関係は,けりのつけようのないものがある。

まして二十年以上も店を張っていると,はいさようならとはいかない,という面はある。たとえば,スケジュールは,再来年まで決まっていく,とすると,一年半以上前までに決めなくてはならないという面がある。

しかしここで言いたいのは,それでもない。ここで店仕舞いするというのは,

どう見切るか,

ということだ。昔,知り合いの講師が,客先で仕事中倒れて,そのまま帰らぬ人になったと聞いたことがある。そうならないところでどう見切りをつけるか,である。

自分の出来る,やりたいという思いを,どこでなだめ,断念させるか,ということだ。

単に健康のことだけを言っているのではない。



というのは,語源は,「見せ」。ミセともタナ(棚)とも言う。「广(ゲン,家)」に「占」(テン,ものを置く)が中国語源。

しかし,仕舞うは,確かに,「シマウ」で,片づける,収納する,の意だが,

仕舞

は,素(装束をつけない)+舞

なのだという。つまり,

仮面や衣装なしの舞い,

ということになる。いやいや,なかなか意味深である。



とは,「しろ」であり「もと」であり,「はじめ」である。意味としては,

撚糸にする前の基の繊維,蚕から引き出した絹の原糸

とか,

模様や染色を加えない生地のままの,白い布

等々,下地とか地のままとか生地とか元素といった意味合いが強い。

横道にそれるようだが,それで思い出した,大塩平八郎,いわゆる大塩中斎は,諱を後素と言った。これは,『論語』の,

絵の事は素(しろ)きを後にす,

から来ているという。このとき,この孔子の言葉を受けて,子夏が,

礼は後なるか,

と言い,孔子に,

始めて与(とも)に詩を言うべし,

と褒められた,とある。古注では,

絵とは文(あや),つまり模様を刺繍することで,すべて五彩の色糸をぬいとりした最後にその色の境に白糸で縁取ると,五彩の模様がはっきりと浮き出す,

と解すると,貝塚茂樹注にはある。しかし新注では,

絵の事は素(しろ)より後にす,

と読み,絵は白い素地の上に様々の絵の具で彩色する,そのように人間生活も生来の美質の上に礼等の教養を加えることによって完成する,と解する。どちらが正しいかは知らないが,朱熹の注釈は少しお為ごかしに過ぎる気がする。

しかし大塩の諱の由来は,新注によった,とみられるらしい。

ま,読みの是非はともかく,新注では,素地,というものに教養で上塗りする,その上塗りの仕上げ次第というように読める。あるいは,古注でも,仕舞いの仕方,というか仕上げが重要,ということになる。しかし,

素舞

の「素」というのは,その仕上げた「素」をいうのか,生地の「素」を言うのだろうか。

上塗りの最たるものは,社会的役割だ。

人は,社会的役割を降りても,おのれをやめるわけにはいかない。いつ,衣装と仮面を脱ぐか,というふうに考えると,この問いに焦点が当たる。

おのれの人生の舞台,

を降りることはないが,役割は降りる。そこで「素」が,結局問われる。。

社会的役割については,前にも触れた気がするが,

社会的役割は,もっぱら他者の期待にもとづく意味でも,もっぱら自己の認定に基づく意味でもなく,両者の相互作用の結果として多かれ少なかれ共有される,

したがって,

主体は,他者との相互作用において,自己にとっての意味に応じて他者に役割を割り当て,その役割と相即的に対応する自己の役割を獲得する,つまり,相互作用は,すべて役割関係なのである,

という。ぶっちゃけて言えば,

お互いが関係する中でしか役割は生まれない。つまり,役割を降りるとは,

お互いの作り出していた関係

から離脱するということだ。

結局,上塗りしたメッキの剥げた

素地

というか,化粧ののらなかった

地肌

というか,後は,その素で舞うほかはない。最後は,おのが素地次第,と言えなくもない。

しかし,思うに,素地は,昔のままの素地であるはずはない。化粧やけ,というか,白粉やけで,素地自体が変色しているかもしれない。仮面も長くかぶりつづければ,痕がつく。そのことに気づいていないかも知れない。

だから,(おのれを)見損なう。

結局,その意味も含めて,仕舞いでしかないのだろう。


参考文献;
栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
宮城公子『大塩平八郎』(ぺりかん社)




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2014年07月15日

面倒


最近,何事もめんどくさがるようになった。えっ,面倒って?ということで調べると,

語源的には,四説ある。

①目+ドウナ(だるい)の変化。見るのも大儀な,の意。
②メドウ(目遠)の撥音便化で,見にくいの意。
③見たくもないの意の「面伏せ」を漢字に訳し,「面倒」として音読した。
④目+ダウ(無益)で,見るのも無駄の意。

どうもこれといって確定していないようだが,見苦しい,くどくてうるさいの意,から転じて,するのが煩わしい,厄介,世話がかかるの意味になったようだ。

面倒臭い,

は,口語的表現。

めんどくさい,

とも略される。億劫,大儀も同義だが,

億劫

は,中国語では,「億劫(おっこう)」=長い時間の意味。仏教用語。

「劫」は,サンスクリット語の音写で,古代インドで,最長の時間単位。「一劫」の長さは,百年に一度天女が高い岩山に舞い降りて頂上を撫で,その摩擦で岩山が消滅するまでの時間,だという。

その一劫の一億倍が,億劫。

きわめて長い時間。まあ,永遠と言ってもいい。そこから,長い時間がかかってやりきれない,から転じて,

おっくう

となった。

大儀は,

重大な儀式

からきて,転じて,

費用が多くかかる,
骨が折れて厄介だ,
面倒で億劫だ,

と意味が変化した,とされる。そこから転じて,

他人の労をねぎらうときに用い,ご苦労,

の意でも使う。

意味を丸めれば,確かに同義になるが,どうも,ちょっと違う。

面倒,

というのは,何しろ,煩を厭う,というか,手間を取ったり,手数を掛けるのを厭う,意味に見える。しかし,

億劫,

というのは,それをするために取られる時間の長さが予想されて,気が乗らない,という感じに見える。で,

大儀,

は,儀が,手本とか,規準とか作法の意味だから,とかく形式ばるというか格式ばって,大仰で,大袈裟で,気が重い,というニュアンスに見える。

だから,

めんどうがる,

のは,ただの怠けに聞こえ,

おっくうがる,

のは,手間を考えて,気が乗らなさに見え,

たいぎがる,

のは,辟易する感じに聞こえる。

元の意味は微妙に違ったのだろうが,日々使ううちに,違いの棘が,すり減って,違いを丸めていく,そういうものなのだろう。

しかし,歳と共に面倒になるのは,

生きること自体

が厄介で大変になるからに違いない。

よっこらしょ,

どっこいしょ,

といわないと,いちいち体が言うことをきかない。これは,いわゆる,

面倒

というのとはちょっと違うのかもしれない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)


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2014年07月16日


宇佐美文理『中国絵画入門』をよむ。

よく考えると,例えば,山水画,水墨画,というように,結構中国絵画の影響を受けているのに, 中国絵画について,ほとんど知らないことに気づく。

著者は,

気と形を主題にした中国絵画史

というイメージで本書を書いたと説明する。そして,

中国絵画について何かを知りたいと思われた方,そこで知りたいと思うことはなんなのか。それを知ることがなければ読んだ意味がないと思うことは何なのか。

それをまず書くという。

中国絵画の流れを何か一本スジを通して記述できないか,

という問題意識で俎上に上ったのが,



である。では,気とは,何か。

最初は,孫悟空の觔斗雲のような形

で表現されていた(後漢時代の石堂の祠堂のレリーフにある),霊妙な気を発する存在としての西王母の肩から湧くように表現されていた気が,

逆境にもめげず高潔を保つ精神性を古木と竹で表現した(金の王庭筠の「幽竹枯槎図」の),

われわれが精神や心と呼んでいるものも,

気の働きと考えるようになり,そういう

画家の精神性が表現されたということは,画家のもっている気が表現された,あるいは形象化された,

という気まで,いずれも,気を表現したと見なす。

簡単に言えば,中国絵画における気の表現は,気を直接形象化した表現から,実物の形象を使いつつ気を表現するという

ところまで変換していく。そこから,

どのようにすれば気そのものを形象化することなく,気を表現できるか,という問題が,常に中国絵画の中心課題として存在していた,

と著者は見る。この転換点になったのは,(「帝王図鑑」の)


気韻生動

と言われる,

(皇帝を描いた場合)皇帝が,皇帝たる風格(精神性も含めて)を感じさせるものでなければならない。それが人物画の肝要な点だと考えられた

ところだという。つまり,

絵画にとって重要なことは,形を写し取ることではなく,形を超えたもの,人物画では気韻あるいは人物の精神性であると考えたのである。

それは,たとえば,静物では,(李迪「紅白芙蓉図」)の,

芙蓉の気,それは,読者の方がこの絵を見て感じる,その匂い立つ美しさそのものが芙蓉の気なのである。

と著者は言う。

ともかくこの絵から感じとられたこと,それがまさにこの絵のもっている気にほかならない,

ということが重要なのだと言う。

その気には,いまひとつ,

筆墨の気

がある。いわゆる,

筆気

である。これは,

筆意ともよばれ,線の流れに作者の心の流れを読み取ろうという発想である

という。気の表現は,

直截的形象化,描かれた対象のもつ気の表現,作者自身の気の表現,線のもつ気,墨の気など,

様々な形を使ってなされてきたが,この,

形をもたない気が形をとって現れること

を,

気象,

と呼ぶ。これが,

中国芸術全般を支配する思想

といっていい,と著者は断言する。気は,

万事万物を構成する「もと」

であり,物質はもとより,

我々の「精神」も気のはたらき

であり,陰陽の気の交代が昼と夜であり,

世界のすべては気を原理として生成変化し,……気でできた世界は形をめざして動いている。簡単に言うと,世界とは造形力そのものなのだ。

しかし,と著者は言う。気が画家自身の気の表現であるとしても,

画家がもっている気がそのまま画面の形象になるという気の思想だけですべては片づかない。いかめしい顔をしていても心は優しいというのはきわよめてよくある話である。

で,著者は,

外見と内面が一致しないとする発想を,「箱モデル」と呼ぶ。箱の外見からは箱の中身が分からないからである。対して,気象の発想によるものを「角砂糖モデル」と呼ぶ。角砂糖全体は中心部分も含めてその性質は同じである…から,外見と中身は一致し,中身は外見から推知できるのである。

後者のそれが,

作者の持っている気がそのまま作品に現れるもので,それは生得のものだ,

という考え方に通じ,人格主義につながる。

中国の芸術は,しばしば作品ではなく,作者によって価値を判断する。…絵が上手いとか下手とかという問題をわきにおいて,絵を描いた人物自体の価値を基準としようとする,

考えへとつながり,さらに,蘇東坡の,

形が似ているかどうかで絵を論じてはいけない

につながる。形をこえたものを求める形象無視の頂点に来たのは,

文人画

である。

絵画も文人が描けば芸術だが,画工が描けばそうではない,

というように。その頂点に,

牧谿

がくる。牧谿は光の画家と言われるが,それは,レンブラントの,光と影とは全く違う。

牧谿のひかりは,…「気そのものが輝いている」光である。光が三次元空間に充満している。我々の言葉で言う「空気」が光っているのである。それが照らされた光ではない,

から影がない。ここにあるのは,

透徹した精神性

である。それは,

絵画がまるで言葉によって語りかけ,それに絵を見ている人間がこたえているようなもの,

である,と著者は言う。

書もそうだが,作者の精神性というものが,最後に,作品を凌駕する。

個々の作品ではない,

らしいのである。

数千年を,一冊で読み切るのは無理には違いないが,読み終えて,そこかしこで,老荘,孔孟の気配を感じた気がしたのは,錯覚だろうか。

参考文献;
宇佐美文理『中国絵画入門』(岩波新書)



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2014年07月17日


約束というのは,

括り束ねること
ある物事について将来にわたって取り決めること,約定
種々の取り決め
かねてから定まっている運命,約束事

といった意味がある。日葡事典は,

ヤクソクヲトグル
ヤクソクヲタガユ

という用例があるらしいので,戦国期には使われていたらしい。

これを守るかどうかは,たぶん,その人のコアの倫理観を反映している気がする。あまり迂闊に言うと,お前だって,と突っ込まれそうだが,いったん約束したことは(軽々に約束しがちなところがあるにしろ),何とか守ろうとする。昔,僕自身が切羽詰っていたのに,ある人に頼まれて先輩に御願い事をしていたとき,お前は人の世話を焼いている場合か,と呆れられたことがある。小心ということもある。律儀ということもあるが,その辺りは,その人の価値に拠って立つところがおおきいのだろう。しかし,「約」という字には,ちょっと悩まされているところがある。

『論語』に,何度かこの字が出る。

子曰く,不仁者は以て久しく約に処(お)るべからず,以て長く楽しきに処るべからず,仁者は仁に安んじ,知者は仁を利す(里仁篇)

の「約」は,逆境とか苦境,といった意味だ。しかし,

子曰く,約を以て失(あやま)つものは鮮(すく)なし(里仁篇)

でいう「約」は,節度とか控え目,といった意味だ。古注では,驕者への戒め,新注では,広く人全般の行動を指すが,意味は同じだ。あるいは,

子曰く,君子博く文を学びて,これを約するに礼を以てすれば,亦以て畔(そむ)かざるべし(雍也篇)

でいう「約」は,しめくくる,束ねる,集約するといった意味になる。

同じ「約」でも意味が違う。

ためしに,漢和辞典をひくと,意味としては,

つづめる,つつましい,あらまし,

といった意味になる。おおよそ,

①やくす,一点に向かって引き締める,小さく細くつづめるで,類語に,「束」(たばねて締める)が来る。
②やくす,つづめる,細く小さく締めてまとめる,簡略にする
③やくす,紐や帯を引き締めて結び目をつくり,それ見決めたことを思出し,目印とする,またその目印,取決め
約束は,その結び目の目印を指し,そこから転じて,取決めとなる
④やくす,つつましい,つましく引き締める
⑤あらまし
⑥やくす,二つ以上の数を共通に割る

といった意味になる。



は,一部をくみ上げるさまを表し,

杓(ひしゃく)

酌(くみあげる)

の原字。約は,

糸+勺

で,

目立つように取り上げる

意味で,

ひもを引き締めて結び,目立つようにした目印

を意味する,とある。

要(ひきしめる)

腰(細く日は締めた腰)

と同系という。

考えてみれば,象形文字には,表意がある。

ひもをつぼめる

を広げていけば,確かに,倹約になるし,目印にもなるし,集約にもなる。その意味も広がりは,文脈が変われば,また変じ,時代に合わせて,重みもなくなっているのかもしれない。

約を以て失(あやま)つものは鮮(すく)なし

を,勝手読みすれば,

節約するもの
であったり,
要約するもの
であったり,
束ねる

であったりとても,意味は通ずる。考えようによると,漢字は,汎用性が高い。高い分,いかようにも丸められる。その分意味が広がり,解釈が多様になる。面白いと言えば面白いが…!

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)




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2014年07月18日

趣味


一般には,

趣き(おもむき)+味(あじ)

で,

おもしろみ,

興味をそそられてするもの,

を意味する。そして,tasteあるいはhobbyの役として使われる,と。で,ウィキペディアでは,二つの意味を挙げている。

①人間が自由時間(生理的必要時間と労働時間を除いた時間、余暇)に,好んで習慣的に繰り返しおこなう行為、事柄やその対象のこと。道楽ないしホビー(英: hobby)。
②物の持つ味わい・おもむき(情趣)を指し、それを観賞しうる能力(美しいものや面白いものについての好みや嗜好)のこと(英: taste)。調度品など品物を選定する場合の美意識や審美眼などに対して「趣味がよい/わるい」などと評価する時の趣味はこちらの意味である。

そこから,ひとつは,対象の状態というか,

感興を誘う状態。あじわい。おもむき

であり,他方で,それを受け止める主体側の状態というか,

ものごとの味わいを感じ取る力,美的な感覚,

を指すことになる。因みに,興味は,

興(おもしろい)+味(あじわい)

であるが,それが,玄人であるか素人であるかというと,素人の好み,という側面ということになる。それをひけらかせば,

衒学,

気取り,

ということになる。あるいは,

好事,物好き,酔狂,数寄,道楽,風雅,風流,

と並べていくと,ちょっと印象が変わる。そもそも,



という字は,

向かうところを定めて疾く行く,走る,

で,本義は,時間をちぢめてせかせかといくこと,らしく,

味わいに赴く,と解すると,なかなか味わい深い。

その意味で,

情趣,風趣,興趣,妙趣,趣向,詩趣,野趣,雅趣,玄趣,意趣,深趣,幽趣,旧趣,筆趣,新趣

と,どうも素人というニュアンスから遠ざかる。

思うに,仕事と対比して,趣味を語るから,意味がねじれるのではないか。趣味は,仕事とは別次元の話なのではないか。という言い方だとおかしいか…,趣味と仕事は対比するものではない,という感じなのだ。(先の定義のように,余暇の時間=自由時間という固定観念に縛られているのではないか,自由は時間枠ではない)

興味は,

興(おもしろい)+味(あじわい)

で,ものごとに関心を向ける,とある。

味は,本来は,口で微細に吟味すること,であるようだが,それが直截性から抽象度が上がれば,

ものの味の感覚,

から,

こころに感ずる味わい,

へ変ずるのもよくわかる。仕事のモードとは別の次元,というと語弊がある。そうではない,

仕事に味わいを感趣するかどうか,という,

感覚

の鋭さの問題なのかもしれない。

楽しみて淫せず,哀しみて傷(やぶら)ず

と。ここまでいくと,品格の問題さえ含む。

ある意味,仕事に淫するを,よしとする風潮がありはないか。淫するとは,

(色事,邪悪なこと,邪道)に深入りする,度を越えてのめり込む,ひたる,

というニュアンスが色濃い。いわば,トンネルビジョンに陥っていることを指す。

楽は,

木の上に繭のかかったさまをえがいたもので,山繭が繭をつくる檪(くぬぎ)のこと,

らしい。そのガクの音を借りて,謔(おかしくしゃべる),嗾(のびのびとうそぶく)などの語の仲間に当てたのが音楽の楽。音楽で楽しむという,その意味から派生したのが快楽の楽という。だから,楽しむには,

淫する,

よりも軽やかなのではないか。その意味がなくては,

これを知る者はこれを好む者に如かず,これを好む者はこれを楽しむ者に如かず

は通じない。だから思うのだが,

仕事の息抜きに趣味

というのは,仕事の仕方としては,どこか偏りがある。昔,冗談で,

仕事が趣味

と言っていたが,そういう軽やかな仕事の仕方がいいのではないか。そのほうが,トンネルビジョンに落ち込まないだろう。

これはまた別途考える必要がある。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)




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2014年07月19日

九条


松竹伸幸『憲法九条の軍事戦略』を読む。

昨年刊行されたものだ。もはや時機を失したか,と悔いつつ,失いつつあるものの大きさに思い至る。

はじめにで,著者はこう書く。

「九条と軍事力の関係が相容れないという点では,護憲派と改憲派は共通している…。だが私は,この既成事実に挑戦することにした。護憲派にも軍事戦略が必要であると考えるにいたった。」

と。その意味では,本書の主張は,堂々の議論と,国民全体のコンセンサスを経るという,改憲プロセスを念頭に置いての論旨というふうに考えられる。しかし,議論も討議もないまま,泥棒猫のようにこそこそと既成事実を積み重ねて,実質改憲を果たし,集団的自衛権の行使を可能とし,武器輸出三原則を放棄し,あろうことか,イスラエルと共同開発まで踏み込むとは,著者の予想を超えている。

おそらく,今後,いままでの対米従属の政治路線からは,アメリカの戦争に従属従軍し,いまそうであるように,イスラエル側に加担し,アラブを敵に回すことになるだろう。ついこの間,3.11のために祈ってくれたガザの子供たちのことは報じられないまま,その子供たちが戦車に蹂躙されているのを,黙認している日本政府の行動は,世界に,日本のポジションを明確に語っている。

では,われわれは,一体何を喪おうとしているのだろうか。

九条のもと,専守防衛を旨としたきたが,それは,

「専守防衛とは相手からの武力攻撃を受けたときに初めて防衛力を行使し,その防衛力行使の態様も自衛のための必要最小限度にとどめ,また保持する防衛力も自衛のための必要最小限度のものに限るなど,憲法の精神にのっとった受動的な防衛戦略をいう…」(大村防衛庁長官 参議院予算委員会 81.3.19)

つまり,

日本側が反撃を開始するのは相手から武力攻撃を受けたときであり,
その反撃の態様は,自衛のための必要最小限度の範囲にとどめ,
その反撃をする装備も自衛のための必要最小限度

というものである。これに合わせて,自衛権発動の三要件というのがある。

「憲法第九条のもとにおいて許容されている自衛権の発動については,政府は,従来からいわゆる自衛権発動の三要件(我が国に対する急迫不正の侵害があること,この場合に他に適当な手段のないこと及び必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと)に該当する場合に限られると解している」(参議院決算委員会提出資料 72.10.14)

「他に適当な手段がない場合」を除くと,専守防衛の要件と重なっている。この趣旨は,

「外交交渉とか経済制裁などで相手国の侵略をやめさせることができるならそうすべきであって,武力で自衛するのはそういう手段ではダメな場合に限る」

という意味である。

こういう専守防衛の考え方を,

九条にしばられている

故,と考えるのは,的外れである,と著者は言う。

「そもそも自衛権という概念は,憲法九条で発生したわけではない。武力行使を禁止する国際法が発展するなかで,その例外措置のようなかたちで生まれたものである。武力行使は違法だが,自衛の場合は違法性が阻却されるという考え方である。」

それは,アメリカ独立戦争時を嚆矢とし,当時のアメリカのウェブスター国務長官のイギリス側への書簡がある。

「英国政府としては,差し迫って圧倒的な自衛の必要があり,手段の選択の余地がなく熟考の時間もなかったことを示す必要があろう。加えて,…非合理的もしくは行き過ぎたことは一切行っていないことを示す必要があろう。自衛の必要によって正当化される行為は,かかる必要性によって限界づけられ,明白にその範囲内のものでなければならない…」

これは今では「慣習法として定着したといわれている」として,著者は,

「国際法上の自衛権とは,憲法九条のもとにおける自衛権の三要件とほぼ同じなのである。日本は憲法九条があるから自衛権さえ制約されているというひとがいるが,自衛権発動の要件は,日本も外国も変わらないのだ。」

と言う。この慣習法とは別に,国連憲章第五十一条が,自衛権発動について,

第一,各国が自衛権を発動できるのは,(国連安保理が)必要な措置を取るまでの間に限定されること
第二,各国が自衛措置を取った場合,安保理に報告しなければならないこと
第三,自衛権が発動できるのは,武力攻撃が発生した場合に限定したこと

の三つの制限を設けている。第三項は,英語だと,現在完了形ではなく,現在形である。つまり,

「自衛権の要件を厳守することは,九条のある日本だけの制約ではない」

ということを,著者は強調する。

そして,むしろ,いままでの日本の姿勢が,世界的には武器になってきたのだと,次の二点を象徴として挙げる。

第一は,武器輸出三原則
第二は,集団的自衛権行使の制約

武器輸出は,かなり緩和されてはきたが,それが功を奏したのは,

国連軍備登録制度

制定である。

「その資格を持った国がひとつ存在した。武器を輸出してこなかった日本である。日本はこの制度を創設するために,『軍備の透明性』と題する国連総会決議の案をもって各国を説得し,調整し,最終的に決議の採択にまで持ち込んだのである。」

これが果たせたのは,武器輸出三原則があったからである。武器規制に関しては,

世界的に注目されている

のは,もはや過去のことだ。三原則は,

防衛装備移転三原則

に変え,武器見本市に初参加し,防衛副大臣が,ライフルを構えていた写真が配信された。もはや,政府は武器商人の露払いになっている。

いまひとつは,言うまでもなく,集団的自衛権である。日本が海外で殺傷行為をしていないというイメージは,世界的には確立していた。そのことではたせる役割はあったし,ある。しかし,もはや,その意味で,「普通の国」と成り果てた。これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/401642428.html

で触れたので繰り返さない。

このつけは,集団的自衛権を行使した瞬間,日本が攻撃の対象となる,ということを意味する。それは,対アラブならば,日本国内のどこかが無差別テロの標的になる,ということにほかならない。

まだ間に合うのかどうかは,もはや微妙であるが,本書の掲げた「九条をバックとした軍事戦略」は,実質的に,不可能になりつつあることだけは確かである。

参考文献;
松竹伸幸『憲法九条の軍事戦略』(平凡社新書)



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2014年07月20日

仕儀


辞書を調べると,

ことの次第,
ことのなりゆき

とある。語源を調べようとしたが,持っているものでは載っていない。で,大槻 文彦編『新訂大言海 』を繰ると,

旨義
あるいは
時宜

の転か,とある。

旨義は,文章などで表現されているものの,おもむき,意味,とある。

時宜は,ときの宜しきにしたがうこと,程よき頃,とある。

そのとき

を少し長くすると,

過程

ということになり,

次第,

成り行き,

顛末,

経緯,

首尾,

結末,

とほぼ重なってくる。

仕儀の「仕」は,

つかえる

意味であり,「儀」は,

のり,手本となるべき基準,作法,

という意味だ。とすると,たんなる成り行きではない。かくあるべき流れに従って,矩につかえる,といった意味になる。

そう考えると,丸めると,次第とも顛末とも変わりなくなるが,あるレベルを維持して,かくなったという意味になる。

しかも,ものによっては,仕儀には,ただ,ニュートラルな成り行きではなく,

特に,思わしくない結果・事態,

を指すともある。

そう考えると,

左様なる次第にて,おわかれします,



左様なる仕儀にて,おわかれします,

とでは,お互いのそれまでの経緯が,まったくニュアンスが変わる。格式ばっているというようなことではない。

両者の関係が,ニュートラルな,あるいは友好的とは限らず,

かような事態になり,

かかる仕儀になり,

と,どこか詫びるニュアンスが出てくる。そこに,基準においているのが,

両者の期待値なのか,

世の中の求める規準なのか,

は別として,それから外れている,というニュアンスが出る。だから,

野辺の送りもでき兼ねる仕儀と相成り,

といった用例につながっていく。

いやはや,かかる仕儀にて,かようなる結末と相成り,面目次第もござりませぬ。

参考文献;
大槻 文彦編『新訂大言海 』(冨山房)




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