2014年07月21日

さようなら


語源的には,

左様ならば(そうであるならば)

だとされる。つまり,

そうであるならば,お別れしましょう

の古形である,と。あんまり,学者の説というものにいまいち信がおけない。へそ曲がりのせいばかりではない。何度も書いているが,

さようならなくてはならぬ故,お別れします,

という一種無常観のニュアンスがある気がしてならない。だから,

そういうわけだから,

というよりは,

そういう次第なので,

そういう仕儀なので,

という文脈というか,状況に強いられて,と言うニュアンスが強く漂っている。だから,田中英光は,他の言葉に比して,悲哀,悲壮感がある,と言う言い方をした。確かに,調べると(自信はないが),

再見

Au revoir

Auf wiedersehen

は,再会というニュアンスか,

Adios(aへ+Dios神)

Goodbye(God be with you の古形の略)

Tschuss(adiosが語源)

神とともに,というものとに,二分され,あまり,哀しみのニュアンスが出てくるものはないようだ。

アンニョンヒ カセヨ

は,気をつけてお帰りくださいというニュアンスだから,この系譜に入るかもしれない。

さようならば,お別れします,

はやはりちょっと特殊と言えるだろう。

しかし考えようによっては,二人か三人かは別にして,その場とその時間を共有したもの同士でしか伝えようのない,ニュアンスが,そこにあると言えば言える。誰に対しても,と言うのではない,

一緒に過ごしてきましたが,そういうわけなので,お別れしなくてはなりません,

なのか,

一緒に時間を共にしてきましたが,かくなるうえは,お別れしなくてはなりません,

なのかはわからないが,別れが,主体的な事由によるのではない,不可抗力な何かによって,もたらされたというニュアンスが付きまとう。

もちろん,二人だけにわかる理由があって,

かくかくの次第ですので,お別れします,

でもいいが,別れたくて別れるなら,そういう言い方はしないような気がする。

もうご一緒にはいたくないので,お別れします,

というよりは,

もうご一緒にはいられませんので,お別れします,

のほうが近いようなきがする。

しかし,われわれは,自分がそうしたいときでも,何か別の理由があるような言い回しをすることが多い。そう見れば,

そういう次第なので,

という前ふりは,なんとなく,本心を糊塗する色がなくもない。

ご免なさい

より,

すいません,

と逃げるように,

別れたい,

より,

別れなくてはなりません,

という言い方を好むのではあるまいか。

よんどころない事情で,

とか,

諸般の事情で,

という言い方をして,主意を薄める。それは,責任をあいまいにする,という色合いがある。

言葉を濁す,

誰が,という主語をごまかす,

等々,われわれ自身が,ごまかしている精神構造そのものに行き着く気がするのは,おおげさだろうか。

その意味で,

さようなら,

には,日本語特有の曖昧に,墨色に流していくニュアンスがなくはない。別れに当たってすら,そんな糊塗がいるのか,と思わないでもない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
田中英光『さようなら』(現代社)



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2014年07月22日

知性


田坂広志『知性を磨く』を読む。

律儀なファンではないが,以前に,何冊か強い印象を懐かされた本を読んでいる。基本的に,その知性に惹かれていることが,普段は読まない「ノウハウ」チックな本書を手にした動機である。

著者は問う。

「学歴は一流,偏差値の高い有名大学の卒業。
頭脳明晰で,論理思考に優れている。
頭の回転は速く,弁もたつ。
データにも強く,本もよく読む。
しかし,残念ながら,
思考に深みがない。(中略)
端的に言えば,「高学歴」であるにもかかわらず,深い「知性」を感じさせない…,
ではなぜ,こうした不思議な人物がいるのか?」

と。著者は,

知能

知性

をこう区別する。

「知能」とは,「答の有る問い」に対して,早く正しい答えを見出す能力
「知性」とは,「答の無い問い」に対して,その問いを,問い続ける能力

と。さらに,

知識

知恵

知性

をこう整理する。

「知識」とは,「言葉で表せるもの」であり,「書物」から学べるもの
「智恵」とは,「言葉で表せないもの」であり,「経験」からしか摑めないもの
「知性」の本質は,「知識」ではなく,「智恵」である

と。そして,いまひとつ,「専門性」について,

「我々は,『高度な専門性』を持った人物を『高度な知性』を持った人物と考える傾向にある」
しかし,
「『高度な専門性』を持った人物が無数にいながら,肝心の問題が解決できない」
と。

フクイチの放射汚染はまだ続いており,太平洋全体に汚染が広がりつつある。しかし,少なくとも,汚染を止める手立てを,専門家は何一つ構築できていないどころか,めどさえ立っていない。

ふと思い出すのは,アーサー・C・クラークが言っている言葉である。

「権威ある科学者が何かが可能と言うとき,それはほとんど正しい。しかし,何かが不可能と言うとき,それは多分間違っている」

と。著者は,サンタフェ研究所で,

「この研究所には,専門家(スペシャリスト)は,もう十分いる。われわれが本当に必要としているのは,それらさまざまな分野の研究を『統合』する『スーパージェネラリスト』だ」

という発言に触発されて,これからは,

「垂直統合の知性」を持ったスーパージェネラリスト

が必要と説く。それは,

さまざまな専門分野を,その境界を超えて水平的に統合する「水平統合の知性」

ではない。その例を,アポロ13号の事故の時,NASAの主席飛行管理官を務めていたジェーン・クランツに,そのモデルを見る。そこでは,混乱し絶望的状況の中で,

「我々のミッションは,この三人の乗組員を,生きて還すことだ!」

と明確な方向性を示し,次々に発生する難問を,専門家たちの知恵を総動員して,次々とクリアし,無事に帰還させた。そして,ここに,知性のモデル(「スーパージェネラリスト」)を見つける。

「まさに『知性』とは,容易に答の見つからない問いに対して,決して諦めず,その問いを問い続ける能力のこと。」

として,「七つのレベルの思考」を提示する。

第一は,明確なビジョン
第二は,基本的な戦略
第三は,具体的な戦術
第四は,個別の「技術」
第五は, 優れた人間力
第六は,すばらしい「志」
第七は,深い思想

この字面だけを見ていると,常識的に見えるかもしれないが,たとえば,

戦略とは,「戦い」を「略(はぶ)く」こと
技術の本質は,知識ではなく,「智恵である」

というように,ひとつひとつに,著者なりの「知略」が込められている。

このすべてに僕は賛成ではないが,すくなくとも,自分なりの体験と知恵から「知性」を描き出そうとする,オリジナルな思考のプロセスがよく見える。

智恵をつかむための智恵とは,

「メタレベルの知性」

という著者の「知性」のメタ・ポジションには,深く同意するところがある。

ライルは,知性について,

Knowing how(ある事柄を遂行する仕方を知っている)

Knowing that(何かについて知っている)

に分けた。そして,こう書く。

「ある人の知識の卓越や知的欠陥を問題にしている場合においてさえも,すでに獲得し所有している真理の貯蔵量の多寡は問題ではない」

と。ただ,このKnowing howとKnowing thatは,同じクラスと考えず,クラスが別と考えると,

Knowing howについてのKnowing that

というメタレベルの「知」であることも含意していることになる。

僕は,必要なのは,智恵とか知識とか知能というレベルではなく(それがあることを前提にしないと話は進まないが),

メタ・ポジション

での思考力なのだと思う。自分の経験を智恵にすることが必要だとは思うが,著者の言うように不可欠とは思わない。むしろ,

目利き

出来るメタ化の力なのだと,感じた。

参考文献;
田坂広志『知性を磨く』(光文社新書)
G・ライル『心の概念』(みすず書房)



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2014年07月23日

劣化


佐伯啓思『正義の偽装』を読む。

帯には,

稀代の社会思想家

とある。しかし,読んで,異和感のみが残った。福田恆存はまだしも,件の長谷川三千子を麗々しく引用するあたり,そのレベルの人かと,ひどく幻滅した。

著者は,本書について,

「時々の時事的な出来事や論点をとりあげつつ,それをできるだけ掘り下げて,使嗾的に論じるというのが連載の趣旨なのです。」

という。そのうえで,

「私には今日の日本の政治の動揺は,『民主主義』や『国民主権』や『個人の自由』なる言葉を差したる吟味もなく『正義』と祭り上げ,この『正義』の観点からもっぱら『改革』が唱えられた点に在ると思われます。われわれは,本当に信じてもいないことを『正義』として『偽装』してきたのではないでしょうか。」

と書く。この文章に,詐術がある。自分は,

「この世の中に対する私の態度はかなりシニカルなものです。」

といって,まず部外者に置く。そうすることで,上記の「偽装」については,責任を逃れている。そして,

さしたる吟味もなく,

「正義」と祭り上げ

もっぱら「改革」が唱えられた

本当に信じてもいないことを「正義」と「偽装」

しているのは,著者ではない,「愚かな日本人」ということになる。著者の論拠は,保守だから,主として,

サヨク

野党

がその批判の対象になる。しかし,かくおっしゃる世の中で,ご自分はのうのうと大学教授を享受している,この社会の当事者である点を,置き去りにしている。かつて,吉本隆明が,丸山眞男の当事者意識を痛烈に批判していたのをふと思い出す。当然,僕は,この著者の言うところの,

サヨク

に該当するらしいのだが,しかしいまどき左翼だの右翼だのというふるい分けというか,レッテル張りに意味があるのだろうか。せいぜい石破氏のデモを「テロ」と名付けたり,安倍氏が批判者を「左翼」というラベル貼りする以上の実態はないと思うが,未だラベル貼りすることで,自分をその埒外に置きたい人がいるらしい。けれども,自分を埒外におこうと,どの立場に立とうと,時事に対して,批判することはもちろん自由だ。しかし,評論家であることは許されない。この日本において,自分だけ埒外にいることはできない。自分または自分の家族も巻き込むことを意識しない当事者意識の欠けた意見は,基本,聴くに値しない。

しかし,本書へのいらだちは,それだけではない(当事者意識のないどころか,高みから見下ろしているのは,この手の論客のお得意技なので,そのことはさて置いても)。

たとえば,

「『自由』や『民主』『富の獲得』『平和主義』といった戦後の『公式的な価値』は,実は,一皮むけば,すべて自己利益の全面肯定になっている」

と書く。「公式的な価値」って,誰にとって,誰が,と言う茶々は入れない。そういう言い回しで,皮肉たっぷりに言うのが,ご自分の存在基盤になっているらしいので,言ったところで,痛痒を感じまい。問題は,これは,著者の仮定にすぎないということだ。そう著者が仮に仮説として言った,ということだ。ところがである。つづいて,

「すると人はいうでしょう。人間とはそういうものだ。どうして利己心をもって悪いのか。そうです。別に悪くありません。誰もが自分の生命や生活を第一に考え,自己利益を目指し,富が欲しい。これは当然と言えば当然です。しかし,戦後の『公式的な価値』は,この本質的にさもしい自己利益,利己心を『正しいもの』として正義にしてしまったのです。それに『自由』や『民主』や『経済成長』や『平和主義』という『錦の御旗』を与え,『政治的正しさ』を偽装してしまったのです。」

こういうのをマッチポンプと言う。ご自分で問い,それに「さもしい」という問いにはなかった価値判断までも加え,「(自分ではないアホな国民が)正しいものにしてしまった」と言っている。この論旨は,詐欺である。

そもそも仮定は,著者がした。この仮定を受け入れなければ,たとえば,「自己利益」という前提を外せば,別の結論になる。こういうのを,前提に結論を入れている詐術という。

決められない政治,責任を取らない云々と批判のある風潮に対して,こう言う。

「『決断をする』にせよ,『責任をとる』にせよ,これは指導者に求められる責務なのです。そして,『決断』も『責任』も,それなりの力量や先見性をもった『主体』でなければできません。『決断』はいうまでもなくまったく未知で不確定な未来へ向けてひとつの事柄を選び取ることで,そこには先見性と強い意志がなければなりませんし,『責任』の方も,選択の結果がいかなる事態を引き起こすかというある程度の因果関係の推論がなければ意味を持ちません。」

ここまでは,まあ,いい。しかし,ここからがお得意の論旨の展開である。

「こうしたことを予見できるのは,人並み外れた能力なのです。ということは,われわれは,人並み外れた力量を指導者に求めているのです。(中略)ところが他方で,われわれの理解する『民主主義』とは,『民意を反映する政治』であり,われわれの常日頃の思いや感情や不満が正字に反映されるべきだ,という。指導者とは,われわれのいうことをよく聞き,われわれの不満を代弁してそれを解消してくれるはずの者なのです。端的に言えば,民主主義のもとでの政治家とは,『庶民感覚』をもった者で,できる限り我々に近い人であるべきなのです。
こうなると矛盾は覆い隠すべくもないでしよう。われわれは,一方で,指導者に対してわれわれにはない卓越性とたぐいまれな力量を求め,他方では,指導者はわれわれとチョボチョボであるべきだといっているのです。」

こうやって,単純化して,あえて,論点を明確にするというやり方はある。しかし,この矛盾は,著者が立てた仮説に基づく。その仮説が違っていれば,話はかみ合わない。

たとえば,「無責任」で問題にしていることは,こういう抽象的なことではない。もっと具体的な,あのこと,このことである。ひとつひとつの具体的なことについて,責任を取っていない,と言っているのである。

最近の例で言えば,原子力規制委員会の田中委員長は,合格を認定したが,

「再稼働の判断には関与しない。安全だとは私は申し上げません」

と言い,菅官房長官は,

「規制委が安全性をチェック。その判断にゆだねる」

と言い,岩切薩摩川内市長は,

「国が責任を持って再稼働を判断すべき」

と言う。そして,

「もし事故が起きたら、その時の責任は?」

と質問されて,岩切薩摩川内市長は,

「これは国策だから、国が責任を取るべきだと思う」

と言う。責任とは,たとえば,この一連のなすり合いのような,具体的な言動,事案について言っている。

あるいは,メルトダウンしたフクイチは,いまだコントロールできず,全太平洋を汚染つつあるのに,

コントロールロー出来ている,

という平然とウソを言い,ウソがまことの如く頬かむりしているという,個々の具体的な言動を指している。それを一般論に置き換えて,それは,

ないものねだりだ,

ということで,無責任を容認しようとする,この論旨こそが無責任な,論旨のすりかえである。たとえば,政治も,国家→県→市町村という政治レベルのクラスを意識的にぼかし,一般論として,ひとしなみに捉えて,政治家は,

われわれの不満を代弁してそれを解消してくれるはずの者

と言い替えてしまう。まさに,巧妙かつ卑劣である。この手の論旨に満ち溢れていて,もういちいち指摘するのも辟易する。

G・ライルは,知性は,

Knowing that
だけではなく,
Knowing how

がなければだめだという。著者は,シニカルに逃げて,

Knowing how

を一切示さない。自分なりにどうするかを示さなければ,所詮知識のひけらかしか,批判への評論でしかない。自分は安全なところで,時代を享受しながら,時代をシニカルに皮肉る。知性的なふりをした,巧妙なプロパガンダ以外の何ものでもない,

社会思想

の「偽装」である。しかし,ご自分が当事者意識を持とうが持つまいが,ご自分の子息,縁者の子息は巻き込まれる。あるいは,黒澤明がこずるく兵役を免れたように,この手の人には,抜け道があるのかもしれない。でなければ,ご自分を対岸においてものを言う神経が理解不能だ。

たしか,ミルトン・エリクソンをベースにする,NLP(神経言語学的プログラミング Neuro-Linguistic Programming)には,ミルトンモデル(その反対はメタ・モデル)というのがあり,物事をあいまいに糊塗する言葉遣いというのを列挙している。たとえば,

一般化
省略
歪曲

とあるが,とくに気になるのは,省略の一種(だと思う),

遂行部の欠落(あるいは遂行主体の曖昧化)

といわれるものだ。

誰が,
誰にとって,

という主体が,対象が,意識的にぼかされる。NLPのテキストは言う,

「話し手は,自分に当てはまるルールや自分の世界モデルを,他人にも押し付けようとする時に,遂行部の欠落を使います。」

あたかも,

すべて,
みんな,

ということで,何かを手に入れようとする子どものよく使う手のように。

「みんなそうだよ」。

参考文献;
佐伯啓思『正義の偽装』(新潮新書)
G・ライル『心の概念』(みすず書房)



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2014年07月24日

仕事




という字を調べていて,

侍ろう

から来ており,その連用形,

サブラヒ→サムライ

と音韻変化した,という。高位の人,目上の人の,側近くに仕える人を言う。後,北面の武士ではないが,

武士

を指すようになった,という。つまりは,ただ役割を指しているにすぎない。



は,成人男子を指すが,周代だと,

諸侯―大夫―士

の三層に分かれたし,春秋・戦国時代以降は,

広く,学問や知識によって,身を立てる人

を指す。論語で言う,

士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任となす。亦重からずや。死して後己む。亦遠からずや

という,あの士である。

この士の字を,中国語源では,

仕事をする場所の目印

とある。つまり,

一(目印)+|(杭)+一(地面)

と分解できるという。そして,事は,

旗を立てる,立つ

と同系,仕とも同系とある。

では,ついでに,

侍という字は,というと,

貴人のそばで仕事をする人,またその仕事

で,

人+寺(仕事)

と分解できる。ついでに,仕事の「事」はどうかというと,

つかえる,

という意味だが,この字は,

計算に用いる竹のくじ+手

で,役人が,竹棒を筒の中に立てるさまを示し,

そこから転じて,所定の仕事や役目の意になったという。

では,「仕」は,というと,同じく,

つかえる

という意味だが,

真っ直ぐに立つ男(身分の高い人の側にまっすぐ立つ侍従)のこと,

という。

事君(君につかふ)と仕君(君につかふ)とは同じこと,

とある。

仕事という言葉自体は,語源的には,

シ(為る)+事

で,すること,しなければならないこと,の意。平安期では用例がなく,中世になって初めて現れる言葉らしい。明治期以降,物理用語として訳されて,

物体が外力で移動する

意らしい。

「侍」は結局のところ,始源的には,その立っている位置というか,立場を示しているだけに過ぎず,大事なのは,どういう「事」に仕えるか,ではないか。

事とは,旗である。旗とは,

「旗」の字のつくりの「其」を除いた部分(風になびくハタの意)+其(合図)

の意味という。旗幟鮮明の「旗」である。「はた」には,

旛(旗幅の下に垂れ下がるしるしばた),旂(鈴のある旗),旃(曲り柄の旗),旆(種々の色の帛でつくった旗),旄(毛で造った旗飾り),旌(あざやかな色の鳥の羽をつけた旗印),旐(亀谷蛇を描いた旗),旒(はたあし,旌旗の垂れ下がるもの),旟(隼を描いた旗)。

等々があるが,なぜ「旗」が,ハタの総称かというと,

龍虎を描く大将の立てるもの

だからである。

自分の旗を立てる,あるいは,仕事に旗を立てる,ということについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163010.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163049.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163175.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163553.html

等々で何度も書いたが,自分の旗を立てるとは,自分が何を仕事にしているか,あるいは,自分は何をするためにここにいるか,を明示するということに通じる,と改めて感じた次第…とは,我田引水が過ぎたか。

しかし,所詮,士とは,役割にしか過ぎない。大事なのは,

死してのち已む

という志というか,心映えがあるかどうかということなのではないか。それが,

事に当たる

の「事」であり,事は,すなわち,

おのれの旗

である。結局,その旗に,仕えることを,

仕事

という。旗なきを,

労働を

何と言うのだろうか。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)



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ラベル:仕事
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2014年07月25日

諦める


諦めるは,以前,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163539.html

で書いたことがあるし,諦めるに似た,「心が折れる」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/398404438.html

で触れたことがある。

語源的には,前にも触れたが,

明らめる(明らかにする)

である。

明ら+む

で,

先を明らかに見て,否定的に悟る

の意味。まあ,

先々を見通して,だめだと見込む。思い切る,断念する,

の意味になる。

仕方がないと,思いを断ち切る,

とする辞書もある。しかし,もともと,



の字は,

詳らかにする
明らかにする
いろいろ観察をまとめて,真相をはっきりさせる

という意味で,いい意味では,仏教用語の,

悟り

になる。その場合,見通しが真相なら悟りになり,



と同系とあるので,

締めくくる,という意味にもつながる。本来,「諦」の字に,悲観的なニュアンスを見てしまうが,本来の意味からすると,

詳らかにする
明らかにする
いろいろ観察をまとめて,真相をはっきりさせる

には,悲観のニュアンスはないのではないか,という気がする。漢和辞典の熟語では,

諦観

も明らかに見る,だし,

諦思

は,詳らかによく考える,だし,

諦視

は,明らかに見る,だ。それが,わが国では,

あきらめる

に変じた。古語辞典をみても,「明らむ」は,

はっきり見る
(こころを)晴らす
事情・理由をきわめる

という意味しか出ていない。『大言海』をみると,やはりそうなのだが,

明らむ

の次に,

あきらむ

とあり,

詳らかに見極む
理由を究め知る

とあって,「明らむ」の

明らかに見る

の転じたものとある。その次に,

あきらめ  思いを立つこと
あきらめる 思い切る

と載る。屁理屈のようだが,

見きわめた結果,

が,転じて,断念の意味にシフトしたということなのだろう。しかし,悲観のみにシフトしたのは,ひょっとすると,勝手な妄想だが,浄土思想の蔓延していた,平安末期なのかもしれない。見きわめれば見きわめるほど,この世に展望が開けない,というように。でなければ,悲観一方へシフトしきったのがよくわからない。

しかし,何を諦めるというのだろう。




人生
志,
未来,
理想,
自分,
才能,
希望,

しかし,見切ったと思った瞬間,その思いを裏切るように,何かが涌き出てくる。自殺するのであっても,おのれの死そのものにも,何らかの仮託がなければ,そもそも死なないだろう。死ぬことで,得られるものがあるのだ。

楽になる
苦からの解放
極楽浄土
厭離穢土,欣求浄土
救済

いつも,何かを仮託する。せざるを得ない。ということは,

見切りながら,見切った先に別の何かを見ている,

ということになる。

明らむ

とは,まさにその意味かも知れない。




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2014年07月26日


「笑」の古語は,「咲」だという。

『古事記』の天の岩屋戸神話で,

八百万神共に咲ひき,

と,八百万神がアメノウズメの命の踊りに,共に笑ったという表現で使われているのは,

笑う

ではなく,

咲う

である,という。「咲」は,「笑」の古語という。

まずは,「笑う」の語源は,

ワラ(割・破る)+ふ(継続)

である。

顔の表情が割れ,それの継続・反復する状態を言う,

とある。つまり,顔の表情が割れ続ける,を指す。

では,漢字の「笑」は,と言うと,

口をすぼめて,ほほとわらう,から転じて,口を広げてわらう

とある。「笑」は,

竹+夭

と分解できるが,「夭」は,

細くしなやかな人

の意で,「笑」は,「竹+夭(ほそい)」で,もともと細い竹のこと。正字は,

口+笑

とも言う。だから,

口をすぼめてほほとわらうこと,

だったらしい。それを誤って,



と書いた,と言う。では,「咲」はと言うと,

口をすぼめてわらう

という意で,「笑」から転用されたが,日本では,

鳥鳴き花咲ふ

という慣用句から,

花がさく

意に,転用されるに至ったという。

「笑」以外には,

嗤 歯をむき出してあざわらう

哂 息を漏らして失笑する

噱 大笑い

に対して,「笑」は,

喜んで顔を解き,歯を啓く,の意となる。

しかし,



より,



の方が,笑いによってその場が変ずる様子がよく出ているように思う。さすがに,象形文字である。

表情が一変する,

というのもまた,

咲ふ

のほうがよく表現できる。文字の向こうに景色が見える。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)




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2014年07月27日

世界観


千田稔『古事記の世界(コスモス)』を読む。

著者は,あとがきで,こう書く。

「本書では,『古事記』の底流をなしている自然をぬきだして,日本人の自然観と,そこから見えてくる,カミ意識に主たる焦点を定めた。古来,この国のカミ意識は,万物に神霊が宿っているというアニミズムであった。欧米などの一神教からは,見えない世界であって,原始宗教とさげすまれた位置づけをされてきた。だが,地球のいわゆる「環境問題」が深刻化の様相を呈しつつある昨今,自然界のすべてに神霊が宿り,人間も自然界に属しているというアニミズム的認識こそが,『環境』論を考えるとき,『共生』よりも,強い倫理性を発信できると思い,そのようなことが『古事記』によって示唆されているのではないかという思いで,本書を綴ってみた。」

と,しかし,序では,

「『古事記』は史書である。史書に登場する神々のすべてを,単純にアニミズムという枠内に収めることはできない。なぜならば,純粋な自然の霊への信仰だけでなく,『古事記』という政治的色合いをもった史書に収められている自然と神の関係からは,創作性をぬぐいさることができない場面もあるからである。そのために,本書では,無垢の自然に宿る神と,政治性をおびた人格神的なものとを交錯させながら述べることになる。」

と,『古事記』の性格のむずかしさを言い当てている。で,構成としては,

「ある種博物誌のような体裁をとっているが,それは,『古事記』という一つの宇宙論的記述を,腑分けして,解き明かそうとした試み…,」

として,

「史書としての『古事記』をいっぽうに意識しながら,『古事記』の中に見出される自然に目を注ぎ,この国の自然観の源流をたどってみたい,」

と,天と地そして高天の原,ムスヒとアマテラス,海,山,植物,鳥,身体,

と,章分けされている。しかし,一番面白いのは,



である。まず,言う,

カミ

の語源が分からないのである。



が語源ではないか,とあたりをつけていたらしいが,

そうではないのだという。で,いくつかの説が載せられている。

大野晋は,

「カミの語源としてこれまで上げられた,『上(カミ)』,鏡(カガミ),畏(カシコミ),カミの『ミ』は『ヒ』の転化で太陽のことであるという諸説は,いずれも古代の音のうえで『カミ(神)』の語源とはいえないとして,しりぞけた。そして南インドのタミル語との比較研究によれば,カミ(神)の古形カムは『カ』と『ム』との複合によつて成りたった語で『カ』は光線・雷光で『ム』は王・領主であると判明した。」

という。

本居宣長は,「まだ思いつかない」としたうえで,

「すべてカミ(迦微)というのは,…天地の諸々の神をはじめ,それをまつる神社に坐す御霊をも指し,また人は言うまでもなく,鳥・獣・木草の類,海・山などその他何であっても,尋常でないほどすぐれたるところがあって,かしこきものをカミと言う。」

谷川健一は,

「神(カミ)はクマと音が通じていて,クマシネは神に捧げる稲のことでその稲を作る田をクマシロというとして,…『和名抄』の岩見国邑知郡と淡路国三原郡に神稲(くましろ)郷…もそれに準ずるとする。」

もうひとつ谷川は,

「『クマ』は山の籠ったところを指す形容語という説があるが,『カミ』も幽暗なところに在すものという意味であると説く。」

さらに,古代朝鮮語のcomあるいはkumaは,どちらも暗い空間という意味である,ということから,著者は,

熊野

のことを想起する。そして,

「牟婁(むろ)という地名が熊野にあること,『むろ』は『もり(杜)』に由来するならば,大和の三輪山,すなわち『古事記』の御諸山の『みもろ』に通じることから,『熊野』という地名と『カミ』とのつながり」

は検討に値すると,留保しつつ,著者自身は,『カミ』の由来を,

「本来『カミ』は荒ぶる存在であったため,白いイノシシも黒いクマも『カミ』として認識されたが,黒いクマがより獰猛であったために『カミ』のシンボル性を強く表現した」

と考えるに至る。それは,本居宣長の,あらぶるものすべてが「カミ」とするものの延長線上にあるが,そういうものとして,カミを見ていく,と言う仮説の上に立って書いている,と表明のと同様である。

もうひとつ著者が注目するのは,道教の影響である。『古事記』の撰録と献上を太安万侶に命じたのは元明天皇であるが,諡が,

天淳中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)

である。

天淳中原

とは,天の瓊(たま)を敷きつめた原,瀛は瀛州(中国の東の海に浮かぶ不老長寿の薬のある三神山の一つ)という意味で,真人とは,道教で高い位の千人をいう。

その元明天皇に強い影響を与えた斉明(皇極)天皇も,宮の近くにある多武峰の山頂に,両槻(ふたつきの)宮あるいは天宮(あまつみや)と呼ばれる観,つまり道教寺院をつくった。

ということは,『古事記』を作った人々には,道教の世界観で,見えていたものがある,そうして見えた景色がある,ということなのだ。

その意味で,『古事記』の冒頭,

「天地初めて発けし時,高天の原に成れる神の名は,アメノミナカヌシ(天之御中主)の神。次にタカミムスヒ(高御産巣日)の神。次にカミムスヒ(神産巣日)の神。この三柱の神は,みな独神と成りまして,身を隠したまひき。」

でいう,「高天」に神が住むという信仰は,道教由来ではないか,と言う。

「おそらく,高天の原は,…中国の経典を参考にしてつくられた言葉であると思われる,」

と,著者は推測する。その意味するところは,

「『古事記』は稗田阿礼の口誦によったとする素朴な成立事情だけからは説明できない,」

ということになる。そして,この『古事記』の冒頭は,『日本書紀』にはなく,一書第四の諸説の一つとして載せているだけである。このことを,著者はこう推測する。

「これは,天武天皇の命によってつくられた『古事記』の高天の原の記述には,政治的宗教的意図があることを明示していると読みとれるのである。『日本書紀』の編纂者たちは,それを過小評価しようとしたのである。」

実は,その言葉が,その言葉を使っている人の見ている世界を示す。その言葉の意味に,大袈裟に言えば,世界観がある。人は,世界を,おのれの世界観で見ている。というより,おのれの世界観しか,そこに見ない。別に現象学的な意味だけではなく,そういうものの見方なのだ。とすると,その言葉が,どう意味で使われたのか,はその世界を共有するためには必須になる。

世界観と言う言い方が大袈裟なら,景色といってもいい。たとえば,

ササギ

という鳥の名がある。仁徳天皇を,

大雀命(おおさざきのみこと)

とよぶ,このサザキである。これには,



の字を当てて,

スズメ

であったり,

ササギ

であったりし,『日本書紀』では,鷦鷯の字で,ササギ,と訓ませている。これは,今日,

みそさざい

を意味する。雀かミソサザイかでは,見えているものが違うのである。

『古事記』の宇宙を見るのは,一筋縄にはいかないのである。

参考文献;
千田稔『古事記の世界(コスモス)』(中公新書)




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2014年07月28日


正直,無知をさらけだすようだが,



は,士+心と勝手に分解していた。恥ずかしながら,勘違いも甚だしい。『漢字源』には,

この士印は,進みゆく足の形が変形したもので,「之」(ゆく)と同じ。士・女の士(おとこ)ではない。志は,心が目標をめざして進み行くこと,

とある。

心の之(ゆ)くところ,

ともある。『大言海』は,

こころざし

こころざす

を分けている。

こころざす

は,

①心,其の方へ,動き向かう,思い立つ,めざす
②志して,贈る,あたふ
③亡霊へ,香花を手向く

とあり,

こころざし

は,

①(こころざすの)①,こころばせ,こころばえ,おもいこみ
②贈り物,進物
③亡霊への手向け,追善,追福

とある。では,漢字としての「志」の意味は,というと,

①こころざす,ある目標の達成をめざして心を向ける。「心」+さすに由来する訓。志向。
②こころざし。ある目標をめざした望み。またあることを意図した気持ち。大志。立志。
③しるす。書きとめる。「誌」の同系。
④書きとめた記録
⑤はた,幟に通ず。
⑦やじり
⑧節義,または見識のあること。

とある。


志向性

というより,単に,


指向性

を示しているにすぎないように見える。しかし,違う気がする。

ただ目指す

という意味よりは,

尖り

を感ずる。

志士
士気
志節
志操
志願
志格

等々という語句には,



という言葉のもつ倫理性を強く感じる。倫理性とは,僕流儀では,

いかに生くるべきか

というその人のコアの価値観のようなものがある。

同じめざすにしても,そういう倫理とつながる。だから,

吾十有五にして学に志し

は,単に学問を学ぶというようなことではないのではないか,そこに,「志」が使われている意味は。

当然,『近思録』の由来となった,

博く学びて篤く志(し)り,切に問いて近くに思う,仁はその中にあり

の「志」を,知るに当てるには,それなりの重みがある,と見なせる。因みに,貝塚訳注では,

「志」を「識」つまり記憶するという解釈に従った。「学」は他人に習うことであり,この習ったことを「篤く志る」

とある。一般には,

博く学んで篤く志し,切に問いて近く思う

というように,こころざし,と読ませているが,すでに学ぶこと自体が,

学に志し

ているのだか,志して学んでいるものが,改めて,

博く学んで篤く志し,

は,変である。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)



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2014年07月29日

墓参


友人の墓参に行ってきた。

電話で,彼の死の報とともに墓の場所を聞いた友人と待ち合わせ,出かけてきた。

横浜から,かれこれ片道二時間の道のりである。酷暑の予報通り,照りつける日差しに辟易しての道中だったが,下車駅に近づくにつれて,天が俄かにかきくもり,いきなり雷鳴と激しい雨に見舞われた。電車が停車して,ドアがあくと,そこから激しく雨が吹き込んで,車内の床とシートをびしょ濡れにするという状態だったが,下車駅では,何とか小降りになった。

あいつが,来るな,

と言っているのか,などと二人で冗談をかわしたほどだが,激しい雷鳴は続いていて,広々とした霊園では雷が怖いが,まあ,行くだけ行くか,と送迎バスに乗り込んだ。

メモリーパーク

というのに初めて出かけたが,山すそを切り開いた,だだっ広い丘陵が,整然と区画整理されている。しかし,雷鳴がずっと続いていて,こんなところで雷に打たれてはシャレにならない,というほどだったが,幸い,当該区画に着いたときは,雨も,雷鳴も少し遠のいていた。

その隙に,何とか見つけようとしたが,区画はあっていたが,番号が違っていた。友人は四桁と聞いてきたが,ここには三桁しかない,と近くにいた係員に言われ,順次探っていったが,見当たらず,呆然と立ち尽くした友人の側へ戻ってみると,その目の前の墓石に,かすかに,うろ覚えのご子息の名前の,ローマ字表記が見えた。近づくと,確かに,友人の姓が読み取れた。

びっくりさせられること,どうやら,不思議なことに,此処だと,呼ばれたものらしい(てなわけはないが)。

自然石を断って無造作に立てたような墓石に,

鳥飛如鳥

で終わる詩句が刻まれ,その下に,小さく,ご子息の名がローマ字表記されていた。彼らしい,ちょっと凝った墓石であった。先に亡くなったご子息の個人名の墓である。ここに,彼は入っている。

雷鳴が近づくとともに,また雨脚が激しくなる中,花を添え,缶ビールを開け,

献杯

して,片づけ始めたときに,本降りになった。

ずっと雷鳴が続いているのに,駅へ戻ると,青空が広がり,陽射しが強まっていた。

帰りの直通電車が時間が合わず,地元へ帰ってからのつもりが,そこでちょっとやっていくことになり,それでまた時間を逃し,結局目当ての直通電車を外して,とろとろと乗り継いで帰る羽目になった。

途中で乗り換える時,座席から立って,ドアまで行ったところで,僕は,ふいに崩れた。すぐに意識が戻ったが,瞬間しゃがんだ自分がどこにいるかわからなくなり,一瞬意識が飛んでいた。友人に言わせると,

腰砕けのように

崩れたという。すぐに,座り込んでいる自分に気づいて我に返ったが,ほんの数秒頭が真っ白で,視界がぼやけていた気がする。亡き友人のいたずらかと思ったが,朝から水を飲んでいなかったせいではないか,と気づいた。

まあ,いろんなことがあった墓参であったが,気になって,詩句を調べると,恥ずかしながら,道元の有名な箴らしく,道元が宏智『坐禅箴』を受けて自ら撰述『坐禅箴』にその一句があった。『正法眼蔵』に収められている,という。

多分墓碑は,

水清徹地兮
魚行似魚
空闊透天兮
鳥飛如鳥

とあったと思う。書きとめたわけではないが,そうか,道元ときたか,と亡くなった彼らしいと思う。

座禅箴

とは,

真実の坐禅の意義を示したもの。「箴」とは処方のことである

という。

「箴」は,意味としては,

布を合わせて仮に留めておく竹ばり

らしく,しつけばりや漢方の石張りも指し,鍼や針と同類。

竹+咸(とじ合わせる)で,深く入り込む意味

らしく,そこから,

いましめ,箴言

につながったものらしい。

で,墓碑銘だが,

水清んで徹地なり 魚行いて魚に似たり
空闊透天なり 鳥飛んで鳥の如し

これだけだとちょっとわかりづらいが,座禅の境地を指している,というのだろう。彼の意図はわからないが,先だったご子息へのと同時に,自分自身への心境のような気がする。全文は,

仏仏の要機 祖祖の機要
不思量にして現じ 不回互にて成ず
不思量にして現ず 其の現自ら親なり
不回互にして成ず 其の成自ら証なり
其の現自ら親なり 曾て染汚無し
其の成自ら証なり 曾て正偏無し
曾て染汚無きの親 其の親無にして脱落なり
曾て正偏無きの証 其の証無図にして功夫なり
水清んで徹地なり 魚行いて魚に似たり
空闊透天なり 鳥飛んで鳥の如し

とあり,偏りなき境地のことを指しているらしいことが読める。只管打坐では,

人脱落して人の如し

との箴があるらしい。

結果として,その墓碑銘に,彼は,自分自身の境地をも刻んだことになった。

まさか,自分が彼の墓参りをすることになるとは,予想もしなかったが,どうやら,これで自分の気持ちもひと段落となればいいのだが。まさに,

鳥飛んで鳥の如し

かもしれない。


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2014年07月30日


死は,

歹(骨の断片)+ヒ(人)

で,人が死んで骨片になることを指す。

逝は,あの世へ行く
歿は,姿が見えなくなること,
暴は,いなくなること,
崩は,山が崩れるようになくなること。天子の死に用いる,
薨は,見えなくなることで,諸侯の死に用いる,
卒は,身分の高い人の死ぬこと,四位五位の人が死ぬこととある,
寂は,入寂,僧侶の死に用いる,
瞑は,死者が目を閉じて永眠するのを指す,

等々ある。まあしかし,おのれについては,

くたばる,

がふさわしい。あるいは,

朽ち果てる,



お陀仏

か。昨今,

不在のそこ,

ということを,しきりに意識する。前にも,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/401327978.html

書いたが,

自分のいないそこ,

という意味だ。嫉妬に近い。別に死期を察している,というような殊勝なことではない。

死期については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/398561730.html

で触れたが,近さが,間違いなく実感できるほどになったということだ。

死は,両親の死も堪えるが,友人の死の堪え方は,ちょっと違う。これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/398323501.html

で触れた。まあ,まだ立ち直れないというか,立ち直ることはないだろう。むしろ,おのれの死をどう向かい入れていくか,というように変わるのかもしれない。

唐詩選の有名な,

年々歳々花相似
歳々年々人不同

をふと思い出す。

洛陽城東 桃李の花
飛び来たり飛び去って誰が家に落つる
洛陽の女児 顔色好し
行くゆく落花に逢うて長歎息す
今年花落ちて顔色改まり
明年花開くも復た誰か在る
已に見る 松柏の摧けて薪となるを
更に聞く 桑田の変じて海と成るを
古人無復洛城の東に無く
今人還た対す 落花の風
年々歳々、花相い似たり
歳々年々人同じからず
言を寄す 全盛の紅顔の子
応に憐れむべし 半死の白頭翁

かつては,若い人の立場で,そう見ていたように感じる。いまは,

半死の白頭翁

で見ている。歳の移り変わりを,詠嘆する気にはなれない。

明日ありと思う心のあだ桜,夜間に嵐の吹かぬものかは,

とは親鸞の言らしいが,

花に嵐のたとえもあるぞ

とか,

月に叢雲,花に風

とかは,この一瞬の楽しさ,美しさが,束の間に消えていく,

ことを言っている。いわば,

無常

だが,どうも,そのポジショニングは,自分には

よそごとか,上から目線か,

を感じてしまう。もっと切実である。

明日死ぬ,

と思っている人間に,言える言葉ではない,と考えてみれば,そのギャップは大きい。

そのいま位置いるのである。別に深刻ぶっているのではなく,実感である。だから厄介なのだ。



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ラベル:唐詩選 親鸞
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2014年07月31日


とも

を引くと,



與(与)





等々が出るが,「友」と「朋」以外は,予想外。ただ「與」については,思い当るものがある。『論語』に,

中候を得てこれを与(とも)にせずんば,必ずや狂狷か。狂者は進みて取り,狷者は為さざる所有るなり

とある。中庸の人間を友とすることができないときは,狂者か狷者を友とする。狂者は積極的に行動するし狷者は絶対に妥協しないところがある,という意味だ。「与」を友としている。「与」は,



の字であり,

ともに
とか
あずかる
とか
くみする

という意味をもっているので,想定できなくはないが,語源をみると,



の原字と同系とあり,

噛み合った姿を示す,

とある。



は,さらに四本の手を添えて二人が両手で一緒に者を持ち上げているさまをしめす,

と言い,

かみあわす
とか
力をあわせる

の意を含む,らしい。



は,同列に並ぶ友達。仲間。僚友

とある。どうやら,官人をさして,いる。同僚の意味だ。

燎(かがりび)

の原字。前後左右に連なる意を含む。「僚」は,人を添えた字で,同列に連なる仲間のこと。



は,やはり同列に並んだ仲間の意で,絶倫(仲間をはるかに超えた)。原義は,



は,「あつめるしるし+冊」の会意。短冊の竹札を集めてきちんと整理するさまを指す。紙の発明前に使われていた竹簡で,竹札をつなげていたのに由来するのだろう。そこから,同類のものが,順序良く並ぶの意を含む。で,「倫」は,

きちんと並んだ人間の間がら

の意味になる。



は,ともづれ,の意味。肩を並べる,意味。



は,並んだ脊椎の骨の形を描いた象形文字。で,「侶」は,

同列に並んだ人,つまり,仲間

の意味。



は,共,一緒に物事をする人,の意。



は,八印によって物を両断することを示す。で,「伴」は,

一体を二つにわけたその片方のこと,つまり,相棒

を指す。



は,対等の姿で,肩を並べたともだち,の意味。

数個の貝を貫いて二筋並べたさま

を,象ったもの。同等のものが並んだ意味,になる。ただ,

同門の相弟子

を指し,「友」とは少し違う。



は,会意は,

庇うように曲げた手を組み合わせたもの,

で,手で庇いあうことを指す。

仲良くかばいあう仲間

の意味。同志は,「友」と言うが,「朋」とは言わない。

いずれも,「とも」には違いないが,



とは微妙に違う。

朋有り遠方自り来たる,亦た楽しからず乎

と一般に言うが,貝塚注は,

「遠方」は現代語の遠方ではなく,遠国の意味に取るとしてもこの時代では見慣れぬ用法である。中国近世の学者兪樾(ゆえつ)の説をもとにして,同僚や旧知人たちがうちそろってやってきて,孔子の学園の行事に参列したと解釈する,

として,こう訓んだ。

有朋(とも),遠きより方(なら)び来る,亦楽しからずや

と。しかし,貝塚先生に逆らうようだが,「朋」が,同門の相弟子と解すると,ちょっと無理な気がする。

横井小楠は,講義録のなかで,

朋友なければ学問致しても天より承け得たる明徳をあきらかにすることはできない。有朋自遠方来でいう朋有りとは、学問の味を覚え修行の心盛んなれば,おのれの方より有徳の人と聞かば遠近親疎の別なく親しみて近づいて話し合えば自然と彼方よりも打ち解けて親しむ,これが感応の理というものだ。朋は学者に限る意味ではない。誰でもその長をとって学ぶときは世人皆吾朋友なり。ぼんやり往来するという意味ではない。もう少し広めていえば,当節幕府より米利堅(めりけん)へ遣わされし使節を,米人厚くあしらい,その厚情の深きを考え思うべきだろう。これ感応の理だ。この義を推せば日本に限らず世界中皆我朋友といってもよい。

という説明をしている。途方もない楽天家,小楠らしく,話を広げているが,「朋」は,学友であり,同志の謂いではない。ただ,吉川英治の言う,

我以外皆我師

という意味で言えば,小楠の言うように,

誰でもその長をとって学ぶときは世人皆吾朋友なり

と,朋といっていいのかもしれない。因みに,同志とは,

志を同じくする人,

とある。

志,

とは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/402717305.html

で書いたが,

・こころざす,ある目標の達成をめざして心を向ける。「心」+さすに由来する訓。志向。
・こころざし。ある目標をめざした望み。またあることを意図した気持ち。大志。立志。

とある。一緒に何かの達成を目指している仲間である。少なくとも,「友」にしろ「朋」にしろ,ここで,

とも

といっているのが,フェイスブックでいう,

友達申請

の友達ではないことだけは確かである。

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
山崎正董『横井小楠』(明治書院)


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