2014年07月02日

知への意志


ミシェル・フーコー『〈知への意志〉講義』を読む。

「ミシェル・フーコー講義集成1」である。「コレージ・ド・フランス講義 1970‐1971年度」。フーコーの講義録である。実際の講義の録音を基にすることになっているが,この年度には,それがないため,フーコーが講義のために残した草稿にもとづいている。

こんな知の巨人について。何か論評できるはずもなく,ただその精緻な論理と奥行きの深さに,昨今の日本の知のレベルの劣化というか,痴呆化に思いが至る。

しかも,これがコレージュ・ド・フランスの講義だということだ。出席者は,大学生,教職員,研究者,その他の興味本位の人たちに,毎週行われている。この知的レベルの高さに,まず驚嘆するしかない。それに比して…,もはや言葉もない。

「知への意志」と題したのこ講義は,

真理への意志が,言説に対して排除の役割を果たすのではないかどうか,すなわち,真理への意志が,狂気と理性の対立が果たしうる役割,もしくは禁忌のシステムが果たしうる役割に―一部において,そしてもちろん一部においてのみ―類似した役割を果たすのではないかどうか知ることである。

と始まる。そしてこう問う。

真理への意志は,他のあらゆる排除のシステムと同様,根底において歴史的なものではあるまいか。真理への意志は,その根底において,他の排除のシステムと同様,恣意的なものではあるまいか。真理への意志は,他の排除のシステムと同様,歴史のなかで変容を被りうるものではあるまいか。真理への意志は,他の排除システムと同様,制度的なネットワーク全体によって支えられ,絶えず再開されるものではあるまいか。真理への意志は,他の緒言説にたいしてのみならず他の一連の実践に対してなされる拘束のシステムを形成するのではあるまいか。要するに,問題は,真理への意志のなかに,いかなる現実の闘いといかなる支配の介入が入り込んでいるかを知ることなのだ。

問いは,それが新しく,鋭ければ鋭いほど,あらたな答えを秘めている。そこには,

真理は権力の外にあるのでもなければ,権力なしにあるのでもない,

というフーコーの立場が含意されているらしい。つまり,

知は,無私無欲でも,正義でも,まして,自由でもない,

ということを,フーコーは暴き続けている流れの中において見なくてはならない。別のところで,フーコーは,次のように語っている,という。

知識人の役割は,他の人々に対して何を為すべきかを語ることではありません。いかなる権利があって知識人はそんなことをしようというのでしょう。……知識人の仕事,それは,他の人々の政治的なのかたちを定めることではありません。そうではなくて,それは,自分自身の領域において行う分析の数々によって,自明性や公準を問い直し,慣習および思考や行動の仕方に揺さぶりをかけ,一般に認められている馴染み深さを一掃し,規則や制度の重要性を測り直し,そして,そうした再問題化から出発しつつ,一つの政治的な意志の形成に参加することなのです。

おのれの専門領域で,既成概念を崩し,そこから政治的な意志形成に参加しろ,ということだ。いまなら,各々の立場で,いまの日本の方向性を正すべく,深掘りし,知の再形成に挑め,ということなのだろう。しかし,怠惰と惰眠のせいで,いま,もう時間は限られているが。

さて,そこで,フーコーは,さらに,問う。

真理への意志という言葉を口にするとき,……問題となっているのは,真理への意志なのか,それとも知への意志なのか。そして,真理と知という二つの概念のうちの一方あるいは他方を分析する場合には必ず出会うことになる概念―つまり認識という概念―についてはどのようなことが言えるだろうか。

そして,さらにフーコーは,問う。この問いの連鎖の中で,ふと思い出すが,清水博が,

創造の始まりは自分が解くべき問題を自分が発見することであって,何かの答えを発見することではない,

と書いていた。そのフーコーの問い。。。

意志という語を,どのような意味で理解すべきであろうか。この意志という語の意味と,認識への欲望ないし知への欲望といった表現のなかで使用されている欲望という語の意味とのあいだに,いかなる差異をみいだせばいいのか。「知への意志」という,ここで他と切り離して考えられている表現と,「認識への欲望」という,より馴染み深い表現とのあいだに,いかなる関係を打ち立てればよいのか。

と。そして,この例題として,アリストテレスの『形而上学』の冒頭が引かれる。こうある。

すべての人間は,その自然本性によって,認識への欲望を持っている。諸感覚によって引き起こされる快楽がそのことの証拠である。実際,諸感覚は,その有用性を抜きにしても,それら地震によつて我々に好まれるものである。そして,あらゆる感覚のなかでも最も我々に好まれるのが,視覚である。

フーコーは,ここの三つのテーゼを読み取る。

①知にかかわる欲望が存在する
②この欲望は普遍的であり,あらゆる人間のうちに見いだされる
③この欲望は自然によって与えられている

そして,アリストテレスの論証を推測しつつ,また問う。

第一の問い。感覚および感覚に固有の快楽は,いかなる点において,認識への自然的欲望のしかるべき例であるのか。

第二の問い。もし,あらゆる感覚が,それぞれの感覚が行う認識活動に応じてなにがしかの快楽を与えるのであるとするなら,動物たちはなぜ,感覚を持つにもかかわらず認識することを欲望しないのか。アリストテレスが,認識への欲望を,すべての人間に備わるもの,ただし人間のみに備わるものとみなしているように思われるのは,いったいなぜだろうか。

そして,フーコーは,こう答える。

アリストテレスは,一方では,認識への欲望を自然のうちに組み入れ,その欲望を感覚と身体に結びつけて,ある種の形態の喜びをその欲望の相関物とすることに成功する。しかし他方,それと同時に彼は,認識への欲望に対し,人間の類的自然本性のなかで,つまり,知恵の境域,自己のみを目的としており,そこでは快楽が幸福であるような一つの認識の境域のなかで,その地位と基礎を与えるのである。
そしてその結果,身体,欲望が省略される。感覚すれすれのところで諸原因の大いなる平静かつ非身体的な認識へと向かう運動,この運動は,すでにそれ自身,知恵に到達しようとする漠とした意志である。この運動は,すでに哲学なのである。

そこから, こうまとめる。

アリストテレスのモデルが…含意しているのは,知への意志が好奇心以外のなにものでもないということ,認識が感覚のかたちで常にすでにしるしづけられているということ,認識と生とのあいだには根源的な関係があるということである。

ここまでの,わずか数行のアリストテレスの文章を掘り下げ,拡大し,敷衍化していく思考のダイナミズムは,とてもひとつひとつの背景と根拠をフォローしきれない。しかしその奥行きと問いの深さのもつ知の巨きさには,感嘆するほかはない。

このアリストテレスに対比して,フーコーは,ニーチェを取り上げる。

ニーチェのモデルが主張しているのは,逆に,知への意志が認識とは全く別のものに送り返されるということ,知への意志の背後にあるのは感覚のような一種まえもっての認識ではなく,本能,闘い,力への意志であるということだ。

さらに,

ニーチェのモデルは,知への意志が,もともと真理と結びついていたというわけではないことも主張している。知への意志は,錯覚を作り上げ,虚偽をこしらえ,誤謬を繰り返し,真理がそれ自身一つの効果でしかないような虚構の空間において自らを繰り広げるものなのだ,と。

さらに,

ニーチェにとって,知への意志はすでにそこにある認識の前提条件を想定するものではない。真理は前もって与えられるものではなく,一つの出来事として産出されるものであること。

ニーチェは,こう言い切っている。

認識それ自体などない,と言うこと,それは,主体と客体の関係が(そして,アプリオリ,客観性,純粋認識,構成的主体といったその他派生物のすべてが),実は認識の基礎として役立つものではなく,逆に認識によって産出されたものである,

そして,ニーチェは,

コギトのような認識の核心のようなものを拒絶し,

主体と客体との関係は,認識を構成するものではない。それどころか認識によってもたらされる第一の主要な錯覚,

と言い切る。むしろ,

主体と客体との関係から解放された認識,それが知なのである。さらに,哲学的伝統で,

意志と真理との関係の核心に見出されるもの,それは自由である,

というものを,ニーチェは根底から,覆す。

真理と意志との連接は,自由ではなく,暴力

である,と。で,フーコーは問う。

真理が認識以後のものであり,認識から出発しつつ暴力として不意に出現するものであることが本当であるとすれば,真理は認識に対して加えられた暴力であることになる。真理は,真なる認識ではない。真理は,変形され,捻じ曲げられ,支配された認識である。真理は,偽なる認識なのだ。真なる認識との関係において,真理は,誤謬のシステムなのである。

そこを,さらに,フーコーは詰める。

更に一歩先へと進めねばならない。もし真理が,認識することの錯覚を破壊するものであるとすれば,そして,もしその破壊が,認識に逆行して,認識そのものの破壊としてなされるとすれば,そのとき,真理は虚偽であることになる。…真理は,認識することへの報いとして言表されるまさにそのとき,真理を語ってはいない,

と。そして,こうフーコーはまとめる。

このようにして明るみに出された力への意志とはいったい何か。それは,存在(不動で永遠の真なる存在)から解放された一つの現実,すなわち生成である。そしてその生成を暴露する認識は,存在を暴露するのではなく,真理なき真理を暴露するのである。
したがって,二つの「真理なき真理」があるということだ。
―誤謬,虚偽,錯覚としての真理,すなわち,真ならざる真理。
―そうした虚偽としての真理から解放された真理。すなわち,真理を語る真理,存在と相互性を持ちえない真理。

真理の絶対性から解放されたとき,真理は相対化され,その地平の延長戦上に,社会構成主義がある,と見なせば,ここまでの論考に,一つの光明が見える。認識は,生成され,真理もまた生成される。飛躍かもしれない…が。

ところで,付録の「オイディプスの知」は,知の問題を分析した,象徴的な論考で,読み応えがある。その最後に,フーコーは,こう締めくくっている。

我々は,知を,意識=良心という観点から思考しているのだ。それゆえに,我々はオイディプスとその寓話をネガティブなものとしてしまったのである。無知と有罪性という言い方がされるにせよ,無意識と欲望という言い方がされるにせよ,いずれにしても我々は,オイディプスを知の欠如の側に置いており,知に結びついた権力を持つ人物をそこに認めようとはしない。神託と都市の証言が,それらの種別的な手続きおよびそれらによって産出される知の形態に従って,過剰と侵犯の人として追い立てる人物。そうした人物を,我々は底に認めようとはしないのだ。

そこにも,知があるとは,ニーチェの結論から必然的につながっていくように思われる。そして,それは。,権力とつながってもいる,と。

参考文献;
ミシェル・フーコー『〈知への意志〉講義』(筑摩書房)
清水博『生命知としての場の論理』(中公新書)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:03| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする