2014年07月13日

クーデター


半田滋『日本は戦争をするのか』を読む。

解釈改憲をはじめとする現政権の進めている憲法空洞化は,

クーデターである,

そう本書は断罪する。

本書は,

安倍政権が憲法九条を空文化して「戦争ができる国づくり」を進める様子を具体的に分析している。法律の素人を集めて懇談会を立ち上げ,提出される報告書をもとに内閣が憲法解釈を変えるという「立憲主義の破壊」もわかりやすく解説した。

と「はじめに」に書くように,解釈改憲が閣議決定される前までの,安倍政権の言動を,つぶさに分析している。

はじめに憲法空洞化ありきだから,理屈と膏薬は,どこにでもつく。ほとんど,ウソと屁理屈で,本当は理由などいらないのだろう。

集団的自衛権の行使容認に踏み切ること自体に目的があり,踏み切る理由はどうでもよい…,

と言わしめる所以である。空念仏のように,「我が国を取り巻く安全保障環境が一層悪化している」と言いつつ,それを緩和するための政治家として為すべき外交努力を一切しないのも,その伝なのだろう。

だから著者は,こう言う。

なぜ,事実をねじまげるのだろうか。憲法を変えさえすれば日本はよくなるという半ば信仰に似た思い込みがあるのだろうか。

近隣諸国との緊張を高めてナショナリズムをあおり続ける背景には「占領期に米国から押し付けられた日本国憲法を否定し,自主憲法を制定する」との強い意思を示す狙いがあるのだろう。

と。しかし,その自民党憲法改正草案は,

驚くべき内容である。現行憲法の特徴である「国民の権利や自由を守るための国家や為政者を縛るための憲法」は,「国民を縛るための国家や為政者のための憲法」に主客転倒している。近代憲法の本質が権力者が暴走しないように縛る「立憲主義」をとっているのに対し,自民党草案は権力者の側から国民を縛る逆転の論理に貫かれている。

そういう時代錯誤の為政者を生んだのが,国民だとすると,国民の中にある,ドストエフスキーのいう「大審問官」を求める,そう水戸黄門の印籠を求める心性が反映している,としかいいようはない。そう考えると,絶望感に駆られる。

しかし,そういう改憲手続きの手間さえ,安倍政権は省こうとしている。つまり,現内閣の閣議決定による,

解釈改憲

である。そのための道筋は,

①安保法制懇からの報告書を受け取る
②報告書を受けて,あらたな憲法解釈を打ち出し,閣議決定する。
③その解釈にもとづき,自衛隊法を改正したり,必要な新法を制定したりする

で,すでに②まで経た。ここには,国民は不在であり,議会も全く不在である。そして,ロードマップを兼ねる国家安全保障法の制定を目指す。

武器の輸出の緩和
武器輸出三原則の見直し,
秘密保護法
教育基本法の改正

こうして,実質憲法は骨抜きにされていく。ついには,徴兵制を口にされるところまで来ている。自民党憲法草案の現実化である。

国会論議を経ないで閣議決定だけで憲法の読み方を変えてよいとする首相の考え方は,行政府である内閣の権限を万能であるかのように解釈する一方,立法府である国会の存在を無視するのに等しい。憲法が定めた三権分立の原則に反している。(中略)
首相の政策実現のためには,これまでの憲法解釈ではクロだったものを,シロと言い替える必要がある。歴代の自民党政権の憲法解釈を否定し,独自のトンデモ解釈を閣議決定する行為は立憲主義の否定であり,法治国家の放棄宣言に等しい,

為政者が「法の支配」を無視して,やりたい放題にやるのだとすれば,その国はもはや「法治国家」ではない。「人治国家」(ありていに言えば独裁国家であるのだ=引用者)ということになる。ならず者が街を支配して,「俺が法律だ」と言い放っているのと何ら変わらない。

「人治国家」とは,ありていに言えば独裁国家であるのだ(そのせいか,中韓とは敵対しつつ,妙に独裁国家・北朝鮮とはパイプが強まっている,ように見えるのは,勘ぐりすぎか?),そして,著者は,

首相のクーデター

と呼ぶほかはない,と言い切る。麻生の言う,

ナチのやり口をまねる,

まさにそのままである。それが,たんなる糊塗やごまかしではなく,確信犯であるのは,安倍氏の発言からも見て取れる。

安倍氏は,国会答弁でこう言い切った。

「最高の責任者は私です。政府答弁に私が責任を持って,その上で私たちは選挙で国民の審判を受けるんですよ。」

著者は,こう解説する。

意味するところは,「国会で憲法解釈を示すのは内閣法制局長官ではなく,首相である私だ。自民党が選挙で勝てば,その憲法解釈は受け入れられたことになる」ということだろう。

と。選挙で大勝し,内閣支持率が高い,

思い通りにやって,何がわるい,

ということなのだろう。そして,憲法とは何かの質問に対して,

(憲法が)国家権力を縛るものだ,という考え方は絶対掌王権時代の主流な考え方
憲法は日本という国の形,理想と未来をかたるもの

と述べた。ここには,

国民の権利

自由の保障

もない。この延長線上に,自民党の憲法草案がある。

憲法を普通の政策と同じように捉えている
立憲主義の考え方が分かっていない

といっても,たぶん聞く耳というか,そういう考え方は視野にないだろう。まして,国民の自由などは。

さて,安倍氏がただひたすら求めている集団的自衛権は,何をもたらすのだろう。

僕の理解では,集団的自衛権とは,

他の国家(アメリカを想定していい)が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国(日本である)が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利である。

その本質は,

直接に攻撃を受けている他国を援助し,これと共同で武力攻撃に対処する

ところにある。なお,

第三国が集団的自衛権を行使するには,宣戦布告を行い中立国の地位を捨てる必要があり,宣戦布告を行わないまま集団的自衛権を行使することは,戦時国際法上の中立義務違反になる。

そして,著者は言う。

集団的自衛権は東西冷戦のゆりかごの中で成長した。驚くべきことに第二次世界大戦後に起きた戦争の多くは,集団的自衛権行使を大義名分にしている。

ベトナム戦争は,南ベトナム政府からの要請があったとして,集団的自衛権行使を理由に参戦した。

このときの集団的自衛権行使の仕方には,

アメリカのように攻撃を受けた外国(南ベトナム)を支援するケース

韓国のように,参戦した同盟国・友好国を支援するケース

の二つがある。そして,著者は言う。

集団的自衛権を行使して戦争に介入した国々は,「勝利」していない

と。

自国が攻撃を受けているわけでもないのに自ら戦争に飛び込む集団的自衛権の行使は,きわめて高度な政治判断である。一方,大国から攻撃を受ける相手国にとっての敗北は政治体制の転換を意味するから文字通り,命懸けで応戦する。大義なき戦いに駆り出された兵士と大国の侵略から時刻を守る兵士との士気の違いは明らかだろう。

こういう説明のないまま,集団的自衛権行使を,内閣の閣議決定のみで,事実上,

憲法九条

の解釈を変えて,改憲した。集団的自衛権の必要性を説明するために政府の挙げた事例は,個別自衛権,つまり,現状のままで対応可能なのに,である。その説明もない。

しかし,ほとんどその境界線をあいまいのまま,対外的な国際公約としてようしている。

この違いを分かりやすく解説しているのは,

http://www.asahi.com/articles/DA3S11221914.html

である。あいまいのまま,いかにも,自衛の延長戦上に,集団的自衛権があるように思わせたいのであろう。

手続き上と言い,
国民への説明の内容と言い,

ほとんど詐欺同然,泥棒猫の仕業である。

しかし,いままで,アメリカの

ブーツ・オン・ザ・グラウンド(陸上自衛隊を派遣せよ)

の要請を,歴代政権が,九条を楯に拒んできたが,もはや,後方支援ではなく,前線に,戦闘力として参加ができる。つまり,アメリカ兵に代わって,あるいは一緒に血を流してくれる。アメリカ政府が歓迎するわけである。

そしてたぶん,日本が独自に集団的自衛権を行使することはない。恐らく。ほとんどアメリカの集団的自衛権行使に参加することになる。しかもアメリカの(そしてイスラエルの)同盟軍として。それは,アラブを敵にするということになる蓋然性が高い。同時に,それは,スペインやイギリスで起きた無差別テロの標的にもなるだろうリスクをはらんでいる。その言の説明は一切ない。突然,銀座で自爆テロが起きるかもしれない。

ここまですることは,誰かの利益になるからするのであろうと推測はつく。現政権がそのお先棒をかついているのだとして,われわれ国民にとっての利益でないことだけは確かである。

参考文献;
半田滋『日本は戦争をするのか』(岩波新書)



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 04:20| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする