2014年08月01日

77年周期


最近変なことに気づいた。

明治維新が,どこを起点にするかによって微妙だが,鳥羽伏見での幕府の敗北か,その前の王政復古の宣言かで,一年位違うが,1867年か1868年か,そこから敗戦の1945年まで,約77年。

そして敗戦から, 77年になるのが,ちょうどオリンピック頃となる。

僕は密かに

77年周期

を信じ始めている。

外圧に拠るか,自壊によるか,天災によるかは別にしても,77年を迎えるのはオリンピック直後,敗戦かあるいは江戸幕府崩壊に匹敵する何かが起きる気がしてならない。

単なる数字合わせかもしれない。

ひところ,ツイッター上で,こんな類比が流れ続けていた。妙に重なっている(気がする)。

1923年 関東大震災
1925年 治安維持法
1940年 東京オリンピック
1941年 太平洋戦争

2011年 東日本大震災
2013年 秘密保護法
2020年 東京オリンピック

しかし,東京オリンピックまでもたないのではないか,という危惧もあるが,この後に,

2021年 

を加えて,明治維新と敗戦の年を加えると,

1868年 明治維新(王政復古の宣言を取ると,1867年)
1923年 関東大震災
1925年 治安維持法
1940年 東京オリンピック
1941年 太平洋戦争

1945年 ポツダム宣言受諾
2011年 東日本大震災
2013年 秘密保護法
2020年 東京オリンピック
2021年 ?

となる。何となく気味が悪い。

貧富の格差が拡大し,長期に経済が停滞した閉塞状況,中韓への意識と言い,「東京オリンピック」浮かれて,1930年代へと向かう社会状況と,どこか似ている。

われわれは,歴史から学ばない。だから同じ轍を何度も踏む。一部のというか,為政者の大勢(超党派の200を超えた議員による「東京裁判史観」からの脱却を目指すグループがある等々)は,敗戦後の体制が嫌なのだろう,決して敗戦自体を認めようとしない。それは,敗戦で死んだ人々への何の自責もないということだ。

しかし,かつて威勢良く,八紘一宇とかといって戦争に駆り出された軍隊がこれほど悲惨な目にあった戦争というのは,世界にほかに例がないのではないか。軍人・軍属あわせて二百三十万人の戦没者が出ているが,この半数以上が餓死者と言われる。戦闘ではなく,補給の断絶による死とは,戦略の死である。

いやいや何より,戦争自体が,

政治の死であり,政治の敗北である。

だから,開戦できても,終戦の仕方が決断できず,二発の原爆をおとされてもなお,決断できなかった。

決められないのは,いまに始まったことではない。

しかし,だ。戦後レジームの脱却の先で,目指している国は,どうやら,戦前もどきらしいのである。たとえば,それは,自民党の憲法草案を見れば一目瞭然,日本国憲法の前文にあった,

全世界の国民が,ひとしく欠乏から免れ,平和の裡に生存する権利を有する

が削除されている。「平和の裡に生存する権利」を認めないということであろうか。

そして,「第三章国民の権利及び義務」では,

第十二条(国民の責務)
この憲法が国民に保障する自由及び権利は,国民の不断の努力により,保持されなければならない。国民は,これを濫用してはならず,自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し,常に公益及び公の秩序に反してはならない。
第十三条(人としての尊重等)
全て国民は,人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については公益及び公の秩序に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大限に尊重されなければならない。
第二十一条(表現の自由)
1 集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は,保障する。
2 前項の規定にかかわらず,公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い,並びにそれを目的として結社をすることは,認められない。

とし,常に,

公益及び公の秩序に反しない限り,

公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い,並びにそれを目的として結社をすることは,認められない。
と,制約条件が付いている。それは,「公益及び公の秩序に反」に反すると,いつでも投網の範囲を広げる自由が権力側に与えられている。そう,縛りをかけたほうが,

一切の表現の自由は,これを保証する

とする方が,為政者にとって面倒で厄介に違いないのだ。それも含めた,戦前への回帰にほかならない。さらに,

第十章 最高法規

が,削除された。そこにあったのは,第九十七条,

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は,人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて,これらの権利は,過去幾多の試錬に堪へ,現在及び将来の国民に対し,侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

である。さらに,それに先立って制定を目指す,国家安全保障基本法では,「国民の責務」として,

国民は,国の安全保障施策に協力し,我が国の安全保障の確保に寄与し,もって平和で安定した国際社会の実現に努めるものとする。

定めている。

こういうカタチで進められている体制に想定されるのは,まぎれもない戦前の復活である。自由とは為政者にとって厄介なもののはずだ。それを右向け右にすれば御しやすいかもしれない。しかし,そんな集団が強いはずはない。現に,対米戦で,奇襲を除くと,ほとんど日本は負け続けた。

しかし,負けを負けとして認めようとしないマインドにとっては,戦後の,東京裁判は屈辱なのだろう。しかしそれ前提にしたサンフランシスコ講和条約で,日本は戦後の国際社会に復帰し,この日の経済地歩がある。A級戦犯合祀の靖国参拝は,戦後体制への挑戦に見えるはずである。

靖国神社の松平永芳宮司は,

国際法的に認められない東京裁判を否定しなければ日本の精神復興はできない

との信念からA級戦犯合祀に踏み切った(だから以降,昭和天皇はそれを痛烈に批判し,以来天皇は一度も参拝していない)。まさに,合祀とは,東京裁判の否定であり,ひいては,サンフランシスコ講和条約自体の否定である。それは,中国,韓国がどうのこうのというレベルの話ではなく,サンフランシスコ講和条約を基礎としてアメリカが築いてきた戦後世界秩序への挑戦なのであり,それは今日の世界全体を敵にするというに等しい。

それが,果たして,アメリカが望むことなのか,ということが真摯に検討された節はない。その覚悟を持って,靖国参拝をしているようにも見えない。もはや,現実を直視するというより,どこか妄想の世界に生きているように見える。

国のために亡くなられた方々を云々

などというレベルの問題ではない。

しかし,戦後レジーム脱却を目指す方々にとっては,そんなことはどうでもいいらしいのである。経済的な不利益も,国民の難渋も,世界的な孤立も視野には入らない。

この先に来るものは,経済の行きづまりか,尖閣をめぐる一触による偶発的な戦争か,第二次関東大震災か東海地震による津波か,は知らないが,大きな崩壊が来るように思えてならない。

200万余の戦死者,それに倍する国内被災者,周辺諸国の人々を含めたらその10倍以上の悲惨をもたらした戦禍で瓦解した戦前の体制への復帰が,どう考えても,国民に幸せをもたらすとは思えず,戦後レジームが破壊されると同時に,そこで,日本という国が,三度目の大変革を迫られる事態を迎えざるを得ない気がしてならない。

そして,それは,いままでの流れからは,外圧によるか天災による自壊になる可能性が大きいのである。しかし,マルクスが言った,

「歴史的な大事件や重要人物はすべて,いうならば二度繰り返される」とヘーゲルはどこかで指摘したが,彼は以下のことを付け加えるのを忘れている。一度目は悲劇だが,二度目は茶番劇だということを,

になぞらえるなら,

一度目は悲劇

だが,

二度目は,同じ轍をわざわざ踏む,

喜劇

にほかならないのではあるまいか。

参考文献;
豊下樽彦・古関彰一『集団的自衛権と安全保障』(岩波新書)
マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(岩波文庫)



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 04:31| Comment(0) | カテゴリ無し | 更新情報をチェックする

2014年08月02日

言霊


佐佐木隆『言霊とは何か』を読む。

著者は,言霊の,一般的な理解の例として,『広辞苑』を引く。

「言葉に宿っている不思議な霊威。古代,その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた。」

と。しかし,一見して,異和感がある。言と事をイコールと感じるからといって,誰の言葉でも,その言葉通り実現すると,信じられたのか,と。

著者は,

「古代日本人にとって『言霊』とはどんなものだったのかを具体的に検討」

するのを目的として,

「言葉の威力が現実を大きく左右したり,現実に対して何らかの影響を与えたりしたと読める材料のみを取り上げ」

て,

「言葉の威力がどのようなかたちで個々の例に反映しているのかを,『古事記』『日本書紀』『風土記』に載っている神話・伝説や『万葉集』に見える歌などを読みながら,一つ一つ確認していくことにしたい」

とまえがきで述べる。それは,結果として,言葉が一般的に霊力をもつという辞書的通念への批判の例証になっていく。

まず,「言霊」の「こと」は,一般的に,「事」と「言」は同じ語だったというのが通説である。あるいは,正確な言い方をすると,

こと

というやまとことばには,





が,使い分けてあてはめられていた,というべきである。ただ,

「古代の文献に見える『こと』の用例には,『言』と『事』のどちらにも解釈できるものが少なくなく,それらは両義が未分化の状態のものだとみることができる。

という。ただ,まず「こと」ということばがあったと,みるべきで,「言」と「事」は,その「こと」に当てはめられただけだということを前提にしなくてはならない。その当てはめが,未分化だったと後世から見ると,見えるということにすぎない。

「『言霊』の『霊(たま)』は,『魂』の『たま』と同じ語であり,

霊魂,精霊

のことだと,一般には説明されている。

で,「言霊」使用例(「言霊」を読みこんだ例は『万葉集』には三首しかない)の分析に入る。たとえば,

①神代より 言ひ伝て来らく そらみつ倭国は 皇神の 厳しき国 言霊の幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり…(山上憶良)

②志貴島の 倭国は 言霊の 佐くる国ぞ ま福くありこそ(柿本人麻呂)

③言霊の 八十の衢に 夕占問ふ 占正に告る 妹相寄らむと(柿本人麻呂)

これ以外に,『古事記』『日本書紀』『風土記』を含めて,「言霊」の確かな用例はないのだという。で,ここから,その意味をくみ取っていく。

③の「夕占問ふ」とは,「夕占」である。

「夕方,道の交差点になっている辻に立ち,そこを通行する人が発することばを聞いて事の吉兆・成否を占う,」

という意味である。おみくじを引いて,神意を知るのと同じというと,言いすぎか。

②は,その前の長歌をうけている。そこには,

「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 事挙げせぬ国 然れども 辞挙げぞ吾がする 言幸く ま福いませと 恙無く ま福くいまさば 荒磯波 ありても見むと 百重波 千重浪しきに 言上げす 吾は 言上げす吾は」

とあり,①も②も,

「皇神(すめかみ)」「神(かむ)ながら」を承けたかたちで「言霊」という語が用いられている,ということである。

として,著者は,ここで用いられた

「『言霊』が神に対する意識と密接な関係があったことを物語る,」

として,こう説く。

「人間の口から発せられたことばが,その独自の威力を発揮し,現実に対して何らかの影響を及ぼす,といった単純な機構ではない。神がその霊力を発揮することによって,『言霊の幸はふ国』を実現し『言霊の佐くる国』を実現するのだというのが,(①と②の)『言霊』に反映する考え方なのである。」

当然,③の占いも,

「行為が向けられた相手は神であり,『占正の告る』の主体も神だということになる。つまり,人間が『占』を行って,神に『問ふ』のであり,神がそれに応じて『占に告る(占いの結果にその意思を表す)』のである。」

と述べ,『広辞苑』に代表される通説の説明は不十分で,

「(三例の)「言霊」は神を意識して用いられたものであるのに,…神とのかかわりが視野にはいっていない,」

と言う。そして,

「三例の『言霊』は,神がもつ霊力の一つをさすもの,」

と考えると,ことばに対する当時の日本人の考え方は,原始的なアニミズムを脱し,

「『言霊』については,早い段階で,人間には具わっておらず神だけがもつ霊力だと考えられるようになっていたのではないか」

と推測する。そして,以降,ことばの威力を,文献にあたりながら,

いかに神の霊力

を意識していたか,を検証していく。

呪文
祝詞
国見・国讃め
国産み
夢あわせ

等々を検討したうえで,

「本書では,ことばがその威力を発揮して現実に何らかの影響を与えた,と読める材料だけを古代の文献から集め,その内容を具体的に分析した。『古事記』『日本書紀』『風土記』の神話・伝説や『万葉集』の歌を見る限り,ことばの威力が発揮され,それが現実に影響を与えるのは,神がその霊力を用いる場合である。人間の発したことばを聞き入れた神がその霊力を発揮して現実に影響を与える,というかたちになっているのが普通である。」

とまとめる。つまり,

「人間の発することば自体に威力があって事が実現するのではなく,人間の発することばを聞き入れた神が事を実現してくれる…,」

というわけである。

「ことばに霊力がやどると信じたのは,人々の間で日常的に何気なく交わされることばではな(く)…儀礼の場で事の成就を願う非日常的な状況において,特別な意識をともなって口から発せられることばに霊力がこもる…」

ということである。上記の万葉三首以降,「言霊」をもちいた歌は,数えるほどしかない。そこでも,強く神対する意識がある。では,どこで,

「人間の発することばにまで拡大され,さらにまた,ことばそのものに霊力がやどるという解釈にまでかくだいされることになった,」

のか。著者は,江戸時代の『万葉集』で,上記三首の解説を調べる。

江戸時代前期,契沖の『万葉代匠記』
江戸時代中期,賀茂真淵『万葉考』

では,神との関係を明確に意識している。しかし,

江戸時代後期,橘千蔭『万葉集略解』

では,

この歌に神霊がやどって,

と,神意抜きの解釈に変わる。師の真淵が「神の御霊まして」という説明の神意をはき違えてしまったらしいのである。

これ以降,

言霊とは,ことばの神霊のことであり,発することばにおのずから不思議な霊力がある

というように変わっていく。それは,とりもなおさず,

自然や神への畏れ

をなくしてしまった現れなのではないか,と思う。だから,

ことばをもちいた祝詞や和歌や諺にも言霊が宿る,

と際限なく拡大していく。それは,人の不遜さ,思い上がりに通じるものがあるような気がしてならない。人というより,日本人の,と言った方がいい。その不遜さは,またぞろ,妖怪のように復活してきた気配である。夜郎自大とはよく言ったものである。

参考文献;
佐佐木隆『言霊とは何か』(中公新書)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:20| Comment(1) | 書評 | 更新情報をチェックする

2014年08月03日

まじめ


まじめ

は,

真面目

をあてるが,当て字で,語源的には,

マジ(擬態・まじまじ)+目

で,真剣な顔つき,誠実な態度,誠意があるなどの意味になる。

まじまじ

は,

たびたびまばたする,眠れないさま
恥じず平気なさま,しゃあしゃあ

とある。前者から,

緊張して,眼をしばたたかせるだけの真剣な顔つき

が連想され,そこから,

本気,

誠実,

に広がったと考えられる。ただ,江戸時代をみると,

阿鼻焦熱の苦しみをまじまじと見てゐられうか

という使い方で,

ただなすところなく見ているさま,じっとみつめるさま,

の意と,

さすがの喜多八,しょげ返りて顔を赤らめ,まじまじしてゐるを

という使い方で,

もじもじ

の意,とある。そこからは,

真面目

の意味は見当たらない。

ただ,手を束ねてこわばっている

か,

照れて気後れ(もじもじ)している,

の意の方が強い。

真面目

の字を当てたのがいつの頃かは分からないが,

しんめんもく(と読むと,真骨頂の意味になる)

の字を当てた瞬間,他の意味が,「地」に下がり,誠実さが「図」として浮き上がった,ということなのかもしれない。

だから,辞書的には,

うそやいいかげんなところがなく,真剣であること。本気であること。また,そのさま。
真心のあること。誠実であること。またそのさま。
真剣な顔つき,本気。

だけが残ることになる。

まじ

と略すと,いっそう一か所に焦点を当てたようで,しかしこう略した瞬間,

すこし真剣さが消えて,諧謔さがでてくる。一説では,

マジは江戸時代から芸人の楽屋言葉として使われた言葉,

らしいのだが,

まじに,
まじで,

から,

まじすか?

まじ~

と,使われると,意味は,「真面目」のニュアンスからかなりずれてくる。

本気

を「まじ」と訓ませるところまでいくと,

ちょっと皮肉が交じっているような気がする。

そう思うと,略された瞬間,軽くなり,軽くなった瞬間,そこに諧謔が生まれてくる気がする。最近では,

スマートフォンを,スマホ,

ガラパゴス携帯電話をガラケー

あるいは,

二子多摩川を,ニコタマ,

ああ,カタカナになると,一層そういうニュアンスが強まるような。

就職活動を,就活,さらにシューカツ

と書くと,そのニュアンスがわかる。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 04:37| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2014年08月04日

呪う


あまりひとを怨んだり,呪ったりということをした記憶もないし,したいとも思わない。しかし,人からは,恨まれたり,呪われているような気がする。

呪う

は,語源的には,

「祈る(ノル)」+「ふ」

で,基本は,「祈る」の延長戦上にあるものらしい。

祈り続ける,

には違いないが,

相手に災いがあるように祈りつづける,

ということらしい。確かに,

のろう,

を漢和辞典で引くと,





が出て,後は,異字体の「咒」等々である。



は,

口+兄

で,もともとは,「祈」と同じで,

神前で祈りの文句を称えること

なのだが,後,「祈」は,

幸いを祈る場合,

「呪」は,

不幸を祈る場合,

と分用されるようになった,とある。



の,



は,俎(積み重ねた供えの肉)や阻(石を積み重ねて邪魔をする)を示す。「詛」は,その流れで,

言葉を重ねて神に祈ったり誓ったりするみと,

の意味だ。どちらも,神に祈る行為の延長戦上で,

自分の幸

ではなく,

他人の不幸

を祈るところへシフトする。しかも,

他人の不幸を実現することで自分の幸を実現しようとする

という,屈折した祈りだ。

ひとを呪わば穴二つ,

というのだが,視野狭窄の中にある執念には,見えなくなっている。

しかし,人を呪うというのは,どういう心性なのだろう。

父のせいとか,

母のせいとか,

誰某のせいとか,

世の中のせいとか,

結局その事態を招いたのは,他人ではなく,自分でしかない。それを受け入れられないというのは,どこかに,

嫉妬

羨望

妬み

があるのに違いない。

自分もそうなれたはず,

自分もそれを手に入れたはず,

なのに,そうならなかったのは,自分側ではない,

外的(阻害)要因

があったと

考えたい,
のか,
思い込む
のか,
信じ込む
のか,

いずれにしても,自分の側に,

理がある
正当性がある,
正しい,
善がある,

と思わなければ,人を落とし込めるはずはない。

それは,いわば,唯一の視点しか持てていない,自分を相対化するメタ・ポジションが持てないということなのだろう。

いやいや,他人事ではない。自分の側に要因を求めなければ,結局,

成長というか,
前進というか,

はなく,たった一つの,その時点に,何年も立ち止まったまま,ということだ。そんな,時間が過ぎていくのも気づかぬぐらいの一念があるなら,とついつい思うが,そういうものでもないのだろう。

そういうのもまた,一つの人生だ。それを選んでいるのは,おのれ自身なのだから。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

ラベル:呪う 呪詛
posted by Toshi at 04:52| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2014年08月05日

待つ


ふと,待つというのは,待っている側の時間軸しか見ていないのではないか,ということに気づく。

よく,相手の沈黙を待つ,という。しかし,それは,待っている側の勝手な都合であって,相手は,自分の時間軸で黙っている。

そう思って振り返ると,

待つ,

を少し違う視点から気づくことがあった。

まず,「まつ」の語源は,

マ(間)+ツ(統)

で,時間をひきしめてあわせるようにする

という意味。それに「待」の字を当てた。そこから,待つの意味は,

①来るはずの人やものごとを迎えようとして時を過ごす
②用意してもてなす
③のけておく
④しようとする動作を途中で止める
⑤(俟つ)頼りとする

といった意味になるが,

で,当てた漢字,「待」は,

寺(手足の動作を示す)+彳(おこなう)

で,

手足を動かして相手をもてなす,

とあるが,別の出典では,

彳(あゆむ)+寺(止まりまつ)

で,立ち止まって待つ,ともある。このほうが,「待」の字を当てた意味がわかる。

そもそも,「まつ」には,

待(来るをまつ,また来ればあしらいをする意がある)
佇(たたずむ,まっている)
俟(せかずにものが自然とそこへ来るまでまつ)
候(うかがう,はべる,まつ)
徯(望むところがあって待つ)
竣(待に同じ)
遲(いまやおそしと待ちわびる)
須(互いに求めて相待つ)

と,当てる漢字に差がある。「待つ」と当てたのには,意味がある。

しかし,いずれも,「待つ側」の視点である。いや,言い方が変か,「待つ」と言っているのは,あくまで,

待っている側

の言い分であって,待たれる側は,待たれていることを迷惑と思うかもしれない。僕は,若い頃,待つこと三時間,ようやく待ち人がやってきたが,いまならわかる,その

遅刻

には意味がある。来たくない,あるいは逡巡,躊躇が反映している。待ち合わせの遅刻には,相手にとっての意味がある。そう思うと,よく待ち合わせで,相手が遅れることが多いのは…,いやいやそれは別の話題。

よく,

相手の沈黙

を待つとか

相手の返答

を待つ,という言い方をする。「待てるかどうか」という言い方をする。しかし,考えたら,それは,待っている側の時間感覚というか,「まつ」という姿勢自体が,待つ側の視点でしかない。

待たれている側は,

待っていてほしいと思っているとは限らない。ただ,このまま黙っていたい,この沈黙の中にただひたすら浸っていたい,このままシカトしたい,このままばっくれたい,と思っているかもしれない。しかし,うざいことに,目の前の相手が,いかにも,待っているという姿勢,表情で,見つめている,ということに辟易するかもしれない。

待つ

という行為自体が,待つ側の主観というか,思い入れに過ぎない,ということに,たぶん待つ人は,ほとんど思いが至らないだろう。だから,待たれる側は,遅刻する,黙りこくる,返事を遅らす。

待つ
とか
待てる

等々ということが,自分の時間軸でしかものを見ていない証拠に過ぎない。

相手には,相手の時間軸があり,その時間軸に合わせるとすると,それは,もはや,

待つ

ということではないはずだ。なんというのだろう,

寄り添う
のか
ともにいる
のか,

いずれにしても,もし本当にそう言う姿勢なら,待つという感覚とは遠いはずだ。いや,待つという感覚はないはずだ。

それぞれ人は,自分の時間軸帆を生きている。待つとは,自分の時間軸と相手の時間軸との微妙な隙間をあらわにする。

待たれる身より待つ身

待たるるとも待つ身になるな

等々という感覚は,両者の,そういう時間感覚の違いを言っているようにも見える。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 04:46| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2014年08月06日

にほふとかをる


にほふ

かをる

とはどう違うのだろう。

昔,何かを書き込むノートに,匂いという字を使ったら,それは臭気の意味で,ものを知らぬと,揶揄されたことがあって,何十年も前のことだが,心にしこっている。しかし,

辞書で,香り(薫り)をひくと,

よいにおい

とでる。で,匂い

を引くと,

香り,香気

とでる。ただし,

匂い

臭い

は使い分けているようだが,匂いの意味は,

①赤などの鮮やかに色が美しく映えること
②はなやかなこと,つやつやしいこと
③香り,香気
④くさいかおり,臭気(臭いをあてる)
⑤ひかり,威光

とあり,臭いは,匂いの④の意味,とある。つまり,





は,ダブっていて,「臭」は「匂」の一種,ということになる。しかし,漢和辞典には,



は,国字とある。峠と同じく,日本で作った字ということになる。



は,

自+犬

で,嗅ぐことをあらわしている。もともとは,





は同じ字であったが,のちに,

におい

かぐ

に分用された,とある。「匂」は,

韵(ひびき)

の右側を書き換えた,という。つまり



から,



に作り替えたらしい。

よい響きの意からよい香りの意に換えた。香りを聞くという言い方をするから,転じるのに無理がなかったのだろう。この辺りは,メタファーを考える貴重な始原があるのだろうかが,それはまた別の話題。

ともかく,たしかに,語源的には,

ニ(丹,赤い色)+ホ(秀,際立つ)+フ(継続・反復)

で,色が際立って美しく映える,光沢があって美しい

の意であり,転じて,よい香りが際立つことを指す。という。

そう思うと,

におい

は,嗅覚の側からの視点であり,

香り(香る)

は,香っているものの側の視点での表現ということになる。確かに,語源的には,かおりは,

香+居り

で,香りが,あることを指す。

因みに,漢和辞典を引くと,においは,

殠 腐って悪しきにおい
芳 葦のよきにおい,かお。植物のかおりが上下左右に広がり出ていくことをさす。
芬 かおる,ひらく,わかれるの意で,草が初めて生じて香の分かち布くをいう。
香 におい,かおり。もとは,黍+甘(うまい)で,空気に漂ってくるにおいをあらわす。
馥 こうばし,かんばし,ふっくらとしてよい香りを発する
馨 香る,かんばし。磬(澄んだ音を出す石板)と同系で,香りが遠くまで聞こえる。

と出る。

ついでに,「かおり」と漢和辞典でひくと,においで出た,「芳」「芬」「香」「馥」「馨」以外に,

焄 ふすぶ,こうじし,におう
臭 かおり,におい,気の鼻に通ずるもの,くさい
苾 かおり
菲 うすい,こうばしい(貌)
薌 かおり,こうばしきもの
薆 かおる
薫 かおりぐさ,かおり。香草のにおいがたちこめていることを意味する

等々と出てくるが,その使い分けは出ていない。たぶん,漢字は,すべてのかおり,においを区別してかき分けていたはずだが,だんだん抽象的に,いわば丸められてしまったようだ。だから,

匂い

香り

の区別がつかなくなっている,ともいえる。

変な言い方だが,



というのと,

ヒヨドリ

というのとでは,見えている世界が違う。言葉は,その人の持っている世界の違いを顕わす。われわれは,というよりぼくには,その見分ける見え方が出来なくなっている。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

ラベル:香り 匂い 臭い
posted by Toshi at 04:32| Comment(2) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2014年08月07日

家と血と藝


中川右介『歌舞伎 家と血と藝』をよむ

昨年の五代目歌舞伎座の杮葺落興業では21演目が上演され,演目ごとの配役表のトップ,つまり主役に据えられた役者は,十人。

坂田藤十郎,尾上菊五郎,片岡仁左衛門,松本幸四郎,中村吉右衛門,中村梅玉,坂東玉三郎,坂東三津五郎,中村橋之助,市川海老蔵,

である。しかし,この十人は,家としては,七家となる。

市川團十郎家(海老蔵)
尾上菊五郎家(菊五郎)
中村歌右衛門家(梅玉,橋之助,坂田藤十郎)
片岡仁左衛門家(仁左衛門)
松本幸四郎家(幸四郎)
中村吉右衛門家(吉右衛門)
守田勘彌家(坂東玉三郎,坂東三津五郎)

本書は,「この七家の家と血と藝の継承の歴史を描く」が,

「全体としては,明治以降現在までの歌舞伎座の座頭をめぐる権力闘争の歴史でもある。」

しかし,どういう権力闘争なのか,というと,

「『歌舞伎座の舞台で主役を演じること』を求めての闘争である。他の劇場で主役を演じることができても,歌舞伎座の舞台に立てなければ意味がないのだ。それは歌舞伎座が劇界で最高位の劇場だからである。そうなったのは明治以降でしかないのだが,逆に言うと,明治以降の歌舞伎の世界は歌舞伎座を頂点とした構造となっている。さらに,その歌舞伎座で主役を勤めることができるのも,いま挙げた七つの家が中心という構造になってしまった。」

何が主役を張る決め手になるかと言うと,「藝」ではあるが,「人気」も必要であるし,「政治力」も必要になる。

「歌舞伎の場合は,役者個人の『藝』や『人気』もさることながら,その『家』の歴史や格式といった要素が大きく左右する。……門閥で成立している世界といったほうがいい。そして,門閥を支えているのが『世襲』制度である。」

だから,七家は,親子関係だけでなく,「複雑きわまりない姻戚関係」によって,

「ひとつの巨大ファミリーを形成している。『歌舞伎役者の八割は親戚』である。」

という。しかし,

「この『世襲』『門閥』による七家寡占体制は,しかし,四百年続く歌舞伎史の最初期から続いているものではなく,この百年ほどの間に確立したものに過ぎない。」

本書は,まさに,この体制の形成史そのものになっている。

「戦国武将列伝の歌舞伎役者版を描つもり」

で,語られていく。その複雑な関係は,たぶん,振り返らないとよくわからない。たとえば,

「いまや歌舞伎界は七代目松本幸四郎の子孫なくしては成り立たない」

ほどと言われるが,その七代目は,三重県の土木業を営む家の子として生まれ,藤間流家元,二代目勘右衛門の養子となり,九代目團十郎の家に住み込むようになり,高麗蔵襲名,幸四郎襲名を果たした人物だ。著者は言う。

「七代目松本幸四郎の最大の功績は三人の息子を戦後を代表する幹部役者に育て上げたことだと言われる。ただ育て上げただけではない。三人を,市川宗家,中村吉右衛門,尾上菊五郎それぞれの後継者にまでしたのだ。すなわち,息子たちが十一代目市川團十郎,八代目松本幸四郎(白鷗),二代目尾上松緑であり,他に娘婿が四代目中村雀右衛門だ。そして孫が十二代目團十郎,九代目幸四郎,二代目吉右衛門,三代目松緑,八代目大谷友右衛門,七代目中村枝雀,曾孫が十一代目海老蔵,七代目染五郎,四代目松緑となる。」

と。これだけで,四家が関わることになる…。

さて,話を戻すと,本書は,「宗家」と呼ばれる團十郎家の,十二代團十郎の死から,語られていく。そして,最後は,中村勘九郎の息子・七緒八の,歌舞伎座での初舞台で締めくくられる。

「この勘九郎の子・七緒八は,初代中村歌六の六世代目の男系の男子にあたる。さらにこの子は尾上菊五郎家の血も引いており,三代目菊五郎から数えて八世代目,その父の初代尾上松助からだと九世代にわたり血脈が確認できる。五代目菊五郎は中村羽左衛門家に生まれているので,この子は十一代羽左衛門から数えると八世代目になる。さらに,祖母(十八代勘三郎の妻)が中村歌右衛門家の出なので,こちらをみると,五代目福助から五世代目になる。…これに横や斜めの関係もあるので,歌舞伎の幹部役者のほとんどが,彼の親戚である。」

しかし,

「歌舞伎の世界は世襲といえども,必ずしも実子が継いでいるわけではない。そして名家に生まれただけでは主役は務められない。名家だからと言って,いつまでも続くわけではない。」

という。たとえば,明治以降劇界で天下を取った役者,

「九代目團十郎,五代目歌右衛門,六代目歌右衛門に共通するのは,その名が自動的に与えられたのではなかったということだ。自分の力で獲得した名跡である。六代目菊五郎にしても,五代目の実子だが,義兄・梅幸を押し退けての襲名であり,その後に苦労があった。初代吉右衛門は父がいたとしても傍系の人で,彼が創業者に近い。みな,『役者の子』(養子を含む)ではあったが,エスカレーターに乗るようにして,出世したわけではない。」

坂東玉三郎は,「現在の幹部クラスのなかで数少ない『大幹部』の『実子』ではない役者」だ。

「このことは幹部の血縁でなくても才能と運があれば主役を勤められることの証拠ともいえる。しかし彼が今日のポジションに到達できたのは,徳川時代からの名門家の養子になったからでもある。その手続きを踏んでいなかったら,彼の今日のポジションはない。」

つまり,

「坂東玉三郎という当代随一の女形は,歌舞伎の可能性と限界と矛盾の象徴」

でもある。著者はこういう。

「二十一世紀になってもなお,歌舞伎の舞台では血統による世襲と門閥主義により,幹部役者の家に生まれた者でなければ主役を演じられない。逆に言えば,幹部の子として生まれれとりあえずチャンスが与えられ,誰の眼にも『あれはダメだ』と映らない限りは主役あるいは準主役としてでることができる。」

こんな箱庭の芝居に,いまを生きているものの息吹はない。いま一種の演劇ブームである。ものすごい数の小さな劇場に,若い人が押しかけている。その熱気とエネルギーは,歌舞伎座にはない。僕は,顰蹙を買うかも知れないが,税金で守らなくてはならないような伝統芸能は,いらないという主義だ。それはもはや死んだものだ。死んだものは,いま必要ではないということだ。囲われた「伝統芸能」は,いまという時代と格闘しない。そんなものは文化ではない。文化は過去にはない。いま,われわれ自身が,あらたな伝統の担い手なのであって,もしあるとするなら,そこにこそ,金を投入すべきだと考えている。亡くなった勘三郎は,そのことに敏感であった。コクーンで彼を観たとき,その熱意を感じた。しかし,それを継ぐ者はいない。歌舞伎が,そういう古典芸能に陥るかどうかの,いま瀬戸際にあるように思える。

参考文献;
中川右介『歌舞伎 家と血と藝』(講談社現代新書)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:44| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする

2014年08月08日

無知


恥ずかしながら,

30代

は底なしの無知であったと,いまは思う。おのれの無知をしらぬ無恥といっていいか。吉本隆明が「無知の栄えたためしはない」を,論敵に贈っていたのを,おのれのことではないと思っていた。おのれの無知に気づかぬ無恥ほど恐ろしいものはない。

無知

とは,

知識がないこと
智恵のないこと

とあるが,どうもそういうことではない気がする。確かに,

無(ない)+知(知る)

で,知らない,ということに違いないが,中国語源では,

無恥

つまり,

無(ない)+恥(はじ)

恥知らず,の意味だという。なかなか意味深で,確かに,

知らないこと

ではなく,

知らないことを知らないこと,

と考えると,無知は無恥に通じる。

子曰く,由よ,汝に知ることを誨(おし)えんか,知れるを知れるとなし,知らざるを知らずとせよ,これ知るなり。

と,孔子が,由(子路)にこう諭したのも,そう考えると意味深い。

しかし,だ。「知らざるを知らず」とするのは,そういうほど簡単ではないのだ。何を知らないかがわかるというのは,知についてのメタ・ポジションが取れることだ。そんなことがたやすくできるはずはない。

別のところで,孔子は,自分自身は,「生まれながらにして之を知る者」ではなく,

学んで之を知る者

であると言っているが,「学んで之を知る者」の次は,

困(くる)しみて之を学ぶ

者であるという。しかし,問題は,何を,どう苦しめばそうなれるかだ,といまなら思う。これは,自分の体験だから,

たまたまをそもそも

としているかもしれないが,鍵は,

アウトプット

だと思う。インプットではなく,アウトプットすることで,脳のシナプスの回路は強化される,というが,僕は,「知る」とは,自分の言葉を得ることだと思う。ひとは,

その持っている言葉によって,見える世界が違う,

と,ヴィトゲンシュタインを読んだとき,自分流に理解したが,その独自の言葉が,その人の見ている世界を示す,と思っている。僕は,初めて一書をまとめたとき,その瞬間は,気づかなかったが,

新しい視野

を得たのだと思う。僕は,それを,

パースペクティブ

と言う。「知」は,パースペクティブなのだと思う。自分にしか見えない世界を手に入れた,と言うと,大袈裟で不遜なのかもしれない。しかし,ピンではなく,キリだとしても,あるいは,他の誰かがすでに言っていることだとしても,それでもなお,

自分の世界を語る言葉

を手に入れたことが大事なのだと思う。それは,

視点

なのかもしれないし,

視角

なのかもしれないし,

ビューポイント

と言うべきものかもしれない。それは,それを表現するコトバを手に入れたことでもあるのではないか。そこで,初めて,

見える世界

がある。それが,おのれの視界であり,景色である。それが,その人の手に入れた「知」なのだと思う。もちろん,レベルの高低もある,是非も正否もある。しかし,自分のパースペクティブを手に入れなければ,その「知」と言う土俵で語ることができない。別の言葉で言うと,

借り物ではない言葉,

借り物ではないパースペクティブ

といってもいい。そのとき手に入れたものの完成度もレベルも,いま考えれば,恥ずかしいくらいかもしれない。しかし,小なりと言えど,自分の視界を手に入れたのだと思う。そこからしか,知の更新も,知の拡大も始まらない。

因みに,そのとき広げたおのれのパースペクティブの風呂敷からは,結局出られない,のかもしれない。そこで得たのは,おのれの視界の射程なのかもしれない。そして,それ以降は,おのれの顕在化した限界との戦いなのだ,と気づく。

いまも日々更新中だが,そうは射程は伸びてくれない。しかし,あの一瞬のフロー体験があったからこそ,脳細胞が沸騰するとはどういうことかが,キリはキリのレベルで,想像がつく。いま,更新しても,あの時の,興奮と白熱は,なかなかこない。

その意味で,自分のパースペクティブをもてているかどうか,

がその人が独自の知を築いたかどうかの目安なのだと思っている。言葉遣いの中に,その人独自の言葉があるはずである。借り物ではない,その言葉に,その人の見ている,独自の

視界

がある。それは,知識の多寡ではないように思う。知識の先に,その人だけに見える視界が開けているかどうかなのだと思っている。それを,和辻哲郎流に,

視圏

と呼んでもいい。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 04:36| Comment(0) | | 更新情報をチェックする

2014年08月09日

ゲーム?


僕には,自滅の癖がある。というか,あるらしい。

自然に滅ぶ

のである。あるいは,

滅ぶようにふるまう。

あるいは,TA(交流分析)でいう,ゲームをしているのかもしれない。



は,

おのずから
みずから
より

の意味があるが,「自」は,人の鼻を描いた象形,という。「私が」というとき,鼻に指さすので,自分の意に転用,あるいは,出生の際,鼻から先にして生れ出るし,鼻は人体の最先端にあるので,「~からおこる」「~から始まる」という起点を顕わすことになった,という。

ついでに,念のため,



は,

戉(まさかり,ほこ)+火

の会意文字で,刃物で火種を切って消すことを示す。「滅」は,それに水を
加えた文字で,水をかけて火を消し,また見えなくすること,という。

自ら,盛る火に水を差す,

という感じかもしれない。

デスペレート

とか,

自暴自棄

という感じとはちょっと違う。だから,ゲームなのである。裏の意味があるらしいが,そのことに自分でも自覚的ではない。

まあ,言わば,嫌な奴

に属する。かつて,議論を積み重ねていて,不意に,すべてをひっくり返すようなことを言い出して,顰蹙を買ったことがしばしばあるが,それも同じ伝である。

ゲームを,調べると,

エリック・バーンは,こじれた人間関係やパターン化された対人トラブルを引き起こす自滅的なコミュニケーションのことを「ゲーム(game)」と定義した。交流分析におけるゲームとは,相手を自分の都合の良いように操作したり利用しようとしたりすることで始まるコミュニケーションであり,その最後はドラマチック(感情的)だが紋切り型の不幸な結末となる。
過去に激しい対立や喧嘩(言い争い)といったトラブルを起こした人は,同じような相手・状況で同種のトラブルを起こすことが多いが,この『パターン化した対人関係』にはゲームの仕掛けが影響している。

という。しかし,同じパターンを繰り返しているかどうか,主観的にはあまり自覚的ではない。

こういう言い方もある。

交流分析では人はストローク(承認,愛情)を求めて互いに交流を行う,と考えます。また,人は肯定的ストロークが得られないと,否定的ストロークを求めるようになる。そこで,生育の過程で,否定的ストロークを交換する態度が習慣化したものがゲームである,

と。こちらの方がわかりやすい。だから,交流分析でいう,表面の会話と裏面の心理的レベルの会話がずれている,ということになる。あるいは,単純に,

わがまま

すねる

ひがむ

ひねくれ

という心性と地続きなのかもしれない。しかし,他罰ではなく,自罰へ向かうのだとすると,ゲーム分析の範疇の中に入るのかもしれない。

そう考えると,ちょっとアサーティブのことを思い浮かべる。アサーティブ以外の自己表現スタイルに,

攻撃型ノー・「ドッカン」(平木典子さんの言う攻撃的自己表現=アグレッシブ)
受身型ノー・「オロオロ」(平木典子さんの言う非主張的な自己表現=ノン・アサーティブ)

というのがあるが,それ以外に,森田さんの分け方では,

作為的なノー・「ネッチー」

というのが加わる。

はっきりノーと言わないで,なんとなく相手に悟らせようとしたり,回りくどい言い訳をしたりするパターン,

である。果ては,雑巾を洗った水でお湯を沸かし,嫌な上司にお茶をいれるところまで行くかもしれない。実は,現実的にはこのパターンの方が多いのではないか,とひそかに思っている。で,これは,ひねくれ,すねる,の心性と地続きになる。見かけほど,攻撃型と受身型の差があるわけではなく,

受身か作為かは,ある意味堪えている状態で,不満が満タンになれば,何らかの形で爆発する。

専門的なことはわからないが,自分に都合の悪いことを,直截に言わないで,ぼかしたり,ごまかしたり,裏をいったり,なんとなくぼそぼそと独り言を言っていて,あるとき不意に爆発するというパターンは,場合によっては,ノンアサーティブではあるが,それを繰り返していれば,まあゲームにも近い。

いやいや,まあ,そんな回りくどい人間なのかもしれない。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
杉田峰康他『ゲーム分析』(チーム医療)
森田汐生『「NO」を上手に伝える技術』(あさ書房)
アン・ディクソン『第四の生き方』(つげ書房)



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:44| Comment(1) | 日記 | 更新情報をチェックする

2014年08月10日

奥行


今野真二『日本語の考古学』を読む。

著者は,

「『考古学』は……「(具体的な)モノを通して」過去の文化を考える学問だ…。本書ではこれから,日本語という言語を対象に『考古学』的なアプローチをしてみようと思う。ここで扱う『モノ』とは,写本や印刷物などの文献である。
過去の日本語を分析するためには,残された文献に就くことになる。…本書が扱うのは,かつて誰かが手で書き写した,あるいは活字を用いて印刷した,具体的なモノとしての書物である。

と「はじめに」で書く。つまり,電子化されたテキストではない,ということだ。なぜなら,

「例えば,同じ『土左日記』の写本であっても,写した人が違えば,漢字や平仮名の使い方が違っていることがある。もっと細かいことを言えば,同じ漢字でも書き方が違ったり,同じ文を書いていても改行箇所が違ったりする。あるいは書き間違えが含まれていたり,注釈のようなメモが書き加えられていたりする。使われている紙も異なる。このように,一つ一つの情報はささいなものだったとしても,そこには,過ぎた「時間」を復元するためのなんらかのヒントがあるのではないだろうか。」

と。だから,言葉としてのまとまりをどう意識していたかとか,どこを文章を区切るか(文のまとまりをどう意識していたか)とか,一つの行をどう意識するか(改行はどこで何を持って意識されたか)とか,等々細かな日本語の過去を洗い出す。そして,それは,

現在につながっている,

という。

たとえば,われわれにとっては,「楷書以外で書かれた漢字」に出会うことはないが,

「書体の歴史を考えたとき,楷書体はむしろ新しい書体である。中国において楷書体が成立したのは初唐だと考えられている。秦の始皇帝(中略)が統一してできた書体が『小篆』である。始皇帝が統一する以前の篆書から派生したものが『隷書』である。(中略)隷書を簡捷化した草隷…をさらに省略化した『草書体』がうまれ…,後漢に入ると盛行していたことがわかっている。隷書から草書が発生する過程で,現在の行楷書に当たる書体が派生し…楷書が完成するのが…初唐…と考えられている。」

朝鮮半島を経て伝わる中国文化は,中国と日本とでは,百年位のタイムラグがある。だからほぼ百年後,平城宮から出土した木簡は,楷書で書かれている。そう考えると,たとえば,現在残されている『万葉集』の西本願寺本(鎌倉時代後期に書写された)は,楷書体で書かれている。

「わたしたちが手にしている最古の写本と,『原万葉集』との間には,失われた時間が横たわっている,ということである。ほぼ楷書体しか知らない現代のわたしたちには想像もつかないような大きな『質的変化』がそこに秘められているかもしれない。」

と,さらに,

「今から一万年あまり前から縄文時代が始まったというみかたがある。社会生活をしているのだから,おそらくは日本語(につながるような言語)が使われていたと考えてよいと思うが,そうだとすれば,日本列島上で日本語は一万年以上使われていることになる。その中で,文献に日本語が足跡を刻むのは,七世紀以降で,現代までたかだか千五百年ぐらいということになる。その千五百年の中で,明治…以降はまだ百五十年にもみたない。局所的といっていもよい。しかしその明治期の日本語でさえ,…現代の日本語とは異なっている。わたしたちが思うほど,現代は絶対のものではない。」

たとえば,漱石の文庫本を,例にとると,まずは,表記が換えられている。

仮名遣いや用いている漢字など

が違うだけではない。著者は,「仰向」と言う表記を例に挙げる。最初の刊行(大正三年 岩波書店)では,

あふむけ

とルビがふられている。この時代の「あふむく」は,発音は,

アウムク

である。しかし,文庫本では,

あおむけ

とルビをふる。つまり,現代日本語としての発音を示したことになる。あるいは,

蒼い

は,

青い

に表記が換えられている。あるいは,

さうして



そして

に換えている例もある。印刷されたものについてですら,このような表記の転換が行われている。

「厳密に言えば『本文』を変えたことになるであろう。『作者』を,テキストの改変ができる唯一の人と定義するならば,このテキストの作者はだれということになるのだろうか。」

という著者は,夏目漱石ですらこれである。書き写しを繰り返した,たとえば,紫式部『源氏物語』,紀貫之『土左日記』(紀貫之は左の字を使っている)の作家となると,はなはだ覚束ないのではないか,と言っているのである。

そもそも書写原本とまったくおなじテキストを作ろうとして書写したとしても,不注意から写し損なうことも考えられる。あるいはちょっとした箇所について,原本に何らかの「錯誤」があるのではないかと考えて,書写者の判断で「本文」を変える可能性はつねにある。

藤原定家は,紀貫之の自筆本を,

もとのまま書いた

という。たとえば,

いひ/つかふものにあらすなり
いま/はとても見えすなるを

という文章について,為家筆者本では,

「『さ』には,漢字『散』を字源とする異体仮名(散)が使われているが,定家はこの〈散〉を『す』と判読している。(中略)定家にとって,仮名『さ』にあたる〈散〉はすでになじみのうすいものであった可能性がたかい。」

つまり,どんなにそのまま写そうとしても,

書く時に使用する仮名字体そのものも,変化している可能性がある

という制約があるということらしい。

こうやって一枚一枚薄皮を剥がすようにして,日本語の原風景を探っていく仕事は,実は,過去のことではなく,いまにつながっている気がしてならない。たとえば,繰り返しを示す,

「〱」

があるが,これを行の頭に持ってこないようにするという意識が,16世紀の鎌倉時代に書写された『竹取物語』に見える。いまだと,禁則処理として扱われることにつながる,意識である。

最後にもうひとつ,椿は,

ツ婆木

豆波木

と表記される。「木」は,

「『ツバキ』の『キ』という音ではなく,その『意味』において『椿』という樹木と関連づけられており,『万葉仮名』つまり仮名としてではなく,漢字として使われている…」

というのである。

都婆伎
とか
都婆吉

の表記の場合は,音を利用して書いている。つまり,

古代においてすでに,漢字「木」が樹木を指す日本語「キ」と強く結びついていた

わけである。その意味で,

エノキ
ヒノキ

のそれも,「木」が意識されなくなっている例と言えるらしいのである。

『新撰字鏡』をみると,漢字の和訓に万葉仮名が当てられている。

村 牟久乃木(ムクノキ)
槙 万木(マキ)
樟 久須乃木(クスノキ)
桐 支利乃木(キリノキ)

こうした背景にあるのは,その時代の語構成の感覚である。しかしその特徴は,

「『ミナト』に単漢字『港・湊』をあてるようになると,もともとは,『ミ(水)+ナ(助詞のノ)+ト(戸)』という語構成をなしていたことがわからなくなり,『まつげ』に単漢字『睫』をあてるようになると,もともと『マ(目)+ツ「助詞ノ+ケ(毛)」であることがわからなくなる。同じように,〈燃料にする木〉という語義の『タキギ』はよく考えれば,『タキ+キ』という語構成をしていることがわかる。動詞『タク』の連用形『タキ』に『キ=木』が複合している。現在では,単漢字『薪』をあてることがほとんどなので,『よく考え』ないと,そのことに気づきにくい。しかし『万葉集』には『燎木伐(たきぎこる)』…とある。『燎』字には〈やきはらう〉という字義がある。また,『多伎木許流(かきぎこる)』ではやはり,『タキギ』の『ギ』に『木』字が使われている。』

日本語の考古学は,このように丹念に,砂を払い,いわば,日本語の根っこ探っていく試みと言える。その奥行きの中に,いまの日本語がある,ということがよく伝わってくる。

語源が気になっている僕には,語源すら,日本語と表記として使った感じとの「音」を使ったり,「意味」で使ったりというその使い分けまで踏み込んでいくと,書くことと話すことの言葉の乖離にことばの深い奥行が見えてくる気がする。

参考文献;
今野真二『日本語の考古学』(岩波新書)



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:39| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする

2014年08月11日


これほど,嘘がまかり通る世の中は初めてだ。しかも,嘘も積み重ねてつけば,真実になると,為政者がうそぶくという国は,たぶん他にはない。

(消えた年金記録は)最後のお一人にいたるまできちんと年金をお支払いしていく。

(フクイチは)アンダーコントロール…。

消費税は全額社会保障財源に回す。

最近では,こんな感じだ。コイズミ時代も,目につく嘘が一杯あったが,ここまで,嘯くというのは,初めてだ。何一つ,実行されたことはない。

海外派兵はいたしません

日本の原発は世界一安全

日本が再び戦争をするような国になるというようなことは断じてありえない

等々もまた,その類の空証文であることは間違いない。

うそ

とは,語源的には三説ある。

①中国語「迂疎」からきたとするもの。「迂疎」とは,とうざけるべきものという意味。

②「ウ(大いなる)」+「ソ(そらごと,そむくこと)」で,大きなそらごとの意。

③「うそぶく」の語幹「うそ」から来ている。真実でない意。

「噓」は,

吹く気を急に吹き出すを吹といい,緩きを噓という。

意味としては,

嘯く,
ふうっとため息をつく,

となる。「うそ」に当てた,「噓」は,国字,

口(言葉)+虚(実がない)

実のない言葉,つまりうそ,とした。

要は,

嘘とは事実に反する事柄の表明であり,特に故意に表明されたもの

を言う。嘘というのは,

意図的に騙す陳述を指していて,たんなる不正確な陳述とは異なる,

のである。ためにしているといっていい。

噓には,5タイプあるという(J・M・ウィルソンらによる),

①自己保護のためのうそ 罪や避難,不承認を避けたり,罰の悪さをさけるため
②自己拡大のうそ 現実よりも自分を良く見せようとする。注目や承認をえるためのほらの類
③忠誠のうそ ある人を守るためにその人の違反行為などをかばうためにつく
④利己的なうそ 物質的な利益をえるためにつく
⑤反社会的・有害なうそ 態とその人をけなしたり非難したりして,その人を傷つけるためにつく

等々と,今日,我が国の為政者がなしている詐欺行為は,こんな可愛げのあるものではない。

麻生副総理は,

「ナチス政権下のドイツでは,憲法は,ある日気づいたら,ワイマール憲法が変わってナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口,学んだらどうかね」

と言ったとされている。まさに,いま進んでいるのは,この手口である。

詐欺とは,

他人を騙して,錯誤に陥れたり,財物をだまし取ったり,瑕疵ある意思表示をさせたりする行為,

という。解釈改憲の説明に使った例(米艦は,邦人を救助のために載せたりしない等々)と言い,機雷の掃海行動(ホルムズ海峡にはほとんど公海はない)といい,詐欺同然の言説で,

錯誤に陥れている

のである。つじつまの合わないこと,論理の破綻は,外から見ての話で,

虚構
作り事
絵空事

を意図的に持ち出し,その中にいる人間には,破綻はない。どうせすべて嘘で,言ったこと自体を,ひょっとすると覚えていないかもしれない。嘘を言ったこと自体を別に取り繕う必要も感じていない。何はともあれ,まず結論ありきで,口先三寸,ただ並べ立てている理屈は本当はどうでもいいのかもしれない。

例の広島で批判されたにもかかわらず,また長崎でもコピペしたことに見られるのは,一見無謬で押し通すように見える。しかし実は,そんなことはどうでもいい。自分の言いたいことをただ一方的に言う。被爆者から異見を示されても,「見解の相違」で押し通す。議論を積み重ねるとか,意見を交換するとか,人の意見を聞いて正すというようなことはまるで必要を感じていない。ブルドーザーのように,押し通していくとしか見えない。

まず,戦後のレジームを壊すことありき,そのための既成事実をひとつひとつ確実に積み重ねている。為政者がおのれを押し通していくことで,実はひとつひとつ現実が出来上がっていくことを知っている。それが確実に進捗していくところが恐ろしいところだ。

これ程の詐術に欺かれるのは,国民の側の責任である。

こんなに世間中で騒がれているのに,未だに振り込め詐欺に欺かれるのと,どこかシンクロしてしまうのは,僕の錯覚なのだろうか。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
中島義明他『心理学辞典』(有斐閣)





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 05:26| Comment(0) | 政治 | 更新情報をチェックする

2014年08月12日

光景


チケットが手に入ったので,国立新美術館の

http://www.nact.jp/exhibition_special/2014/orsay2014/

オルセー美術館展~『印象派の誕生 ―描くことの自由―』を観てきた。

案内には,

「テーマは『印象派の誕生』。1874年の第1回印象派展開催から140年 ― パリの美術界を騒然とさせた「新しい絵画」の誕生の衝撃が,選りすぐりの名画によって東京・六本木に鮮やかによみがえります。
マネに始まり,モネ,ルノワール,ドガ,セザンヌら印象派の立役者となった画家たちの作品はもちろんのこと,同時代のコローやミレー,クールベのレアリスムから,カバネル,ブグローらのアカデミスム絵画まで,まさに時代の,そしてオルセー美術館の「顔」ともいうべき名画が集結する本展に,どうぞご期待ください。」

とある。で,展覧会は,

1章「マネ:新しい絵画」
2章「レアリスムの諸相」
3章「歴史画」
4章「裸体」
5章「印象派の風景」 田園にて/水辺にて
6章「静物」
7章「肖像」
8章「近代生活」
9章「円熟期のマネ」

の構成になっていたが,別段絵の玄人でも,造詣があるわけでもないし,入場制限するほどの混雑ぶりで,それだけでも辟易し,人垣の後ろから,さっさと観て回っただけなので,偉そうなことを言える立場にはないが,ふいに,

そうか,風景を見つけたのか,

と,思わずつぶやいた。そう,画家が,風景を見つけたのだ,誰にとってもありきたりだった景色の中に,自分の描くべき風景,というか,書くべきテーマと言ってもいいものを見つけたのだ,と。

この,風景については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/398086771.html

で触れたことがある。それは,しかし,風景だけではない。

肖像として描くべき

人物
も,
家族

景色

情景

静物


すべてに当てはまる。そこに,自分のテーマを見つけたのだ,と。

展覧会に行ったときは,多く,気になった絵のポストカードを買う。今回買ったのは,

ルノアールの「イギリス種のナシの木」

マネの「ロシュフォールの逃亡」

である。特に,後者は,

http://orsay2014.jp/smartphone/highlight_works12.html

展示の掉尾に出会ったせいもあるが,人影の向こうで,目を引いた。

マネについて,深く知っているわけではないが,

こういう事件

をテーマとして描くことを,見つけたのだと思う。

総じていうと,

光景の発見である。

光景というのは,「ひかり・かがやき・めぐみ」が語源で,転じて景色らしいが,日本語では,

ありさま

情景

を意味する。画家が,見つけたものだ。現実のそれではないのだろう。ナポレオンに反旗を翻しブリュッセルへ亡命したという。しかし,それを,

小さな小船で荒海に漕ぎ出す

という光景の中に,物語を顕在化するという,テーマを見つけたのだといっていい。

昔から,

小説家は,時間を文字にとどめて描き出す

画家は,空間を二次元にとどめて描き出す

と思ってきたが,あるいは,違うかもしれない。時間と空間は一体である。

時空

という言葉が好きだが,

小説家は時間を通して空間を書き止め,
画家は空間を通して時間を描き止める,

のかもしれない。

その時,その場,

を現出することで,一つの視界を開いて見せる。

ロシュフォール

の名とともに,この光景が見えてくるだろう。

作家が見つけたものがすべてだ。その作家独自のパースペクティブに,見えたものが,観客(読者)にとっての新しい光景となるとき,その作家は,

時代の尖端に立っている。

絵画の専門家がどう見るかは知らないが,この

「ロシュフォールの逃亡」

に,作家が見つけた新しい光景を見た。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 04:30| Comment(0) | 展覧会 | 更新情報をチェックする

2014年08月14日

理不尽


生来,

理不尽なこと

が嫌いらしく,これは,ヤクザを投げ飛ばして,返り血を浴びて帰ってきた,

父遺伝

のものらしい。理不尽は,意味としては,

道理を尽くさないこと
道理に合わないこと,無理無体

となるが,

非合理(知性または理性ではとらえられないこと,論理的ではなく情緒的なもの,超自然てき,反理性的なこと)
とか
不合理(道理に合わないも筋の通らないこと)
とか
イラショナル(ラショナルでない)

という意味よりは,

不条理(背理,筋道・道理の通らないこと)

に近い。昔から,よく,

現実的に考える(考えろと言われるほうが多いか)

という言い方をされた。しかし,現実という言葉に,言っている本人も騙され(ているふりをし)ているだけだ。多く,

長いものに巻かれろ,

大勢は決した,いまさらじたばたするのは悪あがきだ,

利害得失を考えろ

といったニュアンスが含まれていて,現実的とは,

理にかなっている,
合理性がある,

等々と,言い訳的に言われるが,その実,

妥協

という意味よりは,

現状追認,

あるいは,

流れに竿さす

こととへの後ろめたさから言っているにすぎないことが多い。とりわけ,わが国で使われるのは,

大勢に順ずる

と言うほどの意味でしかないことが多い。つまり,本当にそれが現実的かどうかを,是非善悪,理非曲直を糺した結果ということはほとんどない,と言うことだ。

我国は,

大義

を掲げているときは,多く,錦の御旗程度の意味しかなく,自分たちの得心のためでしかない。だから,

八紘一宇
とか
五族共和

という類も,自分たちの行為の合理化ないし糊塗でしかない。今日,

積極的平和主義

も,その類といっていい。いまだかつて,本当の意味で,

大義

を掲げて,世界のために何かしたことは,ほとんどない。他国も同じではないか,と言うかもしれないが,少なくとも,主観的には,それが大義だと信じている。しかし,われわれは,多く,

お為ごかし

として使っている。詐欺と同然である。

それを理不尽という。

僕は思うのだが,その一瞬には気づかないが,振り返ると,あのときがそうだったと思い当たる,歴史の転換点に,偶然立ち会うことがある。 いま,そんな大きな分岐点にいることは確かだ。未来の人に対して,本当に,心の底から,それでよし,と言い切れる人が何人いるのか。

いままた,現実的に,

現状追認

するのだろうか。満州事変から,現状追認を続けて,十年の日中戦争に陥り,挙句の果てに太平洋戦争に突入した,十五年戦争と同じように。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 04:44| Comment(0) | 気質 | 更新情報をチェックする

2014年08月15日

自己目的


豊下樽彦・古関彰一『集団的自衛権と安全保障』を読む。

冒頭で著者は,憲法解釈の変更についての,記者会見で,具体的な例を挙げたとを取り上げた。それは,

「事実上朝鮮半島有事を想定しつつ,避難する邦人を救助,輸送する米艦船が攻撃を受けた場合」

であった。そして,

「このような場合でも日本自身が攻撃を受けていなければ,日本人が乗っているこの米国の船を日本の自衛隊は守ることができない」

と述べて,集団的自衛権行使ができない現状では,国民を守れない例とした。しかし,基本的に,これは,嘘である。いろんな意見がすでに出されているが,著者は,

「実はこうした事例は,現実には起こりえない。なぜなら在韓米軍が毎年訓練を行っている『非戦闘員避難救出作戦』で避難させるべき対象となっているのは,在韓米国市民14万人,『友好国』の市民八万人の計二二万人であり,この『友好国』とは,英国,カナダ,オーストラリア,ニュージーランドというアングロ・サクソン系諸国なのである。」

つまり,

「朝鮮半島有事において米軍が邦人を救出することも,ましてや艦船で避難させることも,絶対ありえないシナリオなのである。」

にもかかわらず,平然と,

「お父さんやお母さんや,おじいさんやおばあさん,子供たちかもしれない」という情緒で,訴えたのである。著者は,

「こうしたトリックまがいの手法をとらざるを得ないところに,安倍首相が主導する集団的自衛権をめぐる議論の“支離滅裂さ”が象徴的に示されている」

という。僕はそうは思わない。論理が破綻しようが,支離滅裂だろうが,説明した実績だけが残る。ある意味,国民を馬鹿にし,見下し,いずれついてくる,と思っている節が見え,そちらの方が,半ば事実になりつつある現状を見ると,空恐ろしい。

あるいは,「安倍首相が“執念”をもやす」機雷掃海についても,同じことが見て取れる。著者は言う。

(想定されているらしい)「ホルムズ海峡は,オマーンあるいはイランの領海によって占められ公海は存在しないのである。とすれば,安倍首相の公約(海外派兵は致しません,を指す)に従えば,海上自衛隊の掃海艇はホルムズ海峡の手前で引き返してこなければならず,そもそも掃海活動など行えないのである。」

と。しかし,論理的矛盾,奇奇怪怪の「ためにする議論」であろうと,蟻の一穴という既成事実を積み重ねるための詐術といっていい。著者は,

「公海の存在しないホルムズ海峡での機雷掃海というシナリオの立て方それ自体のなかに,自ら宣言した公約を簡単に破棄してしまう意図が当初より孕まれているのである。」

という。というより,その意図を実現するための詐術としての論理でしかない。いや,論理というより,こじつけである。

著者は,こう嘆息する。

「なぜ集団的自衛権をめぐる議論は,これほどリアリティを欠いているのであろうか。それは,本来であれば何らかの具体的な問題を解決するための手段であるはずの集団的自衛権が,自己目的となってしまっているからである。」

そして,こう付け加える。

「それはつまるところ,集団的自衛権の問題が,安倍首相の信念,あるいは情念から発しているからである。」

それはまさに,国家の私物化である。おのれの実現したいことが,国民の望まないことであっても,何が何でも,実現してしまおうというのは,北朝鮮同様の独裁国家になりつつあることを示している。

集団的自衛権を足掛かりに,目指していることは,

戦後レジームからの脱却

である。著者は言い切る。

「最大の眼目は,青年が誇りをもって『血を流す』ことのできるような国家体制を作り上げていくところにある」

と。そこには,現象的には,靖国参拝,「村山談話」「河野談話」の見直しとして現れ,そこから仄見えてくるのは,

東京裁判史観からの脱却

という課題の具体化なのである。自民党憲法改正草案,国家安全保証基本法などにみられるのは,

「サンフランシスコ講和条約を基礎として米国が作り上げてきた戦後秩序そのものへの挑戦」

であり,だからこそ,

「米国主導の戦後秩序を否定する信条と論理を孕み,それに共鳴する広範な支持基盤を有した政権が初めて登場し,いまや日本を担っているのである。」

と著者は危惧を示している。

「これこそ,日本の孤立化が危惧される所以であり,日本をめぐる安保環境の悪化をもたらしている」

と。その危惧は,ジャパンハンドラーの一人として,アーミテージらとともに,集団的自衛権行使できるよう,介錯改憲を求めてきたはずの,元国防次官補・ジョセフ・ナイの,

「集団的自衛権が『ナショナリズムのパッケージで包装』される,つまりは,『好い政策が悪い包装』で包まれるならば近隣諸国との関係を不安定にさせるので反対である,との立場を表明した」

発言に見ることができる。著者は,

「ジャパンハンドラーの最大の誤算は,日本が集団的自衛権を解釈変更して海外での武力行使に踏み出すことを強く主張する政治勢力が,実は,『東京裁判史観』からの脱却というイデオロギーによって色濃く染められていることであった。」

と。それは,アメリカが築き上げた戦後秩序への挑戦なのである。だから,日本に続いて韓国を訪れたオバマ大統領は,日本に明確な警告を発した。

「従軍慰安婦問題について『恐るべき言語道断の人権侵害』と断じ,その上で,突如として安倍首相の名前を上げ,『(首相は)過去というものは誠実かつ公正に認識されなければならないことを分かっている,と考える』と,異例の形で厳重に “釘をさした”のである。これは,安倍の「歴史修正主義は断じて許さない」というオバマの宣言とみることができる。」

そして,安倍の進める集団的自衛権に対して,「歓迎する」と言いつつ,

①「日米同盟の枠内」であること
②近隣諸国との対話

という厳重な二条件を課した。

「要するに,集団的自衛権の行使は米軍の指揮下で行われねばならないこと,しかしその前提として,中国や韓国との『対話』が不可欠の条件である」

ということである。結局,

「米国の政権は,中国や北朝鮮の脅威を煽りたて日本を米国の軍事指揮下に“動員”しながら,現実には,日米同盟の枠を越えたレベルから自らの国益に沿って行動」

するということである。これのどこが,誇れる国なのか。めざす戦後レジームからの脱却とはこういうことなのか?

在日米軍のために辺野古で着々と進めている工事と言い,どうも言っていることとやっていることが,支離滅裂。ただ国の岩盤を砕いている気がしてならない。

参考文献;
豊下樽彦・古関彰一『集団的自衛権と安全保障』(岩波新書)





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 04:35| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする

2014年08月16日

飛ぶ


以前,ころんだ折,一瞬の空白が生まれた経験がある。それについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/399176805.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163455.html

で書いたが,その瞬間の体というか,現実の状況に,意識がついて行かない,行けないという意味での,意識の断絶だ。しかし,過日,墓参の折,電車を降りようとして,ドアまで行って,ふいに意識が切れた。

この場合は,意識が切れて,身体が崩れたのか,身体が崩れて意識が,それを追い切れず,空白になったのかは,実はよくわからない。

正直,身体が崩れる瞬間の記憶にない。一瞬後,自分が,電車の入り口でしゃがみこんでいるのに気づいた,ですぐに立ち上がったが,何が起きているかが,自分でも,よく分からず,しかも,

視界がしばらくぼやけていた,

意識の側が切れて,身体のコントロールを失ったのかもしれない。これに似た経験は,一度だけある。ずいぶん前,夜中にトイレに行こうとして,廊下で,一瞬身体が崩れ落ちた。心配して,病院へ行ったが,医者は,空白の時間を聞いた。で,

数秒

と言ったら,鼻先でせせら笑った(ように見えた)。そのときも,廊下にへたり込んで,何が起きたかがわからなかった。今度は,傍に友人がいて,近くにいたたおばさんも倒れるのを支えようとしたらしい。友人曰く,

腰砕け

のように崩れた,という。そう言えば,右ひざの上をドア側にぶつけたのか,赤くなっている。それ以外,どこにも怪我はなかった。そばにいたおばさんは,

水を飲んでください,

と助言してくれた。考えてみれば,朝方出かけて以来,水分を取らず,焼酎を何杯か飲んだ。酔い崩れるほどではないので,一種の熱中症かもしれない。

その一瞬が,まったく意識できなかった,

というのがちょっとショックであった。その空白は,ほんの一,二秒くらいで,崩れたところから,何が起きたのか分からず,あわてて立ち上がった。

別にすべてを意識化しているわけでもないし,意識でコントロールできているわけでもないが,

自分がどこにいるのか,
何をしているのか,

が一瞬真っ白になるのは,気色が悪いものだ。

意識が途切れて,糸が切れたマリオネットのように,身体が放り出され,数秒にしろ,その自分の状態が把握できず,大袈裟だが,瞬時,自分自身がこの世から消えた感じなのである。

正確には思い出せないが,ドアに身体を寄せていて,不意にドアが開いて,バランスを崩したのかもしれない。しかし,崩れる一瞬のことは全く記憶にない。

で,その間,声も音も,感覚から消えて,まったくの空白があって,不意に,いつもと違う,見上げる視界に,意識がぼんやり気づき,

おや,どうしたんだろう,

と,その間,ちょっと間があって,やがて事態が朧に察せられ,あわてて立ち上がった,その後しばらくは,まだ視界が,紗がかかったように,少しぼやけていた。

ひょっとすると,その前四日間の仕事の疲労が溜まっていたことも加わって,悪い条件がいくつか重なったせいかもしれないが,昼日中,街の真ん中で崩れる,というのは,ちょっと自分への自信を喪わせるに十分な出来事ではあった。

いつも意識を研ぎ澄ましているわけでもないのに,いざ,ちょっと意識が飛んだだけで,少し慌てるというか,動揺するのも,無意識で,体力の低下を自覚しつつあるせいかもしれない。

無事之名馬

というが,これは,臨済宗でいう,

無事是貴人

をもじったものだとされている。一切の計らいを捨てて,自然体で悟りを啓くのが貴いという意味らしい。それが茶道で,一年の無病息災を寿ぐ言葉として転用された,という。

その意味では,

無事是貴人

の意味転用に,

無事之名馬

が重なり合わさったことになる。

しかし,何もしないで無事ということはないというのは,怪我しないための細心で入念な手入れを怠らないイチローを見ればわかる。

昔,経験を積むというのは,

馬齢

を重ねるのとは違う,と後輩から揶揄されたことがあるが,いやはや,まさに,馬齢を重ねた,つけかもしれない。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:00| Comment(0) | 意識 | 更新情報をチェックする

2014年08月17日

機微


僕は朴念仁で,機微に疎いので,がさつとか,不躾とかと言われる。

機微と言うのは,

容易には察せられない微妙な事情,趣き

あるいは

微かな兆し

の意味だという。

人情の機微を察する

が語源で,

機(物事の働き)+微(かすか)

ものごとに微かに現れるか現れない兆し,

のことといって言い。

「幾」は,

「幺二つ」(細かい糸)+戈(ほこ)+人

で,

人の首に武器を近づけて,もうわずかで届きそうなさま,

わずか
細かい

という意を含むとされる。

「機」は,

木製の仕掛けの細かい部品,
僅かな接触で噛み合う装置

のことらしい。で,「機」には,

はた,機織り機 「機杼」
部品を組み立ててできた複雑な仕掛け 「機械」
物事の細かい仕組み 「機構」
きざし,事が起こる細かいかみあい 「機会」
人にはわからない細かて事柄,秘密 「機密」
勘の良さ,細かい心の動き 「機知」「機転」

といった意味がある。

では,「微」は,というと,

「微」のつくりの方は,

「-線の上下に細かい糸端のたれたさま」+「攴」(しるし)

で,

糸端のように目立たないようにすること

「微」は,

それに「彳」(いく)を添えて,

目立たないようにしのびあるきすること

という。だから,

かすか,ほのかではっきりみえない
身分が低い,目立たない
小さくて,目立たない
ほんの少し,わずか
ひそかに

といった意味になる。

しかし,人情の機微に触れる ってどういう意味なのだろう。なんとなく,

(微妙な)気持ちが分かる
酸いも甘いも噛み分けた
情に通じた

といった意味で,漠然と,

世事に通じる,

といった意味で使われ,

人間通
とか
人間観察力にすぐれる

ということとはずれていくような気がする。

心の綾
とか
心のデリカシー

という言い方をされることがある。

なんとなく,下町のおばさんの風情になる。しかし,下手をすると,

空気が読めない,

の類と同じ,同調圧力に変わる可能性を秘めている気がする。

そうそう人の心の奥底などわかるものでもないし,勝手にわかってもらったって,当人だって迷惑に違いない。

そういうと,きっと,

機微のわからないやつ
機微に疎いやつ

と言われるだろう。その瞬間に,同調圧力になっていることに,言っている本人が気づかない。

これは,人に強要するものではない,

黙って分かった(ふりをする)

というような,

忖度というか,惻隠の情

を言っているだけなのではないか。わかったら,わかったなどと言わないのが,

機微

というものだ。

そもそも,人の感性レベルは,人によって違う。その違いが個性というものだ。どこかに,

あるべき感じ方

などというものはない。そういうことを言い出したら,右向け右と同じことをしていないと納得できない,おのれの没個性に気づくべきだろう。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 04:58| Comment(0) | 世情 | 更新情報をチェックする

2014年08月18日

後始末


後始末は,

跡始末

とも書く。

別に後事を託すべきこともないので,大層な始末がいるわけではない。しかし,それなりの始末をつけなくてはならないことはある。

始末

とは,

始+末

始めと末,という意味でシンプルだ。日本語では,

片づける
倹約する

という意味になる。因みに,

仕末

は誤字らしい。辞書を引くと,

始めと終わり,終始,首尾,顛末
事の次第,とくによくない結果,仕儀
きまりをつけしめくくること,整理をすること
浪費せず,つつましいこと

といった意味になる。

跡始末をつける,というのは,

帳尻を合わせる

という意味もあるし,

平仄を合わせる,

という意味もあるし,

掉尾を飾る,

という意味もある。

棺を蓋いて事定まる,

という意味もある。

最期は人の嗜み

という意味もある。

死して後已む

という意味もある。

まあ今更遅いが,

人は生き方通りの死に方をする,

とも言う。

まあ,見栄である。

しかし,

死生命有り
六十二十は死に頃

いつ死んでも,適期,ということでもある。ただ,後に災いや面倒は残したくない。

父は,四十年余前に亡くなったが,そのとき,まだ生きるつもりであったか,再入院に際して,仕事の仕掛かりをそのままにしていった。残されたものは,その跡始末がつけるにつけられなかった。

かつては,僕も,生きられるところまで仕掛かりのままやり続けてもいいのではないか,というふうに考えていた。しかし,いまは少し考えが変わった。

やはり,後は身ぎれいにしておきたい。それは,

見切る,

ということだ。ありていのに言えば,見限る,ということかもしれない。

未練たらしい,

のは嫌なのだ,と気づいた。別に潔い,ということを目指しているのとは違う。淡々と,すべき処理をしておこうとすると,どこかで,

断念

を迫られる。捨てる,ということだ。未練なのか,後生なのか,心残りなかか,ははっきりしないが,

まだできる(かも),

という,おのれへの期待を,

棄てる

ことなのだと思う。それが無くなって,果たして,まだ生きる意欲がわくのかどうかが,まだ決めかねている所以である。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:02| Comment(0) | 死に方 | 更新情報をチェックする

2014年08月19日

めくじら


ずいぶん前,万引きをした中学生を追いかけて列車事故死させた古書店主が非難囂囂,とうとう廃業に追い込まれた。今度は,25万円のブリキの玩具を万引きされた古書店が、「期間内に盗品を返さなければ犯人の顔写真を公開する」と警告したところ,警察からの要請で顔写真の公開を取りやめた。それに対して,

「刑法の規定では、正当な債権を取り返す場合でも脅迫すれば脅迫罪になる。今回のケースは、現時点で恐喝未遂に当たる」

という識者の意見が出ていた。あるいは,

古書店側が人間違いをして,無実の人が犯人として顔を晒される危険がある

という説まで新聞には出ていた。

しかし,おかしい。問題のすり替えなのではないか。結局,弁護士曰く,

盗まれ損

なのだという。何かが,おかしくはないか。法的な不備かもしれない。しかし,そうではなく,万引きしたものを庇う風潮がある気がする。これって,まっとうに,わずかな利で稼ぐ小売りをなりわいとするものを殺すことではないのか。

そもそも万引きしたのは本人の意志である。だとすれば,追いかけられて死んだとしても,それはおのれの所業のつけなのではないか。それこそ,マスコミや為政者の言う,

自己責任

なのに,それを,万引き被害者に転嫁し,あたかも,盗まれたものを追いかけたり,告発するのが,過剰と言うのは,どう考えてもおかしい。

万引きごときで,目くじらをたてるな,というのだろうか。しかし,小事をないがしろらするものは,大事にも高をくくる。大事は小事に宿るのである。

たかが万引きと言うが,例えば,これは普通の新刊本の書店の例だが,

利益率が低い業界の書店の利益は一冊あたり2割程度である。1冊盗まれたら,元を取るのに5冊売る必要があり,利益を出すためにはもう1冊,つまり6冊,6倍も売る必要がある。万引き1回に対して6倍の売上、努力が必要,

なのだそうだ。たかが「万引き」ではないのである。もっと利益の低いコンビニなどは,もっと深刻だと思う。

一説によると子供時代から数えて,万引き経験のない人はほとんどいない,という。ネットでは,

ある二十代の女性が嘆いていた。友人らとの会話の中で,万引き経験がないことを言うと,「嘘でしょう?」「あり得ない」「信じられない」と,誰もまともに信じようとしなかったというのだ。「誰だって一度や二度は万引きをしたことがあるのは当たり前」と,万引きをしたことがない彼女はむしろ異端扱いされた,

という記事すら掲載されていた。

一事が万事である。これが,わが国の実態である。

「人のものを盗んではいけない」

と,子どもにハッキリと言い聞かせている親がどれだけいるのか,と思いたくなる。ひょっとすると,

嘘つきは泥棒の始まり

ということわざは,もはや死語なのかもしれない。なんせ,泥棒が常態になっているのなら,たかが噓くらい誰も気にもしないだろう。そのせいかどうか,平然と国家のトップが嘘を並べ立てて,恥じることがない,というのは,すでに何ごとかを象徴している。この嘘については,

http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140811-1.html

で,すでに触れた。

しかし,実は,もっと深刻なのかもしれないと,ふと気づく。

泥棒はいけないこと

と,建前ではわかっている。しかし,本音は,少しぐらいなら見つからなければいいのではないか,と思っている。それが積み重なれば,タテマエは,あってなきが如く,雲散霧消する。ただの本音の隠れ蓑に堕す。こっちの方が深刻である。言っていることとやっていることのギャップが大きい。そして大きいことを承知している…!

万引きとは,

「マン(一時的な運・マン)+引き」

で,マン(運)よく引き抜く(盗む)ことを言う。よく言われる,

間+引き

を語源とする説は疑わしい,という。万引きは当て字,

買い物をするふりをして隙をみて盗む

ことを言う。まさしく,

正業

への挑戦である。まっとうに働く者を助けない社会に,一体どうして喜んで税を納めるのか。税を納めている側が損なわれ,非難されるような世の中はどこか歪んでいる。

僕は危惧する。

タテマエでは,勤勉,汗水たらして働くことを言いつつ,実は,本音では,それを馬鹿にしている。いかに楽して儲けるかしか考えていない。それは,倫理(僕はいかに生くべきかという人のありようについての価値観のコア部分と思う)が崩壊しているのではないか。

それが,嘘や欺瞞を当たり前とするだけではなく,汗水たらす努力を厭い,さっさと万引きして済まそうとする風潮につながっていないか。一度,簡単に果実がでに入れられれば,万引き感覚で,他人の成果物も平然と盗む。現に農作物の盗難が相次いでいる。

それをゲーム感覚などという言葉の遊びにすりかえるのは,卑劣である。

しかし,窃盗を万引きと言い替えているところで,実は,ごまかし,自己欺瞞がある。軽くしようと,軽いと思い込まそうとしている。敗戦を,終戦と言いくるめたことから始まって,69年たって,その敗戦自体をなかったことにしようとしている心性とは,どこか地続きではないか。

いやいや,すでに民主主義,不戦の誓いと言う文言が,戦没者式辞から消えたという以上,タテマエすら危うくなってきたのかもしれない。

めくじらとは,

ささいなことにむきになる,
目角を立てて他人の欠点を探し出す,

という意味だが,語源的には,

「目+くじら(端・尻)」

で,目尻のことである。で,めくじらを立てるで,眼角を立てて,他人の欠点を言い立てる意となる。しかし,

小事は大事

という。たかが万引きと,めくじらを立てぬものは,人としての基本的なありようが腐っている。基本の構えがなっていない,気がしてならない。

めくじらをたてすぎ?

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 04:58| Comment(0) | カテゴリ無し | 更新情報をチェックする

2014年08月20日

口跡


先年亡くなった,十二代目團十郎は口跡が悪い,

という言われ方をしていた。

口跡は,普通に辞書を引くと,

ことばづかい
歌舞伎で,俳優のせりふまわし,またその声色

と出る。『大言海』には,

ことばの状

とあり,

声(こわ)遣い,声音,声色,

とある。語源的には,

口(言葉)+跡(言い方)

で,「特に,歌舞伎での俳優の言いまわし,セリフ回し」を指すらしい。筆跡に対する口跡という意味がある。となると,「跡」が気になる。

跡は,

あと,月次と同じ間をおいて転々と続く歩いたあと。転じて足跡。迹,蹟と同系。
あと,モノがあったあと,物事が行われたあと。

亦は,胸幅の間をおいて両脇にあるわきの下を示す。足+亦で,間隔を置いて続く足跡

という意味らしい。

こう考えると,

口跡は,

単なる「せりふまわし」ではなさそうだ。因みに,「せりふまわし」は,

台詞の言いまわし,

とある。では,言い回しはというと,

言いあらわし方,ことばの使い方

となる。なんとなく循環して,結局

言い方

につきる。口跡が悪いというのは,僕は,

台詞の切れが悪い,

と思っていた。昔の中村錦之助,萬屋錦之介が僕のイメージでは口跡の言い例になる(いまの歌舞伎界では,二代目吉右衛門も口跡がいい部類らしいが)。べらんめいというのではない。せりふの跡がきちんとたどれる,あるいは,ひとまとまりの意味をなす言葉が,ドットとして出てくる。というか,ドットとして連なる言葉の列がこちらにきちんと残る,ということだ。もちろん,声が,内に籠っては話にならない。

世界大百科事典 第2版の解説によると,

俳優の音声演技の一要素。歌舞伎俳優の発声法,せりふ回し,エロキューションなどのせりふ術と,声音,高低などの声の質の両面をいう。歌舞伎の演技は,おもにせりふとしぐさから成り立つが,なかでも,古来から〈一声二振三男〉といわれるほど口跡の良さは,役者の質を評価する重要な要素である。口跡は役者の財産という意識がそこにある。【富田 鉄之助】

とある。「一声二振三男」は,「一声二顔三姿」とも言われるが,優れた歌舞伎役者であるために求められる条件を並べたもの,といわれる。

顔や身振り手振りよりも,まず,

口跡

と言われる。調べると,

「歌舞伎のせりふには,河竹黙阿弥作品に代表される七五調の音楽のような美しい名せりふや,『ツラネ』といって荒事芸などで主人公が花道で延々と(吉例などを)述べる長ぜりふ,2人以上の役者が交互に自分のせりふを喋り,最後,デュエットのように全員で声を合わせて終わる『割(わり)ぜりふ』,更には数人の役者がまるで連歌の会を催しているように順々にあとを続ける『渡りぜりふ』など,場面場面に応じた様々なせりふ術があります。(『歌舞伎のおはなし』)

とあって,台詞回しは生命線に違いない。その意味で,メリハリというのは,なかなか意味が深い。

「歌舞伎のせりふ術で,音の緩急・強弱・高低・伸縮などの技術のことを『めりはり』と言います。これは『滅(め)る』(=緩む)と『張る』(=強める)が一つになったものです。そして『めり』と『はり』がよくきいていて,せりふが観客に鮮やかに聞こえることを『めりはり』があると言います。」(仝上)

ともある。どうやら,単に言葉が,ドットとしてただ同じサイズが点々と続くだけではなく,それにドットの大きい小さいが必要ということだ。それは,拍子というか,リズムというか,アクセントの有無といってもいい。

単に歯切れのいい喋り方だけではなく,声の質も関係がありそうだが,それ以上に,

聴き手側に,ことばの軌跡が残る

ことが大事なのではないか,しかも,

心地よい調子

として,という気がしている。そう言えば,銚子のいい台詞回しは,耳に長く残る気がする。その意味では,

ボイストレーニング( Voice training)

とは目指すものが違う気がする。発声訓練をすることで,声が外に出ても,声が,点として軌跡を残すしゃべり方にはならない。

かつて受けたトレーニングでは,声が大きいというのは,

遠くに届く

ことであって,相手に届けたれば,ボールを相手に投げるように,相手を見て言葉を投げろ,と言われた。確かに,そうだろう。遠ければ,遠い相手に届くように声を出す。

滑舌

という言葉があるが,それは,喋るとき,

相手に理解してもらうために舌や顎や口をうまく動かしてはっきりとした発音をする動作

のことを言う。ボイストレーニングではここまではするらしい。しかし,やはり,口跡とは,少しだけずれる。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 04:41| Comment(0) | 話し方 | 更新情報をチェックする

2014年08月21日

気まま


NHKの番組で,唯ひとり集団的自衛権反対の論陣を張った鳥越俊太郎は,帰路ヤバイ目にあったと言われているし,ネットでは罵詈雑言の嵐だったと聞く。

いまの世の中の風潮を如実に表している。反対者を,徹底的に叩く,しかも,肉体的精神的にも追い詰める。

そんなに嫌なら,日本を出ていけ

という論調である。いまの日本が嫌なことと日本そのものが嫌なこととはイコールではない。よしんば,日本が嫌でも,この日本に生きている資格はある。意見が違おうと,価値が違おうと,生きていく資格がある。基本的人権とはそういうことだ。それを,反対者を徹底して追い詰めていく。まるで,

人非人

のように,この傾向は,いわゆる,

バッシング

の中にすでに垣間見られた。記憶に鮮烈なのは,かつて,イラクで活動していた女性が過激派に囚われたとき,国を挙げて,

自己責任

の名のもとに,追い詰め,押し潰した。そのとき,イタリアは国を挙げて救出しようとしていたのと好対照だ。かつての,

国賊

と言われるのとほとんど同じである(最近は,反日というレッテルになっている。反戦は反日,反原発も反日…らしい)。日本には,いまや,

民主主義

はない。いや,もともとなかったのかもしれない。それが,いま,露呈した。民主主義のないところに,

自由

はない。自由のないところに,

個性



創造性

もない。いま,日本が停滞しているのは,単に経済だけではない。20年以上バブルの後遺症が続いているのは,われわれにそれを打ち破る知恵と創造性が失われている証拠でしかない。

人と意見の違うのは,当たり前,だから,

議論

するし,異見を戦わす。カーネギーが,

意見の不一致を歓迎せよ,
ふたりの人がいて,いつも意見が一致するなら,そのうちのひとりはいなくてもいい人間だ。

と喝破したことを思い出す。

意見が違うからこそ,おのれひとりの自己完結した狭い発想から広いパースペクティブへと広がる。

先日の被爆者との懇談で,

見解の相違

といって,異論を退けて顧みないトップというのは,その瞬間,民主主義も自由も弁えていない,ということをしょうめいしたようなものだ。意見の相違は,前提でしかない。その上で,異見を言わせた結果,

意見の相違

で切り捨てるのは,異見を言わせたのが,たんなるセレモニーでしかなかったことを,露わにしたと言っていい。

最高の責任者は私だ,

と豪語したそうだが,そんなことは当たり前だ,すべての責任を取るために,国のトップなのだ。しかし,それは結果についてであって,結果のプロセスぬきに,

はじめに結論ありき

で,自説を通すなら,議会もいらない,国民もいらない,それなら,国家の私物化である。それを独裁国家という。この時点で,気づくべきであった。ヒトラーか金になりたがっているということに。

議論に負けても意見は変わらない,

とカーネギーの言う通りかもしれない。しかし,お互いが,異見であることを確かめなくてはならない。その上で,共有しうる結論を導き出せさなくてはならない。それさえなされないなら,異見を許さないに等しい。

自由

とは,中国語で,

きまま,心のまま,思うまま,

が語源。明治に,

Freedom

Liberty

の訳語として使われた。一説では,

freedomは束縛されない自由,,

libertyは束縛から解放された自由.

というが,ここに,自由の語を当てたことが,われわれにとっての,

近代的自由(あるいは束縛からの自由)

個人としての気ままさ

の間の曖昧さに,自由をないがしろにしたり,されたりすることの重みに鈍感な根源があるように思える。

が,しかし,ふと思う。哲学的,政治的意味はさておくとしても(どうせ無学な僕にはわかりっこないので),

「きまま」は,

キ(気持ち)+ママ

で,気持ちの向くまま,ということだ。これができる,いや,飢え死にしようとどうしようと,おのれの意志のまま生きていい,ということが,そもそも自由の意味だとすれば,それは,自由の根源にかかわるのではないか,という気がしてきた。種田山頭火ではないが,

春が来た水音の行けるところまで

がありでなくてはならない。

自由とは,少なくとも,

おのれがいかに生きるか

について,それぞれの人との意志にゆだねられる。それが,

人としての尊厳

である。とすれば,結論ありきで,「生き方」「考え方」を押し付けられても,それに,

No

を言うべき資格が,人として与えられている。好戦的でアナクロな右翼が多数派か少数派か知らないが,

人に意見を言わせない,
異論を許さない,

ということ自体で,その人が,自由な意志を持った人間ではない,ということの証明でしかない。人が異論を言うのは,

どのように生きるかはその人の自由,

という根本がわかっていない証拠だからだ。

しかし,いま,そういうこと言うことさえ許さない世の中になりつつある。それかあらぬか,報道の自由度は,世界で,

59位

にまで落ちた。鳩山内閣時代は,11位であった。

参考文献;
D・カーネギー『人を動かす』(創元社)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 03:27| Comment(0) | 自由 | 更新情報をチェックする