2014年08月02日
言霊
佐佐木隆『言霊とは何か』を読む。
著者は,言霊の,一般的な理解の例として,『広辞苑』を引く。
「言葉に宿っている不思議な霊威。古代,その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた。」
と。しかし,一見して,異和感がある。言と事をイコールと感じるからといって,誰の言葉でも,その言葉通り実現すると,信じられたのか,と。
著者は,
「古代日本人にとって『言霊』とはどんなものだったのかを具体的に検討」
するのを目的として,
「言葉の威力が現実を大きく左右したり,現実に対して何らかの影響を与えたりしたと読める材料のみを取り上げ」
て,
「言葉の威力がどのようなかたちで個々の例に反映しているのかを,『古事記』『日本書紀』『風土記』に載っている神話・伝説や『万葉集』に見える歌などを読みながら,一つ一つ確認していくことにしたい」
とまえがきで述べる。それは,結果として,言葉が一般的に霊力をもつという辞書的通念への批判の例証になっていく。
まず,「言霊」の「こと」は,一般的に,「事」と「言」は同じ語だったというのが通説である。あるいは,正確な言い方をすると,
こと
というやまとことばには,
言
と
事
が,使い分けてあてはめられていた,というべきである。ただ,
「古代の文献に見える『こと』の用例には,『言』と『事』のどちらにも解釈できるものが少なくなく,それらは両義が未分化の状態のものだとみることができる。
という。ただ,まず「こと」ということばがあったと,みるべきで,「言」と「事」は,その「こと」に当てはめられただけだということを前提にしなくてはならない。その当てはめが,未分化だったと後世から見ると,見えるということにすぎない。
「『言霊』の『霊(たま)』は,『魂』の『たま』と同じ語であり,
霊魂,精霊
のことだと,一般には説明されている。
で,「言霊」使用例(「言霊」を読みこんだ例は『万葉集』には三首しかない)の分析に入る。たとえば,
①神代より 言ひ伝て来らく そらみつ倭国は 皇神の 厳しき国 言霊の幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり…(山上憶良)
②志貴島の 倭国は 言霊の 佐くる国ぞ ま福くありこそ(柿本人麻呂)
③言霊の 八十の衢に 夕占問ふ 占正に告る 妹相寄らむと(柿本人麻呂)
これ以外に,『古事記』『日本書紀』『風土記』を含めて,「言霊」の確かな用例はないのだという。で,ここから,その意味をくみ取っていく。
③の「夕占問ふ」とは,「夕占」である。
「夕方,道の交差点になっている辻に立ち,そこを通行する人が発することばを聞いて事の吉兆・成否を占う,」
という意味である。おみくじを引いて,神意を知るのと同じというと,言いすぎか。
②は,その前の長歌をうけている。そこには,
「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 事挙げせぬ国 然れども 辞挙げぞ吾がする 言幸く ま福いませと 恙無く ま福くいまさば 荒磯波 ありても見むと 百重波 千重浪しきに 言上げす 吾は 言上げす吾は」
とあり,①も②も,
「皇神(すめかみ)」「神(かむ)ながら」を承けたかたちで「言霊」という語が用いられている,ということである。
として,著者は,ここで用いられた
「『言霊』が神に対する意識と密接な関係があったことを物語る,」
として,こう説く。
「人間の口から発せられたことばが,その独自の威力を発揮し,現実に対して何らかの影響を及ぼす,といった単純な機構ではない。神がその霊力を発揮することによって,『言霊の幸はふ国』を実現し『言霊の佐くる国』を実現するのだというのが,(①と②の)『言霊』に反映する考え方なのである。」
当然,③の占いも,
「行為が向けられた相手は神であり,『占正の告る』の主体も神だということになる。つまり,人間が『占』を行って,神に『問ふ』のであり,神がそれに応じて『占に告る(占いの結果にその意思を表す)』のである。」
と述べ,『広辞苑』に代表される通説の説明は不十分で,
「(三例の)「言霊」は神を意識して用いられたものであるのに,…神とのかかわりが視野にはいっていない,」
と言う。そして,
「三例の『言霊』は,神がもつ霊力の一つをさすもの,」
と考えると,ことばに対する当時の日本人の考え方は,原始的なアニミズムを脱し,
「『言霊』については,早い段階で,人間には具わっておらず神だけがもつ霊力だと考えられるようになっていたのではないか」
と推測する。そして,以降,ことばの威力を,文献にあたりながら,
いかに神の霊力
を意識していたか,を検証していく。
呪文
祝詞
国見・国讃め
国産み
夢あわせ
等々を検討したうえで,
「本書では,ことばがその威力を発揮して現実に何らかの影響を与えた,と読める材料だけを古代の文献から集め,その内容を具体的に分析した。『古事記』『日本書紀』『風土記』の神話・伝説や『万葉集』の歌を見る限り,ことばの威力が発揮され,それが現実に影響を与えるのは,神がその霊力を用いる場合である。人間の発したことばを聞き入れた神がその霊力を発揮して現実に影響を与える,というかたちになっているのが普通である。」
とまとめる。つまり,
「人間の発することば自体に威力があって事が実現するのではなく,人間の発することばを聞き入れた神が事を実現してくれる…,」
というわけである。
「ことばに霊力がやどると信じたのは,人々の間で日常的に何気なく交わされることばではな(く)…儀礼の場で事の成就を願う非日常的な状況において,特別な意識をともなって口から発せられることばに霊力がこもる…」
ということである。上記の万葉三首以降,「言霊」をもちいた歌は,数えるほどしかない。そこでも,強く神対する意識がある。では,どこで,
「人間の発することばにまで拡大され,さらにまた,ことばそのものに霊力がやどるという解釈にまでかくだいされることになった,」
のか。著者は,江戸時代の『万葉集』で,上記三首の解説を調べる。
江戸時代前期,契沖の『万葉代匠記』
江戸時代中期,賀茂真淵『万葉考』
では,神との関係を明確に意識している。しかし,
江戸時代後期,橘千蔭『万葉集略解』
では,
この歌に神霊がやどって,
と,神意抜きの解釈に変わる。師の真淵が「神の御霊まして」という説明の神意をはき違えてしまったらしいのである。
これ以降,
言霊とは,ことばの神霊のことであり,発することばにおのずから不思議な霊力がある
というように変わっていく。それは,とりもなおさず,
自然や神への畏れ
をなくしてしまった現れなのではないか,と思う。だから,
ことばをもちいた祝詞や和歌や諺にも言霊が宿る,
と際限なく拡大していく。それは,人の不遜さ,思い上がりに通じるものがあるような気がしてならない。人というより,日本人の,と言った方がいい。その不遜さは,またぞろ,妖怪のように復活してきた気配である。夜郎自大とはよく言ったものである。
参考文献;
佐佐木隆『言霊とは何か』(中公新書)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm