2014年08月09日
ゲーム?
僕には,自滅の癖がある。というか,あるらしい。
自然に滅ぶ
のである。あるいは,
滅ぶようにふるまう。
あるいは,TA(交流分析)でいう,ゲームをしているのかもしれない。
自
は,
おのずから
みずから
より
の意味があるが,「自」は,人の鼻を描いた象形,という。「私が」というとき,鼻に指さすので,自分の意に転用,あるいは,出生の際,鼻から先にして生れ出るし,鼻は人体の最先端にあるので,「~からおこる」「~から始まる」という起点を顕わすことになった,という。
ついでに,念のため,
滅
は,
戉(まさかり,ほこ)+火
の会意文字で,刃物で火種を切って消すことを示す。「滅」は,それに水を
加えた文字で,水をかけて火を消し,また見えなくすること,という。
自ら,盛る火に水を差す,
という感じかもしれない。
デスペレート
とか,
自暴自棄
という感じとはちょっと違う。だから,ゲームなのである。裏の意味があるらしいが,そのことに自分でも自覚的ではない。
まあ,言わば,嫌な奴
に属する。かつて,議論を積み重ねていて,不意に,すべてをひっくり返すようなことを言い出して,顰蹙を買ったことがしばしばあるが,それも同じ伝である。
ゲームを,調べると,
エリック・バーンは,こじれた人間関係やパターン化された対人トラブルを引き起こす自滅的なコミュニケーションのことを「ゲーム(game)」と定義した。交流分析におけるゲームとは,相手を自分の都合の良いように操作したり利用しようとしたりすることで始まるコミュニケーションであり,その最後はドラマチック(感情的)だが紋切り型の不幸な結末となる。
過去に激しい対立や喧嘩(言い争い)といったトラブルを起こした人は,同じような相手・状況で同種のトラブルを起こすことが多いが,この『パターン化した対人関係』にはゲームの仕掛けが影響している。
という。しかし,同じパターンを繰り返しているかどうか,主観的にはあまり自覚的ではない。
こういう言い方もある。
交流分析では人はストローク(承認,愛情)を求めて互いに交流を行う,と考えます。また,人は肯定的ストロークが得られないと,否定的ストロークを求めるようになる。そこで,生育の過程で,否定的ストロークを交換する態度が習慣化したものがゲームである,
と。こちらの方がわかりやすい。だから,交流分析でいう,表面の会話と裏面の心理的レベルの会話がずれている,ということになる。あるいは,単純に,
わがまま
すねる
ひがむ
ひねくれ
という心性と地続きなのかもしれない。しかし,他罰ではなく,自罰へ向かうのだとすると,ゲーム分析の範疇の中に入るのかもしれない。
そう考えると,ちょっとアサーティブのことを思い浮かべる。アサーティブ以外の自己表現スタイルに,
攻撃型ノー・「ドッカン」(平木典子さんの言う攻撃的自己表現=アグレッシブ)
受身型ノー・「オロオロ」(平木典子さんの言う非主張的な自己表現=ノン・アサーティブ)
というのがあるが,それ以外に,森田さんの分け方では,
作為的なノー・「ネッチー」
というのが加わる。
はっきりノーと言わないで,なんとなく相手に悟らせようとしたり,回りくどい言い訳をしたりするパターン,
である。果ては,雑巾を洗った水でお湯を沸かし,嫌な上司にお茶をいれるところまで行くかもしれない。実は,現実的にはこのパターンの方が多いのではないか,とひそかに思っている。で,これは,ひねくれ,すねる,の心性と地続きになる。見かけほど,攻撃型と受身型の差があるわけではなく,
受身か作為かは,ある意味堪えている状態で,不満が満タンになれば,何らかの形で爆発する。
専門的なことはわからないが,自分に都合の悪いことを,直截に言わないで,ぼかしたり,ごまかしたり,裏をいったり,なんとなくぼそぼそと独り言を言っていて,あるとき不意に爆発するというパターンは,場合によっては,ノンアサーティブではあるが,それを繰り返していれば,まあゲームにも近い。
いやいや,まあ,そんな回りくどい人間なのかもしれない。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
杉田峰康他『ゲーム分析』(チーム医療)
森田汐生『「NO」を上手に伝える技術』(あさ書房)
アン・ディクソン『第四の生き方』(つげ書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm