2014年08月28日

天下


金子拓『織田信長〈天下人〉の実像』を読む。

信長については,何度か触れた。もっともニュートラルで戦国大名研究家の見る信長は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/390004444.html

で挙げた,池上裕子『織田信長』である。

一方,革命性を強調した信長像は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/400155705.html

藤田達生『天下統一』である。

本書は,信長像を等身大の戦国大名として描く。

「はじめに」で,著者は,自分の問題意識を,こう書く。

「織田信長は本当に全国統一をめざしていたのだろうか。」

それを説明するための本書なのだ,という。そのために,

「信長が義昭を擁して上洛した永禄11年(1568)以降を対象に,とりわけ義昭が京都から追放された元亀四(天正元)年から本能寺にて信長が斃れる天正10年までの期間を中心として,信長と朝廷・天皇とのあいだに起きた事件・できごとを,一つ一つ丁寧に,史料にそくして考えてその歴史的意義をとらえ直し,最後にそれらを総合したうえでの信長の統治者(天下人)としての姿勢をうかがうという構成をとる。」

という。すでに,岐阜城・安土城の発掘がすすみ,その意図を推測する成果がでており,

岐阜城の庭園の室町将軍帝都の類似
安土城の正面の真っ直ぐな大手道に,当初から天皇行幸を構想した城造り

等々が指摘され,専売特許のように言われた,

楽市楽座

も,信長の創意というよりは,戦国大名領国で実施されている政策の継承という見方がされつつあり,さらには,領国支配のやり方も,他の大名と比較して先進性がなく,むしろ遅れていたとする考え方が,戦国大名研究の中で形成されつつある,という。

そこで,「天下統一を目指したのか」という問いについては,

天下布武

という信長の印章にも使われた,

天下

という言葉の意味が問題になる。

天下の意味には,(神田千里氏の整理によると)

①地理的空間においては京都を中核とする世界
②足利義昭や信長などの特定の個人を離れた存在
③大名の管轄する「国」とは区別される将軍の管轄領域を指す
④広く注目を集め「輿論」を形成する公的な場

の四つがあるが,「天下」の領域は,五畿内であるとするのが通常らしい。ただ,

戦国時代は,③の「将軍の管轄領域はほとんど京都を中核とする世界に限定されていた」という意味では,③と①は同義になる。で,

「信長の時代における『天下』の認識はここから出発しなければならない。」

とすると,天下布武の「天下」は何を意味していたのか。もしそれが,従来いわれているように「全国統一」なら,他の戦国大名に喧嘩を売るというか,宣戦布告しているようなものだ。

だから,(神田千里説に従えば)

「『天下布武』とは,足利義昭を連れて入京し,畿内を平定して凱旋するという一連の戦争を遂行した結果,将軍を中心とする畿内の秩序が回復することを勤める。」

という永禄11年に実現した状況を指す,のだという。そして,上洛後の信長の政治理念は,

天下静謐

だと,著者は考える。それは,

「室町将軍が維持すべき『天下』の平和状態を,のちに義昭や信長自身が発給文書のなかで用いる言葉」

でもある。そして,

「信長は天下静謐(を維持すること)を自らの使命とした。」

と見る。

「当初はその責任をもつ義昭のために協力し,義昭が之を怠ると強く叱責した。また対立の結果として義昭を『天下』から追放したあとは,自分自身がそれを担う存在であることを自覚し,その大義名分を掲げ,天下静謐を乱すと判断した敵対勢力の掃討に力を注いだ。」

太田牛一の『信長公記』の,「足利義昭を擁して上洛した永禄11年(1568)から没する天正10年(1582)まで,一年を一巻(一冊)で記した15巻本の自筆本のひとつ…池田家文庫本…の巻一(永禄11年)に」,

信長公天下十五年仰せ付けられ候。愚案を顧ず十五帖に認め置くなり。」

という奥書がある。別の自筆本では,

「信長京師鎮護十五年,十五帖の如くに記し置き候なり。」

ともある。つまり,「天下を十五年にわたりお治めになったといった意味」となる。側近くにいた,太田牛一からみれば,

「十五年間の信長の役割は,信長の死から二〇年ないし三〇年後の牛一にとって,『京師警護』,『天下を仰せ付けた』と認識されているのである。」

ということになる。その時代のうち,

「義昭を『天下』から追放した天正元年以降の十年間,信長と天皇・朝廷とのあいだでおきたむさまざまなできごと」を,具体的には,

天正改元
正親町天皇の譲位問題
蘭麝待切り取り
右大臣任官
絹衣相論
興福寺別当職相論
左大臣推認
三職推認

を丹念にたどりながら,信長の行動基準は,あくまでも天下静謐の維持という点にあった」ことを,描き出している。その点から見ると,秀吉の全国統一は,諸大名を鉢植化したところからも,

「信長と秀吉の間にはおおきな断絶がある」

と著者は見る。この面から,秀吉の事跡は別の証明があてられる必要があるのかもしれない。

ただ,著者は,本能寺の変が,用意なく,大童で遂行されたことに着目し,五月に,朝廷がというより,正親町天皇が,

「征夷大将軍に推認」

しようとした事実に注目する。信長がそれにどう返事したかは,どこにも記録がない。しかし,四国攻めが「天下静謐」とは関係ないところから発せられているということに疑問を呈し,将軍を意識した行動ではないか,と推測する。

あくまで,「天下静謐」という仮説を前提にすれば,ということだが,信長の中で,

天下

がいつの時点かで,全国に変わったという境界線があるのではないか,という受け止め方をすると,興味がわく。まだ,これについては,明確な答えは出されていない。

天下の意味が,五畿内から,途中で,全国統一に変わったとする説は,他でもあった,その変化を,信長がどこで,麾下の武将たちに明言したのか,それが秀吉にどう受け継がれたのか,と問題意識の立て方を変えると,本書は,その端緒に立っている気がする。その視点で見ると,本能寺の変にも別の光が当たるのではないか。

参考文献;
金子拓『織田信長〈天下人〉の実像』(講談社現代新書)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
posted by Toshi at 06:24| Comment(1) | 書評 | 更新情報をチェックする