2017年06月01日

メタ・メッセージ


ポール・L.・ワクテル『心理療法家の言葉の技術―治療的なコミュニケーションをひらく』を読む。

心理療法家の言葉の技術.jpg


著者は,「訳者(杉原保史)あとがき」によると,

「ニューヨーク大学で教鞭をとる臨床心理学者であり,心理療法家である。心理療法家として彼は対人関係論的な精神分析の立場から出発したが,早くから行動療法や家族療法に対しても開かれた態度を取り,これら多学派の心理療法をも真剣に考察する中で,もはや自学派の伝統にとどまることができなくなり,循環的力動論という新たな治療体系を提唱するに至っている。」

とある。本書の意図は,明確である。『日本語版』への序文で,著者は

「本書のかなりの部分は,微妙な言葉のあやについて論じています。つまり,何かを言葉にする際のちょっとした違いが,その治療的影響力(非治療的影響力)に大きな違いをもたらしうるということを論じています。また同様に,本書のかなりの部分は,同じ内容のメッセージでも,違った形で伝えられると,その情緒的なトーンは大きく異なってくる,ということを論じています。」

と述べ,本書の焦点が,治療的コミュニケーションにおける,治療者の言葉のもつ,

焦点メッセージ(focal message),

メタ・メッセージ(meta-message),

にあることを明確にしている。「焦点メッセージ」とは,

治療者が自分が伝えていると考えているもの,

つまり,

メッセージの内容である。それに対して,「メタ・メッセージ」と著者が呼んでいる概念は,メタ化されたメッセージではなく,

治療者がしばしば知らぬうちに,あるいは,無意識のうちに伝えているもの,

つまり,

メッセージの情緒的で関係的な側面,

を指している。それは,たとえば,

治療者がその患者を好きかどうか(尊重しているかどうか),
その患者がしたことや言ったことを承認しているか不承認か,
患者の変化の可能性について楽天的か悲観的か,
その患者に情緒的に関与しているか距離があって情緒的に関与していないか,

等々を含んでいるという。セラピスト―クライエント関係でのコミュニケーションと言えども,

相手に伝わったことが自分が伝えたことだ,

という原則は変わらない。治療家が自分のコミュニケーションおいてどうすれば,伝えるべきことを伝えられるか,伝えるべきでないことを,伝えないようにするか,というとき,

何を,

に焦点が当たるが,

どのように伝えるか,
どういう言い回しにするか,

が重要になる。僅かの言い換えで,ニュアンスが大きく変わる。本書は,事例に基づいて,具体的に展開される。ただ,精神分析出自であるために,精神分析を強く意識し,正統はからの批判に対する反論を縷々展開する部分は,時に,煩雑という印象を受ける。

当然,メタ・メッセージには,言葉だけではない。ノンバーバルの,声や振る舞い,表情なども含まれる。

「タイミング,声のトーン,ボディランゲージ,これらすべてが治療者の言葉かけの影響力に実質的に寄与している。(中略)しかしその中でもわれわれが最もコントロールしやすいのは言葉である。われわれにとって,声のトーンについて気づいたり検討したりするよりも,言葉について気づいたり検討したりする方が容易である。」

本書では,メッセージの伝え方に焦点が当てられている。

ところで,著者は,セラピストが使う,

クライエント,

という表記をしない。「患者」とするに至った理由を,

「患者という言葉のラテン語の語源は『苦しむ者』であるが,クライエントという言葉の語源は『依存する者』」

だとワークショップの参加者から示唆されたからだという。

「『クライエント』という用語は,その関係の職業的な側面を強調しすぎる…。たとえば公認会計士はその取り組みの相手をクライエントと呼んでいる。心理療法家がそれと同じ言葉を用いるのは,私には満足のいかないことと感じられる…。(中略)患者という言葉が相手の品位を傷つけたり見下したりするような意味合いを帯びているかもしれないという理由からこの言葉を避けるのであれば,それに代わってクライエントという言葉を選択するのはあまり適切とは言えない。」

ここにも,著者の「本書のテーマ」である言葉の内容とそれのもたらす陰翳についてのひとつのこだわりが見受けられる。たしかに,来談者は,クライエント(依頼人)ではないし,クライアント(顧客)でもない。

著者が示す例を見ていくと,興味深いことに気づく。たとえば,「患者」の,

強さ認めようとするところ,
小さな変化を認めて伝えるところ,
僅かな変化を言語化するところ,

等々で,

何がそれを可能にしたのでしょうね?

という問いなど,

そんな大変な中で,どうしてそんなことができたのですか?

というソリューション・フォーカスト・アプローチのコンプリメントですることとほとんど同じである。あるいは,

患者の物語をリフレーミングして見せるところなどで,

「もしそれが患者にとって説得力があり,患者の一貫性の感覚を増大させ,人生の物語を見直させて新しい可能性の扉を開くような,患者の人生についての新しい理解を伝えているなら,それはよい解釈なのである。」

というところは,ナラティブアプローチと差はない。あるいは,

「患者の生活体験を形成し媒介している,感情を帯びた表象を患者が再構築するのを助けることがいかに重要だとはいえ,この道筋からだけでは持続的で意味のある変化は得られない。内的表象の変化と並行して,患者の顕在的な行動が変化しない限り,つまり患者の困難の中心を占めてきた悪循環が変わらないかぎり,どのような内的表象の変化も不安定かつ束の間のものにとどまるであろう。」

と,悪循環を断とうとするところなどは,MRIと指向は変わらない。結局,セラピーの最前線での問題意識は,ほとんど変わらないのだ,ということに気づかされる。

さてしかし,言葉の技術にのみ力点を置けばいいのか,ということについて,捕逸の著者(エレン・F・ワクテル)は,末尾で,こう釘をさすことを忘れない。

「結局のところ,いかかなる心理療法的アプローチもそれを行っている治療者次第なのである。心理療法は厳密科学ではない。心理療法においては,完全に明瞭に説明することなど不可能なニュアンスに対する感受性が要求される。また,どの学派のそれであれ,心理療法というものは広大でまだほとんど探究されていない領域についての非常に暫定的な地図にすぎない,ということを進んで認める姿勢が要求される。本書に記述されている治療的コミュニケーションの諸原理は治療実践家にとって非常に有用なものであり,幅広い事例において治療者の能力を高めてくれるものだと私は信じているけれども,それらは決して優れた治療家を特徴づける個人的な諸特性の代わりになるものではない。」

参考文献;
ポール・L.・ワクテル『心理療法家の言葉の技術―治療的なコミュニケーションをひらく』(金剛出版)

ホームページ;
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今日のアイデア;
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2017年06月02日

ゆめ


「ゆめ」は,『広辞苑』には,

「イメ(寝目)の転」

とあって,いわゆる,レム睡眠時の「夢」の意であり,それをメタファにして,

はかない,頼みがたいもののたとえ,

に使われ,

空想的な願望,迷夢,
将来実現したい願い,

へと広げて使われる。しかし,「夢」の字は,

「上部は,蔑(大きな目の上に,逆さまつげがはえたさまに戈を添えて,傷つけてただれた眼で,よく見えないこと,転じて,目にも留めないこと)の字の上部と同じで,羊の赤くただれた目。よく見えないことを表す。夢はそれと冖(おおい)および夕(つき)を合わせた字で,よるの闇におおわれて物が見えないこと。」

とあり,

願望,迷夢,
将来実現したい願い,

といった意味は,元々の漢字には含まれない,わが国でのみの意味となるようだ。『岩波古語辞典』にも,夢の比喩として,

はかない,ふたしかなもの,

の意までしかない。また,『大言海』も,同じで,

夢の如く,

という意味までしか広げていない。これは臆測だが,英語dreamには,のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア

「I Have a Dream」

というように,

実現したい理想,

という意味がある。「夢」つながりで,「夢」の含意にそれが加わって使われるようになったのは,英語のdreamのせいではないか,という気がする。

「ゆめ」の語源は,『広辞苑』『古語辞典』ともに,

イメの転,

とする。『大言海』も,

寝目(イメ),又は寝見(イミ)の転,

とする。『岩波古語辞典』『大言海』には,「いめ」の項に,

夢,

が載る。『大言海』は,

「寝見(イミ)の約。沖縄にては,今も,イメ,イミと云ふ」とある。

『日本語源広辞典』も,

「『イ(寝)+メ(目)』

とし,

「イメが,時代を経て,ユメになったものです。寝た目に映るものが夢です。上代には,イメで,ユメの使用例はありません。」

とある。「寝目(イメ)」ないし「寝見(イミ)」が大勢派だが,『日本語源大辞典』には,その他,

イメ(寝用)の転(卯花園漫録),
イミネの略転か(日本釈名),
ユはユウベ(夕),ミはミル(見る)の意(和句解・日本釈名),
ヨルミエの反(名語記),
ユはユルム,しまりのない事を目で見る意から(日本声母伝)

と,諸説載るが,いずれも,

夜見る,
寝て見る,

という含意の解釈の誤差にすぎないようだ。だから,夜見る夢以上の意味の拡大は見られない。しかし,『岩波古語辞典』には,

「夢は予兆として神秘的に解釈され,信じられることが多かった」

とあるから,

予兆夢,

として,未来へ投影される含意が,「ゆめ」という言葉にはあったので,

Dream,

の願望の意と重なる余地があったのかもしれない。因みに,『江戸語大辞典』にも,

夢助,
夢三宝,
夢は五臓のつかれ,

等々の言い回しに見るように,夜見る夢の意しか載らない。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)


ホームページ;
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今日のアイデア;
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2017年06月03日

面目


「面目」は,

めんぼく,
めんもく,

と訓む。「目」のじは,

漢音で「ぼく」,
呉音で「もく」,

と訓む。『日本語源広辞典』には,

中国語,「面目(名誉)」

で,

「メンモク(世間の人に合わせる体面)ともいいます」

とある。「めんもく」と「めんぼく」で意味が違うということなのだろうか。確かに,『広辞苑』『大言海』を見ると,「面目(めんもく)」は,

顔つき,かおかたち(『日葡辞典』に「メンモクノヨイヒト」と載る),
世間に対する名誉,めんぼく,
ようす,ありさま,めんぼく,
本旨,趣旨(『日葡辞典』に「ワガシュウ(宗)のメンモクハジッカイ(十戒)ナリ」と載る),

で,

面目一新

といった使い方をする。「面目(めんぼく)」には,

人に合わせる顔,世間に対する名誉,めいぼく,めぼく,
物事の様子,ありさま,めんもく,

とあり,

面目ない,

という使い方をする。因みに,「めいぼく」は,『岩波古語辞典』に,

「めんぼく」の「ん」を「い」で表記したもの,

と注記があり,

「平安時代初期,漢字の字音のうち,音節の末尾のn音を「い」の仮名で写す習慣があった。例えば,西大寺本金光明最勝王経の傍訓に,『戦陣,セイチイ』『異見,イチイ』『衰損,スイソイ』などがある。」

と記す。

上記からみると,どうも「めんもく」が,原義であることを想定させる。それが「顔」という状態表現が,「顔」をメタファに,体面や名誉,といった価値表現へと転じていったと見える。漢字としての,

面目,

は,

めんぼく,
めんもく,

と両方の読み方をする。意味は,

顔,姿形,

であるが,用例を見ると,

「何面目見之」(史記・項羽紀)

と,

はずかしくてあわす顔がない,

という意味として使われているので,中国語でも,単なる顔ではなく,

体面,

の意味を持っていたようである。しかし本来は,

面目可憎,

というように,

(貧しくして)顔容悪しく憎むべし,

と,あくまで顔かたちを指していたとみられる。こうした使われ方は,「かんばせ」

http://ppnetwork.seesaa.net/article/450264824.html

の使い方の変化との類似を思わせる。

「面」の字は,

「『首(あたま)+外側を囲む線』。頭の外側を線で囲んだその平面をあらわす」(『漢字源』),

という。『字源』には,

「面は顔前なり。頁に从(したが)ひ人面の形に象る。」

とある。「頁」とは,かしら,こうべ,の意である。

面目が立つ,
面目が無い,
面目丸潰れ,
面目を失う,
面目を潰す,
面目を施す,

いずれも,「めんもく」「めんぼく」と訓んで間違いとは思えない。

http://www.yuraimemo.com/4395/

は,

「『面目丸つぶれ』とは、体面・名誉がひどく傷ついて、他人に顔向けできなくなること。
「『面目ない(めんぼくない)』だと、恥ずかしくて顔向けできないこと。
では、面目を「めんもく」と読むと…どうやら別の意味になるらしい。
「めんもく」と読む場合、これは仏教用語である。
本来の面目とは、人間の生活活動や意識活動以前の生かされてあるいのち(存在)の有り様・姿をいう。
つまりは、本来的な真の姿ということだろうか。
従って、面目は、あり方、有り様、姿の意味になるわけ。」

とあるが,仮に仏語というのが正しいとしても,前後が逆ではないか,『史記』の用例のように,「めんぼく」「めんもく」両用の訓みのうち,仏典を漢語に訳すとき「めんもく」と訓ませた字を当てたにすぎないのではないか。

面目躍如,

について,『四字熟語辞典』は,

「『面目』は『名誉』の意味では『めんぼく』、『外見』の意味では『めんもく』と読むのが慣用。従ってこの熟語の場合、本来は『めんもく』と読むべきであるが、一般に『めんぼく』と読むこともある。」

とするが,こういうのを枝葉末節にこだわって,本筋を見失っているというべきだろう。中国語から来ているのだから,どちらに読んでも,正しいし,そういう訓み分け自体が,慣習に過ぎないのではないか。念のため,『江戸語大辞典』をみると,

めんもく,

の項には,

めんぼく,
人に合わせる顔,

と載る。「めんもく」「めんぼく」を区別せず,

体面の意としている。区別は人為的かもしれない。あるいは,文脈依存なら必要ない(当事者にはわかる)筈の区別を,文面上つける必要があったのかもしれない。

ちなみに,

真面目,

を,

しんめんもく

と訓ませるのは,まさに,

本体そのままのありさま,本来の姿,転じて真価,

であるが,やはり,

しんめんぼく,

とも訓ませる。「まじめ」に当てたが,本来は別の意味であった可能性が高い。「まじめ(真面目)」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/434431032.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/403104120.html

で触れた。ついでながら,『故事ことわざの辞典』には,

面目(めんぼく)を苞(すぼ)に包む,

というのが載る。「苞」とは「包(つつ)む」と同語源とされ,「つと」である。納豆の藁苞を思い浮かべればいい。

ところで,杜牧「題烏江亭」に,

勝敗兵家事不期
包羞忍恥是男児
江東子弟多才俊
巻土重来未可知,

という詩があるという。

羞(はじ)を包み恥を忍(しの)ぶは是れ男児,

を類推させる。

巻土重来,

の出典でもある。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
田部井文雄編『四字熟語辞典』(大修館書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
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2017年06月04日

忖度


「忖度」については,「慮る」と「斟酌」と対比して,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/439036891.html

で取り上げたことがある。今日,

「忖度」

という言葉が大流行(おおはやり)で,改めて出典に当たってみた。今日の使われ方は,

他人の心をおしはかる,

という意味よりは,

茶坊主どもがバカ殿のお先棒を担いでいる,

というふうにしか見えない。あるいは,

鼻息を窺って先回りしている,
鼻毛を読んで御機嫌取りをしている,

という意味でもある。しかし,こういう使われ方は,今に始まったことではないという。

https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/what-is-mizuhonokuni31?utm_term=.wmwn5L60B#.whBaeXoBg

によると,「忖度」の意味が,ここ十数年,変わってきたのだという(三省堂国語辞典編集委員の日本語学者飯間浩明氏)。

「従来は「母の心を忖度する」「彼の行動の意図を忖度してみた」などと、「単純に相手の心を推測する」場合にも普通に使われていた」

が,

「『上役などの意向を推し量る』場合に使う用法が増えたように思います。おべっか、へつらいというか。上の者に気に入られようとして、その意向を推測する。ちょっと特別な時に使われるようになった」

として,こんな例を挙げている。

「消費税の引き上げは避けられないが、いまは国民を刺激したくない。しかし、ほおかむりも無責任」。そんな首相の思いを忖度したような党税調。(「朝日新聞」社説、2006年12月15日)

「その籾井氏が政策に関わるニュースに注文をつければ、どうなるか。権力を監視するジャーナリズムの役割が十分に果たせるのかといった疑問も浮かぶ。会長の意向を忖度し、政府に批判的な報道がしにくくなるのではないかとの不信感も出てくるだろう。(「朝日新聞」社説、2014年5月8日)

つまり,「忖度」が,上のものの意向を推し量る,という特別な意味に変じてきた,というのである。昨今の「忖度はまさに,そういう流れで使われている。まあ,

(上のものの)鼻息を窺う,

のと変わらない。「忖度」の出典は,

http://id.fnshr.info/2017/03/30/sontaku/

によると,『詩経』に,

奕奕寢廟、君子作之。
秩秩大猷、聖人莫之。

他人有心、予忖度之。
躍躍毚兔、遇犬獲之。

があり,

他人有心、予忖度之,

は,

他人心こころ有り、予(われ)之を忖度す,

と訓み下されているが,

他の人に(よこしまな)心があれば、私はそれを推しはかる

と,訳される。この句に続く,

躍躍毚兔、遇犬獲之

は,

すばしっこくとびまわるずるがしこいうさぎは、犬に出会って捕らえられる,

の意なので,その意訳は正しいと推測される。

いまひとつの出典は,『孟子』の「梁恵王上」に,その『詩経』を引用して,

王說曰、詩云、他人有心、予忖度之、夫子之謂也。夫我乃行之、反而求之、不得吾心。夫子言之。於我心有戚戚焉。此心之所以合於王者何也。

王說んで曰く、詩に云く、他人心有り、予忖[はか]り度[はか]るとは、夫子を謂うなり。夫れ我乃ち之を行って、反って之を求むれども、吾が心を得ず。夫子之を言う。我が心に於て戚戚焉たること有り。此の心の王に合う所以の者何ぞ、と。

とある。そして,ここで王(斉の宣王)に,孟子の言うことが今日なかなか含蓄がある。

故王之不王、不爲也。非不能也

つまり,

故に王の王たらざるは、爲さざるなり。能わざるには非ざるなり、と。

「忖度」は少なくとも王たるものの心ばえであった。ここでは,上から下への推し量るる心,思いやる心を指している。今日の真逆になっている。

「忖度」の「忖」は,

「寸は,手の指一本のこと。昔は手尺や指の幅で長さをはかった。忖は,『心+音符寸』で,指をそっと置いて長さや脈ををはかるように,そっと気持ちを思いやること」

であり,「度」は,

「『又(て)+音符庶の略体』。尺(手尺で長さを測る)と同系で,尺とは,しゃくとり虫のように手尺で一つ二つとわたって長さをはかること。また企図の図とは,最も近く,長さをはかる意から転じて,推しはかる意となる。」

とある。

孟子の引用を見る限り,「忖度」は,

惻隠,

に近い。

人皆忍びざる所(惻隠の心)あり,之を其の忍ぶ所に達(推し及)ぼせば,仁なり,

とある。今日,「忖度」とはおよそ遠い心ばえであることは明らかである。

参考文献;
http://id.fnshr.info/2017/03/30/sontaku/
http://mokusai-web.com/shushigakukihonsho/moushi/moushi_01.html
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)

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今日のアイデア;
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ラベル:忖度 慮る 斟酌
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2017年06月05日

てきぱき


「てきぱき」は,

物事を手際よく迅速に処理するさま,

の意で,

てきぱき(と)かたづける,
受け答えがてきぱき(と)している,
てきぱきした対応,

といった言い回しで使う。

効率的に手際良く,
効率的,
手っ取り早く,
ぱっぱと,
能率的に,

といった言葉が類義語になる。しかし「テキパキ」と片仮名表記すると,

サクっと,
サクサクと,
コツをつかんでいる,よく心得ている,
チャッチャ
処理能力が高い,
きびきびと,
小気味良く,
機敏に,
きれが良い,
そつがない,
洗練されている,
熟達した,
お手のもの,

という類義語になる。 単に手際よいだけでなく,その動作の切れ味や機敏さがより強調された感じになるようである。

『岩波古語辞典』には見当たらないが,『江戸語大辞典』には,

手際よく敏速なさま,

として,

「兎角てきぱきと早手まわしな事がはやる世の中」(浮世風呂)

と用例が載る。『擬音語・擬態語辞典』によると,江戸時代には,

てきはき,

という言い回しもされたようで,

「てきはきと天気にならぬ」(和英語林集成)

という例が載る。

『大言海』には,「てきはき」という項で載る。

提起發起,

と当てて,

値遇反遇(ちぐはぐ),七轉八倒(ぢたばた)等々と同趣,

と載る。「てきぱき」も,「ちくはぐ」「じたばた」と同様,

擬態語,

という意味である。「てきぱき」は,『擬音語・擬態語辞典』には,

無駄なく手際よく物ごとをすすめ,こなしていく様子,

と同時に,

言葉や態度が明確である様子,

とある。「テキパキ」の表記は,後者を指すときによく使われる。

「しっかりとした口調でテキパキと話す女性」

と言ったように。で,その使い方は,

「はきはき」

が類義語になる。

「『てきぱき』は主に動作に関して明確であることを言うのに対し,『てきはき』は応答など発音が歯切れのよいことを言う語」

となる。

ついでに,「ちぐはぐ」は,

対のものが不ぞろいだっり,不調和だったりする様子,

の意で,江戸時代,

「ちぐはぐの顔は貰った桟敷なり」(誹風柳多留)

と,人から譲り受けた桟敷で芝居を観ている人の不似合さを嗤った川柳がある。

「じたばた」は,

手足を激しく動かす,

という意の擬態語から,それをメタファに,

ある事態に直面して慌てふためいたり,窮地を逃れようと焦ってもがく様子,

へと転んじた。だから,

七転八倒,

の字を当てたのだろう。「どたばた」「ばたばた」「あたふた」は類義語だが,

「どたばた」「ばたばた」

は,「じたばた」に似て,動作からのメタファで,

慌てている様子,

になるが,「あたふた」は,

心の中の動揺,慌て振り,

という心情表現から,慌てている様子に転用された,と見ることができる。「おたおた」も似ているが,

「『あたふた』は,うろたえてはいるがすぐさま行動に突っ走っていく様子であるのに対し,『おたおた』は,ただうろたえているだけで何もできない様子」

となる。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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2017年06月06日

そよぐ


「そよぐ」は,

戦ぐ,

と当て,『広辞苑』『岩波古語辞典』には,

サヤグの母韻交替形,

とあり,

そよそよと音を立てる,

意とある。『日本語源広辞典』には,

ソヨ(擬態・そよそよ)+ぐ(動詞化)

とあり,

ソヨガス,ソヨフク,ソヨメクと同源,

とある。『大言海』も,

ソヨソヨのソヨを活用す。サヤグの転。ササヤク,ソソヤグ,カガヤク,カガヨフ

と載る。「そよ」は,

揺られて物の軽く触れ合うさま,

とある。しかし,これも,

サヤの母韻交替形,

である。で,「さや」をみると,

竹の葉などのざわめくさま,

とあり,かなり含意が違う。『岩波古語辞典』は,「さや」に,

清,

の字を当て,

すがすがしいさま,一説,ものが擦れ合って鳴るさま,

と,「さやか」の,

よく分かるように際だって,はっきりしているさま,

の意と同じとある。「さやか」をみると,

サエ(冴)と同根,つめたくくっきりしているさま。類義語アキラカは,はっきりして,隈なく見えるさま,

とある。で,「さえ」をみると,

サヤカのサヤと同根,

とある。こうみると,「そよ」は,

さえ→さや→そよ,

と,転じた形で,底流に,音が微かだが,際立って,はっきり聞えるという含意があるように思える。その擬態語「そよ」を重ねて,

「そよそよ」

となり,またその「そよ」を動詞化して,「そよぐ」となった,ということになる。『大言海』は「そよそよ」の「そよ」を動詞化というが,そうではなく,「そよ」の動詞化であり,その「そよ」を重ねて「そよそよ」となったと見る方が正確であろう。『擬音語・擬態語辞典』には,

「『そよ』は,古く奈良時代の『万葉集』に,『…負ひ征箭(そや)』(背負った戦闘用の矢)の「そよと鳴るまで,嘆きつるかも」とうる。『そよ』を動詞化した語に『そよぐ』『そよさく』『そよふく』『そよめく』がある。」

とある。

ところで,「そよそよ」には,『岩波古語辞典』に,二つの意味が載る。ひとつは,

ものが軽く触れ合って立てる音,

であるが,いまひとつは,

そうだそうだ,歌では風にそそぐ音にかけて言うことが多い,

とある。『擬音語・擬態語辞典』には,

「平安時代の『詞花和歌集』にある『風吹けば楢のうら葉のそよそよと言ひ合わせつついづち散るらむ』の『そよそよ』は,ふと思い出したり相づちを打ったりする時に発する感動詞。『そよ』を重ねた語で,『そよそよ』(=そうだそうだ)を葉のふれあう音『そよそよ』に掛けた表現(掛詞)になっている。このように古くは,風で草木の葉がふれ合ってかすかに立てる連続的な音を多く表していた。」

とあり,「そよそよ」をメタファとして,転用したと見ることができる。

ところで,「そよ」「そよぐ」は「さや」「さやぐ」の母韻交替形である。しかし,「さや」は,

竹の葉などのざわめくさま,さやさや,

であり,「さやぐ」は,

ざわざわと音がする,

と「そよぐ」とは少し意味がずれる(『広辞苑』)。『大言海』は,「さやぐ」に,

サヤ(喧),サヤサヤ(喧々)を活用せしめたる語(騒騒(さわさわ),さわぐ,刻刻(きさきさ),きさぐ),萃蔡(さやめく),同趣なり。喧語(さへ)ぐとも通ず。サイグと云ふは音転なり(驛馬(はやうま),はゆま,はいま)。ソヨグと云ふも,此の語の転なり。」

として,『岩波古語辞典』とは別の説を立てる。『日本語源広辞典』は,

「サヤ(清ユ)+グ(動詞化)」

で,さやさやと音がする,意とする。「さやぐ」が,もともとは,「そよぐ」と同じ意味を持っていたから,音韻変化したと考えるのが自然ではないかと思う。「そよぐ」の表現が自立した後,「さやぐ」の意味が,

ざわざわとする音,

へとシフトしていった,というのが,わかりやすい気がする。「さや」を重ねた「さやさや」の項で,『擬音語・擬態語辞典』は,

「『さやさや』は奈良時代の『古事記』の歌謡に既に例が見える。『冬木の素幹(すから)の下水のさやさや』,『振れ立つ漬(なづ)の木のさやさや』の二例である。『日本書記』の歌謡にも後者の例が見られる。たたし,この二例については音ではなく,ゆらゆらゆれる様子を示すとする説もあり,意味は確定していない。
 平安時代以降に見える『さやさや』は明らかに音の例である。『次にさやさやと鳴るモノを置く』(今昔物語)『とくさの狩衣に靑袴きたるが…さやさやと鳴りて』(宇治拾遺物語)」

とある。この説から鑑みると,「そよ」が「さや」から音韻変化したのは(この逆の転訛がないのだとしたら),音を表すためだった,と考えられなくもない。で,「さや」は,

ざわざわ音,

へと意味をシフトした,と。

「そよ」と「さや」の関係の微妙さが,「そよぐ」と「さやぐ」両語の語源説の揺らぎに見える。それぞれの語源説を整理しておく。

「そよぐ」については,

サワグ(騒)の義(言元梯),
ソヨソヨのソヨの活用(大言海),
サワグ,サヤグの音転(万葉代匠記),
サヤグの母韻交替形(岩波古語辞典),
ソヨメクの義,ソヨは風が物に触れる音から(日本語原学),

「さやぐ」については,

サヤ(喧),サヤサヤ(喧々)を活用せしめたる語(大言海),
サヤは木の葉などがこすれる音の擬声語(日本古語大辞典),
サヤグ(清)はサエヤカ(沍)の義(名言通),

等々。結局,擬音語までしか,行き着いていない,ということだが。文脈依存の和語では,そのときどき擬音を言い表そうとする。一般化するのは,文字化されてからなのかもしれない。そこで,意味が分化されていく。

因みに,『日本語の語源』は,例によって,異説を立てている。

「サハル(障る)はサワル・サヤル(障る)に,サワグ(騒ぐ)はサヤグに転音した。」

とする。でも,背景に,ザワザワ,という擬音語があるという気はする。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
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2017年06月07日

二つ返事


「二つ返事」は,『広辞苑』によると,

「ためらうことなく,すぐ承諾すること」

という意味で,

二つ返事で引き受ける,

という使われ方をするが,『デジタル大辞泉』には,

1 「はい」を二つ重ねて返事をすること,

とあり,次いで,

2 気持ちよく、すぐに承諾すること,

と載り,本来は,ただ,

「はい」を二つ重ねた,

という状態表現であったものが,

すぐ承諾する,

という価値表現へと転じたものだと見ることができる。

『デジタル大辞泉』には,

「文化庁が発表した平成23年度『国語に関する世論調査』では、『快く承諾すること』を表現するとき、本来の言い方とされる『二つ返事』を使う人が42.9パーセント、本来の言い方ではない『一つ返事』を使う人が46.4パーセントという逆転した結果が出ている。」

とある。つまり,

二つ返事,

の価値表現が,あまりいい意味でないとというふうに受けとられるようになったために,代わって,

一つ返事,

という,ただ,

「はい」と一回返事する,

という状態表現にすぎないものを,

快く承諾する,

という価値表現へとシフトさせた,ということになる。その背景を伺うに足る質問が,

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1413357754

に,

「二つ返事で快く引き受けてもらった といいますが、なぜ一つ返事ではないのでしょうか?『はい はい』とか『Yea Yea』は相手を小ばかにした、不真面目な言い方というのだと思うのですが。」

という質問に見ることができる。回答は,

「『はい』で済むところを『はい、必ず』とか念を押すようにOKするのが二つ返事で引き受けること。これは良い意味です。
『はい、はい』は確かに不真面目な言い方です。これは厳密には『重ね言葉』だと思われます。なぜ重ね言葉が嫌われるかというと、お葬式での忌み言葉を連想させるからでしょう。葬式では『くれぐれも』とか『たびたび』など、二回繰り返す言葉が禁じられています。不幸が続くといけませんから。つまり、理想の二つ返事は、同じ意味のことを違う表現で繰り返すことなのです。」

となっている。既に回答者自体が,「はい,はい」を,貶めている風潮の中にあると見えてなかなか,この回答は嗤えるのではないか。

http://yaoyolog.com/%E3%80%8C%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A4%E8%BF%94%E4%BA%8B%E3%80%8D%EF%BC%9F%E3%80%8C%E3%81%B5%E3%81%9F%E3%81%A4%E8%BF%94%E4%BA%8B%E3%80%8D%EF%BC%9F%E3%81%A9%E3%81%A1%E3%82%89%E3%81%8C%E6%AD%A3%E8%A7%A3/

でも,

「アンケートを取ってみると、おおよそ半数の人が間違いているようで、その原因としては『返事は一回』と、しつけられて育った印象が強くて、『はいはい』と二回返事をするのはイメージ的に悪い事と感じるのではないかとの事。…ですが、二つ返事の意味としては『快諾』という意味で、本来の意味としては、普通に一度返事するだけでなく、前のめり気味に強調しているイメージになるようですね。同じ二つ返事でも『ハイ、もちろんです』や『はい、了解です!』と言われれば、確かに気持ち良く聞こえますよね。」

も,同じ罠にはまっている。

『日本語源広辞典』には,

「『ハイ,ハイ』と気持ちよくひきうける」です。ためらうことなく即座に返事することです。」

とある。これは,「はい,はい」を言う文脈が違うのだ。嫌々,「はい,はい」というのは,

「はい,は一度でいい」

と返される「はい」であり,子どもが「おやつ」と言ったとき,母親が,

「はい,はい」

と,軽く受け流すときは,たぶん苦笑が出ている。そして,これを頼むぞ,と信頼する上司から言われたとき,

「はい,はい,」

と,テンポ良く,連発する時は,快諾である。文脈次第で変わる。と考えれば,いつの間にか,

ハイは一度でいい,

という文脈を共有するようになった,ということなのではないか。

『大言海』の「二つ返辞」は,

「言下に承諾すること,喜むで承知すること」

とある。あるいは,

「はい,はい」

と,「はい」を重ねることではなく,

言下に承知すること,

を指して,

二つ返事,

と言ったのかもしれない。それは,

イエス,いくつでもイエス,

と,告白に返事する気持ちと同様の,心の声といっていいのかもしれない。しかし,そこには,

はい,はい,

という返事が,

ふざけやおちょくる意図があるとは受け取らないという文脈があったことだけは間違いない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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今日のアイデア;
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2017年06月08日

さざめく


「さざめく」も,擬音語の気配がするが,『広辞苑』には,

中世にはサザメク,

として,

声をたてていい騒ぐ,がやがやいう,騒がしい音がする,ざわざわする,

と意味が載る。『大辞林第三版』には,

「古くは『ざざめく』で、『ざざ』は擬声語」

と載る。『日本語源広辞典』には,

「サザ,ザザ(擬声・波音)+めく」

と載る。『大言海』は,

「サザと笑ふの,サザなり(颯(さと)の條を見よ)ザンザメクと云ふも,此語より起こる」

とあり,「颯(さと)」の條を見ると,

「サは,風の,軽く吹きて,物に触るる音重ねて,サザとも云ふ。字彙『颯(さふ),風聲也』和漢,暗合す」

とある。

この辺りは,「ささやく」

http://ppnetwork.seesaa.net/article/449925050.html?1494878170

で触れたところと重なるが,『擬音語・擬態語辞典』には,「ささっ」について,

「素早く動く様子」

とあるが,風のサッと吹くという擬音語から,擬態語へと転化したものと見える。

「鎌倉時代から『ささ』の形で見える。本来は弱い風が吹いて立てる音や,水が軽やかに流れる音を表した。」

とある。「さっ」は,「ささっ」と似ているが,

弱い風や雨が一瞬に通り過ぎ,草木などを揺らして発する音,

という「瞬間」に力点があり,

「素早くある行動に移ったり,完結させる様子」
「急にある状態に変わる様子」

という変わり目の意味に焦点がある。

「平安時代には『一たびにさと笑ふ声のす』(宇津保物語)という例のように,『さと』の形で現れる。この語は本来,一斉にある状態が起こったり感じられたりする様子を表すが,やがて風などが立てる軽い音を表す語に変化する。『さ』の撥音が平安時代に[tsa]から現代の[sa]に変ったために,五感も変化したものか。鎌倉時代の『名語記』では,『さときたり,さとちるなどいへる,さ如何。これは,風のふく,さの心か』とあって,この時代には現代と近い使われ方でふったことが分かる」

とある。これが濁って,

さざっ,

となると,

水などが勢いよく流れたり降りかかったりする音,またその様子,

となる。「ざっ」も,勢いや音が増し,さらに,

手早くことを終らせる様子,

の意味が,

大雑把,

の意味へシフトして,

数を表す,

「ざっと何々」という言い回しへと転じていく。この流れから想像されるように,「ささ」と「さざ」は繋がる。『日本語源大辞典』は,「さざめく」と「ささめく」との関連を示唆ている。

「ささめく」は,『広辞苑』には,

声をひそめて話す,ささやく,
心が乱れてさわぐ(『日葡辞典』「ムネガササメク),

が載るが,『日本語源広辞典』は,

「ササ(細・小の意)+めく」

で,さやさやと音がする意,である。それを囁きに準えた。「ささ」は,『岩波古語辞典』には,

後世濁ってサザとも,

とあり,「ささ」と「さざ」の区別は微妙である。本来は,「ささ」は,

細かいもの,小さい物を賞美していう,

という意味だが,『大言海』には,

「形容詞の狭(さ)しの語根を重ねたる語。孝徳紀大化二年正月の詔に,『近江の狭狭波(ささなみ)』とあるは,細波(ささなみ)なり。神代紀,下三十六に,狭狭貧鈎(ササマヂチ)とあり,又,陵墓を,狭狭城(ささき)と云ふも,同じ。イササカのササも,是れなり。サとのみも云ふ。狭布(サフ)の狭布(さぬの),細波(さざなみ),さなみ。又,ササヤカ,ササメク,など云ふも同じ」

とあり,「ささ」もまた擬音語である。

『日本語源大辞典』は,

「『ささ』は擬声語で,類義語『さざめく』は『さざめく』ともいい,がやがやと大声をあげる意であるのに対して,『ささめく』は,ひそひそと小声で話す意であるという違いがみられる。」

とある。『岩波古語辞典』は,「ささめき」に,

囁き,

を当て,『大言海』は,

私語,
耳語,

と当てる。もはや「ささやく」とほとんど重なっていく。

「ささ」も「さざ」も「ざざ」も,目の前で話している限り,違いは明らかである。文字にした瞬間から,その違いを明確にしなければならず,その間隔は,広がっていくが,眼前にしているとき,その差は微妙だったのではあるまいか。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)


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2017年06月09日

李下の冠


李下の冠,

つまり,

李下に冠を正さす,

は,今日,死語である。いやいや,そもそも(基本的などという意味ではない。ここでは元来という意味),そういう言葉自体を知らない恐れがある。

李下の冠,

は,

李下の冠瓜田の履,

とセットで言われる。出典は,

古楽府「君子行」(『楽府詩集』巻三十二、『古詩源』巻三、『古詩賞析』巻五など),

とされる。「君子行」は当時から広く流布していた、一種の処世訓を示した民間歌謡であったという。

君子防未然、不處嫌疑間。瓜田不納履、李下不正冠,

すなわち,

君子は未然に防ぎ、嫌疑の間に処(お)らず。瓜田に履(くつ)を納れず、李下に冠を正ださず,

である。これは,

 君子は未然に防ぎ
 嫌疑の間に処(お)らず
 瓜田に履を納(い)れず
 李下に冠を正さず
 嫂叔は親授せず
 長幼は肩を並べず
 労謙にして其の柄を得
 和光は甚だ独り難し
 周公は白屋に下り
 哺を吐きて餐に及ばず
 一たび沐して三たび髪を握る
 後世、聖賢と称せらる」

と続くそうだ。

http://www.asahi-net.or.jp/~bv7h-hsm/koji/rika.html

によると,こんなエピソードが載っている。

「紀元前356年、斉の国では威王が即位する。この威王、即位したのに国政を大臣に任せきりで一切自分はタッチしようとしない。・・・実は凡庸なふりをしてじっと臣下の行状を見極めていたのである。そんな中、王が国政にかかわらないのをいいことに、『周破胡』という大臣が好き勝手に国を動かしていた。彼は取り巻きに囲まれて私腹を肥やし、清廉潔白な人々を嫌ってかたっぱしから排除した。
これを見かねた威王の寵姫『虞氏』は、
「どうぞ『周破胡』を除いて、賢者として名高い北郭先生を起用されますように」と進言した。
ところがこれを知った『周破胡』、逆に
「『虞氏』は後宮に入る前、北郭先生と関係があったのだ」と讒言したのである。
彼の讒言を信じた王は彼女を幽閉し、係官に訊問させたが、この係官も『周破胡』の息がかかった人物で、彼女の供述をことごとく捻じ曲げて王に報告した。
さすがの王もなんかへんだぞと不審に思い始め、彼女を召しだしてじきじきに問いただしてみた。
すると、『虞氏』は
『磨けば玉となる名石は、たとえ泥にまみれて汚れたといえども卑しめられず、また柳下恵というお方は、冬の夜に凍えた女を寝床にいれてその体を温めてやったからといって、男女の道を乱したと他人に非難されることはこれっぽっちもなかったと聞き及んでおります。これは日頃から行いを慎んでいたればこそ、人に疑われずにすんだのでございます。わたくしに罪があるとすれば、瓜田に経るには履を踏み入れず、梨園を過ぐるには冠を正さず、という戒めを守らなかったことがその一、
幽閉されている間、誰一人わたくしの真実の声に耳を傾けて下さらなかったということでわかったように、私が日ごろから人々の信頼を得ていなかったということがその二、でございます。』
と、まず自己の不明を王に詫びたのである。
そして、『周破胡』が国政をもっぱらすることの危険性を切々と王に訴えた。
即位してすでに9年、威王は親政に乗り出すべき時のきたことを悟り、彼女の幽閉を解く一方で、『周破胡』を煮殺し、国政を刷新したのである。」

ついでながら,

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には,三遊亭圓朝『怪談牡丹灯籠』の,

「御大切の身の上を御存じなれば何故夜夜中よるよなか女一人の処へおいでなされました、あなた様が御自分に疵きずをお付けなさる様なものでございます、貴方だッて男女七歳にして席を同じゅうせず、瓜田に履を容れず、李下に冠を正さず位の事は弁わきまえておりましょう。」

という例も載る。そんな使われ方もする,「李下の冠瓜田の履」は,言うまでもなく,

「すももの木の下で手を上げれば果実を盗むかと疑われるから,冠が曲がっていても,そこでは手を上げて正すべきではない」
「瓜畑で履が脱げても,売りを盗むかと疑われるので,履き直すな」

という意味で,

人から疑いをかけられるような行いは慎むべきであるということのたとえ,

である。しかし,そもそも「個別案件」,しかもおのれの縁者(岸信介の外孫,つまり安倍首相とははとこの関係と言われる)に関わるような案件を自らが,税金を使って助成しようとすることは,一国の首相のなすべきことではないことは勿論だが,仮に私企業であっても,適格性の判断を埒外に置いており,投資案件としても,業務上の横領を疑われても言い訳できないような事案である。しかも,その案件を通すために,公的決裁ルートを待たず,ダイレクトに担当者に決裁を促すなどということは,オーナー企業ですら組織としてはいかがかと思うが,通常の私企業では,株主に対し説明がつかないだろう。まして,ことは,税金の使い方に関わる事柄なのである。

この場合,僕は,

モラル・ハザード,

以前の問題である,と思う。モラル・ハザード(moral hazard)とは,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%89

によると,3つの異なる意味がある,という。

①プリンシパル=エージェント問題。経済学のプリンシパル=エージェント関係(「使用者と被用者の関係」など)において、情報の非対称性によりエージェントの行動についてプリンシパルが知りえない情報や専門知識がある(片方の側のみ情報と専門知識を有する)ことから、エージェントの行動に歪みが生じ効率的な資源配分が妨げられる現象。「隠された行動」によって起きる。
②保険におけるモラル・ハザード。保険に加入していることにより、リスクをともなう行動が生じること。広義には、①に含まれる。
③倫理の欠如。倫理観や道徳的節度がなくなり、社会的な責任を果たさないこと(「バレなければよい」という考えが醸成されるなど)。

しかし,「③.の意味は英語の「moral hazard」にはなく日本独自のもの」で,本来,「倫理・道徳観の欠如・崩壊・空洞化」という用法はない,のだという。

ま,それはともかく,

倫理・道徳観の欠如・崩壊・空洞化,

以前というのは,このところの一件は,そもそも(繰り返すが基本的などという意味ではない。元来が)そういう倫理観ではなく,それとは別の,

私利私欲,
利権,
業務上の横領,
盗人倫理,

ということを当たり前としている,としか見えないからだ。そもそも国の柱石である憲法を,おのれの私意(あるいは趣味)で,変えることを広言してはばからず,それを誰も咎めないということは,この国自体が,

モラル,

などというものを持たぬ,ということでしかない。残念ながら,洋風に言えば,

ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige),

は,建前としてすら,どこにもない。これは,

位高ければ徳高きを要す,

という意味らしいので,儒者流に言えば,

命を知らざれば,以て君子たること無きなり。礼を知らざれば,以て立つこと無きなり。言を知らざれば。以て人を知ること無きなり,

あるいは,

名正しからざれば則ち言順わず,言順わざれば則ち事成らず,事成らざれば則ち礼楽興らず。礼楽興らざれば則ち刑罰中らず,刑罰中らざれば則ち民手足を措く所なし,

というところか。少なくとも,かつては,上に立つものは,この心ばえについて,建前だけにしても,厳守するふりをした。でなくば,上に立つ資格はないと見なされたからだ。今日,そんなものの欠片もない。むしろ,人としての,

自己倫理,

すら持たぬ。自己倫理とは,

ひとはいかに生くべきか,

というコアの自己規制だ。それの無きものは,ずぶずぶと,泥沼にはまっても気づけぬ。後ろめたさも感じない。悪いこととは思わぬからだ。そういうものをトップに戴く国に未来はない。それを戴くのを選んだのは国民自身だからだ。

なお,ノブレス・オブリージュについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/396122656.html

で触れた。

参考文献;
http://www.asahi-net.or.jp/~bv7h-hsm/koji/rika.html
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)

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今日のアイデア;
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2017年06月10日

落日


大西康之『東芝解体-電機メーカーが消える日』を読む。

東芝解体.jpg


モノづくり大国という言葉が空々しくなったのは,いつからだろうか。半導体で起きたことは,携帯電話で置き,携帯電話で起きたことは,家電で起き,それはやがて,自動車でも起きるのではないか。本書の中で,シャープを買収したホンハイと日本電産の関係について,こんなことを書いている。

「仮に(ホンハイと日本電産が)手を組んだとしたら,2人はどこへ向かうのだろう。(中略)現時点でもっとも可能性が高いのは電気自動車(EV)ではないか。日本電産のもつモーター技術とホンハイの生産力,そこに電子部品,通信,液晶といったシャープの技術力を加えれば,価格競争力の高いEVの量産が可能になる。
 内燃機関を持たないEVの生産工程は,ガソリン車よりはるかにシンプルだ。床の下に電池を貼り,車輪の周りにモーターをつければ走り出す。組み立て工程は,自動車というよりスマホに近い。ガソリン車に比べ,新規参入のハードルははるかに低い。
 それでもホンハイと日本電産だけでは自動車事業を立ち上げるのは難しいかもしれない。そこで生きてくるのがテリー(ホンハイ会長)の人脈だ。
 「iPhoneの次は車を作ってみないか。」
 2015年,EV大手テスラーモーターズの創業者,イーロン・マスクがテリーにこう持ちかけたことが米国の新聞紙上で報じられた。『冗談半分で』というニュアンスだったが,あながちそうとも言い切れまい。(中略)
 テスラが加われば,EVに欠かせない電池の問題も解決する。テスラはパナソニックと合弁で米国に巨大なリチウムイオン電池工場,ギガファクトリーを立ち上げつつあるからだ。
 テリーの人脈から推測されるもう一つの可能性はアップルだ。アップルはiPhoneの限界を突き破るべく,2019年からEV市場への参入を目指している。」

グーグルが自動運転車で自動車産業への進出を進めている。これから必要なのは,モノづくりではなく,ITとネットである。

「日本のIT,ネット産業における最大の問題は,先行する米国勢を追撃する企業がないことだ。」

と。

本書は,エピグラフに,

Survival of the Fittest(適者生存)

という言葉(ハーバート・スペンサー)を載せる。日本企業は,最先端部門ですでに敗退している,と僕も思う。それは,

変化する力

の欠如だ。日本企業の惨状を尻目に,生き残りを果たした企業の例を,たとえば,ノキア。

「2011年まで従来型携帯電話で世界シェア1位だったフィンランドの通信機器大手のノキア。同社はスマホへのシフトが遅れて2013年に経営危機を迎えた。2014年には主力の携帯端末事業を米マイクロソフトに54億4000万ユーロ(約6500億円)で売却し,事業領域を通信インフラに絞り込んだ。この時日本では『ノキアは終った』とまで言われた。
 しかしノキアはその後,シーメンスとの通信インフラ合弁会社を完全子会社化し,2016年には最大のライバルである仏米合弁のアルカテル・ルーセントを156億ユーロ(約2兆円)で買収した。現在ノキアは世界最強の通信インフラ企業」

であり,

「同市場で世界ナンバーワンに浮上した。世界の通信インフラ市場は,ノキア,エリクソン(スウェーデン),華為技術(中国)の3強」

なのである。また,かつてはCDの規格をつくったオランダの電機大手フィリップスは,

「1990年代に経営危機を迎え,2000年代初頭には半導体やテレビから撤退した。(中略)だがフィリップスは死んではいなかった。デジタル機器の事業を売却して得た資金で医療機器メーカーを次々に買収し,今や『医療のフィリップス』に生まれ変わり,電機メーカーだった頃よりもはるかに高い利益率を叩き出している。(中略)2013年5月,フィリップスは正式にロイヤル・フィリップス・エレクトロニクスからロイヤル・フィリップスに変えた。」

一方,日本の家電メーカーはどうかというと,いまの東芝のように,切り売りしつつ縮小再生産をし続け,消滅しつつある。ただ,わずかに生き残りの可能性のあるのを,

ソニー,

三菱電機,

と,本書は言う。

「世界にはプレステのユーザーが数千万人いる。その数千万人がネットを介してソニーのプラットフォームにつながっているという事実は大きなアドバンテージである。VR,AI(人工知能)など持ちうる全ての技術をそそぎ込み,世界をアッと言わせるリカーリングビジネスを生み出せば,物づくりの呪縛から解き放たれたソニーは再び輝きを取り戻すかもしれない。」

リカーリングビジネスとは,

「『商品を打って終り』のメーカーから,利用者・へのサービスを通じて継続的に利益を上げる」

ビジネスを指す。

「ネットを使ったリカーリングで薄く広く稼ぐ企業を『プラットフォーマー』と呼ぶ。代表的なプラットフォーマーはアップル,グーグル,フェイスブック,ツイッター,アマゾン・ドット・コムなどだ。

三菱電機は,

「デジタル分野での消耗戦を避け,得意のFAに資源を集中した」

ことで,「世界では当たり前」の経営で生き残りを果たしている。そして,結果として,「機械メーカー」に変身した。この電機メーカーから転身しつつある二社を除くと,結果として,日本の電機メーカーは,ほぼ絶滅しつつある,ということになる。

本書は,「おわりに」で,

「お気付きの方もいると思うが,本書のモチーフは第二次世界大戦における日本の敗北の原因を組織論で解き明かした『失敗の本質-日本軍の組織論的研究』である。」

と述べているように,日本企業の組織論的研究にもなっている。恐竜が絶滅,というより鳥に進化していったように,日本企業も生き残りをかけて,変身しない限り,生き残る可能性はほとんどない。

東芝の章で,本書は,

「戦後の高度経済成長期に水俣病を引き起こした『チッソ』が公害の代名詞として記憶されたように,『東芝』の名は原子力ムラの墓標として歴史に残るだろう。」

と締めくくる。

参考文献;
大西康之『東芝解体-電機メーカーが消える日』(講談社現代新書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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2017年06月11日

破綻


服部茂幸『偽りの経済政策―格差と停滞のアベノミクス』を読む。

偽りの経済政策.jpg


現在の日銀の金融政策を遂行しているのは,これまで日本銀行が積極的に金融緩和を行わずデフレを放置したとする,いわゆるリフレ派の経済学者による(黒田=岩田)体制である。しかし,四年が経過しても,デフレ脱却の公約は果たされていない。そこには,政策の破綻と,彼らの理論の破綻がある。しかし,恥ずかしげもなく,目標期限が来るたびにそれを先延ばしするのを五回も繰り返し,外的要因に責任転嫁している。これについて,

「黒田=岩田日銀はデフレ脱却に失敗した。しかし,これでは国民に嘘をついたことになる。そこで,物価が上昇していないのは,外的要因の結果であって,異次元緩和は成果を上げていることにした。ここでも,政策の正当化に反事実的推論が使われているのである。」

と皮肉る。反事実的推論とは,

「相関関係や事象の同時性は因果関係を意味しないことは科学の基本である。例えば,ある政策を実施した時に,経済が10%も落ち込んだとしよう。しかし,ある政策がとられなければ,経済の落ち込みが15%だったとすれば,政策は経済を5%も改善したことになる。反事実的推論自体は科学的な方法である。
 しかし,管理された実験が行われない限り,反事実的推論は単なる推論でしかあり得ない。実際のアメリカ経済の回復が遅くても,ある意味政策が実施されなければ,もっと回復が遅れたと主張することによって,どのような政策でも正当化できるだろう。」

というものだ。どこか,安倍首相の使う論理に似ている。

本書の著者は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/405050518.html

で触れた前著『アベノミクスの終焉』で

「アベノミクスの下で経済が順調に成長していると思われていた。けれども,経済成長を支えているのは,政府支出,耐久消費財と住宅投資にすぎない。2014年4月に消費税増税が行われた後,反動減で耐久消費財と住宅投資が急減するのは目に見えている。政府投資も14年度には横ばいと,日本の政府自身が見込んでいる。14年度には経済成長が挫折する。消費者物価上昇率もプラスに転じたが,これは円安による輸入インフレの結果に過ぎない。円安が止まれば,デフレに戻る。」

と見通した。そして,

「今では消費者物価上昇率はほぼゼロか,マイナスに転じ,経済も停滞している。」

「アベノミクスが消費税増税のために挫折したという責任転嫁の議論は正しくない。(中略)消費税増税が経済の回復に水を差したのではない。駆け込み需要と政府支出でかさ上げされていた経済が,元に戻っただけである。」

として,こう結論づける。

「アベノミクスと日銀の金融緩和の物語は単純である。それは,デフレ脱却にも,実体経済の復活にも失敗した。けれども,それでは国民をだましたことになってしまう。そこで,彼らはデフレ脱却に失敗した責任を消費税増税後の需要の弱さ,原油価格の世界的急落,2015年夏以降の新興国の経済の減速に押しつけた。
 筋の通らない話である。金融政策が適切に行われていれば,デフレが回避できるし,デフレが解決できれば日本経済は復活できるとして,彼らは現在の地位につくまで,日銀を批判してきた。その彼らがデフレと経済停滞の原因を外的要因に押しつけている。これまでの批判は何だったのだろうか。彼らは責任転嫁によって,自らの理論を否定しているのである。」

つまりは,リフレ理論の破綻とその理論に基づく金融政策の破綻である。それはアベノミクスの破綻の露呈でもある。著者は,

アベノミクスの成果と言えるものは存在しない,

と断言する。

消費者物価上昇率はゼロか,マイナスで,アベノミクス以前と同じ状況,
雇用の回復も,実際に増加しているのは短時間就業者で,長時間就業者は逆に減少している,
企業の利益も,生産も売り上げもその増加はわずかで,円安や原油安による名目的な要因に過ぎない,

と。さらに,

「政府・日銀の認識では,現在の日本経済は緩やかな回復過程にある。経済成長率は,1%程度で低いが,プラス成長だから,この認識は間違っているわけではない。しかし,一部の時期を除くと,アベノミクス前の日本経済もこの程度の成長は実現できていた。だから,ゆるやかな経済回復がアベノミクスの成果だとは思わない。」

では成果は何か。

富裕層の所得と富の拡大,

である。アベノミクスによる株価上昇により,

「純資産一億円を超える富裕層・超富裕層の世帯は,2011年の81万世帯から,15年には122万世帯に増加した。純金融資産総額も188兆円から272兆円へと急増した。その結果,世帯数では2%の富裕層・超富裕層が純金融資産の二割を占めることになった。『もともと富裕層および超富裕層の人々の保有資産が拡大したことに加え,金融資産を運用(投資)している準富裕層の一部が富裕層に移行したため』と野村総合研究所は述べる。」

つまり,

「アベノミクスは富裕層の所得と富の拡大に大きな貢献をした」

のである。で,結論は,

「アベノミクスが始まってから,どの世論調査でも景気回復の実感がないという回答が一貫して七割かそれ以上を占めている。大部分の家計は労働をして,給与を受け取り,生活をしている。物価上昇に給与が追いつかない状況では,多くの国民の生活は改善するはずもない。大多数の国民の実感は実態を反映しているのである。
 アメリカに倣った政策がアメリカと同じような賃金停滞と,所得と富の集中を作り出すのは不思議なことではない。」

この政権下,紙幣を刷りまくり,膨大な政府支出を繰りだしても,実体経済は,その前の民主党政権時代を超えていない。この四年余はいったい何であったのか。このつけは,後の世代につけ回される。既に,滅びの予感がしてならない。

参考文献;
服部茂幸『偽りの経済政策―格差と停滞のアベノミクス』(岩波新書)

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2017年06月12日

せせらぎ


「せせらぎ」は,古くは,

セセラキ,
セゼラキ,

とも言うらしい。

浅い瀬などを流れる音,またそういう場所,

を意味する。擬音語からきているのではないか,と思わせる。『岩波古語辞典』には,

せせらき,

で載る。狭い所を,

せせり,

というらしい。楊枝で「せせる」の「せせり」である。『岩波古語辞典』には,「せせり」として,

狭い所を,無理につつきほじくる,
突き散らしてあさる,
あれこれとからかいもてあそぶ,

という意味が載る。あるいは,「相手を鼻先であしらって笑う」意の,

せせら笑う,

の「せせら」は,ここから来ているのかもしれない。

せせらぎ.jpg


『大言海』の「せせらぎ」の項には,

せせらぐの名詞形,

とあり,「せせらぐ」は,

さざらぐの転,

とあり,

水浅くさざなみ立てて流る,

とある。「さざらぐ」は,

潺,
湲,

の字を当て,

水の音のサザを活用せしむ(薄らぐ,柔らぐせ),

として,

水,サザとして流る,
水,砕けて,流る,

意であり,「さざる」の項で,

潺,
湲,

の字を当て,

水音,サザを活用せしむる(長るる,熱(あつ)るる),

として,

さざる,

に同じ,とする。どうやら「せせる」は,別で,『大言海』は,

迫(せ)り迫(せ)るの略,

の,「つつく」意と,いまひとつ,

静岡県にて,玩(もてあそ)ぶを,セセルと云ひ,又,玩具(せせりもの)とも用ゐる,

とある「せせる」の二系統があることを示す。「せせらわらい」は,後者から来た,

迫(せせ)り笑ひの義,

ということになる。

閑話休題。

「さざ」については,「さざめく」

http://ppnetwork.seesaa.net/article/450667068.html?1496865415

の項で少し触れたが,「さざ」は,

水の音,

を指す擬音語で,『大言海』には,

さざらぐ,さざるる,さざら波,さざれ波など,これより出ず。万葉集に,沙邪禮(さざれ)浪とあれば,第二のサは,濁る。水をザッとかけると云ふのも,是なり,

とある。「ざっ」についても,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/450667068.html?1496865415

で触れた。擬音語で語源が尽きているようだが,そう簡単ではなく,『日本語源広辞典』は,

「瀬+さやぎの音韻変化」

とするし,『日本語源大辞典』にも,「さざらぐ」の転とする『大言海』説以外に,

セマリセマル(迫々)の義から(名言通),
小流の水の音から出た語(俗語考),
セセラギはササラミ(小水)の義(言元梯),
セセラキのセセは瀬々,ラキはラヤ,ケミの反(名語記),

と,いろいろある。しかし,やはり,水音から来ている,と見たい。『日本語の語源』には,

「水が音をたてて流れることをササラグ(潺ぐ)といった。<心地よげにササラギ流れし水>(更級)。
 名詞形のササラギ(潺ぎ)は母韻交替[ae]をとげてセセラギ(細流)に転音し,サラサラと音をたてて流れる浅瀬のことをいう。<小鮎さ走るセセラギに>(謡・鵜飼)。
 セセラギ(細流)は『ラ』が強化の子音交替[rn]をとげてセセナギ(細流。小溝)に転音し…ている。」

とある。やはり,『大言海』の「さざ」という擬音から来ていると見なすのが説得力がある。

参考文献;
https://pro.foto.ne.jp/free/product_info.php/cPath/21_25_36/products_id/882
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
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2017年06月13日

自己分析


K・ホーナイ『自己分析』を読む。

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本書の自己分析とは,セルフ精神分析を指す。いわゆる「自分を知る」という類の自己分析ではない。

著者は,「まえがき」で,精神分析の必要性が高まっているが,精神分析の専門的援助をすべての人にはカバーできない,とした上で,

「自己分析が重視されるのはこのためである。『自分を知る』ということは,ただ結構なことであるというだけにとどまらず,それはまた可能であると,これまで考えられてきた。その努力が分析的諸発見によってい大いに助けられたことは否めない。一方,精神分析の発見こそが,自己を知るという精神分析的な自己検討の可能性を論ずるには,楽観と同時に謙虚さが要求されるのである。」

と述べて,

自己分析の手順,

を提起する本書の試みを位置づけている。そして,冒頭で,(精神分析的な)

自己分析は可能か,

という問いに,

「分析とは個人を内なる束縛から解放させて,彼自身の潜在能力を最高度に発揮させることである。(中略)以上のように精神分析の積極的な目標を立てることは,患者に次のような意欲がありさえすれば確かに実際的な価値がある。すなわち,自分の有する才能がたとえどんなものであろうと,それを伸ばそうとするきわめて旺盛な意欲である。つまり天与の才を具現させていく意欲,きびしい試練にときには出会うであろうが,それでもなお,自己を把握理解しようとする意欲,要するに成長しようとする意欲,これである。」

というのが,「分析を促進させる原動力」となる,と著者は書く。さらに,専門的分析者には,

第一に,無意識的欲求の性質,無意識的欲求の顕現法,無意識的欲求の原因,無意識的欲求の影響,無意識の解明など,心理学知識が必要,
第二に,一定の訓練を経た技能,
第三に,分析者自身の徹底的な自己認識が必要,

の資格が要ると,著者は挙げるが,自己分析の場合,他人を分析するのとは違い,

「われわれ一人ひとりの世界は,われわれにとって未知のものではない,という事実である。実際われわれが本当に知っているのは唯一人だけである。たしかに神経症者は現実の世界の大部分から隔たり,現実の世界を見まいとする気持ちにかられている。さらにまた神経症者は自分について熟知しているので,ある重要な要因を重視しすぎる危険がある。しかしそれは彼の世界であり,それについては彼は多少なりとも知っており,その世界に近づくために彼は観察し,この観察を利用するという事実は変わりがない。もし彼が自分の障害の原因を知ることにも興味があり,それを知る際の抵抗を克服できれば,ある点では第三者よりも上手に自分を観察できる。結局彼は自分自身と朝晩つき合っているわけである。それ故,自己観察は,ちょうど頭のいい看護婦が終始患者と一緒にいるのにたとえられるだろう。」

として,専門分析者の資格のうち,第一を軽視し,第二を廃止できる,という。

「自己分析の非常なむずかしさは,これらの知識や技術にあるのではなく,無意識的欲求に対してわれわれを盲目にしてしまう感情的要因にある。つまり,自己分析の主な障害物は知的なものよりは感情的なものである。」

だから,自己分析の障害は,

理論的,

でもないし,

危険性,

でもない。むしろ,

「自己分析実施中の人がまだ自分の耐えられないほどの洞察を引き出すような自己観察をしないことがある。あるいはその観察の中心点のはずれた解釈をあたえることもあろう。あるいはまた自分がまちがっていたと感じた態度を手早く表面的に訂正しようとするだけで,それ以上の自己探究は放棄してしまうこともあろう。つまり,自己分析における実際の危険性は,分析者による分析よりは少ないのである。というのは,分析者,しかも敏感な分析者が,まちがって時期尚早の解釈を患者に与えるのにくらべれば,自己分析では患者は直観的に何をさけるべきかをしっているからである。」

と,分析が浅いとか,中途半端とか,といった限界の方が大きい,と著者は言う。そして,多く成功した自己分析は,多く,

「自己分析を試みる前に分析を受けていたということである。ということは,彼らは分析方法に通じており,また自分に対し容赦なくかつ忠実なことが効果があることを経験的に知っていたことである。そのような前経験なしに自己分析は可能かどうか,またその程度はどうかが,未決の問題としてのこされなければならない。しかし,次のような勇気づけられる事実もある。それは分析的処置を受けにくるまでに自分の問題に正確な洞察を得ている人がたくさんいるということである。」

と。で,一番効果ある自己分析は,

精神分析過程に生じる長期の休止期間中,

だと,著者はいう。専門家による,精神分析とセットの自己分析が,もっとも効果がある,ということになる。自己分析手順の,

臨時的自己分析,

系統的自己分析,

と紹介された方法の中では,前者は,

「健全と神経症的との間には,画たる境界線があるわけではないから」

機能性頭痛,
不安発作,
機能性胃痛,
恐怖,
立腹,

といった,強度の神経症ではない,日常起きるちょっととしたトラブルは,

自己理解の一歩,

として有効であるように見える。著者は,

「自分の能力を最高度に伸ばそうとする深い,もっと積極的な意欲とは異なる」

とはいうが,起こっている自分を通して,自分の怒りの対象が,相手ではなく,自分自身(の性格や隠れた要求)であることに気づくなど,それなりの自己理解の一助にはなる。

しかし,終始気になったのは,自己分析例の中で随所に出てくる,自己分析に対する,浅いとか,見落としたとか,といった評である。その著者の姿勢にほの見える,アドラーに感じたのと同じ,自分に正解がある,という姿勢である。

アドラーについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/395411257.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/437675329.html

で触れた。もちろん時代の制約もあるが,ロジャーズの次の言葉が,反照のように浮かんでくる。,

「『それはこうである』と言うよりも,私たちは『それはこうだと思う』という言い方をしたいと思っている…。」

「自分自身に他人を理解することを許すことができるならば,それはたいへん価値があることがわかった。こういう言い方は奇妙に聞こえるかもしれない。他人を理解するように自分を許すなどということが必要なのだろうか。私は必要だと思う。私たちが他人の言葉を聞いたときの最初の反応は,たいていの場合,最初は,それを理解することよりも,すぐに評価したり,判断を下したりするものである。誰かが,その感情,態度,信念を述べると,たちまち,『それは正しい』『それは馬鹿らしい』『それは異常だ』『それはおかしい』『そいつは不正確だ』『それは良いことではない』などと私たちは反応する傾向がある。彼の言葉が彼自身にどんな意味があるかを正確に理解しようと自分に許すことはほとんどない。私は,その理由は,理解することが危険なことだからだと思う。他人を本当に理解しようとすると,理解することによって私が変化するかもしれない。私たちは誰でも変化を恐れている。したがって私が述べるように,他人を理解することを自分に許し,他人の照合枠(frame of reference)のなかで十分に共感して入り込むのは容易なことではない。またそれは稀なことである。」

参考文献;
K・ホーナイ『自己分析』(誠信書房)
H・カーシェンバウム&V・L・ランド ヘンダーソン編『ロジャーズ選集下』(誠信書房)

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2017年06月14日

はしる


「はしる」は,

走る,

とあてるが,

奔る,
趨る,

とも当てる。 『岩波古語辞典』には,

ハセ(馳)と同根。勢いよくとびだしたり,す早く動き続ける意,

とある。因みに,漢字の,「走」「奔」「趨」の違いは,

「走」は,かけゆく義。奔走,飛走と連用す。破れて逃げるにも用ふ,
「奔」は,走よりは更に勢いよくかけ出す義。事により趨くに後れんことを恐るる意なり。轉じて結婚に禮の備はるを俟たず,父母の家をかけおちするをも奔という,
「趨」は,早く小走りする義。貴人の前を過ぐる時の禮。論語「鯉趨而過庭」禮記「遭先生于道,趨而進」疾走して直ちに目的の處に至る義より,敬意をオブ,

となるようだ。『笑える国語辞典』

https://www.fleapedia.com/%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%9F%B3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/%E3%81%AF/%E8%B5%B0%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B/

に「走る」について,

「走るとは、『歩く』では、ライオンに食い殺されたり、野球でアウトになったり、会社をクビになったり、目玉商品を他のおばさんに奪われたりという、くやしい結果になることが予想される状況で、誰もががやむをえず取る行為。歩くときの足の動きをスピードアップさせつつ、そのパワーを地面を蹴って飛び跳ねる方向に作用させれば、あなたも簡単に『走る』ことができる。」

とあるが,この「走る」観は間違っている。人類の「走る」の意味については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163439.html

で触れたが,人間の足について,人類学者,アリス・ロバーツは,こう書いている。

「わたしたちの体の構造は,人類が長距離走に耐えるように進化してきたことを示唆している。たとえば,腱と靭帯は,エネルギーを貯めて効率よく走れるようになっているが,そのような特性は,毎日走って体を鍛えたりしなくても,わたしたちの体に元々組み込まれているのだ。」

「人類の足は,立って,歩いて,走るためにできている。近い親戚のチンパンジーやゴリラと違って,わたしたちは足でモノをつかむことができない。その代りに,すべての指が一列に並び,足は直立するための土台という,より重要な機能を果たすようになった。また,人類の足にはアーチ構造が見られる。内側の縦のアーチ(土踏まず)と外側の縦のアーチ,そして甲の部分を横切るアーチだ。これらのアーチは,収縮性のある腱と靭帯によって支えられている。走る時,足が地面につくと,腱と靭帯がバネのように伸びてエネルギーを貯め,地面を離れる足にそのエネルギーを戻す。アキレス腱は,筋肉と踵骨をつなぐ太い腱で,やはりバネの役目を果たしている。また,人類の足は長いので,大きな歩幅で歩いたり走ったりできる。」

とある。そして,

「ホモ・エレクトスが登場した180万年前頃には,脚の長い人類が現れはじめた。(中略)そこで,走るのに適したように変化があらわれる。例えば,前傾姿勢が保てるように背筋が発達,脚を後ろに動かすための臀部の筋肉も大きくなる等々。なにより,人間の体には,体毛がほとんどなく,長距離を走っている時に,熱を発散し,桁はずれて多い汗腺による発汗と汗の蒸発によって体温を下げるという,適応がある。」

と。だから,チーターのような,その瞬発的な力はない代わりに,粘り強く走り続ける持久力が我々の特徴であるなら,それは,精神にももともと備わっているはずなのではないか。いまも狩りをする,ブッシュマンに同行したアリス・ロバーツは,その長距離ランナーぶりに驚嘆しているが,なにより,日中に狩りをすることが,他の捕食動物やハイエナのような清掃動物とも重ならず,ニッチを獲得したのではないか,と推測している。そこには,人の狩りの仕方がある。真昼間,動物の足跡みつけて,それをたどり,執拗に追跡する。そして夜は,安全な集落に戻る。

持続する脚力は,持続する精神力とセットのはずだ。仮に持久力のある脚力があっても,執拗に追い詰めていく精神力がなければ,途中で投げ出すだろう。つまり,精神の持久力の限界が,脚力の限界になる。その脚力は,精神力とあいまって進化したというべきなのだ。他の哺乳類からみたなら,二足歩行の人の特徴的な行動スタイルは,「歩く」ではなく「走る」なのである。

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http://www.geocities.co.jp/Bookend/4373/vol_239.htm

に,「歩く」との違いについて,

「歩くとは左右のどちらかの足が地面についている進み方を言います。それに対して、走るとは両足が同時に地面から離れている瞬間がある進み方です。」

とある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%B0%E3%82%8B

でも,「はしる」を,

「人間は二足歩行をするとき、左右の足で交互に地面を蹴ることで推進力を得る。このとき、両足が同時に地面から離れる瞬間がある移動方法を走る、常にどちらかの足が地面についている移動方法を歩くという。必然的に、走っているときは両足が同時に地面につくことはない。運動学的には、遊脚期が立脚期よりも長い移動方法であると言える。 もう一つは、位置エネルギーと脚のバネエネルギーの交換による移動とも定義されていて、その意味でゾウの速歩はある意味では走行ともとらえられる。」

と定義している。

さて,「はしる」の語源である。『日本語源広辞典』は,

「ハシ(粛・ひきしまる)+る」

で,

「早く進む,勢いよく早く動く,噴きだすなどの意です。火の中の栗がハシル,固く乾燥する意のシハルなどの方言は,語源に近いようです」

とある。『日本語源大辞典』には,

ハス(馳)と同語源(岩波古語辞典)
「ハスル(早進)の義(言元梯),
ハヤセキアル(早瀬有)の義(名言通),
ハは早の義。シはアシの上略か。ルは任るの意か(和句解),
ハサマ・ハサム・ハシ(橋)等と同語源で,二点の間,二点をつなぐなどの原義が共通するか(時代別国語大辞典),

等々が載るが,上述の肉体の特徴から見ると,

「ハシ(粛・ひきしまる)+る」

を取りたくなる。なお,「馳せ」との関係について,『日本語源大辞典』には,

「(馳せるは)本来,自動詞「はしる」に対応した他動詞で,『はしる』が古代には,水,鮎,雹などの動きについて広く用いられていたのと同様に,馬,弓,舟,心などについて広く使われた。しかし,自動詞的にも用いられたために,『はしる』との関係が曖昧になり,『はしる』の他動詞形として『はしらす』『はしらかす』が一般的となった。ただし,東北方言には『はせる』を『はしる』の意味で使うなどの用法が残っている。」

とある。因みに,「は(馳)せる」の語源には,

ハシラスの義,
ハシルの約,
ハシルと同源,

と,ほぼ「はしる」とつながっているようである。

参考文献;
アリス・ロバーツ『人類20万年 遥かな旅』(文藝春秋)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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2017年06月15日

ロジャーズ


H・カーシェンバウム&V・L・ランド ヘンダーソン編『ロジャーズ選集』を読む。

ロジャーズ選集.jpg


本書は,カール・ランソン・ロジャーズ(Carl Ransom Rkgers)の著作集である。サブタイトルに,「カウンセラーなら一度は読んでおきたい厳選33論文」とある。上巻は,カウンセリング関係の主要論文,下巻は,サイコセラピーで培った科学的研究を,行動科学が適用されている社会的・政治的文脈であり,そこにはスキナーとの長い対話も含まれる。いまひとつは,ハードサイエンスに対する「もっと人間的な人間科学にむけて」という死の直前に書かれた論文に見られるような,人間科学の新しい方向性である。

しかし,こう言っては何だが,やはり上巻のセラピーに関する予見ともいうべき数々の見識には圧倒される。そうか,ロジャーズがとうの昔に言っていたのか,ということに気づかされることが度々あった。

たとえば,ロジャーズは,さりげなく,

「自分自身に他人を理解することを許すことができるならば,それはたいへん価値があることがわかった。こういう言い方は奇妙に聞こえるかもしれない。他人を理解するように自分を許すなどということが必要なのだろうか。私は必要だと思う。私たちが他人の言葉を聞いたときの最初の反応は,たいていの場合,最初は,それを理解することよりも,すぐに評価したり,判断を下したりするものである。誰かが,その感情,態度,信念を述べると,たちまち,『それは正しい』『それは馬鹿らしい』『それは異常だ』『それはおかしい』『そいつは不正確だ』『それは良いことではない』などと私たちは反応する傾向がある。彼の言葉が彼自身にどんな意味があるかを正確に理解しようと自分に許すことはほとんどない。私は,その理由は,理解することが危険なことだからだと思う。他人を本当に理解しようとすると,理解することによって私が変化するかもしれない。私たちは誰でも変化を恐れている。したがって私が述べるように,他人を理解することを自分に許し,他人の照合枠(frame of reference)のなかで十分に共感して入り込むのは容易なことではない。またそれは稀なことである。」(「私を語る」)

と書く。たしかに,

「他人を理解することを自分に許し,他人の照合枠(frame of reference)のなかで十分に共感して入り込むのは容易なことではない。」

だからこそ,自らの価値基準を脇に置いて,相手の枠組みの中で相手が考え,見ているものを見ようとする姿勢がなければ,共感はあり得ない(エリクソンは,「相手の枠組み」という言い方をしていたが)。自らに許す,というよりは,覚悟という言葉がふさわしいのかもしれない。

さらに,同じところで,

「人間ひとりひとりが,きわめて現実的な意味で,自分自身という島である。人はみずからすすんで自分自身になろうとし,自分自身であることを許されるならば,そのときはじめて他の島に橋をかけることができるのである。そこで,私が他人を受容するとき,それをもっと具体的にいえば,彼の感情や態度,信念などを彼の生きている現実のものとして受容できるならば,私は彼がひとりの人間になる援助をしているのである。このことにはとても大きな価値があると思われるのである。
次の経験はとても伝えにくい性質のものである。私が自分自身や他人のなかの現実にひらかれていればいるほど,ことを急いで『処理』しようとしなくなってきている。私が自分の内部に耳を傾けようとし,私のなかに進んでいるその体験過程に耳を傾けているとき,そしてまた,その同じ傾聴の態度を他人にも広げようとするとき,それだけで私は,複雑なプロセスを尊重するようになってきている。私は,ただ自分自身になること,他人がその人自身になるように援助することに満足するようになった。(中略)この複雑な人生のなかで,ただ自分自身になろうとすればするほど,自分自身や他人の現実を理解し受容しようとすればするほど,それだけ変化が起こりだしてくるように思われる。非常に逆説的なのであるが,誰でも進んで自分自身になろうとすればするほど,自分が変化するばかりでなく,自分と関係している人たちもまた変化していくのである。少なくともこれは私のもっとも生々しい経験であり,私の私生活や専門職の生活から学んだ最も深い経験のひとつである。」(仝上)

とも書く。この一文の中に,我々のなかで常識としていることが,彼個人の経験のメタ化されたものであることを知らされるのである。あるいは,

「個人が援助を求めにやってくる。正しく認識されるならば,これはセラピーの最も重要なステップのひとつである。その個人はいわば,自分自身にとりかかったのであり,第1に重要な責任ある行為をとったのである。彼は,これが自律的な行為であることを否認したいかもしれない。しかし,もしこの自律的行為が育っていくならば,それはそのままセラピーへと進展していくことができる。それ自体としては重要でない出来事も,セラピーにおいてはしばしば,もっと重要な機会と同じように,自己理解や責任ある行為に向かう基盤を提供することが多い…。」(「より新しいサイコセラピー」)

もまた,ここでも,さりげなく,語られているが,セラピーへくること,あるいは行こうと決意すること自体で,既に大きな変化が起きることは,今日常識である。

あるいは,

「もしクライエント自身が来談した責任を受容しているならば,彼はまた,自分の問題に取り組む責任をも受容しているのである。」(仝上)

「少しずつ,私たちは,敵意や不安の感情の流れ,ひっかかりの気持ちや罪悪感,両価的な感情や決断できない感じ,を阻止しないでいることを学ぶのだが,こうした感情は,もし私たちが,その時間を本当にクライエントのものであり,その人の望むように用いることができる時間であることを,クライエントに感じさせることができるならば,それは自由に流れ出てくるものである。」(仝上)

「カウンセラーの仕事は,さまざまな選択の可能性を明確にするように援助し,その人が経験している恐怖の感情や,前進する勇気の欠如を認識することである。ある行為の方向を強制したり,助言を与えることがカウンセラーの仕事なのではない。」(仝上)

あるいは,

「クライエントの意味づけを『理解する』(understanding)ということは,本質的には理解『しようとする』(desiring to understanding)態度にほかならない…。」

「信頼されるためには,頑なに一貫した態度をとるのではなく,信頼に足るほどリアルである(dependably real)ことが必要であることを認めるようになったのである。『一致している』という言葉は,私がそうありたいあり方を表現するものである。この言葉は,私がどのような感情や態度を経験していても,そのことに私自身が気づいていること(awareness)を意味している。」

「私は『気持ちのリフレクション』をしようとは努めていないのである。私はクライエントの内的世界についての私の理解が正しいかどうか―私は相手がこの瞬間において体験している(experiencing)がままにそれをみているのかどうか―見極めようと思っているのである。私の応答はいずれも言葉にならない次の質問を含んでいる,『あなたのなかではこんなふうになっているんですか。あなたがまさに今経験している個人的意味(personal meaning)の色合いや手触りを私は正確にわかっていますか。もしそうでなければ,私は自分の知覚をあなたのと合わせたいと思っています』と」(「気持ちのリフレクション(反映)と転移」)

等々。それらを整理した,

「セラピーによるパーソナリティ変化のための必要にして十分な条件」
「クライエント・センタードの枠組みから発展したセラピー,パーソナリティ,人間関係の理論」

の二論文は,やはり重い。そして,

セラピー過程の6条件は,いまも厳然として生きている。

①二人の人間が接触(contact)をもっていること。
②一方のクライエントと呼ばれる人間は,不一致(incongruence)の状態にあり,傷つきやすい(vulnerable)か,あるいは不安(anxious)な状態にあること。
③他方のセラピストとよばれる人間は,2人の関係(relationship)のなかで一致の状態にあること。
④セラピストは,クライエントに対して無条件の肯定的配慮(unconditional positive regard)を経験していること。
⑤セラピストは,クライエントをその内的照合枠(internal frame of reference)から共感的に理解する(empathic understanding)という経験をしていること。
⑥クライエントは,条件4および,5,すなわち自分に対するセラピストの無条件の肯定的配慮および共感的理解を,少なくとも最低限に知覚していること。

それにしても,ロジャースは,自分の考えを「仮説」と呼んだ。ロジャーズの,

「すべての人間は,自分自身のなかに,個人的にも満ち足りた,社会的にも建設的な方向に,自らの人生を導いていく能力をもっている。」
「「個人は自分自身のなかに,自分を理解し,自己概念や態度を変え,自己主導的な行動をひき起こすための巨大な資源をもっており,そしてある心理的に促進的な態度について規定可能な風土が提供されさえすれば,これらの資源は働き始める」

という,彼の「仮説」を,彼は57年間にわたって,自ら検証したのだと,つくづく納得させられる。

参考文献;
H・カーシェンバウム&V・L・ランド ヘンダーソン編『ロジャーズ選集上』(誠信書房)


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今日のアイデア;
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2017年06月16日

ジャコメッティ


国立新美術館の「ジャコメッティ展」

http://www.nact.jp/exhibition_special/2017/giacometti2017/

を観てきた。

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いまさら,ジャコメッティでもないかもしれないが,僕なりに,いま感じたことを書きとめておきたい。こと改めて言うのも恥ずかしいが,「立つ」ということを考えていた。日本語の「立つ」については,

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(女性立像)


http://ppnetwork.seesaa.net/article/399481193.html?1497439641

http://ppnetwork.seesaa.net/article/404789268.html

で触れたことがあるので,少し重なるが,「立つ」の語源は,「タテにする」「地上にタツ」らしい。

「立」の字は,

大+-線(地面)

で,

人が両手両足を広げて地上に立つ形の象形,

を意味する。立つは,人にとって特別の意味があるらしい。だから,「立つ」には,目立つ,際立つニュアンスがある。しかし,立つことで,周りから,

はっきり姿が目立つ

という以上に,当事者にとって,視界が変わる,ということが大きい。ある意味で,立ったときから,ものを見る視界が変わったのは,何か,ただ視界が変っただけではないような気がしてならない。

言葉を覚えたころに,空中を飛ぶ夢を見る,とはユンギアンが書いた中で見たことだが,それは,ものをメタ・ポジションから見る,という意味でもある。立つこととそれは関係あるのではないか,とひそかに思う。

キルケゴールの,

人間は精神である。しかし,精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし,自己とは何であるか?自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいは,その関係に関係すること,そのことである。自己とは関係そのものではなくして,関係がそれ自身に関係するということである。

という,自分に対するメタ・ポジションを取るのも,それとつながる。

右側の頭頂葉の「角回」という部位を刺激すると,被験者の意識は2メートルほど舞い上がり,天井付近から,「ベッドに寝ている自分」が見える,という実験が報告されている。

幽体離脱といわれる現象である。その部位がどうやれば刺激されるのかはわからないが,この実験を紹介していた池谷博士は,健康な人でも30%は幽体離脱を経験すると言い,

「有能なサッカー選手には,プレイ中に上空からフィールドが見え,有効なパスのコースが読めるというひとがいます。こうした俯瞰力」

も幽体離脱と似ている,と指摘している。さらに,

「客観的に自己評価し,自分の振る舞いを省みる『反省』も,他者の視点で自分を眺める」

という能力も,いわば,幽体離脱の延長というふうに言えると指摘している。

ちょっと話が横にずれた,ジャコメッティの立像は,人が,

立つ,

そのものを形象化している。象徴ではなく,立つことそれ自体の顕現である。そこに実存だの,なんだのと意味を付与することには意味がない。「立つ」行為自体の現前化そのものだからだ。あるいは,

グランディング(grounding),

そのものの形象化でもある。敢えて言うと,

大地に立つ,

ということの顕現でもある。それは,二足歩行の,

ホモ・サピエンス・サピエンス(Homo sapiens sapiens)

であることの顕現である。人の容姿も意味もすべてはぎ取った後,そこに顕れるのは,

立つ,

という行為である。しかしすべてを剥ぎとったはずなのに,「犬」「猫」そのものはあるのに(「牡犬」「牝猫」ではない),

「女の立像」
「ベネツィアの女」
「3人の男のグループ」
「小像(女)

と,(今回観た範囲でいえば)ほとんど性別だけが残るのはなぜだかわからない(「3人の人物しひとつの頭部」「7人の人物とひとつの頭部」と例外はわずかだ)。なぜ,

立つ人,

ではないのだろう。

当然,歩く像も,その「立つ」延長線上に,

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(歩く男)


(二足で)歩く,

という行為そのものの顕現である。しかし,この場合も,「歩く男Ⅰ」「歩く男」と性別がある。

参考文献;
池谷裕二『脳には妙なクセがある』(扶桑社)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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2017年06月17日

むし


「むし」は,

虫,

の字を当て,いわゆる,

昆虫の意,

で使っている。しかし,漢字の,

虫,

蟲,

は,まったく別の意味である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%AB

では,

「虫という漢字の由来は、ヘビをかたどった象形文字で、本来はヘビ、特にマムシに代表される毒を持ったヘビを指した。読みは『キ』であって、『蟲』とは明確に異なる文字や概念であった。
蟲という漢字は、もとは、人間を含めてすべての生物、生きとし生きるものを示す文字・概念であり、こちらが本来『チュウ』と読む文字である。古文書においては『羽蟲』(鳥)・『毛蟲』(獣)・『鱗蟲』(魚および爬虫類)・『介蟲』(カメ、甲殻類および貝類)・『裸蟲』(ヒト)などという表現が登場する。しかし、かなり早い時期から画数の多い『蟲』の略字として『虫』が使われるようになり、本来別字源の『虫』と混用される過程で『蟲』本来の生物全般を指す意味合いは失われていき、発音ももっぱら『チュウ』とされるようになり、意味合いも本来の『虫』と混化してヘビ類ないしそれよりも小さい小動物に対して用いる文字へと変化していった。」

とあり,「虫」の字(漢音キ,呉音ケ)は,

まむし,

を指し,「蟲」の字(漢音チュウ,呉音ジュウ)は,

昆虫,
及び,
動物の総称,

と『漢字源』にはある。で,上記と重複するが,

羽虫は,鳥類,
毛虫は,獣類,
甲虫は,亀類,
鱗虫は,魚類,
裸虫は,人類,

を指す。さらに,

足のあるむし(足のないむしを豸(チ)という),
とか
うじむし(ちいさいもののたとえ),

の意味もある。由来からみると,「うじむし」が先のようで,そこから動物へと意味が拡散した。我が国では「虫」は,

子どもの起こす病気,
あることに熱中する人(本の虫),
人を罵ることば(弱虫),

という独特の意味をもつ。「虫」は,

蛇の形を描いた象形文字,

「蟲」は,

虫を三つ合わせたもので,多くのうじむし,転じていろいろな動物を表す,

である。なお,「虫」の字は,「蝮」の古字ともある(『字源』)

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(にほんまむし)


『岩波古語辞典』をみると,「むし」の意味は,

人・鳥獣・魚・貝以外の動物の総称。昆虫やヘビ・・カエル・トカゲ・ミミズ・ヒルなど。

とある。「まむし」という言葉も,その流れにある。『日本語源広辞典』には,

「マ(真・本当の)+ムシ(毒ムシ)」

とある。どうやら,中国の漢字の「虫」の発想と似たところから来たものらしい。あるいは,「虫」の字を知って,そういう使い方をしたのかもしれないが。

では,「むし」という言葉の語源は,というと,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%AB

では,

「もともと大和言葉の『むし』がどんな範囲を指したのかについてははっきりしたことは分かっていない。大和言葉の『むし』と、中国から何度も渡来する「虫」などの文字、概念が重層的に融合したのでなかなか一筋縄では把握できない。」

とするが,『大言海』は,

「蒸(むし)の義。濕熱の氣蒸して生ず。六書精薀,六『蟲,濕生化生者也,熱氣所蒸,其聚常衆』と見や,虫と書くは,蟲の省字」

とある。『日本語源広辞典』も,

「蒸し(湿気暑気で蒸して生ずる)」

とする(その他,名言通・和句解・日本釈名)。異説には,

生・産の義で,自然に発生するを言う(東雅・言元梯・和訓栞・俚言集覧・国語の語幹とその分類),
ムツアシ(六脚)の義(日本語原学),
ウシに接頭語マ・ムを加えた者(神代史の新研究),
動物の意のマ,宍の意のシの総称(日本古語大辞典),

等々があるが,「蒸す」との関連が,自然に思える。「虫」「蟲」のように,観念として,メタ化するよりは,その状況を説明する言葉で,指示するというのは,文脈依存の和語らしい。

「蒸す」は,『日本語源広辞典』には,

「ム(蒸気,湯気,湿気)+ス(動詞化)」

とあり,「湯気を通し熱する,湿気を多く与える」意だが,『大言海』の,

「気を吹かせず(気を吹き出さしめるフカスに対す)」

の説明がよく分かる。しかし,これは,「蒸す」行為をメタ化した以降の解釈ではないか。

生産の義のムスから(和訓栞),
火水相結ぶの義で,水火の中にムス(生)義(国語本義),

も同類の解釈で,「蒸すなあ」という「蒸す」ではなく,意識化された行為としての「蒸す」から解釈している。それよりは,

ムレス(群)の義(名言通),
内に群れ群れとして体をなす義(日本語源),
コモフス(籠為)の義(言元梯),

の方がまだまし,という感じがする。

「大和言葉の『むし』と、中国から何度も渡来する『虫』などの文字、概念が重層的に融合したのでなかなか一筋縄では把握できない。」

というのは確かだが,概念化された「むし」観の前は,目の前の草むらから,湧き出てくるものを指していたに違いないと思う。その意味で,

「蒸し」

に与したい気がする。なお,「むし」については,わが国では,「虫の知らせ」「虫が好かない」等々,独特の「むし」の意味があるが,これについては項を改めたい。


参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%A0%E3%82%B7


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2017年06月18日

むし


ここでは,「腹の虫」の「むし」のことである。昆虫の意の「むし」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/450940642.html?1497642312

で触れた。「むし」には,いわゆる「虫」以外に種々の意味がある。たとえば,『広辞苑』には,

潜在する意識,ある考えや感情を起こすもとになるもの,古くは心の中に考えや感情を引き起こす虫がいると考えていた(「ふさぎの虫),
癇癪
愛人,情夫,隠し男,
陣痛,
あることに熱中する人(「本の虫」),
ちょっとしたことにもすぐにそうなる人,あるいは,そうした性質の人をあざけっていう語(「弱虫」「泣き虫」),

等々。だから,

虫がいい,
虫がおさまる,
虫が齧(かぶ)る,
虫が嫌う,
虫が知らせる,
虫が好かない,
虫が付く,
虫の居所が悪い,
虫が取り上(のぼ)す,
虫を起こす,

等々,多様な言い回しがある。『江戸語大辞典』には,「虫」の項で,

腹の虫,癇癪の虫,
隠し男,

の意味しかのらない。『大言海』には,

俗に,こころ,考え,料簡,

の意味のところで,

「悪い蟲」「蟲がいい」「腹の蟲」「蟲のゐどころ」「蟲がしらせる」

と例を挙げて,こう載せる。

「蟲がつくとは,わかき女に情夫の出来る等,蟲の寄生する如く,害になる者のつくを云ふ。蟲ガ承知セヌとは,癪にさわりて,堪忍出来ぬ意。蟲ヲ殺スとは,癇癪をおさふ。立腹の心を抑へる。蟲ノイキとは,たへえだえの息。将に絶えんとする呼吸。…蟲ノイイとは,自分の都合よきこと,自分勝手。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%AB

には,

「日本では《三尸の虫》(さんしのむし)というものの存在が信じられた。これは中国の道教に由来する庚申信仰(三尸説)。人間の体内には、三種類の虫がいて、庚申の日に眠りにつくと、この三つの虫が体から抜け出して天上に上がり、直近にその人物が行った悪行を天帝に報告、天帝はその罪状に応じてその人物の寿命を制限短縮するという信仰が古来からあり、庚申の夜には皆が集って賑やかに雑談し決して眠らず、三尸の虫を体外に出さないという庚申講が各地で盛んに行われた。」

とあり,「人々は人の体内に虫がいると信じそれがさまざまなことを引き起こすという考えを抱いていたので」,

虫の知らせ,腹の虫,腹の虫が治まらない,虫の居所が悪い,虫が(の)いい,虫が(の)好かない,獅子身中の虫等々の言い回しがされた,と。

三尸.jpg

(人の腹の中に棲むと信じられた虫)


たとえば,「虫のしらせ」の項で,『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/mu/mushinoshirase.html

は,

「虫の知らせの『虫』は、古く、人間の体内に棲み、意識や 感情にさまざまな影響を与えると考えられていたもので、潜在意識や感情の動きを表す。『虫がいい』『腹の虫が治まらない』などの『虫』も、この考えから生じた語である。これら『虫』のつく語の多くが悪い事柄に用いられるのは,生まれた時から人体に棲み。人の眠っているすきに体内から抜け出して,その人の罪悪を天帝に知らせるという道教の『三尸(さんし)・三虫(さんちゅう)』に由来するためと考えられる。」

とする。ちなみに,「三尸」とは,正確には,

「中国,道教において人間の体内にいて害悪をなすとされる虫。早く,晋の葛洪の《抱朴子》には,人間の体内に三尸がおり庚申の日に昇天し司命神に人間の過失を報告して早死させようとすると記す。くだって,宋の《雲笈七籤》所収の《太上三尸中経》では,三尸の上尸を彭倨,中尸を彭質,下尸を彭矯と呼び,この三彭は小児や馬の姿に似,それぞれ頭部,腹中,下肢にあって害をなす。庚申の日,昼夜寝なければ三尸は滅んで精神が安定し長生できると記す。」(『世界大百科事典 第2版』)

「庚申」とは,

「庚申の日に、仏家では帝釈天たいしやくてん・青面金剛しようめんこんごうを、神道では猿田彦を祀まつって徹夜をする行事。この夜眠ると体内にいる三尸の虫が抜け出て天帝に罪過を告げ、早死にさせるという道教の説によるといわれる。日本では平安時代以降、陰陽師によって広まり、経などを読誦し、共食・歓談しながら夜を明かした。庚申。庚申会。」

で,これを「庚申待ち」と呼ぶらしい。「眠っている間」と上記『語源由来辞典』がいうのは,

「庚申(かのえさる)の日の夜眠ると、そのすきに三尸(さんし)が体内から抜け出て、天帝にその人の悪事を告げるといい、また、その虫が人の命を短くするともいわれる。村人や縁者が集まり、江戸時代以来しだいに社交的なものとなった。庚申会(こうしんえ)。」

という意味のようだ。念のため,「三尸」とは,

「三尸(さんし)とは、道教に由来するとされる人間の体内にいると考えられていた虫。三虫(さんちゅう)三彭(さんほう)伏尸(ふくし)尸虫(しちゅう)尸鬼(しき)尸彭(しほう)ともいう。
60日に一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われた。一人では夜あかしをして過ごすことは難しいことから、庚申待(こうしんまち)の行事がおこなわれる。
日本では平安時代に貴族の間で始まり[1]、民間では江戸時代に入ってから地域で庚申講(こうしんこう)とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待をする風習がひろまった。」

と,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B0%B8

に詳しい。ついでながら,吐き気がするほど不快である,という意味の,

虫唾が走る,

の「むしず」は,

虫唾,
虫酸,

と当てるが,

溜飲の気味で,胸のむかむかしたとき,口中に逆出する胃内の酸敗液,

のこと。「虫酸が走る」は,そういう状態表現が転じて,忌み嫌うという,価値表現になったということになる。これも「虫」のせい,ということになる。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/mu/mushizu.html

は,「むしず」の語源は,

「胃の中にいる寄生虫が出す唾液と考えた『虫の唾』とする説と,寄生虫による酸っぱい液なので『虫の酸』とする説がある」

としている。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%AB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B0%B8
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2017年06月19日

歩く


「歩く」は,

あるく,

と訓むが,

ありく,

とも訓む。「あるく」は,いわゆる,

一歩一歩踏みしめて進む,

つまり,歩行する意だが,「ありく」は,

あちこち移動する,

意であり,『広辞苑』によれば,

「人間以外のものの動作にも用い,乗物を使う場合もいう。平安女流文学で多く使われ,万葉集や漢文訓読体では『あるく』が使われる」

とある。『岩波古語辞典』は,

「あちこち動きまわる意。犬猫の歩きまわること,人が乗物で方々に出かけてまわることにもいう」

とあるので,「あるく」に比べ,視点が上がって,つまり概念化された言葉に見える。

歩行する意では,

歩む,

とあてる「あゆむ」という言葉がある。『広辞苑』には,

「アは足,一説に,ユムは(教える意)の転か」

とある。やはり「あるく」意である。『岩波古語辞典』には,

「馬や人が一歩一歩足を運んでゆく意。類義語アリキ・アルクは乗物を使うこともあり,あちこち動きまわる意」

とある。

あゆむ→あるく→ありく,

と,足の運びから,動きまわる意へと,と視点が広がっていく,ということになる。

『大言海』には,「あゆむ」は,

「足數(アヨ)ムの轉なるべし。されば,アヨムとも云ふなり(眉(まゆ),まよ。足結(あゆひ),あよい。歩(あゆ)ぶ,あよぶ。揺(あゆ)ぐ,あよぐ)」

とあり(「數(よ)む」とは。数える意),「ありく」は,

「足(アシ)繰(クリ)行クの約略なるべし(身まくほし,見まほし。少なき,すなき。かくばかり,かばかり)。…或は,足(アシ)揺(ユリ)行クの約略とも見らる。アユムとも云ふナリ。アルクと云ふは,普通なり。(栗栖(くりす),くるす,白膠木(ぬりで),ぬるで)。アリク,アルクの二語,同時に,並び行われたるやうなれど,本居宣長は,アリクは後なりと云へり。尚,考ふべし」

と,書く。「ありく」が,女流文学で,意識して訛らせたということであろうか。しかし,『日本語源大辞典』は,「ありく」「あるく」について,

「上代には,『あるく』の確例はあるが『ありく』の確例はない。それが中古になると,『あるく』の例は見出しがたく,和文にも訓読文にも「ありく」が用いられるようになる。しかし,中古末から再び『あるく』が現れ,しばらく併用される。中世では,『あるく』が口語として勢力を増し,それにつれて,『ありく』は次第に文語化し,意味・用法も狭くなって,近世以降にはほとんど使われなくなる。」

とある。「ありく」と「あるく」を区別することは,あまり意味がないのかもしれない。むしろ「あるく」「あゆむ」が使われてきたことから,その語源を『日本語源広辞典』は,「あるく」「ありく」「あゆむ」の「ア」は,「足」としている。これは,『広辞苑』も『大言海』も同じようだ。ただ,『岩波古語辞典』は,「あ(足)」で,

「アの音せずに行かむ駒かも」

という万葉を引用して,

「『足占(あうら)』『足結(あゆひ)』など,多く下に他の語を伴って複合語をつくる」

とある。「足掻き」もその例だろう。

『日本語源大辞典』の「あるく」の語源説をみると,

アユミユキ(歩行)の約(菊池俗言考),
アユク(動)。ア(足)にルがついてカ行に活用したものか(日本語源),
アシユク(足行)の義(名言通),
アは(足),ルはカルキ(転)から(和句解),

と,「あ(足)」の活用と見るか,「あゆむ」の転訛とみるか,ということだろうか。「あゆむ」の語源は,

アヨム(足數・足読)の転(和句解・菊池俗語考),
アユマヒ(足緩)の義(和訓栞),
アシユフ(足結)の略(和語私臆鈔・本朝辞源),
アシユルキ(足動)の略(両京俚言考),

と,やはり,「あ(足)」からどう転訛させるか,かれこれ思案している。『日本語源大辞典』は,「ありく」についても,語源説を挙げている。

アリキは有来,すなわち来アルという意から転じたもの(日本古語大辞典),
アタリユク(足繰行)の約略(本朝辞源),
アリユク(有行)の義(和句解),
アは足,リはカヘリ,クはユク・クルのクか(和句解),

結局,当初「あるく」だったとすれば,その語源から考えるしかない。「あゆむ」が,先かどうかはどこにも言及がないが,「あ(足)」が,

繰る,
のか,
行(ゆ)く,

のか,足の運びの視点の持ち方を見れば,いずれも,解けそうな気がするのだか。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)


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2017年06月20日

いつくしむ


「いつくしむ」は,

慈しむ,

と当てる。『広辞苑』には,

「動詞イツ(傅)クから」

とある。「いつく」には,

斎く,

と当てるものと,

傅く,

と当てるものとがある。「傅く」は,

斎く,

の転とある。意味は違い,

大切にかしずく,大事に世話する,

である。「斎く」は,「斎宮」の「斎く」で,

身心の穢れを浄めて神に仕える,

意味である。「いつくしむ」の元は,『大言海』によると,

「形容詞の美麗(イツク)しの終止形を活用せしめたる語。イツクシブとも云ふ。音通なり(怪(あや)し,あやしむ,あやしぶ。悲し,かなしむ,かなしぶ)。美麗(いつく)しきものは,慈愛(いつく)しく思ふなり。又,うつくしむ(慈愛)と云ふごあり,全く同義にて,音通なり(抱く,うだく,偽る,うつはる)」

で,

愛づ,かはゆがる,

という意である。「いつくし」をみると,二項あり,

いつくし(厳然),

は,「おごそか」という意味で,

「斎くの終止形を活用せしめたる語なるべし(和(な)ぐ,なぐし)。斎くより厳かなる意に移れりと思はる」

とあり,「うつくし」「うねわし」の意の,

いつくし(美麗),

は,

「前條のおごそかなる意より転じたるならむ。親愛(うるは)しの,友善(うるは)しとなるが如し。此の語,音を転じて,美(うつく)しともなる。」

とある。で,「いつく」をたどると,

斎く,
傅く,

とあり,「斎く」は,

「イは,斎(い)むの語幹(斎垣(いみがき),いがき,斎串(いみぐし),いぐし)。ツクは,附くなり,カシヅクと同じ。斎(い)み,清まりて事(つか)ふる意」

で,「傅く」は,

「前條の,神に云ふ語の,愛護の意に移りたるなり。集韻『傅,音符近(ちかづく)也』説文『相(たすく)也』」

と載る。『広辞苑』もほぼ同じで,「いつくし」に,

慈し,
厳し,
美し,

と当て,意味は,

神意がいかめしい,また,威厳がそなわっている,

という意味で,そこから,

品があって,うつくしい

へと広がったようだ。つまり,下から,上へ崇めていた視線が,ほぼ180℃転倒して,上から,下へ,尊崇から,愛護へと転じたということになる。そして,ついには,美しい,という価値表現へとシフトしたことになる。

この転換の経緯は,『岩波古語辞典』に,

「もともと慈愛の意はウツクシミといったが,形容詞ウツクシが肉身的愛情のある意から,美しいという意を表すように転じたため,ウツクシミと慈愛との結びつきがむづかしくなった。そこへ,イツキという語が,斎戒・奉仕する意から,大切に養育する意に転じて来た結果,ウツクシミとイツキが混合してイツクシミという語が室町時代に生じた。」

とある。「斎児(いつきご)」という言葉があり,

大事に育てている子,

という意味である。恐れ畏んで,仕える対象が,威厳のある者から,その関連する者にシフトし,やがて,相手が,180度転倒していく,ということになる。

「いつ(稜威・厳)」は,

「自然・神・(神がこの世に姿を現した)天皇が本来持つ,盛んで激しく恐ろしい威力。激しい雷光のような威力。イチシロシイ・イチハヤシのイチは,このイツの転」

とある(『岩波古語辞典』)。

『日本語源大辞典』によると,

(いつくしむは)「ふるくは『うつくしむ』であったが,中世末ごろ,『いつくしむ』が生じた」

とある。

いつくし→うつくし,

へと転じたことから,「うつくしむ」を「うつくし」との区別のために,「いつくしむ」と転訛させたのではないかと想像される。

もともと,「いつ(厳)」から派生し,

「本来は神や天皇の威厳を示す意であり,平安朝においても皇族に用いられた例が多い。室町時代以降,『大切にする』意の『いつく』や慈愛の『うつくし』との混同が生じ,更にそれが進むと『いつくしむ』という動詞まで派生し,逆に本来的な霊威の概念は後退する。」

とある。

いつく→いつくし→うつくし→いつくし(慈し),
いつく→いつくし→うつくし(美し)

と,意味に合わせて変化したということになる。漢字を立てる書き言葉でなくて,口語であれば,転訛させなければ,意味が伝わるまい。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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