2017年07月01日

お茶の子


「お(御)茶の子」は,例の,

お茶の子さいさい,

の「お茶の子」である。『広辞苑』には,

茶の子,御茶菓子,また間食としてとる軽い食事,
(腹にたまらないところから)たやすくできること,

と意味が載る。前者の意味から,後者へ転じたということなのだろうか。ちょっとこじつけっぽくて,しっくりこない。『岩波古語辞典』には,「茶の子」として,

茶うけ,
彼岸会や法事の供物または配り物,
物事の容易なたとえ,お茶の子とも,

と意味が載る。『江戸語大辞典』には,

茶の子の丁寧語。茶の子が腹の足しにならぬことから転じて,物事の容易・簡単なことのたとえ,

と載る。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/o/otyanoko.html

も,

「おちゃのこさいさいの『お茶の子』とはお茶に添えて出される茶菓子のことで,簡単に食べられることから簡単にできる喩えになった。また朝食の前に食べる『茶粥』のことを『お茶の子』と言う地方があり,そこから『朝飯前』の意味になったとする説もある。『さいさい』は,俗謡の『のんこさいさい』という囃し言葉をもじったものである。」

とするが,やはり『大言海』の説明が,意を尽くしている。

茶うけ菓子。點心,
朝茶子と云ふは,朝食に,茶粥を用ゐることなるべし,略して,チャノコとも云ひ,朝飯のこととす(今,静岡縣にては,朝飯をアサジャとも,チャノコとも云ふ)
朝の空腹に粥なれば消化(こな)れやすく,腹にたまらぬ意よりして,容易(たやす)きこと,骨折らずできること,又,朝腹の茶の子と云ふ諺も,容易なる意に云ひ,お茶の子などとも云ふ,

と。「茶の子」が「お茶うけ」では,

容易,

という意味にはつながらない。

茶うけ→朝茶子(朝粥)→たやすい,

なら,少し意味が流れる。だから,「お茶の子」は,

「お菓子のこと。お菓子は腹に残らないことから、容易にできること、たやすいことをいう。」(「とっさの日本語便利帳」)

では,意味が飛躍しすぎる。「お茶うけ」は,腹にためるものではない。

腹にたまらない→たやすい,

と転じるには,

お茶うけ→朝茶子(朝粥)→腹にたまらない→たやすい,

と,もう一つ意味の拡大を挟んでいたのではあるまいか。あるいは,『隠語大辞典』に,

間食のことを茶の子といったので手軽な食,

ともあるので,間食も含めた,

お手軽食,

という意味から,たやすい,という意味に転じたというふうにも見られる。

お茶うけ→朝茶子(朝粥)あるいは手軽な間食→腹にたまらない→たやすい,

と,その手軽さが,たやすさへとシフトした,ということなのかもしれない。

『日本語源大辞典』には,

「朝食前,起きぬけにとる間食をオ茶ノ子と言うので,朝飯前の同義語としていう」(日本古語大辞典)

と言う説を載せている。つまり,ただの間食ではなく,

朝飯前の起きぬけの食事,

ということだから,正確には,

お茶うけ→朝茶子(朝粥)→腹にたまらない→たやすい,

の流れに,「朝飯前」という意味が重なる。それが,たやすいという意味と直接的につながっていく。

『日本語の語源』は,

オチャヅケノゴハン(お茶漬けの御飯)→オチャノコ(お茶の子),

と変化したという説を載せる。これを取るなら,もともとあった,

お茶の子,

とは別に,起きぬけの朝粥(あるいは茶漬け)を略して「茶の子」と言うようになった流れがあり,「お茶の子」に二重の意味が重なったのではないか。つまり,

お茶漬けの御飯→お茶の子,

が,本来の「お茶の子さいさい」の原点なのだが,それに,もともとあった,「茶うけ」の「茶の子」と重なった,というように。『日本語源広辞典』は,

「お茶の子(農民の朝飯前の代用食)+サイサイ(囃し言葉)」

と,よりクリアに,「お茶の子さいさい」の「お茶の子」の出自を明確化している。まさしく,

朝飯前,

なのだ。だから,たやすい意とつながる。これに「茶うけ」の「茶の子」の意味が重なったほうが言葉の陰翳は深まるような気がする。

当然,「お茶の子さいさい」の「さいさい」は,囃し言葉で,

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q118231596

に,

「『よいよい』とか『おいおい』のように、はやすときにつかう言葉なんです。」

と,あるいは,

http://www.asahiinryo.co.jp/entertainment/zatsugaku/japanesetea02-1.html

に,

「民謡などの囃子である『さいさい』

とある。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)


ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
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2017年07月02日

国衆


鈴木将典『国衆の戦国史』を読む。

国衆の戦国史.jpg


「国衆」とは,

「戦国時代に一定の領域(おおむね一郡から数郡程度)を支配した領主」

を指す。現代の学術用語では,

戦国領主
地域領主,

と呼ばれる。多くは,

「戦国大名の傘下に入ることで家の存続を図り,もし戦国大名が弱体化するなどの理由で,家の存続が保障されなくなった場合は,他の戦国大名に従属したり,複数の戦国大名に『両属』したりすることもあった。」

とされる。本書では,徳川家康の例を挙げて,

「家康は西三河を支配する国衆・松平氏の惣領家(安城松平氏)に生まれたが,父の松平広忠(1526~49)が駿河の戦国大名今川氏に従属したことにより,人質として今川氏の下に送られ,成人後は今川義元(1519~60)から『元』の偏諱(実名の一字)を与えられて『元信』(後に『元康』)と名乗った。
 しかし,永禄三年(1560)五月に義元が尾張・桶狭間(名古屋市緑区・豊明市一帯)で戦死し,今川氏の勢力が衰えると,家康は今川氏から独立して他の国衆たちを従属させ,三河を制圧して永禄九年(1566)に『徳川』へと改姓し,戦国大名化を果たしている。」

本書は,遠江の国衆の戦国時代の興亡を描く。「遠江」とは,「うみ」

http://ppnetwork.seesaa.net/article/448421529.html

で触れたように,琵琶湖が,

「都から近い淡水の海として近淡海(ちかつあふみ、単に淡海とも。万葉集では『淡海乃海』(あふみのうみ)と記載)と呼ばれた。近淡海に対し、都から遠い淡水の海として浜名湖が遠淡海(とほつあふみ)と呼ばれ、それぞれが『近江国(おうみのくに、現在の滋賀県)」と遠江国(とおとうみのくに、現在の静岡県西部)の語源になった。別名の鳰海(におのうみ)は、近江国の歌枕である。」

とある。「遠江」を,

とおとおみ,

と呼ぶのは,浜名湖が遠淡海(とほつあふみ)と呼ばれていたことに由来する,現在の静岡県西部(大井川以西)を指す。端緒は,

「文明五年(1473)に駿河の今川義忠(1436~76)が遠江へ侵攻したのが始まり」

で,

「天正十年(1582)三月に甲斐の戦国大名武田氏が滅亡したことによって,遠江は徳川氏と武田氏が争う『境目』(紛争地域)の状態から解放され」

で,終る。全国的には,

「戦国時代は,天正十八年(1590)に秀吉が関東・奥羽の戦国大名を従属させて,『天下一統』を成し遂げた」

時に終る。この間百年余,

今川,
北条,
武田,
徳川,

という戦国大名に翻弄され,あちらにつき,こちらについて,生き残りを図り続けた。今話題の大河ドラマの「直虎」の井伊谷は,三河と接する地域で,まさに,今川,徳川,更に武田に翻弄され続ける。

本書では,「直虎」について,「次郎直虎」と署名し,花押を据えている書状等々から,

「『次郎法師』と『二郎』『井次』『次郎直虎』が同一人物であることは確実だろう。だが,戦国時代に女性が花押を用いた例はなく,…寿桂尼(今川氏親の後室)のように,印判を用いて仮名書きの文書を発給するのが一般的である。また,直虎が女性であったことを示す証拠は,後世の系図や『井伊家伝記』のような編纂物に基づいており,逆に同時代の史料ではまったくみられない。」

と否定的である。そして,

「直虎は永禄十一年(1568)十二月に(徳川の侵攻を受けて)本拠の井伊谷を追われ,後に直政が徳川家康の家臣に取り立てられて再興を果たしたが,『国衆』としての井伊氏は没落している。」

ということになる。

井伊直政.jpg

(井伊直政)


では家康に与し本領を安堵された他の国衆はどうなったのか。

「天正十八年(1590)七月に家康は羽柴(豊臣)秀吉によって関東へ転封され,徳川氏に従属する国衆たちも本領を離れたことによって,家康から領地を与えられる家臣(大名・旗本)として転身せざるをえな」

くなる。この背景には,

「国衆に対する豊臣政権の政策があった。近年の研究によれば,大名に従属しながら自立的に領域を支配する領主(国衆)の存在を秀吉は認めず,以下の三つの選択肢を彼らに強いたとされる。
 ①豊臣政権に直接従属して,秀吉から領地を安堵される存在(豊臣大名)になる。
 ②豊臣大名の家臣になる。
 ③豊臣政権に従わず,改易される。」

豊臣大名に成れたのは,真田昌幸などわずかであり,ほとんどの国衆は,家臣として生き残るか改易されるかの選択を迫られた。

「そもそも『国衆』という存在は,日本全国で起こった戦乱の中で,地域の平和を維持する『秩序』として成立したものであった」

以上,「天下一統」され,戦国時代が終るとともに,消滅せざるを得なかった,ということだろう。それにしても,戦国時代は,面白い時代であったということだろう。

参考文献;
鈴木将典『国衆の戦国史』(歴史新書y)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E6%94%BF

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2017年07月03日

太宰治


太宰治『太宰治全集』を読む。

太宰治.jpg


何十年ぶりかに,太宰を読み直した。Kindle版で,簡単に手に入るようになったせいだ。かつて,なぜあんなに熱中したのか,と不思議な気持ちで読み通した。正直,

つまらない,

と感じた。

文学としての巧拙は知らない。しかし,いつも同じテーマが通奏低音のように流れる。言い方が悪いが,それは,

言い訳,
あるいは,
弁解,

に見える。というか,それを意識してテーマとして書いている,と見えた。あるいは,

生きている理由,

を捜す,という言い方でもいい。ただ,良さは,

自己正当化,

には堕していない,というところだと思う。少し乱暴な言い方をするなら,通底する弁解は,ときに,

諧謔,

ときに,

被虐,

あるいは,

衒学,

となる。それは自分との距離の取り方に起因する。たぶん,おのれの生き方,あり方については,疑い,狐疑逡巡するが,

筆の世界,

つまり,書かれた小説世界には,揺れ動くおのれとの距離をとりつつ,それを描く世界そのものへの確信は揺るぎはないように見える。

自分

それへの距離の取り方,

それを描く作品世界,

とのバランスで成り立っていた,と見える。それが,

自分自身か,
おのれとの距離の取り方か,
それを描く世界か,

そのいずれかに僅かな齟齬が生まれれば,たちまち崩れる危うさ,でもある,と見える。

ヴィヨンの妻,

斜陽,

走れメロス,
も,
竹靑,

魚服記,
も,
人間失格,
も,
グッド・バイ,
も,

同じテーマだ。同じ事件(といっていいか),経験を,異なる視点から,たぶん,しっくりこないのだろう,いろいろ書き直す。その筆力には驚くが,今日読み直して,僕には,今に堪えうるものは,どれほどだろうか,と疑問に思う。

いま,手許に唯一残っているのは,新書版の太宰全集(筑摩書房)第一巻のみだが,その『晩年』で,その巻頭の「葉」のエピグラフに,ベルレーヌの,

選ばれてあることの
恍惚と不安と
二つわれにあり,

がある。太宰を象徴するフレーズだとずっと思ってきた。この『晩年』に出会ってしまって,僕の小説観が歪んでしまったと常々思ってきた。しかし,いま思うのは,自惚れと自嘲との振れ幅,自己意識の振り子に堪えきれず,煩悶するというのが,正しいのかもしれない。

有名かどうか知らないが,『川端康成へ』と題された文章は,ある意味太宰の煩悶を象徴するように見える。

「前略。――なるほど、道化の華の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった。」

という川端康成の,(たぶん芥川賞の)選評に,太宰は,異常に反応し,川端を罵倒する。

「川端康成の、さりげなさそうに装って、装い切れなかった嘘が、残念でならないのだ。 こんな筈ではなかった。 たしかに、こんな筈ではなかったのだ。 あなたは、作家というものは『間抜け』の中で生きているものだということを、もっとはっきり意識してかからなけれ ばいけない。」

ここで問題になっている,『道化の華』を壇一雄が,

「これは、君、傑作だ、どこかの雑誌社へ持ち込め、僕は川端康成氏のところへたのみに行ってみる。川端氏なら、きっとこの作品が判るにちがいない、と言った。」

ということで,事前に川端が目を通していた経緯があるなのか,太宰の私生活をあてこすっていると受けとめたのか,いずれにしても,太宰は,川端の一文に,異常な反応をした。この『道化の華』は,

「三年前、私、二十四歳の夏に書いたものである。『海』という題であった。友人の今官一、伊馬鵜平に読んでもらっ たが、それは、現在のものにくらべて、たいへん素朴な形式で、作中の『僕』という男の独白なぞは全くなかったのでのである。物語だけをきちんとまとめあげたものであった。 そのとしの秋、ジッドのドストエフスキイ論を御近所 の赤松月船氏より借りて読んで考えさせられ、私のその原始的な端正でさえあった『海』という作品をずたずたに切りきざんで、『僕』という男の顔を作中の随所に出没させ、日本にまだない小説だと友人間に威張ってまわった。」

という。太宰としては技巧を駆使した作品だ,という。僕は,この,何回か素材として使われる,例の心中未遂を素材にした,この作品を,傑作とは思えず,どこか,

後ろ暗さ,

というよりも,言い過ぎかもしれないが,

薄汚さ,

を感じた。川端の感じたものが同じかどうかは知らない。しかし,ここでは,

言い訳,

は,あるいは,

正当化,

の翳を感じた。たぶん,むかしは,熱中した彼の作品に,好意よりは,嫌悪を感じ始めているのは,太宰ではなく,いまの自分を反映している。若いときにおのれの写し鏡のように受け取った太宰は,いま,同じ写し鏡でも,厭うべき何か,のようだ。たぶん,それが,老いる,ということなのだろう。

太宰よりも倍生きたせいか,太宰の身もだえが,滑稽に見える。いま,若い人にとって,太宰はどう読まれるのだろうか。

参考文献;
太宰治『太宰治全集』Kindle版


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2017年07月04日

一人称


第85回ブリーフ・セラピー研究会 定例研究会「社会構成主義の理論と実践~ナラティヴとオープンダイアローグを通して」(野村直樹先生・田中ひな子先生)に参加してきた。

事前の案内には,「講師からのメッセージ」として,

「デカルトから350年、グレゴリー・ベイトソンによって新しい科学の輪郭が示されました。ベイトソンによる改革は、①自然を生きたものとして捉える、②心と身体を一体に捉える、③観察者を内部から観測する者として捉える、に集約されます。
それまでの直線的思考(合理性)だけでは不十分でした。自然も人と人との関係や成り立ちも円環的・循環的な因果律によって作動し維持されている(生きている)からです。それらはコミュニケーションによってつくられ進化していくものです。
また、それまでの科学では観察者を無関係な第三者として切り離して捉えていましたが、ベイトソンは事象の外に位置づけられていた観察者を事象の内側に戻しました。
ベイトソンによってもたらされた新しいパラダイムが、ファミリーセラピーと交わったところで「ナラティヴ・セラピー」が生まれ、ロシアの文芸理論家ミハエル・バフチンの対話主義と交わったところで「オープンダイアローグ」が生まれました。」

とある。デカルトからベかイトソンへの転換は,ある意味,量子力学への転換と軌を一にしている。そこに,客観的世界を観察する位置に安住できない,という意味でもある。デカルトが,

個を主体とする文法,

であり,

分割可能であり,
測定可能であり,
集約可能であり,

操作可能な対象として客観的に眺めることができ,直線的な因果関係を描ける世界である。しかし,量子の世界は,たとえば,

「二つの電子を選ぶ。電子にもまた内部構造がなく、粒子としてふるまうときは点のごとくふるまうのだが、スピンしている。電子は2回転して初めて元の状態に戻るような量子であるため、1回転では『半分』まで戻るという意味で『スピン』とよばれている。…スピンの電子の『自転軸』には『上向き』と『下向き』の 二つの方向がある(前者 を『スピン・アップ』、後者を『スピン・ダウン』とよぶことにする)。実際に、相関をもって いて100兆㎞離れた電子Aと電子Bとからなる系に測定器をかけて、それぞれの電子の状態を測定してみるとどうなるだろうか。たとえば、測定器を電子Aに向けた結果、電子Aのスピンがアップであると測定されたとする。電子Aがスピン・アップと観測されたその瞬間(そう、まさにその瞬間、ゼロ秒間で!)、100 兆㎞離れた場所にある電子Bのスピンは自動的に(観測することなしに!)スピン・ダウ に決定する。相関をもつ( つまり、もつれた)二つの電子の合計スピンは、必ずゼロにならなければならないからだ。」(ルイーザ・ギルダー『宇宙は「もつれ」でできている』)

のように,アインシュタインの特殊相対性理論に反して,電子Aの測定結果が100 兆㎞離れた電子Bに,光の速度=秒速30万㎞3・3 億秒( 約10年)ではなく,瞬時に届く。ここには従来の因果論は通用しない。

それに対して,ベイトソンは,

関係性の文法,

であるという。そのベイトソンの特徴は,

双方向性とコンテキストがキーワード,

という。例示として出されていたのは,

A(なじる)→B(引きこもる)→A(なじる)→B(引きこもる)…

の連鎖である。ここには,部分を切れば,

A(なじる)→B(引きこもる)

Bの原因がAに見えるが,切り方を変えると,

B(引きこもる)→A(なじる)

と,因果が逆になる。これを円環的因果という。この双方向性は,よく分かる。コミュニケーションを考えた時,たとえば,

(自分)の発話の意味は受け手の反応によって明らかになる,

という。このとき,相手の言ったことをちゃんと聞いていないとか,その反応は誤解とかというのは,自分が話したことをそのまま正確に受け取ることを前提にした言い方になる。そういう会話は,一方通行でしかない。双方向という以上,話し手のいった意味を受けて受け手が何かを理解して返す,そのとき,話し手の言った中味のどこかに焦点が当たるのかもしれない,あるいは微妙に含意を変えるのかもしれない,あるいは,あくいにとるかもしれない等々。まったく違えば,修正のやり取りが入るが,そうでなければ,その微妙な違いによって後続の会話はシフトしていく。この時,自分の発話した意味にこだわれば,会話は成り立たない。

そして,コンテクストとは,この円環的につながったものそのものを言う。何気ない会話でもそうだが,相手の返す瞬間から,両者の言語空間は,ひとつの世界となっていく感じがする。

いまの生物学の世界には,ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した

環世界,

という考え方があるそうだ。

「普遍的な時間や空間(Umgebung、「環境」)も、動物主体にとってはそれぞれ独自の時間・空間として知覚されている。動物の行動は各動物で異なる知覚と作用の結果であり、それぞれに動物に特有の意味をもってなされる。」

だから,

生物はそれぞれに適した環境で,「環世界」を形づくり生活圏とする,

環境一般があるのではなく,人には人の環世界があり,犬には犬の環世界がある。人も,自分の独自の環世界をもつ。この環世界に穴をあけるのがダイアローグ,だという。思い当たることがある。たしか,ウィトゲンシュタインだと思うが,

ひとは持っている言葉によって見える世界が違う,

と言った。言葉を持つことで,その言葉の持つ世界を手に入れる。かつて,日本には,色はなかった。

明るい,

暗い,

しかなかった。「あか」は明るい,であり,「くろ」は,暗いである。「赤」「黒」という言葉を手にして,色を見た。そういう意味だと思っていた。
しかし,同時に,個別に見ると,「赤」で見ている色は,朱なのか,オレンジなのか,柿色なのか,区別はつかない。大袈裟に言えば,それぞれの環世界の中で,自分の「赤」を見ているからだ。その意味では,コミュニケーションを通して,上記のように,見ている世界をすり合わせることで,世界が共有されていく。

これをナラティヴと呼ぶなら,

セラピストもまた,この会話の当事者として,語り手の相手になった,

ということになる。デカルトの文法の世界が,

三人称,

であるなら,ここでは,互いが,

一人称,

であり,相互に,

ダンス,

のように,シンクロする協働世界,ということになる。ふと,フランクルが,

人はだれでも語りたい自分の物語を持っている,

といったのを思い出す。その視点では,語り手も聞き手も対等であり,お互いに,

いま,ここ,

の会話世界を築くことになる。思えば,ナラティヴ・セラピーの方法のひとつ「問題の外在化」とは,自身の問題を,

デカルト文法処理,

をすることで,三人称で語る客体として,観察可能にするということになろうか。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E4%B8%96%E7%95%8C
ルイーザ・ギルダー『宇宙は「もつれ」でできている-「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか』(ブルーバックス)

ホームページ;
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今日のアイデア;
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2017年07月05日

はずかしい


「はずかしい」は,

恥ずかしい,

と当てるが,「恥」の項,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/424025452.html

で触れたように,

「端+づ」

で,

で,中央から外れている,末端にいる劣等感,

であり,他者との対比した上での゜感情だから,視点が外から自分を見る目線である。だから,『広辞苑』にあるように,

①自分の至らなさ・みっともなさを感じてきまりが悪い,
②相手が立派に見え,自分は劣っていることを感じ気おくれがする,
③こちらが恥ずかしくなるほど相手がすぐれている,
④何となく照れくさい,

は,そう思わせる対象があり,それとの比較で,自分をみている。だから,②③が先で,①の自分の感情に焦点が移り,④で意味が一般化する,という感じなのではあるまいか。今日では,どちらかというと,自分自身の価値基準に照らして,自らを恥じるという感じであるが,語源は,比較対象があるのではあるまいか。

『岩波古語辞典』には,

「ハヂ(恥)の形容詞形。自分の能力・状態・行為などが,相手や世間一般に及ばないという劣等意識を持つ意」

とある。つまり,「恥」という言葉がもっているような価値とのずれへの気恥ずかしさではない。

中央から外れている,末端にいる劣等感,

は,あくまで主観的なものにすぐない。だから,

(自分の至らなさ,みっともなさを思って)気が引ける,

となるし,逆に,

(相手を眩しく感じて)気後れする,

結果として,

照れくさい,

という意味になる。似た言葉に,「きまりが悪い」「ばつが悪い」がある。これは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/447042378.html

で触れたように,「きまりが悪い」は,

(人前で首尾よくつくろうことができない意から)面目が立たない,また何となく恥ずかしい,

という意味になるが,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/447011970.html?1487105192

で触れた「ばつ」が

結末,つじつま,

の意であったと似て,「きまりが悪い」も,

何かから外れている,

という含意になる。つまり,「はずかしい」とは違って,「ばつが悪い」「きまりが悪い」は,外の基準や転結との辻褄が合わない,という意味で,その「恥ずかしさ」は,主観的ではなく,外から見て,体裁の悪さを表している意となる。まさに,外から見て,

体裁の悪さ,

を示す。「照れくさい」も,「きまりが悪い」に通じて,その場や空気にそぐわない,という外からの目線である。「やましい」は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/438313402.html

で,「後ろめたい」は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/446280489.html

で触れたが,いずれも,主観的な意識だが,「恥」とは違い,何かと比較するというよりは,自身の内面の不安や心のざわめきで,どちらかというと,自分の中の葛藤である。

「はにか(含羞)む」は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/446346108.html

で触れたが,

「歯+に+噛む」

で,遠慮がちに恥ずかしがる様子が,歯に物をかむようなので,はにかむというらしい。恥じている顔の状態表現から来ているので,ちょうど「はずかしい」が,自分を他者と比較する眼から恥じているのに対して,恥じている本人を見る他人の表現が,自分の心情表現へと転じた感じてある。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
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2017年07月06日

小さな一歩


ユージン・ジェンドリン『セラピープロセスの小さな一歩』を読む。

セラピープロセスの小さな一歩.jpg


本書は,フォーカシングの創始者ジェンドリンの,

「セラピープロセスの小さな一歩」(講演速記)
「体験過程療法」
「人格変化の一理論」

を,訳者でもあり,編者でもある池辺陽氏が,解説をつけた書である。本書の狙いを,池辺氏は,フォーカシングの技法についての翻訳はあるが,哲学者でもあるジェンドリンの理論書が,

『体験過程の意味の創造』

しかないことから,「本来,哲学者であり,理論家であるジェンドリンの技法だけが紹介され,その優れた理論が日本語になっていない」ことを惜しみ,訳者(池辺陽・村瀬孝雄)が,「歴史的と思われる」代表的論文を集約したと,「本書の特徴」で述べている。

小さな一歩とは,セラピストとクライエントとの間で起きる,

クライエントの変化,

を指している。ジェンドリンは,

クライエント・センタード・セラピーには,
あるリズムがあります。
まず初めに,クライエントが何か言います。
 あなたはそれを言い返すのですが,
 それはどこかはずれています。
 それからクライエントはそれを修正するのです。
 あなたは修正を受け入れ(言い返します)。
 それでも彼らは言います。
 「ええ,そう,…でもピッタリじゃない」
彼らは次の絞り込みを示してきます。
 あなたはそれも取り入れます。
 それから彼らは一息ついて,
 「そうです」といいます。
 
 そのあと独特の沈黙がそこにあります。
 その沈黙の中から次のことが浮かんできます。
 通常,次に浮かんでくることは,
 もっと深くなっています。
 あなたはそれをリフレクトし,
 また彼らはそれを修正します。
 あなたは修正を取り入れます。
 彼らはさらに特定の条件を加えます。
あなたはそれも取り入れます。
 再び一息ついて,そしてあの沈黙。

 あの沈黙はとても独特です。
 (中略)
 話そうと準備してきたものは,
 傾聴され,応答されました。
 もう話すことはなくなっています。
 にもかかわらず,その問題は感受できます。
もちろんそれは解決されていません。
あなたはそのその事柄の不明瞭な実感,
不明瞭な縁(edge)をもっています。
すぐそこに。
あなたはそれをからだで実感します。
言葉はそんなにいらないのです。
(中略)
 もしもセラピストという相手と一緒にいるときは,
 その沈黙の中にいてほしい。
 すぐそこに,
 不明瞭な実感から次のものが現れるまで。
 
 「フォーカシング」という言葉は,
 あの内面に感じられた縁に注意を向けるために時間をかける
 ということを意味します。
 それが沈黙の中で起こるとき,
次なるものが,そしてさらに,その次なるものが,
深いところから,さらに深いところから,
徐々に表れるのです。(「セラピープロセスの小さな一歩)

と,それを表現する。本書は,その沈黙を通過して,何が起きているのかを,明らかにしようとする試みといっていい。大事なことは,この一歩は,

相互作用のプロセス,

だということである。だから,

あの縁が一歩を生み出すのに必要なものは,
ある種の非侵襲的な接触,あるいは共にいることなのです。
(中略)
あなたがそこにいること,
それだけを必要としているのです。(仝上)

と。そのプロセスを,

体験過程(experiencing),

と名づけ,それについて,「体験過程療法」では,

「ある瞬間において人が感じることは,いつも相互作用的で,それは無限の宇宙や状況の中で他の人々や,言葉やサイン,物理的な環境や,過去,現在,未来の事象とのかかわりの中でのひとつの生きる過程である。体験過程は『主観的』でなく,相互作用的なのである。それは精神内的世界(intrapsychic)でもなく,相互作用的なのである。それは内側ではなく,内側-外側なのである。からだとこころと同じように,体験過程論は単に内側-外側のこの統一を主張しているのではない。それは気持ちに対しては内側の用語を使い続け,物事や人々に対しては外側の用語を使い続けるのではないのである。相互作用を示す言葉が基本であり,第一である。それは,あたかも外側で何かが起こって,それについての気持ちをということではない。むしろ,『起こる出来事』はすでに相互作用的なのである。それは人をすでに変えており,その人がなぜ,どのようにその状況にあるかが重要であるからこそ,それはその人にとって『出来事』なのである。ひとがどのように感じるかは,起こることの上にやってくる後の出来事ではなく,それは起こる出来事そのものなのである。(中略)出来事はひとがその出来事を生きる過程なのである。(中略)体験過程は常に内的に感じられ,状況的に生きられ,そしていつも相互作用として参照される。」

と述べられる。そして,

「このような一歩にはからだで感じられた継続性(bodily felt continuity)がある。(中略)からだのプロセスにおけるこの変化―内―継続の特徴(continuity―in―change characteristics)を突然の変化や変化がないことと区別するために,それを推進(carrying forward)と呼ぶ。
文化,歴史,思想や個人的生活の複雑さにもかかわらず,状況に対するからだで感じられた実感(フェルトセンス)(bodily felt sense)はこの過程-進展(process movement)の特徴を保持しており,あるフェルトセンスはある特定の出来事や次の行動,言葉や他の象徴によって『推進』されたり,されなかったりする。からだで解放が感じられるあの特徴的な変化による継続性は起こるか,起こらないかのどちらかなのである。
例えば,今『へんな感じ』(認知的に不明瞭)があるとすれば,感じられるものについて述べてみることができる。『へんな感じがします』と言ってみるかもしれない。『妙な感じがします』と言い換えてみても,たぶんその感じは変わらないであろう。もしも『いい気分で,何か面白いことをしてみたい』と言ってみると,これは望ましいことであったとしても,『へんな感じを推進』するには,あまりにも突然の変化となるであろう。かなりの努力を要して,わりと特殊な言い回しを思いついたときにのみ,あの変化―とともに―継続(change-with-continuity)が体験され,『あぁ,そうだ,私が感じていたことはこれでピッタリだ!』と言えるであろう。その中核は,言語化されなくても,そのいくつかの側面はとらえられ,『それが何だかかよくわからないけど,何か怖い感じがする』というようになるかもしれない。その場合,大きく流れ出るような解放や一息つくことはなくても,もっと小さなスケールの『…そう…ええ…そう…それは確かに,この〔気持ちの〕一部なんだなぁ』といった実感がある。シフト〔変化〕が感じられ,からだの何かが解放される。明らかにただの言葉だけではないのである。それを言うことによってからだへの効果があり,その効果が異なったものへの,ただの突然の変化ではない。したがって,人がその体験過程を(言葉や他の象徴によって)象徴化すると,それ自体がさらに進んだ体験過程で,それは象徴化される体験過程の推進とそれによる変化なのである。感じることを話すことは感じることを変えるのである。」

そしてその瞬間のことを,

ひらけ(unfolding),

と名づける。僕は,ひらめいた瞬間を「視界が開く」と呼ぶが,それと似ているかもしれない。

「直接感じられたリファレント,すなわち感じられた意味に(中略)焦点を合わせていくと,時にそのレファレントが何であるかを一歩一歩次第に明白に知るようになる過程が見られることがある。しかしそのことがある瞬間に劇的に『ぱっと開く』(open up)こともある。」(「人格変化の一理論」)

こうした背景を意識して,技法としてのフォーカシングのプロセスを改めて見直してみると,ジェンドリンが,体験過程を,

現在を生きる過程の中で自分自身を築き上げ,変えていく,

と実存的な意味を負荷した意図がよりわかるのではないだろうか。

参考文献;
ユージン・ジェンドリン『セラピープロセスの小さな一歩』(金剛出版)

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2017年07月07日

通底


倉本一宏『戦争の日本古代史-好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』を読む。

戦争の日本古代史.jpg


本書は,四世紀末から五世紀にかけての,高句麗との戦いでの大敗らか始まり,さらに七世紀の唐との白村江での大敗を経て,古代の日本の戦争史を繙く。実は,明治以前は,この後,十六世紀の秀吉の朝鮮侵攻を加えて,三回しか日本は対外戦争を経験していない。いずれも朝鮮半島でであったが,しかし明治政府が,維新後早々から朝鮮半島侵略に踏み切ったのには,明治政権の特質ももちろんある(僕自身はテロリスト集団が政権奪取してしまったと認識している)が,それ以上に根深いものがある,と著者は説く。正直,これは衝撃であった。

「(朝鮮侵略は)もちろん,直接的には藩閥政府の帝国主義への志向と,帝国陸海軍の内包した矛盾に解明の道があるのであろう。しかし,さらにその淵源は,古代倭国や日本にあり,そして長い歴史を通じて醸成され,蓄積された小帝国志向,それに対朝鮮観と敵国視が,幾度にもわたって記憶の呼び戻しと再生産をもたらし,近代日本人のDNAに植えつけられてしまっていたことにあるのではないかと考える。」

そのキーワードを,

東夷の小帝国,゛

と,著者は見る。「中国に倣った中華思想を基軸に据え」た大宝律令が完成した大宝元年(701)の元日,

「文武天皇は大極殿に出御し,朝賀を受けた。その眼前には前年新羅から遣わされた『蕃夷の使者』も左右に列立した。」

という。この中華思想「東夷の小帝国」は,

「日本(および倭国)は中華帝国よりは下位だが,朝鮮諸国よりは上位に位置し,蕃国を支配する小帝国」

を主張するというものだ。これが,

荒唐無稽で,笑止千万な主張,

とは言い切れない,「その根拠とされた歴史的事実も,それなりに存在した」として,次のように,列挙し,

「第一に,四世紀末から五世紀初頭にかけて,百済(ひゃくさい)・伽耶(かや)・新羅(しんら)を『臣民』としたという認識である。実際には,百済の要請を受けて半島に出兵し,百済(や伽耶)と一時的に軍事協力関係を結び,新羅に攻め入っただけなのであろうが,その過程において,百済や伽耶・新羅を『臣民』にしたという主張は,倭国の支配者層のあいだに根強く残った。
この出兵(と白村江の戦い)が神功皇后の『三韓征伐』説話のモチーフとなり,それがはるか後世までくりかえし歴史の表面に現われ出ることになることを思うと,倭国最初の海外出兵が日本史に与えた影響は,我々の想像以上に大きいものであったと考えるべきであろう。」

「第二に,五世紀に宋から朝鮮半島南部六国(伽耶諸国と新羅)の軍事指揮権(『六国諸軍事』)を承認されれたという事実である。(中略)もちろん,倭国は半島南部において実質上の支配権は有していなかった。しかし中国皇帝から認められたことは,この国の支配者の記憶に刻印され,後世にまで大きな影響を及ぼしたはずである。」

「第三に,六世紀までは『任那』を支配していたという主張である。『任那』というのは金官国のことで,実際には倭国が支配した事実はない。(中略)『日本書記』が氏族伝承や百済系外交史料といった原史料を,そのまま本分としてしまった結果,あたかも倭国が朝鮮半島南部に統治権を有していたような記述となってしまったのである。」

「第四に,『任那』滅亡後,六世紀から七世紀にかけて,倭国は新羅や百済に『任那の調』の貢進を求めたが,新羅や百済は外交的・軍事的に苦境に立つと,倭国に何度も『任那の調』を送ってきた。実際には新羅や百済の特産物を贈っただけのことでことは言うまでもないし,新羅や百済の側にはこれが『調』であるとの認識はなく,あくまで外交上の口頭によるやりとりに過ぎなかったと思われる。
 しかし,倭国側にとっては,この事実が,七世紀までは新羅や百済,それに『任那』が倭国に『朝貢』してきたという主張につながったのである。」

「第五に,遣隋使と遣唐使の問題である。600年に第一次の使節が派遣された遣隋使は,これまでの倭国の志節とは異なり,また他の周辺諸国(『蕃国』)とは異なり,中国の皇帝に冊封を求めなかった。
 倭国の大王は,隋から冊封された朝鮮諸国の国王より優越した地位と認識されることを欲したのである。『随書』東夷伝倭国条に記されている,『新羅と百済は,皆,倭を大国であって珍物が多いとして,幷にこれを敬仰し,つねに使者を通わせて往来している』という記事は,ある程度,倭国の主張が隋に認められたことを示すものであろう。
 これも倭国の主張を助長させる結果につながったことは,もちろんである。」

「第六に,七世紀後半に百済遺臣の要請を受けて,白村江で唐と戦ったという事実である。その際に,倭国に滞在していた百済王族の余豊璋を新しい百済王として,それに倭国人の妻を与え,倭国の冠位を授けていることは,重要である。この戦いに勝利し,倭国人妻が生んだ王子が即位したならば,百済は倭国の属国として位置づけられるであろう。」

「第七に,八世紀初頭に成立した律令制において,新羅を『蕃国』として設定した地理認識である。また,東北地方の『蝦夷』,九州南部の『隼人』,南島という『異民族』を設定し,位階と官職を授けて河内に住まわせた百済王氏(くだらのこにしき)と合わせて,これを支配していいるという主張によって,『小帝国』世界観念を構築していった。」

こうした歴史における「事実と主張」によって,

「日本(および倭国)の支配者層はは,自国が朝鮮諸国よりも優越した存在の『大国』であると認識した」

というのである。それと同時に,

「朝鮮半島諸国に対する敵国観も,日本人の意識の奥底に深く刻まれた。もともと,交戦国であった高句麗や新羅に対する敵国視は古い時代から存在していたのであるが,(中略)その後新羅に替わって半島を統一した高麗は高句麗の後継者と自称したが,日本ではこれを新羅の後継者と見なした。そして新羅に対する敵国視もまた,高麗に対しても継承させたのである。」

この対朝鮮観の根深さは,ちょっと衝撃的である。われわれの夜郎自大ぶりには,われわれの1500年に及ぶ年季が入っているのである。一方の,朝鮮は,

「『自己(朝鮮)は中国よりは下位にあるが日本(倭)よりは上位である』と思いつづけてきた」

のに,それが,

『自己(日本)は中国よりは下位にあるが朝鮮よりは上位にある』と思いつづけてきた日本の植民地支配を受ける。これ程の屈辱感は,その国の人でないと,我々日本人にはとうてい理解しがたいことだったであろう。」

いま,近隣諸国で,日本を指す,

倭奴,
小日本,
日本鬼子,

という言葉が使われ続けていると,著者は締めくくる。相手は,おのれの写し鏡である。日本の他国観は,そのまま他国の日本観に反映する。

参考文献;
倉本一宏『戦争の日本古代史-好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(講談社現代新書)


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2017年07月08日

うま


「うま」は,

馬,

と当てるが,実は,この「馬」の,

字音「マ」

が,「うま」の語源だと,『広辞苑』にはある。実は,古代史の本を読んでいたら,こんなことが書いてあった。

「『馬』を『うま』と訓じるのは,中国語の『マ』(もしくは『バ』)が転じたものである。つまり和語にはあの動物を表す言葉がなかったのである。ほとんど見たこともなかったのであるから,それも当然である。馬のことを駒というのも,『高麗』つまり高句麗の動物という意味なのである。」

その結果,四世紀末から五世紀にかけて,朝鮮半島に出兵した倭国の大軍は,高句麗に大敗する。

「短甲(枠に鉄の板を革紐で綴じたり鋲で留めたりした伽耶『由来・語源辞典』の重い甲(よろい))と太刀で武装した重装歩兵を中心とし,接近戦をその戦法としたものであったのに対し,既に強力な国家を形成していた高句麗が組織的な騎兵を繰り出し,長い柄を付けた矛(ほこ)でこれを蹂躙したことによるものと考えられる。歩兵にしても,高句麗のそれは鉞(まさかり)を持った者や,射程距離にすぐれた強力な彎弓(わんきゅう)を携えた弓隊がいたことが,安竹3号墳の壁画から推定されている。
 歩兵と騎兵との戦力差は格段のものがあり(一説には騎兵一人につき歩兵数十人分の戦力であるという),これまで乗用の馬を飼育していなかった倭国では,これ以降,中期古墳の副葬品に象徴されるように,馬と騎馬用の桂甲(けいこう 鉄や革でできた小札(こざね)を縦横に紐で綴じ合わせた大陸の騎馬民族由来の軽い甲)を積極的に導入していった。」

とある。日本の在来馬については,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%A8%E6%9D%A5%E9%A6%AC

に詳しいが,

御崎馬.jpg

(御崎馬)


「日本在来馬の原郷は、モンゴル高原であるとされる。現存する東アジア在来馬について、血液蛋白を指標とする遺伝学的解析を行った野沢謙によれば、日本在来馬の起源は、古墳時代に家畜馬として、モンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された体高(地面からき甲までの高さ)130cm程の蒙古系馬にあるという。」

としているので,高句麗大敗後のことという時代背景は合う。ただ,「高麗」由来という説は,

「『こま(駒)』の『こ』が上代特殊仮名遣いで甲類であるのに対し,『こま(高麗)』の『こ』は乙類である」

ため,現時点では,認められないようである(ただ,「上代特殊仮名遣い」自体は,あくまで仮説なので,それが覆る可能性はあると僕は思っている)。しかし,上記の由来を考えると,朝鮮半島を経由するプロセスで,「うま」と係る言葉を手に入れたと見なすのが妥当ではあるまいか。なお,「上代特殊仮名遣い」については,何度か触れたが,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BB%A3%E7%89%B9%E6%AE%8A%E4%BB%AE%E5%90%8D%E9%81%A3

に詳しい。

さて,「うま」の語源であるが,『日本語源広辞典』は,二説載せる。

説1は,「『中国音m』が,語源だと言います。この音を単独で発音できない日本人は,前に,母音u,後ろに母音aを,加えてウマとしたのです。外来語に母音を加えて発音する習慣は,現在でも,インキ,ブック,デッキ,などにも見られる現象です。」
説2は,「『ウ(大)+マ(時間・空間)』説です。大いに,早く,遠くに行くものの意ですが,この説は疑問に思います。」

『日本語源広辞典』が疑問に思った説を,『大言海』は,「こま(小馬)」の項で,

「古名は,イバフミミノモノ(英語に云ふ,ponyなり)」

と注記して,

「応神天皇の御代に,百済国より大馬(オホマ 約めてウマ)の渡りたりしに対して,小馬と呼び,旧名は滅びたりとおぼし。神代期の駒(こま),古事記の御馬(みま)の旁訓は追記なり」

とし,

オオマ(大馬)→ウマ,
コマ(小馬)→コマ,

と,その大小から,二系統の由来,ということになる。『日本語源広辞典』が,「こま」については,

「小+馬」

の音韻変化とするのは,暗に,「コマ」と「ウマ」の由来が別と,言っているような気がする。『岩波古語辞典』は,
「こま」の項で,

「こうま(子馬)の約」

としているのは,「大馬」が親馬で,「小馬」が子馬ということなら,意味が通る気がする。なお,「うま」の項で『岩波古語辞典』は,

「ウマは古くからmmaと発音されたらしく,古写本では,『むま』と書くものが多い」

として,朝鮮語,満州語に関連すると想定している。『日本語源大辞典』には,新村出説として,

「蒙古語mori(muri),満州語morin,韓語mat(mus)mar,支那語ma(mak)などと同語源。馬自体が大陸から伝わったのとともに,音も伝わった」(琅玗記)

を載せている。確かに,馬とともに言葉も伝わったのだが,いずれも「マ」由来に見える。

さらに,『岩波古語辞典』には,

「平安時代以後は,歌謡には,馬を,コマということが多い」

とあり,駒と馬は,混同されていったようだ。なお,『日本語の語源』は,

「中国語のバイ(梅)・バ(馬)を国語化してウメ(梅)・ウマ(馬)という。『ウ』は語調を整えるための添加音であった。これに子音が添加されてムメ(梅)・ムマ(馬)になった。さらにム[mu]の母韻[u]が落ちて撥音化したため,ンメ(梅)・ンマ(馬)という。」

とある。

参考文献;
倉本一宏『戦争の日本古代史-好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(講談社現代新書)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%A8%E6%9D%A5%E9%A6%AC
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

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ラベル:うま 高麗
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2017年07月09日

まぐろ


「まぐろ」は,

鮪,

と当てるが,『広辞苑』には,

眼黒の意,

とある。『大言海』には,

「眼黒の義,或いは云ふ,真黒かと」

とある。

「まぐろ」については,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%AD

に詳しいが,そこにも,

「日本語の『マグロ』は目が大きく黒い魚であること(目黒 - まぐろ)に由来するという説がある。
他にも保存する事が困難とされた鮪は、常温に出しておくとすぐに黒くなってしまう為、まっくろ→まくろ→まぐろ。と言われるようになったと言う説も存在する。」

とある。ついでながら,

「現代の日本語では、マグロ属の中の1種であるクロマグロ(学名:Thunnus orientalis)のみを指して『マグロ』と呼ぶ場合も少なくない。また、『カジキマグロ』(カジキの俗称)および『イソマグロ』(イソマグロ属)は和名に『マグロ』を含むが、学術上はマグロ(属)ではなく、生物学の成立以前から存在した通俗名(梶木鮪、磯鮪、など)を引き継いだものである。
英語名 Tuna は『マグロ』と日本語訳されがちであるが、実際は上位分類群のマグロ族 (Thunnini) 全般を指し、マグロだけでなくカツオ、ソウダガツオ(マルソウダ、ヒラソウダ)、スマなどを含む。」

とある。「ツナ」にカツオが含まれるのは意外である。なお,「まぐろ」は,

サバ科マグロ属,

である。また,成長の度合いに応じて,

メジ(30~60センチの幼魚),
シビ(成魚),
かきのたね(稚魚),

等々という呼び名があるそうである。

「縄文時代の貝塚からマグロの骨が出土している。古事記や万葉集にもシビの名で記述されており、『大魚(おふを)よし』は、『鮪』の枕詞」

とか。『岩波古語辞典』には,

「大魚よしシビつく海人よ」(古事記)

と例が載る。さらに,

「江戸の世相を記した随筆『慶長見聞集』ではこれを『しびと呼ぶ声の響、死日と聞えて不吉なり』とするなど、その扱いはいいものとはいえなかった。これは鮮度を保つ方法が無く、腐敗しやすいことが原因である。かつては魚介類の鮮度を保つには、水槽で生かしたまま流通させる方法があったが、マグロの大きさではそれが不可能であった。また干魚として乾燥させる方法もあるが、マグロの場合は食べるに困るほど身が固くなる(カツオの場合は、乾燥させた上で熟成させ、鰹節として利用したが、マグロはその大きさから、そういった目的では使われなかった)。唯一の方法は塩漬にする事だが、マグロの場合は食味がかなり落ちたため、下魚とされ、最下層の庶民の食べ物だった。」

とある。事実『江戸語大辞典』には,「まぐろ」の項に,

「しび・かじき・きわだ・びんなが(実はサバの一種)等の総称。総じて下賤の食用なれど,きわだを上,かじきを中,しびを下とする。安永七年・一事千金『まぐろのさし身にどじやうの吸い物,ふわふわなどでせいふせんととのへ』」

とある。「かじき」より下だったらしい。

マグロ.jpg

(クロマグロ(英名/Aibacore,Bluefin tuna))


閑話休題。

『語源由来辞典』には,

http://gogen-allguide.com/ma/maguro.html

「眼が黒いことから『眼黒(まぐろ)』の意味とする説と,背が黒く海を泳ぐ姿が真っ黒な小山に見えることから『真黒(まぐろ)』の意味とする説とがある。マグロはどれも目が黒いため,眼黒の説が妥当と考えられるが,マグロの代表がクロマグロであるため,真黒の説も捨てがたい。大型のものを『シビ』,小型のものを『メジ』と呼ぶこともある。
 『鮪』の『有』は,『外側を囲む』という意味で,『鮪』の漢字には,大きく外枠を描くように回遊する魚の意味がある。」

とある。大体,語源はこの二説で,

http://www.yuraimemo.com/48/

も,語源について,

「有力な説は二つ。目が黒いことから『眼黒(まぐろ)』という説と、背中が黒く、泳ぐ姿が真っ黒な小山に見えることから『真黒(まぐろ)』としたという説。マグロは種類に関係なくどれも目が黒いため、眼黒が有力とされているようです。」

としている。二説というが,正確には,本体自体の黒さと,群れをなす姿が小山のように黒いのとはちょっと違う。『日本語源大辞典』『は,

真黒の義(物類称呼・名言通・日本語原学),
眼黒の義(言元梯),
海で泳ぐ姿が,小山のような背が真黒であることから(『語源大辞典』)

と区別する。『日本語源広辞典』は,

説1。目が黒い,
説2。海中で,魚体が黒く見える大魚,
説3。真っ黒な潮,っもまり黒潮に乗ってくる,

と三説を挙げ,どちらを取るかの定説はないとする。いずれにしろ,

黒色,

という見かけから来たもののようだ。では,「しび」「めじ」の語源は,『大言海』は,「しび」を,

繁肉(ししみ)の約転,

「めじ」を,「メジカ」の約とし,「めじか」については,

「目鹿の義。鹿に似たれば云ふと云ふ。或いは云ふ。眼近の義かと」

とある。「めじか」については,これ以上わからないが,「しび」については,『日本語源広辞典』には,

「『シビ(脹れる意)』です。よく肉ののった魚の意」

とあり,『日本語源大辞典』に,

シシベニ(肉紅)の義(日本語原学),
煮ると白くなるところからシロミ(白身)の義(名言通),
ときによりシブイ(渋い)味がしてしびれるところから(本朝辞源),

のみが載る。「しび」という言葉を嫌うせいか,今日あまり使われない。

参考文献;
http://www.zukan-bouz.com/syu/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%AD
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
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ラベル:まぐろ めじ しび
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2017年07月10日

鴟尾


「鴟尾」は,

しび,

と訓む。

鵄尾,
蚩尾,

とも当てる。『広辞苑』には,

「古代日本語文法の成立の研究の瓦葺宮殿・仏殿の大棟の両端に取り付けた装飾。瓦・銅・石で造る。後世は,しゃちほこ・鬼瓦となる。とびのお。沓形。」

とある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%9F%E5%B0%BE

には,「鴟尾」は,

「訓読みではとびのおと読む。沓(くつ)に似ていることから沓形(くつがた)とも呼ばれる。」

とある。さらに,

唐招提寺金堂の鴟尾.jpg

(唐招提寺金堂の鴟尾)


「後漢以降、中国では大棟の両端を強く反り上げる建築様式が見られ、これが中国などの大陸で変化して3世紀から5世紀頃に鴟尾となったと考えられている。唐時代末には鴟尾は魚の形、鯱(海に住み、よく雨を降らすインドの空想の魚)の形等へと変化していった。瓦の伝来に伴い、飛鳥時代に大陸から日本へ伝えられたと考えられている。火除けのまじないにしたといわれている。」

とある。『大言海』には,

「倦遊録『漢以宮殿多災,術者言,天上有魚尾星,宣為其象,冠於屋,以禨之,唐以来寺觀殿宇,尚有為飛魚形,尾指上者不知何時易名曰鴟尾』」
「北史,髙恭之傳『興屋宇,皆置鴟尾』」

等々,中国の出典を紹介している。これを見ると,もともと災い除け,の意図から始まっていることがわかる。『ブリタニカ国際大百科事典』には,

「鴟については明らかでないが,怪魚の一種で,海水を吹き,雨を降らす魔力をもつものともいわれ,火災を防ぐ呪術的意味が付加されたものであろう。後世の鯱 (しゃち) はこれが変化したもの。」

とある。また,「家」の守りという観点から,

「〈家〉の火災,〈家〉に住まう人々の病魔,短命,貧困はぜひとも避けねばならなかった。〈天井〉も水をつかさどる井宿(ちちりぼし)にちなんだ命名ともいわれるが,さらに天井には水草紋様をかき,漢代から屋根に鴟尾(しび)を飾って火災よけのまじないとすることがはじまった。また,〈家〉の定まった場所ごとに神々がまつられた。」(『世界大百科事典』)

とあるのを見ると,屋根の「鴟尾」だけが独立していたのではない,ということが知れる。その「鴟尾」は,

「古代の宮殿・官衙・寺院の主要建物の大棟両端につけられた1対の棟飾瓦。中国とその文化圏に属する周辺諸国で用いられた。その起源は漢代にさかのぼり,大棟の両端をしだいに高めて棟反りを強調した形を反羽(はんう)と呼んだ。東晋代に鴟尾という名称があらわれ,北魏に至って鴟尾と呼ぶにふさわしい強く反り上がった形が完成した。隋・初唐代には,湾曲した形をさらに強調するため,脊稜を前方に突出させた初唐様式が登場し,中唐から晩唐にかけては大棟に取りつく部分を獣頭形につくる鴟吻(蚩吻)(しふん)に変化した。」(『世界大百科事典』)

とある。あるいは,

「鴟尾は後漢時代の建築明器や画像石にみられるように当初は屋根の大棟両端を反り上げた装に始まり、これが南北朝時代には鴟尾となって宮殿や寺院の屋根を飾り、初期の形状は鳥の羽状をした鴟尾が多い。ところが唐時代に入ると主に無文の胴部、縦帯、鰭部からなる形状に変化して、鴟吻、沓形などとも呼ばれた。さらに宋時代には獣頭形や魚類形へと変化し、やがて鯱になったと考えられている。」(金子典正)

さらに,そのまま日本では,

http://www.ishino.jp/SIRYOUKAN/jidai/sibi.html

に,

「奈良時代の鴟尾は史料に『沓形』と見えますように、奈良時代の貴族たちがはいた沓に似た形になります。唐招提寺金堂大棟西端の鴟尾が典型的なものです。伝世された奈良時代の鴟尾としては唯一のものです。奈良時代には瓦製の鴟尾があまり作られなかったものか、出土例は多くありません。史料に金胴製鴟尾のことがいくつか見えますので、焼き物よりそのようなものが作られたのでしょう。」

とあるので,よりデザイン化して,沓形へと変じたものも伝わっているらしい。

「鴟」の字は,

とび,

の意と,

ふくろう,

の意があるが,

「じっと止まっている鳥」

という原意からすると,「とび」より「ふくろう」なのかもしれない。「鵄尾」の「鵄」も,ふくろうと鳶の意味があり,この語義は,まっすぐに目標を目指す意で,とび,ふくろうに合致する。「蚩尾」の「蚩」は,まっすぐで融通のきかない意で,後述の鴟尾の後継の怪獣「蚩吻」から来ている。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1125694701

には,

「鴟尾(しび)は、鴟が大空を舞う鳶(とび・とんび)をさすことから、『とびのお』とも、または沓(くつ)と形が似ていることから「沓形(くつがた)」とも言われます。
後漢以降、大棟の両端を強く反り上げることによって建物を力強く見せる建築様式が見られ、鴟尾は、瑞祥(ずいしょう・めでたいしるし)と辟邪(へきじゃ・邪悪を退ける)の象徴である「鳳凰の羽」が結びついて出来たと考えられています。
何故、「鴟」の文字を使うのかは、分かりません。

鴟尾から鯱(しゃち・海に住み、よく雨を降らすインドの空想の魚)へ変化した経緯については、中国の文化だけでなくインドの文化が影響してきます。インドでは『マカラ』という魚とも獣ともつかない伝説の怪獣が、敵を防ぐ力を持つとされてマカラの模型を門や入り口に飾る習慣がありました。これが中国に伝わると、これまでの鴟尾にこのマカラの「ご利益(?)」を求めようとしました。この際、マカラは海中に棲み雨を降らす怪魚を想像したため、鴟尾の魚形化が進み、やがて鯱へ変形し、火除けのまじないにしたといわれています。

日本では瓦の伝来に伴い、飛鳥時代に大陸から日本へ伝えられたと見られ、本格的な寺院は瓦製の鴟尾を飾るのがごく当たり前のことであったようで、奈良・平安時代には、宮殿・寺院の主要な建物には金銅製を最上級とする種々の素材でできた鴟尾がのせられていたようです。しかし、平安時代中頃(唐時代末)に、鴟尾を飾ることが途絶えてしまい、鴟尾から変形した鯱は、禅宗の教えと共に日本に伝えられたといい、日本でも火除けのまじないとして、鯱や鬼瓦が棟を飾ることになっていきました。」

と載るが,『日本大百科全書(ニッポニカ)』をみると,

「日本でも飛鳥(あすか)時代に朝鮮から寺院建築が導入されて、鴟尾が用いられたが、奈良時代以降は鴟尾にかわって、鬼瓦が大棟の飾りの主流を占める。現存する古い鴟尾の例は、玉虫厨子(たまむしずし)や唐招提寺(とうしょうだいじ)金堂にある。中国では唐末ごろから鴟尾が変化して海獣の形に似た蚩吻(しふん)となる。日本では鴟尾は中世になると廃れ、近世になって蚩吻の影響を受けた鯱鉾(しゃちほこ)が、城郭建築に用いられるようになった。」

と,

鴟尾→鬼瓦

鴟尾→蚩吻→鯱鉾,

と別系統の発展をしたことが見える。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%B1

によると,「鯱(しゃち)」とは,

「姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物。また、それを模した主に屋根に使われる装飾・役瓦の一種。一字で鯱(しゃちほこ)・鯱鉾とも書かれる。江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では魚虎(しゃちほこ)と表記されている。
大棟の両端に取り付け、鬼瓦同様守り神とされた。建物が火事の際には水を噴き出して火を消すという。本来は、寺院堂塔内にある厨子等を飾っていたものを織田信長が安土城天主の装飾に取り入り使用したことで普及したといわれている。現在でも陶器製やセメント製のものなどが一般の住宅や寺院などで使用されることがある。(金鯱が京都の本圀寺などにある。)」

とあり,本来「寺院堂塔内にある厨子等を飾っていたもの」を,織田信長が安土城天主の装飾に取り入り使用したのが嚆矢という。

名古屋城の金鯱.jpg

(名古屋城の金鯱)


なお,鴟尾の原義については,

http://www.gakushuin.ac.jp/univ/g-hum/art/gakkai/PDF/03.pdf

に詳しく論じているが,

鴟尾は鳳凰の羽の象徴であり瑞祥や辟邪であるという説,
と,
魚類の尾であり火災除けと記すことから火に対する厭勝とみる説,

があるらしいが,

正史にみえる鴟尾は雷や大風の災害記事に多く登場することから,

風神である鳳凰の装飾を大棟上に置いて人々は災害を防ごうとした,

という説を展開している。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%9F%E5%B0%BE
http://www.ishino.jp/SIRYOUKAN/jidai/sibi.html
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/g-hum/art/gakkai/PDF/03.pdf
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
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今日のアイデア;
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2017年07月11日

やり


「やり」は,

槍,
鎗,
鑓,

と当てる。「やり」については,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8D

に詳しいが,

img028.jpg


「有史以前から人類が使用し続け、銃剣に代替されるまで長く戦場で使われ続けた。」

とある。『大言海』には,

「遣りの義。尺素往来『遣刀(やり)長刀』と見えたり。鑓は遣鐡の合字」

とある。「鑓」の字は国字なのだが,それは「槍」が「遣り」から来ているという前提で後世に作字されたということではないか。「槍」=「遣り」にはちょっと疑問符が付く。しかし,『日本語源広辞典』も,

「遣り(突きやるもの)」

という語源説をとる。また,『日本語源大辞典』も,

ヤリ(遣り)の義,

とするものが圧倒的に多い(和句解・言元梯・名言通・日本古語大辞典・国語の語幹とその分類・日本語源)。ほかに,

ツキヤル(突遣)の義か(日本釈名・俗語考・古今要覧稿・傍廂),
茅屋を葺くために竹の先を細くとがらせたヤハリ(家針)に似ているところからその略か(類聚名物考),

等々がある。しかし,「やり」を考えるとき,同じように長柄の武器「ほこ」との対比で考える必要がありそうである。

ほこ.png


「ほこ」は,

矛,
鉾,
戈,
戟,
鋒,

等々と当てるが,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%9B

に,

「槍や薙刀の前身となった長柄武器で、やや幅広で両刃の剣状の穂先をもつ。 日本と中国において矛と槍の区別が見られ、他の地域では槍の一形態として扱われる。」

とある。その区別は,日本における「やり」の一般的な構造は,

「木製あるいは複合材の『打柄』の長い柄の先端に、先を尖らせて刃をつけた金属製の穂(ほ)を挿し込んだもの」

とされ,「ほこ」は,

「「穂先の形状に一定の傾向があり、矛は先端が丸みを帯び鈍角の物が多いのに対し、槍は刃が直線的で先端が鋭角である。矛は片手での使用が基本で逆の手に盾を構えて使用した。これに対し槍は両手での使用を前提としていた。」

とされる。そして,「やり」と「ほこ」の違いを,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8D

で,「やり」の初出は,

「宴会で酔った大海人皇子(天武天皇)が槍を床に刺したという伝承」

とされるが,

「大海人皇子が使ったとされる槍も、矛が使われた時代である事から、詳細は不明だが矛とは構造的に異なるものであったと思われる。しかしながら、矛が廃れた後で登場した槍については、同じものを古代は矛、中世以降は槍と称したと解釈して問題ないように思われる。例えば『柄との接合部がソケット状になっているのが矛。茎(なかご)を差し込んで固定する方式が槍』という説があるが、実際には接合部がソケット状になっている袋槍が存在する。新井白石も槍について『"やり"というのは古の"ほこ"の制度で作り出されたものだろう。元弘・建武年間から世に広まったらしい』と著書で述べている。そして文中の記述において、"やり"には"也利"、″ほこ"には″槍"の字を充てている。」

とし,「ほこ」は,

「金属器の伝来と共に中国から伝わってきたと考えられている。材質は青銅製の銅矛で後に鉄で生産されるようになると、銅矛は大型化し祭器として用いられるようになった。 日本の訓読みで『矛』や『鉾』、『桙』だけでなく戈、鋒、戟いずれも『ほこ』の読みがあることから、この時代の「ほこ」は長柄武器の総称であった可能性がある。」

つまり,すべて「ほこ」と訓んだ時代から,次に,すべて「やり」と呼ぶ時代になった,ということなのかもしれない。中国・日本以外は,すべて,

槍,

とされるのだから,他国に準じたという言い方になるのかもしれない。

「ほこ」の語は,『日本書紀』崇神天皇紀四十八年に,

「八廻弄槍(やたひほこゆけし)」

と見えるそうだ。

概して,「やり」は柄に差し込むのに対して,「ほこ」は,柄に被せる構造(槍主流の時代になると,被せるスタイルの槍を「袋穂の槍」と言ってい区別した)だが,両者の比較を,

「柄に被せる袋穂式(ソケット状)と挿し込み式{日本刀の茎(中芯・中心:なかご)のような造り}があり、単純に武器としての耐久強度としては挿し込み式の方が高いが、総合的に見ると絶対的に有利とは限らない。また、これらの接合に使われる部品は必然的に柄の補強とも統合される場合が多い。袋穂式は、完全に包み込むものと両側で挟み込むもの、片側のみで柄と繋ぐものなどがある。柄の製作や修理が比較的容易にできる代わりに、特に斬る・打つことがし難く、造りによっては挿し込み式より頑丈になることもあるが、金属製の補強用材(鉄及び真鍮・青銅など)のため重量が膨大になりやすい。」

としている。

「ほこ」の語源は,たとえば,『大言海』には,

「積木(ほこ)の義と云ふ。」

とする。『日本語源広辞典』は,

「ホ(突出・卓越)+コ(木)」

とする。その他,

ホルキ(掘木),
ホコ(外木),

等々,「木」と絡ませる説が多い。しかし,『日本語源大辞典』は,

「『木(こ)』は下に接続する要素のあるときの形であり,下接しない場合は『木(き)』となるのが普通である」

として,疑問符をつけている。つまり,はっきりしない。

『武家名目抄』刀剱部には,次の記事がある,という。

「按,也利はもとの用の語にて古事記の矛由気といへる由気のごとし。由気は令行(由加世の由気となる。加世のつづまり気なれば也)即こき出してかなたに衝遣ることなれば由気といひ也利といひ,語は異なれば意は全く同じ。おもふに此物古代の長鎗より出て,手鉾に対へて遣鉾といひけんを略して遣りとのみいへるなるべし。建武二年正月三井寺合戦の時土矢間より鑓長刀さし出せしといふこと太平記にしるせしが,此物の見えたる初めにて,是より前鎌倉殿の時さる物ありしこと更に所見なく伊呂波字類抄,字鏡集にも載ざれば元弘建武の際にやはじまりけん。庭訓往来・異制庭訓等はその頃の書なれじ,兵器を書きつらねたる所に也利といふことなきは極めて俗語なれば載ざるなるべし。其文字は鎗とも鑓とも書けど,鎗は保古と訓じ来れば,也利に用ひんこといとまぎらわし。鑓は作り字なれど,今標目になため用ひぬるはかふべき文字の外になく世に用ひ来たれることの久しきが故なり。尺素往来の遣刀の文字は一条禅閤の作意にてかかれたるなれば普通には用ひ難し」(『日本合戦武具事典』)

で,笠間良彦氏は,

「『古事記』には矛由気,『衣服令義解』には鎗,『軍防令義解』には槍の文字をもって『ほこ』と訓ませているから,後世の槍ではなく鉾を由気・槍・鎗の文字を用いていたのである」

とし,

「目的物に衝遣るから由気(行)であり,遣るから也利である」

とするのはこじつけ,としている。

「ほこ」から「やり」への転換は,

「俗説では箱根・竹ノ下の戦いにおいて菊池武重が竹の先に短刀を縛り付けた兵器を発案したとされる。『太平記』などによれば、1,000名の兵で足利直義の率いる陣営3,000名を倒したという。菊池千本槍は、熊本県の菊池神社で見ることができる。後に進化し、長柄の穂と反対側の端には石突(いしづき)が付けられるようになった。
実際には鎌倉時代後期には実戦で用いられていたとみられる。茨城県那珂市の常福寺蔵の国の重要文化財『紙本著色拾遺古徳伝』(奥書は元亨3年11月12日)には片刃の刃物を柄に装着した槍を持つ雑兵が描かれている。」

とされる。因みに,『江戸語大辞典』の「やり(槍)」の項には,

「操り・浄るりの社会用語。やじること。半畳を入れること。」

しか載らない。

参考文献;
笠間良彦『日本合戦武具事典』(柏書房)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%9B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8D
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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2017年07月12日

夢解釈


ユージン・T.・ジェンドリン『夢とフォーカシング―からだによる夢解釈』を読む。

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サブタイトルに,「からだによる夢解釈」とあるのが,本書のすべてを説明している。

「本書のねらい」で,著者は,

「伝統的な夢『解釈』の方法は,1つの理論を応用してある結論に達するのです。私はこのような夢解釈の方法を否定します。出てきた結論は,仮説にすぎません。その仮説に応じて,夢を見た人に具体的に,体験的に何かがひょいと出てこないかぎり,解釈にしたことにはなりません。そこで,私はこうしたさまざまの異なった視点を質問形式に組みかえました。ゆっくりとからだのフェルトセンスに問いかけてみます。何も出てこなかったら,次の問いかけへと進むのです。
 フェルトセンスそのものが反応したときは,からだからの信号があり,緊張がほぐれ,フェルトシフトが起こります。こうして起こったからだのシフトは具体的では実感できますので,私がその解釈は本当なんですよ,あなた自身が夢を解釈したんですよ,とことさら説明する必要もありません。」

と述べ,ここでの夢に対するフォーカシングは,一人でもできるように工夫されている。

「フェルトセンスは,怒り,恐れ,悲しみといった普通の感情ではありません。こうした見覚えのある感情に加えて,夢は分類できない,独特の感じをあなたに残してくれます。そのことを頭で考えることはできません。フェルトセンスは漠然とした,全体的な,わけのわからない,奇妙な,気にかかる,ぼんやりしたからだの感じです。
 私たちの方法は,そこに,つまりフェルトセンスに直接問いかけるのです。そして新しいものが浮かんでくるかどうか待ってみるのです。」

この方法には,

第一に,「1つの理論や信念の体型に限定されていないことです。」
第二に,「この方法の根本的な基準はあなたの中に何かが開かれてくる,あなたの自身のからだの感じにあることです。解釈は,あなたが気づき,つまり,からだのフェルトシフトを感じたときにだけ確かなものになるのです。」
第三に,「この方法は教えることができ,また,学習することができることです。」

という特徴がある,と著者は自信ありげである。確かに質問は,定式化されている。質問は5段階に分かれる。

◆連想を捉えるための方法
①何が心に浮かんできますか(夢にどんな連想をしますか,何が心に浮かんできますか等々)
②どんな感じがしますか(夢の中でどんな感じがしましたか,夢にもった感じは等々)
③きのうのことは(昨日何をしましたか,昨日のことを思い出してください等々)
◆場所・あらすじ・登場人物という物語をつくる3つの要素
④場所は(夢に出てきた主な場所は,そこから何を思い出しますか等々)
⑤夢のあらすじは(あらすじを要約,生活のどんなところと似ているか等々)
⑥登場人物は(夢の中の知らない人物は,その人物から何を思い出しますか等々)
◆登場人物と係るための3つの方法
⑦それはあなたの中のどの部分ですか(夢の中の他人はあなたの中のある部分を象徴しています,それは何等々)
⑧その人になってみると(その人物になってみる等々)
⑨夢の続きは(夢の最後の重要と思える光景を思い浮かべ,それを感じてください等々)
◆象徴・身体のアナロジー・反事実性など夢の(暗合を)解読するための3つの方法
⑩象徴は(夢の中のモノやコトの象徴,メタファーを考える)
⑪身体的なアナロジーは(身体に準えてみると等々)
⑫事実に反するものは(夢は何を変えたのですか等々)
◆成長における4つの次元
⑬子どものころのことは(夢に関連して,子どもの頃のどんな思い出が出てきますか等々)
⑭人格的な成長は(どんなふうに成長しつつありまいか,どんなふうに成長しようとしていますか等々)
⑮性に関しては(夢を,性的なものについてしたり,感じたりしていることの物語と考えると等々)
⑯霊性に関しては(夢は,創造的あるいは霊的な可能性について何か語っていませんか等々)

しかも,この質問は,

「夢をみた人が自分のからだに聞くためのものです。質問がからだの内部に届くようにしてください。質問はそこに向けてされるのです。1つの質問について,1分ほどかけてください。」

と,著者は言う。

「ただ,夢をみた人のからだだけが,夢を解釈できるのです。」

そのために,

「(質問によって)あなたの注意をからだの中へ向け,曖昧な感覚を感じてください。それを感じられたら,静かにその質問を内側に向けて問いかけ,待ってください。何が浮かんでくるかを見てください。」

この質問ステップは,ただ夢を解釈するだけではなく,自分自身の次への成長ステップにつながるものを見つけ出すところに主眼がある。

「何についての夢かを知るだけでは,まだ十分な解釈ではありません。私たちは,さらに先へ進むことができます。
 第2段階の目的は,夢から何か新しいものを得ることです。」

そういう著者自身は,

「すべての夢には,本当に役割があって新しいことを生み出すとは,私たちも科学的に確認したわけではありません。しかし,私はそう考えています。

として,

「夢解釈には2つの段階があります(ときには2つが一度に起こることもあるし,そうでないときもあります)。気づきが起こるとその夢が何について語っているか知ることができますが,それは,みんな以前から知っていたことかもしれません。それは,夢解釈の第1段階にすぎないのです。…第2段階…はどんな夢にも成功するとは限りません。それがうまくいくと,あなた自身の成長にとって新しい発見になるでしょう。」

なぜなら,

「有機体は,物質的なものだけを必要とする生物学的な機械ではありません。からだはコスミック・システムであり,概念を超えたいろいろな意味合いや,多様な方向性に富んでいます。人生の中では,私たちは『私たち自身であること』のほんの一部を成長させるにすぎません。
 成長していく方向は,あなたのからだでかんじられるものです。あなたが成長の方向を感じとり,その方向に沿って進むのに夢は役立つでしょう。」

ねらいは,

「目的は,あなた自身についていろいろ知ることではなく,成長すること」

であり,そのための夢フォーカシングであること,ここはぶれない。

著者自身は,このステップについて,

「このステップに理論は必要ありません。理論がここでは付録になっているのはそのためです。」

と,付録の「生きているからだと夢の理論」で述べている。あくまで,実践の書である,と言いたいらしいのである。

本書を通読して,正直のところ,物足りないと感じるところがある。それは,果たして,夢は,自分の人生について,何かを象徴したり,何かのアナロジーであったりするのか,という疑問である。所詮,夢は,自分の体験を記憶するための脳の機能に過ぎないのではないか,という思いがあるからだ。

しかし,反面,本書に惹かれたのは,あくまで,夢そのものではなく,夢を通して,

自分の中で起きている感じ,
あるいは,
起こっていた感じ,

に焦点を当て,自分自身がそこから何を得るか,というところにポイントを置くなら,それは,また別の,自分の今の感じ(フェルトセンス)を通して,自分自身を知り,そこに目覚めている意識していない自分の方向性を顕在化させる,という意味が見えてくる。そのとき,夢は,ただの自己理解と,自分の潜在的な方向性を感じとるための素材に過ぎなくなる。

それは,エリクソンが,クライエントに,

アネクドート(逸話),

を伝え,それをクライエント自身が勝手に解釈し,理解し,おのずと問題を解決していった,というそのアネクドートと似た役割を,夢に果たさせている,と解釈できなくもない。

参考文献;
ユージン・T.・ジェンドリン『夢とフォーカシング―からだによる夢解釈』(福村出版)

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2017年07月13日

かぶと


「かぶと」は,

兜,
甲,
冑,

と当てる。

「軍陣としては,頭にかぶる部分である鉢とその下に垂れて首の部分を覆う錏(錣 しころ)からなる。鉢の頂を頂辺(てへん),通俗には八幡座とも言い,鉢の正面のところを真向(まっこう)という」

と,『日本語源大辞典』にはある。

img033.jpg


埴輪や古墳の出土品からも「かぶと」は見られ,

「古墳から出土する甲(よろい)には短甲と挂甲(けいこう)の2種があり,冑にも衝角付冑(しようかくつきかぶと)と眉庇付冑(まびさしつきかぶと)の二つがある。形の上で衝角付冑は短甲に,眉庇付冑は挂甲に属するものと思われる。しかし関東地方出土の挂甲着装武人の埴輪に見られるように,ほとんどすべてが衝角付冑をつけており,古代の2種類の甲と冑との所属関係はかならずしも固定的なものではない。むしろ,衝角付冑と挂甲がいっしょに用いられたことが多かったと考えるべきであろう」(『世界大百科事典 第2版』)

といった説明が見られる。

ところで,当てられる漢字,兜,甲,冑を見ると,「兜」の字は,

「白(人の頭)+儿(足の部分)にその頭を左右から包む形を加えたもの。頭を包むことに着目した言葉。甲冑の甲は,かぶせるかたいかぶとのこと。冑は,首だけ抜け出る同槙のいた屋のこと」

とある。「甲」の字は,

「もと,うろこを描いた象形文字。のち,たねを取り巻いたかたいからを描いた象形文字。かぶせる意を含む。」

とある。「冑」の字は,

「冑の原字は,上部の頭にかぶとを載せた姿と,下部の冒(かぶる)の字からなる。冑は『かぶる,かくすしるし+音符由』。頭だけ上部に抜け出るどうまきのこと。」

とある。『大言海』は,

秀吉拝領具足.jpg

秀吉所用・伊達政宗が拝領(銀伊予札白糸縅胴丸具足)


「甲(よろい)の字をカブトに用いるは,誤りなり」

とするが,漢字の由来から見ると,「甲」「冑」ともに,「かぶと」の意がある。しかし,甲冑(かっちゅう)という言い方は,「甲(かぶと)」と「冑(胴巻)」のセットで,鎧を指すので,間違いとばかりは言えない。ただ『広辞苑』を見ると,「甲冑」で,「甲(よろい)と冑(かぶと)」と載せているし,『大言海』の「甲冑」の項を見ると,

「禮記,曲禮,上篇『獻甲者執冑』鄭注『甲,鎧也,冑,兜鍪也』

を引用しており,中国でも,甲は鎧,冑は兜鍪(かま)を指しているようだ。『岩波古語辞典』にも,

「『甲は,日本にかぶとと読むは誤りぞ。甲はよろひなり。冑はかぶとなり』〈燈前夜話〉。『冑,加布度(かぶと)。首鎧也』〈和名抄〉」

と載る。『日本語源大辞典』にも,

「『甲』は本来ヨロイを意味する字であるが,これをカブトと訓むのは,『華厳経音義私記』の『甲,可夫刀』(上巻),『被甲 上(略)可何布流,下可夫度』(下巻),『甲冑 上又為鉀字,可夫止』(上巻)にまで遡ることかできるが,本来,誤用である。」

と載り,さらに,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%9C

にも,

「元来、『甲』は鎧、『冑』は兜を表していたが後に混同され、甲が兜の意で用いられる事もある。なお、兜、冑ともに漢語由来の字であるが、現代中国語では頭盔の字が使われる(突盔形兜の『盔』である)。」

とある。因みに,「突盔形兜(とっぱいなりかぶと)」とは,

「室町時代末期頃に発生した頂部が尖った兜。筋兜を簡略するかたちで変化したもの。椎実形、柿実形、錐形、筆頭形等の鉢頂部が尖った形の兜を総称して突盔形ともいう。」

とある。ついでに,戦国時代の兜の大きな変遷は,需要が増え,合理的な製作方法が開発され,鉄板数片で半球状をつくる方法になったようである。しかもこの方が従来の縦矧板を鋲留する煩雑な製造法よりも堅牢だったという。

img032.jpg


閑話休題。さて「かぶと」の語源である。

『岩波古語辞典』には,

「朝鮮語で甲(よろい)をkap衣をotという。その複合語kapotを,日本語でkabutoとして受け入れたという。」

と載る。『大言海』も,

「頭蓋(カブブタ)の約転(みとらし,みたらし。いたはし,いとほし)。朝鮮語ににもカプオトと云ふ」

とある。確かに,朝鮮語由来という説は捨てがたいが,『日本語源広辞典』には,

「カブ(頭,被る,冠)+ト(堵,カキ,ふせぐもの)」

とする。『日本語源大辞典』も,

「『かぶ』は頭の意と考えるのが穏当であろうが,『と』については定説を見ない。」

としている。語源説を拾ってみても,

カブは頭の意(古事記伝),
カフト(頭蓋)の音義(和語私臆鈔),
カブブタ(頭蓋)の約転(言元梯),
カブト(頭鋭)の意(類聚名物考),
カブは頭。トは事物を意味する接尾語(日本古語大辞典),
頭を守る大切なものという意で,カブ(頭)フト(太=立派なもの)か(衣食住語源辞典),
カブツク(頭衝)の義(名言通),
頭にカブルものだから(日本釈名。箋注和名抄),
カブルトの約か(菊池俗言考),
カブルはカブル,トはヲトコ(男)の上下略か(和句解),
カブシトトノフの義(桑家漢語抄),
カウベフト(首太)の義(柴門和語類集),

等々。単純に,

「被ると」

という意味だったのではないか,と思いたくなる。文脈依存なのだから,兜をかぶりながら,

「被ると安全。。。」

と言ったような。

参考文献;
https://matome.naver.jp/odai/2133715851085504501
藤本巖監修『図説戦国変わり兜』(学研)
笠間良彦『図説日本甲冑武具事典』(柏書房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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2017年07月14日

さけ


「さけ」は,

鮭,
鮏,

を当てる。『広辞苑』を見ると,

「アイヌ語サクイベ(夏の食物)からとも,サットカム(乾魚)からともいう」

とある。いわゆる,

サケ目サケ科,

の,サケ,ベニザケ,ギンザケ,マスの一部の総称,である。

『日本語源広辞典』も,

「『アイヌ語sakipe秋』です。シャケからサケへ変化した語です。秋の魚の意です。方言アキ(秋)+アジ(味)という語があり,語源が似ています。」

とアイヌ説をとる。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/sa/sake_sakana.html

も,諸説挙げた上で,

「アイヌ語で『夏の食べ物』を意味する『サクイベ』や『シャケンベ』は,魚の『マス』を意味する語に通じることや,鮭の大きなものを古語では『スケ』と言い,『shak』の部分は『スケ』や『サケ』の音に変化することは十分に考えられることから,アイヌ語説は有力とされている。」

さけ.jpg



確かに,アイヌ語由来というのは,頷けなくもない。『大言海』も,

「かたこと(慶安,安原貞室)『此魚,子を生まんとて,腹のサケはべる,とやらむと云へり』,和訓栞さけ『鮏の字を讀むは,云々,裂けの義。其肉,片々,裂けやすし,と云へり』,共に,いかが,古語に,此魚大なるを,スケと云へり,参考すべし。」

と,「裂け」説に疑問を呈し,「スケ」説を取っている。因みに,『大言海』によると,「すけ(鮭)」は,

「古へ,鮭の大いなるものの称」

で,常陸風土記の注に,

「鮏祖は,鮭の親の義にて,鮭の大いなるものを云ふと云ふ」

とあるとし,更に新編常陸風土記の,

「常陸國南部,及び,松前の土人は,鮭の大なるを,佐介乃須介と云ひ,鱒の大なるものを痲須乃須介とと云ふ。彼土人の説を聞きたるなり。本國にても,往古は,此称ありしこと,明らかなり。魚鳥平家に,鮭大介鰭長と云へる名を設けしも,此塩湖りての事ぞと思はる」

を引く。

http://zatsuneta.com/archives/001763.html

も,

「古く東日本で『スケ』と呼ばれていたものから転訛したという説。身が簡単に裂けるから『サケ』の名が付いたという説。アイヌ語の『シャケンペ』に由来する説がある。アイヌ民族はサケを『神の魚』として尊んだという。」

としている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B1

によれば,

「日本系サケと若干のマス類は、先史時代から漁獲の対象となってきた。かつて山内清男が縄文文化が東日本でより高度に発達した理由をサケ・マス資源の豊富さに求める説を唱えた。この説に対し当初は批判が多かったが、その後の発掘調査において東日本各地の貝塚でサケの骨が発見されるにおよび評価されるようになった。なお、平安時代の「延喜式」にも日本海沿岸諸国からの河川遡上魚の献上の記事が載せられている。」

とあり,東日本中心,ということが,いっそうアイヌ説に重みを持たせる気がする。なお,

http://www.nihonjiten.com/data/45609.html

は,

「『夏の食物』を意味するアイヌ語『サクイベ』・『シャケンべ』→『シャケ』→『サケ』と転訛したとする説、身が『裂(サケ)』やすいことに由来する説、肉の色が『酒(サケ)』に酔ったように見えることに由来する説、赤と同語源である『朱(アケ)』色が転じた説など、他にも諸説ある。」

とした上で,「鮭」「鮏」の漢字表記について,

「『鮭(サケ)』は国訓であり、『桂』の花が咲く頃に、川を上ってくることから『圭』の字を当てたとする説がある。本来は『鮏』と書き、生臭い意を表す。」

としている。しかし,

http://zatsuneta.com/archives/001763.html

によると,

「漢字の『鮭』は本来『フグ』を意味する。『圭』が『怒る』を表し、『怒ると腹がふくれる魚』=『フグ』となったという説がある。他にも説があり、シャケは元来『魚へんに生』で『鮏』と書いていた。これはサケが生臭い魚であったことに由来する。しかし、この漢字ではイメージが悪いため、『鮏』によく似た『鮭』に替えたという。」

の説を載せる。『大言海』も,

「鮭(けい)は,河豚(ふぐ)なり,鮏(せい)は,魚臭なり,ともに当たらず」

としている。『字源』には,「鮭」は国字,とあり,「鮏」(セイ,ショウ)の字のみ載せる(「なまぐさし」と)。『漢字源』は,「鮭」(ケイ,ケ)の字のみ載せ,「ふぐ」と「さけ」の意として,

「魚+音符圭(三角形に尖った,形がよい)」

と解字する。この辺りは,これ以上確かめようがない。

『日本語源大辞典』の諸説を整理しておくと,

肉が裂けやすいところから,サケ(裂)の義(日本釈名・滑稽雑談所引和訓義解・和訓栞・言葉の根しらべの),
稚魚のときから全長一尺に達するまで,胸腹が裂けているところからサケ(裂)の義。また,肉の赤色が酒に酔ったようであるところからサカケ(酒気)の反(名語記),
産卵の際,腹がサケルところからか(かた言),
海から川へサカサマにのぼるところから(和句解),
肉に筋があってほぐれやすいところから,肉裂の略か(牛馬問),
肉の色から,アケ(朱)の転(言元梯元),
セケ(瀬蹴)の義(日本語原学),
鮭の大きいものを言う古語スケと関係がある(大言海),
スケと同根,スケは夷語か(日本古語大辞典),
夏の食物の意のアイヌ語サクベイからか(東方言語史叢考=新村出),
アイヌ語シャケンバ(夏食)が日本語に入ったもの(世界言語外説=金田一京助),

等々。やはり,古代の生活史から考えても,サケの実態から考えても,アイヌ説が有力である。因みに,いつも異説を立てる『日本語の語源』は,

「秋,川をさかのぼって上流の砂底に産卵した後,死ぬ。その語源はサカノボル(遡る)魚で,その省略形のさか魚が,サケ魚・サケ(鮭)・シャケに転音したと推定される。」

としている。

参考文献;
http://www.zukan-bouz.com/sake/sake/sake.html
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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2017年07月15日

猫も杓子も


「猫も杓子も」は,

「誰も彼も」

という意味だが,どこか皮肉る含意がある。ちょうど,忙しいときに,

猫の手も借りたい,

という言い方をするが,そのときの,

誰でもいい,

と似たニュアンスである。『岩波古語辞典』には載らないが,『江戸語大辞典』に,

「猫のちょっかいが杓子に似るのでいうとも,寝る子も釈子すなわち法師の意とも,あるいは女子も釈氏の転ともいい諸説紛々」

とあり,

「猫も飯鍬(しゃくし)もおしなべて此道(死)をもるヽことなし」(明和六年・根無草後編)

を引く。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/ne/nekomosyakushimo.html

は,

「寛文八年(1668)の『一休咄』に,『生まれて死ぬるなりけりおしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も』とあり,それ以前に使われていたことがわかるが,語源は以下のとおり諸説ある。
1.『猫』は『神主』を表す『禰子(ねこ)』,『杓子』は僧侶を表す『釈氏・釈子(しゃくし)』で,『禰子も釈氏も(神主も僧侶も)』が変化したとする説。
2.『猫』は『女子(めこ)』,『杓子』は『弱子(じゃくし)』で,『女子も弱子も(女も子供も)』が変化したとする説。
3.『猫』は『寝子(ねこ)』,『杓子』は『赤子(せきし)』で,『寝子も赤子も(寝る子も赤ん坊も)』が変化したとする説。
4.『杓子』は『しゃもじ』のことで,主婦が使うものであることから,『主婦』を表し,『猫も主婦も家族総出で』という意味から出たとする説。
5.猫はどこにでもいる動物,杓子も毎日使う道具であることから,『ありふれたもの』の意味から出たとする説。
 『一休咄』に出てくるため,『1』の説が有力とされることもあるが,それだけでは根拠とならない。『1』の説も含め,こじつけと思える説が多いが,口伝えで広まったとすれば,音変化や漢字の表記が変化することは考えられ,正確な語源は未詳である。」

と諸説を載せるし,

http://www.rcc.ricoh-japan.co.jp/rcc/breaktime/untiku/111025.html

も,

「一休さんが歌の中で始めて言い出したとする説。」
「猫のちょっかい杓子に似たればかく言ふなるべし」と江戸時代の学者の説。
「女子(めこ)も弱子(じゃくし)も」(=「女も子供も」)の意
「女子(めこ)も赤子(せきし)も」
「寝子(ねこ)も赤子(せきし)も」(=「寝ている子供も赤子も」)
「禰宜(ねぎ)も釈氏(しゃくし)も」(=「神も仏も」)
「杓子は家庭の主婦をさし、猫まで動員した家族総出の意味だとする説」

と似た説を並べているが,『日本語源広辞典』は,「猫の手が杓子ににている」「禰子も釈氏も」以外に,

「マヅイ顔の『猫づら』『杓子づら』」

説をあげている。「どんな人も」という含意である。こういう語呂合わせよりは,音韻変化を見る,というのがこの場合も王道に見える。『日本語の語源』は,

「ネギ(禰宜)は神官の位階の名称であり,シャクシ(釈子)は,『釈迦の弟子』という意味で僧侶のことをいう。<釈子に定めましましけれど,いまだ御出家はなかりけり>(盛衰記)。『誰も彼もみな』というとき,『禰宜(神官)も釈子(僧侶)も』といったのが,ギ(宜)が母音交替(io)をとげてネコモシャクシモ(ネコモシャクシモ)になった。」

と,禰宜説をとるが,さらに続けて,

「ちなみに,神仏に願い望むことをコフ(乞ふ・請ふ)という。カミコヒメ(神乞ひ女)は語頭・語尾を落としてミコ(巫女)になった。
 さらにいえば,心から祈るという意味で,ムネコフ(胸乞ふ)といったのが,ムの脱落,コの母韻交替[ou]でネカフ・ネガフ(願ふ)になった。
 ネガフ(願ふ)を早口に発音するとき,ガフ[g(af)u]が縮約されてネグ(祈ぐ)に変化した。その連用形の名詞化が『禰宜』である。また,カミネギ(神祈ぎ)はカミナギ・カンナギ(巫)に変化した。」

とする。音韻変化の流れから,

禰子も釈氏も,

が,「猫も杓子も」と変化した,と見るのが妥当かもしれない。神仏混淆に我々らしい。

ちなみに,「杓子」については,「杓子定規」

http://ppnetwork.seesaa.net/article/447300138.html

で触れたが,「しゃくし」の語源は,『日本語源広辞典』は,二説挙げる。

説1は,「杓+子(接続詞)」が語源。勺・杓は水を汲む器具で,しゃくる(噦る・掬う)物の意です。
説2は,「尺四(一尺四寸)」。吉野の栗木細工のシャクシの長さを語源とするものです。近畿では昭和初期まで,この杓子が主流でした。

この場合,栗木細工の尺(長さ)を指す。しかし,一般には,「しゃくし」は,

「しゃくしはひさご(瓠)のなまった言葉で,その原型はひさごを縦割りにしたものとされている」(『世界大百科事典』)
「(杓子の杓は)古語,ひさご(瓢)の転の,ひしゃくの略」(『大言海』),

とあるが,『日本語の語源』の,上記の文章から,「猫も杓子も」の「しゃくし」を,

「ネギ(禰宜)は神官の位階の名称であり,シャクシ(釈子)は,『釈迦の弟子』という意味で僧侶のことをいう。」

ので,「杓子」は「笏」とつながるのではないか。「笏」は,『日本語源大辞典』には,

「『笏』の漢音『こつ』が『骨』に通うのを忌み,
(イ)笏もものを測るものであるところから,『尺』の音シャクを借りたもの(日本釈名・大言海),
(ロ)笏の長さは一尺であるところからシャクといったもの(嘉良喜随筆・箋注和名抄),
(ハ)材料の木の名をもって呼んだもの(東雅)。」

と諸説あるが,『大言海』が面白いことを書いている。

「笏の音は,忽(こつ)なり,骨(こつ)に通ずるを忌みて,笏も物を量れば,尺の音を借りて云ふとぞ,或いは云ふ,笏尺の略にて,一笏は一尺なりと,多くは,一位の材を用ふ,これ,一位は,極位なれば,その縁に取る,飛騨の国の一位の木,亦,くらゐに取る。釋名『笏,忽也,君有敬命,及所啓白,則書其上,備忽忘也』」

とある。

笏も物を量れば,尺の音を借りて云ふ,

というのが目を引く。「笏」については,こうある。

「又,さく。束帯のとき,右手に持つもの。牙(げ),又は,一位木(いちいのき),或いは,桜・柊,等の薄き板にて,長さ一尺二寸,上の幅二寸七分,下の幅二寸四分,厚さ二分,頭を半月の形とす,即ち,上圓,下方なり。尚,位に因りて差あり,元は君命,又は申さむとする所を記して,勿忘に備ふるものなりしと云ふ。」

と。ところで,「杓子」の「子」は,

帽子,
扇子,
調子,

等々,物の名に添える助辞(『広辞苑』)で,『大言海』は,

「(宋音なり)漢語の下に添えて,意なき語」

として,

台子,
金子,
様子,
払子,
鑵子,

等々を挙げている。「笏」を

「笏子」

といったかどうかは定かではないが,添えてもおかしくはない。

『有職故実図典』には,

「元来,笏は板の内面に必要事項を記載して忽忘に供えるのを本義とし,手板と称して具足した唐制をそのまま伝えたものである。『こつ』の音を忌んで「しゃく」と呼んだ。令制では,唐制と同様,五位以上は牙笏(げしゃく)と規定しているが,牙が容易に得難いところから,延喜の弾正式には,白木を以て牙に代えることを許容しており,こうして礼腹(らいふく)の他は,すべて木製となって近世に至った。」

とあり,笏の起源は,

http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20130122

によると,

「笏の発祥は中国で、前漢の時代に著された『淮南子』(えなんじ)に、『周の武王の時代、殺伐とした気風を改めるため武王が臣下の帯剣を廃し、その代わりに笏を持たしめた』とあるのが笏の起源と云われています。笏が中国から日本にいつ伝わったのか、その正確な時期は特定できませんが、絵画に於いては、聖徳太子や小野妹子が描かれている画像等に見られる笏が今のところ最も古いとされている事から、推古天皇の御代に六色十二階の冠制が創定された時期に日本でも笏が使われるようになったのではないか、と推定されています。」

とあり,中国発祥らしい。

なぜ笏にこだわるかというと,

猫も杓子も,

は,その形から,

猫も笏子も,

と言っているのではないか,と億説だが,思うからだ。猫の手と笏とをいっしょくたにした,という含意で。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%8F
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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2017年07月16日

ねこ


「猫も杓子も」を,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/451814115.html?1500062074

で取り上げたが,そのついでに,「猫」を調べると,この語源が,またまた百家争鳴。

『広辞苑』は,

「鳴声に接尾語コを添えた語。またネは鼠の意とも」

とあり,『岩波古語辞典』も,

「擬音語ネに接尾語コをそえたもの」

とする。因みに接尾語「こ」は, 『広辞苑』には,

こと(事)の下略,
互いにすること,相競うこと(「かけっこ」「くらべっこ」),
さま,とういう状態表現(「ぺちゃんこ」「どんぶらこ」),
特に意味を持たず,種々の語に付く(「べ(牛)こ」「ちゃわんこ」「ぜにっこ」)

の説明があるが,『大言海』は,「子」「縷」「處」「競」「箇」と当て,それぞれ由来が違う。

「子」は,「父母が,男女子を愛しみて名づけしに起れるなるべし。殊に女は親愛の情深きものなれば,後には専ら女子の名につくるが多くなれるなり」
「子」は,「其物事の體を成さしめ,名詞を形作らしむる語なるが如し。漢語の冊子・帷子・帽子・瓶子・雉子・椅子・茄子などの子と,その意同じ。倭漢暗合なり」
「縷」は,「常に子の字を記す。物の義なる子(すぐ上の『子』)にて,唯数ふるに云ふなるべし(縒り足る糸を一子二子と)」
「處」は,「ところのコ。在処(ありか),住処(すみか)のカに通ず」(「いずこ」「かしこ」「あそこ」)
「競」は,「クラベ,クラの約まりたるなり(クラベ,クラ,コと次第に約まる)」
「箇」「個」は,「箇(か),個(か)の百姓読み。箇(か)に同じ。物を数ふるに云ふ」

とある。これだと「ねこ」の「こ」がはっきりしないが,

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14119070404

によると,

「にらめっこ おにごっこ かけっこ あいこ なれっこ うそっこ かまいっこ ふざけっこ ⇒ すること、しないことを指す

とりかえっこ かわりばんこ あてっこ ⇒ 二人以上で、類似のことを、交互にやることを示す

江戸っ子 だだっ子 ちびっ子 むすめっこ 売り子 縫い子 踊り子 お針子 ⇒ 属性を示す
にゃんこ ⇒ 小さい生き物に親愛を込めた名詞にする
真智子 京子 桜子 珠子 菜々子 ⇒ 女の名前であることを示す
根っこ 端っこ はんこ あんこ すみっこ はらっこ ⇒ 幼児語、俗語 (短すぎてわかりにくくなる語を分かり易くする)
ごっつんこ ぺちゃんこ ⇒ 擬態語を様子や状態を示す用語に転換する
断乎(だんこ) 確乎(かっこ) 茫乎(ぼうこ) 凛乎(りんこ) ⇒ ようすを示す」

の「にゃんこ」と似ているのではないか。「ね」が擬音語なら「にゃん」もそうだ。しかし,「擬音語+こ」は,一説に過ぎない。『大言海』は,その説を採らない。

「ネコマの下略。寝高痲の義などにて,韓国渡来のものか。上略してコマとも云ひしが如し。或いは云ふ,寝子の義マは助詞なりと。或いは如虎(にょこ)の音転など云ふは,あらじ。又タタケ(家狸)と混ずるは,非なり」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B3

によれば,

「日本には奈良時代に倉庫の穀物や経典類の番人として輸入されたことにより渡来してきたものと考えられている」

とあるし,

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1146875076

でも,

「ネコは、経典などをネズミから守る為に奈良時代頃に中国から輸入されたと伝えられてます。」

とあるから,鳴声も「ミャウ」という呉音とともに入ってきたと考えられるのかもしれない。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/ne/neko.html

も,

「ネコの語源は『ネコま』の下略という説が多く,猫は夜行性で昼間よく寝ることから『寝子』に『獣』の意味の『マ』が付いたとする説。『ネ(寝)』に,『クマ(熊)』が 転じた『コマ』が付いたとする説。『ネ』が『鼠』、『こま』が『神』もしくは『クマ(熊)』とする説などがある。
 平安中期の漢和辞書『和名抄』に『禰古万』とあり,『ネコマ』が『ネコ』の古称とされていたため考えられた説だが,『ネコ』と『ネコマ』のどちらが古いか定かでない。
 有力な説は,『ネ』が鳴声,『コ』か親しみを表す接尾語というものである。
 『源氏物語』ではねこの鳴声を『ねうねう』と『ネ』の音で表現しており,『猫』の呉音は『ミョウ』『メウ』で鳴声に由来する。
幼児語で,『ニャンニャン』『ニャアコ』,犬を『ワンワン』や『ワンコ』というように,鳴声で呼び,後に『コ』を加える点も共通している。
漢字『猫』は,獣偏に音符『苗』で,『苗』は体がしなやかで細いことを表したものか,『ミャオ』と鳴く声になぞらえた擬声語と考えられている。」

と,「鳴声+接尾語コ」としているが,やはり,

「『源氏物語』ではねこの鳴声を『ねうねう』と『ネ』の音で表現しており,『猫』の呉音は『ミョウ』『メウ』で鳴声に由来する。」

と,猫とともに,「鳴声」の表現を手に入れたというのが妥当かもしれない。『日本語源広辞典』も,「寝子」説を否定し,鳴声説を推す。

猫.jpg


ついでながら,『日本語源大辞典』の,語源説を拾っておくと,

ネは鳴声から,コはヰノコ(豕)などのコと同じ(雅語音声学・日本語源・音幻論=幸田露伴),
ネウクの義。鳴声から(言元梯),
ネコマの下略(南留別志),
ネコマ(寝高痲)の略,あるいはネコ(寝子)-マの略,マは助詞(大言海),
ネコマ(寝子獣)の義(日本古語大辞典),
ネ(寝)コマの義。コマはクマの転。クマは猫の古名(名言通),
ネコマの略。ネは鼠の義。コマはカミ(神)の転(東雅),
ネウネウと鳴くケモノの義。コマはケモノの略(兎園小説),
ネコ(寝子)の義(菊池俗語考・和訓栞),
ネル(寝)をコノム(好)ところから(日本釈名),
ネブリケモノ(眠毛物)または,ネケモノ(寝毛物)の義(日本語原学),
ニフリモノ(睡獣)の略。ケモノの反はコ(円珠庵雑記),
ネはネズミ(鼠)の意。コはコノム(好)の義(和句解・日本釈名・日本声母伝),
ネコマチ(鼠子待)の略か(円珠庵雑記),
ネカロ(鼠軽)の義。鼠にあうと軽々しく働く意(名語記),
ネコ(似虎)の義(和語私臆鈔),
ヌエの頭に似ているところから,ヌエコの略転(橿園随筆)

等々,あきらかに,「ヌエ」のように,「猫」を知ってからのものにこじつけるなど,あやしげなものが多い。異説を述べる『日本語の語源』も,

「ミャーミャーと食べ物をねだってしきりに鳴くので,ナクケモノ(鳴く毛物)と呼んでいたのが,上二音を残してナク・ネコ(猫)に転音した。」

と,さすがに,すこし滑っているようである。

なお,猫については,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B3

に詳しが,

「世界のイエネコ計979匹をサンプルとしたミトコンドリアDNAの解析結果により、イエネコの祖先は約13万1000年前(更新世末期〈アレレード期(英語版)〉)に中東の砂漠などに生息していた亜種リビアヤマネコであることが判明した。」

そうである。ここまでくると,「いぬ」も調べてみたくなる。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B3
http://www.necozanmai.com/zatsugaku/origin-%22neko%22.html
https://peco-japan.com/13943


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2017年07月17日

隔靴掻痒


本川達雄『ウニはすごい バッタもすごい-デザインの生物学』を読む。

ウニはすごい バッタもすごい.jpg


正直に言うが,特別に,ウニやナマコやサンゴやヒトデに興味があるならともかく,その特徴を並列されているので,途中で飽きてしまう。全体のテーマがよくわからない。

「本書では,おもに無脊椎動物(背骨をもたない動物)について紹介する。現在知られている動物の種の数はおよそ一三〇万。脊椎動物は約六万種だから全体の五%以下で,大半の動物は無脊椎動物なのである。その膨大な無脊椎動物の世界を紹介していきたい。そして本書の最後に,それらと比較して,われわれ脊椎動物がどのようなものなのかを見ることにする。」

とし,三四の門に分けられる動物のうち,

「代表的な五つの門(刺胞動物門,節足動物門,軟体動物門,棘皮動物門,脊索動物門)」

を取り上げている。

ひとつひとつは確かに,「すごい」が,浅学のせいか,全体のつながりがよく見えてこない。たとえば,本書は,

サンゴ,

から始まり,

「サンゴは動物である。ただし体内に大量の植物(藻類)を共生させており,藻類とのたぐいまれな共生が,サンゴ礁という,この世のものとも思えぬほど美しく多彩な世界を作り上げている。ここでのキーワードは『共生』と『リサイクル』。どちらも現代人にとって重要なものだろう。
 サンゴ礁に関わる現代的なキーワードはまだある。『生物多様性の減少』と『地球温暖化』。」

と書きはじめられる。こうなれば,「共生」「リサイクル」「生物多様性の減少」「地球温暖化」が,全体のテーマと思うだろう。まして,

「サンゴ礁は熱帯雨林とならび,きわめて生物多様性が高いが,どちらの生態系においても,現在,大変な速度で生物多様性の現象が進んでいる。そしてサンゴ礁での生物多様性を減少させている主な原因の一つが地球温暖化。生物多様性の現象も地球温暖化も,早急に解決に向けて取り組むべき課題であり,そのこともあって,サンゴとサンゴ礁から,本書を始めることにしたい。」
 
と続くのだから。しかも,サンゴの章は,

「たった一,二度(の温度上昇)で,サンゴと褐虫藻という,類い希な共生関係が解消されるという事実は,きわめて多重要なことをわれわれに教えてくれる。(中略)
 ごくわずかな温度上昇で,白化という目に見える変化がすぐに表れるのだから,これは地球温暖化の高感度センサーだと言っていい。このセンサーは世界中の熱帯の海に配置されており,これを活用しない手はない。私はサンゴ礁を『青いカナリア』と呼んでいる。」

と,むかし鉱山に入るとき,ガス発生のセンサーにしようとしたに準えて,締めくくられている。だから,これが全体のテーマであるのか,と期待する。他の動物紹介も,環境変化の中で,それぞれに何が起きているのか,に向かうのか,と。しかし,次章,昆虫の記述は,

「動物の種の七割以上が昆虫,全光合成生物の約七割が被子植物。最も多いものの双璧が昆虫と被子植物なのであり,このものすごい多様性は,両者の共進化により生じたものである。」

両者の繁栄で終わっており,サンゴ礁で起きた環境変化についての記述はない。さらに,

「ゆっくり動く祖先から,固着して濾過摂食をする二枚貝類」

へと進化した貝類も,また,その逆の,

「固着して濾過摂食をしていた祖先から,ちょっとだけ動く生活へ移っていった棘皮動物」

についても,環境変化の影響についての記述はない。確かに,ヒトデが,

なぜ五放射なのか,

についての,仮説はおもしろい。例えば,「滑走路仮説」によれば,

「一本の滑走路は,どちら向きにも使うことができる。つまり,一八〇度逆の二つの方向から向かってくる飛行機を誘導できる。だから五本の滑走路が放射状に走っていたら,誘導できる方向は一〇方向。三本なら六方向。ところが四本の滑走路が十字になっていたら誘導できる方向は四方向のみ。六本の滑走路なら六方向。つまり奇数であればその倍の方向を誘導できるのに対し,偶数ならその本数分しか誘導できない。滑走路を花弁,飛行機を虫に置き換えて考えれば,奇数枚の花弁の方が,花弁あたりにして多くの方向の虫を誘導でき,それだけ受粉の確率が上がり効率がよくなるだろう。」

となる。ヒトデの場合は,プランクトンということになる。しかし,それが,どういう環境変化の影響を被っているのか言及がない。

「かつて棘皮動物(ヒトデやウニ等々)には,五ではなく,三をベースにした仲間が存在していた。その三から現在のような五の仲間が進化してきた。」

しかし,奇数であったことに着目するが,その進化と環境との関係については言及がない。最終章は,

四肢動物と陸上生活,

で,

「四肢動物(四足動物)は四本の肢をもち,魚から進化した。最初の四肢動物が両生類であり,両生類から爬虫類が進化し,爬虫類から鳥類が進化した。哺乳類は,すでに絶滅した単弓類から進化してきた。旦弓類は,以前は哺乳類型爬虫類と呼ばれ,爬虫類の中に入れられていたものである。単弓類と爬虫類は共通の祖先をもつ。すなわち両生類からその共通祖先が進化し,それが二系統に分かれて,一方は哺乳類へ,他方は爬虫-鳥類へと進化してきた。」

しかし,水陸どちらが暮らしやすいかの比較で,

酸素の入手,

以外,

水の入手・乾燥の危険,
姿勢維持・歩行,
食物の入手と消化,
窒素代謝物の処理,
生殖・子孫の分散,
温度の安定,

いずれをとっても,水中の方が利点があった。にもかかわらず,陸へ上がった動植物は,水中に残ったものと比べて,今日の環境変化(気温上昇)の影響では,どちらが有利なのか,あるいはどうなるのか,せっかくサンゴ礁での問題提起は,最終章まで通貫されず,問いの答えが出されないまま,何となく,隔靴掻痒の思いを残した終り方である。

参考文献;
本川達雄『ウニはすごい バッタもすごい-デザインの生物学』(中公新書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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2017年07月18日

いぬ


「いぬ」は,

犬,
狗,

と当てる。因みに,「犬」の字は,

「犬を描いた象形文字」

だが,「ケン」の音(漢音・呉音)は,

「クエンという鳴声を真似た擬音語」

という。「狗」(呉音ク,漢音コウ)は,

「犬+音符句(ちいさくかがむ)」

で,元々は,小犬を指す。後に犬の総称となり,さらに,「走狗」のように,いやしいもののたとえとして使われるようになる。

柴犬.jpg

(柴犬)


さて,和語「いぬ」である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8C

によれば,

「日本列島においては犬の起源は不明であるが、家畜化された犬を飼う習慣が日本列島に渡ってきたと考えられている。縄文時代早期からの遺跡から犬(縄文犬)が出土しており、埋葬された状態で出土した事例も多い。縄文早期から中期には体高45センチメートル前後の中型犬、縄文後期には体高40センチメートル前後の小型犬に変化し、これは日本列島で長く飼育されたことによる島嶼化現象と考えられている。」

とあり,人とともにこの列島にわたってきたものらしい。

犬.jpg

縄文人と縄文犬の復元模型(国立科学博物館の展示)


『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/i/inu.html

によると,

「犬は縄文時代から家畜化されており、自然界の言葉と同じく基礎語にあたるため、語源 は以下の他にも多くの説があるが特定は難しい。
1.『イ』は『イヘ(家)』の意味で、『ヌ』 は助詞。
2.『イヌ(寝ぬ)』の意味や、『家で寝る』の意味で『イヌル』の下略。
3.すぐに立ち去ってしまうことから,『イヌ(往ぬ・去ぬ)』
4.『唸る(うなる)』の古語『イナル』の語幹『イナ』の転。
5.他の動物と同様に,また,犬の字音が『クエンクエン』という鳴声から『ケン』であるように,鳴声が語源で『ワンワン』や『キャンキャン』が転じたもの。
 江戸時代以前,犬の鳴声は『ビヨビヨ』『ビョウビョウ』と表現されていたことを踏まえると,鳴声を語源とするのは考え難いが,更にそれ以前どう表現されていたか不明であるため,完全に否定することはできない。
 小犬を表す『狗』は『エヌ』と呼ばれており,『イヌ』と『エヌ』が正確に区別されていたとすれば,『イ』は区別するための音で,『ヌ』に『犬』を表す意味が含まれている可能性が高い。」

とある。「イヌ」と「エヌ」の区別は,

http://www2.plala.or.jp/terahakubutu/jyuunisiinu.htm

に,

「『現代日本語方言大辞典』によるとイヌの方言には2系統あるようです。
  [イヌ形]:イナ、イヌメ、イン、イングリー等
  [エヌ形]:エヌコ、エヌッコ、エヌメ、エノ、エンガ、エンコ等
 平安中期の源順が著した分類漢和辞書『和名類聚抄』に、狗(イヌ)を恵奴(エヌ)と注してあります。」

とあるが,あくまで「イヌ」を前提にしての話で,「いぬ」の語源とはつながらない。どうやら,諸説紛々,並べてみると,

鳴声。ワンワンのワがイに転じたか(大言海),
鳴声ウエヌの転(松屋叢考),
外来語か。あるいは,イナル(ウナル)の語幹イナの転か(日本古語大辞典),
遠くからでも飼い主のもとへイヌル意(和句解・日本釈名・柴門和語類集),
イは,イヘ(家)の約音ヱの転,ヌは助詞(東雅),
イヘ(家)のヌヒ(婢)か(和句解),
イヌル,即ち家に寝る義(日本声母伝・和訓栞・言葉の根しらべ),
ヲリヌル(居寝)の約(和訓集説),
イネヌ(寝)の意(和語私臆鈔・日本語原学),
イヌは犬,エヌは犬の子で区別するのが正しいが混同している(箋注和名抄),
古語のエヌから転じ,エヌは「犬」の別音yenである(日本語原考=与謝野寛),
イ(忌)+ヌ(緩)で,主人の危機を緩めるもの(日本語源広辞典)

等々。『日本語の語源』は,

「安寝は『心安らかに眠ること。安眠』の意である。犬は家畜として警護・狩猟につかわれてきたが,そのお蔭で安眠ができるのでヤスイナル(安寝成る)毛物といった。イナル(寝成る)は,ナル[n(ar)u]の縮約でイヌ(犬)に転化した。」

とする。犬を見る視点ではなく,飼い主視点というのは,他にない視点で,ちょっと惹かれる。通常考えれば,鳴声説をとりたくなる。『日本語源広辞典』は,鳴声説で,

「ワン,ウワン,ウェヌ,ウェン,イェン,イン,イヌ」

と転訛をなぞって見せている。鳴声の初めの表現が分からないが,「犬」の訓みがそうであるのと同様,やはり「ねこ」

http://ppnetwork.seesaa.net/article/451841720.html

で触れたように,鳴声から来ているのと準ずるのではないかという気がする。

『江戸語大辞典』には,

義理を知らぬ人間のたとえ(犬畜生),
似て非なるもの,多く草木名にいい,接頭語として用いる(犬蓼,犬枸杞),
まわしもの,間者,
岡っ引きの異称

の意味しか載らない。何々の「いぬ」という言い方は,

『日本語俗語辞典』

http://zokugo-dict.com/02i/inu.htm

に,

「古く江戸時代から間者(スパイ)という意味で使われていた言葉である。これは前田利家の名で知られている戦国武将“前田犬千代(通称イヌ)”が間者として活躍したからと言われている。また、イヌは単に犬の嗅覚や聴覚の鋭さからきた密偵者や軍事探偵の転意ともいわれている。どちらにしても現代使われているイヌはこれらが転じた密告者のイメージが強く、もともと犯罪グループにいたがなんらかの理由で警察の手先となった“情報提供者”や目上の人にチクった者を指すことが多い。この場合『警察のイヌに成り下がりやがって』といったように悪意をもって使われる。」

とあり,岡っ引きも,その意味の流れだが,「いぬ(犬)」のこの意味は,わが国だけである。

また,「犬侍」とか「犬死」と使われる接頭語は,『日本語の語源』に,こうある。

「否定の感動詞イナ(否)はイヌ(犬)に転音して,エセ(似而非)をあらわす接頭語になった。犬蓼・犬芹・犬梨・犬葡萄・犬桜・犬山椒など。犬侍も。山崎宗鑑の『犬筑波集』は二条良基の『菟玖波集』に対して似而非なる連歌集という意味で命名された。」

つまり,接頭語「犬」は,当て字で,「否」という意味ということになる。

それにしても,犬に絡む慣用句は,多いことに驚く。ちょっとと挙げても,犬が西向きゃ尾は東,犬に論語,犬も歩けば棒に当たる,飼い犬に手を噛まれる,犬猿の仲,犬馬の労, 喪家の狗,夫婦喧嘩は犬も食わない,負け犬の遠吠え等々。

なお,犬については,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8C

に詳しい。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8C
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;
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今日のアイデア;
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ラベル:いぬ
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2017年07月19日

あゆ


「あゆ」は,

鮎,
香魚,
年魚,

等々と当てられる。「鮎」の字は,中国語では,

なまず,

を指す。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A6

には,

「漢字表記としては、香魚(独特の香気をもつことに由来)、年魚(一年で一生を終えることに由来)、銀口魚(泳いでいると口が銀色に光ることに由来)、渓鰮(渓流のイワシの意味)、細鱗魚(鱗が小さい)、国栖魚(奈良県の土着の人々・国栖が吉野川のアユを朝廷に献上したことに由来)、鰷魚(江戸時代の書物の「ハエ」の誤記)など様々な漢字表記がある。た、アイ、アア、シロイオ、チョウセンバヤ(久留米市)、アイナゴ(幼魚・南紀)、ハイカラ(幼魚)、氷魚(幼魚)など地方名、成長段階による呼び分け等によって様々な別名や地方名がある。」

とし,さらに,

「中国で漢字の『鮎』は古代日本と同様ナマズを指しており、中国語でアユは、『香魚(シャンユー、xiāngyú)』が標準名とされている。地方名では、山東省で『秋生魚』、『海胎魚』、福建省南部では『溪鰛』、台湾では『[魚桀]魚』(漢字2文字)、「國姓魚」とも呼ばれる。」

で,「鮎」=鮎になった由来は,

「現在の『鮎』の字が当てられている由来は諸説あり、神功皇后がアユを釣って戦いの勝敗を占ったとする説、アユが一定の縄張りを独占する(占める)ところからつけられた字であるというものなど諸説ある。アユという意味での漢字の鮎は奈良時代ごろから使われていたが、当時の鮎はナマズを指しており、記紀を含め殆どがアユを年魚と表記している。」

のだとある。「鮎」の字が当てられた由来については,

http://www.maruha-shinko.co.jp/uodas/syun/39-ayu.html

に,
「1.神武天皇が九州より兵を進め大和国に入り、治国の大業が成るか否かを占って瓶を川に沈めた時、浮き上がってきたのが鮎だった為。現在でも天皇の即位式において、階前に立てられる万歳旗の中の上方には『亀と鮎』が画かれている。
 2.神功皇后が朝鮮半島に兵を出された折、今の唐津市松浦川のほとりで勝ち戦か否かを祈って釣ったのがアユだった為。
3.約1000年前の延喜年間に、秋の実りをその年の諸国におけるアユの漁獲漁の多寡で占ったことから。」

とするが,「鮎」の字は,

「魚+音符占(=粘 ねばりつく)」

で,どう考えても,ナマズのイメージである。それを「あゆ」に当てたのは,これまで漢字を当てた例からすると,単なる誤用ではなく,何か意味があるのかもしれないが,

「古く中国の『食経』(620年頃)にはアユは春生まれ、夏長じ、秋衰え、冬死ぬ生涯から1年魚の意味で『年魚』と書かれていた。年魚の読みから鮎の字を転用したとされていて、『東雅』(1719年)では鮎の字を呉(ご)音で『ネン』と読み、『年魚(アユ)』の『年(ネン)』と同じ読み方から鮎(ネン)の字を転用し『鮎魚(アユ)』としたとあり、『鮎魚』から鮎(アユ)になったとある。『日本書記通証』(1748年)や『倭訓栞』(1777年)では鮎(アユ)と読むのは『倭名類聚抄』(931年)が元となったとあり『鮎は鯰であるが神功皇后の年魚で占ったとの故事に基づいた』とある。年魚に転用された鮎の字は中国で鯰(ナマズ)を意味するとはわからず転用した様であり、鮎の字を転用したことで中国で鯰を表す他の字とも鮎として漢字が使われていて、また同じ川にいる鮠(ハヤ)を意味する漢字とも混用・誤用されて鮎として表記されている。年魚は鮎の他に鮏(サケ・鮭・左計)をも意味している」

とある。もともとは,

香魚,年魚,王魚,

と呼ばれるか,

黄頬魚,銀口魚,氷魚,細鱗魚,国栖魚,渓鰮魚,

とその状態から呼ばれていて,「あゆ」は,

安由,阿由,阿喩,

と当て字をしていたはずである。「鮎」の字を当てたのは後世ではないか,という気がする。たとえば『古事記』の神功皇后が筑紫・玉島の里の小河で食事をした後、釣りをしたおりは,「あゆ」に,

年魚,

が当てられ,『日本書紀』の,神功皇后が松浦・玉島の里の小河で食事をしその後,釣り占いをしたくだりでは,「あゆ」に,

細鱗魚,

が当てられている。漢字について厳密に承知していた古代ではなく,後世の日本人が誤用したとしか思えない。

ま,漢字表記の経緯はともかく,「あゆ」の語源は,諸説ある(『日本語源大辞典』『鮎起源探訪』『大言海』等)。

古来、神殿に供え(饗・アへ)をしたことから饗(アへ)るから「アエ」・「ア イ」になり「アユ」になったとされる。鮎は古くから朝廷への献上品であった(垂仁天皇(656年)の伊勢国度会に倭姫命はアユを献上させ供したとある)(日本古代大辞典)
「アユる」は「落ちる」の古語で産卵鮎が川を落ちる(下る)ことから「アユる」が「アユ」になったとされる(日本釈名)
「アユる」は脆(もろ)く死ぬる意味で産卵後、鮎が死ぬことから「アユる」が「アユ」になったとされる(鰯は,弱しなりと云ふ)(大言海)
「ア」は小、「ユ」は白、から小さく白い魚の意味で「アユ」になった(東雅)
アイ(愛)すべき魚(可愛之魚)から「アイ」「アユ」になった(和訓栞・鋸屑譚)
アユは古い大和言葉(やまとことば)で「ア」は賛歎の語で「ユ」はウヲ・イヲ(魚)の短促音とあり、佳(よ)い魚あるいは美しい魚の意味とある(鮎考)
鮎が矢の様な素早い動きからアイヌ語で矢を意味するアイ「ay」から「アユ」になった(衣食住語源辞典)
酢酒塩とアへ(エ)て食べてヨキウヲのことからアエて美味しい魚「アユ」になった(和句解)
アアヨ(呼々吉)から「アユ」になった(言元梯)
アオユルミ(青緩)から「アユ」になった(名言通)
イハヨルの反語から「アユ」になった(名語記)

その他に,『日本語源広辞典』は,「落ちる」説のほかに,

「『ア(肖)+ゆ』が語源です。似る,好ましい魚,あやかりたい魚の意で,香魚,かおりの好ましい魚の意」

を載せる。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/a/ayu_sakana.html

は,

「アユは,産卵で川を下る姿から『こぼれ落ちる』『滴り落ちる』という意味の『あゆる(零る)』が語源とされることが多いが,アユが川を下る姿はさほど印象的ではなく,『アユ』という音から近い言葉を探し,うまく意味が当てはめられただけと思われる。
 アユの語源は上記のほか諸説あるが,非常に素早く動き矢のようであることから,アイヌ語で『矢』を意味する『アイ(ay)』が転じたものであろう。」

とアイヌ語説をとる。しかし,「あゆ」の生態は,

「北海道・朝鮮半島からベトナム北部まで東アジア一帯に分布し、日本がその中心である[5]。石についた藻類を食べるという習性から、そのような環境のある河川に生息し、長大な下流域をもつ大陸の大河川よりも、日本の川に適応した魚である。天塩川が日本の分布北限。遺伝的に日本産海産アユは南北2つの群に分けられる。」

と,ほぼ日本全域をカバーする。アイヌ語由来とのみは言えない気がする。国栖魚(クズノウオ)という名が,吉野川のアユを朝廷に献上したことに由来するように,関東以北とは限らないのだから。

あゆ.jpg



『日本語の語源』は,

「〈河瀬にはアユユ(鮎子)さ走り〉(万葉)と歌われた鮎は,ニシン目の溯河魚である。幼魚は海に住み,初春,川をさかのぼって急流にすむ。秋,産卵のために川を下るのが落ち鮎で,その寿命はふつう一年だから『年魚』とも書く。
 生育がきわめて早く,また河瀬を疾走するところから,もと,ハヤウヲ(早魚)と呼ばれていた。ヤウ[j(a)u]の部分の縮約で,ハユヲ・ハユになった。さらに,ハの子音交替[fw]でワユに,[w]が脱落して,アユ(鮎)に転化したと推定される。」

とする。つまり,

ハヤウヲ→アユヲ・ハユ→ワユ→アユ,

と転訛したという訳である。この説に与したい気がする。

参考文献;
http://www.zukan-bouz.com/syu/%E3%82%A2%E3%83%A6
http://www004.upp.so-net.ne.jp/onkyouse/tumjayu/page025.html
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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2017年07月20日

さけ


「さけ」は,

酒,

と当てるが,この「酒」の字は,

「酋(シュウ)は,酒つぼから発酵した香りの出るさまを描いた象形文字で,酒の原字。酒は『水+酉(さけつぼ)』で,もと,絞り出した液体の意を含む」

とあり,「酋」の字は,

「つぼの中に酒がかもしだされて,外へ香気がもれ出るさまを描いたもの。シュウということばは,愁(心が小さく縮む)・就(ひきしめる)などと同系で,もと,酒をしぼる,しぼり酒の意であったが,のち,それを酒の字で書きあらわし,酋はおもに,一族を引き締めるかしらの意にもちいるようになった。」

とある。ついでに,「酉」の字は,

「口の細い酒つぼを描いたもの。のち,酒の字に関する音符として用いる。」

どうやら,「酉(とり)」の意は,「作物をおさめ酒を抽出する十一月」というところからきたようだ。

酒.gif


http://kanji-roots.blogspot.jp/2012/03/blog-post_26.html

には,「酒」は,

「会意文字であり、形声文字でもある。甲骨の字の酒の字は『酉』の字である。即ち酒瓶の象形文字である。両側の曲線は酒が溢れ出している様を表し、また酒の香りが四散しているとも理解できる。金文の酒の字は水の字を用いて、酒が大きな酒瓶に入った液体であることを強調している。 
 小篆の酒は左側に水の字を加え、液体であることが強調されている。右辺の『酉』は盛器を表示している。楷書は小篆を引き継いでいる。」

とある。

さて,「さけ」の語源だが,『広辞苑』には,

「サは接頭語,ケはカ(香)と同源」

とあるが,『岩波古語辞典』には,

「古形サカ(酒)の転」

と載る。しかし,『大言海』には,

「稜威言別四に,汁食(しるけ)の転なりと云へり。シルケが,スケと約まり,サケと転じたなむ(進む,すさむ。さかしま,さかさま。丈夫(マスラヲ)もマサリヲの転ならむ)。酒を汁(しる)とも云ふ。上代に,酒と云ふは,濁酒なれば,自ら,食物の部なり。万葉集二,三十二『御食(みけ)向ふ,木缻(きのへ)の宮』は,酒(き)の瓮(へ)なりと云ふ。土佐日記には,酒を飲むを,酒を食(くら)ふと云へり。今も,酒くらひの語あり,或は,サは,発語にて,サ酒(キ)の転(サ衣,サ山。清(キヨラ),ケウラ。木(キ)をケとも云ふ)。即ち,サ食(ケ)と通ずるか。沖縄にては,サキと云ふ(栄えの約とする説は,理屈に落ちて,迂遠なり)」

とあり,

古語,酒(キ),みき,みわ,しる,みづ,あぶら,

と,異称をならべる。ちなみに,「き(酒)」の項には,

「醸(かみ)の約,字鏡に『醸酒也,佐介加无』とあり。ムと,ミとは転音」

とあるし,「しる(醨)」については,

「液(しる)の義。酒の薄きもの,もそろ」

とある。「もそろ(醨)」は,酒の薄い物のことのようだが,「倭名抄」の,

「酒類(あまざけ)類『醨,之流,一云,毛曾呂,酒薄也』」

あるいは,「名義抄」の,

「醦,モソロ,モロミ,ニゴリザケ,カスコメ,ゴク」

を引く。どうやら,「甘酒」のように薄いもののようだ。

『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/sa/sake.html

は,

「『さ』は接頭語『さ』で、『け』は酒の古名『き』の母音変化が有力とされる。」

とする。『日本語源広辞典』は,三説載せ,

説1は,「栄え+(水)」が語源で,酒の語根サケは,栄,盛,幸,咲と通じる,
説2は,「ササ(醸造酒)+キ(酒・音韻変化でケ)」で,醸造した水の意,
説3ハ,サ(純粋)+ケ(内にこもる味,香)」で,香り良き水の意,

とするし,『日本語源大辞典』は,

シルケ(汁食)の転。酒は濁酒であったので,食物に属した(稜威言別),
サは発語,ケはキ(酒)の転か(大言海),
米を醸してスマ(清)したケ(食)の意で,スミケ(清食)の義か(雅言考),
スミキ(澄酒)の約(和訓集説),
おもに神饌に供する目的で調進せられたものでアルトコロカラ,サケ(栄饌)の転(日本古語大辞典),
サケ(早饌)の義(言元梯),
サカエ(栄)の義(仙覚抄・東雅・箋注和名抄・名言通・和訓栞・柴門和語類集),
飲むと心が栄えるところからサカミズ(栄水)の下略サカの転(古事記伝),
風寒邪気をサケルトコロカラ,サケ(避)の義(日本釈名),
暴飲すれば害となるのでトホサケル(遠)意からか(志不可起)
サは真の義(三樹考),
サラリと気持ちがよくなるところから,サラリ気の義(本朝辞源),
本式の酒献は三献であるところから,「三た献」を和訓してサケといったもの(南留別志・夏山雑談),
飲めば心のサク(咲・開)ものからサカ(酒)が生じ,イが関与してサケになったもの(続上代特殊仮名言葉),
「酢」の音sakが国語化したもの(日本語原考),
 
等々挙げるが,どれも語呂合わせで,ピンとこない。なんとなく,「キ」が,御酒と通じる気がしてならない。だから,御神酒は,屋上屋なのではないか。

酒の古名は,「サケ」「ミキ」「クシ」「ミワ」,として,

http://www.maff.go.jp/kinki/seibi/ikeq/setumei/no06/page03.htm

では,

「『古事記』には『サケ』という記述が全部で10カ所出てくる。たとえば、『八塩折之酒』(やしおおりのさけ)、『待酒』(まちさけ)、『甕酒』(みかさけ)などで、また『日本書紀』には19カ所(八醞酒(やしおりのさけ)、八甕酒(やはらさけ)、毒酒(あしきさけ)、天甜酒(あまのたむさけ)、味酒(うまさけ))などが出てくる。『ミキ』については、『古事記』に26カ所出てきて(美岐(みき)、登余美岐(とよみき)、意富美岐(いとみき)など)、『日本書紀』には15カ所(大御盞(おみき)、弥企(みき)、瀰枳(みき)など)出てくる。じつはこの『サケ』と『ミキ』がサケ古名の大半で『クシ』となると『古事記』には2カ所(具志(くし)、久志(くし)、日本書紀には1カ所(区之(くし))しか出てこない。『ミワ』という古名は『古事記』にはみあたらず、『日本書紀』に1カ所「神酒」(みわ)というところが見えるだけである。」

として,それぞれの由来を詳細に辿っている。その中で,「ミキ」について,

「『ミ』は接頭語であるから、問題は『キ』である。実は酒の古語である『サケ』、『ミキ』、『クシ』などが登場して来る前の古語では『キ』だけであった。江戸時代中期の儒者・新井白石はそのあたりのことを徹底的に調べて、古語時代は食べることまたは食べ物を『ケ』、飲み物はそれが転じて『キ』となったと述べている。そういえば天皇の食事の料は『御食』(みけ)、『御饌』(みけ)であり、今日でも朝食のことを『朝餉』(あさげ)、夕食のことを『夕餉』(ゆうげ)という言い方も残っている。つまり、酒を『キ』といったのは、酒は神聖で食べ物、飲み物の最高の者として位置づけ、飲食物の総称として『ケ』を与えた。その『ケ』が『キ』に転化したというわけである。」

とする,

ミ+キ(酒の古形)

が,やはり説得力がある。とすると,「さけ」の「ケ」も古形「キ」と考えるのが妥当な気がする。『大言海』の,

「サは,発語にて,サ酒(キ)の転(サ衣,サ山。清(キヨラ),ケウラ。木(キ)をケとも云ふ)」

が注目される。

参考文献;
http://kanji-roots.blogspot.jp/2012/03/blog-post_26.html
http://www.maff.go.jp/kinki/seibi/ikeq/setumei/no06/page03.htm


ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

ラベル:さけ
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