2017年10月01日

死に方


小谷みどり『〈ひとり死〉時代のお葬式とお墓』を読む。

ひとり死 時代のお葬式とお墓.jpg


80歳以上で亡くなる人は,男子で50.4%,女性で,73.0%。しかも女性の36.0%は90歳以上(2015年)という超高齢社会で,しかも,夫婦二人暮らしかひとり暮らしの高齢者が半数を超え(2035年には世帯主65歳以上の44.0%がひとり暮らしになる),

どう死ぬか,

が大きな問題になる,という著者の問題意識だ。たぶん,

みっともない死に方をしたくない,

という著者の個人的美学が通底しているような気がする。しかし,僕は,死んだ人間には,みっともないも,みっともなくも関係ない,という思いが強いのだが,

「数年前,知人がなくなったと知らせを受け,お通夜の前に駆けつけたことがある。故人の口はぽかんと開き,はがない口の中は丸見えで,…若いころは教員をしており,理知的であった故人が,こんな姿ではあまりに気の毒だった。」

と,死後の姿にこだわっている。

「亡くなった人の口がぽかんと開いていても,『亡くなったのだから,仕方ないでしょ』と思う人がいるかもしれない。…しかし,これは故人の尊厳にかかわる問題ではないかとおもう。」

しかし,「尊厳」というなら,そこに問題があるのではない。と僕は思う。本書の掉尾,

「人は生きてきたように死ぬとよく言われるが,現代のお葬式やお墓のかたちは,まさしく社会の縮図ではないかと思う。」

とあるのが,たぶん本書のテーマなのだろう。しかし,

個々の人がどう生きたかが,どう死ぬかをきめる,

のだとすると,そのことと,墓や葬式は,別なのではないか,という気がする。墓も葬式も,生きている側の問題だから,

「人は生きてきたように死ぬ」

と,

「現代のお葬式やお墓のかたち」

とはつながらないような気がする。そうではなく,「死んだときに」その人がどれだけの人と関わってきたかが,わかる,という意味だとすれば,「社会の縮図」ではなく,あくまで,「その人の生き方」の反映でしかない。著者の中に,いくらかの(社会の変化と個人の変化の混同)があるように思える。

「1996年には平均で180人いたが,2005年には100人を切り,2013年には46人となった」

というお葬式の参列者数の変化は,今日の,

家族葬,

の広がりにつながる。それは,核家族化の繁栄でもあるが,地域とのつながりの希薄化とも関わる。

「家族数人だけなら,お通夜と葬儀・告別式を二日間にわたってする必要がなくなる。『一日葬』『ワンデーセレモニー』と呼ばれるスタイルは,お通夜をせず,葬儀・告別式,あるいは宗教的儀式の葬儀式もせず,身内だけでの告別式をした後でそのまま火葬してしまうというのが一般的な流れだ。」

と,葬儀も核家族化し,社会とのつながりが薄くなる。その究極は,

弔われない死者,

の増加である。こういう調査がある。

「65歳以上のひとり暮らし男性で,家族を含む人と毎日会話をする人は,半数しかおらず,16.7%,つまり六人に一人は,二週間に一回以下しか会話をしていない」

という。そして,

「60歳以上でひとり暮らしをしている男性の五人に一人は『頼れる人がいない』」

という。確かに,

「もはや血縁,家族ネットワークだけでは,老い,病,死を永続的に支え続けることは不可能なところまで,社会は変容している。」

そうである以上,

「自立できるあいだは,自分のことは自分で責任をもってできるが,介護が必要になってからは,亡くなった後のお葬式やお墓のことを,すべて自分で遂行できる人はいない。お葬式やお墓は不要と考えるのではなく,託せる人を探し,信頼関係を築いておくことこそが,元気なうちに私たちにできる自助努力であり,生前準備なのではないだろうか。」

という著者の主張が,前記の「人は生きてきたように死ぬ」の意味するところだろう。

「いくら生前に考えて準備しておいても,その通りにきちんと実行されたかを自分で確認することはできない」

以上,

「託せる誰かをみつけ,その人を信頼することのほうが建設的だ。そうやって人と人との信頼関係が構築できれば,お葬式やお墓は無形化しないだろうし,無形化したとしても,死にゆく人にとって,死後の安寧が生前に保証されていたのであれば,それ自体は問題とはならないのではないだろうか。」

と。

参考文献;
小谷みどり『〈ひとり死〉時代のお葬式とお墓』(岩波新書)


ホームページ;
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2017年10月02日

さしみ


「さしみ」は,

刺身,

と当てる。

おつくり,

とも言う。

舟形の器に盛られた刺身.jpg

(舟形の器に盛られた刺身)


魚肉などを生のままで薄く切って,醤油などをつけて食べる,

とある(『広辞苑』)。「醤油」は,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%A4%E6%B2%B9

によると,

「日本における最古の歴史は弥生時代とされている。肉醤、魚醤、草醤であり、中国から伝わったものは唐醤と呼んだ。文献上で日本の『醤』の歴史をたどると、701年(大宝元年)の『大宝律令』には、醤を扱う『主醤』という官職名が見える。また923年(延長元年)公布の『延喜式』には大豆3石から醤1石5斗が得られることが記されており、この時代、京都には醤を製造・販売する者がいたことが分かっている。また『和名類聚抄』では、『醢』の項目にて『肉比志保』『之々比之保』(ししひしほ)についてふれており、『醤』の項目では豆を使って作る「豆醢」についても解説している。」

とあり,かなり昔から,あったことがわかる。

『岩波古語辞典』には,

「近世上方では,淡水魚の料理に言い,海産魚には『つくり身』といいわけることが多い」

とあり,『江戸語大辞典』には,

「江戸は刺身と作り身を区別せず,また魚肉ならざるもものにもいう。」

とある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%BA%E8%BA%AB

にも,

「かつての関西では、原則として鯛などの海の物に限られているが、魚を切る事を『作り身』といい、それに接頭語を付けた『お造り』という言葉がうまれた。そして淡水魚の場合は『刺身』といったことが『守貞謾稿』に記されている。現在では異なっている。懐石や会席料理などの場合には、お膳の向こう側に置かれることから、向付(むこうづけ)と呼ばれる。」

とあるが,今日では,その区別はすたれているように見える。さらに,

「料理としての刺身は、江戸時代に江戸の地で一気に花開いた。そもそも京都は、鯉のような淡水魚を除けば新鮮な魚介類が得られにくいため、いわゆる江戸前の新鮮な魚介類が豊富に手に入る江戸で、刺身のような鮮度のよい魚介類を必要とする料理が発達するのは当然のことであった。
もうひとつの理由は、調味料として醤油が生まれた事である。生魚の生臭さを抑える濃口醤油が江戸時代中期より大量生産をはじめ、大都市・江戸の需要をまかなった。後述の通り、魚を生食する文化は日本以外にも存在するが、特定の種類の魚の調理法に限定されている。江戸時代の江戸で生まれた、多種多様な魚介類を刺身として生食する習慣は、まさしく醤油という生の魚と相性が抜群によい調味料あってこそのものであった。」

と。

さて,「刺身」の謂れであるが,上記ウィキペディアは,

「『切り身』ではなく『刺身』と呼ばれるようになった由来は、切り身にしてしまうと魚の種類が分からなくなるので、その魚の『尾鰭』を切り身に刺して示したことからであるという。一説には、『切る』を忌詞(いみことば)として避けて『刺す』を使ったためともいわれる。いずれにせよ、ほどなくして刺身は食品を薄く切って盛り付け、食べる直前に調味料を付けて食べる料理として認識されるようになったらしく、『四条流包丁書(しじょうりゅうほうちょうがき)』(宝徳元年・1489年)では、クラゲを切ったものや、果ては雉や山鳥の塩漬けを湯で塩抜きし薄切りしたものまでも刺身と称している。」

と,

「切る」を忌詞(いみことば)として避けて『刺す』を使った説,

その魚の『尾鰭』を切り身に刺して示した説,

を載せているが,『日本語源広辞典』は,

「刺し+ミ(身)」と,魚肉の上にその魚のヒレを添えた,

中国語の,三滲(醤油・酢・生姜,薑)で,魚の身に滲ませて食べるsansimが語源,

の二説を挙げ,これは,

「いずれも,切り身の,身を切るを忌んだ言葉」

としている。『大言海』も,

「切るを忌みて,刺すと云ふか,作ると云ふも同じかるべし,ミは,肉なり」

と,忌み説を取る。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/sa/sashimi.html

も,

「刺身は、室町 時代から見られる語。 武家社会では『切る』という語を嫌っていたため、『切り身』では なく『刺身』が用いられるようになった。『刺す』という表現は、包丁で刺して小さくすることからと思われる。他の説では、魚のヒレやエラを串に刺して魚の種類を区別していたことから、『刺身』と呼ぶようになったとする説もあるが、ヒレやラの部分は一般に『身(肉)』と考えられていないため、この説は考えがたい。魚以外の材料で『刺身』と呼ぶものには、『たけのこの刺身』『刺身こんにやく』,『馬刺し』や『牛刺し』などがあり、魚の刺身の切り方や盛り付け方、新鮮な生肉(身)などの意味から呼ばれるようになったものである。」

忌み説を取る。「刺す」は,

「刺して突く」(『大言海』),
「咲きの鋭くとがったもの,あるいは細く長いものを,真っ直ぐに一点に突きこむ」(『岩波古語辞典』),
「こことねらいを定めたところを細くとがったものを直線的に貫き通す」(『広辞苑』),

とあり,「棹を刺(差)す」とか「鳥を刺す」という広がりはあっても基本は,「針を刺す」という「突く」意味で,「切る」の代用にはならない。忌詞は本当だろうか。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1452474134

に,『たべもの語源辞典』 (清水桂一編、東京堂出版)によるとして,

「指身・指味・差味・刺躬また魚軒とも書く。生魚の肉を細かく切ったものを古くは鱠(なます)とよんでいた。
つくり方は、魚肉を切ったものであるが、切るという言葉を忌み、切身とよばず打身(うちみ)とよんだものがあった。室町時代に魚肉の打身という言葉が現れる。
また、切ることを刺すと称することから、刺身ともよんだのが刺身の起こりであるとの説がある。
また、切った身は、その魚名がわかりにくい。そこで切った身にその魚の鰭(ひれ)をさしてその正体を現したものを刺身というとの説もある。
昔からある鱠(なます)にその魚の鰭を刺したものを『さしみなます』とよび始めたが、これが略されて刺身となったともいう。
関西では魚を切ることを『つくる』といったので、つくり身といい、『つくり』を関東の刺身と同じ意味に用いた。
儀式料理では刺身が正しいよび方である。室町時代に醤油が発明され、刺身醤油ができたとき、刺身料理が完成したといえる。
刺身の語源は、魚肉を切って、その鰭を一種の飾りのように身に刺したことから起こったものである。
他に、刺身の意のタチミの転であるとか、サシミ(左進)の義であるとかの説もあるが、いずれも良くない。」

としている。

「切ることを刺すと称する」

としているところを見ると,忌詞としてではなく,そういう言い方があった,と見るべきかもしれない。結局,

「刺身の語源は、魚肉を切って、その鰭を一種の飾りのように身に刺したことから起こったものである。」

を取っている。「切る」を忌んで,「刺す」というのは,どうもこじつけの気がしてならない。

『日本文化いろは事典』

http://iroha-japan.net/iroha/B02_food/19_sashimi.html

は,

「刺身の原形は鎌倉時代に始まったといわれています。もともとは魚を薄く切って生のまま食べる漁師の即席料理でした。その頃はまだ醤油がなかったため、膾〔なます〕にして食べたりワサビ酢やショウガ酢で食べていました。
室町時代に入り、醤油の誕生と普及にともない現在のようにわさび醤油をつけて食べるようになりました。しかし醤油はまだまだ高級品であったため、刺身は身分の高い人々しか食べる事のできない高級な料理でした。一般庶民に刺身料理が広まったのは、醤油が庶民にも普及した江戸時代の末期からで、江戸では刺身を専門に扱う『刺身屋』という屋台もでるほど流行しました。」

とあり,「切る」を忌むような時代背景ではない気がする。『日本語源大辞典』には,

切ルを忌んでいったものか(『大言海』),
魚の種類がわかるようにその魚のヒレを刺した(飲食事典所引中原康冨記=本山萩舟),

以外に,

刺身の意のタチミの転(言元梯),
サシミ(左進)の義という(黄昏随筆),

を載せる。「タチミの転」もありうるが,

魚の種類がわかるようにその魚のヒレを刺した,

を取りたい気がする。

なお,「膾」は,

「生魚を細く切り刻み酢で味付けする調理法です。膾は古来からの伝統がそのまま引き継がれ、現在では大根やにんじんなどを細長く切り酢で味付けしたものが膾として食されています。」

とあるが,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%BA%E8%BA%AB

に,

「日本は四方を海に囲まれ、新鮮な魚介類をいつでも手に入れられるという恵まれた環境にあったため、魚介類を生食する習慣が残った。即ち『なます(漢字では「膾」、また「鱠」と書く)』である。
『なます』は新鮮な魚肉や獣肉を細切りにして調味料を合わせた料理で、『なます』の語源は不明であるが、『なましし(生肉)』『なますき(生切)』が転じたという説がある。一般には『生酢』と解されているが、それは調味料としてもっぱら酢を使用するようになったことによる付会の説であり、古くは調味料は必ずしも酢とは限らなかった。この伝統的な『なます』が発展したものが刺身である。」

とある。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%BA%E8%BA%AB
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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2017年10月03日

フォーカシング指向


ユージン・T・ジェンドリン『フォーカシング指向心理療法〈上〉体験過程を促す聴き方』,『フォーカシング指向心理療法〈下〉心理療法の統合のために』を読む。

img043.jpg


既に,フォーカシングについては,ユージン・T.・ジェンドリンの,『夢とフォーカシング』

http://ppnetwork.seesaa.net/article/451725678.html

『セラピープロセスの小さな一歩』

http://ppnetwork.seesaa.net/article/451549527.html

について,それぞれ触れたことがある。本書は,

「『心理療法ではフォーカシングはこのように用いるのです。』という答えである」

と,監訳者の一人池見優氏は説明する。それは,こういう意味である。

「フォーカシング自体は治療法(エンジン)ではないので,ジェンドリンは『フォーカシング療法』という名称には『うん』と言えないのである。しかし,その種々の心理療法では必要なものなので,種々の心理療法を行うセラピストたちには,その重要性を認識してもらいたいのである。本書の下巻で見ていくように,種々のセラピーに,少しだけでもフォーカシングを取り入れることで,セラピーは変わってくるのである。だからこそ,フォーカシング指向心理療法なのである。」

と。本書の特色は,下巻の,フォーカシングを媒介とした種々の療法との統合の実践例である。だからこそ,監訳者は,「本書はプロ向き」と呼んだのである。

ジェンドリンは,「臨床心理の統合的視点」で,こう書いている。

「諸流派の枠や流派ごとの説明を取り除くと,諸技法の本当の違いが見えてくる。つまり,セラピーを構成しているのは,まったく種類の異なる多様な体験なのである。私はこれを治療の『道筋』(therapeutic avenues)と呼ぶ。治療場面に登場しうるものには,イメージ,ロールプレイ,言葉,認知的信念,記憶,感情,情動的カタルシス,対人的相互作用,夢,ダンスの動き,筋肉運動,習慣的行動がある。これらの道筋には,セラピーを構成している材料そのものが異なっているという意味で実質的な違いがある。
 流派の違いは道筋の違いではない。(中略)それぞれの技法は,理論的背景を異とする別な流派に属していても,それらをまとめた道筋という観点から再分類することができる。」

そして,

「流派や技法はすべて,硬くこだわればこだわるほど,心理療法の妨害になる。常に優先されるべきは,クライエントその人,その人とセラピストの今ここでの関係なのである。(中略)人は,誰か(who)なのであって,何(what)ではない。この一人の人間は,ここに生きている存在,私たちの目の前にいるその人なのである。そして,その人は,一刻一刻新たにそこにいるのであり,理論や技法ではとらえきれない存在なのである。
 理論の間違った使い方はもう一つある。体験過程の分化の次の一歩は予測できないという点を見逃してしまうことである。…感じられた辺縁(edge)の中に1,2歩踏み込むことで,一見おなじみの体験や出来事から予測もつかない新しい発見がもたらされるのである。」

と。大事なのは,

「内面で流れている体験過程である。」

だからこそ,

「クライエントに『自分のからだで…感じる』ことを求めることで,セラピーで用いる別の道筋の意義も深まる」

と。ジェンドリンは,「日本語版への序」で,身体とのかかわりについて,こうポイントを書いている。

「気をつけて見ておきたいことは,『からだ』に入っていくというときに,すべてをバイパスして平和なところ,瞑想的な『からだだけ』といったところに入っていくことがあるが,フォーカシングはそこまではいかない。フォーカシングは中間にある。それは確かに『からだ』を扱っているのだが,ここで言う『からだ』は状況を抱えたからだ,問題を抱えたからだ,状況を生きているからだなのである。…フォーカシングでいう『からだ』は,状況-内のからだである。」

もうひとつ,

「フォーカシングは本当は二つのことなのである。それは,私たちの中に『からだ』が,たった今の生の感覚を浮かび上がらせてくれるような,深いところがあることへの気づき(アウェアネス)であり,また人にその気づきを持つことを援助することなのである。それはいつも現在形なのである。(中略)さらに,そこには,たった今の状況や目の前にいるこの人,といった新しい状況もあり,そこから新たな体験的な一歩が開かれてくる。…もしも,このレベルの気づきが人の中で解放され,そこから語ることができるようになれば,それが深い意味でのフォーカシングなのである。(中略)フォーカシングは人を,概念の下にある,あるいは言葉の下にある,あるいは言葉の周りにある深い部分に導いてくれる。そこには常にもっと広いものがある。『からだ』が語り始めてくる下の方の部分には,常に(言葉や概念的理解)『~より以上』のものがある。」

ただし,ジェンドリンは,繰り返し留意を求める。

「フォーカシングを神秘的なものにしてはならない。『フォーカシング』が意味するのは,ある問題についての最初のはっきりしないからだの感覚のそばに居続けることであり,その目的と結果はそこから新たな体験的一歩が生まれることである。フォーカシングは小さな扉である。この扉を通して自分が見つけたものすべてに『フォーカシング』という名前を与えたがる人がいる。しかしそれは違う。フォーカシングとは,問題に関してからだで感じる違和感に注意を向けること,それだけなのである。これはこのまま単純にしておかなくてはならない。そのほうが誰にでもわかりやすい。」

そうした「からだを感じる」フォーカシングを接点に,セラピーの道筋に沿って,

ロールプレイ,
体験的な夢解釈,
イメージ,
情動的カタルシス,
行動ステップ,
認知療法,
超自我,
価値観,

とたどって行く。特に,

クライエントとセラピストの関係,
それを「セラピー」と呼ぶべきかどうか

の最後の二章は,セラピープロセスを,微に入り細に穿って,セラピストとクライエントとの関係の機微にわたって詳細である。根幹は,

相互作用,

である。ひとつは,

クライエントとクライエントのからだとの,

いまひとつは,

セラピストとクライエントとの,

である。だから,そこに,フォーカシングが機能する。ジェンドリンは,

「問題が奥深いほど,…フォーカシング指向療法はクライエント中心療法である。」

とし,その相互作用を,

「体験された関係は,身体的で具体的なものである。それは関係について語られる内容ではない。また,二人の人がお互いをどう感じ,どう思っているかでもない。関係とは,それぞれの時点で具体的に進行している相互作用なのである。」

とし,そのために,次のように,ポイントを挙げている。

(セラピストとクライエントとの)間に何も挟まない,
セラピストが関わるのは「その中にいる人」である,
その人の奥深くに流れている連続性がある,
セラピーは二人の人間の間の率直で本物の関係である,
相互作用の中で,(セラピストとクライエントは)それぞれ別個の任怨気である,

そして,セラピーと呼べるかどうかは,

「クライエントにとって,治療(セラピー)的過程がおこっているかどうか」

であると。

参考文献;
ユージン・T.・ジェンドリン『フォーカシング指向心理療法〈上〉体験過程を促す聴き方』(金剛出版)
ユージン・T.・ジェンドリン『フォーカシング指向心理療法〈下〉心理療法の統合のために』(金剛出版)

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2017年10月04日

ちくる


「ちくる」は,

告げ口をする意の俗語,

と,『広辞苑』『デジタル大辞泉』『大辞林』にあるが,

密告する,

というような,もっとえげつないニュアンスの気がする。しかし,手近の他の辞書には全く載らない。比較的新しく使われるようになった言葉と見える。

『日本語俗語辞典』

http://zokugo-dict.com/17ti/chikuru.htm

は,

「チクる」

と表記し,「不良・ヤクザ用語」として,

「チクるとは告げ口や密告をすることで、ちっくるともいう。『ちく』が『口(くち)』の倒語でチクるというようになったというもの、また『ちくりと言う』の『ちくり』が変化したものという説がある。当初、チクるはツッパリブームの不良少年など若者の間で普及した言葉であったため、先生や先輩、親などへ告げ口をするという軽い意味合いであった。しかし、当時の若者が社会人になってからも使用。上司や警察、報道機関などへ密告するという意味合いでも使われるようになる。また、若者の間では名詞形の『チクリ』という形でも使われる。」

とあり,1979年と,年代も載る。

しかし,『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/ti/chikuru.html

は,

「『ちくん』『ちくちく』『ちくり』などの擬態語から生まれた動詞。これらの擬態語は,先のとがった針などで物を刺す様子を表すほか,皮肉や批判などを言って刺激を与える意味がある。その中でも,『ちくりと嫌味を言う』など副詞として使われる『ちくり』がラ行五段活用として用いられ,『ちくる』になったと考えられる。『ちくり』は『僅かな様子』を意味し,針などを刺す『ちくり』は『しくり』と表現されていた。現代のような表現は,明治以降になって現れたものである。」

と,擬態語の「ちくり」を取る。確かに,一見もっともらしい。『大言海』に,

ちくり,

は載り,

チクリと刺す,

といった用例で,

いささか,すこし,

という意味とである。『擬音語・擬態語辞典』には,「ちくり」の意味として,

針などの尖ったもので刺す,
針などの尖ったもので刺すような痛みを心情的に感じる様子,
皮肉や批判などを言って,人の心に痛みを与える様子,

と載る。これを見る限り,「ちくり」は,刺すもので,刺した相手に直接痛覚を与えるものだ。しかし,「ちくる」は,第三者に告げることで,間接的に痛みを与えるものだ。どうも,少しニュアンスが違う。

http://bosesound.blog133.fc2.com/blog-entry-524.html

も,

「口(クチ)を逆から読んで“チク“+動詞化の接尾辞"る"→チクるまた、『チクリと嫌味を言う』等のチクリが由来とする説もある。」

も両説を挙げるが,

口(クチ)を逆から読んで“チク“,

が,いかにも,らしい。たとえば,捜査すること意味する警察隠語の「がさ」は,

「さがす」→「さが」→「がさ」と転じたもの,

とされるように,逆さ読みはよくある。あえて,

チクる,

と表記するのは,その意味かもしれない。

しかし,警察に密告する意の,

さす,

という言葉があり,「ちくる」が「ちくり」と重ならなくもない。

http://www.usamimi.info/~kintuba/zingi/zingidic-ta.html

によれば,「さす」は,

「昔は博徒の間では忌み言葉とされ、錐はもみ込む、針をぬう、などと“さす”という言葉を避けた」

とあり,「さす」に代わって「ちくり」を使ったとも言えなくもない。

「ちくる」に似た言葉には,「さす」以外,

たれこむ,
たれこみ,

という言い方があり,特殊に,警察に密告することを,

チンコロ,

とも言ったという。

参考文献;
http://www.usamimi.info/~kintuba/zingi/zingidic-ta.html
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

ラベル:ちくる
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2017年10月05日


「め」は,

目,
眼,

と当てる。まず漢字を見てみると,「目」の字は,象形文字。

「目を描いたもので,まぶたにおおわれているめのこと」

「眼」の字は,

「艮(こん)は『目+匕首(ヒシュ)の匕(小刀)』の会意文字で,小刀でくまどっため。または,小刀で彫ったような穴にはまっているめ。一定の座にはまって動かない意を含む。眼は『目+音符艮』で,艮の原義をあらわす。」

とある。「目」は,まぶたを閉じた目,「眼」は,頭骨の穴にはまっているめ,を意味する。あえて言うと,「眼」は目玉の意と言うことになる。

目.jpg


「め」の語源は,『大言海』には,

「見(ミ)と通ず。或いは云ふ,見(ミエ)の約」

とある。確かに,文脈依存の和語なら,器官としての「目」は,「見る」という動作から来ていると思える。ただ,『大言海』は,「め(目・眼)」以外に,その意味の外延を拡げた「め(目)」として,

「間(ま)の転」

という,「賽の目」「木の目」「網の目」「鋸の目」という用例の「め」と,「め(目)」として,

「見えの約。先ず目に見て心に受くれば云ふ」

という,「憂き目」「酷い目」「嬉しい目」という用例の「め」とを区別してあげている。

『岩波古語辞典』には,

「古形マ(目)の転。メ(芽)と同根」

とある。「まなこ」「まぶた(目蓋)」「まなざし(眼差し)」「まあひ(目間)」といういい方をする「ま」である。「芽」を見ると,「メ(目)と同根」とある。しかし,『日本語源広辞典』は,

「メ(見る器官)で,『見ると同根』です。芽と同根説もありますが,疑問です。造語勢分としては,マとなります。」

としている。「眼差し」というときの「ま」は,「目の音韻変化」ということを言っているのだろう。しかし,「まなこ」という言い方がある。

「まなこ」について,『岩波古語辞典』は,

「『目(ま)な子』の意。ナは連体助詞」

とし,『大言海』も,「まなこ」を,

「目之子の転」

とするし,『日本語源広辞典』も,少し違うが,

「『マ(目)+ナ(の)+コ(黒目)の音韻変化』説が有力です。目の中の黒い瞳を指して言っていたのが後に目を指すようになったと思われます。」

とすると,「め」の古形は,「ま」とする説の例証になる。『日本語源大辞典』は,「まなこ」について,

目之子の義(倭名抄・類聚名物考・大言海),
メナカ(目中)の義(日本釈名・名言通・和訓栞),
メノココロ(目之心)の義,また,メノソコ(目之底)の義(日本語原学=林甕臣),
マは目,ナは中,コは童子の義か(和句解),
メナカコ(目中心)の義(言元梯),
マノコ(真子)の義(志布可起),

と並べる。いずれも瞳を指しているに違いないが,「ま(目)」とする傍証は,「まみえる(まみゆ)」という言葉だ。

見える,

と当てるが,『広辞苑』には,

目(ま)見える,

とある。

貴人に対面する,

という意だ。「ま(目)+見える」である。やはり,「め」の古形「ま」には,説得力がある。

『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/me/me.html

は,

「『ミエ(見え)』の変化や『ミ(見)』に通じる語など、『見』の意味を語源とする説が多く、妥当と思われる。ただし、『め』よりも古く『まなこ』が使われていた可能性も高いため、『目』の 意味で『ま』が使われ、変化して『め」になり、『ま』は複合語の中でのみ用いられるようになったとも考えられる。』

と,「ま」説に含みを持たせている。

『日本語源大辞典』は,

「①『め(芽)』『見る』などと同根とされる。
 ②『め』に対して,『まぶた』『まつげ』『まなこ』などの複合語でのみ使われる『ま』がある。
 ③類義語『まなこ』の語源は,一般に『ま(目)+な(助詞)+子』とされ,『め』が眼全体を表すのに対して『まなこ』は黒目の部分をさすといわれる。
 ④『日本言語地図』における分布傾向からは,『め』よりも『まなこ』の方が古い可能性が看取される。それに関連して,『まなこ』の語源を,マナ(←南島語起源のマタ)+ナ+コの省略によるものとし,そのマからメが生じたとする説(村山七郎)もある。マナ(目)+コ(指小辞)と取る説もある。」

と書く。「ま」古形説を取りたいが,「め(芽)」と同根は,どうだろう。

「め(芽)」の語源説を拾ってみると,

モエ(萌)の約(名語記・古事記伝・言元梯・松屋筆記・菊池俗語考・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・大言海),
萌の字音から(外来語辞典=荒川惣兵衛),
メ(目)の義(名語記・九桂草堂随筆・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・国語溯原=大矢徹・国語の語幹とその分類=大島正健),
ミエ(見)の義(名言通),
メグムの略(滑稽雑談),
メ(愛)ずべきものの意から(本朝辞源=宇田甘冥),

とあり,『日本語源広辞典』も,

「もえ(萌え)の約」

としている。やはり,「め(芽)」は,こちらだろう。とすると,「古形マ」の語源が分からなくなるが,『大言海』の,

「間(ま)の転」

とする「め」こそが,「め」の語源に思えてくる。「あいだ(間)」には違いない。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)


ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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2017年10月06日

茶目


「茶目」は,「お茶目」という言い方をする。

子どもっぽい,滑稽じみたいたずらをすること,またそれの好きな人やそうした性質,

をいう。

茶目っ気,

とも言う。「おちゃめ」の由来について,

http://www.yuraimemo.com/933/

は,

「『お茶目』の由来は漢字も絡めて諸説があるようです。
一つ目は、『茶』は『おどけること。いいかげんなことをいうこと。』を意味する茶であり、『め』は『めかす』などの略、(『やつめ』などの接尾語『め』という説もあり)漢字『目』に関しては当て字。…『茶』に、おどけるやいいかげんなことを言うといった意味があるなら信憑性が高く感じます。
もう一つは、漢字はすべて当て字説。こちらは平仮名の方に由来があるようで、『おちゃめ』の『お』は丁寧語。『ちゃめ』は『ちゃりめ』の略であり、『ちゃり』には『おどけた、ふざけた』の意味があり、『め』は『女』とのこと。
…『ちゃり(茶利)』は、動詞『ちゃる(茶)』の連用形。意味は、滑稽な文句や身振り。おどけること。冗談など。人形浄瑠璃における、笑劇的な滑稽な演技・演出のことも言うそうです。また、歌舞伎の滑稽な場面は『ちゃりば』と言われるそうで、おどけた声のことを『ちゃりごえ』、もみあげのことは『ふざけた毛』の意味で『ちゃりげ』と言ったりするとか。そんなことから、「おちゃめ=ちゃりめ」「おどけた女」の意味となるのだそうです。」

と詳しい。また,

http://www.lance2.net/gogen/z141.html

も,同様に,

「1つは、『茶』という文字に『おどける』とか『いいかげんな』というような意味があって、『目』は当て字なんだけど意味としては『おめかしする』なんていう意味があるという説だよ。もう1つは、『お茶目』の『お』が丁寧語で『ちゃめ』というのは『ちゃりめ』という言葉の略だという説だよ。『ちゃりめ』っていうのは、『おどけた』とか『ふざけている』なんていう意味があって『め』っていうのは『女性』の事を意味しているんだよ。この場合、茶という漢字も目という漢字もどちらも当て字だと考える事ができるね。」

としている。だから,「お茶目」は,

「本来可愛らしく、無邪気におどける様子の女の子のこと」

を言うことになる。「茶々を入れる」の項,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/440686901.html

で触れたように,

「茶」の字自体は,

「もと『艸+音符余(のばす,くつろぐ)』。舒(くつろぐ)と同系で,もと緊張を解いてからだをのばす効果のある植物。味はほろ苦いことから,苦茶(くと)ともいった。のち,一画を減らして茶とかくようになった。」

とあり,この字には,からかう含意はない。『古語辞典』には,

ちゃり,

という動詞が載り(『広辞苑』では「茶利」と当てる),

ふざける,

という意味だが,その名詞は,

滑稽な文句または動作,ふざけた言動,おどけ,

という意味が載る。どちらが先かはわからないが,あわせて,

(人形浄瑠璃や歌舞伎で)滑稽な段や場面,また滑稽な語り方や演技,

という意味が載る。歌舞伎や人形浄瑠璃から出て,「ちゃり」がふざける意になったのか,ふざける意の「ちゃり」を,浄瑠璃などで転用したのかは,ここからはわからない。『大言海』は,「茶利」を,

「戯(ざれ)の転」

として,

洒落,おどけ口,諧謔,又おどけたる文句,

という意味を載せる。しかし,『江戸語大辞典』は,

操り・浄瑠璃用語。滑稽,道化,

と載る。どちらが先かは,つかめない。

茶利語り,
茶利声,

は,そういう滑稽な語り口や声を指す。なにはともあれ,ともかく,「茶」には,

ふざける,

含意がつきまとうらしい。『江戸語大辞典』は,「茶」の項に,

遊里用語,交合,
人の言うことをはぐらかすこと,
ばかばかしい,

という意味が載り,それを使った,

茶に受ける(冗談事として応対する),
茶に掛かる(半ばふざけている),
茶に為る(相手のいうことをはぐらかす,愚弄する),
茶に成る(軽んずる,馬鹿を見る),
茶を言う(いい加減なことを言う)

等々という使われ方を載せていて,

ちゃかす(茶化す),

はその流れにある。

茶化すは,

「茶にする」

と同じで,語源は,

「『チャル(戯る・ふざける)+カス(接尾語,他に及ぼす)』です。

とされる。

ちゃらかす,

とも言う(「おちゃらかす」とも言う)。『江戸語大辞典』には,「茶る」という項が載り,

「茶の動詞化」

として,

おどける,ふざける,

の意味が載る。どうも「ちゃり」も「茶る」も,

「茶」

に込められた含意から来ている。あるいは,「ちゃる」に「茶」の字を当て,「茶」自体にそういう含意が込められるようになったのか,この前後はよくわからない。

こう考えると,「臍で茶を沸かす」

http://ppnetwork.seesaa.net/article/441330515.html

「茶々を入れる」

http://ppnetwork.seesaa.net/article/440686901.html

等々で触れたように,「茶」を使った背景は,存外奥が深いようだ。

この流れで見る限り,「お茶目」の「茶目」は,

ふざけている目,

と取るのが自然で,「め」を「女」とする謂れはなさそうに見える。

『日本語源広辞典』が,あえて,

「茶色の目で,いたずらっぽい色」

を語源としているのは,「茶色の目」に,「茶」の独特の戯れる含意があったからなのだろうか。

「茶」の目(つき),

と見ると,いたずらしようとしてその目の輝く様子と見えなくもない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)


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2017年10月07日

お茶を濁す


「お茶を濁す」とは,

「いいかげんにその場をごまかす」

意として使われる。

『大言海』は,「御茶」の項で,

「おちゃを濁すとは,つくろひごとをする。まやかす。ごまかす。糊塗。抹茶をたつる作法を深く知らぬ者の,程よくつくろひてする意に起これる語にてもあるか」

と,歯切れが悪い。『日本語源広辞典』

「『抹茶を立てる作法が十分に分からず,適当に濁してごまかす』が語源です。いい加減なことをして,その場をとりつくろう意です。『茶番劇の行き詰まりをごまかす』のが語源とする説(吉田説)は,用例と見るべきで,疑問です。」

としている。「茶番劇の行き詰まりをごまかす」説があるということだが,「茶番」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/435545540.html

で触れたように,

「江戸時代に歌舞伎などの芝居の楽屋で、茶番(下働き)が下手で馬鹿馬鹿しい短い劇や話を始めたことから、茶番=下手な芝居、馬鹿げた芝居、という意味になったようです。『茶番劇』というのは、茶番がやるような下手な劇という意味です。現代では本当の芝居ではなく、結末が分かりきっているような馬鹿馬鹿しい話し合いなどを茶番劇と言います。」(http://whatimi.blog135.fc2.com/blog-entry-392.html

ということで,ごまかすもなにも,もともと「ばかばかしい寸劇」で,「お茶を濁す」行為そのものだから,という意味なのだろう。

『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/o/otyawonigosu.html

も,

「茶道の作法をよく知らない者が程よく茶を濁らせて、それらしい抹茶に見えるよう 取り繕うことから生まれた言葉である。出されたお茶の濁り具合を話題にして、その場 しのぎで話を逸らすところから『お茶を濁す』と言うようになったとする説もあるが、後から 考えられた俗説と考えられる。」

と,「お茶の作法を知らぬものの誤魔化し」説である。また,その由来が,いまひとつピンとこない。しかし,

http://wisdom-box.com/origin/a/ochanigosu/

に,

「その場しのぎでいい加減に取り繕ったり、誤魔化したりすることを『お茶を濁す』と表現しますが、どうしてお茶を濁しちゃうのでしょう?かつて、お茶は大変貴重なものであり、貴族や僧侶だけの特別な飲み物でした。茶道の作法を知らない一般人が程よく茶を濁らせて、それらしい抹茶に見えるように取り繕ったことから、この表現が生まれたそうです。」

とある。それで思い出したが,落語に『茶の湯』というのがある。詳細は,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E3%81%AE%E6%B9%AF_(%E8%90%BD%E8%AA%9E)
http://senjiyose.cocolog-nifty.com/fullface/2004/10/post_21.html

等々に詳しいが,

「家督を息子にゆずった隠居は、小僧の定吉をともなって郊外で暮らし始めたが,毎日することがなく、退屈をしている。隠居は『退屈しのぎに、完備されていたものの放置していた茶室と茶道具を使って、試しに茶の湯をやってみよう』と定吉に提案する。隠居は茶の湯のことを何も知らなかったが、定吉に対し知ったかぶりを決め込み、抹茶のことを『何といったか、あの青い(=緑色の)粉があれば始められる』と言って、定吉に買いに行かせる。定吉が乾物屋で買ってきたのは抹茶ではなく青きな粉(=青大豆を原料にしたきな粉)だったが、隠居は茶の湯について出まかせの説明をしながら、炭を山積みにした炉で火をもうもうと起こし、茶釜を火にかけて湯を沸かし、青きな粉を釜の中に放り込んでかき混ぜ、どんぶりに注いで、茶筅でかき回してみる。しかし、ふたりが考えていたような、泡立った茶にはならない。隠居は『思い出した。何か泡の立つものが必要だったのだ』と言い、定吉をふたたび走らせてムクの皮の粉を買って来させ、茶釜に加えてみる。どんぶりに注ぐと、今度はイメージしたような姿の茶になったのでふたりは喜び、飲んでみるが、たちまち腹をこわし、雪隠と寝床を行ったり来たりするようになる。」

という次第の,お馴染みの大騒動になるのだが,思えば,「茶をたてる」をごまかすのを揶揄した噺には違いない。

茶をたてる.jpg


http://biyori.shizensyokuhin.jp/words/gogen/1731.html

には,「お茶を濁す」の由来について,

「お茶にまつわるいくつかの説が存在しています。茶道でお茶を点てるときには決まった作法があり、当然、作法を知らない素人は正しくお茶を点てることはできません。しかし、適当にお椀にお湯と抹茶を入れてかき回したとしても、それらしい色のお茶にすることはできます。このように、素人が適当な作法でお茶を濁らせてお茶を点て、その場を取りつくろった様子から『お茶を濁す』という表現になったとされています。
この由来とは別に、ここでいう『お茶』は抹茶ではなく、緑茶などの一般的なものであるという説もあります。お茶の淹れ方は簡単なものではなく、湯温や分量、時間がうまく合わないと、渋みや苦味が出て濁ったお茶になってしまいます。そのように適当に淹れたお茶を客人に出した状況から、その場を取りつくろうという意味がついたともいわれています。」

とある。しかし,「茶」は,別の謂れから来ているのかもしれない。「茶々を入れる」や「お茶目」の項,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/440686901.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/453974476.html?1507233707

で触れたように,「茶利」と当てて,

ふざける,

という意味をもち,だが,その名詞は,

(人形浄瑠璃や歌舞伎で)滑稽な段や場面,また滑稽な語り方や演技,

という意味が載る(『岩波古語辞典』)。『大言海』は,「茶利」を,

「戯(ざれ)の転」

として,

洒落,おどけ口,諧謔,又おどけたる文句,

という意味を載せる。その流れからか,『江戸語大辞典』は,「茶」の項に,

遊里用語,交合,
人の言うことをはぐらかすこと,
ばかばかしい,

という意味が載り,それを使った,

茶に受ける(冗談事として応対する),
茶に掛かる(半ばふざけている),
茶に為る(相手のいうことをはぐらかす,愚弄する),
茶に暮らす(真面目な問題も茶化して暮らす)
茶に為る(相手の言うことをはぐらかす,侮る)
茶に成る(軽んずる,馬鹿を見る),
茶を言う(いい加減なことを言う)

等々という使われ方を載せていて,

ちゃかす(茶化す),

はその流れにある。この流れから,

お茶を濁す,

を見直すと,

茶に濁す,

という意味でも受け取れなくない。つまり,

冗談にする,

という意味である。その意味で,大真面目に,「茶をたてる」をごまかすという説を,江戸ッ子は,

茶に濁す,

して,笑い飛ばしたかもしれない。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E3%81%AE%E6%B9%AF_(%E8%90%BD%E8%AA%9E)
http://senjiyose.cocolog-nifty.com/fullface/2004/10/post_21.html
http://biyori.shizensyokuhin.jp/words/gogen/1731.html
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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2017年10月08日

足を洗う


「あし」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/453183118.html

で触れたが,

タチ(立)の転(玄同放言),

という説がある。二足歩行の根幹だから,当然,「足」にまつわる言い回しは,たくさんある。『広辞苑』には,

足が上がる,
足が地につかない,
足が付く,
足が出る,
足が早い,
足が棒になる,
足が向く,
足に任せる,
足の踏み場もない,
足を蹻(あ)げて待つ,
足を洗う,
足を入れる,
足を奪われる,
足を限りに,
足を重ねて立ち目仄(そばだ)てて視る,
足を食われる,
足をすくう,
足を擂粉木にする,
足を空に,
足を出す,
足を付ける,
足を取られる,
足を抜く,
足を伸ばす,
足をはかりに,
足を運ぶ,
足を引っ張る,
足を踏み入れる,
足を棒にする,
足を向けて寝られない,
足を休める,

等々,まさに「足」は歩く意味でも,性根でも,痕跡でも,貶めるでも,多様な含意がある。気になるのは,

「足を洗う」

である。『広辞苑』には,

「賤しい勤めをやめて堅気になる,悪い所行をやめてまじめになる,また,単にある職業をやめることにも言う」

とある。『岩波古語辞典』には,

「賤しい身分や職業から抜け出して,より上の境遇になる,近世後期には,非人仲間から再び平民に復することや,遊び人・芸妓娼等々が堅気になることに多く用いた。」

とある。『江戸語大辞典』をみると,

「①跣で歩いていた足を洗って座上に上がる。②非人・乞食の仲間に落ち入った者が,仲間へ祝儀銭を出し一定の式をして再び良民に戻る。ただし累代はもとより父母以来の非人・乞食は許されぬ。」

とあり,「江戸後期」という意味がよりつぶさにわかる。

「〈足を洗う〉という表現が語る言語変化」

http://alce.jp/journal/dat/13_134.pdf

では,「足を洗う」の意味を二冊の辞書を調べて,

『日本語慣用句辞典』(米川,大谷,2005,pp. 15-16)では,『好ましくない職業・事柄・生活を断って離れてよい状態になる。好ましくない事柄は必ずしも社会的評価によるものではなく,話者の評価による。心理的にきっぱりと離れてという意識が強い時には,一般的には好ましくないとは考えられないことにも使う」という解説がなされる。…『明鏡ことわざ成句使い方辞典』(北原,2007,p. 12)では,この慣用句を解釈した後,『単に離れる意で使うのは不適切』と指摘し,誤用例として,『制作部から足を洗って,経理部に異動になりました』と『教育の世界から足を洗ってもうだいぶたつ』の 2 例を挙げる。つまり,この慣用句は悪事をやめる意味のほかに,ただ仕事をやめる意味で
も使えるのか,両辞典で相反する解説がなされる。」

と,二様の意味の評価について書いている。この流れで見ると,どうも,本来は,

「賤しい身分や職業から抜け出して,より上の境遇になる」

ということが始りのように見えてくる。しかし,『大言海』は,

「佛教大辭彙(大正三年)安居(あんご)の條,『釈迦,云々,臥床より起ち,盥嗽して,衣を着けて,禅室に入り,袈裟を被り,鉢を携へて,外へ出で食を乞ふ,行化(ぎゃうげ)より帰り,足を洗ひ,比丘衆を集めて,法義を説く』徒跣(はだし)にて歩む,毎朝の事なり,乞食(こつじき)するは,僧たる者の。当然の境涯なり」

を引用し,

「往時,良民の零落して,非人,乞食の群れに入り者の,錢を出して其仲間を脱し,再び良民の籍に復するを,足を洗ふと云ひき,名詞形として,アシアラヒとも云ふ。移りては,娼妓,芸妓,遊芸人,水商売など止めて,素人となるをも,アシヲアラフと云ふ。」

という意味の他に,

「足を万里の流れに濯(あら)ふと云ふは,世外に超然たる意を言ふ語なり。」

と,この世俗世界を超越する意味,を載せる。そして,

「左思詠史『被褐出闔閭高歩追許由,振衣千仞岡濯足萬里流』」

を引く。とすると,

賤しい身分や職業から抜け出して,より上の境遇になる,



世俗世界を超絶する,

との,真逆の意味があることになる。『日本語源広辞典』は,

「『足+を+洗う』で,僧が一日の托鉢の後,寺へ戻るために足を洗うことから出た語なのです。転じて,悪い仲間や悪い世界から抜け出す意につかいます。」

とある。とすると,僧が托鉢から帰って,寺域へ戻る」という意味をメタファにすれば,

世俗世界を超絶する,

という言葉が比較的原義に近い,ということになる。それをメタファに,

賤しい身分や職業から抜け出して,より上の境遇になる,

意へと転じさせた,ということになる。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/a/ashiwoarau.html

も,

「仏教から出た言葉。 裸足で修行に歩いた僧は寺に帰り、泥足を洗うことで俗界の煩悩を 洗い清めて仏業に入ったことから、悪い行いをやめる意味で用いられるようになった。 その意味が転じ、現代では悪業・正業に関係なく、職業をやめる意でも使われるようになった。イエス・キリストは弟子の足を洗い、『互いに足を洗うことで、信頼関係を結びなさい』というメッセージを残したと言われ、これを語源とする説もあるが、意味も異なるため関連性は認められない。」

としている。あるいは,

http://biyori.shizensyokuhin.jp/words/gogen/1731.html

にも,

「仏教の思想では、寺の中は救いの世界、寺の外は迷いの世界という考え方があるそうです。そして昔の僧は、一日中はだしで外を歩いて修行をしていたため、一日の修行を終えて寺に帰る頃には足が泥だらけになっていたといいます。そのため、寺の外の煩悩も洗い清める意味も含め、僧は修行後に寺へ入る前に足を洗う習慣があったそうです。僧が足を洗う様子と、寺の内と外の世界の違いという仏教の思想がひとつになり、『足を洗う』という表現が悪いことをやめる意味で使われるようになりました。」

聖俗の境界での,ひとつの象徴的行為とみなせば,たとえば,『日本語源大辞典』が,

「大阪新町の遊女が身請けされる時,または年季を勤め上げて廓を出るとき,東西両門の外にある井戸で足を洗ったというが,従いがたく,古往,インドで托鉢僧がはだしで乞食をし,庵に帰って足を洗って法談をしたことより起こった語(上方語源辞典=前田勇)」

と「従いがたし」といういい方こそ,「従いがたい」と思えるはずだ。おのれを,インドの僧に準えて,おのれが廓という苦界から出られる象徴として,そういう井戸があった,としても別に何のおかしくもないのである。そう考えると,長年携わった職業を転じるとき,「足を洗う」というには,離脱,あるいは,卒業の含意が含まれている。その意味でその使いかを是非するのは,無粋である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

ラベル:足を洗う あし
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2017年10月09日

たしなむ


「たしなむ」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/397596781.html

で触れた。語源は,

タシナム(堪え忍ぶ)の変化,

だという。転じて,

深く隠し持つ,
常に心がける,
謹む,
遠慮する,
身辺を清潔にする,
有ることに心を打ちこむ,

といった意味になる,とある。ニュアンスは,嗜みは,

身につけておくべき芸事の心得を指し,「素養」よりも技術的な側面が強い,

とある。では,素養はというと,

日ごろから修養によって身につけた教養や技術を指し,「心得」や「嗜み」に比べ,実用面より知識に重きを置く,

とある。では,教養はというと,

世の中に必要な学問・知識・作法・習慣などを身につけることによって養われる心の豊かさを指す,

とある。どうも,心映えに関わる気がする。心映えについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163582.html

で触れたが,心ばえも,

心延えと書くと,

その人の心が外へ広がり,延びていく状態をさし,

心映え

と書くと,「映」が,映る,月光が水に映る,反映する,のように,心の輝きが,外に照り映えていく状態になる。心情的には,

おのずから照りだす,

心映え

がいい。つまり,内側のその人の器量が,外へあふれて出るよりは,おのずから照りだす,というのが,

嗜む,

というつつましさに似合っている。どうも,嗜みは,教養,素養,作法よりも,それをもっているとは言わなくても,そこはかとなく滲み出てくる,そんなニュアンスである。

「たしなむ」は,実は,

嗜む,

の他に,

窘む,

とも当てる。漢字を先に見ておくと,「嗜」の字は,

「耆(キ)は『老(としより)+旨(うまい)』の会意文字で,長く年がたって深い味のついた意を含む。旨は『匕(ナイフ)+甘(うまい)』の会意文字で,ナイフを添えたうまいごちそう。嗜は『口+耆』で,深い味のごちそうを長い間口で味わうこと。旨(シ)と同系のことばだが,『主旨』の意に転用されたため,嗜の字でうまい物を味わうという原義をあらわした。」

とあり,

それに親しむことが長い間の習慣になる,

という意味となる。「窘」の字は,

「『穴(あな)+音符君』。君は(尹は,手と丿印の会意文字で,滋養下を調和する働きを示す。もと,神と人との間をとりもっておさめる聖職のこと。君は『口+音符尹(イン)』で,尹に口を加えて号令する意を添えたもの。人々に号令して円満周到におさめるひとをいうので)丸くまとめる意を含む。穴の中にはいったように,まるく囲まれて動けないこと」

で,

「外を取り囲まれて,動きが取れなくなる,自由がきかないさま」

の意となる。『大言海』は,「たしなむ」を,四項目立てている。

まず,

「窘む」

と当てて,

「足無(たしなみ)の意か」

とした上で,

窮して,苦しむ,
研究す,

の意味を載せる。次は,

矜持,

と当てて,

行儀の正しからむやうにする,

の意を載せる。その次に,

嗜む,

と当てて,

「窘(たしな)みて好む意か」

とし,

たしなむ,好む,
転じて,予(かね)て心掛く,
戒む,
つつしむ,

の意を載せる。そして,最後に,

窘む,

と当てて,

苦しむ,悩ます,困らす,

の意を載せる。どうやら,「矜持」は,「たしなみ」の心がけの延長線上にあるとして,「窘む」と「嗜む」と当てる字を分けて区別しているが,

たしなむ(tasinamu),

という和語が,そもそも端緒としてあるということを思わせる。『岩波古語辞典』には,

「たしなみ」

として載り,

「タシナシの動詞形」

とし,

困窮する,窮地に立つ,
苦しさに堪えて一生懸命つとめる,
強い愛情をもって心がける,
かねて心がけ用意する,
気を使う,細心の注意を払う,
つつしむ,

と意味が載る。「たしなし」を見ると,

「タシはタシカ(確)・タシナミなどのタシ。窮迫・困窮,またそれに堪える意。ナシは甚だしい意」

とあり,

窮迫状態にある,
はげしく苦しい,
老いやつれて病み,また物事に失意のさまである,

という意味になる。ということは,「たしなむ」は,

困窮状態にある→それに堪えて懸命につとめる→困窮にあらかじめ心がける→いましめ,つつしむ,

と,困窮の状態表現から,それに堪える価値表現へと転じ,そういう状態にどれだけ予め備える心がけへと転じ,それを戒めとか慎みといった価値表現まで広げた,という流れになる。そう考えると,

窘む,

と当てた方が,原義に近く,

嗜む,

は,その意味が拡大し,心がけの価値表現へと転じた意味だと知れる。とすると,「嗜む」には,

常に心がける,

という含意があるということになる。『日本語源広辞典』は,

「タシナム(堪え忍ぶ)」の変化です。転じて,深く隠し持つ,常に心がける,慎む,遠慮する,身辺を清潔にする,細かく気を使う,あることに打ち込む」

としている。含意は良く見える。

https://www.waraerujd.com/blank-42

は,

「たしなむ程度の『たしなむ』は、好んで親しむという意味で、『俳句をたしなむ』『お茶をたしなむ』などと用いる。漢字では嗜好品(コーヒーやタバコなど習慣性のある飲食物)の『嗜』を使って『嗜む』と書く。『酒をたしなむ』と言った場合、酒が好きでよく飲むという意味だが、あくまでその味わいや場の雰囲気が好きなのであって、浴びるほど飲んだり、中毒症状を呈したりはしないという意味合いを含む。同様に、酒の飲み方や飲む量について言う『たしなむ程度』も、酒は好きだけれど、多量には飲まない(飲めない)という意味で使う。」

とあるが,ここには,「心がけ」と「つつしみ」の含意を込めてみる必要がある。『由来・語源辞典』

http://yain.jp/i/%E8%BA%AB%E3%81%A0%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%BF

は,「身だしなみ」で,

「好みや嗜好を表すほか、以前からの心がけ、心構えなどを意味する。」

としているのは妥当だろう。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)


ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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2017年10月10日

心理療法の統合


ポール・L.・ワクテル『心理療法の統合を求めて―精神分析・行動療法・家族療法』を読む。

心理療法の統合を求めて.jpg


同じ著者の『心理療法家の言葉の技術―治療的なコミュニケーションをひらく』については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/450411722.html

で触れたが,本書は,精神分析の流れ(著者は,特にホーナイ,サリヴァン等の対人関係モデルの流れ)をくむ立場から(本書では,「心理力動的アプローチ」という表現をする),行動療法,家族療法との統合を目指したプロセスを描く。著者は,

心理療法の統合を探求する学会(the Society for the Exploration of Psychotherapy Integration SEPI),

の設立者の一人であり,その実践として,

循環的心理力動アプローチ,

を唱道する。しかし,彼の立場は,

「現在の循環的心理力動アプローチは,…『同化的統合』…の諸特徴を備えている。今日までの間に,循環的心理力動的観点には行動論的概念とシステム的概念とが極めて実質的に浸透してきたけれども,それにもかかわらず,明らかにこのアプローチは,何よりもまず精神分析的な考え方の発展として,つまり精神分析に積極介入,文脈への注目,あらゆる関係性の特徴である相互性を導入する試みとして理解されるものである。」

というもので,だから,飽くまで,精神分析(フロイト主流とはかなり隔たっているにしても)という療法を崩さず,たとえば,

「行動論的方法を精神分析的な治療の中に統合することが私にとって魅力的であった理由の一つは,前者が後者をより体験的なものにすることにあった」

というように,その理論的な実践の方法として精神分析的治療に同化するという発想である。家族療法との統合も同じで,

「(家族療法との)統合に向けた最近の努力の多くは,両者を結ぶ架け橋として特に対象関係論に注目し,精神分析家の関心の焦点である内的な対象関係と,家族療法家の関心の焦点である顕在的な対象関係とを,投影同一視の概念によって結びつけようとしてきた…。循環的心理力動アプローチは,個人的な心理力動的思考と家族システム的思考とを,これとは違った道筋によって統合しようとするものである。(中略)循環的心理力動論の視点に根ざした統合のアプローチは―悪循環と皮肉ironiesの強調によって―統合に対してより十全で啓発的な枠組みを提供するものだと私は信じている。」

この著者の立場は,心理療法統合の三つのアプローチ,

技術的折衷主義(technical electicism),
共通要因アプローチ(the common factors approach),
理論的統合(theoretical integration),

のうち,理論的統合の立場である。その考え方は,次の言葉で説明されている。

「確かに,現在の行動療法を構成している手続き,理論,哲学的前提のセット全体は(認知行動療法のそれでさえ),精神分析を構成している手続き,理論,哲学的前提のセット全体とは両立不可能である。(中略)しかし,それぞれから重要な要素を選択的に抽出し,それらを結合して,その源である諸アプローチのそれぞれと重要な(おおむね重複しない)特徴を共有しているものの,独自の構成と内容一貫性を備えた新しい統合を生み出すことは可能である。その新しい統合は,ほぼ間違いなく,もともとのアプローチ同士が似ている以上に,もともとのアプローチと似ているだろう。」

と。それには,

「それぞれのアプローチのどの側面を取り生けるかは,さまざまな諸要素が共同して働く新しい方略を構成するうえで,何を取り入れれば有効である可能性が高いかという判断」

に基づく。つまり,理論的統合とは,

自分の理論の文脈にそぐうように位置づけていく,

ということなのだ。違う言い方をすると,

意味づけとして合うものを取り入れる,

と言ってもいい。その意味で,本書の著者は,理論的に意味づけに徹底的にこだわる。たとえば,

「循環的心理力動的観点が,来談者中心療法,ゲシュタルト療法,実存的・現象学的な諸療法…といった体験的な視点を考慮することによってさらに発展させられうる可能性については,これまであまり探索されてこなかった。しかしながら私は,心理療法の統合を探求する学会(SEPI)のミーティングでの多くのやり取りから,こうした方向での重なりについてヒントを得て,そこに興味を抱くようになった。体験的アプローチの多くは精神分析的方法とも行動論的方法とも違う『第三の流れ』として描かれることが多いが,本質的には心理力動的な基礎から発展した多様な発展形であるというのが私の個人的見解である。したがってそれらは,…両立可能であり,このアプローチに寄与しうるものであると私は考えている。」

と,さりげなく書くが,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/453353253.html?1505091112

で見たロジャーズの悪戦苦闘を思うとき,なかなか意味深くはある。しかし,逆な言い方をすると,精神分析の流れも,ここまで変わったということなのかもしれない。著者のその試みは,『心理療法家の言葉の技術―治療的なコミュニケーションをひらく』,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/450411722.html

で触れたが,それには,

「心理力動アプローチこそ最も典型的に『談話療法』であるアプローチであり,かつまた,心理力動アプローチこそ,逆説的なことに,ある面で治療者の言葉のインパクトが最も検討されてこなかったアプローチだからである。」

という言葉が,背景にある。

「循環的心理力動論は,悪循環への焦点づけ,自己実現する予言,対人的な期待の喚起的効果といった諸概念を中心に統合を取り組む」

というとき,ふと,ローゼンツヴァイクが心理療法の効果に学派間の大きな優劣はないという意味で,

「ドードー鳥の裁定」

と呼んだり(ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』のドードー鳥のエピソードで,かけっこの後,「みんな勝ったんだよ。だから全員が賞品をもらうんだ」という裁定),ランバート(Lambert, 1992)のメタ研究,「心理療法に共通する因子(common factors)についての研究」のいう,

「患者側の因子」(環境因や本人の資質など)40%,
「治療者−患者関係の因子」(共感的な関係や相性など)30%,
「治療に対するプラセボや期待の因子」15%,
「治療技法の因子」15%,

を思い起こす。ほぼ同じ所へ,到達しようとしている,と。しかし,社会構成主義にはわずかに言及があるが,ミルトン・エリクソンには全く言及がない。統合というとき,結局,セラピストの視野の独自性を思わざるを得ない。

参考文献;
ポール・L.・ワクテル『心理療法の統合を求めて―精神分析・行動療法・家族療法』(金剛出版)
ポール・L.・ワクテル『心理療法家の言葉の技術―治療的なコミュニケーションをひらく』(金剛出版)

ホームページ;
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今日のアイデア;
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2017年10月11日

セルフ・エフィカシー


坂野 雄二・前田 基成『セルフ・エフィカシーの臨床心理学』を読む。

セルフ・エフィカシー.jpg


セルフ・エフィカシー,

つまり,

自己効力感,

である。アルバート・バンデューラの仮説である。

「行動変容のプロセスにefficacy expectationという認知的変数を導入し,行動変容をより合理的に説明しようとするもの」

であり,それ以降,

「単に行動変容を合理的に説明できる概念にとどまるのではなく,臨床の現場において測定が容易なこと,精神力動的な概念とは異なりクライエントをはじめとする行動変容の当事者にとって理解しやすい認知的変数であること,操作することができること,操作の結果として確実に行動変容が生じること,そして,行動変容の当事者がそれを確認できること,といった長所をもっていたこと」

によって,大きなインパクトを与えた,と本書の「まえがき」にある。そして,本書は,第一部の,

セルフ・エフィカシーの理論編,

として,

臨床現場,
教育相談現場,
動機づけ,

でどんな意味があるかを検討し,第二部では,セルフ・エフィカシーの概念を現場で,どう扱えるか,

不安のマネジメント,
抑うつ気分の解消,
摂食障害とセルフ・エフィカシー,
ストレス管理,
糖尿病患者の自己管理,
人工透析者の自己管理,
看護行為,
看護教育,
リハビリテーション,
社会的スキルの獲得,
子どもの問題行動,
学業達成の援助,
職業指導,
運動アドヒレンス,
高齢者の転倒と運動,

と,臨床場面,教育場面,看護・医療場面等々で,どう活用するかを,展開していく。

バンデューラの『社会学習理論』によれば,人間の行動を決定する要因には,

先行要因,
結果要因,
認知的要因,

があり,人は,単に刺激に反応するのではなく,

予期機能,

によっている,というのである。要は,スキナー箱の鼠じゃあるまいし,刺激-反応の単純なオペラント条件づけでは,人の行動は説明できないと,行動理論を修正した,という訳だ。行動療法から,認知行動療法にシフトしていく理論的背景をなした仮説である。予期機能のもつ,

「ある結果を生み出すために必要な行動をどの程度うまくできるかという予期」

が,

効力予期(efficacy expectancy),

であり,

「自分がどの程度の効力予期をもっているかを認知したときに,その個人にはセルフ・エフィカシーがあるという。言い変えるならば,ある行動を起こす前にその個人が感じる『達成可能感』,自分自身がやりたいと思っていることの実現可能性に関する知識,あるいは,自分にはこのようなことがここまでできるのだという考えが,セルフ・エフィカシーである。」

という。ここにも,どこか,まだスキナー的な機械感の翳がつきまとうと,個人的には思うが,本書は,この仮説を前提に,その実践的な意味を展開する。しかし,どこでも,セルフ・エフィカシーの4つの情報源,

遂行行動の達成,
代理的経験,
言語的説得,
情動的喚起,

が繰り返し出てくるのには辟易する。かつて,1965年に,日本に客員教授として来ていた(認知的不協和理論の)フェスティンガーが,

「君たちの研究をいろいろ見せてもらったが,どうもアメリカの連中と同じテーマばかりとりあげるようなのは,どういうわけだろう。どうして日本に特有の社会現象をテーマにしないのか」

と,皮肉っていたのを思い出す。今日バンデューラの仮説が,定説になっているのかどうかは知らない。しかし,あくまで仮説にすぎないのに,それを前提に実践を展開する,という本書のやり方は,何やら,盲目的に信仰している信者のように見え,科学者の姿勢とは思えない。必要なのは,実践を通して,仮説を立てなおす,あるいは,新たな仮説を立てることではないか。バンデューラの仮説をなぞってみたところで,失礼ながら,科学的姿勢とは言えまい。

なお,やる気については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/398165296.html

で触れた。また,やる気を引き出すについては,

http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill3.htm

で触れている。

参考文献;
坂野 雄二・前田 基成『セルフ・エフィカシーの臨床心理学』(北大路書房)
レオン・フェスティンガー『認知的不協和の理論―社会心理学序説』(誠信書房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

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2017年10月12日

ついで


「ついで」には, 『広辞苑』をみると,

序で,

と当てる名詞の場合,

「ツイヅの連用形から」

となり,

順序,次第,
よいおり,機会,

という意味となり,「ついず(序・叙)」は,

次第を立てる,順序を定める,

意となる。

次いで,
尋いで,

と当てる副詞の場合,

「ツギテの音便」

となり,

続いて,ほどなく,

という意味で,接続詞として使われると,

次に,それから,

という意味になる。さらに,

序でに,

と,副詞として使う場合は,

そのおりに,その機会に乗じて,

という意味になる。明らかに,同系とみられるのに,目名詞と副詞では,語源が,

ツイヅの連用形から,

ツギテの音便,

と二説にわかれる。語源が異なるということなのかもしれない。『大言海』も,名詞「ついで」は,

次序,
次第,

と当て,

「ツギツの音転」

とし,副詞「ついで」は,

尋,

と当て,

「次ぎての音便轉」

とする。つまり,「ついで」の「ツギツの音転」とある「つきづ」とは,

「次ぎ出づの音便約」

とあり,

つぎいづ→ついづ→ついで,

と転じていったことになる。つまり,

次いで出る,

という意味である。

「ついで」は,

次ぎての転,

とあるので,

つぎて→ついで,

で,

順序,

を意味する。同じようだが,「つぎづ」は,

次いで出る,

という「出る」動作に焦点が当たっているのに対し,「つぎて」は,

次て,

という,次の順番という,順序に焦点が当たっている,ということになる。『岩波古語辞典』には,つぎて,は,

序,

と当てて,

「ツイデの古形」

とある。しかし,『岩波古語辞典』は,「ついで(次・序)」について,

「ツギ(継)テ(手)の音便形。一つのことの次は何と順序を付けること。また一つのことの次に起こることの意」

として,動詞「ついで(づ)」は,名詞の動詞化と見なしている。この説によれば,

継手,

つまり,物の「継なぎ目」が語源ということになる。『日本語源大辞典』は,

動詞ツイヅの名詞形(小学館『古語大辞典』),
ツギテ(続手)の音便形(雅言考・日本語源=賀茂百樹),
ツギテ(継手)の音便形(岩波古語辞典),
次々に出る意で,ツギデ(次出)の義(日本釈名),

と,ほぼ別れる。しかし,継手という概念は,抽象度が高い。

次いでいく,

という状態表現が先と,見るのが妥当なのではないか。『日本語源広辞典』が,

「ツギテ(次ぎて)」

を語源として,

「名詞としては,次第の意です。転じて,よい機会の意となります。副詞としては,ツイデニとなり,『他のことをするときに一緒に』の意となります。」

とするのが,常識的に思える。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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2017年10月13日

ゆび


「ゆび」は,

指,

と当てる。「指」の字は,

「『手+音符旨』で,まっすぐ伸びて直線に物をさすゆびで,まっすぐに進む意を含む。旨(シ うまいごちそう)は,ここでは単なる音符に過ぎない」

であるが,因みに「旨」の字は,

「もと『匕+甘(うまい)』の会意文字。匕印は,人の形であるが,まさか人肉の脂ではあるまい。匕(さじ)のあてた字であろう。つまり『さじ+甘』で,うまい食物のこと。のち指(ゆびで示す)に当て,指し示す内容の意に用いる」

とある。『岩波古語辞典』には,「ゆび」について,

「古形オヨビの転」

とある。また『大言海』も,

「オヨビの略転。訛して,イビ,また,ヨビ。古くは,オヨビ」

とある。また『和名抄』には,

「於與比」

と当てている。「および」は(「ゆび」の意だが),『岩波古語辞典』に,

「上代,ヨビの音の甲乙類未詳」

とある。上代特殊仮名遣いについては,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BB%A3%E7%89%B9%E6%AE%8A%E4%BB%AE%E5%90%8D%E9%81%A3

に詳しい。

『日本語源広辞典』は,「ゆび」の語源を,二説挙げる。

説1,「『及び,オヨビから,オ音脱落。ユビ』です。手の先で物に届く(及ぶ)部分を言います。」
説2,「『結う,ユウの連用形ユヒの音韻変化』です。手の先で物を結ぶ部分の意です。」

しかし,古形が「および」なら,説2は成り立たない。だから,『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/yu/yubi.html

は,

「指の語源は諸説あるが、古くは『および』と言い、さし出して物に及ぶところから、『及び( および)』の意味とする説がよい。 現在では手足ともに『ゆび』と呼ぶが、元は手のものを『指(てゆび)』、足のものを『趾(あしゆび)』といって区別していた。」

とする。どうやら,語源は,「さし出して物に及ぶ」意から,手の指から始まったようだか,和語では,手足の区別をせず,「ゆび」と言った。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%87

にある通り,

「大和言葉としての『ゆび」は手足両方を指すが、漢字の『指』は手偏が付いていることからもわかるとおり、本来は手の『ゆび』を意味する。(中略)日本語でも、医学用語では「指」と「趾」を区別する。』

ゆび.jpg


では,ついでなので,五指,

親指,
人差し指,
中指,
薬指,
小指,

の語源は,どうなのだろう。「おやゆび」は,『日本語源広辞典』は,

「親+指」

とするが,古形が「および」と考えると,少しいかがわしい。『大言海』は,

オホオヨビ,オホユビ,

とする。『日本語源大辞典』は,

「古くはオホオヨビ。十二世紀頃にオホユビとなり,近世まで親指の呼称の中心的なものとして使用された。オヤユビは元禄時代頃から用例が見えるが,オホユビの勢力も依然強く,節用集類でもオホユビの訓のものが多い。『書言字考節用集』では,『拇』に対し右に『オホユビ』,左に『オヤユビ』と訓を付している。当時としてはオホユビを正しいとする意識があったのであろう。明治になった,オヤユビがオホユビを圧倒する」

とある。つまり,「オホユビ」,「大指」である。『岩波古語辞典』には,

オホオヨビの転,

とある。「大きいオヨビ(指)」の意である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E6%8C%87

にも,

「中世の日本では『おほゆび(大指)』と呼ばれ、江戸時代に『おやゆび』の用例が見られるようになった。親指の呼称が定着したのは明治時代以後のことである。」

とある。「人差し指」は,文字通り,

「人をゆびさす指の意」

とある(『広辞苑』『日本語源広辞典』『大言海』)。『日本語源大辞典』は,

「上代・中古には,人をさすときに用いる指ということからヒトサシノオヨビと呼ばれた。その後,ヒトサシノユビ,ヒトサシユビと変化して現在に至る。中世には,古形を残すヒトサシオユビ,省略形のヒトサシも見られるが,いずれも一般化することはなかった。」

とある。今も昔も,人を指さすには,この指を使うらしい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%B7%AE%E3%81%97%E6%8C%87

によると,

「和語ではお母さん指、塩舐め指、医学用語では第二指、示指、漢語では食指、頭指との呼び方がある。 」

とある。

「中指」は,『大言海』に,古称として,

タケタカユビ,
タカタカユビ,
ナカノオヨビ,

の呼び名が載る。一番長い指という意になる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%8C%87

にも,

「和語ではお兄さん指、高高指(たかたかゆび、丈高指の転訛)、医学用語では第三指、中指(ちゅうし)、漢語では中指(ちゅうし)、長指との呼び方がある。」

と載る。『日本語源大辞典』は,

「古くは,五本の指の中の真ん中の指ということでナカ(中)オヨビ(指)。後にナカノユビ,ナカユビへと変化し現在に至っている。十五世紀頃にタケタカユビという呼び方が生まれ,母音の同化と『高』の類推からタカタカユビとともに,近世にはナカユビよりも広く使われた。ナカユビが古い規範的な表現。タケタカユビが一般の表現,タカタカユビは俗語的な表現と意識される。タカタカユビの重複をきらってタカユビも生じたが,一般化しなかった。近世以降タケタカユビは使われなくなり,ナカユビが再び一般化した。」

とある。『和名抄』には,

「奈加乃於與比」

と当て,『松屋筆記』には,

「タカタカユビは,ナカユビなり」

と載る(『大言海』)。

「薬指」は,『広辞苑』に,

「薬を溶かす時,主にこの指を用いることからいう」

とあり,『岩波古語辞典』には,「薬指」を,

薬師指,

とする。『大言海』は,「薬師指(くすしゆび)」の項で,

「古名無名(ななし)の指(および)。いまくすりゆびと云ふ。」

とし,こう書く。

「古へ,無名(ななし)の指(および)と云ひしは,名の無かりしものか,薬師指(くすしゆび)の名は,室町時代に起こりしものか。古へ,此の指を曲げて,薬を点じたり,薬師如来の印相なりと云ふ。其の薬師(やくし)をを薬師(くすし)と訓読したる語か。或いは,動詞クススの名詞形なるか,クスリユビトと云ふは,これより移りたるなり」

と。また,

http://www.snap-tck.com/room04/c02/misc/misc01.html

によれば,

「薬指の古い呼び名は『薬師指(くすしゆび)』つまり『医者の指』で、医者が薬指を使って薬を塗ったので、普通の人もそれを真似るようになったようです。 薬指のもっと古い呼び名は『名無し指』で、これは薬指には魔力があると考えられていたので、その名前を直接呼ぶのを避けたことに由来します。 薬指に魔力があるという考えは世界中にあり、西洋で、やはり魔力を持つと信じられていた指輪を薬指にはめるのもこの考えに由来します。」

とあるので,薬指で薬を説くのには,何か謂れがあるに違いない。

『日本語源大辞典』は,文献上からの語形の変化を,こう整理している。

「およそ奈良~鎌倉にナナシユビ,鎌倉~江戸前期にクスシユビ,室町末期~明治にベニサシユビとなっている。また中世には既にクスシユビとクスリユビが共存し,主として前者が上層語・文章語,後者が庶民口頭語として位相を分かち合っていたと考えられる。」

「小指」は,古称は,

コオヨビ,

つまり,文字通り小さい指。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%8C%87

には,

「和語では赤ちゃん指、医学用語では第五指、小指(しょうし)、漢語では小指(しょうし)、季指との呼び方もある。」

とある。『日本語源大辞典』には,

「『季指』の訓として『十巻本和名抄』に『古於與比』,『観智院本名義抄』に『コオヨビ』,『色葉字類抄』に『コユヒ』とあるところから,小指の呼称は『コオヨビ』『コオユビ』『コユビ』と変化してきたことがうかがわれる。『色葉字類抄』以後,現代に至るまで,『コユビ』が小指の呼称の中心になっているが,中世には,指の古い呼称『オヨビ』の意味が分からなくなり,『オ』を『小』と解して,小指の意味であるとした例が見られ,近世には,『小指』を音読した『ショウシ』や,俗語的な『コイビ』もあるが,一般的な呼称にはならなかった。」

とある。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%87
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

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2017年10月14日

あたま


「あたま」は,

頭,

とあてるが,和語では,

かしら,
こうべ,
つむり,
つぶり,
かぶ,
つむ,

等々,異称がある。「頭」の字は,

「『頁(あたま)+音符豆(じっとたつたかつき)』で,まっすぐたっているあたま」

で,「頁」の字が,

「人間の頭を大きく描き,その下に小さく両足をそえた形に描いたもの。頭・額・頷(あご)などの字に,あたまを示す意符として含まれる」

を意味し,「豆」の字は,

「たかつきを描いたもので,じっとひと所にたつ意を含む。のち,たかつきの形をしたまめの意に転用された」

とある。

さて,和語「あたま」について,『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/a/atama.html

は,

「『当間(あてま)』の転で灸点に当たる所の意味や、『天玉(あたま)』『貴間(あてま)』の意味など諸説あるが未詳。 古くは『かぶ』『かしら』『かうべ(こうべ)』と言い、『かぶ』は 奈良時代には古語化していたとされる。『かしら』は奈良時代から見られ、頭を表す代表 語となっていた。『こうべ』は平安時代以降みられるが、『かしら』に比べ用法や使用例が狭く、室町時代には古語化し、『あたま』が徐々に使われるようになった。『あたま』は、もとは前頭部中央の骨と骨の隙間を表した語で、頭頂や頭全体を表すようになったが、まだ『かしら』が代表的な言葉として用いられ、『つむり』『かぶり』『くび』などと併用されていた。しだいに『あたま』が勢力を広げて代表的な言葉となり、脳の働きや人数を表すようにもなった。」

と,

かぶ→かしら→こうべ→(つむり・かぶり・くび)→あたま,

と変遷したということらしい。『岩波古語辞典』によると,「あたま」は,

「古くは頭の前頂,乳児のひよめき。頭部全体は古くはカシラといったが,中世以後,アタマともいうようになり,カシラはだんだん文語的につかわれるようになった。」

とある。「ひよひよ」とは,

「(ひよひよと動く意)幼児の頭蓋骨がまだ完全に縫合し終らない時,脈搏につれて動いて見える前頭および後頭の一部。」

とある。『日本語源大辞典』にも,

「類義語カシラは奈良時代にすでに例があり,平安時代に入ると漢文特有語であるカウベとともに,和文特有語として多用された。室町時代口語資料でも中心的に用いられているが,しだいに動物の頭を指して使われることが多くなり,江戸時代には,アタマに代表語としての地位を譲ることになる。アタマは,平安時代にその例が見られるが,はじめはひよめき(頭の前頂部)の位置を表した。その後,頭頂部まで範囲を拡大し,室町後期から江戸初期にかけて頭全体を表すようになり,カシラの意味の縮小にともない,頭部を表す代表語になった。」

とあり,特定部分を指した「あたま」が,全体を意味するに転じたことになる。『大言海』は,

「灸穴(きゅうけつ)の名。當間(あてま)の轉にて(楯並(たてな)めて,たたなめて),灸點に當つる所の意か。…頭骨,交會の處なり」

とする。『日本語源広辞典』は,「あたま」の語源を,二説挙げる。

説1は,「『当て+間』で,針灸点のヒヨメキから,頭頂のことを意味し,後に,頭全体を表すようになります。」
説2は,「『ア(天・最上部)+タマ(丸い部分)』が語源だとする説。」

後で触れる「カシラ」「こうべ」との類推をするなら,箇所の位置を示す,というのが自然に思える。針灸点は,後に普及するのに力があったとしても,「あたま」の語源としては,前後が逆の気がする。その他の,

アタマ(天玉)の義(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子),
アタルマド(当窓)の略。アタルとは,そのいただきに当たる意(名言通),
アテマ(貴間)の義(言元梯),
アノツマ(天間)の義(日本語源=賀茂百樹),

等々,位置と関わる語が多い。

では,長く頭の意を表した「カシラ」は,『岩波古語辞典』に,

「頭髪や顔を含めて,頭全体を身体の一部分としてとらえた語。カシはカシヅキのカシと同じ。ラは接尾語。頭髪だけをとりたてる場合はカミという。類義語カウベは頭部を身体から離してとらえた語。カシラには『結ふ』『剃る』などというが,普通カウベにはいわない。アタマは古くはひよめきのこと」

とあり,これだけだと,「カシ」の意味が分からないが,『大言海』は,

「上代(カミシロ)の略転か(かみさし,かざし)」

とする。この他,

髪代の義か(俗語考),
カミ(上)にあってシルキ(著)の義から(和訓栞),
カミシラレ(上識)の義。シラレは誰々と弁別して知られる意(名言通),

等々,この位置からの表現の仕方から,「かしら」が,「こうべ」と同じ表現の仕方なのがわかる。「こうべ」も,

カミヘ(上辺)の転か(『広辞苑』),
頭上(かぶうへ)の音便約,あるいは,頭方(かぶべ)の音便(『大言海』),
カブベ(頭方)の音便(於路加於比),
カウベ(上辺)の義(和字正濫鈔・日本釈名=燕石雑誌),
カミヘ(上方・上辺)の音便(言元梯・俗語考・和訓栞・語麓),
髪辺の義か(和訓栞)

等々と,身体の上方という位置を示している。それだけに,「あたま」も,おそらく,位置表現から来ていると思わせる。

いちばん古い呼称の「かぶ」は,『大言海』に,

「カウベと云ふも,頭上(かぶうへ)の転なり,膝頭に,ヒザカブの名存せり」

とあるので,「かうべ」は,「かぶ」から来た,ということがわかるが,『岩波古語辞典』の「かぶ」を見ると,

頭,
株,

と当てて,

「カブラ(蕪)・カブツチのカブと同根。塊りになっていて,バラバラに離れることがないもの」

とあるので,植物についていった言葉を,人の頭に転用した,ということが類推される。

「つむり(つぶり)」は,『大言海』は,

「圓(つぶら)の転にて,元,禿頭の称ならむと云ふ」

というのが笑える。『岩波古語辞典』は,

「ツブ(粒)と同根」

とあるが,「つぶ」は,

「ツブシ(腿)・ツブリ・ツブラ(円)・ツブサニと同根」

とあるので,「円」という形から来たものとみてよい。この「つむり」が「おつむ」とつながる。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/o/otsumu.html

は,

「おつむは『おつむり』の略で、宮中の女官が用いた女房詞であった。『おつむり』の『お』は接頭語、『つむり』は頭のことである。『つむり』は『つぶり』が転じた語で、丸くて小さいものを表す『粒』と同源で、『かたつむり』の『つむり』など、渦巻状の貝にも用いられる。それが頭の意味で用いられ、女房詞で『おつむり』となり、『り』が略されて『おつむ』となった。」

とある。

最後に,こんにち「くび」は,

首,

だが,「あたま」の意でも使うが,『岩波古語辞典』にはこうある。

「古くは頭と胴とをつなぐくびれた部分。後に頸部を切り取った頭部すなわち頸部から上全体をも言うようになった」

と。「首を取る」とは,その意味である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)


ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
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2017年10月18日

びり


「びり」は,

順番の一番下,

つまり,

どんけつ,

の意味だが,他に,

人をののしって言う語,
使い古して性(しょう)の抜けた布,
遊女,女郎,

という意味がある,と『広辞苑』にはある。『岩波古語辞典』にも,

女,または遊女。また,女を罵って言ういう語,
尻,または女陰。また男女間の情事,もめごと,
いちばん後,最後,

と意味が載る。用例を見る限り,江戸期の言葉に見える。

『大言海』には,

「しり(尻)の転訛か」

として,

最尾,

の意味しか載らない。『江戸語大辞典』にも,やはり,

尻,転じて最末尾,
隠語。女,素人女,玄人女共にいう,

という意味が載り,

びりを釣る,

という言い回しが載る。

芝居者隠語,女郎買いに行く,

意とある。『隠語大辞典』には,

http://www.weblio.jp/content/%E3%81%B3%E3%82%8A?dictCode=INGDJ

「びり」は,それぞれの集団ごとに意味を微妙に変わっていることがわかる載せ方になっている。

〔分類 掏摸、犯罪〕
1. ①最終なること。びりつこに同じ。②小女を罵りていふ詞。
2. 娼婦。支那語にて娼婦を「ぴい」と云ふ。その転訛か又尻の事を「びり」と云ふよりか。転じて芸妓、婦女子。下婢、密淫売婦を云ふ。
3. 女、淫売。〔一般犯罪〕
4. 女、娼妓。〔掏模〕
5. 娼婦。支那語で娼婦を「ビー」というからその転訛か又尻のことを「びり」ということから出たという。転じて芸6. 妓婦女子。下婢などをいう。

〔ルンペン/大阪、俗語、刑事、宮崎県、島根県、長野県〕
1. 婦女ノコトヲ云フ。〔第六類 人身之部・長野県〕
2,.女ノコトヲ云フ。〔第六類 人身之部・島根県〕
3. 女ノコトヲ云フ。〔第六類 人身之部・宮崎県〕
4. 婦女子。〔第二類 人物風俗〕
5. 女のこと。『ビリコケ』は淫奔な女の意である。〔刑事〕
6. 女。
7. 女のことをいふ。「びりこけ」は淫奔な女のことをいふ。

1, 館林にて姦通のことなりと。「俚言集覧」にあれども、情事の意。時に女陰の義とも解すべきか。「びり出入名月の夜に書き初め」「びり出入まず経文のうらに書き」「けつをだんずる所だにびり出入」「びり出入大屋もちつとなまぐさし」「びりいけん母は他人の口をかり」。

〔不良仲間〕
遊廓。大口 不良仲間。

〔ルンペン/大阪、不良少年少女/テキヤ、不/犯、山口県、犯罪者/露天商人、露店商、香、香具師/不良〕
1. 下婢ノコトヲ云フ。〔第六類 人身之部・山口県〕
2. 娼妓。〔第二類 人物風俗〕
3. ビリは女郎のことです。矢張りテキヤの隠語で、ビリは下のことを言ひ現はしたものです。
4. 女郎。
5. 〔不・犯〕女郎のことを云ふ。又下等のこと。「ガセビリ」参照。
6. 娼妓又は下流芸妓を云ふ。
7. 娼妓。行橋。
8. 女郎、娼婦、びり公ともいう。〔香具師・不良〕
9. 売淫のこと。媚(こび)売りの省略語。〔香〕

等々。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/hi/biri.html

には,

「ビリの語源は未詳であるが、『尻(しり)』が転訛して『ひり』となり、『びり』になったとする説が有力とされる。 びりという語は、古く江戸時代の歌舞伎にも見られ、『最下位』の意味のほか、『尻』から『男女の情交』を意味するようになり、『男女の情交』から『女性の陰部』の意味で用いられ、転じて遊女や女郎の意味や遊女などをののしる語としても用いられている。これら全て『尻』が基点になっているため、ビリの尻転訛説は有力と考えられる。また、『屁を放(ひ)る』の『ひる』と『尻』が混ざり、『しり』が『ひり』になり、『びり』になったとする説もあるが、有力な説とは考え難い。」

とある。増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)は,

「シリ,ヒリ,ビリと音韻変化」

を取っているが,これは,『大言海』の,

しり(尻)の転訛,

を具体化したものと思われる。『日本語源大辞典』は,「しり」の転訛の他に,

イバリ(尿)の上略か,また,放屁する意のヒリケツの転か(嫁が君=楳垣実),

を挙げている。この説なら,『語源由来辞典』が捨てた,「放屁」説も具体的に見えてくる。

『岩波古語辞典』『隠語大辞典』などの意味を見てみると,「びり」は,根拠はないが,基本は,「尻」というより,「女陰」を指す隠語だったのではないか,という気がしてくる。俗語のお○○○も,「びり」と同じく,情交も意味する,罵り言葉でもある。だから,

しり→ひり→びり,

の音韻変化ではなく,はじめから,

びり,

だったのではないか,という気がしてならない。そこには,しかし,明らかな差別意識がある。もっとはっきり言って,女性蔑視がある。「尻」からの意味の派生にしては,余りにも,女性あるいは,その下半身系に偏りすぎている。

しり→ひり→びり,

の音韻変化は,どうも牽強付会に見える。あるいは,はっきり言って,おためごかしである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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今日のアイデア;
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ラベル:びり
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2017年10月19日

夢の利用


W・ボニーム『夢の臨床的利用』を読む。

夢の臨床的利用.jpg


フロイトの『夢判断』については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/452252107.html

で触れたが,著者は,「まえがき」で,

「私は,パーソナリティを基本的に対人関係のかかわり合いの中で発達していくものと見なしている点で,伝統的な精神分析的見解とはちがっている。人のパーソナリティは,性的あるいはその他の本能の表れであり,本質は本能であり,その発達したものであるとは考えない。むしろ反対に,この性的行動は他の行動と同様に,根本的に社会的に生み出されたパーソナリティを反映している。」

と,ホーナイの流れを汲んで,

「自己との対決」

という中で,夢を分析していく。因みに,カレン・ホーナイについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/450812938.html

で触れた。

本書は,タイトルに,「臨床的利用」とある以上,「序章」で,

「本書の目的は,夢の資料を実際に役立てるための作業仮説や,その仮説から導き出される諸技法を系統だてて紹介することである」

というように,基本,

「専門家のために書かれたものであり,また実際的な本」

である。それは,

第一に,夢を四種類の要素(活動性,人格像,周囲の状況,感情)に分類して考える,
第二に,連奏活動についてのアプローチ,
第三に,解釈活動についての考察,

という三つの基本的アプローチからなされている,と著者はいう。著者の夢の考え方は,四つの要素に,象徴されている。

たとえば,「(夢の)活動性」とは,「パーソナリティの働きの重要な面を映し出」し,それは,

「治療や夢が関与する事柄全てには,変化のプロセスが,必ず本質的に存在しているものである。」

として,

「分析治療全体を通して,次のような問題意識をいつも持ち続けている必要がある。それはまず,患者に特徴的な動きとして,どのようなものがみられるだろうか。こうしたことは,どれも似かよった動きなのだろうか。あるいは調和した,協応的な動きなのだろうか,それとも葛藤的な動きなのだろうか。その方向や強さは,どうなっているのだろうか。また患者の思考の働きや感情の動きは,どのような性質を備えており,患者は,他者に対してどのように働きかけ,どのように応じているのだろうか。さらにて病理性は,消失していきつつあるのだろうか。それとも,古い病理が,顕在化してきているのだろうか。また,健康になってきているのだろうか。それとも患者は,変化することに抵抗し,逆らっているいるのだろうか。あるいはその両方が,ともに起こっているのだろうか。さらに患者は,分析家の治療に協力的なのだろうか,それとも妨害的なのだろうか。あるいは,その両方の動きが含まれているのだろうか。以上あげたようなことが,治療における動きの問題であり,こうしたことが,夢の中の活動性によって反映され,強調されているプロセスなのである。」

と書く。今日読むと,クライアントの見方も,セラピストの姿勢も,隔世の感がある。

さらに,「(夢の)人格像」は,

「夢の中の登場人物の正体を明らかにするのに役立つだけではなく,具体的なパーソナリティ特性を明らかにしていくのにも役立つ」

もので,

「夢における人格像は,人それ自体というよりもむしろ,人びとの持っている諸々重要な属性を表してることの方が多い。この属性は,患者自身の属性ということもあれば誰か他の人物の属性ということもある。このようにして描きだされた属性は,(一),覚醒時に患者が考えていることとは本質的に異なっているが,的確な知覚であることもあるし,(二),患者が気づいていなかったり,認めたくないと感じている患者自身や他の人(特に分析家)についての歪んだ知覚のこともある。」

とし,夢の中の人物が誰にしろ,

「患者,あるいは別の人のある属性として」

表れてくる,という。経験の反映だから,それはあるのだろうが。。。

「(夢の中の)周囲の状況」とは,

「夢の中で活動がなされたり,人格像が登場する場面はもちろんのこと,自然を形作っているすべての風物や,文明の諸産物のこと」

で,「活動性や,人物像や,感情といった夢の各要素をみきわめたり,その意味を明確にしてゆく上で助けになる」

とされる。

「(夢の中の)感情」には,

「象徴化された感情と,体験された感情」

とがあり,

「象徴化された感情というのは,夢を見ている時には実際に感じられていないけれども,活動性や,人格像や,周囲の状況といったような夢の要素のいずれかによって推測される感情的な構成要素である。それに対して体験された感情というのは,夢を見ている間に,現に体験されている感情的な構成要素のことである。」

そして,感情が鍵らしいのである。

「分析家と患者が協力して,覚醒時と夢に見られる感情を可能な限り詳しく探り,そして評価する努力を傾けるならば,他の方法ではとても手に入らないような患者に関する情報が,新たに見つけ出される。見い出された感情に注意を集中させながら連想活動を行うことによって,その感情と関連のある思考や行動の意味を,深く理解することができるようになる。こうした感情に焦点を当てる手続きを取らない限り,患者の思考や行動は,自己欺瞞と混乱の渦の中に落ち込んでしまい,どうしようもないままになってしまう。こうした感情に焦点をあてようという努力は,しばしば夢を探求していくことによってうまく促進されるし,成果があがるものである。事実,夢が臨床的に役立つかどうかということは,夢の中の感情にどれだけ注意が払われているかということと正比例しているのである。」

それにしても,回り道をしながら長い長い時間がかかる分析治療の,分析家と患者の忍耐には感嘆させられる。

よく,「フロイト派の分析治療を受けている患者はしばらくすると,フロイト派の言う象徴のゆめをみ」,「ユング派の分析家に分析を受けている患者はユング派の象徴の夢をみ」ると言われる。それは,夢が経験と学習の記憶の整理のためだという近年の説を象徴するように思える。だから,夢に本人の人生や生き方が反映していることは間違いはない。しかし,それに意味づけをすることの効果について,僕には,是非を言う資格はない。

今日夢を扱うセラピーの中で,どう取り上げられているのかは知らないが,本書を,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/452252107.html

で取り上げたフロイトの『夢判断』と,さらに,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/451725678.html

で取り上げた,ジェンドリンの『夢とフォーカシング―からだによる夢解釈』とを読み比べると,夢がセラピーの中で位置づけを小さくしていく様子が見える。夢は,実体験をなにがしか反映している。そこにある事柄の意味よりは,感情に意味があるに違いはない。しかし,今日のセラピーは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/453570328.html

で取り上げたように,ほぼ夢は,取り上げない。ある意味,夢は,

ドミナント・ストーリー

に拘束された意識のものでしかないからなのかもしれない。

参考文献;
W・ボニーム『夢の臨床的利用』(誠信書房)

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今日のアイデア;
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2017年10月20日


世阿弥編『花伝書(風姿花伝)』を読む。

花伝書.jpg


「そもそも、花といふに、万木千草において、四季をりふしに咲くものなれば、その時を得て珍しきゆゑにもてあそぶなり。申楽も、人の心にめづらしきと知るところ、すなはち、おもしろき心なり。と、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲くころあればめづらしきなり。花と、おもしろきと、めづらしき能も住するところなきを、まづ花と知るべし。住せずして、余の風体に移れば、めづらしきなり。」

にある,

「花と、おもしろきと、めづら しきと、これ三つは同じ心なり。」

が気になる。「花」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/449051395.html

で触れた。『大言海』は,「はな(花)」について,

「端(はな)の義。著しく現れ目立つの意」

とし,「はな(鼻)」も,

「端(はな)の義」

とし,「はな(端)」つにいて,

初,

とも当て,「物事の最も先なるところ。まっさき。はじめ」と意を載せる。『古語辞典』も,「鼻」と「端」を同源としている。つまり,「はな(花・華)」は,

「著しく目立つの意のハナ」

で,「はな(鼻・端)」は,ともに,

「著しく目立つ意の,ハナ」

で,顔の真ん中で著しく目立つ,ところからということになる。つまり,

「花と、おもしろきと、めづらしき」

の意は,「花」の原意からみても,通じるのである。

しかし,

「様あり。めづらしきといへばとて、世になき風体をしいだすにてはあるべからず。」

とある。見るものに「めずらしい」と感じさせるのであって,奇をてらうことではない。それは,

「花伝にいだすところの条々を、ことごとく稽古し終わりて、さて、申楽をせん時に、その物数を、用々に従ひてとりいだすべし。花と申すも、万の草木において、いづれか四季をりふしの、時の花のほかに、めづらしき花のあるべき。そのごとくに、 習ひおぼえつる品々をきはめぬれば、時をりふしの当世を心得て、時の人の好みの品によりて、その風体をとりいだす。これ時の花の咲くを見んがごとし。」

と。

「物数をきはめつくしたらんしては、初春の梅より秋の菊の花の咲きはつるまで、一年中の花の種を持ちたらんがごとし。いづれの花なりとも、人の望み、時によりて、とりいだすべし。物数を究めずば、時によりて花を失うことあるべし。たとへば、春の花のころ過ぎて、夏草の花を賞翫せんずる時分に、春の花の風体ばかりを得たらんしてが、夏草の花はなくて、過ぎし春の花を、また持ちていでたらんは、時の花に合ふべしや。 」

と。意表をついて珍しいことをすればいいのではない。

「花とて別にはなきものなり。物数をつくして、工夫を得て、めづらしき感を心得るが花なり。」

と。それを,

巌に花の咲かんがごとし,

とも喩える。

「花といふは、余の風体を残さずして、幽玄至極の上手と、人の、思ひなれたるところに、思ひのほかに鬼をすれば、めづらしく見ゆるところ、これ花なり。しかれば、鬼許りをせんずるしては、巌ばかりにて、花はあるべか らず。」

と。

「そもそも、因果とて、善き悪しき時のあるも、公案をつくして見るに、ただめづらしき・めづらしからぬの二つなり。同じ上手にて、同じ能を、昨日今日見れども、おもしろやと見えつることの、いままた、おもしろくもなき善きのあるは、昨日おもしろかりつる心ならひに、今日はめづらしからぬによりて、悪しと見るなり。その後、 また善き時のあるは、さきに悪かりつるものをと思ふ心、また珍しきにかへりて、おもしろくなるなり。 」


そして,

善悪不二、邪正一如。

に譬える。

「本来より、善き悪しきとは、なにをもて、さだむべきや。ただ時にとりて用足るものをば善きものとし、用足らぬを悪しきものとす。この風体の品々も、当世の衆人・所々にわたりて、その時のあまねき好みによりてとりいだす風体、これ用足るための花なるべし。ここにこの風体をもてあそめば、かしこにまた余の風体を賞翫す。これ人々心心のはななり。いづれをまこと とせんや。ただ、時に用ゆるをもて花と知るべし。」

それは,

「幽玄と強きと、別にあるものと心得るゆゑに、迷ふなり。この二つは、そのものの体にあり。たとへば、人においては、女御・更衣、または、優女・好色・美男・草木には花のたぐひ。か様の数々は、その形、幽玄のものなり。また、あるは、武士・荒夷、あるひは、鬼・神、草木にも、松・杉、か様の数々のたぐひは、強きものと申すべきか。
 か様の万物の品々を、よくし似せたらんは、幽玄のものまねは幽玄になり、強きはおのづから強かるべし。この 分見をばあてがはずして、ただ、幽玄にせんとばかり心得て、ものまねおろそかなれば、それに似ず。似ぬをば知らで、幽玄にするぞと思ふ心、これ弱きなり。されば、優女・美男などのものまねを、よく似せたらば、おのづか ら幽玄なるべし。また、強きことをもよく似せたらんは、おのづから強かるべし。
 ただし、心得うべきことあり。力無く、この道は、見所を本にするわざなれば、その当世当世の風儀にて、幽玄をもてあそぶ見物衆の前にては、強きかたをば、すこしものまねにはづるるとも、幽玄の方へはやらせたまふべし。」

と通じる。

「同じ能を、昨日今日見れども、おもしろやと見えつることの、いままた、おもしろくもなき善きのあるは、昨日おもしろかりつる心ならひに、今日はめづらしからぬによりて、悪しと見るなり。」

にも通じる。申楽は,当時,時代の観客と真剣なキャッチボールをしていたことがよく分かる。

「珍しき、花ぞと、みな人知るならば、さては、めづらしきことあるべしと、思ひ設けたらん見物衆の前にては、たとひめづらしきことをするとも、見手の心にめづらしき感はあるべからず。見る人のため、花ぞとも知らでこそ、しての花にはなるべけれ。されば、見る人は、ただ思ひのほかに、おもしろき上手とばかり見て、これは、花ぞとも知らぬが、しての花なり。さるほどに、人の心に思ひもよらぬ感を催すてだて、これ花なり。」

まさに,

秘すれば花、秘せぬは花なるべからず,

である。

芭蕉『笈之小文』の,

「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ処月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。
神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、
 旅人と我名よばれん初しぐれ」

とあるのと,通じるところが,もちろんある。しかし,造花に従い,造花にかえるだけでは,花ではない。その時々の目の付け所は造花をメタ化する目がいる。その「公案」こそが,「花」の鍵,と見たが,僻目か。

「いづれの花なりとも、人の望み、時によりて、とりいだすべし。物数を究めずば、時によりて花を失うことあるべし。」
「この道を究め終りて見れば、花とて別にはなきものなり、奥義を究めて万に珍しきことわりを、われと知るならでは、花はあるべからず」

に謂い尽くされている気がする。


参考文献;
世阿弥編『花伝書(風姿花伝)』(講談社文庫)

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今日のアイデア;
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2017年10月21日

しり


「しり」は,

尻,
後,
臀,

と当てる。「うしろ」の項,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/422266986.html

で触れたように,「うしろ」は,

「う(内部)+しろ(区域)」

で,内部から転じて,後部となった語,とされる(『日本語源広辞典』)。あととか背後の意味も持つ。しかし,『古語辞典』をみると,「うしろ」は,

「み(身)」の古形「む」と「しり」(後・尻)の古形「しろ」の結合した「ムシロ」の訛ったもの

とある。で,かつては,

まへ⇔しりへ

のちには,

まへ⇔うしろ

と対で使われる,とある。『大言海』には,

身後(むしり)の通音

とあり,むまの,うま(馬),むめの,うめ(梅)と同種の音韻変化,とある。ちなみに,「しり」は,

口(くち)と対,うしろの「しろ」と同根。

しり(後)

で,前(さき)後(しり)の「しり」が語源とある。いずれにしろ,「後」は,

背後から,後部,背中,後姿,裏側,物陰,

までの意味がある。この意味の「しり」に,

後,

を当てる。「後」の字は,

「『幺(わずか)+夂(あしをひきずる)+彳(いく)』で,あしをひいてわずかしか進めず,あとに遅れるさまを表す。のち,后(コウ・ゴ〔うしろ,尻の穴〕)と通じて用いられる。」

とある。もともとは,

人体後部の尻の穴のこと,

意味するらしいので,「しり(うしろ)」とほぼ重なる。「尻」の字は,

「九は,手のひどく曲がった姿で,曲りくねった末端の意を含む。尻は『尸(しり)+音符九』で,人体の末端で奥まった穴(肛門)のあるしりのこと」

で,まさに,尻ないし,尻の穴,の意である。「臀」の字は,

「殿の左側は,『尸(しり)+兀(腰掛け)二つ』の会意文字で,腰掛に載せたしりを示す。殿はそれに殳(動詞の記号)を加え,罪人のしりをうつこと,しんがりになることをしめす。臀は『肉+音符殿』。」

とあり,しり,しりの肉を意味する。

「しり」は,まさに,お尻の意味をメタファに,底面,後部,裾,終点,物の結末,等々と意味の外延を拡げている。『岩波古語辞典』の「しり」には,

「「口(くち)の対。ウシロのシロと同根。口から入ったものが体内を通って出る所。転じて,家の面の出入り口に対して裏の出入り口など。また,川や道などずっと通っているものの終る所,細長いものの末端。一方,シリのあるあたりの意で臀部,転じて,物の底部。また,後ろの意,下の意にも用いる。」

とし,対語は,した・しも,と書いている。

https://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n345630

には,

「『siri(しり)』と言う単語は、非常に昔から『肛門の周辺の部分』を意味する単語として存在していたようです。」

とし,『古事記』の,

「爾(ここ)に大気都比売(オホツゲヒメ)、鼻口及(また)尻(しり)より、種種(くさぐさ)の味物(ためつもの)を取り出して」

の用例を載せている。『大言海』は,

「身の後(しり)の義ならむ」

とする。『日本語源広辞典』も,

「『シリ(後)』です。前(サキ)後(シリ)のシリ(後)が肉体の尻の語源」

とする。位置関係の,

まへ⇔しりへとするのが妥当のようだ。

「しり」の同義語には,

けつ,
おいど,

がある。『笑える国語辞典』には,

https://www.fleapedia.com/%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%9F%B3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/%E3%81%91/%E3%82%B1%E3%83%84%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B/

「けつ」について,

「ケツとは、尻(しり)のやや卑俗な表現。『尻』と同じように、臀部の他、列の最後部やランキング最下位などを意味する言葉として用いられる。
 ケツは、『穴』の音読み『ケツ』が語源で、まさに尻の穴を意味しているが、実際的な用法では、穴とその周辺を含む『尻』のことを『ケツ』と言っている。だから『ケツの穴』というとほんとうは、『穴の穴』で意味をなさない言葉になる。」

とある。『大言海』も,

「尻の穴の音読みより移りたる語か,卑俗に,肛門をケツメと云ふ」

とあり,

「卑語に,ヰサラヒを云ふ。ヰシキ,しり。」

とある。「ゐさらひ」は,ほぼ使わない語だが,『岩波古語辞典』には,『和名抄』を引き,

「臋,井佐良比(ゐさらひ),坐処也」

とある。『大言海』には,

「膝行(ゐさり)の延と云ふ」

として,

「身の坐る時,坐に着く處。即ち尻。」

とある。「ゐしき(居敷)」も,ほぼ同じで,

「居敷くの名詞形」

で,「居敷く」とは,

しゃがむ,
ひざまづき,すわる,

意である。これも,その座席の意から,尻の意に転じた,と見ることができる。

「しり」の同義語で,いまひとつ「おゐど」は,『大言海』は,

御居處,

と当てている。つまり,「居敷」「ゐさらひ」と同じく,すわる場所から,意が転じたものと見なせる。ただ,女性が使う丁寧語,ということになる。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/o/oido.html

は,

「『お』は接頭語の『御』,『い』は『坐る』を意味する古語『ゐる(居る)』の名詞形。『ど』は『場所・処』を意味する『と・ど(処)』で,『おいど』は『坐るところ』という意味である。おしりは坐る際の中心となる部位であるため,中世頃から,上品な女性語として用いられるようになった。現在は,愛知と近畿以西の方言に見られる。」

とある。結局漢字「穴」を訓読みした語以外は,位置や場所を示す語が,「しり」に転用されたということになる。


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2017年10月22日

やがて


「やがて」は,

軈て,

と当てるが,「軈」の字は,日本製の漢字。

「身+應(応)」

で,ある物事に身をすぐ適応させる意,らしい。「やがて」の意味に合わせて作ったものだろう。「やがて」について,

①本来は,間に介在するもののないさまをいう。
 ・とりもなおさず,すなわち
 ・時を移さず,すぐさま,ただちに
 ・そのまま
②おっつけ,まもなく,ほどなく,そのうちに,早晩,今に。

と意味を整理する。「直に」という空間的なものが,時間に転用され,「直ぐに」と転じ,その時間的な間合いを拡大して,「いまに」という意味に転じた,というように見える。今日では,「やがて」は,

ほどなく,まもなく,

の意で使うことが多い。

『岩波古語辞典』には,

「二つの動作や状態の間に何の変化も時間的な距りもない意が原義。そのままにの意から,さながら,ほかならぬの意。時間的には,間もなくの意」

と,時間的空間的な「直」の意とする。しかし,『大言海』は,

「止難(ヤミガテ)の意。止まむとして能わず,直(タダチ)の義。軈は和字。音便に,ヤンガテ」

とする。だから,意味は,

「そのままに,すなわち,ただちに,すぐに,頓,即」

「転じて,ほどなく,まもなく,おっつけ,いまに,早晩,尋(ついで),須臾」

と載せる。時間的な接着から,そこへ時間的に迫っているという動的意味に転じた。としている。

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%82%84%E3%81%8C%E3%81%A6

は,

「ある時点からあまり時間が経過しない内にある事態が起こるさま。まもなく。」
「結局。究極においては。」

とし,動的ではなく,到達した時点の「ついに」の意味へと転じさせている。

http://dic.nicovideo.jp/a/%E8%BB%88

は,「軈」の字について,江戸中期の書〔同文通考・国字〕を引用して,

「軈(ヤガテ):猶、少時のごときなり」

とあるとする。これだと,間もなくの意の「おっつけ」とするか,猶予とみて「なお」とするか,微妙な時間間隔ということになる。

『日本語源広辞典』は,『大言海』と同じく,

「ヤミ(止)カテ(難し)」

とし,

ヤミカテ→ヤンカテ→ヤカテ→ヤガテ,

の音韻変化とする。で,

「止むことなく,間に介在しない時。そのまま,すぐに,たちまち,などの意」

と。これだと,

止むことのない状態という意味から,それが,そのままの意となり,それが,時間に転じて,すぐにとなり,その須臾の間隙を指して,まもなく,ついに,との意になった,ということになる。『学研全訳古語辞典』を見ると,

①そのまま。引き続いて。
②すぐに。ただちに。
③ほかでもなく。とりもなおさず。
④そっくり。そのまま全部。
⑤まもなく。そのうち。いずれ。

と意味が多様なことがわかる。『日本語源大辞典』によると,「ヤミガテ(止難)」以外に,

ヤ(矢)カ-テ(手)の義(言元梯),
ヤはヤス(安)のヤ,ガテはともに,また序にの意か(国語の語幹とその分類=大島正健),

があるとするが,ヤミガテ(止難)に軍配が上がりそうだ。さらに,『日本語源大辞典』は,

「①『観智院本名義抄』に『便 スナワチ ヤガテ』とあるように,『すなわち』に近い意で用いられたが,『すなわち』の漢文訓読で用いられるのに対して,『やがて』は,もっぱら和文脈で用いられた。②『今昔物語』ほかに『軈而』の形がみえ,のち『軈』一字をあてるようにもなるが,この字は国字で,『身をすぐに適応させる』意の会意文字と考えられる。③語の成り立ちについては,感動詞『や』に可能肯定判断を表す下二段動詞『かつ』の連用形『かて』がついて古くできたものという説がある。④日葡辞典には,『yacate(やかて)』の見出しもあるが,多く使われるのは『やがて』だと述べている。古くは清音だったか。」

と述べている。室町末期の『日葡辞典』が清音「やかて」を拾っていたとすると,「ヤミガテ(止難)」とするのには,難があるかもしれず,

感嘆詞「や」+「かて」

も捨てがたくなる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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2017年10月23日

こころ


「こころ」は,

心,

と当てる。『広辞苑』には,

「禽獣などの臓腑のすがたを見て,コル(凝)またはココルといったのが語源か。転じて,人間の内臓の通称となり,更に精神の意味に進んだ」

とあり,始原,臓器を指していたということになる。「心」の字も,

「心臓を描いたもの。それをシンというのは,沁(シン しみわたる)・滲(シン しみわたる)・浸(しみわたる)などと同系で,血液を細い血管のすみずみまで,しみわたらせる心臓の働きに着目したもの」

と,同じ発想である。

『岩波古語辞典』には,

「生命・活動の根源的な臓器と思われていた心臓。その鼓動の働きの意が原義。そこから,広く人間が意志的,気分・感情的,また知的に,外界に向かって働きかけていく動きを,すべて包括して指す語。類義語オモヒが,じっと胸に秘め,とどめている気持ちをいうに対して,ココロは基本的には物事に向かう活動的な気持ちを意味する。また状況を知的に判断し意味づける意から,分け・事情などの意。歌論では,外的な表現の語句や,形式に対して,表現しようとする歌の発想,趣向,内容,情趣などをいう。」

とあり,「こころ」が必ずしも情緒的な意味よりは,心臓がそうであるように,活動的な含意を持っていた,とするのには,ちょっと驚かされる。『大言海』にも,

「凝り凝りの,ココリ,ココロと転じたる語なり,サレバ,ココリとも云へり。万葉集廿三十一『妹が去去里(ここり)』神代記に,田心姫(タコリヒメ)とあるも,ココリなるべきか。凝海藻(コロブト),自凝島(オノコロジマ),同趣なり(凍(こ)い凝る,寒凝(コゴ)る,凝凝(コゴ)しき山。禮代(キャジリ),ゐやしろ。拾(ひろ)ふ,ひりふ)。沖縄にて,心の事を,ククルと云ふ,キモ(肝臓)と云ふ語も,凝物(コリモノ)の略にて…臓腑の事なり。『こころぎも』『きもこころ』『きも向ふ心』『叢ぎもの心』なども云ふ」

とあり,あくまで冷静に見ている「臓腑」を指す。語源も,そこから来ていると見ていい。

だから,『日本語源広辞典』は,

「『コゴル』が語源です。体の中にあるモヤモヤしたものが,凝り固まったものをココロと言い表したのです。心の存在する場所を心臓としたのは,中国の影響かと思われます。現代的に表現すると,『人間の精神のはたらきを凝集したもの』が,心です。万葉東国方言は,ココリです。」

と,必ずしも臓器由来を取らないが,「凝(こ)る」説をとり,この説が大勢のようだ。たとえば,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83

は,

「心(こころ)の語源はコル・ココルで、動物の内臓をさしていたが、人間の体の目に見えないものを意味するようになった。」

とするし,佐方哲彦(和歌山県立医科大学)氏も,

http://www.mukogawa-u.ac.jp/~clipsyst/mandarage98.pdf

で,

「『こ ころ』 の語源をたどってみると 、『 コル』 に行き着く。これはもともと獣禽類の臓腑の様態を指すことばであり、それが人間の内臓の様態の意味に転じ、さらに現在の意味へと変化したという。つまり、かつて人間は『こころ』を身体の中に実在するモノと考えていたことがわかる。」

としている。

http://kuwadong.blog34.fc2.com/blog-entry-308.html

も,

「『凝る』という言葉に由来するという説がまずある。かつて狩猟などをしていたが、鹿などの禽獣を狩って、その獲物の腹を切り裂くところころ凝ったものが出てくる。その臓物を見てコル(凝)とかココルとか言い、それが、人間の内臓の通称になり、やがて精神を表す言葉になったというのだ。」

とする。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/ko/kokoro.html

は, 少しその説に疑問のようだが,

「『凝々(こりこり)』『凝々(ころころ)』『凝る(こごる)』などから『こころ』に転じたとする『凝』の字を当てた説が多く見られるが、正確な語源は未詳である。漢字は心臓の形をかたどったものとされ、中国語では心臓の鼓動と精神作用が結びつけて考えられていた。『万葉集』には『肝向ふ 心砕けて』とあり、日本語の『こころ』も、『きも(肝臓)』に向かい合う、心臓を意味する言葉であったとされる。中古以後に、『こころ』は臓器としての『心臓』の意味が薄れ,漢語の『心(しん)』に代わり、『心の臓』という形で『心臓』を意味するようになった。」

と,「こる」はともかく,臓器を指していたこととしている。しかし,『日本語源大辞典』をみると,「こる」といっても,

コリコリ(凝凝)の約転か(大言海・古事記伝),
コロコロ(凝々)の約(俚言集覧),
コゴル(凝)の義(日本釈名・方術源論・東亜語源志=新村出),
コル(凝)の義を強めてコの音を重ねた語ココルのルをロに轉じ名詞化した語(国語の語幹とその分類=大島正健),
ココリ(小凝)の義(名言通),
ココとコリ固まった物であるところから。ロは所の意で,そのウツロをいう(本朝辞源=宇田甘冥),
火凝の義(類聚名物考),

等々と,どこか語呂合わせ行くのが,『語源由来辞典』ではないが,「正確な語源は未詳である」と言いたくなる。この他の語源説には,

語根コロに接頭詞コがついた語(神代史の新研究=白鳥庫吉)
ココは爰,ロは所の義か(和句解),
所ハの義,ココは此所,ロは接尾語(俚言集覧),
コ(小)のある処の意。コ(小)は点の意(日本古語大辞典=松岡静雄),
ココは心動がコツコツというところから。ロは場所の意か(国語溯原=大矢徹),

等々,「此処」という場所からという説がある。特別の場所ということだろうが,動物の臓腑由来には,ちょっと勝てない気がする。

その他には,「うらなう」

http://ppnetwork.seesaa.net/article/452962348.html

で触れたように,「心=裏」から来ているという説もある。たとえば,

ココロ(心)はココロ(裏)の義。ココロ(神)はカクレ(陰)の義(言元梯),
諸物に変転するところから,コロコロ(転々)の義(百草露),
ココはもとカクス・カクル(隠)の語幹カクと同源のカカ。本来隠れたもの・隠しているものの義(続上代特殊仮名音義=森重敏),

等々もあるが,「こころ」が抽象度を増して,精神や心情を表現するようになってからの後解釈に見える。そもそも「気持ち」自体が,中国語「気」+「持ち」なのだから。

語呂合わせなら,いっそのこと,前出の,

http://kuwadong.blog34.fc2.com/blog-entry-308.html

の載せる,

「日本の神話の万物を創造したとされる『伊邪那岐(イザナギ)』『伊邪那美(イザナミ)』…の宇宙創造の働きにおいて『塩 (しほ)コーオーロー コーオーロー』という…『塩』は、陰と陽、相対に分かれるすべての要素であり、それらを組み合わせると宇宙の全てが出来上がっていくというのである。その塩を使って宇宙創造の作用が発生する時に『コーオーロー』と響いたという。それが『ころころ』となり、そしてやがて『こころ』になってきたというのである。」

という説のほうが,よほど面白く感じてしまう。

なお,「こころ」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163490.html

で触れたことがある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;
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今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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