2017年12月21日

かき


「かき」は,

柿,
柹,

と当てる(『広辞苑』)。

「東アジア温帯固有の果樹で,長江流域に野生,日本に輸入されて古くから栽培」

したものらしい。「柿(柹)」の字は,

「右側はもと市ではなく,つるの巻いた棒の上端を一印で示した字(音シ)。上の棒の意を含む。柿の元の字はそれに木を加えたもの。かきの皮を水につけ,その上澄みからしぶをとる。」

とある。これは,

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10146565810

に,

「もともとカキという字は『柹』という風に書き、つくりの部分は『し』という音読みで、『一番上』という意味を持っている字です。カキは、皮を水につけて、その上澄みからしぶをとっていたためこの字になりました。そのあと、形が変化し、『柿』という字になったのです。これと似たようなものに『姉』があります。これも『あね』が一番上のため「姊」という字になり、「姉」に変化したんです。」

という説明がよくわかる。ただ,「柹」の字については,『大言海』が,

「正しくは,杮なり,柹は俗字なり。然れども,市(イチ)にて通用す。」

としている。「柿」(シ カキ)と「杮」(ハイ)」の区別は,正直つかない。

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『大言海』は,「かき」の語源について,

「赤木(あかき)の上略にて(殯〔もあがり〕,もがり),實の色につきての名か。」

とある。『日本語の語源』も,

「アカキミ(赤き実)―カキ(柿)」

と,実の色説を採る。『日本語源広辞典』は,三説挙げる。

説1は,「コケラ(柿の古語)の変化」説。コケラ→カケラ→カケィ→カキと変化した,
説2は,「アカキ(赤木・赤い実)からア音が脱落」説,
説3は,実を収穫するとき,枝をカキトルところから,「カク果実」が語源,

しかし,「こけら」は,

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10146565810

に,

「こけらというのは木の切りくずのことです。つくりの部分は双葉が左右に開くことを意味しており、「ハイ」という音を持ちます。(市場の市と似ていますが別物です)それに木偏がつき、左と右とに削り取った木の皮という意味になり、木の切りくずの意味になりました。」

としており,字は,「柿」(シ かき)と「杮」(ハイ)」と似ているが,別物である。『大言海』に,

「こけら葺をカキブキと云ふは,果(くだもの)のカキの字と見誤りて読むなり」

とある通りである。

『日本語源大辞典』は,例によって諸説並べている。

赤い実のなる木であるから,アカキ(赤木)の上略か(和句解・東雅・大言海),
その実の色から,アカキ(赤)の上略(日本釈名・滑稽雑談所引和訓義解・和訓考・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子の),
「赤」の別音kakの転(日本語原学=与謝野寛),
アカミ(赤子)の義(言元梯),
葉,実が赤いところから,カカヤクの略転(俚言集覧),
実が堅いところから,カタキ(堅)の略(本朝辞源=宇田甘冥),
サキ(幸)の転声か(和語私臆鈔),
カキ(欠)の意。枝をカキて実をとることから(名言通),

この他,朝鮮語kam(柿)の同源とする説もあるらしいが,結局,実の赤さから来たと見るのが妥当なのだろう。

『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/ka/kaki.html

は,

「実がが堅いことから『カタキ(堅)』、つやつやして輝いていることから『カカヤキ(輝)』など多くの説があるが、 これらの特徴よりも、秋の山野になった実の赤い色の方が印象は強く、『アカキ』の上略 が語源と考えられている。 『アカキ』の『キ』については、『赤木』の『木』、『赤き実』の『き』,『赤黄』の『黄』など考えられるが断定は難しい。
 柿は中国の長江流域に自生していたものが、栽培で東アジアに広がったもので、現在では日本の秋を代表する果樹となっている。『日葡辞典』で『リンゴに似た日本の無花果(いちじく)』と解り辛い紹介をしているように、ヨーロッパにはない果樹であった。南蛮貿易によってヨーロッパへ伝えられたことから,学名も『Diospyros kaki(Diospyros は神様の食物)』と『カキ』の名が使われ,食材としても『KAKI』と呼ぶ国が多い。」

と整理している。やはり目に入った「あか」の印象ではあるまいか。

DSC04762.JPG


参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AD%E3%83%8E%E3%82%AD
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

ラベル:かき 柹,
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2017年12月22日

すもう


「すもう」は,『広辞苑』は,

相撲,
角力,

と当て,

「動詞『すま(争)ふ』から。仮名遣スマウとも」

としているし,『大辞林』も,

「動詞『争(すま)ふ』の連用形から」

としているが,この「すまふ」について,

『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/su/sumou.html

は,

「『争う』『負けまいと張り合う』を意味する動詞『すまふ(争ふ)』が名詞化して『すもう』になったか、『すまふ』の連用形『すまひ』がウ音便化されたと考えられる。 平安時代の辞書『和名抄』に『相撲 須末比』とあるように、古くは『すまひ』と呼ばれていたが、ウ音便化されたという確定的な文献がないため、『すまふ』と『すまひ』のどちらであるかは断定できない。」としており,

すまふ→(すまう)→すもう,
すまひ→(すまう)→すもう,

の転訛の二説があるとする。しかし,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%92%B2

は,

「『すもう』の呼び方は、古代の『スマヰ』から『すまひ』→『すまふ』→『すもう』に訛った。表記としては『角力』、『捔力』(『日本書紀』)、『角觝』(江戸時代において一部で使用)、など。これらの語はもともと『力くらべ』を指す言葉であり、それを『すもう』の漢字表記にあてたものである。19世紀から20世紀初頭までは『すもう』は『角力』と表記されることが多かった。古代には手乞(てごい)とも呼ばれていたと言う説も有る。(手乞とは、相撲の別名とされ、相手の手を掴む事の意、または、素手で勝負をする事を意味する。)」

と説いている。確かに,『大言海』は,「すまひ(相撲)」と「すまふ(相撲・角力)」の二項に分け,どうやら,

すまひ→すまふ→すまう→すもう,

を採っている感じがする。まず「すまひ(相撲)」について,

「(争〔あらそ〕ふの名詞形。争〔すま〕ひの義。戦場の組打の慣習〔ならはし〕なり。源平時代の武士の習ひしスマフも,それなり)二人,力を闘はする技,其,相當るを,取ると云ふ。其手,種々あり(スマフ〔相撲〕)の條,見合はすべし)。其闘ふ者を,相撲人(すまひびと)と云ひ,第一の人を,最手(ほて)と云ひ,第二の人を,最手脇(ほてわき)と云ふ。古へ,相撲の節とて,禁中,七月の公事たり。先づ,左右の近衛,方(かた)を分けて,國國へ部領使(ことりづかひ)を下して,相撲人(防人)を召す。廿六日に,仁壽殿にて,内取〔(うちどり)地取(ぢどり)〕とて,習禮あり。御覧あり,力士,犢鼻褌(たふさぎ)の上に,狩衣,烏帽子にて,取る。廿八日,南殿に出御,召仰(めしおほせ)あり,勝負を決す。其中を選(すぐ)りて,抜出(ぬきで)とて,翌日,復た,御覧あり。」

と説明する。「犢鼻褌(たふさぎ)」は,「褌」とも当てるように,『大辞林』に,

「〔古くは『たふさき』〕短い下袴。今のふんどし、またはさるまたのようなものという。とうさぎ。」

である。いまの「まわし」の先駆だろうか。しかし,狩衣。烏帽子姿というのは,さすがに御前だけのことはある。

で,「すまふ(相撲・角力)」の項では,

「(すまひ〔相撲〕の訛)すまひ(相撲)の技に同じ。武技の一。昔は,組討の技を練る目的にて,武芸とす。其取方は,勝掛(かちがかり 勝ちたる人に,その負くるまで,何人も,相撲ひかかること)と云ふ。此技,戦法,備わりて組討を好まずなりしより,下賤の業となる(即ち,常人の取る相撲(すまふ)なり)。」

とあり,どうやら,戦場の技であるが,そういう肉弾戦は下に見る傾向となり,今日の相撲になったものらしい。で,その次に,

「後に,一種,専業とする者起こる。力士,力者,相撲取,と称し,所在に,仮場を開きて,観客より錢を収めて,興行す。場の中央に,土俵を設け,力士を,東西に分ち,裸体にて,褌(まわし)のみを着け,素手にて取る。其の技に,反(そり),捻(ひねり),投(なげ),掛(かけ)の四手ありて,各十二に分かれて,四十八手など云へり。(中略)興行する者を,勧進元と云ふ,今は,これらの団体を,相撲協会と云ふ。勧進相撲,寄相撲などあり。勧進相撲は,京畿にては,古くよりありしが,江戸にては,寛永元年,四谷,鹽町にて興行せしを,始とす(相撲大全)。晴天,六日間なりき。然るに,寄相撲に,争亂(いさかひ)ありて,慶安元年,禁止となり,又,寛文元年,再禁止にて,中絶す。のち,正徳中,深川の三十三間堂(明和六年,暴風雨にて倒る)にて興行を許可せられしが,堂,破壊に及びたれば,同じ深川の八幡社内にて,興行することとはなれり。爾来,興行地に変遷ありて,文政十年,両国橋東,回向院境内にて,毎年,春と夏と(春場所,夏場所)の二期に,各,晴天十日づつ,興行することとなりたり」

とある。しかし,『日本語源大辞典』が,

「①『書紀-垂仁七年七月』に見られる『捔力(すまひ)』の例が,日本における相撲の始まりとされる。この『捔力』は,中国の『角力』に通じ,力比べを意味する。『新撰字鏡』にも『捔力』に『知加良久良夫(ちからくらぶ)』とある。②中古和文の仮名書き例は『すまひ』のみであるが,中世には『すまう』も使用されるようになる。『文明本節用集』『運歩色葉』『日葡辞典』などの辞書類においても『すまう』とあるところから,中世末には『すまひ』より『すまう』の方が,より日常的な語形となっていたと考えられる。」

とするところからみると,「すまひ」が,動詞『争(すま)ふ』の連用形からと見なすと,

すまふ(動詞)→すまひ(名詞化)→すまう→すもう,

と考えていいのではあるまいか。『日本語の語源』は,独自の音韻変化から,

すまふ→すまひ→すまい→すまう→すもう,

と見なしているようである。

「セメアフ(攻め合ふ)という語は,セの母音交替[eu],メア〔m(e)a〕の縮約の結果,スマフ(争ふ)に変化した。『あらそふ。負けまいと張り合う。抵抗する』意の動詞である。〈女も卑しければスマフ力なし〉(伊勢)。〈秋風に折れじとスマフ女郎花〉(後拾遺集)。
 スマフ(相撲ふ)に転義そして,二人が組み合い力を戦わせて勝負することをいう。その名詞形のスマヒ(相撲。角力)は力比べの競技のことをいう。〈当麻蹶速(たぎまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)とをスマヒとらしむ〉(垂仁紀)。両人は相撲道の始祖といわれている。
 平安時代には,宮中の年中行事としてスマヒノセチ(相撲の節)がおこなわれ,毎年七月に諸国から召集した力士に勝負をきそわせた。
 〈相撲の節は安元(高倉天皇ノ時代)以来耐えたること〉(著聞集)と見え,平安末期に滅びたが,民間の競技としては各地で盛んにおこなわれていた。〈スマヒの勝ちたるには,負くる方をば手をたたきて笑ふこと常の習ひなり〉(今昔物語)。
スマヒの転のスマイは,母韻交替をとげてスマウ・スモウに転音した。」

すもう.jpg

相撲絵(歌川国貞、1860年代)


ところで,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%92%B2

には,

「日本における相撲の記録の最古は、『古事記』の葦原中国平定の件で、建御雷神(タケミカヅチ)の派遣に対して、出雲の建御名方神(タケミナカタ)が、『然欲爲力競』と言った後タケミカヅチの腕を摑んで投げようとした描写がある。その際タケミカヅチが手を氷柱へ、また氷柱から剣(つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆にタケミカヅチはタケミナカタの手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったとあり、これが相撲の起源とされている。」

とある。人間同士の相撲で最古のものとしては,

「垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)にある野見宿禰と『當麻蹶速』(当麻蹴速)の『捔力』(「すまいとらしむ・スマヰ」または『すまい・スマヰ』と訓す)での戦いがある(これは柔道の起源ともされている)。」

という。「すまふ(ひ)」は,『岩波古語辞典』には,

拒ひ,

と当て,

「相手の働きかけを力で拒否する意」

とある。先の,『古事記』の,出雲の建御名方神(タケミナカタ)と建御雷神(タケミカヅチ)の「すまひ」は,建御名方神(タケミナカタ)の拒絶の意味が含まれている,とみるとなかなか意味深である。大国主神の次子「建御名方神」は,国譲りに反対し,武甕槌(たけみかづち)神と力比べをして争って敗れたのだから。

『日本語源広辞典』には,「すもう」について,語源は,

「スマヒ(争う・拒む)」

として,

「相手の力に負けまいとして抵抗すること,手向かうことの意です。」

としている。もともとは,

手向かう,

意であったようである。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%92%B2
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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2017年12月23日

Concept of mind


ギルバート・ライル『心の概念』を読む。

心の概念.jpg


今日のライルの評価は分からないが,ヴィトゲンシュタインと並ぶ,

日常言語学派,

に位置づけられる,という(訳者解説)。ライルは,本書の意図を,

「われわれが心についてもっている知見について,その論理的地図の改訂を試みようとするもの」

とし,

「心的行為の諸概念(memtal-conduct ckncepts)の論理的な振る舞いを吟味」

していく。それに,

カテゴリー錯誤(category-mistake),

と,ライル自身が呼ぶ概念によって,過去の哲学の理論構成を打破していく。対象となるのは,ライルの,

機械の中の幽霊のドグマ(the dogma of the Ghost in the machine),

と名づけた,デカルト流の心身二元論である。その誤りを,

「たんなる個々の誤りの集まりであるのはなく,一つの大がかりな誤りであり,同時にまた,ある独特な種類の誤りなのである。その意味において,これは『カテゴリー錯誤』(category-mistake)とがふさわしいと思う。」

と。そして,

「根本的なカテゴリー錯誤が二重生涯理論double-life theoryの源泉となっている」

と。それは,

「結局,デカルトは問題の論理を誤ったのである。彼は理知的な行動が現実にはすかなる規準によって非理知的な行動と区別されているかということを問うことをせず,むしろ『機械論的因果の原理がその両者の相異を明らかにすることができないとするならば,そもそも他のいかなる因果的原理がその差を明らかにすることができるのか』と問うたのである。彼はそれが力学の問題でないということは十分理解していた。そこで彼はそれが力学に対応する他の何ものかでなければならないと仮定した。(中略)
 ある二つの名辞が同じカテゴリーに属している場合には,その両者を含む連言的な命題を構成することは適切である。たとえば,買い物客が右手袋と左手袋を買ったと述べることは可能である。しかし,彼は右手袋と左手今日も袋と,そして一対の手袋とを買ったとのべることは出来ない。(中略)機械の中のドグマはまさにこの種の馬鹿げたことを現実に行っているのである。それは,身体と心との両者が存在し,物体的過程と心的過程との両者が生起しつつ,かつ,身体的な運動には機械的な原因と心的な原因との両者が存在することを主張するものである。(中略)私の主張は,『心的過程が生起する』という表現は『物的過程が生起する』という表現と同じ種類のことを意味しているのではないということであり,したがってその二つを連言ないし選言の形で結合させることには意味がないということである。」

ということである。そのことを,象徴的に示すのは,

knowing that(内容を知ること),
と,
knowing how(方法を知ること),

に分けた,「理知」(intelligence)の概念についての説明である。

「『愚かである』stupid ことと無知であることとは同じことではないということ,あるいは同じ種類のことではないということに注意することははわめて重要である。『物事をよく知っている』well-informed ということと『ばかな』silly ということは両立可能でありまた逆に議論や冗談に長けた人が案外事実を正しく知っていないということもありうるのである。」

それは,

「理知的であるということと知識を所有していることの区別が重要である」

ということでもある。その背景にあるのは,

「知識という概念によって他のすべての心的行為の概念を定義する傾向がある」

からである。要するに,

「そこでは理性的 rational であるということは真実を認識しうることであり,そしてさらに諸真理間の関連を認識しうることであると考えられたからである。」

しかし,とライルはも皮肉な言い方で批判する。

「『真理を理解すること』を理知によって定義するという方法をとらずに,逆に理知を真理の理解によって定義しようと試みる」

から,

「理論化という作業が心の主要な活動であるという仮定と,その作業が本来は私的で無言のあるいは内的な作業であるという仮定とは今日もなお機械の中の幽霊のドグマの中心的な支柱の一つとなっている。われわれは心というものが自分たちがひそかに思考を遂行している『場所』であるとみなしがちである。われわれは,自分の思考内容を胸の中に秘めておくためにこそ特殊な技巧を使用しているのであるということを理解せず,むしろ逆に,われわれが自分の思考内容を他人に知らせる方法に特別な神秘性があると考えるのである。」

で,ライルは言う。

「ある人が理知的であるか否かを表すために『鋭敏な』 shrewed あるいは『間抜けな』 shilly,『慎重な』 prudent,『軽率な』 imprudent などという形容詞が使われる。しかし,この場合,その人が何らかの真理を知っているということや知っていないということをわれわれは述べているわけではない。その記述は,その人にはある種の事柄を行う能力があるかないかということを述べているのである。」

それは,理論の本性,源泉,資格などにとらわれて,

「ある事柄を遂行する仕方を知っている knowing how ということはいかなることであるのかという問題をほとんど無視してきた」

からだ,と。

「日常生活においては,…われわれは,…人々の知識の貯蔵量に対してよりもむしろ彼らの認識の能力に対してより多くの関心をもっており,また人々が習得する真理そのものに対してよりもむしろそれを得るための作業に対してより多くの関心をもっているのである。事実,ある人の知的卓越や知的欠陥を問題にしている場合においてさえも,その人がすでに獲得し所有している真理の貯蔵量の多寡はあまり問題ではない。むしろ,みずからの真理を見出す能力,さらに真理を見出した後にそれを組織的に利用する能力こそがはるかに重要なのである。われわれはときにある人がある事実に関して無知であることを嘆く。しかし,それは実はたんにその無知を結果としてもたらす愚かさを嘆いているのである。」

当然,「機械の中の幽霊」の考えるような,

「自分が何ごとかを行うということはつねに二つの事柄を行うことなのである。すなわち,何らかの適切な命題ないし処方を考察することと,次いでこれらの命題ないし処方が要求するところのものを実行に移すことの二つを行うこと」

ではなし,

「外部に現れた行為はその心的過程の結果」

なのでもなく,

「何ごとかを理知的に行っているとき,すなわち自分の行っていることについて考えながらそれを行っているとき,私は唯一つのことをしているのであってけっして二つのことをしているわけではない。」

日常的な言葉によって分析していくライルのアプローチは,たとえば,思考 thought と考えること thinking の違いについて,

「ある人が何かを案出する think out ことに従事していると述べる場合と,これこれしかじかが彼の考えている内容であると述べる場合とにおける『考える』の意味を明確に区別しなくてはならない。すなわち,『思考』には熱心な hard,長引いた protracted,中断された interrupted,不注意な careless,成功した successful,効果のない unvailing,などと形容することが出来るような意味と,真の true,偽の false,妥当な valid,誤った fallaction,抽象的な abstract,退けられた rejected,共有された shared,公表された published,未公表の unpublished,などと形容することができるような意味とがあり,両者を明確に区別しなければならない。前者の意味における思考について語る場合には,われわれはある人がある時期においてある期間従事している作業について語っている。また,後者の意味における思考について語る場合には,そのような作業の成果について語っている。」

というような類別の仕方をする。これは,

われわれは持っている言葉によって見える世界が違う,

という,確か,ヴィトゲンシュタインの言葉を思い起こさせる。言葉をどう使っているかに徹底的にこだわるライルの手法は,ある意味,その言葉によって何が見えるかで境界線を引こうとしている,とも言えるのかもしれない。

参考文献;
ギルバート・ライル『心の概念』(みすず書房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
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2017年12月24日

ろく


「ろく」は,

ろくでなし,
ろくでもない,

の「ろく」である。『広辞苑』は,

陸,

と当てている。呉音らしい。意味は,

水平なこと,平坦なこと(日葡辞典「ロクナミチ」),
ゆがみがなくただしいこと,まっすぐなこと,
(「碌」とも書く)ものの正しいこと,真面目なこと,きちんとしていること,
十分なこと,満足なこと,

等々の意味が載る。『デジタル大辞泉』は,

「碌」は当て字,

としている。

ろくに,

という使い方だと,

陸に,
碌に,

と当てるが,

(『碌』は当て字。下に打消しの語を伴って)十分に,満足に,

という意味で,

ろくに知りもしないで,

といった使い方をする。

陸に居る,

という言い回しがあり,

あぐらをかく,らくにいる,

という意味らしい。

ろくでもない,

とも言うが,その場合,

陸でもない,

で,碌を当て字に,

碌でもない,

とも書く。

何の値打もない,

という意味になる。『岩波古語辞典』の「ろく」は,

陸,

とした上で,

直,
完,
正,

とも当てるとあって,この言葉の由来をうかがわせる。『大言海』は,

「圓(まろ)ぐの音便,マンロクの約」

とある。「まんろく」は,

「マンは眞(ま)の音便」

で,

準(ロク 陸)の正しきこと,平らかなること,

とある。『岩波古語辞典』は,「まんろく」を,

「マクロの撥音化」

とし,

真陸,
真正,

と当てる。「まろく」とは,

真陸,
真正,

と当て, 『岩波古語辞典』に,

「ロクは,水平・平らの意」

として,

真っ平らであること,
正しいこと,

と,「ろく」の意味に戻ってくる。そこで,『日本語源大辞典』にある,

「建築用語の『陸墨(ろくずみ)』『陸屋根(ろくやね)』などの『陸』には,たいらなさまの意味がある。」

というのが生きてくるようだ。「陸墨」について,『地盤の基礎用語集』に,

「水平を表示する基準高さの墨のこと。腰墨、水墨ともいう。陸墨から上げて示す墨を上がり墨、下げて示す墨を下がり墨という。」(https://jiban-anshin.or.jp/glossary/r/post-31.shtml

とある。『建築用語辞典』には,

「図面に基づき、建物の角部位の中心や大きさ寸法を現地に墨で書き出すことを墨出し作業といいますが、その墨出し作業において、各階の水準の基本となる水平線のことを陸墨といいます。一般には、床仕上りより1000mm上げの水平墨のことです。」(http://www.i-jisho.com/kentiku/ra/ro0028.html

と,より詳しく載る。「墨出し」とは,

「工事中に必要な線や位置などを床や壁などに表示する作業。大工さんが墨つぼを用いて墨で表示することから、『墨出し』と言われています。墨には、水平を出すために壁面に出される『陸墨(ろくずみ)』、柱や壁の心の位置を示す『心墨(しんずみ)』、構造心や仕上げ面などから一定の距離を離したところ出す『返り墨』や『逃げ墨』などがあります。」
(『住宅建築専門用語辞典』http://www.what-myhome.net/13su/sumidasi.htm

というようだ。要は,

「高さ基準を示し,柱や壁などに記入する水平基準線の墨のこと。」

今日では,「りくずみ」ともいうようになっているらしいが,「ろく(陸)」は生きている,ということだ。

『日本語源広辞典』によると,「ろく(陸)」について,

「陸は,『阜(丘)+坴(土)』が語源です。平らな陸地,地面の意です。物の形・面が歪みがなく平らなことをいいます。水準器の『水平』の意にも使います。」

とあり,どうやら,「ろく」は漢字「陸」から来ていると思われる。「陸」(漢音リク,呉音ロク)の字は,

「坴(音リク)は,『土+八(ひろがる)+土』で,土が高く積もって広がったさま。陸はそれを音符とし,阜(おか)を加えた字で,もりあがって連なる意を含む」

で,どちらかというと,

台地,
水面より上に平らに続く大地,

という意味のようだ。この「ろく」を採った,ということになる。

「『陸』は土地が平らなことから転じてまともなさまを示す」(語源大辞典=堀井令以知)

が,その意味の変化をよく示している。

「ろくでなし」は,『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/ro/rokudenashi.html

にあるように,

「ろくでなしの『ろく』は、一般的に『碌』と書かれるが、これは 当て字である。 元々は『陸(呉音でロク)』と書き、日本で『陸(ロク)』は、土地が平らな ことから物や性格がまっすぐなさまを意味していた。 その否定として『陸でなし』となり、 性格が曲がった人という意味が転じて、現在使われている『ろくでなし』の意味となった。」

ということになる。『日本語源広辞典』には,

「関西で大工さんが,基礎を置くとき,柱を立てるときなどに,基礎をロックにするなどの語を使っています。有るべきようにきちんとしていない人物を,ロクデナシという語源は,これで納得できます。」

とあり,確かに納得できる。

なお,『日本語の語源』は,別の説明をしている。

「役に立たぬ者をののしってマンロクデナシ(満足で無き者)といったのが,語頭を落としてロクデナシ(碌でなし)になった。マンロクニ(満足に)はロクニ,マンロクナ(満足な)はロクナになって,下に打消しをともなって用いられた。」

と。あるいは,そういう用例に,「陸」を当てて,「平らな」の解釈が,後から加わったのかもしれない。日用語だけに,そんな気がしなくもない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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2017年12月25日

サギ(鷺)


「サギ」は,

鷺,

と当てる。「鷺」の字は,

「『鳥+音符路』で,透き通るように白い鳥の意」

とある。因みに「路」の字は,

「各は『夂(足)+口(固い石)』からなり,足が石につかえて,ころがしつつ進むことを示す。路は『足+音符各(ラク・カク)』で,もち連絡みちのこと」

である。

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「サギのうち羽が白いダイサギ・チュウサギ・コサギ・アマサギ(アマサギは冬羽のみ)は白鷺(しらさぎ)と呼ぶことがある。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AE

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ダイサギ Ardea alba


なので,白い鷺から来た名ということになる。日本に19種が生息するそうで,日本では,アオサギ,ゴイサギ,ダイサギなどを見ることが出来るが,ゴイサギやアオサギから来たものではないらしい,ということになる。

『大言海』は,

「白羽の鮮明(サヤケ)の意に通ずるか,尚,考ふべし。イサギヨキ意との説もあれど,イサと,キヨシと合したる語なれば,肯けがわれず」

と,している。『日本語源広辞典』は,

「精ゲ(しらげ・白げ)の変化。シラゲ→サゲ→サギと変化をたどれます。シラサギ,ワカサギのこと」

とする。『日本語源大辞典』も,

白くてイサギヨキ(浄)義(日本釈名・柴門和語類集),
サケ(白毛)の義。サはシラの反(言元梯),
白い意のシラゲリの反(名語記),

と,白さから来ているものが多いが,その他にも,

サケ(細毛)の転(日本古語大辞典=松岡静雄),
その声のサヤギ(騒)から(東雅),
イサ(磯)キ(島または島を表す接尾語)からか(語源辞典-動物編=吉田金彦),

もある。『日本語の語源』は,

「田楽で一本足の竹馬の曲芸を『鷺足』という。サギ(鷺)とシギ(鴫)とは片足で佇立する習性があるところから,アシアゲ(足上げ)鳥と呼ばれた。『ア』の脱落,シア〔∫(i)a〕の縮約とでサゲ・サギ(鷺)となった。また,二つの母韻音節『ア』の脱落によりシゲ・シギ(鴫)に転音した。」

と,その生態からの由来を説く。これも面白いが,しかし,確か,ツル(鶴)も片足で立たなかったろうか?『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/sa/sagi_tori.html

は,

「サギの語源には、羽が白いことから『サヤケキ(鮮明)』の意味とする説。 鳴き声が 騒がしいことから、『サヤギ(騒)』の意味とする説。 『サケ(細毛)』や『サケ(白毛)』など、 羽毛に由来する説。『キ(ギ)』は『トキ』『シギ』などと同じく「鳥」を意味する接尾語で、『サ』が『白』を表し、『白い鳥』の意味とする説。 水辺の鳥なので、『イサ(磯)』に『キ(鳥を 表す接尾語)』が付いた説がある。」

と列挙するにとどめる。しかし,

「『キ(ギ)』は『トキ』『シギ』などと同じく「鳥」を意味する接尾語で、『サ』が『白』を表し、『白い鳥』の意味とする説。」

が,最も魅力がある。『日本語源広辞典』は「とり」の項で,

「ト(飛ぶ)+り(接尾語)」

としているのでなおさらである。しかし,「シギ」については,上記の説があり,「とき」も,

「ツキの転」(古事記伝・大言海),

とあり,

サ+ギ,
ト+キ,
シ+ギ,

説は留保ということだろう。

ところで,動物の中で唯一,五位の位を賜っているのは,鷺であるが,

「『平家物語』(巻第五 朝敵揃)の作中において、醍醐天皇の宣旨に従い捕らえられたため正五位を与えられたという故事が和名の由来になっている[1]。また、能楽の演目「鷺」はその五位鷺伝説」

に由来するのだという。それは,

「ある夏の日、時の帝が家臣たちと神泉苑で夕涼みをしている時、1羽の鷺を見つけ、蔵人(秘書)に捕らえるよう命令した。鷺は逃げ回ってつかまらない。そこで蔵人が「勅命であるぞ」と叫ぶと、鷺は羽を垂れ、神妙に地に伏したので、抱き上げて帝に差し出した。帝は深く感じ入り、鷺と蔵人に五位の位を授けた。勅命で鷺を放つと、うれしそうに舞い上がっていった。」(http://weekly-nagano.main.jp/2012/09/26-7.html

という。「五位」とは,

「位階の5番目。律令制では正五位と従五位とがある。昇殿を許される者の最下位で、袍(ほう)の色は淡い緋(ひ)。五位に叙せられることを叙爵(じょしゃく)という。」

とある。勅命に従っただけで,位を授けるというのを,粋とは言うまいが。

ゴイサギ.jpg

ゴイサギ


参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%82%AE
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AE
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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ラベル:サギ
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2017年12月26日

さぎ(詐欺)


「さぎ」は,

詐欺,

と表記すると,

偽り欺くこと,
法律用語で,他人を騙しして錯誤におとしいれ,財物などをだまし取ったり,瑕疵ある意思表示をさせたりする行為,

であり,

詐偽,

と表記すると,

真実でないこと,いつわり,

となる。「詐欺」が,行為を指し,「詐偽」が,その中身のいつわりさを表す,ということだろうか。

「詐」の字は,

「乍は刀で切れ目を入れるさまを描いた象形文字で,作の原字。物を切ることは人間の作為である。詐は『言+音符乍(サ)』で,作為を加えた作りごとのこと」

「偽(祇)」の字は,

「爲(=為)の原字は,『手+象の形』の会意文字で,人間が象をあしらって手なづけるさまを示す。作為を加えて甫編来の性質や姿をためなおすの意を含む。僞は『人+音符爲(イ)』で,人間の作為により姿をかえる,正体を隠してうわべをつくろうなどの意。爲(=為)が広く,作為する→するの意となったため,むしろ偽にその原義が保存され,(人間の作為,うわべのつくろいの)用法が為の元の意に近い。」

で,「僞は人之を為す。天真にあらず,故に人に从(したが)ひ,爲に从ふ」とある。

「欺」の字は,

「其(キ)は,四角い箕(ミ)を描いた象形文字。旗(四角い旗)や棋(キ 四角い碁盤)等々に含まれて,四角くかどばった意を含む。欺は『欠(人が体をかがめる)+音符其』で,角ばった顔をしてみせる,相手をへこませること」

と,それぞれの謂れがある。「詐欺」は,中国語では,

欺詐

である。「偽」(いつわる)と「詐」(いつわる)の違いは,

偽は,人為にて,天真にあらざるなり,いつはりこしらへたるなり。虚偽,詐偽と用ふ,
詐は,詐偽と連用する。欺き騙すこと,誠実の反なり,

とある。「欺」(あざむく)は,

「あなどりて,だます義」

とあり,実は,「詐欺」について,この由来は,古事記の「因幡の白兎(しろうさぎ)」の話から来ていると,

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1413118399

に,

「例の『向こう岸の島まで渡るために、サメの数を数えてあげるといってサメを騙して向こう岸までならばせ
渡りきる寸前で嘘がばれ、赤裸にされ、泣いているところを大国主の命にがまの穂で赤裸を治してもらった』―という話しですが。『詐欺(さぎ)『とは、この『因幡の白兎(しろうさぎ)』から由来しています。『白兎(しろうさぎ)』のことを古来から通称『さぎ』といい、一羽二羽と鳥のように数えます。そこから『(さぎ)する』とは、この『因幡の白兎(しろうさぎ)のマネをして相手を騙(だま)す』という意味で古来から使われてきたのです。この古来からの『さぎ』という字に『詐(いつわり)欺(だます)』という漢字が充られたのです。」

とある。

http://www.yuraimemo.com/4027/

にも同趣の話が載る。

「さぎ(鷺)」と「うさぎ(兎)」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/455767810.html?1514147633
http://ppnetwork.seesaa.net/article/455333594.html

でそれぞれ触れたように,「うさぎ」の古形は,「う」である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E5%B9%A1%E3%81%AE%E7%99%BD%E5%85%8E

には,

「この兎は、『白兎神社』や『白兎神』『白兎明神』などに見られるように、『白兎』として伝わる。『古事記』の表記は『菟』、『裸の菟』、『稲羽の素菟』、『菟神』である。本居宣菟長は、「素」には何もまとわず何にも染まっていないの意があると述べる。『古事記』には兎の毛色の言及はなく、宣長のように『素布 ( そふ )』= 白い布から、『素』に白の意があると考えれば『白兎』ともいえる。」

「菟(莵)」は,うさぎ(漢音ト,呉音ツ)である。大穴牟遲神(大国主神)に教えられた通り,「菟」は,

故、爲如教、其身如本也。此稻羽之素菟者也。於今者謂菟神也,

と古事記にはある。で,稲羽の素兎(しろうさぎ),というのであるが。

『大言海』は「さぎ」を,

詐偽,
詐欺,

と当てて,両者を区別していない。「詐欺」も「欺詐」も,

いつわり,だます,

意で変わらない。「中国語」由来と見なすのが自然な気がする。魏志には,

「欺詐侮易,多不得文明」

の用例が載る。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1130536761

の,

「犯罪のサギは『詐欺』、漢語読みである音読みです。(ちなみに中国語で『詐欺』は『欺詐』。ひっくり返りますが同じ字を使います。)漢字は表意文字なので、文字自体に意味があります。『詐欺』の方はどちらも「あざむく、だます、騙る」ことを表す字を使った熟語。」

とあるのが妥当ではなかろうか。牽強付会も過ぎると,ちょっと。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E5%B9%A1%E3%81%AE%E7%99%BD%E5%85%8E
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

ラベル:詐欺 詐偽 さぎ 欺詐
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2017年12月27日


ヘンリー・ジェイムズ『嘘つき』を読む。

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「噓」とは,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%98

によると,

「嘘とは事実に反する事柄の表明であり、特に故意に表明されたものを言う。 アウグスティヌスは『嘘をつくことについて』(395年)と『嘘をつくことに反対する』(420年)の二論文において、嘘について「欺こうとする意図をもって行われる虚偽の陳述」という定義を与えている。」

とある。その場合,「噓」つまり「事実に反する事柄の表明」だと,誰が認知するのか,ということで,話が違ってくる。神の位置から,真偽を判定するのでなければ,「噓」であるかどうか,誰に分かるのか。

本書は,「噓」について,考えさせる三作が載っている。

『五十男の日記』

では,書き手が,相手を魔女だと決めつけて,相手から身を隠した二十七年後,その娘と同じような関係にある青年を通して,自分が二十七年前,自身の思い込み(自分で信じた「噓」と言ってもいいし,先入観と言ってもいい)によって,目をくらまされたことに気づく。そして,ラスト,

「いやはや,なんと多くの疑問が次々と湧いてくることか! たとえわたしが彼女の幸福を損なったとしても,わたしだって幸福にはならなかったのだ。だがそうなれたかもしれないではないか。この年になってそんな発見をするなんて何ということだ!」

と述懐する。でもまだ,自分が決めつけた相手象から自由にはなっていない。

『嘘つき』

は,嘘つきだが,

「大佐の噓はさまざまな種類があったが,どれにも共通の要素があり,それは徹底的な無用性であった。それ故にこそ腹立たしかった。それは普通の会話の場に割り込んできて,貴重なスペースを占領し,その場を実体のないゆらめく蜃気楼のようなものにしてしまうのだ。これがやむを得ずつく噓であれば,丁度芝居の初日の夜,原作者から貰った無料入場券を持って劇場に現れた人に対してのように,それなりの場所が与えられよう。しかし無用な噓は入場券なしで現れた客のようなもので,通路に補助椅子を置いてもらう以上の扱いは受けられないのだ。」

という類で,その大佐の妻が,主人公がかつてプロポーズした女性であるだけに,彼女がどこまでそれを承知しているのか,を確かめたく思い,無理やり,大佐の肖像画を画くことを申し入れ,その大佐の本性を描きだそうと企む。

「大佐の本性を引き出して,…全体像を余すところなく描いてやろるのだ。凡人にはそれが分からないだろう。分かる者には見抜ける筈だ。柄を解する人びとは,きっとその肖像を髙く評価するだろう。それは意味深長な作品で,微妙な性格描写の傑作であり,合法的な裏切りともなるだろう。ライアンは,もう何年も前から,画家と真理研究家と両方の手腕を示すような作品を描いてみたいと望んでいたが,ようやくその機会が面前にあらわれたのだ。」

ほぼ完成したが,見せるのは休暇後と約束したが,旅先で,

「ふと,その絵を再び見て,二,三筆を加えたいという欲求」

にかられて急いで旅を切り上げて帰宅すると,そこに大佐夫妻が来訪し,絵を見ようとしているのに遭遇し,その様子を盗み見る。夫人は,叫ぶ。

「全部出てしまっているわ! 出てしまっていする!」
「一体,何が出ているっていうのだ?」
「あってはならぬものが全部ですよ。あの人が見たもの全部が出てしまっている!ああ,恐ろしい!」
「あいつが見たもの全部だって? それでいいじゃないか! 僕は好男子だものな。どうだい,いい男に描けているじゃないか」
(中略)
「あなたを変人にしてしまったのですもの! あの人は発見したんだわ! これでは誰にでもわかってしまう。」

そうした帰りかけて,大佐は戻ってくると,キャンバスを切り裂いていった。その一部始終を目撃したが,後日再会した折,二人は,作品が切り裂かれたというライアンに,

「何だって!」大佐が叫んだ。
 ライアンは微笑を浮かべて視線をそちらに向けた。
「まさかあなたがやったのではないでしょうね?」
「もう駄目ですか?」大佐は尋ねた。彼は妻と同じく何の疚しいところもないという顔をし,ライアンの質問を冗談と見なしているようだった。「わたしがやったとすれば,またはじめから描いてもらうためですね? それを思いつけば,きっと,やったところですよ!」
「まさか奥さまでもありませんね?」ライアンは尋ねた。
夫人が答える前に,夫はとてもよい答えを思いついたというように妻の腕をつかんだ。
「きっとあの女がやったんだよ!」

ライアンが,夫人が夫の嘘つきであることを知っているかどうかの答は出た。しかし,肖像画家として,本人は,かつて愛した女性の本音を引き出そうとしたのは,あるいは,ライアン自身の自分に対する嘘でもあるかもしれない。本音は,

「ヨーロッパ全体で,半ダースばかりのライアンが最高傑作と折紙をつけている肖像画」

の一翼に加わる絵を描くというのが,本音なのかもしれない。その意味で,『嘘つき』は,正真正銘の嘘つきである大佐を対象にしながら,その実,その嘘つきの,

「どんな鈍い人にも分かるよう,画の中ではっきり出るようにしよう」

という意図にあり,それは達成されたのである。

「彼は一部始終を目撃しながら絵を失いつつあるとは感じなかったし,たとえ感じても気にしなかった。それ以上に,確証を得たことを強く感じていたからだ。彼女はたしかに夫を恥じている。そしてこのぼくが恥じるようにさせたのであり,その意味で,たとえこの絵は切断されてしまっても,大成功を収めたのだ。」

ラストで,

「何しろ,彼女は今でも大佐を愛しているのだ。何とよく飼いならされてしまったことだろうか!」

とライアンは嘆くが,それは多分違うのだろう。ライアンは,画家であり,結局,「対幻想」の土俵に乗り,その幻想を共有するのではなく,それをメタ・ポジションから見る,ということしかできなかった,ということでもある。ここでは,ライアン自身が,自分の噓には気づけていない,と作家は描いているようにみえる。

『モード・イーヴリン』

は,その意味では,死んだ娘イーヴリンと共に生きる夫婦の幻想の世界に取り込まれた若い男女を描いている。その幻想を共有する土俵に乗らなければ,見えないものがある。語り手のエマ夫人は,徹頭徹尾部外者であり,その批判者であるが,その幻想についてのさまざまな思いを聞いてやる立場でもある。それを聞くものがいなければ,その幻想は自己完結しているので,外には漏れ出ない。エマ夫人は,意図せず,うつつと幻の橋渡し役になっている。

ここで,「噓」というものが,当事者にとって真実である限り,それを噓と決めつける根拠が失せるということを示している。

本書の著者は,『ねじの回転』等々で知られているが,丁度神の視点から,作中人物の視点へと,作品のパースペクティブを転換する先駆者と言われる。その意味では,「噓」という私的なパースペクティブで語るには,絶好の素材に見える。しかし,ところどころ,上の視点の作者がポロリと出てくるのはご愛嬌だろう。『嘘つき』の中に,

「この点についてのライアンの関心は愚かしくも独りよがりだと読者の目に映るかも知れないが,心に傷を受けている者はある程度大目に見てやらなくてはならない。」

とある。書き手(作家ではない)の声に聞こえる。

参考文献;
ヘンリー・ジェイムズ『嘘つき』(福武文庫)


ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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2017年12月28日

うそ


「うそ」は,

噓,

と当てる。この字は,

「『口+音符虚』で,口をとがらせてふっと息を出すこと」

で,「息を吐くときの擬声音」。

息をはく,
うそぶく,
吹聴する,
嘆息する声,

という意味になり,「嘘をつく」という意味の「うそ」に使うのは,我が国だけである。

https://okjiten.jp/kanji1324.html

には,

「『口』の象形と『虎(とら)の頭の象形(「虎」の意味だが、ここでは「巨」に通じ(「巨」と同じ意味を持つようになって))、『大きい』の意味)と丘の象形(『荒れ果てた都の跡、または墓地』の意味)』(『むなしい』の意味)から、むなしい言葉『うそ』を意味する『嘘』という漢字が成りたちました。
『虚』は息を吐くときの擬声語(動物の音声や物体の音を象形文字で表したもの)とも言われており、『吹く』、『吐く』の意味も表します。」

噓.gif



とあるが,「虚」(漢音キョ,呉音コ)の字は,

「丘(キュウ)は,両側におかがあり,中央にくぼんだ空地のあるさま。虚(キョ)は『丘の原字(くぼみ)+音符虍(コ)』。『虍』(とら)とは直接の関係はない。呉音コは虚空(コクウ),虚無僧(コムソウ)のような場合にしか用いない。」

で,「虚」自体は,むなしい,中がなくて空ろ,という意味しかない。因みに,「丘」の字は,

「もとの字は,周囲が小高くて中央がくぼんだ盆地を描いたもの。虚(くぼみ)の字の下部にあって音符として用いられる。邱とも書く」

とある。「噓」の字自体に,「むなしい」という含意はあっても「うそ」という意味はない。

さて,「うそ」とは,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%98

に,

「事実に反する事柄の表明であり、特に故意に表明されたものを言う。 アウグスティヌスは『嘘をつくことについて』(395年)と『嘘をつくことに反対する』(420年)の二論文において、嘘について「欺こうとする意図をもって行われる虚偽の陳述」という定義を与えている。この古典的定義は中世ヨーロッパの言論・思想界に大きな影響を与えた。」

とある。その意味の,「うそ」の語源は,『大言海』は,

「ウソブクのウソなるべし」

とする。「うそぶく」で,さらに。

「ウソは,浮空(うきそら)の略にもあるか(引剥〔ひきはぎ〕,ひはぎ。そらしらぬ,そしらぬ)。虚空のことなるべし。」

としている。しかし,『岩波古語辞典』は,「うそぶく」について,

「ウソ(嘯)フキ(吹)の意」

としているので,「うそぶく」が「うそ」から派生したことはわかるが,「うそぶく」が「うそ」の語源ではありえないように見える。ただ,「うそぶく」は,

嘯く,

と当て,意味は,

口をすぼめて息を大きく強く吹く,また口笛を吹く,
(鳥や獣が)鳴声を上げる,ほえる,
詩歌を口ずさむ,

という状態表現で,それが転じて,

そらとぼける,
大きなことを言う,

と価値表現に転じている。この「うそぶく」に当てる「嘯」の字は,

「口+音符肅(ショウ) 細い,すぼむ」

で,まさに,「うそぶく」の意味と重なり,

口をすぼめて長く声をひく,
口をすぼめて口笛を吹く,

の意である。この意味の「うそ」は,

嘯,

の字を当て,

口をすぼめて強く吹きだす,
口笛,
うそぶき,

の意味になる。『岩波古語辞典』は,この「うそ」に,

嘯,
噓,
啌,

の字を当てている。こう見ると,「嘯吹(うそふ)き」が,「空吹き」の意になり,「嘘つき」と転じた,と思いたくなる。また,「うそぶく」と「噓」「嘯」の字との微妙な意味との重なり具合が気になる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%98

も,

「日本語の『嘘』の語源は古語の『ウソブク』という言葉が転化したものである。ウソブクという言葉は口笛を吹く、風や動物の声といった自然音の声帯模写、照れ隠しにとぼける、大言壮語を吐く、といった多義的な使われ方をしていた。また、独り歌を歌うという意味もあり、目に見えない異界の存在に対し個人として行う呪的な行為を指した。中世に入って呪的な意味が薄れ、人を騙すといった今日的な『嘘』が一般に使われるようになったのは中世後期になってからのことである。」

と,「うそぶく」語源説をとる。

http://www3.kcn.ne.jp/~jarry/jkou/ii013.html

は,噓の語源として,

「<1>うつけ説 「う」はうつけのう、「そ」はそらごとのそ、合わせて「うつけたそらごと」という意味で「うそ」と使うようになりました。
<2>玉須説  昔、中国に玉須(ぎょくす)という鳥屋がいました。「白いカラスが見たい」という人がいたところ「ああ、それならうちの店にいるよ」と答えました。実際に店に訪れてみるとそんな鳥がいるはずもなく、白い(素)カラス(烏)は「烏素(うそ)」であった、という故事から生まれた言葉です。そして「玉須さん」が「だます」の語源ともなっています。※とてもよくできたおもしろい展開ですが、これこそ誰かが作り上げた「うそ」なのでしょうね。
<3>うきそら説  浮つく(うわつく)の「浮」と空々しいの「空」で、「うそ」となりました。
<4>カワウソ説  カワウソが尾を振って人をばかすという俗信から、カワウソを省略して「ウソ」となりました。
<5>実質説  中身が何もない「失せ」と実質的に「薄い」ことから、「薄き」「失せ」が合わさって「うそ」ができあがりました。
<6>迂疎説  迂(う=避ける、実質にあわない)と疎(そ=うとい、うとむ)が合わさって「うそ」ができあがりました。」

と挙げているが,「うそぶき説」はない。『日本語源広辞典』は,「うそ」の語源を三説挙げる。

説1は,中国語の「迂疎」で,遠ざけるものの意,
説2は,「ウ(大いなる)ソ(そらごと,そむくこと)」で,大きなソラゴトの意,
説3は,うそぶく(そらとぼける)の語幹説,

と挙げる。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/u/uso.html

は,

「嘘の語源は以下の通り諸説あり、正確な語源は未詳である。 関東地方では、近年まで『嘘』を『おそ』と言っていたことから、『軽率な』『そそっかしい』を意味する『をそ』が転じたとする説。 漢字の『嘘』が、中国では『息を吐くこと』『口を開いて笑う』などの意味で使われていたため、とぼけて知らないふりをすることを意味する『嘯く(うそぶく)』の『うそ』からとする説や、『浮空(うきそら)』の略を語源とする説などがある。また、『噓』の意味として,奈良時代には『偽り(いつわり)』、平安末期から室町後期になり、『うそ』が使われ始めている。」

として,未詳とする(時期については,『広辞苑』には室町末の日葡辞典に「ウソヲツク」と載るとしているので,その時期にはそういう使われ方が定着していたとみられる)。『日本語源大辞典』は,十一の語源説を列挙しているが,確定させていない。

ウキソラ(浮虚)の義(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子),
ウキソラ(浮空)の略か(大言海),
ウチソラ(内空)の義(日本語源=賀茂百樹),
実質のウスキ(薄),或はそのウセ(失)たる言の意(国語の語幹とその分類=大島正健),
古語ヲソの転(雅言考験・玉勝間・俚言集覧),
ヲソ(獺)に擬して言う語。カワウソが尾を振って人をばかすという俗言から(かた言),
虚を意味するあざの転訛(日本古語大辞典=松岡静雄),
ウソ(烏素)で,烏は黒いのにシロ(素)いといつわりをいうぎ(志布可起),
口をすぼめて唇を突きだしたまま声を出すウソプク(嘯)から。ウソも不真面目な調子の作り声でいうことが本来の意(万葉代匠記所引奥義抄・不幸なる芸術=柳田國男・大言海),
ウはウツセミ,ウツケのウ,ソはソラコトのソ。うつけたそらごとの意(両京俚言考),
ウは大いなる義。ウソは大いにそむく意(日本声母伝),
「迂疎」の音Wu-soから(日本語原学=与謝野寛),

しかし,「うそ」が最初からこんにちの「噓」の意でなかったとすると,「噓」の漢字を当てた人の思いからするなら,それと重なる,

口をすぼめて息を吹き,音を出す→ほえる,なく→うそぶえを吹く→そらとぼける→大きなことを言う

と,状態表現から価値表現へと転じた「うそぶく」が,

大きなことを言う→ソラゴトを言う

と,価値表現の意味が,大きなことから,空事,虚言,へと転じた見るのが自然に思える。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
https://okjiten.jp/kanji1324.html

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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2017年12月29日

真っ赤な噓


「真っ赤な噓」は,

真っ赤なうそ,
真っ赤なウソ,

等々とも表記するが,

まるっきりの嘘であるさま,
すこしも真実でない様子,

という意味である。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/ma/makkanauso.html

には,

「この語が『赤色』である理由は、『赤』は『明らか』と同源で『全く』『すっかり』などの意味があるためで、『赤の他人』などの『赤』も同様である。『真っ赤』は、『赤(明らかであること)』を強調した表現となっている。『大きい』『多い』といった意味を持ち、漢訳されて『摩訶不思議』の『摩訶』にもなっているサンスクリット語 の『マハー(maha)』を語源とする説もある。この説は、『大きな噓』の意味で『マハーな噓』と言っていたのが『摩訶な噓』となり、『真っ赤な噓』になったとするものだが,雑学の世界で作られた俗説である。」

とある。こねくり廻した語呂合わせを説を除けば,『日本語源広辞典』に,

「『真っ赤(明白な)+噓』です。まぎれもない,はっきりしたうそ,の意」

とあるので尽きる。和語の「あか(赤)」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/429360431.html

で触れたが,「あか」とは,『広辞苑』によると,

「一説に,『くろ(暗)』の対で,原義は明の意と言う」

とある。『大言海』は,

「赤(アケ)の転(竹(たけ),タカ。酒(さけ),サカ)」

と,転じた例を挙げている。『語源由来辞典』によると,

「赤(アカ)は,『明』が語源で,暗・黒(クラ・クロ)が,これに対する語です。したがって,狭い,色相としての,アカを示す言葉ではなく,広く,血の色,顔色,明け方の空の色,紅葉,朱色,ピンクに近い紅梅の色など,ずいぶん広い色合いを指した言葉」

とある。ある意味,暗さに対する明るさ,という二分の中に納まる,という意味で,幅広く,色ではなく,明るさを指していた。で,「くろ(黒)」は,

「『くら(暗)』と同源か。またくり(涅)と同源とも」(『広辞苑』)

で,「涅」とは,水底に沈んだ黒い土,涅色を指す。ここでも,明暗である。和語には,

「古代日本では,固有の色名としては,アカ,クロ,シロ,アオがあるのみで,それは,明・暗・顕・漠を原義とするという。」

という意味で,明確な色の識別を,言葉として持っていなかったのである。だから,「真っ赤」とは,色ではなく,

明々白々,

という意味である。

噓に絡んでは,「嘘八百」という言い回しがある。

やたらに述べ立てる沢山の噓,

という意味だが,この「八百」は,

物事の多いこと,

の意味で使われる。たとえば,

八百八町,

というように。「八百八」も,

ものの数が多きことに云ふ,

と『大言海』にあり,

八百八島,
八百八後家,
八百八禰宜,

と使われる。「八百」と「八百八」は同じ意味のようだが,「八百」は語尾に,「八百八」は語頭ないし単独で使われるようだ。『江戸語大辞典』は,それを区別して,

多数の意を表す(「御きげんの八百も取って」(明和七年・蕩子荃枉解)),
《接尾》多いこと,或は甚だしいことを表す(嘘八百,気儘八百,頭痛八百),

と載せている。これが正確なのだろう。『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/u/usohappyaku.html

は,

「『多くの嘘』の意味から、何もかもが嘘だらけであることを表すようになった語。 嘘八百の『八百』は、江戸市中に町数が多いことをいった『八百八丁』や、大坂市中に橋が多いこと をいった『八百八橋』などの『八百』と同じく、数が多いことを意味する。『八百八丁』と 掛けて、『嘘よりも八丁多い江戸の町』といった古川柳もある。『八百』が『数多く』を表すのは、元々、『8』という数字が『数多く』を表すことによる。『8』が『数多く』を表すのは、仏教の考えから来たものと思われる。仏教語には、『莫大な数の地獄』を表す『八万地獄』や『八万奈落』、数が非常に多いことを表す代表的な表現に『八万四千』がある。』

とある。ちなみに,「八百」と「八万」では違いすぎる。比較するなら,「八百万(やおよろず)」の「八百」ではあるまいか。類似の語に八十神(やそがみ),八十万神(やそよろずのかみ),千万神(ちよろずのかみ)等々があり,仏教ではなく,和語の中に由来がありそうである。「や(八)」は,『岩波古語辞典』に,

「ヨ(四)と母音交替による倍数関係をなす語。ヤ(彌)・イヤ(彌)と同根」

とあり,「八」という数の意の他に,

無限の数量・程度を表す語(「八雲立つ出雲八重垣」),

で,

「もと,『大八洲(おほやしま)』『八岐大蛇(やまたのおろち)』などと使い,日本民族の神聖数であった」

とするし,『大言海』も,

「此語彌(いや)の約と云ふ人あれど,十の七八と云ふ意にて,『七重の膝を八重に折る』『七浦』『七瀬』『五百代小田』など,皆數おはようございます。多きを云ふ。八が彌ならば,是等の七,五百は,何の略とかせむ」

と,「彌」説には反対しつつも,「八」の意が,数多いことを表してきたことを強調している。この流れの中で,八百を考えるべきだろう。『日本語俗語辞典』

http://zokugo-dict.com/03u/uso800.htm

は,

「嘘八百の『八百』とはたくさんという意味で使われる数である(正確には『八』がたくさんという意味の数字)。例えば、八百屋の場合、800種の物を売る見せというわけでなく、たくさんの物を売る店。八百八丁は江戸に町がたくさんあることを意味する(ちなみに延享年間(1744~1748年)には1678町と808の倍以上の町が存在した)。つまり、嘘八百とは嘘がたくさんということから、やたら述べ立てるたくさんの嘘、または嘘だらけという意味になる。」

というのが正確ないい方だろう。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)


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2017年12月30日

八つ当たり


「噓八百」に関連して,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/455851358.html?1514491886

の項で,「や(八)」は,『岩波古語辞典』に,

「ヨ(四)と母音交替による倍数関係をなす語。ヤ(彌)・イヤ(彌)と同根」

とあり,「八」という数の意の他に,

無限の数量・程度を表す語(「八雲立つ出雲八重垣」),

で,

「もと,『大八洲(おほやしま)』『八岐大蛇(やまたのおろち)』などと使い,日本民族の神聖数であった」

とするし,『大言海』も,

「此語彌(いや)の約と云ふ人あれど,十の七八と云ふ意にて,『七重の膝を八重に折る』『七浦』『七瀬』『五百代小田』など,皆數おはようございます。多きを云ふ。八が彌ならば,是等の七,五百は,何の略とかせむ」

と,「彌」説には反対しつつも,「八」の意が,数多いことを表してきたことを強調している,と触れた。

「やつ」について,『日本語源大辞典』は,

ヨツヨツ(四四)の義で,ヨツ(四)の転(百叢露),
四を重ねた数で,ヨツ(四)の転。ヨツは弥津の義(和訓栞),
イヤツ(弥津)の義で四方と四隅の倍になる意(十數伝),
ヤハス(和)の義(名言通),

と語源説を並べた上で,

「現代語の『やっつ』は江戸時代の『やつ』から生まれた語。ただし『八つ目うなぎ』などでは『やっつ』といわない。『いや(弥)』と関係ありとする説があるが,『やつ(八)』は『よつ(四)』の語幹母音o(乙類音)とaと替えることで倍数を表したものともいわれる。類例に,『ひとつ⇔ふたつ』がある。」

とあり,『大言海』の

「八が彌ならば,是等の七,五百は,何の略とかせむ」

とは,卓見である。

『日本語源広辞典』は,

「「ヤツ(八方)+当たり」

として,

無関係の四方八方の人に当たり散らすこと,

とするが,「八つ当(た)り」の「八つ」も,

数の多い意にも用いる,

と,多数という含意である(『広辞苑』)。この「つ」は,

箇,
個,

と当て,

数詞の下に添えて数を表す語,

で,「ひとつ「ふたつ」と使うが,『古事記』にも,

五百(いお)箇(つ)真榊(まさかき),

という用例があり,『大言海』は,

「数詞の下に付きて,言ひ据えて数へゆく語。又,数を分つ辭」

とある。なお,

「此語,十進以上にては,チ,又,ヂ,とも轉ず」

とあり,「はたチ」「みそヂ「百(もも)チ」「五百(いほ)チ」「千(ち)ヂ」と用いる。

なお,

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12125061797

には,

「八つ当たりの意味は、二つあるようです。
1.目当てもなくあれこれとことを行ない、偶然に、ある結果を得ること。 類:紛(まぐ)れ当たり
2.誰彼の区別なく当たり散らすこと。怒りを関係のない人にまで撒き散らすこと。
いずれの場合も、一方だけではなくて、あちらこちらに当たるという意味があるようです。

それで語源は八方、あらゆる方角と言うことのようです。あらゆる方角にあるものに手当たり次第に当たり散らすと言うことでしょうか。良く、四方八方と言いますね。
http://www.yuraimemo.com/1505/
ネットにあったもう一つの語源は次のようなものです。
昔富士山と八ヶ岳が、どちらが高いかで論争になりました。釈迦が、水を注ぐと水は、低い方、つまり富士山に流れたそうです。それに起こった富士山が、八ヶ岳の頭を水を入れていた桶でたたいたら、八ヶ岳の頭は八つに割れ、富士山より低くなりました。
これが八つ当たりの語源という説です。
http://peacetours.exblog.jp/3789121

という説も載っていた。「八」が仏教の「八万地獄」や「八万奈落」の「八万」関連づけたりするのは,仏教にかこつけたいということなのだろうか。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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2017年12月31日

しわす


「しわす(しはす)」は,

師走,

と当てる。明らかに当て字である。この字から,由来を考えようとすると,語呂合わせになる。しわす(しはす)は,陰暦12月の異称。極月 (ごくげつ) ,臘月 (ろうげつ),とも言うらしい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%88

には,その他の異称として,

おうとう(黄冬)、おとづき(弟月)、おやこづき(親子月)、かぎりのつき(限月)、くれこづき(暮来月)、けんちゅうげつ(建丑月)、ごくげつ(極月)、しわす(師走)、はるまちつき(春待月)、ばんとう(晩冬)、ひょうげつ(氷月)、ぼさい(暮歳)、ろうげつ(臘月)

等々を上げている。『大言海』には,

「歳極(としはつ)の略転かと云ふ。或は,万事為果(しは)つ月の意。又農事終はる意か,ムツキを見よ。」

とあり,「むつき(睦月・正月)」の項では,

「實月(むつき)の義。稲の實を,始めて水に浸す月なりと云ふ。十二箇月の名は,すべて稲禾生熟の次第を遂ひて,名づけしなり。一説に,相睦(あひむつ)び月の意と云ふは,いかが」

として,

「三國志,魏志,東夷,倭人傳,注『魏略曰,其俗不知正歳四時,但記春耕秋収為年紀』

を引く。農事と関わらせる,というのは一つの見識かもしれない。『日本語の語源』は,

「トシハキツル(年果つる)月は,その省略形のシハツがシハス(師走,十二月)・シワスになった。」

と,「トシハツル」説をとる。

『日本語源広辞典』は,三説挙げる。

説1は,「シ(為)+果つ」。一年間の諸事をし終る月の意,
説2は,「年+果てる+月」。一年が終る月の意,
説3は,「師(師僧)+走(はしる)」。師僧がお経をあげるために走る月の意,

を上げるが,『日本語源広辞典』は,説3は,「文字の付会で疑問」としている。「師走」という字を当てはめた後の,強引な解釈である。しかし,この説を採る者が多い。たとえば,

http://kenyu.red/archives/4868.html

は,

「一番、有力な説は、師走の師は、僧侶である和尚様、つまり、お坊さんという説です。平安時代後期に書かれた辞書に、色葉字類抄(いろはじるいしょう)というものがあって、その中に『しはす』という言葉で表されています。
12月はお寺は忙しく、お師匠様である僧侶が、お経を唱えるために、東西南北を馳せ参じる(駆けまわる)様子から、師馳す(しはす)と呼ばれたというものです。 これが、時代とともに、師が馳せるではなく、師が走るとなって、現在の師走(しわす)に変わっていったのだろうというのです。」

しかし,

https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%88

は,

「僧侶(師は、僧侶の意)が仏事で走り回る忙しさから、という平安時代からの説(色葉字類抄)があるが、これは語源俗解(言語学的な根拠がない、あてずっぽうの語源のこと)であり、平安時代にはすでに、『しはす』の語源は分からなくなっていたのである。」

とするし,『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/si/shiwasu.html

も,

「師走は当て字で、語源は以下の通り諸説あり、正確な語源は未詳である。 師走の主な 語源説として、師匠の僧がお経をあげるために、東西を馳せる月と解釈する『師馳す(し はす)』がある。 この説は、平安末期の『色葉字類抄(いろはじるいしょう)』に、『しはす』の注として説明されている。現代の『師走』と漢字の意味も近く、古い説であるため有力 に思えるが、「師馳す」説は民間語源で、この説を元に『師走』の字が当てられたと考えられる。
 その他、『年が果てる』意味の『年果つ(としはつ)』が変化したとする説。『四季の果てる月』を意味する『四極(しはつ)』からとする説。『一年の最後になし終える』意味の『為果つ(しはつ)』からとする説などがある。」

とし,

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%97%E3%82%8F%E3%81%99

も,

「年末で法師すら走りまわる月とするのは附会。語源は未詳、「しはつ」で「はつ(=果てる)」に関連か。」

と,それぞれ否定的である。

http://tetteilife.com/29/shiwasu/

は,「師(僧)も走りまわるほど忙しい説」,「『〇〇』が終わる説」と並んで,「当て字説」として,

「日本書紀や万葉集では12月のことを『十有二月(シハス)』という言葉であらわしていました。この頃は『師走』という言葉を使わず、12月の後には『シハス』と書かれていました。そのため、『師走』という漢字が後につけられて現在まで残っているといわれています。日本書紀や万葉集にも使われていた文字なので、私はこの説が一番信ぴょう性の高い由来なのではないかなと思います!」

としている。

https://takeyuki77.net/2836.html

にあるように,

「旧暦が使われていました江戸時代までの師走の期間は12月末~2月の上旬ぐらいまでの事を指していましたので、約2ヶ月ほどの間になります。」

とあり,さらに,「しはす」は,何かの行事と関わっていたのではないか,という気がしてならない。そこで,『大言海』が,「むつき」と対比しつつ,農事と関わらせたことが気になる。

『日本語源大辞典』は,農事,特に稲作と関わって,

農事が終り,朝貢の新穀をシネハツル(飲果)月であるところから(兎園小説外集),
稲のない田のさまをいうシヒアスの約,シは発声の助語。ヒアスは干令残の義(嚶々筆語),

を挙げている。農事とつなげることで,「しはつ」「としはつ」

四季の果てる月であることから,シハツ(四極)月の意(志布可起・和爾雅・日本釈名),
トシハツル(歳極・年果・歳終)の義(東雅・語意考・類聚名物考・和語私臆鈔・黄昏随筆・古今要覧稿・和訓栞),
ナシハツルツキ(成終月)の略転(柴門和語類集),

等々の説の奥行が変わってくるような気がする。「とし(年)」が,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4

に,

「日本語で『とし』とは、『稲』や穀物を語源とし、一年周期で稲作を行なっていたため『年』の意味で使われるようになったという。ちなみに、漢字の『年』は禾に粘りの意味を含む人の符を加え、穀物が成熟するまでの周期を表現した。」

のであるから,なおさらである。因みに,「年」の字は,『漢字源』には,

「『禾(いね)+音符人』。人(ニン)は,ねっとりと,くっついて親しみある意を含む。年は,作物がねっとりと実って,人に収穫される期間を表す。穀物が熟してねばりを持つ状態になるまでの期間のこと。」

とある。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

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