2017年12月23日

Concept of mind


ギルバート・ライル『心の概念』を読む。

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今日のライルの評価は分からないが,ヴィトゲンシュタインと並ぶ,

日常言語学派,

に位置づけられる,という(訳者解説)。ライルは,本書の意図を,

「われわれが心についてもっている知見について,その論理的地図の改訂を試みようとするもの」

とし,

「心的行為の諸概念(memtal-conduct ckncepts)の論理的な振る舞いを吟味」

していく。それに,

カテゴリー錯誤(category-mistake),

と,ライル自身が呼ぶ概念によって,過去の哲学の理論構成を打破していく。対象となるのは,ライルの,

機械の中の幽霊のドグマ(the dogma of the Ghost in the machine),

と名づけた,デカルト流の心身二元論である。その誤りを,

「たんなる個々の誤りの集まりであるのはなく,一つの大がかりな誤りであり,同時にまた,ある独特な種類の誤りなのである。その意味において,これは『カテゴリー錯誤』(category-mistake)とがふさわしいと思う。」

と。そして,

「根本的なカテゴリー錯誤が二重生涯理論double-life theoryの源泉となっている」

と。それは,

「結局,デカルトは問題の論理を誤ったのである。彼は理知的な行動が現実にはすかなる規準によって非理知的な行動と区別されているかということを問うことをせず,むしろ『機械論的因果の原理がその両者の相異を明らかにすることができないとするならば,そもそも他のいかなる因果的原理がその差を明らかにすることができるのか』と問うたのである。彼はそれが力学の問題でないということは十分理解していた。そこで彼はそれが力学に対応する他の何ものかでなければならないと仮定した。(中略)
 ある二つの名辞が同じカテゴリーに属している場合には,その両者を含む連言的な命題を構成することは適切である。たとえば,買い物客が右手袋と左手袋を買ったと述べることは可能である。しかし,彼は右手袋と左手今日も袋と,そして一対の手袋とを買ったとのべることは出来ない。(中略)機械の中のドグマはまさにこの種の馬鹿げたことを現実に行っているのである。それは,身体と心との両者が存在し,物体的過程と心的過程との両者が生起しつつ,かつ,身体的な運動には機械的な原因と心的な原因との両者が存在することを主張するものである。(中略)私の主張は,『心的過程が生起する』という表現は『物的過程が生起する』という表現と同じ種類のことを意味しているのではないということであり,したがってその二つを連言ないし選言の形で結合させることには意味がないということである。」

ということである。そのことを,象徴的に示すのは,

knowing that(内容を知ること),
と,
knowing how(方法を知ること),

に分けた,「理知」(intelligence)の概念についての説明である。

「『愚かである』stupid ことと無知であることとは同じことではないということ,あるいは同じ種類のことではないということに注意することははわめて重要である。『物事をよく知っている』well-informed ということと『ばかな』silly ということは両立可能でありまた逆に議論や冗談に長けた人が案外事実を正しく知っていないということもありうるのである。」

それは,

「理知的であるということと知識を所有していることの区別が重要である」

ということでもある。その背景にあるのは,

「知識という概念によって他のすべての心的行為の概念を定義する傾向がある」

からである。要するに,

「そこでは理性的 rational であるということは真実を認識しうることであり,そしてさらに諸真理間の関連を認識しうることであると考えられたからである。」

しかし,とライルはも皮肉な言い方で批判する。

「『真理を理解すること』を理知によって定義するという方法をとらずに,逆に理知を真理の理解によって定義しようと試みる」

から,

「理論化という作業が心の主要な活動であるという仮定と,その作業が本来は私的で無言のあるいは内的な作業であるという仮定とは今日もなお機械の中の幽霊のドグマの中心的な支柱の一つとなっている。われわれは心というものが自分たちがひそかに思考を遂行している『場所』であるとみなしがちである。われわれは,自分の思考内容を胸の中に秘めておくためにこそ特殊な技巧を使用しているのであるということを理解せず,むしろ逆に,われわれが自分の思考内容を他人に知らせる方法に特別な神秘性があると考えるのである。」

で,ライルは言う。

「ある人が理知的であるか否かを表すために『鋭敏な』 shrewed あるいは『間抜けな』 shilly,『慎重な』 prudent,『軽率な』 imprudent などという形容詞が使われる。しかし,この場合,その人が何らかの真理を知っているということや知っていないということをわれわれは述べているわけではない。その記述は,その人にはある種の事柄を行う能力があるかないかということを述べているのである。」

それは,理論の本性,源泉,資格などにとらわれて,

「ある事柄を遂行する仕方を知っている knowing how ということはいかなることであるのかという問題をほとんど無視してきた」

からだ,と。

「日常生活においては,…われわれは,…人々の知識の貯蔵量に対してよりもむしろ彼らの認識の能力に対してより多くの関心をもっており,また人々が習得する真理そのものに対してよりもむしろそれを得るための作業に対してより多くの関心をもっているのである。事実,ある人の知的卓越や知的欠陥を問題にしている場合においてさえも,その人がすでに獲得し所有している真理の貯蔵量の多寡はあまり問題ではない。むしろ,みずからの真理を見出す能力,さらに真理を見出した後にそれを組織的に利用する能力こそがはるかに重要なのである。われわれはときにある人がある事実に関して無知であることを嘆く。しかし,それは実はたんにその無知を結果としてもたらす愚かさを嘆いているのである。」

当然,「機械の中の幽霊」の考えるような,

「自分が何ごとかを行うということはつねに二つの事柄を行うことなのである。すなわち,何らかの適切な命題ないし処方を考察することと,次いでこれらの命題ないし処方が要求するところのものを実行に移すことの二つを行うこと」

ではなし,

「外部に現れた行為はその心的過程の結果」

なのでもなく,

「何ごとかを理知的に行っているとき,すなわち自分の行っていることについて考えながらそれを行っているとき,私は唯一つのことをしているのであってけっして二つのことをしているわけではない。」

日常的な言葉によって分析していくライルのアプローチは,たとえば,思考 thought と考えること thinking の違いについて,

「ある人が何かを案出する think out ことに従事していると述べる場合と,これこれしかじかが彼の考えている内容であると述べる場合とにおける『考える』の意味を明確に区別しなくてはならない。すなわち,『思考』には熱心な hard,長引いた protracted,中断された interrupted,不注意な careless,成功した successful,効果のない unvailing,などと形容することが出来るような意味と,真の true,偽の false,妥当な valid,誤った fallaction,抽象的な abstract,退けられた rejected,共有された shared,公表された published,未公表の unpublished,などと形容することができるような意味とがあり,両者を明確に区別しなければならない。前者の意味における思考について語る場合には,われわれはある人がある時期においてある期間従事している作業について語っている。また,後者の意味における思考について語る場合には,そのような作業の成果について語っている。」

というような類別の仕方をする。これは,

われわれは持っている言葉によって見える世界が違う,

という,確か,ヴィトゲンシュタインの言葉を思い起こさせる。言葉をどう使っているかに徹底的にこだわるライルの手法は,ある意味,その言葉によって何が見えるかで境界線を引こうとしている,とも言えるのかもしれない。

参考文献;
ギルバート・ライル『心の概念』(みすず書房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

今日のアイデア;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/idea00.htm

posted by Toshi at 05:44| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする