2018年01月21日

描く楽しさ


「清水国明の自然暮らし」展(報美社主催)に伺ってきた。

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初めての個展ということらしい。案内ハガキの絵を見て,ちょっと惹かれて伺った。油絵も初挑戦ということもうかがっていたので,正直たいして期待もしないで,用事のついでに寄らせていただいた。

しかし,こういう言い方をするのは失礼ながら,想定外に面白かった。絵の是非について,云々できる薀蓄はないが,僕はタイトルが面白いと思った。たとえば,

「決意の富士」
「夢叶う富士」
「かいでみるよりするがよい」
「秋冬同居」

等々,全てではないが,惹かれるタイトルがある。いつも,僕はタイトルを重視する。

人は持っている言葉によって見える世界が違う,

という。言葉を通してモノをみる。あるいは知識でモノを見る,と言い変えてもいい。僕は,

絵はタイトルとのキャッチボール,

なのだと思っている。描き手は,タイトルに,

描き手が見た世界を言語化,

するのだと思う。描き手は,そう見てほしい世界の道しるべをする。しかし,観る側は,絵を見ながら,タイトルの言葉に自分が見る世界と,絵の世界とキャッチボールをする。その乖離と融合の中に,描き手が見せたい世界とは別の新しい世界を,見る側が見つけ出せるかどうかが面白いのではないか。描き手の思うように見ては,それは絵の世界が(描き手の内部で)自己完結しているだけのような気がする。

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多分記憶では,左が「決意の富士」右が「おぼろ富士」。言葉の見せる世界と,絵の見せる世界のギャップが,絵を見ながら,様々に感じさせる。この絵柄では,「決意」が甘いとか,「おぼろ」は,もっと紗がかかっていなくてはとか,と思いながら,結構面白いと思えてくる。この二作と,案内ハガキの「藍富士」の三作が,メインなのかもしれない。確かに落ちついている。でも,「藍富士」じゃなく,蒼を集めた富士とか,別の言葉が見えてきたりする。

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僕は個人的には,「明瞭富士」と題された作品や,「秋冬同居」と題された作品,「GOLD」と題された作品等々,ちょっとデフォルメした富士にチャレンジして,楽しんで書いている作品が好きた。抽象度を増すというのは,

見える世界を丸める,

ということだ。その丸め方に,描き手の冒険と楽しみがある。

IMG_20180119_145257_083 (2).jpg

(「明瞭富士」)

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(「秋冬同居」)

DSC_1473.jpg

(「GOlD」)


この展覧会の写真を見せたある人は,「絵を画くのが楽しくして仕方がない」という雰囲気が出ている。ちょっと描くことへの手応えを感じて,いろいろな表現スタイルを試みているところに,充溢感が出ている,と評したが,確かに,絵を描く楽しさが顕れている展覧会ではあった。

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2018年01月22日

パースペクティブ


石田英一郎『桃太郎の母―ある文化史的研究』を読む。

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本書の今日的な評価は知らない。しかし,そのパースペクティブの射程の深さは,圧倒される。たとえば,タイトルになっている「桃太郎の母」は,その端緒を,柳田國男が,

小さ子(ちいさご),

と名づけた説話の系列,つまり,

「古くはスクナヒコナの神の神話をはじめ,一方で赫奕姫(かぐやひめ),瓜子姫,桃太郎,一寸法師等々,人口に膾炙するお伽ばなしに発展し,他方では奥州の座敷ワラシ,スネコタンパコ,カブキレワラシ,ウントク,ヒョウトク,信州の小泉小太郎,泉小次郎,鳥取の五分次郎などのような種類の地方的俗信や昔ばなしにのこる一連の伝承」

を端緒に,小童と水界とのつながり,その母神を糸口に,朝鮮半島を経てユーラシア大陸まで,さらに太平洋の島々の母子相姦による民族起源譚,豊穣神としての母像から,母子像を経て,ついに幼子キリストを抱くマリア像までたどりつく,その射程の幅と奥行きに驚かされる。

「わが国の一寸法師をはじめ,各種の小サ子物語の意義は,その背後にひそむ母性の姿を,消えゆく過去の記憶から引き出してこれと結びつけることによって,その隠微な一面が解明されていくのではあるまいか。私はここで文化の伝播とか,独立起源とかいう,言い古された用語を用いて問題をあげつらおうとするものではない。ただ,少なくとも本稿で取り扱った一群の信仰の根底には,かつて地球上ある広大な区域を支配した母系的な社会関係や婚姻の形式が,共通の母胎として横たわっていることを,今後の研究のための初次的な作業仮説として想定すればたりるのである。」

と締めくくる。その余韻で見ると,

「戦国時代に輸入されたキリスト教の聖母が《マリア観音》の称呼をもって迎えられたのも,悠遠の過去の共同の母胎から相分かれたまま,それぞれ別個の発達をとげた二つの信仰が,ふたたび文化の接触によってたがいに相結ぶにいたった一例を示すものとして興味深い。」

という一文は,なかなか意味深である。

方法は同じだが,個人的には,「桑原論」が面白い。「くわばら」については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/412748051.html

で触れたが,雷など怖いものにであった時,

「くわばら,くわばら」

と,呪文のように唱える,あの「くわばら」である。今日では,あるいは死語に近いのかもしれない。その謂れは,

ひとつには,菅原道真の領地「桑原」にあるらしい。都には落雷が多かったが,この地だけは,被害がなかった。で,落雷除けのマジナイに使った,というのである。

ふたつには,大阪和泉軍の桑原の井戸に落雷後,すぐに蓋をして雷を出られなくしたので,雷神が「自分は桑の木が嫌いなので,桑原と唱えたなら二度と落ちない」と誓った,という伝説によるともいう。この説には,異説もある。和泉の西福寺には雷井戸と呼ばれる井戸があるらしい。このお寺には奈良時代に道行と言う修行僧がいて,雷に遭遇したとき,慌てずに大般若経を浄写したところ雷がピタリとやんだという伝説があり,それ以来ここにある井戸には雷を封じ込める力があると言われるようになった。「くわばら くわばら」と唱えることで「ここは雷を封じ込めた雷井戸のあるクワバラですよ」と雷に教えると言うことになった,というもっと詳しい説明がついたものもある。

三つには,説話的な説で,桑原という人が落ちてきた雷さまを助けたという。そこで雷さまが「おまえとおまえの子孫の住む場所には雷を落とさない」と約束をしたのです。それ以来雷が落ちそうになると,誰もが桑原さんの子孫だと「くわばら くわばら」と言うようになったというものである。

四つには,昔から雷は何故か桑畑に落ちないといわれていて,そのために,雷がなると昔は桑畑に逃げたと言われている。そこから,雷が鳴り出すと「くわばら くわばら」と言って,雷を避けるようになったと言われています。

いずれも,「桑原」という言葉に関わる。「雷」と「桑」とのかかわりは,

「桑樹もしくは桑葉の呪能にもとづく」

とし,

「桑を何らかの形で霊怪視する思想は古くから分布する」

という。中国民間では,雷のみならず,

「古来山中より出没する独脚反踵(どくきゃくはんしょう)の怪山魈(かいさんしょう)も,また『最も桑刀を怕(おそ)れ,老桑を以て削って刀と成し,之を斫(き)れば即ち死す。桑刀を門に懸くるも亦避けて去る』といわれている。」

と,魔よけの効力をもつ。これは,桑を聖樹とする中国のきわめて古い信仰に起源があり,

「先秦以来の諸書に見える扶桑(榑桑)は,太陽の出入する所の神木と信ぜられた。『山海経』に,『湯谷(とうこく)の上に扶桑り,十日(じゅうひ)の浴する所,…大木有り,九日(きゅうひ)は下枝に居り,一日は上枝に居る』(海外東経)と言い,また,『湯谷の上に扶木有り,一日方に至れば一日方に出づ,皆烏を戴く』(大荒東経)とある」

ことから,

「古代の中国人は,一種の桑樹によって太陽の運行を考える《世界樹》的な信仰を有していたことがそうぞうせられないだろうか。」

とし,『呂史春秋』の,高誘注,

「桑林は,桑山の林,能く雲を興し,雨を作(おこ)し」

と,桑樹の霊能が水界と関係あるところへと至る。その桑樹神聖化の思想は,中国を故地とする養蚕へとさかのぼっていく。そして,殷墟の出土品と伝えられる,骨の蚕に行き着く。さらに,

中国で馬と蚕の,

「馬頭娘,馬鳴(ばめい)菩薩などの蚕の神として民間に祀られ,『蚕は馬と神を同じゅうす。本竜精にして首馬に類す。故に蚕駒と曰ふ』などともいわれている。」

という中国の俗信や説話は,そっくりそのままわが国各地の民間に広く分布している。

「両者が無関係に発達したものとはどうしても考えられない。常陸をはじめ関東一円から以西にかけては,養蚕の守護神としての馬鳴菩薩や馬頭娘信仰が普及している」

つまりは,

「わが『桑原々々』の呪語や俗信が,けっして単なる地名や人名にからんだ伝承ではなく,遠く禹域桑土の野の養蚕習俗から生まれた,ある種の呪的な信仰にその濫觴を有する」

とまとめる。語源的な「ことば」レベルの奥に,生活史があり,そこを手繰り寄せていかない限り,言葉の背景は見えてこない,とつくづく思い知らされる。

参考文献;
石田英一郎『桃太郎の母―ある文化史的研究』(講談社学術文庫)


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2018年01月23日

夕立


「夕立」は,

ゆだち,

ともいい,『大辞林』に,

夏の午後から夕方にかけ,にわかに降り出すどしゃぶり雨。雷を伴うことが多く,短時間で晴れ上がり,一陣の涼風をもたらす,

とある。この場合,「夕」に騙されると,

夕方降る雨,

となるが,『日本語源広辞典』には,

「夕方でもないのに,庭か雨で一時的に暗くなって夕方らしくなる,が本義です。」

とある。

「夏の午後から夕方にかけ」

というのに意味がある。しかし,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%95%E7%AB%8B

には,

「古語としては、雨に限らず、風・波・雲などが夕方に起こり立つことを動詞で『夕立つ(ゆふだつ)』と呼んだ。その名詞形が『夕立(ゆふだち)』である。
ただし一説に、天から降りることを『タツ』といい、雷神が斎場に降臨することを夕立と呼ぶとする。」

とある。しかし,別名,

白雨(はくう),

とも言うところから見ると,明るい時刻に違いない。

http://yain.jp/i/%E5%A4%95%E7%AB%8B

は,

「夏の午後に、多くは雷を伴って降る激しいにわか雨。白雨(はくう)。」

とし,やはり,

「動詞『夕立つ(ゆうだつ)』の連用形が名詞化したもの。『夕立つ』は、夕方に風・雲・波などが起こり立つことの意。動詞『立つ』には現象が現れるという意がある。」

としているが,

http://mobility-8074.at.webry.info/201606/article_22.html

は,

「夕方に降るから『夕立』と言うというように何となく思っていましたが,語源を調べてみたら,ちょっと違うようです。まず,『立つ』には,〈隠れていたもの,見えていなかったものが,急に現れる,急に目立ってくる〉という意味があります。『目立つ』『きわ立つ』 の『立つ』です。
「夕立」 の 「立つ」 は, 〈雲 ・ 風 ・ 波などが,急に現れる〉 ことを言っています。ここで注意したいのは, 『夕立』は,本来は〈雨〉 のことではないということです。雲が現れた結果として雨になることが多いのですが,語源的には『ゆうだち』は雨ではありません。『夕立』の『夕』は,雲や風が現れるのが夕方ということではないのです。この『夕』は,〈夕方のようになる〉という意味での『夕』です。(中略)
で,『夕立』というのは,〈まだ昼間の十分に明るい時間帯なのに,突然,雨雲が湧いてきて,あたかも夕方を思わせるほどに薄暗くなる〉状態のことなのです。『ゆうだち』は,もとは『いやふりたつ (彌降りたつ)』だったという説です。この『彌』は〈いよいよ,ますます,きわめて,いちばん〉の意味の副詞です。つまり,〈きわめて激しく降り出した雨〉という意味の「いやふりたつ」が『やふたつ』→『ゆふたつ』→『ゆふだち』へと変化してきたという説です。」

としている。そう見ると,『大言海』が「ゆふだち」の意味に,

「雲にわかに起(た)ちて降る雨」

とあるのが生きてくる。『日本語源大辞典』には,「立つ」について,

「『万葉集』にすでに『暮立』の表記でみえる。ユウダチのダチ(立つ)は,自然界の動きがはっきりと目に見えることをいう」

とある。『広辞苑』の「立つ」には,

「事物が上方に運動を起こしてはっきと姿を表す」

意の中に,

雲・煙・霧などが立ち上る,

という意味が載る。

ただ気になるのは,『広辞苑』は,「夕立」の項で,

「一説に,天から降ることをタツといい,雷神が斎場に降臨することとする」

とあることだ。『岩波古語辞典』には,「立つ」について,

「自然界の現象や静止している事物の,上方・前方に向き合う動きがはっきりと目に見える意。転じて,物が確実に位置を占めて存在する意」

とある。とすると,

雲がにわかにむくむくと立ち上がるのを龍に見立てる,

ということはあるかもしれない。『日本語源広辞典』は,「たつ(竜)」の語源を,

「立つ」

としているので,「たつ(立つ)」と「たつ(竜)」がつながらないわけではない。龍については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/447506661.html

で触れたが,「龍」は,水と関わる。

長谷川等伯による善女竜王像.jpg

(長谷川等伯による善女竜王像)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%9C

に,「龍」は,

「中国から伝来し、元々日本にあった蛇神信仰と融合した。中世以降の解釈では日本神話に登場する八岐大蛇も竜の一種とされることがある。古墳などに見られる四神の青竜が有名だが、他にも水の神として各地で民間信仰の対象となった。九頭竜伝承は特に有名である。灌漑技術が未熟だった時代には、旱魃が続くと、竜神に食べ物や生け贄を捧げたり、高僧が祈りを捧げるといった雨乞いが行われている。」

とし,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%AB%9C

は,

「竜神は竜王、竜宮の神、竜宮様とも呼ばれ、水を司る水神として日本各地で祀られる。竜神が棲むとされる沼や淵で行われる雨乞いは全国的にみられる。漁村では海神とされ、豊漁を祈願する竜神祭が行われる。場所によっては竜宮から魚がもたらされるという言い伝えもある。一般に、日本の竜神信仰の基層には蛇神信仰があると想定されている。」

「仏教では竜は八大竜王なども含めて仏法を守護する天竜八部衆のひとつとされ、恵みの雨をもたらす水神のような存在でもある。仏教の竜は本来インドのナーガであって、中国の竜とは形態の異なるものであるが、中国では竜と漢訳され、中国古来の竜と混同ないし同一視されるようになり、中国風の竜のイメージに変容した。日本にも飛鳥時代以降、中国文化の影響を受けた仏教の竜が伝わっている。」

とある。

なお,

夕立は馬の背を分ける,

という言葉があるが,

https://www.waraerujd.com/blank-131

に,

「夕立は馬の背を分けるとは、夕立は馬の片身に降っても反対側の片身には降らないという意味で、夕立の局地性を表現したことわざ。」

である。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E3%82%92%E9%99%8D%E3%82%89%E3%81%9B%E3%81%A6%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%AB%9C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%AB%9C
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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スキル事典;
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ラベル:夕立 白雨
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2018年01月24日

くだん


「くだん」は,

件,

と当てる。『デジタル大辞泉』も『広辞苑』も,

「くだり(件)」の音変化。ふつう「くだんの」の形で用いる,

とする。「くだんの」は,

いつもの,きまりの,

という意味であるが,

「件の用件で話したい」

と使う場合,

前に述べたこと,例の,

という意味である。『岩波古語辞典』には,「下る・降る」と当てる動詞の場合は,

「事物・程度・位置などが上から下へ勢いのまま一気に移動する意。類義語オリ(降)は注意を保ちながら下まで下がる意」

とするが,名詞形「下り」には,「下・降」の他に,「行」を当て,

文章の一行,

を指すが,「くだん(件)の」という場合は,

「クダリノの音便形,前に述べた物事を,よく知られたものとして示す語」

として,

上述の,右の,

の意味から,さらに,

例の,あの,

という意味に広がっている。で,

件の如し,

という場合,

文書・書状などの末尾に書く決まり文句」

となり,

右の通りである,

という意味になる。『大言海』は,「くだり」を「下」とは別に,「行」「件」の項を立て,「行(くだり)」は,

「(下〔くだり〕の義)上より下までの一列(ひとつら)」

とし,「多くは文章につき云ふ」とする。「くだり(件)」は,

「行(くだり)の義,音便に,クダンと云ふ〔残の行き,のこんの雪。榛(はり)の木,はんのき。假名(かりな),かんな)〕。説文『件(けん),分也』。字類抄『件,クダリ,分次也,如件』。六書故『條件,俗號物語數,曰若干件』

として,意味を,

「文書に記せる章。段。條。音便にクダン」

とし,その上で,

「後に,初めの,上の,など云ふべきを略して,ただ,クダンとのみ用ゐらる。文書の末に,如上件となすべきを,仍而(よって)如件,など記すは,即ち,上(かみ)の件(くだん)の如しなり。」

とし,更に,

「転じて,それ(其れ)の意となる」

とする。ここで,やっと,「例の」という意味になる。これで一件落着のはずであるが,ところが,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B6

に,

「西日本各地に伝わる多くの伝承では、証文等の末尾に記される『件の如し(如件)』という定型句(書止、書留)は『件の予言が外れないように、嘘偽りがないという意味である』と説明されることもあるが、これは民間語源の一種と考えられる。」

という俗説がある。しかし,

「怪物『件』の記述がみられるようになるのは江戸時代後期であるのに対して、『如件』という定型句はすでに平安時代の『枕草子』にも使われている。ゆえに『件の如し』と怪物『件』を関連付けるのは後世の創作といえる。」

とあるのである。「くだん」という怪物については,後で触れるが,「くだん」を描いた小説に,内田百閒の『件』,小松左京の『くだんのはは』がある。しかし,「くだん」は,上記の通り,西日本でしか知られていない妖獣だったため,
「内田がでっち上げた珍獣」と誤解された,という。また,小松左京の短編小説『くだんのはは』は,女性のため,別の「牛女」ともされる。

https://matome.naver.jp/odai/2134119799453544101

には,「くだん」について,

① 「件」の文字通り、半人半牛の姿をした妖怪。(件=人+牛)
② 古くは牛の体と人間の顔の怪物であるとするが、人間の体と牛の頭部を持つとする説もある。
③ 牛から生まれ、人語にて不吉な予言を残して死ぬ。
④ 証文の末尾の「件の如し」という慣用句は「件の予言が外れない様に、嘘偽りがないと言う意味」と伝わる。
④ 件の絵姿は厄除招福の護符になる。
⑤ 江戸時代から昭和まで、西日本を中心に日本各地で様々な目撃談がある。

と,俗説「くだん」を整理している。「半人半牛の姿をした妖怪」とは,

https://dic.pixiv.net/a/%E4%BB%B6

に,

Sakaiminato_Mizuki_Shigeru_Road_Kudan_Statue_1.jpg

(水木しげるロードに設置されている「くだん」のブロンズ像)


「体は牛で、頭が人間の妖獣。頭が牛で体が人間なミノタウロスの逆バージョン。 頭が良く、人間の言葉を理解する。
予知能力に秀いで、特に災害がある年には『くだん』が生まれると信じられた。予言を行った後に死ぬとも。 近世に発生した伝説で、中国の白沢(ハクタク)が原型であるともされる。 」

とある。因みに,「白沢(ハクタク)」とは,

白沢.jpg

(鳥山石燕 『今昔百鬼拾遺』の「白澤」)


http://www.eisai.co.jp/museum/history/0100/sub0100.html

に,

「中国の想像上の神獣。6本の角と9つの眼を持ち、人語を解するという。麒麟(きりん)や鳳凰(ほうおう)と同様、徳のある政治者の時に出現し、病魔を防ぐ力があると信じられていた。こうしたことから、白沢の絵を持っていれば道中の災難や病気をまぬがれると、江戸時代の旅には欠かせない“お守り”となっていた。コレラ流行の時なども白沢の絵が売りに出され、人々はこれを身につけたという。」

とあり,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%BE%A4

には,

「『三才図会』によると、東望山に白澤と呼ぶ獣が住んでいた。白澤は人間の言葉を操り、治めるものが有徳であれば姿をみせたと言う(『佩文韻府』や『淵鑑類函』ではこれを『山海経』からの引用とするが、実際の『山海経』にこのような文はない)。徳の高い為政者の治世に姿を現すのは麒麟(きりん)や鳳凰(ほうおう)に似ている。
古くは中国の『三才図会』にその姿が記され、日本では『和漢三才図会』にも描かれているが、獅子に似た姿である。鳥山石燕は『今昔百鬼拾遺』でこれを取り上げているが、その姿は1対の牛に似た角をいただき、下顎に山羊髭を蓄え、額にも瞳を持つ3眼、更には左右の胴体に3眼を描き入れており、併せて9眼として描いている。白澤が3眼以上の眼を持つ姿は石燕以降と推測され、それより前には3眼以上の眼は確認できない。たとえば『怪奇鳥獣図巻』(出版は江戸時代だがより古い中国の書物を参考に描かれた可能性が高い)の白澤は2眼である。この白澤は、麒麟の体躯を頑丈にしたような姿で描かれている。」

とあり,

白澤.jpg

(城間清豊の白澤之図)


「白澤は徳の高い為政者の治世に姿を現すとされることと、病魔よけになると信じられていることから、為政者は身近に白澤に関するものを置いた。中国の皇帝は護衛隊の先頭に『白澤旗』を掲げたといわれる。また、日光東照宮拝殿の将軍着座の間の杉戸に白澤の絵が描かれている。」

とある。さて,「くだん」であるが,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B6

によると,

「件(くだん)は、19世紀前半ごろから日本各地で知られる妖怪。「件」(=人+牛)の文字通り、半人半牛の姿をした怪物として知られている。」

江戸末期の不安を象徴しているともいえる。

「幕末頃に最も広まった伝承では、牛から生まれ、人間の言葉を話すとされている。生まれて数日で死ぬが、その間に作物の豊凶や流行病、旱魃、戦争など重大なことに関して様々な予言をし、それは間違いなく起こる、とされている。また、件の絵姿は厄除招福の護符になると言う。」

しかも,江戸時代から昭和まで、西日本を中心に日本各地で様々な目撃談がある,という。

「この怪物の目撃例として最古と思われるものは、文政10年(1827年)の越中国・立山でのもの。ただし、この頃は『くだん』ではなく『くだべ』と呼ばれていた。ここで山菜採りを生業としている者が、山中でくだべと名乗る人面の怪物に出会った。くだべは『これから数年間疫病が流行し多くの犠牲者が出る。しかし自分の姿を描き写し絵図を見れば、その者は難を逃れる』と予言した。これが評判になり、各地でくだべの絵を厄除けとして携帯することが流行したと言う。江戸時代後期の随筆『道徳塗説』ではこれを、当時の流行の神社姫に似せて創作されたものと指摘している。

くだん.jpg

(倉橋山の件を描いた天保7年の瓦版)


「『くだん』としての最古の例は天保7年(1836年)の日付のある瓦版に報道されたもの。これによれば、『天保7年の12月丹後国・倉橋山で人面牛身の怪物「件」が現れた』と言う。またこの瓦版には、『宝永2年12月にも件が現れ、その後豊作が続いた。この件の絵を貼っておけば、家内繁昌し疫病から逃れ、一切の災いを逃れて大豊年となる。じつにめでたい獣である』ともある。また、ここには『件は正直な獣であるから、証文の末尾にも「件の如し」と書くのだ』ともあり、この説が天保の頃すでに流布していたことを示す。」

とある。この頃は、天保の大飢饉が最大規模化しており、「せめて豊作への期待を持ちたい」という意図があってのものと思われる,としている。以降の,目撃談は,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B6

に詳しいが,たとえば,

慶応3年(1867年)4月の日付の『件獣之写真』と題した瓦版によると「出雲の田舎で件が生まれ、『今年から大豊作になるが初秋頃より悪疫が流行る。』と予言し、3日で死んだ」という。

明治42年(1909年)6月21日の『名古屋新聞』の記事によると、10年前に五島列島の農家で、家畜の牛が人の顔を持つ子牛を産み、生後31日目に「日本はロシアと戦争をする」と予言をして死んだとある。

1930年(昭和5年)頃には香川県で、森の中にいる件が「間もなく大きな戦争があり、勝利するが疫病が流行る。しかしこの話を聞いて3日以内に小豆飯を食べて手首に糸を括ると病気にならない。」と予言したという噂が立った。

第二次世界大戦中には戦争や空襲などに関する予言をしたという噂が多く流布した。昭和18年(1943年)には、岩国市のある下駄屋に件が生まれ、「来年4、5月ごろには戦争が終わる」と予言したと言う。また昭和20年(1945年)春頃には松山市などに「神戸に件が生まれ、『自分の話を信じて3日以内に小豆飯かおはぎを食べた者は空襲を免れる』と予言した」という噂が流布していたという。

第二次世界大戦末期から戦後復興期にかけては、それまでの人面牛身の件に代わって、牛面人身で和服を着た女の噂も流れ始めた。以下、これを仮に牛女と呼称する(これが小松の小説の元になる)。

等々,時代の不安を反映していることがよくわかる。今日もまた,「くだん」目撃談が生まれる素地はある。

参考文献;
https://dic.pixiv.net/a/%E4%BB%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B6
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1

スキル事典;
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2018年01月25日

くたびれる


「くたびれる」は,

草臥れる,

と当てる。『広辞苑』には,

「『草臥』は疲れて草に臥す意の当て字」

とある。「疲れる」よりは,くたくた,というニュアンスになるのだろうか。

くたくたに疲れる,

で,転じて,

長く使ってみすぼらしくなる,

の意になる。これだと含意が伝わりにくいが,『デジタル大辞泉』には,

1 長時間からだや頭を使ったため、疲れて元気がなくなる。「歩きつづけて草臥れる」
2 年老いたり苦労が続いたりして気力や若さを失う。「人生に草臥れる」「生活に草臥れた顔」
3 衣服などが長く使われたため、古くみすぼらしくなる。「草臥れた背広」
4 (他の動詞の連用形に付いて)その動作を続けるのが、疲れていやになる。「待ち草臥れる」

と載り,「疲れる」と対比して,

「『さんざん動き回ったので疲れた(くたびれた)』のように、体の疲労をいう場合には相通じて用いられる。『細かい字を読んで目が疲れた』『神経が疲れる』のように全身の疲労でない場合や、『旅に疲れる』『人生に疲れる』のようにやや抽象的に用いる場合は、くだけたいい方である『くたびれる』はあまり用いないのが普通。『疲れた油』は、長く使って品質が落ちたこと。『くたびれた服』は、古くなってよれよれになった形状をいう。類似の語に『へばる』『へたばる』がある。『へばる』は疲れ切った状態をいい、『へたばる』は疲れが重なってもう動けないような状態をいう。いずれも俗語的表現。『相当へばっている』『暑さと疲れで、とうとうへたばってしまった』」

と書いている。『大辞林』には,

体力を消耗してそれ以上動くのがいやになる,

とあるので,消耗度が「疲れる」より上だから,「草臥れた服」は,そういう着古した感があることになる。それよりひどいと,

つかれる→くたびれる→へばる,

で,その上が,

くたばる,

で,『岩波古語辞典』には,

体力が芯から衰える,憔悴,

で,さらに転じて,究極,

死ぬ,

に至るが,多くは,相手をののしる言葉として使われる。ということで,

つかれる→くたびれる→へたばる(へばる)→くたばる,

と順次疲労度が増していくようである。

『岩波古語辞典』には, 「くたびれ」の項で,

「クチ(朽)・クタチ(降)・クタバリと同根」

としている。「くたち」は,

「クチ(朽)・クタシ(腐)と同根。人力でとどめえない自然の成り行きによって,盛りの状態が推移して終りに近づき,変質して行く意」

とあり,

朽ちていく,衰える,

という意味になる。

『大言海』は,「草臥れる」を,

「くたびるの口語」

とし,「くたびる」で,やはり,

「クタ(朽)とキタナビルとの條をみよ。」

と,関連を強調している。「くた」では,

「腐るの語根,朽つ,朽ちと通じ」

とし,「きたなびる」では,

「キタナは,キタナシの語根(いとなし,いとなむ。はかなし,はかなむ)。ビルは,其状する意。ブルの転か,うちぶる,うらびれ(あおびるる,くたびるる,さびるる,わびるる)」

とある。「ぶる」が,

その状態を示す,

のだとして(「えらぶる」の「ぶる」),「くた」は,

朽ち,

とつながるようである。それは後で触れるとして,『大言海』には,

「くづほる,くたはると通ず,草臥(そうぐわ)の字を慣用するは,詩経,鄘風の跋渉に,くさぶし(草臥)みずわたる(水渡)と,古訓あるによる」

と。「草臥」の当て字の由来が載る。調べたが見つからない。多く,『大言海』に依って,「詩経,鄘風の跋渉」説を採っているようだ(『日本語源大辞典』も,これを引用している)。

「くた」と関わるのは,

くたくた,
くたばる,

だが,「くたばる」は,『岩波古語辞典』は,名義抄を引いて,

「焦燥,くたはる」

としているが,『大言海』は,「くたはる」「くたばる」と別項を立て,前者については,

「クタは,朽ちなり。…くづほる,くたびると通ず(もとほる,まつはる)」

とし,「悴(かじ)く。しぼむ」という意味を載せ,後者については,

「クタクタと,ヘタバルとの略合にもあらむか(ひしげかがむ,ひがむ。カンザラシトコロテン,カンテン)」

として,「死ぬの卑語」の意として,別々にしている。いずれにしても,「朽ち」と通じている。

「くたくた」は,

「朽(クタ)を重ぬ。ぐたり,ぐったり,ハクタの音便(うかと,うっかりと。とくと,とっくりと)。酔うてグデングデンとなると云ふも,是より轉したるなり(たぶたぶ,でぶでぶ)」

とある。『日本語源広辞典』も「くたくたを,「朽た」を重ねたとし,「くたばる」も,

「クタクタ+ヘタバルの混淆語」

としているが,異説はあるが(たとえば,「クタル(腐る)+接尾語バル」),いずれも,

「朽ち」

を中心にしている。

で,「くたびれる」に話を戻すと,『日本語源広辞典』は,

「『クタビルの下二段化』です。クタは腐と同根,生気を撓う意です。クタスも同じ語源です」

とし,『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/ku/kutabireru.html

も,

「くたびれるの古形は『くたびる』。『くた』は、『くつ(朽つ)』『くたす(腐す)』と同源。『くたばる』の『くた』も同じ語幹である。『びる』は、悪びれるの古形『わるびる(悪びる)』の『びる』などと同じく、ある状態を言い表す語。漢字で『草臥れる』と 表記するのは、『詩経』にある『草臥(疲れて草に臥すの意)』を慣用したものである。」


とする。ただ,『日本語源大辞典』は,その他に,

クタは朽。ビルはヒルムと同語か(俗語考・和訓栞),
クタ(腐)シブルの義(和訓栞),
クツボレ(朽恍惚),またはクタボレ(腐恍惚)の義(松屋筆記),
クタは芥の義。ヒレはヒレフス(臥)の意(語麓),
クサタフレ(草仆)の略(菊池俗語考),
クサヒラ(草平)の義。ヒラは臥す意(名言通),
クンタイヒレタル(裙帯肩巾垂)の義(春湊浪話),

「草臥」の当て字を前提にした解釈は別として,いずれも,

クタ(朽・腐),

から来ている。『大言海』の説で尽きているようだ。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1

スキル事典;
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2018年01月26日

重忠


岡本綺堂のさりげない地の文に,芝居の薀蓄が散りばめられている。そのことは,「とんだ孫右衛門」の項,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/418161213.html?1430333078

でも,「三つの声」の項,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/418326441.html

や,「喩」の項,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/418053269.html


で,「粟津の木曾殿」について,触れたことがあるが,たまたま,また綺堂の『鎧匱の血』を再読していて,前にはスルーしていた,

「大勢のうちには岩永も重忠もあるのでしょうが」
「重忠ぞろいなら子細はないが岩永が交じっていて野暮にむずかしい詮議をされたら」

などという行りがある。どうやら,歌舞伎の

『壇浦兜軍記』
『景清』

の,畠山重忠と岩永左衛門を指すらしい。歌舞伎に疎い僕にとって馴染みはないが,明治期のひとには,これで十分意が通じたものと見える。それぞれの筋は,

http://enmokudb.kabuki.ne.jp/repertoire/2134
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E6%B8%85_(%E6%AD%8C%E8%88%9E%E4%BC%8E%E5%8D%81%E5%85%AB%E7%95%AA)

に譲るが,詮議に厳しいものと,穏やかなものの喩えとして,これを用いているが,問屋場の役人に荷物を調べられるところの喩えとして,景清(悪七兵衛景清)を詮議する代官重忠と助役の岩永に準えられても,芝居に疎いわれわれにはなかなかぴんと来ない。

「東海道五十三次之内・宮 景清」.jpg

(「東海道五十三次之内・宮 景清」 八代目市川團十郎の景清。東海道五十三次を背景にした見立絵。八代目團十郎は嘉永2年8月、河原崎座で歌舞伎十八番の景清を演じている。三代目歌川豊国画。)


たとえば,泥濘の道に難渋するのを,

「粟津の木曾殿で,大変でしたろう。なにしろここらは躑躅の咲くまでは、江戸の人の足踏みするところじゃありませんよ。」

という言い回しをする。これは,言わずと知れた,粟津で泥田に馬の足を取られて,討たれた木曽義仲を指している。平家物語には,

「木曾殿はただ一騎、粟津の松原へぞ駆け給ふ。頃は正月二十一日、入相ばかりの事なるに、薄氷張りたりけり。深田ありとも知らずして、馬をさつとうち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。」

とある。その他,滑って転んで,

「とんだ孫右衛門よ」

と,『梅川忠兵衛』の実父の名が,ひょいと出る。たとえば,岡本綺堂『半七捕物帳』の「張子の虎」に,

「尻を端折はしょって番傘をさげて、半七は暗い往来をたどってゆくと、神明前の大通りで足駄の鼻緒をふみ切った。舌打ちをしながら見まわすと、五、六軒さきに大岩おおいわという駕籠屋の行燈がぼんやりと点っていた。ふだんから顔馴染であるので、かれは片足を曳き摺りながらはいった。
『やあ。親分。いい塩梅あんばいにあがりそうですね』と、店口で草履の緒を結んでいる若い男が挨拶した。『どうしなすった。鼻緒が切れましたかえ』
『とんだ孫右衛門よ』と、半七は笑った。『すべって転ばねえのがお仕合わせだ。なんでもいいから、切れっ端ぱしか麻をすこしくんねえか』」

これで一定の読者には通じるのである。これは,歌舞伎の『恋飛脚大和往来』,人形浄瑠璃『けいせい恋飛脚』を歌舞伎に脚色したものだが,そこで,通称『梅川忠兵衛』と言われるものからきている。

大坂の飛脚屋亀屋に養子に出した忠兵衛の,実父孫右衛門が,「新口村の場」で,

大坂の飛脚屋亀屋に養子に出した忠兵衛の実父,大和国新口村の百姓孫右衛門が,「新口村の場」で,遊女梅川と逃げてきた忠兵衛が,知り合いの百姓の久六家で,(忠兵衛が店の金を横領して逃げている事は村中に知れ渡っており,庄屋に呼ばれた)忠兵衛の見知った顔が集まるため,ぞろぞろと道を行くのが見える。その最後に孫右衛門が見え,孫右衛門に会うことが叶わぬ忠兵衛と梅川は,遠くから孫右衛門に手を合わせる。すると孫右衛門が凍った道に足をとられ,そ下駄の鼻緒も切れて転んでしまう。忠兵衛は飛び出して助けたいと思っても出て行くことができない。代わって梅川が慌てて走り出て,孫右衛門を抱え起こして泥水のついた裾を絞るなどして介抱する。

と言う見せ場である。その,孫右衛門が転んで鼻緒が切れたことになぞらえて,言っている。しかも,半七は,

「転ばねえのがお仕合わせだ」

と,芝居にかこつけて,もう一つ念押ししている。この喩えの奥行が,すごいと,つくづく思う。

喩は,『大言海』には,

意の述べ尽くしがたき,或いは露わに言い難きを,他の物事を借り比べせて云う。
他事に擬(よそ)へて言う。

とある。

他のことにことよせて,

言うという意味もあるが,ここでは,前者のことを考えている。「他の物事を借りる」ためには,同じ(丸める)水準にあるものでなくてはならない。そして,その言い換えが,相手に伝わらなくてはならないので,(読み手ないし聴き手が)同じ文脈にいることが暗黙の内になくてはならない。

語源的には,「たとえる」は,

「タテ(立て)+トフ(問う)の下一段化」

で,対立物を立てて,問い比べる,という意味で,例を挙げて説明する,準える,という意味になる,とある。しかし,例を挙げるのは,具体例,抽象度の高い「概念」を,具体的例示を上げることで,それは,

例える,

であって,喩えるとは違う。僭越ながら,その認識プロセスが混同されている気がする。『古語辞典』には,「喩へ」について,

甲を直接的には説明しがたい場合に,別のものではあるが性質・状態などに共通点をもつ乙を提示し,甲と対比させることによって,甲の性質・状態などを知らせる意,

として,「なぞらえる」を意味として載せている。しかし,「喩ひ」をみると,

たとえ,例。

とある。あるいは,日本語では,

例示の例える
と,
なぞらえる「喩える」が,

混同されている,ということなのだろうか。たとえて言うと,「例える」は,

ツリー状に,上位の(概念の)下に,下位の具体的例示がぶら下がっている,

ということが言えるが,「喩える」は,

「甲」と「乙」(の概念が)が別々のツリーを構成し,その構成員としてぶら下がっている下位の例が,似ている(と対比できている),

というふうに対比できる。そもそも概念が違うのである。

いずれにしても,喩えるとき,その言い換えが,相手に伝わらなくてはならないので,(読み手ないし聴き手が)同じ文脈にいることが暗黙の内になくてはならない。その意味では,歌舞伎が共通言語にないとき,それが喩として使えないのはやむを得ないのかもしれない。

参考文献;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E6%B8%85_(%E6%AD%8C%E8%88%9E%E4%BC%8E%E5%8D%81%E5%85%AB%E7%95%AA)
http://enmokudb.kabuki.ne.jp/repertoire/2134
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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2018年01月27日

へたばる


「くたびれる」で,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/456430348.html?1516825038

で,

つかれる→くたびれる→へたばる(へばる)→くたばる,

と疲労度が増していく表現に触れたが,「へたばる(へばる)」以外は,

朽ち,
腐ち,

とつながっていた。では,

へたばる,
へたる,

の「へた」はどこから来たか。

へばる,
へたばる,
へたる,

は同じ意味に使われるが,どう違うのか。「へばる」は,

そばを離れずに居る
衣服などが体にぴったりつく,ひっぱられる,
つかれきる,へたばる,

で,「へたばる」は,

ひれ伏す,平伏する,
弱って座り込む,

という意味である。「へたる」は,

尻もちをつく,へたばって坐り込む,
(他動詞的に)倒す,借金などを踏み倒す,

という意味になる。

「へばる」は,張り付く意味で,それに準えて,地に張り付く,へたり込む,といった意味に広げられたのだと想像される。「へたばる」も,平伏する,這いつくばる,地に這いつくばる,ということに準えて,へたり込む意になったと想像される。「へたる」は,まさに尻もちをついた姿に準えて,へたり込む意になったと想像できる。

『日本語源広辞典』は,「へたばる」を,

「ヘタ(べったりと)+バル(平伏する)」

としているが,「ばる」は,体言について,そのものの性質のように振る舞う,とあり(『広辞苑』),「四角ばる」「しゃっちょこばる」等々と同様に,「へたばる」を「へたった状態」と見ることもできる。『大言海』は,「へたばる」を,

「平張」

と当て,

「地べたへ開張(はる)の意」

としているが,ちょっと難がある。『日本語源広辞典』は,「へたり込む」は,

「ヘタリ(べったりと)+こむ(すわりこむ)」

とし,「へたる」を,

へたばるの簡約形,

としている。しかし,

へたばる,
へたる,
へたり込む,

の「へた」は,擬態語,

へたへた,

から来ていると思われる。『擬音語・擬態語辞典』は,「へたへた」について,

「気力や体力を使い果たして急に力が抜け,崩れ落ちるようにその場に腰を落としてしまう様子」

とし,

「室町時代から見られる語で,古くは『へた』『へった』『へったり』ともいった。ただし『日葡辞典』の『へたへたと,またはへたと』の項に『幅広なものが平らに落ちる様子・当たる様子』という解説があり,現代よりも表す範囲が広かったと考えられる。なお疲れて音をあげる意の『へたばる』『へたる』は,この『へた』から派生した語」

とある。で,類語「へなへな」と「へとへと」との関係を,

「『へなへな』も疲れる様子を表すが,弱々しく左右によろめきながら,倒れる感じがある。『へとへと』は疲れ果てて体中から力が抜けるような感じを表すが,腰を落とすとは限らない。」

とあるので,

へなへな→へとへと→へたへた,

という順で疲れ度があがる,ということか。なお,「くたくた」と比較すると,

「『くたくた』は肉体的な疲労でなくてもよい点で『へとへと』とはことなる。」

とある。さらに,「ばてばて」は,

「体力がなくなったことに重点を置く『へとへと』に対して,『ばてばて』は,途中で体力がなくなることに重点を置く」

とある。とすると,

くたくた→ばてばて→へなへな→へとへと→へたへた,

という感じになろうか。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

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2018年01月28日

ばてる


「ばてる」は,

疲れてぐったりする,疲れて動けなくなる,

という意味であるが,「ばてばて」という擬態語があり,『擬音語・擬態語辞典』には,「くたくた」と比較して,「ばてばて」は,

「体力がなくなったことに重点を置く『へとへと』に対して,『ばてばて』は,途中で体力がなくなることに重点を置く」

とある。てっきり,この「ばてばて」から,「ばてる」がきたものと思ったが,『広辞苑』には,

「『果てる』の転か。もとスポーツや競馬で用いた語」

とある。

http://yain.jp/i/%E3%81%B0%E3%81%A6%E3%82%8B

にも,

「『疲れ果てる』の『果てる』が語源で、意味を強めるために濁音にしたと考えられる。」

とある。『日本語源広辞典』も,同じく,

「『果てる』の音韻変化でバテルです。労働で汗を流しすっかり疲れてぐったりする意です」

とある。

http://zatsugakuki.blog78.fc2.com/blog-entry-389.html

には,「バテる」の語源を,

省略説 「疲れ果てる」の「果てる」が「ばてる」に変わったという説。
競馬用語説 走っていた馬が疲れて足がもつれることを「ばたばたになる」と言う。それが縮まり「ばてる」になったという説。

と二説が載っていたが,どうもやはり,

果てる,

に軍配が上がりそうである。『岩波古語辞典』は,「果て」「泊て」とあてて(下二段活用),

「時の流れとともに一つの路線を進んでいる物事の成りゆきが,いつの間にか限界・終極に達する意。類語ヲワリ(終)は,時間とともに展開することが一つ一つ順次なしとげられて,完結する意」

とあり,「果てる」は,不意にやってくる感が強そうだ。『大言海』は,「果つ」を,

端(は)を活用す,

とする「端」を見ると,

辺(へ)に通ず,

とある。「辺」をみると,

端方(はしへ)への意と云ふ,

とある。

https://dictionary.goo.ne.jp/thsrs/1415/meaning/m0u/

は,

ばてる,
くたばる,
へたばる,
へばる,

を比較し(類語例解辞典),

「四語ともくだけた会話の中で、ほぼ同じような意味合いで使われるが、『へたばる』には力が抜けたり、疲れ果てたりして座り込むという意味もある。」

とした上で,次のような 「対比表」をまとめている。

強行軍で………暑さで……疲れてその場に…
ばてる  ○……○…………-
くたばる ○……○…………-
へたばる○……○…………○
へばる  ○……○…………-

「へばる」と「へたばる」は,「へたへた」から来ている。「ばる」は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/456476232.html?1516997773

で触れたように,「しゃっちょこばる」「四角張る」のように,状態を指すので,語感は「へばる」の方が付かれている感じがあるが,同列かもしれない。

「くたびれる」

http://ppnetwork.seesaa.net/article/456430348.html?1516825038

で触れたように,この関係は,

つかれる→くたびれる→へたばる(へばる)→くたばる,

と疲労度が増していくのを比較してみたが,「くたばる」が,

「クタクタ+ヘタバルの混淆語」

で,「へたばる」は,

ひれ伏す,平伏する,
弱って座り込む,

という意味なので,「ばてる」は,

くたびれる→へたばる(へばる),

の間ではなく,

へたばる(へばる)→くたばる,

の間で,

つかれる→くたびれる→へたばる(へばる)→ばてる→くたばる,

という感じであろうか。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1

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2018年01月29日

パラレルワールド


種村季弘編『日本怪談集』を読む。

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本書は,折口信夫から,森鴎外,三島由紀夫,芥川龍之介,泉鏡花,正宗白鳥,岡本綺堂,佐藤春夫,森銑三,吉田健一,澁澤竜彦,吉行淳之介,柴田錬三郎,筒井康隆,半村良,藤沢周平等々明治以降の作家の怪異小説を集めたものだ。

「怪を志(しる)す」

のは,中国伝来で,以来,様々な妖怪譚がある。

「妖怪の基本は,…二種類以上の動物が一つになった場合で,《鵺(ぬえ)》にその一典型をみる。」

という説もあるが,幽霊,妖怪,魔物などを含めて,「妖怪」は,

「日本で伝承される民間信仰において、人間の理解を超える奇怪で異常な現象や、あるいはそれらを起こす、不可思議な力を持つ非日常的・非科学的な存在のこと。妖(あやかし)または物の怪(もののけ)、魔物(まもの)とも呼ばれる。」

と一括りにしておく。僕は,怪異との出会いは,

接近遭遇,

であり,異界は,

パラレルワールド,

だと思っている。宇宙論が,あの世や幽界・霊界とつながることについては,コナン・ドイルのスピリチュアリズムについて触れた,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/441553477.html

や,あの世を量子論からアプローチした,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/416694519.html

で触れた。なお宇宙論のパラレル・ワールドについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/416793184.html

で触れている。

異界がパラレルワールドであることを示すのは,筒井康隆の「母子像」だろう。異界へ連れ去られた妻と子を,そこから引き出したのだが,身体だけは,こちらへ取り戻したが,首だけが異界に残り,

「妻の首は,そして赤ん坊の首は,ついに戻ってくることはなかった。首のない妻は,首のない赤ん坊を抱いたまま,一日中あの薄暗い茶の間で,今もひっそりとすわっている。もちろん,そとへでることもない。」

正確には,

「パラレルワールド(parallel world)とは、ある世界(時空)から分岐し、それに並行して存在する別の世界(時空)を指す。並行世界、並行宇宙、並行時空ともいう。
『異世界(異界)』、『魔界』、『四次元世界』などとは違い、パラレルワールドは我々の宇宙と同一の次元を持つ。SFの世界でのみならず、理論物理学の世界でもその存在の可能性について語られている。」

だそうだが,宇宙論の相互の宇宙は,出会うことはない。一説には,人が,何かをして,選択する度に,別の選択をした世界とは,平行線世界として分岐するという。これは,異世界とも同じだ。

吉田健一「化けもの屋敷」は,パラレルワールドそのものだ。同じ屋敷に,以前の家族と同居している。

「日が暮れると木山がゐる所にだけ電気を付けてさうすると電気が付いていない座敷の方で人の話し声が殊の外賑やかになるやうだつた。或は確かに賑やかになつてそこまでせ行つてみれば電気も付いてゐるのではないかといふ感じがした。併しそれで木山はその家にゐる何かとの最初の問題にぶつかつてそれは木山はその家にゐるのが自分だけではないことを知ってゐてもその何かの方は木山がそこに移つて来たことに気が付いてゐるのだらうかといふことだつた。もし気が付いてゐなければ他人でそれが集まつてゐなければ他人でそれが集まつてゐる中に挨拶もしないで入つて行くのは遠慮しなければならないことだった。又挨拶をするとしてその時に何と言つたらばいいのか。木山はそれまでただ簡単に人間か人間と見ていいものと考へてゐたのだつたがまだ木山はさういふものと付き合つたことがなかつた。」

この主人公の構えの何というか,ユーモラスさが,全体の特徴で,そこで老人を見かけるのだが,

「そこの家の家の人達は先づ眼に見えないでゐるのが普通のやうでその一人が木山の前に姿を現したのは好意からのこととしか思へなかつた。」

という感慨は,ちょっとユニークといっていい。それが「化けもの屋敷」というタイトルとは異なる和やかな雰囲気を醸し出している。

このアンソロジーの中の傑作は,稲垣足穂の「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」であろう。この元となったのは,堤邦彦『江戸の怪異譚―地下水脈の系譜』(http://ppnetwork.seesaa.net/article/432575456.html)でも触れた,

「江戸時代中期の日本の妖怪物語『稲生物怪録』に登場する妖怪。姓の『山本』は、『稲生物怪録』を描いた古典の絵巻のうち、『稲生物怪録絵巻』を始めとする絵巻7作品によるもので、広島県立歴史民俗資料館所蔵『稲亭物怪録』には『山ン本五郎左衛門』とある。また、『稲生物怪録』の主人公・稲生平太郎自身が遺したとされる『三次実録物語』では『山本太郎左衛門』とされる」

話が基ネタである。まだ元服前,十六歳の「稲生平太郎」が,我が家に出没する妖怪変化に対応し,大の大人が逃げたり寝込んだりする中,「相手にしなければいい」と決め込んで,ついに一ヶ月堪え切り,相手の妖怪の親玉,山ン本五郎左衛門をして,

「扨々,御身,若年乍ラ殊勝至極」

と言わしめ,自ら名乗りをして,

「驚かせタレド,恐レザル故,思ワズ長逗留,却ッテ当方ノ業ノ妨ゲトナレリ」

『稲生物怪録絵巻』.jpg

(『稲生物怪録絵巻』。向かって左が山本五郎左衛門。向き合っているのは平太郎、その上には彼を守る冠装束の氏神の姿が見える。)


と嘆いて,魔よけの鎚を置き土産に,供廻りを従えて,雲の彼方へと消えていく。この,肝競べのような話が,爽快である。

五郎左衛門と妖怪たちの帰還の場面。.jpg

(『稲生物怪録絵巻』。五郎左衛門と妖怪たちの帰還の場面。駕籠からはみ出している巨大な毛むくじゃらの脚が、魔王としての五郎左衛門の真の姿と見られている)

その他,「くだん」

http://ppnetwork.seesaa.net/article/456407720.html

で触れたように,小松左京「くだんのはは」,内田百閒「件」と,妖怪「くだん」をめぐる話も面白い。掉尾を飾る,折口信夫の「生き口を問ふ女」は,未完ながら,関西弁の語り口が生き生きとして,さてどうなると,気にかかる。

くだん.jpg

(倉橋山の件を描いた天保7年の瓦版)


参考文献;
種村季弘編『日本怪談集上・下』(河出文庫)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E4%BA%94%E9%83%8E%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%96%E6%80%AA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%AC%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89
阿部正路『日本の妖怪たち』 (東書選書 )
堤邦彦『江戸の怪異譚―地下水脈の系譜』(ぺりかん社)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B6

ホームページ;
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スキル事典;
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2018年01月30日

つらつら


「つらつら」は,

熟々,
倩々,

と当てて,

つくづく,
よくよく,
念入りに,

という意味である。「熟」という字は,

「享は,郭の字の左側の部分で,南北に通じた城郭の形。つき通る意を含む。熟の左上は,享の字の下部に羊印を加えた会意文字で,羊肉にしんを通すことを示す。熟は丸(人が手で動作するさま。動詞の記号)と火を加えた文字で,しんに通るまで軟らかくすること」

とある。「熟」は,

煮る,
とか,
熟れる,

という意味だが,

熟考,
熟視,

といった,「つらつら」と同じ,「奥底まで詳しいさま」の意でも使う。この当て字は慧眼である。

https://okjiten.jp/kanji971.html

によると,「熟」の字は,

熟.gif


「会意兼形声文字です(孰+灬(火))。『基礎となる台の上に建っている。先祖を祭る場所の象形と人が両手で物を持つ象形』(『食べ物を持って煮て人をもてなす』の意味)と『燃え立つ炎』の象形から、『よく煮込む』を意味する『熟』という漢字が成り立ちました。」

とある。ついでながら,「倩」の字は,

「『人+音符靑(セイ)』で,清らかにすんだ人のこと」

で,どうも「すっきりした男」「いきなさま」の意味以外ではなく,「つらつら」の意で使うのは,我が国だけのことらしい。何が曰くがあってこの字を当てたのだろうか。

『大言海』も「倩」の字を当てているが,

「連々(つらつら)の義,絶えず続きての意」

とし,

名義抄「倩 ツラツラ」「熟 つらつら」

を引用している。さらに,

「遊仙窟(唐,張文成廿六)『新婦錯大罪過,因廻頭熟視下官曰,新婦細見人多矣』」

を引きつつ,

熟視(つらつら),
細見(つらつら)

と,ルビを振っている。『岩波古語辞典』は,「つらつら」を,「よくよく」の意で,

名義抄「熟 ツラツラ・コマヤカニ・クハシ」「細 コマヤカナリ・クハシ」

とより精しく引用した上で,他に,

すらすら,

の意を載せ,

「御涙にぞむせびつつ,つらつら返事もましまさず」(浄瑠璃・むらまつ)

を引用する。もし「つらつら」が,「連々」とするなら,

「つらつら返事もましまさず」

という使われ方はあり得る。『日本語源広辞典』は,

「『連ね連ね』の約です「連連(つらつら)が語源」

とする。『日本語源大辞典』は,大言海説の他,

ツラツラ(連々)の義。不断の意から転じた(日本古語大辞典=松岡静雄),

も載せる。他に,

ツヅラ(蔓)から派生した語(国語溯原=大矢徹),
ツラはツレア(連顕)の約(国語本義),

と,「連」と関わる説が多い。この他の説は,

ツラは,ツヨシ(強)のツヨ,ツユ(露),ツラ(頬・面)と同源(続上代特殊仮名音義=森重敏),

がある。つなみに,「つら(面)」も,『日本語源広辞典』によれば,

「『ツラ(頬)』です。ヨコッツラ,ウワッツラ,左ッツラなど頬の意です」

とあるが,『大言海』の「つら(頬)」の項には,

「左右の連なる意」

とあり,「つら(面)」は,

「つら(頬)の転」

とある。『岩波古語辞典』には,

「古くは頬から顎にかけての顔の側面をいう。類義語オモテは正面・表面の意。カホは他人に見せること,見られることを特に意識した顔面」

とあり,連なる,ということとつながる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)


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2018年01月31日

ぞっこん


「ぞっこん」は,『広辞苑』に,

「底根の転。古くは清音」

とある。室町末期の『日葡辞典』には,

ソッコンヨリマウ(申)ス,

とあるらしい。『岩波古語辞典』には,

「近世初期頃まで清音。『心根』『卒根』と書く」

とある。意味は,

心の底,しんそこ,
全く,すっかり,しんから,

という意味になる。後者は,副詞的に使う場合だが,前の名詞から広がった意味と思われる。だから,

ぞっこん惚れる,

は,副詞的な使い方で,名詞なら,

ぞっこんより惚れる,

となるのかもしれない。しかし,ぞっこん惚れるで,しんそこ惚れる意味になるのには変わらないが。『実用日本語表現辞典』

https://www.weblio.jp/content/%E3%82%BE%E3%83%83%E3%82%B3%E3%83%B3

は,

「心の底から、すっかりという意味。現代では『本気で惚れ込むさま』という意味で使われることが多い。」

としている。『日本語俗語辞典』

http://zokugo-dict.com/15so/zokkon.htm

は,

「主に『ぞっこん惚れ込む』といった言い回しで使われるが、昭和になると『お前にゾッコン』『あの子にぞっこんなんだ』といったように、ぞっこんだけで「ぞっこん惚れ込む(=心の底から惚れ込む)」という意味で使われるようになった。」

としている。『江戸語大辞典』は,「ぞっこん」に,

属魂,

を当てている。

「古くは,『そっこん』と清む。『そくこん』の促音化」

としている。『日本語源大辞典』は,それを「近世の表記」としている。「ぞっこん」と濁音化したことにより,そう当てたものと思われる。

『岩波古語辞典』は,「心根」「卒根」説だが,上記『実用日本語表現辞典』は,

「ぞっこんの語源は『底根(そここん)』であり、「そっこん」とよまれた後、濁音化され「ぞっこん」となったと言われるが、他説ある。」

と,『広辞苑』と同じ「底根」語源説。『由来・語源辞典』

http://yain.jp/i/%E3%81%9E%E3%81%A3%E3%81%93%E3%82%93

も,

「古くは清音で『そっこん』といい、『底根(そここん)』から転じたといわれる。『底』は『奥深いところ』、『根』は『心のもと』という意味があり、もともとは『心の底から』という意味で、嬉しい時や悲しい時などの場面で使われていた。それが次第に、奥深く、心の底から惚れ込んでいる気持ちを表す言葉として使われることが多くなり、『ぞっこん』は、恋愛に関することをいう言葉として定着していった。」

とし,『日本語源広辞典』も,

「『底+根』の湯桶読みです。」

同じである。因みに,湯桶読み(ゆとうよみ)は,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E6%A1%B6%E8%AA%AD%E3%81%BF

に,

「日本語における熟語の変則的な読み方の一つ。漢字2字の熟語の上の字を訓として、下の字を音として読む『湯桶』(ゆトウ)のような熟語の読みの総称である。(中略)これに対して、上の字が音読みで下の字が訓読みのものを重箱読みという。」

とある。

朝晩(あさバン),雨具(あまグ),豚肉(ぶたニク),鳥肉(とりニク),

等々がある。

『日本語源大辞典』は,「底根」説以外に,

ジュコン(種根)の訛(松屋筆記),

を挙げるが,『大言海』は,「ぞっこん」に二項立て,心底の意の「ぞっこん」以外に,

「シュコン(種根)の訛ならむか」

として,

根本,種姓(スジョウ),

の意を載せる「ぞっこん」の項がある。

「成景は,京の者,熟根(じゅっこん)賤しき下﨟なり」(平家物語)

の用例から見ると,「ジュコン(種根)の訛」とする「ぞっこん」は音は似ているが,別の言葉ではあるまいか,濁音化が中世にまで遡るのだから。

『語源由来辞典』

http://gogen-allguide.com/so/zokkon.html

は,「ぞっこん」の「底根」説に対して,

「ぞっこんは、古くは清音で『そっこん』と言い、1603年の『日葡辞書』には『心底』の意味で『ソッコンヨリモウス』の例が見られる。このことから、ぞっこんの語源は、『底根(そここん )』が促音化された『そっこん』が、更に濁音化して『ぞっこん』になったと考えられる。ただし、『底根』は『底つ根』としての例は見られるが、『そここん』と読まれた例はないため、決定的な説ではない。なお、『底つ根』の『つ』は『の』で『底の根』、つまり『地の底』の意味である。漢字表記は『底根』と『属懇』が近世に見られるが、『属懇』は『ぞっこん』の音による当て字であろう。ぞっこんは、『心の底から』以外に、『すっかり』や『まったく』などの意味でも用いられたが、『ぞっこん惚れ込む』などと表現されることが多く、現代では主に、『本気で惚れ込むさま』を表す言葉となった。」

として,しかし,

底根→そここん→そっこん→ぞっこん,

という転訛例はないので,保留としている。『日本語の語源』は,音韻変化から,

「『心の底から』の省略語であるソコカラ(底から)は,コカ〔k(o)ka〕が母韻[o]を落としてソッカラになり,さらに『カ』の母韻交替[au],『ラ』の撥音化でゾッコンになった。」

と,

ソコカラ→ソッカラ→(ソッコン)→ゾッコン,

の転訛を主張している。この説ならば,『語源由来辞典』の疑問は解けることもあるが,意味の変化がなく今日に続くところから,ちょっと惹かれる。どうであろうか。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1

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ラベル:ぞっこん
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