2018年02月13日

世界像


石川淳『森鷗外』を読む。

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本書では,

「人物を論じない。伝記にたらない。官人としての事績をさぐらない。時代に係合を附けない。文学史に触れない。衛生学の仕事に係らない。芝居の仕事を追わない。美術の仕事を述べない。翻訳の仕事を記さない。」

と著者は書く。書いたのは,「小説とは何か」である。それは鷗外を語りつつ自らのそれを語っているかの如くである。

冒頭は,有名な書き出しである。

「『抽斎』と『霞亭』といずれを取るかといえば,どうでもよい質問のごとくであろう。だが,わたしは無意味なことはいわないつもりである。この二編を措いて鷗外にはもっと傑作があるとおもっているようなひとびとを,私は信用しない。『雁』などは児戯に類する。『山椒大夫』に至っては俗臭芬芬たる駄作である。『百物語』の妙といえども,これを捨てて惜しまない。詩歌翻訳の評判ならば,別席の閑談にゆだねよう。
 『抽斎』と『霞亭』と,双方とも結構だとか,撰択は読者の趣味に依るとか,漫然とそう答えるかもしれぬひとびとを,わたしはまた信用しない。この二者撰一に於いて,撰ぶ人の文学上のプロフェッシオン・ド・フォアが現れるはずである。では,おまえはどうだときかれるであろう。ただちに答える。『抽斎』第一だと。そして附け加える。それはかならずしも『霞亭』を次位に貶すことではないと。」

これは,

「『澀江抽斎』に引きつづき『伊沢蘭軒』『北條霞亭』の三篇は一個の非凡の小説家の比類なき努力の上に立つ大業であって,とても傍観者などというなまぬるい規定をもって律しうるようなものではない。(中略)ひとが鴎外に期待したであろうとはちがったところに,努力が突き抜けて行った。したがって『澀江抽斎』以後の仕事に対して当時の世評は香しくない。青山胤通は『つまらぬものを書く』といったそうである。青山ばかりではなく,新聞社宛には悪罵の投書が殺到したという。肝腎の文壇批評家諸君は手のつけようを知らず,そっぽをむいていたかと見える。中には,あれは小説ではないといって,眼をつぶって安心していた小説家先生もあったかもしれない。おおかた自分の書くうすぎたない身上噺のほうがよほど斬新で深刻な芸術だとでも思っていたのであろう。」

等々という,ある意味鷗外の『澀江抽斎』以降の「世評は香しくない」鷗外観への挑戦状である,とも言える。それはまた,「小説とは何か」ということを問いかけてもいる。そして,言う。これは,

「小説概念に変更を強要するような新課題が提出」

されており,

「小説家鷗外が切りひらいたのは文学の血路である」

と。それは,

「鴎外の感動は怒号をもって外部に発散していく性質のものではない。それはひとに知れたとき云訣しなくてはならなかったほど,ひっそりと内部に沈潜する底のものであったが,そこからおこった精神の運動が展開して行ったさきは小宇宙を成就してしまった。なにか身にしみることがあってたちまち心あたたまり,からだがわれを忘れて乗り出して行き,用と無用とを問わず,横町をめぐり溝板をわたるように,はたへの気兼で汚されることのない清潔なペンがせっせとうごきはじめると,末はどんな大事件をおこすに至るか。仕合せにも『抽斎』一篇がここにある。出来上がったものは史伝でも物語でもなく,抽斎という人物がいる世界像で,初めにわくわくしたはずの当の作者の自意識など影も見えない。当時の批評がめんくらって,勝手がちがうと憤慨したのも無理はない。作品は校勘学の実演のようでもあり新講談のようでもあるが,さっぱりおもしろくもないしろもので,作者の料簡も同様にえたいが知れないと,世評が内内気にしながら匙を投げていたものが,じつは古今一流の大文章であったとは,文学の高尚なる論理である。」

鍵は,作品の「世界像」である。こう続けている。

「鴎外みずから『敬慕』『親愛』と称しているところの,抽斎という人間への愛情が作品においてどんなはたらきをしているか。鴎外はその愛情の中に自分をつかまえることによって書き出したのではあったが,またその中に自分を取り落すことに依って文章の世界を高次に築き上げている。(中略)
 抽斎への『親愛』が氾濫したけしきで,鷗外は抽斎の周囲をことごとく,凡庸な学者も,市井の通人も,俗物も,蕩児も,婦女子も,愛撫してきわまらなかった。『わたくし自身の判断』を支離滅裂の惨状におとしいれてしまうような,あぶない橋のうえに,おかげで書かれた人物が生動し,出来上がった世界が発光するという稀代の珍事が現出した。そして,このおなじ地盤のうえに,鷗外は文章を書く新方法を発明したはずである。」

しかし面白いことに,鷗外自身はその新地平について気づいていない。

「鷗外自身は前期のいわゆる小説作品よりもはるかに小説に近似したものだとは考えていなかったようである。たしかに従来の文学的努力とは性質のちがった努力がはじめられていたにも係らず,そういう自分の努力と小説との不可分な関係をなにげなく通り越して行ったらしい点に於て,鷗外の小説観の一端がうかがわれるであろう。それはまたこの偉大な功業を立てた文学者の論説中小説論の見るべきものがない所以であろう。」

著者は,こう評する。

「『抽斎』『蘭軒』『霞亭』はふつう史伝と見られている。そう見られるわけは単にこれらの作品を組み立てている材料が過去の実在人物の事蹟に係るというだけのことであろう。いかにも史伝ではある。だが,文章のうまい史伝なるがゆえに,ひとはこれに感動するのではない。作品の世界を自立させているところの一貫した努力がひとを打つのみである。」

その小説観の一端は,「追儺」という作品について,こう書くところに表れている。

「作者はまず筆を取って,小説とはどうして書くものかと考え,そう考えたことを書くことからはじめている。ということは,頭脳を既成の小説概念から清潔に洗っていることである。(中略)前もってたくらんでいたらしいものはなに一つ持ちこまない。…味もそっけも無いようなはなしである。…しかし『追儺』は小説というものの,小説はどうして書くかということの,単純な見本である。これが鷗外四十八歳にして初めて書いた小説である。文豪の処女作たるに恥じない。」

そして,鷗外の小説は,『追儺』から数える,という。そう考えて初めて,最後の作品『北條霞亭』について,こう評することと対になる。

「鷗外六十歳,一世を蓋う大家として,その文学的障害の最後に,『霞亭生涯の末一年』に至って初めて流血の文字を成した。作品の出来ばえ,稟質才能の詮議は別として,右は通常これから小説に乗り出そうというすべての二十代の青年が立つであろう地点である。」

それにしても,石川淳は,鷗外に対する敬愛なみなみならない。かつて,その愚作ぶりにあっけにとられた『大塩平八郎』についても,

「『大塩平八郎』は低級無力なる作品である。それにしても,不思議なことに,鷗外のような高い意識と強力な手腕とをそなえた傍観者の著実な仕事に俟たなければ,こう別誂えに低級無力には出来上らない。これは漫然と不思議だということにしておく。」

と評する。「低級無力」とは最大限の罵倒であるが,どこかでその底をみきわめたやさしさがある。かつて,

「むかし,荷風散人が妾宅に配置した孤独はまさにそこから運動をおこすべき性質のものであった。これを芸術家の孤独という。はるかに年をへて,とうに運動がおわったあとに,市川の僑居にのこった老人のひとりぐらしには,芸術的な意味はなにも無い。したがって,その最期にはなにも悲劇的な事件は無い。今日なおわたしの目中にあるのは,かつての妾宅,日和下駄,下谷叢話,葛飾土産なんぞにおける荷風散人の運動である。日はすでに落ちた。もはや太陽のエネルギーと縁が切れたところの,一箇の怠惰な老人の末路のごときは,わたしは一燈をささげるゆかりもない。」(「敗荷落日」)

と,痛罵したのと対比すれば,明らかである。著者は,リルケに準えて,

「鷗外もまた手の甲の強靭な,てのひらの柔軟な抒情詩人」

というのが,著者の鷗外像らしい。死の直前まで,おのれの血を流す羽目になりながら,「小説の血路」を開き続けた鷗外へのオマージュである,だけでなく,鷗外を出汁にして,石川淳自身の小説観そのものを再構築していくプロセスでもあるように見える。突飛なことを言うようだが,石川淳の『佳人』『普賢』は,どこやら,『澀江抽斎』のパロディにも見えなくもないのである。

参考文献;
石川淳『森鷗外』(ちくま学芸文庫)


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posted by Toshi at 05:16| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする