2018年03月05日

ポリフォニー


ミハイル・ミハイロヴィチ・バフチン『ドストエフスキーの詩学』を読む。

ドストエフスキーの詩学.jpg


著者は,ドストエフスキーの小説を,

ポリフォニー小説,

と名づけたことで知られている。ポリフォニー (polyphony) とは,音楽用語で,

「複数の独立した声部(パート)からなる音楽のこと。ただ一つの声部しかないモノフォニーの対義語として、多声音楽を意味する。(中略)ポリフォニーは独立した複数の声部からなる音楽であり、一つの旋律(声部)を複数の演奏単位(楽器や男声・女声のグループ別など)で奏する場合に生じる自然な「ずれ」による一時的な多声化はヘテロフォニーと呼んで区別する。」

で,それに準えて,

「それぞれ独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識,それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる」

ドストエフスキーの小説の多声性をそう名づけた。あるいは,同じことだが,

対位法,

にも準える。つまり,ポリフォニー音楽についての理論である「対位法」とは,

「ポリフォニー音楽においては、それぞれの声部が奏でる旋律は独立性を持っている。そのため、和声法によるホモフォニー音楽よりも各声部の旋律の流れに重きを置いている。和声法が主に、楽曲に使われている個々の和音の類別や、それらの和音をいかに経時的に連結するかを問題にするのに対し、対位法は主に『旋律をいかに同時的に堆積するか』という観点から論じられる。」

であり,ドストエフスキーの小説の構造である,

多声性,
多重性,
多元性,

と,リンクしている,という考え方である。そこには,従来の小説を,

モノローグ小説,

として,対比させるというところにも通じる。

ドストエフスキーの小説は,対話で成り立つ。

「実際ドストエフスキーの本質的な対話性は,けっして彼の主人公たちの外面的な,構成的に表現された対話に尽きるものではない。ポリフォニー小説は全体がまるこど対話的なのである。小説を構成するすべての要素間に対話的関係が存在する。すなわちすべてが対位法的に対置されているのである。そもそも対話的関係というものは,ある構成のもとに表現された対話における発言同士の関係よりももっとはるかに広い概念である。それはあらゆる人間の言葉,あらゆる関係,人間の生のあらゆる発露,すなわちおよそ意味と意義を持つすべてのものを貫く,ほとんど普遍的な現象なのである。」

そして,ドストエフスキーの

「小説においては,その外面と内面の部分や要素の関係すべてが対話的な性格を持っている。つまり小説全体を彼は《大きな対話》として構成したのである。この《大きな対話》の内部では,構成的に表現された主人公たちの対話が,《大きな対話》を照らし出すとともに,凝縮するような形で響いている。そしてついにはこの対話は作品の奥深く浸透してゆく。それは小説の一つ一つの言葉に浸透して,それを複声的なものとし,また主人公たちの個々の身振りや表情の物真似に浸透して,それがぶつぶつ切れた,ヒステリックなものとするのである。これこそがドストエフスキーの言葉のスタイルの特性を規定する《ミクロの対話》である。」

と要約してみせる。そこにあるのは,外的な人との対話だけではなく,内的に,その人の身振りや口ぶりをなぞっての,内的な対話(自己対話)での内なる他人との対話という,対話の多重性なのである。その時ドストエフスキーにとって関心を引くのは,主人公の持つ

「世界と自分自身に対する特別の視点であり,人間が自身と周囲の現実に対して物意味と価値の立場」

であり,さらに,ドストエフスキーにとって大切なのは,

「主人公が世界において何者であるかということではなく,…主人公にとって世界が何であるか,そして自分自身にとって彼が何者なのか」

なのである。そして,ドストエフスキーが,

「そこで解明し性格づけるべきものは,主人公という一定の存在,彼の確固たる形象ではなく,彼の意識および自意識の総決算,つまり自分自身と自分の世界に関する主人公の最終的な言葉なのである。
 したがって主人公像を形成する要素となっているのは,現実(主人公自身および彼の生活環境の現実)の諸特徴ではなく,それらの諸特徴が彼自身に対して,彼の自意識に対して持つ意味なのである。主人公の確固とした客観的な資質のすべて,すなわち彼の社会的地位,社会学的・性格論的に見た彼のタイプ,習性,気質,そしてついにはその外貌まで―つまり通常作者が《主人公は何者か?》という形でその確固普遍のイメージを形成する際に役に立つすべての事柄が,ドストエフスキーにおいては主人公自身の内省の対象となり,自意識の対象となる。いわば作者の観察と描写の対象とは,主人公の自意識の機能そのものなのである。通常の場合には,主人公の自意識は単に彼の現実の一要素,彼の全一的な形象の一要素に過ぎないのだが,ここでは反対に現実のすべてが主人公の自意識の一要素となるのだ。そこでは,…作者…はすべてを主人公自身の視野に導入し,その自意識の坩堝に投げ込む。そして主人公の純粋な自意識もそっくりそのまま,作者自身の視野の内に観察と描写の対象として残るのである。」

そのとき,「描写される人物に対する作者の位置関係が根本的に新しいもの」となる。

「主人公自身の現実のみではなく,彼を取り巻く外的世界や風俗も,この自意識のプロセスに導入され,作者の視野から主人公の視野の中へと移し換えられる。それらはすでに,作者の単一の世界の中で,主人公と同じ平面上に,彼と並んで,彼の外部に置かれているのではなく,したがって主人公を規定する因果律的・発生論的要因でもあり得ず,作品の中で説明的機能をを担うこともできない。具象世界のすべてを自らに取り込む主人公の自意識と同じ平面にあって,それと並んで存在し得るものは,別のもう一つの意識のみであり,彼の視野に対しては別のもう一つの視野が,彼の世界への視点対しては別のもう一つの視点が,それぞれ併置できるのみである。すべてを飲み込む主人公の意識に作者が対置し得るのは,ただ一つの客観世界,すなわち主人公と同等の権利を持った別の意識たちの世界のみである。」

このことを,ドストエフスキー自身は,

「人間の内なる人間を見出す」

とし,それを「完全なリアリズム」と呼んでいる。それに向き合う作者は,語り手をも,その意識たちと併置される位置におく対話の相手でもある。それは,

「ひたむきに実践され,とことん推し進められれた対話的立場であり,それが主人公の独立性,内的自由,未完結性と未決定性を保証しているのである。作者にとっての主人公とは《彼》でも《我》でもなく,一人の自立した《汝》つまり(《汝あり》という言葉で語られる)もう一人の完全な権利を持つ他者の《我》なのである。主人公は,きわめて真剣な,本当の対話的呼びかけの主体であって,修辞的に演じられる,あるいは文学的な約束事としての対話的呼びかけの主体ではない。そしてこの対話―小説の《大きな対話》の全体―は,過去に起こったことではなく,いま,すなわち創作過程の現在において起こっていることなのである。(中略)
ドストエフスキーの構想の中では,主人公とは自立した価値を持った言葉の担い手であって,作者の言葉のもの言わぬ客体ではない。そして主人公についての作者の言葉は,言葉についての言葉なのである。作者の言葉は,言葉を扱うのと同じように主人公を扱う。つまり彼に対して対話的に向けられるのである。作者はその小説の全構成をもって,主人公について語るのではなく,主人公と語り合う。」

多少,作家と書き手,書き手と語り手をごちゃごちゃにしている嫌いはある(ドストエフスキーは,書き手の位置も,語り手の位置も意識的であるし,いま進行しているように現在進行形で,そこにいる,という設定を意図している[作品は書き終わったところが「いま」であるのだから])が,この作品世界への向き合い方は,的確である。(作家ではなく)語り手は,

主人公について語るのではなく,主人公と語り合う,

は,ドストエフスキーの小説の語りについて的確な言い方である。

対話の歴史的系譜を,もうひとつの概念である「カーニバル文学」を説明するために,「ソクラテスの対話」「メニッポス風刺」と言ったギリシャ由来の経緯をたどって見せるたあと,本書の圧巻は,「第五章 ドストエフスキーの言葉」において,自意識の自己対話,自意識の中の他者との対話,他者そのものとの対話へと転換していく,語りの重層性と,そこでの語りの転位についての分析である。先ず自己対話について,

「主人公の自分自身に対する関係は,彼の他者に対する関係および他者の彼に対する関係と不可分に結びついている。自意識はいつも自分自身を,彼についての他者の意識を背景として知覚する,つまり,《自分にとっての私》は《他者にとっての私》を背景として知覚されるのである。したがって主人公の自分自身についての言葉は,彼についての他者の言葉の間断なき影響のもとで形成されるのである。」

その対話は,

「主人公の自意識の中に彼についての他者の意識が入り込み,主人公の自己言表の中に彼についての他者の言葉が投げ込まれる。次に他者の意識と他者の言葉が,一方では主人公の自意識の主題論的発展やその逸脱,逃げ道,反抗を規定し,他方ではアクセント上の中断,統辞論的逸脱,繰り返し,留保,冗長性を伴った主人公の発話を規定することになるような,独特の現象を引き起こす」

その場合,ポリフォニーとは,自己対話に入り込んだ他者の言葉だけではない。その口ぶりや口癖,喋り方,といった意味でも,多層的なのであり,

「対話は自分自身の声に他者の声による代替を可能」

にしてしまう。たとえば,『分身』のゴリャートキンについて,

「ここでの対話的展開は,(『貧しき人々』の)デーヴシキンの場合より複雑である。デーヴシキンの発話では《他者》と論争していたのは首尾一貫した一つの声であったが,ここで《他者》と論争しているのは二つの声,自信のある,過剰なほど自信たっぷりな声と,過剰なほどびくついた,何事においても譲歩し,全面降伏しようとする声という二つの声だからである。
 他者を代替するゴリャートキンの第二の声,それに,初めは他者の言葉から身を隠そうとするが,(『俺だってみんなと同じさ』『俺は何でもない』),後になってその他者の言葉に降伏してしまう(『俺がどうしたって,そういうことなら,俺にも覚悟はあるさ』)彼の第一の声,そして彼の中で絶えず鳴り響いている純然たる他者の声―この三つの声は,非常に複雑な相互関係にある」

とし,この三つの声,つまり,

「他者と他者の承認なしにはやってゆけない《私のための私》の声であり,虚構としての《他者のための私》(他者の中に投影された私)の声,つまり他者を代替しようとするゴリャートキンの第二の声であり,そしてゴリャートキンの存在を承認しようとしない他者の声」

に加えて,語り手自身が,

「ゴリャートキンの言葉と思想を,つまり彼の第二の声と言葉を借用し,それらの中に装填されている挑発的で嘲笑的な調子を強化しながら,その強化した調子でゴリャートキンの言動の一挙手一投足をえがいている」

のである。語り手の声が,第二の声と融合してしまうことで,

「叙述は,形式的には読者に向けられているにもかかわらず,あたかもゴリャートキン自身に対話的にむけられており,ゴリャートキン自身の耳の中で彼を挑発する他者の声として,彼の分身の声として響き渡っているかのような印象が生まれることになる」

まさに,そこでは,ただ語り手の言葉が主人公に向けられているのではなく,

「叙述の志向性そのものが,主人公に向けられているのである。」

こうした自己対話は,他者との対話として,客体化されたときも,複雑な多声性を醸し出す。たとえば,『カラマーゾフの兄弟』のイワン・カラマーゾフとアリョーシャを例に,

「二人の主人公がドストエフスキーによって導入されるときはいつでも,彼らは,お互いがお互いの声の直接的な化身になることはけっしてないとはいえ…,お互いに相手の内なる声と密かに親密の応答の急所を衝いたり,また部分的にはそれと重なり合ったりするのである。一方の主人公にとっての他者の言葉と,もう一方の主人公の内に秘めた言葉との間の深く本質的な関係あるいは部分的な一本化―それこそが,ドストエフスキーの本質的な対話すべてに不可欠の契機であり,基本的な対話はこの契機を土台として組み立てられている。」

と述べる。

この対話の関係性の中に現実があり,この対話の中にこそ自己がある,ということを,(社会構成主義という)時代に先駆けて,バフチンが,ドストエフスキーの中から探り出した,時代を切り開く視界,といってもいい。

「世界について語っているのではなく,世界を相手に語り合っている」

かのようなドストエフスキーの開いた世界は,いわゆる現実の世界ではない。

言葉のみで成り立っている対話の世界,

である。まさしく,バフチンが掘り起こしたのは,

会話が世界をつくる,

という時代の最先端である。

参考文献;
ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%8B%E3%83%BC

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm

コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1

スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8

posted by Toshi at 05:04| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする