2018年11月01日

いちかばちか


「いちかばちか」は,

一か八か,

と当てる。

運を天にまかせて冒険すること,

の意で,

運否天賦(http://ppnetwork.seesaa.net/article/455489170.html),
のるかそるか(http://ppnetwork.seesaa.net/article/455466721.html),

と同義。それぞれすでに触れたことがある。

「運否天賦」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/455489170.html)で触れことと重なるが,「いちかばちか」には,

『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/i/ichikabachika.html)の言うように,

「一か八かは博打用語で、『一』 は『丁』、『八』は『半』の各漢字の上部分をとったもので、丁半賭博などの勝負を意味していた(ここでの『丁』『半』は奇数・偶数ではなく、漢字のみをさす)。 『一か罰か』の意味 でサイコロの目が一が出て成功するか、外れて失敗するかといったサイコロ賭博説や,『一か八か釈迦十か』といったカルタバクチの用語説もある。」

と,

「(もとカルタ博奕から出た語)運を天にまかせて冒険すること」(『広辞苑第5版』),

の「カルタ博奕」説と,

「『一』は『丁』、『八』は『半』を意味し(丁・半の漢字の上部に一と八が書かれている(隠れている)ため)、丁か半か一挙に勝敗を決することをいった。」(『日本語俗語辞典』http://zokugo-dict.com/02i/ichikabachika.htm),

の「丁半博奕(サイコロ賭博)」説の,二説がある。「サイコロ賭博」説には,異説に,

「一か罰(ばち)かなるべし。博徒より出たる語なると思はる。壺皿に伏せたる骰子(さいのめ)に,一が出るか,失敗(しくじ)るかの意と云ふなるべし。出たとこ勝負,出たら出たら目,などと意通ふ。」(『大言海』)

という「一か罰(ばち)か」の転訛説もある。

『日本語源広辞典』は,この二説をこう説明している。

「説1は『一か八か』です。三枚のカルタばくち,二枚で一と八でカブ(九)の時,三枚目は,釈迦の十が出るのは希である。そこでつぶやく言葉『一か八か釈迦十か』が語源とする説です。
 説2は,壺に伏せたサイコロばくちで,丁半の文字の上部が隠語,丁(一の意),半(八の意)が語源です。そこで,つぶやく『一か八か』『丁か半か』が,語源となったというのです。いずれもハチにはバチ(失敗)の意が掛けてあるのだそうである。」

これだと解りにくいが,「三枚のカルタばくち」というのは,『日本語源大辞典』によると,

「めくりカルタで一から十までの札四十枚を用い,順にめくって手札との三枚の札の合計の末尾の数字が九を最高点とするもの。」

とある。これを見る限り,「バチ(失敗)」かどうかは別として,サイコロではなく,カルタに軍配を挙げたくなる。

「『一か八か』…の表現を用いた過去の用例として、『一かばちか』と『ばち』のみを平仮名表記したものが見られます。『ばち』が『八』であるとの認識があれば、わざわざ平仮名表記が選ばれることに疑問が生じますし、また『八』の語頭が濁音化していることにも疑問が残ります。(中略)以上の点を考えあわせると、もともと『丁か半か』の意味で用いられていた『一か八か』が、『八』と『罰』との語呂合わせの末、『八』の語頭が濁音化したという推論も成り立のではないでしょうか。」(https://www.alc.co.jp/jpn/article/faq/04/90.html

と,サイコロ説を採る意見もあるようにだが,サイコロ賭博には,

一六勝負,

という言葉があって,

サイコロで一が出るか六が出るか,

を賭ける。『大言海』には,

「博奕に,壺皿に伏せたる簺目(さいのめ)に,一が出るか,六が出るか,何れかに賭けて勝負を決すると云ふごなり」

とある。「一六勝負」という言葉があるのに,「一か八か」という言葉はないのではあるまいか。因みに,「一六勝負」とは,

「一と六は賽(さい)の目の裏表であるところから」(『デジタル大辞泉』)

さいころの目に一が出るか六が出るかをかけてする勝負,

である。

このサイコロ博奕の最高なのは,たぶん,

乾坤一擲,

という言葉だろう。「一六勝負」や「一か八か」は,

サイコロを投げて,天が出るか地が出るかを賭ける,

に比べると,ずいぶんしょぼい。

「『乾』は『天』、『坤』は『地』、『乾坤』で『天地』の意味。『一擲』はさいころを投げること。天地をかけて一回さいころを投げるという意味から、自分の運命をかけて、のるかそるかの勝負に出ることをいう。韓愈の詩『鴻溝を過ぐ』の『竜疲れ虎困じて川原に割ち、億万の蒼生、性命を存す。誰か君王に馬首を回らすを勧めて、真に一擲を成して乾坤を賭せん』から。」

とある(http://kotowaza-allguide.com/ke/kenkonitteki.html)。乾坤は,『易経』に,

「乾為天,坤為地」

とあるところから来た。因みに,韓愈の詩『過鴻溝』は,

龍疲虎困割川原
億万蒼生性命存
誰勧君王回馬首
真成一擲賭乾坤

で,漢楚の戦いを詠ったもの。

「丁半博奕の「丁」と「半」という漢字の上部を取った」説を採る『笑える国語辞典』

https://www.fleapedia.com/%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%9F%B3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/%E3%81%84/%E4%B8%80%E3%81%8B%E5%85%AB%E3%81%8B%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B/

は,

「『一か八か』は、人生の大勝負に臨む際に用いられる言葉であるが、丁半博奕を語源にしているとしたら、その勝率は50%であり、通常のギャンブルの中ではむしろ安全な賭けの部類に属する。そんな一発勝負で大きな利益が得られるなら、だれもが『一か八か』の賭けをしたくなるのは無理からぬところだが、勝率50%と考えているのは実は本人ばかりであり、客観的な勝率はよほど低い勝負に臨んでいるというのが『一か八か』の現実ではないかと思われる。」

とまとめている。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2018年11月02日

ばくち


「ばくち」は,

博打,
博奕,

と当てる。『広辞苑第5版』には,

「バクウチの約」

とある。

ooku3_l.jpg

(大奥に奉公する女中の出世がテーマになった双六(『奥奉公出世双六』) https://edo-g.com/blog/2016/03/ooku.html/ooku3_lより)


「博打」を,

バクウチ,

と訓んでの約,と言うことである。「博奕」は,

バクエキ,

とも訓む。『日本語源広辞典』には,

「語源は,『博(双六,囲碁,ばくち)+打(勝負する)』で,バクウチの変化です。博奕とも書きますが,これは紀元前からの中国語で,娯楽の道具が本義」

とあり,中国語由来と知れる。『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/ha/bakuchi.html)は,

「博打は『ばくうち』と呼ばれていたものが変化し,『ばくち』になった。『博』は双六などサイコロを用いた遊びを意味し,金品を賭ける意味を含むことが多かった。『打』は古くから賭け事行うことを意味する『うつ』である。また『博奕』と書くのは中国語からで,『ばくえき』『ばくよう』とも読まれる。同じ意味を持つ『博戯(ばくぎ)』からの転とする説もあるが,このような音変化は他に例がないため定かな説ではない。」

とし,すべてが中国由来とはしていない。

「博」(ハク,バク)の字は,

「会意兼形声。甫は,圃の原字で,平らで,ひろい苗床。それに寸を加えた字(音フ,ハク)は,平らに広げること。博はそれを音符とし,十(集める)を添えた字で,多くのものが平らにひろがること・また拍(ハク うつ)や搏(ハク うつ)に当て,ずぼしにぴたりと打ち当てる意を表す」

で(『漢字源』),確かに,

ばくち,

の意があり,特に,

すごろく(局戯)又それを為す,

とある(『字源』)。

「打」(灯恩ダ,呉音チョウ。漢音テイ)の字は,

「会意兼形声。丁は,もと釘(クギ)の頭を示す口印であった。直角に打ち付ける意を含む。打は『手+音符丁』で,とんと打つ動作を表す。」

とあり(『漢字源』),まさに「打つ」という意味である。どうやら,「うつ」は,日本語で,

「碁・すごろくなどの遊戯を行う」

意らしい。「博」の意味を借りて,

博打ち,

といったものらしい。「博」に絡む字句は,

博奕(ハクエキ) 博は局戯(すごろく),奕は囲碁。転じて俗に,ばくち,賭博の義に用ふ,
博戯(ハクギ) すごろくあそび,
博局(ハクキョク) すごろく,囲碁などの盤。囲碁の類,
博劇(ハクゲキ) ばくちのたわむれ,
博徒(バクト) ばくちうち,

とある(『字源』)。どうやら「博徒」は中国語由来と見える。

「奕」(漢音エキ,呉音ヤク)の字は,

「会意兼形声。亦は,人の両わきをあらわす指事文字で,同じものがもう一つある意を含む。奕は『大+音符亦(エキ)』。

とある(『漢字源』)。「奕」は,

「俗に弈に通じて囲碁の義とす」

とある(『字源』)。「弈」(エキ,ヤク)は,「囲碁」の意である。「奕」は,囲碁を指す。

奕棊(エキキ),

という言葉があり,「碁を打つ」意である。どうやら,「碁」も,博奕まがいと見なされていたようになった気配である。

「日本の賭け事の発祥は、『日本書紀』に『天武天皇ノ一四年(685)、大安殿ニ御シ、王卿(おうけい)ヲシテ博戯セシム』とあり、文中の博戯が双六(すごろく)(盤双六)であったと考えられることを根拠に、7世紀の中ごろ、大陸から双六が伝えられたことに始まるとしている。」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』)

とあるので,

博は局戯(すごろく),奕は囲碁,

の意だから,双六と一緒に「博奕」という言葉,「博」の言葉の意味が伝わったのかもしれないが,賭け事自体は,独自にもっと古くからあったとみていい。それに「博奕」となづけ,「博打ち」と名づけたのは,それ以後のことだろう。それ以前,何と呼んでいたのかは分からない。なにせ文字がなかったのだから文字としては残っていない。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:博奕 博打 ばくち
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2018年11月03日

とばく


「とばく」は,

賭博,

と当てる。『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/to/tobaku.html)は,

「賭博の『賭』には、『かけごと』『かけをする』などの意味がある。賭博の『博』は、双六などサイコロを用いた遊びを意味する。双六の類は金品を賭けて行われることが多いことから、『博』は『賭』と同様に『かけごと』や『ばくち』の意味がある。」

としかかかないが,『日本語源広辞典』は,

「中国語で,『賭(金銭をかける)+博(大いに得る)』が語源です。博奕でどっさり儲けるが語源です」

とする。「博奕(ばくえき)」が中国語であるように,どうやら中国語と関わるようである。

「ばくち」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462516379.html?1541102236)で触れたように,

「博」(ハク,バク)の字は,

「会意兼形声。甫は,圃の原字で,平らで,ひろい苗床。それに寸を加えた字(音フ,ハク)は,平らに広げること。博はそれを音符とし,十(集める)を添えた字で,多くのものが平らにひろがること・また拍(ハク うつ)や搏(ハク うつ)に当て,ずぼしにぴたりと打ち当てる意を表す」

で(『漢字源』),確かに,

ばくち,

の意があり,特に,

すごろく(局戯)又それを為す,

とある(『字源』)。「賭」(漢音ト,呉音ツ)の字は,

「会意兼形声。『貝(財貨)+音符者(集中する,つぎこむ)』」

で,

賭ける,

意,つまり,

金品を出して,勝った者がそれを得る約束で勝負を争う,

意であり,それが転じて,

いちかばちかやってみる,

意になった(『漢字源』)。

賭戯(トギ,賭け事の遊び),
賭賽(トサイ,ばくち),
賭場(トジョウ,ばくち場),
賭坊(トボウ,ばくち場),

という語句があり,「賭場」も,中国由来だが,

とば,

と訓ませる。

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(カルタ賭博と独楽賭博(『金平異国めぐり』) https://japanplayingcardmuseum.com/kansei-karuta-bakuchi-kinnsei/より)

「賭博」は,

「起源は有史以前にさかのぼる。日本では賭け事の偶然性のゆえに,古くは生産を占う年占の一つとしてその方法が利用された。祭礼のときなどに行う綱引きや相撲などの勝負事と相通じるものであった。福引などはもちろん,さいころやかるた,花札などを,金銭や物品を賭けて遊ぶことも,正月や祭礼のときには全国的に普通に行われていた。」

とあり(『ブリタニカ国際大百科事典』),

「《古事記》に秋山之下氷壮夫(あきやまのしたびおとこ)と春山之霞壮夫(はるやまのかすみおとこ)が伊豆志袁登売(いずしおとめ)をめぐり妻争いをし,衣服をぬぎ山河の産物を備えて,かけごとを行ったとある。遊戯としての賭博の初見は,685年(天武14)9月に天武天皇が大安殿に御して王卿らを呼び行わせた博戯で,御衣,袴,獣皮などを下賜した。」

とある(『世界大百科事典 第2版』)。暴論かもしれないが,

盟神探湯(くかだち、くがたち),

と呼ばれた,

「探湯瓮(くかへ)という釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせ、正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うとされる。」

という神明裁判も,一六勝負に似ている。

うけい(うけひ)は、古代日本で行われた占いである。宇気比、誓約、祈、誓などと書く。

うけいの一種,

とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9F%E7%A5%9E%E6%8E%A2%E6%B9%AF)。「うけい」とは,

宇気比,誓約,祈,誓,

等々と書く。

「ある事柄(例えば「スサノオに邪心があるかどうか」)について、『そうならばこうなる、そうでないならば、こうなる』とあらかじめ宣言を行い、そのどちらが起こるかによって、吉凶、正邪、成否などを判断する。」

という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%91%E3%81%84)。いわば,

言と事,

が同源とされるように,言った(誓った)ことが起きる(成否)という前提で成り立つ。いわば,「卜(占)い」も,

賭け,

に似ている。「うらなう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/452962348.html)で触れたように,

「ウラ(心,神の心)+ナウ(事をなす)」(『日本語源広辞典』)

であり,

「占いや占うの『占(うら)』は、『心(うら)』である。『心(うら)』は『表に出さない裏の心』『外面に現れない内心』の意味」(『語源由来辞典』http://gogen-allguide.com/u/uranai.html

を推しはかることになる。因みに,「占」の字は,

「『卜(うらなう)+口』。この口は,くちではなく,あるものある場所を示す記号。卜(うらない)によって,ひとつの物や場所を選び決めること」

「卜」の字は,

「亀の甲を焼いてうらなった際,その表面に生じた割れ目の形を描いたもの。ぼくっと急に割れる意を含む。」

で,「亀卜(きぼく)」の,

「中国古代,殷の時代に行われた占い。亀の腹甲や獣の骨を火にあぶり,その裂け目(いわゆる亀裂)によって,軍事,祭祀,狩猟といった国家の大事を占った。その占いのことばを亀甲獣骨に刻んだものが卜辞,すなわち甲骨文字であり,卜という文字もその裂け目の象形である。亀卜は数ある占いのなかでも最も神聖で権威があったが,次の周代になると,筮(ぜい)(易占)に取って代わられ,しだいに衰えていった。」(『世界大百科事典 第2版』)

ということらしい。やはり,賭けに似ている。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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ラベル:賭博 とばく
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2018年11月04日

とんま


「とんま」は,

頓馬,

と当てるが,当て字である。

のろま,
まぬけ,

の意である(『広辞苑第5版』)。

『大言海』には,

「のろまの転。のろし,とろし。のける,どけるの類」

とある。「のろま」は,

鈍間,
野呂松,

と当てるが,

野呂松人形の略(「のろまは可咲(おかしき)演劇(きょうげん)より発(おこ)る」(文化十一年・古今百馬鹿)),

転じて,

緑青を吹いた銅杓子(かなじゃくし)の形容(「銅杓子かしてのろまにして返し」(明和二年・柳多留)),

さらに,野呂松人形の意味より転じて,

愚鈍なもの,あほう,まぬけ,

さらに,遊里語として,

野暮,

という意味が転じる(『江戸語大辞典』)らしい。このことは,項を改めるとして,しかし『江戸語大辞典』は,「とんま」を,

「飛間(とびま)の撥音便か」

とする。

『由来・語源辞典』(http://yain.jp/i/%E3%81%A8%E3%82%93%E3%81%BE)は,

「鈍い、まぬけなさまをいう形容動詞『とん(頓)』の語幹に、状態を表す接尾語の『ま』がついた語。」

という。「頓」(トン)の字は,「ぬかずく」という意味だが,


「会意兼形声。屯(トン・チュン)は,草の芽がでようとして,ずっしりと地中に根を張るさま。頓は『頁(あたま)+音符屯』で,ずしんと重い頭を地に付けること」

で,

ずしんと頭を地につけてお辞儀をする(「頓首」),
ずしんと腰を下ろす(「困頓(疲れて止まり,動きが取れない)」),
どんと重みをかける(「頓足」),
腰を落ち着ける(「一頓」),

と,「まぬけ」につながる意味はない。「鈍」(呉音ドン,漢音トン)は,「にぶい」意だが,

「会意兼形声。屯(トン・チュン)は,草の生気がこもり,芽をふことするさま。鈍は『金+音符屯』で,金属のかどがずっしりと重く,ふくれてとがっていないこと」

で,

刃物の切れ味が悪い(「鈍刀」),
ずっしりしていて,動作がおそい,のろま(「遅鈍」),

等々,むしろ言うなら,「鈍(トン)間」ではないか。『日本語源広辞典』は,

「ノロマの当て字の『鈍間』を読み誤ったものの変化」

としている。これならわかる。

『日本語源大辞典』には,

ノロマの転訛説(『大言海』),
トビマ(飛間)の撥音説(『江戸語大辞典』),

以外に,

トンは,トンキョウ・トンテキ(頓的・頓敵)・トンチキなどのトンと同じか(語源辞典・形容動詞篇=吉田金彦),

がある。似たものに,「とんちんかん」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/420538148.html)で触れた,

「トント(とんと)+マ(のろま)」

というのもある。

「とんちき」は,

「擬人名『頓吉(とんきち)』の転」

とある。『日本語源大辞典』は,

頓痴気の義(大言海),
擬人名「とん吉」のキチを逆倒した語(江戸語大辞典),
トン(頓)テキ(的)の変化か(暮らしのことば語源辞典),

と載る。どうも,『江戸語大辞典』の説明が正確である。

「擬人名語『とん吉』のキチを逆倒した語。こん吉をこんちきという類」

とした上で,

①とんま,まぬけ。芝居隠語から出て明和初頃から流行語となる。
②深川の岡場所語。きざな半可通や野暮な客を罵って言う語。他の岡場所にも広がったが,ついに,①(の意味)と混交するに至る。
③とんだ,

という意味の流れをませる。どうも,「とんま」の「とん」の嘲る意味が先にあって,その「とん」を揶揄して,

とん吉,

と擬人化し,

とんちき,

となったように思える。

とんてき,

も同様に,「とんま」を前提にしている。こう考えてくると,億説だが,

鈍間(とんま)→とんま→頓間,

という流れが妥当に思える。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2018年11月05日

のろま


「とんま」は,

のろまの転,

と,『大言海』はした。その「のろま」は,

鈍間,
野呂松,

と当てるが,『江戸語大辞典』は,

野呂松人形の略(「のろまは可咲(おかしき)演劇(きょうげん)より発(おこ)る」(文化十一年・古今百馬鹿)),

転じて,

緑青を吹いた銅杓子(かなじゃくし)の形容(「銅杓子かしてのろまにして返し」(明和二年・柳多留)),

さらに別に,野呂松(野呂間)人形の意味より転じて,

愚鈍なもの,あほう,まぬけ,

さらに,遊里語として,

野暮,

という意味が転じたとする。野呂松人形の意味より転じたとする説は,

「寛文・延宝頃,江戸の人形遣い野呂松勘兵衛が遣い始めたという,靑黒い変てこな顔つきの道化人形,滑稽な狂言を演じた」

というもので,この人形は,

「頭が平たく,顔が靑黒い愚鈍な容貌の古人形」

で,それに基づいて,

気のきかぬこと,
まぬけ,

の意に転じたとする。『江戸語大辞典』は,さらに,「野呂松人形」の項で,

「江戸和泉太夫座で野呂松(のろまつ)勘兵衛が遣い始めた操り人形。頭部扁平で顔面靑黒く,道化役を演じた。間の狂言で鎌斎左兵衛の遣う人形の賢役なるに対し,これは愚昧な人物を演じたので,ついに野呂松(のろま)が愚者の異称となったという」

と,念押ししている。

しかし,『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/no/noroma.html)が,

「のろまは、江戸の人形遣い野呂松勘兵衛が演じた『間狂言』の『野呂間人形(のろまにん ぎょう)』に由来する。『野呂間人形』は平らで青黒い顔をし愚鈍な仕草をする滑稽な人形 なので、『のろま』になったとするものである。 『野呂松』や『野呂間』とも書くことから、『野呂松人形』の説は喩力と考えられる。」

としつつ,

「『のろ』は速度や動きが遅いことを意味する形容詞の『鈍(のろ)し』、『ま』は状態を表す接尾語『間』とする説もある。『のろろする』など動作が遅いことには『のろ』が用いられる」

とも付言している。『日本語源広辞典』は,その「のろ」を採る。

「ノロマのノロは,ノロイで,速度の遅い意です。ノロマは,『ノロ(形容詞ノロイの語幹)+マ(者の接尾語)』」

とする。接尾語「ま」は,

「形容詞語幹・動詞の未然形・打消しの助動詞『ず』,接尾語『ら』などに接続して状態を表す語」

である(『岩波古語辞典』)。『大言海』の,

「鈍間抜(のろますけ)の下略なるべし」

とやはり「のろ」は,「鈍」から来ているとみる。

同様に,『由来・語源辞典』(http://yain.jp/i/%E3%81%AE%E3%82%8D%E3%81%BE)も,

「形容詞『のろい(鈍い)』の語幹に、状態を表す接尾語の『ま』がついた語。「鈍間」は当て字。」

とみる。「のろい」は,あるいは,擬態語,

のろのろ,
のろくさ,
のろり,

等々からきたのかもしれない。『擬音語・擬態語辞典』には,

「この『のろい』は江戸時代,異性に甘いという意味もあり,『のろける』はそこから来た語」

とある。『江戸語大辞典』をみると,

のろ作,
のろ助,
のろつく,
のろっくさい,
のろっこい,

など,「のろさ」を嘲り,罵る語に事欠かない。この「のろ」を「野呂松人形」とつなげるのは,サカサマのように思える。つまり,「のろい」という言葉があったからこそ,

野呂松(間)人形,

の「のろ」の意味がよく伝わったはずなのである。あらかじめ,

「高さ一尺五寸許りにて,頭偏く,色靑黒き,木偶を舞はして,痴駭(たはけ)たる狂言を演ずる」(大言海)

「ふざけた狂言」と言っているようなものである。

野呂松勘兵衛,

という名も,そう考えれば,意味がよく伝わる。

img136.jpg

(野呂間人形〈俳諧絵文匣〉 『日本語源大辞典』より)

因みに,「のろし」について,

「ヌルシ(緩し)はさらにヌルシ(鈍し)に転義して,『にぶい,愚鈍である』さまをいう。〈心のいとヌルキぞくやしき〉(源・若菜下)。さらには母交(母韻交替)をとげてノロシ(鈍し)になり,動作の鈍い様子をノロノロ(鈍々)という。」(『日本語の語源』)

とある。擬態語は,「鈍し」から出た,という説である。

「野呂松人形」は,人形浄瑠璃の間(あい)狂言を演じたが,「間(あい)狂言」とは,

「能では,シテの中入のあと狂言方が出て演じる部分をいうが,能のアイ(間狂言)のみならず近世初頭の諸芸能では,たて物の芸能の間々に,種々の雑芸が併せて演じられた。それを〈アイの狂言〉または〈アイの物〉と呼ぶ。歌舞伎踊や浄瑠璃操り,幸若舞,放下(ほうか),蜘(くも)舞などの諸芸能の間でも,それぞれ間狂言がはさまれ,物真似(ものまね)狂言,歌謡,軽業,少年の歌舞などが演じられた。」(『世界大百科事典 第2版』)

とある。「野呂松人形」と相次いで,「そろまにんぎょう」「むぎまにんぎょう」が起こったとある(大言海)が,今日,

「新潟県佐渡市の説経人形の広栄(こうえい)座、宮崎県都城市山之口町の麓文弥(ふもとぶんや)人形で、間狂言(あいきょうげん)として演じられている。石川県白山市の東二口(ひがしふたくち)文弥人形、鹿児島県薩摩川内(さつませんだい)市東郷町の斧淵(おのぶち)文弥人形にも人形だけが遺存する。」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』)

という。

「古浄瑠璃(こじょうるり)時代の道化人形芝居の一つ。浄瑠璃操りの成立以前には能操りがあって狂言操りも併演されていたが、明暦(めいれき)・万治(まんじ)(1655~61)ころに歌舞伎(かぶき)の猿若(さるわか)が道化方に変じ、人形芝居に影響して道化人形芝居が成立した。西六(さいろく)、藤六、万六(まんろく)、太郎ま、麦ま、米(よね)ま、五郎まなどいろいろあったが、延宝(えんぽう)(1673~81)ごろに上方(かみがた)に、そろま、江戸に、のろまが現れた。青塗りが愚鈍な容貌(ようぼう)の一人遣いの小人形で、愚直な主人公の展開する滑稽科白(こっけいせりふ)劇である。野呂松勘兵衛、のろま治兵衛らが知られているが、1715年(正徳5)の『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』上演からこれらの人形は除かれ、姿を消していった。佐渡へ伝わったのは享保(きょうほう)(1716~36)ごろという。」(仝上)

「人形は4体1組。木之助が彫像形式で、手足が紐(ひも)でぶらりとつけられている。芝居の最後に男根を出して放尿するので有名。」(仝上)

と,この出し物の品がわかる。「のろい」というより「とろい」「とろくさい」という感じかもしれない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

ホームページ;
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コトバの辞典;
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スキル事典;
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2018年11月06日

のろけ


「のろけ」は,

惚気,

と当てる。当て字である。「のろま」の項,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/462564333.html?1541361874

で触れたように,

「『のろい』は江戸時代,異性に甘いという意味もあり,『のろける』はそこから来た語」

とあり,(『擬音語・擬態語辞典』),

「女性に甘い男性を『のろ作』『のろ助』と言った」

ともある。「のろ助」「のろ作」も,もともとは「のろい」意味である。いずれも「のろい人」の擬人化だが,「のろ作」には,

手ぬるい人,遅鈍・愚鈍な人,
女に甘い男,

の意味が載る。用例に,

「又野呂作どのもいいきになって,亭主気取りのしょち振りが」(慶応元年・毬唄三人娘)

とあり,その原注に,

「女にのろいと云ふ事なるべし」

とある(『江戸語大辞典』)。どう見ても,「甘い」というより,「野暮」か「鈍感」の意味に近い。「のろ助」の用例は,

「コレへ女郎のうそなき,そらぎやう,そんな手でいくのろ助だと思ふか」(寛政十一年・猫謝羅子)

とある。「甘い」というよりは,騙されやすい,鈍感さの方が意味として合う。ということは,本来,

手ぬるい人,遅鈍・愚鈍な人,

が,女性に対しても,どこか,

鈍い,あるいは鈍感さ,

を指していたはずが,意味がいい方へとシフトしたということではないか。

『江戸語大辞典』の「惚気」の項に,

相手に対してのろくなっている,
惚れている,

という意味が載る。「相手に対してのろくなっている」は,

鈍い,

という意味で,それが,

相手(異性)に甘い,

という意味へとシフトし,さらに,

惚気る,

ところまで転じた,ということだろう。

『由来・語源辞典』(http://yain.jp/i/%E3%81%AE%E3%82%8D%E3%81%91)に,「のろけ」の語源を,

「『のろける』の『のろ』は、形容詞『鈍(のろ)い』の『のろ』と同じ。『のろい』はもともと遅いという意だったが、近世になって、にぶいという意味も生じた。さらに、異性に甘いという意味も生じ、この意味だけを表す動詞『のろける』が生じた。」

とするのも同趣旨だ。つまりは,

行動ののろさ,

という状態表現が,

遅鈍・愚鈍,

という価値表現へと転じ,その貶める価値表現から,

甘い,

という意味にシフトし,さらに「惚気話をする」といった意味に転じたことになる。しかし,

自分の恋や恋人とのことを得意になった話をする,

ということ自体,どこか鈍さ,がある。「惚気」「惚気話」に,翳のように揶揄のニュアンスがつきまとうのは,そのせいかもしれない。

「のろい」に,今日,

異性に甘い,
色情に溺れやすい,

という意味はないので,「のろけ」の形でのみ残ったことになる。

『笑える国語辞典』

https://www.fleapedia.com/%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%9F%B3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/%E3%81%AE/%E6%83%9A%E6%B0%97%E3%82%8B-%E3%81%AE%E3%82%8D%E3%81%91%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B/

は,その辺りの機微をうまく言い当てている。

「惚気る(のろける)とは、男女の仲のよさを得意になって話す行為を意味し、聞かされている人々にとっては(仲がよいといっているその相手が、とんでもない浮気な遊び人だと、本人以外みんなが知っているといった状況ででもないかぎり)おもしろくもなんともない迷惑行為をいう。そのような惚気話(のろけばなし)を長々と聞かされそうになった場合、私たちはマナーとして『ごちそうさま』と食事の後の挨拶を返すが、これは『もうおなかいっぱいで食べられません』転じて『そんなまずい料理はもういらない』という意味の断り文句として使用されるのである。
惚気るの『のろ』は、スピードが遅いという意味の『鈍(のろ)い』の『のろ』と同じ語幹であり、『惚気』は『動きがのろくなった精神』を意味する。つまり、恋愛に夢中になって周囲のしらっとした空気が読めないほど、頭の回転が鈍くなっている状態をいい、そんな鈍い精神状態から言葉を発するのが『惚気る』である。」

『日本語源広辞典』の,

「ノロ(鈍)+け(気)」

と分解したものが,よくその含意を表している。ただ,「のろける」の語源には,

「トロケル(蕩)と同義」(上方語源辞典=前田勇),

もある。しかし,これでは「のろけ」のもつ陰翳がなさすぎる。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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ラベル:惚気 のろけ
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2018年11月07日

カメ


「カメ」は,

亀(龜),

と当てる「かめ」である。「亀」(キ)の字は,

「象形。かめを描いたもので,外からまるく囲う意を含み,甲羅で体全体を囲ったかめ」

である。

300px-龜-oracle.svg.png

(殷(3,300~3,000年前)・甲骨文字 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%80より。殷時代後期には銅製などの刃物で亀甲や獣骨などを刻んだ亀甲獣骨文字が使用され、世界最古の漢字とされる。)

300px-龜-bronze.svg.png

(西周・金文 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%80より)


k-329.gif

(「かめ」の象形(https://okjiten.jp/kanji329.htmlより)


『大言海』には,
「穀體(カイミ)の略轉か(稲も,飯根(イヒネ)の略なるべし)」

とする。『日本語源広辞典』は,

「『カ(堅)+メ(目)』です。堅い甲。甲羅の堅い動物」

とする。『日本語の語源』は,

「イカメシキ(偉めしき)甲羅は,その省略形がカメ(龜)になった」

とする。「亀」の語源は,どうもはっきりしない。『日本語源大辞典』には,『大言海』の「殻体」説以外に,

カラミホネ(殻身骨)の義(日本語原学=林甕臣),
コミ(甲体)の転(言元梯),
甲で身を堅めているところから,カタメの略(本朝辞源=宇田甘冥),
ものに恐れて頭,手足を引っ込めるところから,カガム(屈)の転語(和句解・柴門和語類集),
神と義通い,カガマルという義(言葉の根しらべの=鈴木潔子),
命が長い意のカメ(遐命)から(和語私臆鈔),
上代,亀は神霊であり,神獣とされたところから,カミの転(東雅・円珠庵雑記・燕石雑志・名言通・和訓栞・日本古語大辞典=松岡静雄),

等々を載せる。存外,

カミの転,

が正しいのではないか。かつて,

「殷王朝においては祭事や戦争、農耕や天気予報などに至るまで、穴をあけた亀甲や獣骨に火をあてることで生じた割れ目によって吉兆が占われた。『卜』『兆』などの文字はこの際に生じた割れ目の形状に由来すると考えられている。亀甲獣骨文字を刻んだ甲羅が今日まで残されている。」(仝上)

日本では,

「固有の卜占は,太占 (ふとまに) と呼ばれ,鹿の肩骨を焼いて占った」

が,

「中国から亀甲による卜法が輸入されると,朝廷ではこれを採用した。亀卜は神祇官が司り,20人の卜部が担当。亀甲は,紀伊,阿波,土佐,志摩の各国の産物によった。卜法は,亀の甲にあらかじめ一定の線を描き,焼き現れる縦横の文 (もん) によって吉凶を占い,これにより,祀るべき神,祭の日時,場所などを決めた。」

とある(『百科事典マイペディア』)。

亀は,吉兆・縁起物で,

「日本では『鶴は千年 亀は万年』と言われ、鶴とともに亀は長寿の象徴、夫婦円満の象徴とされる。」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A1)。

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(浮世絵師・歌川広重の『名所江戸百景 深川 萬年橋』には、手桶の取っ手に吊るされた1匹の亀が描かれているが、これは画題「萬年橋」の「萬年(万年)」を「鶴は千年 亀は萬年」にかけたもの。近景の亀も、手桶の取っ手と窓枠が形作る額のような四角画面に納まった遠景の富士の山も、そして2艘の帆掛け舟も、みな縁起物である。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A1より)

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ラベル: カメ
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2018年11月08日

かめ


「かめ」は,

甕,
瓶,

と当てる。「甕」(漢音オウ,呉音ウ)は,

「会意兼形声。雍のもとの字は,癰(ヨウ)の疒を除いた部分と同じで,外枠で囲んで鳥を守ることを表す。のち雍(ヨウ)という形になった。甕は『瓦(土器)+音符雍』で,中に避けや水をとじこめるかめ」

で(『漢字源』),「かめ」を意味し,「瓶」(唐音ビン,漢音ヘイ,呉音ビョウ)は,

「会意兼形声。幷は『人二人+=印二つ』の会意文字で,二つ合わせて並べることを示す。瓶は『瓦(土器)+音符幷(ヘイ)』。もと二つ並べて上下させる緯度のつるべ,のち水を汲む器や,液体を入れる小口の容器をさすようになった」

とあり(仝上),口の小さいつぼ,とっくり型の容器,を意味する。「ガラス製のビン」の意や「鉄瓶(てつびん)」という用例は,我が国だけのものらしい。

「かめ」は,

「カ(瓮)メ(瓶)の複合語。メはベの転」(『岩波古語辞典』),
「甕(か)と瓮(へ)と合したる語ならむ」(『大言海』)

とある。「へ」を見ると,

瓮,

の字を当て,「瓶(かめ)」としつつ,

名義抄「甕・瓮,ヘ」

を引き,

「朝鮮語pyöng(瓶)と同源か」

とする(『岩波古語辞典』)。

「酒や水を入れたり,花を挿したりなどする底の深い容器」

である。「甕」「瓶」をあてて,

みか,

とも訓ませるが,これは,

「ミは接頭語。カは(瓮)は容器類」(『岩波古語辞典』)
「『み』は接頭語あるいは水の意か。『か』は飲食物を盛る器の意」(『デジタル大辞泉』)

で,

「大きなかめ。水や酒を貯えたり,酒を醸したりするのに使った」(『岩波古語辞典』)
「昔、主に酒を醸造するのに用いた大きなかめ。」(『デジタル大辞泉』)

と,「かめ」と「みか」は区別されているが,もとは「か(瓮)」である。「瓮」は,

もたひ(い),

とも訓ませ,「水や酒を入れる噐」であり,

和名抄「甕,毛太非(もたひ)」

とするので,「甕」と「瓮」が使い分けられているようでもない。「瓮」(漢音オウ,呉音ウ)の字は,

「形声。『瓦(土器)+音符公』で,甕(オウ)と全く同じ。擁(ヨウ 抱え込む,いれこむ)と同系で,中に液体を入れ込む大かめ。」

とあるので,「甕」と「瓮」は,大きなかめということになる。別に「甕」は,

たしらか,

とも訓ませ,「水を入れる土製素焼きのうつわ。大嘗会(だいじょうえ)のときなどに天皇の手水(ちょうず)の水を入れる」とある(『デジタル大辞泉』)。特殊な用途のものと見ていい。

「甕は古くはその用途・大きさによって、ユカ、ミカ、ホトギとよばれたが、ユカ(由加)は祭事に用い、ミカ(瓺)は主として酒を醸すために用いられ、これらはいずれも大甕が使用された。一方、ホトギ(缶)は小さな瓦器(がき)で、湯水などを入れるのに用いられた。」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』)

とあり,

「古くカメとよばれた(和名抄)のは,ふくらんだ胴,あるいは丈高の胴のうえでいったんすぼまってから口にいたる形の〈瓶〉であって,むしろ壺に含まれる形の液体容器である。酒をいれて人に供するための瓶子(へいし)もその一種であり,現在の瓶(びん)が古称のカメの実体を伝えている。古くは,ミカ(記紀),モタヒ(和名抄),ユカ,サラケなどとよばれていた液体容器(おもに酒の)が,〈甕〉と表記されカメとよばれるようになったのは,中世以降のことである。」(『世界大百科事典 第2版』)

とあるので,「みか」の「み」は接頭語とすると,「か(瓮)」が,「かめ」の古形と言うことになる,とすると,『日本語源広辞典』の,

説1 「カム(醸)の変化」。つまり醸造路の容器,醸造用壺,
説2 「カ(ケ・笥)+メ(水)」。液体容器。ミカは「ミ(水)+カ(容器)」で,「水の容器」,

とするが,説1は,捨てるほかない。『大言海』は,「甕・瓮(か)」は,

「笥(け)と通ず」

とし,「へ(瓮)」は,

「隔つる意(水火)の間に」

とする。『日本語源大辞典』は,「みか」「もたひ」「かめ」それぞれの語源説を列挙している。

「みか」については,

ミは発語。カは甕の義(大言海),
カはケ(笥)の転(箋注和名抄),
ミケ(水笥)の転(日本古語大辞典=松岡静雄),
ミカ(水瓶)の義(言元梯・名言通・大言海),
ミは深の義。カはヤク(焼)の意(東雅),
ミは大の義。カはカメの略(和訓栞),

と挙げる。カは瓶では同義反復である。「け(笥)」は,『岩波古語辞典』には,

「古形カ(瓮)の転」

とある。ものを盛り,又入れる器の意である。『大言海』は,

「籠(コ)と通ずるか,食ふと云ふ語も此器より移れるなり。」

とし,「餼子(けご)」と関わるとする。「餼子」は「食籠(けご)の義」とあるので,「笥」と同じである。

どうも,「笥(か→ケ)」と「瓮(ヘ→カ)」とは,通じる気がする。『日本語の語源』のような,

「底深く内広くつくった大型の陶器をイカメシキ(厳めしき)陶器(すえもの)といい,その省略形がカメ(瓶・甕)になった。また,イカメシキ(偉めしき)陶器は,カメシの部分がメシの縮約でカミになったが,『神』との混同をさけてミカ(甕)に転意された。酒をかもす大型のカメをいう。」

という,ミカ→カメの流れも面白いが,大小を区別して使っていたことを考えると,少し首を傾げざるを得ない。

「もたい」(瓮・甕・罇)は,『日本語源大辞典』は,

盛湛瓮(もりたたへ)の略轉(大言海),
モタは持つ意。ヒは器の義(東雅)
持堪るの義か(俚言集覧・和訓栞),
モチアヒ(持合)の義(名言通),
モツヒ(持椀)の義(名言通),
モタタヘ(水湛)の義(言元梯),
マロカタヘイ(円高瓶)の反(名語記),

とある。どうも,「瓶子(へいし)」のイメージである。「酒を盛る噐」である。

そして,「かめ」であるが,「かめ」が,

「カ(瓮)メ(瓶)の複合語。メはベの転」(『岩波古語辞典』),
「甕(か)と瓮(へ)と合したる語ならむ」(『大言海』)

であるとすると,「カ(瓮)」が,

笥,

なら,「ヘ→メ」と転訛した「へ(瓮)」の意味を明確にする必要がある。同義に近い「かめ」と「カ(瓮)」と「メ(瓶)」を合成することで指し示す何かがあったからなのではないか。

『日本語源大辞典』は,

ケ(笥)と通じるカ(甕)と,水と陽の間を隔てる意のへ(瓮)との結合語か(大言海),
カ(瓮)メ(瓶)の複合。メはベの転(岩波古語辞典),

以外に,

カはケ(笥),メはミ(身)の転か(日本古語大辞典=松岡静雄),
カは,ミカ(瓺)のカ,メは器をいう語(東雅),
カミベ(醸瓶)の約転(類聚名義抄・和訓集説),
サカヘ(酒瓮)の約転(言元梯),
酒をカモス(醸)器であるところから(日本釈名・俚言集覧・名言通・言葉の根しらべの=鈴木潔子),
気の抜けないように堅めるものであるところから,カタメ(堅め)の略(本朝辞源=宇田甘冥),
形が亀に似るところから(和句解・円珠庵雑記),

等々を載せる。どうやら「酒」に特定していたのではないかと思わせるが,しかし,

「古くは,ミカ(記紀),モタヒ(和名抄),ユカ,サラケなどとよばれていた液体容器(おもに酒の)が,〈甕〉と表記されカメとよばれるようになったのは,中世以降」(仝上)

なのだが,

「甕は水・酒・酢・しょうゆ・油など液体飲料物の貯蔵・製造用具として使用されたが、塩・梅干し・漬物などの保存・加工用具のほか、藍(あい)汁・肥(こえ)だめの容器、また遺骸(いがい)を納める棺としても用いられた。しかし、鎌倉末期から室町時代にかけて桶結(おけゆい)技術が発達し、酒・油など液体の運搬・貯蔵に便利な桶・樽(たる)が出現するに及んで、重量が重く、かつ破損しやすい在来の甕・壺の類にとってかわ」(仝上)

られるともある。つまり,「酒」に限定するようになるに連れて,「かめ」は「樽」にとってかわられる。その僅かな間,大型の「甕」に「かめ」と名づけたように思える。あるいは,醸す意の「カム(醸)」と掛けたのかもしれない。

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ラベル: かめ
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2018年11月09日

かめのぞき


「かめのぞき」は,

瓶覗,

と当てて,

「藍瓶に,ちょっと浸したる意」

として,

「藍色の極めて淡きもの」

と,『大言海』には載る。略して,

のぞき

とも,

覗色,

とも,

白殺し(しろころし),
藍白(あいじろ),

とも言うらしい。恥ずかしながら,知らなかったので,ちょっと調べてみた。『広辞苑第5版』には載らない。『江戸語大辞典』には,

「藍甕をちょっと覗いただけの意。手拭いをこれに染める」

とある。

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色見本は,
https://www.color-sample.com/colors/165/
http://moineau.fc2web.com/color/blue1.html

等々にあるように,薄い水色という感じである。

瓶覗き(かめのぞき)とは、

「白に近いごく薄い藍色。英語色名のペールアクア(ごくごく薄い水色)に近い。藍色系統に属するが殆ど色味が無いため、オフホワイト(日本語の染色用語なら「白殺し」)に属すると考える場合も有る。」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%93%B6%E8%A6%97%E3%81%8D)。

藍色系統の中でも,

留紺>黒紺>紺(勝色)>藍>花色>浅葱>水浅葱>瓶覗き,

ともっとも薄い色で、

「染色の際も藍瓶に漬けてすぐに引き上げてしまう」

ことから「瓶覗き」と呼ばれる(仝上)。どうやら「覗く」を,

サッと浸す,

という意味で使ったものらしい。僕は,とっさに,

甕に張った水に映った空の色,

と思ったが,

「水瓶に映りこんだ青空の色を表現したので瓶覗きと呼ぶという説もあるが、江戸時代、瓶覗きと空色はどちらも同時期使われており、染色指南などを見るに空色のほうが濃い色で派生の色も数多く存在する。」

とある(仝上)ので別らしい。

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空色というのは見当たらなかったが,似た色が一杯。日本は色の種類が世界一とか。

「藍染めは藍甕に糸や布を浸し、これを絞って大気中で酸化させ、これを何度も繰り返しながら徐々に濃い藍色をつくってゆくのだそうです。しかし染色業がまだ専業化する以前は、藍甕の中を一度くぐらせただけの淡い藍色の染め物がほとんどだったと言われます。
このように一度だけ藍甕をくぐらせただけの染め物を一入染(ひとしおぞめ)というそうですが、何度も何度も甕をくぐって次第に濃くしてゆく普通の藍染めからすると、一入染で現れる淡い藍色は、

ちょっと甕を覗いただけの色

ということでこの名が付いたのだと言う説があります。」

とあり(http://koyomi.vis.ne.jp/doc/mlko/200704180.htm),やはり,

「大きな甕に張られた水を覗き込むと、うっすらと青みがかった色に見える」

から甕覗だとする説もあるようである。で,

「海が急に深くなって、それが水の色がそこだけ藍色に見えるような場所を『甕』と呼ぶことが有ります。深い水は藍色に見えるから、水の色は藍色で、甕に入る程の少量の水だと薄い薄い藍色に見えると考えた」

と付言している(仝上)。この方が,言葉の奥行がある気がするが,「藍四十八色」と言われるほどのバリエーションがあるらしく,藍染めは染める回数によって濃淡が生まれるそうで,淡い藍は色相が緑みに傾き、濃い藍は紫みに傾く。「瓶覗」は藍染めのなかでも最も初期の段階の染め色で、やや緑がかった淡い藍色。藍瓶を覗いた程度にちょっと染めた,というのが江戸の語感にはふさわしいのかもしれない(https://toyokeizai.net/articles/-/159722)。

「ほんの少し染まって白い布が白でなくなるため、「白殺し」とも言われていました。」

とある(https://colornavi.net/52/h7.html)語感と合うのかもしれない。

「藍甕の中に布を一回潜らせただけ、すなわち、布は藍甕の中をちょっと覗いただけで出てきてしまったから染まり方も薄いという」

説の方が,

「甕(かめ)に張られた水に空の色が映ったような淡い色合」

という説よりは,江戸の語感が,個人的にはする(https://colornavi.net/52/h7.html)。

なお「藍」という色も,

「藍は世界最古の染料といわれ、日本でも古くから用いられてきた。『延喜式』では藍と黄蘗(きはだ)を用いた染色が藍色で、やや明るい緑みの青の色名であったが、その後は濃い色を表すようになった。」

とある(『色名がわかる辞典』)。少し色が違うようだ。

参考文献;
https://www.pinterest.jp/
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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2018年11月10日

のぞく


「のぞく」は,

覗く,
覘く,
臨く,

と当てる。恐らくは,「のぞく」の持つ多義性を,漢字で当て分けたのだ,と思われる。

「覗」(シ)の字は,

「会意兼形声。司(シ)の上部は人の変形であり,その下の口印は,穴。細かい穴からのぞくことを示す会意文字。覗は『見+音符司』で,狭い穴を通して内部をみようとすること」

で,

うかがう,
隙間からのぞいてみる,
転じて,
のぞいて様子を見る,

の意となる。「覘」(テン)は,

「会意兼形声。『見+音符占(せん・テン じっととどまる)』」

で,

うかがう,
目標から視線を動かさないで,じっと見る,
転じて,
じっと様子を見る,

意となる。「臨」(リン)の字は,

「会意。臣は,下に伏せて俯いた目を描いた象形文字。臨は『臣(臥せ目)+人+いろいろな品』で,人が高い所から下方の者を見下ろすことを示す」

で,

高い所から下を見る,
面と向かう,
のぞむ,

という意味になる(以上『漢字源』)。どうやら,視点が,

透見(覗)→目視(覘)→俯瞰(臨),

と転じていく感じである。和語の「のぞく」も,

間を隔てる生涯をとりのけてみる,隙間から見る,

わずかに一部分だけ見る,

高い所から見下ろす,

という意味の流れである(以上『広辞苑第5版』)。

『岩波古語辞典』は,「のぞむ」を,

「ノゾミ(望)と同根か」

とする。髙い位置の視点を,横の距離に置き換えれば,

高い所から見下ろす,

はるか遠くまでみる,

と転じても,転換としてはわかる。

透見(覗)→目視(覘)→俯瞰(臨)→遠望(臨・望),

という視点の移動だろうか。『大言海』は,「のぞく」を,

覘く・覗く,

臨く,

と分けているが,「のぞく(覘く・覗く)」は,

臨(のぞ)くようにして見る,

意図し,「のぞく(臨)」を,

「伸(の)すに通ず」

とし,

「のぞむ(臨)」を,

「伸(の)し見る」

とする。「視線を伸ばす」という意味だろうか。

『日本語源広辞典』は,「のぞく(覗く)」は,

「ノゾ(臨み)+ク(動詞化)」

で,「都合の良い所に臨んで見る」意,とし,「のぞむ(臨む)」は,

「ノゾ(あるものに対す)+ム(動詞化)」

とし,「距離を置いて対す」意とする。しかし,この意味は,

「《漢字『臨』をノゾムと訓読したことから》向かう,直面する」

意が生まれたとする(『岩波古語辞典』)ところから見ると,前後が逆ではあるまいか。

『日本語源大辞典』の「のぞく(覗く・覘く・臨く)」をみると,

ノゾム(望)の義(言元梯),
ノゾム(望)と同根(小学館古語大辞典),
ノゾミミル(臨睨)の義(言葉の根しらべの=鈴木潔子),
ノはノゾム(望),クはクラキの義(和句解),
ノゾミオク(望)の義(国語本義),

と,ほぼ「望む」と関わり,逆に「のぞむ(望む・臨む)」を見ると,

ノゾク(覗)と同根か(岩波古語辞典),
ノゾム(望・臨)はノゾク(覗・覘)と同源(続上代特殊仮名音義=森重敏),
ノゾキソムの義(和句解),
ノビソルメ(伸反目)の義(名言通),
ノビススム(伸進)の義(言元梯),
ノソミ(伸見)の転(和語私臆鈔),
ノシミル(伸見)の義(国語の語根とその分類=大島正健),

と,「覗く」と関わる。和語「のぞく」は,節穴から,遠くを望むまで,多義的であった。それこそ,

伸す,

と関わったのかもしれない。それを漢字で当て分けることで,

透見(覗)→目視(覘)→俯瞰(臨)→遠望(臨・望),

と,区別ができた。近くを覗くことも,遠くを「臨む」ことも,区別がつかない言葉「のぞく」が,漢字という言葉て,見える世界の違いを知った。まさに,ヴィトゲンシュタインの,

持っている言葉によって見える世界が違う,

のである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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2018年11月11日

うららか


「うららか」は,

麗らか,

と当てる。春の季語である。

空が晴れて,日影の明るく穏やかな日にいう,

という意味で,日和を指すが,それをメタファに,意味が転じて,

声の明るく朗らかなさま,
心の爽やかなさま,

と広がる(『広辞苑第5版』)。その他に,

蒸気,煙,霞,雲などがのどかにたちのぼる,またのどかに揺らめく様子,
穏やかに,快い音が響き渡ったりも良い香りが立ちのぼる様子,
態度や行動などがのどかな様子,

等々,「春の光のようにのんびりとおだやかな」感じをメタファにさらに広がっている(『擬音語・擬態語辞典』)。

「うららか」は,

春うらら,

とも言うので,「うらら」ともつながる。『岩波古語辞典』は,

「ウラウラと同根。明るく柔らかい日ざしがあふれ,晴れやかに静かなさま。類義語ノドカは,眠たげにゆっくりと落ち着いたさま」

とあり,「うらうら」と同根なのは,

うらら,
うらやか,

もそうである。『日本語源広辞典』は,「うららか」を,

「ウラウラ(擬態語)+らか」

とする。「うらうら」は,『万葉集』の,大伴家持の歌に,

「うらうらに 照れる春日に ひばりあがり 心悲しも ひとりし思へば」

と詠まれる程古い擬態語で,

「『うらうら』『うららか』『うらら』の語根『うら』は春の光ののどかな様子を意味する。

『大言海』は,「うららか」に,

天麗,

とあて,

「うるはし(麗)と通ず」

としている。

「麗しき」とつなげている。しかし「麗し」は,「美し」とも当て,少し語感が違う。「麗し」と当てた「麗」に引きずられたのだろうか。「うるわし」の項で触れたように,

「うるはし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/451088860.html)は,

「奈良時代に,相手を立派だ,端麗だと賞讃する気持から発して,平安時代以後の和文脈では。きちんと整っている,礼儀正しいという意味を濃く保っていた語。漢文訓読体では,『美』『彩』『綺麗』『婉』などの傍訓に使われ,多く仏などの端麗・華麗な美しさをいう。平安女流文学では,ウツクシ(親子・夫婦の情愛をいい,対象を可愛く思う気持)とは異なる意味を表した。今日のウルワシは漢文訓読体での意味の流れをひいている。」(『岩波古語辞典』)

で,「うつくし」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/451058731.html?1497987229)は,

「親が子を,また,夫婦が互いに,かわいく思い,情愛をそそぐ心持をいうのが,最も古い意味。平安時代には,小さいものをかわいいと眺める気持ちへと移り,梅の花などのように小さくてかわいく,美であるものの形容。中世に入って,美しい・奇麗だの意に転じ,中世末から近世にかけて,さっぱりとしてこだわりを残さない意も表した。類義語ウルハシは端正で立派であると相手を賞美する気持。イツクシは神威が霊妙に働き,犯しがたい威厳のある意。ただし,中世以降,ウツクシミはイツクシミと混同した。平安時代,かわいいの意のラウタシがあるが,これは相手をいたわりかわいがってやりたい意」(『岩波古語辞典』)

であり,結果として,「うつくし」が,相手への感情表現から,相手の価値表現へシフトし,「うるわし」が,相手の状態表現から,相手の価値表現へとシフトし,価値表現そのものへと転換したということになる。「うるわし」と「うららか」とは語の用法も異なると思う。

ちなみに,「麗」(漢音レイ,呉音ライ)の字は,

「象形。麗は,鹿の角がきれいに二本並んだ姿を描いたもの。連なる,並ぶなどの意味を表す」

で,「うるわし」は,まさに「麗」の字なのである。

『日本語源大辞典』も,やはり,

ウララはウラウラの約(東雅・万葉考),

とする。他に,

ウラ(面)ラカの義(名語記),

もあるようだが,「うらうら」の転訛でいいのだろう。では,その擬態語「うらうら」はどこから来たか。擬態語なので,説明のしようはないのかもしれないが,『日本語源大辞典』は,

ヨワラヨワラ(弱々)の義(万葉考・和訓栞),
ユラユラ(寛々)の転(言元梯),
ウルハシ(美)のウルと同根(国語本義),
ウラはヤヲラ(弱)の意(万葉考),

と,「弱い」と絡めるが,「弱々しい」は,「うらうら」とは語感が隔絶している。「うらうら」は,古代,ウラウラとしか言いようがなかった,ということなのだろう。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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ラベル:麗らか うららか
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2018年11月12日

うかつ


「うかつ」は,

迂闊,

と当てる。

回り遠くて,実情にあてはまらない,
注意の足りない,うっかりしている,
大まかで,気の大きいこと,

と,「回り遠い」ことが,「気の大きい」ことまで意味が転化している。「気の大きい」意味は,「日葡辞典」に載るらしいので,室町末期にはその意味で使われていたらしい。

「迂」(ウ)の字は,

「会意兼形声。『辶(すすむ,足がなめらかにしてとどまらず)+音符于(つかえて曲がる)』」

で(『字源』『漢字源』),

遠回り,事情から遠ざかるる,

という意味だが,

まわりくどい,
物事にうとくて実際的ではない,

という意味もある。「迂」の字を使った例で言うと,『論語』子路編の,

子路曰。衛君待子而爲政。子將奚先。子曰。必也正名乎。子路曰。有是哉。子之迂也。奚其正。子曰。野哉。由也。君子於其所不知。蓋闕如也。名不正。則言不順。言不順。則事不成。事不成。則禮樂不興。禮樂不興。則刑罰不中。刑罰不中。則民無所錯手足。故君子名之必可言也。言之必可行也。君子於其言。無所苟而已矣。

子路曰く、是有あるかな、子の迂なるや,

と,子路が孔子を「迂遠」と批判したところにみられる。それに対して,

子曰く、野なるかな由や。君子は其の知らざる所に於いて、蓋闕如(かつけつじょ)たり。名正しからざれば、則ち言順(した)わず。言順わざれば、事成ならず。事成らざれば、則ち礼楽興(お)こらず。礼楽興こらざれば、則ち刑罰中(あた)らず。刑罰中ざれば、則ち民手足を錯(お)く所無し。故に君子之に名づくれば、必ず言うべきなり。之を言えば必ず行なうべきなり。君子は其の言に於いて、苟(いやし)くもする所無なきのみ。

と答える。因みに,

蓋闕如(かつけつじょ)たり,

は,知らないことを黙って言わないありよう,

を指す。このとき「迂」は,

迂遠,

の意味である。「闊」(漢音カツ,呉音カチ)の字は,

「会意兼形声。活は,水が勢いよく流れること。ゆとりがあってつかえない意を含む。濶は『門+音符活』。寛(ゆとりがある)の語尾が縮まった形」

とあり(『漢字源』),

はるか,間が広くあいているさま,
ゆるい,

といった意味で,

「濶は,疏也,遠也,廣也,両方に限りありて,その間の幅広き意」

とある。無限の広がりではないようである。

『日本語源広辞典』は,

「中国語の『迂(曲がりくねって遠い)+闊(遠回し)』が語源です。事情に遠い。日本語では,注意が足りず,うっかりする意につかいます。」

とある。本来の,

回り遠い,

という意味から,

うっかり,

の意に使われるようにになったのは,なぜだろう。「迂闊」と似た,

迂遠,

は,あくまで,

道が曲がりくねって遠い,
直接役に立たない,実際的でない,

というという意味で使われ,それは「迂闊」の原義と重なる。

「遠」(漢音エン,呉音オン)の字は,

「会意兼形声。『辶(すすむ)+音符袁(エン 間があいてゆとりがある)』」

で(『漢字源』),

遠い,
距離・時間の隔たりが大きい,

意で,あえて言えば,「濶」より「遠」の方が距りは大きいはずだか,「迂遠」は「遠回り」の意のまま,「迂闊」は「うっかり」へと意味がシフトしていたのは,「うかつ」の語感のせいではなかろうか。

『笑える国語辞典』(https://www.waraerujd.com/blank-777)は,その辺りを,

「迂闊(うかつ)とは、不注意なさまを言う。『原稿用紙一枚分抜けていたとは、うかつでした』(そんな事件が昔ありました)のように、本人は『うっかりミス』程度の軽い気持ちでのほほんとしているが、実際はおおごとで会社はてんやわんやの大騒ぎになっているといった状況で使われることが多い。『迂』は『迂回』のように、遠回りすること、道などが曲がりくねっていることなどの意味、『闊』はだだっ広いこと、距離が遠いこと、大ざっぱなことなどの意味。中国語で『迂闊』は、現実離れしている、まわりくどいという意味だが、日本では、『うっかり』『うかうか』といった言葉に引かれて、頭の中が現実離れしていたり、まわりくどい人物の行動様式について言われるようになったのであろう。」

と,「うかうか」「うっかり」とつなげている。「うかうか」は,動詞「浮かれる」と語幹を共有しているので,「うっかり」というより,「浮ついている」という感じで,言葉の由来を異にするが,

うかと,

という使い方もし,「うかつ」という言葉の響きが重なるのが原因なのかもしれない。

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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2018年11月13日

ずぼら


「ずぼら」は,

すべきことをせず,だらしないこと,
無精なこと,

とある(『広辞苑第5版』)。

すべら,

とも言うらしい。『日本語俗語辞典』(http://zokugo-dict.com/13su/zubora.htm)に,あるように,江戸時代から使われている言葉らしい。

『大言海』には,「ずぼら」は,

放恣,

と当てて,

「大阪の堂島言葉に,するすると下がる相場を,ズボラということより起こると云ふ」

と載る。

やりはなし,なげやり,ずぼら,

の意と載る。

ずべら(放恣),

も載り,

締りの無きこと,すぼら,

と載る。さらに,

ずべらぼう(放恣坊),

と擬人化した言葉も載る。『日本語源大辞典』には,『大言海』の堂島の相場由来説以外に,

ズベラの訛(上方語源辞典=前田勇),
僧侶の不祥事件が相次いだために世間で坊主を罵った語ズボウの訛か(ことばの事典=日置昌一),

が載るが,「ズボウ」は,『江戸語大辞典』に,

「ぼうず(坊主)を戯れに転倒して言う語」

とあり,

「くそをくらへ,コノずぼうめが」(文化七年・江之島土産)

と,用例にもあるので,罵り言葉には違いないが,「ずぼう」は「ずほう」であって,「ずぼら」ではない。むしろ,『岩波古語辞典』にある,

ずぼろ,

との関連の方が興味深い。「ずぼろ」は,

頭髪を丸坊主に剃ること,

で,

ずぼろぼ,
ずぼろぼん,
ずんぼろぼう,

等々とも言う。となると,

ズベラの訛,

するすると下がる相場,

かということになる。『日本語源広辞典』は,

「『ズベラ・ズンベラボウ(しまりがない)』です。市場用語で相場がずるずると下がる意です」

とするが,逆ではないか。「ズベラ」という言い方があったから,堂島相場で,「ずるずると下がる」意で使ったのが通じるのではないか。

「もとは、でこぼこや出っ張りがなくて、のっぺりしていることを『ずべらぼう』といい、それが転じて、だらしがないことを意味するようになった。それを略した『ずべら』が音変化したものといわれている。」

としている(http://yain.jp/i/%E3%81%9A%E3%81%BC%E3%82%89)のが始めと見ていい。

『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/su/zubora.html)は,

「ずぼらは、近世の上方の方言で『ずんべらぼん』『ずんぼらぼん』『ずんぼらぼん』など、凸凹(でこぼこ)や突き出した部分がなく、『つるつるなさま』『のっぺりとしたさま』を表した言葉が語源。これらの言葉は、大坂堂島で米相場がずるずる下がることを言っため生まれた言葉といわれる。また、『ぼら』という語は、方言で『体が大きい割に気が利かない』や『馬鹿者』の意味で使う地方も多く、『ずぼ』を『大きい体』や『噓』の意味で用いる地域もあり、上方方言の『すぼら』や『ずんべらぼん』などは、これらの言葉と同源と考えられる。
 江戸末期には、修行を怠けたり酒に溺れる坊主が目立つようになったため、そのような坊主を庶民は嘲笑って『ぼうず』を『ずぼう』と逆に讀み、『ずぼう』が『ずぼら』に変化したという説もあるが、有力な説とされていない。」

とする。「坊主」の堕落は江戸時代に始まったものでもあるまい。

「ズボラの語源は、つるつるなさまを意味する『ずんべらぼん』や『ずんぼらぼん』という京都や大阪の方言だとされています。」(https://imikaisetu.goldencelebration168.com/archives/1836

が妥当なのではあるまいか。

なお『江戸語大辞典』には,

すべらかす(滑らかす),

という語が載る。

曖昧な言い方をする,

という意味である。この「すべら」は「滑らかす」ではあるが,「すべら」と関係している気がする。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
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ラベル:ずぼら すべら
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2018年11月14日

すべた


「すべた」は,

スベタ,

と表記されることが多い。

「espada ポルトガル・スペインの転。剣の意。もとカルタ用語」

とあり(『広辞苑第5版』),

花札で,点数にならないつまらない札。素札(すふだ),

の意で,この「素札(すふだ)」が転じて,

スブタ,

と,

女性を罵る言葉,

になったと見ることができる。江戸時代には既に使われていたらしく,『江戸語大辞典』の「すべた」の項に,よりい

「めくりカルタで,数にならぬ札。四十八枚中,二十四枚ある。素札」

とあり,

「詰まらない男また女を罵って言う語」

とある。女性に限らなかったらしく,つまらない客の意で,

すべた客,

つまらぬ男の意で,

すべた野郎,

という言葉もあった(『江戸語大辞典』)。『大言海』は,カルタの「スベタ」と別に「スベタ」の項を立て,カルタの項では,

「鋤の西班牙語,espada(英語spqde)の訛にて,其の象を牌面に記したるものより云へるか」

とし,

「西洋骨牌(カルタ)に云ふ語。一枚が,一にならでは値せぬ平凡(へぼ)なる牌の称」
とし,もうひとつの「すべた」は,

素女,

と当て,

「安永七八年頃より,美(よ)からぬ女を,ソベタと云ふは,(スベタの)骨牌よりでたる詞とぞ(醜を,ヘチャとも云ふ)」

とし,別に

「伊豆にて。色情深き女(男の,スケベヱに対す)」

とある。そういう含意かと,よく分かる。『日本語源大辞典』には,

「特に外形面の非難が強く,行動や精神面の軽はずみへの非難を示す『蓮葉』と対照的に使用された」

とあり,これだとただ外面の良し悪しを言っていることになる。しかし『江戸語大辞典』の,男性に使った含意は,

つまらない,
取るに足りない,

という含意であるから,初めは,そういう含意だったのが,外面の,

良し悪し,

に転じたものに思われる。

エスパーダ→素札(すふだ)→すべた,

の転は,美醜を指してはいない。

役に立たない,
つまらない,

の意である。

なお,「めくりカルタ」については,

「『めくり』は明和期(1764-1772)の中頃に登場し、安永、天明(1781-1789)のいわゆる田沼時代に大ブームを巻き起こしました。この頃の黄表紙、洒落本、噺本等の文芸作品にも数多く登場し」

たとあり,こう説明されていますhttp://www.geocities.jp/sudare103443/room/mein/mein-01.html

「『めくり』は三人で競技しますので『胴三』は無く『親』『胴二』『大引』のみとなります。カルタ一組四十八枚(時に「鬼札おにふだ」と呼ばれる一枚を加える事も有り)を使用し、各人に手札として七枚づつ配り、場札として六枚を表向けに晒し、残りは山札として裏向きに積んでおきます。競技は『親』から開始します。手札の中に場札と同じ数(ランク)の札が有ればそれを出し、場札と合わせて取る事が出来ます。同じ数が無い場合は任意の一枚を場に表向けに捨て、以後この札も場札となります。次に山札の一番上の札をめくり、場に同じ数の札が有れば二枚合わせて取る事が出来ますが、無ければその札も場札に加えられます。続いて『胴二』『大引』の順に同じ手順を繰り返し、七順で一勝負(番個ばんこと呼ぶ)が終了します。」

とある。

聖杯(骨扶/乞浮)、
刀剣(伊須/伊寸)、
貨幣(於留/遠々留)、
棍棒(巴宇),

の4スート、1から9の数札と,

女王(十)、
騎士(馬/牟末)、
国王(切/岐利),

の絵札からなり,

合計48枚,

ということらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E3%81%8B%E3%82%8B%E3%81%9F

1024px-小松札.png

(天正カルタ。聖杯、刀剣、貨幣、棍棒の4スート、1から9の数札と女王、騎士、国王の絵札からなり、合計48枚。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E3%81%8B%E3%82%8B%E3%81%9Fより)


なお,方言ではこの「スベタ」を,

ずべっこ(新潟県)
ずべろく(新潟県西頚城郡)
ずべたら(栃木県、埼玉県秩父郡、東京都八王子市、山梨県南巨摩郡、静岡県榛原郡)
ずべたらもの(群馬県勢多郡=道楽者の意)
ずべくら(熊本県下益城郡)
ずべとこ(富山県東礪波郡)
ずべたこ(兵庫県西宮市)

等々というとある(http://www.ytv.co.jp/announce/kotoba/back/0701-0800/0761.html)。

この「すべた」が,

すべた→すべ→ズベ公,

と,「ズベ公」という言葉につながるらしい。

参考文献;
http://www.geocities.jp/sudare103443/room/mein/mein-01.html
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2018年11月15日

ズベ公


「ズベ公」は,

不良少女,
素行の悪い少女を罵っていう語,

の意であるが

「すべた」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462711764.html?1542140630)の項,で触れたように,

すべた→すべ→ズベ公,

の転訛とする説がある。しかし,「ズベ公」は,

「ずべ」は「ずべら」の略,

とある(『デジタル大辞泉』)。しかも,「ズベ公」は,

すべ,

ともいう。むしろこの説の方が多い。たとえば,

「『ズベ』は『ズボラ』と同じ意味の『ズベラ』から由来しており、『公』は先生に対して『先公』と呼ぶのと同じく相手を馬鹿にする時に使う接尾語である。 主に不良少女を罵る時に使われる言葉であり、第二次世界大戦後から使われるようになった。」

とある(https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%BA%E3%83%99%E5%85%AC)し,あるいは,『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/su/zubekou.html)も,

「ズベ公の『ズベ』は、『ずぼら』と同じ意味の『ずべら』の下略。『公』は、先生を『先公』、警察を『ポリ公』などと呼ぶのと同様で、相手をやや軽んじて言う接尾語である。第二次 世界大戦後、巷には不良少女が目立つようになり、素行の悪い少女を罵っていう言葉として流行した。カードのスペードが悪い札とされていたことから、スペードが転じたとする説もあるが、『すべら』が『ずぼら』と同意語でありながら,『すぼら』の語源がスペードと関係ないため,この説は誤りと考えられる。」

とする。ただ,「ずべら」が「すぼら」と同意語であることと,語源が同じという意味ではないので,「スペード」説を退けるこの説明は,為にする説明にしか思えない。「すぼら」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462695588.html?1542053162)で触れたように,

「ズボラの語源は、つるつるなさまを意味する『ずんべらぼん』や『ずんぼらぼん』という京都や大阪の方言だとされています。」(https://imikaisetu.goldencelebration168.com/archives/1836

で,「ずべら」は,ただ滑るという状態表現でしかない。それが価値表現へと転じて,

締りのない,

意へと変り,それを表すことばとして,

すぼら,

と変化した。この意味の変化から考えると,「ずべら」の意味が,

しまりのない,
すぼら,

の意味になってから,

ずべ,

といい,

ズベ公,

となったとしても,「ずべら」の意味と,「ズベ公」の意味には少し隔たりがある。

むしろ,「すべた」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462711764.html?1542140630)の項で触れた,「すべた」の意味,

女性を罵る,

の方が,語感として近くはあるまいか。

つまらない,
取るに足りない,

という含意だったのが,外面の,

良し悪し,

に転じて,

エスパーダ→素札(すふだ)→すべた,

ときて,

エスパーダ→素札(すふだ)→すべた→ずべ→ズベ公,

の意味の流れのの方がしっくりくる。『日本語源広辞典』も,

説1 「ズベ(ずぼらな)+公(ののしる語)」。だらしない不良少女,
説2 「スペード(トランプのかす札)」からきた,スベタ(醜い女),

と,「すべた」説を挙げている。『日本語源大辞典』も同様で,

ズベラ,ズボラに通じる新潟方言の罵言ズベを擬人化したもの(すらんぐ=暉峻康隆),
ズベは,ポルトガル語espada(つまり英語のスペード)の略で零点札を意味するトランプ用語スベタから(猫も杓子も=楳垣実),

と,「すべた」説を挙げる。

エスパーダ→素札(すふだ)→すべた→ずべ→ズベ公,

の転訛でいいようである。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)


ホームページ;
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2018年11月16日

すべて


「すべて」は,

全て,
総て,
凡て,
渾て,
都て,
統て,

等々と当てる。

ことごとく,
皆,
全部,

という意味だが,

「ス(総)ブの連用形に助詞テの付いたもの」

とある(『広辞苑第5版』)。『岩波古語辞典』には,

「スベ(統)テの意」

とあり,『日本語源広辞典』にも,

「統ベルの連用形+て」

とある。『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/su/subete.html)は,

「多くの物をひとつにまとめる意味の動詞『統べる(すべる)・統ぶ(すぶ)』の連用形に、 接続助詞の『て』が付いた語。 古くは、『一般的にいって』『総じて』の意味や、下に 打ち消しの語を伴って『全然』『まったく』も意味した。 」

とある。それにしても,同じ意味を,当て分けている漢字にはどんな意味の差があるのか(『字源』)。

「渾」は,ひとまとめに打ち混じて分たぬ義。杜詩(「春望」)「渾欲不勝簪(渾簪勝えざらんと欲す)」
「凡」は,皆也。およそとも訓む。総体を計へていふ詞。総に近し。
「総」は,総体をいふ。聚束也と註す。もと絲を組合すぎより出づ,多くの物を一つにすべ合わせる義。別の字に対す。列子の「居人民之上,総一國之事」の総を転用して助辞とす。
「都」は,寄せ合わせる義,総也,聚也と註す。残らずあつむるをいふ。
「統」の字は,これとは同列に比較されていない。「統」(トウ)の字は,

「会意兼形声。充(ジュウ)は,子供が充実してそだつこと,全体に行き渡る意を含む。統の字は『糸+充』で,糸すじが端から全体へとゆきわたること」

の意で,全体につながる絲のすじ,治める,という意である。ある意味で,「総」の字と比較すると意味の違いがよかる(総もすべる意を持つ)。

「総(總)」(漢音ソウ,呉音ス)の字は,

「会意兼形声。窗(まど)の下部は,もと空気抜きのまどを描いた象形文字で,窓の原字。へやの空気が一本にまとまり,縦に抜け出ること。総の右側の字(悤 ソウ)は,それに心を加えたもので,多くの用事を一手にまとめて忙しいこと。總はそれを音符とし,糸を加えた字で,多くの糸をひとつにまとめて締めたふさ。一手にまとめる意となる。」

とあり(『漢字源』),「たばねる」意である。「すべ」るとしてまとめれば同じだか,「束ねる」のと,全体の筋を通す意とは,ずいぶん違う。統治を束ねる意とするすか,意図を貫徹するか,その違いは大きい。

「渾」(漢音コン,呉音ゴン)は,

「会意兼形声。軍は『勹(とりかこむ)+車』の会意文字で,戦車を円陣を生すように並べてまるくまとめること。郡や群と同系で,全体がまとまっている意を含む。渾は『水+音符軍』で,全体がまるくまとまり,溶けあっていること。混ときわめて近い」

とあり(『漢字源』),「にごる」「分化せずにひとつにとけあっている」という意である。

「都」(漢音ト,呉音ツ)の字は,

「会意兼形声。者(シャ)はこんろの上で柴をもやすさまで,火力を集中すること。煮(シャ)の原字。都は『邑(まち)+音符者』で,人々が集中する大きなまち」

であり(『漢字源』),あつまる,意である。

「凡」(漢音ボン,呉音ハン)の字は,

「象形。広い面積をもって全体をおおう板。または布を描いたもの」

で,おしなべる,意である。

それぞれの微妙な意味の差は「すべて」と括られる。日本語の曖昧さ,いい加減さをよく顕している。

では,「すべる」(すぶ)は,何処から来たか。

『日本語源広辞典』は,

「ス(総・統)+ブ(語尾)の下一段化」です。スバル,スボマルなどと同根です。」

とする。これだとよく分からないが,『大言海』は,「すぶ(統・総)」の項で,

すぶ(窄)の転,

とある。つまり,「すぼ(窄)む」を見ると,

「末含(すえほほ)むの意かといふ」

とある。「窄む」とは,すぼめて閉じ込める意である。そして,この「窄める」は,

壺の語を活用させた語,

とある(『岩波古語辞典』)。これは,「壺」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/449713166.html)の項で触れたように,「壺」自体が,

窪み,

に準えて言っており,,

坪,

とも当てた。どうやら,「すべる」は,我が国では,くぼみに押し込める含意がある。我が国の為政者は,なべてこういう「統べ」方をしてきたようだ。

因みに,「スバル」も,

「統ばる」(『日本語源広辞典』),

であり,「統べる」と関わる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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2018年11月17日

滑ったの転んだの


「滑ったの転んだの」は,

つまらない事をあれこれとやかましく騒ぎ立てる喩え,

で,

滑ったは転んだは,

とも言う。

どうでもいいことを言いたてる,

意である。しかしなぜ,

滑ったの転んだの,

がそういう意で用いられるかは定かではない。既に,『江戸語大辞典』にも,

辷ったの転んだの,

で載り,

ヤレどうしたこうしたと,つまらぬことを口やかましく,小うるさく言う形容,

とあり,

何のかの,

とも載る。つまり,当人にとっては何ごとか意味があることも,聞かされる側は,

滑った転んだ,

と同程度にどうでもいいこと,と言うことになる。

近所でどうしたこうした,

という噂話もそれかもしれない。江戸時代の用例だと,

「中々仇を討つのすべつたのころんだの,どうめいつたこうめいつたのと云様なった元気はなし」(寛政五年・年寄之冷水曽我)

「ヤレすべつたは転んだはと,其度に錢のいる事ばかりさ」(文化三年・酩酊気質)

「茶屋だの女郎屋だの,すべつたは転んだはと,内外の物入りが強くなる」(浮世風呂)

等々,どうやらも今日の,

「滑ったの転んだのと言い訳ばかりしている」(『デジタル大辞泉』)
「 すべったのころんだのとうるさいやつだ」

使いようからみると,口やかましく言い募るというよりは,

四の五の言う,

に近い感じである。「四の五の言う」は,口先だけで,あれこれ言う意で,

四の五の言わずにすぐやれ,

といった使い方をする。「四の五の」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/407591636.html)で触れたように,「四の五の」は,江戸末期の『俚言集攬』に載っているらしく,賭博用語で「一か八か」の対語として生まれた言葉で,サイコロの四と五の目の形が似ていたことから丁・半のどちらか選ぶか迷っているさま,あるいは,「四だの五だのと文句を言う」を意味した。ここから転じ,一般にも広く普及したが,いまではヤクザ映画や時代劇などで聞かれる程度になっている。

しかし,このほかに,

「一も二もなく」という「即座に」のという意味から,一や二どころか,四や五までぶつぶつ言うところから来ているという説,

四書五経(『論語』『大学』『中庸』『孟子』と『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)に由来し,「四書だの五経だのと理屈ばかりこねる」という意味,

等々もあるらしい。どちらにしても,意味は,

ああでもないこでもない,
ああだこうだ,

と言う意味に近い。滑ったり,転んだり,とい日常些事に振り回されているという意味では,この言い方は,なかなか含意が深いのかもしれない。

「滑る」は,『大言海』は,

「ヌメルの轉」

と(『日本語源広辞典』も同説)するが,その自動詞「すべす」の隣に,

すべすべ(滑滑),

が載る。

物の,滑る状に云ふ語,

とある。「ぬめる」よりは,擬態語,

すべすべ,

から来たのではあるまいか。『擬音語・擬態語辞典』は,「すべすべ」の項で,

「『すべる』の『すべ』と同源か」

としている。

「転ぶ」は,『大言海』は,

「轉(コロ)を活用させた語」

とする。「轉(ころ)」は,

「輾々(ころころ)の轉(墳(うぐ)も,うごもつ,軽々(かろがろ),かろがろ)。コロコロと轉ぶ,ころばす。ころがる,となる」

としている。『日本語源広辞典』も,

コロコロの擬態語,コロ+ぶ(動詞化),

とする。「すべる」も,「ころぶ」も,共に擬態語から来ている。状態表現としては,「滑ったの転んだの」とは,なかなか的確な言葉を選択したのかもしれない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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2018年11月18日

恋う


「戀」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/404894382.html))

でも触れたが,

「戀」(レン)の字は,

「会意兼形声。戀の上の部分(䜌 レン)は,『絲+言(ことばでけじめをつける)』からなり,もつれた糸にけじめをつけようとしても容易に分けられないこと。乱(もつれる)と同系統の言葉。戀はそれを音符とし,心を加えた字で,心がさまざまに乱れて思いわび,思い切りが付かないこと」

とあり(『漢字源』)。

「乱・巒(きりなく連なって続く山々)などととも同系統」

という。因みに「乱(亂)」(呉音・漢音ラン,唐音ロン)は,

「会意。左の部分は,糸を上と下から手でひっぱるさま。右の部分は,乙印で抑えるの意を示す。あわせて,もつれた糸を両手であしらうさまを示す。もつれ,もつれに手を加えるなどのいをあらわす。さめるの意味は後者の転義にすぎない。」

とある(仝上)。別の出典(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%81%8B)では,

「『戀』は、『心』+音符『䜌』、『䜌』は、『絲』+『言』でもつれた糸を分ける(『言』は『辛(大型の針状の刃物)』+『口』であり刃物で切り分けることが原義)ことで、音は『乱』に通ずる。人を恋したい心が乱れること。説文解字には掲載がない。」

とある。どちらも,糸と乱れと関わる。

こいしい,断ち切れずに心が引かれる,いつまでも慕わしく心が乱れる,

という意味で,必ずしも男女のそれを指さず,

留戀,
戀桟(職をほしがって執着する),
戀恩(めぐみに心が引かれるさま),

といった用例もある。

その「恋」を当てた,「こう(ふ)」は,『岩波古語辞典』に,

「あるひとりの異性に気持ちも身も引かれる意。『君に戀ひ』のように助詞ニをけるのが奈良時代の普通の語法。これは古代人が『戀』を『異性を求める』ことではなく,『異性に惹かれる』受け身のことと見ていたことを示す。平安時代からは『人を戀ふとて』『戀をし戀ひば』のように助詞ヲを受けるのが一般。心の中で相手を求める点に意味の中心が移っていったために,語法も変わったものと思われる。」

とあるように,

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか(壬生忠見『拾遺集』)

忍ぶれど 色に出でにけり 我が恋は 物や思ふと 人の問ふまで(平兼盛『拾遺集』)

と,その意味にシフトはあるものの,専ら男女のそれの意で使われる。『大言海』は,

「乞うに通ず。他の意中を求むる意」

とするが,『岩波古語辞典』は,

「『戀ひ』と『乞ひ』とを同源と見る説は,戀ヒはkop ïの音,乞ひはk öf ïの音で別音だったので成り立たない」

とし,『日本語源大辞典』も,

「『乞う』と関連づける説は,『恋う』の『こ』が上代甲類音,『乞う』の『こ』が乙類音であるところから,誤り」

とするのが,現在の説と見られる(なお,この上代特殊仮名遣いについては,https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BB%A3%E7%89%B9%E6%AE%8A%E4%BB%AE%E5%90%8D%E9%81%A3に詳しい)。その意味で,

「コフの原義は対者の魂を自分の方へ招致しようとすることで,この呪術ヲタマゴヒ(招魂法)といい,男女間の恋愛呪術の名にもっぱら使われるようになり,さらにその動機となる恋愛心情をコヒというようになった」

とする折口信夫(『抒情詩の展開』)も,

「コヒモトムル(乞求)の義」(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子),
「コヒ(乞),またはコヒ(心火)の義(言元梯),

も,魅力的なところはあるが,斥けざるを得ない。

しかし,『日本語源広辞典』は,二説挙げ,

説1 「コウ(乞ふ,恋フ)の連用形コヒ」で「恋い求める」意とする「大言海」説を通説とする,
説2 古代の仮名遣いから,来+合う,来+逢うのコヒで,古代から乞ふととは別語とする吉田金彦説,

として,「乞う」を通説とするのは,如何なものであろうか。

さらに,『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/ko/koi.html)の,

「恋の動詞表現は、現代では『恋する』が一般的であるが、古くは『恋ふ(こふ・こう)』で、『恋ふ』の名詞形が『恋』である。『恋ふ』は、人に対して物を与えてくれるよう求めたり、何 かをしてくれるよう願う意味の『乞う(こう)』と同根で、古くは、異性に限らず、花・鳥・季節など、目の前にない対象を慕う気持ちを表した。萬葉集では『恋』を表すのに『孤悲』を当てた例が多くみられる。やがて『恋』は目の前にない対象が異性に限られるようになり、『会いたい』『独り占めしたい』『一緒になりたい』といった、男女の恋愛感情を表す言葉となった」

とあるのも,「乞う」,

「神仏・主君・親・夫などに対して,人・臣下・子・妻などが祈り,または願って何かを求める意。『恋ひ』とは語源が別」(『岩波古語辞典』),

の意と,「祈・祷(こ)う」の,

「神に冥助を請ふ意より移る」(『大言海』),

と共に,誰か,何かに求める意を前提にしている。しかし,仮名遣いから「乞う」説は根本的に否定されているので,この変化の道筋は想像ということになる。ただ,「乞う」系でない語源説は,

心コリて来ヨと思フから(本朝辞源=宇田甘冥),
コは細微の義。小に止まるの義で,一人に止まってその人の為に細かい思いの進むをコフという(国語本義),
コトホス(言欲)の反(名語記),
コノミホシ(好欲)の義(名言通),
コは心,ヒはヤマヒ(病)の義か(和句解),
「媾」の字音koにハ行音の語尾を添えたもの(日本語原学=与謝野寛),

等々あるが,前述の,

「萬葉集では『恋』を表すのに『孤悲』を当てた例」(『語源由来辞典』)

という心の悲しみがどこにも捉えられていない。音韻上無理と解っていても,「乞う」に求めたくなる気持ちはわかるが,

「『君に戀ひ』のように助詞ニをけるのが奈良時代の普通の語法。これは古代人が『戀』を『異性を求める』ことではなく,『異性に惹かれる』受け身のことと見ていたことを示す。」(『岩波古語辞典』)

の「恋ふ」に「孤悲」と当てた,受け身の悲哀は「乞う」にはない。語感から見ても,「乞う」はないと思う。結局結論はないが,「孤悲」と当てた万葉人の心に焦点を当てた説でなくては納得できまい。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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ラベル:乞う 恋う
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2018年11月19日

したう


「したう」は,

慕う,

と当てる。『広辞苑第5版』には,

(恋しく思い,また離れがたく思って)後を追って行く。
会いたく思う,恋しく思う,なつかしく思う,
理想的な状態・人物などに対してそのようになりたいと願い望む,

という意味が載る。『デジタル大辞泉』には,

目上の人の人格・識見などにひかれる,憧れる,

という意味も載る。「恋う」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462774361.html?1542485492)の項で触れたように,『岩波古語辞典』は,「恋ふ」「したふ」「おもふ」「すき」「このむ」を区別している。「恋う(ふ)」は,

「ある,ひとりの異性に気持ちも身も引かれる意。『君に戀ひ』のように助詞ニをうけるのが奈良時代の普通の語法。これは古代人が『戀』を『異性を求める』ことではなく,『異性に惹かれる』受け身のことと見ていたことを示す。平安時代からは『人を戀ふとて』『戀をし戀ひば』のように助詞ヲを受けるのが一般。心の中で相手を求める点に意味の中心が移っていったために,語法も変わったものと思われる。」

「慕う(ふ)」は,

「シタ(下)オヒ(追)の約か。人に隠した心の中で,ある人・ある物を追う意」

とある。この説でいけば,「したう」の原義は,

追う,

という状態表現にあり,それに価値表現が加味されて,

惹かれる,
とか
恋しい,
とか
願い望む,

意に転じたことになる。「思う(ふ)」は,

「胸のうちに。心配・恨み・執念・望み・恋・予想などを抱いて,おもてに出さず,じっとたくわえて意が原義。ウラミが心の中で恨む意から,恨み言を外に言う意をもつに至るように,情念を表す語は,単に心中に抱くだけでなく,それを外部に形で示す意を表すようになることが多いが,オモヒも,転義として心の中の感情が顔つきに表れる意を示すことがある。オモヒが内に蔵する点に中心を持つに対して,類義語ココロは外に向かって働く原動力を常に持っている点に相違がある。」

であり,「好く」は,

「気に入ったものに向かって,ひたすら心が走る。恋に走る」

というように,外へ行動として顕れる,と見ることができるが,「恋う」「慕う」「思う」と同じく,語源的には,

「心を寄せる」

という意らしい(『日本語源広辞典』)ので,心の中の志向性を示す。「数奇」と当てると,

「茶の湯などを好むこと」

に代表される意になるが,「数奇」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/441133947.html)で触れたように,

「ある事柄に心を寄せる」(『日葡辞典』)

であり,傍から見ると,そののめり込みが,

「好きだなあ」

と,感じさせる意味だと考えていい。「好(この)む」は,

「性分に合うものを選び取って味わう意。類義語スキ(好)は,気に入ってそれに引かれ,前後の見境もなく,気持ち・行動がそれへ走っていく意」

とあり,

恋う→慕う→思う→好む→好き,

と,行動に顕現していく順位と見ることができる。今日だと,「慕う」の方が,「恋う」より心の中に秘める度が高そうに見えるが,原義的には,「恋う」は受け身であった。その含意があると,「好む」についての,

「戀祈(こひの)むの義,望こと切なる意」(『大言海』),
「コヒ+ノム(請+祈,恋+祈,乞+望)」(『日本語源広辞典』),

とする説明が活きる。

「慕う」の語源は,『岩波古語辞典』と同様に,『日本語源広辞典』も,

「『下+フ(継続・反復)』が語源です。上の地位にある人の下に,身を置き続ける気持ちです。子が親を,弟子が師をシタフ,のように使います。恋の場合は,男女にかかわらず,相手を上に置き,自分を下に置き続ける気持ちです。」

としている。『岩波古語辞典』との違いは,「人に隠した気持ち」にある。これが鍵なのではないか。しかし,『日本語源大辞典』の諸説も,

従フの意か(和訓栞),
シナフの意(名言通),
シタフリ(息渡通)の下略(柴門和語類集),
シトフ(後所触)の義(言元梯),
シタはシタ(下)の義から出たもので,従う義(国語の語根とその分類=大島正健),
下にカフの義か(和句解),
シは身に預からしめる義,タは平に心を治める義。シタに顕れ進むことをいうシタアフの略(国語本義),
シタシ(親)の転(和語私臆鈔),

等々,「シタオフ(下追)の約」(岩波古語辞典)説のように,「下」に置くニュアンスが多い。しかし,下に置くのだろうか。それは後世,師を慕う,というような意味に転じた後のことではないのか。

「関心・愛着を持って後を追う」

が原義に近いが,「追う」のは心の中であって,行動としてではない。僕は,

あこが(憧)れ,

に近いのではないか,と思う。もとの,「あくがる」は,『岩波古語辞典』は,

「所または事を意味する古語アクとカレ(離)との複合語。心身が何かにひかれて,もともと居るべき所を離れてさまよう意。後には,対象にひかれる心持を強調するようになり,現在のアコガレに転じる。」

であるが,転じた「あこがれ」の意と,「慕う」とは重なる。

「追う」のは心の中,

なのである。その意味では,

下ふ,

の「下」は,「下」の意味の中にある(『岩波古語辞典』),

隠れて見えないところ,

の意の,

物陰,
心の中,

の意なのではないか(『岩波古語辞典』)。「フ」は,接尾語「ヒ」であり,「ヒ」は,

「四段活用の動詞を作り,反復・継続の意を表す。例えば,『散り』『呼び』といえば普通一回だけ散り,呼ぶ意を表すが,『散らひ』『呼ばひ』といえば,何回も繰り返して散り,呼ぶ意をはっきりと表現する。元来は,四段活用の動詞アヒ(合)で,これが動詞連用形のあとに加わって成立したもの。」

で,その意味で『日本語源広辞典』の,

「下+フ(継続・反復)」

説と重なる。ただし,下にあるという心の位置ではなく,心の中に密かに持ち続ける意ではないかと思う。

因みに,「慕」(漢音ボ,呉音モ)の字は,

「会意兼形声。莫(マク,バク)は,草むらに日が没して見えなくなるさま。ない意味を含む。慕は『心+音符莫』で,身近にないモノを得たいと求める心のこと」

である。まさに心の中の動きである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:したう 慕う
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2018年11月20日

おもう


「おもう」は,

思う,
想う,
憶う,
念う,
惟う,
慮う,
懐う,
意う,
顧う,

等々と当てる。主観的な意味を,漢字を当てにして当て分けるというのは日本語表記のよくある様だが,漢字では,厳密に意味を分けている。漢字では,

「思」は,思案するなり。慎思,再思の如し。又したひおもふ義。思慕と用ふ。相思とは互いに戀ふるなり。
「憶」は,思ひ出すなり。憶昔,憶得の如し。
「懐」は,ふところ,いだくとも訓む。心にとめて思ふなり。胸懐,懐抱と連用する。論語「君子懐刑,小人懐恵」。
「意」は,こころばせと訳す。おもはくをつける義。志之發也と註す。かくならんかと疑ふ意を帯ぶ。
「念」は,思字より軽し。いつも念頭にかけて忘れぬなり,又読書を念書ともいふ。口に唱ふる義。念仏,念願とも連用する。
「想」は,心に従ひ,相に従ふ。形相を心にうつし思ふなり。想像と連用する似て知るべし。
「惟」は,只一筋に思ふ義。伏惟,恭惟など,発端に用ふる助辞なり。
「顧」は,心に顧み思ふ義。史記「顧力行何如耳」。
「慮」は,おもんぱかる義。よくよく考える,思いめぐらす。深慮,神慮,短慮,慮外。

等々といった微妙な使い分けをする(『字源』)が,和語は「おもふ(う)」である。

「したう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462789267.html?1542572024)で触れたように,その「思う(ふ)」について『岩波古語辞典』は,

「胸のうちに。心配・恨み・執念・望み・恋・予想などを抱いて,おもてに出さず,じっとたくわえている意が原義。ウラミが心の中で恨む意から,恨み言を外に言う意をもつに至るように,情念を表す語は,単に心中に抱くだけでなく,それを外部に形で示す意を表すようになることが多いが,オモヒも,転義として心の中の感情が顔つきに表れる意を示すことがある。オモヒが内に蔵する点に中心を持つに対して,類義語ココロは外に向かって働く原動力を常に持っている点に相違がある。」

とし,

おもてに出さず,じっとたくわえている意が原義,

とする。その「おもう」の語原について,『広辞苑第5版』は,

「『重い』の語幹オモと同源か。一説に,『面(おも)』を活用させた語という」

とするが,『岩波古語辞典』は,

「オモヒをオモシ(重)に関係づける説は,意味の上から成立しがたい」

と否定する。『日本語源広辞典』は,二説挙げる。

説1は,「オモ(面)+フ(継続・判覆・動詞化)」です。相手のオモ(面・顔)を心に描き続ける意です。顔に表れる心の内の作用を表します。なお,古代「モ(面)+フ」の語形(東歌・防人歌)も使われていました。
説2は,「重+フ」です。物を思ふ気分とは,重い気分であるという語源説もあります。

「物思い」という言葉が別にあり,思い悩む意で使う。そこでは,

「もの+おもう」

とある「おもう」が前提になって使われている。重複が過ぎるように思う。「おも(面)」は,

「上代では顔の正面の意。平安時代以降,独立してはほとんど使われず,『面影』『面変り』『面持』などの重複に残った」(『岩波古語辞典』)

とあり,「も(面)」も,

「オモのオの脱落した形」(仝上)

とあり,

オモ+ヒ,
モ+ヒ,

のオモ,オは,オモテ(面)と見るのが妥当なのではないか。

「オモ+フ」

は,「慕う」の,

「下+フ」

と重なる。しかし,『日本語源大辞典』は,諸説を,

①オボオボシ(朧朧)から生じた語オモ(面)から。面に顕れる心の内の作用をオモフという(国語溯原=大矢徹),
②形容詞オモイ(重)の語幹オモから生じた語か。重たいような心持,すなわち物思いに沈むような感覚,そこから進んで思考という意が出たのではないか(東亜語源志=新村出),重く沈んで考える意か(国語の語根とその分類=大島正健),
③オモヒはオモキヒ(重火)か,あるいはオモテノヒ(面火)の意か(和句解),
④ウマハフ(心廻)の転(言元梯),
⑤オモヒはウラマドヒの約で,心の物にまつわるようになる意。ウラは心の意(和訓集説),
⑥オモヒはオモヒ(母日)の義。母は物を生ずるところから(和語私臆鈔),
⑦オヒモトム(追求)の義(名言通),
⑧愛慕する意のオモフは「忄奄」の音om。考察する意のオモフは「案」の別音on(日本語原学=与謝野寛),
⑨オモ(面)オフ(覆)の約か。胸の内に,心配・怨み・執念・望み・恋・予感などを抱いて,おもてに出さす,じっとたくわえている意か(岩波古語辞典),

と挙げた上で,

「『面(おも)』に『ふ』を付けて活用させたものとして,原義を「気持ちを顔に表す」とする①説がある。また⑨説のように『オモ(面)』を『オモテ』とみて,種々の感情をおおう意とする説もみえる。また,②説のように『重(おも)』に『ふ』を付けて活用させたもので。何も考えない心の静かな状態に対して,物を思う意識を『重い気分,気持ち』ということで表現したものだという。したがって,⑥のような俗解は別として,『オモフ』の『オモ』は『面』か『重』に関連するとする説に分かれそうであるが,現状では定説をみない。」

とする。ここでは,「おもふ」の意味が,『岩波古語辞典』の言うように,

おもてに出さす,じっとたくわえている意,

とし,

胸の中で慕う,
胸の中で願う,
胸の中で悩む,
心の中で考える,
胸の中で決心する,

等々の「おもい」が,

忍ぶれど 色に出でにけり 我が恋 物や思ふと 人の問ふまで(平兼盛『拾遺集』),

のように,知らず知らず顕れる意として,

オモテ+フ,

と,取りあえずしてみる。「慕う」と同じである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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