2018年11月21日

飢饉


菊池勇夫『近世の飢饉』を読む。

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本書は,江戸時代の飢饉を,

寛永の飢饉,
元禄の飢饉,
享保の飢饉,
宝暦の飢饉,
天明の飢饉,
天保の飢饉,

と順次追っていく。しかし,その前の元和にも飢饉があり,実は,戦国時代もまた飢饉の時代であった。というより,

七度の飢饉に遇うとも,一度の戦いに遇うな,

という言い伝えがあるほど,飢饉は常態であった。慶応にも,明治になっても飢饉がある。さらに,

「近代に入っても明治二(1869)年,同十七年,同三〇年,同三五年,同三八年,大正二(1913)年,昭和六(1931)年,同九年と東北地方を中心に凶作が繰り返された。」

と,近代になっても続くのである。例えば,本書の年表を見ると,

元和元年(1615)奥羽冷害による大凶作,
寛永元年(1624)陸奥飢饉,
寛永三年(1626)旱魃により諸国飢饉,
寛永一六年(1639)西日本で牛疫病(翌年がピーク),
寛永一八年(1641)旱魃・洪水・冷害などで全国的に大凶作,
寛永一九年(1642)大凶作,

と,飢饉が続く。特に江戸時代始め,一七世紀は,一大水田開発時代で,中世までは水田中心ではなかった地域まで,開発が進む。

「大河川の乱流する沖積平野が幕藩領主の大土木事業によって美田に作りかえられ,(中略)全国の高知面積および実収石高は,1600年段階においておよそ206万5000町歩・1973万1000石であったものが,100年後には284万1000町歩・3063万石に増え,これに伴い人口も1200万人から2769万人に急増した。」

東北各藩でも,事情は同じで,

「十七世紀の大開発時代を通して東北農村は一部山間地帯を除き,水田稲作を基調とする田園地帯に変貌を遂げた」

のである。しかしこの時期稲作の北限であるこの地域にとって,冷害に強い赤米ではなく冷害に弱いとされる「岩が稲」というような「商品として売れる多収量」の晩稲を作付けせざるをえない。それは,「市場経済の論理が米づくりの現場に」入り込んみ,

「年貢米にせよ農民手元米にせよ,全国市場に販売するための商品に基本性格が大きく変えられてしまったからである。」

たとえば,仙台藩では,

「販売を目的として江戸回米は『武江年表』などによると,寛永九(1632)年に始まるとされ,後々には江戸の米消費量の三分の一ないし三分の二を仙台米が占めたとまでいわれ,…1650年代,すでに蔵米七~八万石,家中米・商人米七~八万石の合わせて一五~一六万石もの米が回米されていた。年貢米のほか藩による買米もすでに一七世紀段階に始まっていた。」

つまり,

「東北各藩の活発な江戸・上方回米をみれば,一七世紀後半の新田開発は,おもに大消費地たる上方や江戸への年貢米売却を目当てに,藩権力によって積極的に取り組まれた」

のである。これが,冷害・凶作時に悲劇を倍化させる。例えば,弘前藩では,寛永飢饉に際し,

「米価の高騰する端境期に,前年度米を売り急いで儲けようとする藩当局の判断が領内の米払底をもたらし,はやくも八月末に餓死者が出るような飢餓状態を招く」

のである。この背景にあるのは,

「参勤交代制によって江戸に藩邸が設けられ,そこに居住する大名妻子の生活費や家臣団の俸給はむろん,幕府への奉仕や諸藩との交際など『江戸入用』がかさみ,それへの送金を必要とした。年貢米の三分の一以上が『江戸入用』に当てられ,…そうした増大傾向の江戸での出費を賄うためには,年貢米を上方や江戸に売却して貨幣を獲得するほかなかったのである。」

しかも,

「農民たちは,年貢米を上納した残りの手元米を在町や城下の商人に売却して現金を手にし,それで農具や生活用品を購入する生活・消費サイクルのなかにまきこまれるよになっており,凶作の備えはあとにしても,少しでも米相場があがれば売りたくなる衝動に駆られる時代に突入していた。」

農民自身もまた,先を争って高値で売りさばこうとする。

江戸期の飢饉の中で,享保の飢饉に際してのみ特徴的なのは,他の飢饉では見られない,幕府の積極的な介入である。そのため,「飢饉状態からの脱却が比較的はやかった」とされる。

行政がなすべきことをなせば,ある程度の救済ができるのである。飢饉に対して,各藩の対応で死者に格段の差が付くのも,同じである。天明の飢饉の教訓から,「社倉」という,

「民間の人々がそれぞれ穀物を出し合って自治的に共同管理する備荒倉」

があるが,例えば秋田藩では,

「藩側による統制力の強い郡方備米が設置されていたが。しかし。天明の飢饉の経験が遠くなると,備米嫁し付けの金融利殖の方に関心が傾き,現物を貯える備荒の本来の機能がないがしろにされてしまい」

「天保三(1832)年は六~七分の作柄にとどまり,そのため貸方分を回収することができず,帳面上はともかく空き蔵状態となった。また,天保三年七,八月ごろ米値段がにわかに高くなり,自分用に『凶作の備籾』をもっていたものたちもこの時とばかり売り払ってしまった」

ために,翌四年の大凶作に無防備となった。

江戸時代,あるいは戦前まで,不純な天候に襲われ,定期的に飢饉に見舞われた。二二六事件は,そのさなかで起きている。それは過去の話ではない。戦後1993年には大凶作が再来し,急遽外米が緊急輸入される事態となった。

今日,耕作地が放棄され,高齢化が進む中,飢饉は,別の形で來る。しかし,その備えは,いまの政府にあるのだろうか。今度は,国際的な大凶作になったとき,江戸時代に国内で起こったことが,世界規模で起こる。穀物自給率30%と低いわが国に,その備えがあるとは思えない。飢饉は,必ずしも過去のことではないのである。

参考文献;
菊池勇夫『近世の飢饉』(日本歴史叢書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
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書評
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2018年11月22日

このむ


「このむ」は,

好む,

と当てる。「好」(コウ)の字は,

「会意。『女+子(こども)』で,女性が子どもを大切にかばってかわいがるさまを示す。大事にしてかわいがる意を含む。このむ(動詞)は去声,よい(形容詞)は上声に読む。」

とある(『漢字源』)。趣味の意でつかう「好み」の意で使うのは,我が国だけである。「好」は,

「思ひてみてよしとする義」

ともある(『字源』)。因みに「善」(漢音キ,呉音コ)は,

「このみてと訓む。嬉しがる義」

とある。『岩波古語辞典』に,「好(この)む」は,

「性分に合うものを選び取って味わう意。類義語スキ(好)は,気に入ってそれに引かれ,前後の見境もなく,気持ち・行動がそれへ走っていく意」

とある。漢字の「好」は,漢文では,「すく」「すき」とは訓ませないという。それは,「好」の漢字の意味と「このむ」の意とが,少しずれているからだろう。

漢字「好」は,対語は「悪」(にくむ)とあり,

よし,
うつくし,
みめよし,

と,価値表現が強く入っている感じである。『大言海』は「好む」の意に,

嗜む,
好く,
愛ず,

の意を載せる。これは,「好く」に近い。「好く」は,

「好く」は,

「気に入ったものに向かって,ひたすら心が走る。恋に走る」

というように,外へ行動として顕れるという含意があるからだろう。趣味の意の「好み」が,我が国だけであるのは,この「このむ」の意味の流れからは当然である。

「したう」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462789267.html?1542572024)で触れたように,「数奇」と当てると,

「茶の湯などを好むこと」

に代表される意になるが,「数奇」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/441133947.htmlで触れた)は,

「ある事柄に心を寄せる」(『日葡辞典』)

であり,傍から見ると,そののめり込みが,「好きだなあ」と,感じさせる意味だと考えていい。「このむ」の意味の外延はここまで届く。

『大言海』は,「このむ」の語源を,

「恋祈(こひの)むの義。望こと切なる意(言ひさかふ,いさかふ)」

とする。しかし「このむ」の,

性分に合うものを選び取って味わう意,

とは少しずれはしまいか。しかし,『日本語源広辞典』も,

「コヒ+ノム(請+祈,恋+祈,乞+望)」

と,欲しいと望む意,とする。さらに,『日本語源大辞典』の挙げる諸説も,

コヒノム(戀祈)の義(言元梯),
コヒノゾム(乞望)の義(名言通),
コトノゾメル(事望)の義(名語記),
女は子を願うものであるところからコノムマルル(子生)の義か(和句解),
此の方に望むの意でコ(此)ノム(祈)から(日本語語源学の方法=吉田金彦),

等々,「望む」「恋う」「請う」「乞う」の含意が強い。確かに,『江戸語大辞典』の「好む」の項は,

望む,
所望する,

という意になっている。しかし,「このむ」の形容詞化とされる,

このまし,
このもし,

は,

好みに合う,

という意味である。この意味からすると,僕の語感では,「望む」「恋う」「請う」「乞う」の含意とは微妙に差異がある。

乞う,

というより,

味わう,

含意が強い。語源説諸説は,その微妙さを見逃している気がする。敢えて言えば,

此の方に望む,

の,「望む」が近いのではないか。「このまし」は,

「好むの未然形の,コノマを活用せしむ。されば,不確定の意あり」

としている。この微妙さがなくてはいけないのではないか。でなくては,趣味の意の「好み」へと意味がシフトしていく流れが見えてこない。『日本語語感の辞典』は「好む」を,

好きだという意味,

とする。乞う,請う,とは微妙に異なる。

参考文献;
中村明『日本語語感の辞典』(岩波書店)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;
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書評
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ラベル:好む このむ
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2018年11月23日

告往知来


「告往知来」は,

こくおうちらい,

と訓ませる。類義語に,

一を聞いて十を知る,
挙一反三,
挙一明三,

等々がある。「挙一明三」以外は,『論語』が出典である。

「告往知来」は,『論語』学而篇の,

子貢曰、貧而無諂、富而無驕,何如,子曰、可也,未若貧時樂道、富而好禮者也, 子貢曰、詩云、如切如磋,如琢如磨、其斯之謂與,子曰、賜也,始可與言詩已矣,告諸往而知來者也。

の,

諸(これ)に往(おう)をつげて来(らい)を知るものなり,

から来ている。師の,

「未だ貧しくして道を楽しみ、富て礼を好むねのには若かざるなり」

に,子貢が,

「詩に『切するが如とく磋(さ)するが如ごとく、琢(たく)するが如く磨(ま)するが如とし』と云へるは,それ其(こ)の謂か。」

と応じたのを,

「告往知来」

と評したのである。つまり,「往き道を教えれば,帰り道を知る」と喩えたのである。

彰往察来(しょうおうさつらい),
鑑往知来(かんおうちらい),
彰往考来(しょうおうこうらい),
数往知来(すうおうちらい),

とも言うらしい。因みに,子貢のいう「詩」とは,『詩経』衛風の淇奥(きいく)篇の,

「淇(き)という川の曲がりくねって奥まった,こんもりとしげった緑の竹藪のところに,目もあざやかに一人の貴族が立っている。この貴族は,衛の名君武公を象徴するとされ,その人格をたたえた」

詩という(貝塚茂樹)。この詩を引いて,

「富んでいながら,しかも礼を好む,いやがうえにも自己の向上をはかるものの境地が表現されていると解した」

のである(仝上)。

「一を聞いて十を知る」は,『論語』公冶長篇の,

子謂子貢曰、女與回也孰愈、対曰,賜也、何敢望回、回也聞一以知十、賜也聞一以知二、子曰、弗如也、吾與汝弗如也。

の,

回は一を聞いて以て十を知る,

から来ている。で,顔回に比べて,子貢自身は,

一を聞いて以て二を知る,

評す。これを見ると,

告往知来,

の,という子貢の聡さは,

一を聞いて以て二を知る,

というレベルということになる。

「挙一反三(きょいちはんさん)」は,『論語』述而篇の,

子曰、不憤不啓、不非不発、挙一偶、不以三隅反、則不復也。

の,

一隅を挙げて,三隅を以て反(かえ)らざれば,則ち復(また)せざるなり,

から来ている。つまり,

一隅をあげて説明すれば,三隅を以て応答する,

という学ぶ側の姿勢を問うている。ここでは,ただ理解ではなく,

「自分で問題をもち,それを説こうとする」

姿勢が問われている。問題意識,探求心,と置き換えてもいい。『碧巌録』に據るという,

「挙一明三(こいちみょうさん)」は,

ほぼ同義だが,

「一を挙げて三を明らかにす」

とも読むので,「挙一反三」の一歩先を行くのかもしれない。その先に,

百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう),

が来るのかもしれない。

百尺竿頭に須く歩を進め、十方世界に全身を現ずべし(長沙禅師),

は到底及ばない世界である。「百尺竿頭」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/426438375.html)についてはすでに触れた。

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)

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コトバの辞典;
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2018年11月24日

足軽


「足軽」の意味は,時代によって少し違うが,当初は,『大言海』の言う,

「軽捷に走り回りて働く意,萬葉集に足柄(アシガラ)小舟(ヲブネ)とあるも,船足の軽き意なりと云ふ」

の通りで,『日本語源広辞典』も,

「足軽く疾走する雑兵」

とある。『日本語源大辞典』も,

足軽く走るから(貞丈雑記),
呉子に,軽足とある物に相当する。能ク走ル者の意(南嶺子・嘉良喜随筆・和訓栞),

にある通りである。しかし戦国時代とそれ以前とは意味が変わる。たとえば,

「鎌倉時代の軍記物にすでに足軽という名称がある。当時の戦争は,騎馬による個人的戦闘が主であるから,足軽は,主要戦闘力としてではなく,後方攪乱,放火などに使用され,荘園の一般農民から徴発された。鎌倉時代末期から南北朝動乱以降,戦闘形態が,個人的戦闘から次第に歩卒による集団的戦闘に変化していくに従って,戦争における足軽の活躍が顕著になった。室町時代には,平時は農耕に従事する農民が戦時には陣夫として徴発される体制が一般的に成立した。特に山城,大和などは荘園制の崩壊,農民層の分解が早かったので,この体制の成立も早かった。応仁,文明の大乱 (→応仁の乱 ) のときには,畿内には山城足軽衆や郡山足軽衆などと呼ばれる足軽の組織があって,東西両軍いずれかの陣営に属していた。彼らは経済的目的のみに走り,放火略奪をもっぱらにした。一条兼良が『樵談治要』のなかでこれを時局の弊としてあげているのは有名。」(『ブリタニカ国際大百科事典』)

とある。応仁の乱において,

「土民(百姓)が『足軽と号し』て略奪を働いている(『大乗院寺社雑記』)といわれ,あらたに足軽という名の雑兵たちが出現するのです。戦場の主役は土一揆に代わった足軽たちで,『足軽と号す』つまり『おれは足軽だ』とさえいえば,戦場となった京では,略奪も野放しだったらしいのです。」(藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』)

この時,土一揆の主役だった百姓が周縁の村々から流れ込んできていた。このとき,

「東軍の足軽(疾足)300余人が宇治神社を参詣する姿を人々が目撃したものとして、『手には長矛・強弓を持ち、頭には金色の兜や竹の皮の笠、赤毛など派手な被り物をかぶり、冬だというのに平気で肌をあらわにしていた』という」

し,

「『東陣に精兵の徒300人あり、足軽と号す。甲(かぶと)を擐せず、矛をとらず、ただ一剣をもって敵軍に突入す』と記され、兵装に統一性がなかった」

らしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E8%BB%BD)。しかし,戦国時代になると,

「戦国大名の統制によって,兵農分離が進み,戦争も鉄砲,火薬などが使用されるようになったのでその重要性が増し,訓練された歩卒となり,足軽大将の下に鉄砲足軽,弓足軽として常備軍に編入された。」(仝上)

とある。

上記にある,「雑兵」(ぞうひょう)は,足軽とイコールではない。戦国時代,

「身分の低い兵卒をいう。戦国大名の軍隊は、かりに百人の兵士がいても、騎馬姿の武士はせいぜい十人足らずであった。あとの九十人余りは雑兵(ぞうひょう)と呼んで、次の三種類の人々からなっていた。
①武士に奉公して、悴者(かせもの)とか若党(わかとう)・足軽などと呼ばれる、主人と共に戦う侍。
②武士の下で、中間(ちゅうげん)・小者(こもの)・荒子(あらしこ)などと呼ばれる、戦場で主人を補(たす)けて馬を引き槍を持つ下人(げにん)。
③夫(ぶ)・夫丸(ぶまる)などと呼ばれる、村々から駆り出されて物を運ぶ百姓(人夫)たちである。」

と,雑兵の中には,侍と武家の奉公人(下人)も動員された百姓が混在している(藤木久志『雑兵たちの戦場』)。

いわば,武家の家臣には,家子,郎党,若党。忰者(かせもの),がいる。ここまでは,名字を持つ。

「武士の従者で,地位の高い者を郎等,郎等のうち主人と血縁関係のある者を家子(いえのこ)と呼」

ぶ。「郎等」は「郎党」とも書き,

ろうとう,
ろうどう,

とも訓む。家子は,

「郎等のうち主人一家に擬せられた」

ものとあるので,必ずしも血縁を意味しないようだ。その下の従者には,

若党(わかとう),
忰者(かせもの),

がいる。

家子→郎党→若党→忰者,

の順位で,「若党」は,

「本来は年輩,器量のしかるべき老党に対して,若者の寄合という意味からおこった称呼である。《貞丈雑記》には〈若党と云はわかき侍どもと云事也〉とあるが,若党という称呼は,室町時代まではまさしくこの意味で使われており,主君の側近くに仕えて雑務に携わるほか,外出などのときには身辺警固を任とする若侍たちをさす。〈一人たう千のはやりおのわかとう〉とか〈譜代旧恩ノ若党〉といった表現が示すように,若党は武士としての評価も高く,また主君とは強い情誼に結ばれている場合が多いので,合戦の際などにも,主君と命運をともにしている若党の事例は枚挙にいとまない。」(『世界大百科事典』)

となる。「忰者」は,

「貧しい者の意」(『岩波古語辞典』)

で,

「苗字を持つ侍身分の最下位」

であり,この下に中間が来る。

「中間は〈名字なき者〉とされた(《小早川家文書》)。戦国期の農村では,〈ちうげんならばかせものになし,百姓ならばちうげんになす〉(《児野文書》)というように,農民が中間からかせ者へと侍身分に取り立てられるのが名誉・恩賞とされ,〈諸奉公人,侍のことは申すに及ばず,中間・小者・あらし子に至るまで〉(《近江水口加藤家文書》)というように,武家の奉公人には侍,中間,小者,荒子の四つの身分序列が一般的に成立していた。」(仝上)

中間→小者→あらし子,

に順位づけられる。しかし,彼らは,侍の身分とされている。豊臣秀吉が天正十九(1591)年発した3ヵ条の身分統制令では,

「侍(さむらい),中間(ちゅうげん),小者(こもの)ら武家奉公人が百姓・町人になること」

を禁じた。つまり,この時点では,あらし子までは侍身分としたのである。彼らは,戦場で土木,小荷駄,炊事などの雑役に従事した。まさに,

雑兵,

に当たる。

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参考文献;
戸川淳編『戦国時代用語辞典』(学研)
藤木久志『【新版】雑兵たちの戦場-中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日選書()
藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』(朝日選書)

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書評
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ラベル:足軽
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2018年11月25日

どきどき


「どきどき」は,

ハラハラドキドキ,

の「どきどき」である。

激しい運動、または不安・恐怖・驚きなどで心臓の動悸が速くなるさま,

を示す擬態語だが,心臓の動悸の,

ドキドキ,

の擬音語にも思える。『大言海』は,

鼓動,

と当て,

心臓の鼓動の甚だしきに云ふ語,

とある。で,「こころときめき」の項とつなげ,「こころときめき」に,

心悸,

と当てて,こう書く。

「トキは,心臓の鼓動を形容して云ふ語(今,ドキドキすると云ふ)。メキは,むくむく(蠢),ほのめく(閃)などのメクの,名詞形なるべし(トキメクと云ふごもあり)。されど,終止形なるを見ず,又,心を冠せざるを見ず」

「ときめき」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/448077304.html)で触れたように,「ときめく」は,

「『どきどき』は『はらはら』『わくわく』と合わせて使うことも多い。…また,『どきどき』からできた語に期待や喜びなどで心がおどる意の『ときめく』がある。」

とある(『擬音語・擬態語辞典』)「どきどき」が,

どき(どき)めき→ときめき,

と,転訛したことになる。

さて,「どきどき」は,

「どきどき」は,

激しい運動や病気で心臓が鼓動する音,
あるいは
心臓の鼓動が聞こえるほど気持ちが高ぶる,

の意味で,心臓の「ドキドキ」の擬音語である(仝上)。

「室町末期の『日葡辞典』では,『だくだく』の項目に『胸がだくだくする』という用例を挙げている。これは現在の
『どきどき』と同じ意味だと考えられる。」

とある(仝上)。「だくだく」は,

「汗だくだく」

というように,

「汗・血などが盛んに流れ出るさま」

で使う。しかし『広辞苑第5版』には,その他に,

「動悸がしておちつかないさま,どきどき」

の意も載る。これについて,『擬音語・擬態語辞典』は,

「『だくだく(dakudaku)』のように『d-k』という子音の組み合わせを繰り返した語は,体液の激しい流動を表すものが多い。『どきどき』『どくどく』。また,これらは,まず口の中の開き方が大きい広母音ア・オがきて,次に口の中の開き方が小さい狭母音イ・ウ(daku・doki・doku)が来る点でも共通しており,母音の広狭のくり返しがまるで血管の伸縮のくり返しを写すような印象を与える。」

とする。まさに,擬音である。

「だくだく」は,

「室町時代から見られる語。ただし,当時は疾走する音または様子や,激しく脈打つ様子を表した。『馬の足音がだくだくと致す』(『日葡辞典』),体液が流れ出す様子を表すのは江戸時代以降だが,当初は汗に限らず乳や血にも用いた。『乳母は乳をだくだくこぼす初の首尾』(『知恵車』)」

と,「どくどく」と「どきどき」の意味を重ねもっていたようである。

「どくどく」は,いまでは,

「液体の盛んに流れ出るさま」

の意だが(『広辞苑第5版』),『擬音語・擬態語辞典』には,

興奮や怒りなどで心臓が高鳴ったり,脈が激しく打ったりする音,

という意味も持っているようなので,「どきどき」へと純化するプロセスでは,

だくだく→どくどく→どきどき,

の意味が重なっているようである。『江戸語大辞典』の「どくどく」には,

大型の徳利から酒を出すときの音によっていうか,

とすでに意味がシフトしている。さらに「どきどき」は,

「なんじゃまたどきどきと分からぬことが出来て来たと泥八も尻もぢもぢ」

という用例が載り,意味が,擬音という状態表現から価値表現へとシフトして,

ややこしいさま,

の意に転じている。因みに,「だくだく」は,

汗・血などの盛んに流れるさま,
胸の轟くさま,
足のがくがくするさま,

と,「どきどき」と重なる意味を保っている。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
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書評
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ラベル:どきどき
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2018年11月26日


「ど」は,接頭語で,

「或る語に冠して,嘲り卑しむ意を表す語」(『大言海』)
「ののしりいやしめる意を表す」(『岩波古語辞典』)

等々とある。確かに,

ど近眼,どあほ,ど素人,どけち,ど下手,どスケベ,どブス,ど貧民,ど腐れ,

等々というように(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%A9),「罵倒」の言葉になることもあるが,

ど根性,どまんなか,ど迫力,ど肝(を抜く),どつぼ(にはまる),

と言ったり,

ど演歌,

と言ったり,

どえらい,どぎつい,どでかい,どあつかましい,ど派手,

と言ったりするような(仝上),必ずしも嘲罵したりするのではなく,

強調,

する遣い方もある。確かに,

「名詞や形容詞の意味を強調する。語によっては品性に欠けるニュアンスが強い。」

という側面(仝上)はあるにしても。

『広辞苑第5版』は,

「近世以来,関西で」

として,

ののしり卑しめる意を表す(「ど阿呆」「ど畜生」),

の意以外に,

その程度が強いことを表す(「どぎつい」「どまんなか」),

の意も載せている。

「『ど』を単語の前につけた場合は、後の単語の意味を強調する場合が多い。」

ともある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A9)。

この「ど」はどこから来たのか。

『日本語の語源』は,

「イト(甚)はト・ド(甚)に省略されて強調の接頭語になった。ドマンナカ(甚真中)・ドテッペン(甚天辺)・ドコンジョウ(甚根性)・ドショウボネ(甚性骨)・ドギモ(甚肝)・ドエライ(甚偉い)・ドデカイ(甚大きい)・ドギツイ(甚強い)・ドヅク(甚突く)など。
 とくに嘲罵の気持ちを強調するときによく用いられたので,卑しめののしる接頭語になった。名詞に冠らせてドアホ(甚阿呆)・ドギツネ(甚狐)・ドコジキ(甚乞食)・ドシャベリ(甚喋り)・ドタヌキ(甚狸)・ドタフク(甚お 多福)・ドタマ(甚頭)・ヂチクショウ(甚畜生)・ドテンバ(甚お転婆)・ドヌスット(甚盗人)・ドブキヨウ(甚不器用)・ドチャッコ(甚奴。子供の罵称)。
 形容詞に冠せられてドアツカマシイ(甚厚かましい)・ドイヤシイ(甚卑しい)・ドシブトイ(甚しぶとい)・ドビツコイ(甚執こい)・ドベラコイ(甚腹黒い)・ドスコイ(甚狡い)・ジギタナイ(甚汚い)。
 強調のあまり長母音を添加することもある。ドーアホー(甚阿呆)・ドーコジキ(甚乞食)・ドーシブトイ(甚しぶとい)・ドーチクショウ(甚畜生)・ドーヌスット(甚盗人)・ドーブルイ(甚震い)・ドーベラコイ(甚腹黒い)・ドースケーベ(甚助平。助平は『好き者』の転)。
 イトモ(甚も)の転トモはドンに転音して強調・嘲罵の接頭語になった。ドンゾコ(甚も底)・ドンボーズ(甚も坊主)・ドンビャクショウ(甚も百姓)・ドンガラ(甚も躰)・ドンケツ(甚も尻)・ドンジリ(甚も尻)・ドンツベ(甚も尻)・ドンパラ(甚も腹)・ドンヅマリ(甚も詰まり)。」

と,イト(甚)の転訛系の中に位置づけている。ただ,他に,「ど」を「いと(甚)」の転訛とする説がなく,是非の判断はしかねる。

素人が言うのもおこがましいが,「ど」の強調は,程度の度外れを言っている気がする。

度が外れる,
度が過ぎる,

の「度」は,多様な意味があるが,

物事の基準・標準とすべきもの,

の意で,

ほど,
ほどあい,

の意味がある。程度・限度と使う「度」である。僕には,この,

度,

に思える。「度」(呉音ド,漢音ト,タク)の字は,

「形声。『又(て)+音符庶の略体』で。尺(手尺で長さをはかる)と同系で,尺とは,しゃくとり虫のように手尺で一つ二つと渡って長さをはかること」また,企図の図とは,最も近く長さをはかる意から転じて,推しはかる意となる。」

で(『漢字源』),尺度の意である。「度」はこの漢字から来ている。

程度,

の意である。どう考えても,

罵倒の「どあほう」にしても,
強調の「ど迫力」にしても,

度が外れるの,「度」に思えてならない。「度胸」は,我が国の作った言葉だか,この「度」は,まさに,

ど肝の,

「ど」ではないか。『広辞苑第5版』は,「どぎも」に,

度肝,

と当てている。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

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コトバの辞典;
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2018年11月27日

バックシャン


「バックハャン」は,もう死語だろうか。

後ろから見た姿がかっこいい・魅力的であること,

というより,あるいは,

「後ろ姿の美しい女性。特に、後ろ姿だけが美しい女性を俗にいう語」(『大辞林 第三版』)

というよりも,

「昭和初期には、後ろ姿は美しいが前から見ると失望するような場合に多く用いられた。」

という(『デジタル大辞泉』)落胆の方に意味の陰翳があるように思う。

「後姿が美しい女性を指して用いる語。後から見ると美人だと期待できるが、前から見ると美人ではない場合に皮肉を込めて用いられることが多い。」

という説明が正確かもしれない(『実用日本語表現辞典』)。これは,

英 back+ドイツ schön,

と,英語で背中をあらわすバックとドイツ語で美しいという意味のシャンを合わせてできた,和製語らしい。

シャン,

は,

「(ドイツ)schön(美しい、の意)から)美しいこと。また、美人。もと、旧制高等学校生の学生語」

というので,由来は古いが,昨今,こんな形容詞はしない。

『日本語俗語辞典』(http://zokugo-dict.com/26ha/back-schon.htm)は,

昭和初期(大正時代?),

のものとして,

「バックシャンとは後ろ・背中(背部)といった意味の英語"back(バック)"と、美しいという意味のドイツ語"schoen(シャン:左記は英語表記。独語表記ではschön の合成で、後ろ姿が美しい女性を意味する。ただし、後姿だけが美人(後姿で期待したほど顔は良くない)といったニュアンスが強く、褒め言葉として使われたものではない(当時、正面から見ても美人という意味の対語:トイメンシャンという言葉もあった)。しかし、シャンという言葉自体が使われなくなり、バックシャンも死語となっている。)

とある。「といめん(対面)」から来た,

トイメンシャン,

の方が,もはや何の意味が分からなくなっている。

死語を集めた「死語の世界」(http://www6.shizuokanet.ne.jp/kirameki/hougen/sigo.htm)にも,「バックシャン」は,

「後姿だけが美人」

と,ストレートな書き方をしている。ただ,「バックシャン」は,当時はともかく,別に女性のみを指しているのではないので,そう他人を評している男性自身もまた,評されるのは当たり前である。

死語のはずの「バックシャン」は,でも,

「今年の夏は後ろ姿も美人に見せて!バックシャンコーデを紹介します!」

というキャッチコピーを見つけた(https://trilltrill.jp/articles/710323)ので,まだ生きている(?)のかもしれない。

「バックシャン」は,

後ろ美人,

というらしいが,あまり粋な表現とは言い難い。

うしろつきのしおらしき,

という言い回しが西鶴の『世間胸算用』にあるそうだが,この言い回しの方が,いい。

320px-Beauty_looking_back.jpg

(見返り美人図 菱川師宣筆。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%B1%E5%B7%9D%E5%B8%AB%E5%AE%A3より)

菱川師宣の「見返り美人図」も,どちらかと言うと,

うしろつきのしおらしき,

かもしれない。

小股が切れ上がった,

という表現も,僕には後姿に見える。『江戸語大辞典』には,「小股(こまた)」とは,

「(小は接頭語)また,足」

とあり,「小股が切れ上がる」とは,

「足がすらりと長く,姿態の小意気な形容」

とある。

「其容首少しぬき出,胴短く裾長に,腰細く小股切れ上り,背は少しこごみめにて,腰より末ハ反りたる様に見ゆる也」(安永四年・当世女風俗通),

と引く。『日本語源広辞典』には,「小股」は,

「小(歩幅が小さい)+股」

で,「股を狭くも小さく開いて歩く姿」とする。それはそうだろう。大股拡げて歩く着物姿は見られたものではない。『岩波古語辞典』には,

「女の股が長く,すらりとして,粋なさまの形」

とある。「小股の切れ上がった」とは,すらりとした姿の状態表現が,価値表現へと転じた語だというのがよくわかる。

『大言海』は,「小股の切れ上がった」を,

「背のすらりと髙きを云ふ」

と,完全に後姿のすらりとしているさまとなっている。まさに,「バックシャン」である。

参考文献;
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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2018年11月28日

戦場の暴力


藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』を読む。

ダウンロード (3).jpg


『雑兵たちの戦場』で,中世の戦場の実像に迫った著者の,それに関連する著作である。著者は,

「戦争・飢饉・疫病の三つが本書の主題」

としている。「はしがき」に引かれている,

七度の餓死に遇うとも,一度の戦いに遇うな,

という諺が象徴的である。

三度の飢餓に遇うとも,一度の戦さに遇うな,

とも言うという。同じことは,幕末福島の百姓一揆の指導者・菅野八郎が,

世話にも,七年の飢饉に逢うとも,壱年の乱に逢うべからずとは,むべなる哉,

と引用しているという。中世の戦乱が重く人々の言い伝えに沈殿してきた証といっていい。

著者は,中世のはじまりの戦争「保元・平次の乱」直前(1150年)から,中世の終わる「関ヶ原合戦」(1600年)までの450年間記録や古文書の災害情報をデータベース化し,

「日本中世の旱魃・長雨・飢饉・疫病年表」

として巻末に整理している。

「できるだけ生生しい原文のまま,コンパクトな形でとりだして」

年表風にまとめている。たとえば,冒頭の久安六(1150)年は,

諸国大風雨洪水の難(京都),咳病放棄,民庶死亡(京都),

翌年仁平元(1151)年は,

去年暴風の難・洪水の困(改元),大雨洪水(京都),

とあり,久安六(1150)年から慶長五(1600)年まで,ほぼ毎年,水害,洪水,暴風,旱魃,飢饉が訪れている。今日の毎年の災害を見れば,日本列島に住む限り,災害は日常茶飯である。それは,当時も今も,同時に飢饉の危険をはらんでいた。しかし,その餓死の危険よりも,戦争を恐れていたのである。

「十一世紀末から十六世紀末まで,五〇〇年間の改元(年号を変える)回数を数えますと,一五二回ほどにのぼるのですが,そのうち凶事つまり天変地異(飢饉など)や兵革(戦争)を原因とするものだけでも,九六回(約63%)にのぼります。中世の改元の過半には,なんとか飢饉をはじめ災害や戦争から抜け出したいという,『世直し』の願いがこめられていた」

とあるように,ほぼ五年に一回,改元で祈らねばならないほどの「兵革・飢饉・疫疾 」に見舞われていた,ということになる。

例えば,世に源平合戦といわれる戦いは,

「天下の騒動と呼ばれる大がかりな内戦となり,折からの飢饉災害とあいまって,田畠を荒廃させ,百姓を逃散させ,人々を何年も続く餓死に追い込んでいた」

のであり,飢饉は戦争と深くつながっている。この間,

飢饉は169件(二・七年に一回),
疫病は182件(二・五年に一回),

そして,戦争は,

源平合戦~応仁の乱までは,三~五年に一回,
戦国時代は,二年に一回,

起きており,それは,そのまま飢饉と疫病の発生をもたらす危険を帯びており,

前者で,十~五〇年に一回,

大飢饉に見舞われ,後者では,

「ほとんど慢性化した飢饉と疫病のさなかに,戦われていた」

という。特に戦国時代後半百年は,

「飢饉と疫病がそれぞれほぼ五十件ずつという惨状」

が見えるという。武将や大名レベルでの歴史を見ているかぎり決して顕在化しない,歴史の惨状が明らかになってくる。

その戦場では,フロイスが『日本史』で,薩摩島津と豊後大友との戦いについて書いているように,

「(薩摩勢)が実におびただしい数の人質,とりわけ婦人・少年・少女たちを拉致…これらの人質に対して。彼らは異常なばかりの残虐行為を…した」

「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々は,肥後の国に連行されて,売却された。…肥後の住民は…彼らをまるで家畜のように,髙来(たかく)に連れて行って,売り渡した。…彼らは豊後の婦人や男女の子供を(貧困から)免れようと,二束三文で売却した。」

「ポルトガル人・シャム人・カンボジア人らが,多数の日本人を購入し,…奴隷として彼らの諸国へ連行している」

これは,なにも九州だけのことではない。大航海時代の「世界的な奴隷貿易の時代」に組み込まれていたのである。

「戦国の中ごろ,日本人の『女奴隷』はポルトガル商人の重要な商品とされ,大きな利潤を生んでいた」

ともいう。そして,マニラには,日本人の奴隷がマニラの治安を脅かすほど多くいた,と言うほどになっている。

戦争を嫌うのは,その結果の飢えや疫病よりも,

濫妨,
乱取り,

という兵士たちの略奪・暴行を恐れていたのである。果ては,人身売買によって,遠く異国に送られることなのである。

戦国の英雄たちの視点では決して見えない,日本中世の残酷で悲惨な実情を,また本書で改めて知らされるのである。

参考文献;
藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』(朝日選書)

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2018年11月29日

ひょうろく


「ひょうろく」は,

表六,
兵六,

と当てる。

愚鈍な人を罵って言う語,

表六玉,
兵六玉,

とも言う。今日では,ほぼ死語である。『大言海』には,「表六」の項に,

蔵六に対す,

とある。「蔵六」の項には,

亀の異名,

とあり,

「亀が,頭,尾,四脚を,甲の内に縮め慎む意に云ふ」

とある。そして,こう引用する。

「祖庭事苑『雑阿含經云,有亀,被野干(キツネ)所得,亀六蔵不出,野干怒而捨去,佛告諸比丘曰,汝等,當如亀六蔵,自蔵六根,魔亦不得便』」

まさに,頭,尾,四脚の六つを甲の内に隠す意だが,これと「表六」との関連の絵解きは,

「言い伝えとして『賢い亀は六を隠す、愚かな亀は六を表す』という言葉があるようです。…利口な亀は敵が来れば六つの部品を素早く甲羅の中に隠します。…馬鹿な亀はいつまでも六つの部品を外に表したままです。捕食者にガブリとやられるかもしれません。六を表したままだから表六。これに悪玉・善玉などと呼ぶ場合の玉という接尾語がくっついて『表六玉』となったそうです。」http://blog.q-q.jp/201103/article_20.html

が明快である。

800px-クサガメ_甲羅DSF2707.JPG

(水棲ガメ(クサガメ)の甲羅 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A1より)

ただ異説もあり,

説1 のろまな鈍くさい亀(ドンガメ)が、危機が迫っているにも関わらず手足+頭+尻尾の6つの部分を表に出しっぱなしの状態を表六(ひょうろく)としたことから、鈍くさい、うすのろ、まぬけな人間を指す,
説2 花火の一番小さい玉、瓢六玉から転じる。(瓢六~瓢一があり、一が一番大きい),

という(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%CF%BB%B6%CC)。

ただ調べた限りで,花火の玉についての記述は確認できなかった。

「花火玉の玉という説もありますが、「まぬけ」の意味の「表六」に花火の「玉」をつけてもなんとなくしっくり来ません。」

と(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q147033884),「表六玉」の語感に否定的な記事があるのみである。

「玉」は,いろんな意味があるが,

魂と同根,

とされ,

「人間を見守りたすける働きを持つ精霊の憑代となる,丸い石などの物体が原義」

らしい(『岩波古語辞典』)が,メタファとして人に言い,

上玉,

というような女性を称し,果ては,

いい玉,
たいした玉,

というように,

人品・器量の見地から人をあざけって言う語(『広辞苑第5版』),

あざけりの気持ちで,人をその程度の人物であるときめつける語,やつ(『デジタル大辞泉』),

という遣い方をする。この「表六玉」の場合,この「玉」である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2018年11月30日

たま


「たま」は,

玉,
球,
珠,

と当てる。

球体・楕円体,またはそれに類した形のもの,

を総じて指す。『岩波古語辞典』には,

「タマ(魂)と同根。人間を見守りたすける働きを持つ精霊の憑代となる,丸い石などの物体が原義」

とあり,

呪術・装飾などに用いる美しい石,宝石,

とあり,

特に真珠,

とあり,転じて,

美しいもの,
球形をしたもの,

更に転じて,

計略の種,
第一級の物,上等,

という意味が広がる。「玉」(漢音ギョク,呉音コク)は,

「象形。細長い大理石の彫刻を描いたもので,かたくて質の充実した宝石」

の意で,

飴玉,玉子のような,まるいもの,
善玉,悪玉のような,有る性質をもった人,
半玉のような,半人前の芸者,
ギョクのような,王将の意,

等々とさまざまに意味を拡げるのは,我が国だけのようである。「ぎょく」と訓ませると,

硬玉・軟玉の総称。翡翠(ひすい)・碧玉(へきぎょく)など,

を指す(『漢字源』)。「球」(漢音キュウ,呉音ク)は,

「会意兼形声。求は,からだに巻いて締める皮衣を描いた象形文字。裘(キュウ)の原字。球は『玉+音符求』。」

で,

中心に向けてぐった引き締まった美玉,

という意(『漢字源』)で,「球」の方が,「すべての円形の物」(『字源』)に当てられるようである。

「珠」(漢音シュ,呉音ス)の字は,

「会意兼形声。『玉+音符朱』。朱(あかい)色の玉の意。あるいは主・住と同系で,貝の中にとどまっている真珠の玉のことか」

とある(『漢字源』)。この場合は,真珠に限定するし,「美しいものの喩えに使う」とある。

ギョクも真珠も,まとめて「たま」とする和語の語源は,『大言海』は,

「妙圓(たえまろ)の略かと云ふ」

とする。ちょっと無理筋な気がする。

『日本語源広辞典』は,

「タマは,『霊魂』が語源です。マルイものとみて,マルイモノを指します。よく磨かれた円い玉をいいます。転じて,美女を指します」

とする。『岩波古語辞典』の「たま(魂)」の項には,

「タマ(玉)と同根。未開社会の宗教意識の一。最も古くは物の精霊を意味し,人間の生活を見守り助ける働きを持つ。いわゆる遊離靈の一種で,人間の体内からぬけ出て自由に動きまわり,他人のタマと逢うこともできる。人間の死後も活動して人方法まもる。人はこれを疵つけないようにつとめ,これを体内に結びとめようとする。タマの活力が衰えないようにタマフリをして活力をよびさます。」

とあり,「たまふり」とは,

「人間の霊魂(たま)が遊離しないように,憑代(よりしろ)を振り動かして活力を付ける」

ことだ。憑代は,精霊が現れるときに宿ると考えられているもので,樹木・岩石・御幣(ごへい)等々。

『日本語源広辞典』の説明では,「魂」の形を「マルイ」とするが,

タマ(魂)→マルイ→玉,

とスライドする説明が少し具体性を欠く。『日本語源大辞典』は,

タマ(霊魂)の入るべきものであるところから(万葉集に現れた古代信仰=折口信夫),
イタクマ(痛真)の義で,タマ(霊・魂)と同義(日本語原学=林甕臣),
タヘマロ(妙円)の略か(音幻論=幸田露伴),
タカラマルキの略(日本釈名),
価値がタカ(高)く,形が円いところから(仙覚抄),
カタマルの略という(百草露),
タタキマル(琢円)の義(名言通),
タは發語,マはマル(円)の義(国語の語根とその分類=大島正健),
テルマル(光丸)の義(言元梯),
アマ(天)の転(和語私臆鈔),
結びまるめた間の意で,タマ(立間)の義(柴門和語類集),

等々と挙げているが,形の丸については「まる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461823271.html)で触れたように,「まる」「まどか」という言葉が別にあり,

『日本語源大辞典』が,

「中世期までは『丸』は一般に『まろ』と読んだが,中世後期以降,『まる』が一般化した。それでも『万葉-二〇・四四一六』の防人歌には『丸寝』の意で『麻流禰』とあり,『塵袋-二〇』には『下臈は円(まろき)をばまるうてなんどと云ふ』とあるなど,方言や俗語としては『まる』が用いられていたようである。本来は,『球状のさま』という立体としての形状を指すことが多い。」

とし,更に,

「平面としての『円形のさま』は,上代は『まと』,中古以降は加えて,『まどか』『まとか』が用いられた。『まと』『まどか』の使用が減る中世には,『丸』が平面の意をも表すことが多くなる。

と,本来,

「まろ(丸)」は球状,
「まどか(円)」は平面の円形,

と使い分けていた。やがて,「まどか」の使用が減り,「まろ」は「まる」へと転訛した「まる」にとってかわられた。『岩波古語辞典』の「まろ」が球形であるのに対して,「まどか(まとか)」の項には,

「ものの輪郭が真円であるさま。欠けた所なく円いさま」

とある。平面は,「円」であり,球形は,「丸」と表記していたということなのだろう。漢字をもたないときは,「まどか」と「まる」の区別が必要であったが,「円」「丸」で表記するようになれば,区別は次第に薄れていく。いずれも「まる」で済ませた。

とすると,本来「たま」は「魂」で,形を指さなかった。魂に形をイメージしなかったのではないか。それが,

丸い石,

を精霊の憑代とすることから,その憑代が「魂」となり,その石をも「たま」と呼んだことから,その形を「たま」と呼んだと,いうことのようにに思える。

その「たま」は,単なる球形という意味以上に,特別の意味があったのではないか。しかし憑代としての面影が消えて,形としては,「たま」は,「丸」とも「円」とも差のない「玉」となった。しかし,

掌中の珠,

とは言うが,

掌中の丸,

とは言わない。かすかにかつての含意の翳が残っている。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)

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ラベル: たま
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