2018年11月19日
したう
「したう」は,
慕う,
と当てる。『広辞苑第5版』には,
(恋しく思い,また離れがたく思って)後を追って行く。
会いたく思う,恋しく思う,なつかしく思う,
理想的な状態・人物などに対してそのようになりたいと願い望む,
という意味が載る。『デジタル大辞泉』には,
目上の人の人格・識見などにひかれる,憧れる,
という意味も載る。「恋う」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/462774361.html?1542485492)の項で触れたように,『岩波古語辞典』は,「恋ふ」「したふ」「おもふ」「すき」「このむ」を区別している。「恋う(ふ)」は,
「ある,ひとりの異性に気持ちも身も引かれる意。『君に戀ひ』のように助詞ニをうけるのが奈良時代の普通の語法。これは古代人が『戀』を『異性を求める』ことではなく,『異性に惹かれる』受け身のことと見ていたことを示す。平安時代からは『人を戀ふとて』『戀をし戀ひば』のように助詞ヲを受けるのが一般。心の中で相手を求める点に意味の中心が移っていったために,語法も変わったものと思われる。」
「慕う(ふ)」は,
「シタ(下)オヒ(追)の約か。人に隠した心の中で,ある人・ある物を追う意」
とある。この説でいけば,「したう」の原義は,
追う,
という状態表現にあり,それに価値表現が加味されて,
惹かれる,
とか
恋しい,
とか
願い望む,
意に転じたことになる。「思う(ふ)」は,
「胸のうちに。心配・恨み・執念・望み・恋・予想などを抱いて,おもてに出さず,じっとたくわえて意が原義。ウラミが心の中で恨む意から,恨み言を外に言う意をもつに至るように,情念を表す語は,単に心中に抱くだけでなく,それを外部に形で示す意を表すようになることが多いが,オモヒも,転義として心の中の感情が顔つきに表れる意を示すことがある。オモヒが内に蔵する点に中心を持つに対して,類義語ココロは外に向かって働く原動力を常に持っている点に相違がある。」
であり,「好く」は,
「気に入ったものに向かって,ひたすら心が走る。恋に走る」
というように,外へ行動として顕れる,と見ることができるが,「恋う」「慕う」「思う」と同じく,語源的には,
「心を寄せる」
という意らしい(『日本語源広辞典』)ので,心の中の志向性を示す。「数奇」と当てると,
「茶の湯などを好むこと」
に代表される意になるが,「数奇」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/441133947.html)で触れたように,
「ある事柄に心を寄せる」(『日葡辞典』)
であり,傍から見ると,そののめり込みが,
「好きだなあ」
と,感じさせる意味だと考えていい。「好(この)む」は,
「性分に合うものを選び取って味わう意。類義語スキ(好)は,気に入ってそれに引かれ,前後の見境もなく,気持ち・行動がそれへ走っていく意」
とあり,
恋う→慕う→思う→好む→好き,
と,行動に顕現していく順位と見ることができる。今日だと,「慕う」の方が,「恋う」より心の中に秘める度が高そうに見えるが,原義的には,「恋う」は受け身であった。その含意があると,「好む」についての,
「戀祈(こひの)むの義,望こと切なる意」(『大言海』),
「コヒ+ノム(請+祈,恋+祈,乞+望)」(『日本語源広辞典』),
とする説明が活きる。
「慕う」の語源は,『岩波古語辞典』と同様に,『日本語源広辞典』も,
「『下+フ(継続・反復)』が語源です。上の地位にある人の下に,身を置き続ける気持ちです。子が親を,弟子が師をシタフ,のように使います。恋の場合は,男女にかかわらず,相手を上に置き,自分を下に置き続ける気持ちです。」
としている。『岩波古語辞典』との違いは,「人に隠した気持ち」にある。これが鍵なのではないか。しかし,『日本語源大辞典』の諸説も,
従フの意か(和訓栞),
シナフの意(名言通),
シタフリ(息渡通)の下略(柴門和語類集),
シトフ(後所触)の義(言元梯),
シタはシタ(下)の義から出たもので,従う義(国語の語根とその分類=大島正健),
下にカフの義か(和句解),
シは身に預からしめる義,タは平に心を治める義。シタに顕れ進むことをいうシタアフの略(国語本義),
シタシ(親)の転(和語私臆鈔),
等々,「シタオフ(下追)の約」(岩波古語辞典)説のように,「下」に置くニュアンスが多い。しかし,下に置くのだろうか。それは後世,師を慕う,というような意味に転じた後のことではないのか。
「関心・愛着を持って後を追う」
が原義に近いが,「追う」のは心の中であって,行動としてではない。僕は,
あこが(憧)れ,
に近いのではないか,と思う。もとの,「あくがる」は,『岩波古語辞典』は,
「所または事を意味する古語アクとカレ(離)との複合語。心身が何かにひかれて,もともと居るべき所を離れてさまよう意。後には,対象にひかれる心持を強調するようになり,現在のアコガレに転じる。」
であるが,転じた「あこがれ」の意と,「慕う」とは重なる。
「追う」のは心の中,
なのである。その意味では,
下ふ,
の「下」は,「下」の意味の中にある(『岩波古語辞典』),
隠れて見えないところ,
の意の,
物陰,
心の中,
の意なのではないか(『岩波古語辞典』)。「フ」は,接尾語「ヒ」であり,「ヒ」は,
「四段活用の動詞を作り,反復・継続の意を表す。例えば,『散り』『呼び』といえば普通一回だけ散り,呼ぶ意を表すが,『散らひ』『呼ばひ』といえば,何回も繰り返して散り,呼ぶ意をはっきりと表現する。元来は,四段活用の動詞アヒ(合)で,これが動詞連用形のあとに加わって成立したもの。」
で,その意味で『日本語源広辞典』の,
「下+フ(継続・反復)」
説と重なる。ただし,下にあるという心の位置ではなく,心の中に密かに持ち続ける意ではないかと思う。
因みに,「慕」(漢音ボ,呉音モ)の字は,
「会意兼形声。莫(マク,バク)は,草むらに日が没して見えなくなるさま。ない意味を含む。慕は『心+音符莫』で,身近にないモノを得たいと求める心のこと」
である。まさに心の中の動きである。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95