2019年04月12日

皮肉


「皮肉」は,

皮と肉。転じて,からだ,

の意であり,

(骨と髄にまで達していない意)うわべ,表面,理解や解釈の浅い所,

の意まではよく分かる。しかし,

意地のわるい言動。骨身にこたえるような痛烈な非難。また,遠まわしに意地悪を言ったりしたりすること。また,そのさま。あてこすり,

さらに,それをメタファにした,「運命の皮肉」というような,

思いどおりにならず,都合の悪いこと,また,そのさま,
物事が予想や期待に相違した結果になること,

という意味(『広辞苑第5版』『精選版 日本国語大辞典』)に使う語原が分からない。『字源』には,

いぢわるく,あてこすりに云ふ,

は,我が国だけの使用とある。どこから来たのか。『字源』には,

皮肉之見,

という言葉が載る。

あさはかなる悟り,

の意味として,『傳燈録』から,

「達磨欲西返天竺,乃命門人曰時将至矣,汝等蓋各言所得乎,時門人道副對曰,如我所見,不執文字不離文字,而為道用,師曰,汝得吾皮,尼総持曰,我今所解,如慶喜見阿閦佛國。一見更不再見,師曰,得吾肉,道育曰,四大本空,五陰非有,而我見處無一法可得,師曰,汝得吾骨,最後慧可禮拝後依位而立,師曰,汝得吾髄」

を引く。つまり,

「道副は『文字に執せず、文字を離れず、而も道用を為す』(仏法は言葉ではないが、そのことを言葉で徹底的に説明することも必要である)と言った。これに対して達磨は『汝吾が皮を得たり』と言った。
 尼総持は『慶喜(釈尊の弟子「阿難」)の阿シュク仏国(理想世界)を見るに一見して再び見ざるが如し』(阿難が釈尊に阿シュク仏国(理想世界)を見せてもらった故事を踏まえて、私は理想を追い求めない)と言った。これに対し達磨は『汝吾が肉を得たり』と言った。
 道育は『四大(肉体)本空、五陰(「色受想行識」即ち精神作用)有に非ず、而も吾が見處、一法の得可き無し』(肉体も本来一時的な存在であるし、精神作用も実在ではない、従って『これこそ絶対真実』というようなものはない)と言った。これには達磨は「汝吾が骨を得たり」と言った。
 慧可は前に進み出て達磨に礼拝して後、『位に依って立つ』(依位而立)即ち師に侍立した場合に弟子の居るべき定位置即ち師の斜め左後に立った。そこで達磨は『汝吾が髄を得たり』と言い,慧可に伝法付衣(袈裟)した。」

というエピソードである(http://zazen-ozaki-syokaku.c.ooco.jp/zen.html)。

この達磨大師の「皮肉骨髄」を,「皮肉」の語源とする説が,ネット上では大勢である。たとえば,

「その由来について調べていると、中国禅宗の達磨大師の言葉「皮肉骨髄(ひにくこつずい)」からくる仏教用語であることがわかった。…『我が皮を得たり』『我が肉を得たり』『我が骨を得たり』『我が髄を得たり』。弟子たちの修行を評価した達磨大師の言葉である。ただその意味するところはたいへん深く、骨や髄は『要点』や『心の底』のたとえつまり本質を理解しだしたということを意味するというのだ。たいして皮や肉は表面にあることから本質を理解していないという意味の非難の言葉。皮 肉 骨 髄 と四段階評価と行きたいところだが、肉と骨の間は途方もなく広いようである。これこそ皮肉かな悪い批評の言葉である骨と皮だけがセットとして残り、欠点などを非難する意味で使われるようになってしまったというわけ。」(https://www.yuraimemo.com/2686/

あるいは,

「皮肉は、中国禅宗の達磨大師の『皮肉骨髄(ひにくこつずい)』が語源で、仏教用語。『皮肉骨髄』とは、『我が皮を得たり』『我が肉を得たり』『我が骨を得たり』『我が髄を得たり』と大師が弟子たちの修行を評価した言葉である。
骨や髄は『要点』や『心の底』の喩えで『本質の理解』を意味し、皮や肉は表面にあることから「本質を理解していない」といった非難の言葉であった。そこから、皮肉だけが批評の言葉として残り、欠点などを非難する意味で使われるようになった。」(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1418752854

こうした語源説の淵源は,

「皮肉は、中国禅宗の達磨大師の『皮肉骨髄(ひにくこつずい)』が語源で、元仏教語。『皮肉骨髄』とは、『我が皮を得たり』『我が肉を得たり』『我が骨を得たり』『我が髄を得たり』と、大師が弟子たちの修行を評価した言葉である。 骨や髄は『要点』や『心の底』の喩えで『本質の理解』を意味し、皮や肉は表面にあることから『本質を理解していない』といった非難の言葉であった。そこから,皮肉だけが批評の言葉として残り、欠点などを非難する意味で使われるようになった」

である(『語源由来辞典』http://gogen-allguide.com/hi/hiniku.html)。しかし,

「骨や髄は『要点』や『心の底』の喩えで『本質の理解』を意味し、皮や肉は表面にあることから『本質を理解していない』といった非難の言葉であった。」

というのは,『語源由来辞典』の書き手の主観ではあるまいか。この達磨の言葉を見ると,神髄は,

「慧可が、ただ黙って達磨に礼拝して、もとの位置につく。それをみて、『汝はわが髄を得たり』」

にのみ焦点を当てているし,現に,

「達磨大師が慧可を後継者としたのは、釈尊がある日、弟子に説法しているとき、一本の花をひねって見せたが、誰もその真意が分からず沈黙していたときに、摩訶迦葉だけがにっこりと笑った。釈尊は、言葉で言い表せない奥義を理解できる者として、彼に伝法の奥義を授けた。この拈華微笑(ねんげみしょう)の故事から、他の三人が論を立て、悟りの中身を言葉で伝えようとしたのとは対照的に、慧可が黙って達磨に礼拝して元の位置についたことは、以心伝心を尊ぶ禅の不立文字(ふりゅうもんじ)の真髄を表している。」(https://shorinjikempo.or.jp/magazine/vol-46%E3%80%80%E7%9A%AE%E8%82%89%E9%AA%A8%E9%AB%84%E3%81%AE%E8%A8%93%E6%88%92.html)。

とあるように,後継者になったのは,慧可である。しかし,

「達磨は各門人の修行の成果を表す陳述に対し、達磨自身の皮肉骨髄、即ち道副は皮、尼総持は肉、道育は骨、慧可は髄、つまり各々仏法を受け継いだとして各人に印可を授与した。」

のである(http://zazen-ozaki-syokaku.c.ooco.jp/zen.html)。つまり,

「ここで特に注意すべきは、通常一般の解釈は、彼等弟子たちの間に優劣を認め、髄を得た慧可が最高であるから達磨の法を継いだとする。然し道元禅師は『皮肉骨髄』に『浅深』の格差はないとされる。即ち身体において皮肉骨髄は等しく必要なものであり、どれひとつ欠けても身体は成り立たない。これらに格差を認める考え方は、比較分別に終始する自我中心の人間世界の立場であって、尽十方界即ち仏法を学んだことのない者の考えであると言われる。」

のである(仝上)。

では,

皮肉之見,

が,今日の,

あてこすり,

嫌味,

イロニー,

の「皮肉」になったと言っていいのか。「皮肉之見」は,ただ皮相ということをいっている状態表現だが,それが価値表現へ転じた,ということでいいのだろうか。その可能性はあるが,それを言っているのは,『語源由来辞典』のみであるのに,いささかためらう。ここは,よく謬説を流布するから。

実は,

意地のわるい言動。骨身にこたえるような痛烈な非難。また、遠まわしに意地悪を言ったりしたりすること。また、そのさま。あてこすり。
思いどおりにならず、都合の悪いこと。難儀。また、そのさま。「運命の皮肉」

の意で使う(精選版 日本国語大辞典)用例は,ほぼ江戸時代以降なのである。『江戸語大辞典』には,

①芝居者用語。意地の悪い言葉,風刺的(「劇場にては意地わろき皮肉といふ」(文政八年・兎園小説),「誠に皮肉な唄だねへ」天保六年・春色辰巳園),
②難儀(「高くとまって,芸者や幇間に難儀(ひにく)をさせるお客なら」天保十年・梅の春),

とある。これがどこから来たかは定かではないが,仏教用語のみとは思えない。『日本語源広辞典』が,

「中国語で『皮+肉』が語源です。もとは身体の意です。
説1は,『怨恨が多の肉体に乗り移る,の肉体』の意です。
説2は,『文字通り,皮と肉と離れるように,つらく苦しい』意です。
説3は,『骨髄に対してうわべ,表面』の意です。
説4は『皮と肉の間の境めのきわどい,微妙さ』の意で,痛いところ,弱み,急所をいいます。ところが近世にはいって,意地の悪い言動にも使うようになり,明治以後,現在に至るまで,上記3の意の発展形として,『骨身にこたえるような痛烈な避難』とか,4の発展として,『遠まわしに微妙に意地悪を言ったりする』とかの表現に発展したものと思われる」

とする。説3は「皮肉之見」から来ている。説1は,謬説のように見えるが,『江戸語大辞典』に,

皮肉に分け入る,

という言葉があり,

一念が,相手の身体の中に侵入する,他人の肉体に乗り移る,

意で使われている(「法外(人の名)がひにくにわけいり,われわれが道にいざなはん」安永5年・高漫斉行脚日記)。これは,皮と肉の間とも読める。説4は,

皮肉も離るる,

という言葉があり,

辛く苦しい形容,

として使われる(「恩愛切なる歎きのうへに,かかるかなしき調べをきけば,皮肉もはなるるここちして」分化3年・昔話稲妻表紙)。

こうみると,「皮肉之見」も流れとしてあるかもしれないが,

皮肉も離るる,
皮肉に分け入る,

という状態表現の,

辛く苦しい,
一念が相手に入り込む,

意が,価値表現として,

嫌味,
あてこすり,
イロニー,

の意へと,混ざり合ったというのが正確にようである。江戸時代に淵源がある以上,無論,

皮肉之見,

を権威づけに使ったのかもしれない。しかし,少なくとも,

皮相,

の含意は,今日薄い。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:58| Comment(0) | カテゴリ無し | 更新情報をチェックする