2019年06月01日

折角


「折角」は,名詞の,

力を尽くすこと,骨を折ること,
困難,難義(日葡辞典),
滅多にない,

という意味と,副詞の,

十分気を付けて,
つとめて,精一杯(岩波古語辞典)
(多く「~なのに」の形で)努力や期待が報いられなくて残念という気持ちを表す,

の意味とがある(広辞苑)。今日,他の意味はなくなって,

折角おいでいただいたのに,留守をしまして,

という使い方をすることが多い。広辞苑(第5版)には,

「一説に,頭巾の角(つの)を折る意で,後漢林宗がかぶっていた頭巾の角の片方が雨に濡れて折れ曲がったのを,時のひとがまねて,わざと一方の角を曲げて林宗巾と呼んだという故事による」

とある。これだと,今日の「折角」の使い方の由来としては,通じる。

しかし,名詞の意味とは少しずれる。大言海は,二項を,別にし,名詞は,

「漢書,朱雲伝,『五鹿嶽嶽,朱雲折其角』に起ると云ふ」

と,

「朱雲が五鹿充宗と易を論じて,屡,五鹿を言ひこめたるより,時人,評して,朱雲の強力,能く鹿の角を折りぬ,と洒落れたる故事に依りて,高慢の鼻をひしぐことを折角と云ふ。我が国にては,転じて,骨折ること,力を尽くすこと」

と説く。それとは別に,副詞の「せっかく」の項を立てる。

骨折りて,努めて,力を入れて,

の意とする。我が国では,意味が転じているので,名詞も副詞も,大差がないように見える。しかし,

頭巾の角を折る,

というのは,骨折りとも,努めて,とも意味がつながらない。どちらかというと,

わざわざ,

という今日の,

折角おいでいただいたのに,

の意に近い。字源は,

頭巾の角を折る,

意の由来を,後漢書の林宗の頭巾の故事を,

高慢の鼻を折る,

意の由来を,漢書の朱雲の故事を,それぞれ別に引き,我が国では,

骨を折る,無駄に努力する,
随分に,

の意で使う,とする。高慢の鼻を折る由来と,我が国の意味とはほとんどつながらないように見える。精選版日本国語大辞典は,名詞の,

① 角(つの)を折ること,
② 物のかどを折ること,
③ プリズムなどにより光の角度を変えること,
④高慢の鼻をへし折ること,慢心を打ちくだくこと。
⑤ 力を尽くすこと,骨を折ること,
⑥ 困難,難儀,

という意味の中の,あくまで「高慢の鼻をへし折ること」の由来として,

「昔、中国で、朱雲が五鹿の人充宗と易を論じて勝ち、時の人が評して、朱雲の強力、よく鹿の角を折ったとしゃれた」(漢書‐朱雲伝)

を挙げている。さらに,

骨を折って,つとめて,わざわざ,とりわけ,

の意味の副詞の由来を,

「後漢の郭泰が外出中に雨にあい、頭巾のかどが折れてしまったが、郭泰は人々に慕われていた人気の高い人物だったので、みながわざわざ頭巾のかどを折ってそのまねをした」(後漢書‐郭泰伝)

を挙げている。つまり,我が国の「せっかく」の意とは,中国の故事は関係ないのではないか,という気がしてくる。

故事ことわざ辞典は,「折角」の項で,朱雲の故事は,

高慢な人をやり込めること,

郭泰の故事は,

意味のないことをわざわざする喩えにいう,とする。つまり,何れの故事も,我が国の意味とのつながりを欠くのである。だから,

「せっかくは,『せっかくお誘いいただいたのに』や『せっかく来たのに』など副詞として用い られることが多いが,本来は『力の限り尽すこと』『力の限りを尽さなければならないよう な困難な状態』『難儀』の意味で名詞である。名詞の『せっかく』は,『高慢な人をやりこめること』を意味する漢語『折角』に由来し,漢字で『折角』と表記するのも当て字ではない。漢語の『折角』は,朱雲という人物が,それまで誰も言い負かすことができなかった五鹿に住む充宗と易を論じて言い負かし,人々が『よくぞ鹿の角を折った』と洒落て評したという『漢書(朱雲伝)』の故事に由来する。
『わざわざ』の意味の『せっかく』については,『後漢書(郭泰伝)』の故事に由来するという説がある。その故事とは,郭泰という人の被っていた頭巾の角が雨に濡れて折れ曲がっていた。それを見た人々は角泰を慕っていたため,わざわざ頭巾の角を曲げて真似,それが流行したという話である。しかし,『せっかく』が『漢書(朱雲伝)』に由来し,名詞・副詞へ変化したことは明らかであるため,『わざわざ』の意味の『せっかく』だけが『後漢書(郭泰伝)』の故事に由来するとは考え難い」

とする説明(語源由来辞典)は意味不明である。どう考えても,

高慢な人をやりこめること→力の限り尽すこと,

とはつながらない。あるいは,「折角」と漢字を当ててしまったために,中国の由来に紐付したが,本来は,別の語源であったのではないか。岩波古語辞典は,

骨を折ること(名詞),
つとめて,精一杯(副詞),

の意味を載せる。中国故事を無視すれば,これは名詞も,副詞も,意味は一貫している。何でも漢字を当てはめることを嘆いたのは柳田國男であったが,これも,骨を折る意の「せっかく」に「折角」を当てはめたために,無理やり故事とこじつけようとした付けに思える。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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ラベル:折角
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2019年06月02日

あかつき


「あかつき」は,

暁,

と当てる。「暁(曉)」(慣音ギョウ,漢・呉音キョウ)の字は,

「形声。『日+音符堯(ギョウ)』で,東の空がしらむこと。明白にすることから,さとる意を派生した」

とあり(漢字源),あかつき,の意の他に,さとる,明らかになる,意(動詞)をもつ。

「あかつき」は,上代は,

あかとき(明時),

で,中古以後,

あかつき,

となり,今日に至っている。もともと,古代の夜の時間を,

ユウベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ,

という区分した中の「あかつき」(因みに,ヒルは,アサ→ヒル→ユウ)で,

「夜が明けようとして,まだ暗いうち」

を指し(岩波古語辞典),

「ヨヒに女の家に通って来て泊まった男が,女の許を離れて自分の家へ帰る刻限。夜の白んでくるころはアケボノという」

とする(仝上)が,

「明ける一歩手前の頃をいう『しののめ』,空が薄明るくなる頃をいう『あけぼの』が,中古にできたため,次第にそれらと混同されるようになった」

とある(日本語源大辞典)。「アシタ」は,「ヒル」の時間帯を指す,

アサ→ヒル→ユウ,

の「アシタ」と同時だが,「アシタ」は,

「『夜が明けて』という気持ちが常に常についている点でアサと相違する。夜が中心であるから,夜中に何か事があっての明けの朝という意に使う。従ってアクルアシタ(翌朝)ということが多く,そこから中世以後に,アシタは明日の意味へと変化し始めた」

とあるので,

アカツキ→アシタ,

の幅は結構ある。和語には,未明,早朝を示す言葉が,「あかさき」の他にもたくさんある。

しののめ,
あけぼの,
あさぼらけ,
あさまだき,
ありあけ,

等々。「ありあけ」は,

月がまだありながら,夜か明けてくるころ,

だから,かなり幅があるが,

陰暦十五日以後の,特に,二十日以後という限定された時期の夜明けを指すが,かなり幅広い。

「あげぼの」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/444607999.html)はすでに触れたが,「あけぼの」の「ほの」は「ほのかの」「ほの」で,

「夜明けの空が明るんできた時。夜がほのぼのと明け始めるころ」

で,「あさぼらけ」と同義とある。「あさぼらけ」は,

「朝がほんのりと明けてくる頃」

で,

あげぼの,
しののめ,

と重なる。しかし幅のあると明け方を,古代人は,厳密に区別していたはずで,

「しののめ」は,

「一説に,『め』は原始的住居の明り取りの役目を果たしていた網代様(あじろよう)の粗い編み目のことで,篠竹を材料として作られた『め』が『篠の目』と呼ばれた。これが明り取りそのものの意となり,転じて夜明けの薄明かり,さらに夜明けそのものの意になったとする」

とし,

「東の空がわずかに明るくなる頃」

の意で,転じて,

「明け方に,東の空にたなびく雲」

の意とある(『広辞苑』)。

「あさまだき」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/442024908.html)は,すでに触れたように,

「マダ(未)・マダシ(未)と同根か」

とあり(岩波古語辞典),

「早くも,時もいたらないのに」

という意味が載る。どうも何かの基準からみて,ということは,夜明けを基点として,まだそこに至らないのに,既にうっすらと明けてきた,という含意のように見受けられる。

「朝+マダキ(まだその時期が来ないうちに)」(日本語源広辞典)

で,未明を指す,とあるので,極端に言うと,まだ日が昇ってこないうちに,早々と明るくなってきた,というニュアンスであろうか。大言海には,

「マダキは,急ぐの意の,マダク(噪急)の連用形」

とあり,「またぐ」は,

「俟ち撃つ,待ち取る,などの待ち受くる意の,待つ,の延か」

とあり,

「期(とき)をまちわびて急ぐ」

意とあるので,夜明けはまだか,まだか,と待ちわびているのに,朝はまだ来ない,

という意になる。

「暁」と「あけぼの」は,

「『曙』は明るんできたとき。『暁』は、古くは、まだ暗いううら明け方にかけてのことで、『曙』より時間の幅が広い」

とある(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1145636881)。とすると,

アカツキ→アシタ,

の時間幅全体を「アカツキ」とみると,その時間幅を,細かく分けると,

あさまだき,
あけぼの,
あさぼらけ,
しののめ,

はどういう順序なのだろうか。「あけぼの」について,

「ほのぼのと夜が明けはじめるころ。『朝ぼらけ』より時間的に少し前をさす。」

とあり(デジタル大辞泉),「あさぼらけ」は,

「夜のほのぼのと明けるころ。夜明け方。『あけぼの』より少し明るくなったころをいうか。」

とあるので,

あけぼの→あさぼらけ,

ということになるが,

「アサノホノアケ(朝仄明け)は,ノア(n[o]a)の縮約でアサホナケになり,『ナ』が子音交替(nr)をとげてアサボラケ(朝朗け)になった。『朝,ほのぼのと明るくなったころ…』の意である。」

とする(日本語の語源)ので,「朝ぼらけ」「あけぼの」はほとんど近接しているのだろう。

「しののめ」は,『語源辞典』は,

「シノ(篠竹)+目」

で,「篠竹の目の間から白み始める」意となる。

「古代の住居では、明り取りの役目をしていた粗い網目の部分を『め(目)』といい、篠竹が材料として使われていたため『篠の目』と呼ばれた。この『篠の目』が『明り取り』そのものも意味するようになり、転じて『夜明けの薄明かり』や『夜明け』も『しののめ』というようになった。」

とある(語源由来辞典)が,人が夜が明けているのに気づいたのを言っているのであって,その時刻が,「あけぼの」なのか「あさぼらけ」なのか,の区別はつかない。しかし,夜明けに気づいて以降の変化の違いだとするなら,

しののめ→あけぼの→あさぼらけ,

ということになる。「あさまだき」は,その前になるので,

あさまだき→あけぼの→あさぼらけ,

という暫定順序となる。

DSC09291.JPG


参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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2019年06月03日

ただちに


「ただちに」は,

直ちに,

と当てる。「直」(漢音チョク,呉音ジキ)の字は,

「会意。原字は『―(まっすぐ)+目』で,真直ぐ目を向けることを示す」

とある。曲に対する「まっすぐ」という意味であり,直に,ただちに,という副詞の意味に広がっている。

「ただちに」は,

じかに,直接に,
時を移さず,すぐに,じきに,

と,

空間的な近接,

の意から,

時間的な近接,

へと転じているのがわかる。

「タダチは直通」

とある(岩波古語辞典)。「ただち」とは,

直通,
直路,

と当て,

回り道しない道,
通じる道筋,
経路,
物事の成行き,いきさつ,

の意味(岩波古語辞典)で,

道の直接的な通路,

という空間的な意から,

経路,

となり,それが,時間的な,

経緯,

に転じている。大言海は,

ただちに,

と濁らせ,

直路(ただぢ)にの義,

としている。「たたぢ」も,

徑路(ただぢ),

とし,

直通の路の義,

とする。

「タダ(直)+チ(路)+ニ(副詞化)」

とする(日本語源広辞典)のは,「直路」の「路」なら,

ジ(ヂ),

ではなかろうか。多くは,

タダヂ(直路)ニの義(名言通・国語溯原=大矢徹・国語の語根とその分類=大島正健・大言海),

と,濁音とする。

しかし,「ただち」を,直路ではなく,

タダチはタチマチ(忽)の約(和訓考),

とする説があり,

「タチマチ(立ち待ち)はタチマチ(忽ち)に転義したが,さらにチマ[t(im)a]の縮約でタダチ(直ち)になった。『直』の字にちなんでスグ(直ぐ)といい,母交(母韻交替)[ui]をとげてジキ(直)という」

とする(日本語の語源)。

「たちまち」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/418540999.html)は,すでに触れたように,

立待月,

の「立ち待ち」である。

立ったまま待つうちに,その姿勢で待つうちに,

月が出てくる意である。初めから時間的な意味である。「ただちに」が,

空間的意味→時間的意味,

をもつ意味の流れとは合わないのではないか。やはり,「ただちに」は

「ただち」(直路),

という言葉があり,その空間的経路が時間的経緯に転じたとみるのでいいのではないか。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

ホームページ;
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ラベル:ただちに 直ちに
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2019年06月04日

たたる


「たたる」は,

祟る,

と当てる。「崇」(スウ,あがめる)と紛らわしいが,「祟」(スイ)の字は,

「会意兼形声。『示(かみ)+音符出』。神の出してくるたたりをあらわす」

とある(漢字源)。「示」(呉音ジ・ギ,漢音シ・キ)の字は,

「象形。神霊の降下してくる祭壇を描いたもの。そこに神々の心がしめされるので,しめすの意となった。のちネ印に書かれ,神・社など,神や祭りに関することをあらわす」

とある。「祟」も,神意を「示」すもの,ということになる。

「たたる」は,したがって,

神仏・怨霊・もののけなどが禍をする,

意であるが,一般化して,

害をなす,
したことが悪い結果をもたらす,

という意味になる。類義語「呪い」と比較して,「祟り」は,

「神仏・妖怪による懲罰など、災いの発生が何らかの形で予見できたか、あるいは発生後に『起こっても仕方がない』と考えうる場合にいう(『無理が祟って』などの表現もこの範疇である)。」

これに対し呪いは,

「何らかの主体による『呪う』行為によって成立するものであり、発生を予見できるとは限らない。何者かに『呪われ』た結果であり、かつそうなることが予見できたというケースはあり得るので、両概念の意味する範囲は一部重なるといえる。」

とあるが,違うのではないか。予見できるかどうかではなく,「神」ないし「怨霊」側の意志である,つまりコントロールできない受身であるのに対し,「呪い」は,呪う主体が意志として害を成そうとするもので,重なるという意味がよく分からない。

「呪ひ(い)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/403152541.html?1558137465で触れた)は,

「のる(告)に反復・継続の接尾語「ヒ」のついた形」

であり(岩波古語辞典),

恨みのある人などに悪いことが起こるように神仏などに祈る」

ので,あくまで主体的な行為に端を発する。それを聞き届けてくれるかどうかは,神仏の意思次第,といういみでは,結果としてたたりと重なるといえるが。大言海は,

「祈る上略延」

とし,

とこふに同じ,

とする。「とこふ(詛)」は,

説き悪しかれと請う意,

である。主体的な行為である。

hoku_bakemono_4.jpg

(葛飾北斎 百物語・お岩さん 東京国立博物館蔵 http://www.photo-make.jp/hm_2/hokusai_kisou.htmlより)


「たたる」を,大言海は,

「絶つのタに,敬語助動詞のルルの付きて(絶ちたまふの意),四段活用に変じ,自動となるものなるべし。たばる,たまはるの例。受身あれど,はぶかる,だかるの例あり」

とする。「たつ」が,「絶つ」でなく,

タツ(顕つ),

とし,

「タツ(顕つ)+アリ」で,たち現れる,

とする(日本語源広辞典)のほうが納得できる。「たつ」(http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140615-1.html)は,触れたように,

ただ立ち上がる,

という意味以上に,

隠れていたものが表面に出る,

むっくり持ち上がる,

と同時に,それが周りを驚かす,

変化をもたらす,

には違いがない。

立つ,

には特別な意味がある。「立つ」は,

起つ,
であり,
顕つ,

である。

「自然界の現象や静止している事物の,上方・前方に向かう動きが,はっきりと目に見える意」

とある(岩波古語辞典)。だから,

タチアリ(立在)の義(名言通),
タタリ(立有)の義(日本語源=賀茂百樹),
タツル(立)に対する自動詞形で,祈願を立てて事を成就することをいう立たるの転義(国語の語根とその分類=大島正健),
示現の義のタタル(現)から(みさき神考=柳田國男・幣束から旗さし者へ=折口信夫),

と,

現れ,
立つ,

と関わる説に与したい。

なお,たたりについては,

怨霊(http://ppnetwork.seesaa.net/article/407475215.html),
累(http://ppnetwork.seesaa.net/article/435019321.html),
こんな晩に(http://ppnetwork.seesaa.net/article/432653855.html),

でも触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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ラベル:祟る たたる
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2019年06月05日

あがめる


「あがめる」は,

崇める,

と当てる。文語表記では,

崇む,

である。「崇」(スウ,漢音シュウ,呉音ズウ)の字は,

「形声。『山+音符宗』で,↑型に高いこと,転じて↑型に貫く意を派生した」

とある(漢字源)が,よく意味が分からない。意味は,髙い意で,そこから,気高い,たっとぶ,という意を持つのだが,別に,

「会意兼形声文字です(山+宗)。『山』の象形と『屋根・家屋の象形と神にいけにえを捧げる台の象形』(『先祖の霊を祭っておく建物(おたまや)、祖先、一族の長』の意味)から、山の中のかしらを意味し、そこから、『高い山』を意味する『崇』という漢字が成り立ちました」

ともある(https://okjiten.jp/kanji1950.html)し,

「形声。音符は宗。宗は諸氏の本宗・本家であるから、たっとぶ、大きいの意味がある。崇は山が高いの意味からすべて“たかい” の意味となり、その意味を人の上に移して、“たっとぶ、あがめる”の意味となる」

ともある(白川静『常用字解』)。「宗」(シュウ,漢音ソウ,呉音ソ)は,

「会意。『宀(屋根)+示(祭壇)』で,祭壇を設けたみたまやを示す。転じて,一族の集団を意味する」

とある。「あがめる」意が,出てくるのは,当然かもしれない。

和語「あがめる」は,

尊いものとして扱う,

意から,轉じて,

寵愛する,

意も持つ(広辞苑)とするが,岩波古語辞典は,

「アガはアガリ(上)のアガと同根。相手を自分と違う,一段と高い所にあるものとする気持ちで尊ぶ意」

とし,

尊敬して大切にする,

意とする。大言海は,「あがむ」の項で,

「上(あが)を活用せしむ(際むる,淡むる)」

とする。しかし「上がる」の「上」を「あが」を活用させた,というのは如何であろうか。

上ガ+むの(下一段化)

とする(日本語源広辞典)のも同趣だと思うが,まだしも,

アゲ(上)の活用語(言元梯・日本語源=賀茂百樹),

というほうが自然ではあるまいか。

あが(上)る,

は,あるいは,

あげ(上)る,

は,「あが(上)る」は,

「段階や次元が高い方へ移る」

と,おのずとといった含意であるが,「あげ(上)る」は,

「違いから手を加えて,物の位置や状態や次元を髙くする」

と,能動的に高める意で,「あがめる」の意味からすれば,

上げ,

の活用の方が妥当かもしれない。

アゲオガム(上拝)の約(和句解・両京俚言考),
アゲミル(上見)の義(名言通),

いずれも,「上げ」とつながる。しかし,

かみ(上)(http://ppnetwork.seesaa.net/article/463581144.html)で触れたように,日本語の語源は,

「『カミ(上)のミは甲類,カミ(神)のミは乙類だから,発音も意味も違っていた』などという点については,筆者の見解によれば,神・高貴者の前で(腰を)ヲリカガム(折り屈む)は,リカ[r(ik)a]の縮約でヲラガム・ヲロガム(拝む)・ヲガム(拝む)・オガム・アガム(崇む)・アガメル(崇める)になった。礼拝の対象であるヲガムカタ(拝む方)は,その省略形のヲガム・ヲガミが語頭を落としてガミ・カミ(神)になったと推定される。語頭に立つ時有声音『ガ』が無声音『カ』に変ることは常のことである。
 あるいは,尊厳な神格に対してイカメシキ(厳めしき)方と呼んでいたが,その省略形のカメシがメシ[m(e∫)i]の縮約でカミ(神)に転化したとも考えられる。いずれにしても,『神』の語源は『上』と無関係であったが,成立した後に,語義的に密接な関連性が生まれた。
 神の御座所を指すカミサ(神座)はカミザ(上座)に転義し,さらに神・天皇の宮殿の方位をカミ(上)といい,語義を拡大して川の源流,日の出の方向(東)をカミ(上)と呼ぶようになった。」

ヲリカガム(折り屈む)→アガム(崇む),

転訛説を採る。「崇」の字の意味と同様に,

(相手を)上に置く,

という心性とつながると見れば,「上げ」の活用説に与したい。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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2019年06月06日

あからさま


「あからさま」は,

偸閑,
白地,

とも当てるらしい(広辞苑)。

たちまち,急,
一時的であるさま,ちよっと,

の意と,

あからさまにも,

と表記して,否定語を伴って,

かりそめにも,

の意,さらに,

隠さず,ありのまま,

の意もある。どうも,由来の異なる語が交じりあっているように思えてならない。

岩波古語辞典は,

「アカラはアカレ(散)の古形。サマは漠然と方向を示す。(本来の居所から)ちょっと離れて,あらぬ方へというのが原義。そこから,ついちょっととか,ちょっとかりそめになどの意に転じた」

とする。たしかに,

ちょっとの間,
とか
さしあたり,
とか,
ほんのちょっと,
とか
軽率,

という意味(岩波古語辞典)は,その原義から推測できる。しかし,岩波古語辞典も載せる,

あらわ,
むきだし,

という意味は,その外延にありそうにない。「あかれ(散れ・分れ)」は,確かに,

「ひと所に集まっていた人が,そこから散り散りになる意」

である(岩波古語辞典)が,「あからさま」とつながる意味は見えてこない。むしろ「あからめ(傍目)」という言葉があり,

「アカラはアカレ(散)の古形」

とあり,

わき見,
ちょっと他に心を移すこと,

の意味で,この方が,「あからさま」の原義とつながる。

あからめ(傍目)さし,

は,

ちょっと目をそらす間に,急に身を見えなくする,
忽然と姿をくらます,

意である。大言海は,「あからさまに」を二項に分け,ひとつに,「あからめ(傍目)」とつながるような,

倏忽,

と当て,

傍視(あからめ)のアカラなり,倏忽(ニハカニ)の意となる。…サマニは,状になり」

とし,「あからめ(傍視)」の項で,

「離(あか)れ目の轉(細波(サザレナミ),さざらなみ。疏疏松原(アララまつばら),あられ松原)。…目が外へ離るる意」

とし,離れ散る意の「あかる(離散)」とつながるとする。これは,

わき見→急に→ちょっと→さしあたり,

という意味の繋がりと通じる。大言海が「あからさまに」で立てた,もう一項は,

明白,

と当て,

「明状(アカラサマ)の義。此語に白地(ハクチ)の字を記せるは,前條の語と混じりたるべけれど,語原,全く相異なり,此語古くは見えぬやうなり。和訓栞,アカラサマ『後世,白地をアカセサマと訓めり,こは,ありのままに,打出し明す意なれば,明様の義なるべし』」

とする。つまり,「あきららかに」の意は,どこかで,

明からさま,

と誤って当てたために混じり合ったのではないか,ということなのである。

「時代がくだってから(ありのまま,あからさまの)用法が出てくるが,これは『明から様』と意識したことによると考えられる」

とする(日本語源大辞典)のは,そのせいである。その意味で,

明から様,

を語源とする説(日本語源広辞典)は,解釈を誤っている。

あかれ(散れ・分れ)→あからめ(傍目)→あからさま,

という,本来,

よそ見,

の状態表現から,時間として,不意に目を転ずる意から,「急に」,その時間幅から,「ちょっとの間」「さしあたり」になり,更に,価値表現としての「軽率」の意までが原義のようである。「明から様」と当てて,今日主として,

ありのままで,
あらわなさま,
明白なさま,

の意として使われ,今日ほぼ,「あからさま」は,束の間のいよりは,こちらの意に転じている。

「『あから』は元来『物事の急におこるさま』『物事のはげしいさま』を表わすが、次第に『にわか・急』『ついちょっと・かりそめ』などの意に転じていった。しかし、『にわか・急』の意には『すみやか』『にはか』『たちまち』などの語が用いられるため、『あからさま』は『ついちょっと・かりそめ』の意に固定していったと考えられる。時代が下ってから(あらわなさまの意の)用法が出て来るが、これは『明から様』と意識したことによると考えられる。」

とまとめる通りである(精選版 日本国語大辞典)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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ラベル:あからさま
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2019年06月07日


「木」は,

樹,

とも当てる。「木」(漢音ボク,呉音モク)の字は,

「象形。立木の形を描いたもの。上に葉や花を被った木」

とある(漢字源)。別に,

「象形文字です。『大地を覆う木』の象形」

ともある(https://okjiten.jp/kanji61.html)。いずれにしろ。木の幹と枝を描いている。

800px-木-oracle.svg.png



「樹」(呉音ジュ・ズ,漢音シュ)の字は,

「会意兼形声。右側の尌(シュ)は,太鼓または豆(たかつき)を直立させたさまに寸(手)を加えて,⊥型に立てる動作を示す。樹はそれを音符とし,木を添えた字で,立った木のこと」

とある(漢字源)が,よく分からない。別に,

「会意兼形声文字です(木+尌)。『大地を覆う木』の象形と『たいこの象形と右手の手首に親指をあて脈をはかる象形』(『安定して立てる』の意味)から、樹木や農作物を手で立てて安定させる事を意味し、そこから、『うえる』、『たてる』を意味する『樹』という漢字が成り立ちました」

とある(https://okjiten.jp/kanji942.html

k-942.gif



この方が意味が伝わる。因みに,「木」と「樹」は,

木は立木の総称,

とあり,「樹」も,立木の意はあるが,

草木,

とは言うが,草樹とは言わない。しかし,

植樹,

とはいうが,

植木,

とは言わない。

木刀,
木像,

とはいうが,樹の字を当てることはない。「樹」は,生きている木をいい,木材でつくるときは,「木」を当てる。しかし,

木陰(こかげ),
とも
樹陰(じゅいん),

ともいう。区別があるようだが,はっきり分からない。

さて,和語「き」は,植物名に,

「サカキ、エノキ、ヒノキ、ケヤキ、ツバキ、イブキ、ミズキ、サツキ、アオキ、エゴノキ、マサキ、カキ、ウツギ、ヤナギ、ヤドリギ、スギ、クヌギ」

等々(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8),「キ」または「ギ」で終わるものが少なくない。岩波古語辞典は,「き」に,

kï,

を当てる。上代和語は,

「ひらがな・カタカナ成立以前の日本語では、母音はa i u e o の5音ではなく、多くの母音の別があった…。(中略)イ段のキ・ヒ・ミ、エ段のケ・ヘ・メ、オ段のコ・ソ・ト・ノ・(モ)・ヨ・ロの13字について、奈良時代以前には単語によって2種類に書き分けられ、両者は厳格に区別されていたことがわかっている。(中略)片方を甲類、もう片方を乙類と呼ぶ。例えば後世の「き」にあたる万葉仮名は支・吉・岐・来・棄などの漢字が一類をなし、「秋」や「君」「時」「聞く」の「き」を表す。これをキ甲類と呼ぶ。己・紀・記・忌・氣などは別の一類をなし、「霧」「岸」「月」「木」などの「き」を表す。これをキ乙類と呼ぶ」

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BB%A3%E7%89%B9%E6%AE%8A%E4%BB%AE%E5%90%8D%E9%81%A3

で,

甲類を i, e, o
乙類を ï, ë, ö

と表記する。「木(kï,)」は乙類になる。このことを前提にしないと,単なる語呂合わせになる。

大言海は,

「生(いき)の上略,生生繁茂の義」

とする。「生き」は,

iki,

で甲類である(岩波古語辞典)。しかし,

イキ(息)と同根,

とある(仝上)。「いき(息)」も,

iki,

とある(仝上)。しかし引用された書紀には,

「子等(みこたち)また倫(ひと)に超(すぐ)れたる気(いき)有ることを明かさむと欲(おも)ふ」

とある。「気」は乙類である。この転換はよく分からない。もし,この「いき(息)」が乙類なら,大言海説はある。そのせいか,日本語源広辞典も,

「生き(iki)で語頭のイが脱落してkiとなった」

とするが,これでは甲類のkiで,乙類のkïではない。不思議に,音韻にこだわる説が皆無である。

イキ(生)の上略(日本釈名・名言通・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・国語の語根とその分類=大島正健),

説以外にも,

生える物を意味するク(木)から,コ(木),ケ(毛・髪)同語源(続上代特殊仮名音義=森重敏),

というのがある。しかし「け(毛)」は古形「カ」ではなかったか。しかし「け(毛)」と関わらせる説もある。

ケ(毛)の轉。素戔嗚尊のなげた毛が木になったという伝説から(円珠庵雑記),
木は大地の毛髪であるところからか(日本古語大辞典=松岡静雄),

「け(毛)」は,

kë,

と乙類ではあるが,

kë→kï,

の転訛がありえるのかどうか,分からない。「き」http://ppnetwork.seesaa.net/article/448822496.html?1558388428で触れたように, 音韻を無視すれば,

「キ・コ(木)」と「カ・ケ(毛)」「クサ(草)」の音韻のつながりは深いので,

生えるものを意味するク(木)から,コ(木),ケ(毛・髪)も同源説,
キ(木)と同源語で,ケ(毛)から分化したもの,

は惹かれるが,音韻の問題は解けない限り,語呂合わせに過ぎない。もし乙類同士の,

kë→kï,

転訛があるなら,「毛(kë)」が「木(kï)」の語源と見ることが出来る。日本語の語源は,

「エ列音は隣接母韻間の母交(母韻交替)[ei]をとげてイ列音に変化」

するとあるので可能性はある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
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2019年06月08日


「草」(ソウ)の字は,

「形声。『艸+音符早』。原義は,くぬぎ,またははんのきの実であるが,のち,原義は別の字であらわし,草の字を古くから艸の字に当てて代用する」

とある(漢字源)。別に,

「形声文字です(艸+早)。『並び生えた草』の象形(『くさ』の意味)と『太陽の象形と人の頭の象形』(人の頭上に太陽があがりはじめる朝の意味から、『早い』の意味だが、ここでは、『艸(そう)』に通じ、『くさ』の意味)から、『くさ』を意味する「草」という漢字が成り立ちました」

とある(https://okjiten.jp/kanji67.html)。

「くさ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/448822496.html?1558388428)については触れたことがある。

「くさ」の語源を,大言海』は,

「茎多(くくふさ)の約略なりと云ふ説あり」

とのみ紹介する。「草」の語源説は,

カサカサ,グサグサという音から(国語溯原),
キ(木)と同源語で,ケ(毛)から分化したもの(日本古語大辞典=松岡静雄),
キ(木)と同根のクに接尾語サをつけたもので,サは柔らかく短小であることを表す(語源辞典・植物篇=吉田金彦),
クサフサ(茎多)の約略か(古事記伝・大言海),
年毎に枯れてクサル(腐る)ものであるから(日本音声母伝・名言通,和訓栞・言葉の根しらべ)
「神農百草をなめそめられし」とあることからクスリのサキという義か。またはクサシ(臭)の義か(和句解),
クサグサ(種々)の多い義(日本釈名),
カルソマの反。ソマは,茂ることによせて杣の義(名語記)

等々ある。ひとつは,「木」との区別で,

キ(木)と同根のクに接尾語サをつけたもので,サは柔らかく短小であることを表す,

という説とほぼ同じなのが,

「『く』は『木』が『コ』『キ』『ク』と母音変化することから,『茎』の『く』と同じく『木』を表したものと考えられる。『さ』は接尾辞『さ』で,木が堅くて大きく真直ぐなのに対して,草は柔軟で短いことから,木と区別するために加えられたものであろう」

とする(語源由来辞典)説である。接頭語「さ」も,

小百合,
狭衣,

等々用いるが,狭,小は借字で,

「ちいさき意はなし,せまき意にもあらず」

とあり(大言海),「語義不詳」(岩波古語辞典)なので,「ちいさい」「短い」意ではありえないが,接尾語「さ」は状態・様と同義とされるから,「さ」の助辞を,「木」と区別する意図とするのは,可能性としてはありえる。

他方,「木」とつなげようとする,

キ(木)と同源語で,ケ(毛)から分化したもの,

とする説は,「木」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/466652585.html)で触れたように,「木」の語源に,

ケ(毛)の轉。素戔嗚尊のなげた毛が木になったという伝説から(円珠庵雑記),
木は大地の毛髪であるところからか(日本古語大辞典=松岡静雄),

という説があり,「木」も「草」も「毛」とつなげる考え方は,あるかもしれない。しかし古代人にとって,「草」と「木」は区別されたのではないか。とすると,その差は何か。

前にも触れたことと重なるが,

年毎に枯れてクサル(腐る)ものである,

とする説が気になる。「ふてくさる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/440846962.html)で触れたが,「腐る」の語源には諸説あるが,

「草+る」で,草が腐敗する意,
「臭+る」で,糞と同源。匂って腐る意,
「朽+る」で,朽ちていく意,
「クサ(ぐちゃぐちゃ)+る」で,擬態語の意,

等々あるが,「腐る」は,

「クサシ(臭)・クソ(糞)と同根。悪臭を放つようになる意」

とあり(岩波古語辞典),どちらかというと,草の朽ちるイメージではない。ただ,

「『くそ』も『くさる』もしくは『くさい』から生じたと考えられる」

というように(語源由来辞典),「くさい」から来ている。「くさい」は,

「クサリ(腐),クソ(糞)と同根」

とあるので,「くさる」は,「くさい」から来ている。その「くさる」を

草,

に当てるとは思えない。消極的だが,「木」と「草」を関連づけた説ということになる。

「木」の項で触れたように,音韻的にも,「木」と「毛」とは,

kë→kï,

と転訛がありそうなのだから。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
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2019年06月09日


「秋」は,

二十四節気に基づく節切りでは立秋から立冬の前日まで,
旧暦(太陰暦)による月切りでは七月・八月・九月,

である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B),とか。「秋」の別名には,

高秋(コウシュウ:空が高く澄みわたる秋)
素秋・白秋(ソシュウ・ハクシュウ:五行思想で秋=金=白より)
白帝(ハクテイ:秋を掌る神のこと)
金秋(キンシュウ:秋=金)
三秋(サンシュウ:初秋、仲秋、晩秋の三つの秋)
九秋(秋の九十日間=三か月のこと)

等々がある(仝上)。なお,金風(秋風),白芽子(あきはぎ)と,

「万葉集で秋に『金』の字を当てるのは五行説による。『白』の字は西方を示し,季節では秋を指す」

とある(岩波古語辞典)。

因みに,万物は火・水・木・金・土の5種類の元素からなるという五行説では,

木(木行) 木の花や葉が幹の上を覆っている立木が元になっていて、樹木の成長・発育する様子を表す。春の象徴。
火(火行) 光り煇く炎が元となっていて、火のような灼熱の性質を表す。夏の象徴。
土(土行) 植物の芽が発芽する様子が元となり、万物を育成・保護する性質を表し,季節の変わり目の象徴。
金(金行) 鉱物・金属が元となり、金属のように冷徹・堅固・確実な性質を表し,収獲の季節秋の象徴。
水(水行) 泉から涌き出て流れる水が元となり、命の泉と考えて、胎内と霊性を兼ね備える性質を表し,冬の象徴。

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%8C%E6%80%9D%E6%83%B3)。

「秋(穐・龝)」(漢音シュウ,呉音シュ)の字は,

「会意。もと『禾(作物)+束(たばねる)』の会意文字で,作物を集めてたばねおさめること。穐は『禾(作物)+龜+火』で,龜を火でかわかすと収縮するように,作物を火や太陽でかわかして収縮することを示す。収縮する意を含む」

とある(漢字源)が,よく分からない。別に,

「会意兼形声文字です(禾+火+龜)。『穂の先が茎の先端に垂れかかる』象形(『稲』の意味)と『燃え立つ炎』の象形(『火』の意味)と『かめ』の象形(『亀(かめ)』の意味)から、カメの甲羅に火をつけて占いを行う事を表し、そのカメの収穫時期が『あき』だった事と、穀物の収穫時期が『あき』だった事から『あき』を意味する『秋』という漢字が成り立ちました。」

ともある(https://okjiten.jp/kanji92.html)が,殷時代の文字を見ると,龜の感じではない。

「元の字を『龝』+『灬』につくり、穀物につく『龜』(カメではなくイナゴ)を焼き殺す季節の意(白川)」

とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A7%8B)のが正確ではあるまいか。

800px-秋-bronze-shang.svg.png

(殷・金文 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A7%8Bより)

800px-秋-oracle.svg.png

(殷・甲骨文字 仝上)


さて和語「あき」は,

「秋空がアキラカ(清明)であるところからか。一説に,収穫がア(飽)キ満チル意,また,草木の葉のアカ(紅)クなる意からとも」

とある(広辞苑)が,どうも語呂合わせに思えてならない。

hiroshige012_main.jpg

(歌川広重 東都名所 高輪之明月 https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hiroshige012/より)


しかし,日本語源広辞典も,似た三説を挙げる。

説1,アキ(空き・明き)。収穫された稲田が,遮るものがなく,空白で明るくなる季節。稲田に水を張るは季節-春に対し,稲田が「アキ(空き・明き)」になる季節,
説2は,五穀熟して飽き足る季節のアキ,
説3は,明らかな季節のアキ,

どうもこじつけが過ぎるように思える。同じ語呂合わせなら,

「黄熟(あかり)の約と云ふ(逆虎落(さかもがり),さかもぎ)」

とする(大言海)方が,言葉に陰翳ありそうである。「あかる(赤)」は,

赤らむ,
熟(あか)む,黄熟,

の意である(大言海)。さらに「あかる(赤)」は,

赤し,

の自動詞形であり,

あかる(明),

と同根とある(岩波古語辞典)。「あかる(明)」は,

明るくなる,

意だが,たとえば,

「やうやう白くなりゆく山際少し明かりて」(枕草子)

の「明かり」は,

「赤くなる意ともいう」

とある(岩波古語辞典)。つまり,空が明けるとは,空が赤くなる意なのは,しののめ空を思い起せば,自明である。

要は,語呂合わせで,「飽き」説,

食物が豊かにとれる季節であることから,アキ(飽)の義(東雅・南留別志・和訓集説・百草露・名言通・古今要覧稿・嚶々筆語・和訓栞・柴門和語類集・言葉の根しらべの=鈴木潔子),
アキグヒ(飽食)の祭の行われる時節の意から(祭祀概論=西角井正慶・文学以前=高橋正秀),

空の明らか説,

天候のアキラカ(明)なことから(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・古今要覧稿・本朝辞源=宇田甘冥・神代史の新研究=白鳥庫吉),

空き説,

草木の葉のアキマ(空間)が多いの意(類聚名物考・俚言集覧),
アク(開)の義(東雅),

等々あるが,言葉の自然な転訛を考えるなら,

草木が赤くなり,稲がアカラム(熟)ことから(和句解・日本釈名・古事記伝・言元梯・菊池俗語考・大言海・日本語源=賀茂百樹),

ではないか。

黄熟(あかり)→赤かり→明かり,

と通じる。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;
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コトバの辞典;
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スキル事典;
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2019年06月10日


「冬」は,

暦の上では立冬から立春の前日まで(陰暦では10月から12月まで),
二十四節気に基づく節切りでは立冬から立春の前日まで,

ということになる。
旧暦による月切りでは十月・十一月・十二月。上に近いが、最大半月ずれる。

三冬(さんとう)という呼び方があり,

初冬(立冬から大雪の前日までの期間),孟冬,
仲冬(大雪から小寒の前日までの期間),
晩冬(小寒から立春の前日までの期間),季冬,

と別つ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%AC)。

「冬」(トウ)の字は,

「象形。もと,食物をぶらさげて貯蔵したさまを描いたもの。のち,冫印(氷)を加えて氷結する季節の意を加えた。物を収蔵する時節のこと。音トウは,蓄えるの語尾がのびたもの」

とある(漢字源)。似た解釈だが,

「象形。元は上部(『𠂂』>『𠔾』>『夂』)のみ。後に、『氷』を意味する『冫』を加え、寒い季節であることを強調。
食物を紐に結わえ左右にぶら下げる様を象り、『ふゆ』の季節に保存する様(藤堂)。『終』と同系。糸の末端を結ぶ様を象り年の末端の季節を意味(白川)。『終』の原字。」

とする(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%86%AC)説もあり,また

「会意文字です(日+夂)。『太陽』の象形と『糸の最後の結び目』の象形から、1年の月日の終わりの季節、『ふゆ』を意味する『冬』という漢字が成り立ちました。」

ともする(https://okjiten.jp/kanji93.html)が,殷時代の,甲骨文字をみるかぎり,最初は何かがぶら下がっているさまのように見える。

800px-冬-oracle.svg.png

(殷・甲骨文字「冬」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%86%ACより)

800px-冬-oracle-2.svg.png

(殷・甲骨文字「冬」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%86%ACより)


大言海は,

冷ゆに通ず,

とする。

ひゆ→ふゆ,

hiyu→huyu

という転訛がありうるかどうかは分からない。「冷ゆ」転訛説は多く,

ヒユ(冷・寒)の転(和句解・日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・東雅・南留別志・和語私臆鈔・俚言集覧・言元梯・名言通・古今要覧稿・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子・大言海・話の大辞典=日置昌一・神代史の研究=白鳥庫吉・日本語源広辞典)

と,多数派である。「冷ゆ」は,

氷を活用した語,

とみられる(大言海)。

その他に,

寒さが威力を「振う(ふるう)・振ゆ(ふゆ)」の転訛説
寒さに「震う(ふるう)」の転訛説
フユル(殖)の転訛説,

等々がある。「フユル(殖)」というのは,

「動物が出産するという意味の『殖ゆ〔ふゆ〕』などからきた言葉です。冬になると山の動物は冬ごもりし、大地からは緑が消えます。新しい生命の始まりとなる春までの充電期間となる季節です。」

ということ(日本文化いろは事典)らしい。

フユ(経)の義。年の暮れてゆく季節であるから(日本古語大辞典=松岡静雄),
フケヒユ(更冷)の義(日本語原学=林甕臣),
ミタマノフユ(恩顧)の義(嚶々筆語),
フユ(封忌)の義。稲を取り納めるところから(菊池俗語考)

等々となると,どうだろう。無理ない解釈は,

冷ゆの転訛,

だとは思うが。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年06月11日


「蟻」(ギ)の字は,

「会意兼形声。『虫+音符義(形がいかめしい,礼儀正しい))』」

とある(漢字源)。「義」(ギ)の字は,

「会意兼形声。我は,ギザギザとかどめのたったほこを描いた象形文字。義は『羊+音符我』で,もと,かどめのたったかっこうのよいこと。きちんとしてかっこうがよい認められるやり方を義(宜)という」

とある(仝上)。「我」(ガ)は,

「象形。刃がぎざぎざになった戈(ほこ)を描いたもので,峨(ぎざぎざと切り立った山)と同系。『われ』の意味に用いるのは,我の音を借りて代名詞を表した仮借」

とある。「羊」(ヨウ)の字は,

「象形。羊を描いたもの。おいしくて,よい姿をしたものの代表と意識され,養・善・義・美などの字に含まれる」

とある。こう分解しても,「蟻」の字の由来は,正直分からない。少なくとも,「蟻」に,

かっこよさ,
きちんとしている,

を見たらしい。

800px-Fire_ants.jpg



和語「あり」は,大言海が,

「穴入りの約といふ説あり,むづかし」

とする。この説とは,

アナイリ(穴入)の義(言元梯),

を指しているのだろう。

日本語源広辞典は,

ア(合・相)+り(虫の意の接尾語),

とし,力を合わせる虫,とする。同じ生態から,

多く集まる虫であるから,アツマリの中略(日本釈名・日本語原学=林甕臣),
よくアリク(歩)ものであるから(和句解・柴門和語類集・日本語源=賀茂百樹),

等々。その形態から,

アは小の意。リは助け詞。小虫の義(東雅),
前後のくびれがアル(有)ことから(和訓栞所引沙石集),

語呂合わせに近い,

アリ(有)の義(名言通),

等々がある(日本語源大辞典)。その他,

アリク(歩く)とアリ(有り)の…二説から派生したアシアリ(脚有)の意味とする説もある。

とする(語源由来辞典)もあるらしい。

自然に考えると,

多く集まる虫であるから,アツマリの中略,
よくアリク(歩)もの,

という生態からというところではあるまいか。ま,はっきり分からない。

ただ,「あるく(歩)」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/450998494.html)で触れたように,「あるく」は,

ありく,

ともいい,

「人間以外のものの動作にも用い,乗物を使う場合もいう。平安女流文学で多く使われ,万葉集や漢文訓読体では『あるく』が使われる」

とある(広辞苑)。さらに,

「あちこち動きまわる意。犬猫の歩きまわること,人が乗物で方々に出かけてまわることにもいう」

とある(岩波古語辞典)ので,「あるく」に比べ,視点が上がって,つまり概念化された言葉に見える。「蟻」とつながるかに見えるが,

「上代には,『あるく』の確例はあるが『ありく』の確例はない。それが中古になると,『あるく』の例は見出しがたく,和文にも訓読文にも「ありく」が用いられるようになる。しかし,中古末から再び『あるく』が現れ,しばらく併用される。中世では,『あるく』が口語として勢力を増し,それにつれて,『ありく』は次第に文語化し,意味・用法も狭くなって,近世以降にはほとんど使われなくなる。」

とあり(日本語源大辞典),

ありく→あり,

という説は,時代が平安期となるので,比較的新しい言い回しであることが,難点。日本語の語源は,全く別の視点から,

「日盛りの活動的な生態を見て,ハタラキ(働き)虫と呼んだ。ハタ[f(at)a]の縮約,ラキ[r(ak)i]の縮約とでハリになった。さらに,ハが子交(子音交替)[fw]をとげてワリになり,[w]を落としてアリ(蟻)になった」

とあるのは,考え過ぎではあるまいか。この変化にどうも必然性を感じない。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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2019年06月12日

ある


「ある」は,

有る,
在る,

と当てる。しかし,「ある」は,

生る,
現る,

とも当てる。漢字を当てはめる以外,この区別はなく,「ある」であった。

「在」(呉音ザイ,漢音サイ)の字は,

「会意兼形声。才の原字は,川の流れをとめるせきを描いた象形文字で,その全形は形を変えて災(成長進行を止める支障)などに含まれる。才はそのせきの形だけをとって描いた象形文字で,切り止める意を含む。在は『土+音符才』で,土でふさいで水流を切り止めること,転じて,じっと止まる意となる。」

とある(漢字源)。別に,

「会意兼形声文字です(士+才)。『まさかり(斧)』の象形と『川の氾濫をせきとめる為に建てられた良質の木』の象形から、災害から人を守る為に存在するものを意味し、そこから、『ある』を意味する『在』という漢字が成り立ちました。」

とある(https://okjiten.jp/kanji861.html)。堰き止める気から出たもののように思われる。「在」は,

~にある,
~にいる,

意である。

800px-在-oracle.svg.png

(「在」の字,殷・甲骨文字 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9C%A8より)


「有」(ユウ)の字は,

「会意兼形声。又(ユウ)は,手でわくを構えたさま。有は『肉+印符又』で,わくを構えた手に肉をかかえころむさま。空間中に一定の形を画することから,事物が形をなしてあることや,わくの中にかかえこむことを意味する」

とある(漢字源)。別に,

「会意兼形声文字です(月(肉)+又)。『右手』の象形と『肉』の象形から肉を『もつ』、『ある』を意味する『有』という漢字が成り立ちました。甲骨文では『右手』だけでしたが、金文になり、『肉』がつきました。」

とある(https://okjiten.jp/kanji545.html)。このほうがわかりやすい。

有-oracle.svg.png

(「有」の字,殷・甲骨文字 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%89より)

「有」は,

空間の中にある形をなして存在している,

意である。「在」と「有」の使い分けは,

「有」は,無に対して用ふ,
「在」は,没または去と対す,

とあり,

有の字の下は,物なり,
在の字の下は,居處なり,

として,

市有人,人有市
死生命有,富貴在天,

とする(字源)。この区別は,「ある」にはない。

「空間的時間的に存在し持続する意が根本で,それから転じて,…ニアリ,…トアリの形で,…であるという陳述を表す点では英語のbe動詞に似ている。ニアリは後に指定の動詞ナリとなり,トアリは指定の助動詞タリとなった。また完了を表すツの連用形テとアリの結合から助動詞タリ,動詞連用形にアリが結合して(例えば,咲キアリ→咲ケリ)完了・持続の助動詞リ,またナリ・ナシ(鳴)の語幹ナ(音)とアリの結合によって伝聞の助動詞ナリが派生した。」

とあり(岩波古語辞典),「ある」は,有無の「有」,在没の「在」の意味をともに持っていたことになる。当然,「ある」は,

「語形上,アレ(生)・アラハレ(現)などと関係があり,それらと共通なarという語幹を持つ。arは出生・出現を意味する語根。日本人の物の考え方では物の存在することを,成り出る,出現するという意味でとらえる傾向が古代にさかのぼるほど強いので,アリの語根も,そのarであろうと考えられ,朝鮮語のal(卵)という語と,関係があると考えられる。」

と,朝鮮語云々はともかく,「在」の意味と重なるように思われる。となれば,

生る,
顕(現)れる,

の意味とつながるのは当然に思われる。日本語源広辞典に,

「arに,出現の意を持つのがアルの語源です。出現している,存在している,所有している意です。アル(生),アラワル(出現・露・現),またナリ(生・成)などと関連があると思われます。ひいて,存在する意になったのでしょう。日本語では所有のアルと存在のアルを区別できません」

とあるのも,同趣旨と考えられる。「ある」は「有」よりも「在」に近く,「ある」は,

なる(生・成),

とも区別を付けない。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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2019年06月13日

日本社会の祖型


水林彪『封建制の再編と日本的社会の確立』を読む。

img155.jpg


本書は日本通史の中の一巻で,戦国時代(十六世紀)から江戸末期(十九世紀半ば)までの四百年間を扱う。そのテーマは,表題,

封建制の再編と日本社会の確立,

である。二つのテーマが語られている。一つは,

封建制の再編,

である。その意味は,第一に,

「戦国大名権力の形成に始まり,,統一権力と其の下での幕藩制的大名権力の成立に至る歴史が,中世封建制を再編成し,封建制をよりいっそう強固に再構築する過程であった」

こと,具体的には,

「畿内近国の戦国大名織田信長の権力が成長・発展し,後継の豊臣権力において,戦国大名権力が幕藩制的大名権力へ,さらには他の戦国大名を幕藩制的大名権力へと強制的に鋳直すところの統一権力へと飛躍するという形で現出した」

その意味の第二は,

「織田・豊臣権力,その跡を継いだ徳川権力の全国統一権力が,戦国大名権力を含む戦国社会全体を再編成し,戦国大名権力とは質的に区別される幕藩制的な質をもって封建制を再構築した」

それは,端的には,

兵農分離,

を基礎とする封建制を打ち立てた,ということである。それは,すべての武士が,大名から下々の武士までが,

鉢植化,

し,本領を喪失したことだ。その嚆矢は,後北條滅亡後の関東六カ国へ国替えされた徳川家康に見ることが出来る。

「国替えは,豊臣権力の徳川大名権力に対する介入であり,秀吉の家康に対する支配を強化する措置であったが,このことは,徳川氏が家臣団に対して支配を強めてゆく重要な画期」

でもあった。具体的には,

「家臣団の本領の喪失と新領国での上からの知行割…によって土着の領主・土豪層は,いわば鉢植えの武士となった」

のである。同時に,太閤検地によって測り直された知行地の石高は,その武士が,

「負担する軍役量は宛行われた石高を基準として決せられる」

ことになる(たとえば,知行石高百石について五人の動員という比率で軍役を課された)。つまり,封建制の再編とは,

「全国土はいったんは秀吉(後には徳川)のものとなり,それがあらためて諸大名に恩給される」

という形を取り,

「父祖伝来の本領地の否定を意味し,さらに,領主と領民との個別的な人的支配従属関係(被官主-被官関係)の禁止を意味する」

のである。鉢植化とは,もはやすべての武士がその土地への所有権を失っているということである。それなのに,落下傘のように転封された大名が,その土地の主である農民から当然の如く年貢を徴収する仕組みということである。

本書のもう一つのテーマ,

日本的社会の確立,

の第一の意味は,

「戦国期から統一権力の形成期にかけての封建制の再編成・再構築が,例えば,西欧の封建制の歴史と比較して独特であり,その結果としてできあがった幕藩体制が特殊日本的な性格を有しているということである。」

さらに,幕藩体制は,

「同時代の中国とも根本的に異なるものであった」

ことである。

第二の意味は,

「近現代の日本社会の祖型が,近世社会,特にその後半期の幕藩体制社会のうちに見いだされる」

ことである。たとえば,

「人々が,家族・村・企業などの諸団体に強く組み込まれていること,それらの諸団体が緊密に統合される形で国家が成り立っていることが挙げられるが,このような秩序の形式的特徴,すなわち人々の中間諸団体への強い組み込まれ現象と中間団体を介しての緊密な国家的統合は,実はすでに幕藩体制において確立していた」

ことであり,さらに,国家,そして,これと関連する法についての観念に関しても,

「今日の日本人には,法といえば,人の権利を守るもの斗りも,国家が人々の自由を束縛するための命令と観念する人が多く,それでいて,国家を拘束する法よりも,自由に行政活動を行う国家に対して信頼を寄せるという現象が強くみられるが,そのような国家や法についての観念は,幕藩体制において,それ以前の中世的法観念を否定することによって確立したものである」

という。戦国期にあったのは,

非理法権大,

という観念であった。

非は非道,理は道理,法は法度,権は権力,天は天道,

権力は天道に反すれば滅ぶ,

というものであり,中世には,ムラは,

自力救済,

という,

「ムラどうしが領主権力を排して紛争を解決する」

秩序を有していた。幕藩体制はその否定の上に成立している。今日,まだ,

お上意識,

が根強く,お上に逆らうことに抵抗する心性,いわば,

奴隷心性,

は,豊臣,徳川と続き,その土壌の上に成り立った明治にも引き継がれた体制の「蒙古斑」に思えてならない。

参考文献;
水林彪『封建制の再編と日本的社会の確立』(山川出版社)

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2019年06月14日

なし


「なし」は,

無し,

と当てるが,

亡し,

とも当てる。「無」(呉音ム,漢音ブ)の字は,

「形声。原字は,人が両手に飾りを持って舞うさまで,のちの舞(ブ・ム)の原字。無は『亡(ない)+音符舞の略体』。古典では无の字で無をあらわすことが多く,今の中国でも簡体字でも无を用いる」

とある(漢字源)。「无」(呉音ム,漢音ブ)の字は,

「会意。『一+大(人)』で,人の頭の上に一印をつけ,頭を見えなくすることを示す。無の字の古文異体字。元の字の変形だという説があるが,それはとらない」

とある(仝上)。「亡」(漢音ボウ,呉音モウ)の字は,

「会意。乚印(囲い)で隠すさまを示すもので,あったものが姿を隠す,見えなくなるの意を含む。忘(心の中からなくなる→わすれる),芒(ボウ 見えにくい穂先)・茫(ボウ 見えない)等々に含まれる」

とある(仝上)。「無」「无」は「ない」という意なのに対し,「亡」は,あったものが姿を消す,意である。三者の違いは,

「無」は,有の反。論語に「天下有道則見,無道則隠」とあるが如し。又禁止の辞にも用ふ,なかれと訓す。
「亡」は,存の反。なくなったと訳す。論語に「不幸短命死矣,今也則亡」とある如し。一に兦(ボウ)に作る,
「无」は,無に同じ,

とある(字源)。その他,同義の字についても,

「莫」(漢音バク,呉音マク)は,勿也。不可也と註し,又定也とも註すれば,確と決定して無しという義にて,意強し。
「勿」(漢音ブツ,呉音モチ)は,そうはするなと禁ずる辞にて,義最も重し,

とある。

800px-無-oracle.svg.png

(殷・甲骨文字・「無」 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%84%A1より)


和語「なし」は,

「不存在をあらわす。有の対」

とあり(岩波古語辞典),

「存在をいうには出生の意に関係のあるアリという動詞を使うに対し,不存在にはク活用形容詞ナシを使う。ク活用形容詞は事物の状態を静止的に時間によって動くことのないものとしてとらえる性質があるによる」

とあり,動詞ではなく,形容詞として捉えていることになる。そして,

「上代語では,現代語の人の在・不在をいう『いる』『いない』に対し,『あり』『なし』を使う」

ともある(仝上)。ただ,「なし」の由来については言及がない。

大言海は,「なし」を,

「莫(な)の活用」

とする。「な」には,

莫,
勿,

を当てる。

動作を禁じ止むる語,

である。存在の有無ではなく,動作の有無を指しているというのは,和語らしいと思えてくる。

日本語源広辞典は,

「ムナシ(空し)からム音脱落のナシ(無し)」

とする。

「むらしい」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/465577509.html)で触れたように,和語「むなし(い)」は,

「空(ムナ)の活用,實無し,の義」

とある(大言海)。「むな(空)」は,

「實無(むな)の義」

とある(仝上)。

「膐(膂)完之空國(むなくに)」

という用例がある(神代紀),とか。だから,

実がない→空っぽ→何もない→むなしい→はかない,

と,「から(空)」という状態表現が,転じて価値表現へと意味を変化した,とみることができる。ということは,「なし」という言葉が存在していることを前提にしないとこの説は成り立たない。

むなしい→なし,

は成り立たない。やはり,「~するな」という動作の禁止,という由来が,和語らしいと思えるのだが。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
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ラベル:亡し 無し なし
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2019年06月15日

ありきたり


「ありきたり」は,

在り来たり,

と当てる。

もとからあること,
普通にあって珍しくないこと,

という意味である(広辞苑)。「ありきたり」は,

在り+来たり,

で(日本語源広辞典),

昔からあって今まで来たもの,

の意である。つまり,

「動詞『在り(有り)来たる』の連用形が形容詞として用いられるようになった語。『あり(在り・有り)』は『存在すること』、『来たる』は動詞の連用形に付いて『し続けて現在にまで及ぶ』という意味である。 ありきたりの原義は、『もとから存在し続けてきたこと』『今まで通りであること』で、転じて、『ありふれていること』『珍しくないこと』の意味となった」

という通りである(http://gogen-allguide.com/a/arikitari.html)。

在来,
従来,

という意味(大言海)の,

元よりあること,
元より伝へたること,

が,原義になる。似た言葉に,

ありふれる(有り触れる),

がある。

有り+触れる,

で(日本語源広辞典),

どこにでも有り,接触している,

という意で,

どこにでもある,
珍しくない,

意となる。江戸語大辞典には,

有り触れ,

という名詞形が載る。

お定まり,

という意になる。それに近い言い方で,

有り勝ち,

という言い回しがある。

有り+ガチ(そうなることが多い)

とある(日本語源広辞典)が,「がち」は,

勝ち,

とあてる,

「体言または動詞の連用形に付いて,そのことが『しばしばである』『その傾向がある』意を表す」

接尾語である(広辞苑)。正確には,名詞に付くと,

…が多いさま,とかく…が目立つさま,

動詞連用形に付いて,

とかく…する傾きがあるさま,幾度か…することを繰り返すさま,

の意となる。要は,

在り来たり,
有り触れる,

とほぼ重なる。似た言葉に,

ありうち(有り内),

がある。

世の中によくあること,

の意だが,

有ると見なされる範囲,

といった意味になる。

ざら,

と同意である。同義語に,

並み,
とか,
平凡,
とか
日常茶飯,
とか
通俗,

というと価値表現が表面に出るが,

在り来たり,
有り触れる,
有り勝ち,

だといくらか,価値表現がやわらぐのかもしれない。かつて,

有り来(ありき),

という言い方があった。これは,

変らず,年月を経てくる,

という「在り来たり」のマイナス面ではなくプラス面を言っているようである。物は言いよう,言葉は使いようである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;
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コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
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2019年06月16日

ざら


ざらにある,

という「ざら」である。

世の中に多くあってめずらしくないさま,

の意で使うことが多いが,他に,

いくらでも,
むやみやたらに,

という意があり,江戸時代後期の戯作者の山旭亭主人が「五臓眼」で,

「てのとどくだけくめん十めんしてざらに居つづけに置いたり」

と使ったという。そこから,

有り触れている,

意に転じた,とする説がある(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1094201750)。そして明治期に,

「もう今頃は銀座辺でざらに売つてゐるに違ない」(森鴎外:雁)
「それは勿論ざらに人に見せられるものでない」(福沢諭吉:福翁自伝)

等々という使ったというのである。

「ざら」には,

ざらざらしていること,

の意があり,

ざらざら,

の「ざら」だけで使う場合である。

固く小さな物語,または粒状の者が混じりあったりながれる時の音

という,「小銭がざらざら」のような擬音語でもあり

物の表面がなめらかでない様子,

という,「ざらざらする」のような擬態語でもある。「ざら」だけを,

ざらめく,
ざらつく,
ざらっぽい,

と使うケースもある。「ざらめ」は,

粗目,

とあて,

ざらめゆき(粗目雪),
ざらめとう(粗目糖),

と使うし,

ざらがみ(ざら紙),

の「ざら」でもある。これらは,「ざらざら」から来ている。では,ありきたりの意の

ざら,
ざらに,

は,何処から来たか。「ばら」に,

ばら銭,
小銭(こぜに),

の意があり(精選版 日本国語大辞典),そこから,

「バラ銭や小銭を江戸時代では『ざら』と呼ぶことがあり、たくさんあり珍しくない、という意味に使われたということです。小銭を『ばら銭(散銭)』という言い方があり、『ばら』→『ざら』に変わったかもしれません」

とか(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1094201750),

「江戸時代に小銭のことを『ざら銭』と言った。財布の中から、小銭の『ざら銭』がザラザラと出てくるのは
珍しくもない日常ありふれたことである。そこから、日常茶飯事のごくありふれた事柄について『ざら』という表現が使われるようになってきたという。」

とか(http://kuwadong.blog34.fc2.com/blog-entry-2716.html?sp),の説がある。

大言海は,「ざらざら」の項で,

手触りの滑らかならぬ状に云ふ語,
ザラザラする物の,触れ合ふ音にも云ふ,

と。擬態語・擬音語の外に,

緡(さし)に括らず,零亂の錢を,ザラ錢と云ひ,錢を,ザラにて渡すなど云ふ。金銭をザラニ遣ふとは,濫費(むだづかひ)するなり,粗末に費やすなり,

と載り(因みに,緡とは,日本の銭(穴あき銭)を束ねる紐・藁のこと。銭緡(ぜにさし),銭貫(ぜにつら)とも言う。さしを使って一定枚数を束ねた銭を貫と言った),

そんな物はザラニあるなど云ふは,粗末なるものと見做すなり,在りふれたる意,いくらもある意に云ふ,

と付言する。どうやら「ざら」が,

ざら錢,

由来を言っているらしい。しかし,江戸語大辞典の「ざら」は,

無差別,すべて,だれかれなし(柳多留「寒念佛ざらの手からも心さし」明和二年,末摘花「ざらにさせるを大通と下女思ひ」享和元年),
無制限,無数,沢山(中洲雀「何レの商人非間なくして雑(ざら)に儲くることを悦」安永六年),

と載り,ありきたりの意味はない。山旭亭主人より前,江戸中期に,

だれかれなし,

の意で,「ざら」が使われている。「ざら錢」とはつながらず,むしろ,

無差別,だれかれなし→無数,沢山,

から,さらに,

ありふれている,

へと意味が転じて後に,「ざら錢」に当てたものではあるまいか。それを,

そんな物はザラニあるなど云ふは,粗末なるものと見做すなり,在りふれたる意,いくらもある意に云ふ,

との解釈は跡付けに思えてならない。江戸語大辞典は,「ざらに」「ざらにゃあ」の項で,

「ざらにはの訛。…ずあらではの意」

とある。

動詞未然形に付き,…しなくてすむものか,…しなくてどうするか,…しなくちゃ,…しなくて,

の意とする。

「ふぐ汁もくはざらにやあとしうといひ」(柳多留,明和七年)
「そりやァおめへ些(ちっ)とは損をせざらあに」(浮世風呂,文化八年)

どうも,この「ざらに」「ざらにゃあ」の,

…しなくてすむものか→しなくてどうする→しなくては,

が,

…して当たり前→当たり前,

と意を変化させたとみていいのではないか,という気がする。無論臆説であるが。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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ラベル:ざら
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2019年06月17日

ながれる


「ながれる」は,

流れる,

と当てる。「流」(リュウ)の字は,

「会意兼形声。右側は『子の逆形+水』の会意文字で,出産の際羊水の流れ出るさま。流はそれを音符とし,水を加えた字で,その原義をさらに明白にしたもの。分散して長くのび広がる意を含む」

とある(漢字源)。

「流れ」は,

「ナガシ(長),ナゲ(投)と同根。ナガは主に平面上を,線条的に伸びていくさま」

とある(岩波古語辞典)。「ナゲ(投)」をみると,

「ナガ(長)を活用させた語。ナガレ(流)と同根」

とある。「なが(長)」は,

長しの語根,

で,

長雨,
長秋,
長月,
長生,
長歌,
長唄,
長柄,
長刀,
長年,
長持,

等々「長い」意を持たせる言葉として使われる。この延長と考えると,

流れる,

は,

長を活用す,

という(大言海)のいう意味的にもつながる。日本語源広辞典も,

長+ル,

と同趣である。ほぼ大勢も,ナガと関わり

ナガ(長)から(和句解・日本釈名),
ナガアル(長在)の義(名言通・日本語源=賀茂百樹),
水などが長く下り行くところから(国語の語根とその分類=大島正健・国語溯原=大矢徹),
ナガアル(長生)の義(国語本義),
ナガル(永)の義(言元梯),

とある。

ナガの活用,

で良さそうである。「投げる」を見ると,

「ナガ(長)nagaの音韻変化,nagu投ぐ」

と(日本語源広辞典),ナガ(長)と同根と通じる。

物を長くほうり出す意であるところから,

ナグル(長)の義(国語溯原=大矢徹・日本語源=賀茂百樹),

も同趣である。

あるいは,確かに,

長在,

のように,「長」を付けた言葉の変化の可能性もあるが,「流れる」の文語,

流る,

を考えれば,

長+る,

であり,それが転じて,

nagaru→nagu,

はあり得るのである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;
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ラベル:流れる ながれる
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2019年06月18日

薙ぐ


「薙ぐ」は,

横ざまに払って切る,

意で,

薙ぎ払う,

といった使い方をする。古くから使い,

「王の佩かせる剣叢雲,自ら抽けて王の傍の草を薙ぎ攘(はら)ふ」(景行紀)

という用例がある。「薙」(漢音テイ,呉音タイ,漢音チ,呉音ジ)の字は,

「会意兼形声。『艸+音符雉(チ からだの短い鳥,寸法が短い,たけが低い)』。剃(テイ 短くそる)と同じ」

とある(漢字源)。これだと分かりにくいが,

「会意兼形声文字です(艸+雉)。 『並び生えた草』の象形と『いぐるみ(矢に糸をつけ鳥や魚を捕らえる狩猟道具)の象形と鳥の象形』(『傷つけ殺す』の意味)から『草を除去する』を意味する『薙』という漢字が成り立ちました。」

ともあり(https://okjiten.jp/kanji2713.html),草を横に払って切る意が伝わる。

和語「なぐ」の語源は,

ナミキ(並木)の義(名言通),
ナミキル(靡切)の義(言元梯),

などがあるが,大言海の,

投ぐに通づるか,

が面白い。「流れる」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/467200004.html?1560710972)で触れたように,「流れ」は,

「ナガシ(長),ナゲ(投)と同根。ナガは主に平面上を,線条的に伸びていくさま」

とあり(岩波古語辞典),「ナゲ(投)」をみると,

「ナガ(長)を活用させた語。ナガレ(流)と同根」

とある。つまり,「なぐ」は,

長の活用,

に繋がり,「流れる」が

平面上を,線条的に伸びていくさま,

を示しているのと同様,

線条的に流れる,

動作を示していて,

投ぐ,
薙ぐ,
流る,

は,すべて,

長いさま,

を示していることになる。

Kyujutsu10.jpg

(『平治物語絵巻』に描かれた薙刀を持つ鎌倉武士 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%99%E5%88%80より)


因みに,「薙ぎ払う」動作をする武器「薙刀」は,

「中世の有力武器の一つで、古くは長刀と書き、また刀身の形態から眉尖刀(びせんとう)、偃月刀(えんげつとう)などとよばれた。刃の幅を広くして先反(さきぞ)りをきかせ、刀身の茎(なかご)を長くして長い柄(え)に収めたもので、遠心力を利用して敵をなぎ払い、なぎ倒すのに用いられた。」

とされ(日本大百科全書),

「当初は『長刀』(“ながなた”とも読まれた)と表記されていたが、『刀』に打刀(腰に差す刀)という様式が生まれると、『打刀』を『短刀』と区別するために呼称する『長刀(ちょうとう)』と区別するため、『薙刀』と表記されるようになった。」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%99%E5%88%80)ので,大言海や日本語の語源のいうように,

「薙ぎの刀の約」
「薙ぎ刀」

ではないのではないか。むしろ,たとえば,

nagagatana(長刀)→nagatana→naginata,

といった転訛ではないか。

ついでながら,薙刀に似た,「長巻」という武器がある。

「薙刀は長い柄の先に『斬る』ことに主眼を置いた刀身を持つ『長柄武器』であるのに比べ、長巻は大太刀を振るい易くすることを目的に発展した『刀』であり、刀剣のカテゴリーに分類される武器である。」

とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%BB)。「長巻」は,

「太刀(腰に佩く)り中心(なかご)を長く作り,鍔を入れて,長い柄を加えて,表面を手縄や紐などで巻いたたもの」

で,三尺(約90cm)を超える長大な「大太刀」「野太刀」を,

「より振り回し易いように刀身の鍔元から中程の部分に太糸や革紐を巻き締めたものが作られるようになった。このように改装した野太刀は『中巻野太刀(なかまきのだち)』と呼ばれ、単に『中巻(なかまき)』とも呼ばれた。」

とあり,非力のものにも大太刀を振りやすくしたものである。

中巻→長巻,

という転訛したものらしい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%BB)。

Antique_shinto_samurai_nagamaki_1.jpg

(朱塗鞘、朱塗藤巻柄の長巻 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%BBより)


参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
甲冑笠間良彦『図説日本甲冑武具事典』(柏書房)

ホームページ;
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コトバの辞典;
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ラベル:薙刀 長巻 薙ぐ
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2019年06月19日

だいたい


「だいたい」は,

大体,

と当てる。

おおよそのところ,

という意味であり,出自は,中国で,

「観小節足以知大體」(淮南子・汎論)

とあり,

おおよそ,あらまし,

の意である(字源・大言海)。その本意から,

大体,お前という奴は,

というように

そもそも,もとはと言えば,

という意でも使う。

「大体」は,出典から見ると,

あらまし,

という意味が妥当で,

細部は別にして、主要な部分はそうであるさま,

といった含意になる。その転訛が,

大抵,

で,

大体の変化(daiai→daitei→taitei),

で,

おおかた,
あらまし,

の意である。「だいたい」に似た意味で,

ほぼ,
おほむね,
おおよそ,
おおかた,

等々がある。「おおかた」は,

大方,

と当て,

十に七八,
たぶん,

の意が載り,少し,確度が低く,

たぶん

とある(大言海)。

オオ(大)+カタ(接尾語,方・程度・分量)

とある(日本語源広辞典)ので,

この辺り,
この程度,

ということに使う。「おほむね」は,

概ね,
大概,
大旨,

と当て,

大体の趣意,
およそ,
大体のところ,

の意であるが,「大体」とは代替不可能という説がある。たとえば,

「大体(おおよそ)の見当はついている」
「事情は大体(おおよそ)わかった」
「大体(おおよそ)一〇〇万円かかる」

等々,大部分・あらましの意で相通じるが,

「『大体』は、細部を除いた主な部分、また漏れているものもあるが、あらかたの意で、『漱石の小説は大体は読んだ』では、まだ読んでない作品も少しあることを言外に含んでいる。『夜は大体家に居る』の『大体』は『おおよそ』に置き換えることはできない。『おおよそ』は細部を問題にしないで全体を大まかにとらえていう語であるから、『おおよその説明』では、細部についての説明は省かれていることになる。」

とする(デジタル大辞泉)。

大凡の趣意,

とある(大言海)のは,その意味と見られる。「おおよそ」は,

大凡,

と当て,

大外(おほよそ)の意か,

とする(大言海)が,

オホは全ての意。ヨソは寄すの古形。古くはオホヨソニと使う。皆寄せ集めたところで,の意。従って,数についていうのが古例。中世以後約まって,オヨソとなる」

とある(岩波古語辞典)。

物事の十中八九のこと,

とある(日本類語大辞典)のはその意であろうか。「ほぼ」は,

粗,
略,

と当て,

あらあら,
あらまし,
おおかた,

の意である。そして,

「『ほぼ』は、『大体』よりも、その状態に近い場合に使う」

とある(類語例解辞典)ので,括ってしまえば,「あらまし」の意にしても,

ほぼ→だいたい→おおよそ→おおかた,

といった確度の中に,微妙に位置づけられるように思われる。

ほとんど(http://ppnetwork.seesaa.net/article/459422994.html)については,すでに触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
芳賀矢一閲他編『日本類語大辞典』(講談社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2019年06月20日

じゃんけん


「じゃんけん」は,

石拳,
両拳,
雀拳,

等々と漢字表記される。手だけを使う遊戯であるが,

「現在行われているじゃんけんは意外に新しく、近代になって(19世紀後半)誕生したものである」

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%98%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%91%E3%82%93

「ウィーン大学で日本学を研究する『拳の文化史』の著者セップ・リンハルトは、現在の『じゃんけん』は江戸時代から明治時代にかけての日本で成立したとしている。『奄美方言分類辞典』に『奄美に本土(九州)からじゃんけんが伝わったのは明治の末である』と記されており、明治の初期から中期にかけて九州で発明されたとする説を裏付けている」
「江戸時代末期に幼少時代を過ごした菊池貴一郎(4代目歌川広重)が往事を懐かしんで、1905年(明治38年)に刊行された『絵本江戸風俗往来』にも『じゃんけん』について記されている。今でも西日本に多く残る拳遊びから(日本に古くからあった三すくみ拳に17世紀末に東アジアから伝来した数拳の手の形で表現する要素が加わって)考案されたと考えられる」

とある(仝上)。現在の,

掌を握ったのを石,
掌を開いたのを紙,
人差し指と中指の二本を出すのを鋏,

とする三すくみのスタイルは,

「日本の拳遊びには、数拳(本拳・球磨拳・箸拳、ほか)と三すくみ拳(虫拳・蛇拳・狐拳・虎拳、ほか)がある。
じゃんけんでは数拳(球磨拳)の1, 3, 4は省かれ、分かりやすい0と5と中間の2を残し、新しく意味を『石』『鋏』『紙』として三竦みを完成させた」

と(仝上),どうやら日本発祥らしい。虫拳(むしけん)は,

1024px-Mushi-ken_(虫拳),_Japanese_rock-paper-scissors_variant,_from_the_Kensarae_sumai_zue_(1809).jpg

(虫拳『拳会角力図会』 1809年 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%98%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%91%E3%82%93より)


「蛙と蛇となめくじの三すくみによる拳遊び。平安時代の文献にも出て来くることから、日本の拳遊びで一番古いものだと思われる。人差し指が蛇、親指が蛙、小指がなめくじを現す。蛙はナメクジに勝ち、ナメクジは蛇に勝ち、蛇は蛙に勝つ。その他、遊び方はじゃんけんに同じ。」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%AB%E6%8B%B3)。狐拳(きつねけん)は,

800px-Kitsune-ken_(狐拳),_Japanese_rock-paper-scissors_variant,_from_the_Genyoku_sui_bento_(1774).jpg



「狐・猟師・庄屋の三すくみの関係を用いた拳遊びの一種である。藤八拳(とうはちけん)、庄屋拳(しょうやけん)、在郷拳(ざいきょうけん)とも呼ばれる。狐は猟師に鉄砲で撃たれ、猟師は庄屋に頭が上がらず、庄屋は狐に化かされる、という三すくみの関係を、腕を用いた動作で合わせて勝負を決する」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%90%E6%8B%B3)。虎拳(とらけん)は,

220px-Tora-ken_(虎拳),_Japanese_rock-paper-scissors_variant,_from_the_Kensarae_sumai_zue_(1809).jpg


「襖をしめて、左右の部屋で、虎・女物・鉄砲のいずれかを身につけて待ち、襖を開くと、虎>老婆>鉄砲(和藤内あるいは加藤清正)>虎という三すくみで勝負がつく拳遊び。囃子歌から「とらとら」とも呼ばれる屏風仕立てのフリがつくお座敷遊びとしての拳遊びの中の最大規模のもの」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%8E%E6%8B%B3)。中国にも,

「明代末期の中国で書かれた『五雜俎』によると、漢代中国には『手勢令』と呼ばれるゲームがあったという。『五雜俎』では『手掌を以て虎膺とし、指節を以て松根とし、大指を以て蹲鸱とする』などの手勢に関する詳しい記載があるが、遊び方に関して『用法知らず』とされ、当時『捉中指』という遊びのルーツではないかと作者が推測している。『全唐詩』の八百七十九巻に『招手令』に『亞其虎膺、曲其松根。以蹲鴟間虎膺之下』、そのルールと思われる記述がある。『蹲鴟を以て虎膺の下とす』から、三すくみ的要素を見て取れる」

とある(仝上)が、内容から見て現在のじゃんけんとは別もののようである。しかし,その由来については,大まかに,二説ある。いずれも中国音で,

説1は,「中国音リャン(両)+ケン(拳)」の変化,両人の拳の意,
説2き,「石+拳」(じゃくけん),

と,中国語が訛ったものである。訓みの出自は中国らしいが,今日の「じゃんけん」のスタイルは,日本式らしい。江戸語大辞典にも,

「じゃんは,石(じゃく)の撥音便とも,中国音両(りゃん)の訛ともいい確かならず」

とある。

大言海は,「じゃんけん」に,

石拳,

と当て,

「薩摩にて,小さき餅幾つかを,二本の串に貫きたるを,ジャンポと云ふ,両棒(リャンボウ)なり」

とある。で,「石拳」の項で,

蟲拳(むしけん)より移る。初に拳として出すによりて,石,紙,鋏の内に,石を主として名とす。ジャンケンと云ふは,石拳(じゃくけん)の音便ならむ(けんつく,つくけん,つんけん。柘榴(じゃくろ),温石(おんじゃく))。ポイと云ふは,ホイと掛声するなり」

とあり,「蟲拳」の項で,

「拳(けん)の形より移る」

とあり,「拳(けん)」の項に,

「拳相撲と云ふが成語なり。此の技,寛永年間,支那人の,長崎に伝へたるものにて,其他伝はりたるは,元禄の頃なるべしと云ふ。(中略)酒宴の席上にて行ふ競技にて,負けたる者に酒を飲まする戯れなり。…二人対坐して,互いに五指を屈伸し,指の数を呼びつつ出し,其雙方の出したる指数を合算し,呼びたる数に中りたるを勝ちとす」

とある。つまり,

蟲拳→石拳→じゃんけん,

という転訛とするのである。「石拳(じゃんけん)」については,

「拳(けん)の一種。石拳(いしけん)ともいい、勝負を決めたり、鬼ごとの鬼決めの方法などにも用いられる。元禄(げんろく)時代(1688~1704)初期に、中国から長崎へ伝えられたものが広まったといわれる。」

ともある(日本大百科全書)。しかし,2人が相対して手や指の屈伸で掛け声をかけながら勝負を争う遊びが古くからあり、虫拳(蛙(かえる)・蛇・蛞蝓(なめくじ))、庄屋拳(しょうやけん)(庄屋・狐(きつね)・猟師)などがあり,石拳=じゃんけん,とは即断しがたい。

両拳説は,

「指二本を出すハサミを中国語でリャン(両)といったのを子交(子音交替)[rz]をとげてジャンになった」

と(日本語の語源)か,

「親指と人指し指で表わす鋏の形が本拳の二(りゃん)と同形であるところから「りゃん拳」の転訛とする」

と(精選版 日本国語大辞典)するので,ここでは,鋏を名づけたことになる。

「昔は『石拳(いしけん)』や『石紙(いしかみ)』とも言われ,九州の『しゃりけん・りゃんけん』,関西の『いんじゃん・じゃいけん』など,現在でも地方によってさまざまな呼称がある」

とある(語源由来辞典)というのだから,石で名づけるか,鋏で名づけるか,地域差があったのかもしれない。

「拳遊びには『本拳』『虫拳』『狐拳』『石拳』など数種類あり,日本では『石拳』が残」

つた(語源由来辞典)というから,やはり,拳遊びの流れを考えると,

石拳→じゃんけん,

と考えるのが順当のようである。日本じゃんけん協会は,

「日本の三すくみ拳の源流であった可能性のある『虫拳』は、中国が唐の時代に伝来した可能性があります。この三すくみブームの頃に『石拳』があり、のちの『じゃんけん』となる」

とし,石拳=ジャンケンとしている。

因みに,

「じゃんけんで使われる『最初はグー』の掛け声は,『8時だヨ!全員集合』の西部劇のコントの中で使われ,全国的に広まった。ドリフの飲み会では支払担当をじゃんけんで決めていたが,皆酔っ払っていてタイミングが合わないため,志村けんが『最初はグーで揃えましょう』と言い出し,番組でも『最初はグー』が取り入れられたそうである。」

という(仝上)。

「近年、アメリカあたりでもこの『じゃんけん』の手軽さが受けているらしく、テレビドラマなどで、刑事が臭くてきつい仕事を押しつけ合うとき、じゃんけんをする姿が見られる」

とある(笑える国語辞典)。

「じゃんけんは20世紀に入ると、日本の海外発展や柔道など日本武道の世界的普及、日本産のサブカルチャー(漫画、アニメ[旧称:ジャパニメーション]、コンピュータゲームなど)の隆盛などに伴って急速に世界中に拡がった」

ものらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%98%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%91%E3%82%93

ところで,

「京都大高等研究院の松沢哲郎特別教授らのグループは,2017年8月10日,チンパンジーは約100日でジャンケンの仕組みを学び、人間で言えば、4歳程度の知能があると考えられるという研究成果を発表」

したとか(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

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