2019年06月21日

狗奴国


「狗奴国」は,

くぬのくに,
くぬこく,
くなのくに,
くなこく,

と訓ませることが多い。魏書の中の魏書東夷伝倭人条(略して魏志倭人伝)に記載されている邪馬台国と対立していた倭人の国の名である。倭人伝には,邪馬台国の

「南には狗奴国がある。男子を王と為し,其の官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。女王に属せず」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D。邪馬台国は,

「斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国。此れが女王の境界が尽きる所である」

が境界線であり,その南にある。通常,

「(景初)八年、太守に王頎が到官。倭の女王の卑彌呼と狗奴國の男王の卑彌弓呼は元より不和で、倭は載斯・烏越たちを郡に遣わし、互いに攻擊している状態を説明した。」

と卑弥呼の死後,狗奴国と邪馬台国は交戦したことがわかる(仝上)。倭人伝の記述,

「女王国の東,海を渡ること千余里,復國あり,皆倭種」

の記事は,後漢書倭人伝の,

「女王国より東,海を渡ること千余里,狗奴国に至る。皆倭種といえども女王に属せず」

と重なる。この「狗奴国」は,邪馬台国の東にあることになる。つまり,「狗奴国」は,

魏志倭人伝では,邪馬台国の南,
後漢書倭人伝では,邪馬台国の東,

にあることになる。

邪馬台国の南というので,狗奴国を,

肥後国球磨(くま)郡の地,
菊池(きくち)郡城野(きの)郷,
九州の熊襲 (くまそ) 説,

などに比定するほか,

古くは本居宣長の伊予風見郡河野郷説,
三宅米吉の毛野国説,
笠井新也の熊野説,

等々は,東に基づくのかもしれない。ここでどこにあるかを論ずる気はないが,「狗奴国」の「狗奴」は,

くぬ,
くな,

と訓ませるのが正しいのか。「狗」は,

漢音は,コウ,
呉音は,ク,

である。「奴」も,

漢音は,ド,
呉音は,ヌ

である。「くぬ」「くな」となぜ訓み習わしていたのか分からないが,いずれも,呉音の訓みである。しかし,魏は漢音ではないのか。とすると,魏志倭人伝では,漢音で,

コウド,

と訓ませていた可能性がある。日本語の語源は,

「邪馬台国が北九州に在ったか,それとも近畿大和に在ったかは歴史上の謎であるが,この問題を語源的に考察すると,北九州説に軍配があがる」

と断定する。

「二つの『狗奴国』はこれまでクナ国と呉音で読まれていた。漢・魏は北方の国だから当然,漢音でコド国と読むべきである」

とし,こう推測する。

「日本側で『異なる国。他国。別国』という意味でコト(異)国といったのを,中国側で『狗奴国』で表記したとみられる。つまり,固有名詞(国名)ではなくて二つの狗奴国は普通名詞だったと思われる。
 邪馬台国の南方の異国は熊襲国であり,東方渡海の地の異国は熊襲国であり,東方渡海の地の異国は大和朝廷の勢力圏を指すものである」

と。ふたつの「狗奴国」が国名でなく,普通名詞とすると,東と南に別々に「狗奴国」と名づけたとしても不思議ではない。

この熊襲は,件のヤマトタケルミコトが女装して,『日本書紀』に熊襲の八十梟帥(やそたける)を殺したとされる,熊襲につながる。

少なくとも,慣性のように「呉音」訓みにしたがって考えているかぎり,視界は開けない。なぜこんな当たり前のことを疑わなかったのだろうか。

Yamato_Takeru_at_16-crop.jpg

(女装するヤマトタケル(月岡芳年画) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%83%ABより)


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コトバの辞典;
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2019年06月22日

手塩に掛ける


「手塩に掛ける」とは,

手ずから世話をする,
自ら面倒をみて大事に育てる,

意で,

手塩にかけて育てた子,

などという。「手塩」は,

食膳にのせてある塩,

の意で,室町末期の日葡辞典にも,

テシヲヲヲ(置)ク,

と載る。で,「手塩」は,その,

手塩皿の略,

であるが,

手ずから世話をする,

という意もあるとある(広辞苑)。しかし岩波古語辞典には,

膳におく塩,

その塩を入れた皿,

の意しかない。ひょっとすると,

手塩に掛ける,

の手塩の意が紛れ込んだのかもしれない。

「他人の手汐(テシホ)に育てられ、二親恋しと尋ねるを」(歌舞伎・心謎解色糸)

の用例をみると,すでにこの時代,「手塩に掛ける」の意,

手ずから世話をする

といった含意を,「手塩」で含意させているように見える。

たが,「手塩に掛ける」は,

手(各人)+塩,

で,

「各自で料理に塩加減をするところから生まれた」

とする(日本語源広辞典)のは,たとえば,

「手塩(てしお)」とは、昔の食膳に添えられた少量の塩のことです。もともとは、不浄なものを祓うために添えられたものですが、好みに合わせて料理の塩加減を調節するというためにも用いられました。そこから、人任せにしないで、みずから面倒を見ることを『手塩にかける』と言うようになったといいます」

とする(https://nihongo.koakishiki.com/kotowaza-kanyouku/question-32.html)等々大勢に見える。語源由来辞典も,

「『手塩』の語が見られるようになるのは室町時代から。元は膳の不浄を払うために小皿に盛って添えたものを言ったが,のちに食膳に添えられた少量の塩を表すようになった。塩は味加減を自分で調えるように置かれたものなので,自ら面倒を見ることを『手塩に掛ける』と言うようになった。『手塩に掛ける』と使われた例は江戸時代から見られる」

とするし,日本語源大辞典も,

「手塩は付け塩の約。膳に添えて,食べる人の心にて食物に加える塩を盛ったという皿(大言海),手塩を用いることで,自分の手で直接取って自由に加減するところから(暮らしのことば語源辞典)」

とする。しかし,

自分の料理の塩加減を見ること,
と,
手ずから世話をする,

意とは,自分の食するものと自分以外の対象への世話の意とでは,僕には直接つながらない,少し付会に思える。

日本語の語源は,音韻変化からこう展開してみせる。

「『直接自分の手をくだして物事をすること。自分の手で』という意味の語句,ワガテミヅカラ(わが手自ら)は,ワ・ガ・ミの三音節を落してテヅカラ(手づから)になった。〈うへのきぬを洗ひてテヅカラ張りけり〉(伊勢)。さらに『自身で。みずから』に転義した。〈テヅカラおほせ候ふ,『何か騒がせ給ふ』〉(宇治拾遺)。「手ずから世話をする。自らめんどうを見て育てる」ことをテヅカラノセハ(手づからの世話)といった。これを早口に発音するとき,語中の四音節を落してテセハ(手世話)になった。さらに,セの母交(母韻交替)[ei],ハの母交[ao]の結果,テシホ(手塩)になった。テシホニカケル(手塩に掛ける)は,『手づから世話をする。みずからめんどうを見て育てる』ことである。〈あれほどまでに手塩にかけて育てた子を〉(浄瑠璃・妹背山)」

この転訛なら,意味には連続性があるが,「手づから」は,

「手つ柄(から)の意。ツは連体助詞。カラは経由・手段の意」(岩波古語辞典)
「『手つ(助詞)柄から』の意。多く、身分や地位の高い者についていう」(大辞林)

とするし,大言海は,

「手之自(てつから)の義」

としていて,

わが手自ら,

の音韻変化とするまでもないことを考えると,多少の疑問はあるが。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2019年06月23日


「塩(鹽)」は,

潮,
汐,

とも当てる。「塩(鹽)」(エン)の字は,

「形声。鹽は『鹵(ロ 地上に点々と結晶したアルカリ土)+音符監(カン)』。鹹(カン からい)と同系。また,感(強い刺激を与える)とも縁が近く,もとは強く舌を感じさせる味のこと」

とある(漢字源)。これでは分かりにくい。別に,

「形声文字です(監+鹵)。『しっかり見ひらいた目・人・水の入ったたらいの象形』(人が水の入ったたらいをのぞきこむさまから、『鏡に写して見る』の意味だが、ここでは、『厳』に通じ(『厳』と同じ意味を持つようになって)、『きびしい』の意味)と『袋に包んだ岩塩』の象形(『塩土』の意味)から厳しい刺激を与え、農耕にも適さない、『しお』を意味する『塩』(鹽の略字)という漢字が成り立ちました」

とある(https://okjiten.jp/kanji666.html)。また,

「説文に言うとおり『鹵(ろ)に従ひ(意符)監(かん)の声(音符)』の形声字である。字音は『余廉切』(エン)であり。『監』(かん)がこの音を表わす。この音を表わす意味は、別字で言えば『鹹』(かん)字である。がさらに根本的に言えば『苦』である。『苦』の音から一方は『鹵』(ろ)の声となり、他方は『咸』『監』の声となった。『余廉切』(エン)の音は『監の声』の転じたものにすぎない。字義は『苦い小粒のもの』である、と解説されている(漢字の起源)。

ともある(http://www.music-tel.com/naosuke/nao-h/salt02moji3-3-21.html)。「鹵」の字自体が,

「塩が篭(かご)の中にある形象で、象形字である」

と(仝上)あり,

「点々とアルカリの噴き出たさまを描いたもの」

ともある(漢字源)。

また「潮」(漢音チョウ,呉音ジョウ)の字は,

「会意兼形声。朝は『屮(くさ)の間から日が出るさま+音符舟』の形声文字。潮はもと『草の間から日が出るさま+水』の会意文字であったが,楷書は『水+音符朝』で,あさしおのこと」

「汐」(漢音セキ,呉音ジャク)の字は,

「会意兼形声。夕は,月の形を描いた象形文字で,夜のこと。汐は『水+音符夕(ゆうがた)』」

とある(漢字源)。つまり,「潮」と「汐」は,

「朝のしお」と「夕べのしお」の違い,

ということである。

和語「しお(ほ)」は,

塩,
潮,
汐,

の区別,つまり,

海水,

塩,

の区別をしなかったのではないか。古代の列島住民は,海水から塩をとった。

塩釜,

という名や,

藻鹽草,
塩焼く煙,

という言葉から,推測される。大言海は,「塩」を,

白穂の略かと云ふ,

とし,「潮・汐」を,

うしほの略,朝の上げシホを潮,夕のを汐と云ふ(康熙字典),

とする。日本語源広辞典は,「潮・汐」を,

「シ(及・あとからあとからやってくる)+ホ(目立って表れる)」

で,ウシホ→ウシオ→シオ,と転訛したとする。「塩」は,

「シホ(潮)」

で,

ウシホ→ウシオ→シオ,

と「シオ」が,潮(汐)から塩になったとする。,

「主に海水から作られるため、海水を意味する『潮(しほ・うしほ)』が妥当とされる。 塩が『うしほ』と呼ばれた例もあることから、古くは潮と混同されていた可能性もある。」

とあり(語源由来辞典),「塩」と「潮」の区別なく,「しお」であった。混同していたのではなく,文字をもたない祖先にとって,眼前で話して強いる当人にとって,「塩」か「潮」は区別がついたのである。文脈依存の和語らしいのである。

「シホの語源は白穂がつまってシホとなったという。白穂は『波の花』と同じ意で潮汐から生み出した白い穂と見たのである。ウシホ(潮)のウを略してシホというのだとするのはウとはオ(大)の転訛で,オオシホがオシホ,ウシホとなり,ウが略されてシホとなったとする。この説がよい」

とある(たべもの語源辞典)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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2019年06月24日

しょっちゅう


「しょっちゅう」は,

初中,

と当てたりするが,

初中後の転,

とある。今日は,副詞的に,

いつも,
終始,
絶えず,

という意味で使うが,「初中後」は,

一連の物事を段階的に三区分下,それぞれの段階,

の意味とされる(広辞苑)。しかし,岩波古語辞典の「しょちうご(初中後)」をみると,

初めと中と終り,また初めから終りまで,
序破急に同じ,

とある。「序破急(じょはきふ)」は,

「音楽・芸能などが時間的に展開して行く順序。『序』は緩やかな導入部,『破』は緩やかであるが変化に富み,『急』は急速で最高潮。はじめ雅楽における一曲の構成要素。のち,個々の曲の性格をもいう。世阿弥がこの原理を重視して能の芸術的感性に適用,一曲の構成にはもちろん,一興行の曲目の選定・演奏順序にもこれを用いたが,させに江戸時代には三味線の演奏及び舞踊などにも使われるようになった」

とある(仝上)。そのせいか,「初中後」を,

中世の芸道、文芸論などで使った用語,

とする説が大勢である。たとえば,

「拍子は初中後へわたるべし」(花鏡・音習道之事)

と使われ,

「物事のはじめと中頃と終わりの三段階。また、九品説に基づき、初中後をさらにそれぞれ初中後に細分し、九区分にすることもある。特に、中世の文芸論などで、初心から堪能に至るまでの学習法を段階的にした三区分法」(精選版 日本国語大辞典)
「『初中後』とは中世の芸道論の言葉で、初心者から達人の域に達するまでを三段階に分けて示すものであったが、近世には『初めから終わりまでずっと』の意味に転じた。その頃から、下略された『初中』が使われるようににり、近代以降に『しょっちゅう』が一般で使われるようになった」(語源由来辞典)

といった具合である。ただ,気になるのは,

「お釈迦様が教えを説く際に心がけていた『初めも善く、中ほども善く、終わりも善く』=『初中終』が変化した言葉といわれる。『しょっちゅう』は悪い意味で使われるが、本来は『常に善い』の意味」

と(https://www.news-postseven.com/archives/20150930_352848.html),仏語由来説があることだ。

初中終,

は,多く,

しょっちゅう,

と訓ませ,ほぼ,

初中後,

と同義で使われている。「初中終」について,

「説教とは、仏が教え説くことである。仏の説法は親父の小言とは異なり、初めから終わりまで『善』が説かれる。そこで『初中終善なり』(『法華経』)とされる。ここから『しょっちゅう喧嘩している』など言うように『いつも』『常に』『終始』を意味する『初中』の語が生まれた」

とある(http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000r9f.html)。あるいは,

「釈尊教団が成立してまもなく,弟子たちに告げられた『伝道宣言』の中で,『比丘たちよ,初めも善く,中程も善く,終りも善く,道理と表現を兼ねそなえた法を説け』と諭された言葉に由来します」

ともあり(https://shimbun.kosei-shuppan.co.jp/buddhism/9024/),仏語由来は確からしく思われる。大言海は,「しょっちゅう」を,

初中終の略,

としてしいる。とすると,

初中終→初中→しょっちゅう,

という変化が一つ考えられる。しかし,芸道論で,三段階の意の「初中後」を使うとき,あるいは,

初中終→初中後,

と替えて,

初めから終りの意ではなく,

三段階,

の意に転換して用いた可能性がある。「初中終」は,

「703年(大宝3)文武(もんむ)天皇のとき『大般若経』の転読(経題や経の初中終の数行の略読を繰り返すこと)が行われたことが『続日本紀(しょくにほんぎ)』にみられる」(日本大百科全書)

とか,

「苦行頭陀、初中後夜、勤心観禅、苦而得レ道、声聞教也」(往生要集)

での使い方を見ると,明らかに,仏語の由来そのものの,

はじめとなかとおわり,

の意で,

物事の三段階,

という意はなく,

最初から最後まで,

の意が強い。それを中世,芸道の

物事のはじめと中頃と終わりの三段階,

の意に転換して使ったが,江戸時代,

初中(しょちゅう),

と略し,促呼して,

しょっちゅう,

となったときには,既に,

終始,
いつも,

の意に転じている。つまり,先祖返りしたのである。

「『しょっちゅう』 はもともとは 『初中後 (しょちゅうご) 』 ということばだったのです。(中略)その 『初中後』 の 『後』 が省略されて 『初中 (しょちゅう) 』 となり,間に促音が入って 『しょっちゅう』 と変化してきたものです。しかし,この省略はことばの意味からしたらあってはならないことです。 3 段階の最後の段階を省略してしまったら, 〈ずっと〉 の意味をなさなくなります。それを強引に省略してしまうのですから,ことばというのはいい加減といえばいい加減です」

とある(https://mobility-8074.at.webry.info/201411/article_3.html)通りだが,もともと,「初中終」で,

はじめから終り,

の意で使っていたのだから,それが,

初中終(後)→初中→しょっちゅう,

と,表記がどう変わっても,仏語の用例の意味に戻っただけと言えば言える。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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2019年06月25日

時化る


「しける」は,

時化る
湿気る,

と当てる。「時化」は当て字だが,「時化る」は,

「湿気 (しけ) る」と同語源,

とある(デジタル大辞泉)。しかし,「湿気る」は,

湿気を帯びる,しっける,

意であり,「時化る」は,

雨風で海が荒れる,
不漁である,
転じて,不景気である,また気持ち,恰好がぱっとしない,

という意で,「湿気る」とは意味が重ならない。室町末期の日葡辞書には,

「テンキガシケタ」

で,海が荒れる意で使われている。

しっけ(湿気)→しける,

はあくまで湿っている意で,時化とはつながらない。

ただ,大言海は「しけ」に,

陰,

を当て,

風雨気(しけ)の義,

とし,

水気の多いこと,しめりけ,
風雨の続くこと,(舟人の語)連陰(シケで,渡海がない),
転じて,海荒れて,魚などの捕られぬこと(漁夫の語),

という意味を載せている。これに従うと,

湿気る→雨風の続くこと→時化,

と転じたことになる。江戸語大辞典には,

時化,

しか載らず,

暴風雨のため海が荒れて,不漁になること,漁獲のないこと,

とあり,

漁夫・魚屋用語なるも,料亭などでもいう,

とある。さらに,

霖雨(ながあめ),
収入・収穫などのほとんどないこと,

の意とあり,

しけを食う,

という言い回しがあり,

暴風雨または霖雨にあう,

意であり,

しけ上がり,

という言い回しは,

暴風雨または霖雨の止んだ直後,

とある。

「時化」は,日葡辞書に,

天気が曇る,

とある(語源由来辞典)ので,「しける」は,

湿気る,

とつながり,天気の意味となり,海の荒れ,不漁,不景気と転じていったものとみてよさそうである。

シケ(陰)の義(和訓栞),

は,大言海ともつながり,陰陽の陰と考えると,曇りともつながる。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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ラベル:時化る 湿気る
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2019年06月26日

しける


「しける」には,

湿気る,
時化る,

と当てる「しける」以外に,

しけこむ,

の意の,

しける,

がある。江戸語大辞典には,

こっそりと入り込む,遊所や情人のもとへ行くにいう,

とあり,

しけこむに同じ,

とある。しかも厄介なことに,濁点のつく「しげる」も,

繁る,

と当てて,

しっぽり睦み合う,
同衾して情事を行なう,

意で,

多く遊女・遊客にいうが陰間にもいい,また町家でもいう。遊里で「おしげり」(命令形)というは,お楽しみなさいと殆ど同義のあいさつ語,

とある(江戸語大辞典)。岩波古語辞典にも,「しげる」に,

生い茂る,

意の外に,

男女が情を交わす,

意がある(広辞苑にも)。大言海をみると,「しげる」の項の意は,

吉原遊郭の語,ねる,やすむ,

意とあるので,それが広まったものとみていい。

とすると,「しけこむ」の「しける」は,その意味から来ているとみていい。本来,「しけこむ」は,

こっそり入り込む,

意で,岩波古語辞典にはその意しか載らない。だから,その意の轉用で,

(不景気で)気の滅入った状態で閉じこもる,

意として使われても,たた入り込んだ状態表現が,そこに意味を加えた価値表現に転じたとしてみれば,ありえる変化だと思う。しかし,

遊郭などに入り込む。また、男女が情事のためにある場所に一緒に泊まる,

とか(デジタル大辞泉),

男女,共寝する,
閨中に長居する,

とか(大言海),

登楼する,
遊所へ入り込む,

とか(江戸語大辞典)の意は,吉原隠語の翳と見ていいように思う。この「しける」の語源を,

「時化る」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/467446693.html?1561403255),

で触れた,

時化る,

の意から,

時化(しけ)に遭った船が港に入ること,

からきた,

金がないために家でじっとしている,

とする説がある(大辞林,http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%B7%A4%B1%A4%B3%A4%E0等々)。しかし,

しっぽり,

という擬態語がある。江戸時代,「男女の情愛の細やかな遊興」の意を表す,

しっぽり遊び,

とか,「しめやかに男女が情を交わす」意を表す,

しっぽる,

という言い回しがあった。「しっぽり」は,

濡れて湿っている様子,

の擬態語である。それから考えると,「時化る」と同源だが,

湿気る,

が語源なのではないか。その意味では,日本語俗語辞典が,

しけこむとはホテルや遊郭などにこっそり入り込むことをいう。またこの場合、男女二人が共に過ごすことを目的にそういった場所に入ることを言う,

意と,

しけこむとは不景気で気が滅入って家に閉じこもることをいう,

に二つに分けたのは,語源を考えるとき卓見である。前者は,

湿気る,

後者は,

時化る,

から来たとみていい。もちろん,「時化」は,元は,

天気が曇る,

から来ており(日葡辞書),

「時化る」

「湿気る」


同源なのは,「時化る」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/467446693.html?1561403255)で触れた通りである。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)

ホームページ;
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コトバの辞典;
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スキル事典;
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2019年06月27日

会釈


「会釈」は,大言海に,

会得して,心の中に釈然と解き得ること,又,打ちとけ語らふこと,
仏教にては,法門の難義を会得解釈すること,
うなづくこと,
転じて,礼すること,あいさつ,

とある。おそらくこの順で,意味が転じたものと想像される。岩波古語辞典には,

理解し解釈すること,
相手の気持ちなどをしはかり思いやること,
挨拶,

とある。広辞苑には,

(仏語)和会(わえ)通釈の意。前後相違してみえる内容を互いに照合し,意義の通じるようにすること,会通(えつう),
前後の事情をのみこんで理会すること,
相手の心をおしはかって,応対すること,
おもいやり,
にこやかにうなづくこと,

の意味が載る。「釋(釈)」(漢音シャク,呉音セキ)の字は,

「会意兼形声。睪(エキ)は『目+幸(刑具)』から成り,手かせをはめた罪人を,ひとりつずつ並べて面通しすること。釋はそれを音符とし,釆(ばらばらにわける)を加えた字で,しこりをばらばらにほぐし,ひとつずつにわけて,一本の線に連ねること。釈は,音符を尺に換えた略字」

とある。「釋」は,「とく」意で,

「しめて固めたものを,ひとつひとつ解きほぐす,分からない部分やしこりをときほぐす」

意で,「釈然」「氷釈」等々という使い,そこから,「いましめをとく」意を転じ,「ゆるす」意となる。

「會(会)」(漢音カイ,呉音エ)の字は,

「会意。『△印(あわせる)+會(増の略体 ふえる)』で,多ぐの人が寄り集まって話をすること」

とある(漢字源)。「あう」とか「あつまる」意だが,物事に「であう」意でもある。

これらを考えると,「会釈」は,一般には,

「会釈は、仏教用語『和会通釈(わえつうしゃく)』の略である。 和会通釈とは、一見矛盾 する教義どうしを照合し、根本にある共通する真実の意味を明らかにすることである。」(語源由来辞典)

とされるが,もともと,

会得して,心の中に釈然と解き得ること,

打ちとけ語らふこと,

の意味があったものと思われる。それを仏語に転用し,

和会通釈(わえつうしゃく)の略語,

として,

会通(えつう),和会,融会(ゆうえ),

ともいい,

仏典の二律背反(相互に自己矛盾する教説)を照合し、矛盾のない解釈を導き出すこと。転じて他者相互の矛盾を解消する意,

として用いられたと思う。しかし,「会釈」には,

打ち解けあう,

意があり,そこから,

前後の事情をのみこんで理会すること,
相手の心をおしはかって,応対すること,

の意が,意味の外延としてあり得る。日葡辞書(1603‐04)には,

「Yexacuno(エシャクノ) ヨイ ヒト」

と,

好意を示す応対、態度,愛想,

の意で使われている。それが,

にこやかにうなづくこと,
愛想,

に転じ,

挨拶,

へと転じたが,その含意には,両者が打ち解けている関係あることが前提と思う。ちょっとした知り合いに会釈するのは,ある意に,知っていますよ,という合図のように思える。それが,逆転し,

挨拶,

となったとき,その会釈は,融和の形式に化している。江戸語大辞典では,「会釈」は,

軽くお辞儀する,

転じて,

差し控える,遠慮する,

意になっている。両者の距離の確認に代わっている。この意味は,今日はなくなって,

軽くお辞儀する,

意になっている。今日,ビジネスマナーでは,

「3段階あるお辞儀の仕方のうち1番軽いお辞儀で、社内で上司や外部の方とすれ違うとき、入退出時、お客さまの前に出たり下がったりするときに用いる。角度は15度が目安とされ、頭だけでなく、背筋を伸ばして腰から上体を折り、前方に視線を落とすのが基本とされている。」

とある(ビジネス基本用語集)。下らないことを商売の種にして,日本のビジネスの停滞と堕落を持たらしている見本にしか思えない。お辞儀の三段階とは,

お辞儀の種類①:会釈(角度15°)
•角度は上体を腰から15度くらい前へ傾ける 
•視線は3mくらい先に 
•基本は朝夕の挨拶、通路等での軽いおじぎ、お客様をお迎えするときのお辞儀
お辞儀の種類②:敬礼(角度30°)
・角度は背筋を伸ばして腰から30度上体を折り、足下の少し前方に視線を落とすのが基本
・お客さまや目上の人に対して敬意をもって行うお辞儀
・会釈よりもやや角度を深くする
お辞儀の種類③:最敬礼(角度45°)
・3段階あるお辞儀の仕方のうち最も深いお辞儀。お詫びをするとき、深い感謝を表すとき、重要なお客さまをお見送りするときなどに用いる。角度が最も深く、神前での儀式や高貴な方に対する礼に用いる。
・角度は45度が目安とされ、背筋を伸ばして腰から上体を深く折り曲げ、真下よりやや前方に視線を落とすのが基本

とある(tps://careerpark.jp/692)。これが付加価値を産むことになるのかどうか,僕には馬鹿馬鹿しくて,付いていけない。挨拶は不可欠だが,形式化したとき,会釈の持つ含意は忘れられている。心が解けることとは無縁である。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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2019年06月28日

雨模様


「雨模様」は,

あめもよう(やう),
あまもよう(やう),

と訓む。

雨の降りそうな空の様子,

の意で,

あまもよい(ひ),

ともいう。「あまもよい(ひ)」は,

雨催ひ,

と当てる(岩波古語辞典)。

空模様,

の意ともある。「空模様」は,

空の様子,

を指すので,雨含みではないが,晴れているなら,

空の具合,

を気に掛けないので,約めれば,

雨模様,

同様,雨を心配している,と言えなくもない。大言海は,

あめもよほ,

と訓み,

雨催,

と当て,

モヨホは,モヨホスの語根,

とし,

雨の降らんとする気配,
雨気,

とする。まさに,

雨気,

である。

雨もよに,

という表現がある。

雨が降る中に,

という意味であるが,

「モヨは,催シのモヨに通じるか。一説にヨは夜とも。歌では『夜に』と『よに(決して・まさか)』をかけて事うことが多い」

とある(岩波古語辞典)。大言海は,

「雨もよよにの約,涎の垂れるをヨヨと云ふ,ヨなりと云ふ。和訓栞に,欄外,アメモヨ『雨のぽたぽた降るを云ふ』(伴信友の説なるべし)。雨の夜,雪の夜と云ふに同じとの説もあれど,日中に云へるあり,汗モヨもあり」

と,「夜」説を否定するが,「もよ」は「催し」である。この「催し」が,

もよおし→もよう(模様),

と転訛したものと見られる。「もよお(ほ)す」は,

もやふ(催合)の他動詞,

で,「もやふ(催合)」は,

もよあふの約と云ふ,

とある。「もやふ(催)」は,

用意する,
準備する,

意で,「雨模様」は,

雨の気配,

の意とみていい。ただ,昨今,

雨が降りそうな様子・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 43.3%
小雨が降ったりやんだりしている様子・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 47.5%

と(平成22年度「国語に関する世論調査」),少し意味が雨降りにシフトして意識されているようである。それは,もともとの「催し」ではなく,「模様」の意味,ありまさ,様子の意味に引っ張られているからに思われる。漢字を当てると意味が変わる見本である。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2019年06月29日

さみだれ


「さみだれ」は,

五月雨,

と当てる。芭蕉の,

五月雨をあつめて早し最上川,

の「五月雨」である。しかし,

五月雨,

は,

さつきあめ,

とも訓む。つまり,「さみだれ」の,

五月雨,

は当て字である。「さつきあめ」も「さみだれ」も,

陰暦五月頃に降り続く雨,

つまり,

「つゆ」「梅雨(ばいう)」「長雨(ながめ)」

の意である。

「サはサツキ(五月)のサに同じ,ミダレは水垂(みだれ)の意」

とある(広辞苑,デジタル大辞泉)。ただ,岩波古語辞典は,

「サはサツキ(五月)のサに同じ」

としかない。「さつき」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/458763376.html)で触れたように,「サ」は,

「サは神稲,稲を植得る月の意」(岩波古語辞典),

とあり,大言海は,

「五月を,早苗(さなえ)月とも云ふの,早苗を植うる月の義なり。…早苗を下略する語に,早少女(さをとめ),早開(さびらき),早上(さのぼり),早下(さおり)などあり。またこのサを,五月のことに用ゐらる。五月蠅(さばえ),五月雨(さみだれ),五月夜(さよ)など,これなり」

とし,日本語源広辞典は,

「『サ(稲の神)+月』です。稲作の神が,田植えを見守ってくださる月です。サトメは,早乙女は当て字で,稲作に奉仕するオトメです。サナエは,稲作の心霊の宿った苗,古典に出てくるサニワは,農業の神を祭る神聖な斎場なのだという意味も納得できます。」

とする。そうみると,「さみだれ」は,

サ+水垂れ,

の意味は深く,

「サは『稲の神』です。水垂れは『雨』のことです。田植えのころ,ありがたい雨が降り続く。梅雨の別名なのです。サツキ,サナエ,サオトメ,サニワ,サナブリ,これらに共通するサは『稲の神,田の神,農業の神』を意味します。田植えの期間に,天から地上に降りて来て下さる神です」

との説明が納得がいく。

さみだる(早水垂る),

ということばがあり,

「サはサツキ(五月)のサに同じ」

で(岩波古語辞典),

「水垂(みだ)るは,雨降ること。…即ち,五月雨(さつきあめ)降る義なり」

とある(大言海)。

「『みだれ』は『水垂れ(みだれ)』である。古くは、動詞『五月雨る(さみだる)』と使われており、五月雨はその名詞形にあたる」

とある(語源由来辞典)。

satsukiame (1).jpg

(歌川国貞 『五月雨(さつきあめ)の景』 http://morimiya.net/online/ukiyoe-syousai/R113.htmlより)


要は,

「『さ』はさつき(五月)の『さ』と同根。『万葉集』など上代の文献には確認できない。上代では季節にかかわりなく『三日』以上(の)雨」(『十巻本和名抄』)をいう『なが(あ)め』に包含されていたと思われる」

ということ(日本語源大辞典)のようである。

しかし,異説もあり,

サ-アメタレ(雨垂)の転で,サはサツキ(五月)のサ。あるいは,シバアメツモリ(数雨積)の反。または,サメは雨,タレはクダレのタレ(名語記),
サツキアメクダル(五月雨下)の略轉(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・和訓栞),
サツキアメタレ(五月雨垂)の義(名言通),
サツキミダレアメ(和訓集説),
サは田植えに関するわざを意味する語で,サナへ(佐苗)・サヲトメ(佐乙女)のサに同じ。ミダレ(乱)は久しく雨降る意(古事記伝・俗語考),
サナヘミダルルアメ(早苗乱雨)の義(黄昏随筆),
乱れ降る雨であるところから,サメミダレ(雨乱)の略(幽遠随筆),
ソラミダレ(空乱)の義(日本語原学=林甕臣),
小乱雨の義(俚言集覧),

等々あるが,語呂合わせを出ない。音韻変化から,

「長雨(梅雨)に雨ごもりして『雨はもう十分である』という意味でアメタル(雨足る)といった。[s]を添加してタメタル・タミダル(五月雨る)になった」

とする説(日本語の語源)も,説得力を欠く。

「五月雨」の「五月」の陰暦の季節感が薄いため,梅雨と重なりにくいのが,現代感覚だが,この点を,

「当て字である漢字の字面からは新暦の五月頃に降るさわやかな緑雨、あるいは『五月雨式(さみだれしき)』という慣用句の印象から、継続的に降る小雨を連想させるが、旧暦五月は現在の六月頃にあたるので、五月雨はなんのことはないじめじめとうっとうしい梅雨であり、さらに『五月雨を集めてあつめてはやし最上川』(芭蕉)、『五月雨や大河を前に家二軒』(蕪村)という名句からも知れるように、長々と大量に降る雨でもある」(笑える国語辞典)

と警告する。確かに,五月に騙されて,

「現代の五月のすがすがしさや、ぱらぱらと小刻みに降る春の雨」

とは異なる,激しく長く降る雨の意,である。なお,

つゆ(http://ppnetwork.seesaa.net/article/458783261.html),
あめ(http://ppnetwork.seesaa.net/article/459999594.html),
さつき(http://ppnetwork.seesaa.net/article/458763376.html),

については,それぞれ触れた。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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2019年06月30日

独活の大木


「独活の大木」の「うど」に,「独活」を当てるのは,

「風が吹いてないときでもひとりで動く植物だということから,独揺草(どくようそう)とも名づけられていた。独は,一人という意味があり,活は,よく動くという意味がある。サンズイに舌という字は,水が勢いよく流れるということから動くことを表したもので,『ウド』が,風もないのにひとりで動くということから『独活』という字が当てられた」

ということかららしい(たべもの語源辞典)。

「独活の大木」とは,

「ウドは茎が長くても,柔らかくて役に立たないことから,身体ばかり大きいが,役に立たない人のたとえ」

に使われる(広辞苑)。しかし,ウドはせいぜい二メートル,どうみても,ウドが大木には見えない。

800px-Japanese_tokyo_udo_2015.jpg

(白ウド(東京うど)  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%89より)


「成長すると茎が二メートルほどにもなるが,若芽の時のように食用にならず,さりとて柔らかいため用材にもならないため」

という説明(故事ことわざ辞典)なら,まだわかる。日本語源広辞典は,この説を採り,

「大きい植物だが,若芽を食べる以外,木として役に立たない意」

とする。

独活の大木蓮木刀(はすぼくとう レンコンでつくった木刀),

ならともかく,

独活の大木柱にならぬ,

ということわざは,どうもジョークならともかく,現実的ではない。一説に,

「『うど』は空洞のことで,空洞のある大木は柱にならないの意から,同様のたとえになった」

という説もある(故事ことわざ辞典)。日本語の語源は,この説を採り,

「洞穴や樹木などの空洞をウツロ(空虚)といったのがウロ(空洞)になった。〈古木のウロ,いはほのくぼかなる所などに〉(弓張月)。今も,(中略)『木のウロ』という(ところがある)。
 発音が強化されると子交(子音交替)[rd]をとげてウドになり,東北地方…では『洞穴』のことをいう。さらに子交[dt]をとげてウトになり,淡路島…では『ほらあな』のことをいう。ウトーというところもある。
 ウドの大木とは植物の独活ではなくうど(空洞)のことで,空洞のある大木は建築用材にはならぬというのが本義であった。ちなみに,ウド(独活)もまた茎が中空なところからウド(空洞)の名を得た」

とする。考えると,確かに,この説の方が現実的ではあるが,諺の意外性は無くなり,人へのインパクトは無くなる。やはり,

ウドの大木,

は,「独活」とするのが,表現として,面白いのかもしれない。

白豆腐の拍子木

という表現とセットで考えるなら,「独活」だろう。では「うど」の語源は何か。

大言海は,

「埋(うづ)の轉(たづたづ,たどたど)。芽の,土中にあるを食ふ意と云ふ,いかがか」

とする。これは,山ウドを指し,

「若葉、つぼみ、芽および茎の部分が食用になり、香りもよい。つぼみや茎は採取期間が短いが、若葉はある程度長期間に渡って採取することができる」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%89)。スーパーや八百屋などで見られるのは、

「日の当たらない地下の室(むろ)で株に土を盛り暗闇の中で栽培した軟白栽培によるもので、モヤシのように茎を白く伸ばして出荷する」

せいで,白ウドと呼ぶ。日本語源広辞典も,

ウ(埋)+ト(土),

を採る。

ウド(埋所)の義(本朝辞源=宇田甘冥),

も同趣旨とみていい。しかし,

林の際など日当たりのよい場所か半日陰の傾斜地などに自生する,

ものの若芽を採っていた(仝上)とすると,この説はどうなのだろう。

800px-ウド.jpg

(山菜として食べごろのウド(若芽) 仝上)


たべもの語源辞典の言っていた,

「ウゴクの轉語。風がないのに動くところから中国で活を当てた」(滑稽雑誌・たべもの語源抄=坂部甲次郎)

は,中国語での「独活(どくかつ)」の説明ではあるが,それを「うど」と訓ませただけだから,これは「うど」の語源の説明にはなっていない。中国語では,「うど」は,

土當歸(どとうき),

とも呼び,若莖を食用にするとある(字源)。字鏡に,

「独活 宇度,又云,乃太良」

本草和名に,

「独活 宇土,都知多良」

とある。「たら」とは「タラノキ」で,

「春,幹の上に芽を生ず,フキノタウの如し,食用とす。味独活の如し,故に,ウドモドキ,又ウドメ(物頭)という名づく」

とある。「野タラ」「土タラ」と「独活」を呼んでいるのはこのためである。とすると,若芽を食べることを前提にしている。「埋(うづ)」等々,埋もれることを前提にしている説はいかがであろうか。

となると,

ウはウバラのウと同じ。トはトゲの下略。茎に毛刺が多いことから生じた語か(古今要覧稿),

が生きてくる。そうすると,「独活の大木」も,

空洞説,

となるが。

1024px-Japanese_taranome_2015.jpg


参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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