2019年07月07日

濡れ衣


「濡れ衣(ぬれぎぬ)」は,

沾衣,

とも当てる。「沾」(テン,チョウ)の字は,

「会意兼形声。『水+音符占(しめる)』で,ひと所に定着する意を含む」

とあるが,「うるおう」「水でぬらす」意で,「濡」に代えている。「濡」(漢音ジュ,呉音ニュウ)は,

「会意兼形声。需(ジュ)は『雨+而(やわらかいひげ)』の会意文字で,雨のつゆにぬれて垂れたひげのように柔らかいこと。のち須(ねばって待つ)に当て,需用(待ち求める)の意に用いる。濡は『水+音符需』で,需の原義(ぬれて柔らかい)を示す」

とある(漢字源)。「濡れ衣」は,文字通り,

濡れた着物,

の意である。それが,

根も葉もない浮名やうわさ(「憎からぬ人ゆゑは,濡れ衣をだに着まほしがる類もあなればにや」源氏),

無実の罪(「かきくらしことはふらなむ春雨に濡れ衣着せて君をとどめむ」古今)

と,意味が変化した。ついには,

濡れ衣を着る,
濡れ衣を着せる,

と,無実の罪を着せる成句にまでなる。このためか,

濡れ衣(ころも),

も,

濡れた衣,

の意と同時に,

無実の浮き名,無実の罪 (「のがるとも誰か着ざらむぬれごろも天の下にし住まむかぎりはろ」大和 ),

の意をもつに至る。

この意味の変化の由来には,さまざまに付会の説がある。たとえば,語源由来辞典は,

●継母が先妻の娘の美しさを妬み、漁師の濡れた衣を寝ている娘の枕元に置いたため、 漁師との関係を誤解した父が、娘を殺してしまったという昔話説,
●海人(あま)は皆 濡れ衣を着ており、水中に潜ることを「かずく(潜く)」、損害や責任を他人に負わせることを「かずける(被ける)」というところから「かずく(潜く)」と「かずく(被く)」を掛けたとする説,
●濡れた衣が早く乾けば無罪、乾かなければ有罪とする、神の意志を受ける裁判がかつて存在したと考え、その神事に由来する説,
●「無実」という語は、「実が無い」と書くことか、「みのない」が「蓑無い」となり、雨具として使われた蓑が無いと衣が濡れるため、「無実」を「濡れ衣」と呼ぶようになったとする説,

を上げ,先妻の娘説を有力とする。しかし,かずけるhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/460610794.htmlは,触れたように,

「潜る」意の「かづく」から転じて,「被る」意の「被く」となった,

ので,明らかに,意味の転換後にこじつけた説とみていい。

あるいは,古今集の,前述の歌,

古今集の,かきくらし ことはふらなむ 春の雨に 濡衣きせて 君をとどめむ

を語源とし,

「愛する人を引き留めるために春雨によって衣が濡れてしまうから帰らないで欲しいと、春雨に罪を着せたことから、濡れ衣=罪を着せるになった」

とする説まである(https://99bako.com/11.html)。むしろ逆で,「濡れ衣」の意味の転化があったからこそ,この歌に意味があるのではないか。さらには,

三途の川の懸衣翁・奪衣婆に由来するという説,

まである(https://mag.japaaan.com/archives/86485/2)。「懸衣翁・奪衣婆」とは,

「三途川には十王の配下に位置づけられる懸衣翁・奪衣婆という老夫婦の係員がおり、六文銭を持たない死者が来た場合に渡し賃のかわりに衣類を剥ぎ取ることになっていた。この2人の係員のうち奪衣婆は江戸時代末期に民衆信仰の対象となり、祀るための像や堂が造られたり、地獄絵の一部などに描かれたりした」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%80%94%E5%B7%9D)。奪衣婆(だつえば)が服を剥がし,懸衣翁(けんえのう)は,それを木の枝に懸(か)ける。衣の懸けられた木の枝は、衣の重さによって垂れ下がる。その重さこそ罪の重さであり、閻魔様より下される刑罰に影響する。「衣が濡れていると、それだけ罪が重くなる」。で,濡れ衣を着せられると、潔白な者でも無実の罪で罰せられるhttps://mag.japaaan.com/archives/86485/3),というのだという。ちょっと付会に過ぎ,無理筋のように思う。

Mitsunobu_Sanzu_River.jpg

(土佐光信画『十王図』にある三途川の画。善人は川の上の橋を渡り、罪人は悪竜の棲む急流に投げ込まれるものとして描かれている。左上には、懸衣翁が亡者から剥ぎ取った衣服を衣領樹にかけて罪の重さを量っている姿が見える。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%80%94%E5%B7%9Dより)

語源はどうも定かではないが,日本語源広辞典が

「濡れた衣が乾きにくい意です。まま母が先妻の娘の美しさに嫉妬して,漁師の塩で濡れた着物を寝所に置き,漁師の恋人がいると告げ口した故事もあります。古くからの比喩的用法で,故事は後の成立のようです。平安時代以降,無実の罪の意に使われるようになりました」

というように,いずれも付会に過ぎる。最も有力とされる先妻の娘説には,濡衣塚(ぬれぎぬづか)」まであるらしい,詳しいことは譲る(https://99bako.com/11.html)が,これも,

濡れ衣,

という言葉が既にあったからこそ意味のある故事で,なにも濡れ衣を着せるのに,濡れた漁師の衣である必要はない。

大言海は,万葉集の,

あぶり乾す 人もあれやも 沾衣を 家にはやらひ 旅のしるしに,

を載せる。

朝霧に 濡れにし衣 干さずして ひとりか君が 山道越ゆらむ,

も,ただの「濡れた衣」の意でしかない。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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posted by Toshi at 04:00| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする