2019年09月01日

発掘


大岡昇平他編『孤独のたたかい(全集現代文学の発見・別巻)』を読む。

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半世紀も前の,昭和四十年代にまとめられた,

現代文学の発見,

と題された全16巻の別巻としてまとめられたものだ。この全集自体が,過去の文学作品を発掘・位置づけ直し,

最初の衝撃,
方法の実験,
革命と転向,
政治と文学,
日常の中の危機,
黒いユーモア,
存在の探求,
性の追求,
証言としての文学,
日本的なるものをめぐって,
歴史への視点,
言語空間の探検,
青春の屈折,
物語の饗宴,

と,テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーで,この時代の文学市場もあるが,編集者,文学者の知的レベルを彷彿とさせるものだ(全集の責任編集は,大岡昇平,埴谷雄高,佐々木基一,平野兼,花田清輝。編集は,別巻の解説を書く,八木岡英治)。その別巻として,「埋もれたるものの巻」として,多ぐの人々の推薦を得た中から,選ばれた作品集になっている。ほぼ無名の人が多数を占める(このための公募作品の帯正子「可愛い娘」をのぞくと)。今日,名を残すものは数少ない。むしろ編集者(竹之内静雄・堺誠一郎・能島廉),サルトルなど実存主義の翻訳で知られる学者(白井健三郎),司法書士(北田玲一郎),大学教授(田木繁),政治家(犬養健)等々と,詩人(竹内勝太郎・秋山清・荒津寛子)を別にすると,作家として生きた人は少なく,その中に,まだ当時同人誌に作品を発表していた古井由吉が入っている。確か,発売当時読んでいるはずである。読んでいるが,半世紀近く前なので,ほぼ記憶にない。覚書が書き込まれていたり,線が引かれているが,その意味さえ覚束ない。初めて読むのと同じである。

いま思えば,僕には,無名の古井由吉が入っていることが奇跡に思える(『杳子』で芥川賞を受賞するのは二年後のことになる)。八木岡は,その選を,

「文句のない作品である。送ってもらった同人誌『白描』の中から飛びついて来た。それぐらい際立っていた。作品が読者の内部に掻き立て,引き出してゆく想像力というものが,豊かで快い」

とし,

「これはまだ出来たての作品で,これから評価をかちとり,時流に乗っていきそうに思える。ここに取りあげなくても,という意見もきかれたが,逸する気にはなれなかった」

と書く。編集者の慧眼である。そして,

「自己はここでは個であることをやめ,群衆の中に拡散され,雨滴となって飛んでいる。肉質を失い,現代というおそろしいものを運動においてとらえるための装置と化している。しかし作者は物質化されているように見えながら,ちゃんと元の場所静かな眼をひらいている。すべてのことは作者の内部でおこっている」

と古井由吉のスタイルを見ぬいている。

「スタイルというものが形ではなく,内的必然の掘進でありその軌跡であることが,ここによく示されている」

と。この内的運動は,処女作『木曜日に』の,

「それは木目だった。山の風雨に曝されて灰色になった板戸の木目だった。私はその戸をいましがた、まだ朝日の届かない森の中で閉じたところだった。そして、なぜかそれをまじまじと眺めている。と、木目が動きはじめた。木質の中に固く封じこめられて、もう生命のなごりもない乾からびた節の中から、奇妙なリズムにのって、ふくよかな木目がつぎつぎと生まれてくる。数かぎりない同心円が若々しくひしめきあって輪をひろげ、やがて成長しきると、うっとりと身をくねらせて板戸の表面を流れ、見つめる私の目を眠気の中に誘いこんだ。」

という内的運動に通じ,芥川賞受賞作の『杳子』の冒頭ともつながっていく。そこでは,二人の見方が重なり,対立し,重ねられていく相互運動が,語られる。

「女が顔をわずかにこっちに向けて、彼の立っているすこし左のあたりをぼんやりと眺め、何も見えなかったようにもとの凝視にもどった。それから、彼の影がふっと目の隅に残ったのか、女は今度はまともに彼のほうを仰ぎ、見つめるともなく、鈍いまなざしを彼の胸もとに注いだ。気がつくと、彼の足はいつのまにか女をよけて右のほうへ右のほうへと動いていた。彼の動きにつれて、女は胸の前に腕を組みかわしたまま、上半身を段々によじり起して、彼女の背後のほうへ背後のほうへと消えようとする彼の姿を目で追った。
 女のまなざしはたえず彼の動きに遅れたり、彼のところまで届かなかったり、彼の頭を越えて遠くひろがったりしながら従いてくーきた。彼の歩みは女を右へ右へとよけながら、それでいて一途に女から遠ざかろうとせず、女を中心にゆるい弧を描いていた。そうして彼は女との距離をほとんど縮めず、女とほぼ同じ高さのところまで降りてきて、苦しそうに軀をこちらにねじ向けている女を見やりながら、そのままあゆみを進めた。
 その時、彼はふと、鈍くひろがる女の視野の中を影のように移っていく自分自身の姿を思い浮かべた。というよりも、その姿をまざまざと見たような気がした。
(中略)彼は立ち違い舞った。足音が跡絶えたとたんに、ふいに夢から覚めたように、彼は岩のひろがりの中にほっそりとたっている自分を見出し、そうしてまっすぐに立っていることにつらさを覚えた。それと同時に、彼は女のまなざしを鮮やかに躯に感じ取った。見ると、荒々しい岩屑の流れの中に浮かぶ平たい岩の上で、女はまだ胸をきつく抱えこんで、不思議に柔軟な生き物のように腰をきゅうっとひねって彼のほうを向き、首をかしげて彼の目を一心に見つめていた。その目を彼は見つめかえした。まなざしとまなざしがひとつにつながった。その力に惹かれて、彼は女にむかってまっすぐ歩き出した。」

後の古井由吉を知る者にとって,当時の編集者の慧眼と見識にただ驚倒させられるばかりである。その他,掲載候補の中に,小川国夫『アポロンの馬』,丸谷才一『笹まくら』,秋山駿『想像する自由』,佐江衆一『無邪気な狂気』等々が入っていたらしい(月報)。

「『埋もれたるもの』の巻を編むに当たって,非情にも,今日われわれに資すること篤きもの,という規準に合わせて選択し,歴史的顧慮をふくめなかった。はずれるものはすべてスこれを捨てた。われわれは今日生き今日考えねばならぬ。博物館をここに建てるわけではない」

と,編集者八木岡氏は「この本のなりたち」で書く。しかし,それなら,埋もれたものは,過去ではなく,そのときの「いま」埋もれているものを見つけるべきではなかったか(編者の同時代と,読者の同時代は異なるのでやむを得ないかもしれないが)。過去の中に,未来はない。本書に掲載された竹内勝太郎が,

「詩でも絵でも,吐き出すことに意義がある。出してしまえば,捨てて省みない。」

と書く如く,書いた時,作家はそこにはいない。とすれば,過去に「埋もれている」ものではなく,いま,機を待つものを掘り出すべきではなかったのか。しかし,全集自体が過去の文学作品を発掘・位置づけ直すという意図に立つ以上やむを得ないのかもしれない。僕には,皮肉にも,戦前の,

堺誠一郎『嚝野の記録』
犬養健『明るい人』

よりは,その時に無名に近かった,

古井由吉『先導獣の話』
浅井美英子『阿修羅王』

の方が光って見える。

参考文献;
大岡昇平他編『孤独のたたかい(全集現代文学の発見・別巻)』(學藝出版)
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htm#%E8%AA%9E%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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2019年09月02日

証を立てる


「証を立てる」は,

証が立つ,

という言い方もする。

潔白であるということを証拠に挙げてはっきりさせる,

という意味である。

「『証』は、(後ろ暗くないことの)証明。『立てる』は、ここでは、はっきり示す意で、『誓いを立てる』『願を立てる』などと使う」https://imidas.jp/idiom/detail/X-05-X-01-2-0004.html

ともある。「たつ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/399481193.html?1565822911で触れたように,「たつ」は,

タテにする,地上にタツ,横になっていたものを縦にする,

意である。

逆に,「横」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/422323173.html?1565823196)は,

横言,
横訛り,
横飛び,
横恋慕,
横流し,
横取り,

と,「横」のつく言葉は,横向きという以外は,ほとんど悪意か,不正か,当たり前でない,ことを示すことが多い。

横を行く,

と言えば,無理を通すだし,

横車,

も,横向きに車を押す,ことだから,理不尽さ,という意味合いを含んでいる。

横紙破り,

は,線維に沿って縦に破るのではなく,横に裂こうとする含意から,無理押しの意味が含まれる。

「たて」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/453257596.html?1565823503)で触れたように,「立つ」は,

「自然界の現象や静止していめ事物の,上方・前方に向かう動きが,はっきりと目に見える意。転じて,物が確実に位置を占めて存在する意」

とある(岩波古語辞典)。この含意は,

立役者,

の「立」に含意を残しているように,

はっきりと目に見える,

意である。「立てる」は「縦にする」意なのである。

もともと「証(あかし)」は,これ自体,

証明する,
唄数をはらす証拠,

という意味を持つ。「証(證)」(ショウ,セイ)は,「證」(ショウ)は,

「会意兼形声。『言+音符登』で,事実を上司の耳にのせる→上申すること。転じて,事実を述べて,うらづけるの意となる」

とあり,「あかし」「証を立てる」意である。「証(セイ)」は,

「会意廉形声。『言+音符正(ただす)』。意見を述べて,あやまりをただすこと。いまは,證の新字体として用いられる」

とあり,「いさめてただす」意となる。「證」は「あかし」,「証」は「ただす」意と,本来別であった。

和語「あかし」は,

灯(燈),

と同源とある。「あかし(灯)」は,

ともしび,あかり,

の意である。漢字「灯(燈)」(トウ,チョウ)は,「燈(トウ)」は,

「会意兼形声。登は『両足+豆(たかつき)+両手』の会意文字で,両手でたかつき(脚つきの台)を髙く上げるように,両足で高くのぼること。騰(のぼる,あがる)と同系のことば。燈は『火+音符登』で,髙く持ち上げる火。つまり,髙くかかげるともしびのこと」

であり,「ともしび」「あかり」の意であり,「灯(チョウ)」は,

「会意兼形声。灯は『火+音符丁(停 とめおく)』で,元,明以来,燈の字に代用される」

とある。「ひ」「ひと所にとめておくあかり」の意とある。ちょっと区別ははっきりしない。

和語「あかし」が,

あかし(灯),

と同源ということは,

明かし,

つまり,

明るくする意,

であり,それは,

アク(明)・アカシ(赤),

と同根ということである。「あく」は,

明く,
開く,

と当て,

明るくなる,
ものを明るみに出す,

意である。つまり,

あかし(証),

は,

明かす,

であり,

赤す,

である。その「赤」に対するのが,

黒,

の,

暗(くら),

である。このことは,

「あか」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/429360431.html?1565770784),
「くろ」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/438380876.html?1565771001),
「赤」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/442701318.html),
「あかい」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/429360431.html),

等々で触れた。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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2019年09月03日

あがく


「あがく」は,

足掻く,
跑く,

と当てる。「あがく」の「あ」は,

足,

である。万葉集に,

「アの音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ」(安能於登世受 由可牟古馬母我 可豆思加乃 麻末乃都藝波思 夜麻受可欲波牟)

とある。この「あ(足)」の用例は,

足占(あうら),
足結(あゆひ),

等々,多く下に他の語をともなった複合語をつくる(岩波古語辞典),とある。「あゆひ」は,

あしゆひ,

とも言い,

動きやすいように,袴を膝頭の下で結んだ紐,鈴や玉をつけ,装飾とした,

とある(広辞苑)。

あよひ,

とも言い,この対が,

手結(たゆひ),

になる。「足占(あうら)」は,やはり,

あしうら,

とも言い,

「古代の民間占法。一歩一歩に吉兆の辞を交互に唱え,目標の地点に達した時の辞によって,吉兆をうらなったものかという」

とある(仝上)ので,花びらで,「來る,来ない」とやる占いみたいである。岩波古語辞典には,

「歩いて行って,右足・左足のどちらで目標の地点につくかによって吉兆を定めるものらしい」

ともある。

もともと,「あがく」は,

ア(足)+カク(掻く),

で,

馬が前足で地面を掻く,

意とある(日本語源広辞典)。つまり,

轡をくわえさせられ,手綱で御される,

馬の自由にならない状態を前提に,馬が,

足で地面を掻いている,

というのがこの言葉の前提である。とすると,

「(馬などが)足で地面を掻いて進む」(岩波古語辞典)

は正確ではない。それなら,それが転じて,

自由になろうとしてやたらに手足を動かす,もがく,

意となり,それをメタファに,

悪い状態から抜け出そうとして,どうにもならないのに,いろいろやってみる,あくせくする,

子どもが悪戯して騒ぎまわる,ふざける,

意としても使うという意味の外延の広がりとつながらない。万葉集に,

「武庫川の 水脈を早みと 赤駒の 足掻く激(たぎち)に 濡れにけるかも」

は,早い川の流れに,乗り手は進もうと手綱で指示するが,馬は立ちすくみ足踏みしているさまである。本来は,「あがく」は,意味の転化の変化から鑑みても,この意味だったと思われる。

「ふざける」意では,今日使わないが,

「ヤイ,ヤイ,ヤイ。よつぽどにあがけよ,其所なぬくめ」
「(子供は)早く寝て疾く起し,昼あがかせたが万病円」

という用例がある(ともに近松・鑓権三)。

なお,「足」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/453183118.html?1565827214)については,触れたが,

タチ(立)の転(玄同放言),

が最もいいところをついていると思う。「立つ」http://ppnetwork.seesaa.net/article/399481193.html?1501986945は,

「タテにする」

という意味である。それを「あし」とつなげるのは,自然に思えるが,どうだろう。二足歩行は,まず立つから始まる。たとえば,

tatu→tasi→asi

といった転訛をしたとは考えられまいか,とは臆説ではある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;
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2019年09月04日

あくせく


「あくせく」は,

齷齪,
偓促,

と当てる。「齷齪」の訓み,

あくさく,

の転訛である。だから「齷齪」は,

あくさく,
あくそく,
そそくさ,

とも訓ませる。そのせいか,

あくせく 83.8%
あくそく  9.5%
あくさく  5.4%
そそくさ  1.4%

と,訓み方がわかれる(https://furigana.info/w/%E9%BD%B7%E9%BD%AA)。「あくせく」への転訛は,

「『あくさく』から『あくせく』の音変化は、『急く(せく)』からの類推と思われる」

とする説もある(語源由来辞典)。

心が狭く,小さなことにこだわること,
休む間もなくせかせかと仕事などをすること,

の意である。「齷」(アク)は,

「会意兼形声。『齒+印符屋(つまる,ふさがる)』。歯の間がせまくつまっていること」

とある(漢字源)。「つまってちいさいさま」の意である。「齪」(サク,セク)は,

「会意兼形声。『齒+音符足(=促 せかせかする,間が狭い)』」

とあり(仝上),せまい,せせこましい,という意味である。「齷齪」は,

歯の細かく密なる義,

転じて,心が狭し,こせつく,

という意味が転じた(字源)とある。つまり,歯の間の狭いというだけの状態表現が,「こせこせ」「あくせく」と価値表現へと転じたことになる。さらに,

細かいことを気にして落ち着かないさま,

目先のことにとらわれて,気持ちがせかせかする,

と,その価値表現の幅も広い。要は,

せっついている,

ということである。中国語では,さらに,

汚い,不潔な,
卑しい,卑怯な,
度量が狭い,

と,その貶め方がきわまるらしいhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BD%B7%E9%BD%AA。笑える国語辞典にも,

「現代中国語では、やはり『齷』も『齪』も『齷齪』にしか使わず、こちらは『汚れている、汚い』という意味で用いられているようである」

とある。

大言海は,「あくさく」の項に,

「六書故『人之曲(こまかに)謹者,曰齷齪』。集韻『齷齪,迫(せまる)也』。アクセクと訛りて,普通語となれるは昔教科書なりし,文選より出しならむ」

とある。文選には,

「小人自齷齪,安(いずくんぞ)知嚝士懐(おもひ)」(嚝士は,心嚝き人なり)

とあるとか(仝上)。

「齷齪」は,和語でいうと,

こせつく,

だが,これは,擬態語,

こせこせ,

から来ている。「こせこせ」は,

コ(小)セ(狭)の繰り返し(日本語源広辞典),
コセはコソ(小狭)の意(大言海),

らしく,鎌倉時代から見られる。

「意味は,…(どうでもよい細かなことにこだわったり,些細な事を必要以上に気にしたりするなど,気が小さく,考えや行動にゆとりや落ち着きが無い様子)。『栂尾明恵上人遺訓』に『こせこせと成ける者哉と』ある。この『こせ』をもとに鎌倉・室町時代には『こせがむ』『こせびる』『こせめく』など,細かなことにこだわる意の動詞が現れた。今日の『こすい』『こすっからい』のもとの形容詞である『こすし』も室町時代からみえる」

とある(擬音語・擬態語辞典)。

参考文献;
山口仲美編『擬音語・擬態語辞典』(講談社学術文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
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2019年09月05日

光秀


渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』を読む。

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来年の大河ドラマの主人公だけに,これから柳の下を狙う類似本が一杯上梓されるだろう,おそらくその嚆矢か。しかし本書はその種の際物ではない。

「本書は光秀の生涯を軸としながら,信長,足利義昭,朝廷などの動向を交えつつ,本能寺の変に至る経過および結果」

を述べているが,その根本姿勢は,一次史料(古文書-書状など,記録-日記など)を重視し,二次史料(軍記物語,系図,家譜など)を副次的に扱う。

「二次史料を使用する際は,史料批判を十文に行う必要がある」

とする。なぜなら,

「こと本能寺の変に関しては二次史料への批判が甘く,特に歴史史料に適さない二次史料であっても『この部分だけは真実を語っているはずだ』という思い込みで,安易に使用されるケースが散見される」

からである。明智光秀の出自を,土岐明智の流れを汲むとする見方がある。しかし,身分が高い,例えば,

幕府の随分衆,
あるいは,
幕府の奉公衆,

であるとする史料はない。あるのは,

「『明智なる人物が『光源院殿御代当参衆幷足軽以下衆覚』に『足軽衆』として記載されて」

いることであり,しかも,

「『光源院殿御代当参衆幷足軽以下衆覚』は,足利義輝の時代の奉公衆のなどの名簿と考えられていた。しかし,,近年の研究により,前半部分が義輝段階のもので,後半部分が義昭段階のものであることがあきらかになった」

のである。この「明智」は,

「当該期に明智姓の者が光秀以外に候補がいないことを考慮すると,やはり光秀とみなさなくてはならないだろう」

とされる。光秀初見文書が確認できるのは,この後半部分の成立の一,二年後,永禄十二年(1569)二月十九日である。

実名が記されていないほど,ほぼ無名であったと見られる。足軽とは,

普段は雑役を務め、戦時には歩兵となる者。弓組・鑓組・鉄炮組などの諸隊の歩卒,

つまり,かなり身分が低い。光秀が小栗栖で一揆に殺されたとき,

「惟任日向守ハ十二日勝竜寺ヨリ逃テ、山階ニテ一揆にタタキ殺サレ了、首ムクロモ京ヘ引了云々、浅猿々々、細川ノ兵部大夫ガ中間にてアリシヲ引立之、中國ノ名誉ニ信長厚恩ニテ被召遣之、忘大恩致曲事、天命如此」

と,多聞院日記英俊(えいしゅん)は冷笑するように、切り捨てた。「中間」とは,武家奉公人のうち,地位の高い者を,

郎党(郎等)、

その下に,

若党(わかとう)、
悴者(かせもの),

がいる。若党は、主人の側近くに仕えて雑務に携わるほか、外出などのときには身辺警固を任とする。悴者(かせもの)は賤しい者の意で、姓をもつ侍身分の最下位。この下に,

中間、小者、あらしこ、

といった武家奉公人がいる。足軽は,中間よりはましで,姓をもつ。しかし,下層の武士である。

光秀の初見文書は永禄十二年の,村井貞勝らとの連署奉書である。以降光秀は急速に出世し,元亀二年(1571)までには,大津の宇佐山城を与えられ,歴史上に名を刻み始める。

本書の結論は,

「本能寺の変後の光秀の右往左往ぶりをみれば,とても政権構想や将来構想があったとは思えず,突発的な単独犯と言わざるを得ないのである。現段階おける一次史料からは,少なくとも黒幕うの存在を裏付けるものがない」

としている。当たり前の結論かと思う。変後,細川藤孝に三カ条の覚書を送り,藤孝の助勢を乞うているが,光秀自身,

不慮の義,

と書いている。計画的ではなく,咄嗟の思いつきであったことを白状している。

足利義昭黒幕説,

があるなら,毛利の鞆にいた義昭の動きを知らず,秀吉と和睦するはずはない。

朝廷黒幕説,
四国政策の転換,
怨恨説,

等の諸説を,史料と研究成果を踏まえつつ,ひとつひとつつぶしていく。

「光秀はなぜ本能寺の変を起こしたのか。さまざまな黒幕説が成り立たない以上,現段階の結論としては,光秀の単独犯ということになる。光秀の単独犯といえば,『つまらない結論』ということになるが,前提として言えることは,光秀が信長に対して何らかの不安や不満を抱いていたのは確かである」

それは,どこか摂津一職支配を委ねられた荒木村重の謀反を思い起こさせる。

「信長は軍功を挙げた者には恩賞で報いるが,そうでなければおしまいである。光秀がその重圧に耐えることは,非常に苦しかったと推測される。従来の二次史料に基づく不安説は誤りであるが,実態に即した信長や光秀の関係を勘案すると,光秀は将来に漠然とした不安を抱いていたことは容易に想像される」

村重も,光秀も,外様であった。

それにしても,光秀の変後の行動は,悠長である。

六月二日の変当日から,ほぼ九日まで安土にとどまり続けている。細川父子(藤孝・忠興),筒井順慶の参陣に拘泥し,十日には洞ヶ峠に出向いて順慶を待つ。黒幕がいるなら,この間動きがあるはずだが,まったくなく,落胆したように下鳥羽へ下り,そこに本陣を設置するのが,十一日である。既に,秀吉は,六日姫路に達し,九日には姫路を立ち,十一日には尼崎に達し,翌十二日には摂津富田に着陣している。その動きを,光秀はほとんど摑んでいない。翌日,両軍の間に小競り合いが生じている。既に,戦いの帰趨は決していたと思われる。とうてい光秀に事前に周到な準備があったとは思えない。

参考文献;
渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年09月06日

隠れ里


「隠れ里」には,

世の煩わしさを避け,世間に隠れて棲む所,特に貴人が山奥に隠れ住んでつくった部落を言い,伝説化しているところが多い,

という意味と,

山中や地下にあるといわれる人の知られぬ別世界,多くは椀貸し伝説に結びつく,

という二つがある(広辞苑)。前者は,

平家の落人部落,

という類で,後者は,日本の民話、伝説にみられる,

桃源郷,

で,

山奥や洞窟を抜けた先などにある,

と考えられたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%82%8C%E9%87%8C。隠れ里は,

奥深い山中や塚穴の中、また川のはるか上流や淵の底にあると想像されている別天地,

であり(仝上),

隠れ世,

隠田百姓村(おんでんひゃくしょうむら),

等々の呼称もある。そんなアナロジーなのか,

遊里,

特に,私娼の場所を言ったりする,らしい(岩波古語辞典)。

「猟師が深い山中に迷い込み、偶然たどり着いたとか、山中で機織りや米をつく音が聞こえた、川上から箸やお椀が流れ着いたなどという話が見られる。そこの住民は争いとは無縁の平和な暮らしを営んでおり、暄暖な気候の土地柄であり、外部からの訪問者は親切な歓待を受けて心地よい日々を過ごすが、もう一度訪ねようと思っても、二度と訪ねることはできないとされる」

という伝承は,落人伝説と共に,

「仏教の浄土思想渡来以前の、素朴な山岳信仰、理想郷の観念が影響している」

とされ,二つの「隠れ里」は微妙に重なっている。理想郷の伝承があるから,貴人の落人伝説が生まれてくる,というように。

SekienKakurezato.jpg

(鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』・「隠れ里」。右下に見えるネズミと小判は「鼠浄土」に見られる「地下にいる鼠が福をもたらす」話と通じる。その左には「嘉暮里」(かくれざと)の暖簾が見える https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%82%8C%E9%87%8Cより)

「各地の隠れ里伝承を比較研究した民俗学者の柳田國男は、概して西日本の隠れ里は夢幻的で、東北地方に行くにしたがって具体性を帯びていくという指摘をしている」

とか。たとえば,「椀貸し伝説」は,

「椀や膳が入用なとき,その淵に頼めば貸してくれる」

というもので,「淵」は,

川,
池,
沼,
塚,
洞穴,
風穴

等々ともなる。

「これらの伝承を持つ地は竜宮につながっているということも多くみられ,貸主は淵の主である龍神,河童,大蛇,乙姫などが多い。このことから,椀貸し淵伝説は,富や幸をもたらす水底の異郷に対する信仰を根底にし,これらのや池,沼などは竜宮へつながる出入口のように考えられていた」

とある(日本昔話事典)。

「隠れ里を訪ねた者の話には、贅沢なもてなしを受けたとか、高価な土産をもらったとかいうものがある。隠れ里は概ね経済的に豊かであることが多い。また、隠れ里に滞在している間、外界ではそれ以上の年月が経っていたという話もあり、時間の経ち方が違っていることもある」

ともありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%82%8C%E9%87%8C

浦島太郎,
鼠浄土,

といった説話とつながってくる。

「常世の国が海の彼方という不可能性を帯びた所に在るのに対して、隠れ里は地下の国や深山幽谷といった一応到達可能な点に置いている」(仝上)

たとえば,「鼠浄土」は,

おむすびころりん,

である。

鼠の餠つき,
団子浄土,

等々ともいう。

「 おじいさんが、いつものように山で木の枝を切っていた。昼になったので、昼食にしようとおじいさんは切り株に腰掛け、おばあさんの握ったおむすびの包みを開いた。すると、おむすびが一つ滑り落ちて、山の斜面を転がり落ちていく。おじいさんが追いかけると、おむすびが木の根元に空いた穴に落ちてしまった。おじいさんが穴を垣間見ると、何やら声が聞こえてくる。おじいさんが他にも何か落としてみようか辺りを見渡していると、誤って穴に落ちてしまう。穴の中にはたくさんの白いねずみがいて、おむすびのお礼にと、大きいつづらと小さいつづらを差し出し、おじいさんに選ばせた。おじいさんは小さいつづらを選んで家に持ち帰った家で持ち帰ったつづらを開けてみると、たくさんの財宝が出てきた。」

という話https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%80%E3%81%99%E3%81%B3%E3%81%93%E3%82%8D%E3%82%8A%E3%82%93で,この続きは隣の意地悪爺さんが真似をして,欲をかいて失敗する,というお定まりの話になる。なぜ「鼠」なのか。

「ネズミは神に関わる動物だとする俗信と,生活苦のない,物の豊かな浄土への憧れと,物をとって貯えるネズミの習性の観察とがある。古来,ネズミは作物などに甚だしい害を加えるにもかかわらず畏敬されてきた。白ネズミは農神であり富の神とも信仰されてきた大黒天の使者だといわれている。」

という(日本昔話事典)。そしてこの「鼠浄土」は,

根の国,

とつながる。柳田國男は,この「根の国」を,

「沖縄のニライ,ニルヤ,儀来(ぎらい),根屋(ねんや)などと同系のものと考え,本来は,光明の地であり,生命や豊穣(みのり)の源泉」

と考えた(仝上)。それは折口信夫の,

常世郷(とこよのくに)の信仰,

と重なる。「隠れ里」は,

常世の国,

を海の彼方から,この地にスライドさせたものであった。結局,苦しく貧しい,この世とはかけ離れた豊かな世界へのあこがれの反映とみられる。今日のわれわれにとって,その常世の国は,何処に比定されてるのだろう。

なお,日本各地の「隠れ里」伝承については,

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%82%8C%E9%87%8C

に詳しい。

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2019年09月07日

かくれんぼう


「かくれんぼう」は,

隠れん坊,

と当てる。

かくれんぼ,

ともいう。、主に幼少の子供がする,

二人以上で遊ぶ。まず鬼の役をやる人を決め、鬼がその場で数を数える間に他の人はどこかに隠れる。鬼が「もういいかい」と呼びかけ、隠れる側が「まだだよ」か「もういいよ」と答える。「もういいよ」と答えたら鬼が探索開始。隠れた人を見つけたら鬼の勝ち。見つけられずに鬼が降参したら隠れた人の勝ち。または、鬼に一番最後に見つかった人が勝ち,

という遊戯であるhttps://dic.nicovideo.jp/a/%E3%81%8B%E3%81%8F%E3%82%8C%E3%82%93%E3%81%BC

鬼を決めるのは,じゃんけんで,その鬼が目をつぶっている間に皆が隠れる。鬼に最初にみつけられた者が次の鬼になる,

ということから,

隠れ鬼,

ともいう。この遊びの歴史は相当に古く,

「『栄花物語』の莟み花の巻に、かくれ遊びとして名がみえている。「ともすれば御かくれあそびのほどもわらはげたる心地して」とあり、『物類称呼』によれば、その名称も数多かった。かくれご(出雲(いずも)=島根県)、かくれかんじょう(相模(さがみ)=神奈川県)、かくれかじか(仙台)などがみえる。かじか(河鹿)は岩の間に隠れるから、それにちなんでの名称であろう」

とあり(日本大百科全書),明治以後この遊びが流行したので,全国のにさまざまな呼び方が明らかになった,という。

カクレモーモ(長崎県),
カクレモチ(新潟県長岡市付近),
カクレジョッコ(秋田県北部),
カクレモジョ(鹿児島県),
ナブリッコ(東京都八丈島),
モウゾウガクレ(熊本県の球磨郡地方),

等々。東京周辺では「もういいかい」「もういいよ」という問答だが,が通例となっているが、この間に唱えることばがある地方も多い,とか(仝上)。岩波古語辞典には,

「この遊びの時『樗(あふち)や辛夷(こぶし)や桂の葉』,訛って『ちいちゃこもちや桂の葉』と唱えた」

とある。熊本県の球磨郡地方では,

「かくれんぼうをモウゾウガクレとよぶ。モウゾウは化け物のことらしいが、ここでは隠れ終わったときに『モウゾウ』とよぶそうである。そうよぶ以前に小さな声で『だぁまれ、だぁまれ、雉(きじ)の子、うんともいうな、屁(へ)もひんな、鉄砲かためが通ったぞ』という。鉄砲かためは鉄砲を肩にした者の意。奈良県では『モウヤァ』といって隠れるが、これが東京付近でいう『まだまだ』にあたるし、東京で『もういいよ』という合図のことばは、このへんでは「チンカラコ」といわれる」

ともある(仝上)。

日本以外にもほぼ同様のルールのものが多数存在し,英語圏では,

Hide-and-seek,

というらしい(仝上)。

「かくれんぼう」の由来は,はっきりしない。

隠れん+坊(接尾語ヒト),

とある(日本語源広辞典)。

「ンボは,オコリンボ,ケチンボのンボと同じで,人の意」

であるが,大言海の,

「隠るることを擬人化したる語。寝坊,悔しん坊」

という行為や擬態の擬人化の方が妥当に思える。

「隠れん坊」の由来には,宗教的な起源があるように思うが,はっきりしない。日本だけでなく,世界にあることも,何か人の営みの根源と関わるように思えるのだが。

なお,「かくれんぼう」は,

「日本では近代まで神隠し・誘拐(人身売買)を恐れ、夕暮れ時以降はタブーとされていた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%8F%E3%82%8C%E3%82%93%E3%81%BC。柳田國男は,

「高麦のころに隠れん坊をすると、狸に騙れると豊後の奥ではいうそうだ。全くこの遊戯は不安心な遊戯で、大きな建物などの中ですらも、稀にはジェネヴィエバのごとき悲惨事があった。まして郊野の間には物陰が多過ぎた。それがまたこの戯れの永ながく行われた面白味おもしろみであったろうが、幼い人たちが模倣を始めたより更に以前を想像してみると、忍術などと起原の共通なる一種の信仰が潜んでいて、のち次第に面白い村の祭の式作法になったものかと思う。
 東京のような繁華の町中でも、夜分だけは隠れんぼはせぬことにしている。夜かくれんぼをすると鬼に連れて行かれる。または隠かくし婆ばあさんに連れて行かれるといって、小児を戒める親がまだ多い。村をあるいていて夏の夕方などに、児を喚ぶ女の金切声かなきりごえをよく聴くのは、夕飯以外に一つにはこの畏怖もあったのだ。だから小学校で試みに尋ねてみても分かるが、薄暮に外におりまたは隠れんぼをすることが何故に好くないか、小児はまだその理由を知っている。福知山附近では晩に暗くなってからかくれんぼをすると、隠し神さんに隠されるというそうだが、それを他の多くの地方では狸狐といい、または隠し婆さんなどともいうのである。隠し婆(はばあ)は古くは子取尼(ことりあま)などともいって、実際京都の町にもあったことが、『園太暦(えんたいりゃく)』の文和二年三月二十六日の条に出ている。取上げ婆ばばあの子取りとはちがって、これは小児を盗んで殺すのを職業にしていたのである。なんの為にということは記してないが、近世に入ってからは血取りとも油取りとも名づけて、罪なき童児の血や油を、何かの用途に供するかのごとく想像し、近くは南京皿の染附に使うというがごとき、いわゆる纐纈城(こうけちじょう)式の風説が繰り返された。そうしてまだ全然の無根というところまで、突き留められてはいないのである」

と書いている(山の人生)。夕暮れの薄暗い時,つまり,黄昏は,

逢魔が時,

という。

逢魔が時http://ppnetwork.seesaa.net/article/433587603.htmlについては,触れたことがあるが,

おおまがとき(大禍時)の転。禍いの起きる時刻の意,

とあり(広辞苑),

大魔が時などと云ひて,怪ありとす,

とする(大言海)。

「それは恐らく日が沈み、それまで明らかだったものの輪郭がぼやけて見えなくなっていく、その覚束なさから生まれる不安なのだ。そして、ぼんやりとした物の陰から、何か異界の者がそっとはみ出るように現れてくるのだ。」

とある。陰と闇とがまぎれ,物の形がとける,という感覚は,ちょっと気味は悪い。さらに,

「だから、普通には魔物に逢っても意識されることは殆んどない。夕暮れ時の忙しさの中で、それは薄暗闇に紛れてしまう。ただ、感受性の強い、幼い子供を除いて……。 夕食の支度やら何やらで、忙しく立ち働かなくてはならないこの時間帯は、不思議なことに、赤ん坊は必ずぐずり、幼子は聞き分けがなくなって、母親にまとわり付くものだ。その多くの理由は、純な魂が、魔物を感じ取って不安になるためだと私は考えている。しかし、当然彼らにはその不安を説明することはできない。で、大人はいらいらと叱ったり、よしよしと宥めたりするだけなのだ。」

とありhttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1323106583,だからか,

「世俗、小児を外にいだすことを禁(いまし)む。」

という。ましてや,物陰に隠れる「隠れん坊」は,神隠しとつながる。

「子供のいなくなる不思議には、おおよそ定きまった季節があった。自分たちの幽かすかな記憶では秋の末から冬のかかりにも、この話があったように思う…。多くの地方では旧暦四月、蚕かいこの上簇じょうぞくや麦苅入の支度に、農夫が気を取られている時分が、一番あぶないように考えられていた。これを簡明に高麦のころと名づけているところもある。つまりは麦が成長して容易に小児の姿を隠し、また山の獣などの畦あぜづたいに、里に近よるものも実際に多かったのである。」(山の人生)

だから,高麦の頃は,紛れがちで危ない,という。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2019年09月08日

狸寝入り


「狸寝入り」とは,

空寝 (そらね) ,
狸眠り,
たぬきね,
たぬきねぶり,

等々とも言い,

眠ってるふりをすること,

だが(広辞苑),

都合の悪いときなどに,寝たふりをすること,

の方がこの言葉の含意を捉えている。

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「狸は強く驚くと死んだまねをするところから」

とある(精選版 日本国語大辞典)。

「もとは臆病な動物の狸がびっくりした際などに一瞬、気絶してしまい、眠ったようになることに由来しています。また、人をだますとされている狸が気絶している姿を人々は自分たちをだますための空寝と思い、『狸寝入り』と言うようになりました」

ともあるhttps://dic.nicovideo.jp/a/%E7%8B%B8%E5%AF%9D%E5%85%A5%E3%82%8A。同趣のものに,

「狸寝入りという言葉は、江戸時代の文献にも見られる。 タヌキは臆病な動物で、驚いた 時には倒れて一時的に気を失い、眠ったようになる。 昔からタヌキは人を騙すと思われ ており、この姿をタヌキが人を騙すための空寝と考え、「狸寝入り」と喩えられるように なった」

とある(語源由来辞典)。江戸語大辞典の「たぬき」の項は,

狸寝入りの略,

のみ載り,

おきなんしなどと狸へよりかかり,

という川柳が載る(柳多留)。

「たぬき」は,

狸,
貍,

と当てる。

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(『和漢三才図会』より「狢」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%B8%E3%83%8Aより)


「アナグマと混同され両者ともムジナ・貒(まみ)といわれる。ばけて人をだまし,また腹鼓を打つとされる」

とある(広辞苑)。「むじな」は,

狢,
貉,

とあてるが,「むじな」は,

アナグマ,

の異称。しかし,

「混同して,タヌキをムジナとよぶこともある」

とある(広辞苑)。和名抄には,

「貉,無之奈,似狐而善睡者也」とあるが,

文明本節用集には,

「貉,ムジナ,狸類」

とある(岩波古語辞典)。

「江戸時代以降は、たぬき、むじな、まみ等の呼ばれ方が主にみられるが、…狢(むじな、化け狢)猯(まみ)との区別は厳密にはついておらず、これはもともとのタヌキ・ムジナ・マミの呼称が土地によってまちまちであること・同じ動物に異なったり同一だったりする名前が用いられてたことも由来すると考えられている」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%96%E3%81%91%E7%8B%B8。「たぬき」も,「むじな」も,人を化かす。

「民間伝承では、タヌキの化けるという能力はキツネほどではないとされている。ただ、一説には『狐の七化け狸の八化け』といって化ける能力はキツネよりも一枚上手とされることもある。実際伝承の中でキツネは人間の女性に化けることがほとんどだが、タヌキは人間のほかにも物や建物、妖怪、他の動物等に化けることが多い。また、キツネと勝負して勝ったタヌキの話もあ…る。また、犬が天敵であり人は騙せても犬は騙せない」

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%8C%E3%82%AD,とある。

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(鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「狸」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%96%E3%81%91%E7%8B%B8より)


「ムジナ」も,人を化かす。

「むじなの化かし方は大きく分けて3つあり、1つ目は田や道を深い川のように思わせる。2つ目は馬糞をまんじゅうに、肥溜めを風呂のように思わせる。3つめは方向感覚をなくすということである」

とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%B8%E3%83%8A),

「日本の民話では、ムジナはキツネやタヌキと並び、人を化かす妖怪として描かれることが多い。文献上では『日本書紀』の推古天皇35年(627年)の条に『春2月、陸奥国に狢有り。人となりて歌う』とあるのが初見とされ、この時代にすでにムジナが人を化かすという観念があったことが示されている。下総地方(現・千葉県、茨城県)では『かぶきり小僧(かぶきりこぞう)』といって、ムジナが妙に短い着物を着たおかっぱ頭の小僧に化け、人気のない夜道や山道に出没し『水飲め、茶を飲め』と声をかけるといわれた」

と載る(仝上)。

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(鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「狢」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%B8%E3%83%8Aより)


では「たぬき」は,語源は何か。大言海は,

「皮,韛(たぬき)に佳なるより名とするかと云ふ」

と,皮の用途から来たとする。これは,

皮をタヌキ(手貫き)に用いるところから(名言通・和訓栞・ことばの事典=日置昌一),

と同じである。日本語源広辞典は,

「タ(田)+の+キ(動物)」

と,田に出回るという意味を採る。

タノキミ(田君)の訛か(ことばの事典=日置昌一),
タノケ(田之快)の義か。また田猫の義か(燕石雑志),

等々と似ている。「田猫」というのは,『和漢三才図会』が,「タヌキ」の名として,「野猫」と記しているのとつながるのかもしれない。これらをみると,「タヌキ」はそれほど恐れられていないように見える。しかし,

「鎌倉・室町時代の説話に登場するタヌキには、ときに人を食うこともあるおどろおどろしい化け物としてのイメージが強い」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%8C%E3%82%ADので,語源のイメージとしては,新し過ぎるように見える。

「ムジナ」は,大言海は,

「貉は茂(も)し穴(な)に棲み,熊は隈(くま)に棲むと云ふ。共に棲む所より云ふ」

と,住処が語源とみなす。他に,

その声をきらって,ウンジキナ(倦鳴)の義(名言通),
クシイヌ(奇狗)の義(言元梯),

等々あるが,これもはっきりしていない。

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
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スキル事典;
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2019年09月09日

狐の嫁入り



「狐の嫁入り」は,

狐火が多く連なって嫁入り行列の提灯のように見えるもの,

を言うが,

陽が照っているのに雨の降る天気,

つまり,

天気雨,

についてもいう(広辞苑)。そのため,

狐雨(きつねあめ),

ともいう。

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(葛飾北斎画『狐の嫁入図』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%90%E3%81%AE%E5%AB%81%E5%85%A5%E3%82%8Aより)

語源由来辞典は,

「狐の嫁入りは,夜,遠くの山野に狐火がいくつも連なっていることを,狐が嫁入りする提灯に見立てたもの。狐火は,狐の口から吐き出された火という俗信がある奇怪な青白い火で,恐れられていた。陽が照っているのに雨がバラつく現象を,狐火の怪しさのようであることにたとえ,日照り雨を『狐の嫁入り』というようになった」

と,その意味の転化を説明する。日本語源広辞典の,

「狐火(土中の燐化水素の自然発火)を,『狐の嫁入りの提灯の灯とみて怪しいとみた』言葉です」

は,ちょっと身も蓋もない。大言海は,

「一方に日は照り,一方に雨の降るを称する語。変化自在の狐のすめ所為(わざ)として云ふなるか」

と,日照り雨の説明をする。この方がいい。

宝暦時代の越後国の地誌『越後名寄』には,怪火としての「狐の嫁入り」が,

「夜何時(いつ)何處(いづこ)共云う事なく折静かなる夜に、提灯或は炬の如くなる火凡(およそ)一里余も無間続きて遠方に見ゆる事有り。右何所にても稀に雖有、蒲原郡中には折節有之。これを児童輩狐の婚と云ひならはせり」

と,描かれているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%90%E3%81%AE%E5%AB%81%E5%85%A5%E3%82%8Aし,寛永時代の随筆『今昔妖談集』には江戸の本所竹町、文政時代の草紙『江戸塵拾』には同じく江戸の八丁堀、寛政時代の怪談集『怪談老の杖』には上州(現・群馬県)神田村で、それぞれ奇妙な嫁入り行列が目撃されて,それが実はキツネだった(仝上),とか。

葛飾北斎による『狐の嫁入図』では,天気雨のときにはキツネの嫁入りがあるという俗信に基き、キツネの嫁入り行列と、突然の天気雨に驚いて農作物を取り込む人々の様子が描かれている(仝上)。

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(広重『名所江戸百景』・王子装束ゑの木 大晦日の狐火 「毎年、大晦日の夜、社に近い榎の下に集まった狐は、ここで衣裳を整えて王子稲荷社に参上した。近在近郷の農家では、狐がともす狐火の量で、新年の豊凶を占った」。各狐とも顔面の近くに狐火を浮かべている https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%90%E7%81%ABより)

「狐火」とは,

「狐が口から吐くという俗説にもとづく」

とし,

暗夜,山野に見える怪火,鬼火・燐火等の類,

とある(広辞苑)。

狐の提灯,
ヒトボス、
火点し(ひともし),
燐火(りんか),
鬼火,

ともいう。郷土研究家・更科公護によると,狐火の特徴は,

「火の気のないところに、提灯または松明のような怪火が一列になって現れ、ついたり消えたり、一度消えた火が別の場所に現れたりするもので、正体を突き止めに行っても必ず途中で消えてしまうという。また、現れる時期は春から秋にかけてで、特に蒸し暑い夏、どんよりとして天気の変わり目に現れやすいという。十個から数百個も行列をなして現れ、その数も次第に増えたかと思えば突然消え、また数が増えたりもするともいい、火のなす行列の長さは一里(約4キロメートルあるいは約500~600メートル)にもわたる」

という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%90%E7%81%AB)。まさに,「狐の嫁入り」である。人は,知っていることを見る,まさに「狐」とはこういうものだというものを見ている。

なお,「きつね」http://ppnetwork.seesaa.net/article/433049053.htmlはすでに触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:狐の嫁入り
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2019年09月10日

狐と狸


「狐と狸の化かし合い」

という言葉があるほど,だますものの双璧だが,不思議なことに,手元の鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』には,「狐火」はあるが,「狐」は載せない。しかし,「狸」は,載っている。

SekienTanuki.jpg

(鳥山石燕「画図百鬼夜行」より「狸」 https://mag.japaaan.com/archives/36411/sekientanuki

狸は,

「狐と並んで人を化かすといわれるが,その方法は狐に比べて単純で,あまり恐ろしくない。その信仰も,狐に対するほど強くはない」

とされる(日本昔話事典)が,狐は,

「早くから稲荷の使いと信じられてきた。比較的人里に近い山林に棲み,生殖や採餌の行動が季節によって特異な点があることから,農民には農耕神の示現を意味するとも考えられていたらしい」

とある(仝上)。古代の信仰では,

「山はそれ自体が山神であって、山神から派生する古木も石も獣(キツネ)もまた神であるという思想が基としてあると言われている」

ともあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%8D。それかあらぬか,日本の狩猟時代の考古学的資料によると,

「キツネの犬歯に穴を開けて首にかけた、約5500年前の装飾品[29]やキツネの下顎骨に穴を開け、彩色された護符のような、縄文前期の(網走市大洞穴遺跡)ペンダントが発掘されている。しかし、福井県などでは、キツネの生息域でありながら、貝塚の中に様々な獣骨が見つかる中でキツネだけが全く出てこない」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%8D,どうやら狐は特別な存在だったらしいのである。

「稲作には、穀物を食するネズミや、田の土手に穴を開けて水を抜くハタネズミが与える被害がつきまとう。稲作が始まってから江戸時代までの間に、日本人はキツネがネズミの天敵であることに注目し、キツネの尿のついた石にネズミに対する忌避効果がある事に気づき、田の付近に祠を設置して、油揚げ等で餌付けすることで、忌避効果を持続させる摂理があることを経験から学んで、信仰と共にキツネを大切にする文化を獲得した」

らしく,

「キツネは大衆に憎まれる存在とはならなかった。江戸時代に入り商業が発達するにつれて、稲荷神は豊作と商売繁盛の神としてもてはやされるようになり、民間信仰の対象として伏見のキツネの土偶を神棚に祭る風習が産まれた」

いのである(仝上)。その狐に対する信仰が,変化衰退して,

「その変怪神通力も化ける,化かすなどと受け止められるようになった」

とあり(日本昔話事典),狸の妖異とは,どうやら由来を異にするらしい。

SekienKinu-tanuki.jpg

(鳥山石燕「百器徒然袋」より「絹狸」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B9%E7%8B%B8より)

狸にも,狐に似た,

狸憑き,

というのがあったらしい。

狸の霊が人に憑依すること,

だが,

「狐の場合に比して,いささかユーモラスで,大きんだまの話とか,大名行列をまねたなどというのが目立っている。しかし,文福茶釜の話にみられるように,文福茶釜に化ける,美しい娘に化けて女郎屋に身売りする,馬に化けるというように,繰り返して化けるのが狐であるのに対して,茶釜に化けて和尚に売られ,釜の尻をごしごしやられ,火に掛けられると熱いので尻尾を出して逃げ出す」

のは、狸なのである(日本昔話事典)。だから,狸に憑かれると,

「むやみと食物を請求して大食する。当人は腹ばかり膨れるが,身体は衰弱してついに命を落とす」

ということになる(仝上)が,狐の場合,

「キツネの霊に取り憑かれたと言われる人の精神の錯乱した状態であり、臨床人狼病(英語版)の症状の一種である」

とされhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%90%E6%86%91%E3%81%8D,今昔物語に,

「物託(ものつき)の女、物託つて云く、己は狐也、祟をなして来れるに非ず、ただ此所には自ら食物散らふものぞかしと思ひて指臨き侍るを以て被二召籠一て侍るなり」

とあるのが最古の例とされる(仝上)。憑く狐は,キツネ以外に,

イズナ(東北地方,関東の一部),
オオサキバツネ(関東地方),
クダギツネ(中部地方),
トウビョウギツネ(東中国地方),
ヒトギツネ(山陰地方),

等々と呼び,

「特定の家に付属していると信じられて」

いた(日本昔話事典)ので,

「キツネが守護霊のように家系に伝わっている場合もあり、(中略)これらの家はキツネを使って富を得ることができるが、婚姻によって家系が増えるといわれたため、婚姻が忌まれた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%90%E6%86%91%E3%81%8Dが,これらのほか,

稲荷下げ,

などといって、修験者や巫者がキツネを神の使いの一種とみなし、修法や託宣を行うといった形式での狐憑きもある,という(仝上)。これは,

「キツネを稲荷神やその使いとみなす稲荷信仰(中略)を背景として狐憑きの習俗が成立した」

という例証とみなされる。

Gyokuzan_Kitsunetsuki.jpg

(法橋玉山画『玉山画譜』にある「狐憑き」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%90%E6%86%91%E3%81%8Dより)

信仰という背景のせいか,狐を使って靈をとりつかせる,

狐使い,

等々があるのが狐の特徴で,狸の場合,その化かし方は,

「大きな音を立て,あかるい火をともし,細かな砂をまき,小さな石をなげるばかりでなく,土地によっては,婚礼や葬式に倣い,芝居や汽車をまねた」

とどこか大らかなところがあるが,それは江戸時代以降のことらしい。

「江戸時代になって、民俗イメージの中のタヌキは腹がふくれ、大きな陰嚢をもつようになり、やがて『腹鼓(はらつづみ)』まで打つようになったが、鎌倉・室町時代の説話に登場するタヌキには、ときに人を食うこともあるおどろおどろしい化け物としてのイメージが強い(御伽草子の「かちかち山」前半の凶悪なタヌキは、おばあさんを騙して殺し、さらにおじいさんを騙して「婆汁」を食わせる)」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%8C%E3%82%AD。信仰の対象にはならなかったわけである。

「きつね」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/433049053.html
「たぬき」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/469925330.html?1567890099

については,それぞれ,既に触れた。

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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ラベル:狐と狸
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2019年09月11日

セーラー服


「セーラー服と機関銃」ではないが,セーラー服は,この国では,女生徒の換喩であるが,

水兵服に似せた女性・子供用の服,女学生の制服に用いる,

とある(広辞苑)。特徴的な後ろに垂れ下がった四角い襟は,

セーラーカラー,

というらしい。日本語源広辞典は,

「英語sailor(水兵)+服」

とし,

「十九世紀にイギリスでは子供服でした。日本では1921年に女学生服として採用されています」

と書く。セーラー服は,

もともとイギリス海軍の制服,

であったらしい。この大きな襟は,

「甲板上で風の影響によって音声が聞き取りにくいときに、襟を立てて集音効果を得るなど諸説あるが、定かではない」

とあるが(由来・語源辞典),

「セーラー服の襟の起源は、18世紀のヨーロッパで流行した男子の辮髪(ピッグ・テイル)による服の汚れを防ぐために服につけた別布にあるといわれている。逆に言えば入浴を好まないヨーロッパ人の慣習がこうした服を発明させたともいえるものだ。辮髪といえば中国の清ではやっていたものであるが、産業革命以前のヨーロッパの富と力では総力を結集したところで到底太刀打ちできそうもない大国清に少しでもあやかろうとしたものだろう」

ともあり,水兵とは別の由来があるのかもしれない。しかし,セーラー服が出来た頃の船乗りの間では,

「長髪を後ろで括ってポマードで塗り固める髪型(タール漬けの豚の尻尾)が流行していたが、船上ではなかなか洗濯が出来ないので、後ろ襟や背中が脂やフケで汚れを防ぐためという説もある。しかし、イギリス政府のサイトでは、“豚の尻尾”は1815年以降急速に廃れ、記録に残っているのは1827年が最後であるのに対し、大きな襟が現れたのは1830年以降なので、“豚の尻尾”とセーラーカラーが共存していた時期はないと指摘している。更に同サイトでは、初期の襟は円形であったが、男性が自分で繕うのに簡単なため、方形になったとしている」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E6%9C%8Dので,はっきりしない。なお,

「セーラー服の胸元が大きく開いて逆三角形になっているのは、海に落ちた時にすぐ服を破り、泳ぎやすくするためと言われている。装飾として胸元にタイ(スカーフ)があり、その起源は水兵が手ぬぐい代わりに使用するための物であったと言われている」

とある(仝上)。この制服は日本海軍でも1872年には取りいれられ、現在も自衛隊の水夫の制服として存続しているらしい。

Sailors1854.jpg


セーラー服の原型は,

「1800年代前半にイギリスで完成したと言われています。その当時,イギリス海軍では制服が制定されていなかったので,『各船ごとに艦長が趣味で制服を決める』といったことを行いました」

とありhttp://yurai-naze.com/sailor-suit/,で,一部の艦の艦長は,

「自分好みの制服を艦の資金で誂えていた。しかし、全乗組員に支給するには多額の費用がかかるため、人目につくことが多い艦長艇のクルーのみ制服を揃える場合もあった。特に軍艦ブレザー号(HMS Blazer)の艦長が1845年に誂えた制服は評判となり、乗組員の制服を揃えることが艦長の間で流行した。1853年、ハーレクイン号(HMS Harlequin)のウィルモット艦長は、この流行に乗って自艦の艦長艇クルーに艦名にちなみ道化師(Harlequin)の服を着せた。しかしこれは顰蹙を買い、新聞にも大きな問題として取り上げられた」

といった経緯でhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E6%9C%8D,1857年に,海軍本部はセーラー服を水兵の制服として制定し、支給することにしたという(仝上)。

これが子供服になるきっかけは,ヴィクトリア女王である。

「英王室ヨット“HMY Victoria and Albert”乗組の水兵の制服として揃えられたセーラー服が気に入り、同一デザインの子供服を誂えて1846年のクルージングの際に王太子アルバート・エドワード(のちのエドワード7世)にその衣服を着用させた」

それを国民も倣い,子供服として流行した。その流行はその後20世紀初頭にかけて世界的なものとなった,とある(仝上)。その流行はフランスに及び,19世紀のフランスでは女性のファッションとしてセーラー服が着られるようになり、その後ボーイッシュ・ブームの一環としてヨーロッパ各国やアメリカで女性のファッションとして流行した。その流れの中で,日本では,20世紀前半までに主に女子生徒用の制服として定着した,とある。

320px-Edward_VII_(1841_–_1910).jpg


(アルバート・エドワード王太子(1846年) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E6%9C%8Dより)


それを学校の制服としたのは,1920年,

京都の平安女学院,

だとされているhttp://yurai-naze.com/sailor-suit/。翌年(1921年)には,福岡女学院が現在のものとほぼ同形のセーラー服を採用し,これが日本全国の女学生の服装として広まることになったとある(仝上)。いくらなんでも,もはや少し古めかしいイメージであるが,

「セーラー服を採用している中学・高校はかつてに比べれば減ったものの、女子中高生にはいまも主流」

なのだとかhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E6%9C%8D。多く,明治以降に始まったものなのに,やたらと旧習を墨守するのはいかがなものなのだろう。

「日本でも、海軍好きで少女好きなイギリス人好きな人々の尽力で、セーラー服は女子中高生の制服として認知され、いまでは世界中のどの国よりセーラー服好きで少女好きな国民となっている」

と(笑える国語辞典)の皮肉も,少し空しい。精神の幼稚さの象徴でしかない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2019年09月12日

タニシ


「タニシ」は,

田螺,

と当てる。

「螺」(ら)は,

「会意兼形声。『虫+音符累(いくえにもなる,ぐるぐるまく)』」

とあり(漢字源),

たにし,さざえなど,螺旋状のからをもつにし類の総称,

である(仝上)。「にし」は,

螺,

と当て,

巻貝の一群の総称,

である(広辞苑)。「タニシ」は,日本には、大形のオオタニシ、中形のマルタニシ・ナガタニシ、小形のヒメタニシがいるらしい。ナガタニシは琵琶湖だけに棲息する固有種である。

大言海には,

古名たつび,
たつぶ,
たつぼ,
つぶ,

の呼称が載る。古名タツビは,

田中螺,

と当てる(たべもの語源辞典)。語源説には,

「タニシのタは田で,ニシは螺,巻貝のことで,田に棲む巻貝という意である。ニシのニは丹で殻の赤いことをいい,シは白で身が白いという説,ニシン(丹肉)の約だという説もある。また殻が赤いから丹(ニ)で,シは助辞であるという説もある。さらに,ニシム(丹染)からニシになったというセッションもある」

等々(仝上),また,

他に住む貝の王者という意でタヌシ(田主)の轉語(衣食住語源辞典=吉田金彦)

もあるが,はっきりしない。古名「たつび」は,

たつぶ(田粒)

の意と思われる。「つぶ」は,「つぶら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/464485052.htmlで触れたように,

丸,
粒,

と当て,

「ツブシ(腿)・ツブリ・ツブラ(円)・ツブサニと同根」

である(岩波古語辞典)。

円い小さい立体,

の意の「つぶ」であったのではないか。その後,「にし」という概念を知り,

田の螺,

という名を変えた,と思われる。

marutanisi.jpg



古くから貴重な食料としてなじみのあった「タニシ」は,昔話の中では,農民生活と縁の深い水田や池沼に生息することから,

水の神の使令,

と見なされてきた(日本昔話事典)らしい。

田螺長者,
田螺と狐,
田螺と烏の歌問答,

等々の昔話がある。「田螺長者」は,子のない夫婦が神に祈願して得た子がタニシであったが,

「子供のない老夫婦が子供を恵んでくださるよう村はずれの観音様に祈ると、老婆に子供ができた。しかし、生まれた子供は人間ではなく田螺だった。それでも老夫婦は観音様からの授かりものとして、大切に育てることにした。
ある日、ふとしたきっかけで、馬の耳元(あるいは耳の中)から馬に囁くことで、自在に馬を操る才能があることが分かり、以後馬による荷運びを手伝うようになる。そのことが評判になり村の庄屋が話を聞き知るようになった。
庄屋は田螺の出自を知ると、観音様のご利益にあやかりたいと思い、田螺と自分の娘を夫婦にする。信心深い娘は、田螺との結婚を嫌がることもなく、円満に暮らし始める。ある夏祭りの日に夫婦で観音様にお参りに行った帰りに、烏に襲われる。その弾みで殻が割れてしまうが、中から普通の大きさの人間の男になった(元)田螺が現れる。それから(元田螺)夫婦と老夫婦は末永く幸せに暮らしたという」

という話https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E8%9E%BA%E9%95%B7%E8%80%85,「田螺と狐」は,

「タニシと狐が駈け比べをする。タニシは狐の尻尾に食いついていって,決勝点で飛び降り勝利を得る」

という話(日本昔話事典)。「田螺と烏の歌問答」は,カラスに食べられそうになったタニシは,

「烏をほめて,その姿を美しく形容した歌を歌う。(中略)烏はそれを聞いて喜んで木の上に引き上げる。タニシはそれを見て,『おのれの背見りゃ鍋の尻(けつ),おのれの目玉は味噌ごし目玉』とからかって,田の中にもぐってしまう」

という話(仝上)。昔話の中では,タニシは,

小さいながら機知で身を守るもの,

として表現されているようである。神の使令のイメージが強いせいだろうか。

参考文献;
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)

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コトバの辞典;
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ラベル:田螺 タニシ
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2019年09月13日

くも


「くも」は,

蜘蛛,

と当てる。「くも」は,地方によって呼び名が異なり,四国の太平洋側では,

グモ,

東北・北陸地方では,

クボ,

九州では,

コブ,

という(日本昔話事典),とある。

漢字「蜘蛛」の,「蜘」(ち)は,

会意兼形声。『虫+音符知(=踟 小刻みにすすむ)」

とあり(漢字源),「蛛」(チュウ)は,

会意兼形声。「虫+音符朱(=株 ひとところにじっとまっている)」

どあり,ともに「くも」の意である。「蜘蛛」(チチュウ)は,

小刻みに動いてはとどまる,

ところから,「くも」である。「蜘躅」と同系とされる。「躅」(チョク)は「いもむし」の意である。

大言海は,

「沖縄にて,クム。朝鮮にて,ケムイ」

と載る。沖縄の「クム」は,九州の「コブ」という呼び名と,音韻のつながりがありそうである。朝鮮由来と見る説には,日本語源大辞典に載る,

朝鮮語kömïiと同源(万葉集・日本古典文学大系),
朝鮮の俗語で蜘蛛をいうクムとからか(東雅),

がある。日本語源広辞典は,

説1,中国語kobu,kumoの音韻変化,
説2,ク(組)+モ(モチ,ねばる),

の二説を挙げる。しかし,「ク(組)+モ」なら,

kumu→kumo,

とシンプルな音韻変化だってあり得るのではないか。現に,

網を汲む虫ということから,クム(組)の転か(和語私臆鈔・閑田耕筆・言元梯・碩鼠漫筆),
巣をクム(組)の義。または,捕えると手を組んで腹を抱えることから,手をクム(組)の義(滑稽雑誌所引和訓義解),
スクミモリ(巣組守)の義(日本語原学=林甕臣),

等々と,「くむ(組む)」と関わらせる説がある。

800px-Argiope_amoena(Female).jpg

(コガネグモ(黄金蜘蛛) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A2より)

その他,巣を張って待つところから,

巣に籠っているところから,コモリ(籠)の義(名言通),
手を拡げたさまが雲に似ているからか(河社),
蜘蛛の巣が雲に似ているから(九桂草堂随筆),

等々もある。「雲」は,

「雲る」(http://ppnetwork.seesaa.net/article/459727462.html

で触れたように,「くもる」は,

「隠(くも)る義なりと云ふ(かくむ,かこむ。くくもる,くこもる)」(大言海)
「黒雲の中に(雨)コモル(籠る)は(天)クモル(曇る)に転音・転義をとげた」(日本語の語源)。
「『隠る・籠る』と語源が等しい」(日本語源広辞典)

等々と,

クモル(隠る)→クモ(雲)→クモル(曇る),
か,
コモル(籠る)→クモル(曇る)→クモ(雲),

クモルあるいはコモル→くもり→くも,

かは,別として,「こもる」と関わる。その意味で,「蜘蛛」と「雲」がつながる,と見るのは無理筋ではない。

「蜘蛛」は,

「賢淵伝説として全国に広く分布する水蜘蛛伝説にも見られるように,クモは水界の靈と信じられていた」

とある(日本昔話事典)し,

「九州地方には蜘蛛合戦の習俗があるが,これはクモを神の仮の姿と信じる蜘蛛占いの一つである。夜グモが凶兆とされるのは,外観の奇怪さとともに夜出現する神を畏怖する心が恐怖心に変化したものであろう」

とする(仝上)。因みに,賢淵伝説は,たとえば,広瀬川の伝承として,

「仙台の城下町のはずれに当たるこの付近は茶屋町と呼ばれていたが、ここに住むある男が淵で魚釣りに興じていた。ふと気が付くと、一匹の蜘蛛が川面から現れて男の足首に糸を巻き付けた。気に留めた男は糸をはずすと、そばにあった柳の木の根元にそれをくっつけた。しばらくして気付くと、また同じ蜘蛛が男の足首に糸を巻き付けていたので、同じように柳の根元にくっつけた。こうして巻き付けられた糸を何度もはずしては根元にくっつけていたのだが、突然あたりを揺るがすような大きな音がしたかと思うと、柳の木が根こそぎ引き抜かれ、勢いよく淵に引き込まれていったのである。突然の出来事に男が肝を潰していると、水の中から「かしこい、かしこい」という声が聞こえてきた。そこでようやく、淵の主である蜘蛛が自分を引きずり込もうとして足首に糸を巻き付けていたこと、そして自分が糸を柳の木に付け替えていたために身代わりに柳が淵に引きずり込まれたことに気付いたのであった。それ以降、この淵は“賢淵”と呼ばれるようになったという」

というのが載る(https://www.japanmystery.com/miyagi/kasikobuti.html)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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ラベル:蜘蛛 くも
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2019年09月14日

心中


「心中」は,

しんちゅう,

と訓ませば,

心の中,
胸中,

の意である。

しんじゅう,

と訓ませれば,今日,

相愛の男女が一緒に自殺する,

という意の,

情死,

の意であるが,それが広がって,

一家心中,

のように,

複数の人間が一緒に死ぬ,

意である。それを比喩に,

会社と心中する,

というように,

打ち込んでいる仕事や組織などと運命を共にする

意で使ったりする。「情死」の意の前に載る意味は,

人に対して義理を立てる,
相愛の男女がその真実を相手に示す証拠,放爪,入墨,断髪,切指の類,

とあり,それがと転じて,

男女の相対死,

の意になったようである(広辞苑)。

本来,「心中」は,漢字では,

意中,

の意であり,ただ「心の中の考え」というだけの意味にすぎない。

心中有心,

というと,

心をもって心を制する,

意であり(管子「治之者心也,安之者心也,心以蔵心」),

心中人,

というと,

わが思う人,

の意である。この用例を見ると,「意中」の意は,ニュートラルではなさそうで,価値表現を含んでいるように思われるが,それ以外の意味は,我が国だけの用例らしい(字源)。だから,「しんぢう(しんじゅう)」と訓ませる場合も,

心,考え,

の意が元であり,それが,

心中立て,

の略として使われたところから,「心中」の意味が変化したもののようである。大言海は,「しんぢゅう」の項で,

互いに心中立(しんぢゅだて)する意,

としている。「心中立」とは,

心中を立ててとほす意。忠義立て,男だて同趣,

とある(大言海)。つまり,

心中(しんちゅう)→心中立(しんぢうだて)→心中(しんじゅう),

と,心の中の誓いや義理の話が,外へ出て,証を示すことになり,さらには,究極共に,その証として死ぬ,ということになった,という意味の流れに見える。日本語源広辞典の,

「中国語の,『心中(心の中の誠実)』が語源です。転じて,二人以上が同時に自殺することをいいます」

は説明に飛躍がある。

「『心中』は本来『しんちゅう』と読み、『まことの心意、まごころ』を意味する言葉だが、それが転じて『他人に対して義理立てをする』意味から、『心中立』(しんじゅうだて)とされ、特に男女が愛情を守り通すこと、男女の相愛をいうようになった。また、相愛の男女がその愛の変わらぬ証として、髪を切ったり、切指や爪を抜いたり、誓紙を交わす等、の行為もいうようになる。そして、究極の形として相愛の男女の相対死(あいたいじに)を指すようになり、それが現代にいたり、家族や友人までの範囲をも指すようになった」

という説明が正確である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E4%B8%AD)。

Kiyonaga_Le_neuvième_mois_(Minami_juni_ko).JPG

(鳥居清長・美南見十二候九月の遊女 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E5%A5%B3より)

「元々は,遊廓の遊女が客に、心をこめる箱を意味する心中箱を渡す風習があった。これが、心中の前身であったと言われる。初期には心中箱に爪などを入れるが、しだいに断髪を入れるようになり、さらには遊女が20代後半になると引退ということになり、客に最後にわたす意味で、指を切って渡した。当時の心中が文学作品の影響や、情死を美化する日本独自の来世思想(男女が情死すると、来世で結ばれる)から、遊廓を逃亡した遊女などが気に入った客と情死する=心中するという意味に移行するに至った」

という説(仝上)があり,究極,

「自らの命をも捧げる事が義理立ての最高の証と考えられたことから、現在の心中の意味になった」

とされる(仝上)。情死を賛美する風潮も現れ、遊廓で遊女と心中する等の心中事件が増加して,

「江戸幕府は『心中は漢字の「忠」に通じる』としてこの言葉の使用を禁止し、『相対死』(あいたいじに)と呼んだ。心中した男女を不義密通の罪人扱いとし、死んだ場合は『遺骸取捨』として葬儀、埋葬を禁止し、一方が死に、一方が死ななかった場合は生き残ったほうを死罪とし、また両者とも死ねなかった場合は非人身分に落とした」

という(仝上)。「心中」を,

しんちゅう→しんぢう→しんじゅう,

と濁らせたについては,

「遊里おいてに,起請文(相愛の男女がその愛情の互いに変わらないことを誓うために書いたもの)の意で(心中は)用いられ,原義との区別を清濁で示すようになった。元禄頃になると,男女の真情の極端な発現として情死という意味に限定される」

ようになったものとある(日本語源大辞典)。思えば,遊里であるからこそ,

起請文,

がいる。というより,それも客寄せの手段だったのかもしれない。しかし,思い詰めて行けば,行き着くところは,

情死,

になるのも,相手が遊女だったからなのかもしれない。

「そもそも男女が愛情の証しとして指や髪を切ることを言ったが、それだけではお互いを信用しきれない疑い深い連中が手段をエスカレートさせた結果、この究極の約束の方法にたどりついた。確かに心中が成功すれば約束が破られることはないが、往々にして片方だけが生き残り、そうなるとこれも究極の約束破りとなる」

とある(笑える国語辞典)のが笑えないのは,現に多かったのである。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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2019年09月15日

幕藩体制の確立


藤野保『新訂幕藩体制史の研究―権力構造の確立と展開』を読む。

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徳川にとっての故地三河,遠江・駿河から,秀吉によって,旧北条領地へ移封されて以降,関ヶ原,大阪の役を経て,幕藩体制を確立していくプロセスを,家康―秀忠―家光―家綱―綱吉―家宣―家継,と初期三代と,その一門の将軍から,紀州から入った吉宗までを,精緻にたどった大著である。

本書は,中村孝也『徳川家康文書の研究』中の,

「寛政重修諸家譜を逐一検討するだけでも,関東入国当初における諸将士分封の状況は一層明らかになり,徳川氏家臣団の成立過程・その性格・その構成などを知ることができると思ふけれども,今は其の暇がない。よつてただその志向だけを記しておく」

という言葉を導きに,各藩別の家臣団の成立過程を検討してきた著者が,それを徳川家に当てはめ,

徳川幕藩体制の綜合研究,

に足を踏み込んだ,研究成果である(はじがき)。そして,本書の狙いは,第一に,幕藩体制成立の基礎過程として,

「一方において,太閤検地等の基礎過程に関する豊かな個別研究の成果の上にたって,これを太閤検地施行段階および幕藩体制第一段階における政策構造との有機的関連のもとに統一的把握を試みるとともに,他方において,検地帳が存在する当該地域の検地施行者たる,あるいは個々の幕藩法令を発布する幕府権力および相互に政治条件が異なり,かつ一定の独自性を有する個別大名権力を幾つかの段階に区分しつつ,具体的分析を行なうことによって,権力と政策構造および政策施行の結果を示す小農民の存在形態を総合的に理解し,さらに幕藩体制第二段階への身通しをたてようとするものである」

とする。第二段階とは,吉宗の時代が,各藩の定着にともない,分権化がすすみ,幕藩体制の転換点と目されることをいっている。

さらに,本書は,幕藩体制成立の政治過程として,

「戦国大名徳川氏が近世大名へと発展し,さらに全国統一者として,あるいは前史として徳川氏自身の三河以来の発展過程を追及するとともに,徳川氏の覇権確立以降のいわゆる幕政史においては,徳川幕府権力の拡大過程が,実は徳川一門=親藩・譜代大名の創出・増強の過程であるという理解の上にたって,徳川幕府権力拡大の各段階に応じて,それら徳川系譜大名の創出・増強の過程を,徳川幕藩体制確立との関連において詳細に検討し,かつ幕府機構の整備過程を幕閣内部の権力後世を通じて分析し,各段階における幕政の意義・内容を究明しょうとする」

徳川一門=親藩・譜代大名の創出・増強の過程と表裏一体なのは,改易・転封であるが,それは,

「一方において,幕藩封建社会における封建的ヒエラルヒーの形成が,将軍の大名に対する。大名の家臣に対する圧倒的優位という形で出現する事態を具体的に検討し,終局において幕藩領主的土地所有権が将軍へ帰属する事態を明らかにするとともに,他方において,この編成原理が将軍の外様大名に対する改易・転封を通じて遂行される徳川一門=親藩・譜代大名の全国への転封・配置という形で現象する事態を明らかにしつつ,それが徳川幕府権力拡大の各段階に応じて,具体的に如何なる形をとりつつ如何に遂行されるかを精密に検討し,かつそれを通じて幕府と諸大名が『幕藩体制』のなかで如何に定位せしめられるか,大名類別(旧続大名・織豊大名・親藩・譜代大名)に全国的展望を試み,それが諸大名の土地所有構造および7発展段階差に如何なる影響をおよぼしたかについて」

解明している。いわば,殆どの大名が,植え替え可能な鉢植化するということは,大名家臣もまた,主の転封にともなって鉢植化していくことを意味する。その移封・転封を通して,豊臣体制から,漸次織豊系大名が消され(改易),かわっって,一門が配置されていくことになる。

更に,幕藩体制成立に伴う,流通過程についても分析をし,

「第一に,徳川幕藩体制の確立過程を貨幣の統一・確立の視角から問題とし,戦国大名の貨幣鋳造に系譜を引く近世大名の独自の貨幣鋳造および領内流通,その結果としての独自の領内地域市場が,幕府の貨幣鋳造の独占による統一貨幣の流通によって,漸次それに代位され,その結果,幕府の掌握する全国市場に連携していく過程として把え,これを農民的貨幣経済の前進のなかで把握し…,藩の再生産構造から追求し,第二に,徳川幕藩体制確立との関連において領主的商品流通機構を問題とし,(一)諸大名城下町の形成過程についての全国的展望を試みつつ,これを幕藩領主的土地所有の展開の視角から分析して,その地域差と分業関係の進展度を明らかにし,(二)特に地域差については,譜代小藩(非領国型)と外様大名(領国型)を具体的に比較検討しつつ,(中略)統一権力との対応関係から分析し,さらに近世大名領相互の地域差・発展段階差から,全国諸藩の再生産確保条件の相違と全国市場に対する対応の仕方を追及し,第三に,幕府の都市および門閥商人に対する諸政策を検討しつつ,貿易・市場をめぐる幕藩間の対抗関係
を追及し,鎖国を契機として諸藩の再生産確保条件が,幕府の流通機構に従属せしめられていく過程を明らかにしょとする」

と,その狙いは,権力構造成立過程を中心に,農民政策,流通政策にまで及ぶ。

その過程の分析は,著者自身が,

「寛政重修諸家譜の全面的分析を志向し…ついで徳川実紀・藩翰譜・譜牒余禄・寛永諸家系図伝等の分析に入り,数百枚におよぶ大名カードを作成する一方,御触書集成・徳川禁令考・御当家令条・徳川十五代史等から幕府の法令を,各藩法令集・県郡市町村史等から藩の法令を検索して,これを時代別に配列し,同じ題名を持つ三上参次・栗田元次ぐ両氏の『江戸時代史』を片手に,戦後の活発な社会経済史に関する個別研究を片手に,それらの成果を検討批判しつつ」

書き上げたというように,確かに,関東移封から,家康・秀忠,家光,家綱,綱吉,家宣,家継と続く政権下の,諸大名の改易,減封,移封,転封は,聖地を極める。

しかし,本書末尾で,吉宗時代に触れる中で,その画期とも言える変化について,

殿様は当分之御国主,田畑は公儀之田畑,

という,

「徳川幕府体制確立期における大名領主の封建的土地所有に対する思想の変革を意味する」

と述べる。つまり,徳川幕府が,諸大名を意のままに,鉢植え化できるのは,

天下の土地は,公儀のもの,

という考え方に基づくはずである。秀吉は,全国の土地を,一旦収公し,その上で,旧領を安堵したり,家康を関東に入封したり,政宗を仙台に移封したりした。一番問題なのは,徳川家康は,ただ秀吉の収公の延長線上で,

田畑は公儀之田畑,

としたのか,それとも,秀吉が天皇の権威に依拠したように,天皇に依拠したのか,それとも,全く別の考えに基づくのか,本書では,その徳川幕藩体制の権力の根拠が,僕が読んだ限り,明確ではなかった。

確かに,徳川政権の強化のために,たとえば関ヶ原後,六十八名の徳川一門・譜代大名を創出し,全国に配置しているが,それを遂行しうるのは何に基づいているのか。

大名を改易し,一門大名を増やしていくことは,権力の行使ではあるのだが,その細部が精緻に解き明かされるほど,それを可能にするものは何なのか,ただ徳川氏が相対的に強大であったので,それに従わざるを得なかったということだけでは納得できない何かが残る。鉢植化した大名は,仮にその領地の統治を認められているだけだとして,それを認めさせる徳川政権の権威はどこからくるのか,という問いに代えてもいい。そこが自明のまま議論が進められているように思えたのは,素人の僻目だろうか。たとえば,専門用語でいえば,

将軍の強力な土地所有権=全封建土地所有権,

とある。しかしそれは何に基づくのか。軍事的に秀吉のように,全国を制圧したわけではない。まだ大阪の役の前,

「徳川氏の覇権確立以降において,九州の大名領主相互間の争いが秀頼に持込まれ,その裁定に片桐且元・黒田長政が当たっていることは,西国諸大名がなお徳川氏の権力外にあったことをしめしている」

とある。このとき,秀頼の権威は何に基づくのか。大阪の役後,徳川に移った権威は,何に基づくのか。これは,僕には,大事なことに見えるが,専門的には,一笑すべき問いなのか。

参考文献;
藤野保『新訂幕藩体制史の研究―権力構造の確立と展開』(吉川弘文館)

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2019年09月16日

愚痴


「愚痴」は,

愚癡,

とも当てる。「愚」(グ)は,

「会意兼形声。禺(グウ)は,おろかな物まねざるのこと。愚は『心+音符禺』で,おろかで鈍い心のこと」

とあり(漢字源),「智」や「賢」の対。「痴(癡)」(チ)は,

「会意。疑は,とまどって動かないこと。癡は『疒+疑』で,何かにつかえて知恵の働かないこと」

で,「慧」「聡」の対。「痴」は,「癡」の俗字で,「疒+音符知」の形声文字。

「愚痴」は,

言っても仕方のないことを言って嘆くこと,

の意で使うが,もとは,三毒の一つ,

理非の区別のつかないおろかさ,

を言う。

「原語は一般にサンスクリット語のモーハmohaがあてられ、莫迦(ばか)(のちに馬鹿)の語源とされている。仏教用語では、真理に暗く、無知なこと。道理に暗くて適確な判断を下せず、迷い悩む心の働きをいう。根本煩悩である貪欲(とんよく)(むさぼり)と瞋恚(しんに)(怒り)に愚痴を加えた三つを三毒(さんどく)といって、人々の心を悩ます根源と考えた。また、心愚かにも、言ってもしかたのないことを言い立てることを、俗に『愚痴をこぼす』などと用いるようになった」

とある(日本大百科全書)。「莫迦(ばか)(のちに馬鹿)」との関係は,

「モーハは、中国語に翻訳された時に、『愚痴』と訳された場合と、『莫訶』あるいは『馬鹿』と訳された場合がありました。ですから『馬鹿』という言葉も元をただせば、『愚痴』と同じだった」

ということのようである(http://www.housenji-zen.jp/rensai/rensai_406.html)。意味が転じたのは,江戸期らしく,

「江戸時代になって、愚かなことを口にするという用法になり、さらに、江戸時代中期ごろからは現在と同様の意味に変化した」

とある(由来・語源辞典)。「三毒」とは,

仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩,

貪欲(とんよく),
瞋恚(しんに),
愚癡(ぐち),

を指す。「貪欲」は,

貪(とん),

むさぼり(必要以上に)求める心。一般的な用語では「欲」・「ものおしみ」・「むさぼり」と表現する,

「瞋恚」は,

瞋(しん),

怒りの心。「いかり」・「にくい」と表現する,

「愚癡」は,

癡(ち),

真理に対する無知の心。「おろか」と表現する,

と説明される(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AF%92)。

Three_poisons.jpg

(動物に擬せられた三毒(画像中央)。鶏は貪、蛇は瞋、豚は癡の象徴である https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AF%92より)


最古の経典と推定される南伝パーリ語のスッタニパータに、貪・瞋・癡を克服すべきことが述べられている,という(仝上)。

愚痴邪見,

と表現されることがある。「邪見」は,

よこしまな見方,誤った考え,

の意だが,これも仏教の,

因果の道理を無視する妄見,

で,

五見・十惑,

の一つとされる。仏教用語の「見」は,

哲学的な見解のこと,

正しい「見」は,「正見」(しょうけん)であり,間違った見解(悪見)は,

身見(自我の執着,自分はいつでも自分であると自分に執らわれる考え),
辺見(人間は死によって無に帰すとするのは断見,何かが残って続いてゆくとするのは常見である。このような一方的な考え方),
邪見(善因楽果,悪因苦果は仏教の根本である。この根本である因果の理を認めないで,それを否定し,偶然論を唱える説),
見取見(持勝見とも。間違った考え方を誤って勝れた考え方であると、それに執着する。有身見、辺見、邪見の三見は、見取見の初めの見となる),
戒禁取見(かいごんじゅけん 戒禁〈かいごん〉されたものを勝れた正しいものと誤って執着する考え方),

で(http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%82%E3%81%8F%E3%81%91%E3%82%93),

邪見,

は,その一つとされる。「十惑」は,煩悩の根源は,三毒の,

貪(とん),
瞋(しん),
痴(ち)

に(三惑),

慢(まん 自らを高くみるおごり),
疑(ぎ 仏教の真理を疑うこと),

を加え,五見の,

有身見,
辺執見,
邪見,
見取見,
戒禁取見,

を加えたもの。根本煩悩ともいうhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%85%A9%E6%82%A9

「年寄りの愚痴は聞いてやれと言われるが、愚痴の聞き手はストレスがたまり、他の他人に愚痴をこぼしてストレスを解消する。つまり、愚痴は飛沫感染の伝染病である」

とある(笑える国語辞典)が,マイナスのエネルギーは,人の気力・やる気をそぐ効果はある。本人だって,吐き出した分,別の愚癡が充填されるだけで,碌なことはない。言っても解決しないことは,言うよりは,動くことかもしれない。

窮すれば変じ,変ずれば通ず,

である。

参考文献;
高田真治・後藤基巳訳『易経』(岩波文庫)

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ラベル:三毒 愚癡 愚痴
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2019年09月17日

朝飯前


「朝飯前」は,文字通り,

朝起きて朝食をとる前,

の意だが,

(朝飯を食べる前にできることから)容易なこと(広辞苑),

あるいは,

(「朝食を食べるほどのわずかな時間でできる)たやすいこと(goo辞典),

と,謂れの違いはあるが,

簡単にできる,

意である。語源由来辞典は,

「朝飯前は字の通り、朝飯を食べる前のこと。 朝飯を食べる前は、空腹かつ時間もない ため、簡単な仕事しかできない。 特に、江戸時代中頃までは食事が一日二回だっ たため、朝飯前には力が入らない。 そのようなことから『朝食前でも仕上げられる簡単な 仕事』という意味」

とするし,日本語源広辞典も,

「朝食を取る前にできてしまうほど,たやすいこと」

とする。大言海に,

「こんな重い物,朝飯前には持ち上げられぬなど云ふは,飢腹(ひだる)き意より云ふなり」

とあるので,やはり,そんな状態でもできる,という意味ととるのが自然のようだ。江戸語大辞典に,

朝飯前にできぬ,

という諺が載り,

「空腹ではなにもできぬ,腹が減っては軍(いくさ)は出来ぬの類」

の意が載るので,そんな状態でもできることの意,とみていい。

朝飯前と同様に,簡単なことを意味する表現で「お茶の子さいさい」がある。

「お茶の子」http://ppnetwork.seesaa.net/article/451394732.htmlで触れたように,「茶の子」は,

茶の子,御茶菓子,また間食としてとる軽い食事,
(腹にたまらないところから)たやすくできること,

という意味である(広辞苑)。前者の意味から,後者へ転じたということでは「朝飯前」と似ているようだが,大言海は,「茶の子」について,

茶うけ菓子。點心,
朝茶子と云ふは,朝食に,茶粥を用ゐることなるべし,略して,チャノコとも云ひ,朝飯のこととす(今,静岡縣にては,朝飯をアサジャとも,チャノコとも云ふ)
朝の空腹に粥なれば消化(こな)れやすく,腹にたまらぬ意よりして,容易(たやす)きこと,骨折らずできること,又,朝腹の茶の子と云ふ諺も,容易なる意に云ひ,お茶の子などとも云ふ,

とする。「茶の子」が「お茶うけ」では,

容易,

という意味にはつながらない。

茶うけ→朝茶子(朝粥)→たやすい,

なら,少し意味が流れる。だから,「お茶の子」は,

「お菓子のこと。お菓子は腹に残らないことから、容易にできること、たやすいことをいう。」(「とっさの日本語便利帳」)

では,意味が飛躍しすぎる。「お茶うけ」は,腹にためるものではない。

腹にたまらない→たやすい,

と転じるには,

お茶うけ→朝茶子(朝粥)→腹にたまらない→たやすい,

と,もう一つ意味の拡大を挟んでいたのではあるまいか。あるいは,『隠語大辞典』に,

間食のことを茶の子といったので手軽な食,

ともあるので,間食も含めた,

お手軽食,

という意味から,たやすい,という意味に転じたというふうにも見られる。

お茶うけ→朝茶子(朝粥)あるいは手軽な間食→腹にたまらない→たやすい,

と,その手軽さが,たやすさへとシフトした,ということなのかもしれない。

『日本語源大辞典』には,

「朝食前,起きぬけにとる間食を茶ノ子と言うので,朝飯前の同義語としていう」(日本古語大辞典)

と言う説を載せている。つまり,ただの間食ではなく,

朝飯前の起きぬけの食事,

ということだから,正確には,

お茶うけ→朝茶子(朝粥)→腹にたまらない→たやすい,

の流れに,「朝飯前」という意味が重なる。それが,たやすいという意味と直接的につながっていく。

『日本語の語源』は,

オチャヅケノゴハン(お茶漬けの御飯)→オチャノコ(お茶の子),

と変化したという説を載せる。これを取るなら,もともとあった,

お茶の子,

とは別に,起きぬけの朝粥(あるいは茶漬け)を略して「茶の子」と言うようになった流れがあり,「お茶の子」に二重の意味が重なったのではないか。つまり,

お茶漬けの御飯→お茶の子,

が,本来の「お茶の子さいさい」の原点なのだが,それに,もともとあった,「茶うけ」の「茶の子」と重なった,というように。『日本語源広辞典』は,

「お茶の子(農民の朝飯前の代用食)+サイサイ(囃し言葉)」

と,よりクリアに,「お茶の子さいさい」の「お茶の子」の出自を明確化している。まさしく,

朝飯前,

なのだ。だから,たやすい意とつながる。これに「茶うけ」の「茶の子」の意味が重なったほうが言葉の陰翳は深まるような気がするが。

また「朝っぱら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/418872120.htmlで触れたように,「朝っぱら」にも,

朝食前のお腹,

という意味と,

極めてたやすいこと,
朝飯前,

の意味が載る(岩波古語辞典)。朝飯前の時間は,お腹のすいた,余り機嫌のよくない,エネルギーのない時間にもかかわらずできることという意味になる。

ところで,「朝飯」は,

朝餉・朝食

の意であるが,古くは,

アサケ,

といい,日葡辞書に,

アサケヲコシラユル,

と載る。夕餉・夕食も,古くは,

ユウケ,

で,日葡辞書には,

ユウケ,ユウメシ,

で載る。「朝飯」について,

「古代,朝廷などでは朝夕の二食を常とした。天皇に差し上げる朝食のことを『あさがれい』といい,一般には朝食のことを『あさけ』といった。日葡辞書には『Asaqe(アサケ)』『Asaiy(アサイイ)』の形があり,中世以降,『あさいい』,『あさめし』の形も使われるようになった。『いい』に対して,『めし』は『めしあがりもの』による丁寧語であって,『あさいい』よりも『あさめし』のほうが上品な言葉と意識されるようになった。近世以降『あさめし』がもっとも広く用いられたが,近代に『めし』が一般語となるとともに,『あさはん』,またより丁寧な表現として『あさごはん』(朝御飯)が用いられるようになった」

とある(日本語源大辞典)ので,

朝飯前,

という言い回しは,江戸期以降の言葉と見ていい。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
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2019年09月18日

屁の河童


前に触れた,

朝飯前(http://ppnetwork.seesaa.net/article/470157206.html?1568660734),
お茶の子さいさい(http://ppnetwork.seesaa.net/article/451394732.html),

と似た言い回しに,

屁の河童,

という言い方がある。

河童の屁,

とも言う。

何とも思わないこと,
へいっちゃら,
たわいもないこと,
全く容易でなんともないこと,

等々という意味で使う。この語源は,

木端の火の転訛,
水中でする屁,

の二説がある。「木っ端」説を採るのは,

「屁の河童は木っ端の火(こっぱのひ)という慣用句からきている。木端(木の屑)の燃える火は火持ちしないことから、たわいもないこと・はかないことを木っ端の火といった。これが訛って河童の屁となり、更に転じて屁の河童となった」(日本語俗語辞典)

「『木っ端の火』は語源が定まっているため,『木っ端の火』の転化説が妥当である」(語源由来辞典)

「『屁』は誰の屁であるにせよとるにたりないものであるが、なぜわざわざ想像上の動物である河童に託したのか疑問が残り、水中で出す屁なので勢いがないなどという、苦し紛れの解釈もなされている。一方で、すぐに消えてしまう『木くずについた火』という意味の『木っ端の火』が訛った言葉であるとの見解もあり、どちらかというとそのほうが説得力がある」(笑える国語辞典)

「『木(こ)っ端(ぱ)の火(あっけないこと、たわいのないこと)』がなまって『河童の屁』となり、『屁の河童』と転じたものという」https://imidas.jp/idiom/detail/X-05-X-29-5-0001.html

と,ネットで拾う限り,「木っ端」説が大勢である。しかし,語源説は,いままでいろいろ調べた経験で,理屈ばったもの,辻褄を合わせようとするものは,大概付会と相場が決まっている。訳の分からない河童を採ったことの方に,意味がある,と僕は思う。「水中の屁」説は,

「『河童の屁の倒語』です。水中の屁はたわいなく消える,たわいない意です。転じて,たやすい意」(日本語源広辞典)

「河童の屁は水中でするので勢いがないところから」(故事ことわざ辞典)

と,印刷媒体がこれを採る。注目すべきは,「故事ことわざ辞典」が,

物事がたやすくできること,

味も香りもないこと,無味乾燥なこと(多くはうまくない茶にいう),

どっちつかずの中途半端な人間に喩えるのに用いることば,

という意味の変化を述べていることである。

「木っ端の火」では,たやすいことは,意味として見えるが,

無味乾燥,
どっちつかず,

の意味は見えない。無味乾燥の用例として,

気軽さは佐吉かっぱの屁を呑ませ(雑俳・柳多留),

が載る(故事ことわざ辞典)。理屈ばった語源説を,僕は採らない。

河童の屁,

は,河童でなくてはならない。

木っ端の火,

では面白くもおかしくもあるまい。

Kappa_water_imp_1836.jpg

(享和元年(1801年)に水戸藩東浜で捕まったとされる河童 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%AB%A5より)


たやすいことを言うのに,

屁でもない,

という言い回しもある。その屁と河童を繋げたところがミソではないか。河童にとって屁でもないという意の,

河童の寒稽古,

という似た言い回しもある。やはり,河童の屁は,

河童の屁,

でなくてはなるまい。

朝がへりつくづく思やかっぱの屁(金升・柳多留)

という川柳もあるが,江戸語大辞典に,

河童のおなら,

とも載る。ぬるい出がらし茶を,

かっぱのおならといふ茶だ(寛政十一年・品川楊枝),

という用例もある。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
前田勇編『江戸語大辞典 新装版』(講談社)

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ラベル:屁の河童
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2019年09月19日

河童


「河童」は,

河(川)太郎(かわたろう),

とも言う。

Kappa_jap_myth.jpg

(鳥山石燕『画頭百鬼夜行』河童 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%AB%A5より)

「かっぱ」は,

「『かわ(川)』に『わらは(童)』の変化形『わっぱ』が複合した『かわわっぱ』が変化したもの」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%AB%A5),

「カハワラハ(河童)の訛,カハワッパの約」(日本語源広辞典,名言通,大言海,江戸のかたきを長崎で=楳垣実),

とされる,

かわわらべ,
かわらんべ,

という方言もある(日本語源広辞典),とか。

「日本全国で伝承され、その呼び名や形状も各地方によって異なる。類縁にセコなどがいる。水神、またはその依り代、またはその仮の姿」

ともいう(仝上)。河童の呼称は,

ガーッパ系 カッパ,ガッパ,ガラッパドンなど,
河(川)太郎系 カワタロウ,ガタロウ,ガータロ,ガワンタロなど,
川原坊主系 カワラロゾウ,カワラボウズ,カワソウなど,
川の殿系 カワノトノ,カワントノ,カワノヌシなど,
猿猴系 ホナコウ,ユンコサン,エンゴザルなど,
その他 メドチ,ガメ,ヒョウスンボ,コマヒキなど,

の六つの系統に分けられる,という(日本伝奇伝説大辞典)。河童が文献に最初に現れるのは,

河伯(かはのかみ),

として,日本書紀にある。河童のこととされている。

「河童」は,

「体格は子供のようで、全身は緑色または赤色。頭頂部に皿があることが多い。皿は円形の平滑な無毛部で、いつも水で濡れており、皿が乾いたり割れたりすると力を失う、または死ぬとされる。口は短い嘴で、背中には亀のような甲羅が、手足には水掻きがあるとする場合が多く、肛門が3つあるとも言われる。体臭は生臭く、姿は猿やカワウソのようと表現されることもある。両腕は体内で繋がっており、片方の腕を引っ張るともう片方の腕が縮み、そのまま抜けてしまうこともあるとされ、これは、中国のサル妖怪で、同様に両腕が体内で繋がっていると言われる『通臂猿猴』の特徴と共通している」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%AB%A5),「通臂猿猴(つうひえんこう)」というのはよく分からないが,『西遊記』中では孫悟空に重用された二匹の通臂猿猴「崩」「芭」が登場している。

「18世紀以前の本草学・博物学書上における河童のイメージは両生類的ではなかった。例えば、文安元年(1444年)に成立した『下学集』には『獺(カワウソ)老いて河童(カワロウ)に成る』とある。また、『日葡辞書』の「カワラゥ」の項では、川に棲む猿に似た獣の一種と説明されている。18世紀半ばに、山がなく猿に馴染みのない江戸の人びとに受容しやすい、カエルやスッポンに似せた両生類的な江戸型の河童のモデルが生まれ、19世紀には出版物を通じて全国に伝播し、置き換えられていったと考えられている」

とある(仝上)。「本朝俗諺志」や「和訓栞」には,

「昔,河童は黄河の上流に棲んでいたが,その中の一族が海を渡って九州の球磨川に棲んだ。そこで河童が繁殖して九千匹になった。九千坊と称する族長は乱暴者で,加藤清正が九州の猿を集めた攻め立てたところ,河童は降参して肥後を去り,久留米の有馬公の許しを得て筑後川に棲み,水難除け神の水天宮の使いになった」

とある(日本伝奇伝説大辞典)。川祭りとか,水神祭を六月に行うのは,河童を祀り,胡瓜をそなえるのは,それに因るとか。ただ,河童の由来は大まかに西日本と東日本に分けられ,大陸からの渡来とされるが,

「東日本では安倍晴明の式神、役小角の護法童子、飛騨の匠(左甚五郎とも)が仕事を手伝わせるために作った人形が変じたものとされる。両腕が体内で繋がっている(腕を抜くと反対側の腕も抜けたという話がある)のは人形であったからともされる。大陸渡来の河童は猿猴と呼ばれ、その性質も中国の猴(中国ではニホンザルなど在来種より大きな猿を猴と表記する)に類似する」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%AB%A5)。

もともと,「河童」は,

「田の水を司り,田の仕事を助けることもある。西日本の各地で,河童は秋冬は山にすみ,春夏は里にすむと伝える点は,田の神去来の信仰と対応する。河童は,小さ子たる水神童子の零落した姿であったろうと考えられている。かつて水神の化身,もしくは使者として信仰され,今でも各地で水神として祭られている。しかし,信仰の衰えに従ってしだいに妖怪に零落」

したものである(日本昔話事典)。

河童石,

というものが各地にあるが,

川子石(かわごいし),
川太郎石(かわたろういし),
ガラッパ石,
ヒョウスエ石,
エンコウ石,

等々ともいい,

「春に山の神が水脈を伝わって里へ降りて来て田の神となり,秋に山にまいもどり山の神になるという信仰伝承に似て,河童は春は里に,秋は山に行くと信じられていたが,その中継基地が河童石と考えられる。ために,精霊の拠る台座として祭祀の対象にも,また常人の近づくことを許されぬ禁忌の対象にもなっていた」

という(仝上)。

河童の駒引き,

という馬が川に引き込まれる昔話は,多く,川の近くにある河童石に絡むことが多いのは,信仰が薄れた後のことと思われる。三重県志摩の伝承に,

「河童が馬に蹴られて頭上の水をこぼして力を失ったので,寺の住持に頼んで水を入れてもらい,お礼に大石二個を奉納した。そしてその石が朽ちるまで村人を害さないと誓ったという」

こぼし石,

は,いまも祭祀し,水難除けのご利益があるという(仝上)。水神としての河童への微かな信仰の翳が残っている。

参考文献;
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)

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2019年09月20日

瓢箪鯰


「瓢箪鯰」は,

ひょうたんで鯰を押さえる,

という諺の名詞化,

つかまえどころがないもの,

の意である(広辞苑)。正確には,

ぬらぬらしてなかなかつかまえることのできないこと,

転じて,

ぬらりくらりとして要領を得ないさま,

の意とある(精選版 日本国語大辞典)。

まるく滑らかな瓢箪でぬるぬるした鯰をとらえようとする,

を喩えとして,

とらえどころのないこと,要領ををえないこと,

を言う(故事ことわざ辞典)のに使う。江戸語大辞典には,

瓢箪で鯰を和える,

という言い回しも,同趣と載る。

「世の中の事は万事胡蘆子(ひょうたん)で鯰をへるが如く」(安永八年・竜虎問答)

とある。「瓢箪」は,漢語で,

瓢(ひょう 瓠、匏とも表記),
瓢瓠(ひょうこ),
胡盧(ころ 葫盧,葫蘆,葫盧,壺盧,とも表記),

とも言うhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%BF%E3%83%B3。「瓢」(漢音ヒョウ,呉音ビョウ)は,

「会意兼形声。票は『要(細い腰)の略体+火』の会意文字で,火が細く軽く舞い上がること。瓢は『瓜(ウリ)+音符票』で,腰が細くくびれて軽いひょうたん」

とある(漢字源)。「ひょうたん」の意である。「箪」(タン)は,

「会意兼形声。『竹+音符単(タン 平らで薄い)』。薄い割竹であんだ容器のこと」

であり,和語では,

ひさご,
ふくべ,

という。この植物の果実を加工して作られる「ひょうたん」は,

「瓢」の「箪(容器)」

という意味になる(仝上)。

300px-Hyônen_zu_by_Josetsu.jpg

(大巧如拙筆「瓢鮎図」(室町時代)。京都・退蔵院蔵。鮎は鯰 (なまず) 。瓢箪で鯰を押えるという禅の公案図。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%93%A2%E9%AE%8E%E5%9B%B3より。)


「瓢箪」は,

「『瓢』はひさご,『箪』は竹製のまるい飯櫃」

とある(広辞苑)が,日本語源大辞典に,

ひさごとかたみ,

とある。つまり,

「酒などを入れるひさご(瓢)と,飯を盛るかたみ(筺)。『箪』は,竹で編んだ目の細かいかご,すなわちかたみをいう」

とある。この本来「瓢」と「箪」は別物である。大言海は,「へうたん」の項で,

「簞(タン)は,竹の組籠なり,簟(テン)にあらず,一簞食一瓢飲を,朗詠集に瓢箪屡空と熟語に用ゐたるより,一物に誤用す」

とする。「一簞食一瓢飲」とは論語で,顔回を評した言葉。

子曰。賢哉回也。一簞食。一瓢飮。在陋巷。人不堪其憂。回也不改其樂。賢哉回也(子曰、賢なるかな回や。一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)、陋巷に在り。人は其の憂いに堪えず。回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や)

に由来する。日本語源大辞典も,

「瓢と箪は別物の器を指したが,『和漢朗詠集』で『瓢箪しばしば空し 草顔淵が巷に滋し〈橘直幹〉』と熟語に用いられてから,瓢の意味だけに誤用されるようになった」

としている。しかし多く「ひざご」の形で使われ,「ひょうたん」という言葉が一般に使われ出したのは,室町期以降のようである。「ひさご」は,古くは,

ヒサコ,

であり,

「ユウガオ・フクベ・ヒョウタンといったユウガオ科の腰のくびれた植物の果実から作った容器を,古くはヒサコと称した。『十巻本和名抄』にも『奈利比佐古』がみえる。ひしゃく,しゃくしの語はヒサコに由来する」

室町期に,ヒサコ,ヒサゴが用いられた。

「瓢箪」は,縄文時代草創期から前期にかけての遺跡である鳥浜貝塚から種子が出土していると言い,日本書紀』(720年成立)の中で瓢(ひさご)として初めて登場する。その記述によると,

「仁徳天皇11年(323年)、茨田堤を築く際、水神へ人身御供として捧げられそうになった茨田連衫子という男が、ヒョウタンを使った頓智で難を逃れた」

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A7%E3%82%A6%E3%82%BF%E3%83%B3

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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