2019年09月21日

甘酒


「甘酒」は,

醴,

とも書く。

「白米を柔らかい粥のように炊き,少しさめたときに麹を加えて混ぜ合わせ,醸して甘くした飲み物」

である(たべもの語源辞典)。

甘い,

から「甘酒」という,らしい。

「麹を加えて醸してつくるのでアルコール(酒精分)は少ないが酒と呼ばれる」

ともある。「甘酒」には,いまひとつ,

「酒粕をとかして甘みをつけたものも」

あり,

「醸して一夜を経て甘酒とするので一夜酒(ひとよざけ)ともいう」

とある(仝上)。つまり,「甘酒」は大きくわけて二つの種類があり

ご飯やお粥に米麹を混ぜて醸造したノンアルコールのもの,

酒粕を使ったアルコールを含むもの,

と。前者は,甘粥,とも呼ばれる。

「甘酒」は,

「甘酒、昔は酒蔵が夏に手が空いた時期の副業として作られていた」

らしい。

「酒蔵が甘酒を副業として作る理由としては、作る工程が似ていることから夏の閑散期に作ろうという流れとなりました。清酒の工程は、まずお米を蒸します。蒸した米のでんぷん質を麹菌が糖分に分解、酵母菌がその糖分を栄養源にしてアルコール発酵し、出来たもろみを搾ると酒と酒粕に分かれ濾された酒が清酒となります。一方で甘酒は、蒸した米のでんぷん質を麹菌が糖分に分解し出来上がります」

とかhttps://www.kayamasyuzou.com/amama/blog/2018/02/01/

中国では西暦紀元前後の前漢の歴史を記した『漢書』(班固編)に醴酒の名で登場するらしい。そして甘酒は「醴斉」と呼ばれ,神を祭るのに用いる酒である「斉」の一種として扱われ、一般に人が飲用する「酒(シュ)」とは区別されていた,とかhttp://www002.upp.so-net.ne.jp/hidemi-k/thought/t074.html

日本では,

「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が醸した天甜酒(あまのたむざけ)はいまの甘酒であろう」

とされるとか(たべもの語源辞典)。また,

「応神天皇の十九年十月十日に吉野宮に行幸されたとき,国栖(くず)の人が醴酒(こざけ)を献じたとある」

のも,「甘酒」とみなされる(仝上)。

「古くから,濃酒(こざけ)・醴酒(こざけ)。口酒(こざけ)というように『こざけ』という語があるが,酒をつくるのに口で米を噛んだことが察せられる」

ともある。

醴酒が行商されるようになったのは室町時代からで,京阪ではもっぱら夏の夜だけ売ったが,江戸では初め冬のものとされ,やがて夏も売るようになり,後には四季を通して売られた,という(仝上)。ただ,俳句では,夏の季語である。

「夏に飲む場合は夏バテを防ぐ意味合いもあり、栄養豊富な甘酒は体力回復に効果的ないわば「夏の栄養ドリンク」として、江戸時代には夏の風物詩だった。『守貞漫稿』には、『夏月専ら売り巡るもの』が『甘酒売り』と書かれており、非常に人気がある飲み物であった。」

からのようである(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E9%85%92)。江戸幕府は庶民の健康を守るため、老若男女問わず購入できるように,甘酒の価格を最高で4文に制限していた,という。甘酒造りは,武士の内職でもあった,とか(仝上)。

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(守貞漫稿「近世風俗志」甘酒売り http://xn--l8j4ao3n.com/history-3/より)

江戸時代の甘酒売りは,天秤棒の前に茶碗やお盆を、後ろの箱には甘酒を温めるため炭火を熾した炉に釜を据えて,

「甘い・甘い・あ〜ま〜ざ〜け〜」

などの文句で売り歩いた。

「こうした姿から、一方が熱くてもう一方が冷めている状態を『甘酒屋の荷』と称して『片思い』を連想させる洒落た喩え言葉も生まれました」

ともあるhttp://www.hananozaidan.or.jp/syunnohanasi_09.html

「江戸中期天明(1781~89),江戸横山町などで『三国一』とか『白雪醴』という名をつけて甘酒が売られたのは,木花咲耶姫が富士浅間神社の祭神だからである。神社仏閣の境内,縁日祭礼の盛り場などで販売されるようになったのは,天保(1830~44)のころからで,浅草本願寺門前の甘酒店は最も名高かった」

とある(たべもの語源辞典)。

参考文献;
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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ラベル:甘酒
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2019年09月22日

あかねさす


「あかねさす」は,

茜さす,

と当てる。

茜色に照り映える意で,

「日」「昼」「照る」「君」「紫」などにかかる枕詞である(広辞苑)。

「東の空があかね色に映える意から昇る太陽を連想し,美しく輝くのをほめて」

かかる,とある(岩波古語辞典)。

大海人皇子が蒲生野で狩りをしたとき,額田王が詠んだ歌,

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

が例だが,確か母校の校歌に「あかねさす」のフレーズがあった。

大言海は,「あかねさす」について,

「アカは,明き義なり。ネには意なし。島ね,眉(まよ)ね,羽ねの如し(万葉集古義)。サスは,輝くなり,明気(あかき)映(さ)すの意。イアカネサシと云ふは,中止形なり。因りて,日,昼,照るにつづく。紫には,其色の匂ふにつづけ,君には,其顔のにほはしく色づけるにつづくるなり。紅顔の意にて,赤羅引く君と云ふが如しと云ふ」

とする。因みに,「赤羅引く」は,

「アカラは,アカラムの語幹。明根映(あかねさ)すと同意。明かく光る日とかかり,赤みの映(さ)す子(女子),君,(紅顔の意)膚とかかる」

とある(大言海)。大言海の説明を敷衍すると,厳密には,「あかねさす」は,

茜色に照り映える意から、「日」「昼」「照る」にかかる,

と,

紫(古代紫)は赤みを帯びていることから、「紫」にかかる,

と,

照り映えて美しいの意で、「君」にかかる,

とは,少し異なる。つまり,単純に,

茜色がさす,
赤く照り映える,

という状態表現が,枕詞に使われるとき,「日」「昼」「光」「朝日」等にかかる,

赤い色がさして光り輝く,

意から(「茜刺(あかねさす)日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも」万葉集),さらに,紫色、蘇芳(すおう)色との色彩としての類似から,それぞれ同音の「紫草(むらさき)」および地名「周防(すおう)」にかかる(「茜草指(あかねさす)紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る」万葉集)。紫が赤みを帯びている意で、「紫」の枕詞とされているが、あるいは、

これも日に照って光り輝いている意から、「紫野」にかけたのではないか,

とも考えられる,とされる(精選版 日本国語大辞典)。そして,「君」にかけ,

顔が赤く照り輝いている,

意で(「飯(いひ)喫(は)めどうまくもあらず行き行けど安くもあらず赤根佐須(あかねサス)君が情し忘れかねつも」万葉集),

と,紅顔、紅頬(こうきょう)の意のほめことば(一説に、赤心、すなわち真心のある意でかかるという),あるいは,光り輝く意から、美しい君にかける,という価値表現へと転化している(仝上)。

なお,茜色(https://www.color-sample.com/colors/2/)は,濃い赤色系カラーで,「暗赤色」という別称もある。万葉名では

茜,
茜草,
赤根,
安可根,

等々という表記される。「茜」(セン)は,

「会意兼形声。『艸+音符西(日の落る方向,夕焼け色)』」

とあり,「あかね」の意である。

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「アカネの名は『赤根』の意で、その根を煮出した汁にはアリザリンが含まれている。その根は染料として草木染めが古くから行われており、茜染(あかねぞめ)と呼び、また、その色を茜色と呼ぶ。同じ赤系色の緋色もアカネを主材料とし、茜染の一種である。このほか黒い果実も染色に使用できる」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%8D。古く『魏志倭人伝』にも「邪馬台国の卑弥呼が魏の皇帝から茜色の絹を送られた」という記述もある。しかし,この日本茜を使って鮮やかな赤色を染める技術は室町時代に一時途絶えた,らしい。

「日本アカネで染めた色は、外国産のアカネと比べて黄色みを帯びるのが特徴です。茜色は染色に工数がかかるため、江戸時代には蘇芳すおうで代用した似茜(にせあかね)が出回りました」

らしい(https://www.i-iro.com/dic/akane-iro)。途絶えた日本茜の茜色は,

「染色家の宮崎明子が1997年にかけて、延喜式や正倉院文書などを参考にして、日本茜ともろみを併用する古代の染色技法を再現した」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%8Dが,現在では、アカネ色素の抽出には同属別種のセイヨウアカネ(西洋茜、R. tinctorum)が用いられることがほとんどである(仝上),という。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2019年09月23日

風呂敷を広げる


「風呂敷を広げる」は,

大言壮語する,

意だが,

大風呂敷を広げる,

とも言う。「大」が付いた分,

実現不可能な計画を立てる,

大言壮語が弥増している。「風呂敷」は,岩波古語辞典に,

入浴具の一つ,

とあり,

「風呂場に敷いて,足を拭いたり,衣類を包んだりした方形の布,のちに物を包むのに用いる絹布になった」

とある。しかし,足に敷いたものが,物を包むものになるのだろうか。しかし,大言海も,

「もと風呂場に敷きて,足を拭布ヘルなれと云ふ。一説に,振敷(ふりしき)の転,打敷の意と云ふ」

とある。「打敷(うちしき)」とは,

器物などをのせるために敷く布帛,
あるいは,
寺院の高座または仏壇・仏具などの敷物。死者供養のため,その衣服でつくった,

とある(岩波古語辞典)。これなら,包むのに転用はある。しかし,多く,風呂関係を語源とする。たとえば,

「風呂に敷くことからの名。 室町時代の風呂は蒸し風呂のようなもので、蒸気を拡散 させるために『むしろ』『すのこ』『布』などが床に敷かれていたものが起源であるが、現在の風呂敷にあたるものは『平包(ひらづつみ)』と呼ばれていた。 足利義満が大湯殿を 建てた際、大名たちが他の人の衣類と間違えないように家門入りの絹布に脱いだ衣類を包み、湯上りにはこの絹布の上で身づくろいをしたという記録があり、これが『風呂敷』と『平包』の間に位置するものと考えられている。江戸時代に入り、湯をはった銭湯が誕生し、衣類や入浴道具を四角い布に包まれるようになったのが現在の風呂敷に最も近いもので、風呂に敷く布のようなもので包むことから、『風呂敷包み』や『風呂敷』と呼ばれるようになった。銭湯が発達したのに伴い、江戸時代の元禄頃から『平包』に代わり『風呂敷』の呼称が一般に広まった」(語源由来辞典)

「語源は,『風呂+敷き物』です。風呂に入る時,広げて,汚れた下着・衣類を包みこんだ敷物です。これは近世の語源です。能登半島,曽々木海岸近くの史跡,平時国家には,風呂桶の上に白い木綿布が掛けられ,風呂敷の語源とあります。平安末には,侍女が運んだ人肌に近い温水をかぶるのが湯浴み,入浴でした。その時,『貴族の身体が,直接風呂桶に触れないように,敷物』を敷いたのです。時代を経て,近世に至り,入浴の習慣ができ,庶民たちが,銭湯で風呂敷に汚れ物を包み込む習慣と変化したのです。現代語では,物を包む四角な布を言います。清浄なものを汚さぬ布の意識がある所以です」(日本語源広辞典)

等々。しかし,汚れ物を包んでいた風呂敷を,進物を包むのに用いるであろうか。どうも,この説には無理がある。「風呂敷」と当てた字にとらわれているのではないか。確かに,語源説の大勢は,

風呂場に敷いて足を拭う布の意から(貞丈雑記・骨董集・袂草・俚言集覧・守貞漫稿・大言海),
風呂場に敷いて衣類を包んだりした布の意から(南嶺遺稿・鳴呼矣草・名言通・増補国語研究=金田一京助),

という風呂の足拭きか脱衣類包みが多い。しかし,

「風呂敷といふものは,元湯あがりに敷もの故,ふろしきといふ。今の湯ふろしきといふは重言也。室町家の時分,大湯殿を建て,近習の大名衆,一処に入玉ふ事也。(略)是より物を包むものを,惣てふろしきといふやうに成たり。只ふくさ包といふべし。ふろしき包とはいやしき名也」

とある(南嶺遺稿)。どこか違和感があったからではないか。やはり,足拭きを包みに転ずるのは納得しがたい。

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(唐草模様の風呂敷 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%91%82%E6%95%B7より)

正倉院の所蔵物にそれらしきものがあり,古くは,

衣包(ころもつつみ),
平包(ひらつつみ),

と呼ばれていたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%91%82%E6%95%B7,とある。

「正倉院宝物の中に舞楽の衣装包みとして用いられたものが残っているこの専用包みには、現在の風呂敷にはない中身を固定するための紐が取り付けられていた。また、伎楽衣装を包む『伽楼羅(かるら)包(本来は果冠に下が衣)』、子どもの衣装を包む『師子児(ししじ)包(同じく元の字は果冠に衣)』と言う呼称が用いられ、それらに収容する内容物が墨書されていた」

らしい(仝上)。

「平安時代には『平裹』・『平包』(ひらつつみ)と呼ばれていて、庶民が衣類を包んで頭にのせて運んでいる様子が描かれている。また、古路毛都々美(ころもつつみ)という名称も和名類聚抄にうかがえる」

ともある。風呂敷の語源は,この物を包んでいた布,と考えるのが自然ではないか。その「平包」を,

「日本の室町時代末期に大名が風呂に入る際に平包を広げその上で脱衣などして服を包んだ、あるいは足拭きにした」

のであって,前後は逆に思える。

「風呂敷」という言葉が、物を包む裂として一般に用いられるようになったのは江戸時代も中期以後,それまでは、包まれているものを冠して,

けさづつみ,
ころもづつみ,
おおづつみ,
首包み,

等々と呼ばれていた。それが,風呂敷包に一括されたのは,

「江戸時代に入り庶民に銭湯が普及し、銭湯で脱いだ衣類を包んだり、その上で着替えるのに風呂敷が用いられました。この頃から風呂敷の名前が一般に定着してきたものと考えられます。そして花見など物見遊山が大衆化したことで、風呂敷を使う機会が増えました」

というhttp://www.furoshiki-kyoto.com/how_to/lecture_history.htmlのが,正しくはないか。この背景にあるのは,木綿の栽培,精製の普及がある。

「江戸時代の火事への備えとして、風呂敷は布団の下に敷かれるようになりました。その理由は、火事が多い江戸の町で、夜でも鍋釜と布団をそのまま包んですぐ逃げられたからです。このように、普段使いの利用法と違い、代用品として手近にあるものの利用法として『早風呂敷』と名付けられたとされています」

ともある(仝上)。因みに,風呂敷は正方形ではないそうである。

「上下と左右の長さがほんの少し違う。風呂敷は、反物を裁断しその端を三ツ巻きにして縫い上げる。縫った端を天地(上下)とし、生(き) 地(じ) 巾(はば) が左右となる。巾(はば) よりも天地方向のほうが若干長くつくられている」

という(http://www.ymds.co.jp/knowledge/trivia.html)。

なお,江戸の銭湯についてはhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/461421912.html前に触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2019年09月24日

関ヶ原の合戦


白峰旬『新視点関ヶ原合戦:天下分け目の戦いの通説を覆す』を読む。

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本著者の『新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い』(宮帯出版社)、『新「関ヶ原合戦」論―定説を履す史上最大の戦いの真実』(新人物ブックス)で展開された主張の補綴の役の本と見られる。従って、全体像よりは隙間を埋めるテーマが多いのは致し方ない。

主眼は、江戸時代の『慶長軍記』をはじめとする軍記物によって形成された、数々の家康目線で語られてきた伝承、さらにそれにのっとった参謀本部が編纂した『日本戦史 関ケ原役』の記述を、一次史料によって見直す作業である。

明治になって、『関原合戦図志』をあらわした神谷道一は、その緒言で、

「幕府ノ世ニ在リテハ人皆忌諱ニ觸レンコトヲ恐レ實記アリト雖モ秘シテ世ニ示サズ、今ヤ皇政開明復囁嚅ノ憂ナク正ニ是レ直筆ニ記載シ得ルノ日ナリ」

と記した。しかし、

「嘘も百回言えば、真実になる」

ではないが、

「一次史料による史料的根拠のない話が通説に化けた」

影響は大きく、

豊臣七将襲撃事件、
小山評定、
小早川秀秋への問鉄炮、

などが史実であるかのように思い込まされてきている。

本書では、著者の主著の補綴なので、一番の見どころは、第一章の、

豊臣七将襲撃事件はフィクションである、

が、読みごたえがある。七将については、

福島正則、池田照政、黒田長政、加藤清正、細川忠興、浅野長慶、加藤嘉明(関原始末記)、

福島正則、黒田長政、加藤清正、細川忠興、浅野長慶、加藤嘉明、脇坂安治(慶長年中卜斎記)、

福島正則、黒田長政、加藤清正、細川忠興、浅野長慶、蜂須賀家政、藤堂高虎(関原始末記)、

等々と異同はあるが、この七人が石田三成を襲撃・暗殺せんとしたとするものである。しかし、著者は、

「当時の人物が記した記録から三成襲撃事件をみた場合、襲撃・暗殺計画といった性格ではなく、七将が家康に三成の制裁(切腹)を訴えたもの」

と断定する。その意味で、三成が佐和山へ「隠居」あるいは「隠遁」と、関係資料で記されていることとつながる。それは、この騒動の責任をとって、

「中央政界から一時的に失脚したものの、問題の本質としては、佐和山に一時的に謹慎したにすぎないのであり、豊臣政権(豊臣公儀)の奉行職への復帰(政治的復権)の余地は十分のこしていた」

しかも、佐和山へ入るにあたって家康と三成は、相互に自分の子を人質としてとっている。この時点で、

「三成と家康は対等の関係であった」

のである。

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(関ヶ原合戦図屏風・関ケ原町歴史民俗資料館https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84より)


本書の特徴は、

「公儀」という言葉の使い方である。たとえば、関ケ原で勝利した家康は、征夷大将軍となり、江戸に幕府を開く。しかし、だからと言って、天下が定まったわけではない。著者は、

二重公儀論(笠原和比古)、

に依拠しつつ、

「家康は慶長八年(1603)に征夷大将軍に就任して、徳川公儀の主催者になったが、このことは、この時点で豊臣公儀が消滅したことを意味せず、豊臣公儀のスキームはそのまま継続した(秀頼は死去するまで点火人という位置づけは変わらなかった)」

とする。たとえば、まだ大阪の役の前,

「徳川氏の覇権確立以降において,九州の大名領主相互間の争いが秀頼に持込まれ,その裁定に片桐且元・黒田長政が当たっていることは,西国諸大名がなお徳川氏の権力外にあったことをしめしている」

とある(藤野保『新訂幕藩体制史の研究―権力構造の確立と展開』)。このことは、

「幕藩体制の確立」http://ppnetwork.seesaa.net/article/470099727.html?1568502090

で触れたが、このとき,この秀頼の権威は何に基づくのか。大阪の役後,徳川に移った権威は,何に基づくのかという視点抜きでは、これは理解できない。だからこそ、

家康は関ケ原合戦直後の時点で、前田利長宛ての手紙で、「すぐに(大阪城を)乗り掛けて攻め崩すべきであるが、(大阪城は)秀頼様の御座所であるので(大阪城攻めを)延期した」という趣旨のことを述べている。

「そもそも、なぜ徳川家康は、豊臣秀頼を改易できなかったのか、改易で済めば、わざわざ戦争(大坂の陣)をする必要はなかったははずである。現在の通説的見方では、大坂の陣は、徳川が主、豊臣が従という見方であるが、徳川と豊臣を対等の関係で見ないと、大坂の陣というのは政治的に正しく理解できない」

著者は言う。

「一方の公儀(徳川公儀)が他方の公儀(豊臣公儀)を改易することはできなかった」

のである。秀吉は、旧主君の子信雄は家臣であったから改易したが、家康は、改易できなかった。なぜなら、

「天下人として独裁者であった秀吉が後継指名した時点で次期天下人は(秀頼に)確定したのであって秀吉死去(慶長三年(1598))後は、即時に、豊臣公儀の主催者として天下人になったのである。独裁者であった秀吉が、独裁国家の後継者として実子の秀頼を指名した以上、(中略)諸大名はもちろん、豊臣政権下で当時、最大の大名であった家康でさえ、覆すことはできなかった。」

つまり、

徳川公儀と豊臣公儀の決戦、

で決着をつけるしかなかった、のである、とする。「公儀」という言い方は、

豊臣の体制対徳川の(幕藩)体制、

ということである。徳川政権にとって、豊臣家は、意のままに改易したり、移封したりできる相手ではなく、それ自体が、政治体制だという意味で、

公儀、

という言い方は、至当に思える。秀吉は、信長が本能寺で死んだ後も、信長を、「惟任退治記」や手紙で、

公儀、

と呼んでいたが、それは、織田体制という含意を持たせていたのもかもしれない。

参考文献;
白峰旬『新視点関ヶ原合戦:天下分け目の戦いの通説を覆す』(平凡社)
藤野保『新訂幕藩体制史の研究―権力構造の確立と展開』(吉川弘文館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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2019年09月25日

裏を返す


「裏を返す」は、

同じことをまたする、

意とあり(広辞苑)、特に、

同じ芸娼妓を二度目にきて買う、

意とある。いまやその意味は死語だが、遊里では、「裏を返す」は、

「客が初めて揚屋に入り遊女を指名して客になることを『初会』、客が初回の相手に会いに二度目に登楼することを『裏を返す』、三度目に会うのを『馴染み』といった。

とある(日本語源大辞典)。

「裏を返さないのは江戸っ子の恥」、

という言葉が残っているように、それが粋な遊び方だったらしいhttps://sho.goroh.net/uraokaesu/

もっとも、「裏を返す」には、

裏側を塗る、
壁・板などを打ち抜いて抜けぬようにする、

意があり(岩波古語辞典)、これが本来の意ではないか、と思われる。

「一説に『裏壁を返す』の略で、左官の言い始めた語と」

とあり(江戸語大辞典)、

「『裏を返す』は『裏壁(返す)』の言い方もあり(浮世草子など)、『壁の表を塗った後にもう一度裏から塗直す』という左官の用語を語源と見る考え方が18世紀の随筆や草草紙に記されている」

とある(日本語源大辞典)ので、語原は左官用語みていい。

今日では、「裏を返す」は、

「裏を返せば」、

の形で、

逆の見方をすれば、
本当のことを言えば、

という意味で使われることが多い。

裏を返す→裏返る→裏返す、

といった転訛で、

裏を返して表とす、

つまり、

ひっくり返す、

意で使う。遊里の言葉は、「裏返す」の、

同じことをする、

意の転用と思われる。

裏壁かえす→同じ事を重ねてする→壁の上塗りをする、

と意味を転じたが、「裏壁返す」とは、

壁の表側を塗った後に裏側を塗り、木舞(こまい)からはみ出した壁土を裏側から塗り返す、

意である(精選版 日本国語大辞典)。「木舞(こまい)とは、

小舞、

とも当て、

土壁(つちかべ)の下地、

の意。

細く割った竹を、3~4cmくらいの間隔をあけて格子状に縄で組んだもの。

とある(家とインテリアの用語がわかる辞典)。昔の土壁をイメージすればよい。この意味が、

打った釘の先を打ち曲げる、

意にもなった。裏側から打ち曲げるからであろうか。

「うら」http://ppnetwork.seesaa.net/article/463821593.htmlで触れたように。「うら」は,

裏,

と当てるが,

心,

とも当てる。そのことは,「うらなうhttp://ppnetwork.seesaa.net/article/452962348.html」で触れた。「うら(占)」は,

「事の心(うら)の意」

とする。「心(うら)」は,

「裏の義。外面にあらはれず,至り深き所,下心,心裏,心中の意」

とある。『岩波古語辞典』は,「うら」に,

裏,
心,

と当て,

「平安時代までは『うへ(表面)』の対。院政期以後,次第に『おもて』の対。表に伴って当然存在する見えない部分」

とある。とすると、「裏を返す」とは、

おもてになる、

意である。そうみると、なかなか意味深な言葉遣いではある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評
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ラベル:裏を返す
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2019年09月26日

追剥


「追剥」は、

通行人を脅かして衣類や持ち物などを奪うこと、

である。今日では死語だが、室町末期の「日葡辞書」には、

オイハギニアウ、

と載る(広辞苑)。動詞で、

追い剥ぐ、

ということばがあり、

往来の人を追ひ劫やかして、衣類、金銭などを剥ぎ取る、引剥(ひはぎ)を行ふ、

とある(大言海)。「引剥」は、

ひきはぎ、
ひっぱぎ、

とも訓み、

「山野など、無人の路に潜みて、往来の人を劫(おびやか)し、衣を剥ぎ、財を奪う盗人」

とある(仝上)。古くは、

追落(おいおと)し、
引きはぎ、

ともいい、「宇治拾遺物語」に、

「いかなる者ぞと問へば……ひはぎに候」

とある。「追剥」は、

「追い+剥ぎ」

で(日本語源広辞典)、

旅人を追いかけて、衣類や持ち物を剥ぎ取る、

ところからきているらしい(仝上)。ただ、江戸幕府は、

「『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』で『追いはぎ』と『追落し』とを区別したが、殺人強盗、傷害強盗とともに強盗罪のなかに組み入れている。追いはぎは、通行人を捕らえて自由を奪い金品を強奪して衣類をはぐことをいい、刑罰には獄門を適用した。追落しは、通行人を脅して突き倒し、あるいは逃げるのを追いかけて金品を奪うことをいい、刑罰は一等軽い死罪であった」

とある(日本大百科全書)。

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(喜多川歌麿「見るか徳栄華の一睡 娘の夢」(商人の若夫婦が追い剥ぎに襲われ"服を脱げ"と脅され、嫁が帯を外そうとしたら"男の方だ!"とまさかの若旦那を指名、自身もふんどし姿になる追い剥ぎ、という夢を見る娘に餌をねだる猫)http://www.bestweb-link.net/PD-Museum-of-Art/ukiyoe/ukiyoe/utamaro-3/No.120.jpgより)

「追落(おいおとし)」は、

「往来の人を脅したり追いかけたりして、落とさせた財布などを奪い取ること」

とあり(精選版 日本国語大辞典)、鎌倉時代からの語らしいが、追剥と区別したのは、江戸時代のことになる。「追剥」は、

「往来の人を捕え、着ている衣類や金銭をはぎ取ること」

で(仝上)、江戸時代、獄門の刑が科せられ、追落(おいおとし)は、死罪だが、晒されないだけまし、というこの区別は、よくわからない。「獄門」は、

梟首(きょうしゅ)、
晒し首、

ともいい、江戸時代の『公事方御定書』には、

「斬首刑の後、死体を試し斬りにし、刎ねた首を台に載せて3日間(2晩)見せしめとして晒しものにする公開処刑の刑罰」

になるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%84%E9%96%80。「死罪」は、『公事方御定書』には,

「首を刎ね,死骸を取捨て,様斬 (ためしぎり) にする」

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

ところで、寿司屋の言葉にも、

追い剥ぎ、

というのがあるらしい。

「寿司ネタをシャリから剥がして、タネにしょうゆをつけ、またシャリの上に戻して食べる方法」

を指す(日本語源大辞典)。

「職人が一番がっかりするもので、せっかく形よく握った寿司なのに、タネをはがされると、シャリとわさびが寒々しく見え、言葉通り、『追いはぎ』にあった若い娘のようにみえてしまう」

とある(佐川芳枝『寿司屋のかみさん』)、らしい。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)

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ラベル:引剥 追落 追剥
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2019年09月27日

歴史小説


大岡昇平他編『歴史への視点(全集現代文学の発見・12巻)』を読む。

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本書は、

現代文学の発見,

と題された全16巻の一冊としてまとめられたものだ。この全集は過去の文学作品を発掘・位置づけ直し,テーマごとに作品を配置するという意欲的なアンソロジーになっている。本書は、

歴史への視点,

と題された「歴史小説」を収録している。収録されているのは、

江馬修『山の民』(蜂起)、
井伏鱒二『さざ波軍記』
中山義秀『土佐兵の勇敢な話』
中島敦『李陵』
坂口安吾『二流の人』
田宮虎彦『落城』
井上靖『楼蘭』
杉浦明平『秘事法門』
大原富江『婉という女』

である。世情、歴史小説は、歴史小説とは区別されている。歴史小説は、

主要な登場人物が歴史上実在した人物で、主要な部分はほぼ史実の通りに進められる、

のに対して、時代小説は、

架空の人物(例えば銭形平次)を登場させるか、実在の人物を使っても史実と違った展開をし(例えば水戸黄門)、。史実と照らし合わせるとかなり荒唐無稽である、

とされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%B0%8F%E8%AA%AC0。いわゆる、

史伝小説、

も、

歴史上の事実に基づいて書かれた伝記、

で、歴史小説に入る。本書で「歴史小説論」を解説として書く大岡昇平は、歴史小説は、

題材を歴史に取った小説、

であると同時に、

歴史感覚、或いは歴史意識というものが、作品を支えているか、どうか、どうかというところを一応の目安としたい、

と述べ、

「ただ面白い話を語り、現代では不可能な刺激的シチュエーションを作る便法としたり、過去の王侯貴族の生活に対するスノッブ的郷愁に溺れたり、既成の通念を、小説家の自由によって引っくりかえす、スキャンダル趣味に頼ったり、なんらかの政治的先入見によって宣伝的な効果をねらう、という特徴を持つもの」

は対象外、としている。そのうえで、

「歴史小説には歴史それ自身としての評価と、文学作品の芸術的価値の二つの軸」

で、評価し、本巻収録の中で、

「二つの価値の調和という観点から」

山の民、

が最も欠陥のない作品と結論付けている。鴎外が、

述べて作らず、

という孔子の言を引き、

史実の作者の恣意による変更を述べていたが、鴎外のたどり着いたのは、世情、

史伝、

の範疇に入れている、

澀江抽斎、

以後の伝記物において、

史伝を書くことを書く、

というメタ化によって、「述べる」ことと「作る」ことの二項対立を解決し、石川淳の言う、

「小説概念を変更するような新課題」

を提出したのである。

「澀江抽斎」http://ppnetwork.seesaa.net/article/457109903.htmlで触れたように、それを石川淳は,

「作者はまず筆を取って,小説とはどうして書くものかと考え,そう考えたことを書くことからはじめている。ということは,頭脳を既成の小説概念から清潔に洗っていることである。(中略)前もってたくらんでいたらしいものはなに一つ持ちこまない。…味もそっけも無いようなはなしである。…しかし『追儺』は小説というものの,小説はどうして書くかということの,単純な見本である。これが鷗外四十八歳にして初めて書いた小説である。」

と評していた(森鴎外)。

しかし、もはやこれは歴史小説ではなく、小説とは何かについての模索そのものである。

鴎外が、「述べて作らす」について、煩悶し、「阿部一族」「大塩平八郎」などから史伝といわれるものに移ったような、「述べることと」「作る」ことを、中島敦は、『李陵』の中で、司馬遷に仮託して、こう書く。

「彼も孔子に倣って、述べて作らぬ方針を執ったが、しかし、孔子のそれとは多分に内容を異にした述而不作である。司馬遷にとって、単なる編年体の事件列挙は未だ『述べる』の中にはいらぬものだったし、又、後世人の事実そのものを知ることを妨げる様な、余りにも道義的な新案は、寧ろ『作る』の部類に入るように思われた」

そして、

「初めの五帝本紀から夏殷周秦本紀あたり迄は、彼も、材料を塩梅して記述の正確厳密を期する一人の技師に過ぎなかったのだが、始皇帝を経て、項羽本紀に入る頃から、その技術家の冷静さが怪しくなって来た。ともすれば、項羽が彼に、或いは彼が項羽にのり移りかねないのである。
 項王則チ夜起キテ帳中ニ飲ス。美人有り。名は虞。常ニ幸セラレテ従フ。駿馬名ハ騅、常ニ之ニ騎ス。是ニ於テ項王乃チ悲歌慷慨シ自ラ詩ヲ為リて曰ク『力山ヲ抜キ気世ヲ蓋フ、時利アラズ、騅逝カズ、騅逝カズ奈何スベキ、虞ヤ虞ヤ若奈何ニセン』ト。歌フコト数闋、美人之ニ和ス。項王泣数行下ル、左右皆泣キ、能ク仰ギ視ルモノ莫シ…。
 これでいいのか? と司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされた様な書きっぷりでいいものだろうか? 彼は『作ル』ことを極度に警戒した。自分の仕事は『述ベル』ことに尽きる。(中略)彼は時に『作ル』ことを恐れるの余り、すでに書いた部分を読返して見て、それがある為に史上の人物が現実の人物の如くに躍動すると思われる字句を削る。すると確かにその人物はハツラツたる呼吸活動を止める。之で、『作ル』ことになる心配はない訳である。しかし、(と司馬遷が思うに)之では項羽が項羽ではなくなるのではないか。項羽も始皇帝も楚の荘王もみな同じ人間になってしまう。違った人間を同じ人間として記述することが、何が『述ベル』だ? 『述ベル』とは、違った人間は違った人間として述べることではないか。そう考えてくると、やはり彼は削った字句を再び生かさない訳にはいかない。元通りに直して、さて一読して見て、彼はやっと落ち着く」

と書く。「述べる」ことと「作る」ことの葛藤は、そのまま『李陵』という作品に向き合う中島敦の心の動きでもある。これだけで、僕は『李陵』を推す。

かつて述べたことだが、基本的に、何かを「述べる」ことは、それ自体、なにがしか「作る」ほかない。いや、「述べる」ことは、「作る」ことなしには成り立たない(孔子の春秋自体がその例証である)。そう考えれば、あとは、それが、

文学作品の芸術的価値、

があるかどうかではあるまいか。僕は、小説は、

何を書くか、

ではなく、

どう書くか、

にのみ焦点があると思っている。大岡昇平の言う、

歴史感覚、或いは歴史意識、

はどちらかというと、「何を書くか」の側の問題ではあるまいか。近松門左衛門の、

虚実皮膜、

は、歴史小説にも当てはまる。

参考文献;
大岡昇平他編『歴史への視点(全集現代文学の発見・12巻)』(學藝出版)
石川淳『森鷗外』(ちくま学芸文庫)
http://ppnetwork.c.ooco.jp/prod0924.htm#%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%A8%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
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2019年09月28日

帷子


「帷子(かたびら)」は、

帷、

とも当てる。

几帳、帳(とばり)など懸けて隔てとした布、

の意もあるが、

裏をつけない衣服、

つまり、

ひとえもの、

の意でもある。日本語源広辞典は、

「カタ(片、裏をつけない)+ヒラ(薄く平たい衣)」

とする。

「かたびらは袷(あわせ)でなく裂(きれ)の片方を意味し,帳(ちよう)の帷(い)や湯帷子(ゆかたびら)はその原義を示している」

とある(世界大百科事典)。

『大言海』は、「帷子」を二つ分けて記し、「帷(かたびら)」は、

片枚(かたひら)の義と云ふ。裏をつけぬ、カタヘラの帛の意、

として、

几帳などにかけて隔てとする、一重の布帛。夏は生絹(スズシ)、冬は練絹を用ゐる、

とする。和名抄には、

「帷、圍也。以自障圍也。加太比良」

とある。「帷子(かたびら)」は、

帷の語の移りて、帷の字もそのままに用ゐるなり、

とし、

裏をつけぬ衣、一重の服。ひとへもの、襌、衫、

と載せる。「ひとへ」とは、

一重、

で、

重ならないで、一枚だけである意で、

単、

と当てると、

単衣(ひとへぎぬ)、

の意で、

「裏のない一重の衣であり、単衣(ひとえぎぬ)と呼ぶのを本義とするが、略して単と通称している」

とある(有職故実図典)。

「表着の下に着る。男子用と女子用があり、男子は若いときは紅色で重菱(しげひし)などの模様、老年は遠菱、極老は白色。女子の場合は、五衣の下に着る」

とある(岩波古語辞典)。

「装束の下に重ねて着る衣。表衣(ウハギ)の色に因りてその色に定めあり。時は綾にて張り、又は、板引きにす。若年は重菱の紋、老年は遠菱、極老は白き色、四季ともに着用すとぞ」

ともある(大言海)。

img002 (2).jpg

(単(ひとえ) 近世の単の図であり、横繁菱の文様が、表裏違っているように見えるが、これは表の文様は浮いており、裏が沈んでいるため4個のように見える。『有職故実図典』より)


img002 (3).jpg

(繁菱文様 仝上)


「単の形状は、衵(単の上に重ねて着る)と同様であるが、裏をつけないため、端はすべて『ひねり返し』としている」

とあり、

「単は、天皇より六位に至るまで皆同様で、地質は堅地綾、色は紅、文様は横繁菱、であり、老年のいわゆる宿徳(高徳の老人)に限り、その束帯に準じ、大文の菱に白を用いた」

とある(仝上)。つまり、

装束をつけるとき、汗とりとして着たもの、

が帷子で、生地にかかわらず「帷子」と呼ばれたが、室町末期江戸時代以降は、

単(ひとえ)仕立ての絹物を単、

と称するのに対して,

麻で仕立てられたものを帷子、

と称するようになった。

「武家のしきたりを書いた故実書をみると,帷子は麻に限らず,生絹(すずし),紋紗(もんしゃ)が用いられ,江戸時代の七夕(7月7日),八朔(8月1日)に用いる白帷子は七夕には糊を置き,八朔には糊を置かないのがならわしとなっている」

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

なお、ゆかたは、

ゆかたびら(湯帷子)の略、

であり、

「平安時代の湯帷子(ゆかたびら)がその原型とされる。湯帷子は平安中期に成立した倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)によると、内衣布で沐浴するための衣とされている。この時代、複数の人と入浴する機会があったため汗取りと裸を隠す目的で使用されたものと思われる。素材は、水に強く水切れの良い麻が使われていたという説がある。安土桃山時代頃から湯上りに着て肌の水分を吸い取らせる目的で広く用いられるようになり、これが江戸時代に入って庶民の愛好する衣類の一種となった」

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B4%E8%A1%A3)。なお、

ふろ(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461438920.html
江戸の風呂(http://ppnetwork.seesaa.net/article/461421912.html

については、既に触れた。

参考文献;
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
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2019年09月29日

食指が動く


食指は、

人差し指、

で、和語では、

お母さん指、
塩舐め指、

医学用語では

第二指、
示指、

で、漢語で、

食指、
頭指、

と呼ぶhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%B7%AE%E3%81%97%E6%8C%87。ちなみに、日本語で、親指、人差し指、中指、薬指、小指は、中国語ではそれぞれ、

大拇指、
食指、
中指、
无名指、
小指、

と言うらしいhttp://chugokugo-script.net/koji/shokushi.html。人差し指を、

食指、

と呼ぶのは、食べ物をつかむ時必ず使う指だからだそうである(仝上)。薬指の、

无名指、

は、「名無しの指」の意となる。日本語で、「薬指」というのは、

昔薬を水に溶かしたり塗ったりする時に使ったから、

とされる(仝上)。

塩舐め指、

という言い方もする。医学用語でも、「薬指(やくし)」という。ついでながら、

親指(おやゆび)は、母指(ぼし)、
人差し指(ひとさしゆび)は、示指(じし)、
中指(なかゆび)は、中指(ちゅうし)、
薬指(くすりゆび)は、薬指(やくし)・環指(かんし)、
小指(こゆび)は、小指(しょうし)、

と、医学用語では言うらしいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%87

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「食指が動く」とは、

食欲が起こる、

意で、転じて、

物事を求める心が起こる、

あるいは、

ある物事をやろうという気になる、

意で使う。これは、春秋左氏伝の、

楚人献黿於鄭霊公。公子宋与子家、将入見。子公之食指動。以示子家曰、他日、我如此、必嘗異味。及入、宰夫将解黿(楚人、鄭(てい)の霊公に黿(げん)を献ず。公子宋と子家、将に入りて見んとす。子公の食指動く。以て子家に示し曰く、「他日、我此の如く、必ず異味を嘗(な)む、と」。入るに及びて、宰夫将に黿を解せんとす)

の故事によるhttp://chugokugo-script.net/koji/shokushi.html、故事ことわざの辞典)。これは、

「楚の荘王が鼈(スッポン)を送ってきたとき、霊公はそれを料理して家臣たちに振る舞おうとした。子家と子公も宴に招かれ、その道中に子公が『この指が動いたときは珍味にありつける』と言っており、鼈を見て両者は顔を見合わせて笑った(食指の故事)。霊公がそれを見咎めて訊ね、子公が委細を答えると、霊公は機嫌をそこね、宴の席で子公にのみ鼈料理を出さなかった。子公はこれを屈辱に思い、鼈の鍋に指を突っ込んで舐めると退室した。子公の無礼に怒った霊公はこれを討とうとするも子家に諌められたが、のちにこのことで恨み骨髄に徹した子公は子家を誘って挙兵し、霊公を討った。」

という経緯になるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%85%AC_(%E9%84%AD)。しかしどうも鼈だけが原因ではなさそうである。

霊公(れいこう)は、中国春秋時代の鄭の第12代君主。若い頃から楚への人質として送り込まれ、楚の太子侶(のちの荘王)の知遇を得る。父穆公の死後に即位し、それまでの親晋外交を親楚に切り替えようと画策し、宰相子家(公子帰生)や子公(公子宋)らと対立する。このことが背景にある。霊公を討ったのち、

「子家と子公は賢明と名高かった霊公の弟子良(公子去疾、七穆のひとつ良氏の祖)を鄭君に迎えようとしたが、断られたため、公子堅を即位させた。これが襄公である。さらに、先君の謚を決める際に幽と名づけたが、鄭の人々はこれを哀れみ、子家が死んだ際にはその棺を打ち壊し、その一族を国外に追いやった。そして、幽公と名づけられていた先君の改葬を要求し、宰相となっていた子良はそれをすぐさま承知した。こうして、幽公は改めて霊公と諡(おくりな)をつけられた」

とある(仝上)。

「食指が動く」は、平成23年度「国語に関する世論調査」で、

「食指が動く」を使う人が38.1パーセント、

本来の言い方ではない、

「食指をそそられる」を使う人が31.4パーセント、

という結果が出ている。「食欲」と重なっているらしい。

参考文献;
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

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2019年09月30日

月と鼈


「月と鼈」は、

「両者とも丸い形をしている点では似ているが、実は非常な違いがあるところから、比較にならないほどかけはなれていることのたとえ」

とある(故事ことわざの辞典、広辞苑等)。

二つの者の間の非常に差のあることのたとえ、

として使われる(広辞苑)。

鼈と月、
月鼈(げつべつ)、
鼈とお月様、

ともいう。しかし、丸いものなら、

お盆と月、

の方がこのたとえにはあう。江戸語大辞典は、

すっぽんとお月様、

として載り、

「すっぽんの甲も十五夜の月も共に丸いが、全然異物であるの意。一見似ていても、比較にならぬほど相違する物事のたとえ」

とある。まだ、この方がわかる。

Pelodiscus.jpg


しかし、

「江戸時代後期の随筆『嬉遊笑覧』には、スッポンの甲羅が丸いことから異名を丸(まる)と言い、一方満月も丸いけれど二つの丸は大違いでまるで比較にならないので『月と鼈』とは少しは似ていても、実際には甚だ異なっている様を云うとしています。
 詳細は不明ですが、同時代に疑義も提示されている様子です。朱塗の丸い盆『朱盆(しゅぼん)』が訛って『鼈(すっぽん)』に転訛したとの説も有り、幕末の役者評判記『鳴久者評判記』では、似て非なるもので比較にならないものとして『下駄に焼味噌』と並んで『朱ぼんに月』を取り上げています。
 尚、近世全般では『お月さまと鼈』と表現され、幕末になってから初めて『月と鼈』と表現された様子です。」

とあり(岩波ことわざ辞典、http://homepage-nifty.com/osiete/s464.htm)、「すっぽん」ではなく、「朱盆」とする。これなら、納得できるが、理屈に合うことわざは、大概こじつけ、というのが相場だ。京阪では、「鼈」を、

マル(丸)、

と呼んだので、

月と鼈、

という言い方をした可能性がある。

「上方のスッポン屋は看板の行燈に輪を書いて丸の印でスッポンを表した」

とある(たべもの語源辞典)。ちなみに江戸では、俗に、

蓋(ふた)、

という。

「これも丸い形からの異名である。『月とスッポン』というのは、月も丸く、スッポンも丸と呼んで丸いものだが、随分異なっているものだの意で、不釣り合いのたとえとか、比較にならないほど相違する物事のたとえにもちいられている」

とある(仝上)。これなら、丸に共通があることに得心が行く。

「鼈」(ベツ、漢音ヘツ、呉音ヘチ)は、

「会意兼形声。『黽(かめ)+音符敝(ヘイ 横に開く)』。横に伸びて、平らに開いた姿をしたすっぽん」

とある(漢字源)。「鼈」は、中国では、

団魚、

と呼ばれ、日本では、

土亀、
泥龜、
川龜、

等々とも呼ぶ(各地で、ガメ・ドウガメ・ドンガメ・ドヂ・ドチ・トチとも)。

「日本列島においては滋賀県に所在する栗津湖底遺跡において縄文時代中期のスッポンが出土しているが、縄文時代にカメ類を含む爬虫類の利用は哺乳類・鳥類に比べて少ない。弥生時代にはスッポンの出土事例が増加する」

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3、主に西日本の食文化であったが近世に関東地方へもたらされたものらしい。

「元禄大坂でスッポン料理があったとき、京にはなく、江戸では下賤のたべものであったが、寛延・宝暦のころ(1748-64)、柳原の長堤に葭簀の小屋でスッポンの煮売りが始まり、次第にスッポンは高価なものになっていった」

とある(たべもの語源辞典)。

和語「すっぽん」の語源は、

「スボンボの轉。或いは、葡萄牙語也と云ふ説もあり」

と(大言海)、ちょっとはっきりしない。

「すっぽんの名は飛び込んだ時に附け」

という川柳があるらしく、すっぽんが水の中に飛び込んだ時、

スッポン、

という音がした、という説に由来しているとするが、そのほか、鳴き声が、

スッポンスッポン、

と聞こえるとする説もある。

「亀はポンポンと鼓の音のように鳴くという。『亀の看経(かんきん)』といって、亀の鳴き声は初めは雨だれ拍子で、次第に急になり、俗に責念仏(せめねんぶつ)といわれる。スッポンの鳴声も間遠にスポンスポンと聞こえる。いずれもよるになって聞こえる」

とある(たべもの語源辞典)。大言海の「スボンホ」は、その転訛であるとも思われる。この他、

すぽむ+ぼ(もの)、

と首をすくめる擬態からとする説(日本語源広辞典)もあるが、やはり「擬音」で、よさそうである。

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(『北越奇談』にあるスッポンにまつわる怪談「亀六泥亀の怪を見て僧となる」(葛飾北斎画)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3より)


かつて日本ではキツネやタヌキと同様、土地によってはスッポンも妖怪視され、

「人間の子供をさらったり血を吸ったりするといわれていた。また『食いついて離さない』と喩えられたことから大変執念深い性格で、あまりスッポン料理を食べ過ぎると幽霊になって祟るともいわれた」

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3。江戸時代には、

ある大繁盛していたスッポン屋の主人が寝床で無数のスッポンの霊に苦しめられる話(北越奇談)、
名古屋でいつもスッポンを食べていた男がこの霊に取り憑かれ、顔や手足がスッポンのような形になってしまったという話、
ある百姓がスッポンを売って生活していたところ、執念深いスッポンの怨霊が身長十丈の妖怪・高入道となって現れ、そればかりかその百姓のもとに生まれた子は、スッポンのように上唇が尖り、目が丸く鋭く、手足に水かきがあり、ミミズを常食したという話(怪談旅之曙)、

等々があるという(仝上)。なお、

すっぽん、

と名付けられた、歌舞伎の劇場で、本花道に切り抜いた、奈落から役者がせり上がる穴は、

「切穴から出るとき、演者が首から出るので亀の首を想像して付けられたか、また床面が龜甲形だからとも、床板のはまるときスポンとおとがすることからともいう」

とある(演劇百科大事典)。

参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』 (小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

ホームページ;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;
http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;
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書評
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ラベル: 月と鼈
posted by Toshi at 04:09| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする